「蜘蛛の巣 ユージーン・オニール一幕劇集」(山吉張・須賀昭代:監訳/京都修学社)
→ユージン・オニールの一幕劇がすべて収録されている。
オニールはアメリカ演劇の父にして、ノーベル賞作家だが、最近は忘れられて久しい。
テネシー・ウィリアムズやアーサー・ミラーを
はるかに凌駕する力量を持った劇作家なのに残念でならない。
この著作は奇蹟といってもよい。というのも、去年の3月に出版された新刊なのだ。
甲南女子大学大学院の秀才が集い10年ものときをかけて出版にこぎつけた大作である。
定価は7140円だが完売しても採算などまったく取れないと思う。
このような書物は昨今濫造されるベストセラーとは段違いの価値を持つ。
読みながら甲南女子大学大学院の研究者への感謝で胸があふれた。
原文で読めやしないくせに、生意気にも
わたしは日本でいちばんのユージン・オニール愛好者だと思っているのだ。
「本の山」のカテゴリー「ユージン・オニール」は、
この劇作家の根源に迫りえているという自負がある。
ひまがあればぜひともお読みいただきたい。
自身も今回かつての記事を再読してあらためてこの劇作家への思慕を募らせた。
オニールの初期の劇作は海洋を舞台にしたものが多い。
これはこの劇作家自身の経験による。
オニールは青年時代、船乗りをしながら世界各地を放浪していた。
いまの時代のような安全な航海ではない。つねに危険のつきまとうものであった。
青年オニールは、航海に劇的なるものを発見したと思われる。
航海とは、過程である。出航してから目的地にたどり着くまでが航海。
船夫はたえず海と向き合っていなければならない。海が荒れれば船は沈没してしまう。
いつなんどきでも死と隣り合わせというこの極限状況は、
まさしくオニール劇の特徴である。
人間が生まれ死ぬのはあたかも航海のようだと青年オニールは思ったのかもしれぬ。
オニール劇は死を背景とした生の横溢(おういつ)である。
横溢であって、断じて生の賛歌などではない。
ならば、オニールにとって生とはなにか? 苦しみである。
人間はおよそ自由意志とは無縁なところで、望みもしない環境に誕生させられる。
人間である限り、だれもが欲望を持つ。だが、この欲望がかなえられることは少ない。
なぜならば、他者がいるからである。自分以外にも、欲望の主体たる人間がいるからだ。
人間が欲望に従い行動すると、かならず他者の欲望と衝突する。
したがって、かれの欲望は満足することが少ない。思うがままにならぬ。
この状態を「苦」と定義したのが仏教の開祖ゴーダマ・ブッダであったが、
キリスト教徒のユージン・オニールはこの「苦」を劇として描くのである。
ブッダは「苦」を消滅させるためには、
煩悩(ぼんのう)という名の欲望を断つことだと説いた。
いっぽうでユージン・オニールは欲望という炎(ほむら)にガソリンをそそぐ。
人間の「苦」を描くことが劇であるという信念に基づく。
人間はままならぬ。だが、欲望は壁を突き破らんとする。
壁の向こう側にいるのはもうひとりの人間である。
欲望と欲望の衝突こそ人間苦の最たるものであり、またこれ以外に劇などあるものか。
オニールの鋭い眼光は「人間・この劇的なるもの」の本質を看破している。
この劇作家の強い人間不信、異常なまでの悲観論的世界観を忌むものも少なくない。
だが、わたしにとっては、とても懐かしいものに思われる。
20編収録されている一幕劇のなかから「蜘蛛の巣」に注目したい。
これはユージン・オニールの処女作と目されるもの。
子持ちの娼婦、ローズは肺を病んでいる。
いくら売春をして稼いでもヒモのスティーブにカネを巻き上げられてしまう。
ローズの唯一の生きがいは、赤ん坊である。
だが、赤子のいる部屋で春をひさぐわけにはいかない。
ヒモのスティーブは赤子を取り上げて孤児院へ送り込もうとする。
ここに描かれているのは、どうしようもない陰鬱な絶望である。
娼婦のローズはもはや真っ当な仕事につくことはできない。
何度か女中の職を求めたこともあったが、決まって娼婦の過去がばれてクビになった。
いまは赤子もおり、できることといったら売春しかない。
ところが、いくら体も売ってもカネは貯まらない。スティーブに持っていかれてしまう。
これを拒むことができない理由がある。
街娼をしているローズが検挙されないのは、
スティーブが警察にワイロを支払っているためなのである。
ローズはもうにっちもさっちも行かない。
この日も赤子の処遇をめぐってローズはスティーブから殴られていた。
これを止めに入ったのが隣室に住むティムである。かれはスティーブをのしてしまう。
ローズの人生にはじめて希望のようなものが生まれたのはこのときである。
ふたりはその場で恋に落ちる。ティムは大金を持っていた。
驚くローズにティムは重大な告白をする。実は金庫破りの常習犯で指名手配されている。
ティムはローズに大金をわたす。いまは逃げるが、いつか再会しようというのである。
このおカネで人生をやり直そう。がんばればかならず人生をやりなおすことができるさ!
