「嘘の見抜き方」(若狭勝/新潮新書)

→元東京地検特捜部検事が教える「嘘の見抜き方」のテクニック。
いやねえ、もうだらだらなおいらは嘘も本当もないんじゃないかと思うのさ。
昨日だったか、派遣会社のSさんからメールをいただき、
明日から5日間また例の北戸田の職場に入ってくださいと。
しょせん派遣なんだからシフトを教えてくれるのは前日かなあ、
と思っていたから、早くて驚き、即時感謝メールの返信。
そうしたら「よろしくお願いします」と。このへんどこが本当かわからないんだよなあ。
わたしはいまの職場でほとんど使えない存在である。
ぶっちゃけ、お菓子を入れるのがうまいわけでも早いわけでもない。
経験を積めば早くなるのかもしれないが、
最初にできないやつは他に回されるため修業ができない。
とはいえ今日はじめてのスポット派遣でも速い子はおれなんかよりはるかに速いから、
結局は能力差の問題に帰結するのかもしれない。
同僚の話を盗み聞きした感じだと、
おいらが明日から派遣で入ることで休まされる人が出るらしい。
もうどうしようって感じなんだよねえ。
派遣会社の人はたぶん温情やえこひいきで仕事を回してくれている。
ぶっちゃけ、派遣に登録したって仕事が来ない人は来ないし、
むしろそちらのほうが多い。
そういう現実を知ったうえで明日から、
どう派遣ばかりの同僚に顔を合わせたらいいか。

派遣会社の人と雇用者の関係はとにかく難しい。
いちおう形式上は派遣会社は雇用者に仕事をお願いする形式にはなっている。
しかし、雇用者はお声がかからないという状況がしばしばあるらしい。
そうなってくると、雇用者が派遣会社に
仕事をさせてくださいとお願いしなくてはならないわけでしょう。
けれども、そんな厚顔なことをできる派遣は(派遣は雇用の底辺ゆえ)皆無だろう。
派遣会社の社員から電話があったときがわからないのである。
1.本当に日本語の聞き取りができるというだけが長所の当方を必要としているのか。
2.経済的に困っているとご心配いただき、お仕事を回してもらっているのか。
ここで1か2のどちらが本当かを決めるのが国家権力(元検事の著者)で、
実際としては1も2も本当というか、1も2も嘘というか、
本当か嘘かよくわからないというのが、
現実に起こっているあらゆる事象に当てはまるのかもしれない。
たとえばだれかを刺したといっても、事実はAがBを刺したというだけで、
そのほかのことはなにもわからないわけでしょう。
いろいろな事情があってAはBを刺したわけだから、
そのへんの細かな感情や事情は法律的にはすくい取れない。
あんがい刺されたBのほうが世間的、法律的に悪かったということもありえよう。
本当のことなんてあるいはわかりゃしないのかもしれない。
本当だと思っていることが嘘で、嘘だとされていることが本当なんて、いくらだってありうる。
本当のことはわからないが、
とりあえず刑事裁判では犯人の自白がかりそめにも本当のこととみなされる。
自白といったって、言語能力は人それぞれなんだから、
法律的一律的に裁くことはできないと思うが、そんなことをいったら国家さまが機能しない。

わたしはすべて本当のことを言って嘘をつくことも、
すべて嘘をつきながら本当のことを相手に伝えることもできると考えている。
それはもう自他の言葉と汗だくになってつきあうしかない。
ヒントのようなものを有名大卒国家的エリートの書いた本から引かせていただく。

「皆さんからすると、ストーリーを完璧に組み立てた嘘のほうが
バレにくいように思われるかもしれません。
しかし、矛盾がないように綿密に準備を重ね、様々な質問を想定したとしても、
すべてに破綻のない嘘をつくのはとてもむずかしいものです。
一つに綻びが出れば、全て崩れてしまう可能性がある。
それを隠すための演技も必要となってきます。
しかし、真実と嘘をおりまぜれば、何が本当で何が嘘かわからなくなる。
特に、証明できる部分は真実を述べ、証明できない部分に虚偽をまぜれば、
煙(けむ)にまくことができるという訳です。
さらにこの手の嘘は、最初から最後まで嘘をつくより罪悪感が比較的弱く、
「嘘反応」も出にくいのです」(P130)


書き写して気づいたが、著者は本当と嘘の関係をまだまだわかっていないような。
なにが本当かというと、話し手が本当だと思っていることが本当なんだよ。
それをいくら嘘だと指摘しても話し手はおのれの非を認めないだろう。
いわゆる供述調書なるものは、調査官と被疑者が共同創作した物語で、
真実などというものからはもっとも遠いものなのだろう。
どうして国家権力はいわゆる被疑者の自白(物語)を本当と判断するのか、
そこがわからない――ということが本書を読んでわかった。

「宮城まり子 こどもたちへ伝言」(NHK/知るを楽しむ 人生の歩き方)

→イケメンの文壇人事課長・吉行淳之介の愛人で、
慈善家・人権屋・新聞文化人のテレビ放送版、勝利人生体験発表の書籍化。
読んでいてすごくいやあな気分になった。
文壇随一ともいわれるイケメンの若手作家と不倫略奪愛をした元お嬢さんはいう。
彼女はむかし女優だったことがあるらしい。

「女優さんをやってると、
まわりにハンサムな俳優さんなんてたくさんいらっしゃって見慣れてるの。
私は、[吉行淳之介が]ハンサムであることなんかまったく関心がなかった。
男の人の魅力は才能だと信じていたから」(P31)


美男子を正規配偶者から略奪して、
自分は顔を好きになったんじゃないっていい子ぶりがすぎやしないか?
おれみたいなわけありの傷物を好きになってくれて、おなじことをいうのなら本物だが、
当時芥川賞作家で肩書もあり妻もいた東大出の吉行淳之介だぞ。
そりゃあ、おかしいよ。
有名老人が権力で若い美女と結婚して、
おれは彼女の顔や身体に関心がなかったっていったところでだれも信じないけれど、
性別女性ならば反対が許されるのかあ。
もてない男は顔のせいでも収入のせいでも肩書のせいでもなく、
それはあなたに魅力がないからよってずいぶん残酷なセリフの気がする。

