「人間・この劇的なるもの」(福田恆存/新潮文庫) *再読

→福田恆存の代表的評論。
だいぶ本書に入れ込んだ時期もあったけれども、覚えるくらい読み返し、
かつこちらもそれなりに人生体験と読書体験を積んだため、
ようやくこの本の意味がわかったように思う。
「人間・この劇的なるもの」は、福田恆存の書いた日本人向け聖書のようなものだ。
西洋への劣等複合(コンプレックス)が異常なほど強かった著者は、
日本にキリスト教の神がいないことに我慢ならなかった(仏はいるのですがね)。
とんでもないことだと思った。不安で仕方がなかった。
このため書かれた「人間・この劇的なるもの」は著者の信仰告白である。
なかには本書を絶対的真理だと思う人がおられるのは、そういう事情による。
(わたしも一時期そうでした……)
しかし、これは福田恆存の物語である。わかりやすくいったら「おはなし」だ。
小説のみならず評論もまた物語なのである。

以下、引用をいっさいせずに自分の言葉で本書をわかりやすく説明してみよう。
結局のところ、福田恆存はなにを言いたかったのか。
それは「大きなものを信じましょうよ」ということだ。
われわれ人間存在を超える大きなものはかならずやあるはずである。
大きなものの全体像はわれわれ人間には把握することができないが、
だからといってどうしてそれが存在しないと言い切れようか。
大きなものの象徴は死である。
死は人間には理解できないが(死ぬまで死はわからないでしょ?)、
にもかかわらず、たしかに死はあるとしか言いようがない。
大きなものとは、この死のようなものである。
うまく言葉にはならないが、
言葉にならないからこそ大きなものはあるとは考えられないだろうか。

大きなものとは、たとえば春夏秋冬の四季である。
われわれは大きなものに包まれているではないか。
大きなものとは、たとえば芝居の台本である。
われわれは大きなものから役を与えられて、それを演じていると思ったらどうだろうか。
そう思えば、どんな小さな役にも演じる喜びを感じ取れるのではないか。
よしんば、悪役だとしても仕方がないではないか。
なぜなら悪役がいないと、芝居=大きなものは成立しないのだから。
世の中は不平等である。いい思いをするものがいれば、一生不遇のものもいる。
しかし、残念な人生でも、そういう役を与えられていると
大きなものを信じることができたら、そこに生きがいが生じはしないだろうか。
問題は知ることではなく、信じることだ。大きなものを信じることだ。

ならば、どうしたら大きなものを信じられるのか。
われわれがいまのような存在であることに思いをはせればよろしい。
どうしてブサイクなのか。どうしてブスなのか。どうして貧乏なのか。
どうしてバカなのか。どうして出世できないのか。
どうして自分はいまこうであるような自分であるのか。
これはほとんど自分のせいではないでしょう。
だって、人間は親を選んで生まれてくるわけではないのだから。
われわれはなにゆえ現在のこのような状態であるのか突き詰めて考えると、
大きなものが存在するという結論に行き着くほかないではないか。

人生は絶対に思い通りにはならない。
いま絶対という言葉を使ったが、絶対に思い通りにならないならば、
それら不如意をわれわれに与えたもう大きなものが絶対にあるのではないか。
思い通りにならないことを深く味わうことで大きなものを少しでも感得できないか。
人生訓のような物言いをすれば、人生は思い通りにならないからおもしろい。
では、なぜ人生はうまくいかないのか。他人がいるからである。
われわれはお互いを鏡として自分がどういう存在か知ろうとしている。
だが、それではいつまで経っても自分はよくわからない。
大きなものを鏡として自分を見たら、もっと自分が見えてくるのではないか。
大きなものは目に見えないからそんなことは無理だと言うかもしれないが、
われわれは見えないものでも信じることはできるのではないか。
百人の盲人が巨大なゾウのあちこちを触ったというあの仏教説話のように、
われわれには見えていない大きなものがあるとは考えられないか。
いや、考えてはならぬ。大きなものがあると信じられないだろうか。

人間を超える大きなものがあると信じられたらば、生き方が変わるだろう。
なによりも死への恐怖が薄れるではないか。不安が減少するではないか。
たとえわれわれがかりそめ死んだとしても、大きなものがあるならば、
その死は断じて犬死ではない。
ハムレットは劇中なにゆえに死ぬのか。「ハムレット」劇を完成させるためである。
だとしたら、われわれの死もまた大きなものを完成させる前段階ではないか。
われわれの死は無意味ではないということにならないか。
死のみならず、大きなものを信じられたら、すべてが意味を帯びる。
喜びも悲しみも大きなものより生じると信じたとき、
われわれはその悲喜をあたかも名優のように深く味わうことができるのではないか。
喜びのみならず悲しみにもまた固有の一回かぎりの味わいがある。
深く悲喜を味わうということ、それが生きるということではないか。
人生は喜びよりも悲しみのほうがはるかに多いが、しかし、
味わうということを意識したら悲しみにもまた生きがいを感じられないか。
悲しみを味わう、悲しみを演じる、それが生きるということではないか。

