「インド旅行記4 写真編」(中谷美紀/幻冬舎文庫)

→女優で歌手、エッセイストや絵本作家でもあるマルチタレントの中谷美紀さん。
実はぼく、彼女とおなじ昭和51年生まれだったりするんデス。
中谷美紀さんは2005年にのべ3ヶ月のインド旅行をしました。
なぜかぼくも2004年に3ヶ月間インドをぶらぶらしているんデス。
ぼくもインドで日記をつけましたが、だれにも読まれていません。
あはは、だれもぼくなんかに興味がないからデス。
でも美人の中谷美紀さんの日記だと幻冬舎から出版され、
多くの人から読んでもらえます。
こういう不平等はいったいなんであろうと思いながら、
いまから8年前インドの仏跡地を片っ端からまわったのだと思います。
当時は答えがわかりませんでしたが、あれからいろいろあってわかりました。
結局は前世なんデス。
前世で中谷美紀さんはとってもいいことをしたから現世でハッピーなんデス。
いやいや、ぼくだってインドの低カーストの人に比べたらまだハッピーなんでしょう。

今年のナマステ・インディア(インド祭り)は9月の22、23日。
例年通り代々木公園で開催されます。
中谷美紀さんのようにたくさん友だちがいるわけではないので、
去年とおなじく今年もぼくはひとりで行く予定デス。
みなさん会場でぼくを見かけたら声をかけてくださいね。
ああ、この本はインドの写真がたくさんで懐かしく、とてもよかったデス。
中谷美紀さんは写真家としての才能もあるのではないでしょうか。
美人で才能があってほんとうにいいデスね。
ひとつぼくが思ったのは、
どうせだったら美しい中谷美紀さん自身のお写真をもっと掲載してもよかったのでは?
なぜってぼくは美しい人が好きだからデス。

「性愛奥義 官能の「カーマ・スートラ」解読」(植島啓司/講談社現代新書)

→植島啓司のファンだけれど、こりゃあ期待外れ(期待が大きかった!)。
久しぶりにここまで手抜きをした新書を読んだ。
ここまでルーズな本を創れるのかと、かえって驚いたくらいである。
「カーマ・スートラ」なんて、だれも知らないからいいと思ったのかな。
あ、「カーマ・スートラ」とはインドの古典で、内容は性愛指南。
セックスのマニュアルである。
インドを旅したとき、土産物屋でやたら「カーマ・スートラ」の絵本をすすめられたな。

まったく役に立たない書籍というものはない。
この本から得た発見を書く。

「人間にとって果たして生きる意味とは何なのか。(中略)
古代インドの賢者は、われわれにもっとも必要なのは、
ダルマ(美徳)、アルタ(富)、カーマ(性愛)の三つである、
と明確に述べている」(P5)


そうか、エロのために生きるのもいいのか! と一瞬、救われたような錯覚を抱いた。
エロってわからないよね~。
人間のなかでいちばん普遍化(一般化)できない領域ではないか。
こんなことを書くとまるで変態みたいだけれど、そんなことは全然あーりません。
しかし、カーマ(性愛)のために生きる、
と言い切れるインド人の正直に驚くのは植島啓司もわたしも変わりない。
考えてみたら、自殺防止になにがもっとも有効かと考えたらエロいことかもね。
あらぬことを妄想しているあいだは自殺のことなど忘れていられるのだから。
むろん、不幸も悩みも悔恨もエロで消すことができる。
ぶっちゃけ、男性自殺志願者の99%が
若い美人さんから激しく求愛されたら死ぬことを思いとどまるはずである。
リスカ女だってイケメンからちやほやされたら自傷をやめるでしょ?

