「俺の日本史」(小谷野敦/新潮新書)

→東大卒で高収入ベストセラー作家の革命的な歴史啓蒙書を拝読する。
著者の奥さまも東大卒で作家をなさっており、
あのような美人さんに逢ったら小心者の当方など目も合わせられないだろうが、
被口淫がお好きな大先生が、
高学歴でたいへんお美しい奥さまから朝晩どのようなご奉仕を受けているかと思うと、
嫉妬もなにもなく、ただただもう本当に、
わたしが持たないものすべてを所有しておられる小谷野先生の足元にひざまずきたい。
小谷野先生は神さまか仏さまで、奥さまの神々しさはまるでマリアさまのよう。
一見書き飛ばしにも間違われかねない(そんなことはない、そんなことはない!)
新書も大歓迎でありますが、夜の奥さまを書いた私小説も読みたいなあ。

さてさて、ゴシップが大好きな小谷野さんの裏話はある事情でかなり目にも耳にもした。
それをめぐってのプチ騒動で、ある密告のようなものから、
ああ、出版関係はこうなっていたのかと内部事情に驚いたこともある。
わたしと親交のあったものなら気づくだろうが、当方の口はある面ではとてもかたい。
書かないものは絶対に書かない。書きたくないものは書かないというより書けない。
だれかのご迷惑になるからではなく(そういう事情のあることもある)、
「わたし」とは「わたしの秘密」のことだからである。
できるだけ、秘密は秘密のままにしておきたい。

どういうことか。
みんながみんな知りえた世の中の社会的マル秘情報を書き残すわけではないのだ。
これは墓場まで持って行こうという秘密をかかえたまま死んでいく人がいる。
それは公的な歴史にならない。
個人の秘密として文書化されなかったものは歴史化されない。
反対を言えば、それがたとえウソでも文書化されたら歴史的に正しいことになってしまう。
江戸時代以前の底辺庶民の歴史がよくわからないのは、
彼たちが言葉を持っていないなかったからではないか?
あるいは自分たちの真実(ってなに?)を表現する書き言葉を持っていなかった。
歴史というのは、
(文盲ではない)エリートが記録した(話し言葉ではなく)書き言葉によっている。
そうではない証拠記録のようなものがあっても歴史上、
権力者から存在を抹殺されていたらそれは歴史学上なかったことになる。
まあ、妄想ではない、
本当の事実だけで成り立っている歴史のようなものはないのかもしれないと言いたいが、
そこまで言っては大勢の歴史学者や歴史愛好家を怒らせてしまうので、
本当に起こった本当の歴史は、
人間にはわからない可能性もなきにしもあらずと言うにとどめる。
あるいはもしかしたら歴史は、
本当はどうだったかなんてだれにもわからないのかもしれない。
東大卒のエリートで博識、
信者も多い高収入のベストセラー作家も以下のようにお書きになっている。

「だいたい、奈良以前の政治史については、
記紀[古事記、日本書紀]以外の文書資料がほとんどないので、
記紀にこう書いてある、と思っていればいいので、本当かどうか、
本気になって考えたって分からないのである」(P28)


記紀に書いてあることが正しいのかどうかはわからないが、
それしか残っていないので
(あるいはほかの資料は歴史上権力者の都合で抹殺されたので)、
いまのところそれが世間的にはほぼ絶対的に正しく、
たとえば日本史の大学入試で記紀に書いていなかったことを書くと、まあ落とされる。
日本でいちばん偉い学問機関は東京大学で、
小谷野先生はそこの比較文学ご出身でいまはみながうらやむベストセラー作家。
わたしも見栄から先生の出た東大文3を受験したことがございます(むろん落ちた)。
体験から申し上げると東大日本史の過去問はおもしろいので、
いまはもうほとんど覚えていないが、
好奇心からかなり過去の問題と多様な解答例を読みこんだことがある。
東京大学は本当のことがばれるのが怖いのか、
ずる賢くも正しい(とされる)解答を世間に公表しない。
このため、東大日本史の本当に正しい百点満点の答えはだれにもわからない。
(現代文もまったくそうなので、東大現代文はきちがいめいた宗教の世界だと思う)
実際、東大日本史の解答例は予備校によって異なる。
わたしは河合塾生だったが、講師によっても正しい答えは異なっていた。
具体的には石川先生と桑山先生(故人←こちらが恩師かな)の答えは違っていた。
たしか駿台予備校出身(違ったらすみません)の「もてない男」、
現代日本が誇る最高峰の知性のおひとりであられるにもかかわらず、
しかし群れるのが好きなアカデミックの世界からはまったく認められない、
自称とびきり不遇な小谷野先生の東大日本史の思い出がおもしろい。

