「書き下ろし官能小説アンソロジー 初体験」(睦月影郎ほか/双葉文庫)

→むかしスーパーフリー大学の文芸専修の花形教授だった三田誠広が、
小説作法書でこんなことを言っている。
書くことがなかったら女性は処女喪失、初体験を書いてください。
男は初めてのインポを書けと。
わたしもセクハラになるから聞けないが、女性の初体験話は興味がある。

どうして官能小説、ポルノ小説を読んだのかというと、
おもしろい小説とはいかなるものかわけがわからなくなってしまったからである。
いちばん好きなのは深草潤一の「見つめられて」。
まじめなOLが露出に目覚める話。
会社でむっつり助平な部長が自分の胸の谷間や足を凝視するのに興奮してしまう。
しだいに露出願望は高まり、胸のかたちが丸わかりのノーブラで銀座を歩くまでになる。
そこを女性上司に見られ、スマホで撮影されてしまい、
こんな恥ずかしい格好をして、といじめられる。
わたしならここから違う展開にするが、著者はレズ落ちさせる。レズ初体験。
わたしはレズは興味がないのでがっかりした。

黒沢美貴の夜叉は時代物で江戸時代。
未亡人の女店主が勇気を出して男娼を買いに行く話。
男に身体をもてあそばれ快感にもだえ、
「ぽかぽかしてる、ここも」といわれるシーンで爆笑した。ぽかぽかしてる、ここも(笑)。
あれ? うん? 読者を笑わせるために書かれたのか、この小説は。
ポルノというのは、笑いと紙一重なところがある。
葉山れいの「制服とシンデレラ」はバスガイドとのバカバカしい初体験。
柚木郁人の「オニヰンギョウ」は文学臭があり、
著者がポルノ作家になりきれていないのがいいのか悪いのか。
川奈まり子の「あなたの玩具にしてほしい」は、
日々自慰にふける図書館勤務の三十路処女が初体験を迎えるまで。
ポルノ小説の大家、睦月影郎の「その朝お前は」は古臭い青春小説ならぬ性春小説。
著者の願望がよく描かれている。

橘真児「助手席の人妻」は笑えた。
コンビニでバイトする若者が先輩の若い人妻に性の手ほどきを受ける。
カーセックスでところどころ車の縁語を使っているのが、
どこまで本気なのかと笑っていいのか迷う。
引用してみようか。
大学生の孝輔が28歳人妻の志津江を助手席に乗せて高速を運転中という設定である。

「フェラチオを始めたときから、そうするつもりだったのだろう。
ここはお言葉に、いや、お口に甘えて欲望を解き放つことにする。
「あ、あああ、出ます」
蕩(とろ)ける歓喜に包まれて、孝輔は腰を揺すり上げた。
それでもハンドルだけはしっかり握り、道路から飛び出さぬよう注意する。
「あ、いく……出る」
目の奥で火花が散ったと思うなり、
熱いトロミが屹立(きつりつ)の中心を駆け抜けた。
びゅくッ、どくっ、びゅくんッ!
いく度にも分けてほとばしった牡の精は、
すべて麗しの人妻によって嚥下(えんか)された。
これはもう悠長にドライブを愉しんでいる場合ではない。
さっさとラブホテルにしけ込み、車ではなく志津江に乗らなければ」(P25)


おまえら事故るなよッ! あんまり格好いい死に方じゃないぞ、それは。
「びゅくッ、どくっ、びゅくんッ!」は、
どうして真ん中の「どくっ」だけ平仮名の「っ」なのだろう? 
深い文学的意図があるのだろうか?
どんな顔をして作者は「びゅくッ、どくっ、びゅくんッ!」とか書いているのだろう?
結局、志津江は旦那とよりを戻してしまう。
男になった孝輔の結論は――。

「ま、女も車と同じで、中古よりは新車がいいに決まってるからな」(P26)

ある種、文学の最先端を突っ走る忘れがたい作品である。

「ポルノの巨匠傑作選 水蜜桃」(祥伝社文庫)

→ポルノ小説のアンソロジーを読む。
年齢相応なのだろうが、最近とみにエロの感度が落ちている。
男は「飲む・打つ・買う」=「飲酒・賭博・女性」のいずれかに依存するものだが、
そしてそれが生きる歓びだが、年々女に興味がなくなってきてさみしい。
エロに胸躍るというのは少年の精神で、老いはなにもかもどうでもよくなる。
好みのえっろいなあ、と思うシーンはある。
たとえばおよそ35年まえの山田太一ドラマ「想い出づくり」。
24歳の独身職業婦人の田中裕子が「処女じゃないから」
とさみしそうな妻子持ちの課長さんに一発やらせてやる。
いち夜かぎりのこと――。さみしい男女が慰めあった、それだけ。
そういうはずだったのだが、実際はどうなるか。
課長は男性同僚のまえで田中裕子を食ったと下品な自慢をするのである。
それを田中裕子が目撃してしまうって、エロエロどはまりでありまする。

この関係で思い出すのは、大学時代のこと。
最近うちのブログもプライバシーの保護に気をつけているから、どう書けばいいのか。
とあるサークルにきれいで性別問わずみんなから好かれる女の先輩がいたのである。
自意識過剰のどもりだったぼくも声をかけてもらうと嬉しかった。
実際、かの女性は有名な民放に入社したから非常に優秀な人だったのだろう。
あるとき酔っぱらい運転の車内でみなとともに聞いてしまったのである。
その女性の先輩はチャラい男の先輩と交際していた。
そのチャラい先輩が交際相手の夜の営みを酔っぱらってか自慢話か、
ぎゅうぎゅう詰めの車内ですべて公開したのである。
その女性がどれほど寝台のうえでは淫乱か、こと細かく公開してしまった。
エロエロえろされむ、と当時も思ったし、いまでもあれはエロの極致だと思う。

このアンソロジーの川上宗薫「女馬たち」で似たような描写があり、とてもよかった。
会社の同僚にグラマーな妙齢の女性がいる。
いつも誘っているような隙のある服装をしている。
社内旅行のときに女湯の彼女の全裸を覗き見た男がいて評判になった。
幸運なこのデバガメは同僚女性の全裸すみずみの様子を男連中に広めた。
意外と毛が濃いとか、腰つきから男をかなり知っているらしいとか。
会社の男たちはみな職場でその女性を視線で全裸にひん剥いていた。
グラマーな女性も悪い気はしていないようなのである。
男たちの猥談にも平気で混ざってくるし、男を何人も知っていることを隠さない。
露出の多い服装を好む自称ヤリマンの女は職場のアイドルであるが、しかし――。

