「人の心はどこまでわかるか」(河合隼雄/講談社+α新書) *再読
→河合隼雄もこの著作でにおわせるだけで決して強くは主張できないことが、
もしかしたらカウンセリングや心理療法の本質なのではないのだろうか。
なにかというと難しいことではない、金銭を支払うことである。
およそ廉価とはいえぬ料金を支払うことによって人間は治るのではあるまいか。
ユングやフロイトの理論で神経症が治るわけではない。
人間は高額の料金を支払うと元を取ろうとする。だから、治るとは考えられはしないか。
たとえば風邪。あんなものは放っておけばそのうち治るのである。
けれども、我われは治ろうとしない。ついつい酒をのんだり夜更かしをしてしまう。
ところが、医者にかかる。これはよほど治したい気持が強いわけである。
医者にもかかった。薬ものんだ。
こうまでして夜遊びをしたりするものはいないでしょう。
なるべく安静にしている。したがって治りも早い。
カウンセリングや心理療法もこれとおなじ仕組みなのではないだろうか。
わたしは河合隼雄のファンのひとりだが、カウンセリングにかかったことは一度もない。
また、今度カウンセリングを受ける予定もゼロ。
理由は、恥ずかしいものだが、カネがもったいないからである。
1回5千円や1万円も払って、偉そうな先生なんぞに話を聞いてもらうのはご免。
そもそもカウンセリングで自分のあまたある神経症が治るとは思えない。
ざらに治らなかったときを考えると憂鬱なのである。
10回通ったとする。5万円の出費。
このときまったく治っていなかったら、わたしはカウンセラーを許さないと思う。
一生立ち直れないほどの傷を
カウンセラーにつけてやろうと思うはずである(たかが5万でというなかれ!)。
おそらく実行してしまうと思う。
こういう面倒なことを起こすくらいなら、ひとり苦しんでいたほうがまだいいと思うのである。
カウンセラーだって、わたしのように迷惑なクライエントに来られたら困るはず。
以上、わたしがカウンセリングに行かない理由と、
ある種の人びとがカウンセリングで治る理由を同時に述べたつもりである。
「河合隼雄のカウンセリング入門」(創元社) *再読
→引用を中心にしてカウンセリングについて整理してみない。
ストレートの直球勝負、カウンセリングとはなにか――。
「カウンセリングというのは悩みをなくすというようなものではなくて、
「悩みを正面から悩む」ものだと言えるでしょう。(中略)
もっと正面からこうだと欠点を見る態度、これがカウンセリングだと思います。
だから、そういう意味では、
カウンセリングというのは非常に厳しいものです」(P126)
カウンセリングとは「悩みを正面から悩む」ものならば、
その根底にある思想はいかなるものか――。
「僕はさっき「もの好き、もの好き」と言いましたけれども、
そんな仕事をやっているたった一つの拠り所は、人間というのは、
相当な悪環境に放り込まれて、相当な悩みがあり、相当に嫌なことがあっても、
自分で立ち上がってくる、そういう力を持っているということですね。
それを確信しているからこそ、カウンセリングをやるわけです」(P52)
ではでは、そのご大層なカウンセリングとやらの実際を見てみよう。
「ほとんどの人が自分の悩み、辛さを訴えます。(中略)
それに対して、こっちは聴いているばかりです。
ところがある程度まできたら、だいたい言いたいことが尽きてくる。
そうすると、たいていの場合「どうしましょう」と言われます。
しかし実際のところ、どうしたらいいかこちらにもわかりません。
わかったら何とか言いたいのですけれども、わからないことが多いわけです。
だからわれわれは、クライエントが「どうしたらいいんでしょう」と言っても、
「どうしたらいいんでしょうね」と言って、まだ聴いている」(P212)
これ以上はないほどのわかりやすい説明だが、これをさらに整理してみる。
「どうしようもない」→「どうしたらいいんでしょう」→「どうしたらいいんでしょうね」
ふたたび「どうしようもない」に戻るのである。
これが河合隼雄のいう「悩みを正面から悩む」であろう。
