「あゝ荒野」(ユージン・オニール/北村喜八訳/文藝春秋新社)絶版

→作家と作品(フィクション)の関係は、現世と来世みたいなものだと思う。
現世の業(=行ない)が来世に強く影響するように(仏教思想では)、
作家の実人生での経験が創作物の色合いを決定づける。
人間にとって現世はなかなか自由になるものではない。
ところが、現世の苦労が来世で生きると考えたらどうだろう。
現実に作家の味わう悲喜が、フィクションに登場する人物の行動に影響をおよぼす。
現世でかなわなかった願望が来世で成就するかもしれない。
小説家の宮本輝は一度も熱愛を経験したことがないと言っている。
フィクションの職人の口から出た言葉だから、どこまで本当かはわからない。
あんがい嘘ばかりではないと思っている。
だから、宮本輝は恋愛小説をあのように大量に創作できるのではないか、と。

一度きりの人生で人間が体験できることは限られている。
このため来世があるのではないか。フィクションがあるのではないか。
人間は1回生きたら、それで終わりではない。
このことを本能的に察知するためにフィクションがあるとは考えられないか。
善人が不幸つづきの人生を、そのうえ短命で終わるかもしれない。
どうしてこんな理不尽が、と憤る人がいる。
いな、それが人生なのである。それでいいのである。
なぜなら来世が、フィクションがあるのだから。

こんな話をある人にしたら、親子関係もそうだねと指摘される。
なるほどと感心する。
たしかに作家と作品の関係は親と子である。
親は子に自分のかなわなかった夢を託すかもしれない。
子は親を見て育つ。二様に子は親を見る。
あのようにはなりたくないという反抗心があるだろう。
しかし、生まれ持ったものはみな両親からもらっている。
めったな幸運でもない限り、特殊な才能に恵まれはしないだろう。
所詮、親とおなじような人生しか送れないのかもしれない。
同様に作品も作者を超えることはまれである。
けれども、作品は作者の人生を否定しようとする。
否定しながらも結局は肯定するしかない。
作家と作品は、親と子である。現世と来世の関係もあるのかもしれない。

米国演劇の祖、ユージン・オニールの父親は有名俳優だった。
若いころ俳優は芸術を志したようである。
だが、ある通俗芝居で当たりを取ってからは、そればかりするようになった。
つまり、堕落した。この堕落によって財をなしたのだから責められるいわれはない。
オニールの人生もまた父の影響を強く受けている。
まず確実に演劇的な才能を持って生まれている。
だが、オニールは芸術にこだわった。
あらゆる劇作にチャレンジしたのが、ユージン・オニールである。
とはいえ、オニール劇を読んだものは、
かならずやこの作家の通俗性と感傷趣味に気づくだろう。あきれるかもしれない。
疑いもなく人気役者だった父親の血が原因である。
作家はおのれを超えようと多様な挑戦をするも根本の血はいかんともしがたい。
オニールの人生である。また作品もそうではないか、とわたしは主張したい。
劇とは、そういうものではないか。
劇中人物はおのれを超越せんとするが血(父母)のまえに敗れ去る。
人間は自由を求めるものの宿命に敗北すると言い換えてもよい。
かりそめの自由を味わうことがあるかもしれない。
しかし、大きなものに最終的に勝つことはできない。
オニール作品から教わった劇のありかたである。人間の生きかたである。

「あゝ荒野」はオニール晩年の長編喜劇。わずか1ヶ月で仕上げたという。
息子と父親の対立、和解をテーマにした、わかりやすい芝居である。
オニール特有の通俗性に苦笑し、感傷趣味には赤面した。
ところが、わたしはオニールのこの短所(長所?)が好きなのである。
観客もおなじだったらしい。短期間で書かれたこの芝居は大当たりだったという。
オニールによる自作解説が残っている。
以下の引用は「現代演劇 特集 ユージーン・オニール」(英潮社)による(P138)。
「あゝ荒野」は――。

「単純な喜劇であり、わが国の典型的な町の、典型的な家庭の、
わたしの若き日の、ノスタルジックでセンチメンタルな追憶であり、
今日のそれとは対照的な当時の習慣やモラルについて書いたもの」


オニール唯一の喜劇「あゝ荒野」を、作者の願望だと見る評者が多い。
現実の少年時代はこうではなかった。だから、牧歌的な喜劇を作りあげた。
最高傑作「夜への長い旅路」で知られるよう、オニールは凄惨な家庭で育っている。
言うなれば、「あゝ荒野」と「夜への長い旅路」はコインの裏表なのだろう。
たいがいの作家が片面しか描けない。
天才劇作家、ユージン・オニールは人生の両面を描く筆力を有していた。

「あゝ荒野」読了。これでオニールの邦訳戯曲を完全読破したことになる。
さみしい気もするが、なにごとも終わりがあるのである。
でなければ、始まりもない。親が死んでも子は生きる。
親の世代が死ぬから子は活躍できるのかもしれない。
親は子がいるから安心して死んでいけるという面もあるのだろう。
そのうち子も親になりやがて死ぬ。これが劇なのだろう。
人は生まれ死ぬ。だが、子を残すことはできる。
子は親に従い、ときに逆らうが、いずれおのれも親になる。悲劇も喜劇もここから生まれる。

「研究社 英米文学評伝叢書 オニール」(清野鴨一郎)絶版

→昭和10年発行の小冊子。文学研究というのは、いったいなんなのか。
わたしは実作者を目指しているから研究者とは姿勢が異なる。
本書で英米文学者の清野鴨一郎氏がなさっているのはオニールの簡単な評伝。
学者は米国で出版された大本の評伝に言及している。
したがって本書で清野氏がした仕事は、英文を適宜和訳したくらいだろう。
それから代表作のあらすじが掲載されている。
これも学者でなければできぬ仕事とは思われない。
あらすじの最後に学者の感想めいたものが付記されているが大したものではない。
研究者がオニールからなにも得なかったことがわかるくらいである。

