「雑学3分間ビジュアル図解シリーズ 心理学」(堀井俊章/PHP)

→メスってさあ、なんでアニマルなのに心理学なんかに興味を持つわけ?
一般的にオスのほうがアニマルとされているけれど、
学者の性別比率を見たら一目瞭然、メスのほうがアニマ~ルなわけ。
アニマルなメスは人間さま、
オスのことを知りたくて心理学に答えを求めるのかもしれない。
しかーし、心理学は役に立たない。
なぜならあれは通俗心理学というか、大衆心理学というか、多数派心理学というか、
一般的なオスの傾向はわかっても、あなたが知りたいオスのこころはわからへんがな。
人間は欲求で動くという説を打ち出したのはマズローだが、
どうしてこんなものが「正しい」かもわからずひたすらマズロー、
まずいまずいまずいのメス思考と言えなくもない。
マズローの妄想がいまでも大学(院)では真実として教えられているのかと思うと、
それはマズロー、マズロー、マズロー、いくらマズローでもまずかろー♪
まずったマズローによると人間の欲求は5段階のピラミッドになっているらしい。
下から順にそれはマズローと笑おう。
最底辺:生理的欲求→当方は三大欲すべてがぶち壊れております。
底辺:安全。安定の欲求→やばい経験をしたいから当方は生きているところがある。
平民:所属と愛情の欲求→女から愛され尽くされるのは楽しそうだが、所属欲求は……。
上等民:承認の欲求→小さな地方文学賞とか誇っている人は恥ずかしいっしょ。
貴人(奇人?):自己実現欲求→こういうのを目指すから落ちこぼれる下層民が出る。

オスといってもぜんぜん猛々しく雄々しい生命体ではないが、
明日からごやっかいになる新しい職場にはメスさまが複数おられる模様。
ああーん、いじめられたらどうしよう。
ぶっちゃけ、オスよりもメスのほうが怖いよーん。
なんて気持からメスが好きな通俗心理学の一般書を1時間で速読したしだい。
これでもう怖いものはないエッヘン。

「「だまし」の心理学」(安斎育郎/「雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」/PHP研究所)

→だまされないためには、わからない言葉はその場で聞け!
というアドバイスが新鮮だった。
どうやら一般人には「わからないことは自分に知識がないため」。
したがって「わからないことは恥ずかしい」と思う思考システムがあるらしい。
おそらく大衆の知的コンプレックスが関係しているのだろう。
わたしは容貌や世間常識などあまたのコンプレックスを持っているが、
そういえば知的コンプレックスのようなものはあまりない。
わからない言葉があったら、すぐにそれはどういう意味ですか、と質問できる。
そこがテンネンというか世間知らずというか、我輩様のコンプレックスでもあるのだが。
相手をだまそうと思ったら、相手の知らない語を矢継ぎ早に繰り出して、
相手をカオス(混乱)に落とし込み、
「負けた」と思わせるのが効果的なのかもしれない。
ひと言「それはどういう意味ですか?」と聞いたら、
相手もろくに答えられずしどろもどろになって破綻(はたん)するのだろうが。

どうしたら幸福になれるのか?
それはね、人間の心には一念三千というものがあるのよ。
一念三千は十界論を元にしているの。
十界にも十界が備わっている。これが十界互具ね。
それに三世間があるということを法華経は説いているの。
10×10×3は3千でしょう? だから、一念三千になるの。
これは日蓮大聖人がお説きになった哲理、人生哲学なのよ。
法華経が正法なのは中国天台宗の智顗が五時八教という説で証明したからよ。
法華経は聖徳太子も伝教大師の最澄も最上だと言っていたわ。
だから、この信心をすれば絶対的幸福の境涯に入れるわけ。わかる? わかった?
あなたは見たところとても優秀そうだから、わかってくれたって思うの。どう?
……「はい、わかりました」。

いまの社会でもっとも必要とされているのはイノベーションである。
これはアメリカでもしきりに言われていることである。
いかにイノベーションを起こすか。
そこは既成のパラダイムをレボリューションするしかない。
どうしたらパラダイムをチェンジできるか。
ブレークスルーの起こし方というのがあって、
それはポイントポイントにビクトリーマークを仕込んでいくしかないのである。
アメリカ最新心理学で注目されているフロー状態がサクセスルートになろう。
労働者をフロー状態に入らせたら、
プアーな彼たちはビジョンを持ってワークすることができる。
ビジーな人はシンキングする時間がないから、
アメリカ最新研究によると、ワーカーはジョブをワークではなくアートとイメージする。
このワークをアートなのだというダブルイメージ的なフローに追い込めば、
経営者も雇用者もウィンウィンのリレーションシップになる。

この手のペテン師に逢ったら、どう言えばいいのか?

「へ~え、いまはそれがナウいんすか?」

「ナウいってどういう意味ですか?」と逆に問うような人がいたら本物の可能性がある。
「ナウいというのは、あなたみたいな人のことですよ」と言ってやればいい。
おそらく「わからない」言葉に囲まれると人は不安になるのだろう。
人をいかにうまくだますかは、まず不安にさせ、それから安心を与える。
安心を与えるというのは、相手の欲望を刺激することである。

人間(=不安&欲望)→詐欺事件被害者→敗者
チクチク↑↑チクチク(=恫喝&甘言)→大勝利者


本書で人をだますテクニックをいろいろ学ぶ。
「カラシつけ」と言われているものは、とてもうまい作戦である。
相手に自分でカラシをつけておいて(不幸にさせておきながら)、
自分は善人ぶってカラシを拭いてあげるのだ。
こうしたら相手からまず感謝され、信用される。
これはグループでやったら最強だろう。
仲間と連携してある人物を困らせる。そこに救世主を登場させるが、みんなグルである。
被害者は救世主の言うことを妄信するようになるからいくらでも金をだまし取れる。
手品を見破るには「(手品師が)右手を上げたら左手を見よ」という金言があるらしい。
相手をだましたかったらわざと右手(善意)を大きく上げれば、
左手(悪意)の存在に相手は気がつかない。
人間は権威に弱い。ならば、どうしたら権威になれるか。
新発見をして評価されれば、その分野で権威になれる。
新発見というのはデータ(証拠物件)だから、そこを捏造(偽造)したら権威になれる。
権威(東大教授、朝日新聞記者)になったら相手をいくらでもほんろうすることができよう。
人をだましていい思いをしたいのなら、数を打つことが重要なのかもしれない。
占い師は、来た客みんなに「あなたは将来絶対幸福なる」と断言すればいい。
幸福の価値基準なんて人それぞれだし、
千人のお客がいたら10~50人は幸福になるだろう。
このお客さんたちがあの占い師は当たると評判を高めてくれ、さらに商売は繁盛する。

