1993年(平成6年)にNHKで放送された90分×3回の山田太一ドラマを視聴する。
9年まえにシナリオで読んでいて、ストーリーを細かくブログに書いていたため、
かなりのところ内容を記憶しているのである(映像は見ていないが)。
あらすじ紹介って一見かんたんな気がするけれど、じつはそうとう難しい。
40歳を過ぎてもだれにもほめられたことがないから、
自分で自分を厚顔にも礼賛すると、わたしは物語や書籍内容の要約がうまい気がする。
来年1月10日以降また無職になるけれど、
仕事がら本を読む必要がある人で、
しかし忙しくて本を読む時間がないという高収入の人に雇ってもらえたら。
本を読んで内容を正確に短文でレポートする仕事があれば速読はできるし、
読書経験豊富な当方にはぴったし、なんちゃって。
法人収益を税金で取られるくらいならわたしを有効利用するのも手ではないか?
まあ、世の中そんなに甘くないのは知っているつもり。

山田太一ドラマ「秋の一族」は孤独な人たちの物語。
唯一、孤独ではないのは、
美人の女房(原田知世)が臨月で出産目前のイケメン工員(大鶴義丹)。
ふたりが電車でラブラブハッピーを見せつけている。
孤独な会社員がいて、それを見て腹が立って、足を出して臨月の妊婦を転ばせる。
それを見ていたのは夫のイケメン工員だけだった。なにをしやがるんだ!
ブルーカラーの大鶴義丹は研究所会社員でホワイトカラーの男性をボコボコにする。
全治、4ヶ月だかなんだかの重傷を負わせてしまい収監される。
示談も可能だが、それには謝罪と医療費実費、示談金100万が必要だという。
本当に悪いのはあっちだろう? 
どうしておれが謝罪して金まで払わなきゃいけないんだ?
しかし、証拠もないし、証人もいない。
大鶴義丹は「正しい」こと「本当」のことを求めて、
臨月の美人妻がいるのに示談に応じようとしない。
このままだと実刑である。

大鶴義丹の父は元商社マンだったが、リストラされいまはパート(緒方拳)。
母は10数年まえ、自分の人生を生きたいと
夫と子どもを捨ててシンガポールで成功した女性実業家(岸恵子)。
久しぶりに日本へ帰ってきていたというタイミングもあり、岸恵子は
いろいろ元夫(緒方拳)、息子(大鶴義丹)、息子の嫁(原田知世)の世話を焼こうとする。
緒方拳は無職で孤独なため、ほろっとしかかるが、
岸恵子から5、600万融通できないかと言われ現実を知る。
この家を担保にしたら銀行から5、6百万借金できるでしょう?
さんざん夫たる自分を罵倒して、いわば家族を捨ててシンガポールに行った女性は、
いまむかしを懐かしむようなことを口にしながら、
しきりに接近してくるが結局のところ目的は金だったのか。
ドラマのラストは原田知世が出産し、家族の結束の結果、
孤独な男性が自分の罪を認め、
ただただ「さみしい」からという理由だけで、
緒方拳は元妻の岸恵子に金を工面してやり、復縁、商売の手伝いを申し出る。

わたしは世間とは金のことだと思う。世間知らずとは金の価値を知らないこと。
あらゆる問題を解決するのは法律でも人情でもなく、金ではないかと思う。
世間を知らないものほど、わたしのように人情びいきのようなことを口にして、
人生は金ではないというそぶりを取りたがる。
しかし、人生も世間も、どこまでもどこまでもお金の話とも言えるのではないか。
お金の関係で人と人は絆(きずな)をつくり、そこから人情のようなものが生まれる。
あらゆる人間関係の出発地点はお金と言えるくらい金銭は重要なものだと思う。
しつこいほど繰り返すが、世間とは金銭の価値体系の総合であり、
世間を知る処世人とは金の価値(同時に無価値)を限りなく知った人であろう。
人が自分に近づいてくるのは、自分の魅力ではなく、
裏には金銭事情があるのだから、うぬぼれてうっとりするんじゃねえ。
金がある人のもとに人は寄ってくるが、世間とはそういうものである。
わたしはほとんどだれからも相手にされないが、
それは金がないためだと思えば、おのれのプライドは傷つかない。
お金がうなるほどある成長企業の敏腕経営者、
シナリオ・センター小林幸恵社長のもとには人がひっきりなしに集まり称賛礼賛の嵐だが、
かの女性成功実業家(実際は二代目の利権保持者だが)に
「厚顔」と罵倒された格下の、貧困が足元まで迫っている中年のことはだれも関心がない。
金を持っているやつが偉いのである。それが世間を知るということだ。

山田太一さんとおなじでわたしもセリフ重視派である。
俳優はシナリオ通りにセリフを言えと思っている。
しかし、視聴者はシナリオ台本がない。
そのためどうセリフが言われたかは視聴者それぞれが解釈するしかない。
「正しい」セリフはあるのだが、その通りに役者が言っているかもわからず、
さらに視聴者がセリフをそのまま聞いているとは限らない。
どのセリフをどう聞くかは視聴者の自由と言ったら聞こえはよいが、
人生経験や言語体験(読書体験)に支配される。
工場労働体験のないものとあるものとでは、おなじ工員のセリフも聞こえ方が違うだろう。
結婚体験のあるなしもそうだし、出産経験、離婚経歴も解釈に影響を及ぼすだろう。
ほぼシナリオで内容を知っている山田太一ドラマ「秋の一族」を視聴しながら、
わたしは自分の耳に残ったセリフをメモに記録していた。
シナリオを見返したら、「正しい」セリフはわかるのだ。
しかし、あえてそれをやらないで、
わたしがわたしの人生来歴から耳にしたセリフを書き残してみようと思う。
それは事実ではないかもしれないが、わたしにとっては真実である。
わたしはこのようにセリフを聞いたという意味においてだ。

「もっと現実的になっているかと思った」
「本当はどうだったかなんて関係ない。証明できなきゃ正義ではない」
「意地はってなんになる?」
「ちゃんと幸福になってやる」
「正しいことのためにがんばるなんて、ドラマの主人公みたい」
「どっちが正しいのか?」
「(元商社マンの)おれは仕事をクビになりパートをやっても仕事人間になる」
「事実を知りたい」
「証拠がなくたって信じるってところがどうしてないのさ?」
「(ホテルの)格を落とすと足元を見られる」
「親ならなにをしてもらっても当然なの?」
「人生、正しいことが通らない」
「クビになって(そのうえさらに)しょぼくれたくない」
「子どものことを心配しないで、自分、自分、自分」
「さみしいんでしょう?」
「いいか、常識では――」
「ものすごく人間ってひとりぼっちなんだなあ」
「立ち入らなけらば、ブルックラーが好きでもいい」
「(あなたの)役に立ちたい。本当のことを言わせてみたい」
「女性が怖い」
「(ドアを、こころのドアを)開けてください」
「本当は(人間みんな)バラバラ。そんなものよ」

わたしは孤独感の強い、さみしい、ひとりぼっちの人間で、
しかしドアを開けたくて人に立ち入ってみたいところもたぶんにあり、
そういうことをして相手から拒絶され、おのれの非常識、世間知らずを恥じ、
もういやになっちゃうと思うが、
そういう自分のような人間を描いた山田太一ドラマを見て、
「人間の喜びと悲しみ」とうめきながら、生きているのも悪くないと自分をごまかす、
めんどうくさい自意識を持った、ありがちなタイプの人間なのだろう。
晩秋のいま視聴したドラマ「秋の一族」はよかった。
3日働いたあとに晩酌しながらドラマを1回ずつ全3話見て、
休みの今日つまらぬ感想を書いた。しみじみ悪くない。

(関連記事)
「秋の一族」(山田太一/「月刊ドラマ」2003年6月号/映人社)

1985年(昭和60年)に日本テレビで放送された単発ドラマ。
そこそこ収入のあるもてない中年男女が結婚相談所を通じて出逢い、
お互いの趣味や嗜好がまったく合わないのにもかかわらず(双方相手をお断り)、
しかしほかにだれにも相手にされないのでひとりでさみしくてたまらなく、
この孤独の寂寥感から逃れられるのなら喧嘩相手でもほしいと思って、
なかばやけくそに恋愛感情抜きに結婚する身もふたもない物語である。
このドラマに登場するもてない中年男とおなじ41歳だが、
いまだに世間のことがよくわからないから山田太一ドラマをおもしろく感じるのだろう。
世間知らずなため正義の朝日新聞の主催する朝日賞を受賞した、
当方から見たら世界最高レベルの劇作家の作品から世間(日本社会)を学ぶことが多い、
教わっているというよりも、こちらの人生経験が増したため独学できることが増える。

世間というのは感情(人情)と契約(常識)のバランス感覚なのだと思う。
人間関係は人情と契約に二分されると言ってよい。
わたしは今年派遣で働いていた大手スイーツ会社で契約上(法律上)は
してはならない強制休日を命令されたが、
そこの会社へはいろいろな人情で働いていたので怒りを感じなかった。
契約ではなく(そもそも契約がよくわからない派遣雇用)人情で働いていた。
さすがに年齢と性別からして近所でもっと条件のいいバイトは探せただろうが、
派遣会社の人や同僚に人情を感じていたから双方の自然な着地点まで
毎朝早起きして交通費も全額出ないなか、日給約7千円のために働いていた。
むかしは雇用関係は義理人情が主流だったけれど、
いまは契約重視(コンプライアンス)でしょう?
わたしはコンプライアンスよりも義理人情のほうが肌身に合っているが、
しかし去年バイトした大会社子会社で上司からプライベートの酒席で、
毎朝1時間サービス早出を1年くらいしたら契約社員にしてやると言われたときは参った。
30分でもいいと言われた。実際、タイムカードのないその職場で、
副工場長は毎朝30分以上サービス早出をしていた。
「やる気」がないと叱られることが多かったが、
世間知らずのわたしは「やる気」がサービス労働のこととは知らなかった。

同僚の60歳を超えるバイトのチーフは、
毎朝2時間レベルでサービス早出をしていた。
西洋的契約とは異なる日本的人情の世界に生きていたのだろう。
だが、どうしてもわたしは近所なのに毎朝1時間早く出社することができなかった。
そこは大会社だけあってバイトも有給を取れたのである。
コンプライアンス重視のいまでさえバイトのぶんざいで有給を取れるところなんてあるか?
契約期間中にもかかわらず退職勧奨をされ(まあ威圧恫喝されたわけだ)、
世間知らずのわたしは自己都合退職(一身上の都合で……)に追い込まれたが、
ありがたくもバイトにもかかわらず法令通りに有給を全消化させてくれた。
わたしの直近の先輩のYさんも恫喝退職勧奨で辞めさせられたそうだが、
彼はおそらく有給をぜんぶ使えなかったのではないか。
いきなり工場長からまったくいきなり突然に退職勧奨されたのだが、
その直前に副工場長とプライベートでの何度もの酒席を経て、
「これからはおれと土屋さんとは友達だ」と言われ、
私用の携帯電話の番号を教えてもらっていた。
友情は契約(雇用)関係ではなく、人情の世界である。
わたしが工場長から退職勧奨をされたとき、副工場はなにもしてくれず、
本社に抗議したらペーパーの面において、
「友達宣言」をした男は正社員として所属する大会社の味方をしたが、
こちらとてそれに絶望するほどの世間知らずではなく、
やっぱりなあと思っただけである。

