「流星に捧げる」(山田太一/地人会/早稲田大学演劇博物館所蔵) 非売品

→2006年に地人会で上演された芝居台本。
わたしは2006年の3月14日に、
このお芝居を紀伊国屋サザンシアターで観劇しているのである。
そのときの感想もブログに書いている。
読み返すと、やけにそれぞれの孤独に目がいった感想になっている。
2006年3月といえば、当方もまだ29歳で途方に暮れていた。
友人どころか知り合いさえひとりとしていないほぼ完全孤独な状態だった。
だからこそ、若者の孤独めいたものに焦点を当ててしまったのであろう。
いま台本を読むと当時観たものとぜんぜん違うのだ。
山田太一さんは芝居稽古途中に台本を書き換えることはひんぱんにあると聞くし、
明確にここはわたしの観たものと違うと指摘できるところもあるから、
あながちこちらばかりが間違っているとはいえないだろう。
しかし、結局、芝居でも映画でも本でも、
受け手はそれぞれ違う世界を自分で描いているような気がする。
いまこの上演台本を読むと認知症(ボケ)やお金の問題がやけにおもしろく感じたが、
それはわたしの父も老いたし、こちらの金銭感覚も鋭敏になったからなのだろう。

ボケの問題に言及すると忘れるのがいいことなのか悪いことなのか。
いまのわたしは17年まえの母の死をかなり忘れていることで救われている。
それがいいことなのか悪いことなのかわからない。
よく東日本大震災を忘れるなとかいうけれど、忘れたほうがいい面もあるわけでしょう?
いまさら広島、長崎の原爆を忘れるなといわれると、
従軍慰安婦の問題を決して忘れない某国のような気味の悪さがないともいえない。
しかし、やっぱり「事実」は忘れてはいけないとも思うわけで、
いまわたしがこの芝居の観劇を思い出せるのはブログに記録を残していたからである。
しかし、台本と照らし合わせるとそれが「事実」かどうかわからず、
しょせん主観だし、それぞれ主観があることを考えると当時、
いろいろな観客がそれぞれの世界を描いたわけで、「事実」は複数あることだろう。
まあ、山田太一の芝居になんか金を出せるのは、
朝日新聞好きのえせインテリおばちゃんが多いようなイメージがあり、
そういう女性が観た世界とわたしの世界はまったく違うだろう。
それぞれの世界が違うから人はわかりあえないのだが、
それではあんまりにも孤独過ぎるので、
そういう孤独な世界観には耐えきれず、
人は相手の世界をわかったふりをするのだろう。
それぞれ世界(「事実」といいかえてもよい)は違うのだが、
それではあんまりにも孤独過ぎる。
人は相手のためを思って行動するのは、
その人が他人に自分のために行動してもらいたいからかもしれない。
そういってしまったらあんまりにも救いがないのだけれど。

ともあれ2006年3月14日のわたしは、
あの子にもあの人にも出逢っていなかったのである。
山田太一さんだって、まさか自分が11年後に生きているとも、
脳をやって半身麻痺になっているとも、どちらも想像できなかったのだ。
あたまをやると記憶が落ちるから、作家はいまどのくらい過去のことを覚えているのか。
記録を取っていなかったら、
今回の病気で消えてしまった「事実」めいたものがだいぶあるはずだ。
この劇を観てからだいぶ氏の講演会に行ったなあ。
思い出すのは、どこかで山田太一さんがいった(紹介した)、
人の為と書いたら「偽(人+為)」になるという話である。
人の為は偽であり、偽物であり、偽善のようなところがある。

芝居「流星に捧げる」は、
金持っぽい車椅子の老人が孤独をにおわせるようなことをネットの掲示板に書いたら、
「なにかお力になれることはないか」と複数の男女が集まってくる物語である。
かつては人間嫌いだった孤独な老人はそれを歓迎する。
老人が人間嫌いになったのは過去に交通事故で
車に同乗する息子を死なせてしまったからで、
いま妙に人恋しくなって見知らぬ人を歓迎するのはボケが始まったからである。
しかし、人のためを思って孤独な老人に寄ってくる男女が、
それぞれ本当は自分のことしか考えていないのがおもしろい。
だが、それでまだらボケの老人はけっこう救われているのだから世界はわからない。
芝居中、ボケた老人は、見知らぬ男女を、
それぞれ死んだ息子や妻、愛人に見間違える。
これって「事実」ではないけれど、
当人はもう逢えないと思っていた人と再会できて
救済のようなものになっているわけでしょう。
ボケ老人からまんまと7百万せしめる詐欺師の風間杜夫が死んだ息子になりかわって、
「ぼくはお父さんのことを恨んでいません」と叫ぶけれど、
それは詐欺には違いないが、けれど、それでもいいじゃないかともいえるわけで。

人の為を思うのは偽物だけれども(詐欺師の常套句はあなたのためを思って!)、
偽物でもときによって、そのインチキで救われるものもいるのではないか?
芝居だってドラマだって人(観客)の為の偽物なわけだから。
これをいっちゃうとあれだけれど、どの宗教もたぶん「事実」ではないよねえ。
しかし、人の為の偽物もときにはいいものといえはしないか。
この芝居にも保険会社で25年も働いて仕事がいやになって辞めたた中年女性が
登場するけれど、ボケ老人をだますようなアコギなこともだいぶやったようである。
保険は加入させるときはいい顔をするが、払うときは渋るとか。
しかし、保険に加入していたら安心のようなものが得られるのだからいいともいえる。
うまい話なんかないけれど(いや、あるような気がする。ぶっちゃけ、あるよ)、
詐欺話でもそれが最後まで詐欺だとばれなければ、
被害者は被害者ではなく、幸福な幻想者とでもいうか、果報者といえなくもない。
どのみち「幸福は自己申告」(自分は幸福と思えれば幸福!)なんだから、
自分の「事実」を幸福幻想にひたる他人に押しつけることはないともいえよう。
宗教にはまってハッピーな人にこちらの「事実」(世界)を押しつけても意味がない。
甘い話にだまされている人は、そのときは幸せではないだろうか。
そして、われわれのいったいだれが甘い話にだまされていないといえよう。
本当の「事実」、「本当のこと」を見てしまったら、人間はひとたまりもないのかもしれない。
みんな明日なにが起きるかわからない(脳卒中、愛するものの死、東京大震災)。
しかし、そんな「事実」は見たくないし、自分だけは大丈夫と思っていたいものだし、
ひるがえってみると、自分は大丈夫というのがそのときの「事実」といえよう。

わたしだって客観的にはたぶんそうとうにヤバいのだろうが、
自分はまだ大丈夫と信じている。
それは違うと「本当のこと」、「事実」を告げられたら、泣きたくなってしまう。
おそらく脳出血で倒れた83歳の山田太一さんは、
もはやいまの池田大作名誉会長のようにお元気になることはないだろうけれど、
きちがいめいたファンはそういう「事実」を認めたくなくて、
そういうことを口にするものを「恩知らず」とか「裏切り者」とか「人でなし」とか
思うわけでしょう? それって宗教じゃんといいたくなるけれど、
ファンの「事実」が複数集まれば、それが「真実」になるのである。
山田太一ファンは宗教がかっている人が多くて怖い。
「事実」を白状すると、このわたしこそもっとも宗教がかっているところがある。

「世の中なんてね、
大半の事実をいわないから保(も)ってるようなもんなのよ」(2-13)


(関連記事)
「流星に捧げる」(2006年3月14日の感想)
「浅草・花岡写真館」(山田太一/地人会/早稲田大学演劇博物館所蔵) 非売品

→2005年に地人会で上演された芝居台本。
いまはもう危ういらしい山田太一先生のあまた(脳)のなかを想像することはできる。
戦争ではみんな死にたくないのに死んでいったでしょう。
山田太一さんのお兄さんも戦争で死んでいる。
お母上も戦争のさなか、ろくに栄養が取れず薬もなく死んでいった。
それなのにいま、どうして死にたいなんて思う人がいるのだろう。
ここから浅草に四代続く写真館の話を思いつくわけである。
なんでも明治時代は写真師は医者、弁護士レベルで偉かったらしい。
平成のいまは写真館で写真を撮ってもらうなんていう風習は残っていない。
それでも2005年はまだ写真館が存在していた。しかし、客は来ない。
人情の町、浅草にある花岡写真館の四代目(50~60歳)は
もう店を閉めようかと考えている。
そこに若いカップルがやって来る。
よおし、いちばんいい写真を撮ってやると主人は張り切る。
レンズをのぞいた瞬間、気づいてしまう。
このふたりは死のうとしている――。あわてて戸惑う四代目店主である。
不思議なことは続くもので、
カップルのあとにやって来た白井という老人も死のうとしている。

どうして気がついたのか? それは花岡写真館の伝統のようなものである。
明治時代、ある若いお侍さんが初代店主のもとに写真を撮りに来た。
初代(一人三役なのがおもしろい)は、
この侍が死のうとしていることにレンズをのぞいて気づく。
理由は大久保利通暗殺事件に仲間入りさせてもらえず取り残されたからである。
日本を変えたいという志をもつ青年だった。
初代写真技師は、うちは死のうとしている人間は撮らない。
侍の自殺(切腹)を身をもってとめる。
のちにこの侍は医師だかなんだかになって大成したという。
人の役に立つ人間になったという。

四代目店主は死のうとしている三人に、
父から聞いたというある美談を聞かせてやる。
三代目店主の父(一人三役)がこういう経験をしたという。戦争中の話である。
親しくしていた若い兵隊さんがやって来る。
もう終戦直前だが、もちろんそのことはだれも知らない。
南方へ言っていた兵隊さんがいま一時帰国できるくらいなのだから、
まだ日本は大丈夫なのだろうと三代目主人は思う。
この兵隊さんは出兵するまえに結婚していた。
新婚さんがお国のためを思って南方の戦地までおもむいてくれたのである。
新妻は夫が南方に出兵したあとに赤子を産んだという。
青年の兵隊が言うには、今夜ここでふたりと逢う約束をしている。
家族三人の初対面といってもよい。
ところが、主人が写真機を構えると、三人は死のうとしていることに気づいてしまう。
とりあえずいまは撮れないとごまかし、
若い夫婦と赤子を店主夫婦を二階に行ってもらい、どうしようか考える。
気づくと、三人はいなくなっていた。
後日、確かめると兵隊さんは南方でとっくのとうに戦死していたし、
妻も子も空襲で死んでいた――。

その後、東京大空襲があり、みんな焼けてしまったが、父は1枚の写真を息子に伝えた。
それは三人の写真である。
南方で死んだはずの兵隊と空襲で死んでいる母子が、
三人一緒に笑顔で撮影された写真。その写真はいまでも残っている。
平成のさえない浅草・花岡写真館の四代目主人はいう。どうだ!
この話を聞いたら、感動して死にたいなんて思う気持はなくならないか?
戦争で死んだ人のことを考えたら、死にたいなんて間違えていると思わないか?
老妻を亡くしていまはひとりで孤独な白井は、へえって思うけど、だからなに?
そもそもその写真が本物だって証拠はどこにある?
それはおまえさんのお父ちゃんがウソをついたんではないか?
そういって写真館を後にする。
死のうと思っているカップルはこのまま写真館(生きる!)にいようか、
白井についていこうが迷うが結局老人(死ぬ!)の後を追う。

そもそもの話だ。死のうとしている人のことなんてわかるのだろうか?
そこはフィクションを当方のリアリティーをもってどうこう裁くようで、
あまり追求したくもないが、
山田太一最後の連続ドラマ「ありふれた奇跡」も自殺がひとつのテーマだったが、
死にたい人はパッと見てわかるのだろうか?
当方のリアリティーではなんでみんな死にたくならないのっていうかさ。
いまは世直しも国防も戦争もなんにもないじゃない。
いったいなにをよりどころにしてみんな生きているのだろうか?
グルメとか大衆娯楽とか、ちょっと視点を変えたら空しいよねえ。
昌志(写真館店主)、友美(その妻/竹下景子で一人三役)、白井(孤独な老人)。
四代続いた写真館を閉めようかと主人が思った日の会話である。