ならば実作者志願のわたしはなにをオニールから学んだというのか。
ひと言でいえばドラマの熱狂であろう。
ドラマはこうまで熱く燃え上がることがあるのだぞ。
芸術家は酒を呑みながら(一見は)人間と神を愚弄することによって、
凄まじき劇作を生み出す。
テレビで流れているのとは天と地ほども差があるドラマが世界には存在する。
オニール作「夜への長い旅路」を超えるドラマをわたしは見たことがない。

本書から敬愛するユージン・オニールの言葉を引く。

「芸術品は常に幸福である。他の凡ては不幸である。
私は人生が美しいから之を愛するのではない。美しいといふのは紙一重である。
私はそれよりももつと真実に愛するものだ。
私は裸の人生を愛する。醜の中にさへ美はある」(P109)
「氷人来たる」(ユージン・オニール/石田 英二・井上宗次訳/新潮社)絶版

→スウェーデンの作家ストリンドベリを天才と崇めたのがユージン・オニールである。
たしかに両者の暗い作風は似通っている。
利己的な人間全般への極度の絶望、がための悲観的な世界観。
物事全般に対する厭世的かつ嘲弄的な姿勢。なにゆえか。
神を希求する強さが、そのまま人間を直視する鋭さに変転してしまうからである。
世界には見てはならないものが山ほどある。神のみぞ知る領域がある。
ほんとうの現実、ほんとうの人間を見てしまった人間は狂うしかない。
かくしてストリンドベリは発狂した。
おそらくオニールもストリンドベリの目にしたものを見たのであろう。
だが、米国人は直後に酒をあおった。
オニールが狂わずに済んだのは、ひとえに酒の恩恵をこうむっている。
暗澹(あんたん)たるオニールの芝居に、
それでもストリンドベリ劇に見られぬ甘さがあるのは、酒精の影響が大きい。
どちらが偉大かと問われたらストリンドベリなのだろう。
しかし、ストリンドベリは人を寄せつけぬ狂気を帯びている。
オニールの甘さは心地よい。むろん、万民に支持されるには苦味が強すぎるけれども。

「氷人来たる」はノーベル賞作家ユージン・オニール晩年の大作。
あまたの劇作に触れてきたが、酒をテーマにしたものでは最高峰に位置する。
酒と人間のかかわりを、ここまでうまく描き出した作品をわたしは知らない。
同著者の「夜への長い旅路」をも凌駕する酒への深い洞察が散りばめられている。

「絶望酒場」「どん底バー」とも評せられる安酒場が舞台である。
14人のダメ人間が開幕から閉幕までここで酒を呑みつづける。
酒の効能はひとつしかない。現実逃避である。
酒のおかげで人間は今日から逃げることが可能になる。
酒のちからを借りたら、昔日の輝かしき思い出にひたることができる。
酒で朦朧(もうろう)としたら、今日やらなければならないことを明日に延期できる。
どうして安酒場の飲兵衛たちは酒を呑むのか。今日という現実がいやだからである。
もはや今日を生きられない、終わってしまった人間たちだからである。

酒に逃げる理由はさまざまである。
法科大学を卒業した呑んだくれがいる。この男が30代後半でいちばん若い。
いつも明日になったら弁護士になってみせると言いながら酒をあおっている。
戦争中の思い出話を始終、話しつづける老人たちがいる。
彼らも明日になったらあれをやろうこれをやろうとホラを吹くが、
言うまでもなくその明日は来たためしがない。
賄賂(わいろ)でクビになった元警察官も酒を呑んでは復職すると管を巻いている。
おれがその気になったら勤め口はいくらでもあると壮語する酒精中毒者は決して働かない。
この一群のなかでただひとり状況を冷静に分析しているのが元革命家のラリー。
哲学者を気取りながらラリーは周囲をこう分析する。

「奴らあ何とかして酔つぱらつては、たわいもない夢を見続けてるんだ。
そして奴らの人生の望みといつたら、唯それだけなんだから。
これ以上満足してる人間を、俺は知らんよ。
人間が本当に心の望みを達するなんてこたあ、あまりないことだからね」(P32)


ラリーは作者オニールの分身であろう。
米国最大の劇作家もおなじような発言をしている。

「人生は戦いである。つねにとは言えないにしても、
しばしばそれは負けいくさの戦いなのだ。
なぜなら、われわれはたいてい夢や欲望の成就を妨げる要素を
自分の内部に持っているからだ」(「20世紀英米文学案内14」P25)


人間は欲望を持つ。夢を見る。けれども、ほとんどの欲望、夢は実現しない。
このとき、どうするかである。現実を直視しよう、なんて言うのはどいつだ?
夢がかなわない現実を、欲望が満たされない現実を、きみは認められるのかい?
ほんとうにこの現実を凝視したら人間は狂うか、死ぬしかないのである。
おおかたの人間は現実をごまかすであろう。酒はその作業を手助けしてくれる。

14人のアル中はある人物を待っているの。ヒッキーと呼ばれるセールスマンだ。
この男は年に1回、酒場のオーナーの誕生日にやってきては大盤振る舞いをする。
酒場の常連はこれでもかとただ酒にありつくことができるのだ。
さて待ち人ヒッキーが現われたのはいいが、いままでと調子が異なる。
これまではみなと杯(さかずき)を交わしバカ騒ぎに乗じてくれたヒッキーの様子がおかしい。
いっさい酒を口にしないのである。
酒を必要としない平安を自分は手に入れたとヒッキーは誇る。
そのうえ、この酒場の常連も自分のようにかならずなれると熱弁するのだから。
覚醒者ヒッキーは呑み助どもを指導する。
「明日やる」とみなが言っていたことをけしかけて実行させてしまうのである。
司法くずれの青年にはカネを貸してやり弁護士になってみろとあおる。
元警察官さん、どうぞ復職してごらんなさい。
オーナーさん、あなたは政治家になるのでしたよね。
みなさんも勤め口の心当たりはあるんでしょうから、どうぞ働いてみてください。
ラリーをのぞいた飲兵衛連中は一様に強がって朝、酒場をあとにする。
ふだんなら朝から酒を呑んでいる連中がである。