$人生=金=詐欺OK=ペテンOK=だまされていたら幸福=真実は不幸=嘘万歳$
$金=幸福=心=洗脳=ペテンOK=嘘も方便=金こそ正義=お金のためなら$
$金があれば幸福も満足も恋人も家族も親友も得られるとだまして金を吸い取るべし$


♪金=大勝利=幸福♪

(関連記事)←けっこうおもしろい自信あり。
「だます心 だまされる心」(安斎育郎/岩波新書)

「自我と無意識」(C.G. ユング/松代洋一・渡辺学訳/第三文明社レグルス文庫)

→河合隼雄の大ファンなので、氏が権威を借りているユングを読んでみる。
どうせ河合隼雄はユングを曲解して、うまいように料理しているだけだろう。
ユングの本は難解として知られるが、
そこをうまく利用して河合隼雄は成り上がったところがあるのである。
だれもユングのことなどわからないから、
紹介者という形を取ることで河合隼雄は好き勝手なことを言えるのである。
これはわたしの意地悪な意見ではなく、
晩年の河合はユングの名を借りて自分のやりたいことをやったと白状している。
ならば、もう河合隼雄の本は読み尽したといってもよいのでユングに手を出してみた。

ユングは精神科医で患者を治療するために独自の心理学を構築したのである。
心の悩みを持った人をどうしたら回復させることができるかを考えた。
ぶっちゃけ、ユングは時給850円のパートには関係ない話をしているとも言えよう。
ユングのところに診察に訪れるものは社会的成功者や金持ばかりだったのである。
あるいは、そういう富裕層の妻や娘たちだ。
彼ら彼女らとの診察経験からユングは自分が新発見したと思ったことを書いたのである。
ペルソナ(仮面)のあまり強くない人には関係ない話と言えなくもない。
ペルソナ(仮面)というのは社会的役割のことである。
われわれは社会生活を営むうえでみなみなペルソナ(仮面)をつけている。
医者、弁護士、教師、牧師、僧侶、経営者、作家、会社員――。
われわれはペルソナ(仮面/社会的役割)にしたがった言動をしなければならない。
それも四六時中いつわりであるペルソナを演じなければならない。
ペルソナはかならずしも不自由であるというわけではなく、
われわれはペルソナがあるおかげで守られているとも言いうる。
ペルソナにそった発言をしていれば社会で安全でいられる。
いざとなったらペルソナに隠れてしまえば危険な問題から逃れられる。
ことさら上級の社会的地位が高いペルソナを持つものは、
ペルソナの誇らしさのあまり本来は仮面たるペルソナを自分自身だと思ってしまう。
ところが、ペルソナの陰に隠れた自分というのもいるはずである。
あまりペルソナにばかり依存していると、仮面の裏の自分が反逆してくることがある。
精神異常、心の病というのは、
ペルソナに対する自分の反抗ではないかとユングは経験的に学んだのである。

たしかにユングの本はお経のようなものでじつにわかりにくい。
しかし、これまた仏典とおなじでたまに意味のわかるところがあるのである。
そういう理解可能な箇所をつなぎ合わせるとユング心理学のようなものがわかる。
相手の足もとを見るような意地汚いユング解釈をしてみよう。
ユングというのはきっととても偉そうな医者だったのである。
いつでもどこでも医者としてのペルソナを使用し堂々と振る舞い人々に助言していた。
婦人にはじつに紳士然として応じる立派な医者だったことだろう。
だが、ある魅力的な婦人を診察しているときに、ペルソナが壊れたのだろう。
「うわあ、このねえちゃんきれいだよ。やりてえ、犯してえ、ものにしてえ」
しかし、ペルソナは医者だから、本音は抑圧するしかない。
ところが、どうペルソナの圧力を高めても「この女性患者をおもちゃにしたい」
という性的欲望は消えない。ここにユング心理学の誕生があったのだと思う。
これはとても恥ずかしいことだからユングは文章としては書いていないが、
意地悪な視線で文章の裏を読みとると、そのようなユングの経験が見えてくるのである。

そろそろわたしもユングの権威を借りるとするか。
ユングはけっこうきついシビアな本音を言っているのである。
われわれふつうの人にユングはどうしろとも言っていないのである。

「寝た子を起こすな quieta non movere」(P143)

これがもっとも重要な真理であるとさえ言い切っている。
うまくペルソナを使いこなせて社会的に適応しているものはそのままでいい。
ペルソナとか自己とか意識しないで死んでいけばそれでいいと言っている。
ほんの少し心を病んでしまったものにはどういう提言をしているか。
べつにことさら精神分析などしなくてもよろしい。

「無意識に対抗するのに効果的なものがひとつだけある。
それは、疑う余地のない外界の必要である」(P83)


この言葉の意味は難しくもなんともない。
あとで具体的に説明しているが、野良に出ろということだ。
汗水流して百姓仕事をしたら、
軽い心の病程度なら消えると身もふたもないことを言っている。
その次は新興宗教である。
心の異常というのは、ペルソナに対する自己(本当の自分)の反乱である。
本当はみんな自分のことを偉いと思っているけれど、
ペルソナがあるためにときにはペコペコしなければならないし屈辱も味わう。
本当の自分は偉いのだがペルソナが邪魔をして本音を言えない。
この際、本当の自分はなにかと精神分析で分け入っていくのは、
金も時間もかかるし、なにより本人が相当の苦しみを経験しなければならない。
このため、そういう骨折りをしたくない人は預言者(教祖)の託宣にすがるのである。
さすがに本当の自分は預言者(教祖)なみに偉いと思い込める人は少ないらしい。
創価学会の第三文明社の本なのに、学会批判とも読めなくもない文章があるのだから、
もしかしたら創価学会というのは
かなり批判を受け入れる包容力のある民主的な優良団体ではないか。
ペルソナよりも本当の自分のほうが価値がある(偉い!)ことに気づいたとき、
人はどうするか。

