「ナイフの行方」(山田太一/KADOKAWA)

→2014年の12月にNHKで放送されたのが山田太一ドラマ「ナイフの行方」。
そのシナリオ本をいまごろになって読む。
放送当時の感想としてかなり辛らつなことを書いたら、コメント欄に批判がいっぱい来た。
匿名さんにわたしは「万事が軽い」とか言われちゃったよ、トホホ。
いまシナリオとして読んでみると、現代の世相をうまく描いたドラマになっていると思う。
現代の「老人天国、若者地獄」の状況を巧みに描いていると言えなくもない。
彼女に振られて無職の中卒青年(今井翼)が、
秋葉原事件の加藤のようにナイフを振り回そうとしたら、
そこに金持で喧嘩が異常なほど強い老人(松本幸四郎)が現われ、
ナイフを取り上げ彼を警察から見つからないように自宅にかくまってやる。
わざと青年の足を骨折させて動けないようにさせ、
見ず知らずの青年を自宅で食わしてやる。
で、なーんかこの富裕老人は詳細こそわからないが、
むかし左翼の海外活動家だったらしく、
若者をどうにか救ってやりたいが自分に確信が持てずどうしたらいいかわからない。
いま富裕層は老人に集中していると聞くが、
これは老人の関心にどんぴしゃりだったのではないか?
松本幸四郎の演じる根本拓自は古い知り合いの堀田にもらす。

拓自「思わぬことで二十代の青年と知り合うことになった」
堀田「はい」
拓自「これが分らない」
堀田「何人もですか?」
拓自「ひとり」
堀田「訳あってすぐ縁を切るわけにはいかない」
堀田「はい」
拓自「絶望していたかと思うと、ケロリとしている」
堀田「躁鬱――ですか?」
拓自「躁鬱?」
堀田「はしゃいでいたかと思うと、ドッと落ち込んでしまう、躁鬱病――」
拓自「病気か?」
堀田「この節はそんなのも――」
拓自「病気じゃつまらんね」
堀田「つまりませんか」
拓自「薬をのめば治るんじゃつまらないだろう」
堀田「はい」
拓自「この世に絶望している青年を、老いた私が叱咤して希望を持たせようと
   接触したのに、薬をのめば治るのなら世話はない」
堀田「その青年が病気かどうかは分りません」
拓自「そうだ。分らない」
堀田「はい」
拓自「いや、分らないのは私だ」
拓自「私如きが、どうやって青年を叱りつけて、この世はすばらしい、
   生きるに値いすると励ませるんだ」(P72)


この節は躁鬱病が増えているわけではなく、いつの時代も罹患率はほぼ一定で、
そのうえ躁鬱病は薬で抑えられるだけで治ることはないのだが、
老人ふたりの精神病への無知は、まあ、こんなものだろうというリアルがある。
たぶんナイフを振り回した青年を精神科に連れて行けば、
ボーダー(ライン人格障害)あたりの病名がつくような気がするけれど、
むろんのことそんなことはドラマに関係ない。
わたしが山田太一のよさだと思うのは「分らない」ことを理解しているところだ。
これがたとえば宮本輝の小説世界だったら、
えんえんと老人は若者に説教して、おまえは努力が足らない。
中卒だって365日休まず限界まで働けば絶対に道は拓けると、
喧嘩の強い老人が若者を鉄拳制裁しつづけることだろう。
努力すればなんでもできる。要はやる気の問題。
なぜなら無宗教の山田太一とは異なり、
宮本輝には絶対正義を標榜する創価学会への信心があるからである。
(まさにそのワールドを描いたのは宮本輝「三十光年の星たち」)。

無宗教の山田太一ワールドの老人は、絶望した若者をどうしたらいいのか「分らない」。
とりあえず寝場所と食料を提供したうえで、なにもしないで待っている。
するとそこに30年ぶりというむかしの活動家の同志(津川雅彦)がやってくる。
おそらく、人生はそういうふうに自然に事が運ぶことを山田太一はよく知っている。
松本幸四郎は人生に絶望した青年である今井翼に努力も信心も説かない。
では、なにをするか。
自分がむかし正義感に燃えてやったあげく(海外の独裁政権打破!)、
結果としては大勢の現地人を死なせてしまった体験を懺悔(ざんげ)する。
正義がなにかわからない。努力が本当に正義かはわからない。
自分は正義のために多くの人を殺したようなもんだ。
正義っていったいなんだ? なにが正義だ?
おそらくだから、松本幸四郎は、
いわゆる正義に反して殺人未遂犯の今井翼を警察(国家権力)から守ったのだろう。

老人が人生に絶望した青年になにをしてやるか。
まず相談できる人(津川雅彦夫婦)をつくってやる。
それから一時しのぎの仕事の紹介もする(津川夫婦のスナック店)。
そして、これが「ナイフの行方」のいちばんのおもしろさだと思うが、
松本幸四郎は今井翼に女をあてがうというか仲介しようとするのである。
相手の女性は老人の家に来ていたバツイチ子持ちの家事ヘルパー(相武紗季)。
シナリオの設定では青年は26歳で、バツイチ女性のほうは30歳になっている。
山田太一さんはよくわかっているなあ、と思う。
孤独な男なんか生活のリアリティがないから、
そこに子持ちの姉さん女房をくっつけたらうまくいきそうだというのは、
この人はどれだけ生活者のリアルに詳しいのかと笑ってしまう。
秋葉原の加藤になりそこねた青年は次男という。家事ヘルパーは香。
ドラマがひと段落ついたあと香(相武紗季)と拓自(松本幸四郎)が話している。

香「その次男くんをスナックのお二人に押しつけていいんですか」
拓自「知り合いができればいいんだ。すぐあいつは帰って来る」
香「帰って来るんですか」
拓自「あなたと緑ちゃん[香の4歳の娘]が会いたがっているといえばやって来るさ」
香「会わせたくないんじゃないんですか」
拓自「会わせたいさ。だから、会うなといった。そういえば燃えるだろう。
香「呆れた。それも計算のうちですか?」
拓自「仲人はそういうもんだ」
香「仲人ってなんですか?」
拓自「次男と似合いじゃないか」
香「なんてこというんですか」(P164)


山田太一の絶妙な生活者感覚からしたら中卒無職26歳(ただしイケメン)と、
30歳子持ち家事ヘルパーは釣り合いが取れるということなのだろう。
ドラマにはいろいろな解釈があってよいので書くが、
このドラマが老人視聴者へ向けたメッセージは、
老人は若者にありきたりな説教(死ぬ気で努力しろ! 努力はかならず報われる!)
をしないで男女の仲を取り持ってやれ。
老人のやるべきことはアンチエイジング(若者ぶること)ではなく、
若い男女の世話を焼くことだ。
若い孤独な青年の薄っぺらい絶望感など、
女性のリアリティとぶつかったらひとたまりもないぞ。
中卒の貧困青年はお金持のお嬢さまと経歴をいつわって交際していた。
なんでも自分は慶應の経済の大学院にいる御曹司なのだとか。
その嘘がばれて女から殴られたのが直接のナイフ事件の動機らしいが、
おい、若者も若者で身の程を知れよ。
26歳中卒無職は、4歳上の子持ちバツイチくらいで手を打て。
山田太一ドラマのリアリティはおもしろすぎるぜ。
もうすぐ40歳無職になる当方には、どのくらいの相手が釣り合うのだろうか?
45歳の子持ちふたりバツニあたりだろうか?
なんかその娘さんに惚れちゃいそうなわたしだが、それはなんかやばくはないか?
むかしからある結婚という制度は、たしかに自由を束縛するものだが、
伝統には伝統になるだけの意義のようなものがあるのだろう。

人を救うものは正義ではなく男女交際ではないか?

いったい本当と嘘ってなんだろう?
青年だって慶應経済大学院御曹司というのが本当だったら、
そのまま美人お嬢さまとの交際を続けられたわけでしょう?
嘘がばれないうちは本当は本当である。
わたしだってもしかしたらブログに書いているわたしと違うかもしれないわけでしょう?
過去の不幸自慢をする次男に拓自は言う。

「しゃべりすぎるな。別のしゃべり方があるかもしれないだろ」(P89)

また別の老人に不幸自慢をしそうになった次男は思いとどまる。
なぜかというと拓自からとめられたからだという。
なぜ拓自は次男にしゃべるなと言ったか。

「しゃべるとそれが本当になるからって」(P125)

本当にあったことなどしゃべり方しだいでいくらでも変わるのかもしれない。
もしかしたら本当のことなど存在せず、
さまざまなしゃべり方(解釈)があるだけなのかもしれない。
しかし、しゃべるというのは言語化するという意味で、とてもたいせつなこと。
しかし、安易に言語化することで失われるものもあるのではないか。
職業革命家だった老人の拓自は、人生に絶望した中卒の次男に言う。

「いくらしゃべっても、誰彼かまわず刺そうとした気持なんか私には届かない。
(……) ただ、あの時のあんたの目に、しゃべったって人には通じない、
わめいたって人には分らない、
そういう気持がふくらんで切れそうになっているのを感じたんだ。(……)
それは私の、まったくちがう事情だが、
かつての――いや、今でもいくらか、私の気持だった。(……)
(そんな気持は)勝手だね」(P90)


言葉にならない思いというものがあるのだろう。
このため、人によっては絵画や音楽、純粋映像表現に救われたと思うことがある。
わたしの場合は徹底的に「言葉、言葉、言葉」(ハムレット)に向き合った。
NHKさまの放送映像から「ナイフの行方」を見ると、え? そりゃないよと思った。
しかし、言葉しかないシナリオから同作品を見たら、また意見が変わる。
本書の巻末に山田太一ロングインタビュー
「正義がどこにあるのか、分からない時代に」がおまけのようなものとしてついている。
朝日賞作家の山田太一さんは、
デモに行かないなんて信じられないというマルキシズム全盛の時代に、
左翼活動のことを「アホみたいだし、胡散臭いし、ダサい」と思っていたらしい。
しかし、正義の時代にはロマンというよさがあったことも的確に指摘している。
たとえインチキでも正義のようなものがあれば、ロマンチックな恋愛ができる。
いまはマルキシズムも廃(すた)れ、資本主義の限界も見えている。
正義はもしかしたらどこにもないという状況のなかで、なにを信じたらいいのか。
山田太一は毎回、終わりを決めないでドラマを書いている。
作者は書きながらどのような結論にいたったのか。

「根本[松本幸四郎]のやり方は非常に姑息でずるいけれど、
ひとりで解決するよりはいいと思った。
自分のところにも帰ってきてほしいから、家政婦さんと子どもで釣っている。
この次男のラストは最初から決まっていたわけではなくて、
どうしたらいいんだろうと迷いながら、これしかないと思えてきたのでした。
すっきり気持ちのいい終わり方にはなりませんでした。
具体的な解決策ではあるけれども、人々を感心させるほどのものではない。
ただ、やっぱり頼れるのは「人情」と思いました。
認知症の人に最後まで通じるのは言葉ではなくて「笑顔」だと聞きます。
誰が誰だか見分けがつかなくなっている人に対して、
的確にケアするよりも、情で笑顔を向けたほうがホッとすると。
そういう、「情で救われる」ということを、
もう少し積極的に考えてもいいんじゃないかと思う。
いや情なんかあてにできない。
施設やシステムがきちんと整うことが大事とも聞きますし、システムはその通りですが、
僕は最終的には「情」が人間の心の芯に残ると思う」(P183)


山田太一は最後の最後まで人情を描いているのである。
いくら運よくだれをも傷つけなかったとはいえナイフを振り回したら殺人未遂だ。
松本幸四郎にははっきりとナイフを突き出しているのだから、
あれは法律的に考えたら刑法に問われ罰せられなければならない。
実際、110番されパトカーも出動しているではないか。
しかし、孤独な青年の犯罪行為は人情によってもみ消されている。
人を刺そうとなどからきし思っていなくて、
だが相手の持っていたナイフでいわば正当防衛のようなかたちで相手を刺しても、
国家はそれを犯罪としてみなし当事者を刑務所に入れてしまう。
それが正義かよ、と思う。本当に法律やコンプライアンスは正義だろうか。
そして、果たして本当に正義なんていうものが人を救うことはあるのか。
山田太一が孤独な中卒青年を、
たとえフィクションのうえでもどう救われるかを考え尽くしていたった結論は――。

人を救うものは正義ではなく人情ではないか?

