「本当と嘘とテキーラ」(山田太一/小学館)→テレビドラマシナリオ。
3年前の放送を視聴したとき、これは本当らしくないと批判したものである。
娘に自殺された母親の立ち直るのが早すぎる。
その娘に「死ねば」と言った同級生の少女が、なにも心的障害を患わないのがおかしい。
これはわたし自身が自死遺族であることからの批判である。
つまり、体験(=実感)からフィクションであるドラマを裁いた。
さて3年経ってからシナリオで読むといささか考えが変わっている。
まあ、こういうのも本当らしく思えるのかなという感じがした。
さらに進んで、こういうことも現実にあるのかもしれないとまで思いを改めた。
いったい本当のこととはなんだろうか?
たとえば、そう、ありそうもない話をひとつ作り出してみよう。
無職で人生に絶望している32歳の男のまえに、
いきなり綺麗な女性が現われ「あなたが好き」と言ってくれる。
もしこんなストーリーのドラマを書いたら、そんなことあるわけないと批判されるだろう。
それはまったくそうで、わたしもこの話は都合よすぎると思う。
でもさ、現実にはこういうことがあるかもしれないじゃない。
いろんな人生があるんだから、こういう話が実際にあるかもしれないわけでしょう?
しかし、本当にありうることでも、
ニートがいきなり女性から告白される話は嘘くさいとほとんどの人に支持されない。
人生は不可解のひと言に尽きるから、本当ならなにが起こってもおかしくはないのだが。
だって、現実に3億円宝くじに当たっている人がいるんだから。
それに比べたら、キモオタが美女に告白されるほうが確率的には高いんじゃないかな。
いろんな嗜好の女性がいるわけだからさ。
こう考えていくと、現実ってなんだろう? 本当ってなんだろう?
本当は嘘くさいことがばんばん起こるのだが、
それをフィクションで書かれると我われはこんなこと現実にはないと批判する。
さも訳知り顔で、現実を隅々まで調査したようなことを言う。
しかし、我われが現実や本当と思っていることは、その人の経験した実感でしかない。
「こんなことは現実にはない」というのは実のところ誤りで、
正しくは「こんなことは自分の現実にはなかった」という感想の表明に過ぎない。
若者にとっては「こんなことは自分の現実にはありそうもない」かもしれない。
どういうことかと言うと、人間は他人の現実がわからないのである。
どうしようもなく自分の現実に縛られてしまう。
もっと言うなら、自分の現実以上に、通念によって捕われているのかもしれない。
ドラマ「本当と嘘とテキーラ」で言うなら、
自殺した娘を生前に母親が嫌っていたという話を通念から拒絶してしまう。
「母親は娘を愛しているのが本当だ」という通念でドラマを裁いていい気になっている。
本当のところは、他人の現実なんて知りようがないのだろう。
他人が本当になにを考えているのかは、なかなかわからない。
たとえば、奥さんを亡くした中年男がいるとする。
周囲の人々は中年男の気持を想像して、かわいそうだと同情するだろう。
年少者は年少者で、通念からこの中年男のことを気遣う。
だけどさ、本当はこのオッサンがなにを考えているか知れたもんではないじゃん。
若いときはもてなかったけれど、年輪を増して渋みが出てきたころかもしれない。
妻が死んで本心では「若い子となんかないかな」と期待していることだってありうる。
色目を使ってくる部下の女性との情事をさっそく妄想しているのかもしれない。
まさかラッキーとは考えていないだろうけど、悲しみ一色ではない可能性は否定できない。
いや、あんがいラッキーと思うことだって人間ないとは限らない。
リアルっていうのは、そういうことだと思う。
そして人一倍、ドラマのリアルにこだわったのが脚本家・山田太一である。
余談だが、いま放送している「家政婦のミタ」とかになると、
はじめから嘘っぽいから、だれも「こんなこと現実には」とか言わないわけね。
あれも自死遺族を扱っているけれど、
明らかな嘘という設定だからわたしも傷ついたりはしない。
こんなことを考えたのは、
今年新宿で行われた山田太一さんのトークセッションで聞いた話がきっかけ。
脚本家がふっともらしたのね。
「ドラマなんて、そばにガンの家族がいるだけで、
たいしたことのない闘病ものにわんわん泣いちゃうもんですから」
ぜんぜん正確ではないけれど、こんなようなことをポロっと仰せになったのを記憶している。