答えのない問いだが、人間関係ってなんなのだろう?
職場では親しくしていても、
一歩そこを離れたら怖くて口のきけない関係も多々あるわけだ。
職場では夫婦のように仲のよかった男女が、職場以外で逢ったらどもりどもりになる。
職場では先輩後輩の関係からお互い抑制していても、
プライベートで逢ったらめちゃくちゃ本音を言い合える親友になるかもしれない。
むかしは雇用関係(契約)と人間関係(人情)をほどよく中和する飲み会や
社員旅行があったのだが、いまはそういう日本的行事は嫌われている。
雇用(契約)関係にあるあいだは、
わたしをクビにした工場長も女性チーフも威張っていられる。
しかし、近所でたまたま対面したら、そこはもうなんの関係もないから、
法律ぎりぎりのことができるわけである。そこでするかしないかは当人の人間信頼問題。
山田太一の好んでテーマとする孤独というのは人間関係が乏しい状態のこと。
働けば、契約(雇用)関係を結べば、どんな人とも接することができる。
だが、それは社会常識の領域の世界である。
契約関係では会話できる男女がプライベートでは言葉も
交わせないというのはままあろうし、それが世間の実相のような気がしている。
友情は仕事のような契約関係ではないからいつ切られても文句は言えない。
とはいえ、5年、10年の友情関係があったら、それは半端な雇用契約関係よりも強い。
どうして人が恋愛関係では不満で結婚したがるかというと、
結婚には不安定な恋愛にはない法的契約があるからとは考えられないか。
いまさらなにをそんな常識を指摘しているのかと笑われるのを承知でいう。
よくも悪くも人が結婚したがるのは法的契約による安心のためではないか。
結婚は感情(恋愛)と契約(法律)が複雑にからまった人間関係だからおもしろい。
おもしろそうなものはとりあえず経験したいのだが、相手がいない。

ドラマ「ちょっと愛して…」に登場する孤独な中年男は、
当時でいまのわたしの倍以上の年収があり、
ルックスも数倍いいのに(そりゃまあ俳優だから)いくら見合いをしても断られる。
孤独な中年女も仕事ができ、当時で男同等の収入があるのにだれにも相手にされない。
さみしい。さみしいから逢いたいと言われると、これはデートかもなんて思って、
忙しいなかわざわざ休みに男女は逢うが、お互い気に食わない。
男が誘って浅草の大衆割烹(とシナリオには書いてあったが実際は居酒屋)で
ふたりは昼から酒を飲む。女がいやだというのを男が無理やり誘った。
もてない中年男は光一で、もてない中年男は秀子。
光一と秀子は最初のお見合いでコーヒー1杯660円もするホテルのカフェで逢った。
断わって断られて、しかしふたりはさみしいから、ただそれだけで再会する。
下町居酒屋で真昼間から酒を酌み交わす、もてない中年男女。

光一「こういうとこ、いいだろう?」
秀子「ええ」
光一「結局そうなんだよ(と盃を出す)」
秀子「あ、失礼(と徳利をとる)」
光一「日本人が気取ったってはじまんないんだよ。ホテルとかいってさ、
 つっぱらかって歩いたって、白人が通りゃあ、ドーッと見おとりしちまう。
 そりゃそうなんだよ。ホテルってのは白人が考えたもんだろ、
 そういうとこは白人が似合うように出来てんだよ。
 日本人はこういうとこよ。こういうとこへ白人が来てみなよ。なんか場違いだろ。
 ところが、俺たちは、ピターッと決まっちまう。ハハハハ」
秀子「フフフ」
光一「パリとかロンドンとか、すぐそういうこという奴大嫌いなんだ。
 行ったこともねえくせに」
秀子「私――」
光一「あるんです、パリも、ロンドンも、ローマも」
光一「そんなもんは、どうせ三泊四日ぐれえで」
秀子「十七日間でした」
光一「似たようなもんじゃねえの。サーッと匂いかいで来たようなもんだろ。
 そのくらいで、行ったとかなんとか、すぐいいたがるのは、
 俺、まったくやんなっちゃうんだよなあ」
秀子「いいたがるわけじゃないけど」
光一「そいでもって外国の音楽なんか聞くんだろ?」
秀子「はあ?」
光一「聞くなっていうんだよ。無理するなって。
 本当にいいと思ってるわけないんだから」
秀子「そうかなあ」
光一「日本人はこれよ(と流れている歌のない歌謡曲を指し)こういうのは、
 シミジミーッと心に沁みてくるけどよ。外国の曲がよ、
 日本人に分るわけがねえんだよ(流れている曲に合わせて、途中から歌いはじめる)」
秀子「(複雑な思いで見ている)」


同年齢のおれは、もてない中年男の光一の気持がよくわかる。
3歳のころから親の見栄でバイオリンを習っていたけれど、
西洋古典音楽にはまったく興味がなく、
けれども日本の通俗歌謡曲だったら数度耳にしたらすぐにバイオリンでひけたからさ。
もしかしたらものすごい神童だったかもしれないわけだ~よ(妄想の自覚あり)。

もてない中年女はおなじく独身の女友達に愚痴をもらす。
山田太一の人間関係への認識はとても鋭く、
もしかしたらこの親友の同年代独身女性が結婚を阻害していたかもしれないのである。
結婚したら(友達)付き合いは悪くなるでしょう?
あいつが結婚したのなら自分も、
と影響を受けやすいのがわれわれの長所でも短所でもある。
仕事ができる、しかしもてない中年女は、
もてない中年男の領域(居酒屋)に連れ込まれたのが悔しい。
バカにすんなよと思う。秀子はそれをおなじく独身の女(雅子)に向かっていう。

秀子「いいたいこといわれて、どうしてたと思う?」
雅子「ひっぱたいた?」
秀子「笑ってたのよ。ほほえんでたのよ。 微笑浮べて、いいたいこといわせてたのよ。
 ここンとこ十年近くなかったデートのチャンスをこわしたくなくて薄笑い浮べて、
 バカみたいにうなずいて、感心したような顔してたのよ(と泣いてしまう)」
雅子「分るよ。その気持分るよ(と肩を抱く)」


いまも原則は変わらず、女は落としたい男がいたら、
男なんて基本的に自慢話しかしないから、それをフンフン聞いていたらよろしい。
逆はおそらく真ではなく、男は女の話をフンフン聞いていたら、
そのくらいの男と見下され、ほかへ興味をうつされることだろう。
さてさて、もてない中年男の光一がアグレッシブなのである。
どうしておまえはそんなに結婚したいのかさっぱりわからない。
もてない中年女(おばさん)の秀子はデパートの紳士服売場の主任だが、
そこに光一が来たら(恋愛=人情とは別に契約=仕事として)対応しなければならない。
おそらくこういう人情と契約の定まっていないところを利用した商売が、
キャバクラやクラブ、ラウンジ、ホストクラブなのだろう。
契約でありながらどこか人情が割り込める余地がある。
そういうところを利用するしか、
いまは(お見合いがないから=世話焼きババアがいないから)
プライベートで男女はめぐりあえない社会構造になっている。
職場でちょっとなんか言おうものなら、すぐにセクハラ、パワハラだ。

話をドラマに戻すと、もてない中年男女はお互い好きな世界にいたらいいのに、
周囲の視線(これを常識とも世間ともいう)にこらえきれず、
好きでもない相手の世界に踏み込んでいく。
同年齢かつ同種族の光一がフランス料理店を嫌いなのはとてもよくわかるが、
彼が偉いのは中年女(これをババアという)
に誘われたら大嫌いなフレンチにも金を払うところだ。
こじゃれたフランス料理店に誘われたもてない男はババアに一発かます。

光一「笑わしちゃいけねえよ。
 大体、こんな店、お前、ほんとに好きか?」
秀子「ほら、またそういうこという」
光一「これで三千円だと、サラダが七〇〇円だと。
 バッカバカしくて食ってられるかよ」
秀子「雰囲気を買うのよ」
光一「何処がいいんだよ?」
秀子「いいじゃない。灯りひとつとったって」
光一「鏡見ていってくれよ」
秀子「そんなことよく。よくそんなこといえるわね」
光一「俺は、そういうたちなんだ。気取ったりされると頭へ来るんだ
 (自制しつつとまらなくなり)フランス料理なんてのは、
 似合う奴が食えばさまになるけど」
秀子「へえ。じゃ格好の悪いフランス人は、フランス料理食べちゃいけないの?」
光一「当り前じゃねえか」
秀子「当り前だって。無茶苦茶じゃない。無茶苦茶、よくもまあ」


光一はまるでそっくりそのままおれみたいなやつなので笑える。
しかし、我輩さまよりもよほどましな顔面偏差値と収入を持つ、
しかも結婚願望のあるやつが結婚できないのはおかしいと義憤にかられていたら、
最後はもてない醜い中年男女がいやいや結婚したみたいで、
残尿感のようなもどかしい気持はあるものの、ある意味でのカタルシスは得た。
41歳になってもテレビドラマから学ぶことがあるなんて、
ぼくちんはどれほど世間知らずのお子さまなのだろう。

1.山田太一ドラマ=世間(会社)=人情&契約

2.山田太一ドラマ=結婚(家族)=恋愛&契約


(関連記事)
「ちょっと愛して…」」(山田太一/「月刊ドラマ」2003年6月号/映人社)
2001年にフジテレビで放送された2時間ドラマ。
肉体労働者の38歳の女性(田中美佐子)が11歳年下の元ホストのイケメンを、
恋愛はめんどうくさいからという理由で、金銭の契約で交際するものの、
彼から「結婚する」という嘘の告白をされ動揺するが、しかし、
結局はイケメンも11歳年上の田中美佐子に恋していることがわかり、
年齢差収入差こそあれ美男美女が結ばれるというハッピーエンド物語。
山田太一さんはよくもこんなアベコベ物語をつくれるものだと感心した。
常識では肉体労働をするのは男で若い女を買うのは男でしょう?
しかし、このドラマでは女が肉体労働をして稼いだ金で若い男を買う。
男は男らしくしろとか、女は女らしくとかいやじゃん。
そうしないと世間ではうまくいかないのはわかるが、けれどにもかかわらずそれでも。
どうして男女がどっかに行ったり飲んだりして男が金を払わないといけないの?
わたしの実際の顔を見たらふざけんな嘘をつけと大笑いされるだろうが、
わたしは女性との交際費で相手に出してもらったことのほうが多い。
いまでは肉体労働は男がするものとあきらめているが、
むかしどうして同時給で男ばかりきつい仕事にまわされるのか不服だった時期がある。
男は男らしくしなくてもいいんじゃないか? 女は女らしくしなくてもええのやないか?
そういう非常識なドラマをむかしフジテレビが放送した。

いいドラマだったと思う。本当にいいドラマだったと思う。
だから、シナリオを参照して見返したりもしているのだ。
リアリティーってなんなのだろう?
38歳の外壁クリーニング会社の共同経営者、バイトはふたり、それが田中美佐子である。
田中美佐子の飼う(買う)のは、ホストクラブで出逢ったイケメン27歳。
条件は1ヶ月の家賃+生活費15万。
見た感じ最低でも家賃は5万、生活費15万、交際費10万。
そうなると月30万の遊興費の支出だろう?
いくら収入があったら、月30万以上も払って若い異性を買えるのだろう?
わたしは派遣で出逢った早稲田政経卒のエリート会社員から、
「土屋さんはお金の話しかしない」と言われたくらいお金に興味がある。
金銭欲はさほどないが(?)、世界(世間)はお金だという認識が強烈にあり、
このため、世界・世間=お金に尋常ならぬ好奇心を持っている。
はっきり言って、お金ほど関心のあるものはないかもしれない。
いったい毎月いくら金が入れば、年収がいくらなら、
若い異性を月30万払って買える(飼える)のか?
あそこは有限会社だろうし、バイトもふたりだし、経営規模から考えて、
どうしたって田中美佐子は若いツバメを買えないような気がする。
ちなみにこのドラマの演出をしたのは、
山田太一さんのお嬢さんでフジテレビの超絶エリート、
まさに世間を知らないという言葉がぴったしの、
おいしい人生を満々遊歩してきた一流も一流、
育ちも学歴も収入も超一流の宮本理江子女史である。
ちなみに弟さんの自称撮影監督某氏は、
あのあいどん先生からもバカにされるくらいの高卒低収入芸術家(だがイケメン)。

このたびフジテレビの超絶エリートで芸術家でもあり、
結婚もして子どもにも恵まれているスーパー成功者の宮本理江子さまが
ご監督をなさったお父上のシナリオ作品を見て、
山田太一作品としては感動をしたがお嬢さまのお嬢さまぶりにウフフンだ。
お金がわかっていないんだよ!
住んでいるところ、食うもの、着るもの(以上3つは演出の領域)で非常に脇が甘い。
おまえ、お金に苦労したことがないんだろうというのが、もろにばれてしまう。
いい家庭に生まれて、いい学校に入って、いい父親のコネでいい会社に入って、
いい結婚をして国からも芸術賞をもらって、いい人生を歩んできた女はいいなあ。
わたしも世間を知らないことではかなり能天気ぶりがあるけれど、
こんな当方から世間知らずを指摘されるエリートの宮本理江子は天才である。
シナリオは言葉しか書いていない。
それを映像化(実写化)するのは演出家の監督さまである。
そんなきれいな仕事をして、あんな大金をばらまける収入を得られるかなあ、
という疑問がそもそもわかないのだろう。
フジのエリートだったら年収1500万くらい当時でいっていたのか?
しかし、手取りはいくらだ?
夫婦でダブルインカムだったら若い男を買える(飼える)くらいの余裕はあったのか?