われわれは大きなものから生まれ、大きなものへと帰っていく。
われわれが生まれるまえから大きなものがあったと信じられたらば、
われわれの死後もまた大きなものが継続していくと信じられないか。
死は大きなものよりもたらされる。
この大きなものは本書で「全体」「自然」「季節」「小さな花」などと表現されている。
「小さな花」が咲き枯れることならば、きみも信じられやしないか。
それは季節を信じるということだ。自然を信じるということだ。
自然の一部である人間を信じるということだ。
冬が終われば春が来るということだ。死は終わりではないということだ。
ままならぬ生死に挟まれた人間を超える大きなものを信じるとはそういうことだ。

「私の恋愛教室」(福田恆存/ちくま文庫)

→山田太一さんもふくめてみんな「私の幸福論」のほうをほめるけれども、
変わり者のためか「私の恋愛教室」のほうがはるかにおもしろかった。
「私の幸福論」もぱらぱら再読してみたけれども、この考えは変わらない。
「私の恋愛教室」のほうが、
西洋かぶれの辛口コラムニストである著者の本領が発揮されていておもしろい。
二回おなじことを書いたのには意味がある。
わたしは福田恆存が「正しい」という理由で著作を読んでいるのではなく、
ただ単に読み物として「おもしろい」から読み、こうして感想も書いているのである。

簡単に本書の内容を要約してみる。
断っておくが、本当に内容を理解したものにしか要約はできないでしょう。
福田恆存の名前を自己の権威づけに利用する人は多いけれど、
そのうちどのくらいが本当に理解しているのか(わたしもふくめ)疑わしいと思う。

西洋きちがい福田恆存の恋愛教室の根本にあるのはデカルトである。
要するに、精神と肉体をわける考え方だ。このとき恋愛はどうなるか。
「精神=恋愛、肉体=性欲」というように認識される。
一見すると難解な本書も要は「精神=恋愛、肉体=性欲」の繰り返しである。
みなさん恋愛を尊い思想かなにかのようにあがめておられますが、
実際は恋愛なぞ性欲に過ぎませんぜ、としつこく反復しているのである。
なぜ肉体の性欲ごときを精神の恋愛と勘違いしているのか。
それは西洋キリスト教が男女の結合を神の愛をダブらせたからである。
ひるがえってみると日本にキリスト教は根づいていない。
だから、あまり浮ついて恋愛に夢を見るのはいかがなものかと警鐘を鳴らす。
そのうえで、性欲もふくめた男女の結合ほどの生きがいはあるまいと主張する。
恋愛(=男女の精神+肉体の結合)は、
政治活動よりも社会運動よりもはるかに価値のある人間の営為だという。
なぜなら、人間の幸福に直結しているからだ。
社会評論家や政治屋のいう「人間の幸福」など果たしてあるのだろうか。
実際に存在しているのは「人間の幸福」ではなく、
「男の幸福」「女の幸福」ではなかろうか。
ならば、いくら社会を変革しても人間は幸福にならないだろう。
万民に金が等しく行き渡ったからといって人間は幸福になるわけではない。
金で買える「人間の幸福」なら社会運動でどうにかなろうが、
われわれは人間とひとくくりにされる以前に男ではないか。女ではないか。
あるのは「人間の幸福」ではなく「男の幸福」「女の幸福」ではないか。
「男の幸福」「女の幸福」は金で買うことはできまい。
では「男の幸福」「女の幸福」とはいったいなにか。
恋愛(男女の精神+肉体の結合)が男女ともに幸福と強く関係しているのではないか。
もっとわかりやすくいったらどうなるか。恋愛が幸福とはどういうことか。
つまり、男女の幸福とは、いい相手にめぐりあうかどうかということだ。
とはいえ、どうしたらいい相手にめぐりあえるかは本書にいっさい書かれていない。
代わりに説かれているのは、性欲の取り扱い方である。
なぜなら、日本人のいう恋愛とはほとんど性欲だからである。
性欲をどのように見たらいいのか。
科学ごときで性の全貌がわかったと思ってはならない。
性は理解できないからこそ、価値があるのである。
性をすべてあからさまにしてはならないし、また、できるものでもない。
性は非合理なものだが、
非合理なものを非合理のまま理解するという方法もあるのではないか。
闇を光に照らすばかりが理解ではない。
闇を闇のまま理解するという理解の仕方もあるのではないか。
性をそのように見てみたらどうだろうか。
――「私の恋愛教室」全体の要約をする。恋愛とはなにか。
要約の最後くらい作者の言葉を借りよう。

「少々公式的に申しますと、恋愛とは、霊と肉とが一致する場所であります。
人間と自然が一致する場所であります」(P11)