果たして治るのか。河合隼雄の回答はこうである。
カウンセラーがクライエントの「自分で立ち上がる力」を信じていると治る。
めいめいが体験してみるほか確かめようがないようである。
「河合隼雄のカウンセリング講座」(創元社)
→河合隼雄が興味深い事例を述べている(P120)。
相談者は主婦で、いま夫と離婚しようか迷っているという。
おかかえの運転手と意識しあう関係である。
この主婦が河合隼雄に問う。ふたつにひとつ、どちらがいいと思いますか。
離婚しないでこのままを維持するか。それとも運転手との不倫に走るべきか。
この問いに、カウンセラーは答えられないわけだ。
どちらがいいか神ならぬ人間には知りようがない。
また、こうしなさいと助言した結果、失敗したとしても責任の取りようがない。
カウンセラーは主婦がみずから決定をくだすのを見守るほかない。
待っているうちにいろいろ動き始めるという。
これは小説家と作中人物の関係に類似してはいないか。
嘘か本当かわからないけれど、小説家は作中人物が勝手に動きだすというでしょう。
これはカウンセラーと相談者の関係にとてもよく似ていると思う。
希代の詐欺師(治療師)・河合隼雄がノイローゼについてこんなことを述べている。
「“三年間ノイローゼの治らない人”というのは、ある意味では、
“三年間ノイローゼになりうる力をもった人”ではないか」(P249)
不治のノイローゼをいくつかもっている当方には意外なほど慰めとなった。
「宗教と科学の接点」(河合隼雄/岩波書店)絶版 *再読
→8年ぶりに河合隼雄に関心をいだいている。
といっても、関心のレベルはだいぶ異なる。
8年前は河合隼雄からがんばって学び、現状を打破しようとしていた。
ところが、いまはすっかりあきらめている。もう現実は徹底的にどうしようもない。
諦念のただなかで河合隼雄のデタラメがとても懐かしく思い出されるのである。
ユング派の心理学者、河合隼雄の言説は、おそらくインチキである。
そして、いまのわたしは学問的真実などよりよほどいかがわしいホラ話に好感を持つ。
本書を再読して、ふたつ感興をもよおしたところがあるので紹介したい。
ユング心理学では人間の意識を浅いほうから3段階にわける。
意識、個人的無意識、集合的無意識である。
意識とは我われが通常の生活で用いている領域のこと。
個人的無意識とは、フロイトの発見したいわゆる無意識のこと。
フロイトはここに抑圧した性欲が蓄積され神経症の原因になると考えた。
かつてはフロイトの弟子だったユングの新しさは、さらに深い無意識を想定したことにある。
これが個人的無意識の下層に位置する(とされる)集合的無意識である。
この集合的無意識において人類はみなつながっているとユングは指摘する。
世界各地で同型の神話が採取されるのは、この集合的無意識のためだという。
テレパシーや夢のお告げが生じるのも集合的無意識の存在ゆえ。
A:意識
B:個人的無意識
C:集合的無意識
専門というには程遠いが、わたしは劇にも関心を寄せている。
劇は、おもに人間の欲望の対立である。欲望と欲望の相克(そうこく)が劇の実相だ。
人間の欲望はユング心理学で考えるとAの意識の領域から発生する。
だが、劇中では対立する人間でさえ(ユングにいわせると)
C の集合的無意識で相通じている。
このC の領域が、あるいは劇の完成において大きな役割を果しているのではないか。
まるで学問的根拠もない(そもそもユングは学問ではなくオカルトだが)思いつきである。
話を移す。
ネイチャー(nature)という言葉の扱いに河合隼雄は東西思想の相違を見る。
西洋においてネイチャーとはアート(art)、すなわち人工に対する自然であった。
日本人はこのネイチャーの訳語に自然を用いることにしたが、
古来、日本および中国においては、この自然にもうひとつの意味があった。
「おのずから然(しか)る」という意味での自然である。
ユングは東洋思想に興味を持ったが、東洋の宗教思想は自然がカギになるのではないか。
河合隼雄の指摘である。
西洋は自然を人間の支配化におくことで科学を発達させてきた。
