「南インドの旅」(昭文社)絶版
「東インドの旅」(昭文社)絶版
「北西インドの旅」(昭文社)絶版


→インド直輸入のレトルト食品カディ・パコラ( ヨーグルトと天ぷらのカレー )を食べながら、
インドウイスキーをがぶのみしつつ読んだ本――ガイドブックである。
3冊そろってオールカラー。なつかしいインドに何度も落涙した。
インドには2回行ったことがある。
4年前のインド放浪は死のうと思って行ったのであった。
インドは危険な国である。
どうしても自殺をできないわたしだが、この国なら殺してくれるのではないか。
通常3ヶ月にもわたる長期旅行だと保険には入らないもの。
しかし、わたしは葬式代確保のためあえて旅行保険に加入しインドへ旅立った。
いまこうして生きている。インドが恋しくてたまらない。
かの天竺は日本とまるで正反対の国である。
日本人なら一度はインドへ行ってもいいのではないか。
あの国にはなにかがある。
好きになるか嫌いになるかしかない、なにものかがインドにはある。
再度、行きたいと思っている。だが、年齢を考えると、どうにも勇気が出ない。
こうしてインドの酒をのみ、インドを思うことでぐっとこらえている。
これもまた幸せなのである。ああ、はるけき天竺よ印度よ!
「ワールドガイド インド」(るるぶ)

→ガイドブックを読む愉しみを発見したのはいつだったか。
どのページを見ても、思い出がよみがえる。
ほとんどインド全土を放浪したからである。
精神が悲鳴をあげたインド人のどぎつさも、
肉体が限界をうったえた連日のカレースパイスも、
いまではひたすら懐かしい。行ってよかったと思う。
生きているうちにやりたいことはやるべきである。
いつ死ぬかはだれにもわからないのだから。

インドは死に包まれた国である。
インド人はみなみな死を意識して生きている。
死から生を見ている。死を見据えながら生きている。つまり、宗教がある。
インドは宗教大国である。
わたしが行った順番に記述してみる。

ムンバイ=ゾロアスター教。
エローラ=ジャイナ教。
ゴア=キリスト教。
カンニャクマリ=ヒンドゥー教。
コーチン=ユダヤ教。
カルカッタ=シーク教。
ブッダガヤー=仏教。
デリー=イスラム教。
ダラムシャーラー=チベット密教。

多様な宗教のどこを見たら、相違がわかるのか。
死を見ればよろしい。その宗教が死をどのように定義しているか。
死は科学がわけいっていくことができない最後の聖域である。
死がある限り、宗教は必要とされる。

死に関係したインドでの思い出をひとつ書く。
インド人は聖者でもなんでもない。
長距離バスで移動しているときのこと。
満員のバス車内が、突然盛り上がることがあった。
乗客全員が一体になったようなどよめきである。
肩をたたかれて、喜色満面のインド人にあれを見ろといわれる。
首をのばすと、ひとが血を流して死んでいる。
交通事故と思われる。死を見て大はしゃぎするインド人――。
インドの交通事故は殺され損である。
めったなことでもないと警察すら来ない。
加害車両は逃走するのが当たり前。捕まることもない。
インドは人口が多いから、ひとがひとり死んだくらいでは騒がないのかもしれない。
かえって、苦に満ちた現世から去ることができて、おめでとう!
そんな雰囲気さえある。
バスはしばらく停車した。運転手が死体を見飽きたのであろう。またバスが動きだす。
死体をあとにしながら、なんてこの国は疲れるのだろうとわたしはため息をついた。
「インドの大地で」(五島昭/中公新書)絶版

→インドへ行こうか迷っているかたがいたらぜひ背中を押したい。
行ってらっしゃい、見てらっしゃいと肩をぽんぽんたたきたくなる。
わずか3ヶ月のインド放浪で学んだものは、大学の4年間を凌駕する。
こういっても決して過言ではないほどインドは日本人を刺激する。
勉強になるというのとはちょっとちがう。むしろ勉強をする気にさせるというのか。
やる気を起こさせる、とでもいおうか。
日本とは対極の国である。
たとえば五島さんはインド人をこう評している。

