「薬をやめれば病気は治る」(岡本裕/幻冬舎新書)

→医者の著者がおかしなことを書いている。医者が出す薬をのむのはやめろとか。
薬はのめばのむほど寿命が縮むぞとか(早死にしたいおれはいい情報を聞いた)。
ならさ、岡本さんよお、もう医者を廃業したほうがいいんじゃないか?
そうなったら岡本さんは工場で若い外国人労働者といっしょに働けるかい?
患者がなにを求めて医者に行っているかといったら、薬だよ薬。
一般人は処方薬をお医者さまの許可なしには買えないから通院している。
なかにはこの先生に逢うと安心するという理由で医者にかかっているものもいようが、
岡本さんはそれほど大した人物なのかなあ。
だって、外科医以外はお薬を出すほか仕事がないでしょう?
そりゃあ、レントゲンやCTを見るとか、ないといえば怒られるだろうけれど。
結局著者は、たとえば肋骨を骨折した患者に痛み止めを出さず、
うちのリハビリに来いとかいう努力主義者なんだよねえ。
で、正義派ぶっているから始末が悪い。

「少なくとも医療界で生きていくには、薬のことを悪くいったり、
製薬会社を叩いたりするのはタブーです。
いくら正義を振りかざしてみたところで、
所詮は孤軍奮闘となるだけで、勝ち目はありません。
特に日本は、あまりにも国民がおとなしすぎて大きな声をあげないせいもあり、
正義感あふれるパイオニアはいつも討死にです。
日本という土壌では、正義はなかなか勝てないのかもしれません」(P48)


正義感あふれるパイオニア医師の岡本さんはアメリカで医者をやれよ!
けどさ、岡本先生、英語を話せるのかなあ、いひっ。
まったく薬のないアフリカの僻地とかで医者をやったらいいのかもなあ。
パイオニア医師の岡本裕氏が薬の代わりにすすめているものは努力である。
薬なんかに頼らず、もっと努力をしろ!
どうして限りある時間と持ち金を費やしてわれわれ患者がお医者にかかるのか?
それは国家資格保持者から「努力しろ! 努力が足らない!」と説教されるためなの?
正義のパイオニア医師は言う。

「薬をやめるというのは、むしろ正確ないい方ではなかったのかもしれません。
より正確にいうとすれば、自助努力によって、自己治癒力が高まれば、
薬が自然といらなくなるということなのです」(P161)


わたしは若くしてもう長らく降圧剤をのんでいるが、
そして降圧剤が大して意味のない可能性があることも本を読んで知っているが、
食事療法(しょっぱいもの大好きだもん!)や運動療法をしたくないし(時間がねえ!)、
さらに月に1回近所の美人先生にお逢いするのが
こちらの健康上必要だと信じるがために降圧剤もろもろを服用している。
ふん、早死に上等よ。とはいえ、正義に負ける悪役の自覚はなくもない。
おそらく「薬をやめれば病気は治る」ことも多々あるのだろう。
しかし、疾病利得みたいなものもあるんだから、完全正義の人にはちょっとなあ。

「「死は大事な仕事」しっかり死ぬということ」(ひろさちや・中村仁一/李白社)

→人間は死ぬために生きているとも言いうる。
バイトから正社員になっても係長や部長になっても取締役や役員になっても、
社長になっても会長になっても、いくら社員からお辞儀をしてもらおうが、
「どうせ死んでしまう」し、そう考えたら「生きる意味はない」――。
自分がいなくなったら会社はまわらないとか信じている(信じたい)
スタッフは大勢いるでしょうけれど、実際はそんなことがない。
明日あなたがなにもかもすべて投げ捨てて孤独にインドへ旅立ったほうが、
そのほうがかえってうまくまわるという会社もあるちがいない。
まあ、一度正規ルートからドロップアウトしたら、
よほどの強運がないと日本社会へカムバックはできないけれど。

本書のタイトルは「死は大事な仕事」――。
よくわからないが、
いまわれわれが必死でしている仕事よりも大切なものがあるのかもしれない。
うまく死ぬのって意外と難しいような気がする。
周囲を困惑させて、散財して、身も心もボロボロになって死ぬのは、
いくら大企業の部長さまでもおいやでしょ?
しかし、どうしたらうまくジタバタせずに死ねるのか。
そのために本書では医療業界の裏側をある程度まで暴露してくれている。
ふつうは知っていても周囲の迷惑や自己の保身を考えて業界の裏話はできないんだ。
しかし、もう余命が少なかろう宗教ライターと町医者以下の老人ホーム医師は放言する。
たとえば、いま流行っている糖尿病に効くとされる糖質制限食はどうか?
あと数年で死ぬだろう町医者以下の老医療者は「本当のこと」をぶちまける。

「こんな紹介しましょう。
いつだったかNHKのクローズアップ現代で糖尿病の糖質制限食を取り上げていました。
昔は総カロリーがなんぼで、
脂肪とかタンパク質を一日何グラム摂取しなさいと指導していました。
それが今はほとんど糖質摂取するなとか、糖質制限で糖尿病はよくなると。
以前とは異なることを言う医者が出てきています。
番組に出演していたのは、糖尿病学会の理事でした。
つまり、体制派です。
たとえ糖質制限食が効果をあげていても、悪い例を提示するわけです。
彼[理事長/権威者]は、糖質制限食を続けて、歩けなくなった人、
目が見えなくなった人の例を挙げ、
だから勝手なことはするなと主張していました。(……)
異端の人間が立ち上がろうとしても、
そんなものは全部潰(つぶ)されていってしまうのが医療の世界。
もし異端の意見が真っ当であることが証明され、取り入れられでもしたら、
自分たち体制派の権威は丸潰れです。
長い時間をかけて自分たちが営々として築いてきたものが
一気になくなるわけですから、彼らも必死なのです」(P33)