科学は、因果関係が根本にある学問領域である。
この因果律のみではかなわぬとユングは東洋思想に接近する。
結果、共時性という概念を生みだすにいたる。
共時性は意味のある偶然。因果律によらないものごとの生起基準である。
整理すると、因果律は「原因→結果」、共時性は「自然=おのずから然る」となる。
この整理は、河合隼雄の飛躍のさらに上をゆくわたしの果敢なジャンプだ(笑)。
もとより河合隼雄はインチキ扱いされることも少なくないから、
ここでわたしがさらにトンデモない方向へ突き進んだとしてもさして問題ではあるまい。
西洋科学=因果律=「原因→結果」
東洋思想=共時性=「自然(おのずから然る)」
河合隼雄は版画家の棟方志功を例に挙げる。
美術評論家の柳宗悦が、この版画家をつぎのように評していたという。
「棟方の仕事には『作る』という性質より『生れる』という性質のほうが濃い」
ここに河合隼雄は、東洋における自然の作用を見るのである。
最終章で河合は、みずからの専門領域、心理療法についてこんな説明をする。
心理療法は患者を「治す」わけではない。患者はだれもが自己治癒力を持つ。
心理療法家は患者が「治る」お手伝いをするだけだという。
そのとき心理療法家にとって重要なのは、人為を加えず自然にまかせること。
芸術=「作る」(人為)と「生れる」(自然)
治療=「治す」(人為)と「治る」(自然)
人為が有効なのは、そこに因果関係があるときのみである。
では、いっぽうの自然にまかせるときはなにに留意すればいいか。
河合隼雄はコンステレーション(布置)という言葉を持ちだす。
コンステレーションとは、たとえば夜空における星座のような全体の見取り図のこと。
因果律を超越した宇宙的視野のことである。
コンステレーションに配慮するとき、意味のある偶然が見やすくなる。
この偶然によって事態の改善を望もうというのが河合隼雄の心理療法である。
考えるに、子作りという言葉はあるが、どこまで先端医学が進もうとも、
子どもは作られるものではなく、生れてくるものでしかない。
ならば、なにゆえ、我われは芸術作品を個人が創作可能であると考えるのか。
芸術も子どもとおなじように自然に生れてくるものとは考えられぬか。
この考えにはだいぶ慰められた。インチキ学問の効用である。
(追記)本日「本の山」カテゴリーに新しく「河合隼雄」を加えた。
以前の調査だが、うちのブログは河合隼雄に複雑な感情を抱いているかたの訪問も多い。
「心理療法個人授業」(河合隼雄・南伸坊/新潮文庫)
→思えば、定期的に河合隼雄のライトエッセイを読むようになった。
癒されるわけさ。がんばればなんでもできるなんて言わない。
運命の存在をはっきりと肯定している。
多数の苦悩者と対面してきた河合隼雄がそう言っていると思うとこころが安らぐ。
あの河合先生が言ってるんだぜ。がんばったって、どうしようもねえって。
あの河合先生が言ってるんだぜ。どうしようもねえ運命というものは、ぜったいあるんだ。
河合隼雄の心理学なんてウソ八百のインチキだと大学の先生は言うかもしれない。
インチキでなにが悪いか。ウソを信じるのがなぜいけないのか。
「あ〜、これシンクロニシティかも♪」なんて楽しみながら生きていきたい。
「ユングと共時性」(イラ・プロゴフ/河合隼雄・河合幹雄訳/創元社)
→共時性(シンクロニシティともいう)はとても危険な思想である。
一にも二にもそのことを忘れてはいけないと思う。
共時性なんてことを真剣に考えるようになると、狂気へひた走るしかないのかもしれない。
共時性とはユングの提唱した概念で、意味のある偶然の一致のこと。
たとえば精神分裂病(統合失調症)の患者さんは、この共時性を過剰に認知してしまう。
身のまわりのことすべてが意味のあることに見えてしまう。
あらゆることに意味のつながりを見てしまい、
運命だの世界がわかっただのとおかしなことを言い始める。
タイのグリーンカレーを昼食に食べた日に、緑さんという女性と知り合ったとする。
これを運命だ。ふたりは運命の赤い糸(緑の糸?)で結ばれていたんだ!