(関連記事)
放送時の感想↓
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11月19日にテレビ朝日で放送された朝日賞作家であられる、
朝日新聞に登場することも多いと聞く、
脚本家・山田太一の新作ドラマ「五年目のひとり」を視聴する。
いずれも酒を飲みながらだが、5回も視聴したものである。
それでも飽きなかったのはドラマがじつによくできていたからだと思う。
山田太一ドラマはいつもそういうことが多いが、このドラマにも悪役がいない。
このドラマのすごいのは悪役ばかりではなく明確な善人も存在しないことだ。
みんなそれぞれ自分勝手な自分の都合で行動して、
結果として自然にうまくまとまりを見せる世界観を山田太一は見事にドラマ化している。

5年まえの津波で妻や娘、息子をふくむ家族8人を亡くした中年男(渡辺謙)。
3年後にどっと悲しみが押し寄せ自分から精神病院に入った。
いま病院から出てきて薬とも遠のいた。
してはいけない話なのだが、家族が大勢自然災害で死んだのなら賠償金も出ていよう。
すぐに生活に困るという懐(ふところ)事情ではない。
しかし、いったいこれからどうしたらいいんだ? なにをしたらいいのか?
ここで同郷の世話焼きババアの市原悦子の選択が偉い。
いま住んでいるアパートの近所に「ここだけのパン屋」というベーカリーがある。
そこの奥さんが急性のすい炎で倒れて、いま人がいないという。
社会復帰の一環としてそこでリハビリをしてみたらどうか?
リハビリなんだからお金をいっさいもらわないボランティア。
またまあボランティアでもなければ、いかつい50過ぎの男をパン屋で雇ってはくれまい。
わたしもこのドラマを見てパン屋でバイトしたいと思ったが、
東京都最低時給でも当方を
パン屋の売り子として採用してくれるマスターはいないだろう。
市原悦子は先がどうなるかをなにも読まずに、
「なるようになるさ」「なるようになれ」と(いわば重症の)渡辺謙を
町の小さなパン屋に放り込んだのである。
「先の先は読めない」ことをわかっているこの世話焼きおばさんの知恵の深さと言ったら!
そこを描けるもはや80歳を超えた山田太一の筆力もまたどうだ!

「ここだけのパン屋」マスター(高橋克実)の自分勝手ぶり、
自己都合優先の態度がとても好ましい。
たとえばかつて被災地に善意からボランティアに行ったものたちと、
まるで正反対の生活者意識をマスターは有している。
他人を助けるのたいせつだが、しかしそのまえにまず自分を守らなければならない。
ただ働きをしてくれる渡辺謙相手に、
パン作りのノウハウは教えないとすごむところに(17年のノウハウを教えられっかよ!)
生活者の根本にある自己防衛本能を見たと言ってもよい。
それを書いてしまえる庶民派作家、山田太一に朝日賞を与えたのは悪ふざけかなにか?
なにかをかかえてリハビリ中の渡辺謙にマスターは、
「(女房が入院して、また近隣の商店が閉店して)こっちもこっちでたいへんなんだ、
あんたをいたわっている暇はない」と言い放つ。
ありがとうと言われたがるボランティアより、よほど本音のマスターに好感をいだく。

なにが渡辺謙を救うのか? だれが家族8人を津波で亡くした渡辺謙を救うのか?
ドラマを5回を見ると、渡辺謙を救っているのは自分なのである。
渡辺謙のしいて言うならば無意識が渡辺謙を救済している。
50過ぎの渡辺謙は散歩がてら近所の中学校の文化祭に立ち寄った。
そこである女子中学生(蒔田彩珠)に目を奪われ、
胸をわしづかみにされるような思いをする。
少女は大勢の一員として(AKB48のような)ユニットダンスを踊っていた。
あるいは、ここまでならよくある話かもしれない。
待ち伏せしていたのかもしれないし、たんにぶらぶらしていたのかもしれない。
別の日たまたま学校の近くにいた渡辺謙は下校時の女子中学生を見かけ、
あの子だと思い、歩道橋で声をかけてしまう。
歩道橋というのがいい。ふつう人と人とはめぐりあえないようになっている。
歩道と歩道は車道があるため、歩道橋や横断歩道がなければ向こう側には行けない。
渡辺謙はどうして自分がそれをするのかも、それがいいのか悪いのかもわからず、
ただただこみ上げる思いのままに女子中学生の蒔田彩珠に声をかけてしまう。
「あのダンスできみがイチバンだった。きみがイチバン、キレイだった」
ドラマ「五年目のひとり」を動かしたものは渡辺謙の口から出たこのひと声である。
何度見返してもドラマ力学的な動因は、
この渡辺謙の自然に思わず出てしまったセリフである。
渡辺謙も言おうとねらっていたわけではなく、思わず言ってしまった、
しかし言わずにはいられなかったひと言である。
「きみはキレイだ。イチバンだった」

平凡な一家の凡庸な娘がそういわれたと聞けば、母親は警察に通報してしまう。
そうすると家に警察までやってくる大騒ぎになる。
自分がありきたりなつまらない女子中学生だと思っていた蒔田彩珠は、
「キレイ、イチバン」と言われたことが天にも昇るほど嬉しかっただけなのに、
それを大人に言うとこういう警察沙汰になってしまう。
50過ぎの中年男と女子中学生。
最初こそアプローチをかけたのは中年男だが、
以降ほとんどは女子中学生からアタックをかけることになる。
あたしがキレイってどういうこと? あたしがイチバンってどういうこと?
あたしはテレビで踊っているような美少女じゃないし、
父親は工員、母親はパート、兄は筋トレバカ。あたしなんてなんにもない。
どうしてあたしがキレイなの? あたしがイチバンってどういう意味?

個人情報保護なんていう建前が幅を利かせるくらい日本人はオフレコ話が大好きなのだ。
「これは秘密だけれどね」
とだれかから聞いた秘密を他人に話すことほど楽しいことはない。
人生で辛酸をなめてきた苦労人は、
「これは秘密よ」
と伝えることで個人情報が拡散できることをよく知っているものとも言えよう。
わたしは苦労人でもなんでもないが、
職場で同僚に話した秘密はまず広まるだろうという人間不信的前提を根に持っている。
5年まえの津波で家族を8人亡くしたというのが、イケメン中年の渡辺謙の秘密である。
まずはどこか家政婦の香りがする(家政婦は見た!)
市原悦子がマスターに秘密をばらす。
こういう守秘義務違反はいちおう悪になっているが、
最終結果的には(悪とされるものが)善になっていることに注目したい。
渡辺謙が心底から市原悦子に秘密を守ってほしかったのかどうかもよくわからない。
今度は渡辺謙をただ働きさせてウハウハのパン屋のマスターが
女子中学生の蒔田彩珠に秘密のみならず個人情報である住所まで教えてしまう。
ほとんど善意や法令順守といった建前が見当たらず、
自分勝手とも言いうる個人的好奇心や
いいかげんさがドラマを動かしているのがおもしろい。
女子中学生は単身行動し、
孤独な「五年目のひとり」を生きる渡辺謙の部屋のドアを開け広げ中に分け入る。
これはもう女子中学生にしかできない仕事であろう。
ふつうの大人は、津波でどうこうという孤独な人には、
さすがに5年も経つと手を出しようがない。
「お気の毒様です」とか「ご愁傷様です」とか、そんな陳腐な言葉しか出てこない。
言葉ですら出て来ないのに行動に移すなんてもってのほかで、
こういうのは小学生も高校生も持ち合わせぬ、
大人と子供の境界にいる女子中学生ならではのパワーなのだろう。
あたしがキレイ? あたしがイチバン? それどういうこと? この中年男はなんなの?
世間のことをまだよく知らないある意味では無垢の
別の意味では意地悪な女子中学生が、
上級ボランティアでも不可能なことを意図せずやり遂げた過程を描いたのがこの物語だ。

あたしをキレイ、イチバンと言ってくれた人が家族を大量に亡くした被災者で、
いまも狭い部屋で段ボールに囲まれ片づけられないで生きている。
なにかせずにはいられないではないか?
蒔田彩珠とその友人、イッコと雪菜は掃除をするため、
女子中学生ならではの純粋さと無神経さを振りかざして
「五年目のひとり」を生きる孤独な中年男の狭い部屋にズカズカ入っていく。
市原悦子も高橋克実もできないことでも、女子中学生3人ならばすることができる。
蒔田彩珠は掃除中、
開けてはならないと言われた押し入れから秘密のバッグを見つけてしまう。
ここが問題なのだが、渡辺謙は秘密のバッグの中身を見てほしくて、
あえて蒔田彩珠に押し入れを開けないでくれとお願いした可能性も考えられるからだ。
女子高生なら秘密を見ただろうが、
中学生の蒔田彩珠は押し入れこそ開けたが秘密までは見なかった。
しかし、多感な少女の勘をなめてはならない。
平凡な少女は悲惨な被災者の中年男に問いただす。
「あたしはキレイでもイチバンでもない」
「あたしのことをそんなふうにほめてくれたのは、
死んだ人のひとりにわたしが似ていたからではないですか?」
イケメン中年男で被災によりさらに黒光りした渡辺謙は少女にイエスと答えてしまう。
それどころか別れ際、本名は亜美という少女を礼子と呼んでしまう。
礼子は中年男の亡くした実子の名前である。

しかし、本当に本当に本当は本当なのだろうか?
蒔田彩珠は友人のイッコと雪菜とともにまたもや中年男の牙城に分け入る。
実際にお嬢さんの写真を見せてください。
そうしないと本当に亜美(蒔田彩珠)と似ているかどうかわからないじゃないですか?
これも大人ならナアナアにすませることで、
こういう訪問は女子中学生にしかできないだろう。
このドラマでこのシーンがいちばんおもしろかった。
人間の自己同一性(アイデンティティ/私であること)って、どういうことなんだろう?
もし死んだ礼子の写真と亜美(蒔田彩珠)が似ていなかったら
渡辺謙はロリコンのキチガイ。
かりに礼子と亜美が似ていたら、どうしてか渡辺謙は正常という判断が世間から下される。
わたしもふくめて、違う人をそっくりだと思うことってけっこうあるんじゃないかなあ。
かなりのところそのあいまいさ(あいまいな感覚)は
生きる上での救いになっていないか?
しかし、テレビ朝日の放送するドラマでは
礼子と亜美が似ていなかったら渡辺謙は精神病。
わたしが直前まで期待したのは、キャメラが最後まで礼子の写真をうつさないことである。
しかし、キャメラは死んだ礼子の写真をうつした。それは亜美とそっくりだった。
ならば国際的映画スターの渡辺謙はキチガイでもロリコンでもない正常な被災者である。
このテレビドラマは朝日賞作家の書いたまこと芸術的なご作品ということになろう。