「内藤湖南[←この人が重要ですから、あとで正体を紹介いたします]は
「日本文化研究」で、
応仁の乱以前と以後の日本文化はまったく別物と考えて差支えがない、と言った。
実は私が最初に東大を受けた時の二次試験の日本史で、
この文章をさして、妥当かどうか論ぜよという問題が出た。
おそらく模範解答は、それ以前と以後の連続性を、和歌とか具体的な例をあげて、
湖南の論を否定するものだったのだろうが、私は本式にバカ、というか、
未だ受験技術というものが分かっていなくて、フロイトを持ち出して、
親から子に超自我というものが形成されるから云々と
まるで関係ないことを書いたのである。
あとで[一浪後]入学してからその話をしたら、
「そりゃ落ちるよ」とゲラゲラ笑われた」(P136)


当時の東大日本史のリード文で引かれた内藤湖南は京大派閥の重鎮なのだ。
彼は京都大学の古株権威研究者だ。
こういう本音を書くことにどれほど意味があるのかわからないが、
関東と関西は仲が悪い。東京(関東)と京都(関西)はいがみあっている。
学者や作家など、当人が東か西かで区別できると言えなくもない。
浪人時、河合塾東大コースの夏期講習をふだん通っている池袋校ではなく
名門とされる駒場校で受けたら、
石川先生がむかしの受験生は東大の先生の本を読んでいたとおっしゃっていた。
東大の問題は東大の先生がつくるのだから、
答えは東大の先生が正しいと思っている歴史解釈である。
池袋は駒場には勝てないと思ったものである。
受験生時代崇拝していた東大現代文の大川先生も、
池袋の東大浪人コースには出講しておられなかった。
わたしの日本史の先生は早慶コース主任の桑山先生だったが
(池袋では東大コース兼任)、
おかげなのかなんなのか受験科目が英語、国語、小論文だけの、
氏の出身である早稲田一文にまぐれで入ってしまった。

歴史は解釈であり、物語だと思う。
難関大学受験問題の正しい答えは、
そこの教授先生(権力者)が正しいと信じていることだ。
身もふたもないことを言えば普遍的な正しい答えはないかもしれず、
権力権威にそのとき恵まれている「上の人」のご意見が正しいことになる。
おそらくそれが高学歴で大企業に入る世渡り上手の考え方だろう。
本書で小谷野先生は、
破れかぶれにもそういう常識に反旗をひるがえしているのがおもしろい。
歴史学上Aの学説とBの学説が異なる場合がある。
いったいどちらが正しいのかと学校洗脳された人間は考えるだろう。
しかし、小谷野敦氏はそうではない。歴史は――。

「時代により、また事柄を見る位相[立ち位置]によって違ってくるものであり、
黒田[A]が正しいか佐藤[B]が正しいかと、
決めなくてもいいではないかということである」(P12)


なぜなら――。

「学者というのは、新説を出して自分の功績にしたいものだし、
学界としても、自分らの学問の存在意義を強調したいから、
次々と新説が出ているということにしたがる」(P10)


歴史の「なぜ」を問うのは楽しいが、最終的な答えはわからないのかもしれない。
当座の権力者が正しい歴史問題の答えを決めているだけかもしれない。
なぜ天皇制は続いたのか?
なぜ日本だけうまく西洋文化を取り入れ経済成長したのか?
なぜインドや中国では消滅した仏教が日本では生きのびたのか?
なぜ仏教革命家は鎌倉時代にしか現れなかったのか?
なぜベトナムが勝てたアメリカに日本は負けたのか?
なぜ資本主義は共産主義に勝ったとされているのか?
なぜ、なぜ、なぜ?