社会の最底辺でうごめくふたりの苦悩者があたたかな希望につつまれた瞬間である。
だが、これも長くは続かない。警察の追っ手が迫ってきている。
屋根裏から逃げようとする指名手配犯人のティムを、戻ってきたスティーブが射殺する。
拳銃をその場に打ち捨てスティーブは逃げていく。
ここに警察官が入ってくるのである。ローズは大金を持っている。
そのまえにはティムの死体。ローズはティムを殺害した罪で連行される。
この娼婦は生きがいだった赤子とこうして引き離されたわけである。
なんとも救いのない暗澹(あんたん)たる劇である。
金庫破りのティムのせりふから引用する。
街娼のローズはいままでの悲惨な半生をティムに告白する。
この金庫破りはいたく同情する。じぶんもおなじような人生を送ってきたからである。
「聞いてくれよ! まっとうな暮らしをしようたって、そうはいかないって言ってたね
――実を言うと、俺も同じ目に遭ってるんだ。
子どものころ、盗みを働いたというんで少年院送りになったんだ。
でも本当はやっていない。年上の不良仲間に加わってたんだが、
自分でも何やってるのか分かっちゃいなかった。
奴らは俺を身代わりに仕立てたのさ。
俺は少年院でいっぱしの悪に育っちまった。
シャバに出たときゃ、まっとうな人間になろうと努力もしたし、
仕事だってちゃんと続けようとしたよ。だけど少年院にいたことがばれたとたんに首。
あんたの場合と同じさ。で、また盗みを働いたー―飢え死にしないためにね。
取っ捕まって、今度は五年間の豚箱行きってわけさ。それで諦めた。
所詮無駄だって分かっちまった。
再び出所すると俺は金庫破りの一味に入って、手口を教わった
――それ以来ずっと金庫破りさ。人生の大半は刑務所(ムショ)暮らしだった。
だが、今は自由の身だよ」(P381)
ティムは脱獄したのである。ようやく運命の女とも思えるローズに逢う。
だが、それも束の間、射殺されてしまう。ローズも冤罪で服役である。
このユージン・オニール処女作のタイトルに留意したい。「蜘蛛の巣」である。
たしかに人間は蝶のように美しい。蝶のように自由に大空を飛べると夢想する。
ところが、この人間という蝶は、蝶は蝶でも「蜘蛛の巣」にからめとられているのである。
いくら飛翔を夢見ようが決して飛び立てぬ美しい蝶々たち――。
青年劇作家ユージン・オニールの目に映じた人間のすがたである。
(追記)劇の構造は「ふたつにひとつ」であると何度も指摘してきたが、
この一幕劇集においても具体例を挙げていきたい。
「霧」で漂流者は救助船を呼ぶか呼ばぬかの「ふたつにひとつ」を迫られる。
「鯨油」でキーニー船長は妻への愛か大漁かの「ふたつにひとつ」に直面。
「無謀」でボールドウィン夫人は財産か愛情かの「ふたつにひとつ」に煩悶。
「ドリーミー・キッド」でドリーミーは逃亡か祖母の看病か「ふたつにひとつ」で迷う。
人間は「蜘蛛の巣」にとらえられた蝶のような存在である。
だが、蝶は飛躍せんとする。欲望があるからである。
このとき別の蝶の存在に気がつく。この蝶もまた「蜘蛛の巣」の囚人である。
ある蝶が飛び立つためには別の蝶を踏み台にしなければならないときがかならず生じる。
このとき人間という蝶のまえに「ふたつにひとつ」が現前するのである。
蝶は大空での自由な飛翔を夢見ながらどちらかひとつを選択・実行する――。
これはオニール劇のみならず、劇全般の骨組みともいえよう。
「霧」(ユージン・オニール/菅原卓訳/「現代世界戯曲選集6アメリカ篇」白水社)絶版
→オニールごく初期における海洋一幕劇。
短い作品ながらこの劇作家の人生観がよく出ている。
オニール存命時にこう聞いたとしよう。「劇とはなんですか」
きっとこのノーベル賞作家は、苦々しく顔をゆがめ吐き棄てるように答えるだろう。
「生きることだ」
「霧」の舞台は、海面に浮かんでいる救命いかだ。乗っていた船が難破したのである。
いかだのうえにいるのは詩人、実業家、ポーランドの百姓女。
詩人と実業家が話している。女の抱いている死んだ子供についてである。
実業家は、月並みに同情する。詩人はそれを否定するのである。
いまポーランドの百姓女は泣きつかれて寝ている。もとより英語がわかる女ではない。
詩人は言う。子供が死んだのは、母親には気の毒なことだが、
子供には、かえって、倖(しあわ)せかもしれない。
「これから先、長い苦闘だけが待ち構えている一生という奴を、
送らなくてもすむんだから。(……)
あの子供に、あの貧しい子供に、どう考えたって、
チャンスなんてものは考えられないんじゃないかな。
食物も満足に食えず、ヒョロヒョロと育ってゆく、
そしてどこかの鉱山の長屋か豚小屋みたいな飯場を転々とするだけのことだ。
そんなことが分りきってるのに、
死ぬよりもましだと、どうして云えるのかしら」(P230)
実業家は反論する。生きていれば、いいこともあるさ。
いくらポーランド移民の貧しい子供でも生きていてがんばればかならずチャンスはある。
この世はうまくできている。じぶんだって苦労して財産を築いたのだ。
成功美談を話しだそうとする実業家を詩人はとめる。
なんだかんだいっても、あなたの家はそれなりに裕福で、教育も受けられたのでしょう。
再度、断わっておくが、これらの会話は救命いかだのうえである。
詩人も実業家も、助けが来なければいずれ死んでしまう身。