「彼らは、冗談ではからかうが、実際には手出しできない。怖いのである。
とても太刀打ちできないと思っている。
そして、もしも手出しができ、彼女が受け入れたとしても、こんな女だったら、
何もかも、座興半分に、みんなにしゃべりかねないというおそれがある」(P57)


「小さい」とか「へたくそ」とか広められたら終わりの時代であった。
むかしはむかしでいまはいまで、
いまの若者はコクったらその瞬間にラインやらで広まると聞くから、
これでは男は草食化するしかない。男女交際のリスクが高すぎる。
ひと晩のアバンチュールが「ミーツー」により人生永久追放になりかねないのだから。
しかし、それだけエロの貴重性は高まり、いまは冒険ができるいい時代なのかもしれない。
本書では田村泰次郎とかいうむかしの人気作家のやばい小説が採録されている。
昭和46年に発表された「昨日の花々」だ。
いまは脳疾患で半身不随になった作者と思しき老人が大東亜戦争中、
中国大陸に兵隊として赴いていたときに買淫したシナの淫売を懐かしく思い出す小説。
このアンソロジーは1999年発刊だが、いまでは出版できないのではないか。
しかし、当然あってしかるべき話なのである。
多くの男は酒や女を必要とする。
ならば、大陸で買った春の花々を懐かしく思い返してなにが悪いか。春の酒、春の女。

「兵隊ほど、そのことを好きなものはいない。
兵隊たちの日常の話のほとんどはそのことである。
そして、また兵隊はそれに見合うだけの体力を持っている。
休日に外出すると、兵隊たちは必ず、そんな女たちのいる場所へでかける。
初年兵のときは、でかけるとき、
「いいか、絶対、行ってくるんだぞ。行ってこない奴は、帰ってきたら、往復ビンタだぞ」
と、外出のあいさつに、下士官の前に整列した初年兵にむかって、どなりつける。
初年兵たちは、「突撃一番」と、青いインキの押してあるゴム製品を、
古年兵から恭しくもらい、そそくさと営門のそとへでかけるのである。
休日の私の行動は、大体、決まっていた。
まず、中国人街にむかって、早足でむかい、
中国人経営のむさ苦しい酒場へはいって、黄酒(ホアンチュー)を注文する。
黄酒というのは、黄いろい色をした、甘い酒で、ちょっと、臭味があるが、
安くて、いい具合に酔いがまわる。粟(あわ)からつくった酒である。
その黄酒のお瓶子を二、三本飲むと、身体が火照って、なんとなく陶然としてくる。
そのあいだに、仲のいい戦友たちがはいってくると、いっしょになって、飲むのである。
足もとがふらつくまでに飲むと、その居酒屋を出て、
女たちのいる区域へはいりこんでいく。
女たちは一人に一部屋ずつあてがわれて、私たちのその女たちの部屋を、
一軒一軒、のぞきこんで、あがりかまちに腰かけて、女たちをからかうのである。
女たちのほうでも、心得ていて、
この兵隊は、あがるつもりなのか、ただのひやかしのつもりなのか、
おおよそ察しがつくらしく、それぞれに適当にあしらうのである」(P250)


日本軍の兵隊というと現代では忌まわしきものの象徴だが、彼らにも青春があった。
男女関係は支配ー被支配「ミーツー」で言いあらわせるものではないのではないか。
いや、現実は女性はひたすら男性から搾取される被害者なのかもしれないが、
そんな現実を笑い飛ばすのがインテリではない文盲に近いわれわれ庶民ではないか。

いまはだれも知らない旧ベストセラー作家、梶山季之の短編「名器の女」を本書で読んだ。
いまの女権全盛時代では、この「名器の女」というタイトルがまずアウトだろう。
「女性は子を産む機械」のようなニュアンスを、
なかには感じ取られる人もおられるでしょうから自粛、自粛、自粛正義。
「名器の女」には「貧乏お××」の女性が登場する。
昭和43年に発表された小説でさえ伏せ字にしなければならなかった「貧乏お××」。
いまぎりぎりネットは表現規制がかかっていないから書くと、これは「貧乏おそそ」のこと。
おそそとは、おめこ、おまんこという意味。
「あげまん」のまんは、おまんこのまんじゃないとかいう説もあるけれども、
ベストセラー作家の梶山は庶民ならみな持つ一発逆転の夢をおまんこに託している。
冴えない独身中年男が「貧乏お××」ならぬ「富豪お××」とめぐりあい運が開ける。
これは男の夢だなあ。

「大七は、妻の佳奈子と、男と女になったわけである。
いくら不遇だった人物でも、そして風采の上らない男でも、不思議なもので、
ある運を捉(つか)むと、ぐんぐん輝きをましてくる。男らしく、凛々しくなる。
自信が、自信を産みだし、仕事も上り坂になってゆく。
これは不思議な話だが、本当なのだ。
長いこと平社員で燻(くすぶ)っていた人物が、役付になった途端、
バリバリ仕事をして、社内の人間に眼を瞠(みは)らせることがある。
あるいはA社から、B社に引き抜かれた直後、
あッというような大手柄を立てる人物も少なくない。
それは矢張り”運”としか、言いようがないのだ」(P276)


つまらない低能男性の当方は悪女や悪妻の輝きを妄想するのだけが、
いまの生きている愉しみかもしれない。
悪い女をこましてやったと思ったら、
女はさらに悪く、一杯食わされ――そんな経験がしたい。
悪い女にだまされてボロボロになりたい。だれにも相手にされず、さみしいなあ。ガッデム。
「桃源郷」(昭和官能研究会編/光文社文庫)

→官能小説のアンソロジー。
40を過ぎたおっさんが日の暮れた荒川土手を散歩していると、
制服姿の高校生のカップルに出くわす。
着衣はしているもののベンチでかぎりなく本番行為に近いことをしているのである。
決まってさわやかなイケメンとまるでエッチなことなんて知らないような美少女だ。
お互い気まずい思いをする。
10年くらいまえだったら口笛を吹いて冷やかしたりしただろうが、このご時世。
向こうにはJKがいるから、万が一トラブルになったらこちらが不利。
見て見ぬふりをしてその場から遠ざかるようにしている。