わたしは世間(=お金の価値)をよく知らないというコンプレックスがある。
このため、他人のそれにも嗅覚鋭く気づくのだろう。
月15万って、週5で必死で働いてわれわれがきつく汚い仕事をして得られる収入よ。
そっから家賃を払って、税金を払ったらなにも残らない。
わたしの労働環境では、みんなそんな感じで細々と、しかしそこそこ明るく生きていた。
そこから見ると月30万若い異性に払える仕事が、
あのきれいな外壁クリーニングだとはとうてい思えない。
――おれさ、いま最高に最低にいやな顔をしているんじゃないかしら?
自分は世間を知っているというような、鼻持ちならないドヤ顔をさ。
わたしはとてもとてもそんな偉そうなことを言える庶民ではありません。
むしろ、宮本理江子さんのほうが世間を知っていて、だから女の夢のようなドラマを、
だれも軽んじられない巨匠・山田太一のシナリオに逆らって演出したのだろう。
フジのエリートの宮本理江子は父親のシナリオをいくつも無断で改変していた。
ここも変わっている、ここも変えたのかといくらでも指摘できる。
業界雑誌「月刊ドラマ」のインタビューでオヤジの山田太一は、
セリフを変えなかったからそれでいいと言っていたが、
綿密に検証してみたらベテランの小林稔侍、渡辺えり子は、
無数にセリフを自分の言いやすいように言い換えていた。
田中美佐子と要潤はセリフをシナリオ通り正確に言っていたのとは対照的だ。
フジテレビのエリート女性演出家は、
巨匠のシナリオも変えられる度胸自慢をしたかったのか?
それは父親だから怒られないという甘えがあったのかどうか、
父娘ご両人以外はわからない。

2017年にこのドラマを見たときには、痛快のひと言だが、
2001年に放送されたときに視聴した自分の感想はわからない。
インタビューによると山田太一は、
当時流行していた援助交際に刺激されてこの逆転物語を思いついたという。
ちょっと金がある中年男が女子高生を金で買うのなら、
アラフォー女子が若いイケメンを金で買ってもいいのではないか?
よくはないかもしれないが、そういう現実もあるいはありはしないか?
40前後の性欲ってどのくらいあるんだろう、男も女も?
そんなに性欲、みんなあるんすか? 
と仰ぎ見るような感覚がドラマ作者からは感じられる。
一般的に性欲は男のほうが強く、だから女を買うとされているが本当はどうなんだろう?
アダルトビデオとかどこまでが本物なのだろう?
いまは女の性の売値が安いけれど、それを見た血縁のものはどう思うのだろう?
娘のAVとか母親のAVとかへたをしたら見てしまう可能性があるわけでしょう?
田中美佐子だって若いころにヌードになっているが、
それを見た血縁者はどう思うのだろう?
若いころの田中美佐子のヌードって、いまの若い子の裸よりもよほどソソルよねえ。
このドラマを2017年に見て、あの人って田中美佐子に似ていると気づいた。

38歳の田中美佐子は2001年に「恋愛は面倒くさい」という。

「大体、こんなはずじゃなかったの。恋愛とかさあ、そういの、
面倒くさいし、信用できないし、ろくなことないから、
パッとね、わり切って、金銭払った分だけのつき合いって
――そうすりゃあ、相手がどう思ってるかなんて関係ないし、
払った分サービスして貰って、倦きたら切る。
そういうの、いいと思ったのに――今だって、
愛しているとかそういうんじゃないかもしれないんだけど――まいったわ。
なんか、穴があいたみたいになって――なにやってもむなしくて――」


わたしは義理人情とかそういう世界は大好きだけれど、
それは自分がすべてを金銭化している醜さの裏返しなのかもしれない。
わたしは自分でもいやになるくらいお金へのこだわりと無頓着さが並行して同時にある。
お金の話が大好きだから、人情の世界に逆説的にあこがれるのだろう。
女とはつねにワリカンかおごってもらう。おごったら援助交際になっちゃうじゃん(笑)。
男らしくないのだろう。
いまではサイゼリヤやジョナサンならおごる(かっこう悪さをさらに出している自覚はある)。
このドラマでは男らしい50歳の小林稔侍がヒモの若いイケメンに説教するシーンがある。
男は男らしくしろ。男は仕事をしろ。
結果、仕事をクビになって女房子供から逃げられ、
田中美佐子の運転する車めがけて自殺しようとするも、
それも気合いが足りないため失敗した小林稔侍(卓次)とヒモ(克=かつ)の会話。

卓次「なに考えてんだ。あの人から、金とったって? 男がそんなことするなよ」
克「女ならいいんですか」
卓次「女だって悪いよ。金とってそんなことするなよ」
克「――」
卓次「[ジュエリーデザイナーの夢を追っている若い克の](彫金を見て)なんだよ、これ。
 こんなことして遊んでんのか?」
克「仕事ですよ」
卓次「食って行けんのか?」
克「いけませんよ」
卓次「どうしようもねえじゃねえか」
克「金稼がなきゃ、どうしようもないですか」
卓次「当たり前だろ。甘いこといってんじゃねえよ。
 女から金貰って生きていけるほど世の中甘かねえんだよ。
 俺なんかずーっと、死んじまうんじゃねえかと思うほどずーっと働いて、
 妻子やしなって、それで(とドアの方へ)」
克「それで、どうしたんですか?」
卓次「それで?(と止まる)」
克「ずーっと働いて、妻子やしなって」
卓次「帰ろうとすると、なんかいうな」
克「馘(くび)ですか」
卓次「お前にいわれたくねえよ」
克「どん底だっていうから」
卓次「馘だよ、妻子に見はなされたよ。死んじまおうかと思ったよ。
 死ねなかった。これでいいか。楽しいか。ザマァ見ろか。
 いくらでも笑いやがれ(と出てドアを閉める)」
克「――」


ある派遣先で知り合ってもう一生逢わないだろう2歳上の男性のことを思い出す。
自分は本職は不動産の営業マンで妻子もいる優秀な人間である。
たしかに好人物で仕事も的確で、ほほうと思ったものである。
次の正社員の仕事も決まっていると言っていた。
しかし、仕事終了後の飲み会で、酔っぱらった彼は本当のことを口にした。
本職もなにもない派遣バイトだったし、次の仕事もじつは決まっていないし、
妻からは愛想をつかされてひとり暮らしであることを。
なんで男は男らしく強がらなければならないのだろう? 
弱音を吐く男や女に甘える男もいてもいいのではないか?
女々しく現実的に金銭にこだわると、恋愛も結婚も援助交際だろう?
金がない醜い中年男なんてだれが相手にするんだよ!
人生は金だ、金、金、金。
きっと山田太一もそう強く思っていたから、そんな自分が嫌いで、
そうではないふりをする自分のような庶民を好んで描いたのだろう。
きっとそうだろう。夢のためとかいって、
小遣い銭にもならないシナリオを、
何度も何度も上の言いなりに書き直す人への嫌悪感があったはずである。
わたしはお金の価値をよくわからない世間知らずだから、
山田太一ドラマが好きなのだと思う。同時にお金の話は大好きである。
女の話なんかよりもはるかにお金の話に興味を持つ。
でもでもでも、田中美佐子の若いころのおっぱいもええなあ。
女って自分の裸で欲情されるとどんな気がするんだろう?
そのことへの想像力がいちばんエロスを感じる。

(関連記事)
「この冬の恋」(山田太一/「月刊ドラマ」2002年3月号/映人社)
山田太一ドラマ「タクシー・サンバ」第2話「愛のかたち」の話をしたい。
1981年(昭和56年)にNHKで放送されたタクシー営業所を舞台にしたドラマである。
タクシー仲間の連帯の強さを描いたドラマという角度でとらえることもできる。
こういったら俳優に失礼になるのかどうか、
いかにもいかにもどうしようもなくモテなさそうなルックスの
タクシーの運ちゃんがいるのである。キャスティングとしては最高である。
病身の母がいるとかで嫁のキテがないが、あきらかにルックスがあるだろう。
何度見合いをしてもうまくいかない。
当時のタクシー運転手といえば、そうとう稼げる職業だったにもかかわらずだ。
そこで既婚中年の班長がおせっかいを焼いて、
これはお似合いではないかという若い女性(榊原郁恵)を見つけて、
そんなことをするのは人生で初だが見合いを設定してやる。
さすがにこのモテなさそうな男と若くてかわいい
榊原郁恵とは吊り合わないだろうと思うが(ミスキャスティング!)、
タクシー運転手と弁当の移動販売車のバイトでは収入的にはOKなのかもしれない。
当時は25歳を過ぎると女性は嫁のもらい手が減少したというし、
そのうえ女性の社会進出はぜんぜんだったから、
この程度で手を打てよというところが社会常識だったのかもしれない。
おかしいのは子持ち中年の班長さんがもう嫁との関係は冷え切っているのに、
同僚の若者に嫁を世話してやろうというところである。
モテない不細工と榊原郁恵は見合いではどちらも断ったが、
その後偶然にも再会して、まあこの程度かなあ、と付き合いを始め、
はああ、ひとりでいるよりはいいかと結婚しようということになる。
そのことを報告され怒るのが班長である。
自分が見合いを設定してやったのに断っておいて、
その後に結婚するなんてふざけている。
なにより憤懣を感じるのは、おまえらがまったく愛し合っていないのに、
お互いさみしいからというようないいかげんな気持で結婚しようとしていることだ。
そりゃあ結婚して数年も経てば愛はさめるだろうが、
結婚するときくらいこの女が世界でいちばん、
この男が世界でいちばんと思ってしろ。
おれはおまえらがそう思うまでこの結婚を許さないからな!
そういう障壁ができたことで盛り上がったのかふたりは愛し合い(本当かよ?)、
見合い結婚ではなく恋愛結婚をするにいたる。

もうひとつの愛のかたちは緒方拳である。
元エリート商社マンで仕事に夢中になって女房子供から逃げられた。
会社からも見放され、人間不信になりいまはタクシードライバーに身をやつしている。
たまたまタクシーに乗せた若い美女(大原麗子)が自殺願望を持っていることを知る。
金で解決できることなら金を貸そうと言い出す。いくら必要なんだ?
大原麗子は200万だと言うが、当時の200万円がいまのいくらかはわからない。
大金であることはたしかだろう。
大原麗子は悪い男につかまっているという。好きだという。
元プロ野球選手で脚光を浴びたが、2年で怪我をして引退。
しかし、華やかな過去を忘れられず地道に働こうとしない。
一発当てて世間を見返してやりたいと思っているのか、
元は社長秘書をしていた大原麗子を水商売で働かせ、
しまいには身体を売らせようとまでする。
なぜなら商売で失敗をして200万の借金があるからである。
いくら情がうつった男の命令でも見知らぬ男に身体を売るのはいやだ。
大原麗子が自殺をしようと思った理由である。
元エリート商社マンの緒形拳は120万しか貯金がない。
タクシー会社の社長に80万円貸してくれと頼むが断られる。
緒形拳は自分は人命救助をしたいだけなんだと言い張る。
たたき上げっぽい老社長は、緒形拳に向かってあなたは世間を知らないと言い放つ。
緒形拳はサラ金で金を借りてまで200万をつくり大原麗子に渡す。
そのかわりあの悪い男とは別れろ。もっと自分をたいせつにしろ。
金を渡したあと緒形拳は大原麗子と一発やる。
緒形拳は仕事に身が入り、いい恋愛をしていると呑気(のんき)なものである。
だがしかしけれども、大原麗子は元プロ野球選手とよりを戻してしまう。
借金はいつか返すと住所を書かない手紙をタクシー会社に託して。
大原麗子はイケメンでしっかりとした元商社マンの緒形拳よりも、
ろくでなしと言ってもよいプロ野球くずれのインチキ野郎を愛していたのである。
金や安定、ツラではなく自分の気持に忠実になった。
それを恋愛と言っていいのかはわからない。