このとき、まったくそんなことはないのだろうけれど、
えらく自分を批判されたような気がした。
体験(実感)や通念に縛られて、ものを浅くしか見ていなかったのではないかと反省した。
反省とまでいったら大げさで、いい子ぶりが過ぎるような気もするけれど。
いや、実際3年まえに比べたら少し丸くなっているかもしれない。
(丸くなっちゃいけないのかもしれないけれど)
さらに付け加えるなら、
この3年間で本当なら起こらないはずの嘘くさいことをいくつか経験したこともあって、
「本当と嘘とテキーラ」の感想が変化したのだと思う。
「大人は、ゆっくり、変るんです」(P220)(参考)過去の感想↓
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10月15日、溝の口の高津市民館大ホールに山田太一先生の講演を聞きに行く。
テーマは「いま生きていること」。
以下に再現する講演会の内容は、すべてを未熟な聞き手の頼りない耳に依っています。
どこかおかしなところがございましたら、あらゆる責任はこの記事の書き手にあります。
とくにこの日は風邪を引いていたため自己の記憶力にあまり自信がありません。
山田太一さんはこの近くにお住まいなのでローカルネタが多く、
地名等あまた誤記があるかと存じます。先にお詫びを申し上げるしだいです。
弦楽四重奏団「タマーズ」のすばらしいご演奏のあと10分間の休憩を挟んで、
お待ちかねの山田太一先生による講演が始まる。
――僕はこの近くに住んでいまして、よくこのへんをふらふらしているんですが、
いつも、その、首を引っ込めて歩いているようなところがあります。
でも、震災がありまして、ほら、「遠くの親戚よりも近くの他人」とか言いませんか。
いざとなったときは助けてもらおうと思って(場内笑)、
今日はこうして断わりきれずに、このような講演をしているわけです。
下作延に小学校があるんですけど、そこの校歌をむかし作詞したことがあります。
その関係から、運動会、入学式と招待状が来るのですね。
何度か行ったこともあります。
すると、このあたりをぶらぶら歩いていますと、小学生から挨拶をされます。
こっちはいろいろ考えごとをして歩いていますから、
うっかり気づかないことがあるかもしれない。
そうしたらせっかく挨拶してくれた子どもを傷つけてしまいますでしょう。
そんなこともあって、僕は、なるべく目立たないよう、気づかれないよう、
この地元で、ほんと首を引っ込めて暮していますですね。
今日お話しするのは「いま生きていること」なんですが、
むかしTBSで「高原へいらっしゃい」というドラマを書いたことがあります。
音楽は小室等さんにお願いしました。
演出家の高橋一郎さんが、こんな提案をするのですね。
音楽に合わせて、毎回違った詩を流してみましょう。
そういうわけで谷川俊太郎さんに、その詩をお願いしました。
「生きる」というのは、そのときの詩のなかのひとつです。
これは「いま生きていること」という一文から始まるのですね。
いま生きているとはどういうことか、ひとつひとつ付け加えられていく。
あれはホットパンツだったかな、いや、ミニスカートだ(場内笑)。
いま生きていること、それはミニスカート。
こういうふうにいまがひとつひとつ増えていくわけです。
いま生きていること――。
3月の地震、それから津波はすごかったですね。
僕なんかは古い人間だから、戦争のころの焼け野原を思い出しました。
津波で、ああいうふうに一瞬ですべてなくなってしまうんですね。
ただこういうことを言うのは不謹慎かもしれませんが、唯一よかったなと思ったのは、
他国からの爆撃ではなかったことです。
もしですよ、あれが、たとえあの1/10だとしても、
他の国の爆弾にやられたのだとしたら、我われはもうその国を許せなくなったでしょうね。
いまの流れを見ていますと、もしあれが爆撃だったら、
もうこの国に戦争への抑止力はないと思う。
やられたらやり返せということで、とことんまでブレーキが利かなかったでしょうね。
津波に続いて原発の問題もありました。
どうなんでしょうかね、原発は。
コストがかかるのがわかってしまったのですから、やめればいいとも思いますが。
しかし、原発でまだ死者は出ていませんが、津波で大勢がお亡くなりになりました。
まったく不平等、無差別に人は死ぬ。津波であたらめて気づかされましたですね。
いちばん大切なものはなにか?