さあ、晩である。どうなっているか。ひとり残らず安酒場に戻ってきているのである。
だれひとりとして有言実行がかなわなかった。みなくたびれて酒を呑んでいる。
ところが、いくら呑んでも酒に酔えない。
酔って管を巻くにも、すでに彼らは今日現実を知ってしまったからである。
このためもう明日の夢を見られない、すなわち酒に酔うこともできぬ。
みなの夢をつぶすことに成功したヒッキーは異常なほど興奮してある告白をする。
ここで少し立ちどまりオニールの巧みな作劇術に目を向けよう。
だれかが来るのを待っている。これは劇作の典型ともいいうる形式である。
登場人物紹介ののちに待ち人が現われる。
この待ち人が集団に波風を立てる。待ち人は湖面に投げ込まれた石に等しい。
最後にこの新参者が隠していた個人的な事情を告白して場がおさまる。
みなさまはこの「氷人来たる」とおなじ形式の劇作(ドラマ)を、
そうとは知らずに幾度も楽しんできたはずである。
オニールの天才は、芝居の定式から決して逸脱しようとしない。
芝居は小説よりもはるかに不自由であることを劇作家は熟知していたのである。

ヒッキーの告白はこうだ。
むかしから不良だった。いまの妻に救われたといってよい。
妻は本心から自分を愛してくれる。むろん、自分も妻を愛している。
ところが、ヒッキーは各地を飛び回るセールスマン。
旅先でついつい女と遊んでしまう。性病をもらって妻にばれたこともあった。
妻はそのたびに自分を許してくれた。今度こそはと夫に期待をかける。
しかし、ヒッキーは裏切ってしまう。自己嫌悪で酒におぼれることもしばしば。
翌朝には妻に謝罪する。妻は許してくれる。期待をかけられる。
今度こそは夫も不品行を改めるのではないかという夢想である。
ヒッキーは、妻を裏切るのが辛くなった。
妻を愛していることには変わりないが、酒と女をどうすることもできない。
自分が自殺したら妻は悲しむだろう。
ならば――、ヒッキーは拳銃で寝ている妻の頭を打ち抜く。
これでもう愛する妻はかなわぬ夢を見て苦しむことがなくなる。
ヒッキーは愛のために妻を殺害したのである。
このとき妻の夢と同時にヒッキーの夢も消えた。このためもう酒を欲しなくなったのだ。

セールスマンは事前に警察へ自首の電話をしている。
酒場にやってき警官にヒッキーは連行されて行く。
酒場の呑み助どもは、ヒッキーを気が狂っていたことにしてしまう。
みなで乾杯する。今度は酔いがまわるぞと喝采をあげるあわれな酔っぱらい。
酔ったらめいめいに好き勝手な夢を語り出す。明日こそは――。
ひとり乾杯しなかったものがいる。ラリーである。
ラリーはただひとりヒッキーの愛と、それゆえの苦しみを理解したのである。
直後にひとりの青年が自殺をして舞台は幕を閉じる。

我われもオニールのように日々酒盃を干そうではないか。
さもないとヒッキーのように、ストリンドベリのように気が狂ってしまう。
ユージン・オニールは主張する。

人間よ、目覚めてはいけない。
酔え、酔って踊れ。
酔って夢を見て、目覚めるまえに死ね。
酔うのはよろしい、夢見るのもよろしい、眠るのもよろしい、ただし目覚めるなかれ!


「皇帝ジョーンズ」(ユージーン・オニール/沼沢洽治・村田元史共訳/「現代世界演劇2」白水社)絶版

→オニールは米国最大の劇作家。アメリカ演劇の父。
ウィリアムズもミラーもオニールの先駆性のまえには影が薄くなろう。
本作品は1920年上演の実験作。
上演当時は絶賛されたそうだが、映像に慣れた現代人から見たら斬新なところはない。
通常、舞台上で行われる芝居では、回想シーンがやれないわけだ。
しかし、オニールは「皇帝ジョーンズ」において、ものの見事に回想を処理している。
当時の観客が感嘆したのもむべなるかなである。

舞台は西インド諸島のある小島。まだ白人に荒らされていない。土人が住んでいる。
アメリカの刑務所を脱獄してきた黒人のジョーンズがここで皇帝になる。
土人を支配下に置いたわけである。ところが、ある日、土人の反乱に遭遇する。
この段階で幕が開かれるのである。ジョーンズは土人に命を狙われていることを知る。
逃げなければならない。港には深い森を通り抜けなければ行けない。
ジョーンズの単独逃避行が芝居のメインだ。森に着くころには夜になっている。

夜の森で、ジョーンズは、過去の事件をふたたび目撃する。
男はこれまでの人生であまたの「ふたつにひとつ」の選択をした結果、
この小島の皇帝になった。
暗い森でジョーンズは、おのれの人生の重要事件を再体験する。
もちろんリアルではない。ジョーンズの心中風景と見るべきだろう。
もし映像作品だったら、こんなものは回想シーンをつなげればいいだけ。
目新しくもなんともない。だが、当時の観客には、
このような過去への遡及(そきゅう)が新鮮だったのかもしれない。

閉幕直前、ジョーンズは土人に殺害される。
人間は死ぬ直前に走馬灯のように過去を思い出すと言うから、
それを舞台化したと説明したらわかりやすいのだろうが、
反面あまりにも味気なくなってしまう恐れがある。
「皇帝ジョーンズ」でオニールは音響効果に工夫を見せている。
芝居のあいだ終始、土人のたたく太鼓の音を響かせているのである。
最初は人間の通常の(1分間)脈拍数72。だんだんとリズムを早めていく。
ジョーンズの死の直前、太鼓は最高の高まりを見せることだろう。
追われるものの恐怖を観客にも味わってもらうための劇作家の工夫である。

(追記)これから筆者がシナリオを書いていく際、音響効果にも目を配ろうと勉強になった。

「蜘蛛の巣 ユージーン・オニール一幕劇集」(山吉張・須賀昭代:監訳/京都修学社)

