この1ヶ月近く不穏な沈黙を続けていたのは、文字通り言葉が見つからなかったからである。
ようやく言葉を発見した。
My fate cries out
「ハムレット」1幕4場にあるセリフだ。父の亡霊を見たハムレットが口にする。
もちろん、英語で思いついたわけではない。
福田恆存氏の訳したセリフからたどり着いたのである。日本語訳を覚えていた。
「おのれの宿命がはじめて目をさましたのだ」
原文はなんと書いてあるのかを調べて、「My fate cries out」に到達した。
「My fate cries out」と言えば、おさまりがつく。
いま言うべきセリフは「My fate cries out」である。
他人に言うべきセリフはなにもない。
ただ「Your fate cries out」と思っていればいいのだろう。
そう信じるしかないのだろう。
ちなみに、福田恆存氏以外は「My fate cries out」をどう訳しているか。
「我宿命の促す所ぢゃ」(坪内逍遥訳)
「おれの運命が呼んでいる」(木下順二訳)
「おれの運命が呼んでいるのだ」(小田島雄志訳)
「俺の運命が呼んでいる」(松岡和子訳)
「おれの運命が呼んでいる」(野島秀勝訳)
「俺の運命が叫ぶのだ」(河合祥一郎訳)
「My fate cries out」を「おのれの宿命がはじめて目をさましたのだ」と訳せるのが、
福田恆存氏の天才たるゆえんなのだろう。
原文を直訳すれば、「俺の運命が叫ぶのだ」がいちばん正しい。
大学受験英語では「fate」は運命、「cry out」は叫ぶ、だからである。
しかし、「俺の運命が叫ぶ」と言われても、なんのことだかわからない。
河合氏以外はみなおなじで「おれの運命が呼んでいる」だ。
だが、これも意味がわからない。
運命は人を呼んだり、呼ばれたりするものではない。
坪内逍遥氏のみ「fate」を運命ではなく宿命と読む日本文学能力を持っていた。
「おのれの宿命がはじめて目をさましたのだ」という福田氏の訳はすごい。
これを大学入試でやったら間違いなくバツを食らうからである。
「cry out」には「目をさます」などという意味はない。
「はじめて」という訳語はどこから持ってきたのだろう。
世の英文学者がどうして福田恆存氏をああも無視するのかようやく理解した。
学者から見たら福田氏のあれは誤訳になってしまうはずである。
もちろん、わたしは福田恆存さんの訳を強く支持している。
「My fate cries out」――。
「おのれの宿命がはじめて目をさましたのだ」――。
答えはひとつなのか。大学入試の正解はひとつだが、むろん人生はそうではない。
たとえば、青臭い問題に「人はなぜ生きるのか?」というものがある。
正解はないのだが、正解があると思っている人は多い。
自分は正解を知っていると驕(おご)るものも少なくない。
(たとえば幸福、愛、家族、友、夢、女、肉欲、酒、美食、快楽、地位、名誉、賞賛、金)。
それぞれに答えがあっていい。自分の答えを見つければいい。
このように説くのは河合隼雄氏である。
いちおう書いておくと、河合隼雄さんの答えは、「なぜなしに生きる」らしい。
いまのところわたしの答えは「死ぬために生きる」になろうか。
人は「死ぬために生きる」。わたしは「死ぬために生きる」。
このたび「My fate cries out」というセリフを知ったが、
おなじように人生でぜひとも言いたいセリフがある。
人生の最後にこれを言いたいから生きているような気がする。
「平家物語」の平知盛のセリフ。
「見るべきほどの事をば見つ」
知盛は死ぬまえに「ぜんぶ見てやったぞ」と言うのである。
おのれの宿命をすみずみまでもらさず「見るべきほどの事をば見つ」。
人生は生きてみないとわからない。死なないと人生の全体はわからない。
だから、死ぬまえの「見るべきほどの事をば見つ」なのである。
さて、「My fate cries out」に続くセリフはどうなっているか。
父の亡霊と対面したハムレットのセリフである。
「My fate cries out,
And makes each petty artery in this body
As hardy as the Nemean lion's nerve.」
ああ、懐かしい。「SVOC」と比較級ではないか!
福田恆存氏の訳を書いておく。
「おのれの宿命がはじめて目をさましたのだ。
体内の血管は力に満ち溢れ、ニミニアの獅子の筋のごとく、
それ、このように張りつめている」
ハムレットは「My fate cries out」を言うことで元気になっているのである。
文法的には「My fate」が「artery(血管)」を「hardy(頑丈、勇敢)」にした。
ハムレットは宿命をしかと認識することによって生きる張りを取り戻している。
まずは「My fate」を運命ではなく宿命と読み取ることだ。
わたしも「My fate cries out」を言ったからあとは元気になるだけである。
「見るべきほどの事をば見つ」をいつか言う日まで。
にやにや笑いながら、「本の山」に書いてあることは嘘でしょ?
