「反<絆>論」(中島義道/ちくま新書)

→2014年の12月に発行された新書らしいから、
ずいぶん遅れた東日本大震災の関連本になるのだろう。
ほうら、あのとき絆(きずな)、絆とやたら騒がれたじゃないですか!?
でもさ、絆はたいせつってみんな言うけれど、
絆とは言い換えれば人間関係のことなんだから、
家族をふくめて人間関係ってかならずしもプラス面ばかりではなく、
たっぷりふんだんにマイナス面も持っているよねえ、
といういかにもひねくれた著者らしい絆へのアッカンベエ本である。
絆の集積はたとえば創価学会で、あそこは噂話が飛び交っていそうだよねえ。
ある夫婦のある夜の営みを、なぜか全員が知っているみたいなさ。
狭い村落共同体とか、人間関係がめんどうくさそうでいやだよねえ。
会社を辞める理由の第一位ってたぶん人間関係=絆でしょう(笑)。
けれど、まったく人間関係がないと孤独になるから困っちゃう。
今日は4月1日エイプリールフールだから嘘を書くけれど、
いまは絶交したネットでの知り合いに14年ニートをしていたやつがいたなあ。
どうしておまえはそんなに孤独に強いんだってびっくりこいた。
いまその人がどうしているか知らない。
風の便りでは自殺に失敗して精神病院に入っているとか。

人間関係=絆のめんどうくさい理由を中島義道は的確に言語化している。

「人生の選択はほとんどその結果がわからないものである。
しかし、われわれは選択しなくてはならないことがある。
完全な善意から出たことでも、会社を倒産させるかもしれない。
恋人を自殺に追い込むかもしれない。
悪意から出たことでも、みんなから感謝されるかもしれない。
こうした状況に投げ込まれていること、
それがカントによれば原罪なのである」(P138)


よかれと思ってしたことが裏目に出るから人間関係=絆はやっかいだ。
自分勝手にした明らかな悪行が、すげえとか称賛の対象になることもある。
意地悪しようとしてやったことが、相手に感謝されることもあるでしょう?
親子関係なんてとくに難しいでございましょう?
親が子のためを思ってしてくれることの大半は子にとって迷惑。
成人した子が親孝行だと思ってすることも親には迷惑なことが多いと思う。
家でごろ寝していたいのに、わざわざ温泉なんか行かせるなよ。
ああ、行きたくもない海外旅行なんか連れて行かれて、
さも感謝しろと言いたげな子どもって、はああ、絆=人間関係めんどくせっ。
わたしは学校友人とか親戚関係はすべて切っているから、そのぶんラク。
まだ父は生きているらしいけれど、今年になってから一度も会っていない。
このように孤独だとさみしいけれど、うざい葬式とか結婚式とか免除されるからイイ。

中島義道がひどい本音を吐きやがっている。
それを言っちゃおしめえっていうか。

「他人との理想的な関係を言うと、「自分が必要なときには助力してもらいたいが、
それ以外のときには干渉しないでもらいたい」と簡単にまとめることができる」(P71)


おいおい、それを言っていいのかっていうガチンコ発言だよなあ。
母の自殺以降、父とはうまくいっていないと思っていたが、
中島義道の文章を読んで、
もしかしたら理想的な父子関係なのかもしれないとちょっとだけ思い直した。
昨年はパソコンの年賀状印刷の仕方を忘れたから教えに来いって言われて、
わたしは年賀状はだれにも送らないし、それにパソコンにも詳しくないので無理。
そう答えてもいいから来いよって。で、行ったら案の定、無理なものは無理。
こいつ使えねえなって顔をされてムカッと来た。
先約を優先して派遣仕事を断ってまで来てやったのに。
そのあと父はほかにやりたいことがあるらしく、もう帰れって感じなのね。
いやだねって思って冷蔵庫から勝手にビールを取り出して、ぐびぐび飲んだ。
父はそんな息子を無視して長々と風呂に入って、もういいだろうって顔で出てきたから、
しょうがねえ、こっちももういいかと思って早々と帰った。
1時間程度の滞在だったのではないか。ほとんど会話らしきものはなし。
うーん、中島義道に言わせるならば理想的な父子関係かもしれない。

本書で知ったがヒュームとかいう哲学者が自殺肯定者らしいね。
以下はエゲレスの哲学者のヒュームとやらの言葉。

「私が社会にとっての負担であると想定しよう。
私の生存が他の人に妨げとなり、
社会に対してはるかに有益であることを阻止していると想定しよう。
このような場合、私の人生放棄[自殺]は
単に無辜[むこ/なんの罪もないこと]であるばかりでなく
称賛に値するにちがいない」(P169)


母の自殺とか、いまではどうなんだろう。
むかしは母は子を愛すべきだとか、自殺はいけないとか、
そういう世間常識のせいで過剰に苦しんでいたところがあったのかもしれない。
でもそう言えるのは、いまだからで、あれは経験してみないとわからない苦しみね。
もちろん、嫌いな母が自殺してくれて、
せいせいしたって子も世の中にはいるんだろうけれど。
今日も朝方、夢にえんえんと母が出てきて、もういいかげんにしろと。
いったいどこまでわたしを苦しめるつもりなんだと。
いまはもう前世からの宿縁だろうとあきらめているから、あーあって感じ。
もう取り返しがつかないしさ。
そうそれから、自殺を自死と呼べっていう風潮はいやね。
なーんかコメント欄でしつこく当方を批判してくる匿名者がいるけれど、
わたしが自殺したら大喜びするわけでしょう。
だから、自殺はことさら悪でもないという気がする。
べつにいまさらする気も、機を逃したって感じがするから、さほど。
ほんと? そんなに生きたいか、おれ?
今日ってエイプリールフールとか呼ばれる日なんでしょう?

「差別感情の哲学」(中島義道/講談社学術文庫)

→あらゆる誤解を恐れず言い放つと、わたしは差別が好きなわけ。
母とおなじように自殺すればその瞬間に終わりなのに、
わざわざ毎朝東京から埼玉まで人によって高低の(価値観は)わかれる賃金を求めて
作業をするために行っているのは、世間という差別構造を知りたいがためかもしれない。
いまの派遣先職場に入って、ものすごく興味を持ったのは上下関係(差別構造)だもの。
だれが上で、だれが下か。
だれが正社員か? だれが威張っている怖い古株か? メイトってなに?
それぞれの給料はどのくらいか? 年齢はいくつなのだろう?
かわいい女の子、きれいな女性はいないか? これって差別でしょう?
だから、わたしは誤解されるのを覚悟で書くが差別が好きなのである。
世間(差別構造)や言葉(これも差別構造)を知りたいから、
そういう好奇心ゆえに当面自殺しないで生きている。

とてもわかりやすく差別感情の本質を論じた本書を要約すると、差別とはなにか?
1.差別とは言葉である。
2.差別の原因は向上心である。

こんなことを書くと差別的だが、いやいま差別を論じているのだからそれでいいのだが、
埼玉は東京に比べて価値が低い言葉でしょう?
南浦和よりも表参道のほうが、上野よりも銀座のほうがどうしても上でしょう?
帝京よりも慶應のほうがどこか上に感じるじゃないですか?
ブロガーよりもライターは上。ライターよりも作家は上。東スポよりも朝日新聞は上。
言葉がそもそも差別(区別/わける)という機能を持っている。
がために向上心こそ差別の原因という中島義道氏の卓見に到達する。
やたら向上心が活発なメンバーがいるじゃありませんか。
そういうやつらが上とともに下をつくって、あからさまな差別構造(世間)を構成している。

わたしは言葉(わける/区別/差別)に興味がある。
この数年芽生えてきた世間への関心はなにゆえかと考えていたが、
本書によると、それは差別主義からだろうという結論にいたった。

言葉=差別=世界(世間)

わたしは言葉を好きでたまらないから、
必然として差別主義者で、世界(世間)を好奇心からながめざるをえないのだろう。
あのかわいい子はどういう言葉を使っているか(知的レベル)。
あの人はどのくらいの身分(収入)なのか(経済レベル)。
生活するとは差別するということで、差別を消滅させたら生きる味わいがなにもなくなる。
ぶっちゃけ底辺正社員よりも、大企業アルバイトのほうが待遇はいいでしょう。
それでも人は正社員を求めるし、社員を目指す短期アルバイトもニートを差別する。
ニートになったら終わりだとか。当方の夢は働かないニートなのだが。
大学や大企業という高貴身分のなかにいたら差別はわかりづらいという面があろう。
しもじもワールドに分け入ると世間(=言葉=差別)がよくわかる。
中島義道氏は比較的に恵まれた人生を送られているのに、
本書における差別感情への的確な論説には非常に感心いたしました。
東大卒のくせに、あたまがいい人っているんだなあ(え? え? え? 逆差別?)。

世界は言葉でできており、言葉(言語)は差別の源泉だと中島義道哲学博士はいう。

「言語には固有の社会的価値が付着しているのであり、
「官僚」や「医者」や「教授」の中にいかに劣悪な者がいようと、
それぞれの言葉は高い価値の響きを維持している。
同じように「ホームレス」や「中卒」や「水商売」という言葉は、
その中にいかに人格的に立派な人がいようと、
言葉としては価値の低い響きに留まっている。
とはいえ、価値の高低の響きは未来永劫不変なわけではない。
「韓国人」や「アジア人」という言葉から
価値の低さはほとんど消え去ったように思われるし、「ゲイ」という言葉は
ここ二十~三十年でずいぶん低さから脱したように思う
(ただし「ホモ」という言葉は依然として低い価値を担っている。
まして「オカマ」という強烈な意味合いをもった差別語は厳然として存在する)」(P40)


おっさんだがそれでも若い世代だからか、
当方は韓国人差別の理由がまったくわからない。
白人女よりもアジア女性が好きなのは、差別かもしれないなあと思う。
白人女に欲情するのなんて無理っしょ?
男は差別されている女ゆえに女に欲情して、恋のような錯覚をいだく。
男女平等の社会で自分よりも上の女上司に
欲情できる底辺男は生物学的には「正しい」のだろうけれど(けだもの!)、
人間科学的には異常とみなさなければならないのではないか。
いまあまりにも女性が強くなりすぎているような気がする。
社会問題にはからきし関心がないので、そんなことはどうでもいいのだが。
男女や貴賤、貧富という言葉が差別構造そのものである。
偏差値や年収、年齢、資産もみなみな(楽しい)差別。
生きる楽しみなど差別くらいしかないのかもしれない。

