「知識ゼロからのマルクス経済学入門」(弘兼憲史・ 的場昭弘/幻冬舎)

→おれってなにも知らなかったんだなあ。
マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」は大学1年のときのある講義で読まされた。
なんの記憶にも残らなかった。
恥ずかしながらよわい40にしていまごろ知ったが、
マルクスとエンゲルスって別人だったのか。
マルクスは生涯壮大なヒモとニートをやらかしたやつで、
エンゲルスというのはニート・マルクスのパトロン(資金提供者)だったのか。
本書で知ったマルクスの人格破綻ぶり生活破綻ぶり、
ちょーエゴイストでわがままなところは最高におもしろい。
偉大な思想というのはニートからしかおそらく生まれないが、
ニートがどこまでニートをやる根性があるか、
うまくパトロンを見つけるかの運の有無が天才と凡人をわけるのだろう。
だって、まじめに労働なんてしていたら疲弊して休日は寝るだけ。
とても自分のあたまで考える時間なんて持ちようがないじゃないか。

「万国の労働者よ、団結せよ!」
とかほざいたらしいマルクスは一度も労働をしたことがなかった。
これ、すごいよくわかるなあ。
底辺労働をしたことがないニートだから「万国の労働者よ、団結せよ!」なんて言えちゃう。
マルクスのこの発言は「正しい」のだ~よ。
いまのわたしの派遣先企業だって、いま契約更新時期らしいが、
パートがみんなで団結して契約を拒否したら会社は回らなくなる。
みんなで団結して時給を50円上げろと要求したらたぶん上がるだろうが、
実体験を込めて書くが労働者は仲が悪くそもそも団結しないものなのである、
いまの職場でいろいろな人から同僚の悪口を聞いてどれだけ楽しかったか。
労働者は職場で労働力という商品を搾取されているだけではなく、
むしろ共同体において悪口や意地悪、親切を楽しんでいると思う。
ニートのマルクスはそのことを知らなかったからこそ、
世界に革命を起こすような真に偉大な妄想哲学を構築することができたのだろう。

マルクスは人間を資本家と労働者にわけたが、ニートのおまえはなんなんだよ!
マルクスの言う、労働者は資本家に搾取されているというのもどうだか。
逆も言えるのだ。資本家は労働者に搾取されているとも言えよう。
商売が失敗したら資本家は借金を背負うが、労働者は新しい履歴書を書けばいいだけ。
倒産寸前の中小自営では、
(マルクスの言う)資本家の取り前より労働者の給与のほうが多いところもあろう。
そして、ニートのマルクスの言う資本家と労働者の対立構造も実相はどうだか。
資本家と労働者は対立しているのではなく、
共依存しているといったほうがむしろ現実を的確にとらえているのではないか。
どうしてか人は他人の役に立ちたいようである。
労働者は資本家の役に立っているとおのれの自尊心を満足させ、
資本家も資本家でおれがいなかったら雇用者(労働者)は食い詰めてしまうと、
そこに自己の存在意義やアイデンティティを見て取っている。

いまは資本家の存在がよくわからない。
大企業の社長だって雇われ身分でしょう?
だれが本当の資本家で、
労働者はいったいだれに搾取されているのかまるでわからない。
雇用関係も派遣ばかりで、資本家と労働者のめんどうくさい人間関係を排除している。
むかしは共産党は拡声器がうるさいので嫌いだったが、
いっかいの低賃金派遣労働者となり果てたいまはかの政党にも好感を持つ。
エフだから、いまのところ入れるのは(政策さえ知らない)公明党だけれど。
将来、生活保護をお願いする立場になったら、共産党に土下座することも辞さない。
というか、いまも共産党にはあたまが下がる(公明党にもだけれど)。
わたしなんか自分のことで手いっぱいなのに、人の役に立とうと尽力する人は偉いよ。
そして、いちばん偉いのはニートながら放蕩三昧で、
偉そうに「万国の労働者よ、団結せよ!」とかのたまったマルクス先生である。
働くと消耗するから、なんかどうでもうよくなって、みんなの意見に従っちゃうんだよねえ。



労働疲労には「共産党宣言」もいいが甘いものも実効的。



内情をばらすとうちのアフィからコージーの商品を買ってくれたものはひとりもいない。
うえーん。
「知識ゼロからの経済学入門」(弘兼憲史・ 高木勝/幻冬舎)

→いまふたたび経済学に興味を持ったのは、
職場のメイト(契約社員)Yさんの影響かなあ。
何度か「カネがない」という自虐アピールを休憩室で耳にしたし、
かといって悪い人ではなく気の弱い善人のせいで損をしているというか。
わたしはYさんを(も!)大好きだが、
日本経済はどうしてこのような労働者を生み出してしまったのか。
そんな素朴な中学生のような関心から絵本のような本書を読み、
自分のあたまで考える(←これが中高生にはできないこと)。

もしかしたら世界史上最大の悪人は「経済学の父」アダム・スミスではないかしら。
彼は経済世界なんて放置しておけば競争の論理が働き、
それぞれ利己的に自分勝手に動くだろうから全体経済はうまくいくと言った模様。
だれだって200円のマドレーヌと100円のそれがあったら後者を買う。
だとしたら、より価格を下げたほうがアダム・スミス経済社会では勝者になる。
けれども、200円のマドレーヌを100円にするためには、
どこかの生産費用を削らなくてはならないわけでしょう?
いちばん楽にできる経費節減は人件費。
労働者を酷使すればするだけ競争経済社会では価格を下げることができ、
結果としてお客さまの役に立つ。
会社は労働者の賃金はできるだけ安く抑えたいし、
早く終わらせて早く帰したほうがいい。
そんな労働者にカネがあるかと言ったら、あるはずがない。
稼いだカネでは自社のマドレーヌでさえ食えないという羽目におちいる。

低賃金労働者は本心では10円、100円の金に血まなこになっているのである。
経済の仕組みもなにも知らないパートのおばちゃんの正義は安いこと。
あたしゃ安いもんしか買わんからという理由で自分の労働力も激安販売する。
安いことや早いことはいいことだってテレビも言っている。
もっと早くしてもっと自分たちの給料を下げようと新人にビシバシ注意する。
あたし、間違ってないから。
だって、あたしのほうがベテランだし馴れているから仕事が早いもの。
もっと仕事を早くしようと周囲をピリピリ威圧して、そのぶんみんなの収入は下がる。
おかげでマドレーヌの値段は下がるが、おばさんは3000円のマドレーヌセットを
買う余裕がふんだんにあるかと言ったらそうではない。
人間を自由に競争させるとひどいことになることを、
低賃金職場で働いたことのない経済学者は身をもって知らなかったような気がする。

経済の自由放任主義のアダム・スミスに反旗をひるがえしたのがケインズである。
経済は自由放任よりもある程度、国家で統制したほうがいいのではないか?
いまの話で言えば、自由放任にすると過労死する東大卒女子が出ちゃうわけでしょう。
だったら、そこは国家的にある制限を設けたほうがいいというのが革命児ケインズ。
人間のエゴ(我欲)を肯定して自由競争経済にすると、
残業代ゼロ、商品偽装OK、違法解雇さえ無問題のハチャメチャ世界になってしまう。
アダム・スミスの言う「神の見えざる手」が通用するのは神のいる国だけではないか?
国家がある程度、市場に介入して計画性のもとに経済をコントロールしたほうがいい。
これが自由競争バンザイのアダム・スミス、
「経済学の父」に反抗した革命児ケインズの主張である。

経済は競争させるといいと思いついたものはデーモンではないか?
職場でピリピリした古株に叱られた薄給のパートさんが、
スーパーで1円でも安いものを探し回り、
レジの人のわずかな不手際に怒りを爆発させる――悪循環というほかない。
このパートさんがどうして働いているのかといったら子どもの塾費用のため。
子どもも子どもで子どものころから競争を迫られ、いい大学いい会社を目指し、
競争は善だという思い込みから同僚とあつれきを起こし退社して、
ひきこもりやニートになったら親はたまらない。

去年イギリスが抜けたらしいけれど、ユーロをつくったのは、
為替リスクや関税障壁をなくし、自由競争経済を活発化させるためらしい。
埼玉県の菓子アソート(詰め)倉庫でも、みんな競争しているところがある。
それもみんなが楽しむためではなく、お互いを苦しめるために。
で、お互い苦しめあって早く帰って、人生カネじゃないと強がる。
スーパーでは50円の違いに大騒ぎするくせにさ。
しかし、まさにその貧乏根性が職場環境とも連動しているのだが。
あるおなじ派遣会社のママさん労働者いわく、「人生はカネしだい」――。
カネを学問するのが経済学で、
その父とも称されている人が自由放任や競争を奨励しているのは、はてまあ。
いや、わかるのよ。ケインズのように国家の統制を入れれば入れるだけ、
民と官との賄賂(わいろ)や癒着(ゆちゃく)が増えてよくないという面もある。
でも、どうして賄賂や癒着がいけないのかという理由も、
自分のあたまでとことんまで考え尽してみればわかると思うが、わからない。
あの八百屋さんでむかしおまけをしてくれたから行こうというのも賄賂でしょう?