極限状態での会話であることに注意したい。
詩人はこのような境遇でも冷静である。かれはつづける。
「例えば、あの死んだ子供がですよ、生き延びたとして、
そこに展開されるような環境、つまり一種のハンディキャップを背負いながら、
人生というものを始めてみて、あなたなら、それでも、成功してみせる、
人生もまんざらではないと思えるだけの、想像が可能ですかしら」(P231)
こう言われると実業家は絶句するほかない。
そのうちいかだは氷山へぶつかる。おりしも汽笛の音が聞える。
近くに救援船がいるということである。
実業家は大声で助けを求めるが、詩人はあわててそれをとめる。
もし救援船が氷山に気がつかないでこちらに来たら、あの船も大破してしまう。
「われわれは死ぬかもしれないが、そのわれわれを救うために、
他人に危険を犯させるという法はない」(P239)
これも難解なテーマである。青年オニールのペシミスティックな思想には圧倒される。
声をだしたら生き延びられるかもしれないが、失敗すると、相手も死んでしまう。
このような場合、果たして、声をだすのがただしいのか、それとも沈黙すべきなのか。
じぶんが生きるためなら、他人を殺してもいいのかという、
例の「カルネアデスの板」のテーマである。
実業家はなんとか声をだそうとするが、詩人にちからづくでとめられる。
ふたりの生きかたの相違である。
運よくふたりはこの船に気づいてもらえる。命が助かったのである。
詩人がポーランドの百姓女を見やるとなにかおかしい。脈を取ってみる。
「可哀そうだが、かえってこれで倖せなんだろう、この女は。
(温かに)死にましたよ、この女は」(P243)
詩人はオニールそのひとである。
この劇作家は生まれてこなければよかったと思っている。
オニールが生まれてきたせいで、かれの一家は不幸になったのである。
まず母親が難産でモルヒネを多用したため麻薬中毒になった。
母の麻薬中毒が、兄も父も不幸せにした。
このかんの事情は、かれの最高傑作にして、演劇史上でもっとも偉大なる悲劇、
「夜への長い旅路」に詳しい。
なにかひとつ戯曲を読むならと聞かれたら、わたしはこの長編戯曲をお薦めする。
人間が生まれてこなきゃ、劇なんて生まれないんだ。
死んじまったほうがよほどよい人生が世の中にはある。
青年オニールの主張は、いまのわたしの気持を代弁しているようである。
オニールはこの厭世観から、数々の壮大な悲劇を書きつづった。
かれは死ぬまで幸福とは縁遠かったが、劇を書くことで現実に復讐した。
落とし前をつけた。
神からの挑戦を、からだ全体でうけとめ、勝つことはなかったが、神へ反逆をした。
つまり、ユージン・オニールは生きたということである。
「地平の彼方」(オニール/清野暢一郎訳/岩波文庫)品切れ
→1920年ピューリッツァー賞受賞作品。
アメリカ近代演劇は、この「地平の彼方」とともにスタートしたといってよい。
ユージン・オニール初期の代表作。出世作である。
オニールは「地平の彼方」をひっさげて、
大衆娯楽演劇が主流だったブロードウェイに殴りこみをかけたのだ。
のちのオニール劇の萌芽のかなりが見て取れる。
感傷的なまでのロマンチシズム。人間不信。異常なまでの憎悪。
暴力寸前の狂気。どうにもならない不幸への絶望。神への呪詛。
劇的状況は、兄弟の相違である。
兄は根っからの百姓ともいうべき土の人間。頑丈である。
弟は病弱。大学を出ている。本を読むのが好きで、夢見がちである。
いつも地平線を見ながら思っている。
「(地平線を指し――夢見るように)僕を呼んでるのは美だ、
遠い知らない世界の美だ――(……)――あの向ふの、
地平の彼方に隠れてゐる秘密を求めて何所までも放浪する喜び――
さういふものが僕を呼んでいるといったらどうする?」(P21)
弟は元来、海の人間だったのである。
叔父の船に乗せてもらう約束ができている。船員として働く決意をしている。
その出発前夜のこと。弟は幼なじみの美少女ルースに別れを告げる。
ルースは兄と結婚するのだろうと思っていた。
別れの日、もう会えなくなるからと弟は愛を告白する。
ところが、ルースは弟の愛を受け入れてしまう。
たまらないのは兄のほうである。ずっとじぶんがルースと結婚すると思っていたのだ。
兄弟の仲が悪いわけではない。お互い気質の異なる相手をよく理解してきた。
その良好な関係が、どうしようもなく崩壊する。
兄はじぶんが叔父の船へ乗るという。船員になるという。
弟の幸福のせいで、兄が不幸にならざるをえないのである。
だれかの幸福は、べつのものの不幸によってあがなわれる。
オニールが青年期に影響を受けたストリンドベリのテーマである。
兄を追いだすことになった弟は苦悶する。
「(カッとなって反抗するように)何故こんなことになつたんだ。
忌々しい!(まるで仇敵でも捜すように狂気の如くうろうろ見廻す)」(P65)
3年後に兄がいったん船旅から帰郷したときには、幸不幸が逆転している。
百姓の才能がない弟のロバアトは身代を食いつぶしている。
ルースもいまや夫を憎んでいる。
オニール劇特有の壮絶な口論が開始される。傷つけあうわけだ。ルースはいう。
「あたしはアンドルウ(=兄)が好きなんですよ!
ええアンドルウが好きなんですよ! 前から好きだったんですよ。
(非常に喜んで)アンドルウもあたしが好きなんだ! あたしが好きなんだ!