この問題を我われは津波から突きつけられたような気がします。
生きていればいい。生きているというのがどのくらいすごいことなのか。
とはいえ、あれからもうだいぶ時間が経ちまして、我われはそうではないのですね。
生きているだけでいいとはあまり思えなくなっている。
どうしていい会社に入れなかったのだろう。うちの子はあの大学に入れたかったのに。
もうこんなことを思っていますですね。
小じわが増えた、あらどうしよう、なんて(場内笑)。
あの震災をテレビでしか体験していないものはとくにそうです。
これが東北の人だとまた話は違うのでしょうが。
テレビ体験は、すぐ熱が冷めると申しましょうか、どうしても我われは、
ただ生きていればいいとは思えなくて、
なんだかんだと虚栄心を問題にしてしまいますですね。
生きていればいいってわけにはいかない。
震災のとき、家族の絆、なんてこともだいぶ言われました。
ああ、家族が生きているということがどれほどありがたいか。
ふだんは、あいつ大嫌い、とか言っているのがですよ。
嫁と姑になると、殺してやりたい、とまで思っているのかもしれない(場内笑)。
それがああいう非常時になれば、がらりと変わってしまう。
非常時というのはそういうものなのですね。
僕なんかは子どものときに終戦を経験しましたが、あれも非常時でした。
爆撃で焼け野原になって、米軍が上陸してくるという。
すると大人は竹やりの訓練をしたりする。竹やりで米軍兵士をやっつけよう。
常識的に考えたら、竹やりなんかで米兵に勝てるはずがないんですけれど、
そんなことを非常時はやっていましたですね。それから、食べるものがない。
非常時というのはぎりぎりのときです。
ここにゴッホの絵がある。ここにお米がある。
どっちが大事かって言ったら、そりゃあお米なんですね(場内笑)。
そういうときはゴッホの絵なんかより、お米のほうがはるかにありがたい。
しかし、ぎりぎりのときは長く続きません。
そうなると、くだらないことを言い始めるんですね。
いま円高だから海外旅行に行こうか、とか。
韓流スターのだれそれが来るから見にいこうか、とか(場内爆笑)。
イギリスの作家がこんなことを言っています。
いや、こういう言い方はよくないな。E.M.フォースターという人です。
「いつも戦争があったら文化なんて育ちようがない」
こういうことを言う背景として、しょっちょう戦争をしているんですね。
しかし、どっかで終わっている。次の戦争までの「間」がある。
この「間」に文化が生まれているとフォースターは言うわけです。
ピカソもそうだし、ダビデやミケランジェロもそうではないか。
生きていれば幸せというのはたしかにその通りです。
しかし、「生きていれば幸せ」だけでは、文化は育たない。
隣のうちのゴミの出し方が最悪でほんと困っちゃう。
知り合いがタナボタで幸福になって、なんだかむしゃくしゃする。悔しい。
あんがい、こういう取るに足らない日常の不満から、
人類の文化なんていう大げさなものが発展しているのかもしれませんですね。
テレビで「なんでも鑑定団」という番組がありますでしょう。
骨董を集めている人がいる。あんなの津波が来たらどうなると思いますか(場内笑)。
いえ、きっと集めている人もわかっているんですよ。
おれ、いったいなにをやっているのだろう、なんて。
でも、集めてしまう。山のように集めてしまう。
これが人類の文化につながるのかもしれません。
震災が起こったとき、日本がひとつになって、
なんとかして被災者を助けたい、助けよう、という気になったでしょう。
あれはとてもいいことだと思いましたですね。
なかにはひねくれて、助けようとなんか思わなかったという人もいるかもしれませんが。
いまはともかく、そのときは、みんなが被災者を助けようと思った。
それはめったにない貴重な経験だったと思います。
テレビのコマーシャルでタレントが、
「みんな、ひとりじゃない」と呼びかけるようなものもありましたですね。
偽善じゃないか、と思った人がいるかもしれません。
それから、こういうこともありました。
スポーツで勝った人が言います。被災地に元気を与えたい。
歌で被災者に勇気を与えたいと言う人もいました。
元気や勇気は人から人へ与えられるものではないのではないでしょうか。
結局は被災した人たちが自分で取り組んでいくしかない。
ですから、元気を与えたい、勇気を与えたい、
ああいうのは、僕は、どこか上から目線のような気がしてむかつきました。