と聞かれたら、わたしは大真面目にあれは本当だと強調するだろう。
ときには絶対に本当のことだと怒った顔さえ見せるかもしれない。
逆に心配するように真剣な顔で、あれ本当なんですか?
と問われたら、今度はにこにこしながら、いえいえぜんぶ嘘ですと答えると思う。
実のところ嘘は本当から作られるのである。
原材料=本当だけでも、真っ赤な嘘を仕立て上げることができる。
たとえば、本当のことしか書かれていない文章があるとする。
さあ、これは本当に本当といえるのか。
答えは、ノーでいえない。
なぜなら、書き手はまだ本当のことを隠しているかもしれないからだ。
彼(女)は書くべき本当のことをチョイスしているではないか。
意図的にある本当のことを書かないことから嘘が生まれるのである。
たとえば、ある女性のブログ。
記事は日記が多く、すべて本当のことが書かれている。
一見するとふつうのOLさんである。
しかし、彼女は弟が刑務所に服役していることを書いていないとする。
弟は姉をレイプした男を殺めてしまった。
このとき彼女はブログに嘘ばかり書いているという意識を持つはずである。
ブログになんか本当のことを書いていない。
あんなのは嘘ばかりだと。
ちょっとわかりにくかったかな。
自分の例で説明するとわかりやすいのだけれど、それは書けないことだから。
はっきりいって書けないことが山ほどある確率0.01%の人生を生きているわけで。
男性読者をがっかりさせるといけないからこれは隠しておきたいが、
わたしがしきりにしているもてないアピールってどこか嘘臭くないですか?
いやいや、本当にもてないですよ。
今年もバレンタインはチョコをひとつももらえなかったし。
ううん、うまく説明できないな。
新聞やテレビなんかもそうでしょう?
あれはすべて本当に起こったことを報道しているわけである。
けれども、本当に本当かといったらむろんそうではない。
本当に起こったことでも報道していない(報道できない)ことがあるのだから。
ネットの普及で新聞もテレビも嘘だというのが、いま徐々にばれはじめているところだ。
なにがいいたいのか。
本当のことしか書いていなくても、嘘をつくことはできるのである。
もっといってしまえば、本当に本当のことなどこの世にあるのか。
過激なことをいえば、もしやすべてが嘘ではないか。
ネットをきっかけに知り合った人にまず行なうのは、
「本の山」に書いてあることはすべて嘘なんですよ、と白状することである。
本当はもっと幸福である。本当はもっと不幸である。
でもさ、リアル友人から、アハ、どうせあれも嘘なんでしょ?
みたいなことをいわれると、怒ったふりをして、あれもこれも本当だと強調するのである。
「本の山」には本当のことしか書いていません!
新年の抱負はとくにない。目標みたいなものもない。
そういうのを作ってしまうと、逆に縛られて身動きできないようになるから。
そりゃあ出世したいけれど、どう考えても無理っしょ?
しかしまあ、新年に際して思うのは、よくこの歳まで生きてたってことだな。
結局、死ななかったし、死ねなかったようだ。
まさかこんなに長生きするとはいまでもちょっと信じられないところがある。
失われた10年とかいうけれど、
気づけば人間にとっていちばんたいせつな時期の10年を空白に過ごしてしまった。
そして、その10年はもうどうしたところで取り返しがつかない。
ああ、人生ってこういうものだったのか、と哀しくも知るにいたった。
今年、意識していきたいのは「快楽の秘訣は抑制」ということだ。
節酒を目標にあげるとウソ臭くなるけれど、目的が快楽なら偽善にはならない。
どういうことかというと、酒をうまくのむコツは酒をのまないことにある。
飲酒というのは、酔うのが楽しいわけである。
どうしたらいい気分で酔えるかといったら禁酒するにかぎるのだ。
禁酒したあとにのむ酒ほど酔いを強く意識するものはない。
これはなんにでも当てはまるのだろう。「快楽の秘訣は抑制」――。
毎日ご馳走を食べていたら美食に慣れてしまってかえって快楽からは遠ざかる。
映画なんかもそうじゃないかな。
ブラック会社に勤めて仕事漬けの毎日を送っている人がいたとする。
彼(女)が久しぶりの休日に映画館に行ったら、
どんな安っぽい作品にでも感動するのではないか。小説もおなじ原理が働く。
だから、考えようによってはいまは相対的に不幸な時代なのだろう。
というのも、もう新しいのはいらないというほど映画も小説もあふれているのだから。
古本屋をあちこち探し回って見つけた本を読む喜びにかなうものはないのである。
感動したかったら人より多く辛抱しなければならない。
話を大きくすると、たぶん人生もおなじなのだろう。
実のところ、不幸な人間ほど幸福に近いのかもしれない。
