「にぎやかな天地(上下)」(宮本輝/中央公論新社)
→わんわん泣きながら読んでおいて、批評も感想もないわけである。
宮本輝。古今東西の作家で、唯一の作家である。
どのような距離をとって向きあえばいいのかさっぱりわからない。
この作家について書くとなると、支離滅裂を避けられない。
いちばん身近な場所にいると思うときがあれば、
決して手の届かない天空に鎮座しているようにも思える。
人気作家である。いまは教科書にも登場するらしい。ファンも幅広い層にわたる。
だが、と思うのだ。あなたたちのどれだけが宮本輝の怖さを知っているか。
この作家は愛や優しさを描くだけの作家ではないんだぞ。
日本でただひとり地獄を克明に描写することができる文学者なんだぞ。
そう叫びたくなる。
宮本輝の小説はあたまではなく、こころに食い込んでくる。
私事を書く。
こういうかたちでしか、わたしはこの作家と対峙することができないのだ。
6年前の梅雨、母親が自殺をした。
目の前で飛び降り自殺。下にいた。母が上から落ちてきて、血まみれになり死んだ。
母はわたしが下にいることを知ったうえで、自殺を敢行したのである。
最後に口にしたことばはわたしの名前であった。
名前を呼ばれ、上を向いた。母はつかまっていたベランダから手を離した。
日記が遺されていた。そこにはわたしの悪口がこれでもかと書かれていた。
何年にもわたる怨恨がである。母は精神病だった。大好きな母だった。
宮本輝の小説「にぎやかな天地」を読みながら慟哭(どうこく)する。
ああ、と思う。ため息まじりに確信する。
きっとわたしも、いつかはわからぬが、自殺するのだろう。
それも確実に飛び降り自殺である。
だれのまえで飛び降りるかはわからない。
だが、かならずわたしは飛び降り自殺で生を終えるであろう。
そうしてはじめてある宿命が完結するのだ。
ひとめぐりして円が閉じるためには、わたしが飛び降り自殺で絶命するほかない。
これは遠いむかしから決められていたもので、人智の及ばぬ不変の法則なのだ。
母があのようにわたしのまえで飛び降りることが決まっていたように、
わたしが飛び降り自殺で死ぬことも遥かむかしから何ものかによって定められている。
宿命である。デビュー時から宮本輝が一貫して描きつづけてきたものである。
宿命は、悲劇のかたちをとってあらわれる。
宿命ということばからイメージするのは、死や不幸の連鎖であろう。
ところが、宮本輝の小説はすべてハッピーエンドである。
かれの小説のなかで何が起こっているというのか。
宿命転換である。
宿命を描く作家ならほかにもいるだろう。
水上勉や井上靖といった名が思い浮かぶ。
だが、宿命転換を小説で展開できるのは宮本輝だけなのだ。
宿命転換。聞きなれぬ用語だと思う。
これは宮本輝が所属する、日本最大の宗教団体・創価学会の思想である。
創価学会は日蓮を大聖人とあがめる宗教団体。
どういう団体か簡単に説明する。宮本文学とも深く関係すると思うからだ。
病人や貧乏人に創価学会員は接近する。
子どもが障害をもって生まれた若夫婦なども絶好のカモ。
不幸な人間の悩みを学会員は真心を込めて聞いてやる。
どうして不幸なんでしょうという問いには、確信をもってこう答える。
それは宿命です。
宿命なので過去の不幸はあきらめるしかない(ステップ1)。
けれども宿命を転換することのできる教えがある(ステップ2)。
創価学会へ入信して、勤行すれば幸福を勝ち取ることができる。
浄土真宗などのいうあの世の幸福ではない。現世利益が得られる(ステップ3)。
完全な教説だと思う。妙なる教えである。南無妙法蓮華経である。
宮本輝は、宿命と、宿命転換を描く作家である。
宿命にもてあそばれ死ぬもの。宿命転換を遂げ蓮華の大輪を咲かせるもの。
幸不幸、運不運のはざまで、花開き枯死する人間の綾なす物語。
生死を見極める宮本文学の魅力である。信仰が生みだす文学である。
「そのときは理不尽な不幸や死やと思うしかなかったものが、
十年二十年たって、残されたものたちに大きな意味を運んでくる……。
いや、大きな意味があったのやと、わかる瞬間をもたらすのやとしたら、
死というものは、生きている者が息をせんようになって、消えていってしまう、
という程度の小さな浅いもんではないんやなァ」(下巻 P259)
この部分は「にぎやかな天地」全体を要約している。
ぶすいを承知で、あとがきからも引用する。
「大きな災厄が起こったとする。
そのときの悲嘆、絶望、慟哭というものは、未来を断ち切ってしまうかに思われる。
だが、その大きな悲しみが、五年後、十年後、二十年後に、
思いもよらない幸福や人間的成長や福徳へと転換されていったとき、
私たちは過去の不幸の意味について改ためて深く思いを傾けるであろう」
母を思う。
宮本輝の小説を支えに生き抜いた数年間というものがわたしにはあった。
あれから6年である。
宮本文学では、ふしぎと都合よく主人公に幸運が舞い込む。
ところが、わたしにはこの6年というもの、ろくなことが起こらない。
南無妙法蓮華経というつもりはない。つまり、創価学会に入信する意思はない。
とすると、母とおなじ道を歩むほかないのか。
このまま不運のうちに死んでいくのか。それとも待っていたら幸運もあるのか。
南無妙法蓮華経を唱えぬわたしである。
「運て、確かに存在するもんなァ。
運ていう言葉でしか説明でけへんことが、ぼくらの人生には多すぎる。
そやけど、なんで運のええ人と悪い人がいてるねん?