というのも、突き詰めたら人の痛さはわからないでしょう。
歯痛ひとつとっても、いっしょに痛むわけにはいきません。
それに、基本的に好意には文句を言えないというところがあります。
有名人が避難所に物資を持っていって言う。「みなさんを助けに来ました」
もしかしたら、被災者のなかには「どうしておまえにおれが助けられるんだよ」
と思っていた人もいたかもしれません。いや、いないかもしれませんが。
とにかく、避難所の人は「ありがとう」としか言えないのです。
(突如、長い沈黙。スイミングアイ=目が泳ぐ)
(場内ざわざわ)
(おそらく逐一その場で考えながら論理的に順序だててお話になっているから、
わずかな矛盾にもご自身が最初に気づいてしまい、こういうことが起こるのでしょう。
それだけこの問題は難しい=言葉にしにくいのかもしれません)
震災のときのボランティアはとてもいいと思いましたですね。
被災地に行ってボランティアをしたら「ありがとう」って言ってもらえたと喜ぶ。
「ありがとう」って言ってもらいたくてボランティアをした。
こういうボランティアはほんとうにいいと思いました。
どうしてかというとエゴが入っているからです。
漠然と「みんなを助けたい」というわけではない。
だいたい「みんなを助けたい」なんておかしな話ですよね。
「じゃあ、今夜おれを泊めてくれ」と言われたら、どうするのか。
「それは違う」とか逃げるわけでしょう。「そういう意味じゃない」とか。
「まずは日赤を通してくれ」なんて言うかもしれない(場内笑)。
震災があったからなにもしないというのでなしに、
フラメンコでもなんでも文化サークルでやるのはとてもいいと思いますですね。
フラメンコをすることで、広い意味で、社会がうるおっている部分があると思う。
(ここから少し溝の口、下作延界隈のローカルネタ続く)
話はがらりと変わりますが、ねじめ正一さんの書いた小説「荒地の恋」を読みました。
「荒地」というのは戦後、鮎川信夫、田村隆一、北村太郎らが始めた詩の雑誌です。
やはり詩を書く人というのは独特なものがあるのでしょう。
北村太郎が友人だった田村隆一の奥さんを取っちゃうのですね。
一方の田村隆一さんも負けていなくて、新しい恋人をすぐに作るのですが。
この本はほんと見てきたようなことを書いているので驚きましたですね。
で、田村隆一さんは恋人と同棲をするのですが、
それがなんと下作延なのです(近所なので場内どよめく)。
40年(?)まえの下作延になるのでしょうか。
田村さんは下作延をどう言っているのか。「こんなひどいところはない」(場内悲鳴)
そこまで言うことはないと思いますがね(ちなみに山田さんのお住まいもこの界隈)。
その後、田村さんは久方のほうに移ったのでしたか。
そこもよくないと言って、最後は鎌倉のほうに行ってしまいます。
それはちょっとないよな、と僕は思う。
パッと見ただけではわからないけれど、下作延にもいいところはたくさんあります。
近所にふたつ小さな公園があるけれど、あのよさはなかなかわからないでしょうね。
よく見ていると四季おりおり、ハッとするような美しさを見せることがあります。
溝の口駅の近くに踏切があるでしょう。あの踏切なんかもほんとにいい。
お爺さんが孫と踏切でぼんやり電車を見ている風景なんか心からいいと思いますね。
きっと孫が走る電車を見たがっているのでしょう。
「もう一本だけ見たい」なんて孫が言って、いつまでもふたりで踏切のまえに立っている。
こういう光景をいいと思いませんか? 僕は嫌いじゃないですね。
田村さんはわからなかったかもしれないけれど、溝の口のよさがいくらだってあります。
僕の家は、ほら、火葬場が近くにありますでしょう。
小さいころの娘から言われたことがあります。
「お父さんよかったね。死んだらすぐ行けるじゃないって」(場内笑)
溝の口のよさはそれだけではありません。
渋谷からほどほど離れているのもいいと思いませんか?
だって、渋谷に住んでいたら、ドアを開けたらすぐ渋谷になるわけでしょう。
そんなの渋谷に行く楽しみがなくなるじゃないですか。いつも渋谷なんですから。
渋谷に行くのに川を渡るのもいい(二子玉川のこと)。
というのも、川岸は建物がないから、鉄橋を越えるときぱあっと世界が広がる。
僕はもうずっとここに住んでいますが、すごい選んで買った土地ではないんです。
でも、よく言うでしょう。聞きませんか?