生まれたときからあらゆるものに恵まれた人は、
逆に人や物のありがたみがわからないと思う。
友人が多い人間は、かえって人のたいせつさに気がつかないのである。
反対に友人どころか知人さえいない孤独を5年も6年も味わった人はどうか。
もしひとりでも友人ができたら彼(女)は深く満足することだろう。
女のありがたみをいちばん理解できるのは、もてない男なのである。
報われない時代が長いほど小さな出世にも大喜びすることができる。
20そこそこで脚光を浴びてしまうのは長い目で見たらとても不幸なことなのかもしれない。
幸福な人はそれが当たり前だと思っているから、かえって自分の幸福に気がつかない。
これが家族に目の前で自殺されたような不幸な人だったらどうだろう。
世は無常だから年々周囲も自分も変化していく。
いやだといっても不幸から遠ざかっていかなければならないのである。
果たして彼の目に12年後の世界はどう映るのか――。
うん、今年のテーマは辛抱だな。辛抱しよう。
書いているうちに気づいたのだが、おそらく感動の秘訣は辛抱なのだろうから。
幸福になるために必要なのは不幸であるのとおなじことである。
プラスはマイナスがあるがゆえにプラスとして意識されうる。
プラスばかりだとむしろプラスに気がつかない。マイナスがいかにありがたいか。
ようし、今年は辛抱の年にしよう。感動のための辛抱だ。
いよいよ冬本番ですね。あん肝、白子、酒呑みには最高のシーズン。
あん肝は近所にたまに売りに出すスーパーがあって、見つけたときはホクホクです。
ひそかに日本最高の酒肴はあん肝ポン酢ではないかと思っていたりします。
日本の冬は寒い。
小さな子どもに「どうして寒いの?」と聞かれたら、
「冬だから」としか答えようのない気がします。
冬だから寒い――。
どうやら人生にも春夏秋冬があるようです。
こちら人生の四季は、自然の四季ほどサイクルが一定ではありません。
ほとんどの人にとって冬が圧倒的に長く、春夏秋はあっという間ではないでしょうか。
春が来たと思ったらすぐに夏になり、というかそれは夏のような秋で、
気づくとまた冬に戻ってしまう。
人生、うまくいかないのが当たり前。
少数の例外を除き、だれにとっても冬がいちばん長いのです。
人生とは、春を待つ冬のようなもの、と定義しても過言ではないのでしょう。
人生の冬にも「どうして寒いの?」と嘆くものが大勢出ます。
自然の冬の場合、答えは「冬だから」しかありません。
しかし、人生の冬のときには、いろいろな理由が原因として断罪されます。
たとえば、落葉したから。
葉が散った「から」寒いという因果関係は成り立ちませんよね。
でも、人生の場合、こういう珍説が大手を振ってまかり通ってしまいます。
落ち葉を緑に着色して接着剤で樹木にはりつけ、
「これで夏にならないのはおかしい」と怒っている人がなぜか脚光を浴びるのですから。
たぶん人生の冬における「どうして?」の答えも「冬だから」しかないのでしょう。
だとしたら「どうして寒いの?」と原因を考えるのはやめたほうがいいのです。
なぜなら「どうして?」を考えれば考えるほど人は寒さを意識しますから。
「冬だから寒い」と割り切っていたら、
あんがい問題なく人生の冬も乗り切れるのではないでしょうか。
肝心なのは人生において「どうして?」を減らすことなのでしょう。
原因らしきものが見つかっても、十中八九、その原因はインチキ。
かえって人生の厳しい寒さを思い知らされるだけです。
「冬は寒いもの」と諦観していたら、どれほど人生が過ごしやすくなることか。
これは自戒をたっぷり込めていますが、「どうして?」をやめたいものです。
どうして不幸なのか? どうして苦しまなければならないのか?
答えは、おそらく「冬だから」のようなものなのでしょう。
すると「どうしたらいいか?」の問いも無意味だとわかります。
冬の寒いときにどうしたらいいかと悩んでも、答えは「春を待つ」しかないのです。
「どうして?」も「どうしたら?」もいさぎよく捨ててしまう。
原因を考えないようにする。
人生の寒さを乗り越えるひとつの智恵だと思います。
かんたんなことなのです。
冬に桜は咲かない。
いくら子づくりといっても、赤ん坊はつくるものではなく、産まれてくるもの。
冬が寒いのは致し方ないこと。
可能ならば、「どうして寒いの?」とあまり人生に不平を言わないようにしたいものです。
冬には冬を味わうしかないのですから。
あん肝や白子をつまみに日本酒の熱燗でものみながら冬の寒さに感謝したいところ。
感謝は大げさでした。
おそらく「どうしてあん肝はおいしいの?」と問うても答えはないのでしょう。
あん肝が嫌いな人もたくさんいます。
なるべくなら「どうして?」(=原因)を考えないようになったら、と自己を戒めてみました。
原因を考えないこと!