「……差別意識の強い人は、
一般的に人をランキングすることに情熱を燃やす人であろう。
より社会的に優位の人を尊敬し、
より下位の人を軽蔑する姿勢の強い人であろう。
人をさまざまな視点から見ることができず、おうおうにして
時代の風潮にぴったり一致した硬直した価値観から判断する人であろう。
上には媚(こ)びへつらい、下の者を足蹴にする人であろう。(……)
権威主義的性格の人は、ヒエラルキー[序列]を好み、上へ向かって
自らの属する社会における権威に盲従することに抵抗を感じないように、
下へ向かって社会的弱者を差別することに抵抗を感じない人である」(P86)


子どものころから植えつけられた向上心が差別の原因ではないかと著者は指摘する。
もっと上を目指せは、もっと下を差別せよと同義ではないか。
上を目指せば目指すほど上の反意語の下が意識され差別感情が芽生える。
生きるとは差別をするということなのかもしれない。
生きる楽しみは差別にしかないのかもしれない。
ひとりの人を愛するとは、その人と別の大勢を差別しているということでしょう?
家族愛は、家族とそれ以外を差別しているということ。
勉強しろ。いい学校に行け。いい会社に入れ。結婚しろ。家族はいいぞ。

「差別意識をもたないことがほとんど不可能であるのは、小学校のころから、
「よいこと」を目指すように教え込まれているからである。
清潔であること、規則正しくあること、勤勉であること、
傲慢であってはならないこと、弱いものを助けること、
……こうした価値[言葉]を教えられた子供が、
これらを目指していない者、
実現していないものを蔑むようになるのは自然である」(P154)


差別こそもしかしたら生きる最高の楽しみであり味わいであるのかもしれないのだから、
差別を撤廃するなどしてはいけないし、試みても無理なのだろうが、
差別が大好きな当方は差別克服方法を鎌倉時代の踊り念仏開祖、
一遍というマイナーな坊さんから教わったような錯覚がなくもない。
世界は言葉であるならば、その相対的言語を絶した境地を得れば差別は消える。
善悪も美醜も貧富も貴賤も相対的言語である。
相対的な言葉を超える南無阿弥陀仏の
絶対的な無言語境地にいたったらダンス、ダンス、ダンス♪
というのが一遍上人の説いた教えである。
おそらくあらゆる賞を嫌う無位無冠の中島義道博士も、
目指す境地はそこなのかもしれない。
以下のようなことができたのが一遍という鎌倉時代の田舎乞食放浪坊主だ。
すべての価値観(言葉=差別)を捨てていたのが一遍である。

「社会的価値の高いものを自分より具えている人の前に出ても、
高邁[高貴]な人は卑屈にならないのに対して、
高慢[卑俗]な人はその人を憎んだり妬んだりする。
逆に、社会的価値の高いものを自分より具えていない人に対して、
高邁[高貴]な人は優越感を抱かないが、高慢[卑俗]な人はその人を蔑む。
高邁[高貴]な人が社会的価値[世間]に左右されないのは、
それよりも大切な価値[たとえば南無阿弥陀仏]を知っているからであり……」(P117)


差別感情とはなにか? とか考えられる時点で生活を無視しているのだろう。
生活するとは、食っていくとは差別するということだ。
偉いものにはペコペコして、目下のものには横柄にふるまうのが生きるということだ。
食べていくとは、そういうこと。差別とはなにか、なんて考えないこと。
著者もわたしも差別を考えている時点でどこか生活者を見下しているのかもしれない。
けれど、生活者が健気でまじめで勤勉で、
清く正しく生きるのに必死というのもどこまで本当だか。
これはアカデミズム(知的学問世界)をけっこう上手に世渡りしてきた著者の
知らないであろうわたしの現実=真実(錯覚)である。
しかし、著者とわたしはおなじように差別主義者である。
わたしは以前、知的障害を持つ青年3人と働いていたが、彼らがいまでも嫌いである。
疑いもなく、知的障害者をわたしは差別している、嫌っている。
中島哲学博士が本書で知的障害に言及していたのはこの一か所だけである。

「知的障害者ならば立派な(?)弱者、
被差別候補者として現代社会では丁重に保護される。
しかし、単なる低学力者[低偏差値、バカ学校出身]はいかなる保護もされない。
この理不尽をまえにして仕方ないと諦めるほかないのである」(P130)


そういう理不尽や世界の矛盾を知ることが生きる楽しみなのかなあ。
いつ死んだっていいと思っていたら、どこまでも身を持ち崩せる。
書物だけではわからない、
たとえば中島哲学博士の知らない世界を味わいたくて、
わたしはいやいやながらも生きているようなところがございます。



仕組みはよくわからんが、
うちのアフェからなんでもいいのでものを買ってくだされ。
お金がこちらに入るらしいし。そして、コージーコーナーのマドレーヌを食べたし。



世を甘く見ているのかもしれないが、甘いものを食べて、甘やかされて、甘く生きたい。
死ぬまで甘く♪
「ヒトラーのウィーン」(中島義道/新潮社)

→ヒトラーにはさして興味はないが哲学者の著者や
「法華経を唱えるヒトラー」(命名者:田中角栄)に
深い関心を持っているので、著者にはめずらしいこの評伝めいたものを読んでみた。
「法華経を唱えるヒトラー」とはあの人のことだが、
日本最大の権力者であり勝利者について
実名でうんぬんするという勇気は筆者にはない。
ヒトラーや「法華経を唱えるヒトラー」の才能とはなにか?

「どうも、ヒトラーには「特別の才能」があったようである。
それは、自分にそう思われることがすなわち客観的事実であるとみなすことに対して
なんの抵抗もないということである」(P63)


わたしから言わせたら、これは「特別の才能」でもなんでもない。
ほとんどの場合、客観的事実など存在しない。
世間では通常「多数派の意見」「立場が上のものの意見」が客観的事実とみなされる。
「みんながそう言っているよ」「あの人のあの人も、そう先生もこう言っている」――。
これが客観的事実の実相ではないかと思われる。
肩書が上の人間が3人集まって、目下のものに意見を言えばそれが客観的事実になる。
おそらくヒトラーも「法華経を唱えるヒトラー」も
客観的事実の嘘くささを知っていたのではないか。
一般的に客観的事実とされているものも、じつのところは嘘ばかりである。
では、なにが本当でなにが嘘なのか? もしやすべて嘘で、
本当のことがあるとすればそれは自分が本当だと思ったことではないか。
真実の追求者で嘘を嫌う中島義道は言う。

「彼(ヒトラー)にとっては(とりわけ目撃者と証拠のないところでは)、
「そうありたい」と強く願ったことが、そのまま真実なのだ。
それは、自分でも本当にそうであったと思い込めるほど
「自信に満ちた嘘」なのであるから、他人はあっさり騙されてしまうのだ」(P187)


成功者で勝利者の中島義道はおのれの真実(「自信に満ちた嘘」!)で、
どれほどの青少年を破滅に追いやったことか。
なかには自殺にまで追い込んだものもいると聞くではないか。
あんがい「法華経を唱えるヒトラー」よりも、
中島義道のほうがよほどヒトラー的存在かもしれない。
たとえば中島「愛唱の句」である「どうせ死んでしまう」や「生きる意味はない」は、
真実というよりもむしろ中島が「そうであってほしい」と願っていることではないか。
しかし、それは自分でも本当にそうであったと思い込めるほど
「自信に満ちた嘘」なのであるから、他人はあっさり騙されてしまうのだ。
自死の是非はわからぬが、中島義道の愛読者である若者はどんどん自殺していく。

客観など存在しないかもしれないのに(客観って証明できますか?)、
みんながみんな客観的(とされる)評価に敗れ去っていく。
成績がそこそこの平凡な少女は自分のことをイチバンだともキレイだとも思えない。
わが娘でさえキレイともイチバンとも思えない母親のなんと多いことか。
存在するかもわからぬ客観ってそんなに重要かなあ。
もしかしたら世の中は主観(妄想)しかないと考えられはしないか。
そう考えられたら、ものの見方は一変しないか。それはそこまで悪いことか。
たとえあなたが偏差値40の高校出身でも、
自分で自分のことをイチバンと思えたらいいではないか。
ヒトラーはそれができる男だったと中島義道は言っている。
客観的評価を常に重んじてきた男、中島義道はよほど自分に自信がないのか、
客観的評価の高いサルトルという醜男の「形而上学的自負心」という言葉を
わざわざもっともらしく権威ぶって借用しているのが老醜の息吹を感じさせる。

「……ヒトラーの天才は、自分に下された客観的評価を(心の中で)「無」にできること、
それほどまでに自分を救うことに熱狂できることである。
世界の構図をすべて逆転してでも自分を救うことは「義務」なのだ。
そのために必要なものなら何でも利用する。たとえ真っ赤な嘘でも。
これまでの人生において度重なる負け札を引いてきた自分が、
このまま終わるわけがない。
この推理にさしたる理由はない。あえて言えば「自分だから」だ。
ここには、サルトルの言葉を使えば、「形而上学的自負心」
(自分が何であるか、何をしたかによる自負心ではなく、
ほかならぬ自分だからという自負心)が唸り声を上げている。
ヒトラーは、この「形而上学的自負心」の巨大な塊であった。
それが、究極的には、彼の異様なほどの「成功」の原因でもあり
異様なほどの「失敗」の原因である」(P164)


ヒトラーは、この「形而上学的自負心」の巨大な塊であった。
おそらく「法華経を唱えるヒトラー」も、うるさい「闘う哲学者」の中島義道も、
そしてそして、いまこの文章を書いているわたしも、あるいはもしかしたら。
客観的評価なんてくだらなくねえか、と思うなら、そう思うなら、きっとあなたも。

「「私」の秘密」(中島義道/講談社選書メチエ)

