1970年に半年にわたって放送された30分×26回の連続テレビドラマを一括視聴。
もちろん、脚本は山田太一。
この人のドラマではなかったら10時間以上、映像と付き合うことは難しい。
わたしは20年以上の山田太一ドラマ(シナリオ)のファンだが、
どうしてこうまで好きなのか考えてみると
「ふつうの生活」「ありきたりの日常」へのあこがれが人並み以上に強かったからだと思う。
欠損家庭もありきたりと言えばそうだが、うちの家庭もまた崩壊家族であった。
それは父が悪いのでも母が悪いのでもなく、
社会風潮(家族はこうあるべし)が家族を寒々としたものにさせていた。
結局、母は2000年にわたしの目のまえで飛び降り自殺をして血まみれになって死ぬ。
遺書にも日記にもひどいことが書いてあった。
母親が偉いと思うのは、
多少は皮肉もあるが、わたしの人生を完全に壊してしまったところである。
どこもママさんは自分好みしようと息子にあれこれ仕掛けるが(教育するが)、
結局はべつの若い女のところに逃げられる。
しかし、うちの母カズコさんは極めて優秀で、
41歳にもなる息子をいまだに支配しているしコントロールしているし好きにさせない。
ふつうはそんなことはできないが、目のまえで飛び降り自殺をしたらそれはできるのだ。
息子を完全な母の支配下に置き、
腹から生まれた赤ん坊を自分の完全な作品にすることができる。
母が息子の目のまえで自殺するなんて前例も少ないだろうし、
経験者はほぼ廃人になると思われるから、非常にレアなケースと言えよう。

ふたたび、わたしが山田太一ドラマを好きなのは
「ふつうの生活」が描かれているからである。
わたしは18年まえに母から目のまえで飛び降り自殺をされ世界は闇に覆われた。
最後のプライドで(いわば母を殺した)精神科には行かなかったが、
社会的常識から見たら「ふつうの生活」からはるかに逸脱している。
世間をせせら笑いたいのは、母が自殺してもだれも助けてくれなかったこと。
国家もマスコミもあらゆる宗教団体も救いの手を差し伸べてくれなかった。
そして、こういう事情で、履歴書の空白が生まれてしまうが、
「本当のこと」を言っても面接官を困らせるだけで(経験あり)、
履歴書は私文書偽造をするしかない。悪いことなのだろうが、そうするしかないだろう。

ようやく1970年の山田太一ドラマ「二人の世界」に話を戻す。
じつはこの作品は数年まえに2、3回視聴してギブアップした。
美男美女の恋愛ドラマなんか見たくねえというのが、その理由である。
今回、目や耳を酷使して最後まで視聴できたのは、
わたしも少しながらまともに近づいてきたからだろう。
ドラマ「二人の世界」はイケメンで一流会社のエリートと、
重役の美しいお嬢さんがまったくのたまたま偶然で恋に落ち(ひとめぼれ!)、
1週間を待たずとして婚約(すぐさま結婚)する話である。
26歳のイケメンは優秀な営業マンだったが、会社の派閥争いに巻き込まれ、
いわば重役のミスを押し付けられるかたちで、
おもしろみのない総務に左遷されてしまう。
いくら総務の仕事はつまらないとはいえ一流企業で給料はいいし、
まだ26歳なんだから上役に貸しを作っているぶん将来性は有望だろう。
しかし、イケメンは美人妻にあおられたこともあいまり、
脱サラして当時流行のスナックを始める。
イケメンはスナック開業にあたり妻の父に借金を申し込むが、
この会社重役の岳父の威厳がすばらしく、世間の象徴と言いたくなるくらい迫力がある。
「スナックを経営したいとか、まわりに流されているだけではないか?」
図星のイケメンは返す言葉がない。妻の父は言う。
「本当にやりたいことをやってみろ」
26歳のイケメンは本当にやりたいことなどわからないことを深く悟る。
しかし、スナック開業は家族全体にプラスをもたらし、
家族は一体化して、それぞれなんにもないマンネリ人生を活性化させることになる。
スナック成功のために、両家の家族がみんなで協力して生きがいのようなものを感じる。

これはわたしの父と母の物語と言ってもよかろう。
時代的にも、1970年は父と母が交際を始めたころだ。
田舎者の父は冴えないねずみ男のような風貌だったが、
水道橋の食堂で休みなし、どころか職場に泊まり込み働いていた。
父が酔うと毎回言うことだが、あのころは年収1千万あったとか。
(このまえ女友達と逢いに行ったら年収900万になっていた←クスクス)。
わが父は不細工だったが、ドラマ「二人の世界」のイケメンとおなじく、
このままサラリーマンで終わりたくないと思い脱サラしようとする。
それは愛する妻(わたしの母)の意向もあったことだろう。
ドラマでも開業資金がないために借金を頼る美男美女夫婦が登場するが、
父は母の叔母に援助してもらったとのことである。
いまの父は去年あたまをやってしまったから、むかしのことはすべて抜け落ちている。

いいなあと思うのである。
山田太一ドラマ「二人の世界」もいいし、そこから想像される若き両親の奮闘ぶりもいい。
「二人の世界」を見ながら、
父と母にもこんな甘い青春時代があったのではないかと考えると涙が出て来る。

いまもそうかもしれないが、むかしの結婚は家と家との結婚でたいへんだったでしょう。
相手の家の資産状況、遺伝的病気の有無、犯罪者はいないか。
いまはフェイス(顔)の部分が強いが、むかしはこういうことの吊り合いが重んじられた。
50年くらいまえまでは結婚は、好きか嫌いではなく世間体の問題であった。
いまならきょうだいに無職ニート引きこもりがいる女性は結婚できないのではないか?
まあ、それを超えるのがほんものの恋愛結婚なのだが、この問題は置いておこう。
新婚生活はとても甘いようだが、父も母も似たようなものを経験したと思うと嬉しくなる。
新婚旅行で1個1300円のお椀を買う買わないで喧嘩する新婚夫婦は甘いよなあ。
田舎者のイケメンがセンパイという言葉を使うと、お嬢さまの新妻が拒否する。
なんかセンパイとか聞くとリンチでもしそうな気がして怖い。
おいおい、田舎ではセンパイは当たり前で、とてもやさしくしてくれるんだぞ。
ふつうの家族はいいなあ、と思うのは姉と弟。
ドラマ「二人の世界」でいちばんよかったのは結婚した姉と実家の弟の関係だ。
弟は姉の結婚がどこかさびしいし、同時にとてもうれしい。
結婚してからも姉は弟の心配をするし、弟もいつも姉のことを気にかけている。
きょうだいには兄弟、姉妹、兄妹、姉弟と4パターンあるが、
いちばん情緒的で美しいのは姉と弟の関係ではないか。
山田太一さんもお姉さんがいらしたし、お子さんはお嬢さんふたり、お坊ちゃんひとり。

「ひとつの結婚が周囲に孤独をふりまく」というナレーションがドラマにある。
たしかに娘が嫁に行ったら実家の両親も弟もある種の孤独感はあるだろう。
こういう「ふつうの生活」を描いているから山田太一ドラマはいいのである。
甘い新婚カップルが、ふざけて威張って、
どのくらいわがままを通せるかお互い試すところとか、甘酸っぱくてええなあ。
あの父と母もわずかながらでも、そういう甘い体験をしていてくれたらと思う。
「食べ物は育ちが消せない」とかリアルだよねえ。
わたしの母も専業主婦だったが、主婦は暇を持て余してしまう。
ドラマでは女友達が「暇なら子どもでごまかせば」「それが生活というもの」
と助言するが、おそらくわたしが誕生したいきさつもこれに近かったのだろう。
父が脱サラしたのは当方が生まれたあとだから、かなりリスクがあったのではないか。
しかし、70年代の経済成長率は異常である(←クリックしてね)。
父と母は焼鳥屋を開業して共働きで休みもなく、そのうえ母には子育てもあった。
「二人の世界」を見ると、この時期こそ土屋家のもっともいい時期で、
父にも母にも生きがいがあり、毎日張り合いのようなものがあったのではないか?
後年、母が精神病を発症したとき、このストレスが原因で自分は病気になったと主張した。
とはいえ「二人の世界」を見ると、父も母もそれなりにいい時代があったような気がして、
それは錯覚や誤解といったものかもしれないが、そうだとしても深く慰められる。
わたしも中学生のころわずか、父の焼鳥屋を手伝ったことを記憶している。

わたしは母の眼前投身自殺以降、おそらくそのショックだろう。
それ以前の記憶が(嘘みたいだが)その日を境にきれいさっぱり消えてしまった。
子どものころのことをほとんど覚えていないのである、
神さまだったような母から目のまえで飛び降り自殺されるとはそういうことだし、
この体験はだれにもわかってもらえないだろうし、
母は息子の人生を完全に自分の思うがままにすることに成功したと言ってよい。
精神病の母は最期なにもかもわからない状態だっただろうが、
いま皮肉というべきか当然というべきか、わたしがその状態を引き継いでいる。
これはもうどうしようもないし、どんな宗教に入ってもいいが、
解決は自己の死によってもたらされるだろうということはうすぼんやりわかっている。

このドラマを見て、もしかしたら父と母は、
生きがいと張り合いに満ちた「二人の世界」を
味わったこともあったのではないかと涙がこぼれるほどうれしくなった。
わたしはずっと「一人の世界」を生きてきたが、これは母の呪縛なのだろう。
わたしは母を自殺というかたちで殺したが、
同時に母もその瞬間にわたしを抹殺し「一人の世界」に追いやった。
このまま「一人の世界」でだれにも相手にされることなく、心も開かず、
夢も希望もなく孤独死するのはまざまざと見えているが、
そんな男の両親がわずかでも
「二人の世界」を生きていたかもしれないと思うと涙ぐんでしまう。
それほどに「一人の世界」は寂寥索莫としているのである。
孤独なわたしは「二人の世界」にあこがれていたから、
いい中年男になっても古臭い山田太一ドラマに執着しているのだろう。
山田太一ドラマ「二人の世界」――いっときでも甘い夢を見せていただいた。
ジェイコム、日本映画放送チャンネル、山田太一先生に感謝いたします。
みんなひとりじゃないんだなあ。
最後のナレーションでこんなものがあったと記憶している。

「人間一人より二人のほうが強い」

1992年に放送された山田太一単発ドラマ、
「ハワイアン ウエディング・ソング」ジェイコム録画分をいまごろ視聴。
シナリオですでに読んでいるので、テキトーに酔っぱらって見たものである。
前回の感想では、これはハワイのマウイ島の絶景がメインだったのだろう。
シナリオではそれほどのものとは感じないと書いていた。
いざ映像で見ていたら、前回の感想は当たっていて外れていた。
たしかにシナリオで読むよりは映像で見たほうがいい作品だったが、
それはハワイの絶景のためではなく、
役者の容貌がいまの放送コードには引っかかるのではというくらい、
冴えなくみみっちく貧相で絵にならず、そこがじつにリアルな感じがしたからである。

本当に失神するくらい冴えないアラサーの男女が親の見栄で、
ハワイの教会で参列者は親だけという環境のなか結婚式をあげる話である。
繰り返し書いているが、山田太一ドラマの基本トーンは、
「なんて人生はこうまでつまらないのか」と「これほどなんにもないのか」である。
このドラマでも冴えない花嫁の母の倍賞美津子が、
定番の山田太一台詞「つまんない」「なんにもない」を絶叫していた。
だから、せめて行き遅れた風貌もなにもかも冴えない30を超えた娘を、
結婚紹介所で紹介されたこれまた見栄えのよくない、
どっからみてもお洒落な会話とは縁がないオタク的な「とび職」の青年と
ハワイ! ハワイ! ハワイ! 
それも(そのころ)流行のマウイ島の教会で結婚させたら、
せめて少しでも「つまんない」という感覚がなくなるのではないか?
わずかでも人生でなにかをなしえたような錯覚でも感じられるのではないか?