「預言者[教祖]になるのもいいが、そのかたわらからもうひとつ、
もっと狡猾で見るからに理にかなった喜びが秋波を送ってくる。
それは預言者の使徒になる喜びであって、これこそ大多数の人にとって、
まさしく理想的な処世術なのだ。(……)
そのときひとは[自分の]価値を失う。
慎み深く「師」の足元に座して、自分自身でものを考えないようにする。
精神的な怠惰が徳になる。(……)
師の神格化によって、ひとは一見それと気づかず、自らが高みへと伸びてゆく。
その上なにしろ偉大な真理を、自ら発見したのではないにしても、
少なくとも、「師」御自身の手から、受けとっているのだ。
もちろん弟子たちは、常にたがいに寄り添い合う。
しかし、それも愛からなどではなく、集合的な調和を生み出すことによって、
骨を折らずに自分自身の確信を深めることができるという、
もっとも至極な計算からなのだ」(P88)


言い方を変えれば新興宗教に入ってしまうのが、いちばん楽でおいしいのである。
最近、ある人から「もう創価学会へ入っちゃえば」とすすめられたことがある。
その人は創価学会をあまりお好きではないようなのだが。
信者(使徒)になるとなにがいいのか。どう楽しめるのか。

「自分自身は単なる使徒にすぎないが、しかし、
そうであることによって師が掘り出した偉大な宝の共同管理者になれるのだ。
ひとは、そのような職務に申し分のない威厳とずっしりした重荷を感じて、
ちがう考え方をする人を片はしから誹謗し、改宗者をつのり、
全人類の上に光を掲げることを、
最高の義務であり道徳的必然性であるとみなすようになる――
まさしく自分自身が預言者その人であるかのように、
そして平生は見るからに控え目なペルソナの背後にもぐり込んでいたような、
まさにそんな人々が、集合的心との同一化によってみるみる肥大しはじめ、
突如として世間の前に姿を現す。
預言者が集合的心の原像であるように、預言者の弟子もまた一つの原像だからである。
どちらの場合にも、集合的無意識による自我肥大が生じ、
個性の自立性が損なわれる。
しかしすべての個性が、自立への力をもっているわけがないのだから、
使徒願望はことによったら、やはり、個性になしうる最良のものかもしれない。
それならば、それにともなう自我肥大の快感は、
精神的自由の喪失に対するせめてもの代償ということになる。
それにまた、本当の預言者やそう思い込んでいる人間の人生が、
苦しみと失意と窮乏に満ちたものであり、
したがって熱烈に彼をたたえる使徒の群れが、
補償の役割を果たしているということも見過ごしてはならない。
これらのことはすべて、人間としてごく納得のいくことであって、
もし何か別の成行きになったとしたら、そのほうが驚くに値するだろう」(P89)


これまでのユングの主張をまとめておこう。
1.ペルソナ(仮面)を疑わず円滑に社会生活を営めるのならそれがいちばん。
2.野良仕事をして大地と格闘したらくだらない悩みなんて霧散するぞ。
3.宗教に入って教祖さまの教えにしたがい敵を迫害するのもまあ悪くない。
1.2.3がどうしても不可能な人に向けてユングは独自の精神分析を行なった。
くれぐれもお金持相手の精神分析であることを忘れてはならない。
ユングもひどいことを言っている。
厄介な患者が来たときは「あいつの金もしだいになくなるぜ」など同僚と噂したらしい。
さて、ユング心理学は心を病んだインテリ富裕層にどのような道を指し示すのか。

「それは個性化の道である。個性化とは個性ある存在になることであり、
個性ということばが私たちの内奥の究極的で何ものにも代えがたいユニークさを
指すとすれば、自分自身の自己になることである。
したがって、「個性化」とは、「自己自身になること」とか、
「自己実現」とも言い換えることができるだろう」(P93)


いまの日本ではしもじもの人間まで「自己実現」を求めているけれど、
ユングのそれはインテリ富裕層のみが苦労してなしうる道のようなものだったのだ。
このブログ記事はわたしのために書いている。
この本を読んで思ったのは、まずきちんとしたペルソナを作らなきゃなってことだ。
ペルソナさえないのに(アルバイト)自己実現もなにもないって話だから。

「ペルソナを備えた男には、内的実在[精神世界]が存在するという視点は
もとよりまるでわけが分からない。
それはペルソナを欠く人間に、世界の実在性が少しも分からず、
世界も彼にとっては、単に興味をそそる幻視的な遊戯場でしかないのと
まったく同じことである」(P136)


ああ、偉そうなペルソナがほしいけれど、もう無理かなあ。
ペルソナがないところで自己もセルフもなーんにもないんだから。
けれども、山田太一さんのようなすばらしいペルソナをお持ちでも、
裏側ではいったいどうなっているのか。
ユングはじつに人間くさい経験を書いている。

「私は、かつて、尊敬に値する男性と知り合いになったが、
この人こそまさに聖人と呼ぶに値した――、
私は、まるまる三日、彼をあれこれ眺めまわしたが、
およそ死すべき者のまぬがれぬ不完全さが彼には何一つ発見することができなかった。
私の劣等感は、おそろしいまでに高まり、自分を改善しなければと、
ほとんどまじめに考えるまでに至った。
しかし、四日目に、彼の奥さんが、私に悩みを打ちあけにきたのである……」(P127)


最後にユングの名言をちょろっと拾っておこう。この人、偉いんでしょ?