「白井 ほーら、分った。分ったぞ、ご主人。
友美 なにがです?
白井 レンズを通したんじゃない。あなたを通したんだ。
   あなたを通してみたから、私が死にたいように見えたんだ。
   あの二人(広樹と夏恵/若いカップル)が、死にそうに思えたんだ。
友美 でも、あの人たちは本当に――。
白井 なぜそれが分ったか。同類だからさ。だから、二人の気持が読めたんだ。
昌志 私は、死のうなんて――。
友美 そうです。そんなこと――。
白井 思ってもなかった。そうかもしれない。
   自分の心に気がついていないということは、よくあるさ。
友美 そんな――。
白井 そんなじゃない、奥さん。(昌志を指し)希望を失くしたんだ。
   希望をなくすってのは、おっ怖(かな)いことでね。そうは思いたくないよ。
   この先、なにがある? なんにもない。なあーんにもない。
友美 なんにもないことはありませんよ。ねえ。(と昌志に)
白井 私のことだよ。ヘヘ、いわれたくなかったね。死のうとしてる?
   そうかもしれないね。そうかもしれないよ。
友美 (主人と)一緒にしないで下さい。
昌志 よせよ。
友美 なにが、よせ。こっちはね、(と白井に)希望なんていくらでもありますよ。
   仮にお店辞めたって、すぐ食べていけない訳じゃない。
   それどころか、贅沢しなきゃ、あちこち旅行くらい出来るわよ。
   温泉行ったっていいし、安くておいしいもの捜したっていいし、
   焼き物はじめたっていいし。
昌志 それが、なんだよ。
友美 なんだ? 楽しいじゃない。
昌志 (崩れるように、座りこんでしまう)
友美 なんなの、これ? みんなして、どうしたの? 冗談じゃない。
   私は死のうなんて、これっぽっちも思っていませんからね。
   希望は、いくらだってあるじゃない。
   なんだって出来るじゃない。バカみたい。

       他の四人は、黙り込んでしまったまま」(1-54)


他人は自分を映す鏡というのは、ある意味で本当のことかもしれない。
むかしは死にたい人や危ない人からけっこうメールが来たけれど、
いまはぜんぜん来ない。
むかしもいまもだれが死にたい人かなんて駅で眺めていてもわからない。
もしかして長らく自滅願望を持っているが、わたしの「死にたい」はウソなのかなあ。
写真は「真(実)を写す」って書くけれど、まさにドラマそのもの。
写真は真実っぽくて証拠にもなるけれど、「本当のこと」は被写体しかわからない。
いや、「本当のこと」は真実を生きた本人たちにさえわからないのかもしれない。
山田太一に「岸辺のアルバム」というドラマがあるけれど、アルバムは真実か?
家族そろって仲良く笑顔の写真しか撮らないでしょう?
少なくとも家族アルバムや卒業アルバムにはそういう写真しか残さないでしょう?
しかし、いまの山田太一さんはどうだがわからないけれど、
脳をやっちゃうと記憶がかなり消失するケースが多い(ボケ=認知症もそう)。
そうすると写真がいかにありがたいか! 写真しか過去は存在しないのである。
そうなると、笑顔だらけの写真が本当になり、
「本当のこと」はどこにも存在しなくなってしまう。
それでもいいのではないかというのがドラマ(写真=ウソ)であり、
しかし、「本当のこと」はたいせつだというのが山田太一ドラマである。
しかし、「本当のこと」は写真(ウソ)を通してしか知りようがないという。
なんでみんなカメラを向けられると笑うんだろう? 楽しそうにするんだろう?
本当は派閥や抗争があって梅雨のようにジメジメしているのに、
あたかもカラッとした炎天下の仲間ぶるんだろう?
いったい写真は「本当のこと」を映しているのか?
だが、写真以外に「本当のこと」はどこにあるのか?

舞台に話を戻す。果たして死んだ兵隊三人家族の幽霊写真は本物か偽物か。
白けた白井。志がある写真館主人の昌志。
その妻の、美しい友情のようなものを信じたい友美(竹下景子)。

「白井 幽霊の写真や昔話で、この子たちどう元気になるっていうんです?
昌志 少なくとも私は、こんなにも生きたかった人たちがいたってことで。
友美 そうよ。
昌志 励まされるね。
白井 そう。あなたは自分を励ましたいんだ。
   この子たち[若いカップル]は、どうだっていいんだ。
友美 そんなことよく――。
白井 励ますなら、この子たちの、いまの身の上に寄り添うべきでしょう。
   この子たちは、なんで死のうとしているんです。
友美 それは――。
昌志 来てないよ。
白井 ほーら、関心がない。
昌志 そんなことはない。
友美 ずかずか入れないでしょう。
白井 ハハ、他人の親切なんて、そんなもんさ。
   (夏恵と広樹に)ほんとは、あんたたちなんかどうでもいいんだ。
友美 どうして、そんなに意地が悪いの?
白井 きまり文句とごまかしよりいいでしょう。失礼しますよ。(と玄関へ)
昌志 ああ、どうぞ。
友美 どうぞ。
白井 どうだい? 二人、一緒に来ないか?」(2-36)


三人は美談の館(やかた)から出て行ってしまう。
これってリアリティーがあるよなあ。よく知らないが、
ほとんどの映画やドラマが幽霊写真レベルで完結してしまうわけでしょう?
そんな幽霊写真はせせら笑うというリアルな眼を作家が持っているのがいい。
そのうえ結局、自殺防止キャンペーンとかいっても現実にはなにもできないわけじゃん。
せいぜい苦労話をするとか、美談を語るとか、ありきたりな励ましをするとか。
理由は「そこまで立ち入れない」から。
というか、立ち入ってしまうと自分にもめんどうが降りかかってくるから。
6月に奈良の山田太一ファンだというお医者さんから呼ばれて、
立ち入ったことを聞かれるでもなく(というか自分から話した)、
交通費とお小遣いのようなものをいただいたけれど、あれはスマートなやり方である。
ブログになにを書いてもいいっていっていたし、本当の話。
かといって、おなじ山田太一ファンでも妙な美談や激励をして自己満足する老女もいる。
いっておくけれど、人の親切を受け入れる度量というものもある。
借りをつくりたくないと思う人と、人の親切をありがたく受け入れられる人がいるわけだ。
これは年齢や時間の変遷によっても変わるだろう。
適切な親切も難しいが、他人からの親切を上手にありがたく受け取るのも難しい。
先日、二度もある作家先生から本を送っていただいたが、
いまのわたしは素直に「ありがとうございます」と感謝することができた。
それはわたしがアマゾンの「ほしいものリスト」を公開していたからだ。
他人はなにを欲しているかってわからないじゃないですか?
わたしはある友人への誕生日プレゼントを探して池袋を朝から晩まで歩き回って、
結局のところわからなくて買えなかった経験から他人の不可解さを知った。
他人のしてもらいたいこと、ほしいものはわからない。
まあ、ある程度、普遍性のあることはいえて、
どんな苦悩者も美形の異性から求愛されたら生きる元気が出るだろう。

若いカップルはどうして死にたがっているのか?
お互い愛し合っているのだし、
どちらも俳優で美男美女(アハハ)なんだから死ぬ必要はないじゃないか。
なんでも男のほうが仙台で親友の彼女(夏恵)を奪ったらしい。
親友は恩人ともいえ、仕事を世話してくれた。
そんな親友の婚約者を奪い、どういう経緯かさらに殴って2百万を奪ってしまった。
日本全国を旅してわずかな期間で2百万もの大金を使い果たした。
いつも百円、2百円にケチケチしてきたからそういうことをしたかった。
しかし、仙台で起こしたのは刑事事件で手配されているかもしれず、もう死ぬしかない。
こういう話を孤独な白井老人は屋台かなにかでカップルから聞いたのだが、
男から殴られて3万円を奪われてしまう。しかし、交通費の2千円は残してくれた。
翌朝、白井老人は浅草にある花岡写真館を再訪する。
生きるファイトが出てきたという。カッカしてきたという。生きる目的ができた。
あいつらをかならず見つけ出して警察に突き出してやる!
しかし、すぐにたかが3万円くらいのことで大騒ぎするのがめんどうくさくなってしまう。
そこに若いカップルが現われる。
彼らにも人の親切を受け入れられる奇跡の瞬間が訪れたのである。
青年は親友を裏切ったことを激しく後悔しているという。
白井老人はむかし親友に恋人を奪われたことがあった。
あいつもこんなことを思っていたのかなと、現実認識が少しだけ変わる。
そこに友美(竹下景子)が孤独な白井老人に新たな提案をする。
あなた、どうせ暇でやることもないんでしょう?
この厄介なカップルと一緒に仙台へ行ってめんどうごとに巻き込まれてみなさいよ。
いろいろ解決は難しいこともあるでしょうが、話し合えばなんとかなるかもしれない。
そんなことをする義理はねえっていうかもしれないけれど、それが人情じゃない。
というか、自分を救えるとしたら、それは他人を救ったときではないか?
これは山田太一のメッセージを考えたうえでの内容紹介である。

友美(竹下景子)はいう。死にたい白井と死にたい若者カップル、
つごう三人が一緒に笑顔で写真に映ることを目標にしよう。
困難を乗り越えて三人でまた浅草・花岡写真館に来てください。
そして、笑顔でうちの主人に最高の写真を撮ってもらいましょう。
そうしましょう。いきいきしましょう。
そんなことあるわけないだろうといわれそうだけど、実際にあるってことを見せましょう。
ウソみたいなことを「本当のこと」にしましょう!
果たしてあの兵隊幽霊写真は本物だったのか偽物だったのか?

「白井 あれはどうなったの?
昌志 あれって、なんです。
白井 幽霊のうつった写真です。
昌志 本物ですよ。合成なんかじゃない。
白井 じゃあ、幽霊が写真にうつったっていうの?
昌志 分りません。
白井 分らないって――。
昌志 本当はあの写真がなんなのかは私にも分りません。
白井 そうなの。
昌志 でも、大事なのは、私の両親が、
   あの写真とあの話を残したということじゃないかな。
   しつこく私たちに話したんです。あの話で、なにをいいたかったのか。
友美 そうね。
昌志 時代がちがえば、こーんなに家族三人がただ一緒にいられるということが、
   嬉しくて、むずかしくて、哀しいことだったって――。
友美 沢山の人が死んだんです。
   あのくらいのことが起きても、ちっとも不思議じゃない。
   あのくらいのことが起らなければやりきれないくらい。
昌志 そう思ったのかもしれない。
友美 どっかで本当なら、本当が伝わればいいんですよ。
白井 うん。
昌志 私たちの話は、これからです。
   レンズをのそいたら死んだも同然の三人が。
白井 死んだも同然!
友美 撮るほうもそうです。死んだも同然でした。
昌志 そう。それが、どうやって元気になって、いきいきした写真を残したか。
友美 あとに残しましょう。
昌志 これが私たちの写真館のお話だった、と」(2-70)


「本当のこと」はわからない――。
「どっかで本当なら、本当が伝わればいいんですよ」――。
ウソのような本当のお話をつくろうではないか。
ウソのような本当のお話をつくりましょうよ。
山田太一はウソで現実を少しでもましにしようとした作家といえよう。
なにがましかはわからないけれど、
ぜめて集合写真の笑顔くらいは信じたいと思っていた。ウソでもいいから笑顔を!
山田太一最後の連続ドラマ「ありふれた奇跡」最終回ラストシーンで、
妻と子を火事で亡くした藤本誠(陣内孝則)はカメラの前で笑顔でピースをした。
ひとりではなく笑顔でピースをした。

