「貧血と花と爆弾」(井上靖/文春文庫)絶版

→好きな作家の短編小説集を酒をのみながら読むほど楽しいことはない。
こんなことが書かれている。

「木谷はよく真物(ほんもの)だという言葉を使った。
『あいつは真物だぜ』」(P18)

「木谷はこの六十近い自らは不遇でしかない芸術家の、
用捨なく人間の真贋(しんがん)を見破る能力を、
彼の芸術に対する異常な執着と共に高く買っていた」(P25)


世の中、すべてのひとやものに真物と贋物(にせもの)があるのだろう。
いくら高い値札がついていても偽物ということはある。
たとえほとんど価値がないと世間から目されていても真物はいる。ある。
40歳を超えるまで世に出なかった作家にしか書けぬことである。

我われは通常、高い評価のなされているものを買う。
行列のできる料理店に並ぼうとする。
いつ行っても客のいないレストランではうまいものは食えぬと決めてかかっている。
仕方がないことだ。それが生活するということなのだから。

しかし、世間に迎合しているばかりではつまらない。
「あいつは真物だぜ」と言ってみたいじゃないですか。
そのためにはどうしたらいいのだろう。
もとより、答えのない問いである。
以下に引用するのは断じて正答ではない。ヒントにもならないかもしれない。

「あのね、人間どんな不可(いけ)ないことをしてもたいしたことじゃあないと思ったの」(P243)

「人間やりたいことをやらんといけませんな。
やりたいことをやっても一生、遠慮して何をしなくても一生!」(P285)


「常識を疑え」などという処世訓には決してまとめたくない。

「井上靖 文学語彙辞典」(巌谷大四編/スタジオVIC)絶版

→井上靖の小説から名言を集めたもの。
井上靖の文学世界を決定づけたものは、43歳での芥川賞受賞だったのではないか。
ふつうこの文学賞は新人が若年で取るものとされている。
ところが、小説家は43歳でこの栄誉を手中におさめた。
作家の心中はいかほどだったであろうか。
名言集から引用するのはだらしのない話だが、あえてする。

「酬(むく)われるというようなことは、その人その人の持つ運であって、
世の中には立派な仕事をして酬われない人は沢山いる筈(はず)である。
人間の生き方というものは、恐らくそうしたこととは全く無関係なものであろう」(P147)


では、「人間の生き方」とはどのようなものか。井上靖はどのように生きたか。

「変な言い方であるが、私が父親から貰(もら)った一番大きいものは、
父親の持っているものを受け継いだことではなく、父親に反発することに依って、
自分を父親とは少し違ったものに造り上げようとして来たその過程であると言っていい」(P96)


父親だけでは文豪・井上靖は誕生しない。

「私は口には出さないが、母に心の中で話しかける時がある。
「お母さん、あなたからいろんなものを貰いましたね。
いいところも、悪いところもみんな貰った。
あなたの持っているものは、僕もみんな持っている。
間違いなく僕はあなたの子供ですよ。
あなたのお腹の中から、あなたの総てを持って生れて来た子供ですよ」(P126)


父と母がその日たまたま抱き合ったから井上靖は生まれたに過ぎぬ。
人間は偶然から生まれ偶然にもまれ偶然に死んでいく。
ならば、人間の一生は作家の目にどのように映ったか。

「人間というものの一生は、なかなか公平にはできていない。
らくに一生を送る者もあれば、
苦労の連続で一生をあえぎあえぎ過す者もある。
同じ人間なのに、人生の乗車券は特等から十等くらいまである。
幸福と不幸の分配は甚だうまく行っていない。
この方は、神さまが決めることであって、人間の力ではどうすることもできない」(P116)


井上靖の後継作家といえば、真っ先に宮本輝が思い浮かぶ。
しかし、宮本輝の文学世界は結局、井上靖まではいたらなかった。
これを日蓮が好きな宮本輝と、親鸞に惹かれていた井上靖の相違と見ることも可能だ。
だが、わたしは両者の違いを芥川賞受賞の年齢に見る。
31歳で天下の芥川賞を受賞してしまった宮本輝の幸運がかの作家の世界を狭めた。
芸術家にとって、なにが恵まれているのかはさっぱりわからない。
なにせ死んでから認められるものがいるくらいである。
ただしあの年齢で芥川賞を取らなかったら井上靖の文学は深まらなかった。
不運だけが文学世界を豊かにするわけではない。
幸運が人間の芸術を深めることもある。
宮本輝のように幸運がのちのち芸術にとってマイナスになることもあろう。
ひっきょう、人生はわからないということだ。
人生を描く文学がわかったというものを信用してはならないのはこのためである。

