「深層意識への道 グーテンベルクの森」(河合隼雄/岩波書店)

→河合隼雄の本を長いこと読み続け考えているが、
事態はちっともよくなっていないとも言いうる。
一難去ってまた一難という感じで、慶事が来ないないこともないのだが、
セットになってどうしようもない惨事としか思えないことも起こる。
河合隼雄の名言「ふたつよいことさてないものよ」をしみじみ実感している。
全体として考えると、本当によいことの裏には悪いことが、
悪いことにの背面にいいことが見え隠れする。
河合隼雄が好きだった鎌倉時代のマイナー僧、明恵の名言は「あるべきようわ」。
これは全体のバランスを考えて、
どうしたら全体の調和が取れるかを考えようとする姿勢であろう。
たとえば、いまのわたしの問題を考えると解決しようがない。
なぜならそれは20年近く考える、調べる、を繰り返してきたが、
それは全体的に見たら起こるべくして起こるというか、
全体のバランスを考えるとそれはどうしようもないのだ。

わたしの問題は両親の問題であり、祖父母の問題まで引きずっている。
おそらく曾祖父や血縁全体の問題がわが問題として結晶しているのである。
父や母も同様に血縁全体の問題をかかえて、
自分の問題に苦しみながら出逢い結ばれた。
こうして問題は血縁や親戚関係全体に引き継がれていく。
子どもや孫、曾孫に自分たちの問題が全体図のなかで発現してしまうこともあるだろう。
これが全体を考えるということで、
さらに過去世や未来世も「あるべきようわ」=全体バランスの視野に入れると
合点がいくとまではいかないが、そこそこ、まあ、なかなか
うまくいっているのではないかと思えないこともなくなるのかもしれない。
自分の苦悩や問題は全体(親戚全体、過去世、未来世)を考えるとどうしようもない。
起こるべくして起こっていると言えなくもない。
そういう現象を数年の心理療法や精神科診療で治そうと思っても治るわけがない。
ときどき苦悩や問題の軽減が起こることもあるが、根が深い問題はまたぶり返す。

苦悩は解消しないし、問題は解決しない。
なぜならそれは本当に広い意味での全体のバランスで、
どこまでもどうしようもなく宿命的に生じた全体的結晶であり、
花が咲き枯れた結実であるからだ。
精神科で扱う気分障害もそうだし、リスカや煙草や酒、ギャンブルの依存症もそうだろう。
彼女がたとえばセックス依存をやめられないのは宇宙的全体を象徴している。
その女性から生まれた子もおなじシンボリックな全体的宿命を継承するだろう。
ときたま苦悩の結果として悟りのようなものを得るが、それは続かない。
何度でも繰り返すが、全体のバランスがあるがために、問題は解決しない。
躁鬱、酒、煙草、薬物、賭博、自傷、性行為を簡単な努力程度ではやめられないのは、
それら問題行為は全体のバランスを取るために現われた必然的現象だからだ。
河合隼雄は心理療法家にはあるまじき、ネガティブアピール(逆宣伝)をしている。
いわく、問題は解決しない。
問題は全体のバランスからどうしようもなく起こっているため、しつこいが、
その問題は薬をのんだら治るというようなかたちでは軽々しく解決しないだろう。
問題の実相はあまりに全体的にどうしようもなく生じているのでよくわからない。
クライエントを効率的に「なる早」で治せない臨床心理学者は言う。

「ここで臨床の知ということで、
わかるということと変わるということについて一言ふれておきます。
心の底からわかるとか、納得するとか、腑に落ちるとか言うんですが、
それはほんとうに大変なことです。
それがわかっていたら、僕の商売は不要になってしまいます(笑)。
そのためには、あれやったり、これやったり、あれを言ったり、これを言ったり、
本を読んだり、さんざん苦労するしか仕方ないのではないでしょうか。
そうして、いろいろ苦労しているあいだに、
ほっと腑に落ちるといいますか、そういうことがあるわけで、
誰でも上手に腑に落ちたら、人生かえって面白くないかもしれませんね。
ただ、そういうのを探して探して、いろいろ苦労しているその姿というものは、
これはものすごく大事なものです。
その人がそういう苦労をしている。その結果として、ときどきほっとわかるときがある。
ほっとわかったと思っても、長続きしないことも多いです。
ほんとうに人間というのは、「あ、わかった。これで行こう」
と思って喜んでいるのは二日くらいであとは……。
そういうことの繰り返しです。
それを繰り返して繰り返して、何度も何度もやっているうちに、
しかし少しずつ、人間って変るのではないでしょうか。
右から左にひょいと変るということはまあ、ないです。
不思議なことですが、人間というのはそういうものです。
そして、そういうものですと言いながら、何とか変ってもらおうと、
ぼく等は苦労しているわけです。
苦労しているけど、変らないということもよく知っています。
ちょっとやそっとで変れなくても腹が立たないというところはいいですね。
一〇年くらい変らなくても平気でいますから、気が長いです。
皆ちょっと焦りすぎですね。僕は自分でよく思います。
それほど人が簡単に変んねやったら、
僕という人間はもっと素晴らしくなっているはずだと思うのです。
だから、そういうのを積み重ねていく、
もしくは積み重ねていこうとしているその姿が非常に大事なのかもわかりません」(P154)


わたしなんかもブログ記事を書いて、
これで「わかった」というような気になることもあるが、
2、3日経つとまた「わからない」に戻る。
問題はいつまで経っても解決しない。
10年、20年のあいだ苦悩をかかえた人は絶望する。
心理療法家の河合隼雄も、問題は容易には解決しないことを認めている。
しかし、河合隼雄は待つ。ただ待つだけではなく希望しながら待つ。
氏が少年時代に愛した小説は「モンテ・クリスト伯」で、
この作品のテーマは「待て、しかして希望せよ」だという。
小説の本文中にも出てくるこの「待て、しかして希望せよ」は、
少年期の愛誦の句にして心理療法家の河合隼雄の人生のテーマにもなった。
問題はすっきり解決することはないが、臨床心理学の巨匠は言う。

「だから私は、その「待て、しかして希望せよ」
という言葉が大好きになりましてよく言っていたんですが、考えたら、
いま私のやっている商売がまさにその通りでしてね。
私のやっているのは、「死にたいです」「待て、しかして希望せよ」ということで、
「もう何をしても駄目です」と言っても、「待て、しかして希望せよ」と……(笑)。
自分が大人になってからする職業にぴったりのことを、
このころに読んで感激してたと考えたら、非常に面白いですね。
そんなことは、もちろんこのときはぜんぜん思ってなかったですけど、
ほんとうに私のやっている仕事は、
待つことと希望することができたらそれでいというくらいです。
なかなかできません。腹が立ってきて待てないです。
「早う、やれ!」と言いたくなるし、希望もすぐになくなります。
「今度、頑張りますから」言うていても、
「やっぱり駄目でした。もう、やめや」となりますね、そのときに、
「いやいや、まだ希望はある」、「もうやめときます」「いや、待て待て」と……。
待つことと希望することができたら、僕の仕事は成立すると言ってもええくらいです。
ほんとうに難しいことですけどね」(P17)


全体から見て問題は解決しないのに、
「待て、しかして希望せよ」と河合隼雄が信じられる根拠はなにか?
河合は全体と、そのシンボルとしての私を信じている。
全体はほぼ無限の世界でその全体が結晶したのが私である。
全体はどうしようもないから私も変化(治癒や改善)しないが、
夜の星座のように全体も日々自然変化を見せるのだから、
そのどうしようもなさを、
ほかにないどうしようもない存在である自分が着目したらなにか生じるのではないか。
星占いはそのシンボルだが夜空は刻々と変わっていく。
ふつうの人は自分の苦悩や問題にいっぱいで夜空を見ようとしない。
しかし、ほかの万物とおなじで自然現象である夜空は日々変化している。
おなじように自然である私も少しずつ変化しているのだが、なかなかそこに気づかない。
なかには星を見て、全体の自然のシンボル(象徴)たる星を見て、
なにかに気づきそこから変わっていく人もいる。
「待て、しかして希望せよ」とは、そういう意味ではないか。
毎日自分が変化していることに、
どの外的な客観的存在で気づくかは人それぞれである。
客観は主観に現われ、主観はあたかも客観としてまざまざと感得することになる。
自他の区別はないのかもしれない。
だから、ある人は星に私を(照らされではなく)照らし全体(問題・苦悩)の意味を知る。
それはある人にとっては星だが別の人にはコップかもしれない。
星は星だが私の星は違う。コップは客観的にはコップだが、私にとってはなんだろう。
問題(苦悩)は苦悩(問題)だが、その見方を私中心(主観)に変えたらどうなるだろう。
真言や華厳を勉強した明恵を大好きだった河合隼雄の言葉を借りよう。

「だから、シンボリズムが難しいのは、ある人にとっては星を一つ見たというだけで、
「うん、わかった!」と思ったからといって、
「あなたも星を見てください」と言っても、ぜんぜん駄目でしょう?
それはなぜかといったら、星の持っているシンボリズム、象徴が、
何をその人に訴えているかというのが違うのです」(P148)