運て、どこからどうやってその人にまとわりついてくるねん?
どうやったら、運のええ人間になれるねん?
いったい運て何やねん? 」(上巻 P345)
04/07/29 07:59
「海岸列車(上・下)」(宮本輝/文春文庫)*再読
→ふと思った。タクシーが宮本輝の小説をダメにしたのではないか。
宮本輝はこれを書く数作前から、小説の質が哀しくなるほど落ちはじめた。
その原因はタクシーにあるのではないか。
登場人物がやたらタクシーに乗る。そのくらいなら歩け。電車を使え。
そう怒鳴りつけたくなるくらい小説内人物が頻繁にタクシーを利用する。
タクシー。安易な交通手段。
金を払っても楽をしたいがためにひとはタクシーに乗る。
宮本文学本来の魅力とは異質の(小説内)道具であるように思うのはわたしだけか。
「春の夢」で金のない哲也は陽子に会うため雨にぬれながら隣駅まで歩いた。
「青が散る」で二日酔いの燎平は夏子がいるホテルまでタクシーに乗らず歩いた。
「海岸列車」では歩くことをやめてタクシーに乗る――。
「海岸列車」上巻を読み始めてすぐ投げ出したくなった。
偶然を簡単に使いすぎるんだもん。そんなことあるわけないじゃん。
無理して読みつづけても、偶然の一致の連続。シンクロニシティ大安売り。
それとやめてください宮本輝先生。創価学会思想の抜書きは。
「因果倶時」(創価学会用語)とかいわれても一般読者は興ざめです。
あと日蓮が二箇所、言及されているのにもげんなり。
やたら長いけどページ数を食っているのはグルメ自慢、日本の悪口、若者への説教。
この後に宮本輝が連綿と書きつづける長編小説の欠点(上記3点)、
その萌芽がすべてこの「海岸列車」にあるといっても過言ではありません。
04/07/29 07:19
「五千回の生死」(宮本輝/新潮文庫)*再読
→近松門左衛門の有名なことばがある。
「芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也。
……虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰が有たもの也」
宮本輝が作家として目指した境界はここにあるのではないか。
虚にして虚にあらず、実にして実にあらず。
その間にある感動を宮本輝は書こうとする。
かれは信じているのである。
その感動を与える以外に芸というものの存在理由はあるものかと。
「五千回の生死」は短編小説集。
ここに収録されている「アルコール兄弟」は
宮本輝が全集に入れるのを拒んだという逸話がある。
読んでみるとたしかに失敗作。なにを書いているのかさっぱりわからない。
「避暑地の猫」(宮本輝/講談社文庫)*再読
→宮本輝作品としては異色作。悪人しか出てこない小説を書こうとしたらしい。
この悪人路線は「避暑地の猫」一作でやめてしまったようです。
天才にしか書けない小説。
うーん。天才とは書きましたが、再読した今回は裏の設計図が見えてきたのも事実。
創価学会の思想から、ある程度までは絵解きすることができる。
といっても、所詮「ある程度まで」。
そこから先は天才にしか見えない「光と闇」があるのだと畏怖するほかありません。
04/07/25 10:50
「道行く人たちと」(宮本輝/文春文庫)*再読
「メインテーマ」(宮本輝/文春文庫)*再読
→どちらも宮本輝の対談集。
対談相手は作家、評論家、映画監督と多様。
なんであれ、いろんな分野におけるひとかどの人物たちである。
なんなんでしょう、成功する人と、失敗する人の差というのは。
成功した落語家なんてすごいこと言うもん。自画自賛の極み。
貧乏自慢からはじまり、自らが発見した成功方程式を喜色満面に語ること、語ること。
あーあ。わたしも成功したいな。どうすればいいのでしょう。
宮本輝は小説でよく「天分」とか「星まわり」という言葉を使う。
わたしの「星まわり」ってよほど悪いのかな。
どんな「天分」を与えられているのでしょうか。
なんか元気のない読了報告でごめんなさい。こんな日もあります。
04/07/20 11:36
「星々の悲しみ」(宮本輝/文春文庫)*再読
「二十歳の火影」(宮本輝/講談社文庫)*再読
