「美少年」(団鬼六/新潮文庫)

→大御所SM作家の短編小説集を読む。
いったい現実と妄想ってどういう関係にあるんだろう?
現実というのはいわゆる客観で、妄想は主観と言うこともできなくはないだろう。
わたしは現実はつまらないので妄想しているほうが好きだ。
いっぱんに小説や映画といったフィクションは現実(客観)ではなく妄想(主観)だろう。
しかし、なにが現実かという問題提起もやろうと思えばできる。
本当に客観的なもの(=現実)など存在するのだろうか?
写真は証拠にも使われ客観的なものとされるが、
賞を取ったような有名写真にはつねにヤラセ疑惑がつきまとう。
文章でいえば、現実を正確にとらえる客観的な文章など存在しうるのか?
フレームで現実を切り取っている写真もそうだけれど、
文章もどこを書いてどこを書かないという取捨選択があるわけだ。
一瞬に起ったことの外面や内面を言葉で書き尽くすことは、
1万ページを費やしても不可能という考え方もまったくの間違いではないだろう。
これは唯心論(唯識説)と言われているものだが、すべては主観(妄想)とも言えよう。
すなわち、客観は存在しない。多数派の主観が客観として現実的に採用される。
客観的なものは存在しているように見えてじつは存在しない。
客観的な現実は多数決で決まるもので、多数派の妄想(主観)が現実的とされる。
このときリアリティ(現実性、真実性)とはなんだろうか?
当人にとってもっとも現実的と信じられる妄想がリアリティがあると評価される。
わたしは最近めっきり小説や映画といったフィクションから離れている。
他人の妄想をあまりおもしろいと思わなくなっているのかもしれない。
小説よりも自分が目にした現実のほうがおもしろくなってきている。
しかし、客観的現実など存在しないとしたら、
わたしが現実として受容しているものはわたしの妄想(主観)に過ぎないだろう。
現実などないのだとしたら、都合のいい妄想をしたほうがいいことになる。
けれど、あんまりおかしな妄想をいだいていると人に迷惑をかけてしまう。
異性が自分を好いているという妄想にかられて行動したらストーカーになる。
妄想ではなにを思い浮かべてもいいが、実際に行動化したら性犯罪者になる。
妄想では憎いやつを殺しても構わないが、現実化したら殺人者である。
わたしは妄想が好きだが、最近はあまり他人の妄想に興味がなく、
現実といわれている自分の妄想にリアリティを感じておもしろがっている。
以上、書いてきたことをご理解くださる人はおられますか?
団鬼六の以下の文章を何度も読んで、さらに考えに考えた結果がこの記事だ。

「私は観念的には嗜虐趣味を持つのだが、実践派ではなかった。
絵空事としてSM小説を書き、それに耽溺(たんでき)する事ができたが、
これを空想の域から離れて現実に実行するとなると
何よりも自分の不器用さ加減にうんざりし、
つまり女体を満足に縛る事も出来ず、暴力実行者としては落第であった。
現実に直面するとまず自分の気持が先にしらけてしまうのだからどうしようもない。
[愛人契約した女子大生の]相沢京子とセックスする時も
ロープなぞ使って嗜虐趣味を発揮したことは一度もなかった。
ノーマルな正常位で私は充分に満足した。
嗜虐的幻想図が頭に浮かぶ時は妄想の中に自分を溶けこませ、
京子と正常な肉体行為を営みつつ、
京子を暴力的に凌辱(りょうじょく)しているような妄想を自分の内に掻(か)き立てる
――これだけで私は充分に満足した。
一つの対象を相手にしてノーマルな行為を演じつつ、
アブノーマルな妄想によって自慰行為に浸っているようなもので、
これは妻と演じる性行為の場合も同じパターンなのである」(P23)