おカネがないなら創価してしまえばいいではないかというのが錬金術。
わたしが尊敬するスウェーデンの狂人であり文豪のストリンドベリは、
一時期執筆もしないで友人知人に借金ばかりして、
結局のところ結果が出なかった錬金術研究に取り組んでいたことがある。
ストリンドベリがいくら机上で研究しても発明できなかった錬金術を、
われわれ優秀な日本人はいくつも発案実用しているのである。
本書に指摘があったので、ああ、そうかと膝を打ったがバブルは錬金術の最たるもの。
みんなの価値観に従って生きているわれわれ日本人は、
土地の価値はうなぎ上りに高騰し下がることはないと挙国一致で盲信した。
大企業は土地を買いあさり、銀行はその土地を担保に企業に融資をしまくった。
企業は資産が年々なにもせずに増えるのだからプラス。
銀行も企業から多額の利子をもらいうるおった。
企業はカネがあるからいけいけゴーゴーでおもしろい遊びができた。
大企業の社員がカネをばらまいてくれるから、
末端の飲食店もいい思いをしたことだろう。

快楽がかりに消費(物品やサービス購入)であるとするらなば、
GNP(国内総生産)の高い国のほうが幸福なのだろう。
GNPはいままでどんな経済入門書を読んでもよくわからなかったが、
本書のおかげでようやく(間違っているかもしれないが)理解できた気がする。
たとえばマドレーヌ。あれの原材料はいくらなんだろう。
小麦粉やらなんたらで10円だとする。
それを工場で国籍さまざまな労働者がマドレーヌにするくらいで30円くらいになるのか。
(このとき10円のものを30円にしているから20円の付加価値=生産価値が発生する)
マドレーヌはそのままでは売れないからビニールパック詰めする。
このあたりでマドレーヌを買えば40円くらい?(付加価値10円)
マドレーヌはそのままで売ってもいいが、
見栄えのいい箱に入れると価値が上がるので箱詰めする(付加価値10円?)。
まあ、輸送費なども付加価値になっているのだが、
そこまで計算すると面倒なので飛ばす。
50円のマドレーヌを店頭でお客さんに売るきれいな女性がいなければならない。
(接客の人件費は高そうだから付加価値を20円で計算。残りの10円は会社の利益)
かようにしてこのマドレーヌは80円で販売される。
この場合のGNPは70円。なぜなら10円のマドレーヌが80円になっているから。
お給料というものは、この付加価値からそれぞれの役割に支払われているわけである。
とするならば、GNPが高い国(好景気な国、よくカネを使う国)ほど豊かな国になる。

坊主、丸儲けって言うけれど、あれはまったくの正解。
葬式の読経ひとりカラオケはともかく戒名にいたっては原価ゼロだから。
あと覚えておいても悪くはないことは価格のつかないものもあるってこと。
国宝級の芸術品には価格がつけようがないでしょう?
価格がつかないってことはゴニョゴニョ、ルノアールっていくら?
基本的に南無妙法蓮華経や南無阿弥陀仏は
現世における数字(価格、年収、偏差値)を否定しているからうまく利用すると儲かる。

狂人ストリンドベリの弟子を自称する我輩としては錬金術へ興味が尽きない。
おカネがないなら創ってしまえばいいのだから(低劣なカラーコピーとかではなく)。
だれか影響力の強い人がこれがほしいと絶叫したら創価できる。
みんなもそれをほしくなる。まあ、これは広告やCM、ステマの基本構造だけれど。
しろうとがなにを言うのかと笑われるかもしれないが、
国債もすばらしい錬金術だよね。
あるかどうかわからない未来を担保にして現在カネを集めるんだから。
あれを考えた人はまさに錬金術師だと思う。
国債なんかいつ便所紙以下になるかもしれないのに、よくみんな買うよねえ。
国債破綻は10年後かもしれないし、20年後かもしれない。
寿命との勝負っていうか、逃げ切れたら勝ちみたいな錬金術ワールド。

商売の基本はアダム・スミスやケインズに教えてもらうまでもなく、
安いものを高く売ること。その価格差が言ってみればGNP。
書店のみならず古本屋にも今年に入ってから一度も顔を出していない。
古本屋はあこぎだけれども、神保町の古書店街とかいまどうなっているんだろう?
古本屋は安く買いたたいて(100円)高く売る(4500円)の、まるで商売の基本。
でもさ、いまはネットがあるから、そこまで乱暴はできないでしょう?
古本屋の場合、コネ(仕入れ客)や古書知識(情報)を売っていたわけである。
わたしは古本世界を味わった最後の世代だからおいしい思いをしたと思う。
いまスマホを持っていたら面倒くさくて古本屋街になんか行けないと思う。
バブルの発端ともなった不動産業も、相変わらずいかがわしくておいしい商売。
聞いた話だが、不動産って売ったり買ったりするとき、
セールスマンと交渉すると売るときはどこまでも高くなるし、
買うときはどこまでも安くなるらしい。
きっと本来、不動産なんて価値のないものだからなのだろう。
ちかぢか来る東京大地震でみんな廃墟と化すのに、
よく不動産業で生きていけると、その営業根性にはただただあたまが下がります。
石ころをいかに創価して宝石に変えるかが錬金術の秘訣であろう。



銀座、お銀座の、マドレーヌはおいしいでございますことよ♪



これも聞いた話だが、ショコラがいちばん入れやすいらしい。
「勝ち続ける7つの理由 強さの法則 セブン-イレブン by AERA」(朝日新聞出版)

→世の中の裏側がわかるおかしな意味でとてもいい本だった。
2013年刊行の本書は、
朝日新聞とセブンイレブンがつるんでいる(結託している)証拠物件である。
どちらが古いかといえば朝日新聞のほうだから、
一見するとこの構図はセブンが朝日に借りをつくったようにもとられかねない。
しかし、それは視野が狭いというもので、
セブンが自社でこの本を大量購入したら朝日への貸しになるため、
実際のところこれは新勢力のセブンによる朝日への「みかじめ料」になろう。
朝日はこういう本を出して利益を上げてしまった以上、
新聞や雑誌、出版局の本でセブン批判の記事を出したら恩知らずになってしまう。
40間近になってようやくわかったのは、
上のほうはおそらく損得利害でかなりのところつながっているということ。
朝日新聞の「正義」なんていまどき信じているほうがクルクルパーかもしれない。
むかしは得になるから戦争礼賛記事を出していたけれど、
いまはそういうことを書くと経済的に損になるから
あたかも平和絶対主義をよそおっているという話。

こんな宣伝本、コマーシャルブックはだれも実際には読んでいないと思う。
わたしはブックオフオンラインからこのアエラムックを買ったが、
スリップ(売上票)が挟まれたままであった。
おそらく本書はセブンが朝日に発注して、
できたものをセブン関係者がほとんどすべて買い上げたのだろう。
食品開発でよく知られているセブンイレブンのお家芸である。
正義派ぶって批判したいわけではない。
こういう処世をうまくしたらセブンも朝日も共存共栄をたもつことができるのだから、
それはそれでいいのではないか。

このたび、だれも読まないような宣伝ブックを当方は何回も繰り返し読んだ。
なぜなら、いまのわたしにはこの本がおもしろいからである。
本などいつ読むかによって感想はいくらでも変わるのだろう。
1ヶ月まえにはさらさら興味をいだかなかった本がいまはとてもおもしろく感じる。
大成功者で大勝利者のセブンイレブン鈴木会長はこの真理を熟知なさっている。

「世の中は必ず変化すると思って日常を過ごしているだけです」(P6)