官能小説に手が出る心境と高校生カップルをながめる郷愁は似ている。
甘酸っぱくて、ええなあ、ええのうという。
富島健夫のエロ小説は高校生のころ読んだが、おっさんになってまた読むとは。
その道の大家、富島健夫のエロ青春小説「美しい貌(かお)」はいい。
勉強はできるがあまりルックスはよくない処女の女子大生、
知子を同級生のプレイボーイが落すまでの短編小説である。
男友達のまえでは自慢できないこの知子のすばらしさを小説で描いている。
自分が美人ではないことを知っているため性格は控えめだが、
しかし性への好奇心は人並み以上にあり常習的に自慰をしている。
こういうオボコな娘を「かんにんして」「やめて、やめて」とか言わせながら、
ぞんぶんに恥ずかしがらせ性の快感に導いていくプレイボーイは、
いかにもこの作者らしい造形でありきたりという批判もあろうが、
(ゲイをのぞく)全男性の夢がここにあると言ってよかろう。
最後は知子を大人の女にしたプレイボーイが、この娘は心映えがいいとまとめる。
おそらく世の平凡な男女はこうして結婚していくのだろうと思わさせる。
作者はそこまで考えていないのだろうが、
男にプレイボーイを演じさせる処女の知子の技量も評価できよう。

野坂昭如の「猥談(わいだん)指南」も男の悲哀を感じさせる佳作である。
猥談が得意な中年が主人公だが、きっかけは不能じみてきたからというのが物悲しい。
世界共通で男は猥談が好きで、そこで話を盛りたがる。
それは罪ではなく聴き手を楽しませる遊びなのである。
実際に性風俗を試してもつまらないものだが、その体験をどうふくらますか。
釣りに行ってさんざんな結果だったのに、
こんな大物を釣ったと物語るところに小説の原点はあるのかもしれない。
野坂昭如の「猥談指南」から――。

「三流週刊誌の記事につられてコールガールを買ってみれば、
二十貫近くの巨体を、皮のコートに包み、あからさまな東北弁で、
「わたす未亡人なのよ、まだこの商売はずめて間なしなの」と、
これだけが売物らしく、間なし間なしと押しつけがましくいうわりに、
ガッチリ車代までとられ、この時も獅子奮迅の末に不能。
「昨夜ひょいと思いついて、コールガールをよんでみました。
四谷の喫茶店で会ったんですが、これが十五歳の少女でしてね。
なんでも家出してるんだそうで、十三歳の時に、家庭教師に犯されて、
それから一晩も男なしには過したことがないといいます。
えらく体臭のつよい女でしたが、まあ、なんですね、
世の中にはつぎつぎとすごいのがあらわれてくるもので、
私なんぞこりゃいくつになっても、
ああこれで満足だと眼をつぶることはできませんですなあ、
うれしいような、くやしいような」
二十貫の巨体変じて、十五歳の少女となり、
そしていかにこの少女を雄々しく愛撫したかと、客の前でものがたり、
その時はたしかに、下腹部が硬直し、いやそれだけではなくて、
いても立ってもいられぬほどの欲望に身をつらぬかれるのであった。
「思い出しただけでもこの通り」
あらわに帆船(はんせん)風を得た如き股間を指さして笑わせ、
「ほんとに山下氏は女好きなんだな」とやっかむようにいわれると、
一瞬、自分でもそのような錯覚におそわれる」(P205)


エロの話のみならず人生全体のことまで暗示しているような深い悲哀がある。
最近つくづく思ったのだが人間はあるいは男はこうして生きていくしかない。
じつのところ猥談を聞く方も、話半分だということはうすうすわかっているのである。
しかし、そういうことがあってほしいという切なさはどうだ。
精神の病気で大学にも行けず家に引きこもって宗教にはまっている青年と会ったとき、
彼は自分のことを優秀なジュエリーデザイナーと話していたが、
それにうまく話を合わせて「すごいですねえ」と言ってあげるのが、
酸いも甘いもかみわけた大人の態度だったのである。
ふと大学時代に三浪くらいして文学部にようやく入ったUさんという男性を思い出した。
どう見てもモテるような風貌ではないのに、会うたびに猥談をしてきた。
昨日は女子高生と遊んでねえとか、ウソとしか思えないのだが飄々と話しぬける。
あまりに堂々としているので風格さえ感じられたものである。
男は女よりもよほどナイーブな傷つきやすい生き物なのかもしれない。

「赤い舌」(今東光/「桃源郷」光文社文庫)

→けっこうな数のポルノ短編小説を読んだが、これがいちばんおもしろかった。
昭和44年(1969年)に「小説現代」に発表された短編小説である。
今東光(こん・とうこう)は瀬戸内寂聴とゴニョゴニョがあった僧侶作家。
「赤い舌」の主人公は18歳の代用教員。時代設定は戦後まもなくのころではないか。
18歳の宮古定助は師範学校出ではない、非正規の代用教員。
精通(はじめての射精)は遅く16歳のときである。
その後しばらくして村の同輩が強姦事件を起こしたことを知り性に芽生える。
ぷらぷらぶらぶらしていることを周囲からとがめられ、
いやいや代用教員になった定助の心に変化が生じる。

「宮古定助は教壇に立って書き取りや読み方を訓(おし)えながら
男の子に交わって前列の席を占めている半数の女の子をちらと眺めては、
この十三歳前後の小娘が悉(ことごと)く可愛らしい裂け目を持ち、
その裂け目は湿って温い穴になっているのかと想像すると
くらくらするほど興奮してくるのだ」(P101)


定助はお登世という13、4際の教え子の少女にどうしても目が行ってしまう。
お登世は百姓の家の子で、身体の発達もよく、とにかくお転婆な少女である。
学校の女生徒の親分的存在がお登世という気の強い少女であった。
あるとき非正規の代用教員の定助は、
女子グループと男子グループが校庭でいがみあっているのを目撃する。
男子が女子なんか鉄棒の「尻上り」はできないだろうと挑発しているのだ。
果たして男子にどういう意図があったのかはわからない。
「尻上り」をすると着物の尻がまくれることを男子は知っている。
百姓娘のお登世は男子のこれ見よがしの挑発に乗り、
自分は「尻上り」ができると主張する。
悪ガキの男子連中いわく、「女のくせに機械体操できるかれ」。
お登世はできたら男はみんな土下座しろという。
ああ、土下座するから、できるものならやってみろ、
と男たちはひとりの少女に返答する。

「いきなりお登世は尻上りをやった。
ぱっと裾がまくれて可愛らしい小麦色の尻が見えた。
男の子等はどっとはやすのかと思いきや、ごくりと生唾を呑んで押し黙っていた。
実は定助もどきっとしたのだ。
たしかにお登世のすらりとした二本の脚の間に縦に一筋、
桃色の割れ目が灼きつくように眼に入ったからだ。
定助はその場を逃げるようにして立ち去ったので
彼等が約束を実行したかどうかは知らなかった。
定助にとっては彼等の約束など何の興味もなかった。
それよりお登世のふっくらとした魅力溢れる眠れる愛の鹿苑が忘れ難い印象だった」(P103)


