96年にNHKで放送された山田太一ドラマ(45分×6)をジェイコムで視聴する。
テーマはいつものように孤独だが、「家へおいでよ」というタイトルからわかるよう、
本作ではいつも以上に孤独を真正面からとらえようとしている。
いまどうしてか孤独感と不安感でいっぱいなので何度も涙しながら見た。
最終回を見るのがもったいなくて時間的には一気にいけるのに、
わざと1日待ったくらいである。
何度も繰り返し書いてきたことだが、山田太一はすごい。
高校生のころからファンだったから四半世紀、こちらの心をとらえて離さない。
四十男になったいまでもというか、
いまだから楽しめるよさを山田太一作品は有している。
どうしてこんなに山田太一が好きなのか自分でもいやになるくらいだ。

大学でフランス語を教えている杉浦直樹は弱っている。参っている。
自分でもびっくりするくらい孤独に苦しんでいる。61歳だ。
国立の大学を定年退職して私大に移った。
大きな洋館を親から相続してそこにたったひとりで住んでいる。
30を超えた息子は結婚して自分のところには寄りつかない。
女房からは逃げられた。いまは夏休みでひとりぼっち。
新宿の定食屋で27歳の怪しい美しさを持った女性と相席になる(鈴木砂羽)。
雨だった。女性はびしょぬれだった。わけがありそうだった。
大学の先生は暇ですることがないから車で送ってやろうという。
女性はどこでもいいと答える。しいて言うならば、男の家へ行きたい。
「若い女なんてうんざりだ」と杉浦直樹は吐き捨てるように言う。
「女子大で教えているんだ。若い女なんてごろごろいる」

大学の先生はいま孤独感と人間不信でいっぱいである。
教え子の女子大生から研究室で「単位をください」と泣きつかれた。
答案にはミスチルの歌詞が3行書かれているだけだった。
冗談じゃねえよ。こんなんで単位なんかやれるか。落とした。
すると女子大生はどうしたか。
杉浦直樹から研究室で乱暴されそうになったという噂を広めた。
単位がほしいならと密室で先生に襲われそうになった。
大学に訴えたわけではなく、噂を広めただけだからよけい始末が悪い。
対処しようがない。手も足も出ないが噂はどんどん広がっていく。
大学のだれもが自分をそういう目で見るようになった。
正直、夏休みが終わってから大学に出て行く勇気のようなものさえ失っている。

先生は姉(岸田今日子)からも言われている。
「あなたはね、ひとりじゃないほうがいいの」
「そんなにひとりがいいの?」
杉浦直樹は姉に対しては強がるが自分でもそう思っている。
「ひとりなんかいや」「ひとりはもういや」
行き連れの27歳の女性もそう思っている。
双方の利害が一致したかたちで、
27歳の女性は家賃1万円で洋館のひと部屋を借りることになる。
友だちだというスナックで働く17、8の少女も越してくる(小橋めぐみ)。
どういう縁か孤児院育ちの捨て子である25歳の男もやって来る(筒井道隆)。
バランスを考えて杉浦直樹は、ノイローゼ気味の、
南米パラグアイから来た留学生のカルロスも寮から自宅へ越してこさせる。
「家へおいでよ」――ひとりが5人になったわけだ。

「若い人の役に立ちたい」というのが杉浦直樹の表の顔である。
いまどき家賃1万円で借りられるところなんてないだろう。
親切は他人のためにではなく自分のためにするという処世術を作者はよくわかっている。
親切をすることで、ときに人は孤独から解放されることがある。
長いこと大学の世界で生きてきた世間知らずという設定の杉浦直樹は、
61歳にしてこんなすばらしい世界があったのかと思う。
みんなが引っ越してきた晩、庭でパーティーをやった。
国籍も性別も年齢も異なるものがいっとき集い、場をわかちあう。
そのなんとすばらしいことか。尊いことか。慰められることか。生きる喜びか。
おそらく人一倍孤独に敏感な山田太一の理想郷というのはここにあるのだろう。
ひとりではなくふたり、3人、4人、5人が寄り添っていたわりあう。

とても優しい光景だ。
しかし、それは本当か? 本当はどうなっている? 本当はどうだ?
翌日からは人間がいっしょに暮らすことの大変さがこれでもかと強調される。
トイレの順番、食器洗い、挨拶、礼儀、人と人はうまくいかないようにできている。
孤独ならぬ集団(同居)のよさを悟ったつもりでいた大学の先生は現実を知る。
昨夜はあんなに和気あいあいとしていたひとりがこう言うのだから。
「ほっといてもらいたいの!」
昨晩のパーティーは先生への感謝を込めて、
下宿人全員で打ち合わせをして「死ぬ気で明るくしよう」と試みた結果だった。
現実はそういうものである。現実は甘かない。世間はそういうもんじゃない。

とはいえ、それでも人間はおもしろい。
そういう現実、世間をふくめて人間はおもしろいのである。
もしかしたら孤独に苦しむ人間の希望は、下世話な好奇心にあるのかもしれない。
先生ではないが、同様にヒリヒリした孤独に日夜向き合う当方は、
派遣バイト先でめぐりあう人間の下世話なドラマにとても癒されている。
いままでかなり下世話な取るに足らない愛憎劇を採取してきたが、
それは読書履歴同様、あるいはそれ以上のわたしの貴重な蓄積だ。
財産とまで言っていいのかもしれない。
ひとりではドラマがなかなか起きないが、人が集まるといろいろ厄介ごとが発生する。
若者なら愛だ恋だ友情だ、といったささいな揉め事にも巻き込まれよう。
そういう人びとのてんやわんやを見ながら、
孤独にヒリヒリしている杉浦直樹は下世話な好奇心を刺激され、不謹慎なことを思う。
「おもしろいね、人間が増えると」
こちらもおなじ。孤独。ひとり。
いまはもうあきらめたが、一時期どこでもいいから宗教団体に入りたいと思っていた。
むかしは否定していたボランティアも、いまは興味がなくもない。
それはおそらく無意識のうちに、
そうすることが孤独を忘れるための最良の手と感知しているからではないか。

しかし、ひとりもまたいい。
大学でフランス語を教える杉浦直樹は長年モンテーニュを生きる支えにしてきた。
いま勤務している大学の主任教授はパスカル好きだから、
学生にモンテーニュを教えることはできないが、自分は彼を長年の友としてきた。
杉浦直樹は自室にモンテーニュの肖像画を掲げている。
モンテーニュさん、と孤独な男性は困ったときの相談をフランス哲学者にしている。

「モンテーニュさん。あなたは言った。
ひとり静かに暮らしてみようなんて暇をつくってひとりでいると、
つまらない心配やバカらしい妄想がもくもくわいてくる」


モンテーニュだけではなく、吉田兼好もおなじようなことを言っている。
ひとりはよくないが、モンテーニュも吉田兼好も、働いたわけではない。
ひとりでいるのはよそうと思ったわけでもない。じっとしていた。ひとりでいた。
そうすることでモンテーニュは「エセ―」を、吉田兼好は「徒然草」を書いた。

ひとりがいいというのは美学でもポーズでもなんでもなく、
それがいちばんの安全策ではないか。他人は怖いだろう?
他人の怖さを知らないやつは世間を知らない。世間を舐めている。
世間とは他人の集団だ。他人は自分の都合でこちらになにをしてくるかわからない。
杉浦直樹は世間知らずだから、保証人も取らずに部屋を貸している。
軽々しく「家へおいでよ」なんて言ったら他人は土足で踏み込んでくるぞ。
世間知らずのわたしが世間を知ったようなことを書くと、
25歳で無職のみなしご、筒井道隆は保証人もいないし定職もないから、
ドラマ終盤で家を出て行けと大学の先生から言われるが、行き先がないはずである。
そこでおそらく住み込みのラーメン店という設定をつくった山田太一の世間知はたしかだ。
世間は冷たい。他人は怖い。人に気を許すな。
正義なんてうすら寒いもんで、女子学生がセクハラと言ったら、それでおしまい。
事実かどうかなんてどうでもよくて、お客さんたる学生の言い分が通っちゃう。
本当のことよりも、本当らしいことが持てはやされるのが世間というもの。

他人の限界を杉浦直樹はふたたびのパーティーで知る。
下宿人は大家のことを思って、彼を励まそうとして、パーティーを開いてくれたのだが、
その席で大学の先生の思い入れのあるシャンパングラスが無断で使われていた。
どうしてこれを無断で持ち出して使うんだ?
杉浦直樹は他人のありがたさ、他人の無神経さ、それから自分の無神経さを同時に知る。
みんなは自分のためを思ってやってくれたんだ。
しかし、それは無神経だ。しかし、それを無神経と指摘する自分もまた無神経ではないか。
ひとりだと孤独だが、いっしょにいると他人の干渉がたまらなくいやになる。
親切は干渉、お節介なのだから、それが功を奏すかはわからない。

世間は怖い。他人は怖い。人間はわからない。
27歳の板倉かやの(鈴木砂羽)は本当は怖いぞというタレコミが杉浦直樹のもとに入る。
ネット検索で知ったが鈴木砂羽は映画「愛の新世界」の主演女優なのか。
「愛の新世界」は大学時代好きだったので、おのれの女優識別能力の不足を嘆く。
板倉かやの(鈴木砂羽)は怖いぞ。
そう主張するのはむかしそこそこの大会社の営業二部の部長をしていた角野卓造。
彼女はむかし自分の部下だった。
ここのシーンがとりわけおもしろかった。
むかしは高級スーツを身にまとい、部下からの尊敬も集めていた角野卓造は、
いまはみすぼらしい格好で、鈴木砂羽に人生をめちゃくちゃにされたと訴える。
会社からも女房子どもからも見捨てられ、ひとり。
角野卓造は部下の野心あふれる鈴木砂羽をひと目見た瞬間に恋に落ちたという。
「無力でした。なにもかも失いました」
男と女の関係になったら、すぐに女はそれを誇示して部の方針を支配しようとした。
おなじ部のだれもが女の意向を気にするくらいの権力者になった。
それに対して、無力でした。自分はただもう鈴木砂羽の魅力に降参した。

これは山田太一さんの願望であり、わたしの夢でもある。
日常、生活、世間、常識に逆らって、
ひとりの女性にボロボロになるくらいおぼれてみたい。
銀行強盗をするくらい男性でもいい、女性でもいい、だれかに夢中になってみたい。
しかし、人間不信、女性不信(人間なんてこんなもの)から、ブレーキをかけてしまう。
孤独な無職者の角野卓造は、とても悲惨な人物として描かれていたが、
あるいは彼こそ人生の本当の味を知った果報者なのかもしれない。
これが相手の鈴木砂羽の言い分になると異なる。
鈴木砂羽いわく、角野卓造は男性社会の悪の象徴。
仕事ができる自分の邪魔をして、功績のいいところ取りをした。
自分が提案したプロジェクトをつぶしておいて、
それを自分が考えた企画として上に通すようなことも数知れなかった。
あげく、男って最低。
男はたいがい女なんかやっちゃえば自分の言うことを聞くと思っている。
ある晩、仕事の話だと酒に誘われて睡眠薬をのまされレイプされた。
チクショーと思った。あいつの言いなりになるか。
次の日から、あたしは部長の女だと自分から言いふらしてまわった。
そう言ったら、みんなあたしに逆らえないのがおもしろかった。

「家へおいでよ」のなかでいちばん興味深いテーマである。
どっちの言うことが本当のことなのだろう。どちらの主張が正しいのか。
双方ともに自分は本当のことを語っていて、正しいという認識があるのである。
睡眠薬うんぬんは女性の妄想の可能性もある。
ダメージがどちらが深いかといったら再就職できている女性より、孤独な中年だ。
魅力的な女性というのは、こういうことをすることを山田太一は知っている。
というか、そういう(重度の人間不信の)山田太一やわたしの夢の結晶が、
「家においでよ」の板倉かやの(鈴木砂羽)かもしれないわけである。