→ユージン・オニールの一幕劇がすべて収録されている。
オニールはアメリカ演劇の父にして、ノーベル賞作家だが、最近は忘れられて久しい。
テネシー・ウィリアムズやアーサー・ミラーを
はるかに凌駕する力量を持った劇作家なのに残念でならない。
この著作は奇蹟といってもよい。というのも、去年の3月に出版された新刊なのだ。
甲南女子大学大学院の秀才が集い10年ものときをかけて出版にこぎつけた大作である。
定価は7140円だが完売しても採算などまったく取れないと思う。
このような書物は昨今濫造されるベストセラーとは段違いの価値を持つ。
読みながら甲南女子大学大学院の研究者への感謝で胸があふれた。
原文で読めやしないくせに、生意気にも
わたしは日本でいちばんのユージン・オニール愛好者だと思っているのだ。
「本の山」のカテゴリー「ユージン・オニール」は、
この劇作家の根源に迫りえているという自負がある。
ひまがあればぜひともお読みいただきたい。
自身も今回かつての記事を再読してあらためてこの劇作家への思慕を募らせた。

オニールの初期の劇作は海洋を舞台にしたものが多い。
これはこの劇作家自身の経験による。
オニールは青年時代、船乗りをしながら世界各地を放浪していた。
いまの時代のような安全な航海ではない。つねに危険のつきまとうものであった。
青年オニールは、航海に劇的なるものを発見したと思われる。
航海とは、過程である。出航してから目的地にたどり着くまでが航海。
船夫はたえず海と向き合っていなければならない。海が荒れれば船は沈没してしまう。
いつなんどきでも死と隣り合わせというこの極限状況は、
まさしくオニール劇の特徴である。
人間が生まれ死ぬのはあたかも航海のようだと青年オニールは思ったのかもしれぬ。

オニール劇は死を背景とした生の横溢(おういつ)である。
横溢であって、断じて生の賛歌などではない。
ならば、オニールにとって生とはなにか? 苦しみである。
人間はおよそ自由意志とは無縁なところで、望みもしない環境に誕生させられる。
人間である限り、だれもが欲望を持つ。だが、この欲望がかなえられることは少ない。
なぜならば、他者がいるからである。自分以外にも、欲望の主体たる人間がいるからだ。
人間が欲望に従い行動すると、かならず他者の欲望と衝突する。
したがって、かれの欲望は満足することが少ない。思うがままにならぬ。
この状態を「苦」と定義したのが仏教の開祖ゴーダマ・ブッダであったが、
キリスト教徒のユージン・オニールはこの「苦」を劇として描くのである。
ブッダは「苦」を消滅させるためには、
煩悩(ぼんのう)という名の欲望を断つことだと説いた。
いっぽうでユージン・オニールは欲望という炎(ほむら)にガソリンをそそぐ。
人間の「苦」を描くことが劇であるという信念に基づく。
人間はままならぬ。だが、欲望は壁を突き破らんとする。
壁の向こう側にいるのはもうひとりの人間である。
欲望と欲望の衝突こそ人間苦の最たるものであり、またこれ以外に劇などあるものか。
オニールの鋭い眼光は「人間・この劇的なるもの」の本質を看破している。
この劇作家の強い人間不信、異常なまでの悲観論的世界観を忌むものも少なくない。
だが、わたしにとっては、とても懐かしいものに思われる。

20編収録されている一幕劇のなかから「蜘蛛の巣」に注目したい。
これはユージン・オニールの処女作と目されるもの。
子持ちの娼婦、ローズは肺を病んでいる。
いくら売春をして稼いでもヒモのスティーブにカネを巻き上げられてしまう。
ローズの唯一の生きがいは、赤ん坊である。
だが、赤子のいる部屋で春をひさぐわけにはいかない。
ヒモのスティーブは赤子を取り上げて孤児院へ送り込もうとする。
ここに描かれているのは、どうしようもない陰鬱な絶望である。
娼婦のローズはもはや真っ当な仕事につくことはできない。
何度か女中の職を求めたこともあったが、決まって娼婦の過去がばれてクビになった。
いまは赤子もおり、できることといったら売春しかない。
ところが、いくら体も売ってもカネは貯まらない。スティーブに持っていかれてしまう。
これを拒むことができない理由がある。
街娼をしているローズが検挙されないのは、
スティーブが警察にワイロを支払っているためなのである。
ローズはもうにっちもさっちも行かない。
この日も赤子の処遇をめぐってローズはスティーブから殴られていた。

これを止めに入ったのが隣室に住むティムである。かれはスティーブをのしてしまう。
ローズの人生にはじめて希望のようなものが生まれたのはこのときである。
ふたりはその場で恋に落ちる。ティムは大金を持っていた。
驚くローズにティムは重大な告白をする。実は金庫破りの常習犯で指名手配されている。
ティムはローズに大金をわたす。いまは逃げるが、いつか再会しようというのである。
このおカネで人生をやり直そう。がんばればかならず人生をやりなおすことができるさ!
社会の最底辺でうごめくふたりの苦悩者があたたかな希望につつまれた瞬間である。
だが、これも長くは続かない。警察の追っ手が迫ってきている。
屋根裏から逃げようとする指名手配犯人のティムを、戻ってきたスティーブが射殺する。
拳銃をその場に打ち捨てスティーブは逃げていく。
ここに警察官が入ってくるのである。ローズは大金を持っている。
そのまえにはティムの死体。ローズはティムを殺害した罪で連行される。
この娼婦は生きがいだった赤子とこうして引き離されたわけである。
なんとも救いのない暗澹(あんたん)たる劇である。

金庫破りのティムのせりふから引用する。
街娼のローズはいままでの悲惨な半生をティムに告白する。
この金庫破りはいたく同情する。じぶんもおなじような人生を送ってきたからである。

