江ノ島の専門店で10年ぶりくらいにバインミーを食べた。
バインミーとはベトナムのフランスパン、サンドイッチのこと。
むかしベトナムを1ヶ月遊び歩いたとき、毎日のようにバインミーを食べたものだ。
異論は大いに、というよりもすべてそのまま認めるが、
いちばんうまいベトナム料理はバインミーだと思っている。
江ノ島の専門店にはいろいろなバインミーがあった。価格はひとつ5百円前後。
「どのバインミーがもっともベトナムのものに近いですか?」
うちのバインミーはベトナムのものよりおいしいとのこと。
現地で食べたものよりうちのほうがうまいという(日本)人も大勢いる。
でも、ベトナムの味を出せるという。
ヌクマム(ベトナムの醤油みたいなもの)を使いましょうか?
ヌクマムを知っていますか?
「し、知っていますよ。料金を追加しても構いませんからマヨを多めにしてください」
マヨはすべての繊細な味をぶち壊すから、
高齢男性がいやな顔をしたのを見て取った。
ベトナムではバインミーに入れる香草が日本では手に入れることができないとのこと。
だから、どうしてもベトナムそのもののバインミーは出せない。
「じゃあ、お任せします。すべてお任せ」
こだわりがある千葉のポークを使ったオリジナルの特製バインミーを購入。
男性は東京のバインミー名店をすべて食べ歩いたとのこと。
そのうえでうちのバインミーがいちばんうまいという結論に達した。
ほかはパンに米粉を使っていないが、
うちは本場のように米粉を使ったパンを使用している。

これはあなたのためだけの特製バインミーなので感想をうかがいたい。
「観光でたまたま来たので」
ならば、ということで無料ドリンククーポン券をいただく。
「宣伝しておきますよ」
江ノ島バインミーを食べたが、うまいのかまずいのかわからない。
わたしがベトナムで食べたバインミーとは違う味だが、
あっちで口にしたのは1個50円とかそのレベルの屋台バインミーだ。
それをベトナムの味と言ってしまっていいのかはわからない。
ベトナムのバインミーは若きころの思い出の味という部分があり、
いま両方を江ノ島でいっしょに出されたら、
日本の観光地に軍配を上げるような気がする。
だが、「思い出補正」があるためベトナムのバインミーの魅力はなにものにも代えがたい。
日本のマックやロッテリアがなぜバインミーを出さないかと言ったら、
あれは万人受けはしないからである(一部には受けるが全体のメリットが少ない)。
そもそもいまでさえバインミーの名前を知っている人がどれほどいるか。
商品化するならベトナム風サンドイッチと変名するのが経済効率は高いだろう。
おいしいとはどういうことだろう? うまいってなに?
美味や嗜好というのはかなり経験や事前の知識に左右されるのではないか。

そして売れることと、うまいことの相関性はどうなっているのだろう。
本物(のコピー)を出すのと偽物(オリジナル)を出すのでは、どちらが売れるのか。
日本でベトナム屋台のバインミーをそのまま出しても売れないが、それは本物。
バインミーに影響を受けたオリジナルのサンドイッチは売れるかもしれない。
ベトナムという異国情緒がないから、まったく売れないかもしれない。
近年、流行のインドのバターチキンも、あれは現地の味ではない。
わたしが29歳のときにインドで食べたバターチキンは、
どれも脳が爆発するようなうまさだった。
そのため日本のバターチキンや風味はかなり食べたが、どれも物足りない。
ひとつとして満足したことがない。
しかし、商品が継続販売されているということは日本で売れているのだ。
ならば、そちらが正義のバターチキンとも言えるのではないか。
心理学者の河合隼雄はスイスのユング味とは異なるが、
日本風味としてはとてもおいしい。
わたしは河合隼雄のほうがユングよりもおいしいと思っている。
反対を書くと、海外で口にする日本食は違和感を感じることばかりだが、
あれで商売が成り立っているということは現地の人にはそっちのほうがうまいのだ。
グルメの話ではなく、文芸について語ったつもり。
むろん正しいことを言ったつもりはない。なにが正しいのかわからない。わかりません。

オリジナルの源氏物語よりも、
角田光代さんの訳したそれをおもしろいと思う人も大勢いらっしゃるでしょう。
ドラえもんののび太くんに象徴されるよう、0点はバカの表象的記号である。
だが、考えてみると0点を取れるのはとても運がいい確率的奇跡だ。
試験は採点者の都合からぜんぶ筆記問題ということはなく、かならず選択問題が入る。
四択くらいがいちばん多いだろう。
適当に回答しても25%の確率で当たってしまうのである。
マーク式のセンター試験レベルならその日の運のよさだけで偏差値70も夢ではない。
むしろセンター試験で0点を取るほうが才能があるとも言えよう。
当てようと思ってなくても確率的に当たらざるをえない。0点は強運の証拠とも。
言いたいことは、0点は取ろうと思ってもなかなか取ることができない。
いや、それは間違いで、答案に名前だけ書いて、
そのあとなにもしないでいたらお望みの0点だ。
しかし、人はなにもしないではいられないようにできているものらしい。
DSC_0074.jpg