いったいどちらが本物の恋愛なのだろう?
計算打算で見合い結婚を恋愛だと思い込み結婚するのと、
人さまの厚意の200万円提供を裏切り悪い男についていくのと、いったいどちらが?
むかしこのドラマ脚本を読んだときにはどちらもうさんくさかったが、
いまではどちらも本当にありえるようなことではないかと思う。
結婚なんてしょせんは「金、顔、肩書」の吊り合いでしょう?
むかしは世話を焼く人がいたけれど、いまは個人情報なんたらで人間関係が希薄になり、
結婚相談所を儲けさせるしかない。
そうなると相手を年収、顔面偏差値、会社レベルという数字で判断するしかなくなる。
いまは本当に希少ケースだろうが、
共依存のような数字を無視した「愛のかたち」もなくはないことを、うーん。
いまはとっくに縁を切って詳細は知らないが、むかしニートをしていたバカ男がいて、
そいつが女とよろしくやっているのを聞いて心の底からむかついたが、
そういう現実もあるのかと世間を知ったような気になったものである。
しかし、やはりドラマの元プロ野球選手には好感を持てない。
本当に相手のことを考えたら、自分と交際するのは損なのだから、
格が上の緒形拳が現われた時点で200万をもらい身を引くべきだったのではないか?
それが本物の「愛のかたち」ではないか?
さてさて、最後に根性が悪いことを書いておくと緒形拳は笑える。
人命救助、人助けをしたいと思って200万を女に渡して逃げられるのだから。
一発200万なんて価値のある女がこの世に存在するのかよ。
美人局(つつもたせ)に遭ったようなもんじゃないか!
しかし、もしかしたらこれが本当の本物の「愛のかたち」かもしれないのである。
愛情は金に換算できる(慰謝料!)というのは世界の真実ではないかもしれないが、
世間の実相であることをおそらく知らない大人はいないだろう。

元エリートの緒形拳(朝田)がたたき上げの老社長(大島)に借金を乞うとシーンから。

大島「こりゃあ、尋常な額ではない」
朝田「はい」
大島「貸すと思ったかい?」
朝田「あ、いや、ただ、いまの営業収入なら、無理すりゃあ、五ヶ月で返せます。
 御迷惑は、出来るだけ、かけません(一礼)」
大島「外国で――」
朝田「はい」
大島「随分きつい仕事をして来たということだが」
朝田「―― いえ、(と小さく)」
大島「やっぱり一流商社だねえ」
朝田「は?」
大島「世間を、知らない」
朝田「そうでしょうか?」
大島「(普通はとても)貸しませんよ。八十万は」
朝田「はあ(と目を伏せる)」
大島「返すかどうか、なんの保証もない」
朝田「しかし、返さなきゃあ、タクシーの仕事は出来なくなります。
 ブラックリストにものって、逃げ回ることをになります。
 八十万で、世間をせまくするのは、割に合いません」
大島「そんな事はあなた、なんとも思わないのがいくらでもいる」
朝田「はあ」
大島「理由を……聞きましょう」


世間知らずの緒形拳は大原麗子と出逢ったいきさつを話す。
タクシーに乗せた女が自殺をしようとした。200万必要だという。
自分は120万ある。あと80万あればひとつの命を救える、といったようなことを。
世間を知った苦労人の老社長は貸せないという。

大島「早い話、私が死のうとして、あなたが二百万貸すかい?」
朝田「死のうとした所に出くわせば貸すと思います」
大島「いい女でしょう?」
朝田「いえ――」
大島「言葉の端々で、相当いい女だってェことが分る」
朝田「まだ二度逢ったきりです」
大島「二度逢えば充分。私なんか一度で惚れた女が、いくらでもいる。ハハ、ハハハハ」
朝田「そんな――」
大島「女狂いに、金は貸せません。運転に、気をつけて下さい」


緒形拳はサラ金で80万を借り女に200万渡して一発やらせてもらい逃げられる。
そういう世間を知らないところがまるで自分みたいでうっとりするぜ。
ちなみにわたしは若く美しい大原麗子にまったくこころ惹かれなかった。
比較したら榊原郁恵のほうがいいけれど、
当方にはタクシー運転手ほど高額を稼げる甲斐性はない。
元プロ野球選手のような過去の栄光も、
一旗あげたいという野心も(むかしはあったがいまは)ない。
そもそも女をだまして惚れさせるような魅力がさらさらない。
女を利用して金を得るという世間知、交際術も持ち合わせない。
なんにもない、わたしわたしわたし。
同性愛者ではなく、男よりは女が好きだが、
そもそも特定個人に執着するということがほとんどない。
このため、こんな人間嫌いのわたしを夢中にさせた作家・山田太一は偉いのである。
しかし、そこは執着がなく、山田太一さんと個人的に知り合いになりたいとは思わない。
ちょっとお話しできるようなチャンスをかつて、
一部で有名な例のあいどん先生がつくってくれたが、直前で逃げた。
さて次はあいどん先生の推す「ちょっと愛して」を見ようか、
それとも「この冬の恋」を見ようか。
どちらもシナリオで読んでいるので、
テーマ(のようなもの)は「恋愛は本当か嘘か」であることを記憶している。
既婚の人はバツイチでもすごい偉いと仰ぎ見たいところがございますですね♪

1981年にNHKで3回放送されたドラマを視聴する。
去年のいまごろジェイコムの日本映画放送チャンネルで放送されたものを録画。
それを1年経ってからようやく観るのだから遅い。
すでにシナリオで読んでいたので、ついつい優先順位が後回しになってしまう。
いい大学を出ていい会社に入って
仕事人間の敏腕商社マンとして生きてきた男(緒形拳)が、
妻子に去られ会社から仕事を評価されず切り捨てられ(つまり挫折を知り)、
一流からそうではないとされるタクシー業界に入り(ひとりでできる仕事だから)、
かえって一流のエリートだった時代には思いも寄らなかった庶民の人情を知る――
という山田太一ドラマには類似したものが複数ある、いわば定番の物語である。
テレビを見るのは多数派の庶民だから、
ドラマは「庶民>エリート」「庶民>インテリ」を描くものにならざるをえない。
インテリやエリートが格下の庶民の美しさに感動するといったら嫌味だが、
それを自然に書けるのが山田太一の才能だったのだろう。
氏は早稲田を出て映画会社の松竹に入ったインテリでありエリートだが、
出身は庶民階層でたしか血縁で大学に行ったものはひとりもいないとどこかで聞いた。
庶民だからインテリにあこがれ難しい本を読むが、
おのれの生まれである身分階層=庶民をどうしても捨て切ることができない。
「タクシー・サンバ」を書いたころの山田太一さんはもう名が売れたライターだったから
きっと収入もそれなりにあったはずで、しかし、
こんな原稿用紙を汚すだけで大金をもらっていいのかというためらいもあったはずである。

どうでもいいわたしの話をすると、
タクシーの運ちゃんになりなさいよと言われることがある。
人の話を聞くことが好きだし、世間を知りたいならタクシーがいいよと。
ところが、光り輝くゴールドの運転免許証(AT限定)はあるけれど、
20年のペーパードライバーでいまやどっちがアクセルかブレーキかも忘れた。
土地勘もないが、いまはカーナビがあるが、それでも自信がない。
いまはタクシーはカーナビ完備だからベテランもなにもないらしい。
タクシーは嫌いでタクシーに乗るくらいなら1時間でも2時間でも歩きたいが、
よんどころない事情でタクシーに乗ると
ドライバーから身の上話をされることがちょっと異様なほど多い。
それも大病や身内の死といったディープな話をされるのである。
タクシーに乗るタイミングは絶対的な偶然だから、
これはだれにも仕組めないはずなのに、そういうことがどうしてかよくある。
わたしは人の話(言葉)を聞くのが好きだからいい世間勉強になる。
そうそう、このまえ近所で道に迷ったというおばあさんから、
家族の物語を20分近く立ち話でうかがったこともある。

インテリで当時エリート花形ライターだった山田太一は、
がしかし庶民派階級出身ゆえかならずやタクシーに乗ることに抵抗があったはずである。
しかし、仕事の必要上、乗らざるをえない。
たしか山田さんは車を運転できないはず。かりに免許を取っても運転がうまそうではない。
どうしてたかが売文屋にすぎぬ自分が、
タクシー運転手より高額のギャラを稼いでいいのか?
自分は庶民をだますドラマを書いて食っているが、
本当の世界つまり世間というものを知っているのはこういう人たちではないか?
そのような屈折した自らのインテリ性と庶民性の葛藤が、
山田太一にこのドラマを書かせたのだと思う。
脚本家はドラマを書くまえタクシー会社の取材をしたという。
忘れられない体験だったという。エッセイ「いつもの雑踏 いつもの場所で」から――。

「で、取材をはじめた。その取材は、十六、七年になる私の
ドラマライター暮らしの中でも、特別忘れ難(がた)い取材であった。
とりわけある中堅クラスのタクシー会社の営業所で一夜をあかした時の楽しさは、
以後つい何度も誰彼となく話したくなってしまうほどであった。
営業所の隅(すみ)に腰かけさせて貰って、三時すぎあたりから
ぽつぽぽつと帰ってくる運転手さんたちの仮眠所へ行くまでの動き、
会話をそれとなく見させていただいたのだが、
第一にあんなに明るいとは思わなかった。
朝の八時から深夜まで働いて帰ってくるのである。
疲れて、不機嫌に入って来るとばかり思っていたのだが、
日誌と金を持って入って来る運転手さんたちの誰もが、実に陽気なのにおどろいた。
一人だけ追突されて、客を病院に連れて行った人がいて、
その人はさすがに営業課長にがっかりしたような顔で説明し相談していたが、
あとは大声で、笑い声が絶えない。
計算を終えて課長に金を渡した人も、なかなか仮眠所へ行かない。
いなくなったかと思うと、自動販売機からカップ酒や缶ビールを買ってきて、
のみながら現れる。そして、その日にあったことだの、
次の休みにゴルフに行く話だのを大声で話す。
その会話の面白さに、私はほとんど顔をあげる暇がないくらいであった。
メモをとっていたのである。
次々と面白い「台詞(せりふ)が」出てくるので、
勿体(もったい)なくて書き落とせないという気持であった。
こういう運転手さんの生活を、みんな知らないな、と思った。家族の人だって知らない。
それをなんとかドラマの中で再現したいと思った。
出来たら一回分営業所だけでも面白く見せられると思った」


これは参与行為、
つまりインテリで同時に庶民派の山田太一の耳があったからかもしれないのだ。
人間は他人の目、他人の耳を強烈に意識するところもなくはないだろう。
その場にひっそりといたインテリでありながら楽天的で陽気、古い言葉だがネアカ、
軽薄とさえ言われかねない山田太一の耳が、場を明るくしたのかもしないのである。
山田太一は耳の感度が強い作家ではなかったかと思う。
タクシーなんてお客を乗せて降ろしての繰り返しである。
タクシーのみならず、海外勤務の商社マン(緒形拳)なら話は別だろうが、
基本的にどの仕事もおなじことの繰り返しでつまらないものである。
しかし、そのマンネリズムにもよく見れば、よく聞けば喜びと悲しみがあるではないか?
ちっぽけな喜びでも大笑いして、ちょっとした悲しみなんて笑い飛ばしてしまおう。
それが庶民に持って備わったおおらかさであり、生きる知恵ではないか?
小さな喜びでもおおげさに笑おう。ささいな悲しみなんか笑い飛ばしてしまえ。
それがなにごとも深刻に考えがちなインテリやエリートとは異なる庶民のちからだ。
踊れ。サンバでもルンバでも盆踊りでもいい。踊れ。笑え。なんでも明るく笑え。
しんどいときでも笑いを忘れるな。泣いてもいいが、そのあとに笑え。微笑を忘れるな。
踊るように生きられたらどんなにいいことか。
山田太一は固有の耳で聞いた言葉を自分の言葉に翻訳して、
ドラマ「タクシー・サンバ」を書いた。
わたしがどんな低賃金仕事でもけっこうおもしろがれるのは、
山田太一ドラマを深く愛してきたからかもしれない。いまも愛しているからかもしれない。
おかげさまで目と耳の能力が少しだけ上昇したのかもしれない。
朝日賞作家と自分を同等に置くのは恐縮だが、
わたしは山田太一とおなじで、
インテリの言葉も庶民の言葉もメモしたくなるようなケチでゲスな貧乏人根性がある。
まだまだ録画して視聴していない山田太一ドラマがある。
山田太一ドラマには始まりの定番台詞がある。それはなにかというと――。