しかしまあ、世の中そんなものだろうと言えなくもない。
我われはこのように情報搾取され、しかし医療者に感謝しながら死んでいく。
何度でも書きたいが、わたしは医療従事者ほど尊い仕事はないと思っている。
今夏、熱中症で倒れて救急車で運ばれたとき、
そこの病院のナースの仕事ではあるのだが、その厚情はいまで忘れられない。
医者やナース、薬剤師はやはりふつうの職種よりも偉いような気がしている。
とくにナースがそう。熱中症のときは激痛だったが、
あのナースさんにどれだけ助けられたか。励まされたか。慰められたか。
翌日、会社に行き、からだのふしぶしが痛いので今日くらい休ませてくれると期待したが、
職人あがりらしい副工場長コカ氏からは「では現場に戻ってください」だけだった。
それもいまではある夏の暑い日のいい想い出。
輝かしい感動的な忘れられないメモリーのひとつ。
苦しみっていけないことなんだろうか。
宗教ライターのひろさちや氏は子どもを自殺で亡くした両親にこう言ったという。
就職直前の大学生の愛息を自殺で亡くした両親は、
わらにでもすがる気持で権威者に泣きつく。
「ひろ先生、どうしたらいいんですか?」

「私はこう返しました。
「どうしようもないだろう。解決策なんかあるわけがないじゃないか。
あなたがはね、息子さんは苦しんで死んだんだぞ。
一生懸命苦しんで死んだんじゃないか。
あなたがた二人も苦しめばいいんじゃないか。
なんで自分の苦しみを少なくしたい、苦しみを軽減したいと思うんだ。
苦しみを減らそうだなんて厚かましいぞ!
十分、しっかり苦しめ。それ以外ないぞ」
それしか言いようがないのでそう言ったら、
夫婦は十分間くらい黙っていました。
そして、わかりましたと帰っていきました」(P229)


生活のうえでの役立つ情報をちょっと書いて場をやわらげなければ。
薬屋の息子のひろ先生も、その弟の薬剤師さんも、
さらにさらに中村仁一医師も言っていたが、
薬局で売っている市販薬、大衆薬、一般薬は驚くくらい効かないらしい。
薬局で売っているものは、漢方でさえ成分が非常に弱められており効果がない。
今年はとくに大勢の医者、ナース、薬剤師、病院職員のお世話になりました。
いちばん感謝したいのはナースさんかなあ。

さてさて、老年にしていきなりメジャーデビューした中村仁一医師は言う。

「自分たちに都合のいいデータのみを示してくるのは
医療界の常識と言っても差し支えないと思います。
特に「三た理論」というのがはびこっています。
「飲ませた」、「治った」、「効いた」の三つの「た」です。
自然治癒かもしれないし、薬を飲ませなくともよくなったかもしれないけれど、
飲ませた、治った、効いた、
だからこの薬はいいのだという「三た理論」がまかりとおっているのです」(P121)


言っちゃいけない本当のことを言えば、
医者だって患者の病気がどうなるかなんてわからないし、
同時にどの薬が効くのかも言っちゃいけないのだろうが真実はわからないと思う。
でも、結果的によくなっているケースが多いからいいじゃん、みたいな。
当方の「お腹の風邪」がもたらす吐き気は改善のきざしがみられないので困る。
もう新興宗教にでもすがっちゃいたいくらい。
今現在勧誘メールは来ていない。恐れるなかれ。当方そこまでの悪人ではない。
勧誘メール1本よろしゅうお願いします。無料ならスピリチュアル系でもいいっすよ。

「我ら糖尿人、元気なのには理由がある」(宮本輝・江部康二/東洋経済新報社)

→創価学会の紫綬褒章作家・宮本輝と医師の江部康二理事長の健康対談本。
糖質制限食が糖尿病に効くというある医師の新説(珍説?)を
文学界の長老権威が保証している本。
さすがにまだ糖尿病は来ていないからよく知らないけれど
(父親は糖尿病だからいずれ来るかも)、
糖尿病もまた数値異常の病気ではないかしら(血糖値)。
ある数値が医者の規定したもの以上だと異常(糖尿病)だと診断されるという。
このへんはよくわからないで書いているので間違っていたらごめんなさい。
高血圧とか高脂血症はあれは完全に数値異常の医者造成病気だよね。
だって、医者が正常か異常かの数値を決めていて、さしたる根拠はないわけだから。
ただ高血圧の基準値を下げれば医薬品会社が儲かるという話だけで。

けっこうふつうに生きている人というのがいるものである。
それほどお金に困っているわけでもなく、かといって夢中になるものもないという人たち。
そういう人たちのなかで目標のようなものをほしがる人がいて、
それが健康になっているような気がする。
本書は最初は糖質制限食(ごはんやパンを食べない。甘いものもダメ。ジュースNG)は
糖尿病に効果があるという話である。
ビールや日本酒はダメだが、ウイスキーや焼酎はのんでもよく、
食事はごはんやパンこそダメだが魚肉チーズなんでもOKというすばらしい話だ。
わたしも糖尿病と診断されたら、99%糖質制限食を始めることだろう。

そこでストップしていたらよかったのだが、本書は暴走をスタートする。
糖質食品は統合失調症を悪化させるだの、アトピーによくないだの、
あたかも糖質食品は諸悪の根源のごとくである。
半面、糖質制限食はまるで創価学会のような絶対正義あつかい。
糖質制限食はダイエットになるし、万病に効くし、ガンも治すとか吹かしている。
それってまるでまるで創価学会的な思考じゃないですか。
正しいご本尊に向かってお題目を上げたら万病快癒、目的成就、正義正義みたいなさ。
人間ってつねに糖質制限食(創価学会)的なものを
求めてやまない存在なのかもしれない。
ここで人間を庶民って言い換えたら、
インテリぶるなよってすぐに批判コメントが飛んでくる。
庶民はつねに糖質制限食(創価学会)的なものを求めてやまない存在なのかもしれない。

もちろん、本書にも有益な情報も多々掲載されていた。
糖質制限食は長期データがないらしいね。
10年、20年、30年、糖質制限食をやったときのデータがいまだ存在しない。
わたしからしたら、そもそも10年も糖質制限食なんかできるもんかと思うけれど。
だって、メシはうまいしコンビニおにぎりもいけるし、
なにより寿司を食えない人生ってなんだ?
当方はパンとはあまり縁がなかったが、パンはパンでうまいだろう?
なんでも食べ放題で50で死ぬのと糖質制限食で90まで生きるのなら、
いうまでもなく当方は前者を決然として選ぶ。
というか、糖質制限食ってお金持しかできないような気がする
(ヌードル系NG、つまり冷凍パスタどころかカップ麺も一切禁止)。
それから、それから医療情報。
病院は薬を出せば出すほど儲かるというのは、
あれはむかしの話でいまはそうではないらしい。
薬価のコントロールを病院ができなくなって院外処方が増えたとのこと。
ということは、お医者がいっぱい薬を出してくれるのは、患者を思ってのことなんだなあ。
患者の期待に応えるためにお医者さまはお薬をたくさん出してくれている。
わたしも病院にかかって薬が出なかったら損をした気になるしね正直。
そういえばここ10年くらい薬局で目薬以外の大衆薬を買ったことがない。