障害児施設を運営していたインテリ文化人の宮城まり子女史は、
「いい人」に見られたい願望が強いのだろう。
わざわざ障害児等弱者支援施設を開いて、
自分を「お母さん」とこどもたちに呼ばせる女性権力者。
彼女は口うるさくいちいちお茶の味までチェックして、
自分が気に入らないとヒステリックに独裁者的に変えさせたという。
インテリ文化人の宮城まり子女史は新聞テレビ的には「いい人」としかいえない。
マスコミ美談の象徴的存在が宮城まり子女史である。
こいつ大嫌いとか思うからおれはもてないのかなあ。

ぼくもぼくの才能であるぼくの魅力に気づいてくれる女性と出逢いたいなあ。
ぼくぼくぼく――。

「セブン-イレブンの正体」(古川琢也+週刊金曜日取材班/金曜日)

→著者は昭和51年生まれでわたしとおなじだ。出身大学学部までいっしょ。
キャンパスで顔を合わせたことも一度ならずあったことだろう。
けっ、このやろう、出世したんだなあ。
古川琢也氏はベストセラー作家、ジャーナリスト、権威あるブラック企業大賞選考委員。
本人は絶対に口を割らないと思うが、実際どうなんだろう?
ブラック企業大賞は古川琢也氏が中心になって行なっているイベントだ。
ブラック大賞なんていう企業イメージがついたら
資本主義の競争社会ではたまったものではない。
そんなことをいち個人(いちグループ)が勝手にしていいのか。
企業としてはそんなことをされたらいくらCM料を払っても取り返しがつかない。
現実として以前、ブラック企業と古川琢也氏から命名されたワタミは危ないという。
あんがい裏では古川琢也氏の家には、
大企業から付け届けがいっぱい送られているのではないか?
それともそういう賄賂はいっさい受け取らず(じゃあ、どうやって食ってんの?)、
著者はジャーナリストとして正義の告発でもしているつもりなのだろうか?
ワタミでもセブンイレブンでもそうだけれど、
自社に誇りを持って楽しく明るく働いている人はたくさんいるわけである。
そういう労働者を、ブラック企業大賞は
高みから見下ろしているような部外者感覚がある。
ブラックユーモアのつもりなのはわかるが、ちとばかしお寒くないかと思う。

本書はフィクション(小説、映画)ではなくノンフィクションだから指摘する。
セブンイレブン暴露本とされる本書にはリアリティが欠如しているようなところがある。
というのも、著者が取材したというセブン関係者のほとんどが実名を名乗らない。
ほとんどすべてが仮名のため、それぞれの発言の責任があいまいなのである。
実名で本に出るのでなければ、
かりに著者に発言を針小棒大に書き換えられても取材者は抗議しないだろう。
それどころか基本的にセブン憎しの人たちだろうから、それを歓迎する。
本書はセブンイレブンという巨悪があって、
それに立ち向かっている正義のジャーナリストの古川琢也――といった、
著者の妄想のように読めなくもないのである。
著者にとっての真実はそうなのだろうが、またべつの真実もあるような気がしてならない。
いったい正義のジャーナリストの古川琢也氏はなにがしたいのだろう?
セブンイレブンがつぶれたら関係雇用者がみなみな路頭に迷うことを知らないのか?

本書で知った古川氏の心中にある「セブン-イレブンの正体」を紹介する。
氏によると、セブンはずいぶんあくどいブラックな企業なようだ。
フランチャイズ店のオーナーは本部にではなく、
個々のベンダー(セブン協力企業)に商品を発注しているが、
オーナーのもとには企業から請求書が来ないという。
つまり、本部が中抜きしているというわけだ。
これを著者は社会不正だと怒っているけれど、
コンビニのフランチャイズなんてそんなものでしょう?
たぶんセブンだけではなく、ローソンもファミマーもそうだって思うし。
慈善事業をやっているわけではないのだから。
よくセブンイレブン会長が、うちの日販(売り上げ)は業界一位だと自慢している。
しかし、オーナーたちのあいだでささやかれていることは、
「売り上げはあがって赤字は増える」という秘密のこと。
セブン本部は廃棄食品もその店の売り上げとして計算しているという。
廃棄食品からもチャージ(お金)を取り上げる。
そうなるといくら毎月売り上げが上昇したとしても、
本部に払うチャージ、人件費、光熱費を差し引くと赤字になることも多いらしい。
とくにおでんは儲からないという。
おでんのための人件費や廃棄ロスを考えると、
おでんはひたすら本部だけが儲かる商品とのこと。
おでんには虫が入ることも多く、とはいえこれは避けようのないことらしい。
マニュアルでは虫が入ったらスープを変えることになっているが、
いちいちそんなことをしていたら人件費も廃棄ロスもふくれあがるばかり。
さらにおでんは本部からノルマ(目標)を課せられるから、
売れないぶんは自腹で買わなければならない。

かといって、セブン本部の社員がいい思いをしているわけではない。
セブンに新入社員として入ったら何年も店長をやらされる。
店長は管理職あつかいだから、いくら残業しても手当はつかない。
急なシフトの空きに対応できるのは、若いセブン社員くらいなのだろう。
店長から店舗指導員(OFC)に出世しても忙しいのは相変わらず。
朝から晩まで働いてほとんど休みも取らず、
ノルマがきついのかいろいろな自社商品を自腹で購入する。
ジャーナリストの古川琢也氏は以上のような現実を取材して
セブンを「蟹工船」のようなブラック企業だといいたいのだろう。
しかし、見方を変えれば、
これはセブンの社員さんは愛社精神に富んでいるともいえよう。
セブン会長は「仕事が趣味」のようだが、
おなじように「仕事が趣味」のような社員がいてもべつにいいのではないか?
わたしはそんなのはいやだし、同世代の著者もそうなのだろう。
だが、いろいろな価値観の人がいてもいいような気がする。
どうして著者は自分の価値観と合わないものを「悪」としてしまうのか?
自分の所属している会社が好きで、
自社で長い時間働き、いただいたお金で自社の新商品を買うのが楽しみだ。
こういう人たちは洗脳されているわけではなく、
自分で好きでそのようなことをしているのだから、不幸なのではなく、
むしろいまは日本にめったにいない幸福な会社員ともいえるのではないか。
赤字経営しているオーナーのなかにも、
あるいはサラリーマン時代よりもいまのほうが目標があって充実している。
そう考えている人だって少なからずいると思うのである。