「およそ創造的な人間であれば、意のままにならないという点こそが、
創造的な思想の本質的な特徴であることを知っているはずである」(P112)

「中道における対立物の一致こそは、もっとも個人的な事実であると同時に、
生命存在一般の最も普遍的で合目的的な意義達成なのである」(P146)


「こうした事柄は、自分自身で経験してみないかぎり、本当に分かるものではない。
だから私は、知的な公式を立てることよりも、
そのような経験の方法と可能性を示すことの方を選ぶのである。
知的な公式など、経験が欠けていたら虚ろな言葉の綾に終わるだけだ」(P156)


さあ、いまから時給850円の労働を経験しに行こうと思う。
誤字脱字、失礼いたします。帰宅したら直すのでご勘弁を。

「雑学3分間ビジュアル図解シリーズ しぐさのウラ読み」(匠英一監修/PHP研究所)

→怪しげな通俗心理学者の監修した薄っぺらい本を仕事のために読む。
ああ、なんてぼくって仕事熱心なんざっしょ。
ええ、そうですとも、仕事、仕事、毎日仕事のことばかり考えてまっす。
日本語がほとんど通じない外国の人たちと働いている。
そうすると言葉があてにならないから、しぐさや身振りに頼るほかない。
やったら腕組みしている人が多いけれど、あれは見たまま不安なんだろう。
それとぼくの横に来るとポケットに両手を入れている人がいる。
いったいなにを隠しているんだ、このこのう、と思ってしまうが、
本書の「はじめに」に書いてあるように
通俗心理学は唯一の正解を示すものではないのだろう。
まあ、しょせん心理学はインチキと、あるカウンセラーも言っていたしね(おい!)。
鏡をよく見る人はナルシスト(自己愛者)って書いてあるけれど、
ぼくは自己愛性人格障害レベルだけれど鏡を見るのは大嫌いなんですが?
まえから知っていたけれど、まばたきが多いのは緊張している証拠なんだって。
こういうしぐさの心理学みたいのは逆利用できるんだよね。
ぼくなんか緊張しているように見せかけようと、わざとまばたきを増やすこともあるから。
演技してそのしぐさをしている可能性もあるから、眉唾程度の認識のほうが安心。

同調行動(真似)は相手を好きだからという説が本書に公開されていた。
これは本当かなあ。
職場で本のピッキングをしているとき、みんな右で回っているとき、
ふざけてぼくが左で回ったらある子が真似をしはじめた。
あれは好きだからではなく、もの珍しくて真似しただけなんじゃないかな。
単純作業で退屈だから、ぼくも特徴ある人のピッキングを真似することがある。
しかし、かならずしも真似た相手を好きかといったらそうでもないような気がする。
動きを真似してもらえるのは嬉しい。
ここだけの話、けっこう荒いピッキングをするときもあるんだけれど、
そういう自己流ピッキングを女子高生がしているのを見るとにんまりしちゃう。
ウソをついている人の特徴は――。
1.不安をまぎらすために早口になる。
2.本心を隠そうとするため声のトーンが高くなる。単純に高い声になる。
3.相手を言いくるめたいから声に抑揚をつけるようになる。
要するに、AVやフーゾクのスカウトマンみたいな声になるということだろう。
不安定な職場で一部古株女性パートだけを残して
ほかのパートを早く帰そうとする社員さんもあるいは似たような声になるのかもしれない。

よく髪型を変えたりイメチェンをひんぱんにする子はいったいどういう心理なのか。
通俗心理学によると、自分に自信がなく、内面に不安を抱えていることが多いらしい。
「自分がこうなりたい」より「他人にどう見られるか」かよく気になる子。
自己信頼感が欠如しているから何度も髪型を変えるってこれは本当かなあ。
ぼくは行列ほど嫌いなものがなく、よほどのことがないと並ぶことはないが、
行列はしているあいだに期待感が高まるのでいいらしい。
本書には書いていないが、行列して得たものは
実物以上の高評価を与えるものなのかもしれない。
だったら、女の子は男からメールアドレスを聞かれたら
すぐ教えちゃいけないって話だわな。
デートに誘われてももったいぶって焦らしたりするのもときにはいいのかもしれない。
でも、そうしているうちに誘われなくなるかもしれないから、
繰り返しになるが通俗心理学ごときを指針にして人生を決めてはいけないのだろう。
知らないでやるとかえってうまくいくことって多い(ビギナーズラックのこと)。
知ったがためにあれこれ考えちゃって、逆に失敗してしまうことになる。
通俗心理学は知っているがためにあれこれ悩んでしまう有害情報の山ではないか。
まあ、あれこれ悩んだり不安になったりするのも人生の楽しみのひとつ
と言えなくもないから、本書のような通俗心理学の本も十分に存在理由はあるのだろう。
これを「絶対の正解」だと信じないかぎりにおいて、の話ではあるけれど。

「図解雑学 心と脳の関係」(融道男/ナツメ社)

→喜びや悲しみをどう見るかって問題なんだろうなあ。
おかしなセラピーや新興宗教にはまったりするのは「心」派になるわけだ。
心が喜んでいる悲しんでいると思う(あるいは錯覚する)。
すぐにかんたんにストレートに心療内科や精神科に行くものは「脳」派。
喜びや悲しみは脳内物質の化学反応に過ぎないと判断する(錯覚する)。
たぶん「脳」派が「正しい」のだろうけれど、
われわれの喜びや悲しみが薬ひとつで変わってしまうと思うとげんなりしないか。
しかし、実際によく効く薬というものはあって、
相性さえあえばどんな悲しみもすぐさま消えてしまうようなこともなくはないはず。
いっぽうでどんなたくさんの薬を試しても消えない悲しみも存在すると思う。
そして、これはとても重要なことだが、
人間には絶対に消したくない悲しみというのも存在するのではないか。