本書で創価学会の重鎮で紫綬褒章作家の宮本輝氏が仏法的説教をしている。

「仏教の言葉に、「賢位(けんい)に居(こ)す」というのがあるんです。
修業を積んだと本人も言い、世の中もそう思っている僧侶がいるとします。
そんな僧侶がある程度の位にまで進むと[紫綬褒章でっか?]、
自分の頭のなかで考えている仏教観、思想の範囲に閉じこもろうとしてしまうんです。
自分が積んだ修行、その高い地位、つまり賢位から出ようとしなくなる。
そのことを「賢位に居す」と言うんです。(……)
それはもう、あらゆる世界にあります。
医者の世界だけではなく、世の中の専門職と言われている人は、
自分の信じてきたやり方でその地位を築いてきたわけですから、
どうしてもその権威を信じてしまうんです。こうした人たちの最大の問題点は、
自分の知識とか知恵などの範囲の外にあるものに対して、
どうしても心を閉ざしてしまう。心を開こうとしないんですね」(P32)


あたかも自分は「賢位に居す」とは無縁だ、
と言いたげな受賞歴豊富な文壇権威のお言葉である。
編集者やカメラマンといったお連れなしに、
作家がひとりでまったくのひとりでブッダの修業地であるインドを1ヶ月でも旅したら、
かの権威の文学作品はどのような変化を見せるのだろうか。
芥川賞選考委員として
「賢位に居す」状態にいるいまの宮本輝氏にはできない相談だろう。
せいぜい糖質制限食で120歳くらいまで長生きしてくださいませ。

「大学病院の不健康な医者たち」(米山公啓/新潮OH!文庫)

→大学病院の助教授医師から売れっ子ライターに転身した著者の自伝めいたもの。
自分がいかに有能な神経内科医で、
しかし上からにらまれ、いかに大学病院から追い出されたかを、
多少被害妄想過剰とも言えなくもない視点からつづったルポである。
とはいえ、完全に医師国家資格を捨てるわけではなく、
細々と診療はつづけ医師という世間的高身分は
ちゃっかりキープしている世渡り上手の作家で医師の先生さまによる内情暴露本。
いかに自分が「仕事ができる」やつかを強烈にアピールしているのが、
あるいは読者によっては鼻につく著書かもしれない。
禁煙ファシズムの先駆者でもあるので喫煙者には「敵」として存在をご認識いただきたい。

病気を治すっていったいどういうことなんだろう。
病気のなかには医者が勝手に病気をつくって大騒ぎして、
治さなければとんでもないことになると投薬治療しているものも多いのではないか。
個人的には患者に自覚症状がない病気は、果たして病気なのかという疑問がある。
高血圧とか高脂血症は、ぶっちゃけ自覚症状なんてほとんどないでしょう?
あれらは数字のうえでの異常にすぎず、
その異常というのも医者のお偉いさんが勝手に決めた基準値からもれているだけである。
頭痛とか痛風とかぜん息とか、実際に苦痛のある病気とそうでないものがある。
わたしなんかも高血圧で薬を飲んでいるが、
高血圧で痛いとか苦しいとかそういう自覚症状はまったくなく
(もっとも文豪の三浦哲郎レベルの高血圧になると明確な自覚症状があるらしい)、
「薬は身体に毒で早く死ねる」という裏情報をどこか信じて服薬している。
一度痛風をやったことがあり(あれは死ぬほど痛いぞお)、
尿酸値を下げる薬は降圧剤とは異なり、ありがたく服用している。
血圧を下げる薬は飲み忘れても気にしないが、
尿酸値の薬はそういうあつかいではない。

いま重度の顔面神経麻痺でメチコバールを処方されているが、
現在の希望はこの定番薬しかなく、絶対に飲み忘れないぞと誓いながら、
効いてくれと祈りながら1日3回体内に摂取している。
あんがい飲んでも飲まなくても変わらないのかもしれないけれど、
そう考えてしまうとあまりにも「あんまり」なので。
医者サイドもメチコバールがもしなかったら困ることだろう。
重度の顔面神経麻痺患者をまえにして、
「治らないことも多いです」と本当のことを言って、なにも薬を出せなかったら、
医療者としての無力感におそわれ、
善良な医師ならこころを病むこともあるのではないかと思う。
ちなみにわたしはまだギリギリで高脂血症とは診断されていないが、
それでも(血液検査でわかる)コレステロールは高めである。
高脂血症も患者サイドに自覚症状がない医者がつくった病気だが、
いざ高脂血症と言われたらいまさらこだわりはなく薬をもらうつもりである。
著者は精神科医の春日武彦氏とは異なり、積極的に投薬治療を行なう医者の模様。
以下はまったくの正論だと思う。
医者の健康指導は意味がなく、そんなことをする暇があったら投薬しろよ!

「高脂血症の治療はどんな方法でもいいから、
とにかくコレステロールを正常値まで下げることなどといくら言っても、
実際に正常値にならなければなんの意味もない。
だから[大学病院の]健康管理部で薬を出してしまおうということになった。
コレステロールを下げるには、一日一錠薬を飲めばいい。
しかしそのために大学病院のあの混んだ外来で、
三時間も待たされ通院するのはばかげている。
近くの医者を紹介しても、「まずは運動とダイエットです」という、
また振り出しに戻るような指導しかしてくれない」(P127)


薬が嫌いな人って思いのほか多いような気がする。
「薬は毒」というのは、かなり本当のことなのだろう。
長生きなんて絶対にしたくない当方はこれからもせっせと医者に通い、
大量服薬に励もうと決意を新たにしたしだいである。
しろうとくさい文章が不快なところもあったが人は肩書だから、
大学病院助教授まで登りつめた著者の本を批判するつもりはない。
著者の本は数冊読んでいたようで、
以下にリンクをはった本のほうが数段おもしろかった。