インテリぶった物いいだが、くそ庶民のわたしがわかりやすく換言しましょう。
恋愛すると「精神と肉体」とかどーでもよくなるじゃん!
よく考えたら植物(おしべめしべ)や動物(オスメス)が生きてるって不思議じゃん?
桜の花がきれいに咲き散ってゆくのはすごいって思わない?
恋愛(男性女性)というのは、そういう自然の神秘にも通じているのだよ。

以上で要約は終わり。ほかにもいろいろおもしろいところがある。
福田恆存のおもしろさは、
だれもいえない下品な本音をインテリぶった小難しい文体で書くところだと思う。
劇作家としてより思想家としてより、辛口コラムニストの才能があるのではないか。
本書でも、思わずくすりと笑ってしまうような下世話な本音がいかめしくつづられている。
たとえば――。
どんなに見た目がエロそうでもやってみたらダメという女がいる(P114)。
娘さん、男は教養あるブスよりも無智な美女のほうが何倍も好きなんですよ(P143)。
お嬢さん、婦人雑誌で女性の自由だのなんだのを語る男の評論家なんてものは、
腹の底じゃ座談会の謝礼のことしか考えておらんのですぞ(P199)。
男は巨根(デカマラ)にあこがれるが、男の権威なんてものは肩書きで決まり、
一方で女のほうはインテリぶっても反対にいくら色気を振り向いても無駄で、
結局男なんてみんなマザコンなんだから女の権威は母性で決まるのであーる(P223)。

以下に論客の福田恆存の言葉を少しばかり引用してみたいが、そのまえにである。
どの顔をしていっているかというのが読者はもっとも気になると思う。
いったい福田恆存自身はどんな恋愛をしていたのか。
もちろん、「私の恋愛教室」にはいっさい自身の経験は書かれていない。
しかし、もう死後かなり経っているから暴露する不届きものがいるのである。
瀬戸内寂聴さんが福田恆存の夫婦生活を「奇縁まんだら」でばらしている。
これを立ち読みしたとき、しばらく笑いがとまらなかったものだ。
福田恆存の奥さんは瀬戸内寂聴さんの学校時代の先輩らしい。
ある日、瀬戸内さんが福田家に電話したら、女中が奥さんは入浴中だという。
ならば、旦那さんの福田恆存に取次ぎを頼むと、こちらもお風呂だという。
なんのことはない、夫婦仲良くお風呂に入っていたのである。
毎晩のようにお風呂で奥さんといちゃいちゃ身体の洗いっこをしている助平さんが、
サムライのような顔をして論客を演じていたと思うと
福田恆存が何倍も輝いて見えるのはわたしだけだろうか。
ご承知でしょうが、「私の恋愛教室」も福田恆存先生のご本であります。
嫁はんと風呂場でいちゃつくのが好きな先生がこの本を執筆なさった。

さて、瀬戸内寂聴さんが公開したエピソードでなにがわかるか。
福田恆存さんはいい奥さんとたまたまめぐりあっていたのである。
おそらく、幸福な男であったのだろう。
いや、それとも、どうでもいい社会評論なぞに時間を費やしていたから、
あるいは不幸な人だったのか。
福田恆存は女性の不幸や不満を、社会のせいにする欺瞞(ぎまん)を告発する。
女性の不幸をゆめゆめ社会問題と同一視してはならない。

「女性の不幸や不満ということは、
なにもそうむずかしく考える必要はないとおもう。
ごく平たくいって、それはいい男性にめぐりあわないということではありませんか。
敬愛できる男といっしょに暮せないということではないでしょうか。
男性の不幸や不満も同様、敬愛できる女性にめぐりあわないということでしょう。
男と女との問題は、その点、昔からすこしも変わっておりません。
社会がどう複雑に変化してこようと、男としての幸福、女としての幸福、
それはいずれも、相手によって決るのです。
だから、私は封建時代の女が、
現代の女より不幸だなどとおもいあがってはいけないといったのです。
金持ちの夫婦のほうが貧乏人の夫婦より、
インテリの恋人どうしのほうが、百姓の恋人どうしより、
幸福に近いなどとおもってはならないのです。
男に依存する女としての幸福が得られぬばあい、
ひとびとは他の代用品を考えはじめる。
職業もその代用品であります。
そのほか婦人雑誌で論じられている多くの婦人問題は、ほとんどすべて、
女としての幸福が得られぬときの代償について語っているにすぎません」(P207)


くすくす笑いながら書き写したけれど、こんな本をいま出して大丈夫なのかな。
女がこれを読んだら顔を真っ赤にして怒るのではないかしら。
しかし、福田恆存のラブラブな夫婦生活知ってしまうと、
「おれは女房といっしょに風呂に入っているからサイコーに幸福なのさ」
という開き直りの宣言と理解(誤解?)することもできる。
福田恆存の奥さんの名前を知らないが、男は特定の女を愛したわけではない。
福田恆存はただただ女が好きだったようである。というのも――。