結局、どっちなんだろうね。ほどよく薬でセーブしたほうがいいのかしら。
感情の起伏の大きいやつとかひたすら迷惑なわけだから。
でもさ、笑顔を向けられると、思わず気持がほぐれることってない?
いやまあ、それも脳の化学反応で説明できるんだけれど、
心ってものがあるものだと思いたいではありませんか。
だけどさ、通俗ビジネス心理学の書籍とか、なーんかうんざりしない?
すべて脳内反応とドライに割り切るのもクールかもしれない。
心を癒すよりも脳を治療したほうがたぶん安上がりで効率的なんだろうけれど、
じゃあ、どうして無駄をしちゃいけないのかって話になると、
人生なんて無駄なことの繰り返しなんだから、
あえて無駄を楽しむ余裕のようなものもあっていいと思うわけさ。
ある薬を一錠のんだら孤独感が消えるって言われたら、
果たしてそれを服用するかって問題に最終的には行き着くのではないだろうか。

「だまされ上手が生き残る 入門!進化心理学 」(石川幹人/光文社新書)

→心理学っていうだけでうさんくさいのに、進化心理学ってなんなんだ、おい!?
久しぶりにトンデモ本を読んだ。
こんなことがいま明治大学で教えられているらしいから日本は平和な国だなあ。
著者の言っていることはよくわからん。
なーんか著者には生物はみな進化の結果として
いまのような形態であるという信仰があるらしい。
生物が変化してきたのは事実だが、進化したかどうかはだれにも証明できないと思うぞ。
著者の信心によると、生物はみなみな果てしない生存競争の結果、
勝者としていまのような外形や内面を保っているとのこと。
しかし、人間は本来、狩猟民族(←そこまでさかのぼるのかよっ)。
優秀な著者にかかったら現代人にも狩猟民族の特徴がありありと見えるらしい。
そして、人間は進化してきたんだなあ、
と著者はひとりご機嫌になっているようでまことうらやましい。
あるいは目をうるうるさせているのかもしれない。ご機嫌でいいっすね、先生!

最新学問の研究結果によると、オスは目立ったほうがメスからもてるらしい。
それさあ、人間を20年もやっていたらだれでもわかる常識ってやつじゃないの?
なんでも人間をふくめて生物のなかには
「互恵的相互関係」を作りながら進化してきたものがいるってさ。
「互恵的相互関係」というと学問っぽいけれど、要は助け合いのこと。
本書の意味不明なトーンに従うならば、だましあいとまで言ってしまっていいのだろう。
たとえばお金。あんなものは紙切れに過ぎないでしょう?
けれども、みんなが価値あるものとだまされてきたから人間は進化してきた。
いま生き残っている生物は人間をふくめみんな「だまされ上手」というのが本書の結論か?
小声で言うと、みんながだまされているのに気づいて、
パッと逆を行ったものこそ大儲けできるのではないかと個人的には思うけれども。
もちろん、いち個人の大儲け(利得)は人間の進化(笑)とも変化とも関係しないがね。

たぶんインチキである進化心理学とやらのキモはこの文章だろう。

「私たちはみな、生物の長い進化の歴史における生き残りです。
祖先が数々の生存競争において一度も負けることなく勝ち抜いてきたからこそ、
ここに存在していると言えましょう。
ですから、私たち個人こじんの遺伝情報には、生き残るのに適切な特徴を形成する、
無数の遺伝子情報がきざみこまれているのです」(P117)


競争とか勝つとか、著者は創価学会みたいな思想をお持ちなんだなあ。
われわれが競争の勝利者だなんて証明できるのならしてみろよと言いたい。
それはひとつの物語に過ぎないのではないか。
たとえば、わたしはこういう物語を持っている。
われわれが太古の時代から(断じて進化(笑)ではなく)
変化(!!!)しながらいまこうして存在しているのはたまたまの偶然。
遺伝子情報なんて一生研究してもさらさら明らかにならないし、
遺伝子研究からわかるのは結局、人間にはなにも「わからない」ということ。
多数派は「だまされ上手」だから生き残っているわけではなく、
いつの時代もだまされやすい人たちが多数派を構成しているってだけ。
こんな研究モドキでメシが食える学者先生が心底からうらやましい。

「ココロによく効く 非常識セラピー」(ジェフリー・ウィンバーグ/春日武彦監修/中田美綾訳/アスペクト)

→著者はオランダのセラピスト(心理療法家?)。
大学で心理学を学んだだけなのに個人開業してけっこう食えているらしい。
監修のB級精神科医・春日武彦氏が指摘しているように、
個人開業セラピストはどこか街角の占い師と変わりがないうさんくささがある。
しかし、本書の著者はインチキ心理屋として食えているばかりではなく、
そのうえさらに本も出していて、これもそこそこ売れているという、まあ人生の成功者。
成功者ほど成功なんて意味がないという「本当のこと」を言うけれども、
本書はオランダのセラピストが書いたセラピーなんて意味がないという内容の本。
日本のカウンセリングはロジャースの影響が強く、
もっぱら傾聴(=ただ相手の話を聞く)が主流になっているようなことを聞く。

著者のやっているのは傾聴とは正反対の「挑発的セラピー」だ。
これの効果があるのはわからなくもない。
著者の「挑発的セラピー」をよく理解できた証拠に自分の言葉で紹介してみよう。
著者は器が小さいためだろうが、どうやら自殺志願のお客はあまり来ないようだ。
セラピストやカウンセラーがいちばん来られて困るのは自殺志願のお客だろう。
もし著者の言う「挑発的セラピー」に従うならば、このお客への対応はこうである。
「あたし、死にたいんです」
こう来られたら、たいがいのセラピストは前向きな発言をするだろう。
生きていたらいいこともありますよ、とか。
傾聴を習ったおばさんセラピストなら、そうですかとぐっとこらえるかもしれない。
著者は書いていないが、
著者の「挑発的セラピー」にしたがうならばこう応じてみるのもおもしろい。
「まったく同感です。死にたい? ああ、まったくです。
わたしもこんなくだらない人生とは一刻も早くおさらばしたいと思っています。
生きているのがいやでいやでしようがありません。
本当にあなたとのセラピーが終わったら自殺しようと思うくらいです」
人間はあまのじゃくだからこういうネガティブなことを言われると、
逆にポジティブなことを思い始めるらしい。