ある問題患者、苦悩患者が星を見たから改善したからといって、
ほかの人に星を見せたらうまくいくというわけではない。
なかにはあるときにあるコップを見たことでなにかが変わるかもしれない。
なぜなら、それは客観的な(みんなの)コップと、主観的な(私の)コップは違うからで、
それはコップだけではなく、それは星にも美醜にも損得にも当てはまる。
みんなの見た(自然)客観と、私の(自然)主観は異なるから、そこに救済がときに生じる。
なぜならどちらも主客(自他)わかれてはいるが、自然だからである。
百万円のツボを千円でもいらないと思うこと。
著名な鑑定家から百円と言われたツボをこれは1億円の価値があり売れないと思うこと。
このことを深く信じることから、なかなか解決しない問題に対しても、
「待て、しかして希望せよ」という態度で向き合えると河合隼雄先生はおっしゃっている。

「……客観的なことをものすごく大事にすると、たとえば、これはコップでしかあり得ない。
ところが、イメージとして、あるいはシンボルとしては、
これは宝物になってもいいし、王冠になってもいいし、武器になってもいい。
いろいろなものがひっついてくるわけです。
そんなことを言わずに、「これはコップなのだ。容量はいくらか」
とのみ考えてゆくと科学が成立します」(P169)


客観的にはどうしようもない障害児が主観的には宝物のようになる。
客観的には偉いとされる教祖先生が主観的にはおもしろくない。
主観的には崇拝している尊師が客観的にはまったく認められていない。
客観的には著名な映画監督、大学教授の作品がつまらない。
客観的にはだれにも相手にされていない人が自分にはおもしろく見える。
自分は客観的には地位も富もあり交友関係においても恵まれているが、
自分で自分を見つめると、これでいいのだろうかと巨大な不安に襲われる。
そういうところからユングの心理学は始まったし、
まさにおなじその部分からスタートした河合隼雄は
「待て、しかして希望せよ」という信条に行き着いた。
絶望は全体から生じるどうしようもない現象だが、
まさしくその全体を深く信じることで自然変化を腰を据えて待つ希望が生まれる。

*急いで思うがままに書いたので誤字脱字失礼、そのうち直します。
こんな駄文を最後までお読みくださりありがとうございます。
うまくいまの思いを書くことができているかは自信がありません。

「日本人にとって空海とは」(河合隼雄・梅原猛/「全対話2」第三文明社」

→仏教にとっての最高進化形態は密教だと河合隼雄も梅原猛も言っている。
正しくは、進化したわけではなく、結局そこに行き着くしかなかったということだと思う。
無欲、無私、無我から始まった仏教の最終地点は欲望肯定の我々世界。
進化したというより、どうしようもなくそのように変化したのだろう。
原点に返ったとも言いうる。釈迦は無言の人であった。教えを説かなかった。
大乗仏典の終着駅たる密教も真理は言葉では言えないと身体に戻ってしまう。
真理は言葉では現わせないというのはある面での真理である。
なぜならかりに最高真理アルファがあったとする(仮構する)。
このとき真理Aを言葉で出しても反論の真理Bが出てしまい、
真理Bを批判する真理Cを出したところで絶対真理アルファには届かない。
真理A~Zが相互に批判し合う全体がその相互関係(縁起)こそが、
言葉には現わせない絶対真理アルファを示していることになる。

明日削除するかもしれないが、
ぶっちゃけると最高真理者は肉体労働の現場監督アルファである。
アルファはみんなから恐れられているが、まともな言葉を発せない。
このため、彼の意図がわからないため、メンバーはそれぞれ真理を妄想する。
それが当面上通用するところの絶対真理アルファのようなものになるのではないか。
現場監督は怖いぞ。あいつらには言葉が通じない。ゲンコツから学べの異世界。
日本最高のインテリでさえ肉体労働現場の監督には震え上がるでしょう?
これが真実のようなもので、仏教の真理は身体も鍛えろよってことではないか?
むろん、知性を磨くのも重要だが、それだと貴族や天皇陛下様から舐められる。
いざとなったら目つぶしやっちゃろか? 耳をもいでやろうか?
この身体的強靭と身体的覚悟が密教の指導者意識だったとは思えないか?
河合隼雄は言う。「頂点は言語化不能だ」
超インテリだが野武士の梅原猛も応じる。

「空海の『十重心論』は、ヘーゲルの『ロギーク』とか
『エンチクエロペディー』に近いところがある。
やっぱり意識の低い段階からだんだん高い段階へと行くんです。
いちばん低い世俗の欲望の立場から、儒教、道教、そして小乗仏教、
次に、法相唯識が来て天台、華厳。
ところが、最後の真言のところでは何も語ってないんですよ。
真言のところは体験で語るよりしかたがない」(P160)


言葉というのは自分から出たイデオロギーAでしょう?
それにはどうしても反イデオロギーAが出てきてしまう。
いくら説教や説法、仏論を出してもBには反Bが、Cには反Cが論理的に出現しうる。
いくら悟ったつもりでも自分の意見はイデオロギー(主張)に過ぎない。
それは個人の意見で全体には程遠いのではないか。
そして、おのれを全体の一部と認めるコスモロジー(宇宙観)もあってもいいのではないか。
河合隼雄は言う。

「ぼくは、端的に言って現代はイデオロギーの時代ではなくて、
コスモロジーの時代になっていると言ってるんです。
イデオロギーというのはともすると、
自分のイデオロギーから見ておまえたちは間違っている。
私は正しいと、自分が中心になってますね。
ところがコスモロジーというのは、
自分もみんなと同じように入れ込んでつくらねばならない。
だからひとつの塵(ちり)も、
自分も、木もみんなひとつの宇宙の中に入ってるわけでしょう。
そういうコスモロジーというのが大切になる時代が来つつあるというのが、
ぼくの考えでして、そういう意味で密教というのが
西洋でものすごく見直されているんじゃないかと感じました。
西洋人は、自分を中心にして自分はこういうイデオロギーで行くということで、
もうそのための失敗をいやほどやってきたわけです」(P181)


宇宙を感じるには、
男は肉体労働で監督に怒鳴られろ、女は大自然でヨガでもやれ、
となっているのが現代で、それはかなりの正当性があるがために流行しているのだろう。
身体を酷使して真っ白になれ。有も無もない。本当も嘘もない。
座禅坊主が大嫌いな梅原猛は、浄土真宗のうさんくささをにおわせながら言う。
言語をある意味で訪越した身体的な密教はすばらしい。

「有にもとらわらず無にもとらわれないというのはたいへん自由な生き方で、
これが[インド仏教思想家の]龍樹の境地です。
これはだいたい般若の教えですね。ここに密教は身体を入れてくるのです。
これが即身成仏の思想です。われわれの与えられた生きている肉体そのままに、
有にもとらわれず無にもとらわれない世界、
そういう悟りの世界に入れるというところに密教の思想的特徴があると思う。
西洋のように知だけじゃなくて、身体ごと真理を体験できるというところに、
密教のすばらしさがあると思います」(P168)


悟りたいってどこかしら男性の欲望のような気がするけれど、
(子宮ヨガは象徴的で)女性のほうがはるかにヨガ信仰割合が高いのはどうして?
派遣仲間で友人の還暦近い男性の、30歳年下の婚約者がヨガの先生だって聞いたな。
なんでもインドの山奥リシケシ(とはいえしょせん観光地)で
数週間修業して先生の資格を取ったとか。でも、ぜんぜん生徒が来ないんだって。
10回以上、そのお若い婚約者さんと逢わせてくださいと懇願している。
そうそう、ひょんなうわさ話だが、
いまの若い女性に生徒がいないヨガの先生が大勢いるらしい。
無料だったら生徒になりたく存じますので、ご連絡をお待ち申し上げております。
(こっそりつぶやくと、いい弟子がつくと師匠の格も上がるのは新宗教の常識!)
当方ガンゴードリー(ゴームク)にも行ったインドきちがいです。ハッピーヨガ。密教バンザイ。

(関連記事っぽい)
「河合隼雄全対話2 ユング心理学と東洋思想」(河合隼雄/第三文明社)

「笑いの力」(河合隼雄・養老孟司・筒井康隆/岩波書店)

→笑いのある職場とピリピリした仕事場に明確にわかれる。
このくらいのスキルがあれば倍近い時給にいけるんじゃないかというママさんも、
職場環境がいいためかわずかな給金で働いているケースを見たことがある。

きっと笑いというのは、自分をもうひとりの自分がダメじゃん、と思うことなのだろう。
そんなことをしちゃダメじゃん自分。自分のくせにそんなことをして。
それをメタフィクションというのか。
わたしはバカだからメタフィクションという言葉の意味はわからないが、
本書で「笑い」にこだわりをお持ちらしい作家の筒井康隆氏が、
とてもわかりやすく難解なメタフィクションをご解説してくださっている。

