「図解雑学 犯罪心理学」(細江達郎/ナツメ社)

→犯罪心理学者の細江達郎は本書の冒頭でまずなにをやるか。
「しろうと理論」の否定である。
なにか犯罪が起こり報道されると我われ一般人はいろいろ背景を分析して楽しむ。
これを「しろうと理論」と命名し、いまから教えるのは専門的な学問だと主張するのだ。
勘のいいものならこの時点で犯罪心理学なるもののいかがわしさがわかるはずである。
「あんなものはだれでもやれる」とこの犯罪心理学者はさんざん言われてきたのだろう。
だから、一般書の冒頭でいきなり一般読者を批判する。
わかりやすい行動である。しかし、これは人間心理を熟知している学者の行動か。
わたしは最初の「しろうと理論」攻撃を読んで不愉快な気分になった。
この程度の読者心理も予想できないものが心理学者を自称しているのだから大笑いだ。

専門家の細江達郎の説く犯罪心理学は予想通り大したものではない。
この学者はよほど一般人が嫌いなようである。
つぎのような「しろうと理論」を学問的見地から批判する。
低知能者が犯罪を起こしやすいと一般人は思っているがそれは間違いだという。
かれの犯罪心理学的分析によると、低知能者は低知能だから犯罪をするのではない。
低知能ゆえに雇用の機会が制限される。
まあ、バカはろくな仕事につけないってことだな。
したがって低知能者の社会への不満が高まり犯罪を起こしやすくなる。
かようなしだいで低知能者ほど犯罪を起こしやすいというのは誤りだ。
我が輩のように社会的因子を計算に入れるのが学問ってものだぜ、
と犯罪心理学者の細江は得意気に論じる(35ページ)。
これを読んでさすが学者様はすごいと感動するのはオオバカである。
だって、結局、低知能者は犯罪を起こしやすいわけでしょう。
なら、一般人の常識を追随しただけじゃないか。
細江達郎は、低知能と犯罪のあいだに「雇用」という用語を挿入したのみ。
このくらいで専門家を自称されても困ってしまう。

これはもう心理学という学問の限界かもしれない。
心理学とつく学問は、どれも一般的な常識をもっともらしく補強するのみ。
独創的な発見というのは心理学からは決して生まれない。
まず一般的な常識ありきで、それからその常識を証明するデータを取る。
あるいは、専門用語をでっちあげ常識を学問の世界に転用する。

たとえば――。
犯罪心理学によると、犯罪の起こるメカニズムがあるらしい。
はじめに人間の態度がある。
この態度は心理学の述語(専門用語)で、特異な意味があるらしい。
人間の態度には犯罪を起こしやすいタイプのものがある。
犯罪を志向する態度があったからといってかならずしも事件にはならない。
態度にスキルが加わって犯罪が生じるにいたる。
しかし、ここで犯罪を予防するものとして抑制の存在を考えなければならない。
抑制がスキルを上回る場合は犯罪は生じない。
まとめると犯罪の発生条件は以下のようになる。
加害者(態度+スキル)>被害者(抑制)→犯罪が起きる
加害者(態度+スキル)<被害者(抑制)→犯罪が起きない

一見すると、なにやら学問のような気もするけれども違うでしょう。
ただの常識ではありませんか。
要するに、防犯をきちんとしていれば犯罪は起きないってことでしょ。
この当たり前すぎるほどの常識が、犯罪心理学では上記のようになる。
学者はなにか立派なことを発見したような錯覚にとらわれる。
最後に犯罪心理学者の細江先生に一般人の素朴かつ稚拙な感想を。

犯罪のひとつでもやってからものを言え!
「図解雑学 刑法」(船山泰範/ナツメ社)

→友人にミステリー小説だけは読めないというひとがいるけれども、
たいがいの人間はミステリーが嫌いではないでしょう。
少なくとも国語の教科書に載っている文学作品などに比べたらよほど楽しい。
なぜミステリー、推理小説がひとを魅するかといえば、
非日常的な犯罪が描かれているからである。
わたしも読書のきっかけはミステリーだった。
意外に思われるかもしれないけれども
西村京太郎や内田康夫などを好んで読んでいた時期もあった。
では、ミステリーで描かれるところの犯罪とはいかなるものなのか。