ところが親のあとを継いだ冴えない「とび職」のお婿さんが親に反発する。
おれは日本人なんだから、こんなところで西洋風の結婚式をあげたくない。
「いやなものはいやだ」
じつのところ個性というのは、なにが好きか、なにがいやかにあると言ってもよかろう。
「いやなものはいやだ」は親の支配下に置かれてきて、
うまく逆らえずにいる子どもの最初に発言するところの個性と言ってよい。
さあ、みなさまもおっしゃってください。
それは「いやなものはいや」だからやりたくない。
「いやなものはいや」と言わせないのが世間であり社会であり常識である。
リピート・アフター・ミー。さんはい。

「いやなものはいや(=自分)」

むろん、反語は「好きなものは好き」でこちらも個性であり、自分そのものである。
いくら健康に悪くても常識に反しても礼を失しても、自分というものは、
「好きなものは好き」と言うところにあるというのが朝日賞作家のメッセージである。
さんはい。人生をおもしろくするためにいってみよう。はい、さんはい。

自分=「好きだから好き」「いやなものはいや」

このドラマでは30過ぎのいまではテレビに出せないくらいの冴えない男女が、
親の期待や世間に合わせて、結婚相談所で出逢い、
お互いこのくらいかなあと吊り合いを考え、
しかし親の見栄もありわざわざハワイのマウイ島の教会で結婚式をあげる話である。
正確にはそうではない。
いかにも女の相手がヘタそうな「とび職」のオタク男が「いやなものはいや」と言う。
自分は足の短い猿のような日本人だから、
西洋人を真似てタキシードを着て、
キリスト教なんか興味もないのにハワイで結婚式なんかあげるのはいやだ。
反抗期もなかったような、親の言いなりとおぼしき青年がはじめて自己主張をした。
個性を出したのである。いやなものはいやだ。
これまたびっくりするくらい冴えない30女も
へたくそに自分を出して海に衣服のまま飛び込むが、まったく絵にならない。
花婿は花嫁を追いかけて海に飛び込むがカナヅチで溺れてしまう始末である。
なにをやっても絵にならない30を過ぎた男女である。
このふたりがハワイのマウイ島の絶景で、まったく映画のようではない、
言うなればしみったれた会話をするのだが、いいなあと思った。
これが山田太一ドラマであり、われわれ庶民の人生そのままであると。

人生は一定の年齢を超え常識にとらわれると、なにをしてもつまらない。
どうがんばって夢や目標を持って生きても、大半の人間の人生はなんにもない。
だから、ハワイで結婚式とか、そういう華々しいことを夢見て、
運のいいものは実行するのだがしかし、
そんなことをしてもつまらないし結局なんにもない。
それが生きるということだが、そこに哀歓を見て取れば、
そこにせめてもの救いのようなものを感受できれば、
このカネカネカネの資本主義社会もまだまだ灰に覆われてはいないのではないか?

いまいい歳になって、まったく世間からは評価されず孤独零落の身で思うのは、
人間ってつまらないから結婚するんだろうなあ。
人生なんにもないということにうすうす気づいたとき、子づくりをするのだろう。
人生はつまらないし、なんにもない。
しかし、おもしろい人生も有価値な意義ある人生も嘘っぱちだ。
ならばつまらない、なんにもない人生を直視してみたら、
そこにしかない味わいがあるのではないか?
それが生きるということではないか? 生きがいはそこにしかないのではないか?
つまらなくてなんにもない人生でも、それは「ありふれた奇跡」と自分をだまして生きよう。
ふたたび、それが生きるということだ。
わたしなんて職場の人全員に
「なにがおもしろくて生きているんですか?」
と質問したいような世間知らずのところがある。
人生はつまらないがしかし、なんにもないがしかし、しかししかししかし――。

(関連記事)
「ハワイアン・ウエディングソング」(山田太一/「月刊ドラマ」1992年7月号/映人社)
自分が生まれる3年まえ(昭和48年)に放送されたドラマをジェイコムで視聴。
全15回の連続ドラマで、山田太一の出世作というあつかいで、
作者も最晩年期にこのドラマはもっと評価されてもいいと発言している。
シナリオでは11年まえに読んで、感想もブログに記している。

高校生のころ仕事人間の父にこう質問したことがある。
「どうして毎日、おなじことばかりしていて飽きないの?」
おそらく、父は答えてくれたのだろうが、それを記憶していないということは、
こちらが納得を得る回答ではなかったということなのだろう。
話はいきなり飛んで25年後のいまになる。
いま人生初のオフィスワーク系のアルバイトに従事している。
といっても、仕事は補助で自分はオフィスワークなどこなせる能力はないのだが。
しかし、ネクタイをした部長の仕事ぶりから目で耳でいろいろなことを学習した。
部長の近くにいる3人の契約社員&パートはいずれもヤンママである。
毎日、毎日おなじような仕事をして、おなじようなセリフを発している。
女性は子どもの成長というはっきりとした目安があるからいいのだろうが、
この会社にいる男性は部長も課長も主任も係長も契約社員も、
毎日、毎日おなじことの繰り返しに飽き飽きしないのだろうか?
わたしはいい齢をして毎日をドラマのように生きたいと思っているが、
ドラマのセリフは毎日おなじことの繰り返しだとある日気づいた。
どの人も連日、同時間におなじセリフを口にしている。
その同一のセリフにもいろいろな情感がこもっていて、
人間の小さな喜びや悲しみを見出していくというのが山田太一のドラマ作法で、
ファンのわたしもそういう観点から日常ドラマを見ているが、
しかし、そういう日々の哀歓はしっかりと感知しつつ、
本当にこの人たちはそれで満足できているのかという疑念はぬぐいきれない。

わたしは部長と言えなかった。
いまのバイト先では、
課長は○○課長と名前をつけて呼ぶのだが(返品課とサービス課のふたつあるためか)、
部長は物流でひとりしかいないためかS部長ではなく「部長」と呼ぶ。
わたしがいままで働いてきたところでは役職で人を呼ぶところはなく、
どこも○○さんであった。だから、それなりにマシな職場に雇っていただけたのだと思う。
ともあれ、本当に部長が言いづらい。
短期バイト終わりのいまなら部長と呼べるが、
どうしても意気地のない小声になってしまう。
部長よりも部長さんのほうがはるかに言いやすいが、
当人はバカにされたような思いをするだろうから言えないし、むろん言ったこともない。
とはいえ、部長をSさんと呼ぶほうがはるかに発声しやすい。
わたしは部長からどう呼ばれているかというと、バイトくんやツチヤくんである。
もちろん、バイトくんは社外電話の通話時が多く、
社会常識のある部長さんは短期バイトでも名前のツチヤをありがたくもクンづけで、
お呼びいただいている。

Sさんは毎日部長と呼ばれていると、本当のSさんはどこに行ってしまうのだろう?
わたしが部長と言いにくいのは、どこか差別語ではないかと思っているからかもしれない。
部長ってことは課長や平社員、バイトよりは偉いけれど、
本部長や社長、会長よりは下である。
だとしたらSさんを部長と呼ぶことは、
ある階層に向かってエタヒニンと呼びかけるのとおなじではないか?
おまえらは名前なんてものはなく、エタヒニン(部長)なんだよと、それだけでしかないと。
部長を部長さんと言いたいのは、百姓をお百姓さんと言いたい心持とおなじだろう。
去年勤務していたところの工場長は部長と呼ばれることを喜んでいた。
いまは工場長だが、かつてアメニティ部門の部長だったから、部長と呼ばれたい。
自分はOという名前の人間ではなく、かりの身分は工場長だが、本当は部長である。
我輩さまはエタヒニンでもなく、商売人でもなく、工員でも農民でも公務員でもなく、
お偉い天皇陛下であられるぞよ、というのとおなじ構造である。

わたしは父のことをいつからかツトムさん、母のことをカズコさんと呼ぶようになった。
むろん、ここ5、6年の話である。
父と面と向かっても「ツトムさんはさあ」と言う感じで話している。
ときにはお父さんと呼ぶこともあるが(人の目や耳があるとき)、
いまはもっぱら父はツトムさんだ。
ちなみにオヤジやオフクロという言葉は当方の言語体系からは決して口に出せない。
父は社長になることが子どものころからの夢で、小さな焼鳥屋を経営するようになり、
パートには社長と呼ばせて喜々としていた。
たぶん父がいちばん好きな呼称はツトムさんでも、お父さんでもなく、社長である。
なんと性格の悪い息子だろうと批判されるのを覚悟で書くが、
わたしは父を社長、社長と呼んでバカにすることがある
(本人はこちらの悪意に気づいているかは不明)。
しかし、わたしだって父から、おまえは従業員よりおれの心配をしない、
従業員よりもおまえは使えないと罵倒されたこともあるから、どっちもどっちだろう。

どうしてみんな自分(わたしだったら土屋顕史)を極めようとせず、
正社員や課長部長社長、夫や妻、お父さんお母さんになりたがるのだろう?
部長と言われているあなたの本当はなんですか?
お父さんと言われているあなたの本当はどこにありますか?
以上はすべてドラマ「それぞれの秋」の我流の要約なのだが、
このドラマを実際に見た人ならばそれが正しいことがわかるだろう。
「それぞれの秋」第6回の小倉一郎のモノローグ「前回までの説明」。

「ぼくは大学の二年生だが、あまり出来がよくないせいもあって、
話を要約するのは得意ではない。もうこのドラマも六回目だ。
そうなるとここで五回分をひと口に説明しなければならなくなる。
そういうことはうまく出来るわけがないので、あつかましい事を言うようだが、
そろそろこのドラマを見て下さる方は、
なるべく毎週見損なわないで見ていただきたいと思うのです。
要するに、一口に言えば、これはわが家五人の家族の物語で、平凡な一家で、
しかしやっぱりぼくは語るに足るような気がするので、終わりまでお話しようと思う」


ホームドラマが家族の物語ならば、本当には毎日平々凡々の繰り返しなのだから、
かならずしも初回から見ている必要はなく、
途中から参入してもわかっておもしろいのが本物のホームドラマではないか?
そういった本当のホームドラマを書きたいという作者の意気込みを、
このナレーションから感じる。
結局、われわれ平凡な庶民にとっては役に立つ、
つまりそれぞれのパートを演ずるのが生きがいなのではないか?
部長という役に立ち(パートを演じ)、お父さんやお爺さんという役に立つのが生きがいだ。
本当の自分なんてものをえせインテリのように追求せず、そこは目をつむり、
おのおのそれぞれ与えられた役に立っていくしかわれわれの生きがいはない。
少女は部長の役にもお父さんの役にも立てないが(男性パートは演じられないが)、
(それが幸せかはわからないが)よき娘やよき妹の役になら舞台で立つことができる。
そんなのつまらないと与えられた役を拒否することも可能だが、
そうしたところでいったいなにがあるというのか?
与えられた役を断れるのは本当に強い人間で、われわれはそこまで強靭ではない。
なにも考えずに役に立つことを考えろ。それがわれわれ庶民の生き方だ。
男なら男らしく正社員や出世を目指し、夫になって父になるのが庶民の生きがいだ。
女なら女らしく一歩引いていやでも男を立て、妻になり母になるのが宿命だ。
その宿命は転換できない天与のものだから、そのゆえに宝とは考えられぬか?