☆「余計なおせっかいかもしれないけれど(立ち入っていいのかという迷い)」

(関連記事)9年まえにシナリオを読んだときの感想↓
「タクシー・サンバ」(山田太一/「月刊ドラマ」1982年1月号/映人社)

1968年~1969年に放送された全26回の
毎回30分の連続ドラマをジェイコムで一括視聴。
やっぱり切羽詰まるのがたいせつなときもあるのだろう。
もうジェイコムの録画機能が限界なのよ。
たくさん山田太一ドラマを録画していて見ないでためている。
もう録画できないって思ったら、
火事場の馬鹿力で13時間連続で朝から晩まで見ちゃうねえ。
録画していないから(再生して確かめられないから)集中力も桁違い。
久しぶりに本気になったような気がする。
まあ、13時間も連続して見(ら)れたのは、
この山田太一最初の連続ドラマがおもしろかったというのがいちばんの理由だろう。

放送されたのは昭和43~44年だからねえ。
家にこれまでなかった電話が引かれて、家族が喜ぶシーンがある。
えっ、昭和43年には電話が普及されていない中流家庭もけっこうあったの? って話。
いまは携帯電話さえ古くて、スマホ全盛の時代。
昭和51年生まれのわたしは携帯が壊れて、
またスマホではなくガラホを買ってしまったよ。
昭和43年には山田太一は34歳。
この初の連続ドラマで大成功したから脚本家として食っていけると算段を立てたらしい。
処女作にすべてが現われるというのは信仰に近いと思うし、
当時の時代風潮や、テレビ視聴者は庶民だからという関係もあるだろうが、
山田太一最初の連続ドラマを一括視聴して氏の人間観の根本に気づく。

「人間=さみしい、つまらない、むなしい」

これは平成になってからの山田太一ドラマにも共通する視点なので、
まさしく氏の基本としてある人間観であり、世界観なのだと思う。
世界ってちょっとでも考えるとむなしいもんだが、
そのむなしさをごまかすために学業や仕事に夢中になろうなろうとしているところがある。
むなしいから子孫の繁栄でむなしさをごまかそうとする。
さみしいが山田太一ドラマの基本音調で、
人はさみしいから恋愛して結婚して家族を作り、人に親切をするのだと思う。
「3人家族」でも「さみしい」「孤独」「ひとりぼっち」というセリフが頻出する。
むなしいやさみしいに比べてもっとも俗っぽいのはつまらないで、
人はつまらないから恋愛したり、人に意地悪(親切)したり、逢いに行ったりする。
人間って本当につまらない、さみしい、むなしい生き物だよねえ。
つまらないから人の噂話をして悪口を言い、どんな小さなグループでも政治が発生する。
つまらないから芸能人のゴシップを喜々として語り、自分も不倫したいなあと思う。
つまらないから恋愛のようなものにあこがれるが、
純粋におもしろい純愛はなかなかできず、
相手の収入、見栄え、職業、家柄などを計算して、
まあ、ちょっとでも脳みそがあればそんな卑しい自分にうすうす気づきむなしくなる。
ときに相手なんかだれでもよくなるくらい、さみしいと感じるときがある。
つまらないから恋愛(もどき)して、さみしいから家族(ごっこ)をして、
あんまりにも人生はむなしいから子どもでも作って、
自分は一生でなにか仕事をなしたと思い込もうとうする。
こういう人間たちの愚かにも美しく、そこにある喜びと悲しみにあふれた風景を、
34歳のころから山田太一はおもしろおかしく哀しく描き続けてきたのである。

むかしは電話やステレオくらいで大喜びできたのである。
いまのわたしはステレオもテレビもいらないし(パソコンでジェイコム視聴している)、
スマホを買える金くらいまださすがにあるけれど、
生活ぜんぶをネット世界に支配されるのがいやで、
わざわざガラホという名のガラケーを購入している。
会社で競争して出世するという夢もないし
(このドラマの竹脇無我のようにアフリカで商社マンとして大きな仕事をする!)、
栗原小巻のような若い美女と
純愛するという夢もないし(自分の卑小な外面的および内面的な現実を知っている!)、
政治にも宗教団体にも日本にも世界情勢にも熱い感情を抱くことができない。
もうすぐ衆議院選挙だが、わたしは政策も知らない公明党に入れるつもりだが、
おそらく創価学会は見返りを送ってくれるような人情をもう失っていることだろう。
人間はさみしい、つまらない、むなしいものだが、
いまは日本全体がさみしく、つまらなく、むなしいものになっている。
こういう自覚を昭和43年放送の山田太一最初の連続ドラマ「3人家族」から強く感じる。
なんとかこの「さみしい、つまらない、むなしい」にあらがおうと、
カッカしたくていきいきしたくて、いろいろしていないわけではないのである。
携帯電話番号を公開したでしょう。
なんでも来い、なんでもやってやる、なんでも見てやろうの世界である。
年齢的経歴的に難しそうな仕事にも応募しているが、まあ落ちる。
ナンパしろとか言うけれど、いまナンパしたくなる女なんているか?
アイドルなんかみんなおなじ顔じゃないか? つまんねえよ、バカヤロウ!

録画できないのでメモを取りながら視聴した。メモの一部から。昭和43年から。
「世間てえのはそういうもんだ」
「おれは負けるのが大嫌いだ」
「そこは因果をふくめて」
「しおらしいの」
「いまはビジネスマンにとってどこまで伸びるか大事なときだ」
「人を愛したことのない人間は、他人の愛を軽蔑できるか?」
「本当に人を愛したことがあるか?」
「あなたと話をしてみたかった(ナンパ)」
「人間の生きがいってなんだろうな――」
「さみしすぎる。穴が開いたようなさみしさ」
「バカかどうかは、仕事ができるかどうか」
「人間の値打ちとはなにか?」
「仕事の能力」
「一生懸命に努力するかどうか」
「他人の気持にどこまでなれるか(思いやり)」
「(この煙草を吸い終わるまでは)親が死んでも立てない」
「こういうことは顔を合わせては聞けない(だから電話)」
「あの人とつきあっておけば損はないからな」
「ひとりっきりでこの先、なにかいいことがあるのか」
「人を好きになったことがないから、わからないんだ」
「競争が嫌いなんだ」
「そんなことで世界が渡れるか」
「がんばれ、がんばれ。負けてたまるか」
「自分で自分のすることがわからない」
「40間近で妻子を捨て蒸発したのは、人生がはっきりわかってしまったからだ。
 自分の一生が見えた。幸福で平凡な生活だ。そういう一生がいやになった。
 自分のために生きたかった。おかげで世界は広がった。
 しかし、孤独というバツを受けた。さみしかった。
 死んだあとの痕跡がほしい。そう思ったとき、家族の意味がわかった」
「人が心配しているのに、どうしてあんたはそうなの?」
「ひとりぼっちだった(休日の)母を思って申し訳なく思った」
「自分の孤独と正面から向き合うと言うことも重要ではないか?」
「ひとりがいいなんて仙人みたいなことを言っちゃって」
「優秀なビジネスマンは腹芸もできなくてはならない」
「ひとりがめんどくさくなっちゃった」
「親なんてつまらない」
「ひとりで死ぬことの孤独を考えたらぞっとした」
「家庭へ逃げ込めたらと思った」
「人間なんてさみしいもんですから、ひとりがふたりになったことは、おめでたい」
「人生というのはえてしてこういうもの」

19歳で浪人をしている出来の悪い青年が同窓生の薬屋の美少女を好きなのである。
むろんのこと、美少女は相手にしてくれない。
青年がクリスマスプレゼントに贈ったブローチなど、
当日中に返されるくらいひどい仕打ちを受けている。
浪人生はおなじく浪人をしている見栄えはよくないが気のいい少女と出逢う。
人としてどうだかという問題はあるが、
クリスマスプレゼントとして薬屋の美少女から突っ返されたブローチを、
おなじ浪人をしている少女に贈る。たいへん喜んでくれた。
それがきっかけでふたりの浪人男女の交際はスタートする。
出来の悪い19歳は運よく2流大学に合格する。
1流半(明治)くらいのレベルかもしれない。
すると高卒で薬屋の美少女がわざわざ「おめでとう」を言いに来るのである。
それに困っちゃって嬉しくて舞い上がるようなレベルの低い元浪人生である。
交際相手の見かけはさほどの少女は美少女に喧嘩腰に言い放つ。
「(男を)振ったほうにも礼儀があるのではないか?」
とてもいいシーンだった。
女がさ、「あたしのことを好きなんでしょう」
と男をもてあそぶような天然の悪魔性っていいよねえ。
それをガンとはね返す見てくれこそよくないが、
気のよい、そして気高い少女もまた美しい。

わたしは山田太一最初の連続ドラマ「3人家族」を見た。
「さみしい、つまらない、むなしい」、しかしおもしろい人間たちを見た。
人間は「さみしい、つまらない、むなしい」から「どうしよう」と迷い、それがドラマになる。
「どうしよう」は「どうしようもない」のだが、
その「どうしようもないわたし」たちの喜びと悲しみを描けるのが、
50年近く業界で生き抜いてきた脚本家・山田太一の才能である。

「流星に捧げる」(山田太一/地人会/早稲田大学演劇博物館所蔵) 非売品

→2006年に地人会で上演された芝居台本。
わたしは2006年の3月14日に、
このお芝居を紀伊国屋サザンシアターで観劇しているのである。
そのときの感想もブログに書いている。
読み返すと、やけにそれぞれの孤独に目がいった感想になっている。
2006年3月といえば、当方もまだ29歳で途方に暮れていた。
友人どころか知り合いさえひとりとしていないほぼ完全孤独な状態だった。
だからこそ、若者の孤独めいたものに焦点を当ててしまったのであろう。
いま台本を読むと当時観たものとぜんぜん違うのだ。
山田太一さんは芝居稽古途中に台本を書き換えることはひんぱんにあると聞くし、
明確にここはわたしの観たものと違うと指摘できるところもあるから、
あながちこちらばかりが間違っているとはいえないだろう。
しかし、結局、芝居でも映画でも本でも、
受け手はそれぞれ違う世界を自分で描いているような気がする。
いまこの上演台本を読むと認知症(ボケ)やお金の問題がやけにおもしろく感じたが、
それはわたしの父も老いたし、こちらの金銭感覚も鋭敏になったからなのだろう。

ボケの問題に言及すると忘れるのがいいことなのか悪いことなのか。
いまのわたしは17年まえの母の死をかなり忘れていることで救われている。
それがいいことなのか悪いことなのかわからない。
よく東日本大震災を忘れるなとかいうけれど、忘れたほうがいい面もあるわけでしょう?
いまさら広島、長崎の原爆を忘れるなといわれると、
従軍慰安婦の問題を決して忘れない某国のような気味の悪さがないともいえない。
しかし、やっぱり「事実」は忘れてはいけないとも思うわけで、
いまわたしがこの芝居の観劇を思い出せるのはブログに記録を残していたからである。
しかし、台本と照らし合わせるとそれが「事実」かどうかわからず、
しょせん主観だし、それぞれ主観があることを考えると当時、
いろいろな観客がそれぞれの世界を描いたわけで、「事実」は複数あることだろう。
まあ、山田太一の芝居になんか金を出せるのは、
朝日新聞好きのえせインテリおばちゃんが多いようなイメージがあり、
そういう女性が観た世界とわたしの世界はまったく違うだろう。
それぞれの世界が違うから人はわかりあえないのだが、
それではあんまりにも孤独過ぎるので、
そういう孤独な世界観には耐えきれず、
人は相手の世界をわかったふりをするのだろう。
それぞれ世界(「事実」といいかえてもよい)は違うのだが、
それではあんまりにも孤独過ぎる。
人は相手のためを思って行動するのは、
その人が他人に自分のために行動してもらいたいからかもしれない。
そういってしまったらあんまりにも救いがないのだけれど。