あたしはちやんと知つてる。前からあたしが好きだつたんだ」(P90)
だが、兄のアンドルウはもうルースへの愛情はない。
商売に目覚めたアンドルウはひともうけしようと他国へでかける。
さらにそれから5年が経つと、弟はさんさんたる状況になっている。
農地は荒れ果て、借金ばかりかさんでいる。
弟のロバアトは肺炎にかかり死ぬばかりである。
プライドの高いロバアトは、
いまでは金持になった兄へ借金を申し込むことができなかったのだ。
弟の病気を聞いたアンドルウは医者を連れて実家へ帰るがもうどうにもならない。
ロバアトの死をもってこの劇は終幕する。
死の直前、危篤のロバアトは丘の上にのぼる。
青年期によくここで夢を見たものである。
朝日がいまあがろうとしている。ロバアトはかたわらにいる兄と妻へいう。
「(肩肘をついてからだを起し、晴れやかな顔付で地平線を指す)ごらん!
丘の向ふは奇麗ぢやないか。いつもの声が俺を呼んでゐる――
(歓喜の調子で)今度は行くぞ。俺は自由なんだ! これは最後ではない。
自由な最初だ――船出だ! わかるかい? 望みの旅――解放の力――
地平の彼方へ――俺のものになつたのだ!
喜んでくれ――俺のために喜んでくれ!
(ぐったり崩れる)兄さん!(アンドルウ彼の上にこごむ)ルースを頼む」(P153)
「20世紀英米文学案内14 オニール」(鳴海弘編/研究社)絶版
→オニールは不幸に固執する。
なら不幸とはなにか。欠落である。欲望がかなえられない状態を不幸というのである。
異論もあろう。こういいなおそう。
少なくともオニールは不幸を欲望との関係でみていた。
欲望が満たされぬ。これをオニールは不幸ととらえる。
たとえば、愛されぬという不幸は、愛されたいという欲望の裏返しである。
死人を忘れられぬのも不幸である。かれは故人に生きていてほしかった。
その欲望がかなえられぬのが現状なら、かれを不幸といわずしてなんといおうか。
オニールの人生観に耳を傾けてみよう。
「人生は戦いである。つねにとは言えないにしても、
しばしばそれは負けいくさの戦いなのだ。なぜなら、われわれはたいてい
夢や欲望の成就を妨げる要素を自分の内部に持っているからだ」(P25)
人間は欲望する。だが、欲望が充足されるケースは少ない。この人間は不幸になる。
なぜ人間は不幸になるのか。不幸になる原因はどこにあるのか。
その人間の内部にあるとオニールは見ている。
たとえば、人間はだれだって成功したい。しかしみなが成功するわけにはいかぬ。
成功者はほんのひと握り。たいはんは成功とは程遠い人生を送るわけである。
その秘密は人間内部にある。短気な人間が実業の世界で成功するのは難しい。
同様、ブスが女優の世界で成功する確率は低いといわざるをえない。
人間は欲望する。ところが、まさにその欲望を生じせしめたその人間の資質のせいで、
その欲望はかなえられぬ。人間の不幸とはこのことである。
欲望と、その欲望を阻(はば)むもの。
このふたつをある人間が同時に持っているという矛盾。
オニールが着目したところである。
ふたたび問うてみる。なぜ人間は不幸になるのか。
欲望を妨げるものがあるからである。では、なにが欲望を妨害するのか。
その人間が生来、持つところの資質である。もう一歩踏み込む。
人間はなぜそのように生まれてきたのか。
かれはなぜかれなのか。かの女はどうしてかの女なのか。
そこはもう人間の分け入っていくことのできぬ領域である。
個を超えた世界というほかない。オニールの関心はそこへ行き着く。
この劇作家はいう。
「私はいつも背後の力というものを――
(運命とでも、神とでも、われわれの現在をつくりだした生物的過去とでも、
なんと名づけてもよいのだ――たしかに神秘的なものだ)
――それを強く意識している」(P25)
「たいていの近代劇は人間と人間との関係にかかずらわっている。
だが私はそれにはまったく興味がない。
私の関心は人間と神の関係にしかない」(P39)
不幸を突き詰めると最後は、神の領域へ向かうよりないということである。
それは人間が人間を超えようとする試みである。
いかにして人間がおのが身を超越するか。
ままならぬ誕生と、これまた支配できぬ未知の死に挟まれた人間がなにをなしうるか。
どうすれば人間が人間を超えることが可能か。
自殺と殺人である。
自殺も殺人も、意味するところは死の掌握。
神ならぬ人間が、本来は神の支配下にあるはずの死をわがものにする。
この死の自由化をもって、人間が人間を超えうるのである。
死ぬか殺すかの狭間にたった人間の苦悩は並ならぬもの。
死ねない殺せない人間に最後に残された逃げ道がある。狂気。狂う。
狂人は、もう人間とはいえぬ。
ふたつの死(自殺・殺人)に圧迫された人間は狂うことで人間を超越する。
自殺、殺人、狂気。死ぬか、殺すか、狂うか。
オニール劇の住民が好む行為である。かれらは限界の状況下でうめいている。
死んでやる。もう死ぬしかない。
殺してやる。てめえぶっ殺すぞ。
うわあ、もうだめだ。狂う、狂ってしまう。
なぜ呻吟(しんぎん)するのか。不幸だからである。欲望がかなえらぬからである。
欲望。人間だからどうしようもなく欲望を持つ。欲望のない人間などいない。
どこにも救いはない。人間ゆえに持つ欲望。宿命がため欲望はかなわぬ。
人間は不幸である。
なぜ不幸になるのかという問いの答えは、人間だからとしかいいようがない。
オニールは人間を描きたかった。不幸に固執するゆえんである。