ドラマ最終回までおのれの役を従順に演じた小倉一郎は言う。

「父が脳腫瘍になってから、ぼくの家族は、お互いに随分力を合せてきたと思う。
特に、兄貴と妹は人が変わったように、母を助けて、よく切り抜けたと思う。
ぼくだって、よくやった、と言っていいだろう。
しかし手術が成功して、父が退院し、段々また平凡な日常生活が戻ってくると、
なんだかまた少しずつ家族の結束がゆるんで来て、
結局人間はそれほど変わらないものだなあ、と思う。
ほじくれば随分いろんな気持をそれぞれが持っているんだろうけれど、
そういうものは、あんまり表へ出さないで、なんとなく曖昧(あいまい)にして、
そうして生きて行くのが人生の知恵なんだろうなあ、とぼくは思いはじめていた」


父が大病にかかれば、妻も息子も弟も妹もそれぞれの役に立てるのである。
父の役に立つという名目で、それぞれの役に立てる。
ホームドラマ「それぞれの秋」の父親役は部長補佐で、
男は重役に愛人との別れ話の決着を頼まれ、
部長になりたい一心で30万(いまでは倍の60万か)の借金を背負い込む。
このことから世間では部長は偉いことになっており、社長はさらに偉いことがわかる。
わたしはそういう社会常識のない、世間知らずだから、
山田太一ドラマにここまで惚れ込んでしまったのだろう。
山田太一もおそらく世間知らずだが、そのことを深く自認していたし、
同時に庶民が訳知り顔で交わす世間話の安っぽさを軽蔑するインテリ性を有していた。
41歳になったいまもまだ山田太一ドラマに感動する自分に驚いている。

(関連記事)
「それぞれの秋」(山田太一/大和書房)

1985年(昭和60年)に放送された東芝日曜劇場全2回のドラマを、
シナリオでは既読であったものの、いま秋だからジェイコム録画ぶんを視聴する、
わたしは好きなブランドのようなものはまったくないが、
東芝だけはパソコン購入者の無料アフターサービスをやっているので好きだ。
パソコンでは何度も東芝のお世話になった。
そういうわけで去年東芝の電子レンジを買ったら1年もしないうちに壊れて、
量販店経由で修理に出すと戻ってくるのが1ヶ月後とか言われ、
この寒い冬を電子レンジなしでは暮らせぬと新しい電子レンジをビックカメラで購入。
ヤマダ電機のほうが安いのだろうが、ついむかしからの慣習でビックカメラ。
おなじ東芝製品を買いなおそうかとも思ったが、
また壊れたら笑えなくなるので(冬にレンジがないことに耐えられないわたしはカス)
東芝の半額程度の聞いたことのないメーカーのものを買った。

オフィスワークをしたことがないのである。
いまありがたくも雇っていただいているバイト先は、
オフィスワークのようなものを盗み見、盗み聞きさせてもらえるので嬉しい。
われわれ短期アルバイトがシール貼りなどの単純作業をしているのとおなじ場所に、
そこでいうところの「部長席」がある。
うちは焼鳥屋だったし、まっとうなサラリーマン世界のことはまったくわからない。
これまでもいまのようなまっとうな企業に雇っていただけたことはない。
生活能力、実務能力のからきしないわたしはそのぶんだけ、
まっとうな会社の部長や課長にまでなることに仰ぎ見るような敬意をおぼえてしまう。
ひっきりなしに電話が鳴るところだが(吃音のわたしは電話対応大嫌い)、
それを器用にさばく女性ワーカーたちには一生あたまが上がらないと思う。
彼女たちはみな正規に結婚して旦那さまどころかそれぞれ子どもまでいて、
まっとうな生活を
ニート的な矛盾に悩むこともなく(私ってなに? 生きている意味ってなに?)、
短期バイトに当たることもなく(いじめることもなく)、
明るく波風立たぬように、言うなれば世界全体をうまくまわしている。

部長の偉さ、課長の偉さをどれだけ理解してるかで世間知らずかどうかわかろう。
短期バイトに早稲田卒と中卒をいっしょに入れて、
ふたりを同等に扱うことのできるのは優秀な部長だろう。
テレビライターの山田太一はやたら老いた庶民から愛されていると耳にするが、
それは氏が好人物であると同時にリアリスト(現実主義者)だったからだろう。
ドラマ「東京の秋」はダ埼玉の所沢に住む農民青年が、
東京の一流商社部長の娘に恋する物語である。
どうして商社マンが農民より偉いかといえば、世間がそうだからである。
埼玉県民がむかし東京六本木にコンプレックスをいだいてたのは社会構造ゆえ。

このドラマには「想い出づくり」で光り輝いた加藤健一がまた登場する。
ダ埼玉に住む農民、しかしバブル土地成金で金だけはある長男である。
ダ埼玉の農家のせがれである加藤健一(この人大好き)もむかし
お嬢さまと交際する機会はあったが、結婚まではこぎつけなかったという。
(我輩さまが)大好きな加藤健一いわく。

「俺の[結婚前の元カノ]は聖心だ、
皇太子の美智子さんが出た聖心女子大の女の子で、
こりゃあキツカったなあ。あー、この世の中にはやっぱり階級ってもんがあるんだなあ。
俺がどう求めても、こういうエレガントな女は、
俺ンとこへは来ねえだろうなあって、
かーなりいい雰囲気まで行ったけどなあ、勇気なかったなあ」


山田太一さんって女性の自由解放を描いたとされる「人形の家(主人子はノラ)」の
イプセンのようなあつかいを長らく受けているが、
実像はイプセンのライバルだったストリンドベリ的要素も
たぶんに持ち合わせていたのではないか?
一流商社部長で長男を
重役の娘と政略的に結婚させた(つまり自身も重役直前の)男は娘に言う。
この男くらいで手を打っておいたらどうだ? 
おまえもすでに27歳で価値がそれほど高いわけではないだろうと古手川祐子に。
いいから、現実的に手を打て、わが娘よ。

「いまつき合ってる[埼玉農家の]男と結婚する気がないなら、
そういうつき合いは長くない方がいい。
[見合い写真を見せながら]こいつは、東京工大を出て、新科学工業へ入った奴で、
将来性はこの前の男よりあるらしい。
顔はあまりよくないが、逢うなら、来週の日曜日に予定を組むといっている」


人間は「金、顔、肩書」の3Kだが、そんな現実は見たくない。
なぜなら現実はそうであるから、にもかかわらずそうと認めたくないから。
短大と高卒なんか、当方の感覚からしたらおなじだが(大卒も院卒も)、
そういう細かな格差にこだわると生活感があると朝日的絶賛を受けるのだろう。
弟が一流商社部長の娘とつきあっている久松(加藤健一)と、
同居するその農民階級の埼玉の母親(幾子)との会話から。
ダ埼玉の老婦人、幾子は息子の久松に言う。

幾子「口惜しいじゃないか」
久松「なにが?」
幾子「誠次[次男]は、あの子と一緒になりたいと思ってるだろ」
久松「いや、だから、俺はそう思ってたけど」
幾子「つり合わないとかいってる」
久松「ああ」
幾子「向こうがなんだっていうの。こっちの方が余程収入多いんだよ」
久松「そりゃそうだけど――」
幾子「一度家を見て下さい。家族に逢って下さい。
 本人二人がつり合わないと思っている程、お宅さまと家に差があるかどうか」
久松「本人たちは本人同士のつり合いをいってるんだって」
幾子「それだって短大と高卒だろ」
久松「そうじゃねえって」
幾子「じゃあ、なに?」
久松「いや、それもあるよ。女房が仮にも大学出てて、
 亭主が高卒だってことも問題がないとはいえねえけど」
幾子「そんなもん」
久松「育ちが違うでしょう。食いもんでもつき合いでも趣味でも、一緒になって、
 本音をぶつけ合い出すと、そういうとこがあんまりちがうと、
 たしかに、たまんなくなるとこあっからね」


山田太一ドラマを良識的だと絶賛して、
野島伸司ドラマを罵倒する朝日新聞読者がいかにものを自分の目で見ていないか。
山田太一はドラマに階級差別感情をこれでもかとか書きつけているのである。
多数派の庶民、下層民などこの程度にすぎぬと。
わたしは、山田太一先生は朝日賞とは正反対の作家だと思う。正反対の作家だと。

(関連記事)
「東京の秋」(山田太一/ラインブックス)
1993年(平成6年)にNHKで放送された90分×3回の山田太一ドラマを視聴する。
9年まえにシナリオで読んでいて、ストーリーを細かくブログに書いていたため、
かなりのところ内容を記憶しているのである(映像は見ていないが)。
あらすじ紹介って一見かんたんな気がするけれど、じつはそうとう難しい。
40歳を過ぎてもだれにもほめられたことがないから、
自分で自分を厚顔にも礼賛すると、わたしは物語や書籍内容の要約がうまい気がする。
来年1月10日以降また無職になるけれど、
仕事がら本を読む必要がある人で、
しかし忙しくて本を読む時間がないという高収入の人に雇ってもらえたら。
本を読んで内容を正確に短文でレポートする仕事があれば速読はできるし、
読書経験豊富な当方にはぴったし、なんちゃって。
法人収益を税金で取られるくらいならわたしを有効利用するのも手ではないか?
まあ、世の中そんなに甘くないのは知っているつもり。

山田太一ドラマ「秋の一族」は孤独な人たちの物語。
唯一、孤独ではないのは、
美人の女房(原田知世)が臨月で出産目前のイケメン工員(大鶴義丹)。
ふたりが電車でラブラブハッピーを見せつけている。
孤独な会社員がいて、それを見て腹が立って、足を出して臨月の妊婦を転ばせる。
それを見ていたのは夫のイケメン工員だけだった。なにをしやがるんだ!
ブルーカラーの大鶴義丹は研究所会社員でホワイトカラーの男性をボコボコにする。
全治、4ヶ月だかなんだかの重傷を負わせてしまい収監される。
示談も可能だが、それには謝罪と医療費実費、示談金100万が必要だという。
本当に悪いのはあっちだろう? 
どうしておれが謝罪して金まで払わなきゃいけないんだ?
しかし、証拠もないし、証人もいない。
大鶴義丹は「正しい」こと「本当」のことを求めて、
臨月の美人妻がいるのに示談に応じようとしない。
このままだと実刑である。

