「孤独について」(中島義道/文春新書)
→よくある成功者の自伝なのだが、中島義道の苦労自慢は笑える。
大学教授になるという夢がかなうまでを赤裸々につづっている。
成功本によくある美談がほとんどないのがすばらしい。
こんな下劣な人間が姑息に生きていても運しだいで成功できるという事実が励みになる。
中島も、このことを訴えたかったのだと本書で書いているのだから自覚的である。
「私はつねに他人を家柄・学歴・職業・社会的地位あるいは容貌によって細々と採点し、
自分と比較し「上か下か」判定することをやめることができない」(P59)
こんな最低の人間でも大学教授のみならずベストセラー作家にまでなれるのである。
なまじそこいらの自己啓発本を読むよりよほど元気が出てくるではないか。
「「人間嫌い」のルール」(中島義道/PHP新書)
→あなたのまわりの青少年がギドーの本をマジメな顔で読んでいたら、
ただちに取り上げなければなりません。
中島ギドーは宮台真司と双璧をなす有害作家だからです。
ヘタをすると自殺しちゃうかもしれませんよ。
さあ、お子さんの本棚をチェックして。あったら断固、捨ててしまいましょう。
小谷野敦の本なら読んだところでもてなくなるくらいですが、
ギドーやミヤダイは生死に関わるからいけません。
病院の待合室でにやにやしながら読んだ。ギドーは笑えるな。
ツルゲーネフの「ルージン」を紹介している部分がよかった。
中島ギドーの意地悪なところがじつによく出ている。
ルージンは30代半ばの男で、社交界で最初はもてはやされる。
たくみな弁舌術のためである。だが、しだいにだれにも見向きもされなくなる。
最後は何者にもなれずに死んでゆく。
大学教授の中島は現代日本の「ルージン」たちに意見する。すなわち――。
「才気をほとばしらせて、周囲の者を手当たり次第に馬鹿にし、
すでに名を挙げた者をこき下ろし、「誰もわかっていない」と呟く」(P102)
こういう人間が「ルージン」だと中島ギドーは言うのである。
ひきつづき中島は経験を語る。
「ずっと昔、ウィーンで若い作曲家に会った。
彼はベルリンで修行中であったが、
現代日本で活躍中の名だたる作曲家を手当たり次第にこき下ろした。
私が芥川也寸志とか黛敏郎という名前を挙げると、もう耐えられないというふうに
「やめてくれー!」と叫んで座布団で頭を隠した。
その後、作曲家としての彼の名前は聞かない。
こういう姿勢は二十代まで、せいぜい三十代の前半くらいまでは、どうにか通用する。
周囲の者も、もしかしたら不遇の天才かもしれないと思い込む。
だが、それをずっと続けると、――悲壮なことに――
彼は正真正銘のルージンとして人々からそっぽを向かれる運命にある」(P102)
人生に勝った中島の敗北者を見くだす、この余裕ある意地悪な視線こそ、
かのベストセラー作家の魅力である。
この引用部分を読んで「いやあな」気分になる。
もしかしたら自分も「ルージン」になるかもしれないと思うからである。
この不快感がたまらないのである。
読者を不愉快にさせることにかけては中島ギドーの右に出るものはいまい。
かれの書物はよほどしっかりした常識感覚を持っていないと
食い殺されかねないほどに毒々しい。
まさにビジネスマナーの対極に位置する本である。
「ぐれる!」(中島義道/新潮新書)
→読みながら笑いがとまらなかった。
満員電車のなかで読み始めたので非常に迷惑した。
ふだんは病院で薬ができたら席を立つのだが、
続きを読みたいがためにずっとロビーの椅子に腰かけていた。
疑いもなく、今年読んだなかでいちばん笑えた本である。
しかし、決してみなさまにおすすめはしない。
ことに高校生、大学生はぜったいに読んではならない有害図書。
わたしのように人生が9割9分終わってしまった人間を笑わせようとする書物である。
わかりやすく説明すると、日本人の好きな努力。
よく「がんばれば報われる」とかいうでしょう。
まあ、これは報われてないものをがんばっていないと断罪する非情な文言なのだが。
しかし、「がんばれば報われる」。これは冷静に考えるとウソでしょう。
だって、人間は持って生まれたものがそれぞれ違うんだから。
だけど、高校生、大学生、社会人の初期は、
「がんばれば報われる」というウソを信じていたほうがいいじゃない。
どうせそのうちこれがウソだとうっすら気づくのだから、せめて若いうちくらいは。
けれども、中島義道の書籍はそういうウソを完膚なきまでに攻撃する。
具体例を示そう。本書で大笑いした箇所を引用する。
病院のロビーで大笑いして周りからキチガイかと思われたのだった。
「あなたは駄目人間なんです。それはもう一生変わらないんです。
突如、明日からもてはじめることもないでしょうし、
明日から頭がクルクル動くようにもならないでしょう。
あなたは永遠にもてないまま、無能なまま、そしてそのまま死んでいくことでしょう。
それはたまらないだって。まだ、そんなことを言っているんですか?