人びとのもやもやした感情に言葉を与えるのが小説やドラマ、精神医療の役割である。
ドラマの最後で被災者で精神病院入院患者だった渡辺謙は独白する。
ふるさとの福島に帰るときである。
とにもかくにも渡辺謙はご両親に蒔田彩珠(亜美)とはもう逢わないと約束した。
しかし、それでは、あんまりではないか――。

「亜美さん、むかし日本人は逢えないときは手紙を書きました。
いまおじさんはそうしています。
次の土曜日の午後3時、おたくの近くの、あの歩道橋の下まで来てくれませんか?
のぼらなくていいんです。
道路のこっち側からひと目逢いたい。手を振りたい。
約束違反だけど、そのくらいは破らせてもらいます。逢わずに福島へは行けない。
振り返ると亜美さんは、はじめて見たときから(礼子ではなく)亜美さんだった。
亜美さんとしてすばらしかった。
娘の代わりなんかじゃなかった。ただ娘が引き合わせてくれたと思っています。
そして、娘の生きられなかった人生をいま、
亜美さんが生きてくれていると勝手ながら思っています。
死んだ人はそれで終わりじゃないと思っています」


東京(?)を離れ福島に戻る約束の日時に少女は来てくれる。
車道を挟んで渡辺謙は蒔田彩珠に言う。「ありがとう」
車の騒音で男の声が聞こえない少女は聞き返す。「え?」
中年男は相手が聞こえないのをわかったうえで、
あえてゆっくりと繰り返す。「どうも、ありがとう」
「こんなのいや」と少女は返す。「行きます。そっちに行きます」――。
長い歩道橋を渡るとそこにはだれもいない。少女はもらす「かっこつけんなよ」――。
少女は男のことを5年も経てば忘れるだろうが、
中年男は死ぬまで彼女のことを忘れないだろう。
礼子としてではなく、たまたま亜美という少女と出会ったことを男は忘れないだろう。
人間は車道をこえて、たとえば歩道橋を乗りこえて向こう岸に行くことはできない。
(他人のことはどこまでもわからない)
しかし、歩道橋の上でなら一瞬なら瞬間的になら逢えるのではないか。
善意やボランティアもいいが、
あるいはそれよりも無視放置、自分勝手、
(不謹慎ともいうべき)下世話な好奇心、(キレイやイチバンという)虚栄心のほうが
苦しんでいる他人を意図せずして救うこともあるのではあるまいか。
そういうかなり難しい問題を、学術論文ではなく、庶民にもわかるように
かみ砕いて描写して見せた山田太一のドラマ手腕には本当に降参した。
「五年目のひとり」はキレイでイチバンだった。
94年にNHKで放送された単発ドラマを視聴したのは去年だった。
シナリオで二度読み、どちらも感想を書いているから、
いまさら書くことは……と思っていたが、人は変わるから感想も変わる。
つまり、おなじものを見ても新しい感想は生まれうるわけだ。
「校則は校則だ」が口癖の「人情劇が嫌い」で「人間味あふれる先生なんて大嫌い」
な中年男性高校教諭がちょっと変わる話である。
既婚子持ちの人生に退屈した堅物の女子高教師が、
受け持ちの女子生徒の(校則では禁じられた)不純異性交遊(=デート)を認める話。
男の子とデートしているところを見つかった女子生徒は厳格な教師に言う。
「知らん顔してください」
「本当のこと言って、騒ぎにしなくても」
これに対して「校則は校則だ」と考えている中年教師は例外を認めようか迷う。

山田太一ドラマは海外で大々的に評価されることはないだろう。
なぜなら、氏のドラマは日本人以外にはわかりにくい人情を描いているからである。
人情を英訳するのは無理だと思う。
人情を欧米人に完全に理解してもらうのは不可能ではないだろうか。
これはこのドラマを見て、1ヶ月以上も考え続けた結果わかったことだが、
人情とはいわゆる「不正」のことだからである。
そのときの感情に動かされて「正しい」とされることを破るのが人情である。
「正しい」とされる「本当のこと」をあえて言わないのが人情だ。
損よりも得を選択するのが人間としては「正しい」が、
あえて損とも見える親切をすることが人情ということである。

山田太一ドラマ=「(正義 vs )不正(=人情)」

不正を描くのが山田太一の人情ドラマと定義されても困ると思う。
ちょっとした体験を語りたい。
先日、派遣でゴミを排出する仕事をさせていただいたのである。
人間味あふれる素敵な担当者さまから
ガラスを積んだ台車を建物から外に出してくれと指示がくだる。
わたしは大台車にガラスを積んだが平台車に積み直されている。
「絶対に割るなよ」とのお言葉をいただいた。
へえ、ガラスは大台車ではなく平台車に積むのが「正しい」のかと思いながら動かす。
道路には段差というものが存在する。車椅子が嫌うあれである。
段差でガラスが止まってしまう。ガラスの山積みが動かなくなってしまう。
そこで社員と思しき人が親切にも助けに来てくれる。
ありがてえと感謝。人間ってええなあ。
ふたりでガラスを動かそうとしているときに、どういうわけかガラスが割れてしまう。
社員さんはパッといなくなった。そこに先ほどの担当者さまが現われる。
「ほうら、だから割るなって言ったのにやっぱり割った」
とこれでもかというほど叱られた。
わたしは人情からうなだれ、無言でお説教を拝聴していた。

「正しい」ことを言えば、そうではないのである。「本当のこと」はそうではない。
ガラスはふたりで割ってしまったのである。
もしあのとき社員さんが来なかったら、わたしひとりでうまく動かせていたかもしれない。
ひとりでやっていても、どのみちガラスを割っていたかもしれない。
そんなことを言えば、担当者さまがやっていても割ったかもしれない。
大台車のまま運んでいたらガラスを割らなかったかもしれない。
「正しい」ことをあえて言うならばこうなる。
しかし、事実としてはわたしひとりが悪いことになり手厳しいお叱りを受けた。
人情として「本当のこと」は言えない。
わざわざ親切から助けに来てくれた社員さんがいたとは言えない。
彼がその場から離れたのも悪くなく、わたしが彼でも「逃げた」であろう。
あとで「ごめんなさい」とアイコンタクトを取って来てくれたし恨みもなにもない。
あの人は善人っぽいからあとで「本当のこと」を担当者さまに白状したかもしれない。

このいわゆる失敗体験が山田太一ドラマを理解するうえで大きなとっかかりとなった。
人情とは「不正」のこと。「正しい」ことをわざわざ言わないのが人情。
派遣先で昼食代を出されることなどありえないが(絶対にないと思う)、
担当者さまのご好意でその日も(2回目だった)わたしはお昼代をいただいていた。
その日かぎりの派遣に契約にない昼食代を払うのは、「正しい」ことではない。
損得で考えたら損になる、こういうことを人情と言うような気がする。
それを言えば賄賂(わいろ)も人情だが、わたしは賄賂こそ人情だと思う。
「正しい」ことではないけれど、「正しい」ことばかりでは生きていけない。
「不正」は人情として必要悪というか、
むしろ生きる方便というか、そこに人間味があるというか。
「正しい」ことならロボットでもコンピュータでも識別できるのである。
あえて「正しい」とはみなされないことをやるのが人間味であり人情だ。

この日、わたしだって「正しい」ことを言えばいくらでも言えたのである。
あのガラスを割ったのはふたりで作業しているときだった。
そこまで怒られる理由はないのではないか、等々。
しかし「正しい」ことをわたしは言わなかった。
なぜならそのMさんという担当者のことがなにより好きだったからだ。
思わず激怒してしまったのが、こちらにもわかるのである。
怒ったことを後悔していることが見て取れて当方も気まずい。
あんがいあの社員さんが正直にふたりで割りましたと報告したのかもしれない。
「正しい」ことがなんになろう? 「本当のこと」がなんになろう?
わたしのこの日の日給は8千円程度だったが、
反対に社会勉強代金を支払ってもいいとさえ思ったくらい大発見をした1日であった。

「人情=不正」

人情を描くのが山田太一ドラマなら、アンチ人情=正義も登場させなければならない。

山田太一ドラマ=「(正義 vs )不正(=人情)」

末端の教員や警察官のような
職務として「正しい」ことを言わなければならない立場はしんどいのである。
このドラマでも言われていたが、
温泉場に行って暴れたりタオルを持って行ったりするのは、
決まって先生と言われる商売や警察官のグループなのである。
あんがい「不正」とされるヤクザ集団のほうが温泉宿ではおとなしい。
「正しい」ことを言うのは辛いが、だれかが「正しい」ことを言わなければならない。
だれも「正しい」ことを言わなかったら、グダグダになってしまう。
世の中が不正天国、賄賂饗宴になってしまう。
しかし、「正しい」ことばかり言っていると「生きとってもつまらん」と思うようになる。
けれども、「正しい」ことを言う人は必要だ。
山田太一ドラマ「なんだか人が恋しくて」はこの矛盾をうまく描いていたように思う。

わたし個人としては「不正」はありだと思う。矛盾したことを書くが、
集団の「正義」なんかよりも個人の「不正」のほうがよほど「正しい」と思っている。
わたしは「不正」を発見しても自分の巨額の損にならないならば見て見ぬふりをする。
社会的に「正しい」ことをなるべくなら言いたくないという気持が強い。
正義派ぶって徒党を組んだりしているやつらを見ると虫唾が走る。
ここまで書くと精神病を疑われかねないが、
被害者が自分の周囲の人間ではないのなら犯罪者さえそこまで悪いとは思わない。
犯罪者の「不正」を正義派ぶって断罪する人だって、
いざその人とおなじ生育環境、社会的立場に追い込まれたら、
おなじことをやっているのではないかと思う。
わたしが犯罪者のような劣悪な社会的環境に置かれたら、
もっとひどい犯罪をしていたのではないかとさえ思うくらいである。
どうしてそういう不適正な思考をするようになったかと言えば、山田太一ドラマの影響だ。
氏のドラマには「人間なんてそんなもん」「世の中そんなもの」というセリフが頻出する。
「正しい」ことばかりしていたら生きていけない人がいるわけでしょう。
勇気がないばかりにいわゆる「悪いこと」をできない人たちが、
善良な人のふりをしてクソにもならねえ「正しい」ことを言っているような気がしてならない。