「「なぜ」という問いは教育の場などで重要だと思われているが、
歴史においては、確固たる答えがあるとは決まっていない。
問われること自体、分からないから問われるのだということだ。
問うこと自体は無意味ではないが、
最終的には、「分からない」ということも、少なからずあるのだ、
ということは心得ておくべきだろう」(P9)


本書では穴兄弟編とも言える、
おなじ新潮新書の「日本人のための世界史入門」の「偶然史観」が踏襲されていて、
そこがとてもおもしろかった。
われわれはいつも「なぜ(理由)」を考えるよう学校教育で洗脳されているが、
本当は「たまたま(偶然)」なんじゃないかなあ。
小谷野先生への期待は「分からない」を一歩先にすすめることであります。
うすうす気づいているのは本書からも十分察しますが、
もう一歩前進(退転)してくださったら、さらに世間に衝撃を与えることかと。
「分からない」のは歴史の「なぜ」のみならず「善悪」もそうではないか?
歴史上の為政者に善悪などあるのか?

「田沼[意次]は、賄賂(わいろ)政治をやったというので悪名高い。
しかし、賄賂はとったがいい政治をした政治家と、
清廉潔白だがダメな政治をした政治家とどちらがいいかというと、
前者のほうがいのである」(P204)


わたしも歴史好きによる善悪認定はうさんくさいとまったく同感である。
著者とおなじで賄賂好きの田沼意次は、
創価学会的とも言える現実的政治をした偉人だったのかもしれないと思う。
しかし、どんな政治をしても得をする人と損をする人にわかれるのだ。
得をした人たちにとってはトップの政治家は偉人で、
損をした人たちにとっては同人物が稀代の悪人になるという法則がある。
ヒトラーだって、ある時代のある国の人たちにはカリスマだったのだ。
あれだけネットでは非難されている池田SGI会長も、
将来の日本史ではわが国最高の偉人と評されている可能性もなくはない。
結局、サントリー学芸賞だけで終わりそうな、
酒が大嫌いな愛煙家の小谷野先生も、
百年後には日本最高峰の知性を持つとされる(国語便覧に掲載されるような)
河合隼雄レベルの学者になっているかもしれないではないか?
少なくともわたしのなかでは河合隼雄も梅原猛も小谷野敦も同列である。
とてもいい本を読んだと思う。

(関連記事)
「日本人のための世界史入門」(小谷野敦/新潮新書)

「図解雑学 源義経」(上横手雅敬:監修/ナツメ社)

→歴史上の人物のなかでだれが好きかって聞いたら、その人の性格がわかりそう。
いまでも中年サラリーマンって自分を家康や秀吉に比したりしているのかなあ。
信長に惚れ込んでいる上司の下で働くのはストレスがたまりそうでいやいや。
みなさまにはどうでもいいのでしょうが、子どものころから好きなのが源義経。
いま大人になって彼の虚実ないまぜの個人史を再度概観してみたら、
スタンドプレーが多いやつというか、自分勝手というか、
それを言っちゃあおしめえってことを言えば人徳がないやつだよな義経は。
部下に嫌われる上司のある典型的なタイプではなかろうか。
手柄は自分で独り占めしたく、部下の意見はまったく取り入れないわけだから。
上司に嫌われる部下の典型でもあろう。
ホウレンソウ(報告・連絡・相談)さえまともにできないほど協調性のないやつ。
源義経は一発屋の芸能人みたいなところがあって、そこがいまでも好きである。
浮き沈みの多い人生って言うのかなあ。
めっちゃくちゃ運がよくて戦術に長けていたけれども、
人の気持を読み取る能力が絶望的なまでに低くて、
ライバルの稚拙な悪だくみにかんたんに足をすくわれてしまう。
いまでいえばベンチャー企業の社長タイプなのかもしれない。
能力も自信もあるのでいっとき花火のようにひと目を引くけれども、
老獪な人心操作術をまったく理解していないがためにつぶされてしまう。