「メタフィクションというのは、小説そのものを批判する小説、
あるいは小説を書いている作家[自分]そのものを批判する小説、
といったようなものです。身近なところで言うと、
手塚治虫さんの漫画の中によく手塚治虫本人が出てきますね、
「おまえ、何やってんだって」って、登場人物からいじめられたり、
「自分の漫画はここがおかしいな」って批判したりする。
これがメタフィクションなんですね」(P73)


なるほどじつにわかりやすい説明である。

本書によると河合は台湾の絵本「ほほえむ魚」にいたく感激したという。
現地に行ったとき、たまたま絵本作家のジミー氏と逢う機会があった。
台湾の絵本作家も日本の河合隼雄の存在を知っていた。

「ぼくが会いたがっているというんで、ものすごくびっくりして、
会いに来られました。たしかに素晴らしい人でした。
自分が絵本を書くようになったのは、
入院してもう死ぬというところまでいって、その死線を越えたところから、
急に絵本を書くようになったということを言われた。
あとで履歴を見たら、白血病だったらしいです。
ほんとうに死ぬと思われたらしいのですが、それを乗り越えたあとで、
こういう本は出てきて、いまはずいぶんジミーさんの本は訳されて、
ぼくはほかのも読みましたが、すごく面白い作品です。
このお話のように微笑みというのは関係をつくるのにすごく役立ちます。
ぼくらでも、人に好意を示したいというとき微笑みますね」(P8)


1.人をバカにする笑い(批判)
2.自分をバカにする笑い(メタフィクション)。
3.人に好意を示す笑い(微笑)。

「物語を生きる 今は昔、昔は今」(河合隼雄/小学館)

→「私」とはなにかといったらそれは物語で、
もういくばくか分解すると「私」とは父の物語であり母の物語であり、
両親の祖父母の物語といえよう。
わたしなんかも陳腐な自己愛者だから自分のことを考えるのは嫌いではないが、
行き着くのは祖父母の物語なのである。
いまのわたしの問題は祖父母、あるいはそれ以前の祖先に端を発している気がする。
人生は歴史に左右されるが、歴史こそ広い意味での物語である。
歴史や家族(あるいは宗教、国家)という物語があるからわれわれは孤独ではない。
歴史という物語が、なんによっているかといえば史料であり史跡、遺物である。
物語はどのようにして生まれるかを河合隼雄はじつにわかりやすく書いている。
古事記も日本霊異記もかぐや姫も源氏も太平記も説経節も近松も失楽園もみな物語だ。
物語はどのようにして生まれるのか。

「非常に単純な例を考えてみよう。コップに野草の花がひとつ挿してある。
それだけのことなら、別に誰もその花に注目しないかも知れない。
しかし、それは病気で寝ている母親を慰めようとして
十歳の少女が下校のときに摘んできたのだと知ると、
その花が単なる花でなくなってくる。
その花を介して、その少女に親しみを感じ、
その母娘の間の感情がこちらに伝わってくる。
そこに「関係づけ」ができてくる。
そのことに感激すると、そのことを誰かに話したくなる。
友人に話をするとき、少女は花を買おうと思ったのだが、
彼女には高すぎたので困ってしまったが、ふとその野草の花を見つけて……
というふうに話が少し変わることもある。
それを聞いた人が他人に伝えるときは、母親がその花を見て嬉しく思うと、
高かった熱がすうーっと低くなって……とつけ加えるかも知れない」(P13)


生活破綻者でヒモで文壇乞食の小林秀雄はかつてこう言ったらしい。
「美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない」
瀬戸内寂聴から「なにをして食べているんですか?」と鼻で笑われた男の言葉だ。
バラは美しいけれど、キャベツのように食べられない。
「美しい」と思うのは主観で、野草の花を「美しい」と観ずる第一発見者こそ評論家たる。
どんな小さな花園にも侵入して、花びらをむしり取り、
本来は豊饒たる土地だったかもしれないものをことごとく荒野にするような、
たとえるならば早稲田のセクハラ教授、渡部直己は評論家ではない。
「万死に値する」と自分で言ったのなら、二度でも三度でも自殺して自然土に還れ。
「美しい」という形容詞は人間の喜びだろう。
わたしもいつしか無名のままつまらぬおっさんになったが美少女への興味は尽きない。
妄言を白痴のように書き散らすと、いまの若いアイドルも女優もまったく美しくない。
全員、おなじような顔に見えてしまう。
みんなおなじように先輩を立てて無難でポジティブな発言に終始する。
美少女はときのうつろいとともに醜いおばさんになるのだが、
アンチエイジングってなんだ?
40過ぎのババアが10代のような顔でキラキラ光り輝いていて、それが称賛されている。
美はそういうものではない。かぐや姫の「竹取物語」は――。

「うつろう美を特に評価している。というよりも、この世ならぬ美を追求すると、
それは限りなく死に近接してゆく。つまり、美の影には死が必ず存在しており、
それは、うつろいゆくことの自覚を促すものとなる」(P43)


美少女が美しくも寂しさを感じさせるのは、それが期間限定のものだからだろう。
いまでも20代と変わらない美貌を持つアラフォー女優とかホラーである。
枯れない花は人造美に過ぎぬ。
間違わない知能=人工知能は誤謬なきがゆえに人間よりもはるかに劣っている。
枯れるから美しい。もっと言えば、醜いものがもっとも美しいのかもしれない。
河合隼雄はカウンセラーのボス猿だから、あらゆる症例報告を耳にしただろう。
自分が担当した少女ではないからという理由からか、おもしろい症例を公開している。

「ある女子高生は素晴らしい美人で、
道で彼女とれ違う人が思わず振り向かずにおれないほどだったという。
彼女が自殺を企図し、幸いにも未遂に終わったので、
あるカウンセラーが会うことになった。
そのとき、彼女は「自分ほど醜い者はいない」ので自殺しようとした、と語ったと言う。
カウンセラーが不思議に思っていると、彼女は言葉を続け、
自分を見る男性の目があまりにもいやらしいので、
これは自分の内に非常に醜いところがあるのに違いない、と思った、と言った。
これは実に示唆的な話である」(P46)


「竹取物語」のかぐや姫を論じているさなかの話である。
美しすぎるこころが病んだ美少女とかええなあ。
文学の心内原初風景にかならず存在するアニマ(女性理想像/ユング用語)であろう。
永遠の美少女はいない。少女はいつか老いる(少女は死ぬ)。
美少女は醜悪を胚胎しているからこそ美しいのではないかと河合隼雄は説く。
男という男が邪悪な性欲をたぎらせる美少女を一瞬でも見れたら眼福であろう。
しつこく繰り返すが、いまのアイドルや女優はつまらない、そそらない。
きれいすぎて人工的なところが邪淫欲を刺激しないのである。
美しすぎて自殺未遂をした女子高生について河合隼雄はこうコメントする。

「男性の醜い関心を惹きつけるのは、彼女の美しさだけではなく、
彼女の内部にそれに呼応する部分がある、と考えてみてはどうであろう。
美は単なる美である限り、それほどの魅力をもたないのではなかろうか。
どこかで醜による不思議な裏づけをもってはじめて、
人を惹きつけることを可能にする。
かぐや姫が自分を醜いと言ったのは、謙遜ではなくて、
自分の醜の側面についての自覚があったから、とも考えられる」(P46)


酒井法子はなにをやっても干されないで、いまも大金を稼いでいると聞く。
わたしはのりピー、らりピーの美しさにここ数年で気づいた。
どう書いたら差別表現にならないのか不勉強のためまごつくが、
被差別部落の美少女とか神々しくも美しすぎるでしょう?
都市的アイドル人工整形美よりも、田舎の土着のまがまがしさをまとう、
父が母を殺して姉が自殺した天涯孤独な少女の美しさのほうがまさっている。
だから、柳美里は美しく現代まれなる文豪だったのだが、
40歳まえに自殺してほしかった。
そうしたら永遠の美が保たれたことだろう。
柳美里は太宰を裏切り老醜と生活を選択した。こうなったら百歳まで生きろ。

死と生をあわせもったものが美しい。
醜と美をあわせもったものが美しい。
ならば、女性性と男性性をあわせもったものもまた美しいのではないか?
河合隼雄は「とりかへばや物語」を例にあげて論じる。

「男と女の役割として固定的に考えられていることが、
いかに交換可能であるかを。この[とりかへばや]物語は示している。
そして、男と女という明確な区別として信じられているものが、それほどではなく、
その境界の崩れるあたりに、グロテスクすれすれの、
この世ならぬ美が存在することも示してくれる」(P156)