オニール劇の住人が「死ぬ・殺す・狂う」とうめきつづけるのもこのためである。
本書は1968年発行のオニール研究書。
海外でのオニール批評が簡潔にまとめられていて勉強になった。
オニールには以下のような非難が識者からなされているという。
「ユーモアの欠如、もったいぶった仰々しさ、感傷癖」(P196)
なるほどなとうなずきながらも、むろんわたしはオニールを擁護する。
そのような欠点をおぎなってあまりある力強さをオニール劇に見る。
つぎの指摘も的確である。オニール劇の欠点は以下のごとくであるという。
「病的不健全さ、絶望の激しさ、人間に対する病理学的軽蔑」
「結局、人類に対して軽蔑的憐れみとと強烈な憎悪をいだくオニールは、
人類愛を基調とするアイスキュロス、シェイクスピアなどの悲劇詩人とは
根本的に相違する」(P208)
オニール劇の力学を巧みに分析している。
しかし、と反論したい。わたしがオニールにひかれるのはまさにそのためなのである。
狂った劇世界。劇作家の人生への絶望。人間への嘲弄、憎悪。
これはオニール劇の欠点ではなく、むしろ魅力ではなかろうか。
これで家にあるオニール関連書はすべて目を通したことになる。
どこかでこの劇作家の絶版書を仕入れるまでは、しばらくひと休み。
ユージン・オニール! 顔つきがなによりよろしい。
どの写真でもオニールは怒っているかのよう。
眉間にしわをよせ、口をかたくむすび、目は相手をぎろりとにらみつける。
鏡でまねをしてみる。よし、こうだ、この顔だ! わたしもこの顔で生きていこう。
「現代演劇 特集 ユージン・オニール」(英潮社)
→作品は、どこから生みだされるのか。
作者のほかないではないかとみなさまは即答する。
では、作者とはなんだろう。人間である。
ひとが生まれてくるには父と母が必要である。
なら、こういうことができるかもしれない。
芸術作品は、作者の両親によって作られる。
一方で、こういう考えかたがある。
ある作品に、いち個人のちからがどれだけ影響しているか。
作品は作りだすものではなく、やむなく作られてしまうものではないか。
作者ではなく、かれの人生が作品を作る。
作家はある時代を生きる。時代固有の社会を生きる。
環境が作家に書かせる作品というのもあろう。
劇作家オニールを今回、ストーカーのごとく追い詰めた。
作家の人生と作品を照らしあわせる。
かなりのところまで見えたと思うのは不遜なのだろうか。
ある原体験を何度も作品で反復しているのがうかがえるのである。
わたしは研究者ではない。原体験を特定することにさほど情熱はない。
それなら、どこに関心があるのか。しごく単純である。
いかにすればオニールになれるか?
エゴイストなのだ。人間はだれしもじぶんのことにしか関心がない。
わたしも同様である。
オニールの創作作法は、愛の活用にある。
オニールにとって創作するとは、愛を突きつめること。
愛の具現化こそオニール劇の実相である。
他人から愛を奪う。膨大な量の愛を求める。
その保証の裏づけを得て、はじめて創作することができる。
もう一度、繰り返す。
人間はみないちようにじぶんのことにしか関心は持たぬ。
唯一の例外が愛である。愛とは、自己以外の他者に関心を持つことである。
自己よりも他者を重んじる。これが愛である。
よって愛するとは、相手のいうがままになること。
愛されるとは、自己の都合で身勝手に相手を利用することにほかならぬ。
オニールの人生を概観して思うのは、なんてわがままなやつなんだ!
あきれるほど自己中心的なのである。
3度の結婚。詳細はめちゃくちゃである。
勝手に恋をして子どもを作ったと思ったら、はや離婚。
べつの恋人ができたというのである。
結婚は3度で済んだが、最後の奥さんというのは尋常ならぬ被害をこうむっている。
生活はオニールの執筆が最優先。夫のいうことはなんでも服従しなければならない。
いっときはこの劇作家夫人、病院へ運ばれた。精神病院。
オニールにふりまわされたせいである。
家庭内暴力は日常茶飯事。さらにオニールは父親ゆずりの吝嗇(りんしょく=ケチ)。
生活費を渡さないこともある。
こんな夫にたえかね妻は何度も家を出る。
そのたびにオニールは愛を訴える。きみがいないとダメなんだ!
愛情にほだされて妻が家へ戻ると、またオニールは殴りかかる(笑)。
ユージン・オニールの最高傑作「夜への長い旅路」は妻へささげられた作品である。
三番目の奥さんへの、結婚記念日の贈り物として書かれたというわけである。
最初、この事実を知ったときはたいへんな美談だと思ったものだが、
裏を知ってしまうとことばがでない。
オニールの天才とは、愛される才能だったのである。
言いかたをかえれば、愛を奪う才能。自己中心をどこまでも貫く強い意志。
他人を精神的および肉体的に傷つけても平気でいられるタフな精神――。
ふたたびおのれに問う。
どうしたらオニールのような作家になれるか。
わたしはなにをすればよいのか。
作品は、どこから生みだされるものなのか。
「喪服の似合うエレクトラ」
(オニール/菅泰男訳/「ノーベル賞文学全集20」主婦の友社)絶版 *再読
→戯曲。米国産。
いま新刊書店で唯一購入できるオニールの戯曲がこの「喪服の似合うエレクトラ」。
訳の古い岩波文庫版が今年の2月に復刊されている。
だいぶ悔しい思いをした。オニールをひとりじめしたかったのである。
(「本の山」でオニールに興味をもったかたがいるかもしれない。
今回はネタバレを避ける。おすすめというわけではない。オニールはわたしのもの!)