義経は31歳で死んだらしいけれども、頼朝の人生よりも絶対におもしろかったって思う。
人生を成功や勝利という尺度で見たら圧倒的に頼朝のほうが上になるのだろうけれど、
どれだけスリリングな人生を楽しんだかという基準で考えたら、
義経は頼朝なんかよりもはるかに生きるおもしろさを味わったと言えるのではないだろうか。
弁慶や静御前との逃避行とか毎日が冒険で楽しかっただろうなあ。
頼朝なんか義経の十分の一も生きる醍醐味を知らなかったような気がする。
だってさあ、頼朝を主人公にした芝居や物語なんて絶対にできないわけだから。
後白河法皇との心理戦から学ぶビジネス術みたいなゴミ本の対象にしかならない。
義経って最後に死ぬとき(追手に囲まれ自害)法華経を読んでいたらしいけれど、
もしかしたら創価学会員みたいに奇跡が起こると信じていたのかなあ。
でもさ、死ぬまえに義経がなんのお経を読んでいたのかなんてだれが知っているわけ?
平家物語とか平治物語とか、あのへんは史実ではなく娯楽物語なわけだから。
義経記なんて史実とは正反対な世界なわけでしょう。
おれもさあ、自分勝手でとにかく人徳というやつがないんだ。
人に慕われるということが皆無。
三つ子の魂百までと言うけれども、
幼少期に義経が好きだった時点で
こういうダメな大人になることが決まっていたのかもしれない。
負け惜しみを言うと、頼朝みたいな人生は絶対につまらないと思うぜ!

本書はいかにも「図解雑学」シリーズらしく、
絵画や写真がいっぱい掲載されていたので義経の人生を楽しく追うことができた。
判官びいきは義経からできた言葉だけれども、
多くの人の上に立って勝ち誇っている頼朝みたいなやつよりも、
人生で負けて漂泊する孤独な義経の人生のほうがよほど美しいとは思いませんか?

「日本人のための世界史入門」(小谷野敦/新潮新書)

→小林秀雄賞作家の山田太一氏が推薦しておられたので(2013「読書週間アンケート」)、
歴史学とは一切関係ないらしいどこの馬の骨だかわからぬ、
ちょっとネットで調べてみたら悪評ばかり出てくる(すげえ!)
ちんぴらライターが書いた世界史入門書を読んでみる。
なーんて、ごめんなさい、小谷野先生。大ベストセラー、おめでとうございます。
高額の税金を払うとき、ムカムカしませんでしたか? うまく節税できたのか心配だなあ。
専門は恋愛のサントリー学芸賞学者・小谷野敦氏は
薄手ながら本書で偶然史観を打ち立てている。
世界史のあらゆることは本当は因果関係などなく、ただの偶然じゃないのかなあ。
たとえばコロンブスはなぜアメリカ大陸を発見したのか? の問いに偶然と断言する。
足利尊氏は「運が強かった」のではないか、などと、
歴史学の学問性を根本から覆す一見非科学的なことを言うが、
わたしは小谷野氏の偶然史観にいたく同意したいところがある。

歴史というのは、つまり物語である。
物語の内訳は、因果関係(原因と結果)と共時関係(たまたま偶然)である。
天皇家が続いた理由や原因などあるわけがなく、あれはまったくたまたまの偶然である。
もしくはあの一族は足利尊氏ではないがたまたま「運が強かった」。
当方もまた歴史学などとはまったく無縁だが、
学校教育、受験勉強では歴史という物語における因果関係ばかり強調して学んだ。
これが悪影響してすべての事象に原因があるような間違った思い込みを抱くのである。
ほとんどすべての歴史的事件を偶然と片づけてしまう小谷野敦はとても「正しい」。
そして、かつて「なぜ悪人を殺してはいけないのか」という本を出した氏には
表立っては書けないことだろうが、本当のところ歴史的事件に善悪はないのである。
善政も悪政もおそらくないのだろうが、小谷野敦はそこまでは踏み込めなかった。
だが、あと一歩まで行っているし気づいているがまだ言えないのだろう。
学歴差別主義者の小谷野が人権意識のうそ臭さに目がいかないわけがない。
果たしてアメリカの独立戦争(独立革命)は善か?