シェイクスピア劇に登場する男装の麗人ほどエロいものはないでしょう?
「十二夜」とか危なすぎる(お読みになるなら、ちくま文庫の松岡和子訳で)。
芥川の「奉教人の死」はおもしろすぎるのではありませんか?
太宰の女性文体小説は神がかっていて身震いするほどである。
太宰の短編小説「恥」を読んで男が40まえに死なねばならぬ理由がわかった。
あんな男を長生きさせちゃいけません。
わたしもジェンダー的には有名人で、匿名掲示板の女神的ネカマだった。
文学板のレジェンドが男性さまからいくつのラブレターをもらったかは秘密ね。
自称男性の匿名人から逢いたいといわれ、場におもむいたら女性だったこともある。
まえから書いているが、美少女とタッグを組んで、ゴーストライターをやりたいんだなあ。
小説が売れるか売れないかは、作者の顔だと思う。
我輩の天才的ネカマ経歴と美少女をからませたら文学バブルはまだ起こりうる。
おれ、女々しいから、ねちねちしていて女性よりもおんなおんなしていますよ。
顔に自信がある美少女にはビジネスチャンスを当方に賭けてほしいと思いますですね。
とはいえ、どう願ったとて人生はままならぬ。
ご子息も大出世してNHKで大評判の故人、河合隼雄先生はこうおっしゃっておられます。

「人間は幸福になろうと意識的努力をする。しかし、それではどうにもならない。
もっと偉大で強力な「ものの流れ」とでも言うべきはたらきがあり、
それに抗することはできないのだ。
ただ、その流れに触れ、その存在を認識するとき、
人間は大いなる納得や安心を得ることができる。
そのような深さに到達する道として、
人間には夢[オカルト/神秘信仰/スピリチュアル]というものがある」(P173)


わたしが師匠の原一男先生に再会したくないなあ、
と思うのは、あの人が努力教の熱烈信者だから。
自分が成功したのも多くのメスに射精しえたのも名誉、地位、勲章すべてが、
自分の努力の結果だと思っているようなところがある。
じゃあ、そういうものと現在は縁がない当方は努力をしていない怠け者ってことになる。
運や時勢、風向きを考えられない成功者はどうしてあんなに傲慢になるのだろう。
一介の高校数学教師に過ぎなかった河合隼雄が日本を代表する大学者になれたのは、
努力もあるだろうが、努力以外の大きなちからがあったからである。
河合隼雄はそれを知っていた。だから、大学者なのである。
氏は歴史学者や文芸評論家、文系学者ににちくりとやっている。

「後世になって、平成の時代によく読まれた『失楽園』(渡辺淳一、講談社、一九九七)
という小説を研究し、
平成の頃はほとんどの人が不倫をしていた、
などと結論されると困るのと同じかも知れない」(P143)


主に文藝作品から過去の世相を判断しておられる「もてない男」の
小谷野敦先生はこういうブチマケ本音についてどう考えているのでしょうか?
当方はツイッターのやり方を知らないので、からむこともできない。
いまは男根もしなびたであろう団塊世代の原一男先生でさえツイッターをやっているのに。

「日本語と日本人の心」(河合隼雄・谷川俊太郎・大江健三郎/岩波書店)

→いまだもって日本語への関心は強い。言葉に興味がある。
むかし時給850円の書籍倉庫でバイトしていたけれど、
そこにGさんという日本語ペラペラな笑顔がかわいいベトナムの女の子がいて、
最後は勤務中に携帯番号を聞いてしまったくらいだもの(教えてくれなかった)。
日本語の仕組みを知りたいならば、外国語をやるにかぎるのだろうが、
もう当方にはそれをなすだけの脳細胞は残っていない。
で、古文とかたまに挑戦するけれど、やっぱり言葉はおもしろい。
「もったいない」とか英語では言えないわけでしょう。
上野の中国人旅行者は「すいません」を連発するけれど、
あちらのガイドブックにはそうしろと書いてあるのだろうが、
日本人と中国人の「すいません」のニュアンスは正確には異なる。
数日まえ芥川龍之介「奉教人の死」を読んで久しぶりの文学的感動に打ち震えたが、
あれも根っこには西洋と日本の言葉の問題があると思う。
ゴッドと神はおなじだけれど違うというかね。
あれはすごくて最後のほうは音読して音に酔い痴れた。
世界はひとつなのにベトナム人と日本人ではまったく世界観が変わる。
それは言葉が違うからだと思う。
ひとつの真如(真理)を我われは多様な言葉に分節化しているだけかもしれない。
息子は全員(?)お偉いさんの河合隼雄は言う。
これは最晩年の書籍だから、老年に達した河合の結論と言っていいのかもしれない。
河合隼雄は晩年、学者の井筒俊彦のすごさに改めて気づいたという。

「私の仏教の勉強のいちばん大きい手引になっているのは、だいたい井筒先生です。
この井筒俊彦先生のお書きになった本を見ていますと、
仏教で非常に大事なこととして「真如(しんにょ)」という言葉があります。
要するに、「真如」ということがわかれば、もう仏教では終り、
悟ったということになるのでしょう、
ところで、この世界のなかで私のような俗人はひとつひとつこだわって、
ここにマイクロホンがあるだけではなくて、
このマイクロホンはどのぐらいの値段がするのだろうかとか、
どこのメーカーだろうかとか、そういうことを考えますが、
そういうふうにひとつひとつ区別して
いろいろなことを人間がやっているのはすべて妄念、妄想であって、
世界というのはほんとうはひとつで、そのひとつの世界というものには、
そんなわれわれが必死になっている区別[言語化]などというのは存在しない。
まったく区別[言葉]はなくて、いうならば、すごいエネルギーの固まり、
ただもう存在しているというふうな、そういうものなのだ。
それが「真如」なのです。
そういう[言語化できぬ]「真如」がこの世にあらわれてきて、
マイクロホンという形になってみたり、私という人間になってみたり、
一人一人みなさんのようになっているのです。
だから、考えて見ますと、「私」というのを私はすごく大事にしているのですが、
ほんとうは「私」などというもの[言葉]も、真如のほうからみたら妄念なのです」(P31)


テレビドラマ作家の山田太一さんはむかしセリフに「私」を入れられなかったのだと思う。
「私はこう思う」というのは英語の翻訳で、日本人はそういう言い方はしない。
少なくとも35年まえの日本人はできなかったのだろう。
現代は「私はこう思う」「あなたはこうだ」と言える人のほうが多いのかもしれない。
山田太一ドラマ「ふぞろいの林檎たち」では「こちら」「そちら」「あちら」が頻出する。
影響を受けて、わたしもブログで自分のことを「こちらは」と書いたりしてきたが、
そういう悪影響(?)に気づいた人はおられますか?
河合隼雄もそこらへんは敏感で、一時期は「私」を「筆者」と呼称していた。
山田太一ドラマはほぼ絶対に英語化できなくて、
登場人物が「I think」とか「You said」とか言ったら情緒が台無しでしょう。
たしかに意味はそうなんだけれど、それは違うよっていうかさ。
わたしは七五調の語りが禍々しいながら情緒的で感傷的でとても好きだ。
しかし、七五調のよさはよほど日本語に熟練した外国人でもわからないと思う。
あれは我われの生きるリズムなのだから。
語り物の「日本霊異記」や「説経節」はときに七五調があらわれるがそこがいいのだ。
「平家物語」も近松門左衛門も「義経千本桜」もそうである。
怨念や怨恨をおさめる役割を果たしているのが七五調ではないかと河合隼雄は言う。

「それからちょっと話は変わりますが、
さっき大江さんの五・七・五・七・七というのは、ほんとうにおもしろいですね。
これは上田秋成の『雨月物語』かなんかだったと思うのですが、
崇徳院とか関白の秀次とか「浮かばれない」人たちの怨霊がでてくるのですが、
そのなかで歌のやりとりがあります。
あるいは五・七・五の歌をつくると、だれかがうまいこと七・七でおさめるのです。
そうしたらうまく「おさまりました」といって、怨霊の心の方もおさまるのです。
これはヨーロッパの人だったら、その恨みをどう晴らすか。
恨みはどういう方向に、だれに向かうのかということをやってしまわないと、
完結しないのです。ところが、日本は七・七でおさまるのですね。
このおさめ方というのが日本のいまでもすごく行なわれているのですよ。
手打ち式でもみんなそうですよね。
そうした伝統をわれわれはいまだに持っているのですが、
[心理療法家の]私が苦しんでいる人にお会いしていても、
五・七・五・七・七的おさめ方が生じるのです。
それはなにも私がやるのじゃないですよ、
その人がやられるから、それに私は従うだけですけれども。
そうでないと、恨みを絶対に晴らさなければならないと思ったら、
すごいことになりますからね。そういう知恵も、
これは日本だけではなくて、ひょっとしたら、
さっき言いましたようにもっともっと世界中にあるのじゃないか」(P169)


わたしは日本語ばかりがいいと言っているわけではなく、
「がんばれ」よりも「グッドラック」のほうがよほどいいでしょう?
最後に別れるとき、「がんばれよ」と言われるよりも「グッドラック」のほうがいい。
「Do your best!」とか言われても「はあ?」「知らねえよ!」とわたしなら思う。
そういえばむかしは、なまの言語収集のためもあり働いていたんだなあ。
「おつかれさまです」とか日本人なのにいまだに意味がわからない。
「ごくろうさま」も意味が正確にはわかっているとは言いがたい。
「了解です」も嫌いな日本語だ。
「ざっくり」も嫌いな書き言葉で、使わないようにしているつもりだが、一度使っていた。
「私はあなたを愛している」なんて言葉は使う気がしないし、そもそも意味がわからない。
「もうちょっとだけ一緒にいて」なら意味がわかるし使用可能だ。
知らない人と話すことがけっこうあり(病院や公共の場所)嫌いではないが、
言葉の採取が目的かもしれない。
山田太一ドラマは役者の演劇でもあるだろうが、
突き詰めれば言葉(台詞)のやりとりだと思っているから、
シナリオや芝居台本を読もうともしないリアル視聴世代とは意見が合わないのだろう。
「言葉だ、言葉、言葉」(「ハムレット」)。