「聞いてくれよ! まっとうな暮らしをしようたって、そうはいかないって言ってたね
――実を言うと、俺も同じ目に遭ってるんだ。
子どものころ、盗みを働いたというんで少年院送りになったんだ。
でも本当はやっていない。年上の不良仲間に加わってたんだが、
自分でも何やってるのか分かっちゃいなかった。
奴らは俺を身代わりに仕立てたのさ。
俺は少年院でいっぱしの悪に育っちまった。
シャバに出たときゃ、まっとうな人間になろうと努力もしたし、
仕事だってちゃんと続けようとしたよ。だけど少年院にいたことがばれたとたんに首。
あんたの場合と同じさ。で、また盗みを働いたー―飢え死にしないためにね。
取っ捕まって、今度は五年間の豚箱行きってわけさ。それで諦めた。
所詮無駄だって分かっちまった。
再び出所すると俺は金庫破りの一味に入って、手口を教わった
――それ以来ずっと金庫破りさ。人生の大半は刑務所(ムショ)暮らしだった。
だが、今は自由の身だよ」(P381)


ティムは脱獄したのである。ようやく運命の女とも思えるローズに逢う。
だが、それも束の間、射殺されてしまう。ローズも冤罪で服役である。
このユージン・オニール処女作のタイトルに留意したい。「蜘蛛の巣」である。
たしかに人間は蝶のように美しい。蝶のように自由に大空を飛べると夢想する。
ところが、この人間という蝶は、蝶は蝶でも「蜘蛛の巣」にからめとられているのである。
いくら飛翔を夢見ようが決して飛び立てぬ美しい蝶々たち――。
青年劇作家ユージン・オニールの目に映じた人間のすがたである。

(追記)劇の構造は「ふたつにひとつ」であると何度も指摘してきたが、
この一幕劇集においても具体例を挙げていきたい。
「霧」で漂流者は救助船を呼ぶか呼ばぬかの「ふたつにひとつ」を迫られる。
「鯨油」でキーニー船長は妻への愛か大漁かの「ふたつにひとつ」に直面。
「無謀」でボールドウィン夫人は財産か愛情かの「ふたつにひとつ」に煩悶。
「ドリーミー・キッド」でドリーミーは逃亡か祖母の看病か「ふたつにひとつ」で迷う。
人間は「蜘蛛の巣」にとらえられた蝶のような存在である。
だが、蝶は飛躍せんとする。欲望があるからである。
このとき別の蝶の存在に気がつく。この蝶もまた「蜘蛛の巣」の囚人である。
ある蝶が飛び立つためには別の蝶を踏み台にしなければならないときがかならず生じる。
このとき人間という蝶のまえに「ふたつにひとつ」が現前するのである。
蝶は大空での自由な飛翔を夢見ながらどちらかひとつを選択・実行する――。
これはオニール劇のみならず、劇全般の骨組みともいえよう。
「霧」(ユージン・オニール/菅原卓訳/「現代世界戯曲選集6アメリカ篇」白水社)絶版

→オニールごく初期における海洋一幕劇。
短い作品ながらこの劇作家の人生観がよく出ている。
オニール存命時にこう聞いたとしよう。「劇とはなんですか」
きっとこのノーベル賞作家は、苦々しく顔をゆがめ吐き棄てるように答えるだろう。

「生きることだ」

「霧」の舞台は、海面に浮かんでいる救命いかだ。乗っていた船が難破したのである。
いかだのうえにいるのは詩人、実業家、ポーランドの百姓女。
詩人と実業家が話している。女の抱いている死んだ子供についてである。
実業家は、月並みに同情する。詩人はそれを否定するのである。
いまポーランドの百姓女は泣きつかれて寝ている。もとより英語がわかる女ではない。
詩人は言う。子供が死んだのは、母親には気の毒なことだが、
子供には、かえって、倖(しあわ)せかもしれない。

「これから先、長い苦闘だけが待ち構えている一生という奴を、
送らなくてもすむんだから。(……)
あの子供に、あの貧しい子供に、どう考えたって、
チャンスなんてものは考えられないんじゃないかな。
食物も満足に食えず、ヒョロヒョロと育ってゆく、
そしてどこかの鉱山の長屋か豚小屋みたいな飯場を転々とするだけのことだ。
そんなことが分りきってるのに、
死ぬよりもましだと、どうして云えるのかしら」(P230)


実業家は反論する。生きていれば、いいこともあるさ。
いくらポーランド移民の貧しい子供でも生きていてがんばればかならずチャンスはある。
この世はうまくできている。じぶんだって苦労して財産を築いたのだ。
成功美談を話しだそうとする実業家を詩人はとめる。
なんだかんだいっても、あなたの家はそれなりに裕福で、教育も受けられたのでしょう。
再度、断わっておくが、これらの会話は救命いかだのうえである。
詩人も実業家も、助けが来なければいずれ死んでしまう身。
極限状態での会話であることに注意したい。
詩人はこのような境遇でも冷静である。かれはつづける。

「例えば、あの死んだ子供がですよ、生き延びたとして、
そこに展開されるような環境、つまり一種のハンディキャップを背負いながら、
人生というものを始めてみて、あなたなら、それでも、成功してみせる、
人生もまんざらではないと思えるだけの、想像が可能ですかしら」(P231)


こう言われると実業家は絶句するほかない。
そのうちいかだは氷山へぶつかる。おりしも汽笛の音が聞える。
近くに救援船がいるということである。
実業家は大声で助けを求めるが、詩人はあわててそれをとめる。
もし救援船が氷山に気がつかないでこちらに来たら、あの船も大破してしまう。

「われわれは死ぬかもしれないが、そのわれわれを救うために、
他人に危険を犯させるという法はない」(P239)


これも難解なテーマである。青年オニールのペシミスティックな思想には圧倒される。
声をだしたら生き延びられるかもしれないが、失敗すると、相手も死んでしまう。
このような場合、果たして、声をだすのがただしいのか、それとも沈黙すべきなのか。
じぶんが生きるためなら、他人を殺してもいいのかという、
例の「カルネアデスの板」のテーマである。
実業家はなんとか声をだそうとするが、詩人にちからづくでとめられる。
ふたりの生きかたの相違である。
運よくふたりはこの船に気づいてもらえる。命が助かったのである。
詩人がポーランドの百姓女を見やるとなにかおかしい。脈を取ってみる。

「可哀そうだが、かえってこれで倖せなんだろう、この女は。
(温かに)死にましたよ、この女は」(P243)