とはいえ、「そんなことは世間にはいくらでもある」。
「立ち入らないほうがいいだろう」

だから世間は怖い。他人は怖い。人を軽々しく信じるな。
まさか人のよさそうな板倉かやの(鈴木砂羽)にそういう過去があったとは。
のみならず女は最初の日、先生が手を出してきたら、
おなじことをして男の人生を台無しにしてやろうとたくらんでいたと白状する。
孤児という育ちのため、
苦境に人格を磨かれたかのように見える好青年の林田泰弘(筒井道隆)も怖い。
孤児院は中学までなので、15歳から働きづめである。
蒲田の町工場の夫婦には自分たちの実の息子のようによくしてもらった。
こういうことを言うと自慢のようだが、自分は若いし最新テクノロジーの仕事もよくできた。
ところが、町工場のひとり息子が帰ってきたらがらりと態度が変わる。
跡継ぎ息子は30過ぎまでふらふらしていて、しょぼい詐欺事件で執行猶予になった。
行き場がないので実家の町工場に戻ってきた。
長らく遊び歩いていたやつだから、どう見ても使えない。
衝突は何度も起こったが、こちらは一歩も二歩も身を引いた。
ドラ息子の提案で新しい機械を入れようという話になった。
それはどう考えても町工場の利益にはならない。下手をすると借金で倒産してしまう。
お世話になった経営者夫婦のことを考え、自分は必死でとめようとした。
しかし、夫婦はドラ息子の味方をする。
いままで不良のかぎりを尽くしてきた息子が、こんな仕事の提案をしてくれるのが嬉しい。

「家族って怖いね。間違ってもいいんだ」
と(家族を知らない)孤児の林田泰弘(筒井道隆)は思う。
孤児の筒井道隆は女性と交際していて結婚する直前までいっていた。
相手の女性は有名大学を出ていた。
結婚話がこじれたのは、筒井道隆が中卒だからということもあった。
工場ではみんな仕事のできないドラ息子を重宝する。
婚約者もその家族も、孤児で低学歴の自分に抵抗を示しているような気がする。
なんなんだよ、これ。冗談じゃないよ。バカヤロウ。
あるとき仕事のできないドラ息子が林田泰弘(筒井道隆)を面罵する。
「黙っていろ、中学が!」
その瞬間、喧嘩の強い筒井道隆は、
お世話になった工場の経営者や仲間をぶん殴り、蹴とばし、機械をぶっ壊して、
そうしてひとりになって(恵まれた)大学の先生の洋館にたどりついたのである。

「家族って怖いね。間違ってもいいんだ」と孤児が思う、このリアリティー。
むかし派遣職場で、捨て子で孤児院で育ったという好青年と会ったことがある。
いまでも彼のことをドラマのワンシーンのように記憶している。

「気持はわからなくもない」と大学の先生(杉浦直樹)は思う。
孤児出身の筒井道隆は、
高校生相手にカツアゲをしているところを同居人に目撃されている。
理由は、「ろくに働いたこともないくせに、幸福そうな顔をしやがって」。
ふたたび、「気持はわからなくもない」だ。
気持はわからなくもないが、しかし、この「しかし」が人を孤独にして同時に自分を形づくる。
恵まれた裕福な大学の先生は孤児に1週間以内に家を出ていきなさいと言い渡す。

ハンサムでイケメンな25歳の孤児、林田泰弘(筒井道隆)に恋しているのが、
スナックに勤める十代の土屋礼子(小橋めぐみ)。
少女にも人生への引け目のようなものがある。
母親が自転車の事故に遭った。冗談みたいに5メートルくらい吹っ飛ばされた。
それから意識不明。父親は湿っぽくなっちゃって、いつも暗い顔をしている。
食事の準備や洗濯を娘の自分にさせて当たり前のような顔をしている。
何度、お見舞いに行っても母親の意識は戻らない。父親は陰鬱だ。
こんなことであたしの人生は終わっちゃうの? もういやだいやだ。いやでたまらない。
両親を捨てて家出した。
この洋館に越してきてからは住所も父親に教えていない。
「大丈夫と言って」と少女は老先生に頼む。
「大丈夫と言って、きつーく、10秒くらい抱きしめて」

恥ずかしい私事を書くと、最近わたしも大丈夫と言ってと電話でお願いしたことがある。
それもひとりにではなく、ふたりにだ。
電話で笑われたが、くじけず、お願いしますから大丈夫と言ってくださいと。
嘘でもいいからと。
ものすごい底の浅い話をすれば、
孤独と不安の処方薬は「わかる」と「大丈夫」なのだ。
本当は人はわかりあえないが(おそらく)、嘘でもいいから「わかる」と言ってほしい。
本当は生きているあいだ、なにが起こるかはわからないが、
嘘でもいいから「大丈夫」と言われ安心したい。
占い師は「わかる」と「大丈夫」をうまく使える人ほど成功を収めるだろう。

いっときは先生の大丈夫に救われた土屋礼子(小橋めぐみ)だが、
大家が自分の好きな林田泰弘(筒井道隆)に出て行ってくれと言った。
結果、筒井道隆はひとりさみしく家を出て行った。
このことについて、そんなことあるか? と思う。ひどい。
大家だからってそんなに偉いのか? 大学の先生はそんなに偉いの?
ここで少女は27歳の鈴木砂羽と悪だくみを先生に仕掛ける。お芝居をする。
杉浦直樹が帰ってきたことを知りながら気づかないふりをする。
そうしてふたりが裸でいることをセリフで先生に知らせるのだ。
若い女性ふたりがドアの向こうで素っ裸でいる。
大学の先生は覗くか、それとも自分を抑えるか。
ここもいかにも山田太一ならではで非常におもしろかった。
男なんてどんなにかしこまっていても、若い女の裸のまえではいちころよ、
という一種のある面からの真実(本当のこと)から目を背けようとしない。
結果、孤児の青年を裁いた杉浦直樹は覗きをしてしまう。
もとより、それは女性陣の画策で全裸ではなく水着姿であった。
セクハラ疑惑のある大学の先生は若い女性ふたりからとっちめられる。
あなたに林田泰弘(筒井道隆)のことを批評できる資格はある?
あなただって覗きをしているじゃない?
ことによると本当は大学でセクハラもしていたのではないか?
女ふたりも洋館を出て行くと言い放つ。
パラグアイからの留学生、カルロスも
先生が親切からしたことを迷惑で無神経な行為だと憤り出て行く。
「家へおいでよ」の先生、杉浦直樹はまたひとりになってしまった。
ここまでが5回で、あとは最終回を残すのみ。
どう決着をつけるのか、1日時間を置くことにした。ひとり自分でも考えたかった。
最終回では先生と女子大生との直接対決が大学で行なわれるようなことが匂わされる。

最終回――。杉浦直樹は弱っている。ドラマ初回よりも孤独に参っている。
なまじいっとき孤独から脱出できそうな気配を感じたのがよくなかったのかもしれない、
大学での公開査問も行なわれず、それよりマスコミに嗅ぎつけられたら困るということで、
杉浦直樹は大学へ来なくていいという通達を受けている。
広い洋館にひとり。だれもいない。なにもない。することもない。ひとり。
宅急便の配達夫とも話したいくらい孤独である。
これをわかると書いてしまうと精神の疾病を疑われそうだが、
わたしも夜に交番のお巡りさんと「こんばんは」と挨拶しただけで、
ぞくっとするくらい喜びが体内に込み上げてきた経験があるので、
恥ずかしいことこの上ない。あーあ、白状しちゃった。

大学の先生は土屋礼子(小橋めぐみ)が2ヶ月ぶりに訪問してくれると喜色満面である。
聞くと、孤児の林田泰弘(筒井道隆)はもう若い女の子と付き合っているとのこと。
これってどういうこと? いったいどうなっているの?
少女はまた先生に大丈夫と言ってと頼む。
先生「大丈夫?」
少女「質問じゃない」
先生「――」
少女「こう大丈夫って(と示す)」
先生「(自信なさげに)大丈夫」
少女「そうじゃない」
先生「(少々威厳を保ち)大丈夫」
少女「そう。もう一回お願いします」
先生「(わけがわからないながらも確信ありげに)大丈夫」
少女「(満足する)」

大丈夫と言ってと頼まれた杉浦直樹が「大丈夫?」と聞くやりとりで大笑いした
この山田太一のユーモアが好きである。とぼけたユーモアがおもしろい。
それは庶民のよろしさ、おもしろさ、どうしようもなさにも通じる。

大学の先生は不満である。「大丈夫」と言ってほしいってなんだ?
自分はフランスの哲学者、モンテーニュの言葉をたくさん知っている。
モンテーニュではなく大丈夫なんていう安っぽい言葉で、それだけでいいのか?
そのうえ自分の話を一方的にしただけではないか?
こちらの話はぜんぜん聞いてくれない。こちらの孤独感はどうすればいいんだ?
こういう煩悶のあげくに杉浦直樹はまた自室のモンテーニュの肖像画と向き合う。
モンテーニュをまえにしたら大学の先生も素直になれる。
しかし、そもそも人間ってそんなもんですよね。
「みんな自分のことでいっぱいです」
モンテーニュさん、あなたは言った。

「何事にも終わりがある。辛抱しろとあなたは言った。
弱音を吐かずに辛抱しろだ。そのうち多少いいこともある」


パラグアイの留学生、カルロスが最終回でおもしろいことを口にする。
カルロスはパラグアイに美しい婚約者がいた。
彼女の家に行ったとき、庭の木に美しい花が咲いていた。
カルロスは日本に来てから鉢植えに毎日水をかけている。
その鉢植えはどういう謂われ? と女性陣から聞かれてカルロスは答える。
自分は婚約者の家の庭できれいな花を見た。感動した。
その木の下の土をひとつかみポケットに入れた。
それを日本まで持ってきた。鉢植えを買った。日本の土を入れた。
そのいちばん上にパラグアイから持ってきたあの婚約者の家の庭の土を置いた。
「それって種もなにもないんでしょう?」
「はい」
「そもそも木じゃない」
「はい」
「木が鉢植えで育つって思う?」
「わかっています」
「どうして毎日、芽が出ない鉢植えに水をやるの?」
「それが私の喜びです」
NHKとはいえ、たかがテレビドラマのセリフのやりとり。
しかし、これはものすごい希望を語っているような錯覚をいだきかねない。
花が咲かないどころか芽さえ出ないことをわかっている鉢植え。
どうしてそこに水をやってはならないのだろう?
花が咲かないことをわかっていても水をやるのが喜びなら、それでいいのではないか?
芽が出なくても、土に水をやることを喜びと感じなかったら、生きるのは味気なさすぎる。
人生とは、そういうものではないか?
われわれみんなどうせ花が咲かない地所に水や栄養を与えているだけではないか?
それが人生の喜びであって、そこまで他人から責められるべきものか?
芽が出ない花が咲かないという事実に変わりはないが、
それでも水をやるのが喜びであるという人生はそこまで悪くもあるまい。

ドラマ「家へおいでよ」はどうなったか。
実はお屋敷を追放された孤児の筒井道隆のつきあっていたのは、
杉浦直樹からのセクハラ被害を訴えている女子大生であった。
とびきりハンサムでイケメン、善人っぽい筒井道隆はそうと知りながらナンパした。
「先生への恩を返したいと思って」
本当のことを知りたい。本当はどうなっているのか?
洋館での公開裁判の結果、事実は杉浦直樹はセクハラをやっていなかった。
「うっかり乱暴されそうになったとか言っちゃって、引っ込みがつかなくなった」
「私が悪者。ひどいやつは私」
テレビドラマの最後は一同集合。
みんながみんな「私が悪者。ひどいやつは私」と思っているため、それぞれを許し合い、
一夜の和解、意気投合、歓楽を味わう。
あたかもこのくらいしか生きる味わいがないとでも言うかのように。

山田太一ドラマの特徴のひとつは説明過剰だが、
作者は杉浦直樹の姉の口を借りて、この作品の趣旨を説明している。

「まるで芥川の『蜘蛛の糸』ね。
エゴイストのあなたが、たった一回、若者の役に立とうとした。
そのことを仏さまは見ていてくれて、地獄に堕ちたあなたに糸をたらしてくれた。
おかげであなたは(セクハラ騒動から)救われた」