(関連記事)
「医学は科学ではない」(米山公啓/ちくま新書)←名著!
「「頭がいい」とはどういうことか」(米山公啓/プレイブックス・インテリジェンス)

「患者さんには絶対言えない 大学病院の掟」(中原英臣/青春新書)

→暴露本は好きだから、どれほど唖然とすることが暴かれているかと思いきや。
そもそもおのれの医師国家資格をキープしたままで書かれた本だから、そんなもんか。
医師資格を持ってない人がなにを言おうと大して聞こうとしないのが大衆。
だから、医師の資格は手放すことはできない。
しかし、自分も医師の群れのなかにいると村八分にされるような暴露は書けない。
「医師なんてやーめた」と資格を捨てたハグレものが暴露をしたらおもしろいのだろう。
それはいままでの人間関係(師弟同僚関係)をすべて捨てるということだから、
たいがいの医者には無理な注文なのだろう。

一般的に町医者よりも大学病院のほうが権威がある。
もっと言えば、町医者よりも大学病院の医師のほうが医療の腕は高いと思われている。
わたしはそうは思わないが(町医者への蔑視はないつもりだが)、
そもそも町医者自身が難しそうな病気や怪我にめぐりあうと大学病院をすすめてくる。
医者業界における、この大学病院偏重主義はどういう理由によるのか。

「この国では、医学生を教育するのも、若い医者を養成するのも、
医学の研究をするのも、新薬の効果をチェックするのも、新薬の認可を審査するのも、
大学病院の権威ある医者に任されています。
さらに、最新の医療機器を導入するのも、いろいろな検査の正常値を決めるのも、
すべて大学病院が中心となって行なっているのです」(P4)


そうは言っても、これはどうしようもないのである。
いくら民間で治療者を育成しても、彼(女)らは祈祷師、占い師あつかいだろう。
わたしは医者も正体は祈祷師や占い師のたぐいだと思っているが、
世間的評価はお医者さまのほうが民間治療者よりも桁違いに偉いことになっている。
では、どうして医者にかかるかといったら、国民皆保険のおかげだろう。
ケチな話をすると3割負担ではなく、全額負担ならかなりの病人が減るはずである。
よく知らないが高齢者は1割負担なんでしょ?
そりゃあ、計算高いばあさんは高い占い師のところに行くよりも、
安い医者に通って病気なのかなんなのかわからない愚痴をぶちまけるだろうよ。

庶民の名医信仰というのもいまのわかしにはわからない。
医者なんてみんなおんなじじゃないかという思いがある。
名医は混むから新米のフレッシュ医師(女医ならなお可)に診てもらい、
そのビキナーズラックのようなものにあやかりたいと思っている。
どうして老いた庶民って肩書信仰、名医信仰のようなものが激しいのだろう。
うちの父の口癖は、「おれは大学病院の教授に診てもらっているから絶対大丈夫」。
息子からしたら、わけがわからない。
「おまえはな、ものを知らない。大学病院の教授だぞ。
その教授先生が結果を見て、土屋さん、これは大丈夫。安心できますと言ったんだ」
定期的に大学病院教授の健康お墨付きをもらっている父は、
にもかかわらずどうしてか今年の2月に脳内出血で倒れた。
病室で父にさんざん嫌味を言ったものだが、
先日聞いたらあのころのことは覚えていないらしい。
教授先生医師に定期的に診てもらっていても、病気は事前にわからないのである。
祈祷師や新興宗教でさえ「教授」のようなポストがあり、
そのほうが信用を集められるというのはふしぎ極まりない。
「みんなの名医」にすがるより「わたしの名医」に賭けるほうがおもしろいし、
実効的だ(現実に効果がある)と思うけれども、世間は肩書依存症である。
マスコミ医者、タレント医者の著者は言う。

「……教授というポストと臨床医としての腕の間はほとんど相関がありません。
大学病院のなかで内科や外科といった診療科目の最高の地位である教授という
ポストについた医者は、腕がいいことよりも
学内政治や調整能力にたけているというこtが少なくありません。
それこそ『白い巨塔』の財前五郎ではありませんが、
一癖も二癖もある医者がたくさんいる医学部の教授会で
多くのライバルたちに勝たなくては教授にもなれないのです。
腕よりも政治力と経済力ということになるわけです。
そして、もう一つの問題が、
医学部の教授になるには腕よりも大切なものがあります。
それは「業績」という名前の論文です。
しかも、論文の中身ではなく、論文の数がなによりも重要な評価の対象になるのです。
教授というポストと臨床医としての腕の間はほとんど相関がないといったのは、
医学部の教授選では、臨床の腕がいい候補よりも
論文の数が多い候補のほうが有利になることが多いからなのです」(P185)


著者はまさか自分のことを「腕がいい」医者だと思っているのだろうか?
いやいや、そもそもの話、
医者で自分のことを「腕がいい」と思っていない人のほうが少ないだろう。
「腕のいい」医者とは、ヤブ医者の反意語だろう。
わたしはたとえ世間ではヤブ医者とされる評判の悪い医者でも、
わたしの病気を治してくれるのならば彼(女)を名医だと思う。
いくら世間から名医と名高い教授先生でも、
当方の苦しみを軽減させてくれなかったらそいつはヤブ。
名医としての評価の基準をどこにおくかである。
世間(多数派)の評価を気にするか、
自分との相性や実利性を重んじるかの違いといってよい。
どれだけヤブ医者と後ろ指をさされる人でも、少数の患者ならきっと救っているのである。
自戒を込めて最後に書くが、「みんなの名医」を探すよりも「わたしの名医」と出逢いたい。

「地域リハビリテーション」(長谷川幹/岩波アクティブ新書)

→パンダ的視線で言わせていただくと、
人間ってどうして人様の役に立ちたがるんだろう。
パンダなんて放っておけば自然消滅するくらい無能なのに、
みんなから愛されて役に立っているじゃないですか?
リハビリ病院に入るような患者さんは、
自分が役に立たなくなったことに最大のショックを受けることが多いらしい。
たしかにそれまで人を「役に立つ/役に立たない」でしか見てこなかった、
いわゆる有能な企業人が要介護状態になったときの動揺を想像すると笑え、
いやいやいや、笑うなど、と、と、とんでもなく同情いたします。
どうしてかと言うと、そういう人がいちばん嫌いなのは人から同情されることだからね、
なんちゃって、アハハ、ジョークっすよ。
べつに役に立たなくてもいいって思うけどなあ。
だれかが自力で用を足せなくなるから介助するものが必要となり、
その相手の人の役に立つことができる――そう考えるならば。わかりますか?
役に立たない存在が、人の役に立ちたがるだれかの役に立っている。
「ご迷惑をおかけして」は人の役に立ちたい人の役に立っているとも言えるわけ。
これは屁理屈で開き直りが過ぎるかもしれない。