犯罪とはなにかは刑法によって定められている。
なぜなら犯罪を裁くための法律が刑法だからである。
さて、刑法に従うならば、どのようなものが犯罪として認定されるのか。
まず犯罪は人間の行為でなければならない。
カミナリに打たれて死んだとしても、それは犯罪ではない。
自然現象は犯罪にはふくまれないということだ。
刑法で問題にされるのは、故意にしろ過失にしろ人間の行為のみである。
さあ、人間の行為によって損害が生じたとする。
これがすべて犯罪になるかといえば、残念ながらそうではない。
その行為が刑法の定める犯罪類型にあてはまらななければ犯罪ではないのだ。
ストーカーはむかしは犯罪ではなかった。
情熱的な片想いにしか過ぎなかった。
しかし、いまでは犯罪である。
なぜなら新しい刑法が加わったから、ということだ。
ところが、これでもまだ人間の行為を犯罪と決定することはできない。
さらに違法性の有無が判定される。
行為のなされた具体的事情が考慮されるわけである。
船が難破して大海にただようふたりの人間がいたとする。
運よく流木が波間に見える。
しかしこの流木にはひとりしかつかまることができない。
こういう場合、他人を押しのけても犯罪にはならない。
道徳上の罪には問われるだろうが、刑法では犯罪ではない。
これで犯罪が定めうるかといえば、まだ不充分である。
責任能力の有無が見極められなければならない。
行為者の判断能力や年齢が問題とされる。
精神障害者や児童が行為者だった場合、
善悪の判断ができなかったと見なされ行為の責任は問われない。
すなわち、犯罪にはならない。

以上の長い経緯を経て犯罪が認定されるわけである。
長々と書いたが、ひと言でまとめるなら「人間の行為」ということに尽きる。
1.犯罪は「人間の行為」である。
2.その「人間の行為」が刑法で犯罪となっているか。
3.具体的事情、社会的見地を考慮に入れてもやはり犯罪に該当するか。
4.行為をなした人間に責任能力はあるか。
ちなみに、(知らなくてもいいことだが)法律用語では、
2=「構成要件該当性」、3=「違法性」、4=「有責性」と呼ばれる。
「人間の行為」が234というふるいにかけられると思えばよろしい。

ようやく犯罪とはいかなるものか判明した。
犯罪とは、刑法で定められたよくないとされる人間の行為である。
ここで最初に戻ってなにゆえミステリーは万民に受けるのか。
人間の行為が続けざまに描かれているからである。
わかりづらいのなら、ミステリーの対極にある純文学を想像してください。
純文学などと呼ばれる小説は、なかなか人間が動かないでしょう。
ああでもない、こうでもないと考えるばかりでいっこうに行為をなさない。
だから、つまらないと大多数の読者は思ってしまうわけだ。
ミステリー、純文学――、飛躍をして戯曲を考えてみる。
戯曲というのは、人間の行為を描いたものでしょう。
舞台上の役者が沈思黙考していたらいつまで経っても芝居は始まらない。
その意味で、戯曲は純文学よりもミステリーと共通性がある。
考えてみれば、シェイクスピアの悲劇なんざ、すべてがミステリーである。
ただしオハムレットやオセローの行為は刑法で定められた犯罪ではない。
神前で問責されるべき罪だという違いはある。

「図解雑学 刑法」を読んで、こんなことを考えたのは、
やはりわたしの関心が社会にではなく文芸にあるからだと思う。
2005/12/01(木) 17:30:53

「裁判の秘密」(山口宏・副島隆彦/洋泉社)

→これおもしろい! 
新たな分野の本に手を出すとこういう当たりがあるのか。
著者は現役弁護士。日本の裁判の裏側(実情)を赤裸々に語る。
著者は本書で何度も繰り返す。法学の教科書なんてうそっぱち。
あんなものは現場を知らない学者の妄言。信じるだけバカを見ると。
これは法学の裏の教科書ともいえる。建て前と本音が法学にもあるようだ。

主張の大筋をかんたんにまとめると、

日本の裁判はいんちき。八百長。

と、こうなる。民事(訴訟)も刑事もまともに機能していないらしい。
まず民事。判決がでるまでがとにかく長い。3、4年はざら。
で、判決が出たところで役に立たないという。
金を貸す。返さない。数年かけて裁判をする。勝訴する。
それでも金を取り返せないのが日本の裁判制度なんだとか。
強制執行逃れがいとも容易にできるためらしい。