(いちばんわかりやすい例は、今年の大震災大津波の原因なんてないですよね……)
10年以上長らく不眠症でごくたまに熟睡できるとこんな幸福なことはないと思う。
だから、もし死がハムレットの語るように永遠の眠りであるならば、
こんな幸いが最後に訪れる人生はなんてすばらしい道のりではないかと言いたくなる。
それほど、寝るのは不得意である。自然にうまく寝ることができない。
けれども、寝かすのはこの10年で少しずつうまくなったのではないか。
現にいまも20冊以上読んだ本の感想を書かないで寝かせている。
寝かすというのは、つまりなにもしないということなのである。
長いことだれも読まぬ読書感想文をブログに公開してきたが、
本の感想はなるべくなら読んでからすぐには書かないほうがいいような気がする。
これは人によって流儀があるので、むろん絶対的に正しいというわけではない。
言うなれば、わたしの作法である。あえて寝かす。
いったん内容を忘れてしまうのが、寝かすことのメリットかもしれない。
書籍の重要部分はメモしてあるから、感想文を書く際にそこだけ再読するわけだ。
このタイムラグが新たな発見に結びつくのかもしれない。
感想文を書いていてなにより楽しいのは自分だけの発見をしたときである。
これは読書の喜びでもあろう。新たな発見をする。
話は大げさになるが、わたしは生きる喜びも新しい発見にあるのだと思う。
ふうむ、人生とはこういうものだったのかと発見するのがとても楽しい。
この愉楽を象徴的に味わえるのが、あるいは創作なのかもしれない。
寝かすという方法は読書以外でもいろいろと使えるのではないかと思っている。
たとえば返事である。
極端なことを言えば手紙の返事は、いくら後になってもいいのである。
何ヶ月後でも1年後でも構わない。
わたしも10年近くお返事を書けないでいる手紙があるような気がする。
これが寝かすということなのだ。
メールは媒体上、なるべく早い返信を求められているが、
この常識に反して少しばかり返事を遅らせているといい意味での変化があるのではないか。
あんがいメールこそ意識して寝かせてから返事を書くものなのかもしれない。
感情が昂ぶった状態でメールを書いて失敗したことのある人は多いだろう。
もちろん、これは私信の話でビジネスでなら寝かすなどとは言っていられない。
寝かすという方法は、かなりの問題に思ったよりも有効なのかもしれない。
問題が生じたときに、我われは対策を素早く考えて解決しようとする。
しかし、難しい問題になると対策でさえ思いつかないことがある。
もっと根源的な深い問題になると、対策手段が逆に事態を悪化させることがある。
そのくらいならよほど寝かせておいたほうがいいということになる。
だが、我われは問題が起きているのになにもしないことに耐えられない。
ここで考え方の転換が求められているのだろう。
すなわち、なにもしていないのではなく、あえて寝かせているのだと考える方法だ。
無為だと不安になるが、おなじことを、
計画的に寝かせているのだと思えばいくらか気が楽になるのではないか。
ワインのことはよくわからないが、ウイスキーをうまくするには寝かせるしかないのだ。
(ブレンデッド=組み合わせもたしかにあるけど、そう重箱の隅をつつかないでおくれよ)
チーズの知識も自信がないが、なんでも熟成という方法があるのでしょう?
熟成とは、つまり寝かすということではないだろうか。
人生での問題(=不幸、災難、苦悩)にも寝かすという対処法がきっとあるはずだ。
なんのことはない、明日考えようと布団をかぶって寝てしまうのである。
翌日にも解決しなかったらどうしたらいいか? なーに、また寝てしまえばいいのだ。
1日眠れば解決する問題もけっこう多いのではないかと思う。
最近、山田太一さんが講演会やラジオ番組でよく言っているが、
「死にたい」というレベルの難問でも1日眠ればあんがいどうでもよくなるものだ。
これは経験から納得せざるをえない。
そのためにならたとえお酒や睡眠薬の世話になっても、
まあ構わないのではないかとわたしは思う。
なかには10年ものあいだ寝るを繰り返さないとよくならない問題もあろう。
数十年寝かさないとどうにもならない問題もあるはずだ。
残念ながら人生には一生改善しない問題もあるだろうが、これは極めてまれだと思いたい。
したがって、不眠症は非常に困るのだが、こう考えたらどうだろうか。
寝よう、寝ようとしないで、身体を寝かすことを目的にしたら少しはよくならないか。
布団に横たわるだけで、寝かせていると満足してしまうやり方だ。
ここ数日禁酒しながらわたしが身をもって試していることである。
(追記)これは夢想だが、抱えている苦悩が(ウイスキーのように)寝かせているうちに、
たとえようもない美味に変質しているようなことがあったらどんなに人生はすばらしいか。
こういった人生の事例を上質な嘘として書くのがすぐれた大衆小説家なのかもしれない。
ままならぬ現実を生きる我われは、どれほどうまい嘘に騙されたいと願っていることか!