ですから、それをいさぎよく認めて、あきらめきって生きるしかないのです。
背丈が一六〇センチメートルの男は、
どんなにあがいても一八〇センチメートルの男にはなれないんです。
下品な家庭に育ったあなたは、
育ちのよい上品さを身につけることはできないんです。
頭の悪い遺伝子をふんだんに受け継いだあなたは、
金輪際頭がよくなることはないのです。
しかも、このすべてにあなたの責任はない。
あなたが選んだことなんか、このうちただの一つもない。
ああ、そう考えると、すべてはなんとなんと理不尽なことでしょう。
そして、なんと心がすっきりすることでしょう。
あなたが放り込まれているのがこういう状況であることを腹の底まで確認したら、
じわじわ生き方を変えてゆきましょう。
そう、ぐれることに向かってまっしぐらに進みましょう。
世で言われているきれいごとはきっぱり撥(は)ねのけて、
自分の無能力を、自分の魅力のなさを、自分の育ちの悪さを、
最大の武器にして生きることにしましょう。
貧乏人の倅であること、醜男であること、偏差値四〇の大学を出ていること……
を常に忘れず、自分は常にしいたげられた者であるという自覚をもって、
常に不満を胸に抱いて愚痴ばかり言って暮らしましょう。
そうすると、ますますあなたは魅力がなくなります。
ますますみんなから嫌われます。でも、しかたないことです。
あなたがじぶんをだまさないで生きるためには。
せめて自分に対して、ほんとうのことを隠さないためには。
つまり、あなたは不幸になるのです。それを恐れてはなりません。
こうした不幸に一日も早く慣れることが大切です」(P98)
プロレスの話をしてもいいかな。
現在、プロレス業界は完全に終わってしまっている。カネにならない。客が来ない。
なぜかというと2001年にミスター高橋というレフリーが暴露本を出したから。
すべてのプロレスの試合が最初から勝敗が決まっているとばらしてしまったのだ。
それどころか、試合展開さえも、事前に対戦者同士が打ち合わせをしている。
プロレスでよくある流血はレフリーがカミソリでひたいをカットしている。
プロレスなどいんちきな見世物だと内部告発してしまったのである。
この暴露本はベストセラーになった。結果、客足が遠のいた。
それまでプロレスに八百長疑惑がなかったわけではないが、
どれもすんでのところで食い止めていた。
そうはいっても半分くらいはガチンコ(リアルファイト)が
あるのではないかという幻想をファンは持っていた。
それをすべて打ち毀してしまったのがミスター高橋の暴露である。
さすがに業界内部の人間が告白するものをウソだと否定することはできない。
かくしてプロレスはつまらないものとなった。
あんなものは勝敗が決まっているとわかったら、大のおとなの裸踊りに過ぎぬ。
ミスター高橋は言うのだろう。おれは真実を述べたまでだ。
印税は結果としてついてきたもの。なにが悪いもんか。
プロレスファンのみなさん、目を覚ましてください、である。
たしかにプロレスのような低所得者向け娯楽はやむをえないのだろう。
しかし、プロレスならぬ人生でおなじことをやってはいけませんよ、中島義道先生!