セブンイレブンでは隔週で1回、全国の店舗指導員(OFC)を集めて、
鈴木会長の講演会が開かれているという。
その講演会に参加したことのある元社員はこう証言している。
その鈴木会長講演会では――。

「「……鈴木会長から、『前年比率二〇〇パーセント達成』などという
『目標額』という名のものすごいノルマを課せられるんです。
各店おでん一〇〇〇個とか、特にクリスマス、おせち、節分の恵方巻き……
といった季節ごとのイベント商品は酷(ひど)い。
しかも、会長の指示は絶対で皆、『ました!』と答えなければならないのです。
本部に集まった一〇〇〇人以上の社員全員で、不気味な光景ですよ。
宗教みたいです。ほかにも鈴木会長にちなんだ著書が出版された際、
半強制的に購入させられたりしました」
「ました!」というのは、「わかりました」の略語で
本家のイトーヨーカ堂で使用されていたそうだ。
業務を円滑化するためだという」(P62)


こういう企業文化がセブンイレブンのおいしさの秘密なのだろう。
隠し味といってもいいような気がする。
経営者は、大勢の社員にいかに自社を愛させ、競争させるかを考える。
社員が勝手に競争して消耗してくれるぶんだけ企業は儲けることができる。
とはいえ、鈴木会長の趣味は仕事のようだから、それほどお金はいらないはず。
はてまあ、セブンの社員さんやオーナーさんの血と涙の結晶とも言うべきお金は、
いったいどこへ行っているのだろう? 株主のところ?
いやいや、コマーシャル料に化けている金額が多いのかもしれない。
いまの派遣先にテレビがあるけれど、セブンのCMってやたら多いし。
わたしは感覚が合わず、最近はめっきり地上波テレビは見なくなった。
しかし、いまもテレビを愛する庶民は少なくないだろう。
ということは、セブンはテレビ番組のスポンサーとなることで社会貢献していたのか。

話が脱線したので、元に戻す。
セブンの会長が自著でかならず自慢している赤飯開発の手柄話がある。
自分の鶴の一声で赤飯が劇的にうまくなり爆発的に売れたという成功譚だ。
真否は不明だが、その裏側は本書によるとこうである。
この本でいちばん笑ったところであり、ああ、世の中ってそうなっているんだなあ。
セブン元社員が著者にこう暴露した。

「一〇年ほど前、『絶対に売れる、売れないはずがない』
という鈴木会長の強い意向で赤飯を販売したんです。
ところが、思ったほどヒットしなかった。
何とか売り上げを伸ばせという指示のもと、
私の地区のほとんどの社員は毎日この赤飯を買わせられました。
とは言っても、『自腹買い』にも限界があって、
時間が経つにつれて売り上げは下がりますが、
いつのまにか誰も何も言わなくなって、うやむやになりました。
会長が出したアイディア[仮説]の『成果』を検証することなど、
絶対に不可能ですから」(P79)


ヒット商品はこのように人為的につくることができるのか。
そうかそうか、自分たちで買い支えれば、それはヒット商品ということになろう。
創価学会でも池田名誉会長の本をひとりで百冊買う幹部もいるし、
こういう戦略は知らない人がいない常識なのだろう。
あんがいカリスマ的トップは現場で起こっている本当のことを知らないのかもしれない。
というのも、トップが来店するとなると、みんなかしこまって演技するでしょう?
取り巻きもトップを怒らせたくないから本当のことは伝えない。
赤飯は鈴木会長のアイディアで大ヒットしたということにしておけば、
みんながみんなうるおうともいえなくはない。
会長から叱責される社員も出ず、オーナーは赤飯の売り上げがあがり、
食品工場では大量発注のおかげでパートさんも稼げたはずである。
わたしは食べ物を捨てるのがとにかくいやで、
このため(なれるはずもないけれど)コンビニのオーナーにはなりたくない。
しかし、セブンのような大量生産、大量廃棄はもっとも経済的なのではないか?
人口が減っている。大食いできる若者も減っている。
こうなると提供する食物も少なくなるのが道理である。
しかし、そうなったら社会下層部の食品工場労働者の賃金が下がってしまう。
ならば、たくさんつくって、つくったものを捨ててしまうというのは経済的に賢い。
ジャーナリストの古川琢也氏は果敢にも、
セブンの弁当工場にパートとして潜入取材している。
このため鈴木会長よりは著者のほうが現場に詳しいということはできよう。

「先輩従業員に教えてもらいながらスタートしたが、すぐに怒られた。
自分では急いでいるつもりでも、周囲の作業スピードには全く追いつかない。
先輩からは、「遅すぎる」「それじゃ仕事にならない」
「片手でやるな。左手が死んでるだろ!」
といった具合に容赦なくダメ出しを食らう」(P114)


わたしはいまだによくわからないのだが、社会下層部の労働者というのは、
どうしてお互いを助け合わないで競争することが多いのだろう。
労働者は連帯して上役と交渉すればいいのに、
どうしてかおなじ労働者同士で監視しあい競争をおっぱじめる。
そういう低賃金労働者には「あいつよりも仕事ができる」というような優越感が、
生きるうえでとても大事なよりどころにでもなっているのだろうか?
仕事を早くしたら早く終わり金が稼げなくなるのに、
経営者でもないのにお互いを「早くしろ!」
と監視しあい競争する日本下層労働者の勤勉性(あるいは蒙昧)は
いったいなにゆえなのか、
これだけは自分のあたまでいくら考えてもわからないので、だれかに教えてほしい。
セブンはファミリー企業もベンダーも一斉に競争しているようなイメージがある。
そんな競争して、だれがいい思いをしているのか?
なんのために競争しているのか?
結局は、お客様の「便利」のためということになるのではないかと思う。
客として思うのは、もうこれ以上便利にならなくてもいいのではないかということ。
しかし、それはこちらがおっさんでむかしを知っているからか。
2000年代生まれは、いまの便利な世の中が当たり前になっているのか。
いま知り合いがセブンのファミリー企業で働いているそうだが、
そこには「おまえ、ぶっ殺されてえのか!」とか威圧してくる先輩もおらず、
和気あいあいとまでいったら大げさだが、
彼はけっこう楽しんで連日会社に自転車で行っているらしい。
ブラックかと聞いたら、「ぜんぜん」と否定された。