こういうふうに思い込み猪突猛進するのが共時性の悪い面である。
「あれ、なんだろうこの偶然。なんかあるのかな」程度に思うのがいいと思う。
共時性の反対に位置するものの見方が因果律である。
例をあげるなら、子どもが公園で遊んでいて遊具に指をはさみ切断してしまったとする。
因果律で考えると、これは遊具が悪い、公園の管理が悪いということになる。
まえにこのような事件があって、
公園から特定の遊具が取りのぞかれたことをご記憶のかたも多いでしょう。
マスコミのひとはだれも言わなかったけれども、
視聴者のなかでこの事件をこう考えたひとは少なくないと思う。
それが常識というものだとわたしなんかは思ってしまうのだが。
すなわち、指を切断した児童は運が悪かったのではないか。
それはもうどうしようもないことで、公園の管理うんぬんの問題ではないのではないか。
因果律で生きていると息づまるわけである。
努力したから成功する。ならば成功していないものは努力していない。
そうだとすれば、成功していないものは人間として劣っている。
いまはこういうガチガチの因果律思考が世の中をおおっている。
このような閉塞的な状況でやりきれないとき、
共時性というのをあたまに入れておくとかなり楽になるという面があると思う。
共時性にのめりこむのではなく、
因果律からもれるものにも目を配ることで生きやすくなることもあると思うのである。
共時性が提示する人生観はこうである。
人生は偶然に左右される。
このとき偶然ってなんだろうと考えていくのが共時性である。
偶然は別名を運ともいう。なんだか運がいい日というのはあるでしょう。
なにをやってもうまくいかない日というものもある。
これは因果律では説明がつかない。共時性へのとびらなのかもしれない。
人間の運命というものは、偶然が重なって形づくられるものである。
そのとき、どれだけ意味のある偶然を見つけられるかというのは生きかたの問題になる。
あまり偶然が見えすぎるのもいけない。
かといって、偶然を単なる偶然と片づけてしまうのもよくない。
ここに共時性のむずかしさとおもしろさがあると思う。
河合隼雄の解説から引用する。
「われわれ心理療法家のもとに訪れる方の多くは、
「不可能と思われる課題に直面」していると思われる状態にある。
そのような人がしばしば自殺を企図されるのも、
無理からぬことと感じられるのである。
その人に接するわれわれも別に妙案があるわけではない。
言うなれば、われわれの唯一頼りとするのは、「希望すること」である。
解決の道はないと本人が思い、周囲の人もそう思い込んでいるときに、
心理療法家の、解決を希望し続ける態度が支えとなり、
そこに「奇跡」つまり共時的現象が生じて、
思いがけない解決の道が見えてくるのである。(中略)
因果的思考のみに頼っていると、まったく解決不能と思えるようなことでも、
共時的事象の存在を前提とすることによって、
そこに何らかの希望を見出せるということは、素晴らしいことである。
私は心理療法家としてこのような考えに支えられて、
誰もが見離すような人たちにお会いしてきたと思っている」(P202)
雑誌「考える人」の河合隼雄追悼特集を立ち読みしていたら、
小川洋子との対談で氏はこんなことを語っていた。
カウンセリングをしていると、信じられないような偶然がひんぱんに起こる。
発表してもだれも信じてくれないような偶然がぽんぽん生じる。
クライアントがカウンセリングルームを出たら
1億円が落ちていたというような偶然もめずらしくない。
こういう偶然を通して人間が治っていくことに深い感動をおぼえると仰せだった。
日本ウソツキクラブ会長を自称する河合隼雄のこの発言は
もしかしたらウソいつわりなき正真正銘の真実なのかもしれない。
「文藝別冊 総特集 河合隼雄」(河出書房新社)
→KAWADE夢ムック。
河合隼雄は作家との相性がいい。対談ではかけあい漫才になっているところもある。
どちらもウソつきだから、ウソとウソの相乗効果で話がはずむのであろう。
学者がマジメに河合隼雄を論じようとすると、わけのわからぬ文章ができあがる。
あれはウソなのだから真に受けてはいけないということだ。
河合隼雄の本を読むと元気になるひとが多いのは、あれがウソだからである。
真実は人間を追い詰める。比して、ウソのなんとほがらかなことか。
ここらでちょいっと楽をさせてもらう。