人生もプロレスとおなじで勝敗が決まっているというのは、悲しいが真実である。
けれども、それを嬉々として暴露する中島義道の悪趣味は(笑えるが)いただけない。
そんなことを暴露するのは幼稚ではないか。
人間、早熟なものは十代のうちに、中島の言う真実など気がつくのである。
だが、それを言ったらおしまいである。だから、みんなだまされたふりをしてがんばる。
どうせつまらない人生。そうでもして楽しまなかったら救いがないではないか。
そう考えると地位も収入も安定した中島義道は預言者気取りでいい気なもんだ。
中島の主張など知らないものはいないのである。
だが、人間は真実を知りながらも、ウソにすがりつく。
こういう人間をバカにする中島義道という人間はよほど恵まれた生まれつきなのだろう。
わたしは人生は(八百長の)プロレスではないと信じて死んでゆくつもりである。
「アエラムック 現代哲学がわかる。」(朝日新聞社)
→これはダメ。いまは言論は尊いものでもなんでもない。
食べ物とおなじ。むかしは食べる物がなかった。米ひと粒を大切にした。
いまではどうだ。この国で一日に捨てられる食料はどれほどになるのか。
コンビニのフレンドリーなCMの裏側である(賞味期限切れ食品大量廃棄)。
良し悪しではない。事実である。
言論も同様なのだ。現代は言葉に満ち溢れている。だれでもブログで発言できる時代。
毎日、ブログにより大量の言説が生産され、廃棄されていく。
エリートの新聞記者が書く記事を「読む」より、
ブログで自分の世評を「書く」ほうが楽しいと気づいてしまったひとも少なくない。
なにをいいたいのか。アエラムックは例によって権威主義。
アカデミックな有名どころに朝日新聞の旗をちらつかせて小文を書かせている。
2、3をのぞいて、ほとんどダメだ。
もしあれらの文が大学教授という肩書きなしに、ブログに掲載されていたら、
大多数の人間は読まないで画面を閉じると思われる。
おもしろくないからである。
なぜか。書き手が、文章を考えないで書いている。
そもそも考える必要もない。安定した身分がある(大学教授)。
さらにアエラムックは共著にもならぬ、やっつけ仕事。
おもしろい文章とは、書き手が発見を求めて記したものである。
考えなければ、発見はない。
アエラムックで教授、助教授連中は、知っていることを、そのまま書いているに過ぎぬ。
なんの情熱もない。教える喜びも、考えを共有しようとする意図(働きかけ)もない。
ひどい文章が並んでいる。
いっぽうてきに批判してきた。
最後に哲学者の反論とおぼしきものを引用する。
東京女子大学文理学部哲学科教授・黒崎政男。
「電子メディアの時代においては、すべてがおしなべて<情報>である。
かつては思想の深さ、強靭(きょうじん)さの証でさえあった<難解さ>は、
ヒステリックなほどに排除される。
一度見たり聞いたりしただけで理解されないようなメッセージは、
検閲されて<容易さ>に解体されるか、あるいは無視をもって迎えられる」(P161)
「図解雑学 現代思想」(小阪修平/ナツメ社)
→図解雑学シリーズはよろしい。
いまどき定価で買っても損をしたと思わせないのはナツメ社のこのシリーズくらいでは。
あやふやな知識を確かめたいときに、さっと調べることができるので便利。
一度、読むだけではなく、何度でも利用できるのがいいのだ。
著者の小阪修平は、わかりやすい哲学書を書くことで有名。
在野の研究者。つまり、大学に籍を置いていない。安定(大学教授)とは無縁。
駿台予備校の小論文講師。わかりやすいのも道理である。
さて現代思想がわかったような気になった。
はじめてあたまを悩ます。使いみちがないのである。
難解な原著を読むための時間的余裕および哲学的センスはない。
いい年だから、知ったかぶってデリダだのフーコーだのとバカをひけらかす元気もない。
まあ、よけいなコンプレックスがなくなったくらいで満足すべきなのだろうか。
嫌いなものがある。
なにかの主張(文章、会話)で、だれがこういった、なにがこういった、
と哲学者や思想家の名前をしきりにもちだす連中である。
文章なら読み飛ばす。会話なら相手をにらみつける。
これが短所であることもわかっている。とくに対人関係においては。
会話は、娯楽である。
芸能人の噂話で盛り上がるのとおなじレベルで哲学者を話題にすればいいのである。
けれども、どうしてかそれを許せないわたしがいる。
フロイトが〜などと相手が口にしようものなら鼻で笑う。
フロイトではない。あなたはどう思っているのだ。こわい顔でそう詰問していく。
対面者は自己の経験を話すほかなくなってしまう。窮屈になる。
これでは友人ができないのも無理はない。
この「図解雑学 現代思想」を読んだことで、この短所は改善するか。
そうなのだ。芸能人やスポーツ選手の話をするように、哲学者をさかなにすればいい。
いくら相手がインテリぶろうがほほえましく思えるくらいの度量をもたねばならぬ。
この本でおもしろいのも、じつは思想ではなく哲学者の人生(ゴシップ)。
キルケゴールは、あえて最愛のフィアンセをほかの男へ嫁がせる。
ニーチェ晩年の狂気の様子には爆笑した(P24)。
ふたりの兄が自殺しているウィトゲンシュタインの人生もおもしろい。
わたしのいちばん引かれたハイデガーがナチスの協力者とは!