むかしは着物の下はノーパンである。
悪ガキ連中がいくらお転婆といっても女だろうと勝気な百姓娘をからかった。
「尻上り」なんか女がしたら割れ目が丸見えになるんだから、やれるはずないだろう。
しかし、14歳の少女は大勢の男子のまえで秘所の鹿苑を惜しげもなく公開した。
あの姿勢をしたら股は開かれているから、
男子全員に桃色の鹿苑の内部すべてをさらけだしたことになるだろう。
お登世というお転婆娘はそれを知っていて、あえて「尻上り」をしたのだろうか。
いったいこの日に何人の男子が精通を迎えたことだろう。
18歳の代用教員、宮古定助は百姓娘のお登世を女として意識する。
もったいないことをしやがって。
おのれの秘所たる桃色の鹿苑をみんなに見せてやることはないじゃないか。

夏季休暇になった。学校では川遊びが禁じられている。
だが、散歩のおり定助が川のほとりに近づくと少女の歓声が聞こえる。
定助の耳はまずなによりも先に、そこにお登世の声を聞き取った。
代用教員の宮古定助18歳は男子からも女子からも舐められているが、
それでも教員であることには変わりはない。
お転婆のお登世を中心として全裸で川遊びをしていた少女たちは一斉に逃げる。
しかし、お登世だけはどうしてか逃げずに勝気にもその場にいた。
演技なのかなんなのか、おぼれたふりをして「助けて」という。
男性教師は14歳の少女のまっさらなそのままのすがたに見入る。

「小娘の肉体がこれほど美しいものとは、
定助が真夏の太陽の下で白昼しみじみと見るまでは考えも及ばないものだった。
小麦色の濡れた肌はしっこりと固くしまって、小さな胸に早やこんもりとした丘が
双ケ岡のようにならんで、その桃色の乳首がつんと上の方を向いている。
胴はきゅっと引き緊(しま)って片手を廻しても引き寄せられそうだし、
その胴の割りに大きく膨(ふく)らんだお尻から、
すらりと長く伸びた脚がたくましく枯れ木を支えている。
ぷっくりとした下腹部の腿と腿との間の翳(かげ)りは
それが陰影だとわかっていながら愛の鹿苑の芝草のように見えるのだ。
お登世の闊達な遊び振りはまるで小娘のようで、この小鹿を抱きしめたら
定めしもがき暴れ悲鳴をあげながら笑いころげるのではあるまいか」(P107)


「先生。一緒に泳ごう」と少女は言うではないか。
子どもに返ったように青年も少年に戻り、衣服を投げ捨て川に飛び込む。
18歳の少年と14歳の少女は禁じられた川遊びを満喫した。
遊んでいる過程で抱き合うようなかたちになったこともあった。
疲れたふたりは川から上がった。全裸の青年とお転婆少女は向き合って座った。
少女は腿は揃えているが、足先は無防備にも開いている。
青年はどうしてかわからぬが疲れたふりをして野原に横たわった。
生意気で勝気なお転婆の14歳の少女はゴロツキの代用教員に笑いかける。

「「先生、泳ぐの上手やね」
「われみたいな子供の頃からこの大沼の河童やったからな。
われのからだも水泳に適してるんやよ。魚みたいで」
「そないに見らんどいて」
「見いたいよ」
「こないしてか」
お登世は心持ち股を開いた。
これは意外な事態なので定助は赤くなった。
恰度(ちょうど)、定助の目の前、鼻の先にくっきりと割れ目が見え
薄桃色に暈(ぼか)したような小鹿の口は
まだこの世の誰もうかがい知れない秘所だ。
汚れのない愛の鹿苑の入り口だ。
定助が見たいよと答えたのはレトリックに過ぎない。
それなのにこの女の子は既にこんなことを知っているのであろうか。
定助は自分の男性がまるで胸騒ぎでもしているように
下腹を突き上げてくるのを感ずると、
「阿保やなあ」
と叫びながらまた大沼へ飛び込んで行った」(P110)


いやらしいのお。えろいなあ。えろっ、えろっ!
勝気な少女は代用教員を意気地なしと見切ったのか、
すぐさま衣服を着てその場から去ったという。
男女の川遊びはだれかに見られていたのか、
代用教員は校長から厳しい注意を受ける。そういうことをしてはいけない。

「ところがもっと不可(まず)いことはお登世が転校して仕舞ったことだ。
定助はてっきり自分を避けるために親が他の学校へ移したのかと邪推したが、
次女だったので恩智(おんぢ)の叔父さんの養女にやられたということがわかった。
この叔父の家は百姓をやりながら電車の駅近くで饂飩(うどん)屋をやっていたので、
敏捷(びんしょう)なお登世が見込まれて貰われたのだ。
そう言えば裸になって彼の目の前で少しばかり
脚を開いた時のお登世の精悍(せいかん)な眼を忘れることが出来ない。
あの目は男の魂まで食い尽すように燃えていたのを
気がつかなかったとは迂闊(うかつ)な話だったと定助は後悔した」(P111)


代用教員の青年は、
お転婆娘の股の根っこにある桃色の鹿苑から「赤い舌」が出ていたのを見た。
ねっとりじっとりした、とてもいい文章で書かれたポルノ小説を読んだ。
これこそ純文学ではないかとわたしは思う。いい小説はよろしい。


「英雄児」(司馬遼太郎/新潮文庫)

→英雄は英雄であって英雌ではないのである。
女は英雄になれないし、男もなかなか英雄にはなれないから、
男女ともに英雄を好んで描いた司馬遼太郎の小説に惚れるのだろう。
男がなぜみな英雄になれないのかというと大人になるからである。
英雄は大人の男でありながら、なお子どもでなければならない。
英雄は女のように目先の損得勘定や世間の規範にしがたってせこせこ生きるのではなく、
少年のように野望、大志がなければならない。
天下のもとに生まれたのならば天下を取らんと欲しなければならぬ。
先日、ある女性から司馬遼太郎が好きという意外なことを教えてもらい、
理由を問うたら「だって(小説の登場人物が)男らしくて格好いいじゃない」――。
現実にはそういう男はなかなかいないが、司馬遼太郎の小説のなかにはいる。
天下を取るのをあきらめるのではなく、
虎視眈々と天命さえも逆らおうとおのれの宿命を華々しく開花させんと狙うやから。
彼が「英雄児」である。
先ごろ死刑が執行された麻原彰晃は司馬遼太郎のいうところの「英雄児」だ。
男は生まれてくる時代が悪かった。
もし生まれてくる天地人が異なっていたら彼は「英雄児」ではなく英雄になっていただろう。
仏教観的には司馬は創価学会が大嫌いで踊り念仏の一遍を絶賛していたが、
それは池田大作が天地人に恵まれた英雄であり、
天命に逆らおうと欲するも天下を取れず、
歴史という運命の奔流に巻き込まれ敗れ去る「英雄児」ではなかったからではないか。