河合隼雄をマジメに論じたらおかしな方向へ言ってしまう。
いくつか引用をする。偉大なるほら吹きをご覧ください。
「だいたい、僕らのところに相談に来る人は、常識的な答えのない人です。
常識的な答えがあったら相談に来るわけないんですから。
だから、常識で考えても仕方ないから、夢でも見ませんかって言うんです。
夢というつかみ所のないものでも、ああでもないこうでもないとやっていると、
面白い答えが見つかったりする」(P45)
「僕らの仕事はその逆ですね。
努力とか、完結しようとせずに、そんなのやめなされと(笑)。
そういうことをやってるんですね、だから、こんなこと言いますよ、
あなたは常識で考えるかぎり、治ることありませんって。
しかし偶然ってことがあるから、一緒に待ちましょうって。
努力している人というのは、偶然が来ても見えないんですよ」(P85)
瀬戸内寂聴との対談もおもしろかった――。
「あれ(写経)はいいんですよ。私もときどき勧めます。
寂庵なら寂庵へわざわざ出かけて行き、大勢で集まり、お経を書くという、
そうした全てがたいへんいいんです。
集中力も必要ですし、あんなに他人に迷惑をかけない、いいものはないですよ。
歌など歌われたらたいへんですからね(笑)」(P176)
瀬戸内「私、今「源氏物語」の現代語訳をしていますでしょう。
あの時代は何か不幸があると、これは前世の因縁のためだ、
といってすべて前世のせいにしてしまうんです(笑)。
つくづくこれは救いだなと思う」
河合「そうです。救いですし、身近な人を恨まなくても済みます。
前世という考え方がないと、自分がこうなったのも親が悪いんだとか(笑)、
教師のせいだとか、周囲のものを悪者にしてしまうんです。
ところが前世という考え方は、悪者をつくらない。
よほど俺は前世で悪いことをしたんだ、と自分ですべての責任を引き受けてしまう。
これはたいへんな知恵ですよ」
瀬戸内「光源氏が女を口説くのにも前世の因縁をよく持ち出します。
本当に便利ですね(笑)」(P180)
「こころの声を聴く」(河合隼雄/新潮文庫)
→河合隼雄対話集。
ようやくわかりましたよ!
河合隼雄の著作はすべてウソであった。河合隼雄は希代のウソつきであった。
ユングの冠をつけたおかたい研究書も、実のところはみーんなウソ! ウソ八百だ!
そもそも、である。河合隼雄の著書は、一見すると難解に思われるものも、
みなみな一般読者でも読めるでしょう。意味がわかる。
そこいらの主婦やリーマンにも読めてしまう。
よくよく考えたらこれはおかしいのである。一般人にわからないのが学問なのだから。
だれにでも読める河合隼雄の学術書というのはかなり危険なのである。
一般読者は学問を正しいものだと思っている。
だから、学問をしたと勘違いしたそこいらの主婦がわかったようなことを言い始める。
子どもに学校でちょっとなんかあったら、こころに傷がうんぬんとバカ騒ぎする。
根拠は、だって河合隼雄先生が言っているざーます、である。
会社員も会社員で、学問的に正しい上司との交際をしようとして、かえって煙たがられる。
このような主婦や会社員に言いたい。
河合隼雄の主張はすべてウソだぞ。ウソはウソとして楽しまなければならない。
ウソを真に受けたら、とんでもないことになるからな。
亡くなったのを契機に、
日本人は河合隼雄との正しい向き合いかたを考えるべきではないか。
河合隼雄先生のおっしゃることは正しい、という受容の仕方はやめよう。
河合隼雄先生はウソをおっしゃっている、と見たほうがいいのではないか。
ウソを否定的な意味合いで断じているわけではない。
ウソだからいいのである。ウソだから役立つのである。
たとえば、死にたいというひとがいる。
このひとにいくら正しいことを言っても無駄なのである。
ひとは生きるべきだ、なんていう正しい説教をしたところで、なんにもならない。
正しいことといえば、この世に生を受けた人間はいつか死ぬ。このくらいでしょう。
正しいことは、役に立たないのである。
河合隼雄にとって、なにより大事なことは相談に来る悩めるものを救うことだった。
いくら正しい学問をマスターしていても、
ひとりの人間に相対するときはなんの役にも立たない。
人間と向き合うことを、心理学では臨床という。
この対話集で河合隼雄はこんなことを言っている。
「私は人間のこころのことをやっていて、前からそう思っていたわけです。