買うまえは欠点を探せ、買ってからはいいところを探せ。
多くのことはすぐにはわからないのかもしれない。
この「こと」というのは値打ちのことです。
多くのものの値打ちはすぐにはわからない。
だから、僕は、あれをおかしいと思うんです。
テレビで、タレントがなにかものひと口食べただけで「うまい」と言うでしょう。
あれ、おかしいですよね。そんなにすぐにわかるものか。
いえ、もちろん裏事情はわかりますよ。
「まずい」なんて言ったらディレクターから叱られちゃいますもんね。
とはいえ、ひと口たべただけで「おいしい」と言うのはやはりおかしい。
外国人が納豆を食べたときのことを考えてみたらわかるはずです。
すぐに納豆を「おいしい」と思う人はまずいないでしょうね。
だんだんと、ああ、こういうのも「おいしい」か、
とわかってくるようになるのだと思います。
なかにはいつまで経っても納豆を「おいしい」と思えない外国人もいるでしょうが。
僕は古い人間だからかもしれませんが、チーズ。
チーズなんか初めて食べたときは、なんてまずいもんだと思いましたですね。
こんなもん、ほんとにうまいのか?(場内笑)
そのうち少しずつ、ああ、こういうものなのかとわかってきましたが。
ワインもそうじゃないですかね。
いろいろなワインがありますけれど、最初からなかなかわからないでしょう。
だんだんと区別もわかってくる。違いもわかってくる。
急いでしまうとわからなくなると思いますですね。
どんどん軽薄になるばかりではないでしょうか。
万事がそうで、いまという時代は急ぎすぎる。
なでしこジャパンに国民栄誉賞が与えられましたが、あれは必要だったのですかね。
オリンピックまで待ってもよかったのではないか。
だって、国民栄誉賞なんて最高の賞でしょう。
逆にプレッシャーになるのではないかと思いますがね。
それに、あんなに早く国民栄誉賞を取ってしまったら、その先どうすればいいんです?
王さんといっしょだって、あんな若いうちから言われても、ねえ?
まあ、菅さんが辞めるまえになにか目立つことをしたかったのかもしれませんが。
長持ちしない時代を生きている、と思いますですね。
そうそう、アップルの偉い人が亡くなりました。
あれはスマホでしたっけ? すごい行列をしていました。
あれもこれも、すぐ古くなってしまう。愛している暇がない。
傷がついたりする暇さえないのかもしれません。
タレントの消費もすごいスピードでしょう。
科学技術が商売と結びついてしまっているから、変化がびっくりするくらい早くなっている。
新幹線が開通したとき、伊左衛門さんがこう言ったという話を聞いたことがあります。
新幹線はあっという間に目的地に着いてしまいますでしょう。
伊左衛門さんが言うには、「乗っている時間が短いのにどうして高いのか?」(場内笑)。
電車に乗っている時間が楽しいのに、
どうして時間が短くなったのに反対に高い料金を支払わなくてはならないのか。
価値観の問題なんですね。どこに価値を置くか。
若い人の本をたまに読んでみようと思って本屋に行くとないんですね。
アマゾンで探せばすぐに買えますよ、なんて教えてもらう。
でも、それは違うんです。探したいんです。探すプロセスを大切にしたい。
ある本を探しているうちに思いがけない本を発見することもありますしね。
かえってそっちの本に夢中になってしまって、
目当ての本は読まないで放ってあるということもある(場内笑)。
不便ということは、感情を育てると思いますですね。
食べ物だってそうでしょう。いまはお取り寄せグルメとかいって、なんでも食べられる。
しかし、なかなか食べられないからこそいいんです。
恋愛だってそう。
「好きです。つきあってください」と告白して、相手が「はい、いいですよ」。
これじゃ、つまらなくありませんか。
相手が「ちょっと待って」とか言ってくれたほうが、いろいろ考えますよね。
どうしようか。こうしようか。ああしようか。
こういう過程で感情が育っていくのだと思います。
手に入らないものが、我われをうるおしてくれるのかもしれない。
むかしの白樺派の人たちは、ゴッホの白黒の絵しか見られなかったそうです。
きっと思ったことでしょうね。いつか本物を見たいもんだ。
ところが、いまの我われはどうでしょう。
美術館に行かずともハイビジョン映像できれいに隅々まで見ることができます。
そこまでは見たくもないっていうくらいの細部まで見てしまいます。