アルチュセールは妻を殺して精神病院行き。ううん、やるねえ!
ホモのフーコーが教え子に言い寄るさまは想像しただけで笑える。
つまるところ、語られる思想に興味がないのかもしれない。
たかが個人の思想ではないか。
神の手が加わった人生のほうが、思想などよりどれだけおもしろいことか。
「哲学案内」(谷川徹三/講談社学術文庫)絶版
→これはすごい本だぞ〜。
極度の不眠症である。どうしたって眠れやしない。
毎晩、アルコールか睡眠薬のお世話になっている。
そのわたしがである。この小著にすとんと落とされた。
経験したことはないが、首を絞められて意識を失うのはあんな感じではないか。
あたまが重くなる。もうダメだ。一瞬の快感の後、すとんと落ちる。熟睡。
哲学のちからを思い知ったというほかない。
酒で眠くなるのも眠剤で眠くなるのも科学で説明ができる。
だが、あの快眠は科学では計り知れぬものがあった。
理解できた、数少ない部分を要約する。
科学と哲学の相違。
科学は知識を求める。よって共同研究が可能。判定の基準は真偽。
いっぽう哲学は知慧を希求。共同研究不可。深浅によってはかられる。
科学の知識というものは、古いものがたえず新しいものに取って代わられる。
哲学の知慧においては新古は問題とされず、いまでもプラトンが論じられる。
科学は常時、正否の問題に直面している。
この真偽に対抗するのは宗教である。
宗教は絶対の真理をもちだしてくる。
ニュートン、ダーウィン等は、哲学的姿勢で、宗教から脱皮したといえる。
この入門書から引用する。
「哲学とは何よりも物を考えるというはたらきでありますが、
物を考えるということはどういうことであるかを、
今日はわれわれの日常世界と結びつけて考えてみたいと思います。
自分の思うことが何でも行われるというような人はあまり物を考えない。
幸福な人もあまり物を考えない。
何かの問題に苦しんでいる人、実際生活の中で、何かの障碍(しょうがい)に
突き当たって自分の思うようにならないというような人が物を考える。
結局物を考えるということの最も原初的な形は、
われわれが生活の中で何かの障碍に出会ったり、
われわれの意志をはばむものに出会った場合、
それに反応する一つの仕方として現われるものと言ってよいでありましょう」(P22)
脈絡もなくドストエフスキーを思いだす。
ギャンブルですっからかんになって、ようやく小説を、
それも大長編小説を書き始める、あのロシアの文豪をである。
ぎりぎりまで追い込まれたいという欲望がわたしにもある。
不幸になりたいというよりも、不幸じゃなきゃ表現なんてできないよなという思いである。
カビのはえたような古い考えかたなのかもしれない。
どこかで傷つけられたいと思っているわたしがいるのだ。
その地点で、じぶんがなにを考えるのかに興味がある。自己愛ここに極まれりである。
「手にとるように哲学がわかる本」(佐藤正英・甲田烈・山本伸裕/かんき出版)
→これまた恥ずかしいタイトルの本なのだが、どうしてどうして。
わかりやすいんだな〜。ほんとわかりやすい。
いままで読んだ哲学入門書のなかでいちばんすらすら読むことができた。
だから、この本はよろしいと断定するのは早計なり。