ドラマの最後にエピソードとして加えられていることを紹介する。
大学の先生、杉浦直樹の姉(岸田今日子)は夫と不仲である。
やりきれないほど、うんざりしている。
ところが、夫が倒れ病院に運ばれ残り3ヶ月と言われる。
「死ぬのも悪いばかりではない」
夫は老妻の岸田今日子の美しさを口にするようになった。
岸田今日子も彼女なりに、
余命少ない、終わりがある、うんざりしていた夫の美しさに気づく。
「いままであいつ(夫)は時間を持て余していた。
しかし、こうなって、毎日のように、日々、少しずつ、透き通るようになっているわ」

「何事にも終わりがある。辛抱しろとあなたは言った。
弱音を吐かずに辛抱しろだ。そのうち多少いいこともある」


これは山田太一が最後(?)の芝居「心細い日のサングラス」で、
万人向けには書けなかったという、死にゆく人への救いの言葉だろう。
「何事にも終わりがある。辛抱しろとあなたは言った。
弱音を吐かずに辛抱しろだ。そのうち多少いいこともある」
そう思うしかないという、いくらか悲観的な人生観である。
「家においでよ」は2年まえに録画していたが、いままで視聴しなかった。
山田太一ドラマは視聴するのも感想を書くのも疲れるし時間がかかるのである。

※こんな長文記事を最後までお読みくださったかたに心底より感謝いたします。
ほかにすることはあるのに、この記事に何日も費やしたことを世間さまにお詫びします。
しかし、本当にいい山田太一ドラマでありました。
「リリアン」(山田太一・黒井健/小学館)

→改めて繰り返しになるが、山田太一さんはすごいよなあ。本書は絵本だが、
子どもにも理解できるわかりやすい文章で、それも短く、おもしろいことを書いている。
大人のわたしが読んでなみだが込み上げてきて、
読み返しても深々とうなずく世界を描けるのだから、この才能は異様である。
しかも、しっかりと山田太一ワールドになっている。
絵本だからバカにしていままで読まなかったがガツンとやられた。
わかりやすい言葉でこれほど深くおもしろことを書ける人がいるのだ。
人間とうそと本当の関係――山田太一のテーマのひとつ――
が簡潔に濃密に描かれている。
人間はひとりぼっちで本当の現実は真っ黒な大巨人のようなものだけれど、
人間はうそを武器にして、フィクションの美(少)女と夢のような世界に行くことができる。
少女「それってうそでしょ?」
少年「――」
少女「それもうそでしょ?」
少年「でも、ぜんぶ本当じゃないんだとしたら(世界は)ずいぶんつまらない」

「それってうそでしょ?」と少年を挑発してきた少女こそうそだった。
本当の現実は不愛想な腹話術師の操り人形だった。
少女は少年の胸のなかの夢想だったのかもしれない。
じつは心やさしい腹話術師との共作だった可能性もあろう。
少年は大人の孤独な男性に人形の名を聞くとリリアンという。
ありがとう、リリアン。
これはひとりぼっちの少年のみならず腹話術師の本音かもしれない。
ふたりのさみしい孤独な中年と少年はどこにもいないリリアンという少女に救われた。
いや、リリアンはたしかに存在した。ふたりの心のなかに。
現実にリリアンはいないが、現実にリリアンがいることを――こんな難しいことを――
子どもにもわかるよう平易な文体で、
なによりおもしろくハラハラドキドキ書く作者には降参だ。
山田太一さんが好きだ! 
まさかこの年齢になって絵本にこんな感動するとは思わなかった。

1999年にNHKで放送された75分の山田太一ドラマをジェイコム録画視聴。
ひさびさに山田太一ドラマを視聴したが、うまいなあ、うまいなあ、泣ける。
しかし、その泣くところが既成概念、
社会常識に強制されたものだったとしたらどうだろう?
物語の骨子はやはり人と人との出逢いで、
裕福な未亡人の63歳八千草薫にダンディーなおじさま夏八木勲が逢いに来る。
理由は亡妻の、老妻の鍵のついた秘密の日記を見つけたからだという。
その鍵を壊して日記を読んでみたら、夏八木勲の亡妻(老妻)と八千草薫の
一流会社勤めだった亡夫が付き合っていたというもの。
「あやまち」も舞鶴でふたりで一泊したという記録があるため、
そのときあったのではないか。
舞鶴でおじさまがおばさまを口説いた言葉は、
「あなたがいちばん綺麗なときを見たい」――。
アパートの火災でアルバム写真はぜんぶ消えたが、
もしかしたら舞鶴の写真館には残っているのではないかとふたりで行った模様。
そして、おそらくは一夜だけ結ばれた。

いろいろなことを考えさせられる。
まずは故人の日記を読むのがよいことか悪いことか。
わたしは母に目のまえで飛び降り自殺され、
その当日に日記が遺されていることに気づく。
いまでも笑い話にはできないが、そこには父やわたし、
親族全員の悪口が事細かにいきいきと
「許せぬ」という熱意(狂的な悪意)こもった文章で書かれていたことだ。
山田太一ドラマでは不倫日記を死のまえに捨てておかなかったのは、
自分に対する仕返しだと仕事人間だった夏八木勲が嘆いていたが、
当方の場合は病死ではなく眼前自殺だからほぼ復讐なのである。
この母の日記はいまもうちにあるが父も親族もだれひとり読みたくないと言った。
自分の悪口が書かれている自殺者の日記を読みたがるものは、そりゃあいないだろう。
わたしは何回も読み直し他の客観的事実記録と比較して詳細なレポートをつくった。
結局、父は別居していた母の葬式にも来ず、日記の話には耳を貸そうともせず、
自分と妻は愛し合っていたという物語を信じながら20年近く経過した。
精神病だった母の死後直後から結婚前の「いちばん綺麗なとき」の写真を、
仏壇のようなものにまつっていた。父は賢い生活者なのだろう。

これをされて生きていけるかって話なのね。
大好きだった母から目のまえで自殺されて、日記には自分の悪口がずらり。
だれもその意味を教えてくれないし、みんなこの事実から目を背ける。
ハロワとかキャリアカウンセリングに行くと経歴の乱れを指摘され、
自己責任とか「自分で検討してください」のようなことを言われるが、
あなたがそれを経験したらその後10年も20年も生きていられるかって話じゃないか。

言葉の達人、ドラマ作家の山田太一もそこらへんは敏感で、
日記が「本当のこと」である証拠はないという示唆もしているのだから偉大である。
日記は「妻の夢なのではないか」と夏八木勲に発言させている。
日記に書かれていることが「本当のこと」かどうかはわからないのである。
ブログ「本の山」は日記形式の記事もあるが、かならずしも「本当のこと」を書いていない。
「本当のこと」なんか自分でもわからないし、未熟な言葉に託せるかという思いもある。
ふたりは舞鶴で一泊したと日記に書いてあるが60近い男女が性行為をできるのか?
すべては夏八木勲の亡妻の妄想だったという解釈もできるのではないか?
「あなたがいちばん綺麗なときを見たい」という口説き文句は有効なのかもわからない。
熟女好きだった山田太一は老女の若いころを妄想しながら興奮できたのか?
このドラマでも夏八木勲が63歳の八千草薫に迫る場面があるが、
こんな年代になってもセックスへの欲は尽きないのかと薄気味悪い思いがした。
それはこちらが未熟な女性観しか持っていないからかもしれない。

とてもうまいいわゆる良質な庶民ドラマで、作者の手のひらの上で泣かされたが、
考えてみるとそれがいいのか悪いのかもよくわからない。
このドラマの基本的ルールは、「不倫は悪」というものがある。
夫婦は、そして両親はお互いを永劫に愛し合わなければならない。
ドラマに泣かされながら反抗的なことを申し上げると、不倫ってそこまで悪いか?
それは現代法律的にはそうだろうけれど、世間法を超えたところから見たらどうだ?
ここに当方は救いのようなものを見ている。
母は子を想うべし、子は親孝行すべしも、「不倫は悪」レベルの些末な問題ではないか?
そうだとしたら母から意図的にねらって目のまえで飛び降り自殺されたことも、
わざわざ悪口だらけの日記を遺されたことも、
すべては嘆くに足らずになるのではないか?
――と言葉のうえでは、口だけでは言えるが、実際あれをされると、
完全に心を破壊されるというか、いまでも夢で意地悪されるし、来世にしか期待はない。
ひとりの人を根本から崩壊させるなんて通常人はなかなかねらってもできないし、
その意味でわが母は偉大だったのだと思う。
母は父の不倫の証拠をつきとめたとか何度も日記に書いていたが、
いまはそんなものはどうでもいい。
たとえ事実でも不倫がなにゆえ悪か? 夫婦関係がそんなに神聖なものか?
母子関係は生物的なDNA的関係に過ぎないとも言いうる。
最後に日記に書いてあることは「本当のこと」なのか? 
本当とはなにか? 嘘とはなにか? 事実とはなにか? 虚構とはなにか?

以下に当方の耳がとらえたセリフを記録しておく。
シナリオが手元にないから、すべては妄想かもしれない。

「(用件は)お金かなにか? ふん、虫のいい話」
「おばさんと相性よくないの知っているでしょう?」
「綺麗ごとを言っても仕方がないから、ザックラバンに話すと――」
「死んじゃえば本とかまわりのものには邪魔なだけじゃない」
「ひとりが長いとひとりになりたがる」
「焼くことも捨てることもできた日記を遺したのは私に仕返しをしたかった」
「さみしい」
「あなたを抱きたい」
「あろうことかここに男をくわえこんで」


1970年に半年にわたって放送された30分×26回の連続テレビドラマを一括視聴。
もちろん、脚本は山田太一。
この人のドラマではなかったら10時間以上、映像と付き合うことは難しい。
わたしは20年以上の山田太一ドラマ(シナリオ)のファンだが、
どうしてこうまで好きなのか考えてみると
「ふつうの生活」「ありきたりの日常」へのあこがれが人並み以上に強かったからだと思う。
欠損家庭もありきたりと言えばそうだが、うちの家庭もまた崩壊家族であった。
それは父が悪いのでも母が悪いのでもなく、
社会風潮(家族はこうあるべし)が家族を寒々としたものにさせていた。
結局、母は2000年にわたしの目のまえで飛び降り自殺をして血まみれになって死ぬ。
遺書にも日記にもひどいことが書いてあった。
母親が偉いと思うのは、
多少は皮肉もあるが、わたしの人生を完全に壊してしまったところである。
どこもママさんは自分好みしようと息子にあれこれ仕掛けるが(教育するが)、
結局はべつの若い女のところに逃げられる。
しかし、うちの母カズコさんは極めて優秀で、
41歳にもなる息子をいまだに支配しているしコントロールしているし好きにさせない。
ふつうはそんなことはできないが、目のまえで飛び降り自殺をしたらそれはできるのだ。
息子を完全な母の支配下に置き、
腹から生まれた赤ん坊を自分の完全な作品にすることができる。
母が息子の目のまえで自殺するなんて前例も少ないだろうし、
経験者はほぼ廃人になると思われるから、非常にレアなケースと言えよう。

ふたたび、わたしが山田太一ドラマを好きなのは
「ふつうの生活」が描かれているからである。
わたしは18年まえに母から目のまえで飛び降り自殺をされ世界は闇に覆われた。
最後のプライドで(いわば母を殺した)精神科には行かなかったが、
社会的常識から見たら「ふつうの生活」からはるかに逸脱している。
世間をせせら笑いたいのは、母が自殺してもだれも助けてくれなかったこと。
国家もマスコミもあらゆる宗教団体も救いの手を差し伸べてくれなかった。
そして、こういう事情で、履歴書の空白が生まれてしまうが、
「本当のこと」を言っても面接官を困らせるだけで(経験あり)、
履歴書は私文書偽造をするしかない。悪いことなのだろうが、そうするしかないだろう。

