「踏み越えるキャメラ」(原一男/フィルムアート社) *再読

→わたしの師匠といえば、
いやがおうにもドキュメンタリー映画監督の原一男先生しかいない。
師匠だなんていまは思いたくはないけれど、影響を受けすぎているのだから仕方がない。
なぜならいまわたしがこのブログでやっていることは、まるで師匠とおなじだもの。
違うものは持つもので、キャメラを持つか、ペンを持つか(キーボードを押すか)。
わたしの現実を書いていく。なぜなら、つまらないからである。
おもしろいことが起きないかなあ、
と思いながらふつうなら実名では書いてはいけないことを書く。
そうすると現実のほうから反応が返ってくる。
それがおもしろいからそのなかから書ける範囲ぎりぎりで書きたいものを書く。
そうするともっと世界もおもしろくなるというか、少なくとも退屈ではなくなる。
人の隠されたいろいろな面が見えてきて、まあ、おもしろいわけだ。
どうやら原一男先生もむかしは葛藤オタクだったようだ。
シナリオ・センターのアルバイト講師たちのようにドラマは葛藤だと思っていた。
むろん、ドラマは葛藤というのは正しい。
なんにもないよりはせめて葛藤(喧嘩)があったほうが非日常性を楽しめる。
どうしようもなくわたしは原一男の弟子なのだろう。

「アクションしていくなかで、そこで相手といろいろ葛藤が起きる。
その葛藤こそがまさに生きていく人生のドラマにほかならないだろうと。
僕らの映画はそのドラマを描きたい。
つまり、何々問題を描きたいということよりも、かかわっていくとき生じる劇的なもの、
ドラマにほかならないもの、そういうものこそ僕の求めているものなんです。
ある出会いがあって、相手に惚れて、キャメラを回したくなる。
だけど、キャメラを回す以前に、どうでもいい問題は全部処理しちゃいたい。
ここから先がおれたちわからないから、だから知りたいんだよ、
というところでキャメラを回す」(P122)


キャメラのみならず言葉で人をアジテート(刺激)することもできる。
むしろ、キャメラなんかよりも言葉のほうが人間の深層に突き刺さるであろう。
言葉の羅列――つまり文脈(=世界の見方)というのは、人から習うしかないのである。
それぞれの持ち分にしたがいそこそこうまく回転していた初期経済世界を、
労働者と資本家の対立(葛藤)と文脈づけたのはマルクスだ。
そういう文脈をおぼえると、それが影響力があればあるほど、世界が変わる。
みんなおなじような文脈で話すようになる。
だから、キャメラを回すのもいいが、
言葉をブログに公開するのも大げさなことを言えば世界革命につながっている。
オーバー過ぎてお笑いになる方が大勢いらっしゃると思いますけれど。
ネットは危ない。映画も出版も発声から公開まで時間がかかるが、
ツイッターやブログ等のSNSは現在進行形に影響を与える。

「キャメラ[言葉]を、過去がどうでしたかということじゃなくて、
現在進行形の中に過去の問題も全部ほうり込む。
現在進行形で起きるその中で何を見ていくかということでやろう、って意識。
そうすると何が起きるかわからない」(P123)


だから、おもしろい、本当におもしろい。
なにが起きるかわからないという状況は非常にとってもおもしろい。
おもしろいことはいいよなあ。
とりあえずのゴールのようなものは必要である。
原先生も映画を製作するとき、なんとなくはゴールを決めているという。

「そこ[ゴール]へ行くまでに何が起きるか、自分自身がどういうふうに変わっていくか。
自分自身がまさにそのゴールへ向けてアクションを起こしていくんだけれども、
自分自身もどういうアクションを起こしていくかわからない、
だからおもしろいんじゃないか、じゃあやってみようぜっていう、そういうノリですよ」(P124)


たとえば職場のことをブログに書く。
ブログに書きたいと思うと、なんらかのアクションを起こさざるえをえない。
そうするとアクションが返ってくる。それにどうアクションしていくか。
それは自分でもわからない。
とりあえず自分から出てきたアクションをたいせつにしよう。
アクションしないと世界の仕組みのようなものはわからないじゃないですか。
こういうアクションをすると会社では多くのものは上に告げ口するとわかる。
そういうことで女性社会は告げ口のようなもので回っているとわかるわけ。
告げ口されると上が飛んでくる。上のアクションでさらに世間というものがわかる。
目が点になっている上司とか見ると不謹慎だが、ごめんなさい。おもしろいっす。
女性労働者は告げ口が好きなんていうのも、
アクションを起こさないとわからないわけだ。
そういうことで世界や世間を知っていくことで、わくわくするっていうかなあ。
ああ、本当はこの人とこの人は仲が悪いとわかる。
そういうのっておもしろいじゃないですか。
それをおもしろいと思うのは、生活者としてどうかという問題は当然あるけれど。

原一男先生の本をひさびさに再読して、むかし(70年代)はよかったなあと思う。
むかしは世界を自分たちで変えられるという幻想がまだ濃厚に生きていた。
だからかどうかわからないが、人が人に逢いに行く時代であった。
原さんの若者時代というのは、おもしろそうだと思ったら、
すぐその人に逢いに行くのね。逢うというドラマがむかしはかなり強く存在した。
いまはなかなか人と人が逢わない。つまり、ドラマがない。
わたしが働くのは小金がほしいのもそうだけれど、
人との出逢いを求めているところがある。
いまは左翼活動みたいなものがないから、そうそう強烈な宗教活動もないし、
したがって人と出逢いたかったら働くしかない。
けれど、生活者ならぬ表現者は働くのがめんどうくさい。
わたしは原一男さんと学生と教授という立場で邂逅(かいこう)したが、
早稲田大学は度量が大きいというか、
よくこんな定時制高校卒のグウタラを雇ったものだと思う。
でも、わたしが人生で師と言えるのは原一男先生だけだから、
長らく早稲田は校歌もふくめて好きではなかったが、いいところもあるじゃないか。
働くのってめんどうくさいよねえ。早稲田新卒カードといえばかなり強いでしょう?
「就職なんかしないでフリーターでもして好きなことをしていけばいいんじゃないか?」
そんなことを言う教授も教授だが、真に受ける学生もクルクルパーだ。
わたしは原一男先生のアジテーション(扇動)に心底から揺り動かされたなあ。
いまは国家権力の象徴ともいうべき大学教授を
長らくお続けになっている原一男先生はいいかげんな若者だったのである。
なんでこんな人を師匠にしてしまったのかと、かなしゅうなるわい。