*誤字脱字失礼。ま、わかるでしょ? 少しずつ直します。
今日は肉体労働→病院→散髪→病院→帰宅したので疲れまくっていますのでどうかお許しを。
「遠く離れて二万キロ」(山田太一/俳優座/早稲田大学演劇博物館所蔵) 非売品

→2000年に俳優座で上演された芝居台本。
たぶん山田太一さんはさらりと書いてしまったのだろうが、これがおもしろい。
山田太一の天性のエンターテイナーの資質はどこから来るのだろう。
舞台は日本から「遠く離れて二万キロ」、南米とある小国の首都。
海外青年協力隊の隊員が集まる宿泊所のようなもので、
繰り広げられる日本人青年男女の本音合戦。
山田太一さん特有のゲスな感性が実に巧みにエンターテイメントとして昇華されている。
まあ、海外協力隊に来るようなメンバーも善意のかたまりというわけではない。
日本に夢を持てなくなって、
とりあえずのモラトリアム(猶予期間)として海外に新天地を求めた若者たちである。
なかには母親の束縛から逃げてきた青年もいる。
タイトルの意味は日本と南米都市の距離が「遠く離れて二万キロ」ではなく、
実際のところ「遠く離れて二万キロ」だったのは日本人母子の距離感だったという。
で、この南米の小都市でクーデターが起こり若い日本の男女は動揺を見せる。
この国の若者はまだ国を変えようという情熱を持っていることに刺激される。
しかし、よそさまの国のクーデターには手を出せないし、
母国をかえりみたらもう日本には変えられるような余地は残っていない。
結局、ドラマは恋愛のようなものと母子関係にとどまるが、
ここが正義を説かない山田太一ドラマの長所だろう。
日本がどうだ、なんだのと一席ぶつ英樹という青年がいるが、
彼が結局言いたかったのはおなじ協力隊の真弓が好きだということだったのである。
ところが、真弓は謙という青年を好きな模様。
ドラマはこのようなところにしかないし、そこを愛さなかったら人生はなんにもない。
日本がどうした? 日本よりも大きいドラマは個人の内奥にある。
英樹が暴露を始める。

「英樹 怖いだけさ。日本へ帰るのが怖いんだ。居場所があるかどうか分らないからな。
真弓 それってこの人(謙)のせいかな。
謙  待ってよ。俺は会社を辞めてきたんだ。
   休職して、協力隊に二年行きたいっていったら、
   戻ってきても場所はないぞ、といわれたんだ。
   結構っていって、辞めた。今更、なにを心配するっていうんだ。
英樹 他のどこの会社も受け入れてくれないかもしれないって。
謙  それはおまえの心配だろう。
英樹 そういってもいい、でも、そっちも気にしてないような顔をするな。
   本当は、なんとかなんねえかと思ってるはずだ。
   日本はなんとかなんねえか。
   海外協力隊に行った人間をなぜ人材として歓迎しないんだ。
   世界中で、すげェ経験をして来た人間を、
   どうして大事にしねえかって思ってるはずだ、
謙  すげェ経験なんか、したか、俺たち。
英樹 茶化すなよ。日本は、なんとかならねえか。みんな、そう思ってるはずだ。
真弓 日本、日本て。
英樹 日本人だろ、俺たち。どこで暮したっていいか?
   どこで一生を終えたって本当にいいか?
   そんな簡単じゃないはずだ。生まれて育った国は、そう楽には片付かない。
真弓 おかしいよ、そんなの。世界中で、いくらだって日本人暮してるでしょう。
   そこで一生って人、いっぱいいるでしょう。
英樹 でも日本を忘れていない。もっと日本がいい国だったらって。
謙  民族主義者め。
英樹 気取ったことをいうな。日本は、なんなんだって、悔しくて不安で、
   女買いまくってるくせに。
謙  なに言いだす。
英樹 真弓さん――。
謙 人のことを、なんだって――。
綾  かぎ回ってるようね。
英樹 俺は、三月で日本へ帰る。こいつ(謙)は、一年延長した。
真弓 分ってるよ。
英樹 真弓さんは、六月までだよな。
真弓 だから?
英樹 俺が、とにかく、いいたいのは――。
謙  日本を愛せか。
英樹 こいつは、不安で、女を買いあさって、
   日本へ帰るのが怖くてたまらなくて一年延長したんだ。
真弓 よそう、もう。
英樹 愛しちゃいけない。こいつ(謙)を愛しちゃいけない。
謙  お前は、女をあさってないのか。
英樹 俺は買わない。俺は、女を買うようなことはしない。
謙  じゃあ、どうやってるんだ。
英樹 そんなことお前にいわれたくない。
謙  真弓さんの裸を空想してひとりでやってりゃあ清潔なのか。
綾  よそう、もう。
悦子 よそう。
英樹 俺は、あなた(真弓)が好きだ。
真弓 誰がダメだとか、日本がどうとか、そんなこという必要なかったね。
英樹 (打ちのめされ)ああ。
謙  ハハ、ひどいもんだ。隊員は、なにをしてる。
   のんだくれて、女買って、不安でへたばりそうで――」(1-52)


まるでいくら日本を論じようが、
個人の幸福は男女間のなかにしかないという福田恆存の思想をセリフ化したようなもの。
山田太一は青年時代福田恆存を愛読して強い影響を受けている。
いくら大きく日本を論じようが男なんてそんなもの、女もそんなもの。
日本へ帰ってもなんにもない。青年たちはどっか小さな会社に勤め結婚するだろう。
しだいに日本を論じるようなこともなくなり、小さな生活を守ることに汲々とするようになる。
女は母になろう。
さて、この芝居では「離れて遠く二万キロ」まで息子に逢いにやってくる母親が登場する。
先ほど大きく日本を論じて、真弓に告白して玉砕した英樹の母親である。
なんのことはない。
英樹は母親の過干渉から逃げたくて「離れて遠く二万キロ」までやって来たのである。
しかし、そこにもまた母親が来てしまう。
英樹は子どものようにいやいやをして母と逢おうとしない。
母親の言い分はこうである。

「あの子うんで育てたことが、結局人生で一番大きなことで、他にないの。
そんな母親だから、逢いたくないのよね。分ってるんだけど。
自分は、たしかに、この子をうんで育てたんだって、
肩のあたり掴みたくてたまらなくなったの。なんか――なんにもなくて――」(2-47)


日本のひんやりとした現実である。
海外青年協力隊の男女も日本に帰国したら、こういうひんやりとした現実が待っている。
しかし、その現実はたしかにひんやりしたものだが、
そうとばかりも言えないことを、
山田太一は日本を舞台にしたあまたの劇を書くことで証明したのであった。
「夜からの声」(山田太一/地人会/早稲田大学演劇博物館所蔵) 非売品

→2005年に地人会で上演された芝居台本。
山田太一さんはすごい作品を書く人なんだなあ。すごいとしか言いようがない。
本当のことはなんだったのかという、そのわからなさを徹底的に描いている。
本当になにが起こったのか本当のことはわからないのかもしれない。
本当のことは客観的に存在するのではなく、
人間の主観が創造するものなのかもしれない。

中年の真司(風間杜夫)の家に同世代の頼子がいきなりやって来る。
やっと突き止めたという。あなたでしょうという。
真司はボランティアで「話し相手コール」というものをしている。
話し相手のほしいさみしい人のために聞き役になってやるボランティアである。
頼子は真司に牙(きば)をむきだしにして問い詰める。
夫に電話でなにを言った。夫からなにを聞いた。言え。いいから言え。
鬼気迫る表情である。
なぜなら頼子の夫は真司と電話で話した直後、深夜飛び降り自殺をしたからである。
なぜ夫が死ぬ直前に「話し相手コール」に電話をしたことを知ったかといえば、
日記にそう残されていたからである。
いささか病的な頼子は真司に問う。本当のことを言え。
夫とどんな話をした? 夫になにを言った? 夫からなにを聞いた?
真司は守秘義務があるから答えられないという。
本当のことを言え! 守秘義務があるから言えない! いったい本当はなんなのだ?

後日、頼子の息子の柾(まさき)が真司(風間杜夫)を訪問する。
柾が言うには、ご迷惑をおかけしました。
母は鬱(うつ)病ということで精神病院に入院しました。
いま投薬治療をしています。このごろは、かなり薬で治るそうです。
どうか母のことは忘れてください。 
その場に居合わせた真司の義父は言う。おかしいよ。これで一切終わりか。

「鬱は薬で治るみたいなことも、いいすぎてた。(……)
薬で、はなれて行った恋人が戻ってくるかい、薬のむと死んだ女房が生き返るかい?
こっちはもう四年余り、生きかえって来ないのが骨身に沁みてるよ。
かなり薬で治るなんて、そんな、人の悩みをバカにした話はないよ」(1-51)


3週間後、はた迷惑にも頼子がまた真司の家を訪問する。
治ったという。薬できれいさっぱり治ったという。ポイすることにしたという。
マイナスはポイと捨てる。あっちからっこっちへポイする。ポイ、ポイ、みんなポイ。
これは精神医学的にリアリティーが問われるけれど、
専門医の春日武彦氏によるとたまに抗鬱剤が奇跡的に効くこともあるらしいから、
そのうえなにしろ劇場、壇上で現に起こっていることを観客は信じるものである。
さあ、本当にこれでいいのだろうか? 前向きで、明るくなればそれでいいのか?
暗いこと、本当のこと、「夜からの声」はポイポイ捨て去られていいのか?

本当はいったいなにがあったんだ? 
このときそれまで守秘義務を貫いていた真司が、頼子の夫に成り代わる。
妻よ、本当のことを話そう。じつは俺の父がボケていたではなかったか!
頼子、きみは6年間も介護をしたではないか!
これはもう風間杜夫の迫力でもってしか入れない異世界であろう。
頼子は答える。あたしは本当は義父のことを好きだった。
義父は男らしくて、夫よりも義父のことを好きに感じることがなかったとは言えない。
だから、ボケが始まったときは懸命に介護をしようと思った。
ボケがひどくなってきたとき、外に出ようとする義父をあたしは殴った。
そうしたら義父は一瞬、正気に返ったようになった。
その後、ときおり義父は殴ってほしそうな顔をした。あたしは義父を殴った。
ときには掃除機で殴るようなこともあった。
これは客観的には老人虐待だが、本当のことはいったいどうだったんだ?
風間杜夫は、頼子が父を虐待していることを知っていた。
いや、もっと本当のことにもうすうす気づいていた。
妻と義父はひそかに愛し合っているのではないか?
暴力がひどくなった6年後、義父を施設に入れようという話になった。
これで一件落着するはずだった。
ところが、1ヶ月もしないうちに施設は火事で全焼してしまう。
これからどうしようとボケたおとうさんを家まで車に送る途次――。
車中で頼子は義父を引っぱたいてしまう。風間杜夫は衝撃を受ける。
うすうす虐待には気づいていたが、まさか自分のまえでするとは。

「目の前で親父を平手打ちした女房を見たのはショックだった。
やはり、そうだった。虐待は事実だった。
しかし、その親父を膝に乗せている君を見ると、
あんなに優しい目をした君をはじめて見たような気がした。
妙な気持だった。なにか、わり切れない、よく分らない、立ち入れないようなものが、
君と親父の間に出来ていると感じた。
俺をぬきにそれだけの年月があったのだ、と。
まかせっきりで君を、そこまで追いつめてしまったのは俺だと思った。
そこまで追いつめた。そう。そう思いながら、
それが、どこまでなのか、なにを意味するのかは考えたくなかった」(2-38)


家に着いても親父は眠っていた。大きないびきをかいていた。
どうかしたんじゃないかと思いながら、なにもしなかった。
さあ、この後になにがあったのだろう? 本当のことはなんなのか?
風間杜夫と頼子はふたりで「現実」を創造しているのである。
「現実」はそこに客観的に存在するものではなく、
回想というかたちによってふたりないし3人、4人で創るものなのかもしれない。
――ふたりでおとうさんのいびきを聞きながら黙って焼酎をのんだ。