→とてもとてもいい本だったので、繰り返し何度も感想を書きたい。
西洋哲学とはなにかをひと言で要約したら、哲学は言葉になるだろう。
東洋哲学たる仏教の真理はおそらく無言語状態にあるが、
西洋は「言葉、言葉、言葉」(「ハムレット」)。
日本はいまでもまだ人情世界だが、西洋は契約つまり言葉である。
どちらがいいのかはわからない。
言葉にならない状態(病名がつかない段階)はモヤモヤしてイライラするが、
いざ言葉にされると本当にそれだけだろうかと敏感なものは違和感をおぼえよう。
西洋学問というのは、言葉って本当にすごいんですねえ、というひと言に尽きる。
たとえば、権利という言葉を知らなかったら、権利を求める人もいないでしょう?
平等という言葉を知らなかったら、平等を求める人もいないでしょう?
愛という言葉を知らなかったら、愛を求める人もいないでしょう?
幸福という言葉を知らなかったら、
その反対の境遇とされる不幸で悩むこともなくなる。
動物というのは快不快原則で生きていると思う。
本来ならそのほうが自然なのだろうが、人間は言葉で自然を区分けしたがる。
西洋哲学を象徴しているのはルサンチマンという言葉だろう。
ルサンチマンなんて言葉は知らないほうがいいのかもしれない。
上層部は庶民に祝福や大勝利という言葉だけ与えておけばよろしい。
なにが起こってもこれは神の祝福だ、大勝利だと思っている人間がいちばんイージー。
差別という言葉を知るから被差別者は差別に苦しまなければならなくなる。
おそらく大勝利オンリーがベストだろう。
交通事故に遭っても生きていれば死ななかったのだから大勝利と思っていればいい。

もしかしたら客観的世界は存在しないのかもしれない。
たしかに絵画は主観だが、写真は事実を伝えた客観だろうと反論されるかもしれない。
しかし、写真にもフレームを決定した撮影者の主観が大きく影響している。
そのうえ、ここが重要だが、1枚のおなじ写真を見ても人はいろいろなことを思う。
青と黄色と赤の看板がうつっている写真でも人によって見え方は変わる。
ある人はなにも思わない。べつの人は怖いと思う。
ある宗教団体に属する人は、とてもいい写真と思うかもしれない。
そして、そのどの感想もそれぞれ正しい。
日本の創価学会も西洋のルサンチマンとおなじような言葉だと思う。
繰り返すが、客観的な万民普遍の世界は存在しないのかもしれない。
なぜならば、人によって知っている言葉が異なるからである。
日本人とベトナム人とでは、
おなじ光景を見ても違うような言語解釈をするだろう。
本書のタイトルは「私の秘密」だが、「私」という観念(言葉)を知らなかったらどうだろう。
「秘密」という言葉(観念)を知らないものに世界はどう見えるだろう。
もしかしたら客観的世界など存在せず、
世界はそれぞれの言葉で色付けされたさまざまなものがあるだけなのかもしれない。
わたしはこのところ世界が以前と比べて、
とても生き生きとしたものに見えることがあり驚くことがある。
ながらく「死」のことばかり考えてきたわたしは、
いま目にうつっている世界は死んでい「ない」ことを敏感に察知しているのかもしれない。
「死」という言語を知ると、死んでいない世界が生き生きと見えるようなこともあるのか?
そんなことを有名哲学者の中島義道博士の名文を読んで考えた。
書籍は言語の集積である。
(例によって引用文中の[カッコ]は当方のお節介な意味補足)

「言語を習得した者のみが「……でない」
という否定的態度で世界に接することができます。
眼前のこの特定の色Fは赤くないと同時に、青くなく、黄色でもなく。茶色でもない。
ですが、このとき私の瞳孔(どうこう)を刺激するF[客観]には、
この否定[主観]は含まれていない。
刺激の対象としては、ただFが[客観的に]「ある」のであって、
ここに私はあらためて言語によって否定を到来させて
同じFを[主観的に]「赤くない色」であると同時に「青くない色」であると判断するのです。
「Fは赤くない」という[主観的な]判断によって、
[客観的な]知覚=刺激に何も付け加わるものはない。
知覚の対象としてのFのあり方が変わるわけではない。
ここに持ち込まれた否定[主観]は、
[客観的]知覚とはまったく異なった世界に対する私の態度に基づくからこそ、
知覚[客観的対象]に影響を及ぼすことはないのです」(P81)


ここから先が重要ですよ。

「その態度とはいかなるものでしょうか。
私が「赤いもの」を求めているという態度です。
私は、「赤いもの」を探している。その場合、さまざまな色は
私のこの態度によって「赤い色」と「赤くない色」とに分類される。
ここに、赤い色以外のさまざまな色はその固有な色を失うことなしに、
総じて「赤くない色」という性質をもつようになります。
知覚=刺激上は何一つ変化していない。
ただ、世界には忽然(こつぜん)と「赤くない色」という否定的色が登場したのです。
同じように、私が傘(かさ)を探しているとき、
突如として傘以外のすべての物はその固有のあり方を維持したまま
「傘でない物」という否定的物を「はらむ」ようになります」(P81)


正義を求めているものには、
他人のミスばかり目につくようになるだろう。
金銭を求めているものには、
他人の機能性(役に立つかどうか)ばかりが気になるようになるだろう。
よしんば死のようなものを求めているものがいたとしたら、
人間はおろか世界全体が輝いて見えるようなこともなくはないのかもしれない。
おなじ日本国民でも東京都民でも板橋区民でも人によって「住んでいる世界」は違う。

「「私」の秘密」(中島義道/講談社選書メチエ)

→とてもいい本だったので、何度も繰り返し読んだ。
この本に費やした時間を考えると驚くくらいである。
ファンである、うるさい哲学者の中島義道先生の最高傑作ではないかと思う。
費用対効果のようなものはとくになく、金にもならないし女にもてるようにもならないが。
つくづく思ったのは、家族関係や職場の人間関係といった世俗のことのほうが
西洋哲学よりも何十倍も難しい。
これはわたしにとってはで、人によっては西洋哲学のほうが難解だろう。
わたしは中島義道の本をたくさん読んでいるから、おそらくこの本のおもしろさがわかる。
ひまにまかせていろいろな本を読み散らかしたせいもあろう。
40年、50年と働きづめできた人にはこの本の意味がよくわからないだろう。
その代わり、仕事のことはその人のほうがよくわかっているだろう。
おそらくたぶんそういうほうが現世的な意味では幸福だろう。

繰り返し読んだ本書の内容を要約すれば、「私」は存在しない。
「私」のみならず、過去もいまも未来も、それどころか世界も存在しない。
正しくは、存在しない、ではなく、存在しないのかもしれない。
いや、存在するのかもしれない。
かりに世界が存在するのだとしたら(本当は過去もいまも存在しないのかもしれないが)、
「私」とは過去をいまと結びつけている語り部としての機能だけかもしれない。

――と、こんなことを言われても、ふつうの人は意味がわからないっしょ?
わからないことを言われると庶民はすぐ怒る。
世界は存在しない? なーに、おまえ、インテリぶりやがって!
おまえは生意気だ。世界が存在しないはずないだろう。なに?
すぐおまえは歯向かってくる。おまえは間違っている。
おれがおまえを鍛えて現実世界を教え込んでやる。おまえを注意するぞ。
インテルぶるな。理屈を言うな。おまえ、おまえ、おまえ、おれを舐めるなよ!
――とこうなるのがオチである。

「世界は存在しない」には耐えきれない苦労人も、
「私」の怪しさならご理解いただけるかもしれない。
苦労人のおじいさんとか、自分探し(「私」探し)をしている若者が嫌いそうじゃん。
ここをとっかかりに進めないだろうかと思う。
「私」は存在しないのかもしれない。
「私」が存在するとしたら、それは過去といまを接続する接着点としてだけである。
いまの「私」は過去にこういうことをした(=しなかった)存在だ。
そう語るときにのみ「私」というものは存在する。
若者が自分探し(「私」探し)をするのは、過去になにもしていないからである。
「私」とは過去のことだから、過去が少ない若者ほど自分探しに熱中する。
いい歳をした大人が自分探しをやらなくなるのは、
「私(=過去)」がどうしようもなくできあがってしまったからだ。
苦労人が「あたまでっかち」を毛嫌いするのは、
苦労してきた(と「私」が思っている)過去ゆえである。
本当に本当に本当に苦労人っぽい人は中島義道的存在を憎悪する。
むかしの創価学会の対極に位置するのが西洋風大衆哲学者の中島義道だろう。

「私」とはなにか?
こういう青臭いことを書くと、またコメント欄でたたかれるんだろうなあ。
攻撃するなら金持で有名人の中島義道に矛先(ほこさき)を向けてください。
「私」とはなにか? 「私」とは過去を語る主体である。「私」は時間的存在だ。
(以下、引用文中の[カッコ]内の記述は当方のお節介の無駄な意味補足です)

「私とは、現在知覚しながら想起しつつあるという場面で、
過去の体験を「私は……した」と語る者なのです。
時間を捨象して[時間を考慮せず、私を]とらえようとするかぎり、
いかにしても「私というあり方」はとらえられないでしょう」(P16)


カウンセリング(心理療法)や精神科で患者は「私」のことを語るが、
それは過去を語るということに等しい。
ふたたび、「私」とはなにか? 「私」の正体はなにか?

「私はあらゆる時間的規定以前に「根源的に」存在するのでもなく、
<いま・ここ>の知覚の場面に絶対確実に存在するのでもなく、
むしろ過去という不在、無意識という不在、
[過去の]泥酔・錯覚・幻覚・夢想・思い違い・早とちり……という
「混濁(こんだく)した意識」を含んで
<いま・ここ>にかろうじて「ある」のです」(P17)


「私」は過去を言葉にする主体(存在)である。
過去にあったX(エックス)という事件をいま言葉にするときに「私」が立ち現われる。
その瞬間に起こったXそのものはなにものでもないのだろう。
Xをそれぞれに想起するとき(思い返すとき)、それぞれの「私」が立ち上がる。
セックスそれ自体はなにものでもないのかもしれない。
セックスを思い返すときに「私」が発生する。
ここにレイプされた過去(=「私」)を
「あたまでっかち」になら乗り越えられる哲学的抜け道がある。
一般的に女性は身体的で男性は理性的と言われるから無理かもしれない。
だが、レイプをした罪悪感に苦しんでいる男性への抜け道もここにあるのかもしれない。
Xがなんだったのかはだれにもわからないのかもしれない。
本当は誘われてことに及んだのに、どうしてかレイプ犯人にされた男もいるだろう。
Xがなにかはわからない。
Xを過去のこととして物語るときに「私」が生じる。
Xはなんだったのか? 気持よかったのか? 痛かったのか?