(注)現代日本にはなんと文学を教える猫猫塾なるものがあるという。笑止である。

「姨捨」(井上靖/新潮文庫)絶版

→井上靖の初期短編を集めたもの。
「四つの面」というタイトルの小説が印象深かった。
ここで作家は、中国六朝時代を生きた、とある偉人の逸話を紹介している。
ある日、友人がこの男のもとを訪れると、男は女との情事にふけっていた。
男は見られているにもかかわらず平然と戯れを終えるとこう言ったという。

「どんなところを見られても、俺はいっこうに平気だ。
だが、ただ一つ、厠(かわや)にはいっている時だけは、
絶対に扉を開けないようにしてくれ」(P268)


また別の日、友人が訪問すると男のすがたが見えない。
さてはと思い、ほんの悪戯のつもりで厠の扉を開けると、果たして男はいた。
言わずもがなだが、厠とはトイレのことである。
便所の中で男は、全裸で髪を振り乱し、短刀を口に銜(くわ)えていたという。
ほどなくして男もその友人も非業の死を遂げることに相成った。
作者は中国の古人に思いを馳せる。
ちなみに、男の名は郭○(←かくぼく:漢字が出ない)という。

「それにしても、全裸で、髪を振り乱し、短刀を口に銜えていた郭○の姿は、
凄(すさま)じくはあるが、
人間の持っているどうすることもできない悲しみや怒りに触れ、それと同時に、
そこにある救いがあるように私には思われる」(P270)


引用文の主語を井上文学に替えてもおなじことが言えるのではないか。
ためしにやってみよう。
井上靖の文学作品は、凄じくはあるが、
人間の持っているどうすることもできない悲しみや怒りに触れ、それと同時に、
そこにある救いがあるように私には思われる。
この主語は宮本輝とも山田太一とも、いや日本人のみならず、
ユージン・オニールともアウグスト・ストリンドベリとも代替可能であるように思う。
願わくば、いつかわたしの名前も、この文章の主語にならんことを!
「霧の道」(井上靖/文春文庫)絶版

→物語を考えるうえで持って生まれたものというのは最重要条件ではないか。
「霧の道」はつぎの一文から始まる。

「三弥子が自分の顔に痣(あざ)があることを、なんとなく意識し出したのは、
小学校へ上がるようになってからである」(P225)


この痣が物語を作ってゆくわけである。
少女は思う。自分は他人と決定的に異なる。
女学生のころ親友の家で逢った画学生を三弥子は忘れることができない。
学生はふたりの似顔絵を描いた。三弥子の似顔絵には痣が描かれていなかった。
逆上した少女はクレヨンを取り上げ絵に痣をつけくわえる。
すると画学生は悲しそうな眼で言ったのである。

「莫迦(ばか)だな、自分の顔も知らないで!」(P240)

画学生は画用紙をびりっと破り、庭に捨てた。
この一回だけの出逢いが三弥子に恋心を抱かせた。
後年、少女は画家となった男に再会する。
画家のそばには美人で知的なきぬ子がおり、しきりに求愛していた。
ところが、画家は美少女ではなく痣のある三弥子に求婚するのである。
以降、画家をあいだに挟んだ三弥子ときぬ子の対立が、物語を進展させてゆく。

「芸術家なんて、持っているものは結局のところ一生変りはしないさ。
顔が一生変らないと同じことだと思うね。
ただその変らない顔が、空々しくなったり、ゆったりと落着きを持って来たり、
極く少しどこかの部分が変るんだな」(P324)

「『痣があるからわたし特別なのね』(中略)
痣そのものに対する特殊な意識からは解放されたが、小さい時から、
長い間痣のために自分が持って来た特殊な考え方は、
あるいは特殊な感じ方は、今もそのままそっくり自分は持っていると思った」(P335)


だれもが見える見えないにかかわらず痣を生まれ持っているのかもしれない。
このどうしようもない痣は人間をときに孤独にし、ときに寄り添わせる。
痣は見えないことのほうが多いだろう。
だが、どれほどわれわれはこの痣に生きかたを制限されているか。
物語とは、気ままな自由人の交歓ではない。
痣に縛られた囚人たちのうめきではなかろうか。痣は死ぬまで取れないのである。
「山の湖」(井上靖/文春文庫)絶版