ともあれ2006年3月14日のわたしは、
あの子にもあの人にも出逢っていなかったのである。
山田太一さんだって、まさか自分が11年後に生きているとも、
脳をやって半身麻痺になっているとも、どちらも想像できなかったのだ。
あたまをやると記憶が落ちるから、作家はいまどのくらい過去のことを覚えているのか。
記録を取っていなかったら、
今回の病気で消えてしまった「事実」めいたものがだいぶあるはずだ。
この劇を観てからだいぶ氏の講演会に行ったなあ。
思い出すのは、どこかで山田太一さんがいった(紹介した)、
人の為と書いたら「偽(人+為)」になるという話である。
人の為は偽であり、偽物であり、偽善のようなところがある。

芝居「流星に捧げる」は、
金持っぽい車椅子の老人が孤独をにおわせるようなことをネットの掲示板に書いたら、
「なにかお力になれることはないか」と複数の男女が集まってくる物語である。
かつては人間嫌いだった孤独な老人はそれを歓迎する。
老人が人間嫌いになったのは過去に交通事故で
車に同乗する息子を死なせてしまったからで、
いま妙に人恋しくなって見知らぬ人を歓迎するのはボケが始まったからである。
しかし、人のためを思って孤独な老人に寄ってくる男女が、
それぞれ本当は自分のことしか考えていないのがおもしろい。
だが、それでまだらボケの老人はけっこう救われているのだから世界はわからない。
芝居中、ボケた老人は、見知らぬ男女を、
それぞれ死んだ息子や妻、愛人に見間違える。
これって「事実」ではないけれど、
当人はもう逢えないと思っていた人と再会できて
救済のようなものになっているわけでしょう。
ボケ老人からまんまと7百万せしめる詐欺師の風間杜夫が死んだ息子になりかわって、
「ぼくはお父さんのことを恨んでいません」と叫ぶけれど、
それは詐欺には違いないが、けれど、それでもいいじゃないかともいえるわけで。

人の為を思うのは偽物だけれども(詐欺師の常套句はあなたのためを思って!)、
偽物でもときによって、そのインチキで救われるものもいるのではないか?
芝居だってドラマだって人(観客)の為の偽物なわけだから。
これをいっちゃうとあれだけれど、どの宗教もたぶん「事実」ではないよねえ。
しかし、人の為の偽物もときにはいいものといえはしないか。
この芝居にも保険会社で25年も働いて仕事がいやになって辞めたた中年女性が
登場するけれど、ボケ老人をだますようなアコギなこともだいぶやったようである。
保険は加入させるときはいい顔をするが、払うときは渋るとか。
しかし、保険に加入していたら安心のようなものが得られるのだからいいともいえる。
うまい話なんかないけれど(いや、あるような気がする。ぶっちゃけ、あるよ)、
詐欺話でもそれが最後まで詐欺だとばれなければ、
被害者は被害者ではなく、幸福な幻想者とでもいうか、果報者といえなくもない。
どのみち「幸福は自己申告」(自分は幸福と思えれば幸福!)なんだから、
自分の「事実」を幸福幻想にひたる他人に押しつけることはないともいえよう。
宗教にはまってハッピーな人にこちらの「事実」(世界)を押しつけても意味がない。
甘い話にだまされている人は、そのときは幸せではないだろうか。
そして、われわれのいったいだれが甘い話にだまされていないといえよう。
本当の「事実」、「本当のこと」を見てしまったら、人間はひとたまりもないのかもしれない。
みんな明日なにが起きるかわからない(脳卒中、愛するものの死、東京大震災)。
しかし、そんな「事実」は見たくないし、自分だけは大丈夫と思っていたいものだし、
ひるがえってみると、自分は大丈夫というのがそのときの「事実」といえよう。

わたしだって客観的にはたぶんそうとうにヤバいのだろうが、
自分はまだ大丈夫と信じている。
それは違うと「本当のこと」、「事実」を告げられたら、泣きたくなってしまう。
おそらく脳出血で倒れた83歳の山田太一さんは、
もはやいまの池田大作名誉会長のようにお元気になることはないだろうけれど、
きちがいめいたファンはそういう「事実」を認めたくなくて、
そういうことを口にするものを「恩知らず」とか「裏切り者」とか「人でなし」とか
思うわけでしょう? それって宗教じゃんといいたくなるけれど、
ファンの「事実」が複数集まれば、それが「真実」になるのである。
山田太一ファンは宗教がかっている人が多くて怖い。
「事実」を白状すると、このわたしこそもっとも宗教がかっているところがある。

「世の中なんてね、
大半の事実をいわないから保(も)ってるようなもんなのよ」(2-13)


(関連記事)
「流星に捧げる」(2006年3月14日の感想)
「浅草・花岡写真館」(山田太一/地人会/早稲田大学演劇博物館所蔵) 非売品

→2005年に地人会で上演された芝居台本。
いまはもう危ういらしい山田太一先生のあまた(脳)のなかを想像することはできる。
戦争ではみんな死にたくないのに死んでいったでしょう。
山田太一さんのお兄さんも戦争で死んでいる。
お母上も戦争のさなか、ろくに栄養が取れず薬もなく死んでいった。
それなのにいま、どうして死にたいなんて思う人がいるのだろう。
ここから浅草に四代続く写真館の話を思いつくわけである。
なんでも明治時代は写真師は医者、弁護士レベルで偉かったらしい。
平成のいまは写真館で写真を撮ってもらうなんていう風習は残っていない。
それでも2005年はまだ写真館が存在していた。しかし、客は来ない。
人情の町、浅草にある花岡写真館の四代目(50~60歳)は
もう店を閉めようかと考えている。
そこに若いカップルがやって来る。
よおし、いちばんいい写真を撮ってやると主人は張り切る。
レンズをのぞいた瞬間、気づいてしまう。
このふたりは死のうとしている――。あわてて戸惑う四代目店主である。
不思議なことは続くもので、
カップルのあとにやって来た白井という老人も死のうとしている。

どうして気がついたのか? それは花岡写真館の伝統のようなものである。
明治時代、ある若いお侍さんが初代店主のもとに写真を撮りに来た。
初代(一人三役なのがおもしろい)は、
この侍が死のうとしていることにレンズをのぞいて気づく。
理由は大久保利通暗殺事件に仲間入りさせてもらえず取り残されたからである。
日本を変えたいという志をもつ青年だった。
初代写真技師は、うちは死のうとしている人間は撮らない。
侍の自殺(切腹)を身をもってとめる。
のちにこの侍は医師だかなんだかになって大成したという。
人の役に立つ人間になったという。

四代目店主は死のうとしている三人に、
父から聞いたというある美談を聞かせてやる。
三代目店主の父(一人三役)がこういう経験をしたという。戦争中の話である。
親しくしていた若い兵隊さんがやって来る。
もう終戦直前だが、もちろんそのことはだれも知らない。
南方へ言っていた兵隊さんがいま一時帰国できるくらいなのだから、
まだ日本は大丈夫なのだろうと三代目主人は思う。
この兵隊さんは出兵するまえに結婚していた。
新婚さんがお国のためを思って南方の戦地までおもむいてくれたのである。
新妻は夫が南方に出兵したあとに赤子を産んだという。
青年の兵隊が言うには、今夜ここでふたりと逢う約束をしている。
家族三人の初対面といってもよい。
ところが、主人が写真機を構えると、三人は死のうとしていることに気づいてしまう。
とりあえずいまは撮れないとごまかし、
若い夫婦と赤子を店主夫婦を二階に行ってもらい、どうしようか考える。
気づくと、三人はいなくなっていた。
後日、確かめると兵隊さんは南方でとっくのとうに戦死していたし、
妻も子も空襲で死んでいた――。

その後、東京大空襲があり、みんな焼けてしまったが、父は1枚の写真を息子に伝えた。
それは三人の写真である。
南方で死んだはずの兵隊と空襲で死んでいる母子が、
三人一緒に笑顔で撮影された写真。その写真はいまでも残っている。
平成のさえない浅草・花岡写真館の四代目主人はいう。どうだ!
この話を聞いたら、感動して死にたいなんて思う気持はなくならないか?
戦争で死んだ人のことを考えたら、死にたいなんて間違えていると思わないか?
老妻を亡くしていまはひとりで孤独な白井は、へえって思うけど、だからなに?
そもそもその写真が本物だって証拠はどこにある?
それはおまえさんのお父ちゃんがウソをついたんではないか?
そういって写真館を後にする。
死のうと思っているカップルはこのまま写真館(生きる!)にいようか、
白井についていこうが迷うが結局老人(死ぬ!)の後を追う。

そもそもの話だ。死のうとしている人のことなんてわかるのだろうか?
そこはフィクションを当方のリアリティーをもってどうこう裁くようで、
あまり追求したくもないが、
山田太一最後の連続ドラマ「ありふれた奇跡」も自殺がひとつのテーマだったが、
死にたい人はパッと見てわかるのだろうか?
当方のリアリティーではなんでみんな死にたくならないのっていうかさ。
いまは世直しも国防も戦争もなんにもないじゃない。
いったいなにをよりどころにしてみんな生きているのだろうか?
グルメとか大衆娯楽とか、ちょっと視点を変えたら空しいよねえ。
昌志(写真館店主)、友美(その妻/竹下景子で一人三役)、白井(孤独な老人)。
四代続いた写真館を閉めようかと主人が思った日の会話である。

「白井 ほーら、分った。分ったぞ、ご主人。
友美 なにがです?
白井 レンズを通したんじゃない。あなたを通したんだ。
   あなたを通してみたから、私が死にたいように見えたんだ。
   あの二人(広樹と夏恵/若いカップル)が、死にそうに思えたんだ。
友美 でも、あの人たちは本当に――。
白井 なぜそれが分ったか。同類だからさ。だから、二人の気持が読めたんだ。
昌志 私は、死のうなんて――。
友美 そうです。そんなこと――。
白井 思ってもなかった。そうかもしれない。
   自分の心に気がついていないということは、よくあるさ。
友美 そんな――。
白井 そんなじゃない、奥さん。(昌志を指し)希望を失くしたんだ。
   希望をなくすってのは、おっ怖(かな)いことでね。そうは思いたくないよ。
   この先、なにがある? なんにもない。なあーんにもない。
友美 なんにもないことはありませんよ。ねえ。(と昌志に)
白井 私のことだよ。ヘヘ、いわれたくなかったね。死のうとしてる?
   そうかもしれないね。そうかもしれないよ。
友美 (主人と)一緒にしないで下さい。
昌志 よせよ。
友美 なにが、よせ。こっちはね、(と白井に)希望なんていくらでもありますよ。
   仮にお店辞めたって、すぐ食べていけない訳じゃない。
   それどころか、贅沢しなきゃ、あちこち旅行くらい出来るわよ。
   温泉行ったっていいし、安くておいしいもの捜したっていいし、
   焼き物はじめたっていいし。
昌志 それが、なんだよ。
友美 なんだ? 楽しいじゃない。
昌志 (崩れるように、座りこんでしまう)
友美 なんなの、これ? みんなして、どうしたの? 冗談じゃない。
   私は死のうなんて、これっぽっちも思っていませんからね。
   希望は、いくらだってあるじゃない。
   なんだって出来るじゃない。バカみたい。

       他の四人は、黙り込んでしまったまま」(1-54)


他人は自分を映す鏡というのは、ある意味で本当のことかもしれない。
むかしは死にたい人や危ない人からけっこうメールが来たけれど、
いまはぜんぜん来ない。
むかしもいまもだれが死にたい人かなんて駅で眺めていてもわからない。
もしかして長らく自滅願望を持っているが、わたしの「死にたい」はウソなのかなあ。
写真は「真(実)を写す」って書くけれど、まさにドラマそのもの。
写真は真実っぽくて証拠にもなるけれど、「本当のこと」は被写体しかわからない。
いや、「本当のこと」は真実を生きた本人たちにさえわからないのかもしれない。
山田太一に「岸辺のアルバム」というドラマがあるけれど、アルバムは真実か?
家族そろって仲良く笑顔の写真しか撮らないでしょう?
少なくとも家族アルバムや卒業アルバムにはそういう写真しか残さないでしょう?
しかし、いまの山田太一さんはどうだがわからないけれど、
脳をやっちゃうと記憶がかなり消失するケースが多い(ボケ=認知症もそう)。
そうすると写真がいかにありがたいか! 写真しか過去は存在しないのである。
そうなると、笑顔だらけの写真が本当になり、
「本当のこと」はどこにも存在しなくなってしまう。
それでもいいのではないかというのがドラマ(写真=ウソ)であり、
しかし、「本当のこと」はたいせつだというのが山田太一ドラマである。
しかし、「本当のこと」は写真(ウソ)を通してしか知りようがないという。
なんでみんなカメラを向けられると笑うんだろう? 楽しそうにするんだろう?
本当は派閥や抗争があって梅雨のようにジメジメしているのに、
あたかもカラッとした炎天下の仲間ぶるんだろう?
いったい写真は「本当のこと」を映しているのか?
だが、写真以外に「本当のこと」はどこにあるのか?