おおむかしブルセラ学者の宮台真司がどこかで言っていたのを
よくもまあいまでも覚えていると自分でも驚くが、
自分は女の子の気持になることで性的興奮を掻き立てられるタイプだと。
でも、現実問題、女の子の気持はわからないから、それは妄想だよね。
他者(異性)は客観的現実的に存在していないとも言えなくはないわけで、
自分の心のなかの女や男が現実場面でも重要になってくるような気がする。
現実があったとして、現実よりも妄想のほうが楽しいわけだ。
しかし、自分を圧倒する現実感覚(リアリティ)というのもあろう。
現実と妄想、正常と異常、客観と主観――この二辺を接続させる言葉がリアリティである。
変なことを言うようだけれども、現実にレイプをできる人はすごいと思う。
妄想のレイプは楽しいけれど、現実にそれはできないという人が多いのではないか。
いや、そうでもないのかな。
よく知らないけれど、女も妄想ならばレイプを楽しめる人もいるような気がする。
実際、されるなんて冗談じゃないと思うけれども。
しかし、確率はものすごい低いだろうが現実に凌辱されて興奮する女性もいよう。
そういう女の内面を妄想すると楽しくて仕方がない。
現実にそういう女性と対面したら逃げ腰になってしまうかもしれないけれど。
なにが現実なんだろう? なにが妄想なんだろう? 
リアリティって本当のところどういう意味なんだろう?

「真剣師 小池重明」(団鬼六/幻冬舎アウトロー文庫)

→真剣師(賭け将棋)として名を馳せた小池重明をモデルにした小説である。
作者の団鬼六は、晩年の小池重明と交流があったらしい。
とにかくおもしろい小説で、久しぶりにこれほどのものを読んだという気がする。
ルポやノンフィクションではなく、これは小説だからおもしろいのである。
ところどころ嘘ではないかと思ったところがあるけれど、そこがおもしろいのである。
私小説をふくめてモデル小説というのは2タイプに分かれるのではないか。
モデルを実際よりも悪く書くものと、モデルを実在する人物より大きく書くものだ。
「真剣師 小池重明」はむろんのこと後者のモデル小説である。
さすがに人間・小池重明は、
この小説に書かれているほど破天荒ではなかった気がする。
ドキュメンタリー映画の「ゆきゆきて、神軍」とおなじである。
あのドキュメンタリーのモデルはちょっとあたまのおかしな変人程度なのである。
しかし、映画監督がモデルを実際よりも大きな人間のように劇化して描いているのだ。
とはいえ、「ゆきゆきて、神軍」も「真剣師 小池重明」もまずモデルありきである。
小説ほどではなかったのだろうが、
実物の小池英明もそうとうはた迷惑な破滅型の人間だったのだと思う。
生活上は破滅型で型破りで問題行動ばかり起こしたが、将棋だけは強かった。
小池重明はどのような将棋を指したのか。
対局したことのある団鬼六はこう書いている。

「小池の将棋はこれまでプロの指導を受けていた私の目から見れば型破りで、
筋の悪さだけが目立つような妙な将棋であった。(……)
こんな悪筋な将棋に負けるはずがないと追いこんで行くと終盤まぢかにきて一発、
逆転のパンチを喰わされる。
それを恐れて慎重の上にも慎重を重ねて行くと、
嵩(かさ)にかかって猛攻してくるといったもので
相手の心理を透視する術(すべ)を心得ているのではないかと思われた」(P239)


小池重明がなにゆえ44歳で破滅人生を終えたかといえば、
それはギャンブル(賭け将棋のみならず競馬やサイコロ賭博も愛した)、
女(人妻との駆け落ち歴3回)、酒(酔っぱらって対局に来ることもあった)、
この3つが原因となろう。ひとつに要約したら金である。
小池重明は金銭への執着が人一倍強かった。
しかし、まじめに働かず楽をして大金を得ようとした。
なぜ金があるといいのかといえば、きれいなおねえちゃんといいことできるからである。
なぜ金があるといいのかといえば、いい店でうまい酒が飲めるからである。
種銭がなければ、ギャンブルひとつすることができない。
そして、ギャンブルをしたらはした金が大金になるのである。
こんな楽しいことがあろうか。
本書を読んで小池重明の人間味のようなものに惚れ惚れとした。
もっと金と女への執着を強めなければ駄目だと自分を叱咤したくらいである。
さんざん人生で好きなことをしてスッカラカンになった小池だが、
それでもこの伝説の真剣師には団鬼六という師匠がいたのである。
晩年の落ちぶれた小池は涙声で団鬼六のもとに電話をしてきたという。
あきらかに酔い泣きしている。そして、なんと言ったか。
おそらく小池重明は団鬼六にもだいぶ不義理を働いたことだろう。
それなのになぜ電話をかけてきたか。