「働きに行くのもいやでね、とにかく金がなくなるまで働かない。
金がなくなったらまず質屋に行く。
キャメラがあったから、キャメラを質に入れるんです。
その金もなくなったらしょうがないから働きに行く。
それで二、三日働くと、現金でお金くれるから、
そのお金を使い果たすまでは働きに行かない。
それでも家賃を払わなきゃいけないとかなって、しょうがないからじゃあ働きに行くか、
ってな状態でまた働きに行く。お金もなるべく使わない。
下高井戸ってけっこう物価が安かったんだけど、
安いなかでもいちばん安い魚屋さんへ行ってアラか何か買ってきて、
ひっそりと食事をして、
それで暇なときには乳母車を押しながら近くをとことこ散歩していく、
そういう生活を数年してた。
小林[奥さま]も基本的には働いてなかったんだけど、
さすがに僕が働くのをいやがるもんだから、
「じゃあ私、アルバイトに」なんて、ときどき行ってた。
そういう生活をするなかで、やっぱり映画人の知り合いができた。
年齢的には僕とそんなに変わらない人、一つか二つぐらいしか。
そういう人がピンク映画をやってると。
そこで、「撮影助手を探してるけど、やるか」ってなもんで、
じゃあ生活費稼ぎもあるし、
まあ、映画の技術もやっぱり勉強したほうがいいかというふうに思ってたから、
声がかかれば仕事をする、というような感じでぽつぽつ仕事を始めたんです」(P145)


知り合いができるかどうかって運だよなあ。
むかしは知らない人からメールがけっこうひんぱんに来たけれど、いまはまったく。
自分からもっとアクションを起こしたほうがいいのはわかっているのだけれど、
そこはそれで、まあ、そういうわけで。
わたしなんかもうすぐちょーヒマになるからメールを1本くれれば、だれとでも逢う。
最近、メール来ないなあ。
だから、アクション。おもしろそうなところで働く。知ったことをブログに書く。
書かれたほうはたまったもんじゃないかと思うが、
こちらは基本的におもしろかったことしか書かないから、
基本的には書く行為には原さんとおなじように「愛」めいたものがある。
書かれたほうもおもしろいことをしはじめてくれるのである。
人から期待されると期待に応えたいとどこかで思うところってないかなあ。
悪役だったらもっと悪役に徹しようみたいな。
正義のヒーローは正義をアピールしたくなるというかさ。
実名ブログ表現はとても危険だが、しかしおもしろい。
むかしの原さんのドキュメンタリー映画のようにである。
どこかにキャメラ(視点)があると、敏感な人はオーバーアクションをするようになる。
先生の代表作「ゆきゆきて、神軍」の主役は奥崎謙三という犯罪者である。

「だから、奥崎さんも、最初は僕のキャメラワークをそんなに意識しなかった。
だんだん、どこでどういうふうに撮っているかというのを、
撮られる側が判断することはそんなに難しくない。
いまキャメラがどこにいて、どういうアクションを、
自分にキャメラを向けてねらっているかというのは、撮られてる側もわかってくる。
ああ、こういう場面をねらってるのかと、
それをずっと続けていくと、どういうふうに演じればこの人は回す、
というのもだいたいわかってくるんです。そういうもんですよ。
そんなに難しくない、隠し撮りしてるわけじゃなくて。
で、撮られる側がそれを計算できるようになる。
それはでも、そのことをいいとか悪いとかって、
そういうふうにいい・悪いのレベルで論じるんじゃなくて、
わかってくるもんだよということなんです。
で、わかってきちゃったらそのキャメラの前の人間はどうするかと。
わかてなおアクションを続けるんだから、やっぱりね、
演技しちゃうというのはこれはもう理の当然というか当たり前のことなんですよ」(P190)


そのようにして撮ったドキュメンタリー映画はすべてフィクションだと原さんは言う。
だって、日常風景を撮影してもつまらないじゃない?
会社の日常なんてどこも退屈でしょう。
「プロジェクトX」みたいなことなんてどこにもない。
毎日、毎日おなじことを繰り返して、つまらないなあ、
というのが本当のドキュメンタリー(記録映画)。
でも、それでは撮影しているほうも観客もつまらない。
このため、人はフィクションを志向する。
現実だけではたまらなくなった。嘘でもいいからドラマのようなものを希求したい。
これが原一男のアクションドキュメンタリーである。
映像作家も文章作家も現実がいやでフィクションを創造するのだろう。
原一男が奥崎謙三のつぎにキャメラを向けたのは作家の井上光晴である。

「奥崎謙三の場合はナマの部分はいくら出てもかまわない。
ところが、井上さんはやっぱり作家だからねえ。
これはあとで気づくんだけど、やっぱり虚構の人だから、
ナマの自分は絶対出したくないんですよ。
必ず虚構というフィルターを通さないと、
井上さんという人はナマの自分を出せない人なんですよ。
やっぱり作家なんですよ」(P233)


わたしは作家でもなんでもないが、ナマの自分は文章には出せない。
文章はぜんぶかくありたいというフィクションを求めてしまう。
いったい表現とはなにか?
大学時代、原一男ゼミの課題は「私にとって表現とは何か?」であった。
当方は課題を出せなかった。
いつか出そうと思っているうちに、あれから18年が経過してしまった。
原一男にとって表現するとは――生きること。
なんのために表現するかといえば、自由になるため。
おそらく本当の自分を出すことが表現することで、
本当に生きるということなのかもしれないなあ。
むろん、生活者はそんな悠長なことを言っていられないけれど。
自分を知りたい。自分を変えたい。表現をすると――。

「自分自身が変容する、変わったというふうに言っていいかどうか。
結局のところ、つまり、解放ということ、
自由であるということはどういうことかというふうになるけど、
やっぱり、何かを超えたから
それ以後はずっと自由でいられるということでは決してなくて、
非常に劇的な何かを通過して、通過した直後のある感覚っていうのかな、
そういう感覚というのは時間の軸からも、えらくこだわっていた空間の軸からも、
フッ、と解き放たれる瞬間というのがあるような実感がします。
(……) 人生において、そういうことが不断にあればいいんだけど、
不断になんか絶対にないからね。絶対にないんですよ、日常の中では。
だからより劇的なものを求めて、
じゃあ次の映画をつくろうかというようになっていくのであってね、
ないですよ、日常的には、そんなものは」(P283)


映画監督の原一男さんが日常にはないとおっしゃる、
日常における小さな劇をおもしろおかしく、
しかし真剣に描いたのがテレビライターの山田太一さんで、
わたしは氏のドラマが大好きなのだから困っちゃう。
原一男先生は人間としてとても魅力的で影響を受けたが、
師匠の映像作品は何度観てもどこがおもしろいのか弟子には理解できない。
大衆的な山田太一ドラマのほうがおもしろいよなあ。
突き抜けていない、もっと言えば不自由な、
市井(しせい)を生きる小市民の喜びや悲しみのほうがおもしろい。
しかし、山田太一ドラマにもそんなものはくだらんじゃないかという視点もあるから、
自分というものが中年になっても定まらない。
いつか原一男先生に課題を提出しなければならないとはいまでも思っている。
むろん、直接手渡しするとか、そういう形式ではなく。
表現とは自分の生き方ならば、とりあえず生きていくしかあるまい。

(関連記事)↓「原点回帰」←原先生との想い出を書いた10年以上まえの記事。
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-541.html