どうでもいいボク話をすると、
わたしもかつていきなりメールで逢いたいと言われた女性から
「死にたい」と言われたことがある。
「ああ、わたしも死にたいですね」と本気で答えました。
ネガティブにネガティブで応戦する「挑発的セラピー」はけっこう使えるのかもしれない。
たとえば――。
「友達がいません。どうしたらいいんでしょうか?」
「それがどうしましたか? みんな本当は友達なんていませんよ。
みんながみんな友達ごっこをして群れているだけ。
人間なんてしょせんくだらぬ存在でひとり生まれひとり死んでいくだけです」
「恋人ができないので悩んでいます」
「あのさあ、いざ恋人ができたらどれだけうざったいと思いますか?」
人間の悩みなんて99%がどれもありがちでみんなが思っていることなのである。

セラピーは「お金で買われた友情」(P54)に過ぎない、
と言い放つセラピストの著者の物言いはどれも挑発的である。
ある意味では「本当のこと」を言っているのだろう。

「失礼なのは承知のうえで言おう。セラピストは
「決して満足しない」という人間につきものの性質を利用して、稼ぎすぎている」(P184)


どんな成功者でも金持でも美男美女でも人生に不満を抱いているのである。
むしろ人生でいわゆる上へ行けば行くほど人生への不満は強まるのかもしれない。
みんながみんないまの人生への不全感は抱いているのだろう。
それどころか過去の後悔やら将来への不安も人間ならばだれしも持っている。
そういうところを食い物にするのがセラピストだとセラピストの著者は言っている。
本当は人生なんてだれもが思い通りにはならないのに、
さもそのことが解決すべき問題ででもあるかのような態度を取って、
その問題をあえて相互了解的にこじらせてお金を稼ぐのがセラピストかもしれない。
もしかしたら「本当のこと」を言えば――。

「まったく解決策のない問題だって存在するのだ。
それがわかれば、人生はもっと生きやすくなるだろう」(P106)


問題は解決しなければならない、問題にはかならず解決策がある、
――といったような学校教育やらマスコミ報道の悪影響のせいで、
われわれはどうにもならないどうしようもない問題をこじらせているだけなのかもしれない。
あるいは人生上の問題はいくら人間が解決しようとあたまをひねっても
どうにもならないのかもしれない。
いくら過去のサンプルや成功例を調べても、
人生上の問題はどうにもならないのかもしれない。
しかし――。だが、しかしセラピーにもきっと意味がある。
セラピストの著者はセラピーの実際を正直にあるがままに書いていると思う。

「わたしの最初の患者のことを話そう。彼はまだ若い学生だった。
オランダの地方都市で孤独な生活を送っていて、
寂しくてたまらないとセラピーにやって来た。わたしの指導教授は、
学生の過去を探り「内なる抑圧の理由」を見つけろといった。
しかし三回目のセッションの日、学生はすっかり自信を取り戻しているではないか。
彼は誇らしげな顔で、
かわいい女の子と恋をしてずっと一緒なんですとのろけた。
彼から行動を起こしたわけではなく、
彼女のほうから休み時間に話しかけてきて、「とんとん拍子に進んだ」のだそうだ。
わたしは面談を三十分で打ち切り、
素晴らしい人生を祈りますよと言って彼を見送った。
教授はわたしの仕事にいたくご不満だった。
わたしが「多くの潜在的な問題」を未解決のままにした、と思ったらしい」(P26)


これってまったくもって「本当のこと」だよねえ。
人生の問題って解決しようと思わなくなったら、
かえって「とんとん拍子」に進んでうまくいくことも経験からないわけでもないと思う。
なにか「正しい」助言をしたら問題は解決に向かうと信じている人のおられるようだが。

「セラピストが考えだした、
いかにもよさそうな解決策がまた新たな問題を呼んでしまうこともある。
よくあるのが、思っていることは言ったほうがいい、というアドバイス。
患者はそれにしたがったとたん、失業したり、恋人や友達を失ったりする」(P139)


むろん失業が人生を全体的に考えたら絶対にマイナスとも言い切れないのではあるが。
あるいは当面の恋人や友達を失うことが将来的にはプラスかもしれないのだけれど。
「挑発的セラピー」で食っている著者はアドバイスをしないわけではない。
それ以上の通常ならやってはいけないとされることをしてしまうのが、
挑発的セラピストたるゆえんだろう。セラピストがこんなことをしてもいいのだ。
きっと人生なにが正解かわからないのだから、ならばおそらくなんでもいいのだろう。

「まだセラピストとして見習い期間中だったときのこと。
ある青年が診察室にやって来た。集中力も落ちたし毎日が寂しいのだという。
わたしの指導教授は
「この青年はアイデンティティの危機にある。治療は一年は見ておくように」
と耳打ちした。わたしは聞く耳を持たず、
前の日に同じような悩みで来た女性を彼に紹介してみた。
どうなったかって? そう、ご名答。
二人は末永く幸せに暮らしたということだ」(P200)


人生って、そんなもんだよねえ。人間って、こんなもんさあ。
わたしもあらゆる悩みらしきものは魅力的な異性の登場で一時的に消えると思う。
でも、どうしたらそういう奇跡が起こるかはまったくわからないのである。
従来の傾聴カウンセリングをしていても、オランダ式の挑発的セラピーをしていても、
「それ」は起こるときには起こるし、起こらないまでは起きないのだろう。

「雑学3分間ビジュアル図解シリーズ 心理療法」(矢幡洋/PHP)

→暇つぶしに安手の一般書を読む。副題は「古今東西の100のセラピーを網羅!」。
心理療法(セラピー)は100以上あるらしいが、ひとつ似通っているところがある。
スタートは、発明者の偉人(なんですか?)がとにかく個人的な事情で苦しんでいること。
彼(あ、彼女はいないような気が)は苦しみを癒そう治そうと
いろいろな心理療法(=他人の発明)を試すがいまいち効果がない。
結果として自己流の心理療法を編み出し、そこで一定程度の満足(治癒とは言わない)を得る。
ここで立ちどまれば非常に感心できるのだが、
彼は自分の発見した方法(心理療法)を普遍的真実だと勘違いしてしまう。
だれもがこの方法(理論)を試してみたら
自分がそうだったように治ると思い上がってしまうのだ。
また、そうまで自称治療者が思い込めない(信じられない)心理療法は、
現実として他人に効かないのだろうから困ったものである。