ひとつまえの記事で新興宗教、自己啓発セミナー、創作スクールに触れたが、
勘違いされては困る。決して批判しているわけではないのである。
どのみち人間はなにかしらで自分を騙しながら生きていくほかない。
新興宗教や自己啓発セミナーに救われるのもたいへん結構だと思う。
平均寿命80歳の長い人生なのだから、
そのうち数年を創作スクールで暇つぶしするのもあんがい有意義なのかもしれない。
なにが正しくて、なにが本当なのか人間は究極的には知りえない。
あるいは、ある新興宗教の教義がたったひとつの真実ということもありうるのである。
少なくとも信者さんはそう思っているわけでしょう?
死ぬまで信仰を続けられるのなら、
新興宗教に入信するのが最上の生き方なのかもしれない。
仲間がいるというのはなにより心強い。
そのうえ死への不安までなくなるのなら、
いくら高い金を払っても惜しくはないのではなかろうか。
金があるなら自己啓発セミナーもとても効果的だと思う。
半年に一度元気をもらえるのなら百万くらい安いというビジネスパーソンも大勢いるはずだ。
生きていくのなら、なにかで自分を騙していくしかないのだろう。
いつかいいことがある、と自分を騙して生きている人は結構多いのではないか。
いつか素敵な異性が現われ自分を好いてくれると信じているのもいいと思う。
ことさら現われなくてもいいのである。ぜんぜん構わない。
死ぬまでそう信じていれば(=自分を騙していたら)絶望せずに生きられる。
これは「もてない男」におすすめの生き方だ。
元祖「もてない男」の小谷野敦さんは人もうらやむ売れっ子ライターで、
なおかつ東大卒のお美しい若奥さままでお持ちなのに(フェミよ怒るな!)、
「自分は正直者のため不遇である」と信じて生きておられる。
ああいう自分の騙し方もあるのである。ふつうとは逆の騙し方だ。
たぶん、そう信じていたほうが生きていくファイトがわいてくるのだろう。
ならば、それは妄想ではない。これまた正しい生き方のひとつである。
他人のことばかり言うのは卑怯なので迷惑かもしれないが自分語りをすると、
わたしは自分を遅咲きなのだろうと騙しながら生きている(苦笑)。
大酒呑みだから、もしかしたら40で死んでしまうことがないともいえない。
このとき、たとえ成功とは無縁でも自分は遅咲きなのだと絶命まで信じていたら幸いだ。
正しいひとつだけの現実なんて、もしかしたらどこにもないのかもしれない。
それぞれの騙し方があってよい。
そのうち多数派をしめる幻想(妄想)を、我われは現実と仮定しているのだろう。
わたしは「人生は運」だと思って生きている。
おのれの星回りを確かめたいから死なないでいるようなところがある。
運の行く末を見てみたいのだ。
人生でなにが起こるかすべてあらかじめ決まっているのではないか、
とさえ正直に白状するとどこかで思っている。
しかし、「人生は努力」だと信じて生きているほうがおそらく多数派だろう。
少数派は多数派から「もっとがんばれ!」「努力しろよ!」と攻撃される。
ときおり多数派のなかからうつ病になるものが現われる。
少数派は心中でこっそりザマアミロと思ったりするかもしれない。
「人生は運」「人生は努力」のどちらが正しいのかはわからない。
きっとどちらも正解でどちらも不正解なのだろう。
要はどちらで自分を騙すかである。
失敗したときには「人生は運」、うまくいったときには「人生は努力」。
こういう使い分けをしても、むろん構わない。
イエス、釈迦、法然、親鸞、日蓮、道元、一遍といった宗教上の偉人は、
まず自分を騙すことから始めたのである。
自分をも騙せないような教えで他人を騙せるものか!
彼らは自分を騙すのが天才的にうまかったのだ。
どう自分を騙したらデタラメな――
つまり理不尽で不平等極まりない人生を破綻なく生きられるか。
これがおそらく信仰なるものの始原であろう。
強力な詐欺方法を思いついたものが、教団の教祖になったのではないかと思われる。
そのためには狂人のようにこれが絶対に正しいとまず信じ込む必要があった。
キリスト教の死後の裁きなんたらは、言ってしまえば狂人の妄想に過ぎない。
しかし、多くの人間が信じたから世界宗教になったのである。
死後の裁きが正しいのかどうかはわからない。もしかしたら正しいのかもしれない。
おなじくらいに、お題目をとなえたら夢がかなうというのも正しい。
他者を巻き込むほど強く信じたら本当に夢がかなうことも結構あるのではないか。
100%ではないだろうが、100%と信じ込む熱狂は絶対に必要だ。
たとえ報われずに死んだとしても、
最期まで南無妙法蓮華経と口にしていたら幸福だろう。
それほど悪い生き方ではないと思う。
どの宗教が正しいかはわからない。
わからなくても人間は信じることができる。信じるとは、賭けることだ。
生きるとは、賭けることなのだろう。
踊り念仏の一遍上人は「信じるとは、人の言葉に任すこと」と言っている。
だれの言葉に任すかは人それぞれである。
なにを信じてもいい。どこに賭けてもいい。おそらく、どう生きてもいいのだろう。
これはだれかへのメッセージではなく自戒なのだが、夢の奴隷にだけはなりたくない。
夢というのは、そもそもかなわないものである。
むしろ、かなわないことそのことに、
強調するがまさにその部分に夢の意義があるとさえ言ってもいいのではないか。
いったい夢がかなう人というのはどのくらいいるのだろう。
夢は人によってさまざまだから正確な統計は取れない。
なかには結婚や正規雇用が夢というまっとうな常識人もいるのだろうが、
さすがにこれはカウントしないことにする。
老人に聞いてみたらどうなるだろう? むかしのあなたの夢はかないましたか?