実際に本物を見ても見ないようなところまでハイビジョンで見てしまう。
すると、どうでしょう。パリに行っても大して感動しない。
こんなもんか、なんて思ってしまう。
もしかしたら、到達するまでのじれったさがいいのかもしれない。
到達するまでいろいろ考えるのが楽しいのではないか。
たとえば、モナリザはほんとうに美人か? とか(場内笑)。
モナリザは美人なんですかね。
モナリザの微笑とか言いますけれど、あれはほんとうに笑っているのか。
ちょっと得体の知れないところがあると思いませんか。
しかし、わからないところ、得体の知れないところがいいのかもしれない。
いまはなんでもすぐにわかってしまいますでしょう。
わからないほうがかえっていいのかもしれませんね。
お経なんかも意味がわからない。
ただなんだかありがたいものだと思って聞いています。
それでいいのではないでしょうか。
意味なんか知っても、あんがい大した意味がないのかもしれない(場内笑)。
いや、わかりませんよ。意味があるのかもしれませんよ。
しかし、お経には意味を求めていないところがどこかしらありますよね。
わからないものを、わからないまま受け入れる。
人間関係なんかもそういうところがちょっとあるように僕は思いますですね。
ずっと逢わないでいるといい友だちっていませんか?
たまに逢うとすごくいい友だちです。
あんまりコミュニケートしないからいい友だちになっている。
これがひんぱんにコミュニケートすると友だちどころか嫌なやつになってしまう。
本当に言いたいことは言わない、という人間関係はいいと思います。
言いたいことがあるけれども、最後まで言わない。
じゃあ、どうするかというと黙ってそばにいてあげる。
がんばれ、とか言わない。黙っている。
沈黙は成熟した言葉なのかもしれない。
「黙っているけど、こいつ、なに考えてるんだ?」
と思われるだけかもしれませんが(場内笑)。
生身の人間というのは言葉どおりにはいきかせんからね。
ドラマを書くというのは、頭の中でいろいろシュミレーションしてみることです。
たとえば、そう、飲み屋で政治家を批判しているような人がいたとします。
なーに野田(首相)のバカヤロウ、小泉(元首相)のアホンダラ。
しかし、こういう人でもいざ町で小泉さんと向き合うような場面になったら違うんですね。
「ずっと尊敬してました」とか握手を求めたりする(場内爆笑)。
人間ってそういうところがありますよね。
むかしコンビニのドラマを書いたことがありますが、
最近になってまた改めてコンビニを取材したんです。驚きました。
泥棒、強盗、万引はしょっちゅうというんですから。
コンビニは1日に3回レジをしめるんですってね。
でも、ある現金と売っているものが一致しないのが当たり前というんです。
一致したら3人で拍手するというくらいめずらしいと聞きました。
年寄りのお客が警察に通報してくれと来ることもあるらしい。
万引をしていないのに、万引をしたといって警察に通報してほしいとお願いされる。
いちいち万引をするのも面倒だから。こう言われたんですって。
なぜかというと、刑務所に入りたいんですね。刑務所に行けば三食食べられますから。
これを聞いたときにはドラマに使おうと思いました。
こうしてばらしてしまったから興が冷めてしまいましたが(場内笑)。
いまはインターネットの情報が多く、
検索すれば「コンビニの事情」なんてすぐ出てくることでしょう。
でもやっぱり生身の声はすごいと思いましたですね。
生身の人間はちょっと想像の及ばないところがあります。
新しい情報に合わせていこう、合わせていこうとするのはよくないと思います。
これは僕が古い人間だからかもしれませんが。
日常からチョイスをする、ということをおぼえたほうがいいと思う。
僕はいまだに原稿用紙に手書きで書いています。
きっと鉛筆で書いて消しゴムで消すというプロセスが好きなんでしょうね。
適応が早すぎるというのもどうかと思います。
こうしたら効率よく早くできるという方法をどんどん押し進めていくとどうなるか。
仕事が早く終わります。余暇ができる。
今度はその余暇をどう効率的に埋めるか、なんて考え始めるとおかしくなってしまいます。
余暇を埋めるのが大変だ、なんて悩みが出てきてしまうかもしれません(場内笑)。
生身に適したスピードというものがあるような気がします。
いまの日本はどん底じゃないと思いますですね。
みなさんマイナスのことを言い過ぎるのではないでしょうか。