ようやく1970年の山田太一ドラマ「二人の世界」に話を戻す。
じつはこの作品は数年まえに2、3回視聴してギブアップした。
美男美女の恋愛ドラマなんか見たくねえというのが、その理由である。
今回、目や耳を酷使して最後まで視聴できたのは、
わたしも少しながらまともに近づいてきたからだろう。
ドラマ「二人の世界」はイケメンで一流会社のエリートと、
重役の美しいお嬢さんがまったくのたまたま偶然で恋に落ち(ひとめぼれ!)、
1週間を待たずとして婚約(すぐさま結婚)する話である。
26歳のイケメンは優秀な営業マンだったが、会社の派閥争いに巻き込まれ、
いわば重役のミスを押し付けられるかたちで、
おもしろみのない総務に左遷されてしまう。
いくら総務の仕事はつまらないとはいえ一流企業で給料はいいし、
まだ26歳なんだから上役に貸しを作っているぶん将来性は有望だろう。
しかし、イケメンは美人妻にあおられたこともあいまり、
脱サラして当時流行のスナックを始める。
イケメンはスナック開業にあたり妻の父に借金を申し込むが、
この会社重役の岳父の威厳がすばらしく、世間の象徴と言いたくなるくらい迫力がある。
「スナックを経営したいとか、まわりに流されているだけではないか?」
図星のイケメンは返す言葉がない。妻の父は言う。
「本当にやりたいことをやってみろ」
26歳のイケメンは本当にやりたいことなどわからないことを深く悟る。
しかし、スナック開業は家族全体にプラスをもたらし、
家族は一体化して、それぞれなんにもないマンネリ人生を活性化させることになる。
スナック成功のために、両家の家族がみんなで協力して生きがいのようなものを感じる。

これはわたしの父と母の物語と言ってもよかろう。
時代的にも、1970年は父と母が交際を始めたころだ。
田舎者の父は冴えないねずみ男のような風貌だったが、
水道橋の食堂で休みなし、どころか職場に泊まり込み働いていた。
父が酔うと毎回言うことだが、あのころは年収1千万あったとか。
(このまえ女友達と逢いに行ったら年収900万になっていた←クスクス)。
わが父は不細工だったが、ドラマ「二人の世界」のイケメンとおなじく、
このままサラリーマンで終わりたくないと思い脱サラしようとする。
それは愛する妻(わたしの母)の意向もあったことだろう。
ドラマでも開業資金がないために借金を頼る美男美女夫婦が登場するが、
父は母の叔母に援助してもらったとのことである。
いまの父は去年あたまをやってしまったから、むかしのことはすべて抜け落ちている。

いいなあと思うのである。
山田太一ドラマ「二人の世界」もいいし、そこから想像される若き両親の奮闘ぶりもいい。
「二人の世界」を見ながら、
父と母にもこんな甘い青春時代があったのではないかと考えると涙が出て来る。

いまもそうかもしれないが、むかしの結婚は家と家との結婚でたいへんだったでしょう。
相手の家の資産状況、遺伝的病気の有無、犯罪者はいないか。
いまはフェイス(顔)の部分が強いが、むかしはこういうことの吊り合いが重んじられた。
50年くらいまえまでは結婚は、好きか嫌いではなく世間体の問題であった。
いまならきょうだいに無職ニート引きこもりがいる女性は結婚できないのではないか?
まあ、それを超えるのがほんものの恋愛結婚なのだが、この問題は置いておこう。
新婚生活はとても甘いようだが、父も母も似たようなものを経験したと思うと嬉しくなる。
新婚旅行で1個1300円のお椀を買う買わないで喧嘩する新婚夫婦は甘いよなあ。
田舎者のイケメンがセンパイという言葉を使うと、お嬢さまの新妻が拒否する。
なんかセンパイとか聞くとリンチでもしそうな気がして怖い。
おいおい、田舎ではセンパイは当たり前で、とてもやさしくしてくれるんだぞ。
ふつうの家族はいいなあ、と思うのは姉と弟。
ドラマ「二人の世界」でいちばんよかったのは結婚した姉と実家の弟の関係だ。
弟は姉の結婚がどこかさびしいし、同時にとてもうれしい。
結婚してからも姉は弟の心配をするし、弟もいつも姉のことを気にかけている。
きょうだいには兄弟、姉妹、兄妹、姉弟と4パターンあるが、
いちばん情緒的で美しいのは姉と弟の関係ではないか。
山田太一さんもお姉さんがいらしたし、お子さんはお嬢さんふたり、お坊ちゃんひとり。

「ひとつの結婚が周囲に孤独をふりまく」というナレーションがドラマにある。
たしかに娘が嫁に行ったら実家の両親も弟もある種の孤独感はあるだろう。
こういう「ふつうの生活」を描いているから山田太一ドラマはいいのである。
甘い新婚カップルが、ふざけて威張って、
どのくらいわがままを通せるかお互い試すところとか、甘酸っぱくてええなあ。
あの父と母もわずかながらでも、そういう甘い体験をしていてくれたらと思う。
「食べ物は育ちが消せない」とかリアルだよねえ。
わたしの母も専業主婦だったが、主婦は暇を持て余してしまう。
ドラマでは女友達が「暇なら子どもでごまかせば」「それが生活というもの」
と助言するが、おそらくわたしが誕生したいきさつもこれに近かったのだろう。
父が脱サラしたのは当方が生まれたあとだから、かなりリスクがあったのではないか。
しかし、70年代の経済成長率は異常である(←クリックしてね)。
父と母は焼鳥屋を開業して共働きで休みもなく、そのうえ母には子育てもあった。
「二人の世界」を見ると、この時期こそ土屋家のもっともいい時期で、
父にも母にも生きがいがあり、毎日張り合いのようなものがあったのではないか?
後年、母が精神病を発症したとき、このストレスが原因で自分は病気になったと主張した。
とはいえ「二人の世界」を見ると、父も母もそれなりにいい時代があったような気がして、
それは錯覚や誤解といったものかもしれないが、そうだとしても深く慰められる。
わたしも中学生のころわずか、父の焼鳥屋を手伝ったことを記憶している。

わたしは母の眼前投身自殺以降、おそらくそのショックだろう。
それ以前の記憶が(嘘みたいだが)その日を境にきれいさっぱり消えてしまった。
子どものころのことをほとんど覚えていないのである、
神さまだったような母から目のまえで飛び降り自殺されるとはそういうことだし、
この体験はだれにもわかってもらえないだろうし、
母は息子の人生を完全に自分の思うがままにすることに成功したと言ってよい。
精神病の母は最期なにもかもわからない状態だっただろうが、
いま皮肉というべきか当然というべきか、わたしがその状態を引き継いでいる。
これはもうどうしようもないし、どんな宗教に入ってもいいが、
解決は自己の死によってもたらされるだろうということはうすぼんやりわかっている。

このドラマを見て、もしかしたら父と母は、
生きがいと張り合いに満ちた「二人の世界」を
味わったこともあったのではないかと涙がこぼれるほどうれしくなった。
わたしはずっと「一人の世界」を生きてきたが、これは母の呪縛なのだろう。
わたしは母を自殺というかたちで殺したが、
同時に母もその瞬間にわたしを抹殺し「一人の世界」に追いやった。
このまま「一人の世界」でだれにも相手にされることなく、心も開かず、
夢も希望もなく孤独死するのはまざまざと見えているが、
そんな男の両親がわずかでも
「二人の世界」を生きていたかもしれないと思うと涙ぐんでしまう。
それほどに「一人の世界」は寂寥索莫としているのである。
孤独なわたしは「二人の世界」にあこがれていたから、
いい中年男になっても古臭い山田太一ドラマに執着しているのだろう。
山田太一ドラマ「二人の世界」――いっときでも甘い夢を見せていただいた。
ジェイコム、日本映画放送チャンネル、山田太一先生に感謝いたします。
みんなひとりじゃないんだなあ。
最後のナレーションでこんなものがあったと記憶している。

「人間一人より二人のほうが強い」

1992年に放送された山田太一単発ドラマ、
「ハワイアン ウエディング・ソング」ジェイコム録画分をいまごろ視聴。
シナリオですでに読んでいるので、テキトーに酔っぱらって見たものである。
前回の感想では、これはハワイのマウイ島の絶景がメインだったのだろう。
シナリオではそれほどのものとは感じないと書いていた。
いざ映像で見ていたら、前回の感想は当たっていて外れていた。
たしかにシナリオで読むよりは映像で見たほうがいい作品だったが、
それはハワイの絶景のためではなく、
役者の容貌がいまの放送コードには引っかかるのではというくらい、
冴えなくみみっちく貧相で絵にならず、そこがじつにリアルな感じがしたからである。

本当に失神するくらい冴えないアラサーの男女が親の見栄で、
ハワイの教会で参列者は親だけという環境のなか結婚式をあげる話である。
繰り返し書いているが、山田太一ドラマの基本トーンは、
「なんて人生はこうまでつまらないのか」と「これほどなんにもないのか」である。
このドラマでも冴えない花嫁の母の倍賞美津子が、
定番の山田太一台詞「つまんない」「なんにもない」を絶叫していた。
だから、せめて行き遅れた風貌もなにもかも冴えない30を超えた娘を、
結婚紹介所で紹介されたこれまた見栄えのよくない、
どっからみてもお洒落な会話とは縁がないオタク的な「とび職」の青年と
ハワイ! ハワイ! ハワイ! 
それも(そのころ)流行のマウイ島の教会で結婚させたら、
せめて少しでも「つまんない」という感覚がなくなるのではないか?
わずかでも人生でなにかをなしえたような錯覚でも感じられるのではないか?

ところが親のあとを継いだ冴えない「とび職」のお婿さんが親に反発する。
おれは日本人なんだから、こんなところで西洋風の結婚式をあげたくない。
「いやなものはいやだ」
じつのところ個性というのは、なにが好きか、なにがいやかにあると言ってもよかろう。
「いやなものはいやだ」は親の支配下に置かれてきて、
うまく逆らえずにいる子どもの最初に発言するところの個性と言ってよい。
さあ、みなさまもおっしゃってください。
それは「いやなものはいや」だからやりたくない。
「いやなものはいや」と言わせないのが世間であり社会であり常識である。
リピート・アフター・ミー。さんはい。

「いやなものはいや(=自分)」

むろん、反語は「好きなものは好き」でこちらも個性であり、自分そのものである。
いくら健康に悪くても常識に反しても礼を失しても、自分というものは、
「好きなものは好き」と言うところにあるというのが朝日賞作家のメッセージである。
さんはい。人生をおもしろくするためにいってみよう。はい、さんはい。

自分=「好きだから好き」「いやなものはいや」

このドラマでは30過ぎのいまではテレビに出せないくらいの冴えない男女が、
親の期待や世間に合わせて、結婚相談所で出逢い、
お互いこのくらいかなあと吊り合いを考え、
しかし親の見栄もありわざわざハワイのマウイ島の教会で結婚式をあげる話である。
正確にはそうではない。
いかにも女の相手がヘタそうな「とび職」のオタク男が「いやなものはいや」と言う。
自分は足の短い猿のような日本人だから、
西洋人を真似てタキシードを着て、
キリスト教なんか興味もないのにハワイで結婚式なんかあげるのはいやだ。
反抗期もなかったような、親の言いなりとおぼしき青年がはじめて自己主張をした。
個性を出したのである。いやなものはいやだ。
これまたびっくりするくらい冴えない30女も
へたくそに自分を出して海に衣服のまま飛び込むが、まったく絵にならない。
花婿は花嫁を追いかけて海に飛び込むがカナヅチで溺れてしまう始末である。
なにをやっても絵にならない30を過ぎた男女である。
このふたりがハワイのマウイ島の絶景で、まったく映画のようではない、
言うなればしみったれた会話をするのだが、いいなあと思った。
これが山田太一ドラマであり、われわれ庶民の人生そのままであると。

人生は一定の年齢を超え常識にとらわれると、なにをしてもつまらない。
どうがんばって夢や目標を持って生きても、大半の人間の人生はなんにもない。
だから、ハワイで結婚式とか、そういう華々しいことを夢見て、
運のいいものは実行するのだがしかし、
そんなことをしてもつまらないし結局なんにもない。
それが生きるということだが、そこに哀歓を見て取れば、
そこにせめてもの救いのようなものを感受できれば、
このカネカネカネの資本主義社会もまだまだ灰に覆われてはいないのではないか?