宿命の劇である。これほど宿命に固執した戯曲をみたことがない。
だが、本来、宿命と演劇は強い結びつきがあるのではないか。
宿命というのは避けられないこと。どうにもならないこと。
自由律俳人・山頭火の句「どうしようもないわたしが歩いてゐる」における、
「どうしようもない」の境地である。
ほかに選択肢がいくつもあったはずなのに、どうしようもなくいまの人生を選んでしまった。
自由に生きてきたはずのこの人生。ふりかえると必然めいたものに思える。
これが宿命の思想である。演劇もそうではないか。
役者は舞台のうえであたかも自由のごとく奔放にふるまう。
だが、その実、戯曲から一瞬たりとも離陸していないのはみなの知るところである。
死人の劇である。死人が死人を呼ぶ。
父のかたきを殺したあと、オリンは述懐する。
「もし僕がこの男だったら、同じことをしたろうな!
僕も、この男が愛したようにお母さんを愛して――お父さんを殺しもしたろう
――お母さんのために」(P349)
オリンは思う。いま横たわっている死人はじぶんではなかろうか。
殺した。これは殺されたということではないか。宿命の感覚である。
いや、読んでいるひとはわたしがなにを言っているのかわからないかもしれない。
うまく説明ができない。この殺人犯オリンのことばになぜか強く宿命を感じるのである。
4人の人間がこの劇では死ぬ。あるものは殺され、あるものは自殺で――。
ちがう。あの4人は死んだわけではない。もとから死人だったのである。
これは死人の劇なのだから。
思えば、オニール劇には死人と形容するにふさわしい人間が多く登場する。
生きている死人がいないとどうしていえよう。くだんの山頭火も死人である。
山頭火の一連の作品は、死人の俳句にほかならぬ。
死人。過去にとらわれた人間である。いつ死んだっていい。
死ねないから生きているにすぎない。これはもう死人である。
この劇でも死人のオリンは言う。
「殺してくれたら感謝するぜ! もうこの生活はいやでたまらないんだ!」(P373)
4人の死人は墓場へ戻った。
オリンの姉、ラヴィニアは最後まで生き残る。
彼女こそ「喪服の似合うエレクトラ」である。
ラヴィニアは死人たることを拒絶した。生命を、愛を渇望した。結婚を望んだ。
そのラヴィニアが終幕直前、婚約者にもらす。
「わたしには愛は許されないの。死人の力が強すぎるの!」(P387)
この劇はいうなれば、ラヴィニアと死人たちとの闘争であった。
彼女は敗北宣言をする。死人には勝てなかった。過去はどうしようもない。
宿命への服従である。これこそオニールがギリシア悲劇にみたものなのだ。
この劇作はアイスキュロスの「オレステイア三部作」を下敷きにしている。
アイスキュロス、オレステス、エレクトラ、みんな死人である。
オニールをこの劇作に衝き動かした死人はほかにもいる。
この作品を執筆したとき、すでにオニールは死人に囲まれていた。
オニールの父、母、兄である。
あまたの死人がオニールに「喪服の似合うエレクトラ」を書くよう、うながした。
この死人ばかりが登場する芝居をである。
「日陰者に照る月」(オニール/喜志哲雄訳/「今日の英米演劇1」白水社」)絶版
→戯曲。米国産。
オニール晩年の長編戯曲。この劇作家の兄をモデルにしている。
ユージン・オニールの目に、生きるということはどのようなものとして映ったのか。
生きるということは尊いことでもなんでもない。ごまかしにすぎぬのではないか。
生きていくためには辛い過去を忘れなくてはならない。
今現在のささいなことに喜びを感じるよう努める。
未来になにかいいことがあるとなかばウソだと知りつつも信じる。
過去からも現在からも未来からも逃避することが、生きるということの実態ではないのか。
過去をうやむやにし、現在をいいかげんにやりすごし、未来に目をつぶる。
これが生きるということならば、人間は生よりも死を望むほうが正しいのではないか。
死を求める生こそ、ほんとうに生きているということにはならないか。
生きる。人間は未来をめざし生きる。未来は現在から生じる。
未来を生きるためには、現在を生きなければならない。
現在を生きるためには、現在をよく知らねばならぬ。現在とはなにか。
過去である。過去があるから現在がある。
だとしたら、現在に真剣に向き合うというのは、過去との直面を意味しないか。
過去から逃げないこと。過去と正面から対峙すること。
これが生きるということの本質ではないか。オニールはそう考えたふしがある。
オニール周囲の環境も影響している。
オニールの母は麻薬中毒であった。
母はモルヒネを矢継ぎ早に注入しながら過去の思い出へ没入した。
オニールの兄はアルコール中毒。
それも母が死んでからはいっときも休まずに酒を口に運んだという。
最後は狭窄衣を着せられ強制入院。5ヵ月後に死亡。
オニールは3回結婚している。こどもは3人。
息子のひとりはアル中になり自殺。
もうひとりの息子は麻薬中毒で犯罪者に。オニールは絶縁している。
麻薬と酒とオニール!