本当のことを言ってはいけないと嘘つきの河合隼雄さんがつねづねおっしゃっていた。
いくらアクセス数の少ないブログとはいえ、自分でもこれを言っていいのかわからない。
もしかしたらすぐに削除するかもしれません。
果たして本当に死というのは多くの人が思っているように悼まねばならぬ不幸なのか。
というのも、いまこの記事をお読みの方のなかで死んだことのある人はいないでしょう。
それなのに、どうして死は不幸だとこの世の論理だけで決めつけるのだろうか。
死は不幸というのは、もしかしたら多数派がキープしているだけの錯覚なのではないか。
あるいは死んだらこの世以上の幸福バラ色の世界におもむけるとは考えられないだろうか。
根拠は仏典の阿弥陀経にそう書いてある。
このため時宗の一遍は「とく死なんこそ本意なれ」と言っている。早く死んだほうがいい。
浄土真宗の親鸞が殺人をそれほどの罪(悪)ではないと思っていたのは(「歎異抄」)、
死んだらみんな極楽に往けると信じていたからだと思う。
死を救済だと思えたら(信じられたら)、これほど救われることはないのである。
まず自死遺族が救われよう。
自死遺族がなぜ苦しむかといったら自殺は悪徳だという社会通念があるからである。
もし死が恵みならば、自殺した愛する家族は間違っていなかったことになる。
不幸は比較できるものではないが、自死遺族と被災者遺族のどちらが苦しいか。
被災者遺族の愛する家族がお亡くなりになったのは天災(自然)のせいである。
いっぽうで自死遺族は、
家族の死は自分のせいではないかという自責の念を死ぬまで背負わねばならない。
家族が津波で死んだことは人に言えるが、家族が自殺したことは隠さなければならない。
被災者遺族にはみんなが同情してくれよう。
自死遺族には、あの家はねえヒソヒソという差別の待っていることが多い。
とはいえ、もし死が不幸でないならば、どちらも悲しまなくてよくなることになる。
お亡くなりになった人たちは、この娑婆(しゃば)なぞよりはるかにいい世界にいまおられる。
あの偉いお釈迦さまが説いた阿弥陀経にそう書いてあるのだから本当である。
法然、親鸞、一遍の信じた阿弥陀経にそのような記述があるのだから死は不幸ではない。
むしろ、これでよかったのだ。いまのままそのまんまでいい。すべてはうまくいっている。
もう一度言う。すべてはうまくいっている。ならば、悲しむ必要などどこにあろうか。
みんなうっかりすると忘れてしまうが、だれもがうらやむ有名人も悩みを持っているのである。
悩みとは問題のことだ。
対人関係の問題、家族問題、経済問題、仕事の問題、病気の問題――。
大風呂敷を広げて視点を日本に向けても問題だらけである。
少子化問題、年金問題、社会福祉問題、消費税問題、格差問題、老害問題、子育て問題――。
われわれは問題に追いまくられている。
問題のないことに逆に不安になった人たちが取り組むのがいわゆる環境問題だろう。
あるいは自分の問題から逃亡したいがために
環境問題にどっぷり浸かっているのかもしれない。

現在のみならずむかしから問題ばかり解かされてわれわれは大人になったとも言えよう。
学校でなにをやっているかといったら与えられた問題に答えることである。
より難しい問題に正しい答えを書ける人ほど一流大学、一流会社に入ることができる。
社会に出てからの問題には正しい答えのようなものは存在しないが、
われわれは10年以上も学校教育で洗脳されてきているため、
どうしても問題には正しい答えがあるものだという思い込みから逃れることができない。

難問にあたふたしているときがピンチになろう。
この難問をどうしたらいいかと人は迷い、ときに寝込んでしまうことさえある。
だれかのピンチはだれかのチャンス。
難問をかかえた人に近づいてくるのが新興宗教や怪しげな占い師である。
当人がかかえる難問の正しい答えを教えてあげるからお金をくれと手を差し出してくる。
問題が難しければ難しいほど、この甘い誘惑にあらがえなくなるのは仕方がない。
どうしたら新興宗教や占い、スピリチュアル詐欺に引っかからないでいられるか?
ふたつの思い込みに気づけばいいと思う。
われわれは学校教育にある意味、洗脳されてきたのだから、その洗脳を解いたらいいわけだ。
学校教育によるマインド・コントロールとは――。
1.問題にはかならず正しいひとつの答えがある。
2.目のまえの問題はかならず解かなければならない。

東大卒で受賞歴ゼロの宗教ライターひろさちや氏は言う。
最近、改めてこの人の狂いっぷりにビリビリしびれている。

「問題を解決しようとすると、かえっておかしなことになりがちです。
それは、まさにアリ地獄にはまっていくようなもの。
解決しようともがけばもがくほど、問題がこじれて身動きができなくなってしまいます。
それならば、問題を解決しないほうが、どれだけ楽でしょうか」


「とはいえ、問題を解決しないまま生きていくのは難しいものです。
おそらくこれまでに、一度もその方法を教わったことがないからです。
そもそも世間で推奨されるのは、何か問題が起きれば
「それを乗り越えなさい」「解決しなさい」ということばかりですから、
「解決するな」と言われても最初のうちは戸惑うでしょう。
でも、「今起きていることは解決できないんだ」と思えるようになれば、
こんなに楽なことはありません。
起きている問題とともに生きればいいのです。
もし、その渦中で不安が自分の心に芽生えたならば、
今度は不安のままに生きればいい。
それを無理やり解決しようとするから、さらに苦しくなるのです」


「勉強しなさい」と言うから問題児はよけいに勉強しなくなる。
「働きなさい」と言うからよけいにだめんずは働かなくなる。
「お酒を飲まないで」と言うからアル中はよけいに酒を意識するようになる。
配偶者の性格を変えようと思うからよけいに夫婦喧嘩は激しくなる。
お金を儲けようとがんばるから変な詐欺につけこまれる隙ができてしまう。
しかし、では、そうだとしたら、いったいどうしたらいいのか?
東大卒のひろさちや先生!
人間はよりよく変わるべきだろう? 社会は進歩すべきだろう?

「答えは簡単、「別にいいじゃないですか、今のままで」。これだけです」

「わたしがここで言いたいことは、
問題が起きたときに先のことやこれまでの行いを考えて、
あれこれ悩みなさんなということです。
考えれば考えるほど深みにはまり、
「不安」の迷宮に迷い込んでしまいますよということです」


問題は自分で解決しようとせず自然に解決するまで待てということだろう。
どうしたらそんな余裕を持つことができるのか?