「閉ざされた心との対話 心理療法の現場から」(河合隼雄/講談社)

→いまの悩みは、
がさつでもいいいからエネルギッシュな田舎者めいたパワーがほしいなあと。
小勝(こかつ)したいっていうか、プチプチでもいいから成り上がってやるぜ、という。
どうせ女なんか金と権力さえあれば寄ってくるんだから、それを俗物的に欲したい。
まあ、言葉にしたら「やる気が出ない」「めんどうくさい」っていうか。
精神科にかかって薬でももらったら熱いバリバリ学会員のようになれるかなあ。
自己啓発セミナーは確実にかつ速やかに効きそうなんだけれど金がもったいない。
シナリオ・センターと喧嘩していたときみたいなパワーがねえ、いまあれば。
考えてみれば金や権力で女からもてるのってまったくズルくない。
よっぽど顔でもてるほうがズルいようにも思う。
しかし、女とつきあいたい理由が、あとあと小説めいたものを書きたい――
だからこんな本音をばらしたら寄ってくるものも来ないという。
まあ、河合隼雄の基本姿勢は本人が「やる気」になるまで「待つ」だからなあ。
新興宗教みたいなパワードリンクを飲むと元気が出そうだけれど、
息切れとか副作用が怖い。河合先生の言うよう、
自然発生的に自分から出て来るものを「待つ」しかないのかなあ。

本書は業界のボス猿の河合隼雄と子分たちとの対話集なのだが、
大学で学生相談みたいなことをしている女性カウンセラーの話がおもしろかった。
大学生が評判の悪い新興宗教に引っかかりそうになったらしい。
その宗教の合宿に行こうか迷っている。
カウンセラーはどうすればいいかわからなくてご飯も食べられなくなってしまった。
ふたりの心理学の先生に相談したという。
ひとりは河合隼雄で、氏の答えは「絶対行かせるな」であった。
もうひとりの先生の答えは、「責任は全部自分が持つから行かせてみろ」であった。
カウンセラーは迷いに迷ったが、行かせることにしたらしい。
そうしたら学生は自分で新興宗教の胡散臭さに気づき、
カウンセラーのところへ戻って来たらしい。
それがきっかけとなり以後カウンセリングもスムーズに進んだという。
こういう話を公開できるくらいだから、河合隼雄は教祖タイプではなかったのだと思う。
カウンセラーはたぶん女性のほうが向いている。
男性がカウンセラーになると、よほど柔軟でないと権威的な教祖になってしまう。
精神科医は男性のほうがよく、その程よい権威感が患者に安心を与える気がする。

精神科に行こっかなあ。新興宗教へ入ろっかなあ。占い師にすがろっかなあ。
目標は人格陽性化と人生一発大逆転(笑)。
いま顕正会が熱いらしいじゃん。
顕正会に入るようなそぶりを見せたら、
いままで拒んでいた創価学会が美少女つきで勧誘してくれるかなあ。
よおし、今度のミッションは「新興宗教体験取材」だ。どっからでもかかってこい。
どうせ新興宗教からはすぐに逃げ出すだろうけれど(根性がないため)、
そっから人生が好転するかもしれないわけだから。
ちょっと人生にカツを入れんとあかん。このままじゃ、あかん。あかんねん。

「学ぶ力」(河合隼雄・工藤直子・佐伯胖・森毅・工藤佐千夫/岩波書店)

→いま鎌倉時代の踊り念仏の開祖、一遍のことを独自に学んでいる。
学ぶとはどういうことか? 河合隼雄によると、学ぶとは知りたいと思うこと。
対象を好きになること。そして、これが肝心らしく、楽しむこと。
河合隼雄いわく、以上は孔子の「論語」に書いてあることらしい。

「学ぶということで、まず私が思い浮かべるのは孔子の言葉で、
『論語』の中にある僕の非常に好きな言葉です。
「之(こ)れを知る者は、之れを好む者に如かず。
之れを好む者は、之れを楽しむ者に如かず」。
学んでいる者よりも、好きだと思っている者がいい。
好きだと思っている者より楽しむ者が一番上だということを、
孔子さんが言っておられるんです」(P3)


わたしなんかとくにそうだけれども、
興味がないことを学べと言われてもあたまに入ってこないでしょう?
派遣同僚の爺さんから資格の勉強をしろとしきりに言われていた時期があったけれど、
そんな好きでもないことを学ぶことはできません。
ブルセラ学者・宮台真司の岳父(妻の父)である東大名誉教授の佐伯胖も言っている。

「自分が好きでのめり込んでいたときの学び方と
「さあ、これを覚えなさい、勉強しなさい」と言われたときのギャップはすごく大きい。
別世界みたいな感じで、これはちょっとやってられないなという気がして、
それははっきり言ってだめでしたね。
それを我慢してやろうという気はしませんでしたね」(P60)


踊り念仏の一遍がしていた布教というのは賦算(ふさん)と呼ばれ、
遊行(旅)をしながら対面したものに(有縁者に)ただ念仏札を配るというものだった。
なんでそれが布教なのかわからない時期もあったが、こういう解釈もできよう。
念仏は易行というけれど、歴史的学問背景をふくめるとかなり難解なのである。
熱心に教えてもわかってもらえるかどうかわからない世界なのである。
河合隼雄の出発点は数学高校教師で、
最初は全力で教えたがあまり効果がなかったという。
そして、晩年は「無為」の境地に行き着いた氏は青年期にはやばやと悟る。

「なるほど、先生が必死になって教えまくっても、生徒はそう伸びないんだ。
教えない先生がいると、生徒は自分でものすごく勉強するんです。
あんなもの頼りにならんというので、その子たちは必死になって勉強している」(P15)


一遍もおなじように思ったのではないか?
とりあえず最高真理の南無阿弥陀仏だけ教えておいて、
あとは相手の機根やら学習能力やら自然(他力=南無阿弥陀仏)にまかせよう。
自分が相手に伝えるのは南無阿弥陀仏の一語でいい。
あとは相手が興味を持ったら勉強するだろうし、
ことさら学ばなくても救われるのが念仏の教えの特徴である。
あるがままでどうしようもなく、いまある状態はあるがまま善でも悪でもなく、
しかしそれでも自然として
すべてがうまくいっているというのが南無阿弥陀仏の世界観である。
自分もあるがままの自然と一体でいよう、
自然体でいようという決意表明が南無阿弥陀仏だ。
これはいくら説得しても相手にNOと言われたら終わりで、
相手が自然に南無阿弥陀仏を納得するまで
こちらは無為と言われようが自然にまかせ「待つ」しかない。
南無阿弥陀仏は説得できるものではなく、相手が自然に納得するまで待つのみである。
数学者の森毅に河合隼雄はからかわれている。
お互い老人だから許されるゆるやかな関係性ゆえだろう。
「河合さんは納得の修業をしているわけで、説得の修業なんかしてない。
ええ加減なことを言いながら納得さすのがうまい。
うそつきクラブ会長やからね(笑)」――。
相手を説得しても意味がない。相手が納得してくれることが重要である。
ユングの伝道師(@小谷野敦)である河合隼雄は言う。

「おっしゃるとおりで、僕らは来られた人[クライエント/有料相談者]を
説得しても何の意味もないですよ。そうでしょう。
森さんに「たばこは不健康だからやめなさい」と言うたら、
説得されるけど、絶対に納得しないから。なんぼでも吸うからね。
だから、やめよかという納得が起こることが一番大事なことなんです」(P79)


あることを納得しようと思ったら自分で学ぶしかない。
たとえば一遍仏法を学ぶのなら、一遍を好きになるしかない。
そして、鎌倉時代に存在したという一遍の存在を
楽しむ境地にまでいたらなければならない。
そこまで行くには苦しむようなこともたくさんあるが、
それは学ぶためには必須だと河合隼雄は言う。
一遍の南無阿弥陀仏は要約すれば「死=絶対」である。人は絶対に死ぬ。
絶対たる死者の目から見たら、
相対(言語)世界のあらゆるもの(美醜・貧富・賢愚・善悪)が空(むな)しい。
本書が発刊されたのは河合隼雄が亡くなる3年まえである。
以下は河合隼雄の最後の説法とも信者には解釈できる。
ユング心理学の河合隼雄と踊り念仏の一遍の見ていたものはおなじであった。
最晩年の河合隼雄の見ていたもの――。