詩人はオニールそのひとである。
この劇作家は生まれてこなければよかったと思っている。
オニールが生まれてきたせいで、かれの一家は不幸になったのである。
まず母親が難産でモルヒネを多用したため麻薬中毒になった。
母の麻薬中毒が、兄も父も不幸せにした。
このかんの事情は、かれの最高傑作にして、演劇史上でもっとも偉大なる悲劇、
「夜への長い旅路」に詳しい。
なにかひとつ戯曲を読むならと聞かれたら、わたしはこの長編戯曲をお薦めする。

人間が生まれてこなきゃ、劇なんて生まれないんだ。
死んじまったほうがよほどよい人生が世の中にはある。
青年オニールの主張は、いまのわたしの気持を代弁しているようである。
オニールはこの厭世観から、数々の壮大な悲劇を書きつづった。
かれは死ぬまで幸福とは縁遠かったが、劇を書くことで現実に復讐した。
落とし前をつけた。
神からの挑戦を、からだ全体でうけとめ、勝つことはなかったが、神へ反逆をした。
つまり、ユージン・オニールは生きたということである。
「地平の彼方」(オニール/清野暢一郎訳/岩波文庫)品切れ

→1920年ピューリッツァー賞受賞作品。
アメリカ近代演劇は、この「地平の彼方」とともにスタートしたといってよい。
ユージン・オニール初期の代表作。出世作である。
オニールは「地平の彼方」をひっさげて、
大衆娯楽演劇が主流だったブロードウェイに殴りこみをかけたのだ。

のちのオニール劇の萌芽のかなりが見て取れる。
感傷的なまでのロマンチシズム。人間不信。異常なまでの憎悪。
暴力寸前の狂気。どうにもならない不幸への絶望。神への呪詛。
劇的状況は、兄弟の相違である。
兄は根っからの百姓ともいうべき土の人間。頑丈である。
弟は病弱。大学を出ている。本を読むのが好きで、夢見がちである。
いつも地平線を見ながら思っている。

「(地平線を指し――夢見るように)僕を呼んでるのは美だ、
遠い知らない世界の美だ――(……)――あの向ふの、
地平の彼方に隠れてゐる秘密を求めて何所までも放浪する喜び――
さういふものが僕を呼んでいるといったらどうする?」(P21)


弟は元来、海の人間だったのである。
叔父の船に乗せてもらう約束ができている。船員として働く決意をしている。
その出発前夜のこと。弟は幼なじみの美少女ルースに別れを告げる。
ルースは兄と結婚するのだろうと思っていた。
別れの日、もう会えなくなるからと弟は愛を告白する。
ところが、ルースは弟の愛を受け入れてしまう。
たまらないのは兄のほうである。ずっとじぶんがルースと結婚すると思っていたのだ。
兄弟の仲が悪いわけではない。お互い気質の異なる相手をよく理解してきた。
その良好な関係が、どうしようもなく崩壊する。
兄はじぶんが叔父の船へ乗るという。船員になるという。
弟の幸福のせいで、兄が不幸にならざるをえないのである。
だれかの幸福は、べつのものの不幸によってあがなわれる。
オニールが青年期に影響を受けたストリンドベリのテーマである。
兄を追いだすことになった弟は苦悶する。

「(カッとなって反抗するように)何故こんなことになつたんだ。
忌々しい!(まるで仇敵でも捜すように狂気の如くうろうろ見廻す)」(P65)


3年後に兄がいったん船旅から帰郷したときには、幸不幸が逆転している。
百姓の才能がない弟のロバアトは身代を食いつぶしている。
ルースもいまや夫を憎んでいる。
オニール劇特有の壮絶な口論が開始される。傷つけあうわけだ。ルースはいう。

「あたしはアンドルウ(=兄)が好きなんですよ!
ええアンドルウが好きなんですよ! 前から好きだったんですよ。
(非常に喜んで)アンドルウもあたしが好きなんだ! あたしが好きなんだ!
あたしはちやんと知つてる。前からあたしが好きだつたんだ」(P90)


だが、兄のアンドルウはもうルースへの愛情はない。
商売に目覚めたアンドルウはひともうけしようと他国へでかける。
さらにそれから5年が経つと、弟はさんさんたる状況になっている。
農地は荒れ果て、借金ばかりかさんでいる。
弟のロバアトは肺炎にかかり死ぬばかりである。
プライドの高いロバアトは、
いまでは金持になった兄へ借金を申し込むことができなかったのだ。
弟の病気を聞いたアンドルウは医者を連れて実家へ帰るがもうどうにもならない。
ロバアトの死をもってこの劇は終幕する。
死の直前、危篤のロバアトは丘の上にのぼる。
青年期によくここで夢を見たものである。
朝日がいまあがろうとしている。ロバアトはかたわらにいる兄と妻へいう。

「(肩肘をついてからだを起し、晴れやかな顔付で地平線を指す)ごらん!
丘の向ふは奇麗ぢやないか。いつもの声が俺を呼んでゐる――
(歓喜の調子で)今度は行くぞ。俺は自由なんだ! これは最後ではない。
自由な最初だ――船出だ! わかるかい? 望みの旅――解放の力――
地平の彼方へ――俺のものになつたのだ!
喜んでくれ――俺のために喜んでくれ!
(ぐったり崩れる)兄さん!(アンドルウ彼の上にこごむ)ルースを頼む」(P153)
「20世紀英米文学案内14 オニール」(鳴海弘編/研究社)絶版

→オニールは不幸に固執する。
なら不幸とはなにか。欠落である。欲望がかなえられない状態を不幸というのである。
異論もあろう。こういいなおそう。
少なくともオニールは不幸を欲望との関係でみていた。
欲望が満たされぬ。これをオニールは不幸ととらえる。
たとえば、愛されぬという不幸は、愛されたいという欲望の裏返しである。
死人を忘れられぬのも不幸である。かれは故人に生きていてほしかった。
その欲望がかなえられぬのが現状なら、かれを不幸といわずしてなんといおうか。
オニールの人生観に耳を傾けてみよう。

「人生は戦いである。つねにとは言えないにしても、
しばしばそれは負けいくさの戦いなのだ。なぜなら、われわれはたいてい
夢や欲望の成就を妨げる要素を自分の内部に持っているからだ」(P25)