「山田太一ドラマ=世の中も人間も、そんなもんだって」

しかし、わたしは世の中がそんなものではないことを知っている。
しかし、わたしは人間がそこまで堕落していないことを知っている。
これは山田太一ドラマに教わったというよりも、
いろいろな人をこの目で見た当方のリアリティである。
山田太一ドラマも描いていることだが、世の中も人間もそこまで腐っているわけではない。
むしろ根性が腐っているのは山田太一氏やわたしのほうなのかもしれない。
いやいや、正義の朝日賞作家を自分などと同列に置いてはならない。
たましいが腐っているのがわたしという人間なのだろう。
ゆがんでいる当方だから
気づいた「人情=不正」という真実を最後に繰り返し強調しておく。
「校則ではそうなっているけれど、今回だけ見なかったことにする」のどこが悪いのか。
「それは法律ではいけないけれど、人としては許される」行為はいくらだってあると思う。
なんで校則や法律がそこまで「正しい」のかそもそもからしてわからない。
しかし、わたしも表面上は社会人としては「正しい」ふりをする。
そうしないと食っていけないからだが、この「正しい」素振りを「不正」と言われると困る。
個人的な真実としてはケースバイケースで「正しい」ことは変わると思う。
臨機応変にそのときその場の「正しい」ことを判断できるのが「正しい」社会人だろう。
上司は立場上ミスは報告しろと部下に言うが、報告されたら困るミスもあるのである。
このあんばいをうまく判断できるものが上司から気に入られるのではないか。
山田太一ドラマは本当に奥深い。
「光と影を映す だからドラマはおもしろい」(山田太一/PHP研究所)

→NHKのBSで放送された2時間インタビューの書籍化とのこと。
いったいNHKとPHP研究所、パナソニック、経済上層部、
それから表には出にくい各種宗教業界の裏の関係はどうなっているのだろう。
いまのテレビというのはほぼ利権だから(番組に商品を出したら売れる)、
あれは見れば見るほどうっとりした気分になれる幸福製造機と言ってもいいだろう。
いまは有名人や富裕層の子息しか入れないとも言われるテレビ業界だが、
むかしはそうではなかった。むしろ、映画業界から鼻で笑われていた。
業界の大御所で小林秀雄賞作家、朝日賞作家、
お子さまふたりもおなじ映像業界で華々しく活躍する人格者の著者はこう証言する。
テレビ業界のゴッドファーザーとも言うべき存在のお言葉は重たい。

「テレビ界に入っていったときは、局の人たちが「映画とは違うことをやろう」
という意気込みにあふれていて、ものすごく活気がありました。
局の人といっても、局の生え抜きというより、
映画畑にいた人が引き抜かれたりしていましたね。
しかも、映画みたいに時間がかからずに一本の作品がつくれるから、
少々実験的だったとしても、あまり文句を言われず、
とにかく、みんなが「なんかやれる! なんかやれる!」って、
テレビの可能性を切り開いていった時期だと思いますね」(P16)


いまテレビ局に入るのはブランド目当ての成功者の子どもが多いと聞く。
本人は自力で入社したと思っても、そうとうにコネが働く業界というものがある。
それが悪いというわけではなく、世の中そんなものなのである。
さてさて、そういういまのテレビ局に果たして活気なんてあるものだろうか?
製作した自分たちも軽蔑するようなものを垂れ流しているだけではないか?
そもそも製作さえほとんど外注しているのが現在のテレビかもしれない。
批判しているわけではなく、それが視聴者の求めるものなのだから悪くない。
既得権益で窒息寸前のテレビで
いまさら「なんかやれる!」と思っている人は少ないだろう。
ただし、見かけのうえでおいしい思いはできるだろうから
テレビはラジオのようにはならない。
テレビは永遠に下層の幸福製造機としての意味を持つと予測する。
むかしのテレビに匹敵するのがいまのインターネットである。
山田先生のお言葉を少々書き換えたら――、
「いまのネットはテレビみたいに時間も金もかからず、
口うるさいスポンサーにもあれこれ言われず一本の作品がつくれるから、
少々実験的だったとしても、あまり文句を言われず、
とにかく、みんなが「なんかやれる! なんかやれる!」って、
業界の可能性を切り開いていっている時期だと思いますね」――。

じつのところ、この新刊ははじめてアマゾンで買ってみた。
むかしから新刊は立ち読みしてから買うと決めていたが方針を変えたのである。
おなじシリーズの「井上ひさし」を読んでいたから(このシリーズは内容が薄い!)、
立ち読みしたらその場で30分もかからず読了してしまうことに気づいていたこともある。
リアル本屋でこの本を手に取ったらその場で読んでしまい買わなかっただろう。
むかしアマゾンで古本を買ったときの200円クーポン券を使いたかったので、
生れてはじめて外資のアマゾンから日本の新刊を買うにいたった理由である。
欠品はないし郵送は速いし郵便ポストに入れてくれるので便利。
一度アマゾンを利用したものなら、
近所の小型書店で本を注文したりはしなくなるだろう。
この「一度」が肝心で、しつこいがこの「一度」の習慣を変えさせることに
どの業界も必死になっているのだろう。

むかしの山田太一ドラマを一度でも見たら(好き嫌いはわかれようが)、
さすがにいまのテレビは見(ら)れなくなってしまう。
当方だってそうで、ネットしか知らないで気味悪がっている人もいるでしょうが、
実際に対面してみたらちょっと世の中を舐めたところのある老け顔のおっさんだ。
「一度」の習慣を変えさせるのがどれほど難しいか?
テレビ局といった大企業は
むかしから高学歴者や有名人の子息を優先的に採用してきたから、
慣習を「一度」壊したらすべてがボロボロになってしまいそうで
最初の一歩に踏み出せない。
うちは実名ブログだが、社会上層はネットの匿名性とか無検閲とか怖すぎるでしょう?
いちバイトがたとえ匿名でも知りえた大企業の裏の秘密を公開したら、
株価の関連で日本経済どころか世界経済が瞬間的に動くわけ。
一夜にして大損害やトップ交代、それどころか最悪の倒産もありうる。
書くなと言っても世間を知らないバカバイトは本能的につぶやいてしまうわけだから。
新聞も出版もテレビも検閲できるが、インターネットはいまだ無法地帯である。

いまの時代に山田太一が青年として生きていたら、
絶対にテレビではなくネットに行くような気がする。
いま若僧がテレビの世界に行っても、よほど強烈な支持者がいないとなにもできない。
とはいえ、あまり知られていないが、
山田太一成功の秘密はバックに木下恵介という映画監督がいたことなのだが。
世間はバック(ケツ持ち)が勝負を決めると言ってもいい。
世の中には裏というものがあるが、
著述業者は裏のことは知っても最後までは書かないのが流儀だろう
(書いてもどうせ校閲および編集で消されるのを知っているからみなそもそも書かない)。
テレビライターの山田太一さんは世の中の裏という裏を知り尽くしているだろう。
芸能界なんてヤクザそのままの世界だから山田太一が口を割ったら地獄絵図になる。
みんなの「夢(笑)」が台なしになってしまう。
しかし、山田太一は本当のことは絶対に書かない。秘密は墓場まで持っていく。
オフレコもほとんどやらない。なぜそんな難業ができるのか? 
嘘を書いているからである。
ドラマ、芝居、小説といったかたちで嘘を書いているから山田太一は本当につぶされない。
本当のことでも嘘として書いてしまえば人に迷惑もかけないし社会的制裁も受けない。
以下は世の中の裏表、本当のことを知り尽くした作家のフィクション論だ。

「フィクション、つまり、嘘だから描けるというものがあるんです。
嘘なら殺人でも描ける。本当は自分のことであっても、
「隣の旦那はね」と言うと、話しやすいじゃないですか。
そういうふうに、嘘が必要なんです。
つまり、真実を書いてしまったら身も蓋(ふた)もないのであって、
本当のことを言うために「嘘の装置」が必要なんです。
フィクションは、「モデルはいませんよ。誰のことでもありませんよ」
という前提があるから、孤独な心でも、悪意でも、嫉妬でも、
[大企業の悪事といった社会不正も]かなり立ち入ったところまで描ける」(P126)


大作家の山田太一氏と自分を比較するのは非常に恐縮だが、
わたしも意外と秘密は書いていない。
宗教ネタとか、いろいろやばいことを書いているように見えて秘密は保守しているつもり。
わたしと実際に逢った人は想像以上に(ネットの)口が堅いので驚かれると思う。
かといって本当のことを書いていないかといえばそうではなく、
べつの(嘘とも言われかねない)かたちで知りえた本当のことを書いているつもりだ。
シナリオ・センターのあれは人生で一度しかできない博打(ばくち)だから。
あれは書かなければ気が済まず、社会的に死んでもいいと思って書いた本当のこと。
あんなことを人生で何度もやれるほど体力も精神力もない(と書いたら舐められる?)。
書いたらある企業が大ダメージを受ける秘密などいくらでもあるのである。
そのうちひとつふたつならばわたしでさえ知っているくらいなのだから。
そういう本当のことを書きたくなったら嘘の形式で表現すればいい。
山田太一ドラマが嘘にもかかわらず本当よりもリアリティがあるのは、
こういう事情があるからだろう。
嘘(ドラマ)に書かずにはいられないほど本当のこと(世間の裏)を知ってしまった。
ヤクザなことを言えば血縁が映像業界にいたら、へたなことを言ったら親子共倒れになる。
業界の掟(おきて)を破ったら1%の確率で大変革が起こるが、
99%は一族郎党全滅に終わるのが現実というものだろう。
最近、山田太一先生の息子さんのお顔やらなにやらをネットで知った。
「恥かきっ子」なんて言葉はいまの若い人は知らないだろうが、
業界の大御所の息子さんはわたしのたった2歳上なのである。
無名の当方は76年生まれで、イケメンで業界実績多数の石坂拓郎氏は74年生まれ。
なにもかも負けたと思った。完敗である。
おのれの人生の失敗を深々と思い知らされた。
しかし、そういうマイナス体験も悪くない、
と撮影監督の石坂拓郎氏のお父さまはおっしゃる。
イケメンの業界人を息子として持つ社会的成功者はマイナスもまたいいと言う。
本当のことを知り尽くした有名人が、
名もなき下層民を慰めるためにこういう嘘をおっしゃってくださっていると思うと涙が出る。

「ぼくらは、マイナスなことにずいぶん気持ちを育てられていると思うんですね。
だから、失敗も、それは「一個いただき!」と思ってもいいくらいなんです」(P131)


これは嘘くさいが本当のことだとわたしも人生経験から思う。
失敗は「一個いただき!」というプラスの体験と言えなくもない。
成功したって後にはなんにも残らないわけ。
ミスをすると、ガガーッと人生がわかるようなところがある。
社会勉強とかいうけれど、言い換えたら失敗をするってことでしょう?
社会的大成功者でお子さんも成功させた山田太一氏は、
いまのご自分に満足しておられるのか。
危ない本当とも思えないことを氏は口にしているのである。
破綻のない成功者として老年を終えようとしている国民的ドラマ作家は言う。

「老年になってから、自分がめざしたものを誤解していたとか、
自分がめざしていたものが嫌いだったんだって気がつく人だっている(笑)」(P90)


人は変わるからねえ。
若いころは名声や富、権力にあこがれていても、
老年になったら逆にそういうプラスのものにうんざりすることもあろう。
高級懐石料理なんかよりも若いときの空腹のカツ丼いっぱいのほうがうまいわけでしょう。
有名人になって周囲から本音か追従かわからぬ賞賛をあまたされるよりも、
無名時代に「あなたの書くものはおもしろい」とほめられた感動のほうがよほど深いだろう。
権力なんて持ったら持ったで、実相は人に恨まれる要因と言えなくもない。
権力者がだれかを――たとえば俳優でも――持ち上げたら、
無視されたほうはかならず(抜擢された役者よりも)権力者を執念深く恨むものなのだから。