「淋しくて、淋しくてたまらなかったんです、僕は。
それを先生に助けていただいた。友もなし、女もなし、金もなし。
それはまあ、我慢できるとしても、
将棋まで指せないこの孤独には耐えられなかった」(P274)


わたしが小池重明のどこに惹かれるかといったら、その強烈な孤独感である。
おそらく団鬼六も小池重明がかもしだす孤独に魅せられたのだろう。
ふたりの人間が命の次に大事な金を賭けて真剣勝負をしたら、
勝つのはより孤独なほうである。
しかし、人は勝つことで孤独になっていく。勝利は孤独を深める。
それでも小池重明は勝とうとした。孤独になろうとした。
そして、44歳で生活保護を受けながら田舎の汚い病院で孤独に死んだ。
自分でチューブ管を引きちぎったというから、あるいは自殺だったのかもしれない。

「龍神の雨」(道尾秀介/新潮文庫)

→大藪春彦賞を受賞したミステリー小説らしい。
この本を読んだきっかけは、作者の道尾さんをお見かけしたことがあるからだ。
どこでかというと今年、東京の八重洲ブックセンターで行われた
テレビライターの山田太一先生のトークイベント&サイン会。
質問タイムにイケメン男性が挙手をした。立ち上がり「道尾です」と名乗る。
「あなたは道尾さんじゃないですか!」と編集者あがりの作家が恐縮していた。
出版社の人もどよめいた記憶がある。
そのときまで恥ずかしながら道尾秀介さんのことを存じあげなかった。
帰宅してネットで調べてみたら、
わたしとそう年齢が変わらないのに山本周五郎賞も直木賞も取っている有名作家だった。
しかもそうとうなイケメンときたものだから、人生の不公平に愕然としたものである。
ぜひぜひこの人気作家のご作品を読んでいろいろ学ばなければと思ったものである。

ミステリー小説というのは通念を疑ってはいけないのだと学習する。
親が死んだら悲しいものだ。善は善で、悪は悪である。
人を殺すのは罪である。悪い大人は少女を強姦したがるものだ。
犯人は最後に自分の罪を自白するものと決まっている。
あらゆる世間のお約束を疑わず、
その決まりにのっとって平均的読者の好む架空空間を創造するのがミステリー作家なのだろう。
求められているのはリアルではない。だって、リアルなんてつまらないじゃないか。
女子中学生が「そうなったら、あたしだってばらすわ」と女性語の「わ」を使ってもよい。
むしろ、それがミステリーだ。
悪役の真犯人はきもいアイドルオタクで独身中年でなければならない。
イケメン直木賞作家の道尾秀介さんはこういうことを書く作家である。

「あの人、いい年齢(とし)をして独身だから、責任感ってものがないのかもね」(P314)

井戸端会議の感覚を失っては大衆小説を書けないのだろう。
あの人、いい歳をして独身らしいけれど、アイドルオタクのロリコンじゃないかしら?
こういう大衆の通念を保護し慰撫し安定させるのが、
(よく知らないが)ミステリー小説の社会的役割のひとつなのだろう。
いろいろな小説があっていいと思う。
またどこかでお姿を拝見する機会があったら文庫本にサインを頼んでみようと思う。
きっとすてきなスマイルで応じてくれることだろう。