よくわからないが、心理療法はセラピストがどれほど自分の方法を信じているかによって
当面当座の効果が大きく変わるような気がする。
いまは元祖のフロイト先生もインチキだとばれかけているが、
現実の怖いところは(フロイトの理論というよりもむしろ)
フロイトの物語、フロイトの自信(狂信)は多くの神経症患者を実際に治したことである。
かかった患者としてみればフロイトは神さまのような存在だったことだろう。
ユング理論は(おもしろいが)ほとんど患者に効果がなかったという話も聞くが、
まあユングのすごさは日本の河合隼雄を結果的に生みだしたことに尽きよう。
ユングはどうだか知らないが、われわれの河合隼雄は確実にわかっていたと思う。
なにかの心理療法(他人の発明)が効くのではなく(効く場合もあるだろうが)、
それぞれがそれぞれの発見をしたときにクライエントは人生に折り合いをつけることを。
それぞれがフロイトなりユングなりアドラーになればいちばんいいのである。
可能ならば自己流、一人一流、それぞれの真実を発見するのがもっともよろしい。
とても難しくなおかつ時間もかかるのだろうが、
その人だけの物語(=世界=現実=リアリティ)を見つけられたらいちばんいい、
というのが師のユングよりも優秀な河合隼雄の心理療法だったように思う。

じつのところ師のユングとおなじで河合隼雄の治療統計結果は闇に葬られている。
どのくらいの人がいかほどの早さで治癒したかの記録が残っていないのだ。
もしかしたら河合隼雄はヤブのカウンセラーだった疑いも否定できない。
しかし、優秀なカウンセラーとはなにかという問題がある。
一般的には主訴(悩み)を可能なかぎり早く解消させるのが腕のいいカウンセラーだろう。
しかし、それがいいことかはかならずしもわからない。
どうせ悩みのない人間はいないのだから、また別の症状が出て来てしまう恐れもある。
とはいえ、サービス業としてカウンセラー屋さんを考えたら、
腕がいいか悪いかは症状がいかに効率よく緩和するかでしか測定できないのもまた事実だ。

本書で知った使えそうな心理療法を紹介する。
物語療法(ナラティブ・セラピー)というのがおもしろかった。
悩める人の苦しみの正体といったら、どれも不幸の物語なのである。
不幸の物語の悪循環による果てしない再生産をどのようにストップするか。
慣れ親しんだ不幸の物語からどのように脱出するか。
手っ取り早く言えば、新しい別の物語を作ってしまえばいいのである。
「なにをやってもダメなぼく」という物語があったとする。
永遠に悪循環を繰り返す物語である。

このとき物語療法では、原因を「ぼく」ではなく別のものに設定する。
陳腐な例で説明すれば、それはたとえばメガネのタイプでもいいのだろう。
メガネのせいでいままでよくなかったのだと原因を自分の外に作ってしまう。
これを心理学用語では「外在化」というらしいが忘れてくださって結構。
いままでとはまるで別のメガネをする、あるいはコンタクトをする。
わずかこのくらいの小道具変更でもカウンセラーとクライエントがその物語を強く信じたら、
悩める相談者は新しい物語を生きることができるようになるのかもしれない。
ちなみに精神科医の春日武彦氏はうつ病が治った患者に腕時計といった、
新たな装身具を記念として買うようにすすめているそうだが、これも広義の物語療法だろう。

創価学会はシステム的にかなりすぐれた最高レベルの物語療法を行っていると思う。
不幸な物語に苦しんでいる人に、それは前世からの宿命が原因だと納得させる(外在化)。
これからは勝利の物語を生きればいいと
ご本尊(小道具)まで用意しているのだからさすがである。
物語療法はいかに複数の人間が新しい物語を強く信じられるかが勝負の分かれ目だ。
その点、創価学会は定期的に座談会をやって信心を高め合っているから非常によくできている。
ただし、問題なのはそれぞれの多彩な個性が失われてしまうことだ。
どの人もみんな勝利の物語という同色(三色旗!)のペンキをぶっかけられてしまうのだから。
それでも虚無に苦しんでいるよりは自らを勝利の物語で騙すほうがある意味では幸福だろう。
もうここらへんになってくると好き嫌いの問題になってしまって結論は出ない。
自分だけの新しい物語(=世界=リアリティ)を作るのは非効率的で苦労も多いだろうから、
みんなから愛用されている既成品の勝利物語にどっぷり浸かるのもいいとわたしは思う。

さてさて――。
クライエントをいきなり罵倒するというショック療法めいたセラピーもあるらしい。
これは効くときは効くだろうが、絶対にうまくいく方法ではないだろう。
治療者は絶対にうまくいくと信じていなければ効き目はないだろうけれど。
逆接療法というのもアイロニカルでおもしろい。
たとえば、どもりの人にはもっとどもりなさいよと逆の指示を出すのである。
どもらないようにするからどもるのだから、ときには効果を見せるセラピーになろう。
不眠症にはこれしかないのではないか。
眠らなくてもいい、むしろどれだけ起きていられるかと逆説的に考えると効果がある。