「インドに住む日本人のかなりの部分が、インド人嫌いである。
インド人に対して日本人が抱く違和感は、先に挙げた卑屈な(と日本人には思える)
金銭感覚にとどまらない。あくことのない自己主張、空疎な長広舌、
社会的地位の高い人物にしばしば見られる根拠のないプライドと傲岸不遜。
およそ日本人が美徳と見なす性向と正反対のものを、
彼らは一身に備えているかに見える。
したがって、インド体験とは、インド人との違和感に耐えつつ、
自分の精神的均衡を保つ不断の努力を意味する、といっても誇張ではない」(P53)


インドへ行くのは若ければ、若いほどいい。
五島さんのようなおとなは、インド人は嫌い、で終わってしまうが、
若者ならこう考えることができる。じゃあ、日本ってなんだろう。
こうしてわたしは日本へ興味をもつようになった。
日本の古典とは。世界における日本とは。
2年前インドで受けた衝撃が、いまもわたしを衝き動かしているのかもしれない。
インドは、めちゃくちゃである。
よくいわれることだが、すべてが露出している。
糞尿、死人、差別、狡知、麻薬、信仰――。
みなみな日本社会では隠されているものである。
インドではこれらすべてを路上で目撃することが可能なのだ。
かの国のふしぎはカースト制度に行き着く。これほど部外者を寄せつけぬものはない。
著者はこう分析する。正否はわからないが、とりあえず紹介する。

「カーストには二つの顔がある。
すなわちカーストは“結婚”や“職業世襲”を通じて、
人間と人間を結びつける“きずな”の役割を果たす一方、
カースト内部の結束と団結は、外部の者に対する差別意識を生み、
インド社会に亀裂をもたらしている。
カーストはインド社会に“統合”と“分断”という相反する二つの要素を与えている」(P83)


このカーストを広くつつみこみ、ゆるやかに緩和するのは、
これまた日本人にはわかりにくいヒンドゥー教になるわけだが、
そこまで著者の分析は進まない。
日本人にはとうてい不幸としか思えない人間が、
なぜインドでは笑顔で充実した毎日を生きることができるのか。
これもヒンドゥー教の深遠に吸収される問いのひとつである。
では、なぜかの人間はインドへ生まれて、我われは日本に生まれたか。
これはヒンドゥー教のみならず宗教全般へわけいる入口である。
インドには無数の入口がある。インドを経由して、どこへでも行くことができる。
わたしはどこへ行こうとしているのか。
最近、ふたたびインドからの呼び声が聞こえてきた。
まだだ、と思う。まだ前回もらった宿題の半分も答えていない。
つぎへインドへ行くとすると3度目になる。この年齢ではもう無理かなとも思う。
インドは若いうちに行きましょう。
「ブッダ・ロード 川人忠幸インド写真集」(ひろさちや/角川文庫)絶版

→仏跡地を中心としたインド写真集。
かつて旅行したとき、写真はまったく撮らなかったからこのような写真集はうれしい。
こみあげてくるものがある。
よくもまあ、あんな旅をできたもんだと思う。わずか2年前だけれども。
インド中の仏跡を求め歩いた。
わかりやすく恥ずかしい旅であった。
本人は旅行ではなく放浪のつもりなのがもっと痛々しい。
母親から目の前で飛び降り自殺をされた。
6年前、わたしは母の頭から流れでる血をまえにうめくしかなかった。
自殺前日にそうとは知らずわたしは母に遺書を書かせていた。
たとえどうひとが慰めてくれようが、じぶんが殺したようなものだと思っている。
実際、遺された日記には、長年にわたる母のわたしへの憎悪が織り込まれていた。
苦悶する。生活から逸脱する。
どうしようもなく救いを求めて混沌の国、インドへおもむく。
安っぽい人生ドラマではないか。
大衆小説なら、ここで主人公の身になにか劇的なことがあり、ある種の成長をする。
インド帰国後はぶじ日常へ帰参。めでたし、めでたしとなるはずである。
現実は小説のようにはいかない。インドでは3ヶ月、なにもなかった。
なにも悟らなかったし、だれとも出会わなかったし、どんな真実も発見しなかった。
それでもと思う。あのときインドへ行くことができてよかった。
インドの写真を見ながらしんじつそう思う。
いまインドからもらった宿題を解いているのかもしれない。
無数の忘れられない風景がこころへ刻み込まれている。
「インド・ネパール・スリランカ・モルティブ」(JTBのポケットガイド)絶版