人間は欲望する。だが、欲望が充足されるケースは少ない。この人間は不幸になる。
なぜ人間は不幸になるのか。不幸になる原因はどこにあるのか。
その人間の内部にあるとオニールは見ている。
たとえば、人間はだれだって成功したい。しかしみなが成功するわけにはいかぬ。
成功者はほんのひと握り。たいはんは成功とは程遠い人生を送るわけである。
その秘密は人間内部にある。短気な人間が実業の世界で成功するのは難しい。
同様、ブスが女優の世界で成功する確率は低いといわざるをえない。
人間は欲望する。ところが、まさにその欲望を生じせしめたその人間の資質のせいで、
その欲望はかなえられぬ。人間の不幸とはこのことである。
欲望と、その欲望を阻(はば)むもの。
このふたつをある人間が同時に持っているという矛盾。
オニールが着目したところである。

ふたたび問うてみる。なぜ人間は不幸になるのか。
欲望を妨げるものがあるからである。では、なにが欲望を妨害するのか。
その人間が生来、持つところの資質である。もう一歩踏み込む。
人間はなぜそのように生まれてきたのか。
かれはなぜかれなのか。かの女はどうしてかの女なのか。
そこはもう人間の分け入っていくことのできぬ領域である。
個を超えた世界というほかない。オニールの関心はそこへ行き着く。
この劇作家はいう。

「私はいつも背後の力というものを――
(運命とでも、神とでも、われわれの現在をつくりだした生物的過去とでも、
なんと名づけてもよいのだ――たしかに神秘的なものだ)
――それを強く意識している」(P25)


「たいていの近代劇は人間と人間との関係にかかずらわっている。
だが私はそれにはまったく興味がない。
私の関心は人間と神の関係にしかない」(P39)


不幸を突き詰めると最後は、神の領域へ向かうよりないということである。
それは人間が人間を超えようとする試みである。
いかにして人間がおのが身を超越するか。
ままならぬ誕生と、これまた支配できぬ未知の死に挟まれた人間がなにをなしうるか。
どうすれば人間が人間を超えることが可能か。
自殺と殺人である。

自殺も殺人も、意味するところは死の掌握。

神ならぬ人間が、本来は神の支配下にあるはずの死をわがものにする。
この死の自由化をもって、人間が人間を超えうるのである。
死ぬか殺すかの狭間にたった人間の苦悩は並ならぬもの。
死ねない殺せない人間に最後に残された逃げ道がある。狂気。狂う。
狂人は、もう人間とはいえぬ。
ふたつの死(自殺・殺人)に圧迫された人間は狂うことで人間を超越する。
自殺、殺人、狂気。死ぬか、殺すか、狂うか。
オニール劇の住民が好む行為である。かれらは限界の状況下でうめいている。

死んでやる。もう死ぬしかない。
殺してやる。てめえぶっ殺すぞ。
うわあ、もうだめだ。狂う、狂ってしまう。


なぜ呻吟(しんぎん)するのか。不幸だからである。欲望がかなえらぬからである。
欲望。人間だからどうしようもなく欲望を持つ。欲望のない人間などいない。
どこにも救いはない。人間ゆえに持つ欲望。宿命がため欲望はかなわぬ。
人間は不幸である。
なぜ不幸になるのかという問いの答えは、人間だからとしかいいようがない。
オニールは人間を描きたかった。不幸に固執するゆえんである。
オニール劇の住人が「死ぬ・殺す・狂う」とうめきつづけるのもこのためである。

本書は1968年発行のオニール研究書。
海外でのオニール批評が簡潔にまとめられていて勉強になった。
オニールには以下のような非難が識者からなされているという。

「ユーモアの欠如、もったいぶった仰々しさ、感傷癖」(P196)

なるほどなとうなずきながらも、むろんわたしはオニールを擁護する。
そのような欠点をおぎなってあまりある力強さをオニール劇に見る。
つぎの指摘も的確である。オニール劇の欠点は以下のごとくであるという。

「病的不健全さ、絶望の激しさ、人間に対する病理学的軽蔑」

「結局、人類に対して軽蔑的憐れみとと強烈な憎悪をいだくオニールは、
人類愛を基調とするアイスキュロス、シェイクスピアなどの悲劇詩人とは
根本的に相違する」(P208)


オニール劇の力学を巧みに分析している。
しかし、と反論したい。わたしがオニールにひかれるのはまさにそのためなのである。
狂った劇世界。劇作家の人生への絶望。人間への嘲弄、憎悪。
これはオニール劇の欠点ではなく、むしろ魅力ではなかろうか。

これで家にあるオニール関連書はすべて目を通したことになる。
どこかでこの劇作家の絶版書を仕入れるまでは、しばらくひと休み。
ユージン・オニール! 顔つきがなによりよろしい。
どの写真でもオニールは怒っているかのよう。
眉間にしわをよせ、口をかたくむすび、目は相手をぎろりとにらみつける。
鏡でまねをしてみる。よし、こうだ、この顔だ! わたしもこの顔で生きていこう。
「現代演劇 特集 ユージーン・オニール」(英潮社)

→作品は、どこから生みだされるのか。
作者のほかないではないかとみなさまは即答する。
では、作者とはなんだろう。人間である。
ひとが生まれてくるには父と母が必要である。
なら、こういうことができるかもしれない。
芸術作品は、作者の両親によって作られる。

一方で、こういう考えかたがある。
ある作品に、いち個人のちからがどれだけ影響しているか。
作品は作りだすものではなく、やむなく作られてしまうものではないか。
作者ではなく、かれの人生が作品を作る。
作家はある時代を生きる。時代固有の社会を生きる。
環境が作家に書かせる作品というのもあろう。

劇作家オニールを今回、ストーカーのごとく追い詰めた。
作家の人生と作品を照らしあわせる。
かなりのところまで見えたと思うのは不遜なのだろうか。
ある原体験を何度も作品で反復しているのがうかがえるのである。
わたしは研究者ではない。原体験を特定することにさほど情熱はない。
それなら、どこに関心があるのか。しごく単純である。

いかにすればオニールになれるか?