舞台に話を戻す。果たして死んだ兵隊三人家族の幽霊写真は本物か偽物か。
白けた白井。志がある写真館主人の昌志。
その妻の、美しい友情のようなものを信じたい友美(竹下景子)。

「白井 幽霊の写真や昔話で、この子たちどう元気になるっていうんです?
昌志 少なくとも私は、こんなにも生きたかった人たちがいたってことで。
友美 そうよ。
昌志 励まされるね。
白井 そう。あなたは自分を励ましたいんだ。
   この子たち[若いカップル]は、どうだっていいんだ。
友美 そんなことよく――。
白井 励ますなら、この子たちの、いまの身の上に寄り添うべきでしょう。
   この子たちは、なんで死のうとしているんです。
友美 それは――。
昌志 来てないよ。
白井 ほーら、関心がない。
昌志 そんなことはない。
友美 ずかずか入れないでしょう。
白井 ハハ、他人の親切なんて、そんなもんさ。
   (夏恵と広樹に)ほんとは、あんたたちなんかどうでもいいんだ。
友美 どうして、そんなに意地が悪いの?
白井 きまり文句とごまかしよりいいでしょう。失礼しますよ。(と玄関へ)
昌志 ああ、どうぞ。
友美 どうぞ。
白井 どうだい? 二人、一緒に来ないか?」(2-36)


三人は美談の館(やかた)から出て行ってしまう。
これってリアリティーがあるよなあ。よく知らないが、
ほとんどの映画やドラマが幽霊写真レベルで完結してしまうわけでしょう?
そんな幽霊写真はせせら笑うというリアルな眼を作家が持っているのがいい。
そのうえ結局、自殺防止キャンペーンとかいっても現実にはなにもできないわけじゃん。
せいぜい苦労話をするとか、美談を語るとか、ありきたりな励ましをするとか。
理由は「そこまで立ち入れない」から。
というか、立ち入ってしまうと自分にもめんどうが降りかかってくるから。
6月に奈良の山田太一ファンだというお医者さんから呼ばれて、
立ち入ったことを聞かれるでもなく(というか自分から話した)、
交通費とお小遣いのようなものをいただいたけれど、あれはスマートなやり方である。
ブログになにを書いてもいいっていっていたし、本当の話。
かといって、おなじ山田太一ファンでも妙な美談や激励をして自己満足する老女もいる。
いっておくけれど、人の親切を受け入れる度量というものもある。
借りをつくりたくないと思う人と、人の親切をありがたく受け入れられる人がいるわけだ。
これは年齢や時間の変遷によっても変わるだろう。
適切な親切も難しいが、他人からの親切を上手にありがたく受け取るのも難しい。
先日、二度もある作家先生から本を送っていただいたが、
いまのわたしは素直に「ありがとうございます」と感謝することができた。
それはわたしがアマゾンの「ほしいものリスト」を公開していたからだ。
他人はなにを欲しているかってわからないじゃないですか?
わたしはある友人への誕生日プレゼントを探して池袋を朝から晩まで歩き回って、
結局のところわからなくて買えなかった経験から他人の不可解さを知った。
他人のしてもらいたいこと、ほしいものはわからない。
まあ、ある程度、普遍性のあることはいえて、
どんな苦悩者も美形の異性から求愛されたら生きる元気が出るだろう。

若いカップルはどうして死にたがっているのか?
お互い愛し合っているのだし、
どちらも俳優で美男美女(アハハ)なんだから死ぬ必要はないじゃないか。
なんでも男のほうが仙台で親友の彼女(夏恵)を奪ったらしい。
親友は恩人ともいえ、仕事を世話してくれた。
そんな親友の婚約者を奪い、どういう経緯かさらに殴って2百万を奪ってしまった。
日本全国を旅してわずかな期間で2百万もの大金を使い果たした。
いつも百円、2百円にケチケチしてきたからそういうことをしたかった。
しかし、仙台で起こしたのは刑事事件で手配されているかもしれず、もう死ぬしかない。
こういう話を孤独な白井老人は屋台かなにかでカップルから聞いたのだが、
男から殴られて3万円を奪われてしまう。しかし、交通費の2千円は残してくれた。
翌朝、白井老人は浅草にある花岡写真館を再訪する。
生きるファイトが出てきたという。カッカしてきたという。生きる目的ができた。
あいつらをかならず見つけ出して警察に突き出してやる!
しかし、すぐにたかが3万円くらいのことで大騒ぎするのがめんどうくさくなってしまう。
そこに若いカップルが現われる。
彼らにも人の親切を受け入れられる奇跡の瞬間が訪れたのである。
青年は親友を裏切ったことを激しく後悔しているという。
白井老人はむかし親友に恋人を奪われたことがあった。
あいつもこんなことを思っていたのかなと、現実認識が少しだけ変わる。
そこに友美(竹下景子)が孤独な白井老人に新たな提案をする。
あなた、どうせ暇でやることもないんでしょう?
この厄介なカップルと一緒に仙台へ行ってめんどうごとに巻き込まれてみなさいよ。
いろいろ解決は難しいこともあるでしょうが、話し合えばなんとかなるかもしれない。
そんなことをする義理はねえっていうかもしれないけれど、それが人情じゃない。
というか、自分を救えるとしたら、それは他人を救ったときではないか?
これは山田太一のメッセージを考えたうえでの内容紹介である。

友美(竹下景子)はいう。死にたい白井と死にたい若者カップル、
つごう三人が一緒に笑顔で写真に映ることを目標にしよう。
困難を乗り越えて三人でまた浅草・花岡写真館に来てください。
そして、笑顔でうちの主人に最高の写真を撮ってもらいましょう。
そうしましょう。いきいきしましょう。
そんなことあるわけないだろうといわれそうだけど、実際にあるってことを見せましょう。
ウソみたいなことを「本当のこと」にしましょう!
果たしてあの兵隊幽霊写真は本物だったのか偽物だったのか?

「白井 あれはどうなったの?
昌志 あれって、なんです。
白井 幽霊のうつった写真です。
昌志 本物ですよ。合成なんかじゃない。
白井 じゃあ、幽霊が写真にうつったっていうの?
昌志 分りません。
白井 分らないって――。
昌志 本当はあの写真がなんなのかは私にも分りません。
白井 そうなの。
昌志 でも、大事なのは、私の両親が、
   あの写真とあの話を残したということじゃないかな。
   しつこく私たちに話したんです。あの話で、なにをいいたかったのか。
友美 そうね。
昌志 時代がちがえば、こーんなに家族三人がただ一緒にいられるということが、
   嬉しくて、むずかしくて、哀しいことだったって――。
友美 沢山の人が死んだんです。
   あのくらいのことが起きても、ちっとも不思議じゃない。
   あのくらいのことが起らなければやりきれないくらい。
昌志 そう思ったのかもしれない。
友美 どっかで本当なら、本当が伝わればいいんですよ。
白井 うん。
昌志 私たちの話は、これからです。
   レンズをのそいたら死んだも同然の三人が。
白井 死んだも同然!
友美 撮るほうもそうです。死んだも同然でした。
昌志 そう。それが、どうやって元気になって、いきいきした写真を残したか。
友美 あとに残しましょう。
昌志 これが私たちの写真館のお話だった、と」(2-70)


「本当のこと」はわからない――。
「どっかで本当なら、本当が伝わればいいんですよ」――。
ウソのような本当のお話をつくろうではないか。
ウソのような本当のお話をつくりましょうよ。
山田太一はウソで現実を少しでもましにしようとした作家といえよう。
なにがましかはわからないけれど、
ぜめて集合写真の笑顔くらいは信じたいと思っていた。ウソでもいいから笑顔を!
山田太一最後の連続ドラマ「ありふれた奇跡」最終回ラストシーンで、
妻と子を火事で亡くした藤本誠(陣内孝則)はカメラの前で笑顔でピースをした。
ひとりではなく笑顔でピースをした。

*誤字脱字失礼。ま、わかるでしょ? 少しずつ直します。
今日は肉体労働→病院→散髪→病院→帰宅したので疲れまくっていますのでどうかお許しを。
「遠く離れて二万キロ」(山田太一/俳優座/早稲田大学演劇博物館所蔵) 非売品

→2000年に俳優座で上演された芝居台本。
たぶん山田太一さんはさらりと書いてしまったのだろうが、これがおもしろい。
山田太一の天性のエンターテイナーの資質はどこから来るのだろう。
舞台は日本から「遠く離れて二万キロ」、南米とある小国の首都。
海外青年協力隊の隊員が集まる宿泊所のようなもので、
繰り広げられる日本人青年男女の本音合戦。
山田太一さん特有のゲスな感性が実に巧みにエンターテイメントとして昇華されている。
まあ、海外協力隊に来るようなメンバーも善意のかたまりというわけではない。
日本に夢を持てなくなって、
とりあえずのモラトリアム(猶予期間)として海外に新天地を求めた若者たちである。
なかには母親の束縛から逃げてきた青年もいる。
タイトルの意味は日本と南米都市の距離が「遠く離れて二万キロ」ではなく、
実際のところ「遠く離れて二万キロ」だったのは日本人母子の距離感だったという。
で、この南米の小都市でクーデターが起こり若い日本の男女は動揺を見せる。
この国の若者はまだ国を変えようという情熱を持っていることに刺激される。
しかし、よそさまの国のクーデターには手を出せないし、
母国をかえりみたらもう日本には変えられるような余地は残っていない。
結局、ドラマは恋愛のようなものと母子関係にとどまるが、
ここが正義を説かない山田太一ドラマの長所だろう。
日本がどうだ、なんだのと一席ぶつ英樹という青年がいるが、
彼が結局言いたかったのはおなじ協力隊の真弓が好きだということだったのである。
ところが、真弓は謙という青年を好きな模様。
ドラマはこのようなところにしかないし、そこを愛さなかったら人生はなんにもない。
日本がどうした? 日本よりも大きいドラマは個人の内奥にある。
英樹が暴露を始める。