最後に皮肉なことを言えば、もしかしたらカウンセラーは雨乞い師のような存在かもしれない。
旱魃(かんばつ)で苦しんでいる村に雨乞い師が呼ばれてくる。
この老人の評判はよく絶対に100%雨を降らせるのだという。
雨乞い師は祈祷のためにひとり小屋に入る。
これでなんとかなると村民のあいだに希望が生まれ、
ようやく明るい未来が信じられるようになる。
3日後とうとう雨が降り老人は小屋から出てきたという。
村を去った雨乞い師だが、あるとき彼に再会した村民が雨乞いの仕方を尋ねたという。
彼の答えは「なにもしない」であった。
「やまない雨」も「降らない雨」も100%絶対にないのである。
絶望して破滅的な考えになっている村民に希望の物語を与えるのが雨乞い師だったのである。
セラピストはかならず状態は変化するという希望を象徴した現代の雨乞い師なのかもしれない。
彼(女)は小屋のなかでなにかをしてもいいし、
べつになにをしなくてもときによくなるのかもしれない。
なにもしないでよくなることを信じられたら、あるいはそれが最良なのかもしれない。
しかし、凡夫の身にはなかなか希望を信じられないから、
信じるための手法(儀式)としてあまたの心理療法が発明され続けているのかもしれない。
カウンセラーの運がよければブレイクスルー的な奇跡も起こるだろう。
晴れ男や晴れ女がカウンセラーに向いているのか、
それとも雨男や雨女のほうが向いているのかはわからないけれども。
いざ旱魃(かんばつ)のときは雨男がヒーローになってしまうのがおもしろい。
いまは梅雨だけれども、たいせつな日には晴れ女がそばにいてほしいものである。

「ダマす人、ダマされる人の心理学」(樺旦純/PHP研究所)

→1938年生まれ、高卒の心理学者、樺旦純氏のご著書をとてもおもしろく拝読する。
だれがいつどういう理由で、
大学を出ていないものは学者を名乗ってはいけないと決めたのだろう。
学者とは、学ぶ者である。
ならば、著者のように俗っぽいが現実に役に立つ心理学を求めているものは
心理学者でいいのではないか。
いったいどういうわけで人は大学出の学者しか認めないのだろう?
それこそまさになにかにだまくらかされているのである。
本書は俗世間で通用しそうなだましのテクニックがいろいろ書かれていておもしろい。
間違いなく研究室で発見されたものではなく、娑婆世界での体験から生まれたものである。
つまり、本物ということである。
しょせん俗世間はだますかだまされるかゆえ(悪い意味でも、いい意味でも)、
これらの知識は知っていても悪くない。惜しげなくわたしが参考になったところを紹介しよう。

・選択肢のだましがいちばんおもしろかった。
たとえば10時を示す時計の絵を被験者に一瞬だけ見せる。
このあとに時計は何時を示していましたかと聞く。
このときに「9時でしたか、3時でしたか」という嘘の選択肢で聞くと、
たいてい相手はそのどちらかで答えてしまうとのこと。
人は選択肢そのものを疑えないようにできているのかもしれない。
だとしたら、答案の選択肢のどれにも丸をしないのが正解であるときもあるのかもしれない。
われわれは選択肢を出されると、
ついついそのどれかが答えと思ってしまうような自信のなさを内に秘めている。

・これはわたしもだまされやすくもうどうにもならないと思っているが、
品薄感を出されるとついほしくなって買ってしまうのである。
希少価値ほど人を喜ばせるものはないのかもしれない。
みんながほしがっているという情報にどうしようもなく左右されてしまう。

・禁止をすると人は興味のなかったその行為をしたがるというのは経験から本当だと思う。
見てほしかったら「いやん、見ないで」というのがいちばんいいのだろう。
わざとパンチラして「見たな」と言ってすぐに隠すような行為が人をいちばん刺激する。
人は禁止されているものを禁止されているからという理由で好むようなところがある。
大麻なんて解禁してしまえばアルコール以下だとばれて、
だれも関心を持たなくなるかもしれないわけである(当方残念ながら大麻未経験)。
いまはネットのせいで台なしだが、
モザイク(無修正禁止)は絶対に押し通すべきだったと思う。
禁じられているから、みんな男はあそこに興味があったのである。
「学校に行くな」と命令したら、けっこう不登校児も心理的にあせるのではないかと思う。
パチンコ依存症の患者にいちばん言ってはいけないことは、
「一生のお願いだからもうパチンコだけはやらないで」
であるのはさすがに言うまでもないだろう。

世間知にまみれただましの技術がとてもおもしろかった。
心理学者の著者もにおわせているが、だまされるのはある面でとても楽しいのである。
死ぬまであることにだまされていたら、こんな幸福なことはないとも言いうる。
わたしは高卒の心理学者、樺旦純氏は
そこらの大学の心理学研究者よりよほど本物ではなかったかと思う。

「図解雑学 心理カウンセリング」(松原達哉:編著/ナツメ社)

→河合隼雄の本を読んで実際のカウンセリングを受けてみたら驚くのではないか。
受けたことはないけれど、大半のカウンセリングはみんなから尊敬されるセンセイが
いわゆる悪をいわゆる善にするために「こうしたら」「ああしたら」
と助言してくるものだと思う。
本書でも大学教授で臨床心理士の松原達哉氏が滑稽なことを書いておられる。

「カウンセラーは世間一般の人から人間として尊敬され、信頼される必要がある」(P20)

きっとセンセイと尊敬されたがるカウンセラーが大勢いるのだろうと思わせるに十分だ。
この本なんか読んでいても、まったく世間の善悪を疑っていないのでびっくりする。
ああ、河合隼雄のカウンセリング理論は王道ではなく異端だったのだなと気づかされる。
これはおそらく(日本人のみならず)人間全般が、
権威のあるセンセイから「正しい」指導を受けるというモデルから離れられないためだろう。
本当はなにが「正しい」かなんてわからないのだが、
そこまで深く病んでしまうとカウンセリングではなく精神科に行ってしまうのだと思う。
また指導者が「正しい」ことを疑ってしまうとそもそもカウンセラーになれないのではないか。

心理というのは魔の要素が強いと思う。
いったん気にしてしまうと心理のことが気になって仕方がなくなるようなところがある。
むかしは心の傷なんて唾をつけて放っておいたら治ったかもしれないものを、
いまはトラウマだなんだのと大騒ぎするから逆に悪化することもなくはないと思う。
早く忘れればいいものを心理作業でこじらせることもないとは言えないだろう。
もちろん、カウンセリングを受けてよくなるケースもたくさんあるはずである。
受けたことはないが、直感で言うとカウンセリングこそ相性がすべての世界だと思う。