「最後に孔子の言葉を読んでいて気がついたのですが、
いろいろなことを学んできたし、いまでも学ぶつもりですが、
考えたら、死ぬということをあまり学んでいないという気がして、
このごろだいぶ学んでいます。
死ぬことをずっと学んでいるうちに、
死ぬことを好むほうになってきて、
最後に死ぬを楽しむところまでいったら最高じゃないかと思いますが、
これはそうはいかんのじゃないかなと思っています。
私の学びの最後の目標はそのへんにあるというところで、
[講演を]終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました」(P17)


「最後に死ぬを楽しむところまでいった」のが踊り念仏の一遍上人であった。
男は仏法を問われたら答えもしたが、布教は基本は念仏札を配るだけであった。
最高真理、絶対真理の死=南無阿弥陀仏を相対世界を生きる衆生にさりげなく伝えた。
聞かれたら答えたが、自分から教えたがるタイプではなかったと思われる。
いま踊り念仏の一遍を学んでいるが予想以上に難物で終わりが見えないので苦しい。
苦しいが、楽しい。いま一遍を苦しみながら、楽しみながら踊るように学んでいる。

「河合隼雄 全対話7 物語と子どもの心」(第三文明社)

→当方を零落したネガティブな落ちこぼれだと文章を読むと思えるらしいが、
たしかにそうとも言えなくはないけれど、
それはこちらの文章意図にあまりにも乗せられすぎているんじゃないかなあ。
文章って書かれたものと書く人はぜんぜん違うからね。
先日、派遣でいっしょになった人からブログにコメントをもらったけれど、
あの人、ぶっ飛んだじゃないかなあ。
いまのわたしは基本的に明るいし陽気だし楽天的だから。
でもさ、不幸ぶりたいっていうか苦悩を演じたいというか、そういう部分があるわけ。
荒川でバーベキューやっちゃうやつじゃないよ、みたいな孤独ぶった強がり。
人間なんてころころ変わるもんだから。夢(目標)も関心もころころ変わる。
そうそう、著書多数の河合隼雄さんをひどく嫌っているのは、
どこか似たところのある現代日本最高の知識人とも言うべき小谷野敦さん。
むかし小谷野さんの「退屈論」を読んで、
感想として自分には退屈がわからないと書いた記憶がある。
いまは小谷野敦さんの言う退屈がわかりまくり。
退屈だなあ。つまらないなあ。それ、すげえわかる。

このまえショーペンハウアーのアフォリズムを読んでいたら、哲人が言っていた。
人生は苦悩か退屈のどちらかだって。
苦しんでいるうちは苦しいが、
苦しみがなくなったら今度はひでえ退屈が待っていると。
人は退屈を見ないように苦しんでいるふりをしているのかもしれない、
とまでショーペンハウアーが言っていたかは記憶定かではない。
人生なんざ、金がない、時間がない、子どもがどうしたといっているうちが華で、
それはじつのところうまい世渡りで、本当に怖いのは退屈かもしれない。
あまりにも退屈だと「事件」のひとつも起こしてやりたくなるっていうかさ。
そう考えると、河合隼雄のいちばんの才能は、
けっこうなんでも「おもしろがれる」ところだったように思う。
どうせつまらぬ人生、おもしろがっちゃおう。
なんのために生きるか? なんて深刻な顔をしていないで、おもしろがろう。
あんがい、おもしろいことしかしない、なんて決めるのもいいのかもしれない。
いちおう有名文化人の河合隼雄はこんなことを言っている。

「ぼくはおもしろいことしかしないのですよ(笑)。
やっぱりおもしろいというときが、人間が全人的に生きているときなんですね。
体もこめてワーッと動いている。
おもろないときはというのは頭だけで動いている場合が多いから、
頭だけでおぼえたやつは何も役に立たんですよ。
人間全体でおぼえないかんです」(P64)


かといって、歳を取ってくるとおもしろいものが減少するのも事実である。
まったく本当に海外旅行は若いうちが華だよ。
40過ぎてから海外に行っても、おもしろいことなんてないねえ。
まあ、それはそれで自分でおもしろくしちゃうという裏技もあるのだが、
生命の危険があるし、日本の信頼にもかかわるから万民にはおすすめできない。
けれど河合隼雄も繰り返しあちこちで言っているけれど、
危険のないところにおもしろいものはそうそうないねえ。
外野の安全地帯からわたしを嘲笑するのもいいのだろうけれど、
わたしがあなただったら危なさそうだけれど、
この文章の書き手に逢いたいと思うような気がする。
河合隼雄はおもしろいこと(危ないこと)ばかりしたらしいけれど、
どうして危険なことをできるかといったら、
おもしろいことはおもしろいからという理由のほかに、
82年(昭和57年)段階でもうすでに来世を信じていたからかもしれない。
わたしも河合隼雄とおなじで来世を信じている。
危ないことをして万が一死んでしまっても、そこは来世があるから安心。

「ぼくのおもろいいうのはインタレスティングなんかよりもっと下等なんです。
要するに「おもろい」ということ。(……)
関心があるというのとも違う。おもろてかなわんわぁちゅうのが好きなんでね。
考えたら、このごろは来世があるような気がしてきたんで変わってきたけど、
どうも今世だけやったらおもろいことをしな損やと思っています。(……)
このごろ思う存分やっても、来世まであるような気がして心配になってきて(笑)。
いまもおもろく、来世もおもろやろうと思ったら
ちょっとええこともしなあかんかなと思うて――」(P80)


うん? 来世があるなら犬に生まれたらかなわんから、ちょっとええこともせんとあかんか。
わたしは河合隼雄信者だから、おもろそうなことでないと腰があがりまへんがな。
あんがい人によっては退屈そうな単純作業がおもろいこともあるんやで。
まあ、5年、6年単純作業をやるのはいくら来世のためでも無理やけど。
関西弁ってガラが悪くてええのう。
なーんか、おもろいこと起きへんかなあ。いっちょ起こしてやっか。
みーんなお行儀正しくなって、いまはおもろない。
おもろいことを自分たちで制限するようなマジメが支配的でおもしろくねえな。
悪いこと、危ないこと、おもろいことをぎょうさん腹いっぱい味わいたいのう。
いざわたしと逢ったらそういうことができない人だと一発でひと目でばれるのだけど(笑)。
いやあ、やれる。前科があるがや。
シナセンのあれは見てるぶんにはゲラゲラ笑いがとまらんほどおもろかったんやないか?
いまはあんなエネルギーはないが、いやいやパートナーしだいではまだまだ!
ひとりであんなおもろいことをしでかしたわけではないんやでえ。

「河合隼雄 全対話5 人間、この不思議なるもの」(第三文明社)

→大学時代から河合隼雄は好きだったから、もう20年近くの関係になるのか。
河合隼雄はなにもしてくれない。
こっちが勝手に本を誤読して影響を受けるというイビツな関係。
どこを分け入っても河合隼雄に行き当たるので困ってしまう。
シェイクスピアを読み込んでいたときも、行き着いたのは河合隼雄。
日本古典文学を読んでいってもどうしてか河合隼雄が現われる。
仏教世界はかなり本気で分け入ったが、
河合隼雄がいちばんわかっているような気がしてならない。
精神ストリッパーの小谷野敦さんふくめ、
みんなが嫌いなノーベル賞寸前作家の村上春樹も河合隼雄とは手を組んでいるし。

河合隼雄の本職はカウンセラー。
きっといろんな成功者、有名人の秘密を聞いたのだろうな。
地元の名士みたいな開業医が、
くだらない中学生が悩むようなことを深刻に悩んでいたり。
父親にすすめられて歯科医になったけれど、自分は本当は
売れなくてもいいから好きな音楽を続けたかったとかさ(中坊っぽいっしょ?)。
地位や財産が人の満足に直接的に結びつかないことを、
カウンセラーほど聞かされる職業はないのかもしれない。
地位や財産よりももっとおもしろいものがある。それは自分という未知の世界だ。
なぜか運よく世界遺産は若いときにまわったほうだが、
どこに行ってもぶっちゃけ、ここだけの話をするとつまらないわけ。
ああ、ガイドブックとおなじだねっていつも思っていた。
おそらく世界を知るというのは名所旧跡をまわることではないのだろう。
世界を知りたかったら世界遺産よりもおのれの心に分け入れ。

「つまり、心とか世界とか分けてるということがそもそも近代的な分割法ですね。
ところが、究極の存在のほうへいきますと、心イコール世界とか、
そういうところへ近づいていくんじゃないでしょうか。
そうなってくると、心の中を探っているのか、世界を探っているのか、もう分からない。
その主客[主観/客観]の分離する以前のところですね。
それといろいろな言葉で言ってるのは、むしろ仏教でしょう、と私は思いますけれど」(P196)


地位や勲章、肩書、財産は客観的存在と言えよう。
貯金1億円は客観的存在でしょう。事故保険金100万円は客観的存在である。
和解金1千万は客観的な数字である。数字というのは客観的世界の象徴かもしれない。
札束のみならずコップひとつとっても客観存在ではあるけれども、
同時に(札束や勲章のみならず)コップもまた主観存在であると言うことができる。