「英樹 怖いだけさ。日本へ帰るのが怖いんだ。居場所があるかどうか分らないからな。
真弓 それってこの人(謙)のせいかな。
謙  待ってよ。俺は会社を辞めてきたんだ。
   休職して、協力隊に二年行きたいっていったら、
   戻ってきても場所はないぞ、といわれたんだ。
   結構っていって、辞めた。今更、なにを心配するっていうんだ。
英樹 他のどこの会社も受け入れてくれないかもしれないって。
謙  それはおまえの心配だろう。
英樹 そういってもいい、でも、そっちも気にしてないような顔をするな。
   本当は、なんとかなんねえかと思ってるはずだ。
   日本はなんとかなんねえか。
   海外協力隊に行った人間をなぜ人材として歓迎しないんだ。
   世界中で、すげェ経験をして来た人間を、
   どうして大事にしねえかって思ってるはずだ、
謙  すげェ経験なんか、したか、俺たち。
英樹 茶化すなよ。日本は、なんとかならねえか。みんな、そう思ってるはずだ。
真弓 日本、日本て。
英樹 日本人だろ、俺たち。どこで暮したっていいか?
   どこで一生を終えたって本当にいいか?
   そんな簡単じゃないはずだ。生まれて育った国は、そう楽には片付かない。
真弓 おかしいよ、そんなの。世界中で、いくらだって日本人暮してるでしょう。
   そこで一生って人、いっぱいいるでしょう。
英樹 でも日本を忘れていない。もっと日本がいい国だったらって。
謙  民族主義者め。
英樹 気取ったことをいうな。日本は、なんなんだって、悔しくて不安で、
   女買いまくってるくせに。
謙  なに言いだす。
英樹 真弓さん――。
謙 人のことを、なんだって――。
綾  かぎ回ってるようね。
英樹 俺は、三月で日本へ帰る。こいつ(謙)は、一年延長した。
真弓 分ってるよ。
英樹 真弓さんは、六月までだよな。
真弓 だから?
英樹 俺が、とにかく、いいたいのは――。
謙  日本を愛せか。
英樹 こいつは、不安で、女を買いあさって、
   日本へ帰るのが怖くてたまらなくて一年延長したんだ。
真弓 よそう、もう。
英樹 愛しちゃいけない。こいつ(謙)を愛しちゃいけない。
謙  お前は、女をあさってないのか。
英樹 俺は買わない。俺は、女を買うようなことはしない。
謙  じゃあ、どうやってるんだ。
英樹 そんなことお前にいわれたくない。
謙  真弓さんの裸を空想してひとりでやってりゃあ清潔なのか。
綾  よそう、もう。
悦子 よそう。
英樹 俺は、あなた(真弓)が好きだ。
真弓 誰がダメだとか、日本がどうとか、そんなこという必要なかったね。
英樹 (打ちのめされ)ああ。
謙  ハハ、ひどいもんだ。隊員は、なにをしてる。
   のんだくれて、女買って、不安でへたばりそうで――」(1-52)


まるでいくら日本を論じようが、
個人の幸福は男女間のなかにしかないという福田恆存の思想をセリフ化したようなもの。
山田太一は青年時代福田恆存を愛読して強い影響を受けている。
いくら大きく日本を論じようが男なんてそんなもの、女もそんなもの。
日本へ帰ってもなんにもない。青年たちはどっか小さな会社に勤め結婚するだろう。
しだいに日本を論じるようなこともなくなり、小さな生活を守ることに汲々とするようになる。
女は母になろう。
さて、この芝居では「離れて遠く二万キロ」まで息子に逢いにやってくる母親が登場する。
先ほど大きく日本を論じて、真弓に告白して玉砕した英樹の母親である。
なんのことはない。
英樹は母親の過干渉から逃げたくて「離れて遠く二万キロ」までやって来たのである。
しかし、そこにもまた母親が来てしまう。
英樹は子どものようにいやいやをして母と逢おうとしない。
母親の言い分はこうである。

「あの子うんで育てたことが、結局人生で一番大きなことで、他にないの。
そんな母親だから、逢いたくないのよね。分ってるんだけど。
自分は、たしかに、この子をうんで育てたんだって、
肩のあたり掴みたくてたまらなくなったの。なんか――なんにもなくて――」(2-47)


日本のひんやりとした現実である。
海外青年協力隊の男女も日本に帰国したら、こういうひんやりとした現実が待っている。
しかし、その現実はたしかにひんやりしたものだが、
そうとばかりも言えないことを、
山田太一は日本を舞台にしたあまたの劇を書くことで証明したのであった。
「夜からの声」(山田太一/地人会/早稲田大学演劇博物館所蔵) 非売品

→2005年に地人会で上演された芝居台本。
山田太一さんはすごい作品を書く人なんだなあ。すごいとしか言いようがない。
本当のことはなんだったのかという、そのわからなさを徹底的に描いている。
本当になにが起こったのか本当のことはわからないのかもしれない。
本当のことは客観的に存在するのではなく、
人間の主観が創造するものなのかもしれない。

中年の真司(風間杜夫)の家に同世代の頼子がいきなりやって来る。
やっと突き止めたという。あなたでしょうという。
真司はボランティアで「話し相手コール」というものをしている。
話し相手のほしいさみしい人のために聞き役になってやるボランティアである。
頼子は真司に牙(きば)をむきだしにして問い詰める。
夫に電話でなにを言った。夫からなにを聞いた。言え。いいから言え。
鬼気迫る表情である。
なぜなら頼子の夫は真司と電話で話した直後、深夜飛び降り自殺をしたからである。
なぜ夫が死ぬ直前に「話し相手コール」に電話をしたことを知ったかといえば、
日記にそう残されていたからである。
いささか病的な頼子は真司に問う。本当のことを言え。
夫とどんな話をした? 夫になにを言った? 夫からなにを聞いた?
真司は守秘義務があるから答えられないという。
本当のことを言え! 守秘義務があるから言えない! いったい本当はなんなのだ?

後日、頼子の息子の柾(まさき)が真司(風間杜夫)を訪問する。
柾が言うには、ご迷惑をおかけしました。
母は鬱(うつ)病ということで精神病院に入院しました。
いま投薬治療をしています。このごろは、かなり薬で治るそうです。
どうか母のことは忘れてください。 
その場に居合わせた真司の義父は言う。おかしいよ。これで一切終わりか。

「鬱は薬で治るみたいなことも、いいすぎてた。(……)
薬で、はなれて行った恋人が戻ってくるかい、薬のむと死んだ女房が生き返るかい?
こっちはもう四年余り、生きかえって来ないのが骨身に沁みてるよ。
かなり薬で治るなんて、そんな、人の悩みをバカにした話はないよ」(1-51)


3週間後、はた迷惑にも頼子がまた真司の家を訪問する。
治ったという。薬できれいさっぱり治ったという。ポイすることにしたという。
マイナスはポイと捨てる。あっちからっこっちへポイする。ポイ、ポイ、みんなポイ。
これは精神医学的にリアリティーが問われるけれど、
専門医の春日武彦氏によるとたまに抗鬱剤が奇跡的に効くこともあるらしいから、
そのうえなにしろ劇場、壇上で現に起こっていることを観客は信じるものである。
さあ、本当にこれでいいのだろうか? 前向きで、明るくなればそれでいいのか?
暗いこと、本当のこと、「夜からの声」はポイポイ捨て去られていいのか?

本当はいったいなにがあったんだ? 
このときそれまで守秘義務を貫いていた真司が、頼子の夫に成り代わる。
妻よ、本当のことを話そう。じつは俺の父がボケていたではなかったか!
頼子、きみは6年間も介護をしたではないか!
これはもう風間杜夫の迫力でもってしか入れない異世界であろう。
頼子は答える。あたしは本当は義父のことを好きだった。
義父は男らしくて、夫よりも義父のことを好きに感じることがなかったとは言えない。
だから、ボケが始まったときは懸命に介護をしようと思った。
ボケがひどくなってきたとき、外に出ようとする義父をあたしは殴った。
そうしたら義父は一瞬、正気に返ったようになった。
その後、ときおり義父は殴ってほしそうな顔をした。あたしは義父を殴った。
ときには掃除機で殴るようなこともあった。
これは客観的には老人虐待だが、本当のことはいったいどうだったんだ?
風間杜夫は、頼子が父を虐待していることを知っていた。
いや、もっと本当のことにもうすうす気づいていた。
妻と義父はひそかに愛し合っているのではないか?
暴力がひどくなった6年後、義父を施設に入れようという話になった。
これで一件落着するはずだった。
ところが、1ヶ月もしないうちに施設は火事で全焼してしまう。
これからどうしようとボケたおとうさんを家まで車に送る途次――。
車中で頼子は義父を引っぱたいてしまう。風間杜夫は衝撃を受ける。
うすうす虐待には気づいていたが、まさか自分のまえでするとは。

「目の前で親父を平手打ちした女房を見たのはショックだった。
やはり、そうだった。虐待は事実だった。
しかし、その親父を膝に乗せている君を見ると、
あんなに優しい目をした君をはじめて見たような気がした。
妙な気持だった。なにか、わり切れない、よく分らない、立ち入れないようなものが、
君と親父の間に出来ていると感じた。
俺をぬきにそれだけの年月があったのだ、と。
まかせっきりで君を、そこまで追いつめてしまったのは俺だと思った。
そこまで追いつめた。そう。そう思いながら、
それが、どこまでなのか、なにを意味するのかは考えたくなかった」(2-38)


家に着いても親父は眠っていた。大きないびきをかいていた。
どうかしたんじゃないかと思いながら、なにもしなかった。
さあ、この後になにがあったのだろう? 本当のことはなんなのか?
風間杜夫と頼子はふたりで「現実」を創造しているのである。
「現実」はそこに客観的に存在するものではなく、
回想というかたちによってふたりないし3人、4人で創るものなのかもしれない。
――ふたりでおとうさんのいびきを聞きながら黙って焼酎をのんだ。

「真司 眠ったのは、君が先。
頼子 いいえ、あなたが先。
真司 いびきを聞いていた。
頼子 ええ。いびきを聞いていた。それから――。
真司 ――。
頼子 あなたは、起き上がった。
真司 そう。俺は立上り、襖(ふすま)を開け、父の部屋へ入った。
頼子 私は息をひそめていた。
真司 ベッドへ近づき、父を見下ろした。
   二回りも小さくなってしまった父が、小さな口をあけ、いびきをかいていた。
   お父さん。呼んでも、こたえはない。眠っているからではない。
   起きても一人息子を分らない。
   ビルマから復員して、戦後を造船一筋で生きたたくましい父は、どこにもいない。
   母が肺癌で死ぬ前の、
   なにもかも投げ出して傍にいようとした優しい父もどこにもいない。
   シミだらけで、ガツガツと弁当を食べ、車の中で暴れ、大いびきをかいている父は、
   それまでの父まで台無しにしてしまう。
   これ以上、そんな屈辱の中で生きていることに、なんの意味があるだろう。
   お父さん。ごめんよ、お父さん。俺は、両手で父の顔をおおった。
頼子 いびきが止った。私は起き上がっていた。
真司 そう。いびきがなかった。殺した、と思った。殺してしまった、と。
頼子 いびきが戻った。
真司 ああ、いびきが戻った。しかし、俺は、一時にせよ、父を殺していた。
頼子 私は、気づきながら、なにもしなかった」(2-41)


翌朝、父は死んでいた。警察が検死をした。
死因はいびきとは関係なし、とされた。脳出血でも脳梗塞でもない。心不全だった。
しかし、本当はなにが起こったのかはわからないのである。
本当は風間杜夫が父を殺していたのかもしれない。
だが、それではあんまりなので風間杜夫は頼子と共同作業で、
殺していないということにした。
人は真実には耐えられない。真実とは人びとがそうであってほしいと思うこと。
ならば、風間杜夫は父を殺していなかったのが真実になろう。
しかし、本当はどうだったのか? 
「夜からの声」が敏感な耳の持ち主には聞こえてこないか――。

風間杜夫は頼子の夫役から、
「話し相手コール」のボランティアをする会社員の真司に戻る。
真司は、頼子に「本当のこと」を言う。
旦那さんは電話で奥さんにとても感謝していましたよ。
頼子はそんなことはありえないじゃないという。
しかし、風間杜夫は「本当のこと」を繰り返す。
自殺するまえの旦那さんはあなたに本当に感謝していましたよ――。

山田太一は「本当の嘘」を書く偉大な作家であった。
「夜からの声」はホラー的な傑作だが、真司役は風間杜夫にしかやれないだろう。
公刊もされていない芝居台本にこんな恐ろしいものがあるとは。
大学の大先輩である作家の才能に感銘を受ける。
この作品をだれでも閲覧可能な状態にしてくれている早稲田大学にも感謝したい。