バクダン。

DSC_0075.jpg

フセイ。

DSC_0080.jpg

ヒトリ。

DSC_0082.jpg

ウエノ。

DSC_0084.jpg

オカネ。

DSC_0085.jpg

マダマダ。

DSC_0087.jpg

ミチミチ。

DSC_0089.jpg

アンガト。
いつから布教できなくなったかと考えると、
踊り念仏の一遍上人の本を読んだころだから5年くらいまえだろうか。
一遍の本はわたしにはおもしろかったが、ほかの人へはすすめられなくなった。
むかしは自分のおもしろいものを人にすすめたいという願望が人並かそれ以上にあった。
宮本輝を東大のムーちゃんにすすめたら一章で限界と突き返された。
山田太一をすすめても、おもしろいけれどなにかが違うと。
わたしもムーちゃんおすすめの蓮實重彦「物語批判序説」を、
なんじゃこの文章は
とあきれながら最後まで読み断固拒絶する批判記事をブログに書いた。
そのころだったか、ある女性のすすめる水上勉原作の映画、あれはなんだったか。
「飢餓海峡」だったか、なんだかを、池袋の文芸座で見たが、つまらなかった。
そのころは常識がなかったので(いまも変わらないか)つまらないと言ってしまった。
その女子にはつまらないユージン・オニールの本をすすめてしまって、
いまでは後悔している。
わたしにとってはおもしろいが、それは他者には通用しない。

いまでは自分が好きな作品を他人が批判していても、まあそんなもんだと思う。
山田太一も自分とは異なる人が見たらつまらないだろう。
宮本輝の小説も好き嫌いがわかれるだろう。
村上春樹の小説は読む気がしないが、あれが好きな人を品がないとも思わない。
むしろ、わたしなんかより勤勉で社会的によくできた好人物ではないかと思う。
宮本輝の「水のかたち」という比較的に近刊の小説は、
わたしには不満だったがネットではほとんど批判がないほど好評なのである。
そのほめ方、感想が金太郎飴のようにおなじなのだが、
ご本人が感動したのならそれが真実で、批判するべきものではない。
そもそも「水のかたち」はミセス雑誌の連載小説として書かれたものだし、
読者層を中年倦怠既婚女性に想定しているのだ。
そういう小説は受けるし売れるし金になる。
それをわたしのような孤独中年が批判するのはまったく間違えている。
「水のかたち」は既婚倦怠女性から絶賛され売れ行き好調だった名作だ。
なにがおもしろいかは人それぞれで、しかしそう考えると人は孤独になる。
人に推薦したい本がないわたしはとてもさみしい孤独地獄に在住しているのだろう。
夫婦東大人気作家の小谷野敦先生のご著書
「文章読本X」を読んでいろいろ考えさせられたが、
いい文章とは人を動かす、人に行動させる、人を変化させる文章なのではないか。
詳細は書けないが、この定義が正しいならば、
わたしにもいくばくかの文章力はあると思われる。
言葉しかないと追い詰められたことならある。人を殺すのも救うのも言葉。
言葉、言葉、言葉。世界は言葉で分節化されている。
人生でなんの努力もしていないが、そういえば言葉だけには執着してきた。
作家の村上春樹氏と村上龍氏はどちらも2000年まではほぼ全作品読んでいる。
二大巨匠と呼ぶべき存在だろう。
どちらが好きかと聞かれたらどちらも好きだったが、それは過去形で、
いまお金を払ってまで両巨匠のご作品を読む気はしない。
春樹は太田和彦で龍は吉田類のような気がする。
春樹さんはお上品で読者をうっとりさせる文章を書ける。
龍さんは身もふたもないことを言えば、野卑な大衆娯楽人気作家なのだが、そこがいい。
村上龍の「愛と幻想のファシズム」は娯楽大作だが、
本物を見破る目がある瀬戸内寂聴さんに
「あんなのはバタイユのパクリ」と蹴っ飛ばされている。
ご作品はダブル村上に比べてほとんど読んでいないが、
寂聴さんは村上作家よりもはるかに文学的に(村の)上流にいるように思う。
天台宗僧侶の瀬戸内寂聴さんは村上さんたちよりもはるかになまなましく本物っぽい。
酒場コメンテーターとして知られる二大巨匠は太田和彦氏と吉田類氏である。
文章は比較にならないくらい太田先生のほうがうまい。
ジェイコムのよさに気づき、ご両人の映像を見比べたら放浪の吉田氏のほうが数段上。
太田和彦さんは居酒屋で先生口調なので、バカヤロウと思う。
太田さんは偉そうなところがある。
吉田類さんは文章からかんがみると、さほどの人物ではないと見受けられたが、
ジェイコムの酒場放浪記を見ると、比類ないとてもいい味を出している。よかった。
あれは金を取れる芸だ。庶民と触れ合っているのもいい。
太田和彦さんの文章のうまさは身震いするほどだが(あれは天才です)、
それゆえか孤高のため大衆にうまくとけこめない。
先生と呼ばれる商売がいかに人をダメにするのかわからなくもない。
太田和彦さんの文章はうまかった。好きだった。
いまでは吉田類も太田和彦も先人として尊敬している。