「男は女のなかから花子を選びだしてはならぬ、
花子のなかから女を引き出せ、そう、ロレンスはいいます。
もし男が他の女ではない花子を選ぶとすれば、その花子が相手の男にとって
最も女をひきだしやすい女であるという理由をおいてはない。
そういう恋愛と結婚のみが、真の永続性をかちえる。
精神だの人格だのいっているからいけない。
というより、誰も彼も自分の性慾を、
精神的人格という言葉のかげに、押しやってしまう」(P157)


勘違いする人が出ると困るから断っておくが、これは絶対的真理ではない。
むしろ、フィクションのたぐいだと思う。しかし、なるほどとうなった。
たしかにこのように考えたら(自分をだましたら)、
ブスとブサイクの最低夫婦でも劣等複合(コンプレックス)を感じずに、
それなりに幸福に一穴一竿主義でやっていけるはずである。
全員が前田敦子や武井咲、八千草薫や吉永小百合の旦那にはなれないのだから。
ほどほどのところで手を打とうぜ、という極めて現実的な思考である。
しかし、結局のところいい相手にめぐりあうかどうかは運ではないか。
こちらはせいぜい代償行為に励むしかないのだろう。
だれも読まないこんな長文記事を書いたのも、たぶん代償行為なのである。
先日、福田恆存のシンポジウムに行ったが、
カップルで来ているものなど皆無だったのではないか。
どいつもこいつも男で、そのうえどこか似通った陰鬱な顔をしていたものである。
こういう不遇な男たちから支持されている福田恆存の恋愛生活はこの記事に書いた。
最後に主張しておきたいことがあるとすれば、
たとえあなたがインテリぶって福田恆存の「私の恋愛教室」を読んでも、
まず間違いなくもてるようにはならんぞということだ。わかったか、こらっ!

「劇的なる精神 福田恆存」(日本教文社/井尻千男)絶版

→この著者だけではなく、福田恆存を神と崇める追随者はどうしてか演劇を軽視する。
あれだけ福田恆存が精力を注いだ演劇活動に目を向けないのだ。
福田恆存は劇を見ることによって、神という名を使わずに神を語りえた稀有な論客である。
宗教用語を用いずに(相対ならぬ)絶対を平易に論じえたのが福田恆存の天才だ。
集団に属することなく、あくまでも一個人として福田が絶対をとらえることができたのは、
この論客が劇を信じていたからである。劇中の人間を信じていたといったほうがいいのか。
わたしは福田恆存を宗教家だと思っている。
この論客の愛読者がみなみな福田を神のように崇拝するのはこのためである。
著書「生き甲斐といふこと」(新潮社)のなかで福田恆存はこうインタビューに答えている。

「私は巨視的にみれば絶望は絶対にしません。
私はクリスチャンじゃありませんけれども、何か人間を越えるものの大きな力、
それを歴史となづけようが、自然となづけようが、神となづけようが、
そういうものを信じておりますから、人間が絶滅する時には絶滅してもよろしいし、
それは自然の意思であり神の意思であるから
そういう点では非常にオプティミスティック(=楽天的)である」(P168)
「人間・この劇的なるもの」(福田恆存/中公文庫)絶版*再読

→人間とは、劇的なるものだと福田恆存はいう。
なら劇とはなにか。劇のギリシア語は「ドラーン」。行なわれたことの意味。
すなわち、劇とは、行動するということである。
小説の人間は行動しなくてもいっこうに構わない。
むしろ、行動しない人間の小説が芸術的ともてはやされるのかもしれない。
たとえば、プルーストの「失われた時を求めて」のように。
だが、舞台のうえで「意識の流れ」は見せられぬ。
人間が舞台の袖から現われる。中央の椅子に座しテーブルに置かれた紅茶を手に取る。
かれは動かない。いつまでもそうしている。小説ならこれでもよろしい。
けれども、劇はそうはいかない。舞台のうえの人間は行動しなければならない。
ひとは生きる。人間は行動しなければならない。あたかも舞台上の役者のように。
人間を、正確には人間の生きかたを、福田が劇的というゆえんである。

生きるとは、行動するとは、具体的にはなにを意味するのか。
選択することである。ふたつの選択肢からどちらかひとつを選び取り実行する。
これが生きるということだ。
すべての劇は、ふたつからひとつを選択する人間を描いている。
(したがってベケットやイヨネスコの一部の前衛作品は劇ではない。
巧拙はわからぬが見世物といったほうが正しいのではないか)
みなさまは結婚しているのか。仕事はなにか。無職でもおなじことである。
なんらかの選択の結果としとして、いまのあなたがいるわけである。
どこかでふたつにひとつの選択をしている。
現在のあなたが成功者か失敗者かわたしは知らない。
けれども、きっと思い当たる瞬間がある。あのときああしていたからと。
ふたつにひとつのどちらかを選んでしまったから、あなたはいまのあなたなのである。
成功者はおのが選択が正しかったから、いまの成功があるのだと確信している。
いっぽうで失敗者はどこか腑に落ちないところがある。なにかちがうのではないか。
失敗するよう定められていたのではないかという感覚である。
あのとき、どうしてもあちらを選択せざるをえなかった。