大鶴義丹の父は元商社マンだったが、リストラされいまはパート(緒方拳)。
母は10数年まえ、自分の人生を生きたいと
夫と子どもを捨ててシンガポールで成功した女性実業家(岸恵子)。
久しぶりに日本へ帰ってきていたというタイミングもあり、岸恵子は
いろいろ元夫(緒方拳)、息子(大鶴義丹)、息子の嫁(原田知世)の世話を焼こうとする。
緒方拳は無職で孤独なため、ほろっとしかかるが、
岸恵子から5、600万融通できないかと言われ現実を知る。
この家を担保にしたら銀行から5、6百万借金できるでしょう?
さんざん夫たる自分を罵倒して、いわば家族を捨ててシンガポールに行った女性は、
いまむかしを懐かしむようなことを口にしながら、
しきりに接近してくるが結局のところ目的は金だったのか。
ドラマのラストは原田知世が出産し、家族の結束の結果、
孤独な男性が自分の罪を認め、
ただただ「さみしい」からという理由だけで、
緒方拳は元妻の岸恵子に金を工面してやり、復縁、商売の手伝いを申し出る。

わたしは世間とは金のことだと思う。世間知らずとは金の価値を知らないこと。
あらゆる問題を解決するのは法律でも人情でもなく、金ではないかと思う。
世間を知らないものほど、わたしのように人情びいきのようなことを口にして、
人生は金ではないというそぶりを取りたがる。
しかし、人生も世間も、どこまでもどこまでもお金の話とも言えるのではないか。
お金の関係で人と人は絆(きずな)をつくり、そこから人情のようなものが生まれる。
あらゆる人間関係の出発地点はお金と言えるくらい金銭は重要なものだと思う。
しつこいほど繰り返すが、世間とは金銭の価値体系の総合であり、
世間を知る処世人とは金の価値(同時に無価値)を限りなく知った人であろう。
人が自分に近づいてくるのは、自分の魅力ではなく、
裏には金銭事情があるのだから、うぬぼれてうっとりするんじゃねえ。
金がある人のもとに人は寄ってくるが、世間とはそういうものである。
わたしはほとんどだれからも相手にされないが、
それは金がないためだと思えば、おのれのプライドは傷つかない。
お金がうなるほどある成長企業の敏腕経営者、
シナリオ・センター小林幸恵社長のもとには人がひっきりなしに集まり称賛礼賛の嵐だが、
かの女性成功実業家(実際は二代目の利権保持者だが)に
「厚顔」と罵倒された格下の、貧困が足元まで迫っている中年のことはだれも関心がない。
金を持っているやつが偉いのである。それが世間を知るということだ。

山田太一さんとおなじでわたしもセリフ重視派である。
俳優はシナリオ通りにセリフを言えと思っている。
しかし、視聴者はシナリオ台本がない。
そのためどうセリフが言われたかは視聴者それぞれが解釈するしかない。
「正しい」セリフはあるのだが、その通りに役者が言っているかもわからず、
さらに視聴者がセリフをそのまま聞いているとは限らない。
どのセリフをどう聞くかは視聴者の自由と言ったら聞こえはよいが、
人生経験や言語体験(読書体験)に支配される。
工場労働体験のないものとあるものとでは、おなじ工員のセリフも聞こえ方が違うだろう。
結婚体験のあるなしもそうだし、出産経験、離婚経歴も解釈に影響を及ぼすだろう。
ほぼシナリオで内容を知っている山田太一ドラマ「秋の一族」を視聴しながら、
わたしは自分の耳に残ったセリフをメモに記録していた。
シナリオを見返したら、「正しい」セリフはわかるのだ。
しかし、あえてそれをやらないで、
わたしがわたしの人生来歴から耳にしたセリフを書き残してみようと思う。
それは事実ではないかもしれないが、わたしにとっては真実である。
わたしはこのようにセリフを聞いたという意味においてだ。

「もっと現実的になっているかと思った」
「本当はどうだったかなんて関係ない。証明できなきゃ正義ではない」
「意地はってなんになる?」
「ちゃんと幸福になってやる」
「正しいことのためにがんばるなんて、ドラマの主人公みたい」
「どっちが正しいのか?」
「(元商社マンの)おれは仕事をクビになりパートをやっても仕事人間になる」
「事実を知りたい」
「証拠がなくたって信じるってところがどうしてないのさ?」
「(ホテルの)格を落とすと足元を見られる」
「親ならなにをしてもらっても当然なの?」
「人生、正しいことが通らない」
「クビになって(そのうえさらに)しょぼくれたくない」
「子どものことを心配しないで、自分、自分、自分」
「さみしいんでしょう?」
「いいか、常識では――」
「ものすごく人間ってひとりぼっちなんだなあ」
「立ち入らなけらば、ブルックナーが好きでもいい」
「(あなたの)役に立ちたい。本当のことを言わせてみたい」
「女性が怖い」
「(ドアを、こころのドアを)開けてください」
「本当は(人間みんな)バラバラ。そんなものよ」

わたしは孤独感の強い、さみしい、ひとりぼっちの人間で、
しかしドアを開けたくて人に立ち入ってみたいところもたぶんにあり、
そういうことをして相手から拒絶され、おのれの非常識、世間知らずを恥じ、
もういやになっちゃうと思うが、
そういう自分のような人間を描いた山田太一ドラマを見て、
「人間の喜びと悲しみ」とうめきながら、生きているのも悪くないと自分をごまかす、
めんどうくさい自意識を持った、ありがちなタイプの人間なのだろう。
晩秋のいま視聴したドラマ「秋の一族」はよかった。
3日働いたあとに晩酌しながらドラマを1回ずつ全3話見て、
休みの今日つまらぬ感想を書いた。しみじみ悪くない。

(関連記事)
「秋の一族」(山田太一/「月刊ドラマ」2003年6月号/映人社)

1985年(昭和60年)に日本テレビで放送された単発ドラマ。
そこそこ収入のあるもてない中年男女が結婚相談所を通じて出逢い、
お互いの趣味や嗜好がまったく合わないのにもかかわらず(双方相手をお断り)、
しかしほかにだれにも相手にされないのでひとりでさみしくてたまらなく、
この孤独の寂寥感から逃れられるのなら喧嘩相手でもほしいと思って、
なかばやけくそに恋愛感情抜きに結婚する身もふたもない物語である。
このドラマに登場するもてない中年男とおなじ41歳だが、
いまだに世間のことがよくわからないから山田太一ドラマをおもしろく感じるのだろう。
世間知らずなため正義の朝日新聞の主催する朝日賞を受賞した、
当方から見たら世界最高レベルの劇作家の作品から世間(日本社会)を学ぶことが多い、
教わっているというよりも、こちらの人生経験が増したため独学できることが増える。

世間というのは感情(人情)と契約(常識)のバランス感覚なのだと思う。
人間関係は人情と契約に二分されると言ってよい。
わたしは今年派遣で働いていた大手スイーツ会社で契約上(法律上)は
してはならない強制休日を命令されたが、
そこの会社へはいろいろな人情で働いていたので怒りを感じなかった。
契約ではなく(そもそも契約がよくわからない派遣雇用)人情で働いていた。
さすがに年齢と性別からして近所でもっと条件のいいバイトは探せただろうが、
派遣会社の人や同僚に人情を感じていたから双方の自然な着地点まで
毎朝早起きして交通費も全額出ないなか、日給約7千円のために働いていた。
むかしは雇用関係は義理人情が主流だったけれど、
いまは契約重視(コンプライアンス)でしょう?
わたしはコンプライアンスよりも義理人情のほうが肌身に合っているが、
しかし去年バイトした大会社子会社で上司からプライベートの酒席で、
毎朝1時間サービス早出を1年くらいしたら契約社員にしてやると言われたときは参った。
30分でもいいと言われた。実際、タイムカードのないその職場で、
副工場長は毎朝30分以上サービス早出をしていた。
「やる気」がないと叱られることが多かったが、
世間知らずのわたしは「やる気」がサービス労働のこととは知らなかった。

同僚の60歳を超えるバイトのチーフは、
毎朝2時間レベルでサービス早出をしていた。
西洋的契約とは異なる日本的人情の世界に生きていたのだろう。
だが、どうしてもわたしは近所なのに毎朝1時間早く出社することができなかった。
そこは大会社だけあってバイトも有給を取れたのである。
コンプライアンス重視のいまでさえバイトのぶんざいで有給を取れるところなんてあるか?
契約期間中にもかかわらず退職勧奨をされ(まあ威圧恫喝されたわけだ)、
世間知らずのわたしは自己都合退職(一身上の都合で……)に追い込まれたが、
ありがたくもバイトにもかかわらず法令通りに有給を全消化させてくれた。
わたしの直近の先輩のYさんも恫喝退職勧奨で辞めさせられたそうだが、
彼はおそらく有給をぜんぶ使えなかったのではないか。
いきなり工場長からまったくいきなり突然に退職勧奨されたのだが、
その直前に副工場長とプライベートでの何度もの酒席を経て、
「これからはおれと土屋さんとは友達だ」と言われ、
私用の携帯電話の番号を教えてもらっていた。
友情は契約(雇用)関係ではなく、人情の世界である。
わたしが工場長から退職勧奨をされたとき、副工場はなにもしてくれず、
本社に抗議したらペーパーの面において、
「友達宣言」をした男は正社員として所属する大会社の味方をしたが、
こちらとてそれに絶望するほどの世間知らずではなく、
やっぱりなあと思っただけである。

答えのない問いだが、人間関係ってなんなのだろう?
職場では親しくしていても、
一歩そこを離れたら怖くて口のきけない関係も多々あるわけだ。
職場では夫婦のように仲のよかった男女が、職場以外で逢ったらどもりどもりになる。
職場では先輩後輩の関係からお互い抑制していても、
プライベートで逢ったらめちゃくちゃ本音を言い合える親友になるかもしれない。
むかしは雇用関係(契約)と人間関係(人情)をほどよく中和する飲み会や
社員旅行があったのだが、いまはそういう日本的行事は嫌われている。
雇用(契約)関係にあるあいだは、
わたしをクビにした工場長も女性チーフも威張っていられる。
しかし、近所でたまたま対面したら、そこはもうなんの関係もないから、
法律ぎりぎりのことができるわけである。そこでするかしないかは当人の人間信頼問題。
山田太一の好んでテーマとする孤独というのは人間関係が乏しい状態のこと。
働けば、契約(雇用)関係を結べば、どんな人とも接することができる。
だが、それは社会常識の領域の世界である。
契約関係では会話できる男女がプライベートでは言葉も
交わせないというのはままあろうし、それが世間の実相のような気がしている。
友情は仕事のような契約関係ではないからいつ切られても文句は言えない。
とはいえ、5年、10年の友情関係があったら、それは半端な雇用契約関係よりも強い。
どうして人が恋愛関係では不満で結婚したがるかというと、
結婚には不安定な恋愛にはない法的契約があるからとは考えられないか。
いまさらなにをそんな常識を指摘しているのかと笑われるのを承知でいう。
よくも悪くも人が結婚したがるのは法的契約による安心のためではないか。
結婚は感情(恋愛)と契約(法律)が複雑にからまった人間関係だからおもしろい。
おもしろそうなものはとりあえず経験したいのだが、相手がいない。