「「痛かった」と過去形で語る場合の痛みははじめから観念です。
しかし、現在形の場合、思わず「痛い!」と語るとき、
それは固有の刺激Xを語り尽くしてはいない。
Xは「痛い」という言葉では表せない独特の刺激です。
しかし、それにもかかわらず、われわれはその独特性を切り捨てて、
単に「痛い」と語ることを強制される。
そして、そのときわれわれは刺激の世界を離れて
それとはまったく異なった観念の世界に足を踏み入れるのです。
つまり、「痛い」という言葉を学ぶとは、
痛いという観念によって世界をとらえなおすことを学ぶことであり、
刺激が現存していても不在でも、
同じ「痛い」という言葉を使用することを学ぶことなのです。
このことによって、はじめて私は過去世界と現在世界とを
「一つの」世界として語ることができ、
現在形と過去形を「つなぐ」ことができるのです」(P106)


「私」も過去も現在も本当は存在しないのかもしれず、
もしそれらが存在するとしたら、
「私」はいま現在ここで過去のXを言葉にする存在というだけかもしれない。
ネガティブな「私」は過去にこだわり、ポジティブな「私」は未来を語るだろう。
暗い過去を振り捨てて明るい未来を語らせようとするのが創価学会である。
しかし、中島義道によると、過去も未来もおなじようにまやかしである。
過去も未来も現在(いま)も存在しない可能性がありうる。
過去の存在を「私」がいま語るとき、その同形態で未来という概念も発生する。
未来である老後の不安におびえていま必死に働いているような人は、
「未来は存在しない」などと言われたら相手を殴りたくなるだろう。
言っているのは、東大卒のインテリで新聞学者、子どももエリートの中島義道先生。

「先ほど少し触れたように、未来は厳密には時間ではありません。
未来と現在の関係は、現在と過去との関係をただ延ばしただけです。
われわれが「未来」と呼ぶものは、じつは時間ではなく概念[言葉]であるにすぎない。
未来が過去と並ぶ独特の時間であるというのは錯覚です。
未来とは、現在であるこの<いま>を一つ前の<いま>
すなわち過去へと仮想的に[あたまでっかちに]ずらしてみて、
その過去の時点に立ってあらためて
<いま>を見なおすときに出現する時なのです。(……)
[過去も未来も世界も]すべてがただの推量の産物であり、
このすべては現在を一つの時、
そして過去をそれとはまったく別の一つの時として
産出するという操作に基づいています。
想起できなければ[あたまで考えなければ]、
過去[後悔]のみならず未来[不安]を産出することもできず、
過去との対比でのみ意味をもつ現在も産出することはできず、
未来における過去である現在も、
未来における現在である未来を算出することもできない。
時間了解の全体は、現在と過去との両立不可能なあり方を原型としており、
あとの時間了解はそのヴァリエーションにすぎないのです」(P91)


明日食うコメがなくなる庶民に
未来は概念(言葉)にすぎず存在しないと言っても通じないだろうけれど、
そういう貧困経験をお持ちにならない中島義道は彼の真実を正直に述懐する。
西洋哲学的に思弁するならば(考えたら)、過去も未来も存在しない。
いまここにいるあやふやな「私」が過去も未来もつくりだしている。
「私」とはなにか? 「私」とは時間的存在である。
「私」とは過去を言葉にするものである。「私」とは未来の予測を言葉にするものである。
「私」とは過去を後悔して悩み苦しみ、同時に未来の不安におびえる概念(言葉)だ。

「私のみが、過去[未来]と現在とを「またぐ」ことができる。
想起を世界の中に取り戻すことは[要するに、あれこれ考え悩むことは]、
現在と過去[未来]という両立不可能な時間のあり方
(現在は過去ではなく、過去は現在ではない)を世界の中に取り戻すことであり、
想起[苦悩]を通じてそれら[過去→現在→未来]両立不可能なものを
接着する能力をもつ私を世界の中に取り戻すことなのです」(P62)


過去が原因で現在、いまのわたしがこうなっているのではないのかもしれない。
現在の行為が原因となって未来がどうこうなるのではないのかもしれない。
原因(過去)も結果(現在)もないのかもしれない。
現在(原因)も未来(結果)もないのかもしれない。
すべてはいまここにあるかどうかわからぬあやふやな「私」が
つくりだしたフィクションという可能性も思弁的になら(あまたでっかちになら)
考えられないだろうか?

「光景1[夕陽]が見えないことが、光景2[星空]を見えさせると語るとき、
光景1が見えないことが原因で、その結果として光景2が見えるわけではない。
光景1[過去]が光景2[いまの私]を「見えさせる」と語っていますが、
ここにはAがBを「ひきおこす」という因果関係は成立していない。
光景1[過去]に光景2[現在]をひきおこす力などありません。
ここに成立しているのは、同時成立的[共時的]な「すなわち」の関係であり、
眼前の微小な知覚風景が見えること、
それがすなわち残りの全世界が見えないことなのであり、
残りの全世界が見えないこと、
それがすなわち眼前の微小知覚風景が見えることなのです」(P50)


これは仏教でいう華厳的な思想だが、西洋哲学者は東洋の仏教に言及しない。
「私」とは過去の苦労をくどくど語るうざい老人である。
「私」とは起こりそうもない夢を語る世間知らずの若者である。
後悔(過去)も不安(未来)も「私」がつくりだしたフィクションかもしれない。
ならば、そうだとしたら、どうしたらやっかいな「私」を乗り越えられるのか。

「われを忘れて読書しているとき、
夢中になってボールを追いかけているとき、
音楽に聴きほれているとき、
そこには一つの世界の光景が生じているだけであり、私は登場していません。
私が世界に密着して何事かに勤(いそ)しんでいるとき、
私は登場してこないのです。
しかし、そのあとで、ふっと「われに返ってみれば」
私は読んだ本の内容をよく憶えており、
ボールを追いかけていた状況をよく憶えています。
私は、(明確に)知覚していないことをも(明確に)想起することができる。
この構図のうちに、「私というあり方」の秘密が隠されている」(P84)


なにかに夢中になっているときだけ人は「私(過去・未来)」から離れることができる。
いちばん手っ取り早く経済効率もいいのは、おそらく仕事だろう。
仕事に夢中になっていたら「私(過去・未来)」から逃げることができる。
読書に夢中になるのもいいが、それには言語能力が必要で、
そのくせ金銭にはならない無駄な行為である。
あんがい忘我という意味では
恋人とセックスするのもバトミントンをするのもおなじかもしれない。
鎌倉時代のマイナー坊主、一遍がやらかした踊り念仏のパフォーマンスもそうだろう。
ひたすら念仏(南無阿弥陀仏)や題目(南無妙法蓮華経)を唱えているといいのは、
そのあいだだけは「私」すなわち過去(後悔)と未来(不安)から逃れることができるから。
最大の忘我は「死」であろう。「私」が死ぬとはどういうことか?
「死」は夜に夢を見ているのとおなじかもしれない。
夢は目覚めてその夢を語った時点で夢になる。
ひっくり返せば、語る機会がなければ夢は原体験的な夢そのものである。

「ですから、私が明け方突然心臓麻痺(まひ)で死んでしまったとしても、
私が目覚めた瞬間に殺されて、
「夢であった」とかられる場面が永遠に訪れないとしても、
そのとき原体験していることは排除されません。
極彩色(ごくさいしき)の阿弥陀さまが来迎する夢であることも、
涼しい木陰のような天国にいる夢であることも排除されません。
同じように、死んでいる場合も、
私は(夢のようなもの)をみつづけているのかもしれない。
しかし、それは永遠に目覚めることのない夢です。
すべては「夢だった」と過去形で語ることがいつまでも訪れない夢なのです」(P183)


以下の引用文の「夢」を「人生」と置き換えて読んでみてください。
人生の喜怒哀楽を味わうのは夢を見ているようなものなのかもしれない。

「夢をみている最中、私は夢をみていることを意識していない。
あとから「夢をみていた」と意識するのです。
そのことをもって、はじめてその夢は私の夢として認知されるのです。
昨夜みた夢は、夢をみている最中すでに私の夢なのではなく、
単にあの夢にすぎない。
それを、目覚めて後に私が「あの夢をみていた」というかたちで承認するとき、
あの夢は私の夢になる。
いや、もっと正確に言えば、さかのぼって私の夢だったことになるのです。
ですから、もし私が濃厚な夢をみながら、永遠に目覚めることがない場合、
目覚めた瞬間に死んでしまう場合、
あの夢[苦楽=喜怒哀楽]が世界に登場したとしても、
それはさかのぼって私の夢[苦楽=喜怒哀楽]ではない。
私は夢をみなかったことになる[人生を生きなかったことになる]。
現在の知覚における場面ではなく、過去の対象を想起する場面で、
私はある表象[出来事]が私に属することを決めるのです」(P41)


わたしは本を読んでも感想文を書かなければ、
それは「私」の読書ではないと思う。
この本を読んでいろいろ考えたが、そのあいだとても「私」を楽しむことができた。
老人みたいだと言われることが多いけれど、最近むかしの回想をすることが多い。
後悔するのではなく、おもしろかったなあ、という文脈でだ。
人は信じてくれないだろうが、将来や死への不安もあまりない。
人は信じてくれないだろうが、
この本の著者の中島義道さんなら、ああこいつヤベッとお気づきになるかもしれない。
最後までお付き合いくださった読者さま、
リアリティのない離人症患者のようなことを書いて申し訳ありません。
中島義道の本なんか読まないほうがいいが、これは著者の最高傑作かもしれない。
役に立たないインテリの屁理屈と言われたらまったくその通りだと思う。

「たまたま地上にぼくは生まれた」(中島義道/筑摩書房)