植島啓司さんはハンサムでインテリだからモテモテだと聞く。
「カーマ・スートラ」にかこつけて、
過去の女子大生との桃色遊戯を語ってほしかったというのが正直なところ。
性愛は一般論で語れる領域ではないことをまさか知らないはずはないと思うのだが。
「私」にこだわるのが生きる楽しみだというのは植島さんの主張でしょう。
たとえば「私」が賭けたときに世界はどうなるか?
本書で植島啓司先生はおのれの下半身事情を語るべきだったと思う。

「ぎゅぎゅっとインド」(鈴木博子/彩図社)

→酒をだらだらのみながら、インド旅行エッセイをのんびり読む。
著者はいまおいくつなのだろう。
自分探し系ライターだから、わたしより5~10歳年上ではないかと予想する。
女性ライターには(年齢はともかく)顔写真をかならず掲載してほしいね。
読者にとっては、どの顔をして言っているのかという問題が常につきまとうわけだから。
林真理子しかり、綿矢りさしかり――。
インドは日本と正反対の国だから、自分探しにはぴったりの場所だと思う。
と言いながら世代が少し違うので、自分探しなるものの正体はよくわかっていないのだが。
(女性なら)自分のヌード写真を撮って、痛いポエムを書くような人種という認識かな。
いや、本書には満足しているのだよ。
数多いインド旅行記のなかで平均以上のレベルには間違いなく到達している。

話は変わるが、過日おもしろいポエムを読んだ。
有名なのかもしれないけれど、ここに改めて紹介させていただく。
筆者は「疲れた」のグーグル検索で、この文章にめぐりあった。

「31歳の夢と希望~俺はもうたいへんに疲れた~」
http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20100416/p1

この記事への「はてなブックマーク・コメント」に、
「インドの日本人宿へ行け」というものがあった。
まったく、その通りであると思う。
いざとなったら自殺しようと考えて生きている人間は、
我われ氷河期世代の、そのうえさらに不遇な男性に多いのではありませんか?
しかし、声高に主張したいのは、自殺のまえにインドがあるということである。
自殺するくらいだったら、いくら不義理を働いてもいいからインドへ逃げてしまえ!
インドは狂っているから、日本社会に壊された人間こそ、あたたかく癒してくれる。
おっと、なんの話だったか。そうか、読書感想文だ。
本書の著者も、事情はあずかりしらぬがインドに癒されたひとりなのだろう。
しかし、1年の半分をアジアで過ごす旅行ライターっていいな。うらやましい。

「インド大修行時代」(山田和/講談社文庫)絶版

→とてもいい本だと思う。インド旅行を疑似体験させてくれる。
このくらいならだれでも書けると思う読者もいるかもしれないが、
このくらいを書くのがたいそうな骨折りなのである。
インド旅行体験者のだれもが味わうことをコミカルな筆致で描いている。
幼稚な日本批判、ひるがえってのインド礼賛をあざわらうものはわかっていないのだ。
あれはよわい50を過ぎた著者のサービス精神と見るべきである。
インドへ行ったものはみなみな悟ったような錯覚をいだく。
山田和は、あのインチキ達観を、じつに巧妙ないかがわしさで描写する。

個人的な利点は、インドの不愉快さを思い出させてくれたこと。
インドはふしぎな国で、どれだけいやなことがあっても、また行きたくなる。
そういうリピーターを作ってしまう国なのである。
いまふつふつとインドへの情熱が復活している。
この本を呼んだおかげで、あんな国は行くものではないと思い直すことができた。

ひとつ鋭いと思った指摘を。
インドのカジュラーホで有名なのがミトゥナ像(男女合歓像=セックス体位の彫刻)。
山田和の感想である。

「『遠野物語』には、馬と人間の女性との愛の物語がある。
日本語には「情交」という言葉があるように、
セックスには「情」がついてまわることになっている。
たとえその相手が動物であろうともだ。
ところがカジュラーホのセックスには、まったくそのようなものがなく、
あくまでも器械体操のようなのであった。
括(くび)れた腰やドッチボールにも似た豊かな胸さえ、
地球儀の一部と差はなかった。
性の概念がまったくちがうのである。
それらは、人体に対する興奮よりも
幾何学的な興奮を呼び覚ますといったら言い過ぎだろうか」(P130)