ドラマ「ちょっと愛して…」に登場する孤独な中年男は、
当時でいまのわたしの倍以上の年収があり、
ルックスも数倍いいのに(そりゃまあ俳優だから)いくら見合いをしても断られる。
孤独な中年女も仕事ができ、当時で男同等の収入があるのにだれにも相手にされない。
さみしい。さみしいから逢いたいと言われると、これはデートかもなんて思って、
忙しいなかわざわざ休みに男女は逢うが、お互い気に食わない。
男が誘って浅草の大衆割烹(とシナリオには書いてあったが実際は居酒屋)で
ふたりは昼から酒を飲む。女がいやだというのを男が無理やり誘った。
もてない中年男は光一で、もてない中年男は秀子。
光一と秀子は最初のお見合いでコーヒー1杯660円もするホテルのカフェで逢った。
断わって断られて、しかしふたりはさみしいから、ただそれだけで再会する。
下町居酒屋で真昼間から酒を酌み交わす、もてない中年男女。

光一「こういうとこ、いいだろう?」
秀子「ええ」
光一「結局そうなんだよ(と盃を出す)」
秀子「あ、失礼(と徳利をとる)」
光一「日本人が気取ったってはじまんないんだよ。ホテルとかいってさ、
 つっぱらかって歩いたって、白人が通りゃあ、ドーッと見おとりしちまう。
 そりゃそうなんだよ。ホテルってのは白人が考えたもんだろ、
 そういうとこは白人が似合うように出来てんだよ。
 日本人はこういうとこよ。こういうとこへ白人が来てみなよ。なんか場違いだろ。
 ところが、俺たちは、ピターッと決まっちまう。ハハハハ」
秀子「フフフ」
光一「パリとかロンドンとか、すぐそういうこという奴大嫌いなんだ。
 行ったこともねえくせに」
秀子「私――」
光一「あるんです、パリも、ロンドンも、ローマも」
光一「そんなもんは、どうせ三泊四日ぐれえで」
秀子「十七日間でした」
光一「似たようなもんじゃねえの。サーッと匂いかいで来たようなもんだろ。
 そのくらいで、行ったとかなんとか、すぐいいたがるのは、
 俺、まったくやんなっちゃうんだよなあ」
秀子「いいたがるわけじゃないけど」
光一「そいでもって外国の音楽なんか聞くんだろ?」
秀子「はあ?」
光一「聞くなっていうんだよ。無理するなって。
 本当にいいと思ってるわけないんだから」
秀子「そうかなあ」
光一「日本人はこれよ(と流れている歌のない歌謡曲を指し)こういうのは、
 シミジミーッと心に沁みてくるけどよ。外国の曲がよ、
 日本人に分るわけがねえんだよ(流れている曲に合わせて、途中から歌いはじめる)」
秀子「(複雑な思いで見ている)」


同年齢のおれは、もてない中年男の光一の気持がよくわかる。
3歳のころから親の見栄でバイオリンを習っていたけれど、
西洋古典音楽にはまったく興味がなく、
けれども日本の通俗歌謡曲だったら数度耳にしたらすぐにバイオリンでひけたからさ。
もしかしたらものすごい神童だったかもしれないわけだ~よ(妄想の自覚あり)。

もてない中年女はおなじく独身の女友達に愚痴をもらす。
山田太一の人間関係への認識はとても鋭く、
もしかしたらこの親友の同年代独身女性が結婚を阻害していたかもしれないのである。
結婚したら(友達)付き合いは悪くなるでしょう?
あいつが結婚したのなら自分も、
と影響を受けやすいのがわれわれの長所でも短所でもある。
仕事ができる、しかしもてない中年女は、
もてない中年男の領域(居酒屋)に連れ込まれたのが悔しい。
バカにすんなよと思う。秀子はそれをおなじく独身の女(雅子)に向かっていう。

秀子「いいたいこといわれて、どうしてたと思う?」
雅子「ひっぱたいた?」
秀子「笑ってたのよ。ほほえんでたのよ。 微笑浮べて、いいたいこといわせてたのよ。
 ここンとこ十年近くなかったデートのチャンスをこわしたくなくて薄笑い浮べて、
 バカみたいにうなずいて、感心したような顔してたのよ(と泣いてしまう)」
雅子「分るよ。その気持分るよ(と肩を抱く)」


いまも原則は変わらず、女は落としたい男がいたら、
男なんて基本的に自慢話しかしないから、それをフンフン聞いていたらよろしい。
逆はおそらく真ではなく、男は女の話をフンフン聞いていたら、
そのくらいの男と見下され、ほかへ興味をうつされることだろう。
さてさて、もてない中年男の光一がアグレッシブなのである。
どうしておまえはそんなに結婚したいのかさっぱりわからない。
もてない中年女(おばさん)の秀子はデパートの紳士服売場の主任だが、
そこに光一が来たら(恋愛=人情とは別に契約=仕事として)対応しなければならない。
おそらくこういう人情と契約の定まっていないところを利用した商売が、
キャバクラやクラブ、ラウンジ、ホストクラブなのだろう。
契約でありながらどこか人情が割り込める余地がある。
そういうところを利用するしか、
いまは(お見合いがないから=世話焼きババアがいないから)
プライベートで男女はめぐりあえない社会構造になっている。
職場でちょっとなんか言おうものなら、すぐにセクハラ、パワハラだ。

話をドラマに戻すと、もてない中年男女はお互い好きな世界にいたらいいのに、
周囲の視線(これを常識とも世間ともいう)にこらえきれず、
好きでもない相手の世界に踏み込んでいく。
同年齢かつ同種族の光一がフランス料理店を嫌いなのはとてもよくわかるが、
彼が偉いのは中年女(これをババアという)
に誘われたら大嫌いなフレンチにも金を払うところだ。
こじゃれたフランス料理店に誘われたもてない男はババアに一発かます。

光一「笑わしちゃいけねえよ。
 大体、こんな店、お前、ほんとに好きか?」
秀子「ほら、またそういうこという」
光一「これで三千円だと、サラダが七〇〇円だと。
 バッカバカしくて食ってられるかよ」
秀子「雰囲気を買うのよ」
光一「何処がいいんだよ?」
秀子「いいじゃない。灯りひとつとったって」
光一「鏡見ていってくれよ」
秀子「そんなことよく。よくそんなこといえるわね」
光一「俺は、そういうたちなんだ。気取ったりされると頭へ来るんだ
 (自制しつつとまらなくなり)フランス料理なんてのは、
 似合う奴が食えばさまになるけど」
秀子「へえ。じゃ格好の悪いフランス人は、フランス料理食べちゃいけないの?」
光一「当り前じゃねえか」
秀子「当り前だって。無茶苦茶じゃない。無茶苦茶、よくもまあ」


光一はまるでそっくりそのままおれみたいなやつなので笑える。
しかし、我輩さまよりもよほどましな顔面偏差値と収入を持つ、
しかも結婚願望のあるやつが結婚できないのはおかしいと義憤にかられていたら、
最後はもてない醜い中年男女がいやいや結婚したみたいで、
残尿感のようなもどかしい気持はあるものの、ある意味でのカタルシスは得た。
41歳になってもテレビドラマから学ぶことがあるなんて、
ぼくちんはどれほど世間知らずのお子さまなのだろう。

1.山田太一ドラマ=世間(会社)=人情&契約

2.山田太一ドラマ=結婚(家族)=恋愛&契約


(関連記事)
「ちょっと愛して…」」(山田太一/「月刊ドラマ」2003年6月号/映人社)
2001年にフジテレビで放送された2時間ドラマ。
肉体労働者の38歳の女性(田中美佐子)が11歳年下の元ホストのイケメンを、
恋愛はめんどうくさいからという理由で、金銭の契約で交際するものの、
彼から「結婚する」という嘘の告白をされ動揺するが、しかし、
結局はイケメンも11歳年上の田中美佐子に恋していることがわかり、
年齢差収入差こそあれ美男美女が結ばれるというハッピーエンド物語。
山田太一さんはよくもこんなアベコベ物語をつくれるものだと感心した。
常識では肉体労働をするのは男で若い女を買うのは男でしょう?
しかし、このドラマでは女が肉体労働をして稼いだ金で若い男を買う。
男は男らしくしろとか、女は女らしくとかいやじゃん。
そうしないと世間ではうまくいかないのはわかるが、けれどにもかかわらずそれでも。
どうして男女がどっかに行ったり飲んだりして男が金を払わないといけないの?
わたしの実際の顔を見たらふざけんな嘘をつけと大笑いされるだろうが、
わたしは女性との交際費で相手に出してもらったことのほうが多い。
いまでは肉体労働は男がするものとあきらめているが、
むかしどうして同時給で男ばかりきつい仕事にまわされるのか不服だった時期がある。
男は男らしくしなくてもいいんじゃないか? 女は女らしくしなくてもええのやないか?
そういう非常識なドラマをむかしフジテレビが放送した。

いいドラマだったと思う。本当にいいドラマだったと思う。
だから、シナリオを参照して見返したりもしているのだ。
リアリティーってなんなのだろう?
38歳の外壁クリーニング会社の共同経営者、バイトはふたり、それが田中美佐子である。
田中美佐子の飼う(買う)のは、ホストクラブで出逢ったイケメン27歳。
条件は1ヶ月の家賃+生活費15万。
見た感じ最低でも家賃は5万、生活費15万、交際費10万。
そうなると月30万の遊興費の支出だろう?
いくら収入があったら、月30万以上も払って若い異性を買えるのだろう?
わたしは派遣で出逢った早稲田政経卒のエリート会社員から、
「土屋さんはお金の話しかしない」と言われたくらいお金に興味がある。
金銭欲はさほどないが(?)、世界(世間)はお金だという認識が強烈にあり、
このため、世界・世間=お金に尋常ならぬ好奇心を持っている。
はっきり言って、お金ほど関心のあるものはないかもしれない。
いったい毎月いくら金が入れば、年収がいくらなら、
若い異性を月30万払って買える(飼える)のか?
あそこは有限会社だろうし、バイトもふたりだし、経営規模から考えて、
どうしたって田中美佐子は若いツバメを買えないような気がする。
ちなみにこのドラマの演出をしたのは、
山田太一さんのお嬢さんでフジテレビの超絶エリート、
まさに世間を知らないという言葉がぴったしの、
おいしい人生を満々遊歩してきた一流も一流、
育ちも学歴も収入も超一流の宮本理江子女史である。
ちなみに弟さんの自称撮影監督某氏は、
あのあいどん先生からもバカにされるくらいの高卒低収入芸術家(だがイケメン)。

このたびフジテレビの超絶エリートで芸術家でもあり、
結婚もして子どもにも恵まれているスーパー成功者の宮本理江子さまが
ご監督をなさったお父上のシナリオ作品を見て、
山田太一作品としては感動をしたがお嬢さまのお嬢さまぶりにウフフンだ。
お金がわかっていないんだよ!
住んでいるところ、食うもの、着るもの(以上3つは演出の領域)で非常に脇が甘い。
おまえ、お金に苦労したことがないんだろうというのが、もろにばれてしまう。
いい家庭に生まれて、いい学校に入って、いい父親のコネでいい会社に入って、
いい結婚をして国からも芸術賞をもらって、いい人生を歩んできた女はいいなあ。
わたしも世間を知らないことではかなり能天気ぶりがあるけれど、
こんな当方から世間知らずを指摘されるエリートの宮本理江子は天才である。
シナリオは言葉しか書いていない。
それを映像化(実写化)するのは演出家の監督さまである。
そんなきれいな仕事をして、あんな大金をばらまける収入を得られるかなあ、
という疑問がそもそもわかないのだろう。
フジのエリートだったら年収1500万くらい当時でいっていたのか?
しかし、手取りはいくらだ?
夫婦でダブルインカムだったら若い男を買える(飼える)くらいの余裕はあったのか?