ところが私がやり出したころは、それこそシステム論が強いわけですから、
そういう固いシステムをもっていないものは学問ではない、
科学ではないと批判されるわけです。しかし私に言わせると、
そういう科学とか学問でつくったものは実際に役に立っていない。
われわれは、臨床をやっているわけですから、
役に立たないと話にならないわけですよ」(P202)
役に立つ学問を追及していたら、いつのまにかウソになってしまった。
これが河合心理学の真相ではないだろうか。
河合心理学は正しくない。ウソである。だからクライアントは治癒にいたる。
河合隼雄はほら吹きである。だから学術書も楽しく読めてしまう。
忘れてはならないのは、それでもウソだということである。
ウソを正しいと思ってしまうと問題が生じる。
マジメな顔をして、アニマがどうのアニムスがどうのと語ってはいけない。
(アニマ、アニムスはユング心理学の述語)
思いつめた顔をして毎日の夢の記録など取るな、と言っている。
ここで重要なのはニヤニヤではないか。
夢の話などニヤニヤしながらすればいいのである。
思えば、偉大な師である河合隼雄先生もいつもにこやかに笑っていらっしゃった。
あれは見方をかえればニヤニヤとも言えなくはありませんか。
どこかでウソをついているというやましさがあったのでしょう。
あるいは「無意識(こんなものあるのか?)」に後ろめたさを感じていた。
河合隼雄の著書を読むときは、このニヤニヤを忘れてはならない。
著者がニヤニヤしながら書いているのに、
読者がマジメな顔をしていたらおかしなことになってしまう。
ふふふ、河合先生たら飛ばしちゃって! このくらいの余裕を読者も持ったほうがいい。
しかし、河合さんのウソはおもしろいよな〜。
たとえば、この本から――。
人間は老いも若きもブラブラしているほうがいい。
なにもしないでブラブラ遊んでいるのがいちばん楽しいんです。
そういうなにもしないひとから時どきなにかをするひとが現われる。
それが芸術だったりする(P98、P120)。
こんなウソをさりげなく言う河合隼雄先生は最高だよ!
え、これウソですよね?
芸術というのは汗水流して努力した結果でしょう(ニヤニヤ)?
「こころの処方箋」(河合隼雄/新潮文庫) *再読
→河合隼雄追悼読書。
ひそかに河合隼雄の代表作はこのエッセイではないかと思っている。
だれでも読めるわかりやすい言葉で、実に役に立つことが書かれているのだ。
ちょっと表現が正確ではないかもしれない。
いかにも役に立ちそうなことが書かれている、と書くべきだったか。
「役に立つ」と「役に立ちそう」では大違いである。
弁舌たくみな宣伝に乗せられて、屋台で役に立ちそうな十徳ナイフを買ったら、
缶は切れない、ビールの栓も抜けない、皮もむけない、
結局のところ、なにもできないゴミだったということもある。
一見、役に立ちそうだからといって、すぐ信じてはならないのである。
河合隼雄の本がどちらだか、わたしにはわからない。
ただ、あまりに役に立ちそうなのは、
なんだか怪しいぞと疑ってかかるくらいがいい、と思う。
この本は何回も読んでいるので、ほとんど内容を覚えてしまっているくらいだ。
今回の読書ではじめて気づいたことがある。まあ、鼻についたのである。
欧米人礼賛が少なくないのだ。数えたが6つあった。
我われも欧米人を見習おうという姿勢である。
どうしてかこの態度が気に食わない。
欧米人は決して日本人を見習おうなどと思うわけがない。
だのに、なにゆえ日本人がかれらをそうあがめなければならないのか。
ユングの心理学で語られる人間とは欧米人限定ではないかと思ってしまう。
たしかにユングは中国の易経に興味を持っていたようである。
けれども、あれはオカルトの一環で、
東洋人を宇宙人かなにかと思っていたのではないか。
ひどく欧米人が嫌いなわたしである。本書から欧米礼賛の例をあげる。
アメリカ人は話し合うことができる(P30)。
欧米人はユーモアのセンスがある(P59)。
ヨーロッパのひとは真の自立を知っている(P96)。
欧米人は表現方法がうまい(P137)。
欧米の民主主義は日本のような馴れ合いがない(P175)。
アメリカ人は権威の真の意味を知っている(P186)。
以前は気づかなかったのがふしぎなくらいである。
こうして集中的にピックアップするとみなさまも抵抗感を持ちませんか?