刑事訴訟もどっかおかしいと。有罪率の異常な高さ。
これは法廷上の証言並みに検事側の供述調書が重視されるためらしい。
だから、いったん起訴されたらほとんど無罪になることはない。
出来レースではないかと著者は主張する。冤罪もかなりあるのではとも。
国を相手取った行政訴訟はやるだけ無駄だと失笑する。
裁判所はぜったいに行政が不利になる判決はくださない。
「官と官は争わない」。
つまりは三権分立など日本では成立していない。
判決をくだすのは裁判官。
裁判官というのは法律オタクのおかしなやつが多いと内情をすっぱぬく。

山本夏彦を愛読する著者の物言いは痛快。引用する。

「通常、民事裁判の被告になる人びとというのは、言ってはなんだか、
社会生活を常識の範囲で行なえない人たちだから裁判になるのである。
あまり声高には言いたくないけれども、
やはり言わなくてはならないことなので言うが、
人権人権というけれども、そんなきれいごとが通用しない人たちが
多くの場合は裁判の相手方になるのである」(P67)

「裁判で、何かが解決したり、損害を回復したり、自分の権利というものを
実現できると信じている人びとが世の中の大半であろう。
しかし、他方に運命というものがある。できないことはできない。
だからその運命を甘受させるのが、
相談を受けた弁護士の本当の仕事なのかもしれない」(P203)


法学教科書とセットで読んでおいてよかったと思う。
どちらかだけでは片手落ちになっていたでしょうから。
文庫にもなっている。宝島文庫。残念ながら絶版。
それにともない単行本のほうで復刊。現在購入可能。
まあ、わたしのようにブックオフ105円コーナーで見つけたら、
読んでみるのも一興かもしれません。
今回、法律関係の本を3冊読んだ。すべてブックオフ105円本。
ふむ。ブックオフはわたしの大学かもしれません。百円大学。
2005/12/01(木) 16:32:55

「法学入門30講 <新版>」(石川明・編/酒井書店)

→なるほどと思ったところをメモ風に書きます。
法学を学んだ方には常識以前のことかと。読み飛ばすか、憫笑してください。

「法は道徳の最小限」。法は道徳と常識を基礎に持つ。
ちがいは強制力(効力)の有無。法は強制力を持つのが特徴。
人命の尊重や窃盗の禁止。太古からのルール。これを自然法という。
この自然法から生まれたのが実定法。
言わずもがなの自然法をはっきりと明記したものである。
この実定法は成文法と不文法にわかれる。
成文法はナポレオン法典を起源に持つ。ヨーロッパ大陸に広がった。
不文法は成文法とは異なる、明文化されない法のこと。
不文法には慣習法、判例法がふくまれる。イギリス、アメリカが使用。

近代法の発生は、自由と平等をうたったフランス革命にある。
それまでは「朕が国家」の絶対王政。国民は封建制の下での身分社会。
だが近代市民革命により、市民社会と国家(夜警国家)に分離した。
「身分から契約へ」(個人の尊重)。
背景には「見えざる手」(資本主義)への信頼があった。
しかし資本家と労働者の別が貧富の差を増大させる結果に。
「契約から身分へ」(貧困問題)。
国家は国民の自由をある程度規制して、法によって社会的弱者を守る必要が。
以上が近代法の成立から現代法に移行するまでの流れ。

「日本は本来、法なき国家」。
明治時代まで「自由」「権利」に相当する日本語がなかった。
不平等条約改正に向けて、国家主導の(上からの)近代法整備(輸入)。
太平洋戦争無条件降伏による、マッカーサー法案の丸呑み(日本国憲法)。
日本国民はむかしもいまもあまり法を頼りにしないで生活している。

税込み価格3570円。大学の教科書。ブックオフ105円ゲット。
351ページ。よく読めたとじぶんでも思う(笑)。民法、商法はさっぱりわからず。
2005/12/01(木) 15:47:11

「法学入門」(遠藤浩・久保田きぬ子/有斐閣新書)

→法律に興味を持った。法律ってなんなのだろう。
むかし、大学に入りたてのころ、法学部の知人に質問したことがある。

「なんで人が人を裁けるの?」

答えはなかった。意外そうな顔をされたのを覚えている。
その疑問はいまも変わらずにある。
ようやく機が熟したのか、今回法律を勉強するにいたった。

新書サイズでコンパクト。それがこの本のいちばんの魅力。
また欠点ともなる。説明できる分量が少ない。
結果、よくわからなかった。だけど、それでいいのである。
最初からの予定通り。まずはなじみの少ない法学用語にふれるだけでいい。
あとは薄いのを一気に読むことで、全体図をとらえることができたら。
こちらはまったくの門外漢なのだから。
勝負のまえの腹ごしらえのようなものである。