ほんとほんと、インド人って、わけがわからん。
天竺はクレージーな国だと思う。
大学生のとき、初めてインドに行ったのだった。
そのときバラナシのホテルドパリスの従業員と約束したのだった。
新婚旅行でかならず再訪すると。あはは、いろんな意味で無理ぽ。

9月27、28日に代々木公園でインド祭りが開催されます。
今年もひとりで行く予定。みんなも行こうぜ、ゴーゴーインド! 代々木から第一歩だ!
「南インドの旅」(昭文社)絶版
「東インドの旅」(昭文社)絶版
「北西インドの旅」(昭文社)絶版


→インド直輸入のレトルト食品カディ・パコラ( ヨーグルトと天ぷらのカレー )を食べながら、
インドウイスキーをがぶのみしつつ読んだ本――ガイドブックである。
3冊そろってオールカラー。なつかしいインドに何度も落涙した。
インドには2回行ったことがある。
4年前のインド放浪は死のうと思って行ったのであった。
インドは危険な国である。
どうしても自殺をできないわたしだが、この国なら殺してくれるのではないか。
通常3ヶ月にもわたる長期旅行だと保険には入らないもの。
しかし、わたしは葬式代確保のためあえて旅行保険に加入しインドへ旅立った。
いまこうして生きている。インドが恋しくてたまらない。
かの天竺は日本とまるで正反対の国である。
日本人なら一度はインドへ行ってもいいのではないか。
あの国にはなにかがある。
好きになるか嫌いになるかしかない、なにものかがインドにはある。
再度、行きたいと思っている。だが、年齢を考えると、どうにも勇気が出ない。
こうしてインドの酒をのみ、インドを思うことでぐっとこらえている。
これもまた幸せなのである。ああ、はるけき天竺よ印度よ!
「ワールドガイド インド」(るるぶ)

→ガイドブックを読む愉しみを発見したのはいつだったか。
どのページを見ても、思い出がよみがえる。
ほとんどインド全土を放浪したからである。
精神が悲鳴をあげたインド人のどぎつさも、
肉体が限界をうったえた連日のカレースパイスも、
いまではひたすら懐かしい。行ってよかったと思う。
生きているうちにやりたいことはやるべきである。
いつ死ぬかはだれにもわからないのだから。

インドは死に包まれた国である。
インド人はみなみな死を意識して生きている。
死から生を見ている。死を見据えながら生きている。つまり、宗教がある。
インドは宗教大国である。
わたしが行った順番に記述してみる。

ムンバイ=ゾロアスター教。
エローラ=ジャイナ教。
ゴア=キリスト教。
カンニャクマリ=ヒンドゥー教。
コーチン=ユダヤ教。
カルカッタ=シーク教。
ブッダガヤー=仏教。
デリー=イスラム教。
ダラムシャーラー=チベット密教。

多様な宗教のどこを見たら、相違がわかるのか。
死を見ればよろしい。その宗教が死をどのように定義しているか。
死は科学がわけいっていくことができない最後の聖域である。
死がある限り、宗教は必要とされる。

死に関係したインドでの思い出をひとつ書く。
インド人は聖者でもなんでもない。
長距離バスで移動しているときのこと。
満員のバス車内が、突然盛り上がることがあった。
乗客全員が一体になったようなどよめきである。
肩をたたかれて、喜色満面のインド人にあれを見ろといわれる。
首をのばすと、ひとが血を流して死んでいる。
交通事故と思われる。死を見て大はしゃぎするインド人――。
インドの交通事故は殺され損である。
めったなことでもないと警察すら来ない。
加害車両は逃走するのが当たり前。捕まることもない。
インドは人口が多いから、ひとがひとり死んだくらいでは騒がないのかもしれない。
かえって、苦に満ちた現世から去ることができて、おめでとう!
そんな雰囲気さえある。
バスはしばらく停車した。運転手が死体を見飽きたのであろう。またバスが動きだす。
死体をあとにしながら、なんてこの国は疲れるのだろうとわたしはため息をついた。
「インドの大地で」(五島昭/中公新書)絶版