行動するということを突き詰めて考えてみよう。
人間は行動する前段階で、あらゆる情報を入手しようと試みる。
たとえば結婚は人生における大きな決断のひとつである。
A子、B子ふたりの候補がいたとする。
いや、結婚候補は何人いてもいいのである。だが、最終的に絞られる。
A子か、B子か。ふたつにひとつである。
かれはできうるかぎりの情報を得ようとするだろう。
両家の親族におかしなものはいないか。財産状況はどうなっているか。
既婚者の話も聞くであろう。
美人は3日で飽きるなどと言われてむかっ腹を立てるかもしれぬ。
役に立つ書籍はないか。かれは何十冊でも本を読むことができる。
絶対だと請けあうが、どの本を読んでも正しい答えは書いていない。
何万冊でもお読みあれだ。
どれだけ書物を読んでもどちらを選択すればいいかの答えは書いていない。
行動を起こさなくてはわからないことがあるのである。
すなわち、人間は無知を宿命づけられている。決して全知には迫りえぬ。
どれだけ知識を集めようがA子、B子どちらと結婚したほうがいいのかはわからない。
さらに、である。ひとたびA子と結婚してしまったら取り返しがつかない。
まさかA子を離縁してB子と再婚するというわけにもいくまい。
いちど振られたB子がなかなか首をたてに振らないであろう。
離婚となったら財産分与もある。
そして、ここが重要なのだがA子と結婚してしまったら、
もしB子と結婚していたらどうなったかということは永遠にわからないのである。

ひとは生きる。行動する。ふたつからひとつを選択する。
ふたつのうちどちらが正しかったのかは行動するまでわからない。
ひとたび行動したら取り返しがつかない。
これが人間の生きかたであり、また劇とは常にこのようなものである。
劇的な小説は通俗的などと揶揄されることも多いと聞くが、
行動する人間を描こうとすると劇的にならざるをえない。
遠藤周作の「沈黙」は、乱暴な要約をすれば踏み絵を踏むか踏まぬかの話だ。
おなじような言いかたをするなら、井上靖の「敦煌」は、生きるか死ぬかの話である。
戦闘において選択の誤りは死に直結する。
同様にドストエフスキーもトルストイも劇的である。
なるほどロシア文豪の長編小説の登場人物は、ながながと哲学的な逡巡をしている。
だが、間違えてはならないのは哲学そのものではないということだ。
なぜなら小説のなかのロシア人は行動しているではないか。
あきれるほど長時間の思索の結果として、かれらは行動している。
行動してみなければわからぬことがある。行動の結果、新たな情報が得られる。
その知識をもとにロシア人はさらなる思想をする。最善の行動をせんがためである。
この反復の挙句、あのような長大な小説が完成するわけである。

いままで人間について見てきた。こんどは劇に目を移してみよう。
舞台のうえの役者も、我われとおなじように行動する
だが、大きなちがいがある。かれらは知っているのである。
戯曲を読んでいる。台本を覚えているではないか。
ふたつにひとつ。この選択をすればどうなるかを役者は知っているのである。
けれども、役者は無知を演じなければならぬ。
かれはいかにもなにも知らぬ人間のように悩み苦しみながら決断する。
挙句、芝居が悲劇ならかれは最後には死にいたることが定められている。
ならば、この役者の楽しみはどこにあるのか。
はなから死ぬとわかっているのである。くわえて好きなことひとつ言えやしない。
最初から最後まで言うべきせりふは決められているのである。
役者にはひとつとして自由がないではないか。かれはなぜ役者を廃業しないのか。
辞めるわけがない。なぜなら役を生きることに楽しみがあるのである。
すなわち、味わうということだ。人間の喜怒哀楽を最大限に味わう。
たとえ自由なせりふひとつなかろうと、ここに役者の生きがいがある。

シェイクスピア劇を見ると、なんたる惨状だ。
ハムレット、オセロー、マクベス、リア、みなみな犬死ではないか。
4人とも状況を見誤ったのである。
むろん、かれらとて、いざ行動するにあたって細心の注意を払っているのである。
けれども、まるで坂道でも転げ落ちるように4人とも死へ直進する。
かれらは偶然にまかせて自由に行動したにもかわらず、これらの悲劇は、
これ以外にはなりえなかったと断言できるほどに必然の美にあふれている。
シェイクスピア悲劇を見て、わたしが打たれるのは、そのどうしようもなさである。
かれらは死ぬしかなかったという宿命の感覚にわたしは身震いする。
ままならぬものだと思う。現実はままならぬ。
人間は行動する。ふたつにひとつだ。成功と失敗にわかれる。
成功がいかほどのものか。失敗がどれだけのものか。
過剰に喜ぶのも、過分に悲しむのも、おのが無知を知らぬがためではあるまいか。