本屋で立ち読みしていたら、こうまで怨念のこもった感想は書けなかったと思う。
アマゾンで本を買うのもまたいいものである。
本書は20分でも読めそうな薄手ながらじつにいい本であった。
上のほうのお子さまはテレビをつくるがわにまわり、
下のほうのガキンチョはテレビにだまされるがわにまわる。
とはいえ、どちらが幸福かは本当のところわからないのだろう。
いくら当方が実名でメールをしても絶対に返信をくださらない、
ネットでは有名らしい山田太一信者の自称弟子みたいな匿名の老人がいるけれど、
毎日テレビばかり見ているようで彼こそいろいろな意味で幸福な人だと思う。
いつか再会したらお名前と処世術、テレビの見方をうかがいたいと思っている。

2002年にテレビ東京で放送された
山田太一ドラマ「香港明星迷」をジェイコムにて再視聴する。
このくらいの時代になると、ライブで視聴した記憶はあるけれども、
内容はさらさらさっぱりあたまに残っていないから視聴するのが楽しみだった。
「山田太一ドラマは庶民を描いているから記憶に残らない」
こういうことをブログに書いたら、取り巻きや側近が密告したのか、
渋谷で行なわれた山田太一イベントで本人が
「どうせぼくのドラマはすぐに忘れられますから」とひねくれたことをおっしゃっていた。
山田太一さんもまた双極をお持ちの方だと思う。
ものすごく自作に自信があるけれど、
それは一撃でつぶされかねないとても弱い自信だからむしろ強い。

わたしの場合、山田太一ドラマはシナリオで読んでいると記憶に残っているのである。
このため、いまジェイコムに入っているため、
多数の山田太一ドラマを録画保存しているが、
シナリオですでに読んでいるためか
映像を観る元気が出ないという困ったことになっている。
作者としてはどっちが嬉しいのだろうか?
ドラマを観られることと、シナリオ段階で読まれることの、いったいどちらが?
シナリオで読んでいると人物像ができあがってしまうから、
映像を観てしまうと「自分のようなもの」を否定された気がするのかもしれない。
「ふぞろいの林檎たち」の未放送スペシャル番組版のシナリオが存在するらしいが
(だれか役者がごねたために企画がぽしゃった)、それこそ価値があるものだろう。
へたをすると1千万くらいの価値はある。
もしお持ちの方がコピーさせてくださったら、一生奴隷になってもいいくらいだ。

2002年に放送された「香港明星迷」の話をしよう。
「働く」という行為について深く考えさせられた。
主役の薬師丸ひろ子は、仕事にバリバリ生きがいを感じているアラフォー女性。
なんでみんなそんな仕事に夢中になるんだろう。
薬師丸ひろ子は、フランスの有名な靴ブランドの日本支社重役。
マーケティング統括部長だったっけかな。
わたしは女のことにもブランドのことにも詳しくないが、
ハイヒールは西洋起源らしい。
そして、ハイヒールなんかを履いているとかなり足が痛くなるという。
男と肩を並べたいという女の西洋的願望の象徴がハイヒールなのかもしれない。

有名西洋ブランド日本支社の薬師丸ひろ子は考えた。
もういまは西洋ブランドの時代ではないのではないか?
ハイヒールなどではなく、もっと履きやすい女性のための靴を製造すべきだ。
しかし、いくらアイディアを出してもフランスの本社は聞き入れてくれない。
「デザインはパリが全部」
「きみの仕事は営業なんだから、デザインに口を出すな」
「黙ってきみはフランスの靴を売っていればいい」

薬師丸ひろ子が注目したのは中国市場である。
ここでハイヒールではない、
しかし良質な中国デザイナーが企画した靴を売ればどれほどの仕事になるか。
仕事熱心な薬師丸ひろ子は香港の有名スターの追っかけを自称しながら、
会社のためもあり独立のためもあり、
自分が目をつけた中国人関係者と交流をつなげる。
わからなくて、わからないままに感銘を受けたのは、
薬師丸ひろ子の仕事への情熱である。
ハイヒールをどうしたって、中国市場がどうなろうと、
どうでもいいといえばどうでもいいわけだから。
プライベートな休日まで使って、どうしてそんなに仕事に一生懸命なの?
なにかに洗脳されているの? と不可解で仕方がなかった。

結局、彼女の情熱は会社への裏切りと判断され、
有名ブランド企業から薬師丸ひろ子は解雇される。
じつのところ、薬師丸ひろ子には常時、尾行がついていて、
行動は逐一本社に報告されていたのである。
薬師丸ひろ子が友人だと思っていた人も、探偵会社の敏腕調査員だった。
薬師丸ひろ子は、まあ現実を見誤っていたのである。
彼女が大企業を辞めたら、すぐに中国人デザイナーは相手にしてくれなくなった。
日本の女が一流企業をバックに持っていることを調べて、
デザイナーは彼女と交流していたのである。

現実ってこんなものなのかもしれないなあ。
多くの人が人間そのものよりもバックにあるブランドを見る。
ブランドに逆らったら社会から抹殺されてもおかしくない。
薬師丸ひろ子のおもしろさは、けっこう会社のためを思って、
会社のために新しいデザインを提案したり流通を広げようと(プライベートで)したら、
それが愛する会社からは裏切り行為とみなされ強制解雇されてしまうという。
会社(組織)のために必死で働いたら裏切り者あつかいされる――。

はっきり言って、いま経済界(大企業)の上層を
リアルに描けるのは山田太一だけなのである。
というのもライターはとにかく金にならないから、飛び込んでくる人材が低劣すぎる。
かえって、その質の低い複数ライターの書いたドラマが、
大衆から支持されるという矛盾がある。
上のほうの損得関係の秘密を知りえた山田太一の企業ドラマが、
秘密をそのままは出さずフィクションとしてうまく描いていることに
社会上層部はまさにいっぱい食わされた気分だったことだろう。
このドラマは、底辺庶民からの理解はあまり得られなかったようだが、
(傲慢でごめんなさい!)観る人が観たら、
これを地上波で書いてもいいのかというギリギリの傑作ドラマなのである。

ドラマ最後に薬師丸ひろ子と探偵所の捜査員が仲直りするのがよかった。
香港の中国人デザイナーが
バックもない無職の薬師丸ひろ子とビジネスを再会するのもよかった。
人間って「肩書」じゃないよねえ。
「肩書」ではなく、この人は信じられると自分が思った人を信じたほうがいい。
「肩書」で人を見るのは世間だが、そうではない自分の感覚を信じた見方があってもいい。
いまは小林秀雄賞作家、朝日賞作家とだいぶ出世なされたが、
そういう肩書以前にわたしは作者のことを
一度もお逢いしたことがないのにもかかわらず盲目的に信じているところがある。
「寺山修司からの手紙」(山田太一編/岩波書店)

→若き日の寺山修司と山田太一の往復書簡――ということになっているが、
読んだ感想は、これはまるで女学生の交換日記のようなものである。
恋に恋するのはいまでは女子小学生くらいだろうけれど、
当時は大学生の男子が恋に恋していたのかと思うと微笑ましい。
恋のみならずふたりの友情もどっか芝居がかっているのである。
友情ごっこを男ふたりで演じているようなところが見られる。
だが、そもそも友情とはそういうものだという見方もできる。
いまでは小学生でも知っていそうだが、人間関係はほぼまあ利害関係である。
人は利益がある人とつきあい、損害が出そうな相手からは離れていく。
そういう現実(本当のこと)をまだ知らないもの同士のみが友人関係になれるのだ。
幼くなければ無知でなければ、友情も純愛もうまく演じることができない。
世の中はかなりのところ「金、顔、肩書」でおおよそすべての人間関係は利害関係だが、
このことに気づいてしまったら友情も純愛も噓くさいこと甚だしい。
むかし世間のことをまるで知らない男の子ふたりが友情で結ばれたことがあった。
ふたりは世間のことのみならず男女のこともからきし知らなかったから、
とてもいい純愛(片想い)をすることができた。
本書はそういう意味での記録的価値はあるだろう。
結果的に寺山修司も山田太一も大物になったから
この「女学生の交換日記」にもなにやら芸術的な価値が出ているだけで、
寺山や山田というネームを剥奪したところではありふれた民俗学的資料になる。

山田太一青年の文章から、のちの成功を予想させる輝きはまるで感じられない。
どう好意的に解釈しても山田太一は大学生時代、
当時どこにでもいそうなインテリ学生のひとりであった。
人並みに恋をして、人並みに失恋をした。大きな恋も、大きな失恋もしなかった。
好きだったマルキシストの女の人が
恋人の共産党員に処女をささげたという噂を聞けば、気持は動揺しまくりで、
しかし自分は論理的にはまったく破綻していないというようなことを、
文学作品を引用しながら親友モドキに論理的に書きつづる男の子であった。
事実関係を確認する。
最初、大学生の寺山修司は「兎(うさぎ)の目」をする石坂和子に恋をした。
山田太一は「豹(ひょう)の目」をするマルキシストのマヅルカ(国分)に恋をする。
が、そのうち寺山はマヅルカ(国分)のよさに気づき惚れるようになり、
山田は寺山の好きだった石坂和子に恋をして、大学卒業後数年を経て結婚する。
若くして世に出た寺山はその後、映画女優と結婚したが別れた。
晩年はハーレムの首長のようだったという。
その寺山ハーレムの第一位の女奴隷だったのが田中未知で、
本書は「山田太一編」となっているが実際に編集したのは寺山の女性盲信者である。
無名の寺山修司は石坂和子から愛されなかった。
有名になってから寺山修司はみながあこがれる映画女優と結婚した。
有名文化人になってからの寺山修司は、老いた映画女優はポイ捨て。
有名人のもとには若い女の子が近づいてくるものだが、
そのうちもっとも自分の奴隷としてふさわしい田中未知を重宝した(かわいがった)。
有名人というネームバリューは、若い女体とつりあいを保つのである。
しつこいが、人間関係は利害関係。「金、顔、肩書」が人生のすべてといってよい。
だからこそ「金、顔、肩書」ではない友情や純愛がこうも尊ばれるのであろう。

凡庸な山田太一青年はマルキシストの女性に精神的=盲目的な恋をしていた。
しかし、あるとき精神的なるもののうさん臭さに気づく。

「「わたしは一束の紙を眺めた。
それは一握りの毛髪よりも個性がなかった。
髪ならば唇や指で触れることができるのだが、私は精神には死ぬほど倦き倦きした。
わたしは彼女の肉体のために生きていたので、
彼女の肉体が欲しかった」(G・グリーン『愛の終り』)
僕は前に、これを読んだ時、これは観念的な無理をしている、
事実に反している、と思った。
失った女の髪――そんなものより、
手紙や日記の方が、ずっと僕を慰めるだろう、と思った。
しかし、今、僕は、よくわかる。僕は髪が欲しい。ワラエ、ワラエ」(P151)