→ブックオフ105円本。
なんでこんなにインドにひかれるのだろう。
理由のひとつに、日本とは正反対だからということがある。
たとえば日本人の大好きな「がんばれば報われる」。
学校で小中高と教師が言いつづけるのがこれ。
がんばりなさい。がんばればかならず報われる。怠けてはいけません。
テレビも同様。がんばれ、がんばれ。
がんばればなんでもできる。夢はかならずかなうもの。

あひゃ。インドではがんばっても報われない。
ご存じ、カースト制度のためである。
下位カーストに生まれたら、いくらがんばったところでダメ。
自由恋愛もない。親が決めた相手と結婚しなければならない。
だけど、反乱は起きない。カースト制度を支えるヒンドゥー教のおかげ。
ヒンドゥー教は輪廻転生を教える。いま不運なのは前世の悪行のため。
来世に期待をかけながら、現世をなんとかやり過ごす。

いいよなインド。がんばれば報われるという共同幻想がない。
そもそも、がんばれば報われる。ひどいスローガンではないか。
報われていないひとは即座にがんばっていないという烙印を押されてしまう。
たとえばテレビで売れている芸人は、がんばったから。
売れていないひとは、がんばっていないから。
一時期売れていて凋落したひとは、がんばりが足らないから。
そ〜れ! がんばれ、がんばれ、ニッポン! がんばれ、がんばれ、ニッポン!
「インドにて」(仲能健児/幻冬舎文庫)絶版

→インド紀行漫画。秀作。
インドっておもしろい国だ。
インドを描いたらどんなものでも一定のレベルはクリアしてしまうのだから。

さて、早くも大脱線。
当たり前のことなのにみな忘れていることがある。
あるいは、あえて忘れようとしていること。
あした死ぬかもしれないということである。
テレビや新聞で毎日、事故や犯罪を報道している。
なんら自らに責任がなくても、事故や犯罪に巻き込まれることはある。
今日、夕方のニュースで顔写真がでるひとだって、
昨日はまさか自分がそんなことになるとは思ってもいなかったのである。
あした死ぬ――。
そのとき思うことがある。2004年に3ヶ月インドを旅しておいてよかった。
つまらない人生だったけど、あの89日だけは輝いていた。
ふしぎなものである。
インドでつけていた日記には、毎日インドおよびインド人への不満が書かれているのに。
初日には、インドになんか来るんじゃなかった。
最終日には、二度と来るかインド!
なんだか笑ってしまう。人間はわからない。

あした死ぬかもしれない。
常にそう考えながら生きていきたいと思う。
うむ? とすると、こんなインド漫画を読んでいる暇はなかったのか?
2006/01/07(土) 15:09:18

「エリアガイド147 インドの旅」(昭文社)絶版

→総カラーのガイドブックです。
1ページ目から最後まで順に読み進む。
意外だった。おもしろいのだ。
インドの歴史・神話・食物等を旅行者へコンパクトに紹介するコラムがある。
細かい知識はすべて省略して、大本だけを伝えようとするその姿勢は、
けなげなツアーコンダクターを連想させ、思わずいたわりたくなる。
名所の紹介文もおなじく。
名所旧跡というのは、とどのつまり歴史的に重要な場所である。
だからインド史の勉強にもなる。
レストランガイド。本文横にはおいしそうなインド料理の写真がある。
これで知識欲のみならずグルメ欲まで満たされる。
ちなみに、ひとは実際に食べなくても満足するという事実は、
グルメ番組の隆盛が証明している。

この本は至れり尽くせりで大満足。
ガイドブックは読み物として見直されてもいいのかもしれません。
2006/01/07(土) 14:32:56

「インド 旅の雑学ノート 熱闘編」(山田和/ダイヤモンド社)