いまいい歳になって、まったく世間からは評価されず孤独零落の身で思うのは、
人間ってつまらないから結婚するんだろうなあ。
人生なんにもないということにうすうす気づいたとき、子づくりをするのだろう。
人生はつまらないし、なんにもない。
しかし、おもしろい人生も有価値な意義ある人生も嘘っぱちだ。
ならばつまらない、なんにもない人生を直視してみたら、
そこにしかない味わいがあるのではないか?
それが生きるということではないか? 生きがいはそこにしかないのではないか?
つまらなくてなんにもない人生でも、それは「ありふれた奇跡」と自分をだまして生きよう。
ふたたび、それが生きるということだ。
わたしなんて職場の人全員に
「なにがおもしろくて生きているんですか?」
と質問したいような世間知らずのところがある。
人生はつまらないがしかし、なんにもないがしかし、しかししかししかし――。

(関連記事)
「ハワイアン・ウエディングソング」(山田太一/「月刊ドラマ」1992年7月号/映人社)
自分が生まれる3年まえ(昭和48年)に放送されたドラマをジェイコムで視聴。
全15回の連続ドラマで、山田太一の出世作というあつかいで、
作者も最晩年期にこのドラマはもっと評価されてもいいと発言している。
シナリオでは11年まえに読んで、感想もブログに記している。

高校生のころ仕事人間の父にこう質問したことがある。
「どうして毎日、おなじことばかりしていて飽きないの?」
おそらく、父は答えてくれたのだろうが、それを記憶していないということは、
こちらが納得を得る回答ではなかったということなのだろう。
話はいきなり飛んで25年後のいまになる。
いま人生初のオフィスワーク系のアルバイトに従事している。
といっても、仕事は補助で自分はオフィスワークなどこなせる能力はないのだが。
しかし、ネクタイをした部長の仕事ぶりから目で耳でいろいろなことを学習した。
部長の近くにいる3人の契約社員&パートはいずれもヤンママである。
毎日、毎日おなじような仕事をして、おなじようなセリフを発している。
女性は子どもの成長というはっきりとした目安があるからいいのだろうが、
この会社にいる男性は部長も課長も主任も係長も契約社員も、
毎日、毎日おなじことの繰り返しに飽き飽きしないのだろうか?
わたしはいい齢をして毎日をドラマのように生きたいと思っているが、
ドラマのセリフは毎日おなじことの繰り返しだとある日気づいた。
どの人も連日、同時間におなじセリフを口にしている。
その同一のセリフにもいろいろな情感がこもっていて、
人間の小さな喜びや悲しみを見出していくというのが山田太一のドラマ作法で、
ファンのわたしもそういう観点から日常ドラマを見ているが、
しかし、そういう日々の哀歓はしっかりと感知しつつ、
本当にこの人たちはそれで満足できているのかという疑念はぬぐいきれない。

わたしは部長と言えなかった。
いまのバイト先では、
課長は○○課長と名前をつけて呼ぶのだが(返品課とサービス課のふたつあるためか)、
部長は物流でひとりしかいないためかS部長ではなく「部長」と呼ぶ。
わたしがいままで働いてきたところでは役職で人を呼ぶところはなく、
どこも○○さんであった。だから、それなりにマシな職場に雇っていただけたのだと思う。
ともあれ、本当に部長が言いづらい。
短期バイト終わりのいまなら部長と呼べるが、
どうしても意気地のない小声になってしまう。
部長よりも部長さんのほうがはるかに言いやすいが、
当人はバカにされたような思いをするだろうから言えないし、むろん言ったこともない。
とはいえ、部長をSさんと呼ぶほうがはるかに発声しやすい。
わたしは部長からどう呼ばれているかというと、バイトくんやツチヤくんである。
もちろん、バイトくんは社外電話の通話時が多く、
社会常識のある部長さんは短期バイトでも名前のツチヤをありがたくもクンづけで、
お呼びいただいている。

Sさんは毎日部長と呼ばれていると、本当のSさんはどこに行ってしまうのだろう?
わたしが部長と言いにくいのは、どこか差別語ではないかと思っているからかもしれない。
部長ってことは課長や平社員、バイトよりは偉いけれど、
本部長や社長、会長よりは下である。
だとしたらSさんを部長と呼ぶことは、
ある階層に向かってエタヒニンと呼びかけるのとおなじではないか?
おまえらは名前なんてものはなく、エタヒニン(部長)なんだよと、それだけでしかないと。
部長を部長さんと言いたいのは、百姓をお百姓さんと言いたい心持とおなじだろう。
去年勤務していたところの工場長は部長と呼ばれることを喜んでいた。
いまは工場長だが、かつてアメニティ部門の部長だったから、部長と呼ばれたい。
自分はOという名前の人間ではなく、かりの身分は工場長だが、本当は部長である。
我輩さまはエタヒニンでもなく、商売人でもなく、工員でも農民でも公務員でもなく、
お偉い天皇陛下であられるぞよ、というのとおなじ構造である。

わたしは父のことをいつからかツトムさん、母のことをカズコさんと呼ぶようになった。
むろん、ここ5、6年の話である。
父と面と向かっても「ツトムさんはさあ」と言う感じで話している。
ときにはお父さんと呼ぶこともあるが(人の目や耳があるとき)、
いまはもっぱら父はツトムさんだ。
ちなみにオヤジやオフクロという言葉は当方の言語体系からは決して口に出せない。
父は社長になることが子どものころからの夢で、小さな焼鳥屋を経営するようになり、
パートには社長と呼ばせて喜々としていた。
たぶん父がいちばん好きな呼称はツトムさんでも、お父さんでもなく、社長である。
なんと性格の悪い息子だろうと批判されるのを覚悟で書くが、
わたしは父を社長、社長と呼んでバカにすることがある
(本人はこちらの悪意に気づいているかは不明)。
しかし、わたしだって父から、おまえは従業員よりおれの心配をしない、
従業員よりもおまえは使えないと罵倒されたこともあるから、どっちもどっちだろう。

どうしてみんな自分(わたしだったら土屋顕史)を極めようとせず、
正社員や課長部長社長、夫や妻、お父さんお母さんになりたがるのだろう?
部長と言われているあなたの本当はなんですか?
お父さんと言われているあなたの本当はどこにありますか?
以上はすべてドラマ「それぞれの秋」の我流の要約なのだが、
このドラマを実際に見た人ならばそれが正しいことがわかるだろう。
「それぞれの秋」第6回の小倉一郎のモノローグ「前回までの説明」。

「ぼくは大学の二年生だが、あまり出来がよくないせいもあって、
話を要約するのは得意ではない。もうこのドラマも六回目だ。
そうなるとここで五回分をひと口に説明しなければならなくなる。
そういうことはうまく出来るわけがないので、あつかましい事を言うようだが、
そろそろこのドラマを見て下さる方は、
なるべく毎週見損なわないで見ていただきたいと思うのです。
要するに、一口に言えば、これはわが家五人の家族の物語で、平凡な一家で、
しかしやっぱりぼくは語るに足るような気がするので、終わりまでお話しようと思う」


ホームドラマが家族の物語ならば、本当には毎日平々凡々の繰り返しなのだから、
かならずしも初回から見ている必要はなく、
途中から参入してもわかっておもしろいのが本物のホームドラマではないか?
そういった本当のホームドラマを書きたいという作者の意気込みを、
このナレーションから感じる。
結局、われわれ平凡な庶民にとっては役に立つ、
つまりそれぞれのパートを演ずるのが生きがいなのではないか?
部長という役に立ち(パートを演じ)、お父さんやお爺さんという役に立つのが生きがいだ。
本当の自分なんてものをえせインテリのように追求せず、そこは目をつむり、
おのおのそれぞれ与えられた役に立っていくしかわれわれの生きがいはない。
少女は部長の役にもお父さんの役にも立てないが(男性パートは演じられないが)、
(それが幸せかはわからないが)よき娘やよき妹の役になら舞台で立つことができる。
そんなのつまらないと与えられた役を拒否することも可能だが、
そうしたところでいったいなにがあるというのか?
与えられた役を断れるのは本当に強い人間で、われわれはそこまで強靭ではない。
なにも考えずに役に立つことを考えろ。それがわれわれ庶民の生き方だ。
男なら男らしく正社員や出世を目指し、夫になって父になるのが庶民の生きがいだ。
女なら女らしく一歩引いていやでも男を立て、妻になり母になるのが宿命だ。
その宿命は転換できない天与のものだから、そのゆえに宝とは考えられぬか?

ドラマ最終回までおのれの役を従順に演じた小倉一郎は言う。

「父が脳腫瘍になってから、ぼくの家族は、お互いに随分力を合せてきたと思う。
特に、兄貴と妹は人が変わったように、母を助けて、よく切り抜けたと思う。
ぼくだって、よくやった、と言っていいだろう。
しかし手術が成功して、父が退院し、段々また平凡な日常生活が戻ってくると、
なんだかまた少しずつ家族の結束がゆるんで来て、
結局人間はそれほど変わらないものだなあ、と思う。
ほじくれば随分いろんな気持をそれぞれが持っているんだろうけれど、
そういうものは、あんまり表へ出さないで、なんとなく曖昧(あいまい)にして、
そうして生きて行くのが人生の知恵なんだろうなあ、とぼくは思いはじめていた」


父が大病にかかれば、妻も息子も弟も妹もそれぞれの役に立てるのである。
父の役に立つという名目で、それぞれの役に立てる。
ホームドラマ「それぞれの秋」の父親役は部長補佐で、
男は重役に愛人との別れ話の決着を頼まれ、
部長になりたい一心で30万(いまでは倍の60万か)の借金を背負い込む。
このことから世間では部長は偉いことになっており、社長はさらに偉いことがわかる。
わたしはそういう社会常識のない、世間知らずだから、
山田太一ドラマにここまで惚れ込んでしまったのだろう。
山田太一もおそらく世間知らずだが、そのことを深く自認していたし、
同時に庶民が訳知り顔で交わす世間話の安っぽさを軽蔑するインテリ性を有していた。
41歳になったいまもまだ山田太一ドラマに感動する自分に驚いている。

(関連記事)
「それぞれの秋」(山田太一/大和書房)

1985年(昭和60年)に放送された東芝日曜劇場全2回のドラマを、
シナリオでは既読であったものの、いま秋だからジェイコム録画ぶんを視聴する、
わたしは好きなブランドのようなものはまったくないが、
東芝だけはパソコン購入者の無料アフターサービスをやっているので好きだ。
パソコンでは何度も東芝のお世話になった。
そういうわけで去年東芝の電子レンジを買ったら1年もしないうちに壊れて、
量販店経由で修理に出すと戻ってくるのが1ヶ月後とか言われ、
この寒い冬を電子レンジなしでは暮らせぬと新しい電子レンジをビックカメラで購入。
ヤマダ電機のほうが安いのだろうが、ついむかしからの慣習でビックカメラ。
おなじ東芝製品を買いなおそうかとも思ったが、
また壊れたら笑えなくなるので(冬にレンジがないことに耐えられないわたしはカス)
東芝の半額程度の聞いたことのないメーカーのものを買った。

オフィスワークをしたことがないのである。
いまありがたくも雇っていただいているバイト先は、
オフィスワークのようなものを盗み見、盗み聞きさせてもらえるので嬉しい。
われわれ短期アルバイトがシール貼りなどの単純作業をしているのとおなじ場所に、
そこでいうところの「部長席」がある。
うちは焼鳥屋だったし、まっとうなサラリーマン世界のことはまったくわからない。
これまでもいまのようなまっとうな企業に雇っていただけたことはない。
生活能力、実務能力のからきしないわたしはそのぶんだけ、
まっとうな会社の部長や課長にまでなることに仰ぎ見るような敬意をおぼえてしまう。
ひっきりなしに電話が鳴るところだが(吃音のわたしは電話対応大嫌い)、
それを器用にさばく女性ワーカーたちには一生あたまが上がらないと思う。
彼女たちはみな正規に結婚して旦那さまどころかそれぞれ子どもまでいて、
まっとうな生活を
ニート的な矛盾に悩むこともなく(私ってなに? 生きている意味ってなに?)、
短期バイトに当たることもなく(いじめることもなく)、
明るく波風立たぬように、言うなれば世界全体をうまくまわしている。