「……歴史上しばしば現れるこの「宣言」の類は不思議なもので、
リンカーンの奴隷解放宣言にせよ、明治維新の王政復古の大号令にせよ、
結局は戦争に勝たないと有効性を持たない」(P199)


歴史物語はほとんどすべて「勝てば官軍」の世界なのである。勝ったほうが正義だ。
アカデミズムの世界では完全に敗北した自称学者の小谷野敦ではあるが、
まだ勝利へのこだわりを捨て切れていないようだ。やはり勝ちたいという正直者である。
西洋文化が日本を含め東洋文化より優れているとされるのは(象徴はノーベル賞)、
たんに西洋が東洋に一度勝っているからに過ぎないのである。
無理だろうしやる必要もないが、大東亜共栄圏を再構成してアメリカを打ち負かしたら、
わが国の近松門左衛門がシェイクスピアよりも上になるのがいわゆる文化史である。
歴史的事件はすべて偶然(ここまでは小谷野が書いた)。
さらにわたしが追加したいのは歴史的事件に善悪はなし。
歴史的文化に優劣なし。善悪も優劣も「勝てば官軍」の結果に過ぎないと思う。
だが、小谷野は権威の源でもある西洋世界への奴隷的憧憬を正直者ゆえ隠さず書きつづる。

「現在では、西洋中心主義への批判から、
東洋の学問・藝術を高く評価しようとする傾向が一般化しているが[しているかあ?]、
私には依然として、文学も藝術も、西洋での発達ほどのものを
東洋は生み出さなかったとしか思えない」(P186)


自分で問題を作ってみると理解の度合がわかるのである。
高校時代、地学のN先生は自分で問題をつくって答えを書けという出題をされたことがある。
もちろん、記憶問題がまずあり、そこで点を取れなさそうな人への救済策だ。
地学職員室にウイスキーがあり、大学合格の知らせに行ったときご馳走してくれた。
自分で世界史の問題をつくってみよう。
問い――「なぜベトナムは日本が負けたアメリカに勝ったのか?」
答え:たまたまの偶然。
問い――「ベトナムとアメリカのどちらが善である(正しい)のか?」
答え:どっちも善である。どっちも正しい。
問い――「なぜアメリカ文化はベトナムのそれよりも優れているのか?」
答え:あんたさ、ベトナムに行ったことがあるの?

「山川ヒストリカ 流れ図で攻略世界史図録」(山川出版社)

→高校生向け副教材をおとなのわたしが読む。
写真や図、解説が豊富でなんともすばらしい。
思うのだ。神が信じられなくても、仏を信じられなくても、
この歴史というものだけは宗教心がないひとも信じられるのではないか。
歴史をひと言でいうなら、栄枯盛衰である。仏教の用語でいうなら諸行無常。
ひとは生まれ、死ぬ。大部分は無名のままである。
個々の意志がどれほどもろく歴史の渦へのみこまれてゆくことか。
人間は幸福を欲する。だが、歴史のまえでは各人の希求などむなしいものである。
歴史はいつ動くのかだれにもわからない。
動かそうと努力したからといって、どうなるものではない。
当人が死んで三代あとになってから、ようやくわずかに動くようなこともあろう。
たまたま歴史に選ばれる人間がいる。
歴史は非情だ。かれの名誉とて長くは続かない。
生前はなんとか持ちこたえても、死後に非難されることがある。
いや、名君といまでも尊敬される英雄もいるかもしれない。
けれども、そう、死んでしまっているのである。
歴史は死人のうめきに満ちている。呪詛、怨恨、悲嘆が行間からもれ聞こえる。
心地がよいのだ。このうめきはどんな音楽よりもこうごうしい。
いまこのうめきを聞いているわたしもいずれ死ぬだろう。そのあとも歴史は続くのである。
「90分でわかる世界史の読み方」(水村光男/かんき出版)絶版

→まさか高校生がこの「本の山」を読んでいるとは思えないが、もしいたらの話である。
大学受験は世界史で受けなさい。後悔からの意見である。
この世界史というのは、受験だからと無理やりでも理由をつけて、
若いうちに勉強しないとあとで苦労する。
国際情勢、海外文学、宗教、哲学、絵画、音楽、あらゆる領域の基礎となるのが世界史。
わたしが受験科目に選択したのは日本史、地理。ああ、世界史にしておけば。
いくらシェイクスピアを読もうが、ギリシア悲劇を読もうが、
その背景になっている世界史をわかっていないと、もうまったくダメなわけ。
これはほんとうに経験から思うことである。
で、いまになって世界史を勉強しようとしても、脳が老化しているからか、
細かい用語がぜんぜん入ってこない。
中国史なんてちがうのは名前だけで、基本的にはおなじことの繰り返しだから、
どうしたって記憶力の勝負になる。高校生にかなうはずがない。