セブン会長がおっしゃるように世の中における常識も正義も真理も、
かならずといっていいほど変化するのである。
「変化」こそ常識、正義、真理といっていいのかもしれない。
過去と現在との「矛盾」こそが世間常識、社会正義、絶対真理。
一貫した行動を取る人のほうがおかしく、
人間とは矛盾しているものだという見方のほうがどちらかといえば「正しい」。
人間は矛盾しているということをどれほど知っているかが勝負を分けるのだろう。
本書にセブンイレブン取締役常務執行役員にして、
商品本部長でもあられるK氏のインタビュー記事が掲載されている。
写真を拝見すると、とてもお人柄がよさそうだ。
本書で会長のご子息以外でこれほど重んじられているのはK氏だけである。
おそらくセブンイレブンの出世頭なのではないか。
「自分のあたまで考えよう」「人真似はするな」の会長発言で知られるセブンの、
商品本部長のいうことはまったく鈴木敏文氏とおなじ口真似といってもよい。
だれからも好かれそうなセブンの出世頭はこういっている。

「例えば、1工場で弁当を一日3000個ほど作りますが、お客様が手にするのは1個。
万一、その1個がたまたま出来が悪ければ、
そのお客様はもう二度と来店してはくださらないでしょう」(P27)


これはセブンイレブン会長の本にかならずといっていいほど書いてあることだが、
少しでも自分のあたまで考えられる人が読んだらこれは嘘でしょう?
書いていないけれど、セブン弁当がまずくても当方は再訪しているし。
いちばん残念だったのは、ものすごい期待をしていた「金のビーフシチュー」。
4百円も取るってなにさまよと思いながら購入、試食してみたら、これはないだろう。
開発者には本当に申し訳ないが、見かけがいいだけで味はクズと思った。
むろん、この感想が「正しい」わけではなく、売れているのならそちらが正義だろう。
わたしは「金のビーフシチュー」で立腹したにもかかわらず、
しかしけれどもだが、セブンが好きだからまた行く。
まずいものが一食でもあったらもうその店には行かないなんてありえないでしょう?
むしろ、まずくて当たり前というか。
わたしの買うものなんて安いものばかりだから、うまいものがあったら例外的に感動する。
買った食品の6割うまければそこの店は上質といえるのではないだろうか。

本当のことをちょろっといえば、まずいのも楽しいよねえ。
えええ、こんなに高いのがこんなにまずいのという発見も楽しい。
おれの舌はここまで世間とずれているの? と笑う楽しみがまずい食品にはある。
だって、そのまずいものをうまいと思った企業重役が絶対にいるのだから。
「外れ」があるから「当たり」の感激があるっていうかさ。
「当たり」ばっかだったらつまらないじゃありませんか?
セブンイレブンの重役さんは優秀だから、みなさんこのくらいわかっておられるのである。
お金を払ってまずかったらもうその店には絶対に行かないなんて、ないない、ありえない。
しかし、セブン会長は建前上、そう発言しているから追従しないと出世できない。
「自分のあたまで考えろ」なんていうトップの発言を真に受けて
鈴木会長を批判しようものなら、その瞬間にセブンイレブンから追放されることだろう。
そしてそして、この矛盾が正しく、まさに人生の真実なのだろう。
上役の言葉を真に受けず、いかに真意をお察しできるかが勝負の分かれ目。
いやね、べつに勝負で負けるのも味があると当方は思うけれど。

ここだけの話、「自分のあたまで考えろ」という指導は、
上役にとって都合がいいのかもしれない。
社会人にとってミスほど恐ろしいものはないのである。
もし自分がこうしろといって部下がその通りにしてミスをしたら、それは自分の責任になる。
部下になにも指導を出さず「自分のあたまで考えろ」といっておけば自己責任。
そんなことはまさかないだろうが、たとえセブンの店主が激務で自殺しても、
それは自分のあたまで考えた結果なのだから自己責任だ
と創業者は罪悪感をいだかないでいられる。
会長が「自分のあたまで考えろ」と毎回口を酸っぱくしていっているのだから、
セブン関係者で病気、発狂、借金苦で自殺したものは全員自己責任。
会長の言葉をそのままオーナーに伝えた本部の店舗指導者も
罪悪感などいだかないで済む。
トップの「自分のあたまで考えろ」ということは、
自分のあたまで考えた結果として自己主張は消してトップに従えということだ。
本当に自分のあたまで考えたら、上には逆らうなという結論に行き着くはずである。
会長さまのご発言「自分のあたまで考えろ」の意味は「会長に逆らうな」ということ。

セブンイレブン食品はたしかにおいしいような気がするけれど、
はてまあ、さてさておいしいってどういう意味だろう。
上役がおいしいというものは、絶対においしいのだろうか。
おいしいってどういうこと? 
この疑問にセブンほど誠実に向き合った企業はないのではないか?
以下はセブン関係者の発言の引用だが、だれの言葉だかはわからない。
いや、正確にはわかりにくい。
よく見てみたら、吉岡秀子という(お抱え)ライターの書いたことのようだ。
セブンイレブンのおいしさとは――。
以前、セブン会長がたまたま自分の口に合わなかった冷やし中華があったらしく、
コンビニ接客経験ゼロの創業者はその一件で大騒ぎをしたという。
「おいしさ」とはなにか?

「めんに限ったことではないが、人によって「おいしさ」はあいまいなため、
セブンの開発では糖度や粘度など、味を数値化するという手法を取っている」(P71)


引用文のあとを読んだら、結局は数字ではなく会長の舌が絶対とのこと。
「会長プレゼン」ですべてが決まる。これが真実であろう。
大げさだがわたしは全人生試食経験をかけて
「金のビーフシチュー」は価格と釣り合わない、つまりまずいと思うけれど、
いまや朝日新聞社も支配下に入れた鈴木氏の味覚のほうが「正しい」。
会長はセブンに一食でもまずいものがあれば、もうその客は来なくなると主張しているが、
そんなことはなく、どれだけまずいものがあっても生きているかぎり、
これからセブンに行くことは(興味を持ったため)おそらくこれまで以上にあるだろう。

お客様は矛盾していると考えたらどうだろう。
あるいは、もっといえば人間は矛盾している。
しかるがゆえに、もっとも矛盾している企業トップこそお客様人気ナンバー1の
フランチャイズを運営できるのかもしれない。
矛盾しきったことを書くと、古いものほど新しいし、新しいものほど早く古くなる。
セブンの鈴木会長は、おいしいものほど飽きるとよく書いてるけれどあれは本当?
実際は新しい食べ物ほど飽きるのが早くなるのではないか?
だって、うなぎとかうにとかあんきもとか、素材そのものは飽きないもの。
飽きられるのはおいしいからではなく、その場しのぎの新しさのせいかもしれない。
よしんば、こう書いたとしてもセブンの鈴木会長は偉いのである。
いちばん最初にコンビニでおにぎりを出そうと考えたのも、
当時はゲテモノだったツナマヨおにぎりを商品化したのもセブン会長なのだから。
ツナマヨおにぎりは新しかったにもかかわらず、古典的定番商品になっている。

セブンの商品は1年で70%変わるという。
もしかしたらそれこそ真実なのかもしれない。
その場その場で、かりにあるとすれば商売の正法なるものは変わりうる。
人は新しいものを好む。だが、新しいものほど早く古くなる。
古いものほど新しいと評価されることがある。
矛盾していると怒るのはおかしくて、その矛盾こそ世間的常識的に「正しい」。
人は矛盾したおのれの「真実」のようなものを生きるしかないのかもしれない。



*そうそう、セブンの「ひとくちスモークチーズ」は泣くほどうまかったっす。
「容疑者ケインズ」(小島寛之/ピンポイント選書/プレジデント社)

→ネットでの評判はよくないので、あえてだからこのため買ってみたら、
案の定とてもおもしろい本だった。
大衆が感情的に嫌うような本はおもしろいことが書いてあることが多い。
一般読者向けの経済エッセイである。
ケインズはどういう人かというと――。
むかしは市場は放っておけばいいと言われていたわけ。
どうしてかというと需要と供給が自然のバランスを取ってうまく行くから。
たとえば、外国人の若者などが入ってきたため労働者が余っていたら(供給過剰)、
雇用主は労働者を安く買いたたくことが可能になる(需要調整)。
しかし、これではうまく経済市場が活性化しないと言いだしたのがケインズ。
ケインズは国家が主導的に市場を管理したほうがいいという主張をした。
典型が公共事業である。
ときおり近所の荒川土手など意味不明な工事をしているが、あれである。
あれをやれば失業者に金が渡り彼らは消費するから市場はよくなるという考え。
ケインズは一時期、神聖視されるくらい影響力が強かったけれど、
いまでは経済学の世界では名を出したら恥ずかしいような存在になっているという。
ケインズの説は間違っていたのではないかという意見がいまは一般的らしい。
たとえば、こういう批判があり、それは無駄な荒川工事なんかするより、
税収からそのまま特殊な失業保険として与えたほうがましではないか。
ケインズ先生の嘘がばれかかっているが、しかし著者はケインズを再発見する。
ケインズの論理はたしかにずれているところもあるけれど、
発想はとてもすばらしく、
そこから我われはまだ学ぶべきことが山とあるのではないか。
この経済エッセイの骨子である。