エゴイストなのだ。人間はだれしもじぶんのことにしか関心がない。
わたしも同様である。
オニールの創作作法は、愛の活用にある。
オニールにとって創作するとは、愛を突きつめること。
愛の具現化こそオニール劇の実相である。
他人から愛を奪う。膨大な量の愛を求める。
その保証の裏づけを得て、はじめて創作することができる。

もう一度、繰り返す。
人間はみないちようにじぶんのことにしか関心は持たぬ。
唯一の例外が愛である。愛とは、自己以外の他者に関心を持つことである。
自己よりも他者を重んじる。これが愛である。
よって愛するとは、相手のいうがままになること。
愛されるとは、自己の都合で身勝手に相手を利用することにほかならぬ。
オニールの人生を概観して思うのは、なんてわがままなやつなんだ!
あきれるほど自己中心的なのである。

3度の結婚。詳細はめちゃくちゃである。
勝手に恋をして子どもを作ったと思ったら、はや離婚。
べつの恋人ができたというのである。
結婚は3度で済んだが、最後の奥さんというのは尋常ならぬ被害をこうむっている。
生活はオニールの執筆が最優先。夫のいうことはなんでも服従しなければならない。
いっときはこの劇作家夫人、病院へ運ばれた。精神病院。
オニールにふりまわされたせいである。
家庭内暴力は日常茶飯事。さらにオニールは父親ゆずりの吝嗇(りんしょく=ケチ)。
生活費を渡さないこともある。
こんな夫にたえかね妻は何度も家を出る。
そのたびにオニールは愛を訴える。きみがいないとダメなんだ!
愛情にほだされて妻が家へ戻ると、またオニールは殴りかかる(笑)。

ユージン・オニールの最高傑作「夜への長い旅路」は妻へささげられた作品である。
三番目の奥さんへの、結婚記念日の贈り物として書かれたというわけである。
最初、この事実を知ったときはたいへんな美談だと思ったものだが、
裏を知ってしまうとことばがでない。
オニールの天才とは、愛される才能だったのである。
言いかたをかえれば、愛を奪う才能。自己中心をどこまでも貫く強い意志。
他人を精神的および肉体的に傷つけても平気でいられるタフな精神――。

ふたたびおのれに問う。
どうしたらオニールのような作家になれるか。
わたしはなにをすればよいのか。
作品は、どこから生みだされるものなのか。

「喪服の似合うエレクトラ」
(オニール/菅泰男訳/「ノーベル賞文学全集20」主婦の友社)絶版
 *再読

→戯曲。米国産。
いま新刊書店で唯一購入できるオニールの戯曲がこの「喪服の似合うエレクトラ」。
訳の古い岩波文庫版が今年の2月に復刊されている。
だいぶ悔しい思いをした。オニールをひとりじめしたかったのである。
(「本の山」でオニールに興味をもったかたがいるかもしれない。
今回はネタバレを避ける。おすすめというわけではない。オニールはわたしのもの!)

宿命の劇である。これほど宿命に固執した戯曲をみたことがない。
だが、本来、宿命と演劇は強い結びつきがあるのではないか。
宿命というのは避けられないこと。どうにもならないこと。
自由律俳人・山頭火の句「どうしようもないわたしが歩いてゐる」における、
「どうしようもない」の境地である。
ほかに選択肢がいくつもあったはずなのに、どうしようもなくいまの人生を選んでしまった。
自由に生きてきたはずのこの人生。ふりかえると必然めいたものに思える。
これが宿命の思想である。演劇もそうではないか。
役者は舞台のうえであたかも自由のごとく奔放にふるまう。
だが、その実、戯曲から一瞬たりとも離陸していないのはみなの知るところである。

死人の劇である。死人が死人を呼ぶ。
父のかたきを殺したあと、オリンは述懐する。

「もし僕がこの男だったら、同じことをしたろうな!
僕も、この男が愛したようにお母さんを愛して――お父さんを殺しもしたろう
――お母さんのために」(P349)


オリンは思う。いま横たわっている死人はじぶんではなかろうか。
殺した。これは殺されたということではないか。宿命の感覚である。
いや、読んでいるひとはわたしがなにを言っているのかわからないかもしれない。
うまく説明ができない。この殺人犯オリンのことばになぜか強く宿命を感じるのである。

4人の人間がこの劇では死ぬ。あるものは殺され、あるものは自殺で――。
ちがう。あの4人は死んだわけではない。もとから死人だったのである。

これは死人の劇なのだから。

思えば、オニール劇には死人と形容するにふさわしい人間が多く登場する。
生きている死人がいないとどうしていえよう。くだんの山頭火も死人である。
山頭火の一連の作品は、死人の俳句にほかならぬ。
死人。過去にとらわれた人間である。いつ死んだっていい。
死ねないから生きているにすぎない。これはもう死人である。
この劇でも死人のオリンは言う。

「殺してくれたら感謝するぜ! もうこの生活はいやでたまらないんだ!」(P373)

4人の死人は墓場へ戻った。
オリンの姉、ラヴィニアは最後まで生き残る。
彼女こそ「喪服の似合うエレクトラ」である。
ラヴィニアは死人たることを拒絶した。生命を、愛を渇望した。結婚を望んだ。
そのラヴィニアが終幕直前、婚約者にもらす。

「わたしには愛は許されないの。死人の力が強すぎるの!」(P387)

この劇はいうなれば、ラヴィニアと死人たちとの闘争であった。
彼女は敗北宣言をする。死人には勝てなかった。過去はどうしようもない。
宿命への服従である。これこそオニールがギリシア悲劇にみたものなのだ。
この劇作はアイスキュロスの「オレステイア三部作」を下敷きにしている。
アイスキュロス、オレステス、エレクトラ、みんな死人である。
オニールをこの劇作に衝き動かした死人はほかにもいる。
この作品を執筆したとき、すでにオニールは死人に囲まれていた。
オニールの父、母、兄である。
あまたの死人がオニールに「喪服の似合うエレクトラ」を書くよう、うながした。
この死人ばかりが登場する芝居をである。