いちおう高校の授業で世界史を学んでいる。
けれども、最初から受験科目にするつもりがなかったから、いいげんな一夜漬けばかり。
やはり受験を前提に学んだものでないと長期記憶には残らない。

ここで思い出を書く。世界史の思い出。
ある教育実習生が強く印象に残っている。体育会系の情熱的な男子大学生。
かれの担当になったのはフランス革命。
おもしろいおにいちゃんだった。なにをするかというと、授業中にいきなり歌をうたう。
フランスの国歌。わざわざフランス語で。エネルギーがありあまっていたんだろうな。
新鮮だった。当時の世界史の教師というのが、いかにもオタク的な先生で。
授業にはメリハリがない。つい寝てしまう。
そんな感じだったから、若い元気な世界史の授業はとても好ましいものに思えた。
その実習生がこんなことを言うわけだ。なぜフランス革命が起こったのか。
それはフランス人に勇気があったからだ!
こんなことを授業のたびにフランス国歌をうたいながら主張するわけである。

教育実習期間が終了して、またもとの退屈な授業へ戻る。
そのとき、どういうタイミングだったのか。根暗な世界史教師がぼそっという。
教育実習生のことをである。ひと言。かれはバカです。
生徒へ人気のあった教育実習生への嫉妬かと当時は思ったものだが、
いまではあの世界史教師はただしかったのだとつくづく思う。
かれはバカです。うんうん、まったくである。
フランス革命というと、左翼系教育者は美化して教える。
市民の開放だの、自由だのといった美辞麗句とともに語られる。
だけど、ほんとうはそういうことではなくて、
フランス革命というのは、たんなる権力移動に過ぎないわけでしょう。
新勢力が旧勢力を追放した。事実はこれだけである。
フランス革命で得をしたひともいれば、損をしたひともいる。
そのことに善悪の価値をつけるのは間違えている。
それをあの教育実習生は……。
フランス人は勇気があるなどと称揚して、フランス国歌をがなりたてる。
まぬけというほかないよな。いちばん教師にしてはいけないタイプ。
しかし、あのような教育者が熱血漢として、なぜか生徒や保護者に人気がある……。
果たしてどちらがいいのか。
ウソを教える人気者の教師か、それとも事実を教える退屈な先生か。
「カリスマ先生の世界史」(植村光雄/PHP研究所)

→PHPの「カリスマ先生」シリーズは、ナツメ社の「図解雑学」シリーズに打ち勝つか。
このシリーズのコンセプトはものすごいぞ。
「図解雑学」のほうのポリシーは、なんとしてでもわからせるであったと思われる。
この「カリスマ先生」は、それをもあきらめる。宣伝文句にずばっと書いてある。
「『わかった気になれる』オトクな1冊」だそうである(巻末宣伝文)。
読者をなめきっているのか、それとも手取り足取りの意思表明なのか。
このシリーズの著者は予備校講師。別名、チョーク芸人。
わかった気にさせるプロである。よし、こちらも受験生に戻ろうと思い立つ。
以下、Q&A形式を用いる。間違っているところがあったら教えてください。

Q.東洋史を極力簡潔に説明せよ。

A.外的には中華思想。すなわち、常に中国がナンバー1という姿勢を保つ。
周辺諸国には朝貢形式を要求する。これを崩壊させたのが日清戦争。
内的には延々と続く王朝交代の歴史。国家体制が弱まると農民が反乱する。
すると、どこからともなく新しい王が顔を出す。

Q.現在のヨーロッパ諸国の起源はどこか。

A.中世の民族大移動。

Q.中世の王制の特徴を述べよ。

A.地域のボスといったイメージ。
キリスト教の教会は、国境を越えて君臨する。
ゆえに教会権力が国王のそれを凌駕した。
のちに貨幣経済が発達すると、商業の保護者が必要とされる。
絶対王制の誕生である。