「問題を解決しようなんて思わないこと。
さらにいえば、問題を解決しない「智慧」を持つこと」


どうしたらそのような「智慧」を持つことができるのか?
ひろさちや先生は「智慧」を教えてくれはしない。
教えてもらおうというのは怠慢だと言う。
まだ若い人はみずから学べばいいではないか。

「若者たちは気の毒です。
いや、必ずしもそうは言えない。というのは、彼らは怠慢です。
教えてくれる者がいなければ、彼らはみずから学べばいいのです。
何を学べばいいか……? 宗教を学ぶのです。(中略)
けれども、勘違いをしないでください。
わたしは宗教団体に入れとすすめているのではありません。
宗教団体は、むしろ入らないほうがいいでしょう。
ヨーロッパのキリスト教徒が、
家庭にあって父親や母親からキリスト教徒としての生き方を教わる。
日曜日に教会に行って、神父さんや牧師さんから生き方を学ぶ。
それが宗教の学び方です。
残念ながら日本の仏教寺院は、そのような「宗教の場」になっていませんが、
お寺に期待できないとすれば、書物で学べばいいのです。
若者たちは怠慢です。
「損か得か」の物差しを超えた、宗教の教えを学ぼうとすれば学べるのに、
そういう努力をしないで、相変わらず「損か得か」の物差しでもって
この世の中を泳いでいこうとしています」


わかりやすい氏の文章をさらにわかりやすく要約してみよう。
1.問題の多くは「損か得か」のレベルの話である。
2.問題は解決を目指すとよけい苦しみが増す。
3.問題はそのまんま自然にまかせよう。
4.そのためには「損か得か」を超える宗教の「智慧」を持つことだ。
5.「智慧」はひろさちや先生の本を読んで自分で学ぼう。

この記事の引用は以下の書籍からです。
「けちのすすめ」
「世間の捨て方」
「仏教が教える人生を楽しむ話」

受験シーズンだが、いざ問題用紙を配られてもいっさい答えを書かず試験終了時間まで待つ。
こんなことができるのは狂人かよほどの天才くらいだろう。
わたしは宗教の開祖はみな精神病ではないかと疑っているが、ならばひろさちや先生も――。
いやいや、狂人ではなくある種の天才だとこの受賞歴ゼロの宗教ライターを仰ぎ見ている。
長いあいだ「がんばれ」という言葉が嫌いだったんですね。
よくわかりませんが、「がんばれ」と言われることの多い人生だったからかもしれません。
いまのままではいけない。そのまんまではいけない。がんばれ。がんばれ。もっとがんばれ。
しかし、人は絶対に変わります。これは相対的な世界で、なお絶対と言えることでしょう。
もしかしたらこの絶対しか救いはないのかもしれません。人は絶対に変わる。
ならば、そうだとしたら、はい、わたし、「がんばれ」もいいと思い直しました。
他人のことは「がんばれ」としか言いようがないところがあります。
どうしようもなく無言には耐えられないから人は「がんばれ」と言ってしまうのでしょう。
「がんばれ」と言ったら自分の責務を果たしたようにどこかで思える。
「がんばれ」は無責任で、あたかも自分が善人になったかのような気がする。
「がんばれ」はいい言葉です。便利な言葉です。
「がんばる」の反意語はなんでしょうか? がんばらない、のんびりする、あきらめる……。
「がんばる」ではなく「がんばれ」の反意語に最近、気がついたのです。

「がんばれ」の反意語は大丈夫。
大丈夫だから。きっと大丈夫。大丈夫、なんとかなるよ。絶対大丈夫。だから大丈夫。
いまのところ自身や周囲に不幸が多い人生です。
痛ましい確率の低い災難を多く目にしてきましたが、結局は大丈夫なんです。
どれもいまのところなんとかなっています。
こんなことがあったらどうしようという不幸もいざなってしまえばなんとかなるから大丈夫。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。
「がんばれ」と人に言うのが好きな方は、
そのあとに大丈夫を付け加えたらいいのかもしれません。
がんばれ大丈夫! がんばれ大丈夫! がんばれ大丈夫だから!
この大丈夫に人生の迫力がかかっているような気がします。
どんな人生を送ってきたかが大丈夫の気合にあらわれる。
どうなってもこうなっても大丈夫なことがわかっている人の大丈夫は強い。
なんとかなるから。大丈夫。絶対大丈夫。がんばれ大丈夫!
今日、新宿区某所で横を救急車がサイレンを鳴らしながらやけにゆっくり通り過ぎていった。
角を曲がったらテープで現場が保護され、数人の警察官が立っている。
上を見るとビルの6、7階の小さな窓だけが不自然に開いていた。
コンクリートには落ちたらしき箇所がテープで示されていた。やったなと思う。
あの高さで果たして目的がかなえられたのかどうか。
飛び降りはよほど勇気がないとできないのだから、うまくいってくれていることを願う。
しかし、どんな高さから飛んでも生きるときはたまたま生きてしまうのだろう。
よくだれかが自殺したときに友人や知人が、
へたな役者のようにことさら大仰に悲しみを強調しながら、
そんなに苦しかったのなら相談してくれていたらと嘆くのはどこか噓くさい。
それは死んだあとだから言えるのではないかという疑惑をぬぐいきれない。
もし実際に相談に行っていたら、「仕事が忙しい」といやな顔をされたかもしれない。
「みんな苦しいんだ。がんばろう」とお説教された可能性もある。
「あんたも羽振りのいい時期があったよな」
とぼそっと言われていなかったとだれが断言できようか。

自殺する人が知り合いに相談に行かないのは、その人を思っての部分も多いだろう。
迷惑をかけてこれ以上親しい人を失いたくないから逢いに行かなかったのではないか。
もし自分が希死念慮(死にたい!)を持つ人に依存されたらどれほど厄介か。
それがわかるからあえて相談しなかったとはどうして考えないのだろう。
落ちぶれてから同窓会やクラス会に参加するものは極めて少ないと思う。
だれだって自分のみじめなすがたを知り合いに見られたくないのではないか。
「相談に来てくれていたら」と嘆く人はどこかおかしい。
もし困った知り合いが逢いに来ていたら自分は助けられていたと思うのだろうか。
ひとりの人を救うためには、ときになにもかも投げ出さなければならない。
そのうえ相談直後に自殺されたらどれほど当人は自責の念をいだくことか。
ならば、いまのようにご無沙汰のまま自殺されたほうがよかったことにならないか。
ほら、おかげで自殺した人はきれいな思い出のままで残っているではないか。

果たして自殺はとめられるものだろうか。
生きていたらそれだけでいいのだろうか。
死んだほうがいいという人も世の中にはいるのではないかという思いを払拭できない。
だから、いまもって死刑があるわけではないか。犯罪被害者(遺族)は、
自殺未遂経験のある加害者にあのとき死んでくれていたら、と思うものだろう。
たとえば少女に性犯罪をしてしまうような人は、
周囲のためにも本人のためにも可能ならば早めに自殺したほうがいいのではないか。
矯正不能なおかしなやつは早めに自己処分させるのも一手とは考えられないか。
人力や努力ではどうにもならない治しようもない病気(ビョーキも)はあると思う。
自分が決定的におかしいとわかったら、厚顔に人様のお荷物になるよりも
いさぎよくおのれの生命を断念したほうがいいのではないか。
もちろん、生きていたらなにが起こるかわからない。
生きていたらどんなことだってあると思いたい(信じたい、かもしれない)。
しかし、生きていたらよけいに悪化することもまたあるのは事実である。
だが、人生はままならず自殺しようといくら挑戦しても未遂に終わることもあろう。
断じて思うようにならないけれど、
思いも寄らないこと、思いがけないことが起こるのも人生だ。