→哲学者の中島義道の講演記録集。
白状すると、講演会とかセミナーとか無料でもあんまり行きたくない。
行ったら日給で2千円上げると言われても、中島義道の私塾には行かない。
1万円だったら行くかもしれないけれど(いや、座り作業っぽいし絶対行きまっす)。
基本的に肩書がある人が壇上から複数他者に向かって話す言葉に興味が持てない。
知識なんて本を読めばわかるんだから、わざわざ人から教わるものではない。
最近にいたっては知識は覚える必要さえないのではないかという思いにかられている。
知識の問題なぞその場で出てこなくても(ぼくは持っていないけれど)
スマホ検索で即座に解決してしまうでしょ?
本当に人物を見たいのなら、試験場にスマホ持ち込みOKにすればいいと思う。
スマホOK(知識は平等)でも、
人には個々に能力差があり、そこがポイントなわけだから。
いくら高僧の名前をたくさん覚えていたって、
そんなものはスマホで取り換えが効くわけで。
ネットが普及した結果、知識の価値が大暴落したと思う。
カントの著書をいくつ言えるかなんて意味ないわけだから。
記憶していなくても、その場でスマホで検索したら一丁上がりって話。
知識ではなく、智恵のようなものがいま、いやこれからおそらく重んじられそうだが、
だれもが共有可能な客観的知識以外の「智」は果たして教えたり
教えられたりすることができるのか? 成功哲学者の中島義道は言う。

「他人と入れかわり得るような知識に対して、哲学はまず疑いを出します。
つまり、自分でほんとうに考えたことが重要なわけで、
その人がほんとうに考えて、ほんとうにのたうち回って得た知識か否かは、
実感でわかってくるんですね。
小林秀雄が言っていますが、知識というのは、さきほどの言葉で言いかえますと、
科学的客観性でしょうね。私が知識を持っているというのは、
客観的な知識ということで、ほかの人がそれを確かめることができるとか、
それを証明できるとか、観察できるかとかの意味を含みます。
自分が死んだら同時に消えてしまうものを、知識とは言わないわけです。
知識に対応する言葉は、信念で主観的普遍性に当たりましょうか。
つまりおれは個人的にこう思うんだということです」(P93)


博識自慢をする人はいやだよねえ、って話かもしれない。
こういうブログをしていると、あれを読めこれを読め、
などとはるか年下の分際で当方を指導しようとする若僧が現われる。
それは違うわけ。書物の名前を出しても意味がない。
ほかならぬあなたがその本を読んでどう思ったかが問われている。
かといって、コメント欄に長文を投稿されても大半は読みたくないけれど。
歩く百科辞典とかスマホ全盛の現代では、歩く粗大ゴミみたいなもので。
というか、みんながみんないまではもう歩く百科事典になっているわけ。
記憶力なんかそれほど問題ではなくなっている、とも言いうる。
だって、忘れていてもすぐに調べられるのだから。
とはいえ、ネットは便利だが、掲示板での匿名議論は意味がないと思う。
身体を張っていない記号だけの対話など時間の無駄。
対話というのは相手の息遣いからテンポまで瞬間瞬間で変わるからおもしろい。
自分の意見が相手によって変わりうるのが折伏ではない対話なのだろう。
そこまでの対話を他人としたことのある人がどれほどいるものか。
あれほど生きている楽しみはないような気もする。
対話は折伏(しゃくぶく/創価学会の勧誘)とは異なり――。

「……対話というのは途中でどうなるかわからない、
話が進んでいくうちに自分の意見を変えるかもしれないわけです。
そういうことがなければおもしろくないわけです。
相手を打ち負かすことが目的ではないんで、
プラトンの『ゴルギアス』の中でソクラテスが、
もし、あなたが私を打ち負かそうとするんだったら、私は降りますよ、
私はあなたに勝つことではなく、真理を知りたいことが目的なんだからと、
言ってるところがあるんですね」(P103)


中島義道は「自分は絶対に正しい」の人だから、
おそらく本当の対話をしたことがないと思われる。
名誉も地位もなにもないわたしは、対話中にころころ自分の意見が変わる。
それは対話相手が長年の交際相手で、そのうえわたしを好きだからだろう。
最低ラインとして好きな人としか対話は成立しないと思う。
囲むのは暴力のひと言に付き、対話は一対一でしか成立しないのではないか。
いまとりつかれたように創価学会の本を読んでいる。
あそこの周辺ってキナ臭くて、もう人生捨て鉢なわたしにはとってもおもしろい。
わたしを嫌いではない、わたしに関心がある学会員と
いつか一対一で対話をしてみたいけれど。
先生の悪口で盛り上がっちゃいそうで怖い。

言葉への深い確信と、どす黒い不信感が同時に求められているのだろう。
中島がこの本でたとえにしているのは馬と「馬」。
われわれは「馬」という概念(言葉)を知っているから、
馬を見てこれは「馬」だと思うわけでしょう?
「馬」という概念を知らなかったら、馬は「動物」でしかない。
「動物」という概念(言葉)さえ知らなかったら、いったい馬はどのように見えるのか。
ここのところは非常におもしろかったので、そのためメチャクチャなことをしたい。
引用元を意図的に変えて紹介してみたいのである。
一般的に「先生」は「真理」を知っていると思われている。
しかし、「先生」も「真理」も概念(言葉)なわけだ。
100人のうちひとりにでもご理解いただければと期待して、あこぎなインチキ引用をする。
われわれは真理体現者を先生と呼ぶ。

「……物体[先生]と観念[真理]との関係は次のようなイメージですね。
そこに先生が見え真理という名前を知っているからこそ
その人物[先生]にその名前[先生]を張りつけるという話ではなくて、
むしろ「真理」という観念[言葉]を知っているから、
その人物が「先生」として見えてくるんですね。
もし「真理」や「先生」という概念を持っていなければ、人間として見えてくるでしょうね。
「人間」という観念[言葉]もなければ[知っていなければ]、
「物体」として見えるでしょうね。
「物体」という観念[言葉]さえなければ、多分何も見えないでしょうね。
全体に光の渦(うず)が巻いていて、何にも見えない世界が広がっている、
これがもしかしたら実在かもしれないわけです(P128を大幅に改変)


まあ、こんなへたくそな説明ではおわかりになりませんでしょうね。
先生は先生で、真理は真理で構いません。言われなくても、そうでしょうけれど。
でもさ、こういうのも内田樹から言われたらふむふむとか納得するんじゃない?
まさか言わないでしょうけれど、池田先生の言葉なら説得力が増す場合もあるわけで。
よーし、おじさん、ソクラテスという背広を着てネクタイを締めちゃうぞ。

「ソクラテスはよく、君は自分が着物を着てて観戦するだけなのはおかしいよ、
君も着物を脱ぎなさいと言います。
それは何かというと、地位だとか名誉だとか全部脱ぎ捨てて、裸だけ、
つまり言葉だけになって戦うことですね。これが対話です」(P109)


庶民の王者の池田先生は、肩書のある人としか対話しないのはどうしてなんだろう。
いや、人のことはどうでもよく、そんなことより、いまは自分のこと。
わたしは真理も先生も求めていない。
そもそも(絶対的)真理なんてないのではないかと疑っているからである。
自分のこと。わたしのこと。なにをしたいのか。おもしろいことをしたい。
おもしろいことってなんだろう。
万民にとっておもしろいことではなく、わたしにとっておもしろいことはなにか。
社会的成功者で地位も名誉も財産もあり、
お坊ちゃんも博報堂勤務の人生の大勝利者はこんなふざけたことを言いやがる。

「私は、五十歳になってわかってきたんですけれども、
何の事件もなくて、ただ幸せって嫌になってきたんです。
私、北極で一人で死んでもいいと思っているんです。
人から不当な仕打ちを受けたり、よかれと思ったことがみんなに理解されなくて
ということがもっとあればいいと思うんです。
そうすると、鍛えられますから。
そういうふうに期待して生きていると、皮肉なことに、
世の中には私のことを比較的わかってくれたり、
比較的いい人がたくさんいるっていうことがわかるんです」(P128)


中島義道は日蓮みたいな負け犬人生を歩みたかったのだろうか。
まだまだわからない。最後まで大どんでん返しがあるかもしれないのが人生よ。
中島義道が激痛に悩まされる難病にかかったりしないかなあ。
中島義道のお偉い息子さんが両手両足切断の事故に遭わないかなあ。
そういう犯罪に巻き込まれないかなあ。
確率的には起こるはずがないが、確率に逆らうのが個々の人生である。
中島義道だって統計的に見たら敗残者になる可能性のほうが異常に高かったのに、
一回きりの人生で大成功をしてしまいこうして勝ち誇って演説しているのだから。
地位と名誉、財産を勝ち得た中島先生は壇上から民衆に教えをお説きになる。

「確率がどんなに小さくても、それが現に起こってしまえば、否定できないわけです。
つまり、いつでも非常に起こりにくいことが現実に起こってしまうんですね。
みなさん、よく知っているのは、飛行機が堕ちることです。
どんなに確率が低いといっても、堕ちたら終わりだってみんな知っているんですよ。
どんな過去のデータを出されてもだめなんです。
堕ちたら過去のデータは何の力にもなりません。過去のデータが
次の飛行機の安全なフライトに一切関係ないことを知っているんですよ。
賭けは、未来が決まっていないことをみんな知っているから成立しているわけです。
ところが常識や科学は、
未来が決まっているかのような錯覚をわれわれに与えているんです」(P186)


明日まで生きたら、明日なにが起こるかは絶対にわからない――。
明日なんか来ないのかもしれないけれど、あはっ♪

「進化倫理学入門 「利己的」なのが結局、正しい」(内藤淳/光文社新書)

→小著ながらいろいろ考えさせられるとてもいい本だった。
さてさて、当方が評価する本はネットでたたかれていることが多いのだが、
本書もそのパターンのようで、多数派から感情的な攻撃を受けていた。
わたしは本書の要点を何度も繰り返し読み考えに考え抜いた。
ああ、そういうことか、という発見がある本はめったにあるものではない。
これから紹介するこの本の内容は、それが絶対的に「正しい」というわけではなく、
科学的(生物学的)にそういう見方もできるということである。