ふたたびパンダ目線でものを言うと、
どうして人間って一般的に人の世話にはなりたくないのに人の世話を焼きたがるの?
わたしはパンダなので、けっこう人のお世話になっても平気な野獣メンタルがある。
おかげさまで生きているようなところがあり、
かといって人間様にお辞儀するわけでもなく、
パンダのようにのほほんとナチュラルにテンネンに生きているけれど。
それでも人間の部分が残っており、いろいろ考える。
どうして人は人の役に立つことを善だと考えるようになったのだろう。
この考えのせいで、人の役に立たないリハビリ病院患者は悪となってしまう。
もちろん、これは理念のうえの話で、実務介護なんて当方には想像も及ばぬ世界。
リハビリ病院に勤務している人はただただ尊敬するし、給料を上げてやれと思う。
みなみなとても美しい彼(女)らの心中に人の役に立つ喜びがあるのなら、
金の話にしてしまうのはよくないのかもしれない。
ペットの犬や猫って飼い主の役に立っていないのに(高額品ならブログで自慢できるか)、
しかしその役に立っていない無能性が役に立っているところがあるように思う。
わたしは犬も猫も嫌いだけれど。
要介護患者は犬や猫ではなく、わがままを言う人間だから話は別次元なのはわかる。

どうして人間って人に役に立ちたがり、自分がいかに役立つかを誇るのだろう。
その思考で突き進めば、要介護状態のやつは死ねっていう理屈になる。
でも、現代日本は(むかしは姥捨て山の)役に立たない老人が多く生かされている。
いまの日本って奇跡的な助け合い社会なんじゃないかなあ。
いったい役に立つ社会的有能な人はそんなに偉いのだろうか?
役に立たない人も「役に立たない人」の役をすることで
人様の役に立っているのではないか?
「おまえは役立たずだ」と言われたときに、こんな言い訳をしたら殴られるからご注意あれ。
「ぼくはパンダなんだも~ん」という回答のほうがまだましだろう(いや蹴られるぞ)。
リハビリとは役立たずを少しでも役立つように変える医療行為。
でもさ、ヤクザが悪人の役をやっているように
患者も被介護者という役を演じていると考えたら、それほど役立たずでもあるまい。
「役立たず」は「役立たず」の役を演じているのかもしれない。
わたしはどうしてかあまり人の役に立ちたいという願望がないことの
言い訳をだらだらしてみました。
全国の医療従事者のみなさん、とくにリハビリ病院ご勤務者、ご苦労様であります。
あなたたちは偉い。
――うん? 人の役に立つことが偉いのか? という堂々巡り。

さて、本書を読んで知ったがリハビリは医者のすることがほとんどないらしい。
リハビリ医療では医者が役立たずなのがおもしろい。
権威として存在しているだけでいいんじゃないですか?

「かつて結核などの感染症には薬が効果を発揮して
治癒することができた時代に中心的な役割を担ってきた医師は、
診断、治療(治癒)は得意な分野であるが、
治癒せず障害が残った場合にどうするのかという方法論は、
残念ながら未だ未整備である。
そのため、リハビリテーションに関わる医師は少ないのが実情である」(P16)


「リハビリテーション 新しい生き方を創る医学」(上田敏/講談社ブルーバックス)

→明日だれが倒れて半身麻痺(まひ)になるかわからないのである。
健康診断の結果がぜんぶOKでも脳卒中で半身麻痺になる人はいくらだっている。
そこで入るのがリハビリ病院というやつである
果たしてリハビリって医学なんだろうか?
だって行った人ならわかるでしょうが、リハビリ病院に医者はほとんどいないでしょう。
リハビリってどこか宗教めいたところがある。
まあ、そもそも医学がそうだから、だとしたらリハビリも医学になるんだろうなあ。
本書でリハビリの権威がばらしていた。
脳卒中で半身麻痺になっても数ヶ月で急速に回復することがある。
本人は自分ががんばったからと言うものだが、
医学的にはそれはそれだけ脳の故障個所が少なかったというだけであると。
たしかに身体をいくらリハビリしたって結局は脳なんだから……。

知人が脳神経外科の先生に聞いたことがあるという。
脳がダメージを受けた場合、本人は病識(病気だという自覚)があるんですか?
「そこらへんが境い目なんですよね」と言われたという。
リハビリしても完全回復はしないが、しかし機能がかなり回復することもある。
それはリハビリの成果なのか、それとも脳のダメージが少なかったからなのか?
でも、リハビリしたらよくなるというのは病者の希望である。
無理だって言われたら絶望しちゃうもんねえ。
結局、医学ってそういうことじゃないのかしら。
患者にとりあえず当面の行動規範を示すというか、まあ時を待ちましょうというか。
リハビリ病院でよくなったらそれはリハビリの効果のような気がするけれど、
もともと脳がそこまでダメージを受けていなかったという解釈もできるわけで。
そりゃあ、なにもしてないよりはリハビリをしているほうが精神衛生上いいだろう。
以上、人生リハビリ中の脳に欠陥があるという病識を持つ、
国家非公認の自称障害者のメモでした。
障害を持つ子どもには引っぱたいてリハビリさせるのが愛なのか、
やさしく見守っているのが愛なのかは自己愛ともからむ問題で難しい。
わたしが子どもだったら後者の親のほうがいいなあ。

医者はどれだけ自然にさらりと嘘=希望を言えるかが手腕である。
著者はけっこうな名医ではないかと思う。

「私はこれまで、障害による深刻な心の悩みから立ち直った人をたくさん見ているが、
そのような苦しみから立ち直った人は、
人間的に実に立派な、尊敬すべき人になる。
ベートーヴェンではないけれども、「苦難を突き抜けて歓喜へ」
というのはリハビリテーションでも真実だと思うことがある」(P193)


おいおい、あんた名医だなあ。

「医学部の大罪」(和田秀樹/ディスカヴァー携書)