司馬が名作短編「英雄児」で描くのは河合継之助である。
継之助は越前長岡藩の男で幕末のころ官軍に壮大な戦いを挑み敗れ去る。
この短編を読んで歴史小説、時代小説を読めないわけがようやくわかった。
わたしは河合継之助を知らないし、
そもそも当時の地名や幕藩体制といった基礎知識がないから理解できないのだ。
歴史小説、時代小説の旨(うま)みを味わえない。
しかし、司馬が「英雄児」を愛したように河合継之助を愛することならばできる。
「英雄児」はいいおっさんになってもぷらぷら遊び歩いているのがいい。
なぜそういう非常識なことができるかといえば、おのれを大物と信じるがゆえだ。
学校(私塾)に行っても、まったく当時でいう(流行の)学問をしない。
講師の指導にもまったく耳を貸さない。このため――。

「学問は、おそろしく出来ない。
出来ないというより、自己流に興味のある特別な学問に熱中しているようであった」(P11)


学校の宿題(漢詩文)など自分を慕う若年の後輩に焼き芋をおごってやらせてしまう。
劣等生であった「英雄児」を師匠と目した新米坊主の慧眼も見事である。
学校という領域では劣等生の「英雄児」は若い男に本当のことを教えてやる。

「詩だの文章だのということがいくら拙(つたな)くても、人間の価値にかかわりはない。
大体、漢学者などは、詩文がうまければそれでりっぱな学者だと
世間も自分も心得ている。そんなもので天下の事が成るか」(P12)


優等生の学友であるはるか年下の新米坊主はなるほどと理解する。

「この男の学問観は、
学問とは自分の行動の力になるものでなければならない、
というものであった」(P13)


上記の引用の「学問」を「小説」に言い換えたら司馬の小説観になるのではないか。
司馬遼太郎の小説観は、
小説とは自分の行動の力になるものでなければならない、
というものであったのではないか。
学問的理論を支柱とした純文学など小説であってたまるか。
人を揺り動かすのが本当の小説で学問高尚遊戯は小説ではない。
「英雄児」がなぜこの学校に通っていたかといえば、
たまたま図書館で発見した「李忠定(りちゅうてい)公集」を筆写するためである。
李忠定はほとんどの学者が名前も知らないような無名の中国の政治家。
「宋朝末期の名臣」らしいが、中国史はよくわからない。
「英雄児」の継之助は李忠定に惚れ込む。男が男に惚れるのである。

「ときに継之助は、幕末の物情騒然たる時勢に生きている。
――おれの生涯は李忠定だ。
と、ひそかに心を決するところがあった。
この男は自分の気質にあう書物以外はよまなかったが、
この「李忠定公集」ほど感銘したものはなかったらしい」(P17)


「英雄児」は「英雄児」に惚れ込むのである。男が男に惚れる。
田中英光は太宰治に惚れ殉死したし、西村賢太は藤澤清造に惚れ込んだし、
遠藤周作がイエスを慕ったように宮本輝は池田大作(日蓮)に惚れたし、
この理屈でいえばこの文章の書き手は一遍、
ストリンドベリ、ユージン・オニールにただならぬ影響を受けている。
司馬遼太郎は河合継之助に惚れ込み「英雄児」を書き、
のちには長編小説「峠」のモデルにするほどこの男を愛した。
女流の柳美里も太宰治に惚れたとうそぶいているが、
40過ぎまで生きて先ごろ50歳の誕生日をブログで自分で祝っていたから、
このあたりが女郎(めろう)の限界であり、その堅実な生活観は長所でもあろう。
女は英雄にも「英雄児」にもなれず、老いてババアになるだけなのだが、
そこが女のかわいさであり愛らしさであり、
男にはない女ならではの、はかなき美々しさであろう。
英雄色を好むではないが「英雄児」は足しげく商売女のもとに通ったと小説では語られる。
劣等生のフーゾク好きの中年男「英雄児」は新米小僧に女を語る。
新米坊主は朋輩にフーゾクに連れて行かれそうになり逃げ帰ってきた。
「英雄児」ならそうするだろうと思ったからである。
しかし、このあと「英雄児」がいちばんのフーゾク好きだったことを知る。
「英雄児」は15歳年下の若僧に女を語る。
自分は女を知るためにフーゾクに通い詰め、お嬢を△○◎の3つに分けた。

「これだけ買いはしたさ。しかし◎の者になると、
これは男子にとって容易な敵ではない。
おれはかねてから女におぼれるのは惰弱(だじゃく)な男だけかと思っていた。
しかしそうではない。
惰弱なのはあるいは○△におぼれるかもしれぬ。
しかし◎には、英雄豪傑ほど溺(おぼ)れるものだと思った。
溺れる、といっても、羽織を着せられて、
背中をポンとたたかれるからどうこうというのではない。
その情には、一種名状しがたい消息があり、
知らず知らずのうちに男子の鉄腸が溶けてゆく。
むしろ英雄豪傑ほど溶けやすい。(……)
だから試してみたのさ。
そのあげくの果てのつまるところが、女はよいものだ、と思った。
心ノ臓の慄(ふる)えるほどに思った。いまもおもっている」(P29)


英雄豪傑を自認する男がおぼれるのは女なのか同性たる「英雄児」なのか。
「女の敵は女」だから、女が女に惚れるということはないが、
男は男色という意味合いをまったく抜きにしておなじ男に惚れることができる。
英雄は男に惚れるべきか女に惚れるべきか「英雄児」は悩み結論づける。

「おれという人間は、自分の一生というものの大体の算段をつけて生きている。
なるほどおれの家は小禄(しょうろく)だし、おれの藩は小藩だが、
小藩なだけに将来、藩はおれにたよって来ることになるだろう。
なるほど同じ一生を送るにしても、婦女に鉄腸を溶かして生きるのも一興かもしれぬ。
しかし人間、ふた通りの生きかたはできぬものだ。
おれはおれの算段どおりに生きねばならん」(P29)