わたしは世間(=お金の価値)をよく知らないというコンプレックスがある。
このため、他人のそれにも嗅覚鋭く気づくのだろう。
月15万って、週5で必死で働いてわれわれがきつく汚い仕事をして得られる収入よ。
そっから家賃を払って、税金を払ったらなにも残らない。
わたしの労働環境では、みんなそんな感じで細々と、しかしそこそこ明るく生きていた。
そこから見ると月30万若い異性に払える仕事が、
あのきれいな外壁クリーニングだとはとうてい思えない。
――おれさ、いま最高に最低にいやな顔をしているんじゃないかしら?
自分は世間を知っているというような、鼻持ちならないドヤ顔をさ。
わたしはとてもとてもそんな偉そうなことを言える庶民ではありません。
むしろ、宮本理江子さんのほうが世間を知っていて、だから女の夢のようなドラマを、
だれも軽んじられない巨匠・山田太一のシナリオに逆らって演出したのだろう。
フジのエリートの宮本理江子は父親のシナリオをいくつも無断で改変していた。
ここも変わっている、ここも変えたのかといくらでも指摘できる。
業界雑誌「月刊ドラマ」のインタビューでオヤジの山田太一は、
セリフを変えなかったからそれでいいと言っていたが、
綿密に検証してみたらベテランの小林稔侍、渡辺えり子は、
無数にセリフを自分の言いやすいように言い換えていた。
田中美佐子と要潤はセリフをシナリオ通り正確に言っていたのとは対照的だ。
フジテレビのエリート女性演出家は、
巨匠のシナリオも変えられる度胸自慢をしたかったのか?
それは父親だから怒られないという甘えがあったのかどうか、
父娘ご両人以外はわからない。

2017年にこのドラマを見たときには、痛快のひと言だが、
2001年に放送されたときに視聴した自分の感想はわからない。
インタビューによると山田太一は、
当時流行していた援助交際に刺激されてこの逆転物語を思いついたという。
ちょっと金がある中年男が女子高生を金で買うのなら、
アラフォー女子が若いイケメンを金で買ってもいいのではないか?
よくはないかもしれないが、そういう現実もあるいはありはしないか?
40前後の性欲ってどのくらいあるんだろう、男も女も?
そんなに性欲、みんなあるんすか? 
と仰ぎ見るような感覚がドラマ作者からは感じられる。
一般的に性欲は男のほうが強く、だから女を買うとされているが本当はどうなんだろう?
アダルトビデオとかどこまでが本物なのだろう?
いまは女の性の売値が安いけれど、それを見た血縁のものはどう思うのだろう?
娘のAVとか母親のAVとかへたをしたら見てしまう可能性があるわけでしょう?
田中美佐子だって若いころにヌードになっているが、
それを見た血縁者はどう思うのだろう?
若いころの田中美佐子のヌードって、いまの若い子の裸よりもよほどソソルよねえ。
このドラマを2017年に見て、あの人って田中美佐子に似ていると気づいた。

38歳の田中美佐子は2001年に「恋愛は面倒くさい」という。

「大体、こんなはずじゃなかったの。恋愛とかさあ、そういの、
面倒くさいし、信用できないし、ろくなことないから、
パッとね、わり切って、金銭払った分だけのつき合いって
――そうすりゃあ、相手がどう思ってるかなんて関係ないし、
払った分サービスして貰って、倦きたら切る。
そういうの、いいと思ったのに――今だって、
愛しているとかそういうんじゃないかもしれないんだけど――まいったわ。
なんか、穴があいたみたいになって――なにやってもむなしくて――」


わたしは義理人情とかそういう世界は大好きだけれど、
それは自分がすべてを金銭化している醜さの裏返しなのかもしれない。
わたしは自分でもいやになるくらいお金へのこだわりと無頓着さが並行して同時にある。
お金の話が大好きだから、人情の世界に逆説的にあこがれるのだろう。
女とはつねにワリカンかおごってもらう。おごったら援助交際になっちゃうじゃん(笑)。
男らしくないのだろう。
いまではサイゼリヤやジョナサンならおごる(かっこう悪さをさらに出している自覚はある)。
このドラマでは男らしい50歳の小林稔侍がヒモの若いイケメンに説教するシーンがある。
男は男らしくしろ。男は仕事をしろ。
結果、仕事をクビになって女房子供から逃げられ、
田中美佐子の運転する車めがけて自殺しようとするも、
それも気合いが足りないため失敗した小林稔侍(卓次)とヒモ(克=かつ)の会話。

卓次「なに考えてんだ。あの人から、金とったって? 男がそんなことするなよ」
克「女ならいいんですか」
卓次「女だって悪いよ。金とってそんなことするなよ」
克「――」
卓次「[ジュエリーデザイナーの夢を追っている若い克の](彫金を見て)なんだよ、これ。
 こんなことして遊んでんのか?」
克「仕事ですよ」
卓次「食って行けんのか?」
克「いけませんよ」
卓次「どうしようもねえじゃねえか」
克「金稼がなきゃ、どうしようもないですか」
卓次「当たり前だろ。甘いこといってんじゃねえよ。
 女から金貰って生きていけるほど世の中甘かねえんだよ。
 俺なんかずーっと、死んじまうんじゃねえかと思うほどずーっと働いて、
 妻子やしなって、それで(とドアの方へ)」
克「それで、どうしたんですか?」
卓次「それで?(と止まる)」
克「ずーっと働いて、妻子やしなって」
卓次「帰ろうとすると、なんかいうな」
克「馘(くび)ですか」
卓次「お前にいわれたくねえよ」
克「どん底だっていうから」
卓次「馘だよ、妻子に見はなされたよ。死んじまおうかと思ったよ。
 死ねなかった。これでいいか。楽しいか。ザマァ見ろか。
 いくらでも笑いやがれ(と出てドアを閉める)」
克「――」


ある派遣先で知り合ってもう一生逢わないだろう2歳上の男性のことを思い出す。
自分は本職は不動産の営業マンで妻子もいる優秀な人間である。
たしかに好人物で仕事も的確で、ほほうと思ったものである。
次の正社員の仕事も決まっていると言っていた。
しかし、仕事終了後の飲み会で、酔っぱらった彼は本当のことを口にした。
本職もなにもない派遣バイトだったし、次の仕事もじつは決まっていないし、
妻からは愛想をつかされてひとり暮らしであることを。
なんで男は男らしく強がらなければならないのだろう? 
弱音を吐く男や女に甘える男もいてもいいのではないか?
女々しく現実的に金銭にこだわると、恋愛も結婚も援助交際だろう?
金がない醜い中年男なんてだれが相手にするんだよ!
人生は金だ、金、金、金。
きっと山田太一もそう強く思っていたから、そんな自分が嫌いで、
そうではないふりをする自分のような庶民を好んで描いたのだろう。
きっとそうだろう。夢のためとかいって、
小遣い銭にもならないシナリオを、
何度も何度も上の言いなりに書き直す人への嫌悪感があったはずである。
わたしはお金の価値をよくわからない世間知らずだから、
山田太一ドラマが好きなのだと思う。同時にお金の話は大好きである。
女の話なんかよりもはるかにお金の話に興味を持つ。
でもでもでも、田中美佐子の若いころのおっぱいもええなあ。
女って自分の裸で欲情されるとどんな気がするんだろう?
そのことへの想像力がいちばんエロスを感じる。

(関連記事)
「この冬の恋」(山田太一/「月刊ドラマ」2002年3月号/映人社)
山田太一ドラマ「タクシー・サンバ」第2話「愛のかたち」の話をしたい。
1981年(昭和56年)にNHKで放送されたタクシー営業所を舞台にしたドラマである。
タクシー仲間の連帯の強さを描いたドラマという角度でとらえることもできる。
こういったら俳優に失礼になるのかどうか、
いかにもいかにもどうしようもなくモテなさそうなルックスの
タクシーの運ちゃんがいるのである。キャスティングとしては最高である。
病身の母がいるとかで嫁のキテがないが、あきらかにルックスがあるだろう。
何度見合いをしてもうまくいかない。
当時のタクシー運転手といえば、そうとう稼げる職業だったにもかかわらずだ。
そこで既婚中年の班長がおせっかいを焼いて、
これはお似合いではないかという若い女性(榊原郁恵)を見つけて、
そんなことをするのは人生で初だが見合いを設定してやる。
さすがにこのモテなさそうな男と若くてかわいい
榊原郁恵とは吊り合わないだろうと思うが(ミスキャスティング!)、
タクシー運転手と弁当の移動販売車のバイトでは収入的にはOKなのかもしれない。
当時は25歳を過ぎると女性は嫁のもらい手が減少したというし、
そのうえ女性の社会進出はぜんぜんだったから、
この程度で手を打てよというところが社会常識だったのかもしれない。
おかしいのは子持ち中年の班長さんがもう嫁との関係は冷え切っているのに、
同僚の若者に嫁を世話してやろうというところである。
モテない不細工と榊原郁恵は見合いではどちらも断ったが、
その後偶然にも再会して、まあこの程度かなあ、と付き合いを始め、
はああ、ひとりでいるよりはいいかと結婚しようということになる。
そのことを報告され怒るのが班長である。
自分が見合いを設定してやったのに断っておいて、
その後に結婚するなんてふざけている。
なにより憤懣を感じるのは、おまえらがまったく愛し合っていないのに、
お互いさみしいからというようないいかげんな気持で結婚しようとしていることだ。
そりゃあ結婚して数年も経てば愛はさめるだろうが、
結婚するときくらいこの女が世界でいちばん、
この男が世界でいちばんと思ってしろ。
おれはおまえらがそう思うまでこの結婚を許さないからな!
そういう障壁ができたことで盛り上がったのかふたりは愛し合い(本当かよ?)、
見合い結婚ではなく恋愛結婚をするにいたる。

もうひとつの愛のかたちは緒方拳である。
元エリート商社マンで仕事に夢中になって女房子供から逃げられた。
会社からも見放され、人間不信になりいまはタクシードライバーに身をやつしている。
たまたまタクシーに乗せた若い美女(大原麗子)が自殺願望を持っていることを知る。
金で解決できることなら金を貸そうと言い出す。いくら必要なんだ?
大原麗子は200万だと言うが、当時の200万円がいまのいくらかはわからない。
大金であることはたしかだろう。
大原麗子は悪い男につかまっているという。好きだという。
元プロ野球選手で脚光を浴びたが、2年で怪我をして引退。
しかし、華やかな過去を忘れられず地道に働こうとしない。
一発当てて世間を見返してやりたいと思っているのか、
元は社長秘書をしていた大原麗子を水商売で働かせ、
しまいには身体を売らせようとまでする。
なぜなら商売で失敗をして200万の借金があるからである。
いくら情がうつった男の命令でも見知らぬ男に身体を売るのはいやだ。
大原麗子が自殺をしようと思った理由である。
元エリート商社マンの緒形拳は120万しか貯金がない。
タクシー会社の社長に80万円貸してくれと頼むが断られる。
緒形拳は自分は人命救助をしたいだけなんだと言い張る。
たたき上げっぽい老社長は、緒形拳に向かってあなたは世間を知らないと言い放つ。
緒形拳はサラ金で金を借りてまで200万をつくり大原麗子に渡す。
そのかわりあの悪い男とは別れろ。もっと自分をたいせつにしろ。
金を渡したあと緒形拳は大原麗子と一発やる。
緒形拳は仕事に身が入り、いい恋愛をしていると呑気(のんき)なものである。
だがしかしけれども、大原麗子は元プロ野球選手とよりを戻してしまう。
借金はいつか返すと住所を書かない手紙をタクシー会社に託して。
大原麗子はイケメンでしっかりとした元商社マンの緒形拳よりも、
ろくでなしと言ってもよいプロ野球くずれのインチキ野郎を愛していたのである。
金や安定、ツラではなく自分の気持に忠実になった。
それを恋愛と言っていいのかはわからない。