いまがどん底? ぜんぜんそんなことはありません。
病気になったら、病院に行って薬をもらえるでしょう。
病気になっても薬がない時代もあったんです。
むかしフランスでカミュがこういうことを言ったそうです。
「いまのフランスは地獄ではなく天国ではないか?」
というのも、当時の主流派はサルトルなんかで、サルトルはさかんに言うわけです。
いまのフランスは地獄だ、どん底だ、マイナスだ、ダメでどうしようもない。
またそういう意見のほうが大衆に受け入れられるのですね。
これとおなじことがいまの日本でも言えるのではないでしょうか。
震災のとき、コンビニから一斉にものがなくなったことがありましたね。
コンビニに所狭しとものがあるのが当たり前だと我われは思っていたから驚きました。
いまはもうすっかり戻って、お店に行けばなんでもあります。
いますごくいい状態にあると考えてみたらどうでしょうか。
どん底なんてとんでもない話で、むしろ天国に近いほうにいる。
いえ、そのせいでかえって文句を言いたくなるというようなところがあるのでしょうが。
しかし、文句というのは自分を棚に上げて言っているところがあると思います。
常に自分だったらどうか、を考えるべきです。
自分だったらどうかを考えたら、そんなに文句ばかり言えるものではないと思う。
東京電力が槍玉にあげられていますが、
もちろん原発にかかわってきた人は批判されなければなりませんよ。
でも、東電にも罪がない人がいるでしょう。
東電だからということでみんないっしょくたに非難するのはどうかと思いますね。
自分が東電の社員だったら、どうしていたか。
この「自分だったら」を考えることから自責の念というのが生まれると思いますですね。
生きているということは単純ではなく、善も悪もふくんで我われは生きています。
善だけでは生きていけないところがあります。
人の恋人を取った。保身のためにだれかを傷つけた。
どうしようもなくそういうことが人生にはあります。
いまの人はあまりにも自責の念を持たな過ぎるような気がします。
自責の念なんか忘れてしまえ。人間なんて図々しいもんだ。
こう開き直っている人が多く、それが当たり前のようになっている。
しかし、自分の傷つけた人が死んでしまったら、もう取り返しがつかないんですね。
あやまろうと思ってもあやまることができない。
ヘンリー・ミラーの「南回帰線」にこういうシーンがありました。
子どもが複数で石を投げるいじめをしていて、ひとりの子どもが死んでしまうんです。
だれの投げた石が当たったかはわからない。
小さい村のことだからなかったことにされてしまう。
でも、ヘンリー・ミラーとおぼしき少年はずっとこのことに悩んで生きていきます。
大人になってあるとき旧友と再会する。
そこで「むかしあんなことがあったな」と事件の話をするんです。
「あのことだけは忘れられない」と。
けれども、相手はそんなことがあったのをまるで憶えていなかった。
これだけの話なんですが、
自責の念を持っているというのは質のよい生き方だと僕は思います。
自責の念は、人間を知るよすがになるのではないでしょうか。
もちろん、そんな敏感じゃ生きてられないというのも、それはそうなんでしょうが。
(終了時間が近づく)
来年、俳優座で「日本の面影」が再演されます。
紺野美沙子さんがハーンの妻をやるそうです。
だから、いいかなと思って「日本の面影」の本をサイン会用に持ってきました。
本を売ってもいいと言われたので、とりあえず家にあるものから。
(ちなみに、もうひとつは最新小説「空也上人がいた」)
逆転の発想をするといいと思いますですね。
少し反対グセをつけるように意識しているといいのかもしれません。
いつもみんなとおなじように考えていたら、
いざというときにも戦争反対のような声をあげられなくなりますから。
それでは時間が来ましたので――(万雷の拍手)。
聴き手:土屋顕史(Yonda?)
(編集後記)
いつものことですが、山田太一先生がお話になっていないことも、
こちらの思い込みでだいぶ聞き取ってしまったのではないかという危惧を持っております。
もしご本人のお目に触れたら、「僕はこんなことを話していない」と怒られそうです。
そういうものだとご認識のうえ、どうかこの記事をお納めくださいませ。
(参考)過去の山田太一講演会↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2595.html