「~果てしない孤独~  独身・無職者のリアル」(関水徹平・藤原宏美/扶桑社新書)

→スネップをテーマとした本。スネップとは造語で、孤立無業者のこと。
もっと正確に言えば、20~59歳の独身で友人も恋人もいない無職の孤独な人を指す。
スネップ――ううう、なーんか身につまされる言葉だなあ。
こんな言葉を知らなかったら自由人を気取っていられたという人も
少なからずいるのではないか。
ふらふら自由気ままに遊び暮らしている人をスネップと問題視したがる人がいるのだろう。
どうして孤立はいけないのか、
ひきこもり・ニート・スネップ救済団体代表の藤原宏美氏は言う。

「孤立において怖いことは、孤立が長期化すること自体が、
「自分は誰からも必要とされていない」「自分は不要な存在だ」
というメッセージとして孤立する人に受け止められ、
本人を傷つけていくということです」(P140)


べつに他人から必要とされていないくても、
たとえば自分の趣味を追及していたりで、
それなりに人生を謳歌(おうか)している孤立者もいなくはないような気がするが、
しかしやはり社会的地位のある藤原宏美代表の言うように孤立はよくないのだろう。
あんがい思ったよりも人から必要とされたい、
人の役に立ちたい善意の人は多いのかもしれない。
だとしたら、ひきこもり・ニート・スネップはなにもせずとも人の役に立っている。
ひきこもり・ニート・スネップはなにもせずとも人から必要とされていると言えよう。

人生に生きがいを感じられず会社員を勤めきれず、
なにか人の役に立つことをしたいと思った藤原宏美代表こそ、
まさに人生の落ちこぼれとも言うべき
ひきこもり・ニート・スネップを必要としていたのである。
藤原代表はひきこもり・ニート・スネップを発見したとき、
これで自分も人の役に立て、
会社員時代とは異なり「先生」と呼ばれると小躍りしたのではないか。
一介の会社員にすぎなかった藤原宏美氏も、
いまでは多くの親から頼られる教祖的存在で、
会社員時代からは考えられなかったように、本を出せるほど社会的に成功をおさめた。
藤原宏美が代表を務めるトカネットはボランティアではなく有料サービスである。
人の役に立てて「先生」と呼ばれ、そのうえさらに金銭まで手に入るのである。
藤原宏美代表はひきこもり・ニート・スネップに
足を向けて眠ることはできないのではないか。
藤原宏美代表は心理カウンセラー希望の大学生などをただ同然で雇い、
1回2時間6千円のメンタルフレンドとして社会的落ちこぼれのもとに送り込む。
落ちこぼれにはメンタルフレンドとつきあうことで社会性を取り戻していってもらう。

やばいことを書こう、
どうせバイトのメンタルフレンドは大した給料をもらっておらず、
いわば経験を買うようなイメージで人の役に立つことをやっているのだろう。
将来、心理カウンセラーになるための経験にでもなれば、と。
スネップにかぎりなく近いわたしもメンタルフレンドをこのブログで募集してみよっかなあ。
メンタルフレンド募集。ただし女性限定。年齢制限あり。新興宗教会員可。
報酬はプライスレスの、
やりがい、生きがい、人の役に立つ喜び、人に必要とされる満足感。
いるんでしょ? 人の役に立ちたい人、人から必要とされたい人!
定員になりしだい募集を終了しますのでお早目のご連絡をお待ちしております♪

「セラピスト」(最相葉月/新潮社)

→かなり期待して最相葉月(女性)のノンフィクション「セラピスト」を読む。
評判のよい著者の本を読むのは初めてでテーマにも関心があるので期待度が高かった。
ところが、つまらないのである。だらだらと暴露もなにもなく平坦な説明が続くだけ。
読後、貴重な金と時間を返せと泣きたくなった。
1ヶ月まえ近くに読んだ本なので、いまさらりと要点のみ読み返したが、ある謎に気づく。
本書の結末は著者のカミングアウトである。
この本の取材を9割方終えてから町医者(クリニック)に行ったら、
著者は双極性障害Ⅱ型と診断されたというのである。
双極性障害とはむかしは躁うつ病と呼ばれた統合失調症とならぶ精神病のひとつ。
もしこの本に書かれていることが本当だとしたら、とんでもない事実が露見してしまう。
繰り返すが、この本がノンフィクションというのなら、
精神医学や心理療法がインチキであることがばれてしまったとさえ言えなくもない。
精神病の最相葉月は本書を執筆する過程で、
多くのセラピスト、臨床心理士、精神科医と面談するのみならず、
治療まで受けているのである。
精神病の最相葉月は河合隼雄の息子さん(京都大学教授)にも逢っているし、
精神医学の重鎮であられる中井久夫の(高額な)絵画療法 まで受けている。
ところが、本書を信じるならば、
だれも最相葉月が精神病であることを見破れなかったことになる。
どういうことか繰り返して書く。
あまたのセラピスト、精神科医、河合俊雄教授、中井久夫医師がヤブであることが
本書によっておおやけになってしまった。
最相葉月のような有名作家の名刺を持って当人が現われたら、
ベテランのセラピストも精神科医も
目のまえの相手が精神病であることを見破ることができない。
もしこの本が本当にノンフィクションならば、
精神病診断のデタラメが白日のもとにさらされたと言ってもいいのではないのだろうか。
有名作家の名刺を持っていたら、だれも当人を精神病とは診断できない。
著者が正体を隠して町のメンタルクリニックを受診したら、
あっさり精神病と診断されてしまう。
本書は心理商売や精神科商売のうさんくささを意図せず告発しているとも言えよう。
この本にある精神科医のインタビューが掲載されているが、
医療者自身も本当のことを言えばあまり自信を持っていないのかもしれない。