「他人の女房」(源氏鶏太/集英社文庫)絶版

→死後完全に忘れられた大衆作家のサラリーマン短編小説集を冗談半分で読んでみる。
ウィキペディアで見て驚いたけれど直木賞作家・源氏鶏太の肩書はすごいね。
紫綬褒章のみならず勲三等瑞宝章まで取っているのか、やるなあ。
元大阪大学助教授の小谷野敦博士の悪影響で、
このところ人の肩書にばかり目が行く最低の人間になりつつあるので注意したい。
常務のお古をそうとは知らずに女房にした男が盗み聞きで真相を知ってしまい、
おまえはあいつに仕込まれていたのかと妻に怒りをぶつけるサラリーマンがよかった。
最後はなぜかこれが「人間の業だ」などと仲直りするのだが、
ずいぶん安っぽい「人間の業」だなと思いながらも、
こういう娯楽小説を愛したであろう昭和40年代のサラリーマンに思いをはせ、
いま殺伐とした平成を生きるぼくは微笑ましい気分になった。
上司からの依頼で愛人と別れさせることに成功するものの、
ひいきにされるのではなく、逆に秘密を知られていると疎まれ、
左遷される昭和の独身サラリーマン氏。
彼は「運が悪かったな」とだけ思い、なにも文句を言わずに僻地に飛んでいくのだが、
その自己主張なき雄姿はそれなりに格好いいと思った。
総じて思っていた程度の娯楽であった。
紫綬褒章作家の源氏鶏太は永久によみがえることはないだろう。
絶対に再評価をされない当時の人にのみ売れるものを書けるのもまた才能だと思う。
これは悪口や批判ではない。
本当に読んだという証拠に偉い人の小説から一文を抜いておく。

「サラリーマンなんて、そういう他人の不幸をよろこぶように出来ているんだ」(P134)

「人生の読本」(山口瞳・選/集英社文庫)絶版

→サラリーマン小説を集めたもの。裏表紙によると――。
「個人と組織の狭間で歪み苦悩する生活者の文学をテーマに、
傑作アンソロジー十三本を収録」。昭和56年刊。
だらだら感想を書き連ねると、
この機会にはじめて庄野潤三の「プールサイド小景」を読んだけれど、
むかしはこれで芥川賞なのかといろいろな意味でうなった。
開高健の「パニック」だけあまりにもつまらないので最後まで読めなかった。
芸術院賞を受賞した永井龍男の「一個」は、
こんなものをだれが褒めるのだろうと
作者の持っていたであろう黒い権力に恐れをなす。
いまはすっかり忘れ去られたけれど源氏鶏太の小説はうまい。この人いいな。
かといってさすがに全集を買うほど、この大衆作家に賭けられないけれど。
城山三郎もサラリーマンの悲哀を実にうまく描いている。筋運びもすばらしい。
阿部牧郎さん(まだご存命らしいので)の小説はエロくていい。
こういう官能性はいいな。ご縁があったらこの人のエロ短編をもっと読みたい。
なんといっても井上靖がいちばんいい。
解説の対談で山口瞳が「社長、重役らのトップ層が書ける」のは井上靖だけ、
みたいなことを言っていたが、まったくそうである。
井上靖の小説「満月」から印象に残った一文を引く。

「人間金ができると、権力や地位が欲しくなり、その次が女で、
女にも不自由しなくなると最後は名誉と勲章だな。
大高社長ぐらいの人でもやたらに勲章をほしがったからな」(P157)


選者・山口瞳の「シバザクラ」も意地が悪くてトラウマになりそうな小説だ。
山口瞳という人は本当に意地が悪い、つまりいい小説家だったのだろう。
「シバザクラ」のモデルはだれなんだろう?
会社勤めの経験がない人の世間知らずぶりをさんざん先輩社会人気取りで揶揄(やゆ)する。
この意地の悪さにはただならぬものがある。
山口瞳は会社員時代にいじめられた経験を執念深くずっと忘れなかったのだろう。
たぶん、作家になってからその仕返しに同業者をいびったことも多々あったのではないか。
だから、いまもって石原慎太郎のような人からぼろくそに言われるのである。
いまはもう山口瞳が男か女かも知らぬ人ばかりだろうから、
女嫌いの作家の短編小説「シバザクラ」から一部を抜粋する。

「私も世間知らずだった。
気質的には西藤と私はそっくり同じだったといってもよい。
しかし、私は十九歳のときからサラリーマン生活を続けていた。
私も西藤に似た失敗を重ねてきたのだ。
叱られてイジメられて唇を噛んで暮してきたのだ。
生意気だといわれ、思いあがりといわれた。
いつのまにか、二人の間の距離が広がっていったのである。
家のこと、育ちのこともあるだろう。
西藤は学生のときから小説家としての名が出てしまった」(P230)