「だから、そのコップの深いところまで見えたときに、それを物語る言葉を失って、
そして通常の言葉で言おうとしますね。
そうすると、私がどう言うかというと、「このコップは神さんです」とか、
あるいは「このコップは一億円で売れるんだ」とか、
そう言うよりしかたがないでしょう。そんな言い方をすると、
みんな「あいつは狂ってる」と、こういうふうになるわけです」(P196)


河合隼雄の言う「主客の分離する以前のところ」とはどこか?
そこから見たらコップが神さんにも1億円の価値を持つとも言えるわけでしょう?
もしかしたら自宅の小さな庭が世界遺産以上に美しく見えるかもしれない。
仏教修行者がたまに到達できる「主客の分離する以前のところ」とはどこか?
それは誕生以前の世界であり、死後の世界のこと、つまり「たましい」の世界である。
赤子は客観として誕生して、しだいに主観を持っていくでしょう?
ご老人は死が近づくにつれ、
しだいに主観を失い(意識もうろう)客観存在(死体)におなりになるわけでしょう?
死後の世界=誕生以前の世界=たましいの世界から見たら、
ひとつのコップを形容する言葉でさえ(具象する絵画でさえ)さまざまなものになる。
主客分離以前のたましいの世界から世間を見てみたらどうなるか?
計算できない、数字に表象できない、たましいの世界のことをときに考えたらどうだろう?
アハハ、なーんかうさんくさい宗教指導者みたいでしょう、おれおれ詐欺(笑)。
しかし、インテリのみならず、みんなたましいの眼を持っているような気がする。
まえの職場で最後までどうしてもダメだったパートのおばさんとかいたけれど、
そういう人にも旦那さんやお子さんがいらっしゃるわけでしょう?
たましいのことでも考えなければ、あのおばさんの夫や子どもは想像つかないもの(笑)。
ある程度みなさん、たましいの眼を持っているから、
そうそう美男美女ばかりでもないのにポンポン結婚する男女が現われるとも言えよう。
なんか、おれ、ひどいことを書いている気がする、やべっ。
インテリぶってまじめにユング心理学のなかでも難しいとされる元型の話をしよう。
元型(アーキタイプ)とは、物語の原初形とでも言ったらいいのか。
人間の心の内奥にひそんでいるとされる物語(ストーリー)の種類(タイプ)である。
パートの口うるさい無学なおばさんの心理的奥底にも、
難解なユングの言う元型が働いているのかもしれない。それはどういうことか?
日本ユング心理学のボスでありカウンセラーの親玉、
河合隼雄が難解な元型について遠藤周作相手にめずらしくわかりやすく語っている。

「ものすごく簡単な言い方をしますとね、
たとえば[カウンセラーの]私は、
人間としてのAさんならAさんという人に会ってますね。
ところが、Aさんの背後に、非常に単純な言い方をしますと、
女神とか神とかが立っているわけです。
それによってその人が動いているわけです。
それがユングに言わすと元型みたいなものでして。
だから、私がたとえばゼウス[ギリシアの神]ならゼウスというものに似通っておったら、
どうしてもいっちょう大きいことをやりたくなってくるし、
美しい女性がおったらふらふらと行きたくなるし、
そういうふうに動いているときに、その人だけじゃなくて、
その背後にいるものも込みで見ていこうと。
そして、その背後にいるものの働きというものがその人を癒すであろう。
私が癒すんじゃなくてね、というふうな考え方をしているわけです」(P168)


これでもわかりにくいっしょ? 間違っているかもしれないことを覚悟で、
わたしがリライトすることを許されるならば、
たとえば(いまはあるのか知らんが)ヤクザ映画。
ヤクザ映画が好きで何度も見ていると、
ついつい(実際のヤクザではなく)ヤクザ映画的な物語に飲み込まれちゃうよねってこと。
俳優の高倉健が好きだと、
ついつい(その実像ではなく)その役者ぶりを実人生で真似てしまうというか。
難解なユングの元型思想をここまで噛み砕いていいのかわからないけれど、
しかし、そんなことをできるのは学者でもなんでもない当方だけだろうから許して。
物語のパターンってあるじゃないですか? 
あれを念頭に置いていると、おもしろいってことだと思う。
カウンセラーは古今東西の物語のパターンをたくさん知っていなければならない。
なぜならクライエント(有料相談者)がどう動くか見立てのようなものがつくからである。
これは小説家が登場人物をどう動かそうかと考えるのとおなじの模様。
権威主義の西欧かぶれ作家の遠藤周作は言う。
(たとえば聖書のような)基本的物語(元型)から逃れることは容易ではない。

「だから、われわれ小説家の場合は、作中人物がひとりでに動き始めたら、
その小説が成功すると言われます。
こっちの操り人形で、右向け右って言って、作中人物が
ぼくの初めのプランどおりにいっちゃうと、これはもうだめになる。
だから、作者の意思に抗して向こうが自由に動き始めたら、
生きた人間になるとは言われますけどね」(P166)


年下の天才的世渡り上手、河合隼雄はこう返す。

「同じだと思いますね。ただそこで、
私の考え、私のアイデアというのはやっぱりあるわけですね。
だいたいこういくんじゃないかとか[元型!]、
この人はこういう解決法にいくんじゃないかと思ってるけど、
向こうの自由にしているわけでしょう。
そうすると、私の考えと向こうの流れとがぶつかるわけですね。
このぶつかりというのはものすごく大事だと思いますけど。
(遠藤「そう。そのとき、えも言われぬ快感があるでしょう。ぶつかったときに」)
そうそう。そして、ぼくの知恵を超えた答えを向こうが出すわけですから、
それはもう感動しますね。しかし、だいたいは相手の知恵のほうが深いです、
われわれよりは」(P167)


一部の人にしかわからないことを書くと、紫綬褒章作家で大勝利者の宮本輝。
宮本輝の若いころの小説は創価学会の物語(教学)に寄り添いながら、
登場人物が作者の筆に逆らっていきいきとしていた。
ところが、いまの氏の小説は「師弟不二」とか創価学会の物語をそのままなぞっている。
だから、つまらないという意見もあるだろうし、
老人富裕読者の大勝利意識を満足させる傑作になっているという見方もできなくはない。
物語というのは、偶然をどう解釈するかだと思う。
自他の人生を物語的に見ていると、小さな偶然に気づきやすくなる。
あなたやわたしがあなただけの物語(人生)をつくりたかったら、
あなたの周囲に起こっている偶然に目配りして即座に反応するしかない。
カウンセラーというのは、クライエントの物語を創作する助手のような仕事ではないか?
なんでもない事象(ささいな事件)を、
意味のある偶然と認識できる優秀な視力を持つカウンセラーが、
いわゆる河合隼雄的な心理療法をできるのだろう(それが効率的かはわからない)。
河合隼雄は自分の職業を「偶然屋さん」とべつの本で呼んでいる。
「偶然屋さん」いわく――。

「だいたい現実というものは、その人がそう思っているだけであって、
いろいろに見えるわけです。現実は偶然に満ちている。
たとえばぼくのところへ相談に来られた人の話をそのまま書いたら、
偶然だらけですよ。途方もない偶然でパーッとよくなったりするわけです。
ところが、ぼくのところへ来られた人のお話ですよということで書いたら、
みんなフーンと思うかもしらぬけれども、
それをぼくが小説にそのまま書いたら、こんな偶然はあるはずがないと言われる。
リアリズム自身ものすごく難しい問題ですね」(P146))


偶然を信じているというのは、自分は仏や神を信仰しているというのと同義だろう。
河合隼雄は元型(物語)の偶然をよく知っていたから、
元型的偶然のみならず元型ではない偶然をも直観することができた。
おそらく、氏のクライエントを癒したのは後者の偶然であっただろう。
偶然は主観的には強い意味があるけれど、客観的には確率的事象に過ぎぬ。
「主客の分離する以前のところ」=たましいの世界から偶然はやってくる。
わたしは河合隼雄にならって偶然に任せて生きていこうといまのところは思っている。
明日から5日間、近所で短期派遣バイトをさせていただくことがさっき決まった。
そこでいただくお金は4万円だが、あるいはたましいの領域では300万円かもしれない。
単純労働世界のようだが、あるいはそこで、
最前突発的におもむいた1週間の韓国旅行よりも
はるかにおもしろい経験ができるのかもしれない。
わたしは偶然を深く信じていた「偶然屋さん」の河合隼雄さんの本に、
いままでどれだけ助けられてきたことか。20年近く見守られてきたという錯覚がある。

「河合隼雄 心理療法家の誕生」(大塚信一/トランスビュー)

→著者は元岩波書店の編集者で社長にまで出世した出版文化人。
河合隼雄の自伝「未来の記憶」は口述筆記だったのだが、その聞き役をした人でもある。
河合隼雄が好きで好きでどうしようもなく裏話でも知ることができたらと期待して読んだ。
おそらく河合隼雄は著者から悩み事や裏話をそうとう聞かされただろうけれど、
河合のほうはことさら著者に心を許したというわけではなく、
社会人としての表面上のつきあいしかなかったことがうかがわれる。
本書でいちばんの主張は、
河合隼雄を真っ先に見出したのは自分なのだという著者の手柄話だろう。
なんでも天理大学の講師風情に過ぎなかった河合隼雄に、
天下の岩波書店のそれも岩波新書さまから原稿依頼をしてやったんだぞ。
河合もそのことをとても感謝していたし、
なんておれさまという編集者は優秀なんだろう、うっとりするぜ♪ という本。
岩波書店の社長にまで上りつめた人の本だからどこからも批判は来ないだろう。
わたしも右へ倣(なら)えして本書を絶賛しておく。
あの河合隼雄からもっとも信頼された編集者の書いた魂を揺さぶる評伝。
これを読まずして河合隼雄は語れない。