人間観はいろいろあるが科学的(生物学的)に見たら人間も動物の一種である。
人間を生物(動物)として考えてみたら、というのが本書の立ち位置だ。
生物は科学的に観察すると、遺伝子の繁殖を目的としているように見えることが多い。
一時期(かなりむかしだが)話題になった「利己的な遺伝子」というやつである。
そのような観点から人間を科学的(生物学的)にとらえると、
(動物の一種としての)人間は「生存」「繁殖」「そのための資源獲得」を
求めるものと言えよう。
遺伝子を伝達するためには「繁殖(子づくり)」しなければならないし、
「繁殖」するためには「生存(とにもかくにも生きていること)」しなければならないし、
「生存」するためには「そのための資源」を獲得しなければならない。
「繁殖」のために必要な「資源」は異性である。
男性はよりよき異性を獲得するため(繁殖目的)に地位・名誉・財産を求める。
女性はよりよき遺伝子を後世に引き継ぐためによりよい繁殖相手を欲する。
「よい」と書いた。人間はより「よい」繁殖相手(性的資源)を求めるものだ。
このときの善悪とはいったいなんになるだろう?
そこから話をさらに広げて、
科学的(生物学的)に見たら動物にすぎない人間における善悪とはなにか?
科学的(生物学的)に見たら、人間の善悪(=道徳)とはいかなるものか?
ここが本書でいちばん衝撃的で啓蒙的で、まさしく目を見開かされた思いがする。

「……道徳[善悪]は、われわれ自身の利害損得と離れて
それと別な根拠で成立しているのではない。
そう意識されていないだけで、本当は[善悪は]利害損得から成り立っている。
道徳の基(もと)は「利益」にあり、善をなすのは得、悪をなすのは損である」(P13)


道徳→「善=得」「悪=損」

われわれ人間は科学的(生物学的)に見たら動物と等しく、
ならばだとしたら「生存」「繁殖」「資源獲得」が存在理由である。
そして、「生存」「繁殖」「資源獲得」のために得になることを「善」、
損になることを「悪」とわれわれは認識しており、それを道徳と名づけている。
ひとつの最高真理(絶対真理ではないが)ではないかと思う。
遺伝子を残すことが生物の存在理由である。
そのために必要なのは「生存」「繁殖」「資源獲得」。
人間はこの三大目的にとって得になるものを善、損になるものを悪と認識する。
自分の利益になるものは善で、不利益になるものは悪ということである。

具体例に入ろう。夫婦は愛しあう「べき」だとされている。
「べき」というのは善を指向するもので、したほうがよいということである。
夫は妻を愛する「べき」で、夫が妻を愛するのは善であるとされる。
これは科学的(生物学的)に見たら、いったいどういうことか。

「……つまり、夫にとっては、妻に利他行為[愛情表現]しないよりも、
積極的にして、夫婦関係の安定と維持を図る方が得である。
もちろん立場が逆でも同じで、夫・妻・恋人などへの利他行動[愛情表現]は、
「配偶パートナーの獲得・維持」、
すなわち、自分の子どもを作り育てるための
社会的・経済的枠組みを確保することにつながっており、
これ[愛情表現]も「自己の利益」に結びつく「利己的」行動だといえる」(P64)


愛しているから結婚するわけではなく、遺伝子を残すために人は結婚願望を持つ。
夫婦は愛しあっているからお互いにいたわるのではなく、
そのほうが遺伝子(子ども)の安全につながるから
(本来は利己的な生物の一員にすぎぬ)人間は配偶者に利他行動を取る。
そうではない場合はいくら「愛する」相手とはいえ利他行動を選択しない。
科学的(生物学的)には、
愛情と名づけられた利他行動なぞ利己的行為にすぎないと見る。
科学者の著者は主張する。異性愛のどこか利他行動なのか。

「では、妻や彼女がたまには新しい刺激を楽しみたいと思い、
夫や彼氏以外の男性とデートしたい、旅行に行きたいと希望したらどうか。
そこでなんとか希望がかなうよう、妻の好みに合うデートの相手を探してあげる、
旅行や旅館の手配をしてあげるような夫や彼氏はまずいない」(P72)


正確を期すならそういう変態もいるのだが、
科学的に人間一般を見たら著者の「愛情」へのシニカルな視線はとても「正しい」。
「愛情」のみならず「友情」もまた科学的(生物学的)に見たらインチキである。
「愛情」や「友情」は利他行動に見えるが、じつのところそうではないと著者は主張する。
「愛情」は遺伝子を残すための弁明だが、では「友情」とは科学的にいかなるものか。
引用文中の互恵(ごけい)的利他行動とは、助け合いという意味だと思ってください。

「友人などに対して人が「相手のため」に振る舞うのは、
まさにこの互恵的利他行動[助け合い]の一環である。
一回一回の行為を行う際にいちいち将来の「お返し」を意識しているわけではないが、
人は基本的にそれを交換としてやっている。
このことは、われわれが、自分に利他行動を積極的にしてくれる相手に対して
こちらも率先して利他行動を行う、「お返し」をしてこない人には
利他行動をしなくなるという事実によく表れている。(……)
血縁関係や配偶関係のない[遺伝子に無関係の]「他人」に対して
われわれが行う親切や支援の多くは、互恵的利他行動としてなされるもので、
その基礎には(お返しによる)「自分の利益」がある」(P85)


一見美しげに思えなくもない友情や愛情は、
じつのところ科学的(生物学的)に見たら自分のためにしている行為にすぎない。
そうではないケースもあることを幸運にもわたしは人生経験から知っているが、
人間一般を科学的に見たら著者の主張は非常に「正しい」と思う。
リアルでもネットでも群れて互恵的利他行動(友情ごっこ)をしているのなんて
あれはそうしたほうが自分の得になるからでしょう?
ほとんどのカップルが愛情などで結ばれてはおらず、
お互いの利害損得のみを考えたうえでの互恵的利他行動と言えなくもない。
どちらかというと、そう言ってしまったほうが真実に近くなるだろう。
人間関係の99%は科学的に見て互恵的利他行動である。
一見、利他行動に見えるものも本当はすべて自分のためである。
科学的に「正しい」生き方は、互恵的利他行動の輪になるべく入ったほうがお得だ。
なぜなら利害も損得も多くの他人からこうむるものなのだから。

「このように、個人の資源獲得に「他人」が大きな影響を持つ人間の生活では、
周囲の人と互恵関係を持てるかどうかが、
ひとりひとりの生活状態に重要な意味を持つ。
周囲の人と物や情報、「お世話」などを交換する関係をたくさん築ければ、
自分の資源獲得機会がそれだけ広がって利益になる。
そうでなくて周りの誰ともつきあいや関係を持たない人は、
資源その他の利益を得る機会がずっと狭まる。
互恵的利他行動に基づく他人との互恵関係は、
各人が生きるための資源をどれだけ確保できるかに直結しており、
われわれの生存・繁殖を大きく左右する」(P86)


ならば、そうだとしたら、どう生きるのが科学的(生物学的)に「正しい」のか。
科学的には、困っている人はなるべく助けたほうがいいことになる。
他人のピンチは自分のチャンスであるというのは科学的に「正しい」思考法だ。
新興宗教信者は、だれかが不幸になったときをねらって勧誘攻撃を仕掛けるが、
それは非常に科学的で理にかなった行為であると言えよう。
死別や失職などで困っている人がいたら、それは優良投資先と言えなくもないのである。

「一方、何かの事情で苦境に入る人、助けを必要としている人に注意を向け、
それに対して自分から利他行動をしてあげようという
意欲を生じさせる感情が「同情」である。
こういう人は、言ってみれば「誰かからの利他行動」を強く必要としている。
そういうニーズを持った人なのである。
なので、そのニーズに応えて必要な助けをしてあげれば、
それだけ強くこちらに「感謝」し、後々利他行動を「お返し」してくれることが見込める。
言うなれば、「困っている人」というのは、
その人のために何かをしてあげれば将来「お返し」が返ってくる可能性が高い、
有望な「投資先」であって、そういう相手を見つけた場合に、
それに対する「投資」を自分に動機づけるのが同情の感情である」(P91)


利益は人からしか来ないのだから、多くの人と互恵関係をむすんだほうが得である。
いちばんの優良物件は、いま困っている人たちである。
いまの成功者に尽くしても相手はそれが当たり前と思ってるからお得ではない。
いま悩んで困って苦しんでいる人に手を差し伸べるほうが科学的に「正しい」し、
利害損得的にもプラスの行為であると結論づけられよう。
この世でいい思いをするために科学的に推奨されることは、
どれだけ多くの人と互恵関係(群れる、つるむ、シンパになる)を結べるかである。
科学的には、いったいどうしたら多くの人と互恵関係を結べるか。
「いい人」ぶるのが、もっとも科学的に「正しい」行為である。
利益を得たかったら互恵関係を他人とのあいだでつくるしか道はない。
これは科学的(生物学的)に「正しい」事実である。

「……他者から互恵関係を結んでもらうには、
「こちらに積極的に利他行動をしてくれる人[=いい人]」
と思われることが絶対の条件であり、そういう評判を得ている人は、
周囲の人と互恵関係を築く可能性が広がる。
そして、そうやってたくさんの人と互恵関係を築けるなら、
こちらが相手から利他行動を受ける機会も増えて、
それは私の利益になる」(P100)


科学的に言って、親切はすればするほどこちらも得をするのだろう。
自分の利益のためになにをしたらいいのか科学的に考えたら、
それは親切行為(利他行動)なのだろう。

「……他者への利他行動[親切]は、将来、
不特定の人たちから「見返り」を得るための「投資」なわけで、
そのために必要な「よい評判」を確保する意味でも、
他者に積極的に利他行動[親切]をすることは、
われわれ自身の利益につながっている」(P102)


親切=利他行動=見返り=お得=善

ということは――。

いじわる=自利行為=仕返し=損害=悪

科学的(生物学的)見地から言えば、現世で利益を得たいならば、
いっぱいいっぱい、めーいっぱい他人に親切(利他行動)をしたほうがいいのである。
なぜならば、自分のためになにかをしても見返り(得)はまったくないけれど、
他人のためになにかをしたら見返り(利益)を得られる可能性が高まるからである。
人間関係は利害関係である。人間と人間を結びつけるのは損得しかない。
これが科学的(生物学的)に見た人間の「正しい」ありようである。
現世利益(げんぜりやく)を得たかったら可能なかぎり他人に親切にしたほうがいい。
親切はお得だから「善」であり「正義」である。
自利行動は損で、利他行動ほど科学的に見て利益が生じるものはない。
この世でおいしい思いをしたかったら、まず自分から相手に手を差し伸べるにかぎる。
人生からプレゼントをもらいたかったら、
まずだれかに贈り物をするのが科学的に「正しい」。
利他行動こそ人生の好循環の秘訣であるのだろう。