→いちおうは医師の国家資格をお持ちの東大の和田さんの医療批判本を読む。
東大ならぬ早稲田のほうのスーパーフリーな和田さん(性犯罪者)は、
まだ出所していないのかなあ。
東大の和田さんも早稲田同様、発言がスーパーフリーでよろしい。
本書で知ったが、スーパーフリーな発言をするとたいがい干されるらしい。
独特なガン治療理論で有名な近藤誠医師っているじゃないですか。
本書で知ったが、あの医師は慶應の医学部を首席で卒業。若くして留学。
スーパーエリートコースを歩んでいたらしい。
それが88年「文藝春秋」に「乳ガンは切らずに治る」を発表したことで大転落。
医学部教授たちににらまれ、結局ずっと講師のまま出世できずに終わったらしい。
当時の教授たちが引退した15年後、
近藤誠医師の乳ガンへの考えは「正しい」ことが認められ、
医療現場でも乳房を切らない手術が主流になったという。
どうしてこういうことが起こるのか?

「五〇歳で教授になった人は、その時点では知識も技術も一流なのでしょう。
その一流の知識と技術を認められて教授になったのでしょう。
ところが、年々医学は進歩する。一五年もたてば、当然古くなります。
それまでの常識が覆されたり、
自分が名を上げた技術が否定されたりすることもあるでしょう。
ところが、教授になった人のほとんどは、それを認めないのです。
そりゃそうでしょう、自分の医療、自分の手術の正当性が覆されたりしたら、
おまんまの食い上げ、メンツも潰れます」(P79)


若かりし近藤誠医師は「もてない男」の小谷野敦塾長とおなじで、
世間というものを知らなかったんだなあ。
でもまあ、後年「正しい」ことが証明されたのだから恵まれているとも言えよう。
近藤誠氏のようなケースもあることを考えると、
著述家としては売れっ子だが、
医者としての腕は定かならぬ東大の和田さんの主張も「正しい」のかもしれない。
なるほど、と思ったところがある。
血液検査でわかるコレステロールというものがあって、
さらに善玉コレステロール(LDL)と悪玉コレステロール(HDL)に分かれる。
善玉が低くて悪玉が高いと
動脈硬化になりやすいというエビデンス(統計結果)も出ている。
しかし、最近になって悪玉コレステロールにも別の価値が見いだされるようになる。
悪玉コレステロールが高い人は動脈硬化になりやすいがガンにはなりにくい。
著者の専門の精神科領域でも、
悪玉コレステロールが多いとセロトニンが脳に運ばれやすく
「うつ」になりにくい傾向があることがわかってきた。

「つまり、LDLコレステロールは、血管とか心臓にとっては「悪玉」でも、
免疫とか脳には「善玉」らしいのです。
これは、じつは非常に示唆に富んだ発見です。
すなわち、総合診療医の発想から言えば、これは本当に悪玉か善玉かという判断は、
全部プラスマイナスしたときにはじめて決まるわけであって、
循環器の医者だけに決めさせることはできない、ということだからです。
コレステロールに限ったことではありません。
どの臓器の検査データも、じつは、一筋縄でいくものではありません。
たとえば、GOTは、一般には、肝機能を見るために用いられるわけですが、
心筋梗塞のときも値は上がります。
肝臓の専門医が、「このデータがこんな値だから、まずい」と、
肝臓だけに限って言うべきことではないのです。ひょっとしたら、
この値が高いほうがよい別の身体の部分もあるかもしれないのですから」(P56)


これはものすごい革新的な「正しい」ことのような気がしてならない。
なにかの数値が悪い(?=標準値から逸脱している)おかげで、
身体の別の部分がよくなっていて、全体としてうまくいっていることは多いのではないか。
変に一部を治療する(=標準値に戻す)とかえって全体が狂ってしまうというか。
作家の三浦哲郎はものすごい高血圧だったらしいけれど、
そのおかげでハイテンションで創作ができたかもしれないわけだから。
最新の薬で血圧を下げていたら、フラフラしてなにも書けなくなっていたかもしれない。
わたしも薬で血圧を下げているけれど、
エビデンスとしては脳卒中になる確率が10%から6%になるくらいらしい(132頁)。
薬で血圧を下げていても脳卒中になる人は6%なる。
痛風と関係しているとされる尿酸値を下げる薬は絶対に服用したほうがいいが、
降圧剤は人それぞれでいいのだろう。
わたしは塩辛いものを気にせずがんがん食べたいし、
薬をたくさん飲むとかえって早死にできるっていうから(これはマジみたいよ)、
それにせっかく国保も払っているので血圧を下げるジェネリック薬品をのんでいる。
けっこう長く血圧とはつきあってきたが、血圧管理は意味がないのひと言。
塩分をたくさん取っても低いときは低いし、
どんな運動を日々していても高いときは高く、
そしてこれが重要なのだが血圧が高くても低くても自覚症状も痛みもなにもない。
三浦哲郎くらいの高血圧(200近い)になると頭痛が出るらしいけれど。
しっかしさあ標準血圧の基準だって年々、根拠もなく変わっているんだ。
まあ、高血圧(基準値以上)を増やせば薬が多く売れるから、そのへんはゴニョゴニョ。

治せば(標準=平均に戻せば)いいってもんではないのだろう。
うつ病なんかも下手をすると、
治したらかえって動脈硬化を起こし心筋梗塞になってしまうかもしれないわけで。
脳梗塞で半身不随になるのとうつ病はどちらがいいのかわからない。
うつ病を治しても心筋梗塞で死んでしまったら、どちらがいいのかって話。
部分と全体という話をすれば、うつ病というのは全体としてどうなのだろう。
だれかがうつ病になって社会から落ちこぼれるから、
その空いた枠に出世できた人もいるわけでしょう。
いままで夫が仕事中毒でうんざりしていた妻が、
配偶者のうつ病のおかげでいっしょにいる時間が増えて嬉しいということもありうる。
説教が好きながんばり屋のお父さんのことを大嫌いだった息子が、
父のうつ病をきっかけに発奮することだって絶対にないとは言えない。
これまでふんぞり返っていた父親がうつ病で寝たきりになったら笑っちゃうよねえ。
子どもの人格障害とか迷惑きわまりないけれど、
それで夫婦仲がうまくいっている可能性もある。
東大の和田さんの意見を拡大化してまとめると、
悪玉といわれる要素があるからよくなっている部分もあり、
そして悪玉が存在するおかげで全体としてプラスマイナスがゼロになっている、
という見方もできなくはないということだ。
先日、近藤誠医師のいた慶應大学病院で血液検査をしてもらった。
GOT(肝機能)が基準値よりもちょっと高かったけれど、
どうしろとも慶應大学病院の医師は言わなかった。
GOTが高いせいでもしかしたら全体としてバランスが取れているのかもしれない。
まさかお医者さんがそこまで当方のことを考えてくださったわけではないでしょうが、
あるいはあの先生は相当の名医ということもありうる。
前回の投薬のおかげかどうか悩んでいた異様な吐き気も取れたし。
そのぶん悪くなっているところもあるんだろうけれど(それがGOTとは言わないが)。