→すべてのことは偶然である。
チビのダメリーマンが通勤ラッシュ時、満員電車にかけこんだら、
きれいなおねえさんのおっぱいに顔を押し込むことになった。
これが痴漢逮捕に相成るのか、大恋愛に発展するのかはわからないが、
男と女が出逢ったのはまったくの偶然である。
安手の小説はぽんぽん都合のいい偶然が起こるので読むにたえない。
上質の物語は、なぜだか物事が起こるように起こっているという錯覚を読者に抱かせる。
おなじ偶然なのに物語にするとどうして相違が生じるのだろう。

信仰のある作家のなかには偶然なんかひとつもないんだとさえ言うものがいる。
たとえば、遠藤周作や宮本輝である。どちらも物語を好む作家である。
偶然がないのならば、すべては必然なのか。
だとしたら、偶然を必然として描きだすことが物語創作の秘密なのだろうか。
さらに論をすすめると、どうしたら偶然を必然のように描けるのか。
歴史は必然ではないか。
歴史を概観するとき人間はなにかしらの必然を感じるものである。
だが、このさき日本の政治がどうなってゆくかは、
われわれ有権者の手にかかっているように思えるのもまた事実である。

すべて起こることを偶然ならぬ必然とみなすだけなら愚か者にもできる。
しかし、偶然を必然のようによそおって描く、
すなわち物語創作はだれにでもできることではない。
うっかり書くと偶然ばかりじゃないかと読者にあきれられてしまう。
実際あったことを書くのなら、それは神仏がわれわれに与えたもうた偶然なのだから、
物語の形式で描くことは可能である。
ところがまったくの無から、のちに必然となる偶然を、
人間に与えるためにはどうしたらいいのか。
われわれは神仏ではないのである。
これをやれるのが物語作家なのである。遠藤周作、宮本輝、そして井上靖――。

小説「山の湖」は三津子のもとにある手紙が届けられることから物語が動く。

「三津子は夏木から突然斯(こ)うした手紙を貰うことも予想していなかったが、
それよりも、夏木からの手紙が、誕生日という特殊な日に、
しかもそれを思い出して幾何(いくばく)も経たない時に、
自分の手に舞い込んだことに、なにか異様なものを感じた。
偶然ではない何か運命的なものがそこには匿(かく)されているような気がした」(P178)
「黯い潮」(井上靖/文春文庫)絶版

→行動を描くのが物語なのだと思う。
この小説の主人公は中年新聞記者の速水。下山事件のキャップを命じられた。
国鉄総裁の下山定則が遺体として発見された事件である。
おのおの新聞社は独自の見解を発表する。

「しかし、下山の死は自殺か、他殺かなんですからな」(P103)

ふたつにひとつである。速水は自殺路線を新聞で押し進める。
新聞記者には暗い過去があった。
新婚直後、二十歳の妻は男と駆け落ちして心中してしまったのである。
現在の事件と過去の事件が並行して物語られる。
速水の思惑どおり下山の死は自殺ということで落ち着きそうである。
喜んでいる同僚に向かって速水はヒステリックに食ってかかる。

「下山の自殺の原因について、つべこべ言うなよ。
死んだ原因なんて、死んだ人間しか、判っちゃいないんだからな」(P161)


いまだに妻の死をひきずっている速水であった。
速水は恩師の娘と再婚するか迷っている。
下山事件の取材を通して再度、妻の自殺を見直した速水は独りで生きてゆくことを決める。

だれかの行動がべつのだれかの行動に影響するのが物語ということになる。
行動する。なんらかの反応が他者の行動というかたちで返ってくる。
これを踏まえて人間は新たな行動を取る。
下山の自殺(?)も、妻の心中(自殺)も行動である。
速水の語るようにほかの人間の行動(自殺)の原因なんて本人しかわからない。
では、なにゆえ物語作家の井上靖は複数の人間の行動を巧みに描けるのか。

「下山の気持なんか、下山しか知っちゃあいないんだ。
他の者に判って堪るか! 死者に対する冒瀆(ぼうとく)はよせ!」(P161)


あるいは、こうも考えられぬか。
果たして自殺者は、自分の死ぬ原因がわかっていたのだろうか。
人間は自分の気持を正確に知ることが可能なのだろうか。
人間の行動はほんとうに本人が決めているのか。
このあたりに物語創作の秘密があるように思うのだが、どうでしょうか。
「通夜の客」(井上靖/角川文庫)絶版