むろん、人間だれしも算段どおりに生きられるわけもなく、
そこらへんがファイナンシャル・プランナーとかいう大馬鹿どもが嫌いなゆえんだが、
「英雄児」は英雄のように算段どおりに生きられぬ、
そのところをもって男は「英雄児」になりうるのである。
英雄豪傑たらんと欲する「英雄児」たる男は女におぼれるのもいいが男におぼれろ。
大学教授とかいうステータスを用いて、
男にも女にもおぼれず(人に惚れる才能がない無血漢!)、
そのくせていよく若き女学生を毎度まいど
こまそうとする早稲田の渡部直己なんぞという卑劣漢は早く切腹しろ。
恥を知れ馬鹿者が。芸術はテクスト読解するものではなく惚れるものだ。
芸術は、人間は、人生は、批評対象ではなく、惚れ込んでこそである。
わたしが渡部直己の教え子だったら、
「じゃあ教授が小説を書いてくださいよ」といびり殺してやったことだろう。
似たような存在の江中直紀教授は大学外で喧嘩したら勝てる、と在学中は我慢して、
卒業後はつまらない人間だからすぐに忘れてしまっていたのだが、そうしたら天罰覿面。
みじめにもなんの業績もなく早死にして無名のまま犬のようにおっ死(ち)んだ。
江中直紀は男からも女からも惚れられない、すなわち行動がない、
いかにもいかにもなシャレオツなおフランス学者であった。
詩だの文章だのということがいくら拙くても、人間の価値にかかわりはない。
大体、仏文学者などは、詩文がうまければそれでりっぱな学者だと
世間も自分も心得ている。そんなもので天下の事が成るか――。
小説家の司馬遼太郎は「英雄児」河合継之助を上杉謙信に比している。

「謙信という人物は、軍神に誓って生涯女色を絶ち、その代償として常勝を願った。
ほとんど奇人といえるほど領土的野心が乏しく、
むしろ芸術的意欲といっていいような衝動から戦さをし、常に勝った。
謙信は戦争を芸術か宗教のように考えていた男だが、
河合継之助にも、気質的には多分にそういうところがあったにちがいない」(P48)


「英雄児」は英雄ではない。永遠に「ひのき」になれない「あすなろ」のようなものである。
いかに算段をつけ野望をいだいても人生はままならぬ。
しかし、そこに人ならぬ神仏の創作の手が入っているのではないか。
しかるがゆえに最後には敗北する「英雄児」は雄々しくも美々しいのではないか。
「英雄児」にして独裁者の河合継之助は強力な私兵団をつくり大勢の人を殺した。
オウム真理教の麻原彰晃なんぞの比ではないたくさんの人間を「英雄児」は殺している。
が、男は殺人鬼ではなく「英雄児」である。
男たちに告ぐ、老いも若きも男性諸君、英雄を目指す「英雄児」にならないか。
天下を取ろうという誇大妄想的な野心をせっかく男として生まれたのになぜ持たぬか。
女のご機嫌うかがいなぞしている暇があったら男は英雄を目指し、そして挫折しろ。
人生、どうせこんなもんだと思うな。ふざけんな、いまにみておれと臥薪嘗胆せよ。
十人や百人、千人だって殺してみせると不敵に不逞に不敬におのれを狂信してみないか。
殺していい理由は自分が天下のもとに殺されてもいいからである。
小市民的な女性的価値観にうんざりしているのは男性ばかりではないのだろう。
「男には男のふるさとがあるという」(中島みゆき「旅人のうた」)。

(関連記事)
「宗教と日本人 司馬遼太郎対話選集8」(司馬遼太郎/文春文庫)
「人間というもの」(司馬遼太郎/PHP文庫)

「美少年」(団鬼六/新潮文庫)

→大御所SM作家の短編小説集を読む。
いったい現実と妄想ってどういう関係にあるんだろう?
現実というのはいわゆる客観で、妄想は主観と言うこともできなくはないだろう。
わたしは現実はつまらないので妄想しているほうが好きだ。
いっぱんに小説や映画といったフィクションは現実(客観)ではなく妄想(主観)だろう。
しかし、なにが現実かという問題提起もやろうと思えばできる。
本当に客観的なもの(=現実)など存在するのだろうか?
写真は証拠にも使われ客観的なものとされるが、
賞を取ったような有名写真にはつねにヤラセ疑惑がつきまとう。
文章でいえば、現実を正確にとらえる客観的な文章など存在しうるのか?
フレームで現実を切り取っている写真もそうだけれど、
文章もどこを書いてどこを書かないという取捨選択があるわけだ。
一瞬に起ったことの外面や内面を言葉で書き尽くすことは、
1万ページを費やしても不可能という考え方もまったくの間違いではないだろう。
これは唯心論(唯識説)と言われているものだが、すべては主観(妄想)とも言えよう。
すなわち、客観は存在しない。多数派の主観が客観として現実的に採用される。
客観的なものは存在しているように見えてじつは存在しない。
客観的な現実は多数決で決まるもので、多数派の妄想(主観)が現実的とされる。
このときリアリティ(現実性、真実性)とはなんだろうか?
当人にとってもっとも現実的と信じられる妄想がリアリティがあると評価される。
わたしは最近めっきり小説や映画といったフィクションから離れている。
他人の妄想をあまりおもしろいと思わなくなっているのかもしれない。
小説よりも自分が目にした現実のほうがおもしろくなってきている。
しかし、客観的現実など存在しないとしたら、
わたしが現実として受容しているものはわたしの妄想(主観)に過ぎないだろう。
現実などないのだとしたら、都合のいい妄想をしたほうがいいことになる。
けれど、あんまりおかしな妄想をいだいていると人に迷惑をかけてしまう。
異性が自分を好いているという妄想にかられて行動したらストーカーになる。
妄想ではなにを思い浮かべてもいいが、実際に行動化したら性犯罪者になる。
妄想では憎いやつを殺しても構わないが、現実化したら殺人者である。
わたしは妄想が好きだが、最近はあまり他人の妄想に興味がなく、
現実といわれている自分の妄想にリアリティを感じておもしろがっている。
以上、書いてきたことをご理解くださる人はおられますか?
団鬼六の以下の文章を何度も読んで、さらに考えに考えた結果がこの記事だ。

「私は観念的には嗜虐趣味を持つのだが、実践派ではなかった。
絵空事としてSM小説を書き、それに耽溺(たんでき)する事ができたが、
これを空想の域から離れて現実に実行するとなると
何よりも自分の不器用さ加減にうんざりし、
つまり女体を満足に縛る事も出来ず、暴力実行者としては落第であった。
現実に直面するとまず自分の気持が先にしらけてしまうのだからどうしようもない。
[愛人契約した女子大生の]相沢京子とセックスする時も
ロープなぞ使って嗜虐趣味を発揮したことは一度もなかった。
ノーマルな正常位で私は充分に満足した。
嗜虐的幻想図が頭に浮かぶ時は妄想の中に自分を溶けこませ、
京子と正常な肉体行為を営みつつ、
京子を暴力的に凌辱(りょうじょく)しているような妄想を自分の内に掻(か)き立てる
――これだけで私は充分に満足した。
一つの対象を相手にしてノーマルな行為を演じつつ、
アブノーマルな妄想によって自慰行為に浸っているようなもので、
これは妻と演じる性行為の場合も同じパターンなのである」(P23)