「真司 眠ったのは、君が先。
頼子 いいえ、あなたが先。
真司 いびきを聞いていた。
頼子 ええ。いびきを聞いていた。それから――。
真司 ――。
頼子 あなたは、起き上がった。
真司 そう。俺は立上り、襖(ふすま)を開け、父の部屋へ入った。
頼子 私は息をひそめていた。
真司 ベッドへ近づき、父を見下ろした。
   二回りも小さくなってしまった父が、小さな口をあけ、いびきをかいていた。
   お父さん。呼んでも、こたえはない。眠っているからではない。
   起きても一人息子を分らない。
   ビルマから復員して、戦後を造船一筋で生きたたくましい父は、どこにもいない。
   母が肺癌で死ぬ前の、
   なにもかも投げ出して傍にいようとした優しい父もどこにもいない。
   シミだらけで、ガツガツと弁当を食べ、車の中で暴れ、大いびきをかいている父は、
   それまでの父まで台無しにしてしまう。
   これ以上、そんな屈辱の中で生きていることに、なんの意味があるだろう。
   お父さん。ごめんよ、お父さん。俺は、両手で父の顔をおおった。
頼子 いびきが止った。私は起き上がっていた。
真司 そう。いびきがなかった。殺した、と思った。殺してしまった、と。
頼子 いびきが戻った。
真司 ああ、いびきが戻った。しかし、俺は、一時にせよ、父を殺していた。
頼子 私は、気づきながら、なにもしなかった」(2-41)


翌朝、父は死んでいた。警察が検死をした。
死因はいびきとは関係なし、とされた。脳出血でも脳梗塞でもない。心不全だった。
しかし、本当はなにが起こったのかはわからないのである。
本当は風間杜夫が父を殺していたのかもしれない。
だが、それではあんまりなので風間杜夫は頼子と共同作業で、
殺していないということにした。
人は真実には耐えられない。真実とは人びとがそうであってほしいと思うこと。
ならば、風間杜夫は父を殺していなかったのが真実になろう。
しかし、本当はどうだったのか? 
「夜からの声」が敏感な耳の持ち主には聞こえてこないか――。

風間杜夫は頼子の夫役から、
「話し相手コール」のボランティアをする会社員の真司に戻る。
真司は、頼子に「本当のこと」を言う。
旦那さんは電話で奥さんにとても感謝していましたよ。
頼子はそんなことはありえないじゃないという。
しかし、風間杜夫は「本当のこと」を繰り返す。
自殺するまえの旦那さんはあなたに本当に感謝していましたよ――。

山田太一は「本当の嘘」を書く偉大な作家であった。
「夜からの声」はホラー的な傑作だが、真司役は風間杜夫にしかやれないだろう。
公刊もされていない芝居台本にこんな恐ろしいものがあるとは。
大学の大先輩である作家の才能に感銘を受ける。
この作品をだれでも閲覧可能な状態にしてくれている早稲田大学にも感謝したい。
「夜中に起きているのは」(山田太一/地人会/早稲田大学演劇博物館所蔵) 非売品

→1995年に地人会で上演された芝居台本。
巧みな手かざしセラピーをする女主人(八千草薫)がいることで有名なペンションがある。
ここにいろいろ訳ありなな客がやって来ることでドラマが発生する。
まず八千草薫の元旦那だったという老人が再会しに来る(北村和夫)。
むかしは事業家として羽振りがよかったようだが、いまは尾羽打ち枯らしている。
その落ちぶれた北村和夫を尾行してペンションにやって来るのが風間杜夫。
風間杜夫は怪しげな探偵のまねごとをしていて、
いまは北村が自殺しないか見張っている。
風間杜夫を尾行して来る夫婦もいる。
老婦人は風間杜夫を好きになってしまったのだ。
そのいきさつがおもしろい。風間杜夫はいんちきな探偵商売をしている。
ラブホテルのまえで張っていて出てくるカップルの写真を隠し撮りする。
その写真を使って口止め料と小銭をせびるのである。
旦那がどうして怒らないかというと、
会社の名義やら家の名義やらが妻のものになっているからだ。
こんな60を過ぎた老妻の色ボケなど
1、2回遊ばせてやればそれで済むとたかをくくっている。
ところが、40半ばの風間杜夫のほうが60過ぎの老女にその気になれない。
据え膳をどうしても食えないのである。
以下のセリフのやりとりは、
なにやら男女関係の秘密を公開しているような気がしてならない。
以前は盛り上がったが、老女から迫られ、
旦那の許可も下りていると風間杜夫の健康な下半身が言うことを聞かない。
圭介(風間杜夫)、真純(老妻、老女、河内桃子)の回想である。

「真純 喫茶店に私を呼び出した時のあなたは、すっごくギラギラしていた。
圭介 そりゃあ、一種の犯罪だからね。
真純 緊張でこのあたり(まぶた)がピクピクしてたわ。
圭介 ケチな探偵社にやとわれてるとね。何日も何週間も仕事がない。
   仕事がないと一円も入らない。先輩が教えてくれたんだ。
   ラヴ・ホテルから出て来る中年女と若い男の写真をとれって。
   それから女を尾行して住所をつきとめる。
   電話をする。喫茶店へ呼び出す。写真を見せる。
真純 うちのは、ああいう奴だから、写真なんか平気だった。
圭介 そうは見えなかった。
真純 あなたを見て。脅かされてやろうと思ったの。
圭介 とても芝居とは思えない。
真純 主人に黙っていてくれれば、なんでもしますといったわ。
圭介 倒れるんじゃないかと青い顔をして震えていた。
真純 そうね。半分は、しなれない芝居をしている自分になれなくて、
   本当に震えていたのかもしれない。
圭介 なんでもするというから、ついこっちもかき立てられた。
真純 ついて来い、ってあなた甘く囁いた。
圭介 別に甘くじゃない。
真純 甘く聞こえたわ。
圭介 そっちの勝手。
真純 ホテルへ入ると、あなた勇気をふるって、脱げっていったわ。
圭介 勇気をふるったわけじゃない。
真純 ううん、あれは思い切っていった声、脱げッ。
圭介 (苦笑)
真純 なにを脱ぐのって私が聞くとなにをなんて聞くなって、全部だって。
圭介 忘れたよ。
真純 フフ、男って都合の悪いことは、みんな忘れる。
圭介 ほんとに忘れたんだ。這いつくばって生きてるんでね。
   したことはすぐ忘れないと、屈辱でへたばっちまう。
真純 スカートを脱ぎ、スリップを下に落としても、あなた、私の方を見られなかった。
圭介 見なかっただけさ。
真純 ううん。悪ぶっても、いい人なの。私を見られなかった。
   ブラジャーをとって、パンティを脱いでも。
圭介 そんなこと思い出させて、どうするの?
真純 興奮しない?
圭介 ケーッ。
真純 そのあとは、まるで愛の嵐」(1幕)


いまのところ八千草薫が経営するペンションは手かざしのおかげで繁盛している。
その手かざしセラピーは偽物ではないかと疑う青年男女が来客する。
じつのところ、八千草薫こそ手かざしがいんちきであることに気づいている。
このあたりにペンションはいくらでもある。
料理をいくらこったって外観をどうしようがそうそう競争に勝てるものではない。
そこで雑誌で見かけた手かざしをなりふり構わず、
いんちきだと知りながら始めたのである。
しかし、八千草薫の手かざしが効くというのが評判となりペンションは繁盛してしまった。
八千草薫は自分になんの能力もないことをだれよりも人一倍知っている。
しかし、客が来てしまうのである。よくなったといって客は喜んで帰っていく。
なかには幼い愛児を亡くしたという悲惨な親が客として来たこともあったが、
八千草薫の手かざしセラピーはそういう重度の悩みをかかえた客にも効いたのである。
八千草薫はかつての自分を知る元旦那のまえで手かざしなんてやりたくない。
だが、心身ともに追い込まれた元旦那はかつての妻に手かざしをしてもらいたい。
行き詰っている風間杜夫もぜひ八千草薫の手かざしを受けたいという口である。
いったい八千草薫の手かざしの正体はなんなのか?
この芝居はこの興味で客の関心を最後まで引っ張ったと言ってもいいだろう。
さあ、八千草薫(恭子)の秘密のマジック、手かざしショーを公開するときがきた。
恭子以外の人物は気にしないでください。徳永は零落した恭子の元夫。

「徳永 見せてくれ。
恭子 ――。
徳永 想像したんだ。あんたが手をかざすのを。
   インチキなんてもんじゃないはずだ。
恭子 ううん。
徳永 どうやるの?
恭子 ――。
徳永 さあ。
恭子 どうって――。
徳永 やってみてくれ。
久代[従業員] そうです、ママ。
真純 見たいわ。
徳永 形でもいい。気持をこめなくてもいい。
圭介[風間杜夫] 気持はこめてもらいたいなあ。
徳永 (おさえて)じっとだ。(恭子へ)さあ、ママ、どうやる?
恭子 ――。
徳永 どうやる?
恭子 こう、手をかざして。
徳永 ああ。
恭子 この手をゆっくり、五分くらいかけて、肩におろして行くの。
徳永 ああ。
圭介 (徳永に)かわりましょうか。
徳永 余計なことをいうな。
恭子 それから十分。お客さまが少なければ十五分、その人のことだけを思うの。
   なるべく、そうしようと思うの。
徳永 ああ。
恭子 それから――。
徳永 うん。
広田[客] まだ、なんかすんの?
恭子 ダメ。
徳永 どうして?
恭子 はずかしい。
真純 なにをするの?
広田 ああ、つまり、相手が男と女では、やりかたがちがうとか?
恭子 みんな、同じ。同じようにいうの。
広田 いう?
徳永 なにをいう?
恭子 分るわ。
真純 分るわ。
恭子 大丈夫よ。
広田 大丈夫よ。
恭子 そう。分るわ。大丈夫よって。
徳永 すごいじゃないか。誰があんた、そんなことをしてくれる?
   十五分も二十分も向き合って、肩に手をあてて、じーっと自分のことを思ってくれる。
   そのあげく、分るわ、大丈夫よ、だ。
   嬉しいに決まっている。元気が出るに決まっている。
   これは超能力なんてもんじゃない。
   誰が誰にやったって、嬉しいさ。誰もやらないだけなんだ。
   ママは、それをやったんだ。インチキなんてもんじゃない。そうだろ、坊や」(2幕)


こんな秘術を公開されたら、カウンセラーは商売あがったりではないか。新興宗教もそう。
人間の弱点は孤独と不安なのである。我われは孤独感と不安感に苦しんでいる。
真心こめて他人からあなたのことを「わかる」と言われたら、どれだけ嬉しいか。
そのうえで安心に満ちた笑顔で「大丈夫」と言われたら、どれほど励まされるか。
人の悩み(孤独・不安)は「わかる」と「大丈夫」で
ほぼ消失すると言ってもいいのではないか。
しかし、そこは発言者の人間パワーが関係してくる。
八千草薫だから効くという面もあろう。
口にピアスをしているあんちゃんから、
「ちーっす。気持、わかるっすよ」「ああ、それ大丈夫っす。なんとかなりますって。大丈夫」」
こういうことを言われても腹が立つだけで慰めのようなものは得られないだろう。
やはり酸いも甘いもかみ分けた人の真心あふれた「わかる」「大丈夫」が効くのだろう。
しかし、山田太一は宗教家ではなく劇作家だから「わかる」大丈夫」を万能薬にしない。
批判めいたものもしっかり劇中人物に言わせている。