以下、本書を読んでおもしろかったところを引用をまじえ逐次紹介する。
みんななにゆえお金をああも欲しがるのか。金の価値とはなにか?
我われは日常生活で「不可知性」を抱えて暮らしているからである。
明日なにが起こるかわからない。明日、子どもが病気になるかもしれない。
こういう「不可知性(まあ不安と言っていいだろう)」への対応策は
お金がかなり有効である。
ということは、本書には書いていないが、
将来への不安が強い人ほど金を貯めこむ傾向にあるのかもしれない。
金は流動性が高いのでよい。金はなんとでも交換できるということだ。
働くということは、おのれの労働力を金と交換するということになる。
金は腐らないのもいい。野菜や情報は古くなると使えないが、金は腐らない。
そのうえ金は決断の留保にも使える。
もっといいスマホができたら買おうというように金によって決断を遅らすことができる。

ケインズと同時代を生きたナイトという人がおもしろいことを言っている。
金融市場や経済活動は、確率が計算できない世界ではないか。

「ナイトは、一九二一年に刊行された博士論文の中で、
経済環境には通常の確率論や統計学は使えない、ということをいいだした。
通常の確率論や統計学が通用するのは、
なんらかの類似性のある現象が反復的に安定的に観測されるような環境である。
病気の罹患率や死亡率は、大量のサンプルがあれば、
ある種の安定性が見られるから、保険という業務が成立する。
大量の部品を工場生産する場合には、不良品の率はかなり安定的であるから、
統計学の技法によって、製品の品質を高度に保つことが可能になる。
しかし、こういう事例は非常に限られたものでしかない。
多くの経済活動は、同一の環境で反復的に行われる、などということは全くない。
置かれた環境は常に変動し、同じ設定が繰り返されることなどありえない。
したがって、通常の確率理論や統計学は出る幕がない。
このような環境をナイトは、真の意味での「不確実性」と呼んだ。
そして、通常の確率を使うことのできる環境を「リスク」と呼んで、
それ[不確実性]と区別したのである」(P75)


確率の読めない不確実性ほど人間の恐れるものはないという。
べつの経済学者がこういう実験をしたという。
ツボAにもツボBにも100個のボールが入っている。
あなたはどちらかのツボを選び、赤か黒か予想して金を賭ける。
当たればたとえば10ドルもらえる。
ツボAには赤が50、黒が50入っていることがわかっている。
いっぽうでツボBには赤と黒がどのような比率で入っているのかわからない(不確実性)。
このとき多くの人が(確率のわかった)ツボAでギャンブルをするのを好むという。
これは著書に書いてあることではなくわたしの考えだが、
ツボAを選ぶと大損もしない代わりに大儲けもできないような気がする。
わたしだったら不確実性の強いツボBをあえて選んでギャンブルしたいところである。
さて、大半の人は不確実性に直面すると最悪の事態を予想するらしい。
確率がわからない局面に遭遇すると最悪のシナリオを考え対策を取るようになる。
これを専門用語でマックスミン戦略という。
みなさまにはどうでもいい個人的な思いを繰り返すと、
わたしにとっては確率のわからない不確実性ほどおもしろいものはない。
そして、あんがい確率のわかっているようなものも、それはじつのところインチキで、
この世は不確実性に囲まれているのではないかという希望を持っている。
多くの人にとっては不確実性は恐怖で絶望だろうが、
どうしてかわたしにとっては不確実性はサプライズのような希望である。

著者はバブルのうまい説明をしていた。
バブルとは実体的な価値よりもはるかにそのものの価値が上がってしまうことである。
これを著者は金持の家から出てきた金庫を具体例として説明していた。
さあ、大金持の家から金庫が見つかった。しかし、開かない。
この金庫には1千万円入っているという予想が一般的だった。
しかし、銀行預金が判明し、金庫のなかには2千万入っていると言いだす人も出る。
するとこの金庫が1千5百万で売買されるようになる。
すると1千7百万で金庫を買うというものが現われる。
金庫のなかに入っているのが実体的な価値ということになる。
この説明はとてもうまいが、
わたしはものに実体的な価値などないのではないかと疑っている。
金庫の鍵は永遠に見つからないのではないか。
金庫のなかにいくら入っているかは未来永劫にわからないのではないか。
たとえば、いまのカップラーメンを江戸時代に持っていったら、
こんな美味はないと小判と取り換えてくれるかもしれないわけでしょ?
反対に鎌倉時代のなんでもない食器を現代に持ってきたらどれほどの価値がつくか。
わたしは著者とは異なり、ものに実体的な価値があるのか疑問に思っている。
もっと言ってしまえば、この世のすべてはバブルではないかとさえ思っている。
仏教の空(くう)を独学したから、こんなおかしなことを思うようになったのかもしれない。

株価の仕組みはどうなっているのかを説明するおもしろい文章があった。
天才投機家のジョージ・ロスは以下のように言っているという。
要約したら、株価というものは未来が現在を決めているということ。
内容補足しながら孫引きさせていただく。

「問題になるのは[現在ではなく]将来のファンダメンタルズ[経済状況]である。
株価が反映しているはずのファンダメンタルズは前年度の収益、
バランスシートおよび配当ではなく、
収益、配当および資産価格の将来の動向である。
この将来の動向は所与のもの[いまの価値]ではない。
したがってそれは知識の対象ではなく、推測の対象である。
重要な点は将来のことがらはそれが起きる時点では、
その前に行われた推測によって影響を受けてしまっているということである。
その推測は株価に表れ、
そして株価はファンダメンタルズに影響を与えることができる」(P98)


ものすごくおもしろいことが書かれているような気がするのである。
各自のご解釈にゆだねます。さて駆け足でいく。
ケインズは株式投資を美人投票にたとえたという。
たとえば大衆紙で百人の美人を掲載して美人コンテストをするとする。
読者たちは6人を選んで投票することができる。
そして、上位6人を当てたものには莫大な懸賞金が出るという。
このようなとき、人は自分が美人だと思う人に投票しない。
では、どうするかというと、みんながだれを美人と思うかを予測にかかるのである。
自分の「好き(美人観)」よりもみんなの「好き(美人観)」を優先してしまう。
株式投資もこれとおなじで、本当にいい銘柄を自分で調査して買わなくなる。
みんなが買いそうな銘柄の株を予想して買うようになる。
みんなに好かれそうなもの(株式)を実体を調査せずに買うようになるのである。
著者は書いているのかいないのかわからないが、
みんなのことなど考えず本当に自分が美人だと思う人に賭けたら、
ときになにかおもしろいことが起こるような気もする。

経済学者のケインズが学位を取った博士論文は、数学の確率についてのものだった。
それをわたしの言葉で要約してみたら(著者の解説も読んだうえで)、
確率とは客観的に存在するものではなく、
ひたすら主観的なものではないか、ということ。
これはべつの学者に批判され、ケインズも誤りを認めたという。
しかし、その批判した学者もケインズのこの発想は非常に高く評価していたという。

「確率は個人の内面にある主観であり、それは行動結果として表出する」(P129)

「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?」(木暮太一/星海社新書)

→これはもう本当にいい本で雇われ労働者は読んでみる価値があると思う。
今日、会社に持っていって事務所に置いておいたら、
社員さんたちみんなで回し読みをしてくれないかなあ。
あんまり大きな声では言えないけれど、パートはみんな疑っているんだよね。
午後の社員って事務所でくっちゃべってるだけじゃないかって(笑)。
わたしは絶対にそんなことはないと思っているけれど。
とはいえ、ある本を読んでもどこまで内容を理解できるかは人それぞれ。
読み込むパワー(体験、知識)に欠けていると本書の価値はわからないと思う。
いまの会社に1年パートとして雇っていただけたから、この本のよさがわかる。