あらゆる人に対して自殺したらいいとも、生きていたらいいとも、どちらとも思わない。
ただ自殺願望の持ち主から依存されるのだけは正直しんどい。
かりにそういうご縁があったら宿命として引き受けるしかないのだろう。
その人にはたとえるならば前世でお世話になったのかもしれない。
もしかしたら来世でご厄介になるのかもしれない。
三世因果説でも用いてあきらめるほかないような関係がこの世にはあるような気がする。
腐れ縁と呼ばれているやつである。
三世にわたる腐れ縁があると思えばこそ人の温情にすがれるという面もあるのだろう。
わっからないな、もう。
苦しめられているものに新しい言葉を与えることで楽になることもなくはない。
結局、言葉に苦しめられたり言葉に救われているのが人間なのだろう。
さて、我われはコントロー・ルイリュージョンに苦しめられているのではないか。
いぜん認知心理学の本を読んだときにポジティブ・イリュージョンという言葉を知った。
我われはみなポジティブなイリュージョン(幻想)を持っているのではないかという仮説だ。
みな自分のことを実際以上に高く評価している。
自分の将来には確率の低い不幸は起きないだろうという幻想を持っている。
自分が選んだ商品はほかのものよりよいものであるという錯覚を持つ。
以上のような自分にまつわる錯誤が認知心理学でいうところのポジティブ・イリュージョンだ。
ポジティブ・イリュージョンのおかげで我われはうつ病にならずに済んでいる。

同様に我われはコントロール・イリュージョンを持っているのではないだろうか。
たとえば、自死遺族が苦しまなければならないのはコントロール・イリュージョンのせいだ、
ということもできなくはないのである。
人生はコントロール可能だという幻想を持っているがために自死遺族は苦しむ。
もしあのときああしていれば愛する家族は死んでいなかったという錯覚に苦しむのだ。
だれもが自分の人生を自分が築き上げてきたという錯誤を抱いている。
よほど先のない後期高齢者以外は、将来をある程度コントロールできると思っている。
そして、それは認知のゆがみではないかというのがコントロール・イリュージョンだ。
実のところは、人間は人生をまったくコントロールしていないかもしれないではないか。
我われが成功者の自信たっぷりな自慢話を好むのは、
コントロール・イリュージョンが満たされるからとは考えられないだろうか。

もしコントロール・イリュージョンがなかったら人生に対して完全なる無力ということになる。
この無力感は自堕落や捨て鉢な反社会的行為につながりかねない。
このため社会全体である種の戦略として、
コントロール・イリュージョンを保持しているのではないか。
そして、我われは自分たちが作ったコントロール・イリュージョンに苦しまされる。
人生の失敗者は確率的にかならず一定割合存在しなければならないが、
彼(女)ら落伍者たちは自分のせいでこうなったのだと過剰に苦しまなければならない。
自分の人生はコントロール可能なのだから、よくないのは自分のせいだという理屈だ。
自己嫌悪に耐えられず親や社会を執念深く恨むものもいるだろう。
この苦しみがコントロール・イリュージョンゆえだとわかれば苦しみは軽減される。
もしかしたらだれがあなたの境遇でもあなたのような人生になったのかもしれないのである。
もし成功者があなた(わたしもここに含まれる)の役を割り当てられていたら、
あなた(わたし)のような凡庸でつまらない人間になっていたとは考えられまいか。

我われは相当にコントロール・イリュージョンに毒されていると考えてみたらどうだろう。
建前として官僚や政治家がなにかをしなければならないのはわかるが、
少子化対策、雇用対策、安全対策、健康対策はコントロール・イリュージョンの産物である。
コントロールできると思うから対策を取るのである。
もしかしたら対策を取らなかったほうがよくなるのかもしれないが、
コントロール・イリュージョンに毒されているがために税金を使ってよけいなことをする。

婚活ブームもコントロール・イリュージョンゆえであろう。
もしかしたら婚活をしなかったら、
好きな趣味の世界でたまたまいい配偶者とめぐりあっていたかもしれないではないか。
しかし、まさしくコントロール・イリュージョンのせいで
努力しなければいい結婚はできないと思い込んでしまう。
だいたい婚活なんてする人は非常にコントロール願望が強いと思うが、
打算的な婚活をするから結婚できないことに苦しまなければならないという面もあろう。
もしかしたら将来はコントロールの範囲内にないのかもしれない。
いままでの過去はコントロールしてきた結果ではないのかもしれない。
だが、なにゆえか、なかなか我われはコントロール・イリュージョンから抜け出せない。
常になにかしていないと落ち着かないし、他人を出し抜こうという邪心を捨てきれない。
老後の不安を考えてコントロール・イリュージョンゆえに株の勉強などをして大損する。
対策を講じればかならずなにかがよくなると盲目的に信じている。
少なくとも対策を行わなかったときよりはよいだろうと錯覚している。
AとBのうちAを選択してしまったら、
もしBの場合どうなっていたかは絶対にわからないにもかかわらず、である。

合理的な選択はかならずしも正解ではない。
合理的な選択とは、統計上確率的にそうしたほうがいいとされる行為のことだ。
しかし、まさに合理的な選択をしたせいで不幸におちいることもありうる。
非合理的な割に合わない選択をしたほうがいい場合もある。
だが、コントロール・イリュージョンゆえに我われはなかなかそう思えない。
人はみなもしもっと人生でなにかをしていたら、
いまよりも人生がよくなっていただろうという錯覚を持つ。
怠惰や無為が嫌われるのはコントロール・イリュージョンのためであろう。
コントロール・イリュージョンのために負け組は苦しみを倍加されている。
コントロール・イリュージョンのせいで勝ち組は謙虚や謙遜を失う。
もしかしたらすべて神の采配ではないかと思えば、
忌まわしきコントロール・イリュージョンから抜け出すことができるのである。
いま不安でたまらないのはもしかしたらコントロール・イリュージョンのせいかもしれない。
常になにかしていないと落ち着かないのはコントロール・イリュージョンのためだろう。

ネットで検索すれば、目的地までの最短経路が出てくる。
これがコントロール可能ということだが、たしかにいまコントロールできるものは多い。
宅配サービスで時間指定がここまでできるのは少し恐ろしいような気もするけれど。
だがしかし、人生に最短経路はあるのだろうか。人生で時間指定はできるのか。
人生は日本の電車や宅配便ほどに正確に運行するものであろうか。
コントロール・イリュージョンは人を幸福にするのか、それとも不幸にするのか。
「すべては神の御心のままに」という古臭い呪文は、
あるいはもっともよく効く精神安定剤や抗うつ剤なのかもしれない。
いきなり東京大学の入試問題よりも難しい問題を発見してしまったのである。
当方いちおう受験経験はあるので東大の難しさはよく知っているが、
これはあんなものは比較にならぬほどの難問と言えよう。
高卒の人からそんなことも知らなかったの? と笑われてしまうかもしれない。
あんがい現役東大生はこの難問の存在に気づいていないかもしれない。
難しい問題を解いて東京大学に入ったような人ほど気づきにくいということもあろう。
いちばん身近なところにほとんど最大と言っていいほどの問題があるのではないか。
その難問とは他人である。
インテリの学者先生は他者(他者性)なんて言葉をさもありがたがって使うのだろう。
他人の気持はわからない。他人がいったいどう思っているのか。
この問題ほど難しいものはそうそうめったにないのではないのだろうか。
他人のことは考えてみればまったくわからない。
なぜ生まれてきたのか、死んだらどうなるのか、よりもはるかに身近な他人がまずわからない。