東大の和田さんのみならず、いろんな医者がぶっちゃけトークで言っているが、
長生きしたいなら医者にかかるなっていうのは真実のような気がしてならない。
わたしは長生きしたくないから医者にかかっているところがある。
それともうひとつの通院している理由は、苦しみがいやだから。
痛いとか吐き気がするとか眠れないとか、
そういう生活レベルの苦痛を除去するために医者にかかるのはいいのではないか?
本当のことを言えば、そういう苦痛も放置しておけばどうにかなる。
そこで軟弱にも医者にかかって薬を飲むと早死にする確率が高まる。
しかし、当方にとって早死には望むところなのでお医者さんもお薬も大好き。
苦痛なんかさ人生修行とか思わないで、さっさと薬で取っちゃえばいいじゃん。
20代のころ頭痛で心底苦しんでいたが
ロキソニン(痛み止め)をのんだらその瞬間に痛みが消えたのには悲しくなった。
おれの頭痛ってもっと重いものであってほしかった、みたいなさあ。
いまは頭痛は治ったが、ほかに悪いところが出てしまっている。
きっと本当のところ、そういうものなんだろうな。
パーフェクトはありえないというか、パーフェクトを目指したら死ぬっていうか。
健康のことなどいっさい考えないのがいちばん健康なのだと思う。
「そういうことですよね?」と東大の和田さんに聞いたら、イエスと答えてくれるはず。
身もふたもない実験結果を著者は本書で公開している。
なんでも「フィンランド症候群」とかいう名前がついているらしい。

「「フィンランド症候群」についても同様です。
これは、一九七四年から一九八九年までの一五年間にわたって、
フィンランド保険局が行った大規模な調査研究のことで、
循環器系の弱い四〇歳から四五歳の男性一二〇〇人を選び、
しっかり健康管理をする介入群と何もしない放置群に、
六〇〇人ずつ分けて、健康状態の追跡調査を行ったものです。
最初の五年間、介入群は四ヵ月ごとに健康診断を受け、
数値が高い者にはさまざまな薬剤が与えられ、
アルコール、砂糖、塩分の節制をはじめとする食事指導も行われましたが、
一方、放置群のほうは、定期的に健康調査票に記入するだけで、
調査の目標も知らされず、まさに放置されました。
そして、六年目から一二年目は、両グループとも健康管理を自己責任に任せ、
一五年後に、健康診断を行いました。
その結果は衝撃的なもので、
ガンなどの死亡率、自殺者数、心血管性系の病気の疾病率や死亡率などにおいて、
介入群のほうが放置群より高かったのです。
とくに介入群には何人かいた自殺者が、
放置群にはほぼ皆無に等しかったそうです」(P129)


いま書き写していて気づいたが、どうして自殺者はゼロと書けないのだろう。
「皆無に等しかった」というのは文学的表現で統計的数値ではない。
「何人かいた」というのも文学的表現で、
医者なら何人という数値を明らかにしたほうがいいのでは?
このあたりが「フィンランド症候群」の怪しさだが、
真実はそうであってほしいとわれわれが願うことなのだから、
この調査結果はおそらく真実に違いない。
結局さあ、よほどのことがないかぎり医者になんかかからず
「知らぬが仏」を決め込むのがいちばんなのかもしれない。
ある数値が悪いと知っても放置しておいたら自然によくなることもある。
だったら、そんな数値のことは知らなかったほうがよかったとなるわけで。
日本人がいまもっとも恐れているのはガンでしょう。
ガンに対して最適な態度は、和田さんもこれだと賛成している。

「というわけで、結局、ガン検診ではガンが減らせません。
少なくとも、ガンの死亡者は減らせない。
見つけたところで助からないガンを検診で見つけても、
あまり意味がないわけですから。
それどころか、かえってよくない結果になるかもしれません。
ひょっとしたら知らぬが仏の人生を送っていたほうがよかった、
ということになるかもしれません」(P86)


まあ、確率1%でガンが治る人がいれば、
おなじ1%で難病にかかる人もいるってこと。
そこはもう毎年ころころ変わる医学ごときの分け入られる領域ではないのだろう。
南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏、南無観世音菩薩、南無釈迦牟尼仏、南無南無な~む。

「どうせ死ぬなら「がん」がいい」(中村仁一・近藤誠/宝島社新書)

→日本人のふたりにひとりはガンで死ぬ。だが、ガンにならない方法がひとつだけある。
ガン検診を受けなければガンにはならない。
末期ガンで発見されたら、残りの寿命を楽しめばいい。
なぜなら抗ガン剤を使ったガン治療は死ぬほど苦しいし、寿命も延びないからである。
データはじつのところごまかしがあると近藤医師は指摘する。
患者が医者をかえるなんてよくあることでしょう?
このとき抗ガン剤使用グループは、データに消息不明とカウントする。
しかし、抗ガン剤不使用グループが消息不明になったら、
消息不明ではなく死亡としてデータにカウントするらしい。
このためデータ(医療用語でエビデンスという)のうえでは
抗ガン剤を使用したほうが長生きできるような錯覚を医者も患者も持つにいたる。
長生きできたといっても抗ガン剤の副作用で
ボロボロになりながらではあるが、そこは隠す。
ガン治療を必要としているのはガン患者ではなく、
医療サイドではないかというのが本書の斬新な指摘である。
近藤医師は「本当のこと」を言い放つ。