Q.なぜフランス革命のあとも同国へ独裁政権がたびたび生まれるのか。

A.わかりません。だれか教えて。

Q.なぜ第二次世界大戦が起こったか。

世界恐慌が原因。この世界恐慌の発生の理由は、資本主義の宿命、限界。
列強各国は自国の経済を守ろうとする。
そのために植民地とのブロック経済が行なわれた。
生産と市場の保護である。
だが、ドイツ、イタリア、日本は植民地に恵まれなかった。
不景気がつづく。自国民が貧窮する。なんとかして国を豊かにしなければならない。
強い指導力が要請される。ファシズム政権が誕生する。武力化する。
国が武器を発注すると、民間で武器を製造する。失業者が労働者になる。
武器は使わなくては新しいものを注文できない。よって戦争になる。

Q.世界史の勝ち組はどこか。

A.アメリカ。アメリカはイギリスからの移民が元になって誕生した国である。
そのイギリスといえば、もとは「ヨーロッパの田舎」だった。
島国のため他国からの干渉が比較的少ない。
アメリカ大陸といった巨大な植民地をもつ。
以上、2点の理由で世界に先駆け産業革命に成功。「世界の工場」となる。
ここから分離したのがかのアメリカ合衆国。
ヨーロッパ大陸における第一次大戦を尻目に国力を上げる。
第二次大戦での大勝。原子爆弾の投下。一躍、世界のボスになる。
西欧諸国とはことなり伝統があまりない新興国のため自由な決断がしやすい。


理解の度合いというのは、書いてみれば一発でわかってしまう。
わかっていれば文章にすることができるということである。
うえの記述でわかったでしょう。
なにがって、わたしが世界史をさっぱり理解していないことである。
いいおとなの世界史認識がこの程度というのは、とても恥ずかしい。
書いてみたら、じぶんがどれだけ世界史をわかっていないかがわかってしまった。
やはり「カリスマ先生」はダメということか。
わかった気になるだけではなく、世界史をほんとうに理解したい。だが、いかに。
2005/08/25(木) 19:01:25

「瞑想するアジア」(森本哲郎・編/文春文庫ビジュアル版)絶版

→森本哲郎が3人の学者と対談する。
テーマは「モエンジョ・ダロの謎」「仏陀の世界」「クメールの光芒」。
この本もきれいなカラー写真がこれでもかといわんばかりに収録されている。
二番目の仏陀の話はついていけたけど、前後のふたつは難しかったです。

こんな学問分野もあるのかと感心した。
考古学はこういうふうにして事実を確定するのか~。
歴史学者は地質学も知らなければならないんだ~。
ふむふむ、そうですかぁ、はあはあ、なるほどと首肯するだけでした。

ところで森本哲郎さん、ちょっと電波が入ってるんですかね?
たまに対談相手の学者さんが絶句するときがあって、
そこで論じられている内容の詳細はわからないながらも、
そのおかしな間(ま)が楽しかったりしました。

2005/07/08(金) 14:33:05

「比較文明の社会学」(米山俊直・吉澤五郎編/放送大学教育振興会)絶版

→放送大学のテキストが安く(古本で)買えると嬉しくないですか。
入学試験のない大学。だれでも入れる放送大学。
そんな放送大学のテキストはものすごーくわかりやすいのではないだろうか(妄想)。
でも難点が。やたら高いんだ放送大学テキスト。いちばん薄いのでもいまは2000円とる。
そんなテキストが今回、200円で買えてとってもうれしかったのです。
流れとしては、「文明の生態史観」(梅棹忠夫)のつづきというのか。

執筆は15人の学者さんが分担。
「宗教と文明」「音楽と文明」「都市と文明」……と、
いろんな切り口から文明を比較してみようという構成。
なかにはひどい学者もいた。
専門用語を注釈なしで使って、参考文献にはじぶんの今までの著作を(おそらく)全部。
まあ、比較文明学の始祖・梅棹忠夫そのものが(学問的に)胡散臭いおかただから(笑)。

比較文明論はたぶん主観の要素が強いのだと思う。悪くいえば妄想。
このテキストでも「海と文明」を担当した学者さんが
なかなか質のいい妄想を展開している。
いままでは陸を中心に世界史をとらえていたけど、それを海中心に見たらどうなるか。
つまり陸地史観から海洋史観へ。
歴史教科書の眠くなるような情報提示とは異なり、かなり斬新な物語になっていた。