いろいろな方面への深い怨念がじっとりしみ込んだ文章である。
かつての上司への恨み、家や育ちへの恨み、
学生のときに早々と作家デビューしたものへの恨み。
コンプレックスが強い作家ほど、うまくいくと多数派の支持を得るのだろう。
なんだかんだいって、みんなが持っているのがコンプレックスなのだから。
容貌へのコンプレックス、学歴コンプレックス、収入コンプレックス。
幸福になりたかったら人と自分を比べないのがいちばんいいのだが、
他人と自分を丹念に比較して恨みを育てていくと時にそこから花が咲くのだろう。

「その夜のコニャック」(遠藤周作/文春文庫)

→短編小説集。晩年の遠藤周作は不思議なものを愛した。
非合理的なもの、超自然的な現象を小説でよく描いた。
たとえば、幽体離脱、死後の世界、テレパシー、ユングの共時性(シンクロニシティ)。
わたしも非科学的なものが大好き。嘘が好きなのね。
遠藤周作のように巨大な嘘=カトリックに付き従うことはできないけれども。
合理的なものだけじゃ息が詰まる。

「たとえば去年だったかな。フランス国営放送の主催で、
筑波大学を使って日仏の学者たちがシンポジウムを開いたが、
その時この共時性やら偶然の符合が随分、深層心理学者たちに議論をされていた。
科学的な思考はたしかに正しいが、
しかしその思考や因果律ではわりきれぬ別の論理があることも、
やっと学者たちは真剣に考えてきたようだね」(P62)


共時性や偶然の符合がどこから来るのか?
小説家=嘘つきの遠藤周作は大胆な仮説を小説登場人物に言わせている。
共時性や偶然の符合は――。

「そうだ。歳をとって死ぬのを感じるようになったせいだ。
いや、むしろ死の次にある世界が我々老人に色々な信号を送ってきているためかもしれないね」(P65)


繰り返すと、共時性や偶然の符合は――。

「死の次にある世界が我々老人に色々な信号を送ってきている」(P65)

現実世界だけではなく、もうひとつの世界が死後にあるに違いない。
共時性や偶然の符合は、その世界からのメッセージだと小説家は言うのである。
河合隼雄でもさすがに言えぬことを遠藤周作はひょいと言い放ってしまう。
小説は嘘だから構わないのである。
だが、どうしてこの主張を嘘と断言できようか?
死後の世界を知るものは、だれもいないのだから。だれにも知りようがないのだから。

「日本ルイ十六世伝」(早坂暁/新潮文庫)絶版

→短編小説集。
早坂暁はなにやら特殊な性的嗜好を持っていることがうかがえるけれども、
作家はぜったいにその秘密を白状しないだろうし、
だからこそフィクションが書けるのだろうと思った。
作家はみなみな、なんらかの断じて言えぬ秘密を抱えているものである。
また、そうでなければ、人の胸打つ作品など書けないのだ。
早坂暁のそれはどうやら性欲に関することでなかろうかと思うが、
あんがいそう読者に思わせたいだけで、まったく別のところになにかあるのかもしれない。
それは本人が白状しない以上、決してだれも知りえぬ秘密である。
秘密を隠すことからフィクションは生まれるのだろう。
フィクションならぬファッションは、裸を隠すことである。

「女湯をのぞいていると、普段は魅力もない女が、
裸になったとたんに目を見張るような肉体を持っていて、
どんな美しい女も敵(かな)わないほど素晴らしく見えたりした。
また、美人だと思っていた女が、裸になると実に貧相な肉体で
顔の美しさなど消し飛んでしまったりする。
大てい顔の綺麗な女は、体が貧相だった。
そういった中で顔も魅力があるし、裸になると一層の魅力があったのが、
小林キミ子であった。
肌の白さはうなじのあたりで想像できたが、
裸になると想像以上の美しい肉体であった。
坂口は目がくらんだ。
一生に一度でいいから、あんな女を抱いてみたいと願った」(P161)


解説で脚本家の石堂淑朗がデンジャラスなことを書いている。ふきだした。
平成2年4月に書いたという。

「精薄の子を持つ親の唯一の願いは、子よりも長生きすることであると聞いて、
さもありなんと思ったが、実際寅さんの身内は彼が生きている限り、
一日として枕を高くして眠れないはずなのである。
しかし、われわれは寅さんを見て、大いに笑う」(P245)