覚えておかなければならない。現実はままならぬ。
3浪したところで、東大へ入れない学生はいる。
どれだけ残業をした結果の新企画でも取引先の気分ひとつでおじゃんだ。
生涯もてない人間もいる。死ぬまで貧乏しどおしの人生もある。
何度でも繰り返すが、ままならぬということだ。
思い行動するまでは人間の意思範囲内にある。だが、結果はどうにもままならぬ。
本書で福田恆存は現実家たれという。現実を見誤るなということだ。
人間が現実をなんとかできるなどと軽々しく思ってはいけない。
無知たる人間に可能なことなどたかが知れたものである。
けれども、現実家であって、なお理想家たるのがなぜ悪いと福田はつづける。
理想をもてばいい。現実がいつか理想のようになると期待するのではない。
その理想が、現実とは地続きではないからこそ価値があるのではないか。
信用に足るのではあるまいか。
決して届かぬ理想をもちながら、ままならぬ現実を生き抜いてみたらどうだろうか。
たとえばハムレットのようにである。

福田恆存の言説がいまなお輝いているのは死を見据えているからである。
言い換えると、人間の無知を知っているからだ。
ちっぽけな人間を超える大きなものへの信頼を説いているからである。
福田恆存と比較したら、どの論客も色褪せる。なにほどのものかと思う。
社会学者だか精神科医だか知らぬが、かれらはなにを知ったつもりになっているのか。
知識など、どれだけ詰め込んだところでなんの役に立つものか。
情報など、いくら集めたってなにも解決はしない。
偉大なる全知――死のまえで人間は立ちすくむほかないではないか。
人間がいくら知を集積したところでこの全知にたどりつけはせぬ。
わかりやすく言おう。人間の無知とは、おのが死期を知らぬことである。
人間は、じぶんが、いつ死ぬかさえわからない存在なのである。
無数の交通事故死者のだれがこの死を予期していたというのか。
我われはおのが無知をよくよく知らなければならない。
かといって、悲観的になることはない。
役者にとっての戯曲にあたるようなものが、おのおの人間に用意されているではないか。
いな、その存在の有無は人間を超えている。知りようがない。
だが、どうして知りえないからといって、その存在を信じてはいけないということになろう。
知りえないからこそ、信用に足るとは思えはしないか。
人間を超える不可知なもの――死の存在を見据えることで、
つまり芝居の終幕を意識することで、
場面場面を、一幕一幕を、すなわち日々の生活を味わい尽くしてはどうだろうか。
人間はこのようにしか劇を生きられぬのではないか。
死は、宗教の領域の問題である。一個人にはとうてい扱えぬ巨大なものだ。
そこいらの論客が手を出せるような代物ではない。
なにゆえ福田恆存が個人の領域にとどまりながら、
なお死を語りえたかの秘密は劇にある。
最後に福田の言葉を借りれば、
「劇はつねに宗教的な秘儀のうちに、その起源をおいている」(P108)からである。
劇を、そして劇を生きる人間を愛してやまなかった劇人・福田恆存ならではである。
2005/09/14(水) 15:22:55

「せりふと動き 役者と観客のために」(福田恆存/玉川大学出版部)絶版

→あとがきにこう書かれている。

「この書は『人間・この劇的なるもの』の『実用編』であり、両者を併読すれば、
演技→演戯→人生といふ私の考へ方を理解してもらへると思ふ」(P286)


そのため劇評という体裁を取っているものの、裏にはいかに生きるかという人生論がある。
役者はいかに演戯すべきかという問いは、人間の生き方に直結すると著者はいう。
闊達(かったつ)に現在を生きながらも
結局のところ脚本以外にはしゃべりようのない舞台上の役者。
比して舞台ならぬ現実を生きる人間とはいえ、果たしてそれほどの自由はあるか。
出発点、生まれてきたときから不自由きわまりないではないか。
親を選べない。貧富も、顔の美醜も、性格も自ら選択したものではない。
帰着点、ゴールとておなじこと。自殺以外、誰がおのれの死に方を決められようか。
「リア王」のエドガーはいう。

「人間、忍耐が肝腎、己れの都合でこの世を去る訳には行かない、
こいつは出て来た時と同じ理屈さ、万事、木実(このみ)の熟して落ちるが如し」(P162)


役者のできることは何か。与えられた役をうまく演戯することである。
人間もおなじことである。せいぜい演戯を楽しむくらいしか生きようがないではないか。
が、それは十分に生きるに足る楽しみだと著者はつづける。
キーワードは演戯である。
本著の一文がこの演戯を説明するのにもっとも適しているかと思われるので、
おそらく著者はそれを意識していなかっただろうが引用してみる。