部長の偉さ、課長の偉さをどれだけ理解してるかで世間知らずかどうかわかろう。
短期バイトに早稲田卒と中卒をいっしょに入れて、
ふたりを同等に扱うことのできるのは優秀な部長だろう。
テレビライターの山田太一はやたら老いた庶民から愛されていると耳にするが、
それは氏が好人物であると同時にリアリスト(現実主義者)だったからだろう。
ドラマ「東京の秋」はダ埼玉の所沢に住む農民青年が、
東京の一流商社部長の娘に恋する物語である。
どうして商社マンが農民より偉いかといえば、世間がそうだからである。
埼玉県民がむかし東京六本木にコンプレックスをいだいてたのは社会構造ゆえ。

このドラマには「想い出づくり」で光り輝いた加藤健一がまた登場する。
ダ埼玉に住む農民、しかしバブル土地成金で金だけはある長男である。
ダ埼玉の農家のせがれである加藤健一(この人大好き)もむかし
お嬢さまと交際する機会はあったが、結婚まではこぎつけなかったという。
(我輩さまが)大好きな加藤健一いわく。

「俺の[結婚前の元カノ]は聖心だ、
皇太子の美智子さんが出た聖心女子大の女の子で、
こりゃあキツカったなあ。あー、この世の中にはやっぱり階級ってもんがあるんだなあ。
俺がどう求めても、こういうエレガントな女は、
俺ンとこへは来ねえだろうなあって、
かーなりいい雰囲気まで行ったけどなあ、勇気なかったなあ」


山田太一さんって女性の自由解放を描いたとされる「人形の家(主人子はノラ)」の
イプセンのようなあつかいを長らく受けているが、
実像はイプセンのライバルだったストリンドベリ的要素も
たぶんに持ち合わせていたのではないか?
一流商社部長で長男を
重役の娘と政略的に結婚させた(つまり自身も重役直前の)男は娘に言う。
この男くらいで手を打っておいたらどうだ? 
おまえもすでに27歳で価値がそれほど高いわけではないだろうと古手川祐子に。
いいから、現実的に手を打て、わが娘よ。

「いまつき合ってる[埼玉農家の]男と結婚する気がないなら、
そういうつき合いは長くない方がいい。
[見合い写真を見せながら]こいつは、東京工大を出て、新科学工業へ入った奴で、
将来性はこの前の男よりあるらしい。
顔はあまりよくないが、逢うなら、来週の日曜日に予定を組むといっている」


人間は「金、顔、肩書」の3Kだが、そんな現実は見たくない。
なぜなら現実はそうであるから、にもかかわらずそうと認めたくないから。
短大と高卒なんか、当方の感覚からしたらおなじだが(大卒も院卒も)、
そういう細かな格差にこだわると生活感があると朝日的絶賛を受けるのだろう。
弟が一流商社部長の娘とつきあっている久松(加藤健一)と、
同居するその農民階級の埼玉の母親(幾子)との会話から。
ダ埼玉の老婦人、幾子は息子の久松に言う。

幾子「口惜しいじゃないか」
久松「なにが?」
幾子「誠次[次男]は、あの子と一緒になりたいと思ってるだろ」
久松「いや、だから、俺はそう思ってたけど」
幾子「つり合わないとかいってる」
久松「ああ」
幾子「向こうがなんだっていうの。こっちの方が余程収入多いんだよ」
久松「そりゃそうだけど――」
幾子「一度家を見て下さい。家族に逢って下さい。
 本人二人がつり合わないと思っている程、お宅さまと家に差があるかどうか」
久松「本人たちは本人同士のつり合いをいってるんだって」
幾子「それだって短大と高卒だろ」
久松「そうじゃねえって」
幾子「じゃあ、なに?」
久松「いや、それもあるよ。女房が仮にも大学出てて、
 亭主が高卒だってことも問題がないとはいえねえけど」
幾子「そんなもん」
久松「育ちが違うでしょう。食いもんでもつき合いでも趣味でも、一緒になって、
 本音をぶつけ合い出すと、そういうとこがあんまりちがうと、
 たしかに、たまんなくなるとこあっからね」


山田太一ドラマを良識的だと絶賛して、
野島伸司ドラマを罵倒する朝日新聞読者がいかにものを自分の目で見ていないか。
山田太一はドラマに階級差別感情をこれでもかとか書きつけているのである。
多数派の庶民、下層民などこの程度にすぎぬと。
わたしは、山田太一先生は朝日賞とは正反対の作家だと思う。正反対の作家だと。

(関連記事)
「東京の秋」(山田太一/ラインブックス)
1993年(平成6年)にNHKで放送された90分×3回の山田太一ドラマを視聴する。
9年まえにシナリオで読んでいて、ストーリーを細かくブログに書いていたため、
かなりのところ内容を記憶しているのである(映像は見ていないが)。
あらすじ紹介って一見かんたんな気がするけれど、じつはそうとう難しい。
40歳を過ぎてもだれにもほめられたことがないから、
自分で自分を厚顔にも礼賛すると、わたしは物語や書籍内容の要約がうまい気がする。
来年1月10日以降また無職になるけれど、
仕事がら本を読む必要がある人で、
しかし忙しくて本を読む時間がないという高収入の人に雇ってもらえたら。
本を読んで内容を正確に短文でレポートする仕事があれば速読はできるし、
読書経験豊富な当方にはぴったし、なんちゃって。
法人収益を税金で取られるくらいならわたしを有効利用するのも手ではないか?
まあ、世の中そんなに甘くないのは知っているつもり。

山田太一ドラマ「秋の一族」は孤独な人たちの物語。
唯一、孤独ではないのは、
美人の女房(原田知世)が臨月で出産目前のイケメン工員(大鶴義丹)。
ふたりが電車でラブラブハッピーを見せつけている。
孤独な会社員がいて、それを見て腹が立って、足を出して臨月の妊婦を転ばせる。
それを見ていたのは夫のイケメン工員だけだった。なにをしやがるんだ!
ブルーカラーの大鶴義丹は研究所会社員でホワイトカラーの男性をボコボコにする。
全治、4ヶ月だかなんだかの重傷を負わせてしまい収監される。
示談も可能だが、それには謝罪と医療費実費、示談金100万が必要だという。
本当に悪いのはあっちだろう? 
どうしておれが謝罪して金まで払わなきゃいけないんだ?
しかし、証拠もないし、証人もいない。
大鶴義丹は「正しい」こと「本当」のことを求めて、
臨月の美人妻がいるのに示談に応じようとしない。
このままだと実刑である。

大鶴義丹の父は元商社マンだったが、リストラされいまはパート(緒方拳)。
母は10数年まえ、自分の人生を生きたいと
夫と子どもを捨ててシンガポールで成功した女性実業家(岸恵子)。
久しぶりに日本へ帰ってきていたというタイミングもあり、岸恵子は
いろいろ元夫(緒方拳)、息子(大鶴義丹)、息子の嫁(原田知世)の世話を焼こうとする。
緒方拳は無職で孤独なため、ほろっとしかかるが、
岸恵子から5、600万融通できないかと言われ現実を知る。
この家を担保にしたら銀行から5、6百万借金できるでしょう?
さんざん夫たる自分を罵倒して、いわば家族を捨ててシンガポールに行った女性は、
いまむかしを懐かしむようなことを口にしながら、
しきりに接近してくるが結局のところ目的は金だったのか。
ドラマのラストは原田知世が出産し、家族の結束の結果、
孤独な男性が自分の罪を認め、
ただただ「さみしい」からという理由だけで、
緒方拳は元妻の岸恵子に金を工面してやり、復縁、商売の手伝いを申し出る。

わたしは世間とは金のことだと思う。世間知らずとは金の価値を知らないこと。
あらゆる問題を解決するのは法律でも人情でもなく、金ではないかと思う。
世間を知らないものほど、わたしのように人情びいきのようなことを口にして、
人生は金ではないというそぶりを取りたがる。
しかし、人生も世間も、どこまでもどこまでもお金の話とも言えるのではないか。
お金の関係で人と人は絆(きずな)をつくり、そこから人情のようなものが生まれる。
あらゆる人間関係の出発地点はお金と言えるくらい金銭は重要なものだと思う。
しつこいほど繰り返すが、世間とは金銭の価値体系の総合であり、
世間を知る処世人とは金の価値(同時に無価値)を限りなく知った人であろう。
人が自分に近づいてくるのは、自分の魅力ではなく、
裏には金銭事情があるのだから、うぬぼれてうっとりするんじゃねえ。
金がある人のもとに人は寄ってくるが、世間とはそういうものである。
わたしはほとんどだれからも相手にされないが、
それは金がないためだと思えば、おのれのプライドは傷つかない。
お金がうなるほどある成長企業の敏腕経営者、
シナリオ・センター小林幸恵社長のもとには人がひっきりなしに集まり称賛礼賛の嵐だが、
かの女性成功実業家(実際は二代目の利権保持者だが)に
「厚顔」と罵倒された格下の、貧困が足元まで迫っている中年のことはだれも関心がない。
金を持っているやつが偉いのである。それが世間を知るということだ。

山田太一さんとおなじでわたしもセリフ重視派である。
俳優はシナリオ通りにセリフを言えと思っている。
しかし、視聴者はシナリオ台本がない。
そのためどうセリフが言われたかは視聴者それぞれが解釈するしかない。
「正しい」セリフはあるのだが、その通りに役者が言っているかもわからず、
さらに視聴者がセリフをそのまま聞いているとは限らない。
どのセリフをどう聞くかは視聴者の自由と言ったら聞こえはよいが、
人生経験や言語体験(読書体験)に支配される。
工場労働体験のないものとあるものとでは、おなじ工員のセリフも聞こえ方が違うだろう。
結婚体験のあるなしもそうだし、出産経験、離婚経歴も解釈に影響を及ぼすだろう。
ほぼシナリオで内容を知っている山田太一ドラマ「秋の一族」を視聴しながら、
わたしは自分の耳に残ったセリフをメモに記録していた。
シナリオを見返したら、「正しい」セリフはわかるのだ。
しかし、あえてそれをやらないで、
わたしがわたしの人生来歴から耳にしたセリフを書き残してみようと思う。
それは事実ではないかもしれないが、わたしにとっては真実である。
わたしはこのようにセリフを聞いたという意味においてだ。

「もっと現実的になっているかと思った」
「本当はどうだったかなんて関係ない。証明できなきゃ正義ではない」
「意地はってなんになる?」
「ちゃんと幸福になってやる」
「正しいことのためにがんばるなんて、ドラマの主人公みたい」
「どっちが正しいのか?」
「(元商社マンの)おれは仕事をクビになりパートをやっても仕事人間になる」
「事実を知りたい」
「証拠がなくたって信じるってところがどうしてないのさ?」
「(ホテルの)格を落とすと足元を見られる」
「親ならなにをしてもらっても当然なの?」
「人生、正しいことが通らない」
「クビになって(そのうえさらに)しょぼくれたくない」
「子どものことを心配しないで、自分、自分、自分」
「さみしいんでしょう?」
「いいか、常識では――」
「ものすごく人間ってひとりぼっちなんだなあ」
「立ち入らなけらば、ブルックナーが好きでもいい」
「(あなたの)役に立ちたい。本当のことを言わせてみたい」
「女性が怖い」
「(ドアを、こころのドアを)開けてください」
「本当は(人間みんな)バラバラ。そんなものよ」

わたしは孤独感の強い、さみしい、ひとりぼっちの人間で、
しかしドアを開けたくて人に立ち入ってみたいところもたぶんにあり、
そういうことをして相手から拒絶され、おのれの非常識、世間知らずを恥じ、
もういやになっちゃうと思うが、
そういう自分のような人間を描いた山田太一ドラマを見て、
「人間の喜びと悲しみ」とうめきながら、生きているのも悪くないと自分をごまかす、
めんどうくさい自意識を持った、ありがちなタイプの人間なのだろう。
晩秋のいま視聴したドラマ「秋の一族」はよかった。
3日働いたあとに晩酌しながらドラマを1回ずつ全3話見て、
休みの今日つまらぬ感想を書いた。しみじみ悪くない。

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「秋の一族」(山田太一/「月刊ドラマ」2003年6月号/映人社)