「たとえば、こんな話があります。
患者さんの中に、有名な医者が好きな人がいて、有名な医者をひと通り回った。
すると、いろんな診断が下ったんです。
東大分院にかかると統合失調症、九大にかかると境界例……。
笑い話みたいですが、そういうことが本当にありました」(P237)


わたしはこの本がノンフィクションではない可能性も高いと考えている。
意地悪な裏読みをすると、本書を執筆するいきさつはこうだったのではないか。
著者が心身の不調を感じて町の無名の心療内科を受診した。
すると、あろうことか有名作家の著者に双極性障害Ⅱ型の診断が下ってしまった。
双極性障害(躁うつ病)ならば脳機能異常ゆえもはや薬をのむしかなく、
一般的にセラピーやカウンセリングを受けることは効果がないとされている(異論あり)。
真否は不明だが、双極性障害や統合失調症の人が
心理療法を受けるとかえって悪化するという説もある(反論も多々あるが)。
そもそも科学的に見たら心の病はすべて脳機能障害と言えなくもないのである。
しかし、作家先生なんてものはみんな心に偉大な幻想をいだいていることが多い。
有名作家の最相葉月は町医者風情から
精神病(双極性障害)という診断を受けたのが許せなかった。
自分の不調は心の問題であってほしい。自分が精神障害者であることを認めたくない。
このような動機から本書は書かれたのではないかと邪推するが本当はどうなのだろう。
いろいろ取材や勉強をして自分が双極性障害であるということを認められるようになった。
このため本書の最後の最後で、
町のクリニックに行ったというウソのエピソードを付け加えたのではないか。
しかしまったく本書はつまらなかった。
心ない人からきちがいと揶揄(やゆ)されることの多い精神病患者なら
もっとおもしろいものを書けると思うのだが、そういうものではないのだろう。
そういえばおなじノンフィクション作家の上原善広氏も双極性障害だが、
あの人の文章からは精神の病みがビンビン伝わってくるので、そこがおもしろい。
最相葉月さんにはリーマス(お薬)などのんでほしくなく、
躁状態になったときにまわりを唖然とさせるような突飛なことをやってほしい。
それをノンフィクションとして書いたらとてもおもしろいものができるのではないか。

本書で知った河合隼雄関連の裏話を抜き書きしておく。
だれか河合隼雄の裏を取材して偉人伝ではないノンフィクションを書いてくれぬものか。
それとも圧力がかかって書けないのだろうか。
最相葉月も河合隼雄の裏話はもっと知っているのかもしれないが、
それを公開できない事情があるのかもしれない。

「私は、河合隼雄に夢分析を受けていたあるカウンセラーのことを思い出した。
その人は、あまりに河合に接近しすぎたために、どこからどこまでが河合で、
どこからどこまでが自分なのかがわからなくなるほど同一化してしまった。
それは幸せな時間でもあった。
だが、弟子の多い河合である。周囲から妬まれ、嫌みをいわれた。
げっそりとして京都を去ったその人は、ある日、河合から告げられた。
「ぼくはもう君の面倒は見んぞ」
初めて夢分析を受けた日から五年、半身を引きちぎられるような思いで河合と決別し、
以後、自らの道を歩むことになった」(P320)


河合隼雄の弟子とかめんどうくさいのが大勢いそうで笑える。

「働く。なぜ?」(中澤二朗/講談社現代新書)

→なぜ働くのかというのはなにやら考えてはならない不穏な疑問のような気がする。
いまのバイト先の面接時にさ、笑っちゃうような質問用紙に回答させられた記憶がある。
詳しくはもう忘れたけれども(もう一度見てみたい)、
「あなた将来の夢は?」とか高校生向けの質問事項が並んでいた。
思わず笑ってしまい、面接官だった(いまはなき)サブマネージャーに
「いいおっさんがこんなこと書かなきゃならないんですか?」と聞いたら、
「形だけでいいから書いてよ」と含み笑いをしながら言われた。
その質問事項のひとつに「あなたは何のために働くのですか?」があった。
「わかりません。誰か教えてください」と書いたような気がする。
いまでもあれ、どこかに保存されているのかな、恥ずかしいぜ、くうう。

「正しい」答えは「家族のため」「自分の成長のため」「夢のため」ではないか。
本音を嫌い建前を好む日本文化では「お金のため」はそこまで「正しい」答えではなかろう。
変なことを書くけれど、
世の中にはお金のためではなく働いている人もいるのだから困ってしまう。
そんな人いるのかって話だけれど、実際にわたしはふたり知っている。
ひとりは2ちゃんねるの文学板でコテハンをしている「論先生」という中年男性。
この人は家が大金持で働かなくても一生食っていけるそうだ。株とかそういうの。
一時期心を病んで精神科に通院していたらしいけれど、
そういう危ない人でも名家のお坊ちゃんだからコネでいいところに再就職できるわけ。
そんな人が愛されるのかって話だけれども、なんか結婚もしたらしい。
おおむかしネカマをやっていたとき、この人から熱いキモいラブレターが来てね。
こいつマジモンのおキチじゃないかと思ったけれど、
大金持アピールは間違いなく本当だと確信した。

働かないでいいのに働いている人っているもんで驚いた。
もうひとりはいまはもう絶交された知り合いで、同年齢の男性。
一橋大卒で有名企業に入り年収は5、6百万だとか(当時。いまはもっと上だろう)。
小谷野敦と中島義道とビジネス書が好きな、
友だちがいないことを過剰に悩む孤独な男性だった。
結婚式をするとき呼ぶ人がいないのでどうしようとかブログに書いていた。
聞いたらさ、この人の実家は北海道で不動産屋をしていて大金持っぽいの。
当時の住んでいるところも親の持っている物件だから家賃ゼロ。
世の中にはこんな恵まれている人がいるのかってギョッとしちゃったもん。
でも、当人はたいそう不幸ぶっていて
自分は世界でいちばん孤独な人間だと信じていたんだから、あはっ。
彼も言ってしまえば働かなくてもいいのに働いているわけ。世間体のために。
最後に逢ったとき大阪芸術大学を中退した若い女の子と同棲していて、
どうだすごいだろう? と自慢された。
そのお嬢さんの両親に挨拶に行くとき、
有名企業社員という社会的信用がどれほど役に立ったことか。