現在を真に生きるということは、過去を生きるということではないか。
過去なしの現在などありえぬ。現在は常に過去からの攻撃にさらされている。
しかし過去に勝てるものなどはいない。過去は現在を圧倒する。
酒や麻薬を抜きに過去と勝負するのは無理である。
勝負と書いたが、勝敗は決まっている。過去には屈するしかない。
酒をのむ。麻薬をうつ。そもそもこの嗜好だって過去が形成したものではないか。
中毒者はそう思うようになる。
「日陰者に照る月」。
オニールの兄とおぼしきティローンは舞台上でいつも酒をのんでいる。
母をなくしたばかりである。ティローンはいう。
「おれが死人みたいだと言ったな。そのとおり、おれは死人なのさ」(P95)
かれは母がもういない世界を認めることができない。
すなわち、この世界には生きていないのである。ゆえにみずからを死人と称す。
現在を否定する。狂うか死ぬかしかない。かくしてティローンは生ける死人となった。
過去に生きている。母が生きていた過去を生きている。現在では死人にすぎぬ。
ティローンはひと晩の慰めを得る。
村娘に愛された。肉体のごとき愛ではない。
ティローンは人一倍大きな体躯をもつこの村娘のひざのうえで抱かれて眠る。
母への許しを女に求める。ひと晩だけティローンは許されたと感じる。
翌朝にはもうダメである。朝から酒をのむ。ゆうべのことを思い出す。
恥ずかしさでいっぱいになり女のもとから永遠に去る。
女は最後にいう。これはオニールのことばでもある。
酒とともに死んでいった兄へ向けて――。
「(悲しげな、やさしくあわれむような顔で――静かに)ねえ、ジム(ティローン)。
もうすぐ、望みどおりに、眠ったまま死んで行っておくれ。
いつまでも、罪を許されて、安らかに」(P116)
オニールは、このアルコール中毒患者にやさしい。
死んだほうがましな人生というものはある。
過去に生きるというのは悪いことか。むしろ兄こそ真剣に生きた人間ではないか。
兄の人生をあたたかく見守る劇作家の視線をこの作品から感じた。
「ヒューイ」(ユージーン・オニール/来住正三訳/英潮社新社)
→戯曲。米国産。オニール晩年の一幕劇。
前出の「渇き」とこの「ヒューイ」は「現代演劇・特集ユージーン・オニール」収録作品。
本邦初訳が売りらしいが、どちらもまったく期待しないで読んだ。
いままで翻訳されなかったのだから、
どうせたいしたものではないだろうとふんだわけである。
ところが、どうだ。両作品とも極めておもしろい。
どうしてオニールはここまで上質な作品を多作できるのだろう。
オニール邦訳作品で、まだ入手できていないのは
「地平線の彼方」「ああ荒野」「氷人来る」。
なんとかして(安価で!)手に入れたいところである。
それにしても、あと3作品しかないのか。
オニール。アメリカ。英語である。読もうと思ったら原書で読めないこともないのか。
いちおう中高大と英語は勉強しているのだから……。
「ヒューイ」。
登場するのはわずかふたり。
悪党を気取った小物のばくち打ちと、かれが宿泊する安宿のホテルマン。
深夜である。ばくち打ちが戻ってくる。ひと恋しい。ホテルマンに話しかける。
どこがおもしろいのか。オニールの皮肉な視線である。人間をバカにしきっている。
このばくち打ちもホテルマンも、人間のクズとしてえがかれている。
この劇ではクズがクズをあざわらう。
きたない言いかたをすれば、目くそ鼻くその世界である。
それが実に笑えるのは、わたしにもどこかで人間を見下したところがあるからか。
晩年のオニールは人間嫌いが昂(こう)じて自作の上演すらこばむようになったという。
人間を信じられない。人間がこの戯曲を演じられるものか。
老人オニールは自作を戯曲として読まれることを望んだ。
この劇作家の特徴はぼうだいなト書きにあるのだが、
この「ヒューイ」はことさらセリフ以外のところが笑いをさそう。
たしかにこれを役者が演じられるのか疑問である。
「渇き」(ユージーン・オニール/竹中昌宏訳/英潮社新社)→戯曲。米国産。
オニールごく初期の習作。読んでいてニヤリとする。
この一幕劇はオニール劇の基本形といってもよい。実にオニールらしい。
幕が開くと筏(いかだ)が大海に浮いている。
難破して漂流しているのである。筏に乗っているのは3人。
一流の紳士。美人のダンサー。下賎な黒人水夫。
筏のまわりには鮫(さめ)がうようよしている。筏は狭い舞台となる。
オニール劇の住人は常に餓(かつ)えている。欠乏している。
がために、ぎらぎらしている。なにかを強く欲求している。
多くの場合、欲望対象は愛なのだが、この初期作品で求められているのは水である。
紳士とダンサーは、黒人水夫が水を隠し持っているという妄想にとらわれる。
なぜか。黒人はいやしいという差別感情があるからである。
水夫という職業への蔑視もある。
教育を受けていない人間はなにをやってもおかしくない。
ダンサー。女である。オニールは女をどう見ているか。
ダンサーは首にかけたダイヤモンドのネックレスを黒人のまえにだす。
これと引きかえに水をおくれ。この宝石を売れば一生、働かなくていいんだよ。
黒人は首をふる。水はない。
ダンサーはどうするか。今度はからだである。じぶんを好きにしてもいい。
本来、おまえの身分だったら触れることさえできないこのからだを与えよう。
だから水を。半分でもいいから。黒人はかわらず無表情。答える。水はない。
欲望する。かなえられぬ。衝突する。劇が生まれる。
ダンサーは水が飲みたい。だが、水はない。
この女はどうなるか。狂う。欲望がかなえられぬ現実を否定する。狂気の世界で生きる。
女がいまいるのは筏のうえではない。大観衆をまえにしたステージにいる。
みんなじぶんの歌を聴きにきている。筏のうえでレパートリーを披露するダンサー。
服がはだける。上半身裸。胸を露出させて女は踊り狂う。死ぬ。狂い死にする。
ここで黒人がとる行動がすばらしい。これで我われは生き延びられると喜ぶ。
黒人はナイフを取りだす。紳士に呼びかける。この女を平等にわけよう。
飲もう。食おう。そう言っているわけである。
人肉食! 黒人の意図を察知した紳士は女の死体を海へ落とす。
すぐさま鮫の餌食となる。
よくも貴重な飲みもの、大切な食べものを!