医者の投薬でもあること。
いろいろな薬を患者に処方した。どれもそれほどの効験は見られない。
最後にとだした薬を患者が絶賛する。これが効いたと喜んでいる。
ここで医者も喜んでしまったら、かれはヤブ死者。
いままで服用した薬のどれかが効いていて、この時期に効果が現れたのでは。
こう疑うのが優秀な医師というものでしょう。
患者は単純ゆえ、最初からこの薬をだしてくれたらという。
だが、医療というのはそう簡単なものではない。
とくに漢方薬ではこの考えかたが強いようである。
この話から得られる教訓はなにか。
他人の推薦図書(こと入門書に限って)は、あまり信用しないほうがよろしい。
どれだけ有名な学者が、これはわかりやすい入門書だと絶賛していても、
かれはそのまえに膨大な量の知識を他の書籍から吸収しているということを
ゆめゆめ忘れるなかれ。
基本にたちかえる。哲学とはなにか。
哲学は、衣食住、労働余暇、芸術活動とおなじく、人間の営為のひとつである。
人間は生まれて、死ぬ。
いつどこで生まれるかは人間の自由ではない。能動ではなく受動の存在である。
気がついたら、生まれていた。生まれてきたくて誕生したわけではない。
人間は死ぬ。いつどこでどのようなかたちで死ぬか人間にはわからぬ。
自殺といっても100%死が約束されている方法はない(窪塚洋介を見よ)。
よって人間は死も自由ではない。
「生→人間→死」
人間は生と死にはさまれた存在である。
だが、生も死も人間にはままならぬ。不自由である。
同時に不明でもある。なぜこの両親のもと生まれてきたのか知るものはいない。
死んだらどうなるのか知るものもいない。
「不自由→人間→不自由」「なぞ→人間→なぞ」
この無知を義務づけられた人間が、生から死への過程で、
自己とはなにか、外部(世界)とはなにか、と問うのが哲学である。
だれがどう考えても人間が完全な知に到達するのは不可能である。
哲学は正解のない学問ということができよう。
あらゆる言説が批判され、そこで得られた境地も、また乗り越えられる宿命をもつ。
結果、現代では、自己とはなにか、外部とはなにか、という問いすらも疑いの対象である。
さらに人間という概念までも批判され、「人間の終焉」を主張する現代哲学もある。
哲学者の思想は、もちろんそれぞれ相違があるのだが、
それでもある一貫する姿勢がある。それは知への愛である。
画家が色・形を愛し、音楽家が音を愛し、詩人が言葉を愛すように、
哲学者は知を愛する。
そのため哲学への最大の批判は「関係ないね!」という態度(無関心)なのだが、
このような者は哲学者からこれでもかというほどの蔑視、
あるいは羨望の視線を背中に受けることであろう。わたしがいま感じているものである。
(メモ)仏教の日本伝来。聖徳太子は仏教政治を志す。
これが十七条の憲法。「和を以って貴しと為す」のあれ。
すごいよな。インドで生まれた仏教が、日本へ来ると政治思想になってしまう。
それも「和」。みんなで仲良くしましょう。そんなこと、ブッダはいったかいな。
おそらく「和」を強調したいのだが、根拠がないので仏教を後ろ盾にしたのでしょう。
聖徳太子さん、やるう! このこのう!