*太田さんのどもりっぷりは聞きしに勝るほどで非常に敬意を増した。
最近、加齢にともない健常者の常識が戻ってきたのか、
一度書いたブログ記事を消すことがものすごく多い。
こんなことを書いたら危険人物に思われるのではないか。世間体が悪いのではないか。
自己認識の問題もある。
いまのわたしは自分の無価値を常識人のように理解しようと努めているところがある。
そうなると、わたくしごときの思いなんて書く気がなくなるのである。
わたしが川越美和を好きだって、そんなことはみなさまにはどうでもいでしょう。
しかし、少数ながらうちのブログにも愛読者がいるようで、
ふつうは実名で書けないことを能天気に書くところを気に入ってもらったような気もする。
損得を換算するとブログは明らかにプラスになっているのだ。

けれども、当方にも世間なみの常識が戻ってきたようで、これは削除したほうがいいかと。
華厳経の理論だと、
たとえアクセス数は微々たるものでもだれかがなにかの発言をすれば、
それは世界に一打を与えているわけで、全体に影響をおよぼす。
こういう信念からブログ更新をしているところがある。
ブログ記事をお読みくださったひとりはほんのわずかでも影響を受ける。
それは読者さまの行動や発言にも塵芥レベルではあるが影響をもたらすだろう。
結果としてそれは世界全体をめぐりまわって自分に返ってくるという信仰である。

どこまで書いていいのかわからなくなっている。
業界大手の株式会社シナリオ・センターの記事は山ほどご批判を受けたが、
わたしなんかをおもしろいと思ってくれる人はあの非常識な部分をご支持くださる。
とはいえ、世間的に賢い行為は大手多数派のシナセンに降伏、平伏することはたしか。
でも、やっぱりあれはわたしの非もあったが、
業界大手の殿様商売ファミリー会社のシナセンにもずるいところがあったといまだに思う。
匿名コメントにあれこれ粘着されるとブログをやめたくなる。
該当人物だって、このブログをストーキングするのが生きる楽しみなのだろうから、
「本の山」が更新を終了したらいちばん困るのはだれかわからないのだろうか。
高校生の川越美和のかわいさを知ったのは
テレビラマ「1970ぼくたちの青春」だった。
日本映画放送チャンネルのいまの社長はあの人なんだから再放送してよ、杉田さん。
そのためにジェイコムに加入したようなところがあるのに、いまだ再放送されない。
本当の美少女というのは川越美和しかいないのではないか。
あの繊細で、しかし傲慢で意地悪なくっきりとした神々しいまでの刹那の透明感。
老いたすがたを見せないで早死にしたのもよかった。アルコール依存で死んだ。
夢のまま美しいままに死んだ。
「二十歳前後で月に200万稼いだらもうほかの仕事はできない」
そんなことを言ったとか言わないとかされている。
死んでいいケースもある。長生きだけが能ではない。死んで栄える美もあるさ。
知らない人はわからない話を書くと、
プロレスの冬木や橋本はいまのわたしとおなじくらいの年齢で死んでいる。
で、冬木と橋本にはおなじ女神がついていて、
その女性は近年、詐欺で逮捕(起訴?)されたとか、プロレス的すぎておもしろい。
一説には、クラッシュギャルズの長与選手の処女は冬木が食ったと言われ、
橋本も同女体をお腹いっぱい、ぽんぽこりんにご馳走になられたらしい。
若いころの長与選手は神がかっていて、オーラがあり、かわいい。
そのうえに性的に奔放なんて長与選手はどれだけ人生の愉楽を味わったのだろう。
プロレスとは、かつてはそういうものでございました。