なにかをしてあげて「ありがとう」と言われても本心かどうかはわからないのである。
尊敬している人から励まされて感動しても、
それは相手がだれにでも口にしているリップサービスかもしれない。
相手が自分をどう思っているかは究極的に理解できないのである。
それは自分の言動における本音を厳密に追求したらだれでもわかるはずだ。
相手の気持を心底から考えたらこちらの心が病んでしまう、
というようなところもなくはないのではないか。
わたしはいままで運よくかなり自分勝手に厚顔に生きてこられたから(反省してまっす)、
たまたま精神科や心療内科のお世話になっていないのかもしれない。

他人の気持はわからない。

この難問に正面から向き合ったら大変なことになるのではないか。
人間だれしも人生で俳優なみの(以上の)演技はするし、お世辞(ウソ)も言うのである。
そうだとしたら、成功者や権力者ほど人の本当の気持がわからなくなるのではないか。
言い換えれば、成功者や権力者ほど彼(女)が繊細ならば人間不信におちいる。
成功者や権力者になると交際する人間が増えるぶん、それだけ孤独が深まるのだろう。
このとき、相手は自分の成功や権威にのみ表面的に敬意を表しているのではないか、
と考えられない鈍感な人間は幸いだ。

ならば、鈍感なほど人間関係で苦しまないのかもしれない。
自分に対しては繊細なくせに、他人には鈍感な東大卒の「戦う哲学者」のような人もいよう。
権威こそ天と地ほどの差だが、わたしも恥ずかしながらこのタイプの人間だと思う。
そうは言っても、他人の気持に敏感なのがいいのかどうかはわからない。
他人の気持を重んじる、いわゆる優しい人ほど生きにくくなるはずだ。
断っておくが、自分は他人よりも優しいと自分で思っている人は、
わたしの人生体験から一方的に判断すると、そうでない可能性がかなり高いだろう。
さあ、原点に戻ろう。他人の気持はわからない。
相手にいくら質問しても本当のことを教えてくれるとは限らないのである。
相手が優しい人ほど本音を隠すだろう。
相手の気持の正解は知りようがないのである。正しい答えは推測するしかない。
いい年をしていまさら気づいたのかとあきれられるかもしれないけれど、
これは身震いするほど恐ろしいことではないだろうか。
たとえば、高級料亭で接待しても相手は高級料亭を嫌いかもしれない。
キャバクラで接待しても(これ、現実にありますか?)相手は同性愛者かもしれない。
同性愛者でなくてもキャバクラ嫌いの人はいるのである。
わたしはたとえ逆にお金をもらってもよく知らない商売女と酒を酌み交わすのは面倒だ。
だが未経験ゆえ、いざ行ってみたら夢中になって借金までして大金をつぎ込むかもしれない。
わたしのことはどうでもよくて、さて問題は、他人の気持はわからない――。
「ありがとう」の本心は「ありがとう」ではないのかもしれない。
偉い先生につきしたがう多くの取りまきや称賛者、および弟子は、
実のところみなみな内心では舌を出しているのかもしれない。

結論。他人の気持はどうしようもなくわからないものである。
大勢が望む成功とはいえ、したらしたで人間不信に苦しむこともなくはない。
いろいろ考えると、わたしのように鈍感で冷たい人のほうが生きやすいところもあるのだろう。
しかし、このことをよくよく考えてみると、
わたしは人生でいままでなんとありがたくも優しい人に恵まれてきたことか。
ご恩返しとして、これからはなるべく他人の気持を尊重するようになりたい。
とはいえ、精神を病むほど相手の顔色をうかがうものではない。
どのみち人はわかりあえぬのだというタフな諦観(ていかん)も必要だろう。
大げさな話だが、相手が死ぬか自分が死ぬかになることもあるのだから。
そして、相手の気持がわからないことで救われていることも結構あるのではないか。
人生、なかなかうまくできているような気がしてならない。
あまり考えすぎないほうがいい、というのはひとつの真理だろう。
以上、恥知らずのおっさんの幼稚な告白、
長文ながら最後までお読みいただき本当にありがとうございます。
ガキだからいいという面も、むろんなくはないのだろうと思う。
「正しい」という言葉は魔ではないかと思うんです。悪魔の魔。魔性の魔。
たとえば「正しい」は「偉い」と等号(イコール)で結ばれます。
どうして「正しい」と「偉い」ことになるのか。
一般的に東大は「偉い」ことになっているからです。医者も弁護士も「偉い」。
難しい問題に「正しい」答えを多く書いたものほど「偉い」ポストに就くわけです。
このため「正しい」ことは「偉い」ことになります。
地位が「偉い」人は自分を「正しい」から「偉い」と思い「正しい」説教をすることでしょう。

また「正しい」は「おかしい」を作ります。
なにもないところから「おかしい」は出てこないのです。
「おかしい」から「おかしい」ということにはなりません。
なにか「正しい」とされるものがあるがために「おかしい」ものが出現します。
これも東大が「偉い」とされるに至ったのと同様に学校教育が関係しています。
選択肢の問題がありますでしょう。次の中から「正しい」答えをひとつ選びなさい。
このとき「正しい」選択肢以外は間違い、すなわち「おかしい」とされます。
先生が「偉い」とされるのは「正しい」答えを知っているからです。
答えを間違えたものは「おかしい」から、
したがって「正しい」答えを出すまで勉強(努力)を強制されます。
「おかしい」ものは「偉い」人から「正しい」答えを何度も教わることでしょう。
「おかしい」人を「正しい」人に変えることは善行、つまり「偉い」行為と見なされます。

「正しい」ことをたくさん知っている人は「偉い」と一般的に思われます。
ひっくり返すと「偉い」人の言っていることは「正しい」と信用されやすい。
「おかしい」人は「偉い」の反対になります。「偉い」の反対とはなんでしょうか。
偉くない、です。言い換えたら、未熟、下等、下賤、野蛮くらいになると思います。
我われは「偉い」人を尊敬します。
ということは必然的に「おかしい」人を軽蔑することになります。
ときに「おかしい」から嫌い、ときに「おかしい」から憎む。
話が飛躍するようですが、戦争が起こる原理はまさにこれであります。
我が国は「正しい」から我われよりも劣る「おかしい」国を攻撃してもよい。
少なくとも我が国は「正しい」から他国よりも「偉い」はずだと考えます。
こう考えると「正しい」という観念が戦争を引き起こしているとも言えるわけです。
自国が「正しい」なら相手国も同様に「正しい」とは思わない。
自分が自分を「正しい」と思うまさにそのように、
相手も相手を「正しい」と思うだろうとは想像できない。
どうしても祖国が「正しい」のなら敵国は「おかしい」と判断してしまいます