→インドへ行こうか迷っているかたがいたらぜひ背中を押したい。
行ってらっしゃい、見てらっしゃいと肩をぽんぽんたたきたくなる。
わずか3ヶ月のインド放浪で学んだものは、大学の4年間を凌駕する。
こういっても決して過言ではないほどインドは日本人を刺激する。
勉強になるというのとはちょっとちがう。むしろ勉強をする気にさせるというのか。
やる気を起こさせる、とでもいおうか。
日本とは対極の国である。
たとえば五島さんはインド人をこう評している。

「インドに住む日本人のかなりの部分が、インド人嫌いである。
インド人に対して日本人が抱く違和感は、先に挙げた卑屈な(と日本人には思える)
金銭感覚にとどまらない。あくことのない自己主張、空疎な長広舌、
社会的地位の高い人物にしばしば見られる根拠のないプライドと傲岸不遜。
およそ日本人が美徳と見なす性向と正反対のものを、
彼らは一身に備えているかに見える。
したがって、インド体験とは、インド人との違和感に耐えつつ、
自分の精神的均衡を保つ不断の努力を意味する、といっても誇張ではない」(P53)


インドへ行くのは若ければ、若いほどいい。
五島さんのようなおとなは、インド人は嫌い、で終わってしまうが、
若者ならこう考えることができる。じゃあ、日本ってなんだろう。
こうしてわたしは日本へ興味をもつようになった。
日本の古典とは。世界における日本とは。
2年前インドで受けた衝撃が、いまもわたしを衝き動かしているのかもしれない。
インドは、めちゃくちゃである。
よくいわれることだが、すべてが露出している。
糞尿、死人、差別、狡知、麻薬、信仰――。
みなみな日本社会では隠されているものである。
インドではこれらすべてを路上で目撃することが可能なのだ。
かの国のふしぎはカースト制度に行き着く。これほど部外者を寄せつけぬものはない。
著者はこう分析する。正否はわからないが、とりあえず紹介する。

「カーストには二つの顔がある。
すなわちカーストは“結婚”や“職業世襲”を通じて、
人間と人間を結びつける“きずな”の役割を果たす一方、
カースト内部の結束と団結は、外部の者に対する差別意識を生み、
インド社会に亀裂をもたらしている。
カーストはインド社会に“統合”と“分断”という相反する二つの要素を与えている」(P83)


このカーストを広くつつみこみ、ゆるやかに緩和するのは、
これまた日本人にはわかりにくいヒンドゥー教になるわけだが、
そこまで著者の分析は進まない。
日本人にはとうてい不幸としか思えない人間が、
なぜインドでは笑顔で充実した毎日を生きることができるのか。
これもヒンドゥー教の深遠に吸収される問いのひとつである。
では、なぜかの人間はインドへ生まれて、我われは日本に生まれたか。
これはヒンドゥー教のみならず宗教全般へわけいる入口である。
インドには無数の入口がある。インドを経由して、どこへでも行くことができる。
わたしはどこへ行こうとしているのか。
最近、ふたたびインドからの呼び声が聞こえてきた。
まだだ、と思う。まだ前回もらった宿題の半分も答えていない。
つぎへインドへ行くとすると3度目になる。この年齢ではもう無理かなとも思う。
インドは若いうちに行きましょう。
「ブッダ・ロード 川人忠幸インド写真集」(ひろさちや/角川文庫)絶版