「哲学入門」(渡邊二郎/放送大学教材)絶版
→東大名誉教授の渡邊二郎は、中島義道にいわせたら哲学者ではないのであろう。
哲学・学者である。この書籍から著書の血のにおいを嗅ぎ取ることはできぬ。
きれいさっぱりコンパクトにまとめられた哲学の教科書。
哲学の大まかな流れが、シンプルに紹介されている。
血や涙、汗といったものとは無縁の、東大名誉教授の善意はそれなりに好ましい。
感想はそれくらいである。本記事ではレジュメふうに整理する。
読み手にとって楽しいものになるかはわかりません。
哲学の本来的な意味は「愛知」。哲学=知を愛すること。
すなわち、哲学とは「無知→知」の運動といえる。
この運動は「驚き」と「批判」に支えられている。
驚きとは、なにかを発見する感動のこと。
批判は、ロゴス(秩序・論理・言葉)を発展させる。
たとえばアリストテレスは師のプラトンを批判することでおのが哲学を構築した。
繰り返すと、哲学=「無知→知」。
そのとき哲学の祖・ソクラテスの「無知の知」は意味深いものがある。
「無知の知」とは、おのが無知を知っているものがほんとうの知者という意味。
無知から知にいたるのが哲学だが、なら知にはどのような段階があるのか。
A.常識的知識(時代と場所に支配される。風習、偏見ともいえる)
B.学問的知識(客観による細分化を指向。意味や価値とは無縁)
C.哲学的な知(部分ではなく全体を志向。世界観・人生観)
哲学が求める知識は C の根本知である。
だが、世界観や人生観を求めるものなら、哲学のほかに、芸術、宗教、道徳がある。
哲学との対応は以下のようになる。
哲学=真(根本知)
芸術=美
宗教=聖
道徳=善
哲学は根本知ゆえ、美・聖・善も包摂する立場にある。
さて、この哲学はいかようにしてなされるか。
どのようにして人間は根本知たる世界観・人生観を会得するか。
方法はふたつある。
1.自分の経験をもとにして哲学する。
2.先哲の遺産を参考にして哲学する。
偏りのない1、2の連続によって哲学はなされなければならない。
これを哲学的な用語にいいかえると、次のようになる。
1.現象学的考察。
「見る」ということである。自己を世界を「見る」。
「見る」は直観と論証をともなう。直観したものを論証する=「見る」。
2.解釈学的考察。
人間は、だれもがある枠組みのある世界へ投げ込まれている。
この枠組みを脱出し、客観視するために先哲の文献が有効である。
だが、過去の哲学者さえも、世界(枠組み)の内部から発言していることを忘れない。
いったん、まとめてみる。哲学とはいかなる営為か。著者の言葉を借りる。
「哲学は、人生観・世界観の根本知を追究する。
それは、自己と世界、主体性と客体性のすべての問題場面を総覧しつつ、
良く生きようとする意志に支えられて、生の根拠を自覚しようとする。
しかもその際、おのれ自身の生の経験をありありと現象学的に直視し(1)、
自分の存在了解の含蓄を展開し吟味する(1)と同時に、
大きな先行する諸哲学思想に謙虚に学び(2)、
その伝承の広く深い内実を解釈学的に我が物とし(2)、
生かし返しながら、哲学的思索は、実践される(1+2)」(P82)
ここで東洋哲学(仏教・儒家・道家)との簡単な比較をする。
西洋哲学=理論的・秩序的・理性的=「客観的知性派」
東洋哲学=実践的・倫理的・道徳的=「主観的心情派」
西洋哲学に話を戻す。
西洋哲学史を図式的に概観すると以下のようになる。
古代=世界中心=ヘレニズム
中世=神中心=ヘブライズム
近代=人間中心=ヒューマニズム
古代「世界」に包まれていた「人間」は、
中世「神」(教会)の支配のもと窒息するが、
アラビア世界によりもたらされた古代文化を吸収することで、
「人間」を中心に「世界」を見るようになる。
これがルネサンス。近代の萌芽である。
「人間」がかつて中心にいた「神」を飛び越えて、
みずからが中心になって「世界」を見たとき、
「世界」は「自然+歴史」に分化した。
「自然」「歴史」どちらも「人間」によって支配されうるものである。
中世の価値を再確認したい。
中世は決して「暗黒の中世」ではない。
ローマ世界に侵入したゲルマン人が、
千年にわたってキリスト教思想・古代(ギリシア・ローマ)文化を学んだ結果、
ルネサンスとして結実するにいたったのである。
中世のスコア哲学は難解であるが、簡潔にまとめると以下のような構図になる。
スコア哲学=「宗教・信仰・神学 vs 学問・理性・哲学」
後者の勝利の結果もたらされたのが近代自然科学である。
近代科学は、それまでの世界の見かたを一変させた。
「目的論的自然観」(古代・中世)→「機械論的自然観」(近代)
近代科学の思考法とは「観察」と「整合」である。
科学=観察した記録を整合する。
この近代科学の思考法は、哲学的には「経験論」「合理論」といわれる。
イギリス経験論=観察を重視=帰納法
ヨーロッパ大陸合理論=整理・整合を重視=演繹法
この近代的なふたつの思考法を統合させたのがカント、完成させたのがヘーゲルである。