バイト先で社員を見ていると、社員の気持になってしまうのである。
この人たちはなにを考えて生きているのかわからない。
というのも、自分に正社員経験がないから。
「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?」――。
本書のキモはある問いである。
どうしていくら努力しても給料は上がらないのか?
パートだけではなく社員も給料は上がらないのかと驚いた。
著者は日本の会社ではがんばっても給料が上がらない仕組みを解説する。
答えは、日本の給与形式は成果主義ではなく必要経費方式だからである。
明日また会社に来て働いてもらうための必要経費として給与は支払われている。
このため、年齢が上がるとそのため必要経費(子どもの学費等)が増えるとみなされ、
「どうしてあのおじさんたちは働いていないのに高給なの?」
という疑問が若い社員のあいだに生まれるわけである。
年齢が高い社員は毎日の必要経費が高いから給料も高いのである。
会社として社員に求めているのは、明日もまた会社に来てくれること、その一点。
そのために給与は支払われていると考えたほうがよい。
会社に利益をもたらしたから、その分として給料が与えられているわけではない。
一般に給料が高いとされる職種は極めてストレスも高いため、
そのストレスを解消するための必要経費が高いから高給与なのである。
したがって高収入の仕事に就いてもあまり貯金は残らない。
東南アジアの日系企業現地採用の人の給与が激安なのは、
かの国での生活維持必要経費が極めて安いからである。
医者の給料が高いのはストレスが高いのもそうだが、
スキル習得費が高いがためである。
何回もおなじことを繰り返したほうが理解も深まると思うので、
著者の言葉を借りてみよう。

「わたしの昔の職場には、「あのオジサンたちはなんにも仕事をしていないのに、
自分たちよりも給料が高いのはおかしい」
というような不満を言う若手社員がいました。
でも、くり返し説明しているように、
給料は成果を出しているかで決まるわけではありません。
その「オジサンたち」の生活費が高く、
「明日も同じ仕事をするために必要な費用」が高いから、給料が高いだけなのです」(P84)


日本の会社員って理不尽な人生を味わっているんだなあ。
うちの会社はある程度まで残業代がつくらしいけれど、
サービス残業なんてやらされたら。
結局、企業が利益を上げるとしたら人件費を切り詰めるのがいちばん楽なのである。
原材料費を下げろと言っても、必要な機械を安くしろと言っても限界があるのだから。
人間を奴隷のように酷使すればするほど会社の利益が上がるのだけれど、
おっさんはそんな酷使されたら壊れてしまうので(うつ病→ドロップアウト)、
いまは若い社員が必要以上に奴隷あつかいされ、
おっさんが高給を取っているのだろう。

「企業にとっては、労働者が1日働き終えたあとにへとへとになっているのが
「好ましい状態」です。個別の企業で程度の差はあれ、
これは資本主義社会のなかでは必然の流れなのです」(P124)


これは言っちゃいけないガチンコ発言だよねえ。
労働者をへとへとに疲れさせたら彼は考えることができず、食べて寝て、
翌朝また出社してくるしかないのである。
現状への不満も気づかないほど労働者はへとへとにさせるのが好ましい。
新しい知識や技術なんて習得されたら困るって話になるわけだから。
わたしがバイト先できつい作業をいやがるのはへとへとになりたくないから。
メインは読書や映画鑑賞、その感想をここに書くことなので。
へとへとになったらあたまが働きませんよ。

おなじ仕事をしていても給料の高いところと低いところがあるじゃない?
あれは大企業だから給料が高いとかみんな思っているが、そうではない。
会社の利益が多く上がっているほど給料が高いとか、そんな連関性はない。
ではなぜ給料が低い会社があるのか。
これに対する回答が、なんていうか、それを言っちゃあおしめえよというか。
本当のことなんだけれど、虚を突かれた。

「会社の利益が少ないから、社員の給料も少ない」のは、
「給料が少なくても他社に転職しない社員がいるから」です。
利益が少ないといっても、「そんなことは関係ない。
自分たちは給料を高くしてもらわないと他に行くぞ」という社員ばかりであれば、
給料を上げざるをえません。
昇給ができない企業はそこで廃業するしかないでしょう」(P91)


わたしはいまの会社は利益が上がっているけれど、
社員の給料は少ないのではないかとにらんでいる。
あれだけコストダウンしてパートの入れ替わりが激しい(使い捨てともいう)会社だ。
絶対に利益は上がっていると思うのである。
パートの給料が上がらないのは、
まあ致し方ないが社員の給料は上げてやればいいいのに。
会社の上のほうが血縁でコネコネしていそうだから、そのへんが関係しているのかも。
よくわかりませんけれどね。
あの社員さんたちが決して高くなさそうな給料にもかかわらず、
いまの会社で働いているのは、
「自分たちは給料を高くしてもらわないと他に行くぞ」と言わないからなのか。
日本の会社ではいくら社員が努力して利益を上げても
給料の変わらないところが多いのか。ちょっぴりボーナスをもらうくらいで。

努力すればするほど労働者の価値は下がっていくというのはよくわかる。
うちの職場なんてひどい話で、「速くやれ、早く帰れ」の世界だから。
1分でも早く仕事を終わらせ、1分でも早く帰れって社員が言ってくるの。
がんばればがんばるほど給料が下がるという奴隷制かなんかですか? みたいな。
いやあ、読者さまはご存じないでしょうが、下のほうにはすごい世界もあるんですぞ。
これはもう努力するほど労働の価値が下がるの典型ね。ここまでの典型はない。
一般的な会社員の話に世界を広げると、
社員ってさ、みんなでみんなを洗脳しあうじゃない?
業績を上げよう、とか。これは優秀に見られたいという承認欲求のためなんだけれど。
みんなが業績を上げようと努力しちゃうでしょう?
サービス残業とか、家でまで仕事をするとか。
そうするとそれをやらない人が「使えない」とか言われちゃうわけ。
みんなが努力するから自分も努力しなければならず、
みんなが精一杯努力しているとだれかの努力が目立たなくなってしまう。
ラットレースとか、そんな表現を著者はしていたけれど。
ノルマとか決めて競争させるのが
経営者にとってはいちばんおいしい奴隷からの労働搾取方法なのだろう。
もっと上を目指そう、もっと速く。
よし、みんなの努力でこれができた。なら次はもっと上を目指そう、もっと速く。
これを命令しておいしい思いをするのは汗をかかないトップである。

では、どういう働き方をしたらいいのか。
著者の提示するのはふたつの働き方である。
1.楽しく働こう
2.「積み重ね」のある働き方をしよう。
まず1から説明する。
会社の利益はこうなっている。「売上-経費=利益」
これを個人に当てはめてみようと言うのである。
「仕事の満足感(楽しさ)-労力・疲弊度=自己内利益」
あんまり細かく書くとみなさんが考えなくなっちゃうから、まあストレスって話だよね。
ストレスが多い仕事はどんなに給料が高くても割に合わないってこと。
2の「積み重ね」とは、
働いているうちにどれだけ自分の知識や技術が蓄積されるか。
バイト先に本業が携帯ショップの販売員の人がいる。
携帯は毎年変わるから知識の「積み重ね」はできないんだよね。
接客技術は、まあ向上するかもしれないけれど。
著者は「労働力を投資する」という新しい考え方を持ち出している。

「自分の労働力を投資し、土台を作るために考えるべきことは、
「目先のキャッシュ」を追い求めないことです。
残業代、インセンティブなど、目の前に見える「ご褒美」につられてしまうと、
どうしても長期的な視点がないがしろになってしまいます。
自分の労働力が投資できる仕事とは、その経験が「将来の土台を作る仕事」です。
一方で、目先のキャッシュを追い求める仕事とは、
時給は高いが「将来に何も残らない仕事」です」(P241)


「労働力の投資」とは貯蓄ではないから、無駄になってしまうこともある。
株に投資した場合でも、価格がどんどん下がっていくこともある。

「労働力を投資するときも、まったく一緒です。
将来のためと思って行動しても、まったく役に立たず、
その日の労働が無駄になってしまうことも多いでしょう。
そのとき、「やっぱりあのとき、もっと日給が高い仕事を選んでおけばよかった」
と後悔するかもしれません。
でも、それで「労働力の投資」をやめてしまえば、
いつまで経っても土台はできません。
永遠に全力でジャンプし続ける働き方になってしまうのです」(P240)