世間体のために働いている、われわれからしたらびっくり仰天の人もいるわけさ。
こういう事実をいまのバイト先の人が知ったら(時給850円!)、
あまりの理不尽に気が狂ってしまうのではないだろうか。
時給850円の人と金持のボンボンとどっちが人間的にいいかって、そう差はないのね。
ある部分では時給850円の人のほうが勝(まさ)っているところさえある。
この世の理不尽、不公平、デタラメは知ったら吐き気をもよおしたくなると思う。
むしろ知らないほうがいい。

ものすごい話が脱線してしまった。なんの本の読書感想文を書いていたのだったか。
そうそう、よく知らんが偉い人の書いた「働く。なぜ?」だ。
この人は一流企業で人事を長年やったから偉く、本書も「正しい」のだろう。
著者は必死で仕事に意味を与えようと苦慮していたが、
その骨折りぶりを知ったからといって本書を絶賛するわけにはいかない。
姑息なプチ成功者の著者は、
自分よりも「偉い」権威どころの発言をやたら多く引用していたので、
ああ、こいつは骨の髄まで世の中の腐った常識ってものに汚染された、
いわゆる「できる人」なのだと思った。

高学歴、高収入の著者は
「働く。なぜ?」の「正しい」答えを伝えようと一生懸命になっていたが、
もしかしたら答えは「わからない」でもいいんじゃないかなあ。
結局さ、会社から1年の休暇をもらったら困る人が大勢いるんじゃないかって話。
1年遊べと言われても、ふつうの神経の持ち主は1年も遊びつづけられない。
遊ぶことにすぐ飽きて仕事をしたくなってしまう。
わたしなら5年でも10年でも遊べるぞと言いたいところだが、
実際は1ヶ月も持たないかもしれない(本当かよ?)。
ベーシック・インカム(国民全員に生活費を支給する制度)が導入されても、
どういうわけか働きたくなってしまう人はかなりの割合でいるのではないか。
わたしだってベーシック・インカムが実現しても、
いそいそといまのバイト先に通いつづけるかもしれない。
だって、おもしろいんだもん。
昨日はあるとてもお若い社員さんから怒られたけれども、
感情をむきだしにした人間っておもしろいなあ、と感動した部分がある。
言うまでもなく、社員さんの言い分が正しく、まったくいたらないクズバイトでごめんなさい。
昨日はおかしかったな。
フィリピンのおばさんから「私、悪くない」と大声で叱責されにらみつけられたけれど、
いま考えたらおもしろすぎるのである。おいしいというか。
言うまでもなく、すべてわたしが悪い。
自分をもっと人間として成長させなければなりません。
高学歴、高収入の著者が書いた「正しい」本書から影響を受けた部分を引用する。

「組織に入るとは、その指揮・命令下に入るということです(直接的には「上長」に従う)。
人は生まれながらにして自由です。が、その限りにおいて、自由は制約を受けます。
九時までに出社しなさい。好きな仕事ではなく、指示した仕事をしなさい。
就業時間中にさぼってはいけません。企業秩序を乱してはいけません等。
それが嫌でたまらないなら、組織になじむことはできません。
それでも入りたいなら、それでも入らざるをえないなら、
それに従わなければなりません。
従うだけでなく、他の人たちと上手くやっていくことが不可欠です」(P24)


これだけ偉そうなことを書く著者は、
会社員のあいだ一度たりとも遅刻したことはないのだろう。
中澤二朗氏はたったの一度も上司からの指示に逆らったことはないのだと思われる。
氏は瞬間たりとも仕事中にさぼったことはないのだろうから恐れ入る。
中澤二朗さんは会社の人のだれとでも上手くつきあう処世の天才だったのだろう。
この人はいったいどういう人いなんだろうと著者プロフィールを見てみた。
これだけ偉そうなことを書くからにはきっと東大卒だろうと思い込んでいたが、
学歴が記載されていなかったが、偉ぶっている人が偉い人なのだから、
この人は偉くて「正しい」と思う。
就活生や新社会人は必読の書。
座右の書として何度も繰り返し読む価値があるのではないか。

「図解雑学 男が気になる女のからだ」(松峯寿美/ナツメ社)

→松峯寿美医学博士は本書で女は重いものを持てないとは書いていなかったが、
ぼくは男の子として生まれてきてしまったのだから重いものを持とうと思った。
女が重そうなものを持っていたら、ぼく持ちますよと言う男になりたいと思った。
なぜ? とか理屈を言わず社会制度がそうなっているのだからこれは仕方がない。
男は男なんだから、女は女なんだから、である。
ここで思考をストップして、その先を考えようとしてはいけないのだろう。
社会のタブーのようなものに触れかねないって大げさかしら?
本書から学んだことを列記する。
・おっぱいの正体はよくわからん。
なんであんなもんが女の胸についているのかはわからん。
・割礼はクリトリスを切除することで、一説では性欲防止対策とされている。
・あそこの横ヒダは精子を放出させる役割を持つ。
・男性ホルモン、女性ホルモンのホルモンってのが結局なんなのかわからなかった。
・フェロモンは異性を惹きつけるために体外に発散している匂いのこと。
・あれのとき女は膣で感じているのではないらしい。
・男女を産み分けるパーコール法というのがあるけれど日本では原則禁止されている。
・女の脳は男よりも小さい。
・なぜ男女という性別が存在するのかはわからない。
まあ、いろんな人がいたほうがいざってときに環境変化に耐えられるからじゃないか。

「新入社員読本 仕事の基本100のポイント」(社会経済生産性本部編/生産性出版)