「徳永 誰だって、肩に手を置いて、分る、大丈夫だっていって貰いたいよな。
久代 ええ。(とうなずく)
明恵 でも、それはインチキ。
徳永 うん?
明恵 誰も、ひとのことなんか分りゃしない。誰もちっとも大丈夫じゃない。
浩一 ああ。
恭子 そうね。
圭介[風間杜夫] 二階へ行け。ここはお前ら[若者]のいるところじゃない。
広田 そんなこをいっちゃいけない。
圭介 二階へ行けよ。
広田 行かなくていい。ママには悪いが、この子たちのいう事は事実だろう。
   誰もひとのことは分らないし、誰も大丈夫じゃない。
圭介 そんなことは百も承知だよ。
   それでもそういうインチキな、やさしい声が欲しいんだろ。
広田 でもインチキはインチキだ。
   この子たちが悪いようなことをいっちゃいかん。
圭介 あなたは正しい。お前らは正しい。
   正しい奴は二階に行って正しい口をきいてくれ。
広田 それはないだろう」(2幕)


人はわかりあえない。人はいつだれがどんな不幸に巻き込まれるかわからない。
人間はいくらかりそめ群れても孤独だし、いつどんなことになるかわからない。
しかし、あんたの気持は「わかる」と言ってもらいたい。
「大丈夫」と肩に手を置いてもらいたい。
「夜中に起きているのは」孤独や不安でいっぱいの人間である。
孤独や不安をまぎらわす「わかる」「大丈夫」は
いんちきだが偽薬が効果を上げることもある。
山田太一ドラマはフィクションだが、多くの人間を孤独や不安から救ったと思う。
わたしの言葉ではまったく効き目がないことは重々承知で最後に書いておく。
あなたの苦しみは――。

「わかる」「大丈夫」

*いまから派遣の面接なので誤字脱字失礼!
「人が恋しい西の窓」(山田太一/文学座上演台本/早稲田大学演劇博物館所蔵) 非売品

→2002年に文学座で上演された芝居台本。
読書しながらメモをする癖があるが、「わからない」の連発である。
山田太一さんはたまにこういうわからない作品を書いちゃうんだよなあ。
こじつけて話をすると、わからないといえばなにもわからないわけでしょう?
我われは両親を父だ母だと思っているが、本当はそうではないかもしれない。
母親は自分が産んだ子をわかるが、父親は自分が父親かはわからない。
DNA鑑定したらわかるのだろうが、
そんなことをしたいと言い出したら夫婦関係に一生の禍根を残すだろう。
夫婦関係だってわからないといえばわからない。
もしかしたら相手がずっと不倫、浮気(本気)をしているかもしれない。
そもそもみんな大事にしている家族だってフィクションと言えなくもない。
一緒に住んでいれば家族になってしまうようなところがある。
「人が恋しい西の窓」は女房に逃げられ職を失った53歳の孤独な男が、
45年ぶりに父親と再会する話である。
あろうことか、ひとりはさみしいだろう、一緒に住まないか、といったようなことを言う。
男はずっと自分は父親から捨てられたのだと思っていた。
しかし、事実はそうではなく、本当は母が悪かった。
男は、母親が(父とは別の)村の有力者と関係を持って生まれた子なのである。
父は年々息子の目が間男に似てくるのがいやで息子が8歳のとき家を飛び出した。

よく考えると、ホラーめいた構造がなくもない。
うちも父と母の仲が悪くて、あいだに挟まれ苦しんでいた。
わたしは母の味方だったが、母の自殺後に日記を見たらなんだかおかしいのである。
母は自分の病気をうつ病と言っていたが、じつは重度の精神病であった。
いままでは母が正義で、父が悪いと思っていたが、そうとも言い切れないのである。
夫婦ってわからない、親子もわからないと思う。
わたしは父と一緒に暮らした時期がほとんどないが、
それでも法律上はあの男しか父のようなものはいない。
「人が恋しい西の窓」では血縁上は父子ではなかったふたりが、
これからも親子を演じていこうというような話のまとまりを見せる。
なんだかよくわからないお芝居だったので、感想をわかりやすくというわけにはいかない。

「なんとまあ、人生は、言葉ひとつで簡単にひっくりかえりますね」(P117)

自分の仇敵だと長年信じてきた人が正反対の恩人だったりするのが人生なのである。
もっとも愛し愛されたと思っていた人が一夜をさかいにして相貌を変えることもある。
「オイディプス王」ではないが我われの目にはじつはなにも見えていないのかもしれない。
本当のことは知ればいいというものではないが、本当のことは重い。
我われは本当だけでは生きていけず嘘を必要としているが、本当のことは重い。
嘘のような本当も、本当のような嘘も実人生にはあふれている。
あまりにも嘘っぽいことが実際は本当で、いかにも本当らしいことが嘘の場合もある。
山田太一ほど本当と嘘の微妙な関係を娯楽作品として極めた劇作家はいまい。
「私のなかの見えない炎」(山田太一/地人会第75回公演■上演台本/早稲田大学演劇博物館所蔵) 非売品

→2000年に地人会で上演された芝居台本である。
山田太一は現実というものが、身もふたもないものであることを深々とあきらめている。
どういうことか。いくら家族がいようが、人間はひとりぼっちである。
そして「仕事が生きがい」などと思い込もうとするが結局、人生なんにもない。
人間はひとりぼっちでなんにもない人生をどうにかして生きていかなければならない。
ここで必要になってくるのは嘘である。フィクションであり、騙(だま)しだ。
人間って意外と騙されることを楽しいと感じるもんじゃないですか?
先日、楽天で味噌汁のもとを購入したら、宣伝写真とは似て非なるものが届けられ、
やるなあ、としばし喝采をあげたものである。
老夫婦で世界一周の船旅とか想像するのは楽しいけれど、現実はそうはいくまい。
夫婦喧嘩だってするだろうし、
船内の人間関係はめんどくさいし、美食にも観光にも飽きる。
ひとりぼっちで生まれてきた人間は、恋愛や就職、家族とおりおり自分を騙しながら、
最後は「自分の人生もなかなかのものだった」と自分を騙して死んでいく。

大きな話をすれば宗教もそうでしょう?
まあ、ふつうに生きて大人になれば神や仏がいないことくらい気づくわな。
でも、それではあまりにひとりぼっちではないか。
人生なんにもないと言っても神や仏がいなかったらあんまりじゃないか。
だとしたら、神や仏はいるのである。
むかしは嫌いだった法華経だが、あれはよくできている。
全編が詐欺経典とも言えなくもない法華経には化城喩品という話がある。
なんにもない砂漠をそれぞれひとりぼっちの旅人が、
それでも安全を求めて隊列を組んで歩いている。
みんなのなかのひとりがあそこに城が見えるぞと言う。
見えていても見えていなくても人々はその嘘に救われるのである。
とりあえずそこに向かって歩を進めればいい。目標ができたら人は連帯もしよう。
城が実際になかったことが判明しそうになったとき、
今度は別の人が向こうにオアシスが見えると口にする。
今度はそこをめがけてみんながんばるのである。
それぞれひとりぼっちの人間はなんにもない人生を終え孤独に死んでいくのだが、
その最終目的地の死を見ないための城でありオアシスである。

人間、人生、そんなもんじゃないですか?
とりあえずいい学校に行っておけ。いい会社に入っておけ。結婚はしておくもんだ。
孫の顔が早く見たいと親から急かされる。子どもができたら人生でもう冒険はできない。
あとは死ぬだけだが、その死を子どもの進学、病気、就職が隠してくれる。
子どもさえつくっておけば死ぬときも自分は生きて仕事をしたような錯覚をいだける。
しかし、これだけでいいのだろうか? それではあんまりではないか?
本当に生きたと言えるのか? 「私のなかの見えない炎」はどこにいってしまったのか?
どのみちみなみなそれぞれひとりぼっちになんにもない人生を終えていくしかない。
だが、少しくらいはカッカしたくないか?
「私のなかの見えない炎」を燃え上がらせてみたくないか?
レールを踏み外してみたくないか? ルールを破ってみたくないか?

芝居「私のなかの見えない炎」は不動産詐欺の話である。
悪徳金融屋と落ちぶれた不動産屋が、
違法建築の別荘を老夫婦に売りつけようとうする。
別荘の立地は悪くなく、海が見えるローケーションはロマンがないとも言えない。
しかし、建築のほうは手抜きもいいところで、とても人が住める代物ではない。
ところが、詐欺契約はかんたんにはまとまらない。
なぜならリタイヤした老夫婦の旦那(邦臣)は元建設省の役人だったからである。
こんな違法建築くらいすぐに見破れる。
そして、もうひとつの偶然がドラマを活性化する。
うらぶれた小汚い不動産屋の高志と元建設省役人の妻(智/とも)には因縁がある。
高志と智は27年まえ婚約までした仲であった。
ふたりはこの違法ペンションで27年ぶりの再会を果たしたのである。
もちろん、邦臣はおもしろくなく、妻のまえで高志をやっつけてやろうと思っている。
このペンションに飛び込んできた女性、香織はいま離婚しようか迷っている。
というのも、仕事はできない高志だが一丁前の色男で、
かつて香織を誘惑したことがあった。
邦臣と智のリタイア夫婦。悪徳不動産屋の高志。高志を追ってきた人妻の香織。
さあ、4人はどんなドラマを繰り広げるか。
こういうセリフのやりとりを見ると、
山田太一は世界レベルで一二を争う劇作家であることに気づく。
智は高志と再会したとき打ちのめされたという。
(邦臣は佐藤慶が演じているのだが、これは佐藤慶にしか無理だと思う)

「智  この齢になったからこそっていったわね?
香織 ええ。
智  そうなの。十年前だったら、河島[高志]さんにバッタリ逢っても、
   こんな気持にはならなかったと思う。
高志 分らないな。
香織 うん――。
智  いまふりかえるとね。
高志 ええ――。
智  結局、私の人生って、河島[高志]さんとのことくらいしか、甘い思い出がないの。
高志 まだ分りませんよ。これからだって、なにがあるか分らない。
智  いつの間にか、忘れかけていた思い出が、大事になっていたのね。
香織 そう――。
智  結局、あの頃しかなかった。
邦臣 今更よくもまあ。
智  ごめんなさい。でも、そうなの。
邦臣 しかし、分ったってわけだ。
   思い出のこの人(高志)は美しいが、現実はこの通り。
   私たちをだまくらかそうという情けない、ペテン男、ボロボロ男。
高志 なんとでもいいなさい。奥さんに、こんなことをいわれては、おつらいでしょう。
邦臣 ハハ、私を哀れんでくれるのか。
智  よして。
邦臣 なにがよしてだ。いいたいことをいいやがって。
高志 そこまで。
邦臣 そこまで? 格好つけやがって。お前なんかいつでもぺしゃんこにしてやる。
智  よそう。
邦臣 くさり切っている。立派なペテン師だ。いつでも告発してやる。
   小綺麗な口をききやがって。キツネの尻尾がヒラヒラ肩越しに見えてらあ。
   下劣な野郎だ。女房子に逃げられた。なにをしたんだ。
   真面目に不動産屋やってて、女房子が逃げるか。借金とりが、はりつくか。
   下劣な野郎だ。こんな奴に、なんの取り柄がある。どこがいいってんだ。
   ここでなにをしている? いままでなにをして来た。
   お前はこの三十年なにをして来たんだ? 自慢することがあるのか。
   あるなら、いってみやがれ。お前なんか――」
香織 (立ちふさがり)そこまで、いうことはないでしょう。
邦臣 ハハ、やさ男に女の味方か。
智  もう、よそう。
邦臣 味方が二人になったぞ。女ってのは、わけが分らない。なんで、こんな男を――。
智  (立ちふさがる)
邦臣 ――なんだ、その顔は。
香織 そっちは、なんなの?
高志 いいんだ。この人のいう通りだ。私は、なにもして来なかった。
   失敗の連続だ。取り柄もない。下劣な野郎だ。ペテン師だ。
邦臣 そうやって自分を簡単に投げ出すと、女がくらいつくって訳か。情けない野郎だ。
智  あなたは情けなくないの。
邦臣 なんだと。
智  あなたは、なにをして来たの? あなたの三十年は。なんなの?
邦臣 なんなのって――。
智  (香織へ)この人はね、私立の法学部を出たの、
   それで、政務次官とか、そういう出世コースには、ほとんど可能性がなくて、
   かげで東大出の悪口をいいまくって、そのくせ前へ出るとぺこぺこして、
   仕事を呪っているくせに外へ出て行くと建設省にいることが自慢でたまらなくて、
   えらそうで、業者が談合して落札することなんか百も承知で、
   お中元やお歳暮が増えると嬉しくて数えて――。
邦臣 お前はどうだ?
   建設省の役人の女房だってことで、いい思いしたことだってあるだろう。
智  なかった。
邦臣 ハハ、口は便利だ。なんとでもいえる。本庁の役人の女房だって、
   胸はって自慢そうにしていたのは、どこの誰だったか。
高志 よしましょう。もう、よしましょう。
   誰って、絵に描いたように綺麗に生きてやしません。
邦臣 あんたにいわれたくないッ。
   (中略)
邦臣 もういい。
智  よくない。このまま、人生おだやかに、温和(おとな)しく、終わりたくないッ」(2幕1場)