もしかしたらいま自分は労働力を投資しているのかもしれない。
いまのバイト先はいろいろな人が働いているからおもしろいのである。
笑いのネタのようなものを取ってくるとヤッタゼエとか叫びたくなる。
あんまり上のほうの社会じゃないから、知らない発見があっていろいろおもしろい。
それに時給850円で働いたことのある人って少ないでしょ?
いろいろな人がいて本当におもしろいんだけれど、意外と知られていない。
正直、金銭的には見合っていないけれど、土台を作っていると考えたら。
それともこの労働力の投資は将来まったくの無駄になってしまうのか。ギャンブルっす。
成功者の著者は10年積み上げれば、
ひと角のものになるとか書いているけれど本当かなあ。
わたしなんか10年近く読書感想文を書いてきたけれど、なにか積み上がってますか?
評価してくれる人なんているのかしらねえ。

最後に偉ぶりたいから、著者の認識の過誤を指摘しておこう。
宝くじで1000万当たった。
1.今日、全額もらう。
2.毎年、100万ずつ10年かけてもらう。
著者は2のほうがいいと書いているが、わたしは1のほうがいいと思う。
なぜなら自分が死んでしまうリスクがある。
そのうえハイパーインフレの危険性がある。
ねえ、ぼくってあたまがいいでしょう(笑)。

では、これはどうか。
1.1年間死ぬ気でがんばって、向こう10年間、
毎年100万円の収入を生み出す資産を作り上げた。
2.1年間死ぬ気でがんばって、1000万稼いだ。
著者は1を選んだほうがいいと書いている。
ぼくはさあ、1も2もいやだな。死ぬ気でがんばりたくなんかない。
死ぬ気でがんばって結果うつ病になってしまったら、
どんなにお金があっても人生が楽しめなくなってしまうではありませんか。

最後にちょっと批判したのはご愛嬌。
しっかし、この成功者もおれより年下なんだよなあ。まいっちゃうぜ。
ともあれ、考えさせられるとてもいい本でございました。
みなさん、この長文感想を読んだら満腹で、もう買いたくなくなっちゃうね。

「最新 行動経済学入門」(真壁昭夫/朝日新書)

→内容は知っていることばかりだったので1時間程度で読み終わってしまった。
人間はかならずしも経済的に合理的な行動をしないというのは、
学問的には最新の知見らしいけれど、庶民的には当たり前っしょという話で。
ま、とかく人間は得をした喜びよりも損をした悲しみを強く感じるもんさ。
百円得したときの喜びは百円損をしたときの悲しみよりも大きいんだって。
え? 喜びや悲しみは数値化できないじゃん、
なんてお偉い学者先生に言っちゃいけない。

主観確率と本当の確率の問題でまたつまづいた。
よくさ夢追い人が極めて確率の低い夢を追求することがあるじゃん、お笑い芸人とか。
あれって主観確率は高いんだよね。自分ならお笑い芸人になれると思う。
けれども、本当の確率はものすごく低いわけ。千人にひとりとか。
ここでさ、疑問に思うのは本当の確率ってだれがわかるんだろうって話。
だって、人間はもともと持って生まれたものが違うでしょう?
だったらその人の夢がかなう本当の(客観的)確率なんて出るわけがない。
生きてみないとわからない世界なんだから。
それにこれは学問的にうまく説明できないのかもしれないけれど、
主観確率の高いほうが(おれならやれる!)うまくいく確率も高まるような気がする。
主観確率が客観確率を変えるという可能性もあるのではないかと思う。
「かならず治る」って思っていたほうがガンからの生還率もきっと高いだろうしね。

最初と最後が有利っていうのは残酷だけれど本当だと思う。
最初に与えられた情報と最後に与えられた情報が、
どうしてか聞き手の印象に残ってしまう。
著者は有名な音楽家の友人がいるらしい。
その人から聞いたこととして、音楽コンクールの裏側が紹介されている。
なかなか平等な審査は難しいとのこと。
どうしても最初に演奏した人と最後に演奏した人の記憶が残ってしまうらしい。
きっと公募小説の下読みなんかでも、そういう運のようなものがかならずあるのだろう。

お金の話をすると、いまは長期ファンドができないんだって。
本当は5年後、10年後に利益が上がればファンドマネージャーとしては合格なのだが、
3ヶ月に1回投資家に利益状況を説明しなければならないから、
このため長期間保有すれば利益が取れる銘柄は嫌われ(保有していても損切りされ)、
いますぐ利益が取れそうな銘柄ばかり買われる傾向にあるらしい。
われわれは損が気になり目先のことばかりに目がいってしまいがちである。
これを「近視眼的損失回避行動」というとのこと。
「近視眼的損失回避行動」とは――。

「手近の損失を気にするあまり、将来もっと大きな損をするか、
あるいは長期的な利益を取り損なってしまうこと」(P142)


某所でバイトしている知り合いから聞いた話。
そこは年末の12月がとにかく忙しいらしい。
忙しいと高額な(日雇い)派遣を取らなければならず、それは損失である。
だから、12月に向けてほとんどだれでもいいからという感じで人を取っていた。
1月になったらがくっと仕事量が減るのをわかっていたのにもかかわらず、である。
12月はうまく乗りきった。利益も出たであろう。
でも、じゃあさ1月はどうするのって話。
たくさん取ったバイトを休ませるしかない。
もしくはベテラン以外は少しずつ平等に稼がせて引きとめておく。
そこは外国人も働いているらしいけれど、びっくりしただろうね。
12月の感覚でいたら1月は生活できるだけ稼げないし、
いちばん驚いただろうことは、だれもそんなことを教えてくれないんだから。
日本人ってなんなの? って思った新入りの外国人がたくさんいたような気がする。
知り合いがそんなことを言っていたけれど、まあ、そんなもんだよと返答した。
それが資本主義だもん。
目先の利益のことだけ考えて、あとのことは弱い部分にしわ寄せ。
知ーらねっ。生産性と効率性さえ上がれば、ほかのことは知ーらねっ。
だって、どうしようもないじゃん、というのはすごいわかる。
本当にどうしようもないんだから。世の中きびちいなあ。

「使える! 経済学の考え方 みんなをより幸せにするための論理」(小島寛之/ちくま新書)

→読んでいるあいだはおもしろかったけれども、
いざ自分の言葉で説明しようとしたらできないので、じつはなにも理解していないのだろう。
ほんの少しだけ理解できたおもしろかった部分を紹介する。

・平等について。
子どもが3人いたらケーキを3等分するのが平等である。
しかし、ふたつの平等に分かれるという。
1.親が強制的にケーキを3等分して子どもに渡すという平等。
2.子どもたちが相談して自主的に3等分することになったときの平等。
1と2は結果こそ平等だが、1の場合は納得のいかないものが現われかねない。
2の場合は、それぞれ「選択」に関わっているから平等感が強まる。
いまの日本の税制はどう考えても1だと思う。
累進課税だから金持ほど高額な税金をむしり取られるわけだ。
ならば、どうして高所得者は多額の税金を納めなければならないのか。
その前提としてあるのがベンサムさんのこの意見らしい。

☆「平等な社会」=「最大多数の最大幸福」を実現した社会

よくわからんが、これはピグーさんが数学的に「正しい」ことを論証したとのこと。
しっかし、どうして人間はこんなに不平等なのだろう。
そもそも人間が合理的な選択をしたら幸福になれるのか、という問題があるらしい。
たとえば競馬なんて胴元が25%取るから、やればやるほど損をするわけでしょう。
にもかかわらず競馬にはまる人は後を絶たない。
人間はちっとも合理的な選択をしない。
閑話休題。これは本書に書いてあったことではないが、
ギャンブルで大きく勝ちたかったら1回しかやらないでそこに全財産を賭けること。
ギャンブルはここぞというときに大金を賭けるのが秘訣ね。

どうして人間は不平等なのか。
一般的に人生は幸福に高確率で近づくとされる合理的な選択とそうでない選択がある。
人間は自信のなさや不安のために確率を見誤るのではないか、という考えがある。
一方でこの世のことはなにもわかっていないのだから(過去は未来ではない!)、
人生に合理的かつ高確率な選択などそもそもなく、
あるのは「本当の不確実性」だけだという過激なことをナイトさんが言っているとのこと。
身もふたもないことを言えば、学問的にもどこの家に生まれ落ちるかがいちばん大きい。
金持の子は高学歴になり情報に恵まれ、富裕層になっていく。
貧乏人の子は教育資本も投下されず情報量も少ないため低学歴で底辺の人生を送る。
アメリカの統計で高学歴ほど高所得、低学歴ほど低所得という結果が出ている。
ギンタスとボウルスという人たちが研究した結果だそうだ。