だれに聞いても夢などかなわなかったと言われるのではないかと思う。
夢に向かってアクション(努力とは言いたくない)していると、
夢とは異なる形で人生が開かれることがたまさかある、というのが実際なのだろう。
願っていた夢の通りにはならなかったけれども、ある地点に到達してしまった。
行きたかったところとは違う場所に着いてしまったが、まあ、そこも悪くない。
なぜならまさにその場所を目的地(=夢)にしている人が大勢いるのだから――。
これで不満を言ったら申し訳ない、と老いた彼(女)は思う。
そのほどんどがかなわない夢の、実効的な面があるとすればこのくらいだろう。
本当は夢などなくてもいいのである。
夢なんかないほうがよほど幸福なのかもしれない。
というのも夢を強く意識すると、夢がかなっていない現在が不幸に感じられるでしょう。
夢がなければいまの幸いを味わえるのに、夢のせいで不幸になってしまう。
いまもさほど悪くないのに、夢を持ってしまったがために現在が辛くなる。
だったら、はなから夢なんて持たないほうがいいと思いませんか?
夢は取り扱い注意の危険物であることをもっと広くに知らせるべきではないだろうか。
なぜなら、新興宗教、自己啓発セミナー、創作スクールの餌食になるからである。
ああいうのは言ってしまえば、夢を売る商売なのだ。
人の夢を食い物にしている。
夢がかなわない? ならこれをしてみなさい、とちゃっかり請求書を差し出す(苦笑)。
ひどいところは夢を無理やり売りつけようとしてくる。
さほど大した職業でもない作家やライターをバラ色の夢世界のように洗脳してくる。
こんな洗脳をされたら、現在の不遇感が強まるばかりでしょう?
だいいち作家やライターになれるのは極めて少数なのだから(事実として)。
夢を売っている商人連中は、同時に不幸も売っていることに果たして気づいているのか。
いまのままでも十分に幸福なのに(あるがままでいい!)、
おかしな宣伝文句のせいで「作家になれない不幸な私」が作られてしまう。
ほとんどの夢はかなわない。だったら、夢を持つのは不幸でしょう?
人気俳優になりたい=人気俳優になれない不幸な私。
お笑い芸人になりたい=お笑い芸人になれない不幸な僕。
お金持になりたい=お金持になれない不幸な人たち。
いまどれほど多くの日本人が夢の奴隷になって苦しんでいることか!
夢のためにしなくてもいい我慢や苦労を背負い込んでいる。
我慢自慢や苦労自慢を見ると、その奴隷根性にむしろ怖れさえ抱くくらいである。
どうしてかないもしない夢のために、多数の人間が苦しんでいるのか。
何度も繰り返すが、夢はかなわないもの! 人生、思うようにはいかないぞ!
願った通りの夢がかなう人など、いったいどのくらいいるのか。
1万人にひとりくらいではないか。
もっと多く見積もって、かりに千人にひとり夢がかなうとする。
これがどのくらいの確率かご存じか?
35歳男性が1年後に死亡している確率とおなじである。
わたしが1年後に死んでいると思う人はどのくらいおられますでしょうか?
夢というのは、このくらいかなわないものなのである。0.1%とはこういうことだ。
しかし、どうしようもなく人間は夢を持ってしまう。
これはもしかしたら不幸をも味わえるふところを
人間は持っているということなのかもしれない。
持つまい持つまいと思っていても、人間存在は夢を欲してしまう。
あえて苦しむようなところが人間の生き方にはある。
逆に言えば夢を持っていない人間などいないでしょう?
人はみな(本物の聖人や賢人は除く)どうしようもなく夢を持っている。
このとき、夢をどうするか?
夢の奴隷にはならず、うまく夢と戯れたらいいのではないかと思う。
上手に夢と遊んでいきたい、とわたしは思っている。
これは本当だとみなが強調することほど、
本当のところ嘘ではないかと疑ってかかると新しい世界が見えてくるような気がする。
「本の山」がさんざん欺瞞を論じてきたのは、努力したら報われるの嘘。
あきらめなければ夢はかならずかなう、という嘘である。
これが嘘だと心底理解したら生き方ががらりと変わると思う。
つまり、人間の無力を知ったら!