さて、西洋近代化とはいかなるものか。
a.人間中心
b.民主化
c.産業化
d.都市化
e.科学万能主義
上記の近代化は多様な問題を生じせしめた。
ここから、さまざまな現代哲学が生まれることになる。
(注)本書は別の書籍で推薦図書になっていたもの。
絶版だったので、見つけたときは歓喜した。良書である。
先ほど、悔しい発見をした。
おそらくこのテキストを元にしたと思われる文庫本が出ている。目次を見たらおんなじ。
はあ〜(ため息)。わたしだけが知っている名著にしたかった。
「はじめて学ぶ哲学」(渡辺二郎/ちくま学芸文庫)2005/04
「哲学の教科書」(中島義道/講談社学術文庫)
→幼いころ、こんなことを思っていた一時期がある。
じぶんの周りにいる人間はみんなロボットではなかろうか。
だれかがわたしを試すために、この環境に投げ入れた。
家族はロボットで、わたしが学校へ行っているときには動いていない。
あるいは別の作業をしている。
教師も同様で、学校にいるときだけ作動する機械である。
すなわち、わたしだけが生きているのではないかという疑問。
試験管に入れられた微生物のようなもので、だれかにたえず反応を調べられている。
世界も存在しない。
アメリカを見たことがないのに、どうしてかの国が存在しているといえるのか。
世界は空白である。わたしが登場する場合においてのみ、舞台セットが作られる。
ある一瞬の隙をついて、かの観察者の目を盗んで、あるドアを開けたら、
そこは洗面所ではなく、なにもない空白が広がっているだけなのだ。
決められた行動を裏切り、それもまた裏切り、そのまた裏をかいて、
背後をふりかえるなら、そこには下校したばかりの学校は存在していない。
だれにもいわなかったが、小学校高学年のわたしは、そんなことを考えていた。
いま思えばとても恥ずかしいが、あんがい、
みなさまもおなじようなことを考えたことがあるのかもしれない。
中島義道にいわせると、このような体験こそ哲学への第一歩ということになる。
哲学とは、哲学者の思想をたどることではない。
犯罪や狂気に隣接した病気(懐疑)こそ、哲学の真の営みなのだと主張する。
中島の考えでは、哲学と思想は異なる。
思想は、哲学者が哲学をした結果の産物である。
その思想をなぞることは、哲学ではない。
哲学するとは、ひとりの人間が血まみれの苦悩(病気)から、
もだえつつも命がけで、ときには半狂乱になって、
それでも、たしかなものを希求しておぼろなものへ手を伸ばす営為のこと。
思想とは、その血にぬれた哲学を、安全地帯から後追いすることで、哲学とは無縁のもの。
繰り返すが、哲学をするとは――。
「『このコップを私が見ているとはいかなることか』
という疑問にえんえんとこだわり続けること」(P69)
よって、大学で教える哲学者は、ほんとうの哲学者ではないと中島は弾劾する。
もちろん、かれらも、哲学へわけいるきっかけは病(やまい)というほかない、
すべてのものへの懐疑から生じる不安だったのであろう。
ところが、難解な西洋哲学を原書で読み、論文を書き、認められていくうちに、
しだいに根源の懐疑は薄れてしまう。いつしか哲学のガイドになっている。
西洋哲学の道のりをコンパクトに整理することで、哲学者になった気分になっている。
大学教授の実態である。
みずからも大学で教授をしている中島は、自嘲も込めつつ、こう指摘する。
以下、ひかれた部分を簡単にまとめてみる。
ブッダの教えと哲学。
仏教には、毒矢のたとえというものがある。
あるひとが毒矢に射られて瀕死の状態で運ばれてくる。
このけが人が問う。その毒矢を放ったのは、どんな身分のものか。
古来、確固たる階級制度のあるインドの話である。
ブッダはいう。そんなことはどうでもいいではないか。
なにより毒矢を抜かねばならぬ。死んだらおしまいだ。
哲学とは、この瀕死の患者の問いのようなものではないか。
毒矢の種類を知りたがるのが哲学者。
ブッダはそれを知らなくてもいいと答えた(P112)。
過去・現在・未来について。
よくよく考えてみれば、現在しかないのである。
過去も未来も、生きることはできない。
それなのに人間はなぜ過去という観念をもちうるのか。
さらに無数の過去が現在になったからといって、
それは現在が未来になることを証明しない。
未来は、明日は、来ないかもしれないのだ(中島さんガキだよな〜P146)。
飲酒運転と因果関係について。
飲酒運転で事故を起こすと、飲酒が事故の原因だとされる。
飲酒が原因で、事故という結果が起こったものとされ処罰の対象になる。
だが、いくら飲酒運転をしても事故を起こさないひともたくさんいるはずである。
このとき、どうして飲酒が事故の原因と断定できるのか。
一方で、酒をのまなくても事故を起こす人間もいる。
原因と結果というのは、絶対的なものではなく、人為的に制定されるものではないか。
(飲酒運転で事故を起こすのは、ついてなかっただけじゃん!