「男はつらいよ」の国民的アイドル、寅さんを精薄(=精神薄弱)と言い切ってしまう。
客は精薄を見て笑っているという、ど真ん中ストレートの指摘である。
そもそも平成2年、精薄はまだ差別用語ではなかったのだろうか(調べたらぎりぎりセーフ)。
ちなみに、いまの若い人は知らないかもしれないから――。精薄とは知的障害のこと。

「どこ吹く風」(山口瞳/集英社文庫)絶版

→山口瞳は女嫌いだけれども、それは女を馬鹿にしているということではない。
むしろ、正反対である。
この作家の胸のなかには確固とした理想の女性がいるのだ。
山口瞳は現実の女が嫌いであるに過ぎない。
逆にこの態度を馬鹿にするのがいまの女ではないか。
女なんてそんなものじゃないと男を侮蔑するのが新しいと考えている女が多すぎる。
女が女を壊しているのである。
わたしは女流作家の描く女性にあこがれたことは一度もない。
女流作家はメスの性悪を告白することが文学だと勘違いしているものばかりである。
かつて女性というのは男女が共有する理想だったのではないか。
女性は男だけのものではない。女にも理想の女性がいてどこが悪い。
理想たらんと思う人間は男女問わず美しいではないか。
だが、山口瞳は理想の女性を描く作家ではない。
かれの小説の主人公は理想の女性を夢見るが現実に落胆する。
いいではないかと思う。理想がなければ現実だけではないか。
現実ばかりじゃ味気ねえ。つまんねえんだ。そこにはときめきもなにもないよ。
男ならだれでも女の汚さくらい知っているのである。
ばれていないと思っているのは女ばかりである。
しかし、だからこそ、汚いものだからこそ、男は女をあがめようとする。
山口瞳の描く男女関係である。
「愛ってなに?」(山口瞳/新潮文庫)絶版

→お酒をのみながら短編小説集を読む。
日本経済が成長していた時代は、サラリーマン生活もこういった読み物になる。
いまは、いまという時代は、どうなんだろう。
もうどうにもならないよな。
病的なものしか、サラリーマンが主人公では無理ではないか。
山口瞳のような健康的なサラリーマン文学は現代ではどうしたって不可能。
サラリーマンとは、近代資本主義が産みだした労働形態。反復と退屈を特徴とする。
この灰色の生活へ、さっと赤色の絵の具をかける。「愛ってなに?」と問う。
山口瞳の小説である。古き良き時代の読み物である。
「江分利満氏の華麗な生活」(山口瞳/角川文庫)絶版

→これもお酒をのみながら読了。
直木賞受賞の前作の続編。こんな楽しい読書はなかった。
サラリーマン文学である。
主人公は江分利満=エブリマン。
かれの特徴をあげれば――。

江戸っ子気質。
分をわきまえている。
利得を求めはするが、
満足することを知っている。

上から左はじだけ読んでください。江分利満。
他からの盗用ではない。いま思いついたことである。
江分利満氏とはこんなサラリーマンなのである。
そして作者・山口瞳の書くものはサラリーマンに愛された。
時代であろう。サラリーマンが文学になった。
不幸・欠乏・艱難・努力・円満・夢・幸福が、この時代のサラリーマンにはあった。
文学の題材たりえたのである。
たしかに「内向の世代」もサラリーマン文学を書いたのかもしれない。
けれども、あれは当のサラリーマンが退屈で読めないサラリーマン純文学でしょう。

戦後日本が産んだ江分利満氏の主張は、たとえばかくのごとしである。

「江分利は美人と話をしていると索漠(さくばく)感に襲われる。
36歳になったいまでもそうだ。美人と話をすると5分で退屈する。
目をそらしてしまう。こちらの退屈がむこうに伝わるからシラジラしくなる。
30歳を越えた美人なら、やや安心である。
35歳以上なら非常に安心である。話題があるせいなのか。
若い美人を遊ばせ笑わせるなんて面倒で仕方がない。
そんな義務的なことはやりたくない」(P177)