2005/07/08(金) 11:14:54

「文明の生態史観」(梅棹忠夫/中公文庫)

→間違っていないか。浜島書店「国語便覧」で紹介されている。
「高校生が読んでおきたい評論50」だって。
おい、浜島書店編集者。ほんとうにそれでいいと思っているのか。

これは学術論文でもなんでもない。
わたしから言わせればインド本の亜流。
インド本。はじめてインド旅行をしたひとがカルチャーショックを受け、
異様な興奮状態で熱に浮かれたように書いてしまうエッセイのこと。
50年前、著者はインドを旅して悟っちゃったわけです。
世界の仕組みがわかったと(笑)。
それから宗教の開祖みたいなことを言いだす。

以下、梅棹忠夫の「世界史モデル」。
世界は第一地域と第二地域にわかれるという。
これが大前提。
第一地域とは西欧と日本。
第二地域は西欧と日本の中間に位置する地域
(東欧、アラブ、インド、中国、東南アジア等)。
そして世界の歴史は進んだ第一地域が牽引してきたとつづける。
第一地域が第二地域よりも常に進歩(産業革命など)しているのは地理的に見て必然。
なぜなら西欧、日本ともにユーラシア大陸のはじっこに位置しているからである。
その位置的利点を梅棹は説く。
さらに西欧史と日本史(=第一地域の歴史)の類似を指摘しながら、
梅棹は言い放つ。

「鎖国のために、東南アジアに対する日本の侵略と植民地化のうごきは、
200年以上おくれることになってしまった。(……) 
鎖国なんかして、おしいことをした、といっているのではない。
日本という国は、歴史のすじがきからいうと、東南アジアにとっては、
しょせんイギリス、フランス、オランダなどとおなじ役わりを
はたすような国なのだ、ということである。
それはかならずしも、明治以来の軍国主義のもたらした結果ではない。
それは、本来的には、日本と東南アジア諸国との、
文明史的なシチュエーションのちがいによるものであり、
また、日本と西ヨーロッパ諸国とのシチュエーションの類似にもよることである」(P223)


なんでこんな本が古典的名著のあつかいを受けロングセラーをつづけているのか。
おそろしいことにこの本を契機として「比較文明学会」なるものまでいまはあるという。
いいんですか? やっちゃっていませんか大失敗を! 

これが学問ですか。

2005/06/07(火) 16:36:41

「図解雑学 世界の歴史」(岡田功/ナツメ社)*再読

→何度でも読む。
なにかを学習するのって、おなじ参考書を何回も読むに尽きると思った。
受験生時代は新しい参考書に目移りしてばかりいたけど、もうおとななのだから。
だけど、何回読んでもイスラム史はよくわからん。
東洋史もそう。あれ基本的におなじことの繰り返しでしょ東洋史って。
国ができて衰退して滅ぼされるという。名前がかわるだけで。
あと、つねに周辺の遊牧民におびえつづける。
それでも、こうして何回も読んでいると、
なんとなくわかったような気にならなくもない。
たぶん勘違いだと思う。




「ニューステージ 世界史詳覧」(浜島書店)

→あれですあれ。学校で配られる副教材。
書店で買うと890円。信じられない。安すぎだって。
こんなにたくさん写真が載っていて、しかも総カラー。詳しい解説までついている。
で、1ページ目から最後まで順に読んでいくわけです。
たいがい授業では、あ、ミケランジェロはこれね、と参照するくらいだろうけれども。
おとなはしっかり読む。作成者もわたしみたいな読者がいて喜んでいるのでは(笑)。

うん、おもしろい。世界史にはすべてが包まれていると思う。
哲学、科学といったあらゆる学問。
絵画、彫刻、音楽、文学といった芸術もそう。
宗教も。仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教……。
この「世界史詳覧」を読んでいると実感させられる。
古今東西、あらゆる人間の営みの集積が世界史なんだなぁと。
なんか読み終わるころになると、勇ましい音楽(?)を作曲していた。
それを口笛でぴいぴい吹いていた。人間ってすごいな、世界ってひろいな。
こりゃあ、恥ずかしいぜ!