あらゆる不幸を、運が悪かった、と片付けることが可能になる。
不幸は不幸でも国が賠償してくれるような災いは、
大きな声では言えないがまだ運がいいのだ。
だれかのせいにすることができ、代わりにお金をもらえるような不幸はまだ運がいい。
どこからも償いがもたらされないような災禍はいくらだってあるのだから。
正義は勝つ。これも本当は嘘でしょう。
だからテレビは刑事モノのドラマをしきりに放送するわけだ。悪は裁かれる、と。
テレビ局の人たちがたぶんそれをいちばんよくわかっているからだと思う。
だって、ぶっちゃけテレビ番組を実際に制作しているのは下請け会社の末端AD。
奴隷さんの血涙が大量に流れる制作の現場では正義もなにもないのだろう。
こうして論を進めていくと、どこまで嘘を許容できるかという我慢比べ大会の様相を呈する。
努力の嘘、正義の嘘を直視できる人間でも次の嘘を看破できるだろうか。
こっぱずかしいことを書くけれど、愛も嘘だよね。
愛が嘘だからキリスト教が生まれたという事情を考えれば、これは納得できるのではないか。
いい歳をして親から愛されなかったことを嘆いているものは多い。
だが、彼(女)は愛の幻想に縛られているのである。
親は子を愛すべきだという道徳律はかならずしも真ではない。
けれども、このことを認めないほうが生きやすい面がたぶんにあるから、
嘘ほど人生にとって大切なものはないということが逆説的にわかろう。
厳しいことを言うと、愛された人間ほど実は愛が嘘であることを認められるように思う。
助け合い精神の虚偽を嘲笑うあなた(わたし)はどこまで本当に耐えられるか。
しきりにテレビが強調するメッセージがあるのを、さてお気づきか。
人生は金じゃない!
これほどテレビというマスメディアが信じていることはないのではないか。
超高給取りのテレビ局社員が
視聴者にもっとも訴えたいことはこれではないかと思うくらいだ。
繰り返すが、人生は金じゃない。
人生は金ではない、金は幸福ではない、金より貴重なものはある。
だから高給取りの正社員が、
スズメの涙ほどのギャラでADやライターを使い捨てにしてもいい(笑)。
やりがいや生きがいを訴えるのはたいがいブラックな世界。
人生は金じゃないよと上司が部下に説教する会社ほど気持悪いものはないのではないか。
相対的に富者よりも貧者のほうがはるかに多いから、
この嘘を流しておいたほうが共益になるという世間の事情があるのである。
あれな人間ほど人生は金ではないと信じている。
ちなみに「本の山」の過去ログでも、たびたび人生は金ではないと叫んでいる。
恥ずかしいからどうかお読みにならないでくださいませ。
最後の嘘に迫ろう。死んだら終わりという世間に流布している通説があるよね。
あれはどうなのだろう。つまり、本当なのだろうか? それとも嘘なのか?
死んだら終わり、死んではいけない、は本当か嘘か!
ほとんどの宗教が死んだら終わりを否定している。
なぜならすべての宗教が嘘だからである!
……と言い切ってしまっていま後悔している。
あからさまに本当のことを言ってしまっていいのか、と。
しかし、宗教のどこに価値があるかといったら真っ赤な嘘であるところではないか。
だから、宗教はいいのである。人は宗教に救われる。
小声で白状するが、死は終わりではないとわたしは思っている。
たしかに努力は報われない。だが、それは現世の話。
死後に、すなわち来世に報われる努力というのがあるのではないかと思っている。
前世や来世を考慮に入れたら、あんがい正義は勝っているのではないか。
現世では報われない愛も、来世になにかが生じる機縁となるのではないか。
いま手にしている財宝は死後すべてそのまま罪悪の証として裁かれるのではないか。
本当は嘘である。嘘は本当である。
努力はかならず報われる。がんばれ、がんばれ、がんばろう、がんばろう!
正義はぜったいに勝つ。不正を憎もう、政治家を許すな、マスコミは正しい!
愛ほど美しいものはない。人を愛そう、老人子供女性を大切にしよう、敵を許そう!
人生は金じゃない。募金をしよう、ボランティアをしよう、おれに金くれ、おれに奢れ!
反省、反省、大反省!