おおむかしブルセラ学者の宮台真司がどこかで言っていたのを
よくもまあいまでも覚えていると自分でも驚くが、
自分は女の子の気持になることで性的興奮を掻き立てられるタイプだと。
でも、現実問題、女の子の気持はわからないから、それは妄想だよね。
他者(異性)は客観的現実的に存在していないとも言えなくはないわけで、
自分の心のなかの女や男が現実場面でも重要になってくるような気がする。
現実があったとして、現実よりも妄想のほうが楽しいわけだ。
しかし、自分を圧倒する現実感覚(リアリティ)というのもあろう。
現実と妄想、正常と異常、客観と主観――この二辺を接続させる言葉がリアリティである。
変なことを言うようだけれども、現実にレイプをできる人はすごいと思う。
妄想のレイプは楽しいけれど、現実にそれはできないという人が多いのではないか。
いや、そうでもないのかな。
よく知らないけれど、女も妄想ならばレイプを楽しめる人もいるような気がする。
実際、されるなんて冗談じゃないと思うけれども。
しかし、確率はものすごい低いだろうが現実に凌辱されて興奮する女性もいよう。
そういう女の内面を妄想すると楽しくて仕方がない。
現実にそういう女性と対面したら逃げ腰になってしまうかもしれないけれど。
なにが現実なんだろう? なにが妄想なんだろう? 
リアリティって本当のところどういう意味なんだろう?

「真剣師 小池重明」(団鬼六/幻冬舎アウトロー文庫)

→真剣師(賭け将棋)として名を馳せた小池重明をモデルにした小説である。
作者の団鬼六は、晩年の小池重明と交流があったらしい。
とにかくおもしろい小説で、久しぶりにこれほどのものを読んだという気がする。
ルポやノンフィクションではなく、これは小説だからおもしろいのである。
ところどころ嘘ではないかと思ったところがあるけれど、そこがおもしろいのである。
私小説をふくめてモデル小説というのは2タイプに分かれるのではないか。
モデルを実際よりも悪く書くものと、モデルを実在する人物より大きく書くものだ。
「真剣師 小池重明」はむろんのこと後者のモデル小説である。
さすがに人間・小池重明は、
この小説に書かれているほど破天荒ではなかった気がする。
ドキュメンタリー映画の「ゆきゆきて、神軍」とおなじである。
あのドキュメンタリーのモデルはちょっとあたまのおかしな変人程度なのである。
しかし、映画監督がモデルを実際よりも大きな人間のように劇化して描いているのだ。
とはいえ、「ゆきゆきて、神軍」も「真剣師 小池重明」もまずモデルありきである。
小説ほどではなかったのだろうが、
実物の小池英明もそうとうはた迷惑な破滅型の人間だったのだと思う。
生活上は破滅型で型破りで問題行動ばかり起こしたが、将棋だけは強かった。
小池重明はどのような将棋を指したのか。
対局したことのある団鬼六はこう書いている。

「小池の将棋はこれまでプロの指導を受けていた私の目から見れば型破りで、
筋の悪さだけが目立つような妙な将棋であった。(……)
こんな悪筋な将棋に負けるはずがないと追いこんで行くと終盤まぢかにきて一発、
逆転のパンチを喰わされる。
それを恐れて慎重の上にも慎重を重ねて行くと、
嵩(かさ)にかかって猛攻してくるといったもので
相手の心理を透視する術(すべ)を心得ているのではないかと思われた」(P239)


小池重明がなにゆえ44歳で破滅人生を終えたかといえば、
それはギャンブル(賭け将棋のみならず競馬やサイコロ賭博も愛した)、
女(人妻との駆け落ち歴3回)、酒(酔っぱらって対局に来ることもあった)、
この3つが原因となろう。ひとつに要約したら金である。
小池重明は金銭への執着が人一倍強かった。
しかし、まじめに働かず楽をして大金を得ようとした。
なぜ金があるといいのかといえば、きれいなおねえちゃんといいことできるからである。
なぜ金があるといいのかといえば、いい店でうまい酒が飲めるからである。
種銭がなければ、ギャンブルひとつすることができない。
そして、ギャンブルをしたらはした金が大金になるのである。
こんな楽しいことがあろうか。
本書を読んで小池重明の人間味のようなものに惚れ惚れとした。
もっと金と女への執着を強めなければ駄目だと自分を叱咤したくらいである。
さんざん人生で好きなことをしてスッカラカンになった小池だが、
それでもこの伝説の真剣師には団鬼六という師匠がいたのである。
晩年の落ちぶれた小池は涙声で団鬼六のもとに電話をしてきたという。
あきらかに酔い泣きしている。そして、なんと言ったか。
おそらく小池重明は団鬼六にもだいぶ不義理を働いたことだろう。
それなのになぜ電話をかけてきたか。

「淋しくて、淋しくてたまらなかったんです、僕は。
それを先生に助けていただいた。友もなし、女もなし、金もなし。
それはまあ、我慢できるとしても、
将棋まで指せないこの孤独には耐えられなかった」(P274)


わたしが小池重明のどこに惹かれるかといったら、その強烈な孤独感である。
おそらく団鬼六も小池重明がかもしだす孤独に魅せられたのだろう。
ふたりの人間が命の次に大事な金を賭けて真剣勝負をしたら、
勝つのはより孤独なほうである。
しかし、人は勝つことで孤独になっていく。勝利は孤独を深める。
それでも小池重明は勝とうとした。孤独になろうとした。
そして、44歳で生活保護を受けながら田舎の汚い病院で孤独に死んだ。
自分でチューブ管を引きちぎったというから、あるいは自殺だったのかもしれない。

「龍神の雨」(道尾秀介/新潮文庫)

→大藪春彦賞を受賞したミステリー小説らしい。
この本を読んだきっかけは、作者の道尾さんをお見かけしたことがあるからだ。
どこでかというと今年、東京の八重洲ブックセンターで行われた
テレビライターの山田太一先生のトークイベント&サイン会。
質問タイムにイケメン男性が挙手をした。立ち上がり「道尾です」と名乗る。
「あなたは道尾さんじゃないですか!」と編集者あがりの作家が恐縮していた。
出版社の人もどよめいた記憶がある。
そのときまで恥ずかしながら道尾秀介さんのことを存じあげなかった。
帰宅してネットで調べてみたら、
わたしとそう年齢が変わらないのに山本周五郎賞も直木賞も取っている有名作家だった。
しかもそうとうなイケメンときたものだから、人生の不公平に愕然としたものである。
ぜひぜひこの人気作家のご作品を読んでいろいろ学ばなければと思ったものである。