こういう本音のやりとりってゲラゲラ笑えるよなあ。
「想い出づくり」の佐藤慶を邦臣に当てはめると腸がよじれるくらい笑える。
「このまま、人生おだやかに、温和(おとな)しく、終わりたくないッ」
中年以上なら性別を問わずだれしも思っていることではないか。
それを口に出したら子どもになってしまうから大人はだれも言わないけれど。
世間常識でガチガチに固まった佐藤慶(邦臣)がおもしろいのである。
こんなセリフもいい。

「何故まだ分らないんだ。
人生あがいたって、大した花は咲かねぇよってことを」(2幕2場)


言ってみたいな、このセリフ。「人生あがいたって、大した花は咲かねぇよ」とか。
しかし、それではあんまりだから人はテレビ、映画、芝居に救いを求めるのであろう。
なかには宗教に救いを求めるものもいるかもしれない。
演劇(芝居)は宗教的儀式を祖としているという説はおそらく正しいのだろう。
ひとりぼっちてなんにもないそれぞれの人生を生きるには人は弱すぎる。
弱者は味気ないそれぞれの現実に向き合うためにフィクションを必要としている。
さて、古女房を高志に取られそうになった邦臣は、
意外な自分が目覚めていることに気づく。
邦臣は「私のなかの見えない炎」の存在を知る。
「河島を――あのインチキな不動産野郎を、憎んでいる」

「邦臣 こんな激しい情熱が自分にあるなんて思っていなかった。
   枯れたと思っていた。あとは静かに暮らすだけだと。
   ところが、身体中、指の先まで[高志を]憎んでいる。口惜しがっている。フフフ。
香織 嬉しいの?
邦臣 そうなんだ。一方で、こんなに煮えくりかえっていることを、喜んでいる。
香織 どうして?
邦臣 こんなに熱くなれるなら、私だって、ことによると、
   君ぐらいの女性とだって、恋が出来るかもしれない。
香織 私と?
邦臣 君とはいっていない。君ぐらいの齢のといったんだ。
   若い女なんて、面倒くさいだけだと思っていた。
   しかし、まだ、こんなに煮えくりかえることが出来るなら、
   面倒くさいことに溺れる力もあるのかもしれない。
香織 ついてけないけど――。
邦臣 その通り。若いあんたに分るとは思っていない。
   しかし、妙な話だが、いま私には力がみなぎっている。
   畜生、あいつら、どこにいるんだッという活気だよ。
香織 ほんと。はじめて見た時は、おじいさんかと思ったけど。
邦臣 どうせね。
香織 でも私、おじいさんの方がいいかもしれない。
邦臣 いいんだよ。
香織 ううん、ギラギラした奴より、優しくつつみこんでくれるような人を、私。
邦臣 フフ、じいさん」を優しいなんて思いこんじゃいけない。
香織 誰でもってわけじゃなく、この人。(と邦臣を指す)
邦臣 私?
香織 案外、私の、タイプかも――。
邦臣 え?
香織 そうよ」(2幕2場)


このやりとりは字面ではわかりにくいが、上演したら客席は笑いにつつまれるはずである。
作者の旺盛なサービス精神には参る。
「人間・この劇的なるもの」がいちばんカッカするのはいわゆる恋愛だろう。
で、カッカしてうっかり結婚をしてしまうともう人生で冒険をすることができなくなってしまう。
浮気や不倫といった火遊びは可能だが、
いちどきになにもかもを失ってしまうリスクがある。
「結婚はしてもしなくても後悔する」というだれだったかの名言があるけれど、
「私のなかの見えない炎」の取り扱い方は難しく、それを教えてくれるのが芝居なのだろう。
「空也上人がいた」(山田太一/朝日新聞出版) *再読

→人はなぜ自分が「それ」をするのか本当にわかっているのだろうか?
行為(選択)の理由はあとからぼんやりわかるもので、
「それ」さえも絶対解とは言えまい。なんとなく「それ」をしてしまう。
まず孤独なわたしがどうして携帯電話番号をブログに公開したのかわからない。
孤独だからという理由が一般解だろうが、わたしは心を許せる親友がふたりもいる。
山田太一さんも講演会でぽろりとおっしゃっていたが、
親友なんて人生の一時期にでもひとりでもできたら稀有なる僥倖だろう。
わたしが孤独だから携帯電話番号を公開したのかは結局のところわからない。
奈良のお医者さんから電話が来た。
おりかえし電話したら、逢わないかという。交通費を出してくれるという。
一泊したいなら宿泊費を出してもいい。山田太一の話でもしようではないか。
別途にお小遣いのようなものを支払ってもいい。
世間の常識からしたら、こんなの嘘に決まっているではないか。
こんな話は小説で書いてもルポで書いても本当っぽくない。ありえない話である。

山田太一の小説「空也上人がいた」もありえない話である。
金持を自称する81歳の老人が、
心に傷をかかえた28歳の介護職青年にいろいろしてやる。
具体的には高い衣服をプレゼントし京都まで新幹線グリーン車で行かせる。
そこでタクシーで「六道の辻」まで行かせ、六波羅蜜寺まで歩かせる。
そこで六波羅蜜寺の宝物館にある空也上人像を見ろという。
おそらく老人もなぜ自分が「それ」をしたのかはわかっていない。
青年は「それ」の意味をいろいろ解釈するが(老人の偽善、色ボケ等々)、
結局は解釈どまりでなにが「本当のこと」かはわからない。

むかしブログのコメント欄に山田太一名義の批判コメントが来た。
いまは修正されて「山田犬一」になっている(そういう修正はブログ上可能)。
真剣に1週間以上苦しんだものである。
そのときのわたしにとって山田太一さんは神や仏以上の存在であった。
結局、どうしたかというと山田太一さんの家に電話してしまったのである。
何時ごろがいいかだいぶ迷ったが、朝9時過ぎにしたような気がする。
おそるおそる電話すると一発で山田太一さんが出てくれたのである。
事情を説明したら、芸人にも同名の人がいるじゃないですか? と言われた。
そうではないんです。そうではなくてと、どもりどもり説明したら――。
「ぼくはインターネットにそんな書き込みはしません。別人です」
「そうですか。ありがとうございます、失礼しました」
わたしは巨匠の貴重なお時間を3分も奪っていないはずである。
これも初公開の嘘みたいな話だけれど、「本当のこと」なのである。
親友からは、え? あれ山田さん本人じゃないの? と言われたが、わからない。

わたしは介護職も務まらないような(糞尿世話は無理っす)クズのおっさんである。
しかし、こちらは宿命のようなものとして、
ありえない「本当のこと」をいくつも経験している。
そういうことはどうせ書いても信じてもらえないし、
そういう秘密こそ自分であるという理由から(「それ」もわからないが)、
ブログには一字一句いっさい書いていないことがいくらでもある。
たとえばさ、こんなこと本当にあると思う?
かなりむかしの話だが(10年?)、人妻からメールが来て池袋で飲んで、
別れ際、今日はホテルまで行くつもりだったと言われるとか。
だったら最初に言ってよという話だが、
なぜ彼女が最後に「それ」を言ったかは本人もわからないだろう。
「本当のこと」はからかわれていただけかもしれない。

人間はなぜ自分が「それ」をするのか本当はわかっていないのかもしれない。
(これを仏教用語で「自力」ならぬ「他力」というのやもしれぬ)
わたしもなぜ自分がいきなり携帯電話番号をブログに公開したのかわからない。
奈良の開業医といったら地元の名士みたいなもんでしょう?
そんな世間一般尺度からしたら「偉い」人が、
なぜ当方なんかにお電話をくださったのかもわからない。
逢いたいって、おれなんかに、どうして? 
もしかしたら「それ」の原因のようなものはだれにもわからないのかもしれない。
ネットで調べたら京都経由で奈良のそこへ行くのだとわかる。
片道1万4千円以上でしょう? おれにそんな価値はないよ。
一泊したかったら宿泊費もくださるという。え? 奈良、京都?
京都には一ヶ所だけ行きたい場所があって、
それは山田太一の小説「空也上人がいた」に登場する六波羅蜜寺である。
いま空也を師とあおぐ一遍の全集を精読していたが、この偶然はなんだろう?
どうして「それ」は起こったのだろう?

介護職なんてたいへんなお仕事をできる青年への敬意への裏返しだろうが、
「空也上人がいた」に登場する青年よりも、
こちらのおっさんのほうがましな気もしなくはない。
いや、ましというのではなく、貧乏くさいというか、用心深いというか。
介護中の老婆を車椅子から放り投げて殺した介護青年は、
どうせ金は老人が出すんだからと「ひかり」か「のぞみ」のグリーン車に乗っている。
こちらはとても自分にそんな価値があるとは思えなく、
おそらく相手が出すと言っているのだから
「ひかり」「のぞみ」くらいは許されるだろうと思いながらも「こだま」。
それでさえ遠慮があって深夜バスでもいいけれど、
いま41歳だからそれはきついと内心で弁解しながらである。
それもネットでいろいろ調べて宿泊パックの時間限定「こだま」往復、格安ビジネスホテル、
往復23330円(宿泊費込み)まで費用を落とすことに成功した。
それでもまだ高いくらいで人様に払わせていい金額かわからない。
最終的に万が一にもトラブルになったとき、
自腹でも払えるよう最安値にしたという可能性もありうる。
自分でもどうして「それ」をしたのか「本当のこと」はよくわからない。

クレジットカードの決済ボタンを押すときは勇気がいった。
というのも、本当にその日にそこにそのお医者さんがいるのかわからないからである。
相手はこちらを多少ブログで知っていようが、こちらはまったくの無知である。
いきなり囲まれて宗教勧誘されるかもしれないし、
ブログ記事のことで非難を受けるかもしれない。
そういえばかのお医者さんは、
有名精神科医の春日武彦氏と同世代(ただし精神科ではない)。
春日さんからはメールやブログのコメント欄でだいぶ厳しいご批判を受けている。
もしかしたら春日先生のつながりではないだろうかと妄想をふくらます。
そういうのが退屈かといったら反対で、どこか劇的でおもしろい、……疲れるが。
「本当のこと」ってなんだろう?
身分の違うふたりはこうして逢ってお互い「本当のこと」を少しばかり話した。
何度も書いているが、ブログには決して書けない「本当のこと」はかなりある。
医者はちっとも権威的ではなかった。
自宅兼職場の談話室でスイカと桃をごちそうになった。どちらも甘かった。
ふたつ封筒をいただき、ひとつには交通費宿泊費。
もうひとつの封筒には、ここに書いても信じてもらえないだろう金額が入っていた。
そんな仕事をしていないやと思って、いま必死でこうして文章をつづっている。
「それ」はどうして起こったのか、「本当のこと」なのだが、だれにもわからない。
「こんな文章を書ける人は応援したい」とおっしゃってくださった。
むろん、それも「本当のこと」だろうが、
山田太一ファン的な意地悪な解釈をすれば、富裕層の好奇心の好餌になっただけで、
そんな自分に自信を持つなよ、と反省したくもなる。調子に乗るな。いい気になるな。