→新入社員研修とかさ、受けたことがないんだ。
でもほら、顔はおっさんでも気持はヤングだから新しく勉強しようとする意欲はある。
自分から勉強しようとする力は、長所はこれくらいしかないんだけれど、あるつもり。
もちろん、「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」くらいは、
元からネタのようなものとして知っていた。
本書を読んでいちばん勉強になったのは、働くということはロボットになれということ。
働くというのは、個人の好き嫌いを抹消してチームワークに徹することだ。
しかし、好き嫌いをなくしてしまったらそれは人間ではないでしょう?
自分というのはなにかと突き詰めれば好き嫌いなのである。
あなたとはなにか? あなたがなにを好きでなにが嫌いかというのがあなたである。
しかし、社会人になったら自分(好き嫌い)を殺せと教わるわけか。
模範的社会人を10年、20年とやっていると自分というものがなくなってしまうのではないか。
むろん、それが悪いわけではなく、自分を殺したほうがうまくチームに溶け込めるだろう。
社会人は自分を殺すことを美徳としているのか。
はっきり言って、この本を読むとわたしは社会人として不適切な言動をしているから、
バイト先の同僚からいつ殴られてもおかしくないということが理解できた。
みんながわたしを殴らないのは、自分(好き嫌い)を殺してくれていたからなのか。
社会人は偉いし、社会人経験のあるパートさんも偉いと思う。
社会人マニュアルを読んで思ったのは、
社会人は芸術家よりもよほど偉いのではないかということである。
ひたすら自分を殺して、それでも出てくる自分を殺して、最後の自分まで殺す。
これがチームワークをうまくこなすための秘訣になるのだろう。

「職場では、人に関する好き嫌いは二の次にして、
成果をあげる努力をしていかなければならない。
人は機械ではないから感情を持ち、それが人間関係の善し悪しに影響し、
ひいては協力関係にも響いてしまう。
職場でよい人間関係を形成するには、自分自身の感情をコントロールし、
仕事の成果を基準に割り切っていかなければならない」(P43)


要はやっぱり自分を殺せというわけだ。
いま社員さんのみならずパートさんの顔をいろいろ思い浮かべているが、
自分をかなり殺している人とそうでもない人に分かれることに気づいた。
男に多いけれども自分を殺せる人って偉いよなあ。
ああいう偉人(異人でもある)さんがいてくれるからチームワークがうまくいっているのか。
仕事でいちばん難しいのはおそらく人間関係なのだろう。
そして、人間関係をよくしてチームとして活躍するためには、
なるべくおのおのが自分(好き嫌い)を殺すべきである。それが社会人の生き方だ。

「職場では、まず仕事の目標を達成することが最も重要であり、
自分はそのためのチームの一員であると自覚することが大切である。
最初は仕事中心に漠然とした人間関係を築くように行動し、
仕事上の共通の役割を通した関係を深めていき、
その中で個別の人間関係を築いていくようにするとよい」(P47)


わたしはいまのバイト先でぜんぜんこれができていない。
昨日もさ、5ラインは22時終了ってみんな知っていたのに、
わたしだけ知らずに20分も無駄に職場に居残っていたから。
まったく人間関係を築けていないから、こういう羽目に遭うのは自業自得なのだろう。
ある人も言っていたけれど、わたしも世間話ができないんだ。
だから、「個別の人間関係」はあそこにいくら勤めていてもできないのかなあ。
うまく自分(好き嫌い)を殺すことができないから最低限の人間関係さえ築けない。

それから社会人は「無責任」ではいけない、という箇所もぶん殴られたような気がした。
以下はまるでわたしの仕事態度のようである。

「割り当てられた仕事をきちんと実行しない。
仕事がうまく進まなくなると、他人や状況の変化のせいにする。
反省する姿勢がなく、自分のミスは認めようとしない。
批判はするが、どうすればよいかの工夫はしない」(P91)


バイト先の若い先輩に「ミスなんて気にしないほうがかえっていいですよね」
と話しかけたときの、優秀パートさんの唖然とした表情のわけはここにあったのか。
でもさ、ミスを恐れてビクビクしているとかえってミスが増えるような気がするけれど。
本音は8~10時間の勤務中にどのくらいメリハリをつけて働くかじゃないかなあ。
「割り当てられた仕事」を8~10時間全力でやっていたら身体が壊れてしまう。
デスクワークでもみんなときどき息抜きしながらやっていませんか?
しかし、これだけは正真正銘真実というのは、わたしは社会人失格なこと。
以下はまるでわたしのことを指摘されているようだ。
社会人は「自分勝手」を言ってはいけないのか。

「自分の都合を常に優先させて考え、他の人の都合に対して配慮しようとしない。
調整を受け入れる柔軟性を持たない」(P91)


自分の都合よりも他人の都合を優先させるのが社会人ってこと?
なんかそれ、悟りを開いたと自称するインチキくさい坊さんみたいじゃなーい。
社会人ってすごすぎる。正直、ここまですごい人たちだとは思っていなかった。
自分(好き嫌い)を殺して苦行を厭わず、
高校球児のようにチームプレイに徹するのがよりよき社会人というものなのだろう。

「職場は、目標を共有するチームである。
したがって、チーム・ワークの基盤としてのよい人間関係が重視される。
しかし、このチームには、個人的な好みで参加することも、
そこから勝手に抜け出ることもできない。
一人ひとりがエゴを慎まなければ、職場の和は保てない。
この意味で、職場の和の維持に努め、和を乱さないように行動する部下は、
上司から信頼される」(P139)


いまの倉庫バイトを始めて社会人の社員さんたちに何度も見惚れたものである。
マネージャーさんはみんなから嫌われる憎まれ役のような立場だから辛いだろうなあ。
サブマネっていつも職場にいるけれど家に帰っているんだろうか。
その他社員さんも膨大な人間関係の束を笑顔でなんとうまくまとめていることか。
この本を読んだら完全社会人失格のわたしを7ヶ月もうまく使ってくれたのである。
社会人って思っていたよりもはるかに骨折りで気苦労の絶えない立場ではないか。
明日から3日、今年最後のお勤めだけれども、社員さんを尊敬の目で見てしまいそうだ。
パートさんなのに社会人として正しくふるまっているあの方にもあの方にも。
とにかく社会人は偉い。とても真似できない。
わたしは偉い人になりたくないから社会人を真似するのは自分を裏切ることになろう。
ただただわたしに可能なのは、偉い社会人さんを尊敬のまなざしで仰ぎ見ることだけだ。
出勤まえに1時間で読んだ本の感想は――。

社会人>芸術家

「生きづらい日本人を捨てる」(下川裕治/光文社新書)