「こうした好循環を生むことも含めて、自らに利他行動を動機づけ、
間接互恵における「評判の利益」の獲得に向けて行動するための内的装置が、
「良心」や「思いやりの心」である。
それは、本書でここまで説明してきた「愛情」や「友情」などの感情が、
「自分の利益」確保に向けて作用しているのと同じである。
きわめて逆説的ながら、そのように「自分の利益」を無意識化して
感情によって利他行動をとることが、間接互恵という社会関係の中で
「自分の利益」を確保するために効果的な手段なのであり、
そのための感情を備えてわれわれは行動している」(P109)


いい齢をして、どうして人を殺してはいけないのかずっとわからなかった。
本書のおかげで、ある意味で「正しい」解答を得ることができたので感謝したい。
なぜ人を殺してはいけないのか――それは損をするからである。
殺人をするとその遺族との互恵関係が失われ、復讐されるかもしれない。
自分は報復行為を受けなくても、自分の家族が損害をこうむることがある。
殺人をして死刑にならなかったとしても、
出所してから前科者の職は少なく、これは科学的に見てあきらかに損である。
どうして人を殺してはいけないのかの答えは、
それが悪だからではなく、殺人行為をなすのは当人にとってただただ損だからである。
言い返せば、この世における悪など損の言い換えにしかすぎない。
善といったところで、しょせんはお得だよという意味しかない。
人はやたら善悪(正義)にこだわるが、
それは損得の問題ではないかという科学的(生物学的)知見があることを報告したい。
コメントをいただけるのはけっこうなことでありますが、
議論するのはめんどうくさく、
もしなにか本当に回答を必要とされるご意見がございましたら
ご本名をお書きのうえメールをくださいませ。
まっ、だれもこんな過疎ブログの長文記事など
最後までお読みにならないのでしょうけれど。
いろいろ考えさせられた名著でしたが、べつに人にすすめたいわけではありません。
本書の要約をしたら一行で終わる。

道徳→「善=得」「悪=損」

「生きるのも死ぬのもイヤなきみへ」(中島義道/角川文庫)

→中島義道も小谷野敦も時給850円の書籍倉庫で働いたことがないんだろうなあ。
自分の書いた本をどんな人たちが世に出しているか一生目にすることはないのだろう。
わたしはいまのバイト先で働いて「本当の世界」を知ったような気がした。
ああ、これが本当なんだっていう、震えるようなおもしろさがあった。
これが真理なんだっていうねえ感動というか感激というか。
中島義道は真理を求めようとしない人たちを軽蔑しているようだが、
だったら、うちの倉庫にバイトにでも来ればいいのにと思ってしまう。
わたしは絶対的真理などなく、真理は人それぞれだと思っている。
だから、わたしがいまの職場で知った真理は「わたしの真理」なのだと思う。
しかし、これは絶対に真理だという自信がある。
それぞれそういう真理の求め方しかないような気がするのである。
真理は塾で先生から教わるものだろうか。
真理は本を読んで学ぶものだろうか。
真理は人それぞれだから、そういう真理もまた真理なのだろうが、いろいろな真理がある。
真理はひとつではないと気づいたときに人は悟りのようなものを得るのではないか。
学問ばかりしてきた哲学者の中島義道はゲーテの「ファウスト」を紹介する。
ファウスト博士は中島義道博士とどこか似ていなくもなく、
粉骨砕身して真理を追究してきた結果、努力が実り、社会的地位と名声を獲得した。

「だが、ふと気がついてみると、青春はかなたに過ぎ去ってしまった。
自分は学問以外何もしてこなかった。心弾むような人生の喜びを感じなかった。
自分の人生はあるいは失敗だったのではないか?
こうさいなまれているとき、
どこからともなくメフィストフェレス[悪魔]が彼の書斎に現われ、
その手引きでファウストは失われた人生を取り戻すために、世間に船出する。
メフィストフェレスはそのさい条件を一つだけもち出す。
それは、ファウストがある瞬間に満足してしまったら、
悪魔の手に落ちるということである。
何ごとにも満足しないファウストは、その賭けに勝つ自信があった。
いかなる瞬間も、全世界を肯定するということはありえないという自信があったから。
だが、彼は負けた!
開拓地で汗水流して働く老若男女たちを見ているうちに、ファウストは思わず
「時よ、留まれ、おまえはじつに美しい!」と叫んでしまったのだ」(P56)


わたしもいまの職場で何度ファウストのような感嘆をもらしたことだろう。
わたしは負けた!
「時よ、留まれ、おまえはじつに美しい!」といったい何度心のなかで叫んだか。
だが、ファウストと異なるのは汗水流して働く老若男女を見たからではない。
国籍多様な老若男女がけっこう適当にだらだら働いているのを見て感激したのだ。
くっちゃくっちゃおしゃべりしながら楽しそうに本をポンポン箱に投げている。
わたしがあれほど依存してきた書物を、まるでそれが石ころでもあるかのように、
ベトナムやネパールの人たちがあつかっている。
いつしかわたしも真似をするようになった。本なんてくだらない。
(*まじめにきちんと働いている人も大勢いらっしゃいますよ)
本なんかよりライン横のネパール人の内面を想像するほうがおもしろいのである。
このネパール人男性はわたしとはまったく異なる真理を持っていて、
それもまた真理であるに違いない。
このベトナム人の女の子はいったいなにを考えて毎日を送っているのかと思う。
うちの倉庫は真理の多様性が絵画のように表現されているところがあり、
ある面から見たら本当に美しい場所と言えよう。
いいところも悪いところも書きたいと思った。表現したいと思った。
なぜなら「生きる」とは――。

「……「生きる」とは、思索し、その結果を全否定し、また構築し、
それをまた完全に廃棄し、また考え直し、また反省し、
……という操作を[言葉で]ずっと繰り返すことだ。
これができるかぎり、表現者は生きていける」(P57)


しかし、表現は迷惑行為である。
ついにこのまえマネージャーさんから聞かれてしまった。
「(職場のことを)ブログを書きつづけますか?」
「それともこの仕事を辞めますか?」

「先生はえらい」(内田樹/ちくまプリマー新書)

→春日武彦との対談本でものすごくえらそうだったから内田樹は嫌いだったが、
この本はとてもおもしろく、ああ、そうそう、とものをわかる喜びに震えた。
「人はわかりあえない」というのはある種の真実である。
しかし、これは絶望ではなく、ものすげえ輝きを放つ希望なんじゃないか!?
というのが本書の内容である。
「人はわかりあえない」からこそ相手を誤解して恋愛なんてやらかすんだろう。
「人はわかりあえない」からこそコミュニケーションがおもしろくなる。
わからないという現象がいかに魅力的か。
そして、わからないものを誤解するところにこそ生きる楽しみがある。
だから、ラカン(えらい人らしい)はわざとわからない本を書いた、
と著者は本書で主張する。
わからない文章のほうが誤読する余地があっておもしろいじゃないか、と言うのである。
これはまったくそうで仏典なんかも意味がよくわからないから、
独自解釈をするのがおもしろいのである。
わたしなどわかりやすい文章を書こう、書こうとしているけれど、
もう少しわかりにくい文章を書いたほうがいいのかもしれない。
いや、いくらわかりやすい文章だって、わたしの考えていることは伝わらず、
読者さまはそれぞれ勝手な解釈をするのだろうが、そこがおもしろい。
わかってもらおうなんて思わないで、
いかに秘密の人でいつづけられるかが周囲から人気を得るこつなのかもしれない。
弟子がえらいとき先生がえらくなるのである。
先生をえらくするのは弟子なのである。
先生が教えようとも思っていなかったことを弟子は勝手に学び、
まさにその行為が先生をえらくするのだ。
そもそも「人はわかりあえない」のだから、
師匠(先生)が弟子になにかを教えられるはずがない。
あらゆる教育のようなものは弟子が勝手に学んでいるだけなのである。
「人はわかりあえない」は希望である。
「人のことがわかる」は絶望である。そもそもわかりあえないのだから、
わかったというのは誤解なのだが、その誤解も楽しいからまたいいのだろう。
名著から名文をいくつか抜粋しよう。この本はおもしろかった。

「恋に落ちたときのきっかけを、たいていの人は
「他の誰も知らないこの人のすばらしいところを私だけは知っている」
という文型で語ります。みんなが知っている
「よいところ」を私も同じように知っているというだけでは、恋は始まりません。
先生も同じです。
誰も知らないこの先生のすばらしいところを、私だけは知っている、という「誤解」
(と申し上げてよろしいでしょう)からしか師弟関係は始まりません」(P21)


恋に落ちやすい人と落ちにくい人っているよねえ。
あまりにリアリストだと恋に落ちないんじゃないかなあ。
「人間なんて、そんなもの」という山田太一先生から教わった名文句を
一時期愛誦していたことがあったけれど、あれはよくないのかもしれない。

「先生は同じことを教えたのに、生徒は違うことを学んだ。
そういうことが起こるのです」(P27)


アントニオ猪木はホウキとも名試合をすることができたというけれど、
本当に学習能力の高いやつにとっては時給850円の職場が学校になるのかもしれない。
わたしは自分のことが本当によくわからない。
最後までわかることはないから、そこがおもしろいのだろう。
親友と話していると、ふと話が脱線することがある。
そして、なんでもないつまらない話をするものだが、
あとになってから自分の話した言葉によって自分のことが少しだけわかるのである。
いや、わかったというのは錯覚で、自分への新しく楽しい誤解がひとつ生まれた。
人との会話はおもしろいのである。
どうしても相手から受けることをねらってしまうから、
自分が話そうと思っていなかったことを話してしまう。まさにそれこそ会話の妙。
これは相手が引き出しているということも言えるが、
相手が聞きたそうなことを自分がイメージしているだけとも言えなくはない。

「あなたが話したことは「あなたがあらかじめ話そうと用意していたこと」でも、
「聴き手があらかじめ聴きたいと思ったこと」でもなく、
あなたが「この人はこんな話を聴きたがっているのではないかと思ったこと」
によって創作された話なんです。
奇妙に聞こえるかも知れませんが、この話を最後まで導いたのは、
対話している二人の当事者のどちらでもなく、
あるいは「合作」というのでもなく、そこに存在しないものなんです。
二人の人間がまっすぐ向き合って、
相手の気持ちを真剣に配慮しながら対話をしているとき、
そこで話しているのは、二人のうちどちらでもないものなんです。
対話において語っているのは「第三者」です。
対話において第三者が語り出したとき、それが対話がいちばん白熱しているときです。
言う気がなかったことばが、どんどんわき出るように口からあふれてくる。
自分のものではないようだけれど、
はじめてかたちをとった「自分の思い」であるかのような、
そんな奇妙な味わいのことばがあふれてくる。
見知らぬ、しかし、懐かしいことば。
そういうことばが口をついて出てくるとき、私たちは
「自分はいまほんとうに言いたいことを言っている」という気分になります」(P61)