毛唐のくそったれめと。
しかし、本書は慰めになる。
「ものごとは努力によって解決しない」(P90)
これなどは心底から慰められる。
このことを深く理解している日本人がいたことに安心感をいだく。
たとえば、わたしは母の事件のことでいまも悩んでいる。
いろんなことを試したけれど、努力をしてもどうにもならないのである。
かなりさかのぼって母の主治医を訪ねてみるということもした。
インド仏跡巡礼もやった。
どうにもならないのである。死者がよみがえるはずもない。
どうしてと母には聞きたいことが山ほどあるが現世ではかなわない。
いまでも頻繁に母の夢を見る。ひとが飛び降りる夢もである。
救われないと思うが、救われないのが当たり前なのである。
これを努力でなんとかしようと思っても、どうにもならないのである。
だけど、人間だからどうにかしたいと思ってしまう。
そんなとき河合隼雄の「ものごとは努力によって解決しない」。
この言葉に触れると長い息を吐き出したくなる。ふうう。そうだようなと思う。
結局、待つしかないんだよなと慰められる。なにも(努力)しないで待つ。ただ待つ。
暗闇のなかで待つのは恐怖である。河合隼雄の言葉はほのかな灯(あかり)だ。
そのうち電池が切れて消えてしまうのかもしれない。
しかし、まだわたしという闇のなかで、河合隼雄はかすかな光をはなっている。
「日本人と心理療法」(河合隼雄/講談社+α文庫)
→心理療法の本。下巻。
河合隼雄が心理療法家を志した理由は極めて単純である。
他人の役に立ちたかったからだという。
いくつかの書籍で書かれていることである。
他人の役に立ちたい。
けれども、そのような善意がかえってことを悪くするという経験を
身をもって味わい尽くしたのが河合隼雄である。
人間が人間を助けるといっても限界がある。
あるいは、人間は他人を救えないと徹底的にあきらめる。
その地点で、それでもと、うんとこしょと、
大きなものへ立ち向かっていくのが河合隼雄である。
たとえば、自殺したいとクライエントがいう。
かんたんな相談ではない。生き死にの問題である。
人間の生死は、神の領域の問題といってよい。心理療法家ごときが、
この神の領域に立ち入っていいのかとたえず河合隼雄は逡巡している。
毀誉褒貶(きよほうへん)のあるこの心理学者をわたしが信じるのは、
この態度ゆえである。大きなものへのおそれをもっているからである。
どこをどう読み間違えたら、河合隼雄の本を読んでカウンセラーを志すのか。
いま心理学を専攻している学生の多くは河合隼雄の影響だと聞いたことがあるが。
わたしがいま氏の著作を読んで思うのは、臨床心理士にはなりたくないということだ。
人を助けるのは命がけである。
わたしは他人のために命をかけるのはとてもじゃないができない。
そのような大人物には生まれついていない。
ところが多くの学生がカウンセラーをめざしていると聞く。
ふしぎでしようがない。
本書で知った河合隼雄の笑えるエピソードを紹介する(78ページ)。
スイスの留学から帰国した直後のことだという。
登校拒否の男子高校生と面談した。
心理療法とは、時間・場所を決め、料金を取って行なわれるものである。
そうとはわかっているのだが、河合はこの高校生を自宅にひきとってしまう。
河合の家から学校へ登校させようという計画である。
ユング研究所の先生が知ったら、とんでもないと怒られてしまうのは必定。
河合隼雄の書斎に不登校の高校生が寝ているのである。
「ところが、私はその翌日京大で精神分析の講義をすることになっていて、
しかも、その内容は逆転移に関するところであった。
講義のノートには教科書どおり、治療者の逆転移の危険性について記し、
『クライエントとむやみに親しくなることは避けるべきである』
などと書いている。
その横にクライエントが座っているというありさまだった」(P79)
このような過去の体験の累積から、河合隼雄の著作は生まれているのである。
何人かのユング学者が河合隼雄を批判しているのを読んだことがあるが、
心理療法家・河合隼雄の権威がいっこうに揺るがないのはこのためである。
河合心理学は元手がかかっているのである。からだを張っているのである。
他人を救うことの困難をだれよりも知ったうえで、
それでもなんとかしたいと河合隼雄は願望する。祈る。
とてもまねのできることではない。
そこいらのカウンセラー志望の学生は、河合隼雄をほんとうに理解しているのだろうか。