どっちも「正しい」と考えられたら戦争は起こらないのです。
対人関係の戦争、つまり言い争いや喧嘩は起こらない。
そうだとしたら、あらゆる不和は「正しい」がもたらすものなのかもしれません。
自分を「正しい」と思うとき、かならず付随して「おかしい」ものが出現してしまう。
「正しい」は「偉い」から、自分は「偉い」のだと思い上がる。
相手は「おかしい」のだから正されなければならないことになる。
もし「正しい」ことがないのだとしたら「おかしい」ものもなくなります。
みんな「正しい」と思えたら「おかしい」人はいなくなります。
同様、みんな「おかしい」と思えたら「正しい」人はいなくなります。
みんな「正しい」、みんな「おかしい」世界ではだれが「偉い」のでしょうか。
しかし、そんな世界は実現しないでしょう。
ひとりが「正しい」ものなどないと思ったところで意味はありません。
相手および周囲が自分(たち)は「正しい」と襲いかかってきたらどうしようもない。
よく自己啓発本には自分が折れたら相手も折れるなどと書いてありますが、
あれは理想論ではないでしょうか。
こちらが「おかしい」ことを認めてしまったら、
相手は徹底的に「正しい」攻撃を加えてくるのが現実というものです。
勝った、勝った、大勝利、大勝利と相手は喝采を上げることでしょう。
自分(たち)も「おかしい」と謙虚に認めることはまずない。
それどころかおまえは「おかしい」のだから謙虚になれと言ってくるかもしれません。

1.「正しい」=「偉い」→「おかしい」
2.「正義感」=「自己愛」→「大勝利」
3.「正義」=「高貴」→「被差別者」


上記の1は納得できても2、3のご同意はなかなか得られないかもしれません。
あるいは頭脳優秀な方は1から数多くの同型パターンを発見なさるかもしれません。
みんな「正しい」、みんな「おかしい」、
したがってみんながみんな「偉い」ような世界はおそらく今生には出現しないのでしょう。
このため、むかしの仏教者は極楽浄土を考え出したのかもしれません。
娑婆(しゃば)では、ほとんどだれもが他人よりも「偉い」立場にあこがれる。
「おれは間違っちゃいない」「おまえはおかしい」の怒号が飛び交う。
すべての元凶は「正しい」にあるのでしょうが、そうとわかってもどうしようもない。
「正しい」というのは人間が持って生まれた業(ごう)のようなものなのでしょう。
人生というものは選択の連続であるといえましょう。
就職や離職、結婚や離婚のみならず、毎日の小さな行為でさえ選択の結果であります。
いったい我われはどういう選択基準で行動を決めているのでしょうか。
1.損か得か?
2.苦か楽か?
3.いいか悪いか?
おおよそ、この3つが選択基準になっているのではないかと思います。

たとえば、就職(転職)の場合、こうなります。
1.給料はいくらか?(損得)
2.残業はどの程度か? 有給は取れるのか? ストレス具合は?(苦楽)
3.その会社は有名か? 大企業か、中小企業か?(善悪=世間体)

いま流行っているらしい婚活も同様のようです(女子目線)。
1.相手の年収はいくらか? 貯金はあるのか?(損得)
2.親と同居か? 家族におかしいのはいないか?(苦楽)
3.相手の顔・性格の善し悪しはどうか? 職業はなにか?(善悪=世間体)

ランチの飲食店を決めるのもおなじでしょうね。
1.安いか高いか?(損得)
2.行列するのか? 混み具合は? 待ち時間は?(苦楽)
3.その店の評判はどうか? ガイドブックに載っているか?(善悪=世間体)

世の中そんなものだろう、とみなさんはおっしゃるかもしれません。
さらにこうお怒りになるかもしれません。
なら、いったいほかにどのような選択基準があるというのだ?
損得(自我)、苦楽(自我)、善悪(世間体)を超える基準などあるのか?
「おもしろそうか/つまらなそうか」という選択基準があるではありませんか!
損得、苦楽、善悪(世間体)にとらわれず、おもしろそうだからやってみよう!
就職:給料は安いし、きつそうだし、人にいえない仕事でもおもしろそうだから。
結婚:相手はフリーターで借金があり、顔もよくなく友人には自慢できないけれども。
飲食店:ネットの評判が悪く、メニューもなくガラガラだけど、なぜか気になるから。

はい、わかります。なかなかこういう選択はできません。
どうしても「おもしろそうかどうか?」
よりも損得、苦楽、善悪(評判)のほうが選択基準として勝ってしまいます。
本当は長い目で見たら損得、苦楽、善悪はわからないのですが、
我われはどうしても「おもしろそうかどうか?」では決められません。

大企業に入社後うつ病になったり、あるいはリストラされることもある。
金持でイケメンの次男と結婚しても、相手が破産、病気発症で介護生活になることもある。
評判の高い有名レストランに行っても一見さんは後回しにされることもないとはいえない。
しかし、そうとわかっていても、どれほどあたまで理解していたとしても、
哀しいかな、我われは見かけの損得、苦楽、善悪からなかなか逃れることができません。
「おもしろそうかどうか?」で選択することがどうにもできない。

これはどうしてなのでしょうか?
たぶん我われは自分が「なにをおもしろいと思うか?」をよく知っていないからです。
自分を知らないから、世間のいう損得、苦楽、善悪に振り回されてしまう。
「おもしろいかどうか?」は多少飛躍すると「好きか嫌いか」ではないでしょうか?
損得よりも苦楽よりも善悪(世間体)よりも自分の「好き嫌い」にこだわれるか?
かんたんにはできないことだと思います。
まず己事究明(こじきゅうめい)――自分をよく知らなければなりません。
それから無我(むが)――我(損得、苦楽、善悪)をある程度無くす覚悟が必要です。

このため、恋愛はすばらしいのではないでしょうか?
損得、苦楽、善悪(世間体)を振り捨てて、相手のために尽くしたいと思う(無我)。
朴念仁の野暮天なのでよくわかりませんが、「愛されたい」は恋愛ではないような気がします。
もしかしたら究極の恋愛は片想いではないでしょうか?
さて、恋愛のみならず見返りを求めず対象をどれほど好きになれるか?
もし人が損得、苦楽、善悪(世間体)を超えられるとしたら、
それは「好き」しかないように思うのであります。
反対は比較的理解されやすいのではないでしょうか?
得だけれど嫌いだからやらない。楽そうだけどあれは嫌い。顔がよくてもあいつは嫌い。
いやいや、やはり得・楽・善(世間体)を選んでしまうのが我われかもしれません。