ああ、大笑いしたね。学生時代の恋愛や友情には生活が入っていない。
生活とは損得関係、利害関係のことである。
利害や損得がないからこそ、学生時代の友情や片恋慕は美しいのだろう。
大学生の山田太一青年は寺山修司が好きな石坂和子を好きになった。
このことを山田は友人の寺山に嬉々として報告する。
親友の好きな女の人を好きになるほど、友情ごっこを体感できることはないのではないか。
以下、山田太一が寺山修司にあてた手紙。

「「わたし、口に出さずに、わかってもらうのが好きなのよ……」(『チボー家の人々』)
僕も愛していることを、口には出さずに三宮[石坂和子]さんにわかってもらいたかった。
その方が、あからさまに求愛するよりは君への罪が軽いように思えた。
銀座の田園[レストラン]はいっぱいだった。二時間いて出た。
ボワ[レストラン]へ行って小海老と牡蠣(かき)の料理を食い、
新橋まで歩き、品川で別れた。
「人はだれかに誠実であれば、
だれかを裏切らねばならぬ」(福田恆存『ホレイショー日記』)
僕は感傷的になって、何故愛してしまったのか、などと思った」(P167)


「金、顔、肩書」の利害関係ならぬ純粋な関係を一般的に友情や純愛というのだろう。
人が友情や純愛にあこがれるのはそういう理由からであろう。
それほどに人間関係というのは突き詰めれば打算的な関係に終始するともいえよう。
社会人になったら友情も純愛もまずないと思ってよい。
個人的な体験を話すと、会社の上司というのには本当に参る。
会社の上司、つまり権力関係上相手が上になるから人は人にヘイコラする。
しかし、そういう事情をわかっていない人は、年上の部下にプライベートの説教を始める。
この本を読め、この映画を観ろ、こう生きろ、おれの助言を聞け。
部下は上下関係上しぶしぶ従っているのに、
上はビジネスではなく友情関係かなにかだと思っている。
しまいにはあるイベントに年若い上司は年上の部下を誘う。
あくまでも自分は相手よりも上だから相手の事情など知ったことではない。
自分から誘っておいたくせに
直前まで相手に連絡せず相手の時間を目いっぱいに奪っても一向に構わない。
なぜなら自分は上司だからだ。相手よりも上にいるから、下の相手にはなにをしてもいい。
社会人になってからの人間関係などこんなものである。それが当たり前だ。
だから、そうであるからこそ、学生時代の友情や純愛は美しいのだろう。
友人関係も恋愛関係も一皮むけば利害関係(損得関係)にすぎぬ。
このため本書のような「女学生の交換日記」はいまとても美しく思えるのではないだろうか。

「夕暮れの時間に」(山田太一/河出書房新社)

→大御所テレビライターの山田太一氏の最新エッセイ集を読む。
山田老人は食堂でむかしあった相席を懐かしく思い出す。
山田青年は相席で、他人の話を盗み聞きするのが楽しかったという。

「それほどくっきりしたものではなくても、他人の人生は面白かった。
学校の交際とはちがう世間を覗(のぞ)く機会が
その店の相席ぐらいしかなかったのである」(P105)


山田太一は他人の人生の面白さに敏感である。

「以前、筑豊から福岡まで乗ったタクシーの運転手(私と同じ齢だった)が、
俺の人生の楽しみは金を貯めてはフィリピンへ女を買いに行くことだと、
その体験を心からいつくしむように話し続けて、話がうまかったせいもあるが
次第に見上げるような気持になってしまったことがある」(P24)


「見上げるような気持」になるところがいい。
謙虚ぶっているわけでもなく、おお、
と思わず自然に他人を見上げたくなってしまうところがいい。
他人の人生は面白いが、自分の人生はどうだろうか。
いまの浅草を歩きながら、山田老人は思う。「現実は、つまらない」――。
浅草のどこかにいまはなき父の愛人でもいてくれて、
その人から生前の父の話でも聞けたらどんなに面白いと思うが、現実はつまらない。
しかし、いまの世界も老人にとってはそう悪いものでもない。

「もういくらも生きていないのだから、嫌いな人を好きなふりをすることも、
多少癖のように残っているだけである、
そのように人生から少し遠離(とおざか)ったせいか、
自然も人間も街も、細かな差違が気にならず、
すべてがすばらしく、いじらしいなどと、
視野の広い感傷に溺れることができる」(P46)


80年の変遷を山田老人は裸眼で見続けてきたのである。
表面上の美醜や個性にとらわれない「視野の広い感傷」を
持ったっていいじゃないかと思う。
しかし、個別ブースに分かれたインターネットカフェにはさすがに感傷をいだけない。
むかしの相席の面白さを知る老人はインターネットカフェにゾッとする。

「ここまで一人一人かよ、と勝手な話だが、息詰まるような思いをした」(P106)

「ここまで一人一人」に現代の日本はなってしまったのである。
人間は一人一人孤独というむき出しの現実にどう対処したらいいのか。
せめてなしうることはなにか。それぞれが幻想をつくっていくしかない。
人はいろいろな幻想を支えにして生きている。

「……それぞれが、それぞれのやり方で
「究極の現実」にそっぽを向いて幻想をつくり出している。
そして、なんとか元気に生きていこうとしている。
むき出しの現実が力を露(あら)わにしたらひとたまりもない。
しかし休止期間がある。その間だけ、
きびしくなればたちまち吹きとばされてしまうような幻想をささえに生きている。
それを誰が笑えるだろう」(P68)


人間は孤独で、そして死から逃れられないという「究極の現実」がある。
だが、「ここまで一人一人かよ」という一人地獄からちょっと開放されるときがある。
見知らぬ人から微笑を送られたら、少しやわらかな気持にならないか。
ならば、どうして自分も人に穏やかに微笑みかけない。
微笑みかけられたら、次は手を差し伸べてみたらどうだろう。

「困っている人を助けることは、その人の日々も豊かにするはずだ。
「人に迷惑をかけない。かけられたくもない」
という生き方はそれぞれの孤独を深めるだけだ」(P220)


もちろん、親切がお節介にすぎないことも老作家はよく知っている。
善意の押し売りのような親切は迷惑だろうが、
その迷惑を受け入れなかったら、
「ここまで一人一人かよ」というようになってしまうのではないか。
けれども、山田太一は普遍性のあることをいわない。
微笑や親切は絶対に善であるとは思っていない。
いらいらしている人には他人の微笑がけったくそわるく感じられることが
あることにも気を配る。
幸福などという言葉は非常に普遍性の強い言葉といえよう。
山田太一は幸福はそれぞれがぞれぞれの流儀で感じるもので、
「幸福とはなにか」といったかたちで論じるものではないのではないかと主張する。
しかし、そういったそばからそれを否定する。

「どうせ幸福は理不尽不平等に散らばっているから、
自分が手に出来ない身近の幸福に圧倒され、嫉妬や不公平でつぶれないために、
感じる前に論ずる人が出てくるのも、
案外切実な生理に発しているのかもしれない」(P11)


幸福は感じるもので論ずるべきではない、といったような普遍的なことはいえない。
昭和41年の9月に山田太一は来日したサルトルの講演会に行ったという。
人生の転機のときだった。
映画会社の松竹を辞めて、テレビライターとして独立することを決めたころだ。

「大学のころはサルトル、カミュの時代で、
それから八年もたっているから熱気は薄れていたはずだが、
顔や声に接したかったのかなあ、と思う。
著者というものは、著作がよければよいほど会うとがっかりするものだと思っていたし、
顔を見たいなどという欲求はあまりないつもりだったが、
なんとか切符を手に入れて出掛けたのだから、
学生のころの「神」の力は大きかったのだろう。
ほとんどなにを聞いたか、これも忘れているが、
ヴェトナム戦争に反対しなければいけないというのが主旨だったと思う。
一つだけ残っているのは、普遍性を手に入れたなどと思ってはいけない、
手に入れたと思うような普遍性は大抵偽物(にせもの)だというような言葉で、
これはずっと説得力をもって私に作用している」(P101)


普遍性とは「すべての物事に通じる性質」のことである。
人間とはこうだ、人生とはこうだ、と決めつけるのが普遍性で、
その反対は、人生はそれぞれで人間もそれぞれだと認めることになろう。
人それぞれとはバラバラということだから人は孤独にもなろう。
人それぞれはバラバラで孤独だが、
そういう究極の現実にそっぽを向いてなんとかそれぞれの幻想をつくり出し、
そして、なんとか元気に生きていこうではないか。
人はそれぞれ宿命性のようなもののためにそれぞれ異なっている。
普遍性のようなものはなく、人はそれぞれだが、
そのそれぞれの宿命性を、差違を、
「視野の広い感傷」に溺れながら、すべてがすばらしく、いじらしいなどと、
うららかに愛するような日が、たまにならあってもいいのではないか。

「それぞれが他の人間とはちがう限界と可能性を持っているからこそ、
人生は豊かにもなり、悲しくも苦しくも喜びにもなり、
陰影も深みも味わいにも恵まれるのではないだろうか。
誰かに文句をいいようもないそれぞれの宿命性は、
人間の持つ宝だと思う」(P240)


持って生まれた宿命は転換するのもいいのだろうが
(そもそも転換できるのならそれは宿命ではないことになるけれど)、
その宿命を嫌悪するのでもなく、闘って大勝利する対象とするのでもなく、
それぞれに与えられた宿命を宝として遇するという生き方もあるのだろう。
そうしたほうがいい、そうすべきだという普遍性の問題ではなく、
そういう生き方、考え方もあることを著者は示唆している。

シナリオで二度読んだことのあるものをジェイコムにて視聴する。
平成13年(2001年)にTBSで放送された単発ドラマである。
5年まえに男をつくって家族を捨てて駆け落ちした倍賞美津子が、
3年まえにその男にも死なれ、尾羽打ち枯らして(落ちぶれて)、
家族のところにすがたを現わせる。
娘はもう結婚していて小さな子がいる。息子は葬儀会社に就職が決まった。
女房に逃げられた長塚京三はひとりぼっちである。
まえから何度も書いてきたが、山田太一ドラマのテーマはいくつもあるが、
主要テーマは人間の孤独である。
エゴイズムを突き詰めると人間は孤独になるが、孤独はさみしい。
先日見た山田太一ドラマ「もうひとつの春」の主題歌は脚本家が歌詞を書いていた。
その一節で記憶に残ったのは「ひとりとひとり、あっちとこっち」というものだ。
お互いひとりはさみしく、まさにあっちとこっちの国境があるように、
人間はそれぞれ分断されている。これをどうしたらいいか。
ドラマ「再会」では結局、
ひとりの長塚京三のもとにかつて不義理を働いた倍賞美津子が戻ってくる。
決め手になった長塚京三のセリフはこうである。