ついに釈迦が悟りを開いた歳になったというのに
仏教をぜんぜんわかっていないではないか。
暇に任せていくら仏教書を読んだところでまるでわかっていなかった。
我ながら情けなくなってしまう。
仏教の教えは多様だけれども、ひとつ挙げろと言われたら無常になると思う。
たとえば釈迦と日蓮はほとんど正反対の主張をしているが、
世界を無常と見るところでは共通している。
無常とはどういうことか。常なるもの無し。常に変化しているということだ。
あらゆるものが日々変化している。
これが仏教の教える娑婆世界の理(ことわり)なのだ。
決定的な変化というものが世界や人生にはたまさか生じる。
変化が生じてしまったら、もうどのようなことをしても前のようには戻らない。
2011年の春は一度しかなく、いかなる工夫をしても時計の針は逆回転しない。
春を味わいたいのなら2012年の春を待つしかない。
さらに、2012年の春は2011年の春とまるで同じというわけにはいかない。
かならずなにかしら異なっている。
ふたたび、これが無常ということなのだろう。
変化が生じたときには、変化に任せるしかないのだと思う。
しかし、我われは(いや未熟なわたしは)変化をどうにかできると思ってしまう。
要らぬ言動を取ってしまう。余計な言葉や行為を選択してしまう。
言葉ほど変化に対して有害なものはないのだろう。
いくら変化を言葉で嘆いたところで変化自体はどうにもならない。
むしろ、それどころか事態を悪化させてしまうのが無駄な言葉である。
その点、行為は言葉よりも実効性があるけれど、
どのような行動を起こしたところで変化する以前の状態に戻すことはできない。
変化が生じた際に人間の取るくだらぬ言動が物事を悪化させることのなんと多いことか。
これは社会への提言ではなく、完全な自戒である。
わたしはどうして役に立たぬ言葉を用いてしまうのだろう。
変化に対して人間は無力である。どんな言葉も行為も変化には有効ではない。
変化は受け入れるしかなく、そのために必要なのは無為なのだろう。
無為とは、不必要な言動を慎むこと。
そうしているとこれまた無常ゆえに事態は変化していく。
雨も雪もいつまでも降り続けているわけではないのだ。
無為に徹していないとなかなか小さな変化に気がつかない。
しかし、我われは(いや愚かなわたしは)変化に慌ててしまう。
ドーンと構えているということができない。無為を貫けない。
おそらく、このための方便が南無阿弥陀仏なのだろう。
自力ではなく他力を頼むという人生作法である。
自分の言葉や行為では変化に対応できないことを認めるのが念仏なのだと思う。
念仏を唱えているうちに変化は自然におさまっていくはずである。
自然――春夏秋冬――とは無常の別名である。
無常ゆえに変化は生じるが、また自然に変化は落ち着きを見せていく。
焦って愚かな言動を連発してはいけないのである。
とくに言葉だ。余計な言葉ほど迷惑千万なものはない。
あらゆる変化は無常(自然)のために起こったのだから自然(無常)に任せればいいのだ。
自然に任せることを無為という。他力を頼むことである。
これをたとえば宗派によっては南無阿弥陀仏というのだろう。
思い返せば11年前に人生最大の変化が生じた。
この変化を受け入れられずにどれほど見苦しくジタバタと足掻いたことだろう。
変化の原因を必死になって探し求めたものである。
いまだから言えるのだが、変化には特定の原因などないのかもしれない。
あらゆる変化が無常(自然)ゆえに生じるのだろう。
だが当時、自然の理を知らなかったわたしは変化の原因を追究した。
この過程でどのくらい自分と他者を苛(さいな)んだことだろう。
苦しまなくてもいい苦しみをたくさん作ってしまった。
なにをしても変化する以前の世界は帰ってこない。
このことを理解するのに10年近くも要したのである。
無常――ただ無常を知ればよかったのだ。
そのうえ変化が不幸か幸福かは10年、20年経たないとわからない。
なぜかと言えば、その変化もまた(自然に、無常ゆえに)変化していくからである。
言葉は無用と言いながら、こんなに多くの言葉を費やしてしまった。
無常を知りたいのなら難しいことはない、河川を見ればいいのだろう。
常に目前の水は変化している。自然に流れていく。
荒川のすぐそばに住んでいるというのに、わたしはまだ無常を理解できていない。
不必要な言葉を傲慢にも意味ありげに用いてしまう。自然に対して低頭できない。

「まつすぐな道でさみしい」(山頭火)

「分け入れば電気鉄道」(四陀=ヨンダ)
今回の大地震について思う。
どうして見知らぬ大勢の人間の不幸に涙するのは、
甘い陶酔があるのだろう。
……心地いいのだろう。
どうして身近な人間の、つまり家族の不幸に涙するのは、
たとえそれが致命的なものでなくても、
どこまでもどこまでも辛いばかりなのだろう。
ましてや死んでしまったとしたら!
(××××の言葉)
これがむかしの偉い哲学者の言葉なら、
「あるいは、そうかもな」と思われるのかもしれません。
しかし、かりにわたしの言葉だったら、不謹慎だと非難されることもあるでしょう。
いや、偉人の言葉でもいまの時期に引用するのは問題だとお叱りを受けるかもしれない。
あらゆる言葉は、発言者の肩書とタイミングによって価値がいくらでも変わります。
「ふたつの不幸」についての言葉がだれのものか「答え」をお知りになりたい方は、
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