170628_2106~01[1]
(飲み放題1400円と激安なイタリア料理店。500円のピザがうまかった)

翌日、六道の辻から六波羅蜜寺に参詣。
平日だからかほとんど観光客もおらず空也上人像を長時間、拝謁させていただいた。
六波羅蜜寺は京都駅から歩いて行ける。タクシーを使うな。歩け。
知恩院でぶらぶらしていたタクシーのドライバーさんのひとりに道を聞いたら、
とてもいやそうな顔でいいかげんな道を教えられた。
それは聞くくらいならタクシーに乗れよって話なのだから、
無理もなく、人間味がありよかった。

170629_1550~01[1]
(六道の辻)
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(アリバイ証明:六波羅蜜寺)
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「左へ行くと回廊がある。その脇は小さな墓場だ。(……)
澄ました石庭なんかよりずっといいじゃないか」(P61)


山田太一の小説「空也上人がいた」で老人、中年女性、青年は、
それぞれ行為(選択)をするが、
どうして自分が「それ」をするのかよくわからない仕掛けになっている。
どうして老人が青年に親切にしたのか「それ」は究極的にはよくわからない。
中年女性が青年に本当に恋をしていたのかもわからない。
81歳の老人が本当に47歳の女性に恋をしていたのかどうかも、
「それ」はわからない。
最後にどうして老人は自殺したのかもわからないし、
なぜ遺体のまえでいままで処女だった47歳と28歳の青年がセックスしたのかも、
「それ」にはいったいどういうちからが働いているのかもわからない。
わかるのは「空也上人がいた」には「本当のこと」が書かれているということ。
小説は嘘なんだけれども、しかし本当以上に「本当のこと」が書かれている。
たとえば、こんなわたしがいきなり見知らぬ奈良のお医者さんから招待されて、
けっこうな金額のお小遣いをいただき、翌日には六波羅蜜寺で空也上人と逢った。
ひとりぼっちで空也を尊敬していた一遍のことを独学していたら、
こういうことが起こった。
これを書いている当方だって、どこまで「本当のこと」か信じてもらえる自信がない。
しかし、これは「本当のこと」なのである。
だからして「空也上人がいた」も「本当のこと」をうまく嘘にした小説なのである。

妻を亡くし、まともに話せるような友人も、
いまはひとりもいない81歳の老人(吉崎)はいう。

「「金はあるんだ」と吉崎さんはいった。
「無論この先どれだけ生きるやも知れない。
どんな費用のかかる病気になるやも知れない。
極端なインフレで百万円が一円にもならない暴落があるやも知れない。
戦争だって大地震だってあるだろう。
事態の用心はね、いまの家のバリアフリーを見れば分るように、
ほっとけば抜け目なくしようとするのが私の性分なんだ。
しかしそれだけに用心のむなしさにも散々懲りている。
それはもうこの世には人智の及ばないことだらけでね。
[自分はもう]八十一だよ、中津さん」(P42)


そんな81歳の吉崎老人が最後に到達したのが空也上人への妄想である。

「[空也上人は]善人も悪人もいない。
善悪なんか突きぬけて、誰もが持ってる生きてるかなしさ、
死んじまうことの平等さ、
そういうことを分ってくれてる人って思いが湧いたんだ。
こういう人がいると助かるなあというくらいのことだ。
私は[空也上人像を見て]、泣いたんだ。
他に人がいないこともあってね」(P82)


わたしも思い入れが強いから空也上人像を見てわんわん泣いた。
男のくせに、わんわん泣いた。ひとりだったけれど、ひとりではないような気がした。

(関連記事)
「空也上人がいた」(山田太一/朝日新聞出版)



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「捨てた夢プレイバック 「ふぞろいの林檎たち」より」(山田太一/飛鳥新社) *再読

→山田太一ドラマ「ふぞろいの林檎たち」1~3までから選び抜かれた名セリフ集。
ふぞろいの林檎(りんご)たちってすごいよね。
高く売られる林檎として生まれなかったから、もうどうしようもないのに、
ふぞろいはふぞろいながら林檎のかたちをキープしながら世に自分を売り出していく。
埼京線の通勤ラッシュに乗り合わせると自殺したくなる。
この人たちはみんな「いい」を目指して、こんなに毎日苦労しているんだなあと。
学生はいい学校、社会人はよりいい会社、
いい配偶者、いい子ども、いい老後、いい人生。
よくバカらしくなんないなあと。
どうしてふぞろいの林檎たちは埼京線にダイブしてジュースにならないんだろう。
こういうことを駅から工場まで車で送ってくれる派遣会社の社員に言っちゃうおれが、
そこまで偉いのか、正しいのか、すごいのか、
むしろふぞろいの林檎たちにさえなりきれていないじゃないか。
派遣会社の部長さんなんかほぼ365日間働いているわけよ。
小さな会社で部長と呼ばれて38歳で結婚していて共働きで新婚旅行はイタリアで。
派遣先会社の社員からも(わたしもふくめて)派遣さんからも評判がいい。
貫禄がある、なんていう評価を聞いたことがある、小さな会社の部長さん。

去年勤務していたところの副工場長45歳もふぞろいの林檎たちだよなあ。
すっげえあたまの悪い高校を出ていて、
同級生の女子と10年近くてんやわんやがあって結局、結婚。
お坊ちゃんがふたりで、
そのうちひとりが高校を出て専門に行きたいというんでまたローンだとヒイヒイいってた。
それなのに人情家を気取っていて大卒の部下(バイト/わたし)を
クビになった日にフィリピンパブに連れて行ってくれたりしちゃう(完全奢り)。
そこでまたでかいことを吹かすんだけれど、そういうのってとてもいとおしいよねえ。
大物ぶってちまちま不倫して、
高校時代からつきあいのある妻にばれていることを知っている。
最初に書いた派遣会社の部長さんも副工場長も、
そのふぞろいの林檎たちっぷりにほれぼれとした。
そういうふうに同性を見られるのは、
まさしく山田太一ドラマ「ふぞろいの林檎たち」の強い影響による。
彼らの共通点は仲間がいること。友達が多いこと。
しかし、ふぞろいの林檎たちの友情関係はあまり健全なものではない。
だれかが有名になったり、たまのこしに乗ったりしたら、すぐに切れる類のもの。
とはいえ、相手が失速したり落下したらすぐに友情復活で慰めてくれる。
いつもわいわいがやがややっていて、
そんなに人のために自分の時間や交際費を使っているから、
いつまで経っても貯金できないんだぞという。
でも、そういうのっていいよね。
少なくとも合理的に効率的に生産的に生きようとするよりカッカしている。
美しい恋人がいる東大卒の孤独なエリートイケメン修一(国広富之)は、
ふぞろいの林檎たちをこう評する。

修一「いいね。友だちが、店手伝ったり、ドンドン上がってったり。
  そういうつき合い、おかしいだろうけれど、本当に縁がなかった。
  一人っ子だし。フフ、いま、とっても、なんだか、よかったなあ。フフ」(P10)


だれもが感じているのが孤独であり、ひとりぼっちという感覚だろう。
あんがい人間はいい学校やいい会社、いい配偶者、いい子、いい老後を
目指して毎朝通勤ラッシュにもまれているのではないのかもしれない。
本人はそう思っているかもしれないけれど、そう強弁に言い張るかもしれないけれど。
東大出身の孤独なイケメンエリートは口にする。
あんなに多くの人がそれぞれ釣り合いを保ちながら結婚して、
どうして家庭めいたものをつくって幸福ぶりたがるのだろう。

修一「まったく、人と深くつき合わないで暮せたら、とてもいいんだけど。
  厄介なもんだね。それじゃあ淋しくてたまらなくなる。
  人間の不幸は、家でじっとしていられないことからはじまるって、
  誰かがいったけど、本当だね」(P45)


わたしはふぞろいの林檎たちにもなりきれない、
ほとんどジュースみたいなクズ野郎だけれども同感だなあ。
東大卒でもないし、イケメンでもないし、美しい恋人もいないけれど、
なんにもないけれど、ひとりぼっちだけれども。
なんでみんなそんなにまじめに生きていけるんだろう?
いい結婚をして、いい家庭をつくり、少しでもいい会社で働き、いつか唐突に死んでいく。
去年、上司である副工場長と激安酒場でかなりのんだとき(わたしも払っている)、
工場長の悪口をこれでもかというくらい聞かされた。
おお、これこそおれの求めている「ふぞろいの林檎たち」の世界ではないかと、
ビールは口にしながらも覚醒しきった目でわたしは男を観察していた。
別れるとき副工場長は路上でたちしょん(立ち小便)をして叫んだものである。

「ああ、羽目をはずしたい!」

山田太一ドラマに頻出するセリフであるバカヤロウとおなじだろう。
いい夫がなんだ、いい家庭がなんだ、いい学校がいい会社がなんだ、バカヤロウ!
東大卒の修一とふぞろいの林檎たちのなかでもクズな実(柳沢慎吾)が話している。
人と話すとき、なにが楽しいかといったら共通の知人の噂話(悪口)である。
良雄(中井貴一)はどうして結婚しないのか?

実「[良雄は]真面目だし、係長だし、いまのあいつなら、
  いくらだっていい嫁さんつかまるんだから」
修一「どっかで、そうしたくないんだろうな」
実「そうしたくないって」
修一「いい嫁さん貰っていい家庭つくって、いい子供うんで、いいパパになって」
実「ええ」
修一「そうしたくない。手堅くは行きたくない。
  人妻を好きになって、めちゃくちゃになりたい」
実「あいつが?」
修一「フフ、考えすぎかもしれないけど、人間は厄介だからね。
  した方がいいことばっかりするとは限らない」(P129)


「めちゃくちゃになりたい!」

修一の恋人でのちに結婚するインテリ美女役の夏恵(高橋ひとみ)はいう。
ドラマで唯一おっぱいを見せてくれた女優である。

夏恵「ちょっと手が触っただけで、ドキドキしたり、
  このあたり(胸の上)みせただけで、男の人の目が、痛いようだったり、
  そういうこと、なくなっちゃったら、
  なんかひどい人生みたいな――そういう気がするの」(P82)


しかし、ふぞろいの林檎たちは今日も満員の通勤電車に乗り、
よき社会人を演じ、人の噂話(悪口)に花を咲かせ、
仕事が終わったら安月給(安いお小遣い)をものともせず居酒屋に行き駄弁る。
そして家に帰ったらよきパパやよきママになり、
子どもたちには少なくとも自分以上の存在になってほしいと期待して苦しめる。
どんなにがんばったって、
ふぞろいの林檎たちの遺伝子は変わらず継承されるのだが。
そして日本は個人がどう正義を主張しようが結局のところ、
まあまあ、まあまあのなあなあな世界で、それを言っちゃうとあんまりだけど、
どうしようもなくどうにもならない世の中なのだが。
そのことをわかっている、にもかかわらずふぞろいの林檎たちは――。
男3人のなかでいちばん押し出しがよく男らしいのは健一(時任三郎)。
多少は世間を知った健一、良雄(中井貴一)、実(柳沢慎吾)はつるみ駄弁る。

実「世の中、そんなもんよ。建築だって、
  設計士が業者に発注すりゃあ、業者は設計士に礼金を払う。
良雄「みんながみんなそうじゃないだろ」
実「そりゃそうだけど、世の中見た目のようには動いてないのよ。
  裏へ回りゃあ、リベートだコネクションだって」
健一「もうよせ」
実「なんだよ?」
健一「世の中そうだから、なんだっていうんだ? 嬉しそうにしゃべるなッ」(P58)