著者はそれを言う直前まで来ているが、この著作は比較的初期のもの。
まだそこまで口にする勇気を持っていないのが、少しおかしい。P178)
ニーチェが「神は死んだ」と大騒ぎしたのは、それを信じていたがゆえ。
キリスト教とは無縁の日本人が、ニーチェのまねをしてニヒリズムを気取るのはおかしい。
同様、デリダやウィトゲンシュタイン。
あれは西洋のロゴス(言語)信仰があってこそ、革命的なのだ。
論理をそもそも重んじない日本人が現代思想をふりまわすのは笑止(P312)。
「自分を知るための哲学入門」(竹田青嗣/ちくまライブラリー)
→竹田青嗣は読者に親切な作家だと評価が高い。
アマゾンでも「わかりやすい」の大合唱がくりひろげられている。
わたしはうなだれる。
同著者の「ニーチェ入門」を読んだときも思ったことだけれども、
竹田青嗣レベルでさえわたしはわからない。わからないのだ。
きっと顔をあげる。わからないのはわるいのか。
これを年の功というのだろうか。最近、思うようになったことがある。
わからない本は著者に問題があるのでしょう。
高校生ならわからないのは、じぶんがわるいのだと思うのかもしれない。
国語教育というものがある。
あれは問題文が絶対的に正しく、その文章を理解できないのは読み手の罪悪とされる。
この国語教育の弊害で、ちょっとでもわかると、わかった、わかりやすいと大騒ぎする。
ちょっと待てよ、といいたい。わかるって、そんな簡単なことか。
わからないのは、そんなに恥ずかしいことかな。
人間はそう簡単にはわからないというのは同意してもらえると思う。
なら、本だったら、容易に理解できるのかい。人間が書いた本だったら。
竹田青嗣の、この哲学入門書がわからない。
著者がよく例にあげる場面がある。
リンゴがある。それを見ている「私」がいる。
ここに哲学の原初的風景を著者は見いだしているようである。
存在するとはどういうことか。見るとはなにを意味するのか。
リンゴを見ている「私」とはいかなる存在か。リンゴとおなじ物体か。それとも精神か。
リンゴをまえにして疑問を感じるのが哲学者とでもいいたいようである。
この態度がわからない。リンゴがあったら皮をむいて食べるのがわたしである。
一点、わかったような気分になったところを紹介する。
哲学とは、考えることだ。
だが、考えるといっても、我われは常にいま生きている時代・場所の制限を受ける。
じぶんで考えていると思っていても、
たかだか社会習慣の反映、または社会規範への反発かもしれぬ。
ほんとうに考える=哲学をするというのは、
社会(時代・場所)から一歩でも二歩でも離れなければならない。
これを果敢にも実行したのが、名だたる哲学者たちなのである。
すなわち、個々の哲学者の思想は、考えるためのモデルにすぎない。
なんのモデルか。我われがじぶんで考えるためのモデルである。
しこうして、「哲学史<有名哲学者<個々の哲学」となる。
哲学史を学ぶのも、哲学者の思想を引用するのも、哲学ではない。
それらはあくまでも我われが哲学をするときの手助けになるにすぎぬ。
さあ、哲学をしよう、と著者はまとめる。なんのためにか。
哲学は「自分が何であるかを了解する技術」であり、
「困ったとき、苦しいときに役に立つ」からである(まえがき)。
いま苦しくて困っているが、この本が役に立ったとは思えないことを最後に記す。
突き放したような感想で申し訳なく思う。