→安易にまえがきから引用する。

「正直に言って、ほんとうの意味で旅ができるところは、
いまやインドをのぞいて世界中どこにもない」

「インドの旅は『闘い』であり、『修行』であり、
それはやがて『悟りへの道』へと続いているというところが、
他の国への旅とくらべて大いに異なるところだ」

このインドマニアは「あとがき」で
じぶんはほんとうにインドが好きなのか自問する。

「好きなところもあるが、うんざりしているところもある。
鼻につくところもあるが、なにものにもかえ難い魅力もある。
きっとそういうことで長く続いているのだろう」

あまたあるインドエッセイのなかの1冊。
インド旅行記は他国のものとくらべると断然、出版点数が多い。
だれもがマイ・インドを語りたくなるのです。
そのどれもが、まあ、おもしろいといってよいのはひとえにインドの力だと思う。
著者はインドの熱源をただしく礼讃し、同時に嘆息しながら非難する。
インドの長所は、別の面から見たら短所になると悟ったがためである。
仏教調にいえば「長所即短所」。
インドの旅は苦労ばかりだ。しかしその苦労こそが旅の楽しみなのだ。
著者はいう、「この国を旅すると何人かは新興宗教の教祖になる」と。
そういうご本人も紙一重なところがおもしろい。わらった。

古本屋ワゴン100円本。
インドでは500円も払えばけっこうなホテルに泊まることができる。
そのインド的金銭感覚からすると定価1600円はだせません。ごめんなさい。
2005/12/28(水) 17:29:06

「ヒンドゥー教とイスラム教」(荒松雄/岩波新書)品切れ

→副題は「南アジア史における宗教と社会」。
インド史は、ヒンドゥー教とイスラム教の争いの歴史といってもよい。
現在もインド・パキスタン間には、
カシュミール問題といったしこりが残っている。
本書はインドにおけるヒンドゥー教とイスラム教の関係を、
まずは教義の相違からはじまり、
だんだんと著者の専門領域、社会関係まで追求していく。

簡単にインド史を振り返る。
おおむかし。インダス文明。
BC1500頃。アーリア人の侵入。バラモン教誕生。これがのちにヒンドゥー教になる。
BC268。仏教大好きアショーカ王。仏教は1000年をかけてすたれていく。
AD1206。イスラーム支配開始。奴隷王朝。
AD1526。ムガル帝国。これもイスラーム支配。
AD1600。イギリス、東インド会社を設立。植民地化を推進。
AD1857。セポイの反乱。鎮圧される。ムガル帝国崩壊。イギリス支配開始。
AD1947。インド・パキスタン分離独立。

イスラームはなぜヒンドゥーに勝ったのか。

著者は教義に理由を求める。
神前の平等を説く一神教のイスラームは連帯感・同胞感をもちやすい。
一方、多神教のヒンドゥーはカーストごとにばらばら。
イスラームの勝利は必然だったという。
次の指摘もおもしろい。
イスラームに支配権を奪われたヒンドゥーの上位カースト。
かれらは連帯してイスラームに対抗することをせず、
腹いせに下位カーストをしめあげた。
だから3000年もカースト制度が続いたのではないかというのが著者の試論。
うん、刺激的な良書でした。
2005/12/28(水) 13:28:56

「釈尊物語」(ひろさちや/平凡社カラー新書)絶版

→インドのカラー写真がたくさん。これを買った理由です。
ブッダが身近に感じられるのはインドを旅行をしたからだと思う。
生まれたルンビニー、悟りを開いたブッダガヤー、亡くなったクシナーガル。
ほかにも八大聖地と呼ばれる仏跡地はすべて行った。
当時は投げやりな義務感から足を運んだに過ぎなかった。
しかし今になってとても貴重なことのように思えてくる。
この本のようなブッダの伝記を読んでいると行った場所が思い返される。
するとブッダが知らぬひとではないように思えてくるのだからふしぎなものです。

*インド仏教八大聖地について。
個人で行こうと思っているかたへ。
2004年にわたしも八大仏跡を巡礼しました。
当時、困ったのが情報不足。
まず行きかたがわからないところがある。あと宿泊環境もわからない。
インドのネット屋で必死に検索したのも、いまとなってはいい想い出です。
しかしそのときは不明点を解消するサイトがなかったのを覚えています。
そのためいざとなったら野宿をも辞さぬ覚悟でサンカーシャへ行きました。
(ちなみにサンカーシャに宿泊施設はあります)
仏跡巡礼を考えている方、どうぞなんでも聞いてください。わかる範囲でお答えします。
万が一、(以前のわたしのように)インドのネット屋でこの「本の山」を発見したかたが
いらっしゃったら、その偶然に驚くばかりです(笑)。