「私は宿命論者ではあるが、宿命だからといつて、諦めて無抵抗主義者になるのは、
これも一つの宿命である私の生まれつきが許さない」(P268)


この本を読みながら演劇とのかかわり方をつらつら思い返す。
結局、福田恆存であった。
この作家の著書がきっかけで劇場に足を運び、
同様、著書を深く読んだがために劇場から足が遠のいた。
本を読むと、ああ、演劇というものはすばらしいものだと啓蒙される。
けれども実際に舞台を見てみると福田恆存のいう演劇なんてもうどこにもない。
観客は役者オタクばかり。戯曲の筋からはずれたくだらないところでことさら喝采する。
その役者はといえば、せりふを安い席に座るわたしの耳まではとどけてくれない。
なら戯曲を家で読んだほうがましじゃないだろうか。
こうなるわけです。

2005/09/03(土) 19:06:27

「人間・この劇的なるもの」(福田恆存/中公文庫)絶版*再読

→本にレシートがはさまれている。
2002年の11月7日に池袋の文庫ボックスで買ったものである。
当時、既に絶版状態で新品を買えた喜びを覚えている。
あれから何回、読んだか。10回にはまだ届かないとおもう。
が、何度も繰り返し読んだ。
こんなに何度も読む評論はほかにはない。
これは評論ではなく宗教書ではないか。ときにそんなこともおもった。
この本に出会わなかったら読書経歴がだいぶ変わったものになったはずである。
戯曲を読むようになったのもすべてこの本の影響による。

この本には何が書かれているのか。人間とはどのようなものかということである。
自由と宿命の板ばさみになった人間をシェイクスピア劇、ギリシア悲劇に照らして論じる。
人間は自由意思か(=がんばればなんでもできる!)。
人間は宿命の捕囚か(=すべては何ものかに決められている……)。
この二律背反から抜け出るために演戯をしろと福田さんはいう。
役者のように演戯なさいと。

「すでに決定されている行動やせりふを、役者は生まれてはじめてのことのように、
新鮮に行い、新鮮に語らなければならぬ」

「かれは現在にのみ没頭する。芝居の最後まで知っていて、
しかも知らぬかのように行動すること(=演戯)」(P18)


どう演戯をしたらいいかわからないと? ならシェイクスピア劇を見なさい。
ここで福田さんはルネサンス期のシェイクスピアを持ち出す。
シェイクスピア劇の人物、ことにハムレットは見事に演戯をしとおしている。
そう指摘すると、この評論家はほれぼれとハムレットを見やる。

せっかちなひとが怒ったらどうなるか。
つまるところ人間とはなんだと著者はいっているのか。ひとことでいえ。
タイトルに書いてあるとおりである。人間とは劇的なものである。そう本著は答える。

「私たちが求めるのは博物学でも博物学者でもなく、生きた花なのではないか。
シェイクスピアから私たちが受けとるものは、
作者の精神でもなければ、主人公たちの主張でもない。
シェイクスピアは私たちになにかを与えようとしているのではなく、
ひとつの世界に私たちを招き入れようとしているのである。
それが、劇というものなのだ。それが人間の生きかたというものなのだ」(P109)


2005/05/12(木) 13:46:43

「最後の切札」(福田恆存/「新文学全集」河出書房)絶版

→戯曲。「型」のない芸術はない。
囲いがあればこそ、その中で遊べるのである。
冒険心旺盛な芸術家は、その枠を攻撃の対象にする。
たとえば俳句。
「五七五」という「型」を否定した自由律俳句がある。
ついに主流にはなりえなかったにしろ。

演劇にも大枠がある。前提とでもいおうか。
これに異議を唱えた劇作家が今回の福田恆存である。
なんで舞台のうえでは役者が別の人物になりかわって、
結末の決められた人生を、
さも知らないようなそぶりをしながら演じるのか。
舞台のうえでは実際には役者は死なない、
しかし観客は死んだとみなさなければならない。
ならば劇空間とは何か。
というように追求していくと演劇の「型」にたどりつく。

この戯曲は「型」そのものを舞台にあげてしまおうとした意欲作。
前衛劇といってしまってもよいように思われる。
後年、前衛劇を一笑にふした福田恆存が
劇作の初期にこのような戯曲を書いていたことは、
一見、ふしぎにも感じられようが、ある視点からは当然の帰結と思えなくもない。
タイトルに注意。これは「最後の切札」なのである。
舞台に登場するのは、(芝居すべての鍵をにぎる)ドラマティスト、
まだ名を与えられていない文字通り無名の役者たち、さらには劇評家まで。
福田恆存がこの芝居で挑戦したことの一端を垣間見られよう。
この芝居を「最後の切札」と名づけ、
福田恆存は以後、二度とこのような実験をすることはなかった。
昭和23年。シェイクスピアの翻訳を開始するのはこの7年後のことである。


「現代の英雄」(福田恆存/「新文学全集」河出書房)絶版

→戯曲。駄作。救いようがないほど退屈。
なんかね、上からこれで笑いなさいと強制されている感じがするわけだ。
ストーリーは「マクベス」の亜流。
口八丁手八丁で成り上がった関西人の社長さん。
不幸にも、妻を亡くし会社も倒産。
クライマックスは「おれは負けとらんで」と日本刀を振り回す社長さん。
えええ。これで笑わなければ近代的知性の持ち主ではないと、福田さん?