ミステリー小説というのは通念を疑ってはいけないのだと学習する。
親が死んだら悲しいものだ。善は善で、悪は悪である。
人を殺すのは罪である。悪い大人は少女を強姦したがるものだ。
犯人は最後に自分の罪を自白するものと決まっている。
あらゆる世間のお約束を疑わず、
その決まりにのっとって平均的読者の好む架空空間を創造するのがミステリー作家なのだろう。
求められているのはリアルではない。だって、リアルなんてつまらないじゃないか。
女子中学生が「そうなったら、あたしだってばらすわ」と女性語の「わ」を使ってもよい。
むしろ、それがミステリーだ。
悪役の真犯人はきもいアイドルオタクで独身中年でなければならない。
イケメン直木賞作家の道尾秀介さんはこういうことを書く作家である。

「あの人、いい年齢(とし)をして独身だから、責任感ってものがないのかもね」(P314)

井戸端会議の感覚を失っては大衆小説を書けないのだろう。
あの人、いい歳をして独身らしいけれど、アイドルオタクのロリコンじゃないかしら?
こういう大衆の通念を保護し慰撫し安定させるのが、
(よく知らないが)ミステリー小説の社会的役割のひとつなのだろう。
いろいろな小説があっていいと思う。
またどこかでお姿を拝見する機会があったら文庫本にサインを頼んでみようと思う。
きっとすてきなスマイルで応じてくれることだろう。

「他人の女房」(源氏鶏太/集英社文庫)絶版

→死後完全に忘れられた大衆作家のサラリーマン短編小説集を冗談半分で読んでみる。
ウィキペディアで見て驚いたけれど直木賞作家・源氏鶏太の肩書はすごいね。
紫綬褒章のみならず勲三等瑞宝章まで取っているのか、やるなあ。
元大阪大学助教授の小谷野敦博士の悪影響で、
このところ人の肩書にばかり目が行く最低の人間になりつつあるので注意したい。
常務のお古をそうとは知らずに女房にした男が盗み聞きで真相を知ってしまい、
おまえはあいつに仕込まれていたのかと妻に怒りをぶつけるサラリーマンがよかった。
最後はなぜかこれが「人間の業だ」などと仲直りするのだが、
ずいぶん安っぽい「人間の業」だなと思いながらも、
こういう娯楽小説を愛したであろう昭和40年代のサラリーマンに思いをはせ、
いま殺伐とした平成を生きるぼくは微笑ましい気分になった。
上司からの依頼で愛人と別れさせることに成功するものの、
ひいきにされるのではなく、逆に秘密を知られていると疎まれ、
左遷される昭和の独身サラリーマン氏。
彼は「運が悪かったな」とだけ思い、なにも文句を言わずに僻地に飛んでいくのだが、
その自己主張なき雄姿はそれなりに格好いいと思った。
総じて思っていた程度の娯楽であった。
紫綬褒章作家の源氏鶏太は永久によみがえることはないだろう。
絶対に再評価をされない当時の人にのみ売れるものを書けるのもまた才能だと思う。
これは悪口や批判ではない。
本当に読んだという証拠に偉い人の小説から一文を抜いておく。

「サラリーマンなんて、そういう他人の不幸をよろこぶように出来ているんだ」(P134)

「人生の読本」(山口瞳・選/集英社文庫)絶版

→サラリーマン小説を集めたもの。裏表紙によると――。
「個人と組織の狭間で歪み苦悩する生活者の文学をテーマに、
傑作アンソロジー十三本を収録」。昭和56年刊。
だらだら感想を書き連ねると、
この機会にはじめて庄野潤三の「プールサイド小景」を読んだけれど、
むかしはこれで芥川賞なのかといろいろな意味でうなった。
開高健の「パニック」だけあまりにもつまらないので最後まで読めなかった。
芸術院賞を受賞した永井龍男の「一個」は、
こんなものをだれが褒めるのだろうと
作者の持っていたであろう黒い権力に恐れをなす。
いまはすっかり忘れ去られたけれど源氏鶏太の小説はうまい。この人いいな。
かといってさすがに全集を買うほど、この大衆作家に賭けられないけれど。
城山三郎もサラリーマンの悲哀を実にうまく描いている。筋運びもすばらしい。
阿部牧郎さん(まだご存命らしいので)の小説はエロくていい。
こういう官能性はいいな。ご縁があったらこの人のエロ短編をもっと読みたい。
なんといっても井上靖がいちばんいい。
解説の対談で山口瞳が「社長、重役らのトップ層が書ける」のは井上靖だけ、
みたいなことを言っていたが、まったくそうである。
井上靖の小説「満月」から印象に残った一文を引く。

「人間金ができると、権力や地位が欲しくなり、その次が女で、
女にも不自由しなくなると最後は名誉と勲章だな。
大高社長ぐらいの人でもやたらに勲章をほしがったからな」(P157)


選者・山口瞳の「シバザクラ」も意地が悪くてトラウマになりそうな小説だ。
山口瞳という人は本当に意地が悪い、つまりいい小説家だったのだろう。
「シバザクラ」のモデルはだれなんだろう?
会社勤めの経験がない人の世間知らずぶりをさんざん先輩社会人気取りで揶揄(やゆ)する。
この意地の悪さにはただならぬものがある。
山口瞳は会社員時代にいじめられた経験を執念深くずっと忘れなかったのだろう。
たぶん、作家になってからその仕返しに同業者をいびったことも多々あったのではないか。
だから、いまもって石原慎太郎のような人からぼろくそに言われるのである。
いまはもう山口瞳が男か女かも知らぬ人ばかりだろうから、
女嫌いの作家の短編小説「シバザクラ」から一部を抜粋する。

「私も世間知らずだった。
気質的には西藤と私はそっくり同じだったといってもよい。
しかし、私は十九歳のときからサラリーマン生活を続けていた。
私も西藤に似た失敗を重ねてきたのだ。
叱られてイジメられて唇を噛んで暮してきたのだ。
生意気だといわれ、思いあがりといわれた。
いつのまにか、二人の間の距離が広がっていったのである。
家のこと、育ちのこともあるだろう。
西藤は学生のときから小説家としての名が出てしまった」(P230)


いろいろな方面への深い怨念がじっとりしみ込んだ文章である。
かつての上司への恨み、家や育ちへの恨み、
学生のときに早々と作家デビューしたものへの恨み。
コンプレックスが強い作家ほど、うまくいくと多数派の支持を得るのだろう。
なんだかんだいって、みんなが持っているのがコンプレックスなのだから。
容貌へのコンプレックス、学歴コンプレックス、収入コンプレックス。
幸福になりたかったら人と自分を比べないのがいちばんいいのだが、
他人と自分を丹念に比較して恨みを育てていくと時にそこから花が咲くのだろう。