1985年(昭和60年)に日本テレビで放送された単発ドラマ。
そこそこ収入のあるもてない中年男女が結婚相談所を通じて出逢い、
お互いの趣味や嗜好がまったく合わないのにもかかわらず(双方相手をお断り)、
しかしほかにだれにも相手にされないのでひとりでさみしくてたまらなく、
この孤独の寂寥感から逃れられるのなら喧嘩相手でもほしいと思って、
なかばやけくそに恋愛感情抜きに結婚する身もふたもない物語である。
このドラマに登場するもてない中年男とおなじ41歳だが、
いまだに世間のことがよくわからないから山田太一ドラマをおもしろく感じるのだろう。
世間知らずなため正義の朝日新聞の主催する朝日賞を受賞した、
当方から見たら世界最高レベルの劇作家の作品から世間(日本社会)を学ぶことが多い、
教わっているというよりも、こちらの人生経験が増したため独学できることが増える。

世間というのは感情(人情)と契約(常識)のバランス感覚なのだと思う。
人間関係は人情と契約に二分されると言ってよい。
わたしは今年派遣で働いていた大手スイーツ会社で契約上(法律上)は
してはならない強制休日を命令されたが、
そこの会社へはいろいろな人情で働いていたので怒りを感じなかった。
契約ではなく(そもそも契約がよくわからない派遣雇用)人情で働いていた。
さすがに年齢と性別からして近所でもっと条件のいいバイトは探せただろうが、
派遣会社の人や同僚に人情を感じていたから双方の自然な着地点まで
毎朝早起きして交通費も全額出ないなか、日給約7千円のために働いていた。
むかしは雇用関係は義理人情が主流だったけれど、
いまは契約重視(コンプライアンス)でしょう?
わたしはコンプライアンスよりも義理人情のほうが肌身に合っているが、
しかし去年バイトした大会社子会社で上司からプライベートの酒席で、
毎朝1時間サービス早出を1年くらいしたら契約社員にしてやると言われたときは参った。
30分でもいいと言われた。実際、タイムカードのないその職場で、
副工場長は毎朝30分以上サービス早出をしていた。
「やる気」がないと叱られることが多かったが、
世間知らずのわたしは「やる気」がサービス労働のこととは知らなかった。

同僚の60歳を超えるバイトのチーフは、
毎朝2時間レベルでサービス早出をしていた。
西洋的契約とは異なる日本的人情の世界に生きていたのだろう。
だが、どうしてもわたしは近所なのに毎朝1時間早く出社することができなかった。
そこは大会社だけあってバイトも有給を取れたのである。
コンプライアンス重視のいまでさえバイトのぶんざいで有給を取れるところなんてあるか?
契約期間中にもかかわらず退職勧奨をされ(まあ威圧恫喝されたわけだ)、
世間知らずのわたしは自己都合退職(一身上の都合で……)に追い込まれたが、
ありがたくもバイトにもかかわらず法令通りに有給を全消化させてくれた。
わたしの直近の先輩のYさんも恫喝退職勧奨で辞めさせられたそうだが、
彼はおそらく有給をぜんぶ使えなかったのではないか。
いきなり工場長からまったくいきなり突然に退職勧奨されたのだが、
その直前に副工場長とプライベートでの何度もの酒席を経て、
「これからはおれと土屋さんとは友達だ」と言われ、
私用の携帯電話の番号を教えてもらっていた。
友情は契約(雇用)関係ではなく、人情の世界である。
わたしが工場長から退職勧奨をされたとき、副工場はなにもしてくれず、
本社に抗議したらペーパーの面において、
「友達宣言」をした男は正社員として所属する大会社の味方をしたが、
こちらとてそれに絶望するほどの世間知らずではなく、
やっぱりなあと思っただけである。

答えのない問いだが、人間関係ってなんなのだろう?
職場では親しくしていても、
一歩そこを離れたら怖くて口のきけない関係も多々あるわけだ。
職場では夫婦のように仲のよかった男女が、職場以外で逢ったらどもりどもりになる。
職場では先輩後輩の関係からお互い抑制していても、
プライベートで逢ったらめちゃくちゃ本音を言い合える親友になるかもしれない。
むかしは雇用関係(契約)と人間関係(人情)をほどよく中和する飲み会や
社員旅行があったのだが、いまはそういう日本的行事は嫌われている。
雇用(契約)関係にあるあいだは、
わたしをクビにした工場長も女性チーフも威張っていられる。
しかし、近所でたまたま対面したら、そこはもうなんの関係もないから、
法律ぎりぎりのことができるわけである。そこでするかしないかは当人の人間信頼問題。
山田太一の好んでテーマとする孤独というのは人間関係が乏しい状態のこと。
働けば、契約(雇用)関係を結べば、どんな人とも接することができる。
だが、それは社会常識の領域の世界である。
契約関係では会話できる男女がプライベートでは言葉も
交わせないというのはままあろうし、それが世間の実相のような気がしている。
友情は仕事のような契約関係ではないからいつ切られても文句は言えない。
とはいえ、5年、10年の友情関係があったら、それは半端な雇用契約関係よりも強い。
どうして人が恋愛関係では不満で結婚したがるかというと、
結婚には不安定な恋愛にはない法的契約があるからとは考えられないか。
いまさらなにをそんな常識を指摘しているのかと笑われるのを承知でいう。
よくも悪くも人が結婚したがるのは法的契約による安心のためではないか。
結婚は感情(恋愛)と契約(法律)が複雑にからまった人間関係だからおもしろい。
おもしろそうなものはとりあえず経験したいのだが、相手がいない。

ドラマ「ちょっと愛して…」に登場する孤独な中年男は、
当時でいまのわたしの倍以上の年収があり、
ルックスも数倍いいのに(そりゃまあ俳優だから)いくら見合いをしても断られる。
孤独な中年女も仕事ができ、当時で男同等の収入があるのにだれにも相手にされない。
さみしい。さみしいから逢いたいと言われると、これはデートかもなんて思って、
忙しいなかわざわざ休みに男女は逢うが、お互い気に食わない。
男が誘って浅草の大衆割烹(とシナリオには書いてあったが実際は居酒屋)で
ふたりは昼から酒を飲む。女がいやだというのを男が無理やり誘った。
もてない中年男は光一で、もてない中年男は秀子。
光一と秀子は最初のお見合いでコーヒー1杯660円もするホテルのカフェで逢った。
断わって断られて、しかしふたりはさみしいから、ただそれだけで再会する。
下町居酒屋で真昼間から酒を酌み交わす、もてない中年男女。

光一「こういうとこ、いいだろう?」
秀子「ええ」
光一「結局そうなんだよ(と盃を出す)」
秀子「あ、失礼(と徳利をとる)」
光一「日本人が気取ったってはじまんないんだよ。ホテルとかいってさ、
 つっぱらかって歩いたって、白人が通りゃあ、ドーッと見おとりしちまう。
 そりゃそうなんだよ。ホテルってのは白人が考えたもんだろ、
 そういうとこは白人が似合うように出来てんだよ。
 日本人はこういうとこよ。こういうとこへ白人が来てみなよ。なんか場違いだろ。
 ところが、俺たちは、ピターッと決まっちまう。ハハハハ」
秀子「フフフ」
光一「パリとかロンドンとか、すぐそういうこという奴大嫌いなんだ。
 行ったこともねえくせに」
秀子「私――」
光一「あるんです、パリも、ロンドンも、ローマも」
光一「そんなもんは、どうせ三泊四日ぐれえで」
秀子「十七日間でした」
光一「似たようなもんじゃねえの。サーッと匂いかいで来たようなもんだろ。
 そのくらいで、行ったとかなんとか、すぐいいたがるのは、
 俺、まったくやんなっちゃうんだよなあ」
秀子「いいたがるわけじゃないけど」
光一「そいでもって外国の音楽なんか聞くんだろ?」
秀子「はあ?」
光一「聞くなっていうんだよ。無理するなって。
 本当にいいと思ってるわけないんだから」
秀子「そうかなあ」
光一「日本人はこれよ(と流れている歌のない歌謡曲を指し)こういうのは、
 シミジミーッと心に沁みてくるけどよ。外国の曲がよ、
 日本人に分るわけがねえんだよ(流れている曲に合わせて、途中から歌いはじめる)」
秀子「(複雑な思いで見ている)」


同年齢のおれは、もてない中年男の光一の気持がよくわかる。
3歳のころから親の見栄でバイオリンを習っていたけれど、
西洋古典音楽にはまったく興味がなく、
けれども日本の通俗歌謡曲だったら数度耳にしたらすぐにバイオリンでひけたからさ。
もしかしたらものすごい神童だったかもしれないわけだ~よ(妄想の自覚あり)。

もてない中年女はおなじく独身の女友達に愚痴をもらす。
山田太一の人間関係への認識はとても鋭く、
もしかしたらこの親友の同年代独身女性が結婚を阻害していたかもしれないのである。
結婚したら(友達)付き合いは悪くなるでしょう?
あいつが結婚したのなら自分も、
と影響を受けやすいのがわれわれの長所でも短所でもある。
仕事ができる、しかしもてない中年女は、
もてない中年男の領域(居酒屋)に連れ込まれたのが悔しい。
バカにすんなよと思う。秀子はそれをおなじく独身の女(雅子)に向かっていう。

秀子「いいたいこといわれて、どうしてたと思う?」
雅子「ひっぱたいた?」
秀子「笑ってたのよ。ほほえんでたのよ。 微笑浮べて、いいたいこといわせてたのよ。
 ここンとこ十年近くなかったデートのチャンスをこわしたくなくて薄笑い浮べて、
 バカみたいにうなずいて、感心したような顔してたのよ(と泣いてしまう)」
雅子「分るよ。その気持分るよ(と肩を抱く)」


いまも原則は変わらず、女は落としたい男がいたら、
男なんて基本的に自慢話しかしないから、それをフンフン聞いていたらよろしい。
逆はおそらく真ではなく、男は女の話をフンフン聞いていたら、
そのくらいの男と見下され、ほかへ興味をうつされることだろう。
さてさて、もてない中年男の光一がアグレッシブなのである。
どうしておまえはそんなに結婚したいのかさっぱりわからない。
もてない中年女(おばさん)の秀子はデパートの紳士服売場の主任だが、
そこに光一が来たら(恋愛=人情とは別に契約=仕事として)対応しなければならない。
おそらくこういう人情と契約の定まっていないところを利用した商売が、
キャバクラやクラブ、ラウンジ、ホストクラブなのだろう。
契約でありながらどこか人情が割り込める余地がある。
そういうところを利用するしか、
いまは(お見合いがないから=世話焼きババアがいないから)
プライベートで男女はめぐりあえない社会構造になっている。
職場でちょっとなんか言おうものなら、すぐにセクハラ、パワハラだ。

話をドラマに戻すと、もてない中年男女はお互い好きな世界にいたらいいのに、
周囲の視線(これを常識とも世間ともいう)にこらえきれず、
好きでもない相手の世界に踏み込んでいく。
同年齢かつ同種族の光一がフランス料理店を嫌いなのはとてもよくわかるが、
彼が偉いのは中年女(これをババアという)
に誘われたら大嫌いなフレンチにも金を払うところだ。
こじゃれたフランス料理店に誘われたもてない男はババアに一発かます。

光一「笑わしちゃいけねえよ。
 大体、こんな店、お前、ほんとに好きか?」
秀子「ほら、またそういうこという」
光一「これで三千円だと、サラダが七〇〇円だと。
 バッカバカしくて食ってられるかよ」
秀子「雰囲気を買うのよ」
光一「何処がいいんだよ?」
秀子「いいじゃない。灯りひとつとったって」
光一「鏡見ていってくれよ」
秀子「そんなことよく。よくそんなこといえるわね」
光一「俺は、そういうたちなんだ。気取ったりされると頭へ来るんだ
 (自制しつつとまらなくなり)フランス料理なんてのは、
 似合う奴が食えばさまになるけど」
秀子「へえ。じゃ格好の悪いフランス人は、フランス料理食べちゃいけないの?」
光一「当り前じゃねえか」
秀子「当り前だって。無茶苦茶じゃない。無茶苦茶、よくもまあ」


光一はまるでそっくりそのままおれみたいなやつなので笑える。
しかし、我輩さまよりもよほどましな顔面偏差値と収入を持つ、
しかも結婚願望のあるやつが結婚できないのはおかしいと義憤にかられていたら、
最後はもてない醜い中年男女がいやいや結婚したみたいで、
残尿感のようなもどかしい気持はあるものの、ある意味でのカタルシスは得た。
41歳になってもテレビドラマから学ぶことがあるなんて、
ぼくちんはどれほど世間知らずのお子さまなのだろう。