本書の冒頭で著者は河合隼雄からの感謝の言葉を何度も繰り返し引用する。
ほら、あれだよ。著者が本のあとがきで編集者に感謝する定型文ってあるじゃん。
4つもしつこくそれを書き写してから岩波の元社長さんはダメ押しする。

「この四つの短い文章から読み取れることが、少なくとも三つあるだろう。
一つは、私が『コンプレックス』の執筆を依頼した時に、
河合氏は[京都大学ではなく格下の]天理大学で教えていた、ということである。
二つ目は、岩波新書の執筆依頼を受けて、
河合氏は「驚いてしまった」ということだ。そして第三に、二番目の文章に
「出版企画の意図を的確に話され、ウーンと唸らされた」とあるように、
ユングの思想を広めるために、
その時点では「コンプレックス」というタイトルで執筆をお願いしたいという私の考えを、
最初の段階から認めてくれていた、ということである。
ずっと後になって、珍しく京都・祇園のバーでのんでいるときに
(河合氏とバーで飲んだのは後にも先にもこの時だけだ)、
河合氏は述懐したことがある。
「京大に移ったら、急に原稿の依頼が多くなった。
でも大塚さん[著者]から最初に手紙をもらったのは、まだ天理大にいた時です。
びっくりしたけれど、とても嬉しかった」と」(P8)


いいか、河合隼雄をいちばん最初に発見したのはおれなんだからな、
という著者の鼻息の荒い絶叫が聞こえてくるではないか。
むろん河合隼雄とっても岩波書店から認められた(原稿依頼された)ことは
嬉しかっただろうし、大きな自信につながったことだろう。
河合が編集者だった著者に大きな恩を感じていたというのも本当のことだろう。
結局、「他者からの評価」ほどたいせつなものはなく、
だれか権力者から認めてもらわないと上のほうに行くことはできないのだ。
当時のユングなんてとくに新しい思想だったから先行者的権力者がおらず、
河合隼雄とてだれかから認めてもらわなくては無名のまま終わっていた。
わたしは40年だれからも認められたことはなく、
ブログ「本の山」も10年以上やっているが評価してくださったのは
「もてない男」で知られる小谷野敦さんだけである。
だったら、もっと小谷野さんにべったりくっついて、著書を何冊も読んで絶賛したり、
氏の私塾に参加してはっきりとした恭順を示せばいいのだが、
わたしはそういうことがうまくできない。
それどころか小谷野さんがオカルトと批判している河合隼雄が好きで、
こうして関連本を読んでしまうのだから本当に世間の仕組みを理解していない。
新しい考え方は周囲からつぶされるものである。
オカルトに限りなく近いユング心理学がどうして日本で学問になったか。
その裏事情を河合隼雄の兄で霊長類学者の河合雅雄はこうすっぱ抜いている。
ちなみに河合隼雄の最初の専門は数学で、次に心理学に移っている。

「当時わが国の心理学はアメリカの影響を受けて行動主義心理学が
圧倒的優位を保ち、東大がその拠点であった。
フロイトやユングはまやかしで似非(えせ)科学であるとして、
臨床心理学は学界の主流からは全く排除されていた。
深層心理学を基礎とした臨床心理学を唱道した[河合]隼雄が
主流派から叩かれなかった理由は、
電気と数学という隠れ技を持っていたからだと思う。
専(もっぱ)ら学習理論に傾斜していた実験心理学は、
実験装置に電気装置を使うことが多かった。
そして行動理論や学習理論の〝数学モデル”を作ることが流行った。
戦後米国から推計学がもたらされ、行動心理学には必須のツールとなった。
[河合]隼雄はよくぼやいていた。
大先生の数学モデルはナンセンスだし、有名某氏の推計学は間違いと。
とくに数学モデルと称するものは、数学基礎理論が解っていないから、
「無茶苦茶しとる」と苦笑していた。
しかし、あえてそれを取り上げて批判することはなかったので敵は作らなかったが、
いわゆる「強持(こわも)て」の状態だった。
それが臨床心理学の発展に対する抵抗勢力を
うまく回避する力になりえたのではないかと思う。
「三高・京大のエリートコースを辿っていたら、三流数学者になっていただろう」
と自分でも語っているが、
人生万事塞翁(さいおう)が馬という諺(ことわざ)を思い出させる」(P164)


わたしも有名高校・早稲田のエリートコースを辿っていたがずり落ちてしまった。
だれだってじつの母親からいきなり目のまえで飛び降り自殺されて、
あとには悪口盛りだくさんの日記が残されていたら自棄(やけ)になる気もするが。
そのまえにもいろいろあって、変な家族に生まれ落ちたものだと嫌気がさしていた。
母が自殺するまえに「死にたい」と何度も何度も言われていて、
思わず「死ねば」と言ってしまったこともあるし、
遺書にまつわる信じられない恐ろしい話もある。
しかしまあ、河合隼雄の本のおかげでいちおうここまで立ち直れたのである。
どこまで復活したのか。
職場のうわさ好きそうなおばちゃんから(断じて悪い人ではない)、
「これまでなにをしてきたの?」と聞かれてヘラヘラ笑いながら、
「まあ、ふらふら生きてきましたね」とそつなく答えられるくらいだ。
「もうその歳なら正社員は無理よ」「そうっすよねえ、あはっ」
「お父さんはいまなにをしているの?」「ま、いろいろな複雑な事情があって」
わたしは3月いっぱいで派遣切りのようなものに遭い失職する。
きつい力仕事ばかりやり続けるのなら居残れる可能性もなくはないらしいが、
あれで身体を壊した人はかなり多いのではないか。
「4月からどうすんの?」「うーん、なんとかなるんじゃないっすかねえ」
こういう世間話もできないくらい絶望の淵に10年近くいたような気がする。
これからいったいどうなるのだろう。
わたしは河合隼雄とおなじように人間を超える大きなものを信じているが、
いまいったいわが人生はどのようなアレンジメントのもとにあるのだろう。

さて、ユング研究所で分析家の資格を取るには論文を書かなくてはならない。
河合隼雄が資格論文のテーマにしたのは日本神話である。
テーマを決めると河合は先生から
ケレーニイという有名な神話学者に逢うようにすすめられる。
ケレーニイに日本神話で資格論文を書くことを伝えると「ぜひやれ」とのこと。
さらにケレーニイは河合隼雄に独特の論文の書き方を教える。

「文献はあまり読まなくてよろしい。日本の神話を繰り返し繰り返し読みなさい。
何度も何度も読んでいたら、あなたの心に自然に詩が生まれてくる。
それを書いたら、それが最高の論文である」(P246)


学術論文って先行文献の紹介ばかりして権威をまとっているようなところがあるよねえ。
どこかのグループ(学派)に所属するとはそういうことである。
ただし河合隼雄はケレーニイの教えを守り続けたようなところがある。
ユングをユング大先生とたてまつる研究所の先生が大嫌いだったという河合隼雄は、
晩年にこう言っている。

「ある学派を選ぶのは、それが正しいからではなく、
自分にとって適切だから選ぶのである。
あるいは、自分の判断を照らす適切な鏡として、それを選んでいるのである」(P339)


それでもどこかのお仲間に入らなくては個人は無力である。
ライターとかもさ、シンポジウムとかでお仲間をつくって群れているよねえ。
もうかなりまともになったから、どこかのお仲間からお声がかからないかなあ。
引き上げてくれたら、その恩は生涯忘れないからさ。
でもまあ、このまま低空飛行でドボンでもいい。
出世とか結婚とか、そういうプラスのものはぜんぶ来世に放り投げているところがある。
まあ、わたしなんかただ生きているだけで、それだけでいい存在ですから。
しかし、本当にどこからも声がかからないなあ。
母の眼前投身自殺、家族不和、絶対孤独を乗りこえて、
いま派遣切りにもめげず健気に生きている土屋さん(仮名)、
ブログでいまの切ない思いを書きつづるのだけが生きがい、
連載「孤独中年の現場2017」第1回とか、
どうして朝日新聞が飛びついてこないのかしら。
わたしは河合隼雄信者だから氏と同様に共産党とも創価学会とも手を組める。
「藍より青く」でもっと過激化していて共産党にも創価学会にも同時に入れる。
それにしても小谷野敦さんからしか認めてもらって(いるか?)いないのに、
月数百円のアマゾン報酬で駄文を書き連ねるこの執念深さというのは評価に値しないか。
うえーん、だれか認めてよ。



心が疲れたときは甘いものを♪