→ひでえ作品だな。小説的にも倫理的にも、これはひどい。
昭和24年に発表された「通夜の客」は「猟銃」「闘牛」につぐ第3作品。
かつての愛人、白神喜美子によると翌年「闘牛」で芥川賞を受賞するまえに、
すでに完成していたとのこと。
物語作家の井上靖にはめずらしい私小説である。
いや、正確には私小説ではない。
このころ井上靖は、ふみ夫人と愛人の白神喜美子との板ばさみに苦しんでいた。
作家は京都で愛人と暮らしながら、ときおり妻子の住む東京へも顔を出す。
二重生活である。愛人の存在は妻にばれている。
井上靖はどうして妻子のもとに戻らないのか。
愛人といたほうが霊感を受けるからである。小説創作の情熱がわく。
残酷だが、ふみ夫人は文学に通じる熱いものを生来、持っていなかったのだろう。

井上靖はおのが火宅をどのように描いたか。
愛人の立場から描く。女になりかわる。
まず作家本人を思わせる42歳の元新聞記者を脳溢血で殺す。
男は終戦を機に新聞記者を辞め宣言する。
3年間田舎の山奥で晴耕雨読の生活をするというのである。妻子は東京へ残してだ。
3年目の今年ようやく東京へ戻ってきたが、かつての同僚と大量飲酒したため死にいたる。
通夜である。若い女性の客が登場する。焼香を済ますとすぐさま場を後にした。
この女の手紙が小説の大部分をなす。出すつもりのない手紙である。
女は3年のあいだ山奥で男の愛人をしていた。

「由紀さん(=男の本妻)、私はあなたに読んでいただきたくて、
これを書き始めたんです。
私は自分の生命を賭けた果し状のようなつもりで、これを書いて行きます。
あなたがこれをお読みになってどんな気持がなさるか、
勝ったと思うか、敗けたと思うか、
あるいは私を憎いと思うか、可哀そうだと思うか、
一切そんなことについて私は知らない。
あなたが悦ぼうと悲しもうと、そんなことにお構いなく、私はこれを書いて行きます。
書かずにはいられない気持だから書いて行く」(P177)


この女の書く手紙というのが、まこと男、ひいては井上靖にとって都合がいいのである。
女は一途に妻子ある男性を愛する。報酬を求めない無償の愛である。
ときには嫉妬をする。しかし、この苦しみを愛で乗り越える。
井上靖の実体験を思わせる男女のいさかいの描写に、
作家の裏事情を知るわたしは苦笑を禁じえない。
結局、この聖女は嫉妬も男の死も、愛ゆえ克服することに成功する。

井上靖は、いい気なもんだ。
「通夜の客」である女は、永眠する男の顔にかけられた白布をさっとはずした。
一瞬、男の死に顔を見たのである。
そのとき、男の目元が少し動いた。あれはいったいなんのメッセージだったのだろうか。
この疑問が物語の終局で解決する。
あれはきっと「ありがとう」と伝えたかったのだと女は悟るのである。
作家の自己中心主義にあきれてしまう。
井上靖はこの「通夜の客」を発表のまえ愛人に読ませて感想を聞いているのだから。
愛人にこの聖女を見習ってくれといっているに近い。
どうかあまり騒がないでくれ。感謝している。だから、おれを愛してくれ。

一般に人格者のように思われている井上靖のとんだ裏面ではないか。
むろん、わたしは井上靖を非難するつもりはない。
芸術とはこういうものだからである。
食うか食われるかの人食い地獄を経なければ、めったな芸術作品など生まれはしない。
「通夜の客」で井上靖は自身の地獄を、さも美しい物語のように偽装した。
こういうごまかしのもと書かれた小説がおもしろくないのは仕方がないのだろう。
途中で投げ出さないで最後まで読んだのは、作者のプライベートに興味があったからである。

今月の12日、井上靖の妻でエッセイスト(笑)のふみ氏が亡くなった。
ふみ夫人はどんな気持で「通夜の客」を読んだのだろう。
小説内でこんな描写がある。

「勝ったと思うか、敗けたと思うか」

井上靖の正妻として98歳まで長生きしたふみ夫人は、
果たして死ぬ間際、夫のかつての愛人、白神喜美子に勝ったと思ったのかどうか。
もとより、だれをしても聞けぬことである。
だが、この地獄からしか文学は生まれないのだと思っている。
「春の嵐」(井上靖/角川文庫)絶版