1.山田太一ドラマ=世間(会社)=人情&契約

2.山田太一ドラマ=結婚(家族)=恋愛&契約


(関連記事)
「ちょっと愛して…」」(山田太一/「月刊ドラマ」2003年6月号/映人社)
2001年にフジテレビで放送された2時間ドラマ。
肉体労働者の38歳の女性(田中美佐子)が11歳年下の元ホストのイケメンを、
恋愛はめんどうくさいからという理由で、金銭の契約で交際するものの、
彼から「結婚する」という嘘の告白をされ動揺するが、しかし、
結局はイケメンも11歳年上の田中美佐子に恋していることがわかり、
年齢差収入差こそあれ美男美女が結ばれるというハッピーエンド物語。
山田太一さんはよくもこんなアベコベ物語をつくれるものだと感心した。
常識では肉体労働をするのは男で若い女を買うのは男でしょう?
しかし、このドラマでは女が肉体労働をして稼いだ金で若い男を買う。
男は男らしくしろとか、女は女らしくとかいやじゃん。
そうしないと世間ではうまくいかないのはわかるが、けれどにもかかわらずそれでも。
どうして男女がどっかに行ったり飲んだりして男が金を払わないといけないの?
わたしの実際の顔を見たらふざけんな嘘をつけと大笑いされるだろうが、
わたしは女性との交際費で相手に出してもらったことのほうが多い。
いまでは肉体労働は男がするものとあきらめているが、
むかしどうして同時給で男ばかりきつい仕事にまわされるのか不服だった時期がある。
男は男らしくしなくてもいいんじゃないか? 女は女らしくしなくてもええのやないか?
そういう非常識なドラマをむかしフジテレビが放送した。

いいドラマだったと思う。本当にいいドラマだったと思う。
だから、シナリオを参照して見返したりもしているのだ。
リアリティーってなんなのだろう?
38歳の外壁クリーニング会社の共同経営者、バイトはふたり、それが田中美佐子である。
田中美佐子の飼う(買う)のは、ホストクラブで出逢ったイケメン27歳。
条件は1ヶ月の家賃+生活費15万。
見た感じ最低でも家賃は5万、生活費15万、交際費10万。
そうなると月30万の遊興費の支出だろう?
いくら収入があったら、月30万以上も払って若い異性を買えるのだろう?
わたしは派遣で出逢った早稲田政経卒のエリート会社員から、
「土屋さんはお金の話しかしない」と言われたくらいお金に興味がある。
金銭欲はさほどないが(?)、世界(世間)はお金だという認識が強烈にあり、
このため、世界・世間=お金に尋常ならぬ好奇心を持っている。
はっきり言って、お金ほど関心のあるものはないかもしれない。
いったい毎月いくら金が入れば、年収がいくらなら、
若い異性を月30万払って買える(飼える)のか?
あそこは有限会社だろうし、バイトもふたりだし、経営規模から考えて、
どうしたって田中美佐子は若いツバメを買えないような気がする。
ちなみにこのドラマの演出をしたのは、
山田太一さんのお嬢さんでフジテレビの超絶エリート、
まさに世間を知らないという言葉がぴったしの、
おいしい人生を満々遊歩してきた一流も一流、
育ちも学歴も収入も超一流の宮本理江子女史である。
ちなみに弟さんの自称撮影監督某氏は、
あのあいどん先生からもバカにされるくらいの高卒低収入芸術家(だがイケメン)。

このたびフジテレビの超絶エリートで芸術家でもあり、
結婚もして子どもにも恵まれているスーパー成功者の宮本理江子さまが
ご監督をなさったお父上のシナリオ作品を見て、
山田太一作品としては感動をしたがお嬢さまのお嬢さまぶりにウフフンだ。
お金がわかっていないんだよ!
住んでいるところ、食うもの、着るもの(以上3つは演出の領域)で非常に脇が甘い。
おまえ、お金に苦労したことがないんだろうというのが、もろにばれてしまう。
いい家庭に生まれて、いい学校に入って、いい父親のコネでいい会社に入って、
いい結婚をして国からも芸術賞をもらって、いい人生を歩んできた女はいいなあ。
わたしも世間を知らないことではかなり能天気ぶりがあるけれど、
こんな当方から世間知らずを指摘されるエリートの宮本理江子は天才である。
シナリオは言葉しか書いていない。
それを映像化(実写化)するのは演出家の監督さまである。
そんなきれいな仕事をして、あんな大金をばらまける収入を得られるかなあ、
という疑問がそもそもわかないのだろう。
フジのエリートだったら年収1500万くらい当時でいっていたのか?
しかし、手取りはいくらだ?
夫婦でダブルインカムだったら若い男を買える(飼える)くらいの余裕はあったのか?

わたしは世間(=お金の価値)をよく知らないというコンプレックスがある。
このため、他人のそれにも嗅覚鋭く気づくのだろう。
月15万って、週5で必死で働いてわれわれがきつく汚い仕事をして得られる収入よ。
そっから家賃を払って、税金を払ったらなにも残らない。
わたしの労働環境では、みんなそんな感じで細々と、しかしそこそこ明るく生きていた。
そこから見ると月30万若い異性に払える仕事が、
あのきれいな外壁クリーニングだとはとうてい思えない。
――おれさ、いま最高に最低にいやな顔をしているんじゃないかしら?
自分は世間を知っているというような、鼻持ちならないドヤ顔をさ。
わたしはとてもとてもそんな偉そうなことを言える庶民ではありません。
むしろ、宮本理江子さんのほうが世間を知っていて、だから女の夢のようなドラマを、
だれも軽んじられない巨匠・山田太一のシナリオに逆らって演出したのだろう。
フジのエリートの宮本理江子は父親のシナリオをいくつも無断で改変していた。
ここも変わっている、ここも変えたのかといくらでも指摘できる。
業界雑誌「月刊ドラマ」のインタビューでオヤジの山田太一は、
セリフを変えなかったからそれでいいと言っていたが、
綿密に検証してみたらベテランの小林稔侍、渡辺えり子は、
無数にセリフを自分の言いやすいように言い換えていた。
田中美佐子と要潤はセリフをシナリオ通り正確に言っていたのとは対照的だ。
フジテレビのエリート女性演出家は、
巨匠のシナリオも変えられる度胸自慢をしたかったのか?
それは父親だから怒られないという甘えがあったのかどうか、
父娘ご両人以外はわからない。

2017年にこのドラマを見たときには、痛快のひと言だが、
2001年に放送されたときに視聴した自分の感想はわからない。
インタビューによると山田太一は、
当時流行していた援助交際に刺激されてこの逆転物語を思いついたという。
ちょっと金がある中年男が女子高生を金で買うのなら、
アラフォー女子が若いイケメンを金で買ってもいいのではないか?
よくはないかもしれないが、そういう現実もあるいはありはしないか?
40前後の性欲ってどのくらいあるんだろう、男も女も?
そんなに性欲、みんなあるんすか? 
と仰ぎ見るような感覚がドラマ作者からは感じられる。
一般的に性欲は男のほうが強く、だから女を買うとされているが本当はどうなんだろう?
アダルトビデオとかどこまでが本物なのだろう?
いまは女の性の売値が安いけれど、それを見た血縁のものはどう思うのだろう?
娘のAVとか母親のAVとかへたをしたら見てしまう可能性があるわけでしょう?
田中美佐子だって若いころにヌードになっているが、
それを見た血縁者はどう思うのだろう?
若いころの田中美佐子のヌードって、いまの若い子の裸よりもよほどソソルよねえ。
このドラマを2017年に見て、あの人って田中美佐子に似ていると気づいた。

38歳の田中美佐子は2001年に「恋愛は面倒くさい」という。

「大体、こんなはずじゃなかったの。恋愛とかさあ、そういの、
面倒くさいし、信用できないし、ろくなことないから、
パッとね、わり切って、金銭払った分だけのつき合いって
――そうすりゃあ、相手がどう思ってるかなんて関係ないし、
払った分サービスして貰って、倦きたら切る。
そういうの、いいと思ったのに――今だって、
愛しているとかそういうんじゃないかもしれないんだけど――まいったわ。
なんか、穴があいたみたいになって――なにやってもむなしくて――」


わたしは義理人情とかそういう世界は大好きだけれど、
それは自分がすべてを金銭化している醜さの裏返しなのかもしれない。
わたしは自分でもいやになるくらいお金へのこだわりと無頓着さが並行して同時にある。
お金の話が大好きだから、人情の世界に逆説的にあこがれるのだろう。
女とはつねにワリカンかおごってもらう。おごったら援助交際になっちゃうじゃん(笑)。
男らしくないのだろう。
いまではサイゼリヤやジョナサンならおごる(かっこう悪さをさらに出している自覚はある)。
このドラマでは男らしい50歳の小林稔侍がヒモの若いイケメンに説教するシーンがある。
男は男らしくしろ。男は仕事をしろ。
結果、仕事をクビになって女房子供から逃げられ、
田中美佐子の運転する車めがけて自殺しようとするも、
それも気合いが足りないため失敗した小林稔侍(卓次)とヒモ(克=かつ)の会話。

卓次「なに考えてんだ。あの人から、金とったって? 男がそんなことするなよ」
克「女ならいいんですか」
卓次「女だって悪いよ。金とってそんなことするなよ」
克「――」
卓次「[ジュエリーデザイナーの夢を追っている若い克の](彫金を見て)なんだよ、これ。
 こんなことして遊んでんのか?」
克「仕事ですよ」
卓次「食って行けんのか?」
克「いけませんよ」
卓次「どうしようもねえじゃねえか」
克「金稼がなきゃ、どうしようもないですか」
卓次「当たり前だろ。甘いこといってんじゃねえよ。
 女から金貰って生きていけるほど世の中甘かねえんだよ。
 俺なんかずーっと、死んじまうんじゃねえかと思うほどずーっと働いて、
 妻子やしなって、それで(とドアの方へ)」
克「それで、どうしたんですか?」
卓次「それで?(と止まる)」
克「ずーっと働いて、妻子やしなって」
卓次「帰ろうとすると、なんかいうな」
克「馘(くび)ですか」
卓次「お前にいわれたくねえよ」
克「どん底だっていうから」
卓次「馘だよ、妻子に見はなされたよ。死んじまおうかと思ったよ。
 死ねなかった。これでいいか。楽しいか。ザマァ見ろか。
 いくらでも笑いやがれ(と出てドアを閉める)」
克「――」


ある派遣先で知り合ってもう一生逢わないだろう2歳上の男性のことを思い出す。
自分は本職は不動産の営業マンで妻子もいる優秀な人間である。
たしかに好人物で仕事も的確で、ほほうと思ったものである。
次の正社員の仕事も決まっていると言っていた。
しかし、仕事終了後の飲み会で、酔っぱらった彼は本当のことを口にした。
本職もなにもない派遣バイトだったし、次の仕事もじつは決まっていないし、
妻からは愛想をつかされてひとり暮らしであることを。
なんで男は男らしく強がらなければならないのだろう? 
弱音を吐く男や女に甘える男もいてもいいのではないか?
女々しく現実的に金銭にこだわると、恋愛も結婚も援助交際だろう?
金がない醜い中年男なんてだれが相手にするんだよ!
人生は金だ、金、金、金。
きっと山田太一もそう強く思っていたから、そんな自分が嫌いで、
そうではないふりをする自分のような庶民を好んで描いたのだろう。
きっとそうだろう。夢のためとかいって、
小遣い銭にもならないシナリオを、
何度も何度も上の言いなりに書き直す人への嫌悪感があったはずである。
わたしはお金の価値をよくわからない世間知らずだから、
山田太一ドラマが好きなのだと思う。同時にお金の話は大好きである。
女の話なんかよりもはるかにお金の話に興味を持つ。
でもでもでも、田中美佐子の若いころのおっぱいもええなあ。
女って自分の裸で欲情されるとどんな気がするんだろう?
そのことへの想像力がいちばんエロスを感じる。

(関連記事)
「この冬の恋」(山田太一/「月刊ドラマ」2002年3月号/映人社)