この感覚、わかるわかる、わっかりまくり、なのは対人運がいいからなのかもしれない。
なにが出てくるのがわからないから会話っておもしろいんだよねえ。
そういう創造的な会話をできる人とめぐりあえた人はなんて運がいいのだろう。
変なものが出てくる会話ほどおもしろいものはないのである。
文章を書くのも会話だから。
この文章は特定のだれかに向けて書いているわけだから。
来週の日曜日が楽しみです、みたいな。
しかし、その人以外もこの文章をそれぞれ好きなように解釈できるわけで、
なんでこんな感想文を書いているかっていうと、
書かないと本になにが書いてあるのかわからないから。

「恋人に向かって「キミのことをもっと理解したい」
というのは愛の始まりを告げることばですけれど、
「あなたって人が、よーくわかったわ」
というのはたいてい別れのときに言うことばです」(P192)


ブログにアフィリエイト(広告)を張っているけれど、ぜんぜん本は売れない。
みなさん、うちの記事を読んで、もうわかったと思っちゃうんだろうなあ。
いや、べつに本が売れても10円、20円の世界だから、
買ってくれなくてもぜんぜん構いませんけれど。
わたしってけっこう個性的な人だって思いませんか? 変人というかさあ。
わたしは間違える天才のようなところがある。
思いっきりの180度ずれた誤答をちからいっぱい書くような勢いがある。
でもさ、「正しい」ものがないとしたら、ぜんぶ誤答だから、
楽しくておもしろい誤答をできるのもまた能力じゃないかなあ。

「人間の個性というのは、言い換えれば、「誤答者」としての独創性です。
あるメッセージを他の誰もそんなふうには誤解しないような仕方で
誤解したという事実が、
その受信者の独創性とアイデンティティを基礎づけるのです」(P152)


「先生はえらい」をひと言で要約したら、
「先生はえらい」と言えるのは「弟子のわたしがえらいから」ということになろう。
内田樹先生はえらいなあ。こう言えるのはわたしがえらいからである。
わたしはえらい。
この文章を読んで書き手をえらいと思ったとしたら、それはあなたがえらいからである。

「エゴイスト入門」(中島義道/新潮文庫)

→哲学者の中島義道の一般向けエッセイを読む。
ろくな大学教育を受けていないから(授業中は寝ていた)これは間違いだろうが、
哲学とはたぶん自分のあたまで考えたことを自分独自の言葉で語ることなのだと思う。
なんだ、そんなこと、みんな当たり前のようにしているじゃないか
と言われるかもしれないが、本当に自分のあたまで考え尽くしたことを
自分独自の言葉で語ることほど難しいことはない。
わたしも含めてほとんどの人が他人(あるいは多数派)の考えたことを
さもあたかも自分の言葉のように偽装して語っているに過ぎない。
考えるためには疑うちからが強くなければならない。
しかし、この世の中のことはいったん疑い始めると、
蜃気楼(しんきろう)のようなものだと気づいてしまい強烈な不安に襲われる。

このため、人は新聞やテレビにすがりつく。
新聞がなぜ「正しい」かと言えば、大学教授や有名作家が寄稿しているからである。
ひっくり返せば、大学教授や有名作家の偉さ「正しさ」もまた新聞が保証している。
先日、朝日新聞記者と朝日賞脚本家の対談を拝聴する機会に恵まれたが、
この構図こそまさに権威なるものを象徴(具体化)していると感激したものだ。
どうして新聞に書いてあることは「正しい」んだろうと疑うのが考えるということだ。
どうして大企業のトップの言葉は「正しい」のかと疑うのが考えるということだ。
東京大学教授の言葉が「正しい」ことになっているのは、
いったいどういう仕組みのためか。
こういうことを考え(疑い)始めてしまうと世界観が崩壊してしまうはずである。
「犯罪者は悪い」という社会の常識通りの言葉を発していたら安心だ。
村八分に遭うようなこともない。
文系の研究は「他人の言葉」(偉い人の言葉)をうまく接着融合させることだろう。
偉人の引用や参照をしつこく繰り返し礼儀を守ったうえで、
ところどころに自分の考えらしきものを挿入するのが研究論文なのだと思う。

中島義道は朝日新聞に寄稿を依頼されたという。
経済学者が女子高生のスカートの中を手鏡で覗いた事件についてだ。
そこで中島は覗きはたしかに違法だが、人間としては正常だという文を書いた。
これはもっともな話で性的趣味は人それぞれだが、
女子高生のスカートの中を覗きたいという欲望は男性多数派が共有するもの。
ならば、異常ではなく正常な感覚である。
ただし違法であることを知っているから処罰を恐れてみなしないだけだ。
この延長で中島は強姦もまた違法だが、異常な行動ではないと本書に書いている。
さて、話を朝日新聞に戻すと、
スカートの中を覗き見するのは人間として正常な行為、
と書いた記事はボツになったという。
「善良な市民の代表」たる朝日新聞にそういう記事は掲載できない。
中島義道はべつに「言論の自由」などをふりかざして怒るわけではない。
新聞とはそういうものだと自分の言葉で新聞を定義するのみだ。

「新聞の社会的役割とは、決してナマの真理を伝えるものではない。
さまざまな事象を取捨選択して、みずからの信ずる価値や理念の実現を目指すこと、
その理念に反する事実は、断固排除することである」(P18)


とはいえ、中島義道の言葉が絶対的に「正しい」わけではない。
ただ中島は自分で考えたことを自分の言葉で語っているからおもしろいのである。
わたしの考えでは、スカートの中を覗き見る男は正常だが、
強姦をする男は異常に思えてならない。
中島義道はみんなが自分のようにレイプ願望が強いと思っているのだろうか。
「正しい」の類似語は「多数派」だから、これは統計を取ってみるしかないが、
しかしいくら無記名のアンケートでも「強姦したい」と答えられる人は少ないだろうから、
結局のところ真理(真実)がどうなっているのかはわからない。

自分のあたまで考えたことを自分の言葉で語るのが哲学ではないか、と書いた。
これはわたしが中島義道や河合隼雄から教わったことだ。
自分のあたまで考え、自分の言葉でそれを語るのがどれほどおもしろいか。
とはいえ、言葉の持ついかがわしさにも中島義道は言及する。
絶対的真理のひとつとして「他人の痛みはわからない」ということがある。
しかし、「痛い」という言葉が発明され共有されてしまった。
ある身体現象を「痛い」という言葉で表現するというルールができてしまった。
このため、人はあたかも他人の痛みがわかるような錯覚に襲われるのだと中島は言う。
それはたしかに中島の言う通りだが、そうでもないぞという気もしている。
人間にはその痛みをどのように痛いか細部にわたって表現するという、
言語能力に恵まれたものが少数ながら存在するのではないか。
さらに言葉を介さない感情交流というのもまた存在するような気がしてならない。
このあたりを専門にやっていたのが臨床心理学者の河合隼雄だったのだろう。

偶然に尋常ではない興味を持っている。
なぜなら、人生を決めるものの正体はあるいは偶然ではないかと疑っているからだ。
本書に偶然に対する中島義道のおもしろい考えが書かれていた。
人は偶然に遭遇したときに運命や神秘的なものを感じることが多い。
だが、偶然は人工的につくることもできないことはない。
たとえばAさんが海外で偶然に知り合いのB子さんに逢ったとする。
これはAさんにとっては偶然である。
しかし、B子さんがAさんがどこにいるかを知っていて逢いに行ったのなら、
Aさんとの出逢いはB子さんにとっては偶然ではなく計画的である。
この後、AさんとB子さんが結婚したとしたら、
AさんはB子さんのワナにはまったことになる。
意外とこういう偶然のワナを用いて
意中の男性を捕獲した女性って多いんじゃないかなあ。
待ち伏せしていたのに偶然を装って運命の女神のするような化粧を出逢いに塗りつける。
これはうまく使えば人生を好転させる裏ワザかもしれない。

人生すべてにおいて成功した中島義道さんの悪口も最後に書いておこう。
人の悪口っておもしろいもんね、にゃはっ。
中島義道はいわゆるクレーマー体質なのだろう。
ウィーンの日本料理屋で天ぷら定食を注文したら鶏のから揚げが出てきたらしい。
ものすごい剣幕で激怒する東大卒の哲学博士である。
恐れをなした店側は特別の魚料理を博士に提供する。
女性店長もクレーマー対策として「先生、先生」と中島に挨拶に来たという。
著書多数の権力者を怒らせたら怖いから、
女将は帰りぎわお土産に夜食のおにぎりまでベストセラー作家の中島に渡した。
このときの中島の感慨に吹き出してしまった。

「ならず者は[中島のこと]、旅先での思いがけない親切についほろりとする」(P85)

偉い大学の先生って世間のことをまるで知らないのだろうか。
この夜食のおにぎりは「親切」ではなく「クレーマー対策」もしくは「賄賂」でしょう?
めんどうくさい客が来たけれど、いろいろ言い触らされたら迷惑だなあ。
だから、ふつうの客にはしないサービスを中島義道にだけしたのである。
それは99%「親切」と呼べるものではない。
中島義道もあんがいわかっていたのだろうか?
ちゃんとウィーンの日本食レストラン「優月」と名前を書いて本書で宣伝しているのだから。
新聞に悪口を書かれたら終わりだから、
むかしはみな新聞記者にはサービスしたという(いまはどうか知りません)。
有名作家が旅先の旅館などで特別待遇を受けるのもおなじことである。
中島は本書で有名人は「天真爛漫」な人が多いと書いていたが、
特別なサービスや好意ばかり周囲から受けたらだれしも人が好くなろう。
中島義道さんの一般書はいろいろ発見があっておもしろい。
「正しい」のかどうかはわからないが、おもしろいことはわたしにとってはたしかである。