→仏跡地を中心としたインド写真集。
かつて旅行したとき、写真はまったく撮らなかったからこのような写真集はうれしい。
こみあげてくるものがある。
よくもまあ、あんな旅をできたもんだと思う。わずか2年前だけれども。
インド中の仏跡を求め歩いた。
わかりやすく恥ずかしい旅であった。
本人は旅行ではなく放浪のつもりなのがもっと痛々しい。
母親から目の前で飛び降り自殺をされた。
6年前、わたしは母の頭から流れでる血をまえにうめくしかなかった。
自殺前日にそうとは知らずわたしは母に遺書を書かせていた。
たとえどうひとが慰めてくれようが、じぶんが殺したようなものだと思っている。
実際、遺された日記には、長年にわたる母のわたしへの憎悪が織り込まれていた。
苦悶する。生活から逸脱する。
どうしようもなく救いを求めて混沌の国、インドへおもむく。
安っぽい人生ドラマではないか。
大衆小説なら、ここで主人公の身になにか劇的なことがあり、ある種の成長をする。
インド帰国後はぶじ日常へ帰参。めでたし、めでたしとなるはずである。
現実は小説のようにはいかない。インドでは3ヶ月、なにもなかった。
なにも悟らなかったし、だれとも出会わなかったし、どんな真実も発見しなかった。
それでもと思う。あのときインドへ行くことができてよかった。
インドの写真を見ながらしんじつそう思う。
いまインドからもらった宿題を解いているのかもしれない。
無数の忘れられない風景がこころへ刻み込まれている。
「インド・ネパール・スリランカ・モルティブ」(JTBのポケットガイド)絶版

→ブックオフ105円本。
なんでこんなにインドにひかれるのだろう。
理由のひとつに、日本とは正反対だからということがある。
たとえば日本人の大好きな「がんばれば報われる」。
学校で小中高と教師が言いつづけるのがこれ。
がんばりなさい。がんばればかならず報われる。怠けてはいけません。
テレビも同様。がんばれ、がんばれ。
がんばればなんでもできる。夢はかならずかなうもの。

あひゃ。インドではがんばっても報われない。
ご存じ、カースト制度のためである。
下位カーストに生まれたら、いくらがんばったところでダメ。
自由恋愛もない。親が決めた相手と結婚しなければならない。
だけど、反乱は起きない。カースト制度を支えるヒンドゥー教のおかげ。
ヒンドゥー教は輪廻転生を教える。いま不運なのは前世の悪行のため。
来世に期待をかけながら、現世をなんとかやり過ごす。

いいよなインド。がんばれば報われるという共同幻想がない。
そもそも、がんばれば報われる。ひどいスローガンではないか。
報われていないひとは即座にがんばっていないという烙印を押されてしまう。
たとえばテレビで売れている芸人は、がんばったから。
売れていないひとは、がんばっていないから。
一時期売れていて凋落したひとは、がんばりが足らないから。
そ~れ! がんばれ、がんばれ、ニッポン! がんばれ、がんばれ、ニッポン!
「インドにて」(仲能健児/幻冬舎文庫)絶版

→インド紀行漫画。秀作。
インドっておもしろい国だ。
インドを描いたらどんなものでも一定のレベルはクリアしてしまうのだから。

さて、早くも大脱線。
当たり前のことなのにみな忘れていることがある。
あるいは、あえて忘れようとしていること。
あした死ぬかもしれないということである。
テレビや新聞で毎日、事故や犯罪を報道している。
なんら自らに責任がなくても、事故や犯罪に巻き込まれることはある。
今日、夕方のニュースで顔写真がでるひとだって、
昨日はまさか自分がそんなことになるとは思ってもいなかったのである。
あした死ぬ――。
そのとき思うことがある。2004年に3ヶ月インドを旅しておいてよかった。
つまらない人生だったけど、あの89日だけは輝いていた。
ふしぎなものである。
インドでつけていた日記には、毎日インドおよびインド人への不満が書かれているのに。
初日には、インドになんか来るんじゃなかった。
最終日には、二度と来るかインド!
なんだか笑ってしまう。人間はわからない。

あした死ぬかもしれない。
常にそう考えながら生きていきたいと思う。
うむ? とすると、こんなインド漫画を読んでいる暇はなかったのか?