「お互い一人だ。年のとった」
「淋しくないならいい」


お互いひとりでさみしいから、年を取った男女はよりを戻すのである。
恋愛とか家族とかいまいちよくわからないところがあるけれど、
あれはみんなひとりでさみしいから行なう幻想的行為なのかもしれない。
「ひとりとひとり、あっちとこっち」で人はさみしいので、
恋愛ごっこしたり、家族ごっこをするのかもしれない。
「会社の顔」(ペルソナ)ではなく、
少しでも「本当の自分」に近い顔を出したいという願望もあるのだろう。
恋愛したらさみしさは多少薄れるが、今度は相手からの干渉が待っている。
「彼氏なんでしょ。もっと逢ってよ」「おまえもおれの彼女ならこっちの都合を考えろ」
家族がいたらさみしさは多少薄れるのだろうが、恋愛同様、いやそれ以上の干渉が待つ。
「お父さんはもっとお父さんらしくして」「お母さんがそんなことしていいの!」
子どもはどのみち思うようには育たない。
しかし、だれかといっしょにいるとさみしくないから恋愛や家族はいいのだろう。
「ひとりとひとり、あっちとこっち」でさみしくてたまらないから、
みんな恋愛をしたがり、家族にあこがれを持つのだろう。
テレビは恋愛ドラマやホームドラマを放送して、大衆の目標を示してやる。
とりあえず恋愛をしとけ。家族はいいぞ。
その裏にある本音は「ひとりとひとり、あっちとこっち」の孤独はさみしすぎるということだ。

「ひとりとひとり、あっちとこっち」はさみしい。
しかし、これは人間の本当のすがたと言ってよい。
「本当のこと」から逃れたくて、人は恋愛をして結婚して家族をつくる。
しつこく「本当のこと」を繰り返せば、人間は「ひとりとひとり、あっちとこっち」にすぎぬ。
テレビライターの山田太一は「本当のこと」からいっときも目を離さず、
どこか醒めているともいえる、名もなき庶民の恋愛ドラマ、ホームドラマを書いた。
「ロミオとジュリエット」は書かない作家であった。
会社は金を稼ぐ場所だが、なかにはさみしいから会社に行く人もいるのだろう。
むろん、山田太一がよく知っていたことである。
人間のあらゆる行動の根源にあるのは
「ひとりとひとり、あっちとこっち」でさみしい――孤独の感情なのかもしれない。
山田太一ドラマばかり見ているとそんなことを考えさせられる。

(関連記事)
「再会」(山田太一/「テレビドラマ代表作選集2002年度版/日本放送作家協会)
「再会」(山田太一/「月刊ドラマ」2002年3月号/映人社)
昭和50年(1975年)にTBSで放送された全13回の連続ドラマをジェイコムにて視聴。
50分×13回だから約11時間。
放送されたのはたしか去年のはずだが、いままで見る時間がなかった。
いざ決心して見たら見たらでおもしろくて、泣いたりわめいたり叫んだり、
要約したら「山田太一ドラマはすげえ」という感動を十全に味わったしだいである。
昭和50年といったら、こちらが生まれる1年まえだが、おもしろいものはおもしろい。
ボキャブラリーには自信があったけれど、「お持たせ」という言葉は知らなかった。
相手の家を訪問するとき、食品の手土産を持っていく。
それをその客にそのまま出すこと、出したものを「お持たせ」というらしい。
「つんぼ桟敷」くらいの言葉は知っていたが「お持たせ」は初耳だった。
このドラマはいまの自分が見るのにもっとも適していると思うくらい
わが現状とタイムリーにリンクしているところがあり、
どんなドラマにも見るべき「とき」があることを知る。

「もうひとつの春」は山田太一らしいひねくれたドラマである。
ふつう春というと華々しいイメージがあるのではないか。
少なくとも冬よりは春のほうがプラスのイメージがあるだろう。
しかし、このドラマの春は一般的に明るいそれとは異なり、まこと暗い話なのである。
見ていて何度も胃がきりきり痛くなった。
ドラマの最初で変化が訪れる。ある会社が倒産するのだ。

主人公のひとりは50歳の男性(小林桂樹)。鉄鋼工場の現場主任。
技術一筋の現場主義で27年間働きつづけたじつに男らしい人物である。
この50男を慕う同工場勤務の20代前半の若者がいる(小倉一郎)。
若者の父親は3年まえに蒸発しており、いまは母とふたり暮らしで共稼ぎである。
父親がいなくなった若者は男らしい男にあこがれているところがあり、
このため仕事一筋の工場の現場主任を勝手に尊敬しているのである。
50男がどのくらい男らしいかというと、態度の悪い工員をよく殴りつけるのである。
おれは27年間、この会社でまじめに働きつづけた。
きちんと働かない生意気な工員は本人のためにも殴りつけ矯正してやったほうがいい。
ところが、ある日突然に会社が倒産してしまう。
こうなると上司も部下も、なんにもなくなってしまう。
若い工員たちはどうするか。復讐をするのである。
むかしぶん殴られた仕返しに工員たちは50男をボコボコにする。

これってかなりすごい「本当のこと」を描いているのではないかとゾクゾクした。
会社というのは組織であり、組織というのは上下関係である。
組織は上下関係がなくてはうまく回転しない。チームワークも実相は上下関係だ。
上下関係とはどういうことか? 上は下になにをしてもいいのである。
いまはパワハラとかいう言葉があるけれど、あんなものはきれいごとでしょう?
どこの会社だって暴力沙汰に近いことはけっこうあるような気がする。
会社のなかでは上は下を殴ってもいいのである。おとがめはない。
ここまでは一般常識の範囲内だろうが、もし会社がなくなったらどうか?
あるいは下のものが会社という組織を離れたらどうか?
このときかつて殴られた上を殴り返せるやつと、
会社の外でも上司にあたまが上がらないものにわかれる。
大半は後者ではないかと思われる。
「会社の顔」(ペルソナ)が自分の顔になっており、
いまは上下関係もない人にもどうしてかペコペコしてしまう。
「もうひとつの春」で50男をボコボコにする工員はじつに男らしく格好いい。
群れてひとりの男を殴るのはちょっとどうかと思うが、
それでも会社が倒産しても上司にビクビクしているようなやつよりもよほどいい。

50男を慕っていた若者(小倉一郎)は、
小林桂樹が若い工員など蹴散らすのではないかと期待する。
ところが、50男は無抵抗に殴られているだけだ。
これではあんまりだと思って若者はかつての上司を助けようとするが、
逆に小倉一郎も小林桂樹といっしょに工員たちから制裁を受ける羽目になる。
これが縁となって若者と50男のあいだにプライベートの交流が生まれる。
この疑似父子関係がドラマ「もうひとつの春」の主軸といってよい。
山田太一ドラマがゾクゾクするほどリアルなのは、作者が意地悪だからだろう。
若者はあっさり就職が決まるが、50男には仕事がない。
仕事がなくなった無職の50男を若者は、
そう思ってはいけないと思いながら思ってしまう。
あれだけ堂々としていた男らしい小林桂樹だが、仕事がなくなったら「みすぼらしい」。
会社人間は「会社の顔」しか持っていないのである。
会社人間は「会社の顔」で家族関係も親戚づきあいも友人交際も押し切ろうとする。
「あなたはどこの会社に勤めているか」で男というのは階層(身分)が決定するのである。
いい会社に勤めているものは偉い。会社組織のなかで上にいるものは偉い。
近所づきあいもふくめて世間は「会社の顔」で渡っていくことができるのである。
逆にいえば、会社から離れた人はどんな威厳も持ちえない。
ひとたび会社をクビになったら、だれもその人を相手にしてくれなくなるようなところがある。

かつてはとても偉そうだった勤続27年のパワハラ50男は、
「支店長代理」という肩書をもらって小さな焼き鳥屋に勤め始める。
男は仕事だ。男は仕事をしなければならないからだ。
とはいえ現実は「支店長代理」といっても、焼き鳥のお土産の売り子である。
工場では仕事ができた50男も、焼き鳥屋となると客寄せの言葉ひとつ出てこない。
50男はおそらく大卒だが、
焼き鳥屋のいかにも低学歴そうな年下の先輩にいびられまくる。
おまえ、こんなこともできないのかよ。
明らかに向いていない仕事なのだが、小林桂樹は辞めようとしない。
仕事ができない50男は女主人からも年下の小僧からもバカにされまくる。
現実は、こんなものなのである。
いま大会社の部長だって、いざ販売業の売り子をやらせたら手も足も出ない。
威厳があり部下に暴力を振るった男らしい男も、
慣れない仕事に就いたら年下の小僧や
女風情(*放送当時は女性差別がありました)から嘲笑されクズあつかいを受ける。
かつての部下だった若い小倉一郎は早々とスーパーに就職が決まったが、
若者はかつての上司が焼き鳥を売るすがたを見て辞めてくださいと言いたくなる。
しかし、こんなものなのである。人間はこんなものなのである。

不況のあおりを受けて50男は焼き鳥屋さえクビになってしまう。
努力して独自の売り方を考案しつつあったのだが、それでもクビになってしまう。
あれ? 努力したら人生うまくいくんじゃないの?
しかし、人生はこんなものなのである。こんなものなのである。
50男は数年まえに妻を亡くし、いまは娘とふたり暮らしである。
ちょうど男の夢、マイホームを建てたところであった。
かなり大きな家だが、二階は娘が結婚したらそこで暮らしてくれたらいいと思っている。
ところが、娘が結婚したいと言いだした相手の男はミュージシャンなのである。
仕事一筋でまじめな50男の小林桂樹がいちばん嫌いなタイプの若者である。
ミュージシャンが「お嬢さんをください」と言いにくる。
むかしだったら強く出られた50男もいまは無職である。失業者だ。
いっぽうのミュージシャンはいまとても羽振りがいいようだ。
若僧から「仕事を紹介しましょうか」と舐められてしまう50男である。
いいか。男というのは仕事だ。肩書だ。いくら稼いでいるかだ。
そうだとしたら、このミュージシャンのほうが自分よりも上ではないか。
しかし、よりによって娘はこんな男と結婚したいというのか。
「親か恋人か」というのも、このドラマの時代を反映させるテーマである。
現代でも親が反対する結婚なんてあるのだろうか?
しかし、当時はひんぱんにあったようで「親か恋人か」はドラマの重要なテーマになった。
小倉一郎も母親に恋人との結婚を反対され、「親か恋人か」で葛藤している。
なぜ母親が息子の結婚に反対するのかといったら、
水商売をしてきた娘さんだからである。

50男はさんざんな目に遭う。
勤続27年の会社が倒産し、焼き鳥屋もクビになり、そして娘が恋人と駆け落ちしてしまう。
おれの人生はいったいなんだったんだ。おれは正しく生きてきたではないか。
まじめにこつこつひとつの会社で働き、結婚して娘を育て、マイホームまで建てた。
それがどうだ。これが人生というものか。
いまは職も家族もない、近所の主婦から陰口をたたかれる一介の失業者に過ぎぬ。
いや、男は仕事だ。男は仕事をしなければならない。
小林桂樹は営業の仕事をかつての部下に世話してもらう。
見たこともない別荘地を口八丁手八丁で売りさばく飛び込み営業の仕事だ。
そこは軍隊式で売り上げの棒グラフが貼られ、
上司は暴力的に仕事のできない社員を締め上げる。
この軍曹のような上司さえ完全な悪人として描かず、
ある面では人情味のある人物として描くのだから、山田太一の人間描写はすばらしい。
仕事ができない小林桂樹は鬼軍曹から虫けらのようなあつかいを受ける。
もういやだ。おれという男にもプライドがある。
娘も自分は自由だといって男と駆け落ちした。
焼き鳥屋では懸命に努力した男らしい小林桂樹だが、営業の仕事は1日で辞めてしまう。

どうも現実味がないのだが、50男は家を売った金で、
親しくなった小倉一郎の母親とスナックをやろうなどと考え始める。
そこに会社と家族を捨て蒸発していた小倉一郎の父親が帰ってくる。
男と男、差し向かいで話してみると、たしかに落ちぶれてはいるが、
自分とは異なる味のあるいい男といえなくもないのである。
なんにもない小林桂樹はスナック経営もあきらめ(小倉一郎一家に託し)、
自由律俳人の山頭火のように放浪の旅に出る。
まじめに会社のために働いても、人生こんなもの。
まじめに家族のために働いても、人生こんなもの。
「もうひとつの春」は「男はつらいよ」よりもよほど「男はつらいよ」をうまく描いている。

なにしろ11時間もあるドラマだから、
いろいろ論じることができるがいまこちらの時間がない。
ひとつ気になって、これだけは指摘したいというのは、人が人を好きになるということ。
自分の好きな女がべつの男を好きだったら、そのとき男はどうすべきか。
小林桂樹は小倉一郎の母親に惹かれているけれど、旦那が帰ってきたので身を引く。
小倉一郎の友人が好きなのは小倉一郎の恋人である。
だが、女が小倉一郎のことを好きなのを知り友人は自分の気持を抑制する。
好きな人に好きな異性がいたら人はどうすべきなのか?
その人を本当に好きだったら、その人の「好き」を尊重するのではないか?