「社会における学歴と所得との現実を統計的に論じたあと、
ギンタスとボウルスの議論は、さらに過激さを増していく。
彼らは再び統計を使って、学校での教科成績がほとんど潜在能力(IQ)とは
無関係であることを発見している。教科成績は、
「学校への帰属意識」、「我慢強さ」、「秩序を重んじる」、「外から動機づけられる」
などの性向と強い相関を持ち、反対に、
「創造的」、「積極的」、「独立心」とは負の相関を持っているのである。
要するに「学校の成績がいい」ということは、
「従順であること」の帰結だというのである。驚くべきことに、さらにそれが
企業における監督者の従業員への評価と高い類似性を持つことも検証した」(P213)


このへんが統計をあつかう経済学の限界のような気がする。
わたしはいちおう高学歴だけれど低所得で、
さらに学校の成績はよかったけれども従順であるとはあまり言えないようなところがある。
経済学はみんなの物語としては都合がいいのだろうが、
あなたやわたしといったそれぞれの人間にはほとんど関係ないのではないか。
正直言うと、ここだけの秘密ね、わたしはみんなの幸福も平等社会もどうでもいい。
わたしとその周辺だけが幸福だったら、あとの人がどうであろうと知ったこっちゃない。
だからほんとみんなの幸福なんて真剣に考えてくれている経済学者の著者には
敬意を表したい。こちらがバカだからよくわからなかったけれど、
きっといい本だと思いますよ。☆5つ。

「売れないのは誰のせい? 最新マーケティング入門」(山本直人/新潮新書)

→とてもよくできた本。よく名前を聞くけれど
実態がよくわからないマーケティングについてわかりやすく書かれている。
2時間強でマーケティングの基礎知識が得られ満足度は極めて高い。良書だと思う。

マーケティングとはなにか? 効率的に商品を売る仕組みである。
どこをマーケティングはいじるか? 4Pだ。
製品(Product)――いまなにが求められているか?
価格(Price)――安いほうがいいのか? 高いほうがいいのか?
流通(Place)――どこで売ればいいのか?
プロモーション(Promotion)――消費者への告知=宣伝をどうしたら売れるか?

「マーケティング活動をおこなうためには、
四つのPの観点でもっとも効果的な手を打っていく。
そして、どのような手が効果的かを見極めるためには
集積・体系化された知恵を具体的事例に即して学ぶことが重要になる」(P21)


著者の主観によると、
あらゆる業種でマーケティング信仰(失礼!)が始まったのはバブル崩壊以降らしい。
マーケティングが重視されるようにいたった背景は以下である。
1.競争が激化した(規制緩和、安売り合戦)。
2.社会が成熟した(大衆が広告に騙されなくなった)。
3.情報環境が激変した(インターネットの普及)。

おそらくマーケティングとは(個人ではなく)企業の成功マニュアルなのだろう。
この小著でマーケティングが理解できたという錯覚のもとに、
とんでもない発言をしようと思う。マーケティングってインチキじゃないですか?
いわば経済学と心理学の実践版がマーケティングなわけでしょう。
つまり、過去の知恵の集積のもとに売れる新商品を4P各分野で打ち出す。
「こうしたらかならず売れる」という(自称)科学的=学問的な成功法則。
そんなもんあるわけないじゃん、バーカ!
――と人生経験豊富なお年寄りなら醒めた目で見破れるのではありませんか?

どういうことかと言うと――。
「たまごっち」が売れた理由は後付けでいくらでも説明できるけれども、
その理論からは「たまごっち」のような新商品を生み出すことができない!
せいぜい「たまごっち」の模倣品、後発商品を売り出すくらいが関の山!
つまり、マーケティングで得られるのは小さな成功で大ヒットではない!
失敗は減らせるかもしれないが(それもどうだか……)大成功は望めない!
まあ、大ヒットした商品というのは言うなれば偶然なのね。たまたま売れた。
計算して作れるものではない。むしろ計算度外視から大ヒットは生まれる。
人生が思うようにいかないのに、どうして商売でなら思うようにいくと思うのか?

ところが、こういった常識=世間知に欠けるものがいまは多いのだろう。
新しい学問(正しい!)という触れ込みに、
どの業界も自分(たち)の勘よりもマーケティングの情報を信じるようになっている。
あたかも新興宗教のように、である。みんなしてマーケティングに騙されている。
失敗しても、もしマーケティングをしていなかったらもっと大失敗していたと思う(笑)。
そのごまかしは新興宗教が信者に使うテクニックだからな!
いまあらゆるジャンルで均一化が進んでいるような気がするが(おなじ歌、顔、ドラマ)、
あれはマーケティングのせいではないか(=正しい売れる商品がある)?
いいかい、正しい商品が売れるんじゃないぞ! 売れた商品が正しいんだ!

いえいえ、本書はとてもいい本なのだ。マーケティングの思想が気に食わないだけ。
どうかそのことをご了承ください。この本を読んで得たものはずいぶん多い。
広告=騙しのテクニックは、どの学問よりも生活に密着していて興味深い。
繰り返すが、本書は名著である(マーケティングは怪しいけれど)。

「消費の促進は、あくまでも「消費によって幸せになる」
という図柄があることで、成立してきたのである」(P89)


あらゆる広告が(本来なら定義できない)幸福を売っているということだ。
「これを買えば幸せになる」といかに消費者を騙すかが広告である。

「マーケティングは常に社会の変化を見つめながら企画を立てるが、
企業は消費者に明るい未来を提示しようとする」(P89)


企業がスポンサーとなるテレビや映画において、
マーケティング信仰が盛んな現代「暗い話」はご法度になってしまった。

最新のマーケティングではテレビCMの非効率性が論じられているらしい。
でも、庶民の常識で考えたら「いまごろ~?」という話じゃないか。
だって、みなさんテレビのCMを見てなにかものを買ったことなんてありますか?
ぶっちゃけ、どう考えたってテレビCMなんか意味ないでしょ?
最新の(自称)学問=マーケティング様がようやく庶民の知恵に追いついたようである。
しかし、これがばれてしまうとテレビ局社員の超高収入が維持できない。
いま流行に敏感なフジテレビさんが迷走しているゆえんであろう(苦笑)。

おまけとして書くが、本書によるとダメな経営者ほどブランド信仰に陥るらしい。
安売り合戦を克服できる唯一の手段とされているのがブランドである。
自社のブランドをいかに高めるか。
ブランド力があれば消費者は高くても買ってくれる。
このブランド信仰にすがりつき、
現実を見ないでロゴやマークにばかりこだわるのがダメな経営者という。
思えば、母校のシナリオ学校もなにやら新たなロゴを……。
著者によると、マーケティングの要諦は「他者を知るということ」に尽きるらしい。
顧客の立場になる。
このブログでも顧客の感想を書いているので、
例のスクールにはぜひマーケティングの参考にしてもらいたい。
あ、でも、マーケティングなんかに頼ると、下手すると潰れるとわたしは思うがね。

この本のタイトルはマーケティングを要約していてとてもいいと思う。
「売れないのは誰のせい?」――誰のせいでもないんじゃないかな?
もう物はとっくに行き渡って、きっとみんな欲しいものがないんだと思うけど、どう?