いったいどのくらい「好き=これを自分はおもしろいと思う」に忠実になれるか?
これがありきたりではない自分だけの人生を送るために重要な選択基準だと思います。
もっともよくよく知っておく必要があることは「好き嫌い」などにこだわっていると、
人生で大きな損失を出し、毎日苦しいことばかりで、評判も最悪になる可能性が高いです。
しかし、それでもそれはほかにないあなただけの人生であることでしょう。
さらにいえば、人生では損が得になること、苦が楽になること、悪が善になること、
以上の3つはまったく起こらないというわけでもないような気がなにやらします。
なぜなら、世間も自分も時間経過とともに変化していくからでしょう。
人間は相対的存在(絶対ではない)で世の中は無常であります。
このため損得、苦楽、善悪(評価)はがらりと変わることがなくはないのです。
もちろん、自分の「好き嫌い」も変わっていくことでしょう。

そうなるといったいなにを人生の選択基準にしたらいいのでしょうかね。
「わからない」というのが本当の答えなのかもしれません。
よしんば選択基準がさっぱり我われ人間には知りえないのだとしたら、
どうしたらいいのでしょうか?
まず、あいまいなまま自然に任すという方法があるでしょう。
しかし、ときに最終的な選択を迫られることがあります。
最終的選択とは「賭ける」ことに等しい。「賭ける」しかなくなる。
そのときなにに「賭ける」かです。損得、苦楽、善悪(世間体)、好き嫌い――。
賢明なみなさんはおわかりでしょうが、このとき正解はありません。
表現を換えますと、どの選択肢も正解ということになるでしょう。
どの選択肢を選んでも正解で、同時に不正解なのが人生の「賭け」であります。

とはいえ得・楽・善を選択するのは、あまり「賭け」にはなりません。
どうしてかというとみんな(多数派)がそちらを選ぶからです。
そうなると「賭ける」のが好きか嫌いかという、
「好き嫌い」の問題に結局のところ帰着してしまうのかもしれません。
怖いところは人生のいっときの選択が成功だったか失敗だったかは(かりにあるとして)、
最後まで(死ぬまで)人間にはわからないことです。
死んだあとに結論が出ることもありますから、こうなると本当にわかりません。
ならば、「人生はわからない」ことを心底わかるのが、本物の賢者ということでしょうか?
これに関してはいろいろな考えがあるだろうし、
それぞれがそれぞれに正しいとも思うのだが、
わたし個人としては人生に目標などなくてもいいのではないかという立場だ。
まあ、生きていたらいいのではないか。
さらには、どうしようもなくなったら死んでもいいのではないかとさえ思っている。
こちらは未熟な人生体験しか持っていないけれど、もしかしたら「死んじゃいけない」
なんて訳知り顔で言う人は本当の不幸を知らないだけなのかもしれない。
自殺否定者はたまたまいま恵まれているから、そう言えるだけなのかもしれない。
もちろん、違うかもしれないし、それはわからない。
しかし、たとえば自殺したノーベル賞作家の川端康成は、
過去に「自殺は格好悪い」というような文章を書いていることを最近知った。

人生は目標を設定して、その目標をかなえるために努力するのが幸福だ、
と考える人がいる。むろん、間違っていない。
ただし、絶対の唯一解というわけでもない。
人生に目標なんか設定するから不幸になる、という見方も可能である。
出世や成功を目標にすると、目標がかなっていない毎日を不満に思うことだろう。
そのうえ長生きすれば大半の人がわかるはずだが(一生この真実から目を覆うのもいいが)、
努力すれば絶対に出世や成功ができるというほど人生は甘くない。
かりそめ出世したとしても上には上がいるのである。
さらに上を目標に設定するのもいいが、そうすると心休まるときがないではないか。
いったん成功してもまだ人生は続くのである。
成功を維持するのがどれほど大変か、成功とは縁のない大多数は思いが至らない。
そして、ひとたび落ち目になったらどれほど世間は過去の成功者に冷たいか、もである。

目標に到達すればいいのかどうかも実のところわからない。
究極の目標がかなってしまったら、
あとは死ぬしかないというようなところが人生にはある。
目標を低めに設定したらどうか。たとえば、独身者は結婚を目標にしたらどうか。
まあ、結婚はするまでが華のような気もするが、一理ある考え方である。
しかし、求めれば求めるほど目標は遠ざかっていくというところが人生にはないか。
がつがつ婚活をしていると、かえってご縁は遠ざかっていくものである。
どんどん気持はささくれ立ち、豊かになるのは婚活業者の懐だけ、というのが実際では?
努力して異性に気に入られるよう変身しても、どうせ結婚したら化けの皮が剥がれるぞ。

NHKで「ご縁ハンター」というテレビドラマが放送されていたが、
ご縁は捕まえるものではなく、
むしろ反対に、ご縁とは人間が捕まってしまうものなのかもしれない。
あんがい「結婚なんてどうでもいい」と思っていたほうが、
ご縁に恵まれるという可能性は考えられないだろうか。
まあ、思うようにならないのが人生なのである。
結婚しても、つぎは子づくり。
そのつぎは幼児教育、受験、有名私学、成績優秀……と一流企業就職まで目標に切りがない。
息つく暇もないではないか。
かりに子どもがドロップアウトしてしまったら、不幸のどん底になってしまう。
もとから目標が元気に生きていていくれたらいい、ならどんなに気が楽か。
そして、子どもが健康でいるというだけでも実はたいそう恵まれたことなのである。

さて、我われの人生は「目標→達成」の無限ループを課せられてきた、とも言いうる。
目標を持て。その目標をかなえるための努力をせよ。
目標がかなわないのは努力が足らないせいだから、もっと努力せよ。
ひとたび目標に到達したら、もっと上の目標を設定して、
いいか、さらなる高みを目指して努力せよ。もっと、もっとだ。もっと上へ行け。
しかし、どこまで高みに登ろうが結局は死ぬのである。
そんな努力ばかりしていて、果たして一回きりの人生を楽しんだと言えるだろうか。
だがしかし、人生の楽しみ方を知らない人が大勢いるのである。
努力するのが楽しいという優良納税者がわが国には思いのほか多いような気がする。
彼(女)らは目標がなくなってしまったら、
なにをしたらいいかわからなくなってしまうのではないか。
たしかに目標はあったほうがいいのだろう。
結婚や子育て、長生きなどは、なにをしたらいいかわからない人たちのための、
なかなかうまくできた目標ではないかと思う。
とはいえ、だれもが結婚できるわけではない。長生きに興味がない変わり者もいるだろう。

いまわたしは人生の目標のようなものがない。
たしかに人並み(以上?)の欲はあるけれど、それは欲望であって目標ではない。
しかし、人生に目標があるのもまたいいではないか、と最近考えを改めたのである。
そうはいっても、出世や成功を目標にしたら、
人一倍(本当は百倍かな)嫉妬深いわたしは苦しみが増すだけのような気がする。
ならば、人生の目標をこうしたらいいのではないかと思いついたのである。
「身の程を知る」を人生の目標にしたらどうだろうか。
「身の程を知る」ために生きる。「身の程を知る」ためにときには努力しよう。
なかなか悪くないと思うのである。
なによりいいのは、この目標は死ぬまで掲げることが可能だ。
身の程や身の丈はいくら鏡を見ても見えず、結局は生きていくしか知りようがない。
だから、「身の程を知るために生きる」は「生きるために生きる」とほぼ同義である。