→「生きづらい日本人」を捨てて一見すると楽なアジアで生きている人のルポ。
率直な感想として、
日本を捨てて海外で起業したり職を得て食っていったりするのはすごいよなと思う。
とはいえ、本書に成功譚はひとつたりとも掲載されていない。
どれもどんよりダメな香りがただよう物語ばかりなのである。
世の中に甘い話なんてないとでも言いたげに、
この本ではぎりぎりで食べている邦人ばかりが特集されている。
残酷な話だが、きっとどこにも楽園なぞないんだろうなあ。
たとえどこの国でも、よしんば家族なしのたったひとりでも、
金を稼いで自力で食べていくのがどれほど難しいかがよくわかる。
みんなこんなことは知っているのであろう。
それでも日本人を捨てる人がいる。どうして日本で生きていると生きづらいのか。
反対から言えば、アジアのどこが魅力的なのか。
おそらく、それはアジア各地に楽園めいたところがあるからだろう。
その疑似楽園では――。その街では――。
きっとおそらくたぶん以下のような人が多いのである。

「どうやって皆、生活しているのだろうか。
日本からやってきた僕は、つい、そんな疑問を抱いてしまうのだが、
この街では、なにか口にしにくい雰囲気がある。
皆、楽しいことを優先してしまうタイプなのだろう」(P92)


これがどうして日本人が生きづらいかの答えでもあるのだろう。
統計もなにもないのでよくわからないが、
たぶん日本人は楽しいことをひたすら後回しにするタイプが多いのではないか。
もしかしたら楽しむことを禁忌とするような日本人が多いのかもしれない。
楽しんだり楽をしたりするのはいけない。
みんなで苦しもう。もっと苦しもう。生きるとは苦しむことだ。
おれが苦しんでいるんだから、おまえにも楽はさせないぞ。
わたしには日本人論をできるほどの知識も見聞もないが、しかし、
寝てない自慢がどうして自慢になるのか疑問に思わない人が多いのは事実だろう。
本書を読んでわかったのは「生きづらい日本人」を捨てても大半はなにもないこと――。

「異形の日本人」(上原善広/新潮新書)

→これもとってもいい本だった。著者は被差別部落の出身を自称しているが、
そのマイナスの出自をこれでもかとプラスに転化している。
被差別者でもないものが、解放同盟の本当のことを書いたら差別だとこれでもかと叩かれる。
いまの世の中では被差別者が偉いのである。
いまでもなお日本にはいろいろなタブーがあるけれど、なぜそこにみなが触れられないのか。
たとえば、部落とはなんの関係もないわたしがそこに触れたら偽善くさくなってしまうのである。
この点、才能ある著者はノンフィクション作家としてもっとも恵まれた環境にいたと言えよう。
被差別部落出身ならなにをどう書いても
差別だと良識的な多数派から攻撃されることがなくなる。

日本の奇人変人をテーマにした本書はどれも記憶に残るエピソードだったが
(申し訳ありませんが大概の本はすぐに内容を忘れます)、
もっとも印象深いのは手足が動かない身体障害者の若年女性Nの性を描いた章だ。
重度身体障害者のうら若き女性Nは、
美しい悪をやらかしているのである(残念ながらもうお亡くなりになっている)。
なんでも主治医の男性を性的暴行の罪で訴えたそうである。
本書でこのエピソードがいちばんおもしろかった。
わたしのこれまでの人生体験、読書体験からしたら、あくどいのは障害者のNだ。
Nは身体障害のみならず、精神障害も持っていたのではないかと思われる。
(根拠は高校生のときに自殺未遂をしており、そのときの詳細をまったく覚えていない)
さてさて、手足が動かない身体障害者なのにNはヤリマンくさいのである。
四肢不自由なのに、にもかかわらず、男性からもてることを本書でも自慢している。
具体的には、男性経験が豊富なことを嬉々として語っている。
おそらく、主治医の意思とされる性行為もNのほうから誘ったと推測される。
そのくせ医者から性的暴行されたと弱者の立場を利用して障害者のNは法的に訴えた。

しかし、現実、事実、裁判の判決はどうなったのか。
弱者である女性で身体障害者のNが間違っているはずなかろうと、
精神も身体も健常なお医者さんに非があると裁かれたのである。
このときどれほどNは嬉しかっただろう。
人生で恵まれた成功者で強者の医者を、
弱者の自分がコントロールして人生の奈落に引きずり下ろしたのだから。
そうだ、そうなのだ。身体障害者だからといって、かならずしも善人にならなくてもいい。
Nのように何人もの男を誘惑して、地位のあるものの足を引っぱってもいい。
それは、権利だ。弱者の権利だ。被差別者はなにをしてもいい。
著者はNのシンパという立場で文章を書いているが、勘の鋭い人のようだから、
おそらく本当のことをなかば察知しながら高身分の医者を弾劾することを書いたのだと思う。
わたしは著者も、その取材対象の
身体障害者で精神障害者であった被害妄想過剰なヤリマンのNも大好きである。
一回きりの人生、なにをしたっていいのだと思う。型破りでいい。型なんか破ってしまえ。
名著「異形の日本人」で紹介される人物はみなみな型破りである。

「型破りな生き方で有名になった二人ともが路地(=被差別部落)の出身であるのは、
路地贔屓(びいき)が多少あるとしても、私は決して偶然ではないと思う。
突飛な者にさせるドグマのような何かが、彼らの中には確かにあった。
それが「路地」そのものであったように思う。
例えば、世間というものに対してある種の虚脱感を抱きながら、
逆に異常なほどの執着を示している。
この矛盾が、彼等の奇行と実力の原点のように思えてならない。
世間に対する虚しさは、生まれゆえ悔しい思いをしてきたひねくれた気持であり、
世間に対する執着は、出自はどうあれ社会に認められたいという怨念である」(P147)


言うまでもなく、著者もまた「異形の日本人」なのだろう。
だいぶまえに読んだこの本の内容を忘れることなくほとんど覚えていたわたしも、
あるいはそうなのかもしれない。めったにないすぐれたノンフィクションを読んだ。
著者にはこれからもいい本を書いてほしい。期待しています。おもしろい本はいい。