いったいどちらが本物の恋愛なのだろう?
計算打算で見合い結婚を恋愛だと思い込み結婚するのと、
人さまの厚意の200万円提供を裏切り悪い男についていくのと、いったいどちらが?
むかしこのドラマ脚本を読んだときにはどちらもうさんくさかったが、
いまではどちらも本当にありえるようなことではないかと思う。
結婚なんてしょせんは「金、顔、肩書」の吊り合いでしょう?
むかしは世話を焼く人がいたけれど、いまは個人情報なんたらで人間関係が希薄になり、
結婚相談所を儲けさせるしかない。
そうなると相手を年収、顔面偏差値、会社レベルという数字で判断するしかなくなる。
いまは本当に希少ケースだろうが、
共依存のような数字を無視した「愛のかたち」もなくはないことを、うーん。
いまはとっくに縁を切って詳細は知らないが、むかしニートをしていたバカ男がいて、
そいつが女とよろしくやっているのを聞いて心の底からむかついたが、
そういう現実もあるのかと世間を知ったような気になったものである。
しかし、やはりドラマの元プロ野球選手には好感を持てない。
本当に相手のことを考えたら、自分と交際するのは損なのだから、
格が上の緒形拳が現われた時点で200万をもらい身を引くべきだったのではないか?
それが本物の「愛のかたち」ではないか?
さてさて、最後に根性が悪いことを書いておくと緒形拳は笑える。
人命救助、人助けをしたいと思って200万を女に渡して逃げられるのだから。
一発200万なんて価値のある女がこの世に存在するのかよ。
美人局(つつもたせ)に遭ったようなもんじゃないか!
しかし、もしかしたらこれが本当の本物の「愛のかたち」かもしれないのである。
愛情は金に換算できる(慰謝料!)というのは世界の真実ではないかもしれないが、
世間の実相であることをおそらく知らない大人はいないだろう。

元エリートの緒形拳(朝田)がたたき上げの老社長(大島)に借金を乞うとシーンから。

大島「こりゃあ、尋常な額ではない」
朝田「はい」
大島「貸すと思ったかい?」
朝田「あ、いや、ただ、いまの営業収入なら、無理すりゃあ、五ヶ月で返せます。
 御迷惑は、出来るだけ、かけません(一礼)」
大島「外国で――」
朝田「はい」
大島「随分きつい仕事をして来たということだが」
朝田「―― いえ、(と小さく)」
大島「やっぱり一流商社だねえ」
朝田「は?」
大島「世間を、知らない」
朝田「そうでしょうか?」
大島「(普通はとても)貸しませんよ。八十万は」
朝田「はあ(と目を伏せる)」
大島「返すかどうか、なんの保証もない」
朝田「しかし、返さなきゃあ、タクシーの仕事は出来なくなります。
 ブラックリストにものって、逃げ回ることをになります。
 八十万で、世間をせまくするのは、割に合いません」
大島「そんな事はあなた、なんとも思わないのがいくらでもいる」
朝田「はあ」
大島「理由を……聞きましょう」


世間知らずの緒形拳は大原麗子と出逢ったいきさつを話す。
タクシーに乗せた女が自殺をしようとした。200万必要だという。
自分は120万ある。あと80万あればひとつの命を救える、といったようなことを。
世間を知った苦労人の老社長は貸せないという。

大島「早い話、私が死のうとして、あなたが二百万貸すかい?」
朝田「死のうとした所に出くわせば貸すと思います」
大島「いい女でしょう?」
朝田「いえ――」
大島「言葉の端々で、相当いい女だってェことが分る」
朝田「まだ二度逢ったきりです」
大島「二度逢えば充分。私なんか一度で惚れた女が、いくらでもいる。ハハ、ハハハハ」
朝田「そんな――」
大島「女狂いに、金は貸せません。運転に、気をつけて下さい」


緒形拳はサラ金で80万を借り女に200万渡して一発やらせてもらい逃げられる。
そういう世間を知らないところがまるで自分みたいでうっとりするぜ。
ちなみにわたしは若く美しい大原麗子にまったくこころ惹かれなかった。
比較したら榊原郁恵のほうがいいけれど、
当方にはタクシー運転手ほど高額を稼げる甲斐性はない。
元プロ野球選手のような過去の栄光も、
一旗あげたいという野心も(むかしはあったがいまは)ない。
そもそも女をだまして惚れさせるような魅力がさらさらない。
女を利用して金を得るという世間知、交際術も持ち合わせない。
なんにもない、わたしわたしわたし。
同性愛者ではなく、男よりは女が好きだが、
そもそも特定個人に執着するということがほとんどない。
このため、こんな人間嫌いのわたしを夢中にさせた作家・山田太一は偉いのである。
しかし、そこは執着がなく、山田太一さんと個人的に知り合いになりたいとは思わない。
ちょっとお話しできるようなチャンスをかつて、
一部で有名な例のあいどん先生がつくってくれたが、直前で逃げた。
さて次はあいどん先生の推す「ちょっと愛して」を見ようか、
それとも「この冬の恋」を見ようか。
どちらもシナリオで読んでいるので、
テーマ(のようなもの)は「恋愛は本当か嘘か」であることを記憶している。
既婚の人はバツイチでもすごい偉いと仰ぎ見たいところがございますですね♪

1981年にNHKで3回放送されたドラマを視聴する。
去年のいまごろジェイコムの日本映画放送チャンネルで放送されたものを録画。
それを1年経ってからようやく観るのだから遅い。
すでにシナリオで読んでいたので、ついつい優先順位が後回しになってしまう。
いい大学を出ていい会社に入って
仕事人間の敏腕商社マンとして生きてきた男(緒形拳)が、
妻子に去られ会社から仕事を評価されず切り捨てられ(つまり挫折を知り)、
一流からそうではないとされるタクシー業界に入り(ひとりでできる仕事だから)、
かえって一流のエリートだった時代には思いも寄らなかった庶民の人情を知る――
という山田太一ドラマには類似したものが複数ある、いわば定番の物語である。
テレビを見るのは多数派の庶民だから、
ドラマは「庶民>エリート」「庶民>インテリ」を描くものにならざるをえない。
インテリやエリートが格下の庶民の美しさに感動するといったら嫌味だが、
それを自然に書けるのが山田太一の才能だったのだろう。
氏は早稲田を出て映画会社の松竹に入ったインテリでありエリートだが、
出身は庶民階層でたしか血縁で大学に行ったものはひとりもいないとどこかで聞いた。
庶民だからインテリにあこがれ難しい本を読むが、
おのれの生まれである身分階層=庶民をどうしても捨て切ることができない。
「タクシー・サンバ」を書いたころの山田太一さんはもう名が売れたライターだったから
きっと収入もそれなりにあったはずで、しかし、
こんな原稿用紙を汚すだけで大金をもらっていいのかというためらいもあったはずである。

どうでもいいわたしの話をすると、
タクシーの運ちゃんになりなさいよと言われることがある。
人の話を聞くことが好きだし、世間を知りたいならタクシーがいいよと。
ところが、光り輝くゴールドの運転免許証(AT限定)はあるけれど、
20年のペーパードライバーでいまやどっちがアクセルかブレーキかも忘れた。
土地勘もないが、いまはカーナビがあるが、それでも自信がない。
いまはタクシーはカーナビ完備だからベテランもなにもないらしい。
タクシーは嫌いでタクシーに乗るくらいなら1時間でも2時間でも歩きたいが、
よんどころない事情でタクシーに乗ると
ドライバーから身の上話をされることがちょっと異様なほど多い。
それも大病や身内の死といったディープな話をされるのである。
タクシーに乗るタイミングは絶対的な偶然だから、
これはだれにも仕組めないはずなのに、そういうことがどうしてかよくある。
わたしは人の話(言葉)を聞くのが好きだからいい世間勉強になる。
そうそう、このまえ近所で道に迷ったというおばあさんから、
家族の物語を20分近く立ち話でうかがったこともある。

インテリで当時エリート花形ライターだった山田太一は、
がしかし庶民派階級出身ゆえかならずやタクシーに乗ることに抵抗があったはずである。
しかし、仕事の必要上、乗らざるをえない。
たしか山田さんは車を運転できないはず。かりに免許を取っても運転がうまそうではない。
どうしてたかが売文屋にすぎぬ自分が、
タクシー運転手より高額のギャラを稼いでいいのか?
自分は庶民をだますドラマを書いて食っているが、
本当の世界つまり世間というものを知っているのはこういう人たちではないか?
そのような屈折した自らのインテリ性と庶民性の葛藤が、
山田太一にこのドラマを書かせたのだと思う。
脚本家はドラマを書くまえタクシー会社の取材をしたという。
忘れられない体験だったという。エッセイ「いつもの雑踏 いつもの場所で」から――。

「で、取材をはじめた。その取材は、十六、七年になる私の
ドラマライター暮らしの中でも、特別忘れ難(がた)い取材であった。
とりわけある中堅クラスのタクシー会社の営業所で一夜をあかした時の楽しさは、
以後つい何度も誰彼となく話したくなってしまうほどであった。
営業所の隅(すみ)に腰かけさせて貰って、三時すぎあたりから
ぽつぽぽつと帰ってくる運転手さんたちの仮眠所へ行くまでの動き、
会話をそれとなく見させていただいたのだが、
第一にあんなに明るいとは思わなかった。
朝の八時から深夜まで働いて帰ってくるのである。
疲れて、不機嫌に入って来るとばかり思っていたのだが、
日誌と金を持って入って来る運転手さんたちの誰もが、実に陽気なのにおどろいた。
一人だけ追突されて、客を病院に連れて行った人がいて、
その人はさすがに営業課長にがっかりしたような顔で説明し相談していたが、
あとは大声で、笑い声が絶えない。
計算を終えて課長に金を渡した人も、なかなか仮眠所へ行かない。
いなくなったかと思うと、自動販売機からカップ酒や缶ビールを買ってきて、
のみながら現れる。そして、その日にあったことだの、
次の休みにゴルフに行く話だのを大声で話す。
その会話の面白さに、私はほとんど顔をあげる暇がないくらいであった。
メモをとっていたのである。
次々と面白い「台詞(せりふ)が」出てくるので、
勿体(もったい)なくて書き落とせないという気持であった。
こういう運転手さんの生活を、みんな知らないな、と思った。家族の人だって知らない。
それをなんとかドラマの中で再現したいと思った。
出来たら一回分営業所だけでも面白く見せられると思った」