さて、結局、人生なんてもんは仕事、結婚、育児、家族くらいしかないのである。
人間、ほかにすることもないから仕事をして、結婚して、子づくりしているとも言いうる。
まあ、みんながしているし、大衆はほかにすることもないからねえ。
結果として仕事は善、結婚は善、子育ては善、家族は善ということになっている。
人は仕事をすべきだ。人は結婚すべきだ。人は子育てすべきだ。家族はいい。
みんなまあよくやっていると思うし、
そういう庶民のほかにすることもないし、
というどうしようもなさを山田太一はじつにうまくドラマに仕立てあげる。
「相手の幸福」と「自分の幸福」のはざまで悩みながら生きていく庶民の美醜を、
山田太一は本当に巧みに描写する。
山田太一は庶民のドラマを描いているが、庶民とは金である。
「もうひとつの春」では金を渡すシーンばかりが目についた。
これはこちらがことさら金に敏感だからではなく、
実際に金をやりとりするシーンがとても多いのである。人情とは金だ。現実は金だ。
「人生は金だ」と描いたら本当に近くなることをドラマ作家は熟知していた。
金をほしがるのも庶民だし、あえて金をこばむのも庶民である。

11時間かけて見たドラマの感想を1時間半で思いつくままに書いた。
読み直していないので誤字脱字は山のようにあるだろう。
まあ無報酬で書いているし、テレビドラマの感想ならこの程度でいいと思う。
88年に放送された単発の山田太一ドラマ「あなたが大好き」を正規視聴する。
シナリオで読んだことがあるため、ジェイコムで録画していたものの、
なかなか見る気にならなかったものである。
いま切羽詰まった事情で時給850円のパートに出ているけれど、
そこの書籍倉庫で働く女性は既婚者の割合が極めて高い。
この人たちもふつうに恋愛して結婚したのだと思うと畏怖をおぼえるというかね、その。
なんか失礼なこと言ってる? 言ってない、ない、ないから!
山田太一がテレビライターになったときに感銘を受けたという言葉がある。
アメリカのテレビ作家が(正確ではないかもしれないが)こう言ったそうだ。
自分は王さまの話よりも、どうして隣の肉屋は結婚したかに興味があり、それを書きたい。
テレビというのはそういうメディアなのだと巨匠の山田太一はいたく啓発されたという。
いつも喧嘩ばかりしている隣の肉屋夫婦はいったいどういう経緯で結婚したのだろう。

ドラマ「あなたが大好き」は江戸指物の職人と、
一流企業重役の父を持つお嬢さまが結ばれるまでの話である。
こういう感想はどうだかとも思うが、ふつうにいいドラマだったのではないか。
ドラマに対してではなく、社会風潮に違和感をおぼえたのは「男は仕事」というあれ。
おそらく作者の山田太一の念頭にもこの違和感があったはずである。
テレビドラマは現代社会を描くものだから、
どうしても社会的一般規範を取り扱わねばならなくなる。「男は仕事」――。
一見すると、これは男ばかり言っているようなイメージがあるかもしれないが、
女もまた男同様に強く洗脳されている社会通念こそ「男は仕事」である。
女は恋愛なら売れないバンドマンとでもするけれど、結婚はまずしないでしょ?
主婦の井戸端会議でいちばん重要なのは夫の仕事だと思う。
危険なことを言うと、妻の格は夫の仕事で決まってしまうようなところがあるのではないか。

ドラマ「あなたが大好き」でもそこらへんのところはリアルに描かれている。
由子(中川安奈)は大学のテニスサークルOB会で仲良くなった
誠一(真田広之)と結婚しようとするのだが、理由がそのまま「男は仕事」である、
真田広之のととのったツラもいいのだろうが、まず「男は仕事」である。
指物職人の誠一は由子の家にあいさつに行くが、
婚約者の両親から育った家が違いすぎるからうまくいきっこないと反対される。
その帰途、ふたりはラブホテルで向き合っている。由子はこんなことを言う。

由子「(やや堅く椅子にかけていて)父のいうことは気にしないで。
たしかに、母は孤独だったし、家の中、どんどんひえこんでいたのは事実だけど、
まさか、あてつけで結婚はしないわ。
強いていえば、父のような仕事が嫌いだったのかな。
忙しいのは父のせいじゃないもの。
いくらいい会社とか、重役コースとかいったって、幸福じゃないなって思ったわ。
そんなに景気なんかよくなくたって、上役なんかいないで、自分の世界があって、
誇りを持ってて、伝統があって、細かないい仕事をしているの、
とってもいいって思ったわ。
OB会へ行ったって、みんな勤めてるでしょう。佐上さんだけ、職人だっていうの、
それも江戸指物だっていうの、魅力あったわ。
お父さまもお母さまも素敵だし、家とは全然ちがうって、新鮮だったわ」(P204)


自分は男をしている仕事で選んだと言っているようなものだから、
通俗的な恋愛観からしたらかなりの危険球だが、これが常識というものなのだろう。
容貌は劣化するし、愛も恋もじきにさめるだろうが男の仕事だけは信用に値する。
ラブホテルで真田広之は本当のことを白状する。
「大事なことを話してないんだ」――。
じつのところ、真田広之は仕事ができない職人だったのである。
どんな仕事にも向き不向きはあるけれど、
真田広之は決定的に不器用で職人の父から何度仕事を教わってもうまくできない。
正直、職人を辞めようか迷っていたくらいなのである。
ところが、婚約者が自分を選んだ理由は職人という仕事のためなのである。
個人的な感想を言うと、べつに仕事ができない男がいてもいいと思うけれどねえ。
「男は仕事」で男同士で
いかに自分は仕事ができるかを競い合っているのって異常な気がする。
しかし、けれども、だが、「男は仕事」で、
繰り返すが、男は仕事がすべて、仕事がいちばん。
不向きなため職人仕事ができない真田広之は、自分探しの旅に出てしまう。
変な話だけれど、職人って気楽にこういうことができるのがいいなあ。
で、話はどうなるかというと出戻りの姉がしゃしゃり出てくるのである。
自分はむかしから江戸指物のような手仕事が好きだったが、
女だからという理由で父親はぜんぜん相手にしてくれなかった。
お父ちゃん、これをいい機会に自分に職人仕事を教えてくれないか?
自分は弟よりもはるかに手先が器用で向いているから、
あいつが3年でおぼえるものを1年でおぼえちゃうよ。
どうしてかこれに真田広之の婚約者ものって、女二人が職人修行をする。
真田広之はなにをしているかといえば自分探し(笑)である。
最後は取ってつけたように真田広之が戻ってきて、
ふたりの恋の成就が予想されるシーンになっているが、
おい、イケメンよ、おまえ、本当に本当の自分は見つかったのか?

「男は仕事」に内包されている思想のひとつが男女差別である。
「男は仕事」の意味は、「女は仕事」ではいけないということだ。
職人は女風情がなるものではないといったような。
男女差別というのは本当にうんざりするものである。
「男は仕事」なんて思っていない男もいて、いまこの文章を書いていたりするのである。
「男は仕事」なんて思っていないから
時給850円のパートでもプライドはそれほど揺るがない。
仕事にプライドを求める人は精神的にきつくていまの仕事はできないと思う。
本や雑誌を全国各地のお客さまに配送する意義ある仕事だと思っている。
だが、職場でも歴然とした男女差別があって、
男はきつい仕事にまわされがちなのである。
わたしは女よりも女々しい女が腐ったような性格だから、
自分を女あつかいしてほしいというようなことを上司さまに言ってみても(よく言えるなあ)、
「男は仕事」という社会規範のせいか、これだけはどうにもならない。
ドラマに話を戻して「男は仕事」という社会常識にだまされてエリート会社員と
結婚した妻だって、果たして幸福かはわからないのである。
真田広之の婚約者、由子とその母親の菊江との会話から。

由子「お父さま、いるの?」
菊江「いるわけないでしょ」
由子「ゴルフバッグ、玄関にあったわ」
菊江「運転手が届けに来たの。常務はこれから会議でおそくなるって」
由子「日曜日に?」
菊江「(肩すくめる)」
由子「ほんとは、女?」
菊江「いないわよ。あの人は会議人間、仕事人間、
 重役になって、うれしくてたまらない人間。男はみんなそう。
 幹夫[息子]もニューヨーク支社で、どうせ日曜日だって働いてるんでしょ。
 母親に電話かけるなんて発想は全然ありゃあしない」
由子「だからのんだくれてるなんて、バカみたい。
 お母さんも好きなことをどんどんすればいいじゃない。
 いくらだって時間があるんだもの」
菊江「好きなことなんてないもの。なにやったって、むなしいもの」
由子「捜すべきよ。集中出来ること、捜すべきよ。アル中になっちゃうじゃない」
菊江「そんなことは分ってるの。どうすべきかなんてことは分ってる」
由子「だったら、そうしたら」
菊江「出来ないの」
由子「なにいってるの」
菊江「人間というのは、そういうもんなの(と床へ坐る)」
由子「座らないで、そんなとこに」
菊江「いいと思ったことを、どんどんやれれば、こんな簡単なことはないの。
 いいと思ったって、身体が動かない。心が動かない。
 悪いと思ってること(と酒をのむ仕草をし)してしまう。
 そういうのが人間なんだから(と横になってしまう)」
由子「そんなとこで寝ないで」
菊江「(寒そうに)うー(と身をちぢめる)」
由子「(一種の嫌悪で見ている)」(P186)


時給850円のパートにでも出たらいい男とめぐりあえるかもしれないのだが、
重役夫人で金持だとそうはいかないようである。
「男は仕事」だから妻の価値は夫の仕事で決まる。
「男は仕事」だから女は会社でなかなか出世できない。
「男は仕事」だから、しようがないから、
今日バイトで入庫(力仕事)にまわされたら社会の矛盾を身体全体で味わおうと思う。

*引用は大和書房から出ているシナリオ集によります。

(参考記事)
「あなたが大好き」(山田太一/大和書房)