→芸術家は孤独だという。芸術の創作は孤独な作業だという。
これはウソではないだろうか。いくら芸術家でさえもだれかを必要とする。
いや、芸術家こそ、もっともだれかを必要とする人種ではなかろうか。
さみしげな幼児を思い浮かべてはいけない。かれは人食い人種なのだから。
芸術は、生きた人間を丸ごと頭からかじりつくほどの食欲から創られるのではないか。
芸術家はだれかを必要とする。
師匠かもしれない。愛妻かもしれない。愛人かもしれない。編集者かもしれない。
いずれにせよ、だれかと食うか食われるかの修羅場を経ないと
芸術作品は生まれないのではないか。

我われはすでに井上靖が愛人、白神喜美子の人生をめちゃくちゃにしたことを知っている。
「花過ぎ 井上靖覚え書」参照
昭和27年発表の「春の嵐」は、白神喜美子の助力がなかったら完成しなかった作品。
愛人はかつてダンサーとして働いていた。
このときの同僚に不良少女「おけつちゃん」がいた。
白神の紹介で作家はこの少女と逢う。
ふたりはすき焼きでサントリー大瓶を1本空けたという。
この際、井上靖の耳に蓄積された物語が、この青春小説の原型になっていると思われる。

5人のダンサーの青春群像である。夢と希望を持った少女たちの青春は美しい。
恋心をあきらめ無難な結婚におさまる少女がいる。
純潔すらも大金と引き換え、女事業家に成り上がる踊り子もいる。
かと思えば、国際ギャング団に入るもの。恋破れ田舎に戻る美少女。
妻子のいる画家に一生を捧げるダンサーがいる。
どうしておなじ年代の少女の人生がこうも多様に枝分かれしていくのか。
持っているものがそれぞれ違うからである。
40を過ぎてようやく文壇デビューした井上靖の達観といえよう。

「人間の世の中には幸福と不幸の星が、
節分の豆のようにばらばらとばら撒かれている(P12)

「よくも短い期間に、これだけダンサアができたと思われるほど、
終戦は大量のダンサアを生み出したものであった。
しかし、第一期の清子、オミツ、美代子を初めとする二十人ほどの連中が
一番人間として面白いものを持っていた。
他の連中が決して持っていない、何かを持っていたようである」(P53)

「(事業家の)彼がどうして百人近くいるダンサアの中で、
目立たないおけいさんに眼をつけたか、わたしには理解できなかったが、
無理にその理由を探せば、彼女の持っている目立たない、貧し気な、影の薄い、
要するに左近鉄平の持っているものの正反対のものに
なべて惹かれていたのかも知れない」(P111)

「オミツのように不良上がりの女の子の見る男性観は、
わたしたちの持ったそれとは全く違っているようだった。
人間の持っているものの本質を見抜く眼力にかけては、
あるいは彼女らが一番確かなものを持っていたかも知れなかった」(P115)


あなたの持っているものはなにか。わたしの持っているものはなにか。
宝石なのだろうか。それとも、ただの路傍の石なのか。
肝腎なことは、人間は持っているものを交換できないということである。
なぜなら、そもそも自分がなにを持っているのかさえ知るのが難しい。
この持っているものに従い、人間は異性に恋をするのであろう。
あるものはいっときの幸福を味わい、べつのものは不幸にひた走る。
幸福も不幸も大した相違はない。というのも、どちらもいずれ終わるからである。
臨終にいたって人間は持っているものの返還を迫られるわけである。
「北国の春」(井上靖/講談社文庫)絶版

→ひとり杯を傾けながら井上靖の軽めの小説を読むのもまた、
数少ない人生の愉しみのひとつかもしれない。「北国の春」は短編小説集。
どんなに短い小説でもなにかが起こるのは著者が物語作家であるためだろう。
非難しているのではない。それどころか、むしろ物語歓迎である。
なにも起こらない小説を読んで悦に入るような文学青年ではない。
物語とはなんだろうか。これまで幾度も考えてきたことである。
いま酔い心地で思いついたのだが、
偶然が偶然ではないように見えるのが物語ではないか。
偶然なのだが、そこにはなにかしらの手が加わっているように見える現象。
だが、もしこれを物語と定義するなら、すべてが物語になってしまう。
あなたもわたしも人間はまったくの偶然の産物だが、
だれひとりとして偶然存在しているようには見えぬのだから。
畢竟(ひっきょう)、人間を巧妙に描けば物語になるということだろうか。
「こんどは俺の番だ」(井上靖/文春文庫)絶版