「図解雑学 株のしくみ」(寺尾淳/ナツメ社)

→とても良心的な本だと思う。虚心坦懐に読み通せば、
素人は株になど手を出してはいけないことがわかるよう書かれている。
どうして株で大損をする一般人が絶えないのだろう。
「楽をして儲ける」というのは人間にとって麻薬のようなものなのかもしれない。
ふしぎと自分だったら失敗しないような気がしてしまうのだろう。
人間の哀しくも浅ましい弱点である。
我われよりもはるかに学習、経験を積んだプロの証券マンでさえ株で損をする。
本を数冊読んだくらいで株を始めるのは、
いかだで太平洋に繰り出すようなものではないか。
必ず儲かる株などあるわけがない。
なぜなら正確にはだれも明日のことを知りえないからである。

それでも確実な未来を予想しようと世界中の投資家が情報を集めている。
結局は情報量の勝負になってくるのだと思う。
個人投資家がプロに比するほどの質の高い情報を集められるはずがない。
そのうえ情報収集には切りがないのだ。
いくら集めようと情報は際限もなく現われるだろう。
24時間情報収集に当てても足らないくらいではないか。
これではたとえ儲けても時給換算したらどのくらいになるのだろう。
株で生活しようと思ったら1日24時間、こころ休まるときがなくなると思う。
餓鬼にも等しい精神状態におちいることだろう。

本書に投資家必携のバイブル、会社四季報が転載されている。
これを見てあるものにそっくりだと思った。
健康診断などでもらう血液検査の結果表である。
数字がずらりと並んでいるあれだ。
投資家は会社四季報を見て、株を購入するかどうか検討する。
医者は血液検査の結果を見て、成人病のリスクを伝える。
株のいかがわしさと血液検査のそれは相通じるものがあるのではないか。
中性脂肪が高かろうがコレステロールが高かろうが長生きするものはいるのである。
逆に血液検査の数値がどんな良くても脳卒中で早死するものがいる。
にもかかわらず、医師は血液検査の数値を重んじる。
投資家は会社四季報の情報を重宝する。
両者とも人生のなんたるかを知ろうとしない傲慢さが似通っているように思う。
要するに、数字では計れぬものの存在に鈍感なのである。
人間の無力を知らない、と言い換えてもよい。
「図解雑学 ゲーム理論」(渡辺隆裕/ナツメ社)

→最先端の学問領域を図解雑学シリーズでおいしくいただく。
読書家の知る喜びのひとつである。なにも小説を読むだけが読書ではない。
ゲーム理論は、ミクロ経済学から細分化された専門領域のひとつ。
高等数学の到達点のひとつでもあるらしい。
たとえば、有段者がコンピュータと将棋をやって負けてしまうことがある。
このときコンピュータのやっているのがゲーム理論の計算なのだ。
ルールが一定、なおかつ偶然性が介入しないとき、相手の行動をいかに予測するか。
ゲーム理論は、いまでは企業経営などにも活用されている最先端の学問である。
といっても、経済学だからやっぱりインチキなんだけどね(笑)。

有名な「囚人のジレンマ」を紹介しよう。
美香は伸一と夫婦である。ところが、美香は昇との熱愛に落ちる。
ふたりにとって伸一は邪魔な存在である。伸一よ、死んでしまえ!
美香と昇は伸一を殺害する。
刑事は重要参考人として美香と昇を警察署へ引っ立てる。
このときの状況をゲームとして考えてみるとこうなる。
ふたりに許された行動はふたつ。自白するか、黙秘するか。
1.美香と昇がともに黙秘したら無罪放免。
2.美香が黙秘して昇が自白したら、美香が主犯となり懲役10年。昇は懲役2年。
3.美香が自白して昇が黙秘したら、昇が主犯となり懲役10年。美香は懲役2年。
4.美香と昇がともに自白したら、共犯が成立し美香も昇も懲役7年。

図にしたらわかりやすく、ふつうはそうするのだが、技術がない。すんません。
このゲームの解は決まっているというのがゲーム理論の主張である。
解は必ず4になるという。ふたりとも自白する。
本来なら1になるのがいちばんいいのである。どうして1にならないのか。
美香の身になって考えてみよう。
美香はふたつの選択肢がある。自白するか黙秘するかだ。
もし自分が黙秘して、昇が自白したら主犯にされてしまう。
自分が自白して、昇が黙秘していたらわずか懲役2年で済む。
どちらも黙秘していたら最高なのだが、
狡猾な刑事は昇が自白したことをにおわせることだろう(たとえ事実でなくても)。
よって、美香は必ず自白する。
おなじような論法で昇も間違いなく自白する。
したがって、このゲームの解は4以外にないというのである。

応用してみたい。
今度のプレイヤーは創価学会と日蓮正宗。ふたつの宗教団体は反目している。
取りうる選択肢はふたつあるとする。
ひとつは、相手を誹謗中傷する。もうひとつは、相手の長所を認める。
このゲームの結果として予想されるのは4つ。
1.創価学会、日蓮正宗ともに相手の長所を認める。
2.創価学会が日蓮正宗の長所を認めて、日蓮正宗は創価学会を誹謗中傷する。
3.創価学会が日蓮正宗を誹謗中傷して、日蓮正宗は創価学会の長所を認める。
4.創価学会、日蓮正宗ともに相手を誹謗中傷する。

このなかでもっとも良いのは1である。
最悪なのは4。誹謗中傷合戦は一般人から気持悪い、怖いと思われてしまう。
創価学会にはふたつの選択肢がある。誹謗中傷か相手を認めるか。
もし創価学会が相手を認めて、日蓮正宗が誹謗中傷してきたら、
信者の何割かが向こうに行ってしまう。
日蓮正宗が創価学会を認めてくれ、こちらが日蓮正宗を誹謗中傷できたら、
向こうの信者の何割かが創価学会へ入ってくれる。
こう考えたら取りうる選択肢は、相手を誹謗中傷するしかない。
日蓮正宗もむろんおなじように考える。このため宗教ゲームの解は4しかない。
創価学会と日蓮正宗はいがみあうしかないわけである。
一般の日本人は、ふたつの宗教団体を見て引いてしまう。
これは創価学会にも日蓮正宗にもプラスにならない。けれども、結果は変えようがない。
まさしく「囚人のジレンマ」である。

なるほどと感心してしまったあなたはだまされている。
ゲーム理論の根本にあるのは、プレイヤーが合理的に行動することへの信頼だ。
ところが、人間は実のところ、まったく合理的ではない。
このことこそ逆説的にゲーム理論が証明してしまったことなのではないか、
という考察さえも可能かもしれない。
たとえば、最初のケース。美香は情熱的な女である。ほんとうに昇を愛している。
だから自分が黙秘して、昇が自白しても構わないと考える。
愛する昇の懲役年数が減るのならいいではないか。
このときゲーム理論は誤まったことになる。最先端の学説が齟齬(そご)をきたす。
宗教戦争とておなじことである。
創価学会名誉会長の池田大作氏が本物の宗教者なら、
他宗を誹謗中傷などしないはずである。断じてさせないはずだ。

ゲーム理論の弱点は人間を舐めているところである。
人間など知れたものと高をくくっているところがたぶんにある。
人間は自利(我欲)だけで利他は行なわぬと決めつけてかかっているのだ。
人間は一銭の得にもならぬことでもがむしゃらに遂行する存在である。
あえて損をするようなことさえなしうる。わざとゲームで負けることもある。
ゲーム理論の主張では「走れメロス」のメロスは帰ってくるはずがないのである。
ところがどっこい、メロスは戻ってくる。
文学やドラマは、ゲーム理論にあてはまらない人間を描くものといえよう。

企業戦略にゲーム理論を取り入れようという風潮があるらしい。
おのおのをプレイヤー、全体をゲームとしてとらえるやりかたである。
ゲーム理論に成功の秘訣があると思い込む企業人もいる模様。
だが、ゲーム理論の主張など大したことはないのである。
要は「相手の立場になって考えよう」なのだから。
これは大昔にカーネギーが成功哲学の古典「人を動かす」に書いたことではないか。
ゲーム理論的ビジネス作法など、実はめずらしいものでもなんでもない。

インセンティブというカタカナもゲーム理論の用語。
インセンティブとは動機、誘因のこと。
たとえば、保険契約。
ひとたび保険に加入してしまうと気がゆるみ病気になりやすくなる(暴飲暴食)。
たとえば、固定給。
給料が定額だと社員が努力をしなくなる(適当に働いても給料はおなじ)。
どちらもモラルハザード(道徳の荒廃)から生じると考えられる。
この場合、インセンティブをつければいいとゲーム理論は主張する。
保険では、10年間病気をしなかったら10万円のボーナス。
職場では、よく働いたものに臨時ボーナスの支給を約束する。
こうしたら全体の利益が上がるという経済学の知見である。

ほんとうにそうだろうかと思ってしまう。
ゲーム理論は、人間を甘く見ているところがないか。
たとえインセンティブなどなくても、石橋をたたいて渡る健康オタクもいるのではないか。
たとえ固定給でも仕事に誇りを持ち、立派に職務を遂行している労働者はバカなのか。
人間は合理的ではない。
安価なものと高価なものがあったとき、あえて高価なものを買うのが人間だ。
たとえ1億円貯金があっても自殺してしまうのが人間ではないか。
ゲーム理論なんぞに洗脳されて企業経営をしたらとんだ失敗をするはずである。
経済学は趣味にとどめるべきで決して実践に移してはならないと思う。