黒人は生きたい。生命を欲望する。生きるためには飲食しなければならぬ。
生きるか死ぬか。黒人はナイフ片手に紳士へ襲いかかる。
紳士はナイフを腹に刺されたまま、最後のちからをふりしぼる。
黒人の腕をつかむ。もろとも海へ落下する。鮫が寄ってくる。
人間がひとりも乗っていない筏が浮いている。
いかにもなオニール劇である。
生命への呪詛に満ちている。いささかも生命への礼讃(らいさん)を感じられない。
生きているということは、他人に迷惑をかけているということである。
人間が生きるためには、ときには他の人間を殺さねばならぬ。
オニール劇は限界状況を好む。たとえば究極の愛を求める。それは憎悪にほかならない。
この劇では生命の真髄を追求した。それは殺人であった。
(注)この劇は「カルネアデスの板」という哲学命題に類似した設定にある。
この問題は、古代ギリシアの哲学者カルネアデスが提出したもの。
大海。漂流者がふたり。板が浮いている。つかまることができるのはひとり。
ふたりの重量は支えられない。ふたりとも沈んでしまう。
この場合、じぶんが生き抜くために板をひとり占めするのは道徳的に許されるか。
じぶんが生きるためなら他人を殺してもいいのか。
これが「カルネアデスの板」と呼ばれる問題である。
「本の山」でも以前、言及している↓。
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-574.html
「オニール一幕物集」(井上宗次・石田英二訳/新潮文庫)絶版
→戯曲。米国産。
ちょっと自慢を。この新潮文庫は昭和31年初版。
ただでさえ読者には人気のない戯曲、それも短編を集めたものだから、
出版点数、販売点数はかなり少なかったと予想される。
案の定、いま調べてみたら、どのネット古書店にも在庫はなし。
以前、神保町の古書店でぼろぼろのを見かけたことがある。千円の値札が。
それでもつぎに行ったときには売れていたので驚いたものである。
今回、わたしが読んだものは近所の古本屋で購入したもの。
50円。おしなべて文庫は経年汚損が激しい。それなのにこれは帯つき美品。
とても50年もまえの文庫とは思えない。
読みながらこれほど贅沢な読書はないと思った。
だれも読んでいない本を読む愉悦。それもユージン・オニール。大好きな作家である。
この本を安価で発掘したという記憶も読書の幸福を助長する。
じぶんだけが知っている作家の、その中でも希少な書物を紐解(ひもと)く悦楽といったら!
「オニール一幕物集」。
オニールの初期戯曲のうち9作品が収録されている。
オニールはいわゆる海洋劇を書くことから劇作をスタートした。
海洋劇とは、海を舞台にした作品。
オニールの青年期というのは作家の例にもれず
働きもせず親の金で酒ばかりのんでいたのだが、
それでも1年か2年か、船で働いた時期があった。
船員である。仕事はたいへんなものだった。海の男たちは気が荒い。
オニールが劇作の初期に海洋を舞台にした芝居を多数書いたのは意味深い。
船上の仕事は逃げ場がない。海に囲まれているからである。
これはどこかしら舞台と通じるものがないか。
船員は航海のたびに命をかけている。
生きるか死ぬかの瀬戸際を何度も味わうことになる。
この時代の船員は常に死が身近にある危険な仕事である。
死を意識することは、生を濃密に感受することにつながる。
いきおい船員は演劇的になる。何年生きていられるかわからないという思いがある。
いま現在する生を貪婪(どんらん)になめつくそうとする。
陸にあがったら酒と女である。ひと晩でつかいはたすこともある。
金がなくなったらまた船に乗ればいい。オニールはかれらの生きかたをつぶさに観察した。
オニールのえがく海の男はなんと劇的なことか。
これは人間らしいということでもある。
海ではちからがすべてである。偽善的なものが入り込む余地はない。
いざ難船したらじぶんで命を守るよりない。
できるだけ難破したくないがゆえにみなでちからをあわせる。真の友情である。
海ではいつなんどき嵐にあうかもわからない。あす死んでしまう可能性もある。
そのスリルのどれだけ魅惑的なことか。
陸では金がつづくだけ酒をのみ女を買う。今日がすべてという思想である。
喧嘩もたえない。かと思えば、みなで歌い踊ることもある。
オニールは演劇的なるものの始原を海上生活に見たのではないか。
9作品、どれもが一定のレベルをクリアしているのはさすがオニールというほかない。
どんな大作家でも初期作品の中にはとんでもない駄作が混じっているものである。
しかしこの「一幕物集」に限っては、どれもなかなかおもしろいのだ。
なにかしらの余韻を読後も胸に残す。それはたしかに劇といっておかしくないものだ。