リベートやコネクションでいい思いをしているやつはいっぱいいるのに、
今日もふぞろいの林檎たちは地獄のような満員通勤電車に身体を押し込む。
よき社会人を演じ、よき上司やよき部下を演じ、帰宅したらよき家庭人を演じる。
羽目をはずしたいけれど、めちゃくちゃになりたいけれど、
そういうことをできる器ではないのは自覚しており、
周囲にそういう道を踏み外したやつがいたら執念ぶかく攻撃する。
しかし、ときには叫びたい。バカヤロウと。

「バカヤロウ!」

(関連記事)
「ふぞろいの林檎たち」(山田太一/新潮文庫)
「ふぞろいの林檎たちⅡ」(山田太一/新潮文庫)
「ふぞろいの林檎たちⅢ」(山田太一/マガジンハウス)
「ふぞろいの林檎たちⅣ」(山田太一/マガジンハウス)


1969~70年放送の山田太一脚本のドラマをユーチューブで違法視聴。
木下恵介アワー。ユーチューブは個人編集短縮バージョン。
「兄弟」がジェイコムで放送されたとき、
わたしは加入していたから見ていないのはおかしいとご指摘を受けそうだが、
自分が生まれる5、6年まえの長い連続ドラマはそうそう見られるものではない。
「兄弟」が放送されるひとつまえの山田太一ドラマ(「二人の世界」?)が
3、4話くらいでギブアップしてしまったので「兄弟」は録画予約もしなかったのではないか。

ある人から見てください、感想を書いてください、ユーチューブで見られます。
そう言われたら、翌々日には速攻で仕事(遊び?)をこなす律儀な人間である。
こんなドラマを20代付近で本気で見てしまったせいで、
結婚するのが恐怖になった男性が当時は大勢いたのではないか。
いつもの山田太一ドラマでありていに言えば、おもしろくて感動して泣いた。
フルバージョンを見ていないで感想を書くのは気が引けるが、
若い男女が通俗恋愛を経て結婚するまでの話である。
一流大学を出て一流会社に入ったイケメンが、
おなじ会社の社長秘書の美女をめとるまでの話。
ただし女の家は大工で父親は高卒と家柄は一流とは言いがたい。
イケメンと美人が恋愛して結婚するまでの話なんて凡庸に思われるかもしれない。
しかし、山田太一はそれを丁寧に描きあげて、
庶民の凡俗性をじつにうまくエンターテイメントとして昇華している。

恋愛結婚ってこういうものなのかなあ、と思ってしまうと結婚できなくなるのではないか。
当時はどうだか知らないが(いひっ、本当はいまの結婚事情も知らん)、
結婚はみんながしているし親もうるさいし世間の目も厳しいし税制上も得だし、
なによりあの恐ろしい孤独感や退屈感からするものではありませんか?
そんなに相手にカッカして、この人じゃなきゃいけないなんて思ってするものかなあ?
デートはやたら金のかかるメシや娯楽を共有するのではなく、
ただふたりでいるだけでも幸福と感じられるのが本当の恋愛、そして結婚ではないか?
正論だよなあ正論。打算で結婚なんかするなよ。世間体で恋愛するのかよ。
いまの時代でも十分に通用するメッセージであろう。
ふたりで川辺の土手に座って無言でいて、それでも幸福と思えるなら結婚しろ。

しかし、そう単純にはいかない現実の事情がある。
このブログで何度も書いてきたことだが、
山田太一ドラマは「金、肩書、顔」を描いているとも言えなくはないだろう。
いくら最高の純愛をして結婚しても、食えなかったら話にならない。
ひとりで生きていくことは坊主ならぬわれわれには無理だから、
「人の目」(肩書、顔)を気にせざるをえない。
このドラマの美女は仕事熱心な(カッカした)大工見習ではなく、
一流大卒一流会社員のイケメンと恋愛経歴する。
イケメンのほうだって迷いがないわけではない。
いくら美女でも結婚したら自由がきかなくなる。自分の運命が決まってしまう。
25歳のイケメン一流は新入社員から聞かれる。
この会社に「生きがい」はありますか?
そんなものはないのである。大企業の総務なんておなじことの繰り返し。
せめて恋愛結婚くらいがいまの「生きがい」かもしれない。
なんにもないからひとりぼっちだから自分は恋愛もどきをしているのかもしれない。
この先になにがあるって言うんだ?
こういう醒めた視線は山田太一が愛読していた福田恆存の影響かもしれない。
(福田恆存には「生き甲斐といふこと」という本がある)

リアリティっていうのは3K「金、肩書、顔」なんだ。
人間はいくら金を持っているか、肩書はなにか、顔の程度でおしはかられると言ってよい。
身もふたもないことを言うと、結婚は「金、肩書、顔」の釣り合いでしょう?
恋愛洗脳をドラマや映画から受けた大衆は、
自分は「金、肩書、顔」で結婚を決めたわけではないと言いたがる気持はわかるが、
しかしお金は大事だし、
相手が無職より一流会社員のほうが見栄えもするし(開業医ならなおさら)、
男はブスよりも美人のほうがいいし、若い子がいいし、
女もイケメンのほうがいいのではありませんか?
このへんが難しいところで、
山田太一はその微妙なところを数々のドラマで描いているのだが、
金があって、肩書もあって、顔もいいと男の場合なかなか恋愛結婚ができなくなると思う。
女に言いたくなると思う。おまえさ、おれのなにがいいの。
お金目当てか。歌舞伎役者の夫人という地位が目当てか。
顔が好きって、そんなのはおれより上のイケメンはいくらでもいるだろう?

山田太一ドラマは当時文壇の権威者だった山口瞳からの評価も受けている。
このドラマ「兄弟」にいかにも山口瞳的なパパ世代のセリフがある。
何度も動画を繰り返して聞いた当方の耳にしたがい紹介する。
むろんのこと引用は発話を一語も変えていない。
恋愛結婚する両家が一同面会する場面でのパパのセリフだ。
まず娘をやる大工のパパから(高卒で学歴劣等感情あり)。

「しかしまあ、ひとりの人間がふたりになり三人になり、
ひとつの家族をつくるってことはだれもがやっているようで、
ひとつひとつ尊いもんですよね。
まあ、わたしみたいに女房を亡くしてみると、
どいつと結婚したって大して変わりはねえような気でいたのが、
やっぱりわたしにとって、かけがえのない女房だったと、
しみじみ身にしみますよ」


これを受けて嫁をもらう側のパパはこう返す(夜学で苦労して大学を卒業した部長さん)。

「いやあ、わたしなんかあこがれながらおよばないわけですが、
ひとつの家庭を、その人間[配偶者?]のためにつくりあげることのできないものに、
『本当の生活』はないんじゃないかと、おりにふれてそう思いますな」


仮定の話として、よしんば、かつての共産党員なら、
おいおいおい、結婚して家庭円満ならばそれがそれだけで「本当の生活」か? 
と怒鳴りだしたくなるのではないか。
わたしにもバカヤロウと大声で叫びたくなるイビツな精神がある。
それが、そんなものが、その程度が、生きがいのある「本当の生活」かバカヤロウ!
むろん、作者の山田太一にもあったことだろう。
しかし、学友の寺山修司のような生き方は「本当の生活」をバカにしている。
みんながみんなそんなことはできない。

木下恵介アワー山田太一脚本の「兄弟」が放送された時期は昭和44~45年。
くだらぬ私事を書くと、両親が恋愛結婚した時期でもある。
わたしは17年まえ母親から目のまえで飛び降り自殺をされた。
なんでこうなったのか知りたくて両親の青年時代の日記までさかのぼって探索した。
ドラマ「兄弟」を見て、両親の恋愛結婚のことを思い返した。
若いころの父は本当にもてなさそうな「九州の片田舎」から出てきた平凡人。
法政大学を出たのだけが誇りくらいの吃音その他コンプレックス満載の小男。
長所と言えば、くそまじめで手に職がないからという理由で、
家にも帰らず食堂で寝泊りしながら限りなく24時間近く働く仕事人間。
母と出逢ったのは職場の同僚としてである。
母の実家は、父があいさつに行ったときにひるんだというくらい貧乏。
祖父はうさんくさい健康食品を開発販売していたが、あれは赤字だったのではないか。
祖母が保険のセールスがうまく、それで綱渡りのような生計を立てていたようだ。
貧乏家庭出身の母は当時、ドラマ「兄弟」のように婚約予定者がふたりいたようだ。
母は結婚相手を自分で決めず、敬慕していた富裕事業家の叔母に決めてもらう。
「男は大学を出ていないとね」「男は働き者がいい」
こういう理由から母と父は結婚にいたったらしい。
結婚式から婚姻届を出すまで1年かかっているという不穏な事実もある。
(母がコピーしておいた)若いころの父の日記は恥ずかしくて哀しくておもしろい。
本当に真心こめて昭和の働き者の青年は母のことを熱愛しているのである。
こんな恥ずかしいものを読んじゃっていいのかよと当時(母自殺時)は思ったが、
昭和44年放送の恋愛ドラマ「兄弟」を見ると、みんなけっこうふつうに
あんな恥ずかしい恋愛感情を異性にいだいていたのかもしれない。
ありがちだが家族トラブルの端緒は嫁姑問題で、
そこからはガタガタ落下の一途。

母が父を選択しなかったら、いまのわたしは生まれなかった。
父が母に恋愛感情のようなもの(錯覚?)をいだかなかったら、
この文章は書かれなかった。
山田太一ドラマの影響で結婚したものも、独身をつらぬいたものもいるだろう。
このドラマ「兄弟」に感動した奈良のお医者さんから逢いたいと言われた。
みんな知らない人と逢うのは怖いと思うが、恐怖よりも好奇心が勝った。
お医者さんもわたしなんかと逢うのだから、それをどれほどリスクと感じられたことか。
山田太一ドラマの影響力は計り知れない。
氏のドラマのテーマのひとつは――。

一流は本当に一流か?

まさかはじめてお逢いする年上のお医者さんとあんなに気軽に話せるとは思わなかった。
わたしなんて母の自殺以降、人生ガタ落ちで四流、五流、それ以下の人間である。
交通費宿泊費はくださるという話だったが(それだけでも感謝涙喜、万歳三唱)、
別途にお金までいただいた。
いつ封筒をあけるべきかだいぶ迷ったが、
すすめられたように5百円高い特急に乗り、そこで紙幣を数える手が震えた。
「応援している」の意味がわかった。応援されていると感じた。
こんな文章を書ける人は応援したいと言われた。応援されている。
「本の山」に何度も書いたが、このブログ記事の最初にも書いているが、
人生をリアルに描く山田太一ドラマは冷たく見れば「金、肩書、顔」である。
しかし、みんな「金、肩書、顔」だけでいいのかと思っている。
「金、肩書、顔」と目に見えるものに逆らうのは人情であり熱情だ。
むかし山田太一ドラマ=「金、肩書、顔」と定義したことがある。
このたび定義を改める。

山田太一ドラマ=「金、肩書、顔」vs「人情(熱情)」

一流大学を出て、一流会社に入った男から求婚された大工の娘が不満顔で言う。
相手からカッカしたものを感じない。1回きりの人生。カッカしたいではないか?
それが「生きがい」というものではないか?
きっと昭和44年は母も父もカッカしていたのだろう。
カッカしたい。いきいきしたい。でも、どうしたらいいかわからない。
カッカしたいよ。いきいきしたいよ。だれかと逢いたいよ。
ユーチューブで「兄弟」を違法視聴。
お金をいただきながら山田太一ドラマへの理解が深まり、こんなことがあるんだなあ。
本当に人生はなにが起きるかわからない。
もしかしたら平凡で退屈な日常のなかにも、
よく見れば注意を払えば「ありふれた奇跡」が満ちているのかもしれない。