これは参与行為、
つまりインテリで同時に庶民派の山田太一の耳があったからかもしれないのだ。
人間は他人の目、他人の耳を強烈に意識するところもなくはないだろう。
その場にひっそりといたインテリでありながら楽天的で陽気、古い言葉だがネアカ、
軽薄とさえ言われかねない山田太一の耳が、場を明るくしたのかもしないのである。
山田太一は耳の感度が強い作家ではなかったかと思う。
タクシーなんてお客を乗せて降ろしての繰り返しである。
タクシーのみならず、海外勤務の商社マン(緒形拳)なら話は別だろうが、
基本的にどの仕事もおなじことの繰り返しでつまらないものである。
しかし、そのマンネリズムにもよく見れば、よく聞けば喜びと悲しみがあるではないか?
ちっぽけな喜びでも大笑いして、ちょっとした悲しみなんて笑い飛ばしてしまおう。
それが庶民に持って備わったおおらかさであり、生きる知恵ではないか?
小さな喜びでもおおげさに笑おう。ささいな悲しみなんか笑い飛ばしてしまえ。
それがなにごとも深刻に考えがちなインテリやエリートとは異なる庶民のちからだ。
踊れ。サンバでもルンバでも盆踊りでもいい。踊れ。笑え。なんでも明るく笑え。
しんどいときでも笑いを忘れるな。泣いてもいいが、そのあとに笑え。微笑を忘れるな。
踊るように生きられたらどんなにいいことか。
山田太一は固有の耳で聞いた言葉を自分の言葉に翻訳して、
ドラマ「タクシー・サンバ」を書いた。
わたしがどんな低賃金仕事でもけっこうおもしろがれるのは、
山田太一ドラマを深く愛してきたからかもしれない。いまも愛しているからかもしれない。
おかげさまで目と耳の能力が少しだけ上昇したのかもしれない。
朝日賞作家と自分を同等に置くのは恐縮だが、
わたしは山田太一とおなじで、
インテリの言葉も庶民の言葉もメモしたくなるようなケチでゲスな貧乏人根性がある。
まだまだ録画して視聴していない山田太一ドラマがある。
山田太一ドラマには始まりの定番台詞がある。それはなにかというと――。

☆「余計なおせっかいかもしれないけれど(立ち入っていいのかという迷い)」

(関連記事)9年まえにシナリオを読んだときの感想↓
「タクシー・サンバ」(山田太一/「月刊ドラマ」1982年1月号/映人社)

1968年~1969年に放送された全26回の
毎回30分の連続ドラマをジェイコムで一括視聴。
やっぱり切羽詰まるのがたいせつなときもあるのだろう。
もうジェイコムの録画機能が限界なのよ。
たくさん山田太一ドラマを録画していて見ないでためている。
もう録画できないって思ったら、
火事場の馬鹿力で13時間連続で朝から晩まで見ちゃうねえ。
録画していないから(再生して確かめられないから)集中力も桁違い。
久しぶりに本気になったような気がする。
まあ、13時間も連続して見(ら)れたのは、
この山田太一最初の連続ドラマがおもしろかったというのがいちばんの理由だろう。

放送されたのは昭和43~44年だからねえ。
家にこれまでなかった電話が引かれて、家族が喜ぶシーンがある。
えっ、昭和43年には電話が普及されていない中流家庭もけっこうあったの? って話。
いまは携帯電話さえ古くて、スマホ全盛の時代。
昭和51年生まれのわたしは携帯が壊れて、
またスマホではなくガラホを買ってしまったよ。
昭和43年には山田太一は34歳。
この初の連続ドラマで大成功したから脚本家として食っていけると算段を立てたらしい。
処女作にすべてが現われるというのは信仰に近いと思うし、
当時の時代風潮や、テレビ視聴者は庶民だからという関係もあるだろうが、
山田太一最初の連続ドラマを一括視聴して氏の人間観の根本に気づく。

「人間=さみしい、つまらない、むなしい」

これは平成になってからの山田太一ドラマにも共通する視点なので、
まさしく氏の基本としてある人間観であり、世界観なのだと思う。
世界ってちょっとでも考えるとむなしいもんだが、
そのむなしさをごまかすために学業や仕事に夢中になろうなろうとしているところがある。
むなしいから子孫の繁栄でむなしさをごまかそうとする。
さみしいが山田太一ドラマの基本音調で、
人はさみしいから恋愛して結婚して家族を作り、人に親切をするのだと思う。
「3人家族」でも「さみしい」「孤独」「ひとりぼっち」というセリフが頻出する。
むなしいやさみしいに比べてもっとも俗っぽいのはつまらないで、
人はつまらないから恋愛したり、人に意地悪(親切)したり、逢いに行ったりする。
人間って本当につまらない、さみしい、むなしい生き物だよねえ。
つまらないから人の噂話をして悪口を言い、どんな小さなグループでも政治が発生する。
つまらないから芸能人のゴシップを喜々として語り、自分も不倫したいなあと思う。
つまらないから恋愛のようなものにあこがれるが、
純粋におもしろい純愛はなかなかできず、
相手の収入、見栄え、職業、家柄などを計算して、
まあ、ちょっとでも脳みそがあればそんな卑しい自分にうすうす気づきむなしくなる。
ときに相手なんかだれでもよくなるくらい、さみしいと感じるときがある。
つまらないから恋愛(もどき)して、さみしいから家族(ごっこ)をして、
あんまりにも人生はむなしいから子どもでも作って、
自分は一生でなにか仕事をなしたと思い込もうとうする。
こういう人間たちの愚かにも美しく、そこにある喜びと悲しみにあふれた風景を、
34歳のころから山田太一はおもしろおかしく哀しく描き続けてきたのである。

むかしは電話やステレオくらいで大喜びできたのである。
いまのわたしはステレオもテレビもいらないし(パソコンでジェイコム視聴している)、
スマホを買える金くらいまださすがにあるけれど、
生活ぜんぶをネット世界に支配されるのがいやで、
わざわざガラホという名のガラケーを購入している。
会社で競争して出世するという夢もないし
(このドラマの竹脇無我のようにアフリカで商社マンとして大きな仕事をする!)、
栗原小巻のような若い美女と
純愛するという夢もないし(自分の卑小な外面的および内面的な現実を知っている!)、
政治にも宗教団体にも日本にも世界情勢にも熱い感情を抱くことができない。
もうすぐ衆議院選挙だが、わたしは政策も知らない公明党に入れるつもりだが、
おそらく創価学会は見返りを送ってくれるような人情をもう失っていることだろう。
人間はさみしい、つまらない、むなしいものだが、
いまは日本全体がさみしく、つまらなく、むなしいものになっている。
こういう自覚を昭和43年放送の山田太一最初の連続ドラマ「3人家族」から強く感じる。
なんとかこの「さみしい、つまらない、むなしい」にあらがおうと、
カッカしたくていきいきしたくて、いろいろしていないわけではないのである。
携帯電話番号を公開したでしょう。
なんでも来い、なんでもやってやる、なんでも見てやろうの世界である。
年齢的経歴的に難しそうな仕事にも応募しているが、まあ落ちる。
ナンパしろとか言うけれど、いまナンパしたくなる女なんているか?
アイドルなんかみんなおなじ顔じゃないか? つまんねえよ、バカヤロウ!

録画できないのでメモを取りながら視聴した。メモの一部から。昭和43年から。
「世間てえのはそういうもんだ」
「おれは負けるのが大嫌いだ」
「そこは因果をふくめて」
「しおらしいの」
「いまはビジネスマンにとってどこまで伸びるか大事なときだ」
「人を愛したことのない人間は、他人の愛を軽蔑できるか?」
「本当に人を愛したことがあるか?」
「あなたと話をしてみたかった(ナンパ)」
「人間の生きがいってなんだろうな――」
「さみしすぎる。穴が開いたようなさみしさ」
「バカかどうかは、仕事ができるかどうか」
「人間の値打ちとはなにか?」
「仕事の能力」
「一生懸命に努力するかどうか」
「他人の気持にどこまでなれるか(思いやり)」
「(この煙草を吸い終わるまでは)親が死んでも立てない」
「こういうことは顔を合わせては聞けない(だから電話)」
「あの人とつきあっておけば損はないからな」
「ひとりっきりでこの先、なにかいいことがあるのか」
「人を好きになったことがないから、わからないんだ」
「競争が嫌いなんだ」
「そんなことで世界が渡れるか」
「がんばれ、がんばれ。負けてたまるか」
「自分で自分のすることがわからない」
「40間近で妻子を捨て蒸発したのは、人生がはっきりわかってしまったからだ。
 自分の一生が見えた。幸福で平凡な生活だ。そういう一生がいやになった。
 自分のために生きたかった。おかげで世界は広がった。
 しかし、孤独というバツを受けた。さみしかった。
 死んだあとの痕跡がほしい。そう思ったとき、家族の意味がわかった」
「人が心配しているのに、どうしてあんたはそうなの?」
「ひとりぼっちだった(休日の)母を思って申し訳なく思った」
「自分の孤独と正面から向き合うと言うことも重要ではないか?」
「ひとりがいいなんて仙人みたいなことを言っちゃって」
「優秀なビジネスマンは腹芸もできなくてはならない」
「ひとりがめんどくさくなっちゃった」
「親なんてつまらない」
「ひとりで死ぬことの孤独を考えたらぞっとした」
「家庭へ逃げ込めたらと思った」
「人間なんてさみしいもんですから、ひとりがふたりになったことは、おめでたい」
「人生というのはえてしてこういうもの」

19歳で浪人をしている出来の悪い青年が同窓生の薬屋の美少女を好きなのである。
むろんのこと、美少女は相手にしてくれない。
青年がクリスマスプレゼントに贈ったブローチなど、
当日中に返されるくらいひどい仕打ちを受けている。
浪人生はおなじく浪人をしている見栄えはよくないが気のいい少女と出逢う。
人としてどうだかという問題はあるが、
クリスマスプレゼントとして薬屋の美少女から突っ返されたブローチを、
おなじ浪人をしている少女に贈る。たいへん喜んでくれた。
それがきっかけでふたりの浪人男女の交際はスタートする。
出来の悪い19歳は運よく2流大学に合格する。
1流半(明治)くらいのレベルかもしれない。
すると高卒で薬屋の美少女がわざわざ「おめでとう」を言いに来るのである。
それに困っちゃって嬉しくて舞い上がるようなレベルの低い元浪人生である。
交際相手の見かけはさほどの少女は美少女に喧嘩腰に言い放つ。
「(男を)振ったほうにも礼儀があるのではないか?」
とてもいいシーンだった。
女がさ、「あたしのことを好きなんでしょう」
と男をもてあそぶような天然の悪魔性っていいよねえ。
それをガンとはね返す見てくれこそよくないが、
気のよい、そして気高い少女もまた美しい。

わたしは山田太一最初の連続ドラマ「3人家族」を見た。
「さみしい、つまらない、むなしい」、しかしおもしろい人間たちを見た。
人間は「さみしい、つまらない、むなしい」から「どうしよう」と迷い、それがドラマになる。
「どうしよう」は「どうしようもない」のだが、
その「どうしようもないわたし」たちの喜びと悲しみを描けるのが、
50年近く業界で生き抜いてきた脚本家・山田太一の才能である。