→昭和31年に雑誌連載された中間小説。
嫉妬が物語をすすめる筋立てになっている。
三十路の会社員、雲野八一郎は売れない映画女優の十津川光子に恋をしている。
女優はまだ二十歳(はたち)を超えたばかり。
小説の冒頭、雲野は4階のビルによじのぼる。
光子につきまとっているゴロツキと賭けをしたのである。
もし成功したら光子と今後一切縁を切るという約束だ。
雲野青年は命からがらビル登攀(とうはん)に成功する。

雲野は自分ひとりだけが女優・光子の才能を理解していると思っている。
がために光子と関係のある男に嫉妬するのである。
いや、嫉妬なのだが、本人は嫉妬と気がついていない。
ゴロツキは光子のもとから去った。
ところが、もうひとり光子の心から信頼している男性がいるという。
光子がなかなか男の素性を言おうとしないので雲野はいらだつ。
とうとう光子は口を開いたのだが、とんでもないエピソードまでついてきた。

「言ってしまおうかな」
と(光子は)独り言のように言った。
その表情が雲野には類いなく美しいものに見えた。
「言えよ」
「じゃ、言うわ。あのね、その人とずっと前に一回だけあったの」
「あったって!?」
そう言ってから、その言葉の意味に気付くと、
雲野は急に顔をくしゃくしゃに歪めて、ごくんと生唾を飲んだ。
「それじゃ、なんでもなくはないじゃないか」
思わず大声を出して言った。喉がかさかさに乾いていた」(P58)


相手は四十過ぎの会社社長であった。雲野は三十ちょいの平社員である。
年寄りにだまされて、この若い肉体がもてあそばれたのか!
燃えるような嫉妬に雲野は苦しめられる。
かの主人公がヒロインへの恋愛感情を明確に意識したのはこのときであろう。

「ビア・ホールへ行こう」
雲野は腹を立てて言った。今夜の光子のどの言葉も、雲野には気に入らなかった。
併(しか)し、厄介なことに、今までのいかなる時の光子よりも、
今夜の十津川光子が、彼には魅力的に見えていた」(P62)


雲野は社長のもとを訪問する。もう光子と逢ってくれるなと通告するためである。
どんな悪漢かと思ったら、社長はじつに気持のいい一本気な男だった。
雲野にとっては、運が良いのか悪いのか、社長は会社が倒産して一文なしになっていた。
そのうえ自殺を考えているという。
こちらも負けず人のよい雲野は社長に、自分の姉の嫁ぎ先で静養しないかとすすめる。
とんだ顛末(てんまつ)になったわけである。

これでもう光子のまわりに男はいなくなったのか。雲野は問いただす。
だが、まだ男友達が複数いるという。嫉妬した雲野はその人物に逢いに行く。
そのたびにどうしてか気のいい雲野は恋敵の援助をする羽目におちいってしまう。
立場が入れ替わる瞬間が登場する。
光子の男友達のひとりに妹がいた。
この妹の手助けをなにやかにやと雲野はしてやっていた。
その現場を光子は目撃してしまうのである。
嫉妬した光子が雲野に当たり散らす。
いな、光子は自分が嫉妬していることに気づいていない。
むろん、雲野もおなじこと。どうして光子からこんな理不尽な対応をされるのかわからない。
ふたりは年末に別れてしまう。

両者ともに相手と逢いたくてたまらないが、なんとかこらえようとする。
光子の言い分はこうである。あやまれ! つきあってくださいと低頭せよ!
雲野は冗談じゃないと思う。光子のほうから前非を悔いるべきである。
雲野は金輪際、光子と逢うまいと誓うが、みずからその誓いを破ってしまう。
おのれへ罰をくださなけれなばらないと思った雲野はふたたびビル登攀を企てる。
深夜の危険な冒険である。そこに光子が現われる。
雲野の友人に、またビルに登ろうとしていることを教えられたのである。
光子は雲野の胸に飛び込んでゆく。烈しい力でつかんで離さない。
雲野はこれならビルに登るほうがまだ楽かもしれないと思う――。

好人物しか登場しない井上靖の青春小説の魅力を堪能した。
小旅行の際、持って行くなら井上靖の中間小説に限る。
恋愛不感症のわたしがこんかい井上靖の恋愛小説から学んだこと。
だれかを愛するとは嫉妬することなのだと思う。
そして、いま哀しくも嫉妬を感じるような異性はいない。
いい年をして断わるまでもないが、
女優の誰某(だれそれ)の醜聞を聞いたところでいささかも嫉妬は起きぬ。
ぜひぜひ嫉妬したいと思う。嫉妬したときほど異性が美しく見えるときはないのだから。