「実は彼ら[専門医]も[ガンの]外科手術の価値を疑っているんだけど、
単に仕事を失うのがこわいのかもしれません。
「メスを握ってこその外科医、手術がなくなったらなにをすればいいんだ」と。
医者の世界には「自分の治療を生き延びさせたい」
「いま握っている利権、役得を手放したくない」という、
土建業界みたいなところがあります」(P69)


「経済的利益に裏打ちされた偏見が、一番正しにくいと言われています。
コペルニクスやガリレオの地動説も、
教会は教義が崩れるから絶対に認めなかったでしょう。
「抗がん剤は9割いらない」となったら、
世界中の医者の仕事が一気に減りますよ」(P89)


勤行(ごんぎょう)と功徳(現世利益)や仏罰は関係ないと「本当のこと」を言ったら、
創価学会の本部職員や幹部が食い詰めてしまうが、
それとは関係なく人間は「本当のこと」を知ればいいのかという問題もある。
抗ガン剤治療は身体的にはきついのだろうが、医者やナース、家族、
みんなでいっしょに連帯して闘病しているという昂揚感覚は、
あんがいなにも治療をしない孤独な不安感よりもいいのかもしれない。
しかし、また「本当のこと」を書くと、ガン治療を患者に熱心にすすめている医者も、
いざ自分の家族がガンになるとがらりと態度を変えると近藤医師が証言している。
まあ親類や親友に医者がいない一般人はいまのままでいいのではないか。
いまの健康保険制度がつぶれるまでは――。

「病院は手術や抗がん剤治療・放射線治療を、すればするほど利潤があがります。
患者・家族には、主治医の治療方針に従わないと
診察してもらえなくなるなるのではないか、という恐怖がある。
一方でマスコミが「がん難民」などと言って
患者の恐怖心をあおって販売部数を上げようとする。
また患者やその家族は、外科手術、抗がん剤治療、放射線治療を
受けることでがん保険金の支払いを受ける。
そして保険会社にとって、がん保険はドル箱です」(P118)


ああ、そっかあ。民間のガン保険に入っていたら、治療を受けなきゃ損だって思うわ。
なーんかガン保険に入るとガンになる確率が高まるような気がするけれど、
だれか果敢にも調査した人はいないのだろうか?
いままで慶應大学の近藤医師の言葉ばかり採録してきたが、
これでは権威主義のように思われかねないので、
町医者以下の老人ホーム医師の中村先生の名言を紹介させていただく。
これはガンのみならず医療全般、人生全般にいえることだろう。

「エビデンス[データ]があるといったって統計上のことであって、
個人がどうなるかということとは別問題ですよね。
医療は「不確実性」のものですから、結果はやってみてのお楽しみなんですよね。
前にも言ったように、医療は一種の〝賭け”〝命を担保にした博打”とも言える。
人事を尽くすのはいいけれど、最後はやっぱり「天命にお任せ」です」(P169)


けれど、天命にお任せすることができず、
最後の最後になると新興宗教にすがるものもいるのだろう。
創価学会に入って功徳(財務5百万)を積んだらガンくらい治るかもしれないわけだし。
まあ治らなかったら、そこは信心が足りなかったということで。
あんがいガン治療に大金をつぎ込むのって、
新興宗教に高額納金するとのあまり変わらない行動なのかもしれない。
みんな死にたくないんだなあ。
きっとネクストがあるから、そんなに怖がらなくてもいいのにと個人的には思う。

「スーパー名医が医療を壊す」(村田幸生/祥伝社新書)

→内科医の先生が書いた悲鳴が聞こえてくるような告発書。
やたら世間体はいい医者という職業だが、裏では地獄のような現実があるという。
いっぽう医療ドラマは建前のきれいごとだけで作っているわけである。
テレビドラマは本当のことよりもいかに大衆に気に入ってもらえるかを考えるものだ。
で、実際に医者の著者が医療ドラマに突っ込みを入れるという本だ。

ひとつ、まったくそうだよなと思ったのは、医療ミスをした医師は悪人かという問題。
ミスはだれでもするものである。ミスをしない人はいない。
この場合、ミスをしたことの責任はともかく、善悪は論じてはいけないのではないか。
なぜなら、悪人だからミスをしたわけではない。
ならば、ミスをしたから悪だと裁くのはおかしいことにならないか。
こういうケースもあるそうだ。新米医者が当直のとき急患がやって来る。
診てみたら専門外で、しかし近くに専門病院がない。
このようなときは放置したらどうせ死んでしまうのだから新米医師が一か八かでやるしかない。
むかしはこのケースは「緊急避難」とおなじと考えられ一か八かの治療が許された。
だが、最近の判決ではこの新米医師がミスをしたら有罪になってしまうという。
あんまりじゃないのかというのが著者の主張で、まったく同意する。

ミスを善悪で裁いていいのかという問題は広がりがあるような気がする。
交通事故だってあれは確率的にかならずだれかが起こすと決まっている現象だ。
ことさら交通事故というミスをしたものが悪人だったわけではない。
にもかかわらず、交通死亡事故など起こしてしまうと大悪人のような裁きが下る。
あれは車を運転しているかぎり、だれもが防げない確率的現象だと思う。
結果の善悪から行為者の善悪を裁くのはなんだかおかしい気がする。
もちろん、被害者遺族の感情の矛先として適当な存在が不可欠であるという事情はわかるが。
しかし、どちらかが5分遅れていたらその事故は起こっていなかったわけで、
そうだとするとこのたまたま起こった交通死亡事故は確率的現象としか言えないだろう。
結果の善悪から行為者の善悪を決められるものでもないと思う。
話は戻って、著者は交通事故についてはどう思っているのかお聞きしたい。
交通事故の刑罰が妥当だと言うならば、医療ミス事件の医者への仕打ちも仕方がないだろう。
交通事故加害者も悪意などまったくないのにたまたまミスをした結果、
まさかなるとは思っていなかった罪人になってしまうのだから。

大前提として、人はだれでもミスをする。
人生全般、どこでミスをするかが勝負の分かれ目なのだろう。
家の掃除や料理でいくらミスをしてもいい。買い物のミスもちょっとした損に過ぎない。
しかし、運転中や医療中にミスをしてしまうと取り返しのつかないことになってしまう。
かといって、いくら注意してもミスは完全には防げないものである。
そうだとしたら、結論はやっぱり人生万事が運次第ということになるような気がする。
そういえば春日武彦氏という精神科のお医者も、いちばん大事なのは運だと主張していた。