04/12/29 13:29:18

「日本を思ふ 人と思想シリーズ」(福田恆存/文藝春秋)絶版

→コンパクトな文庫版じゃなくて、古本屋で購入した単行本。昭和44年出版。
文庫版には入っていないものを中心に拾い読みをした。
日本を思ふ、ずいぶん大きくでましたね。
論客ということばがぴったり。
福田恆存さんがいまよみがえってテレビを見たらと考えてみるとおもしろい。
飯島愛が大きな顔して日本を語っています(「サンデージャポン」)。
いま若手作家が「日本を思う」なんて本を出したらギャグです。

まだはっきりとはつかめてないからメモ書き程度に。
福田恆存の思想ってほとんど宗教では?
福田さんのいう「全体なくして個があるものか(=全体の存在を信じる)」
というのは、もうほとんど、そのう、一歩手前というか……。
福田恆存愛読者も「信者」ってことばがお似合いの面がある。

04/12/29 12:57:56

「日本への遺言 田恆存語録」(中村保男・谷田貝常夫編/文春文庫)*再読

→哲学、思想のたぐいはアレルギー体質なんだけど(宗教は別)、
なんで福田恆存だけは平気なのだろう。じんましんが出ないのだろう。
考えてみるとふしぎ。じゃあ、逆に考えてみたらどうだろう。
なにゆえ哲学、思想を忌み嫌うのか。
難しいから。というより、わざと難しく書いているように思われるから。
哲学、思想に何ができる? と思ってしまうのは青臭いの? 低脳なの?
歯が痛いのひとつにしてもどうにもならないでしょ(宗教ならまだ祈ることができる)。
なんか哲学、思想って、悩み事がないひとがわざわざ悩んでるという気がする。
だから嫌い。うん、ここでなぜ福田恆存は別なのかすこしわかってきたかも。
福田恆存の思想は地に足がついている。生活感があるとでもいうのかな。
読了してすぐにスーパーへ買物に行くことができる。
わかるかなこの感じ? だめ? ならごめんなさい。

今回、福田恆存を再読していたく感銘を受けたくだりは理想への処し方。
現実ってひどい。人間はみんな薄汚くて、自分勝手で。
政治だってそう。外見のきれいごととは裏腹の私利私欲ばかり。
恋愛もおんなじ。みんなでバカみたいに恋愛賛歌(イブは何をしますか?)。
かように現実は醜く汚い。
しかしここで現実なんてこんなものとシラけないのが福田恆存流。
かかる現実は現実として認め(逃げない、つまり現実主義者)、
それでもあえてなお理想をもつ、理想を失わない(理想家)。
かといって現実を理想と一致させようと四苦八苦する(理想主義者)わけではない。
未来永劫、現実と一致することがない理想だからといって何が悪いものか。
むしろそのような到達不能の理想こそ真に信ずるにたえるものではないか。
福田恆存は現実主義者にして、なお理想家たらんとした。
この姿勢、見習いたい。

04/12/29 12:10:05

「演劇入門」(福田恆存/玉川大学出版部)絶版*多読

→何度読んでもうならされる。
この本はわたしの読書人生を変えたといっても言い過ぎではない。
ストリンドベリ、オニールといった劇作家に出会えたのもこの名著のおかげ。
生まれてこの方まったく演劇に関心をもったことがなかったわたしが
こうまで(絶版)戯曲あさりをするようになるとは。
この入門書がどれだけ演劇の魅力、深さを教えてくれたかわかるというもの。

それゆえ一時期、芝居鑑賞にこったこともあった。
だけど、だめ。観劇は趣味にはならず。
理由は多々ある。役者オタクがうざい、上品ぶってるのがいや、チケットが高い。
しかしそれらもこの最大の理由に比べたら足元にも及ばない。
演劇は観客よりも舞台にあがっているひとのほうが楽しそうだから!
ひとが楽しんでいるのを見るために高いお金をはらうのは道理にあわない。
よって戯曲専門へ。福田恆存も言う。
へたな舞台を見せられるくらいならじぶんで戯曲を読むほうがましだと。
演出も配役もこちらの想像力でなんとでもできる。
なにより戯曲は小説と比べて、読者が創造に参与する余地がより多く残されている。
読者はあたかも建築作業のごとくセリフを積みあげて
演劇という城を完成することができる。
戯曲を好きになったゆえんである。