「命の器」(宮本輝/講談社文庫)*再読
→宮本輝は天才である。
現代小説を何か読む。たいがいの小説は底を察することがまあできる。
しかし宮本輝の小説はあまたある現代小説と根本から異なっている。
底が見えない深みがある。
あるいはいくらハシゴをのぼっても、とうていたどりつけない高みに氏の小説はある。
わたしごときがどれだけ人生経験をつもうが書けないものがそこに書かれているのである。
なんであんなすごい小説を宮本輝は書けるのだろうか。
その秘密はどこにあるのかと宮本輝個人に興味を持つ。
すると宮本輝の裏側に2500年の歴史を持つ仏教が見えてくる。
仏法、日蓮、創価学会――。
宮本輝は作家になりたくて創価学会に入信したのではないという。
創価学会に入ってしばらくしてから、この教えを小説で広めたいと思ったとのこと。
共産党には共産主義の作家がいる、キリスト教もそう、なら創価学会からは自分が、と。
かなわないなと思う。
宮本輝の小説には何か壮大なもの――宇宙的な広がりのある何ものか――
を信じている人間でなければ書けないものが描かれている。
信じることから生じる力強さがある。
04/07/04 07:14
「春の夢」(宮本輝/文春文庫)*再読
→まえにこれを読んだのは大学に入ったばかりのころだったか。
だからだと思う。上質な青春小説として記憶に残っている。
今回再読してみて、あららと思った。うわっと。
よく言えば荒削り、わるく言えばへたくそな小説。
大学で東洋哲学を受講しただけの(たいして頭も良くないという設定の)主人公、
哲也がおかしい。
「歎異抄」否定の仏法議論を友人とする。輪廻転生に思いをよせる。
いくらなんでも不自然だって!
一言、「哲也は創価学会員であった」と書けたらすべて解決するんだけど(笑)。
そして初期小説だからだと思う。
読んでいて恥ずかしくなるくらいに宮本輝の(しいては創価学会の)仏教観がでている。
デビュー作の「螢川」「泥の河」で書くまいと自制していたものを
すべて放り出したかのようである。
登場人物のひとり、磯貝は哲也に本を投げつけた後に言う。
「俺が投げたから、その本は井領(哲也)のところに飛んで行ったんや。
本が勝手に飛んで行ったんやないで。結果の前には、必ずその原因があるんや。
それが物理学の基本やろ。
原因のない結果なんて、この宇宙にひとつとしてあるか?
あったら教えてくれ。(……)
この世のいっさいの出来事は原因があるから結果があるんや」
両親をどちらもふしぎな鉄道事故で亡くし、自らも重い心臓病を患う磯貝はつづける。
「 なんで人間は、
生まれながらに差がついているんや。
それにも原因があるはずや。
そしたら、生まれる前に、その原因を作ったとしか考えられへんやないか。
そう考えるのが、一番理にかなってると思えへんか?
ある人は金持の家に生まれる。ある人は貧乏な家に生まれる。
ある人は五体満足で生まれる。ある人は不具で生まれる。
あらゆる事柄に原因と結果があるのに、人間だけが、
持って生まれたそんな差別に何の原因もないと考える方がおかしいやないか。
人間は覚えてないだけで、
この世以外の人生を、以前に確かに経験してるはずや。
それで、いろんな借金をかかえて死んだんや。
それから眠って目を醒ますみたいに、また生まれてきた。
そやけど借金は消えていない……」(P106)
ここに宮本文学の原点を、見る。
宗教と文学のぎりぎりの接点を、見る。物語を生む豊かな土壌を、見る。
前世の因縁うんぬんと高額のツボをうっかり買ってしまう危険性まで、見る。
このツボと池田大作氏が同じかどうかはまだわからない。
04/07/02 11:19
「錦繍」(宮本輝/新潮文庫)*再読
→宮本輝の小説でいちばん再読の回数が多いのがこれです。
どれだけ感銘を受けた小説でも5回も6回も読めばおのずと仕掛けが見えてくるもの。
エピソードもストーリー展開もほとんど記憶してしまっている。
実はそうとうにきわどい小説だと思う。信仰告白というのか、なんというのか。
たとえば犯罪被害者というものがいる。
この小説はその人たちに、あなたは自分のせいでそうなったのだと
罵倒しているようにも読めるわけである。
それはあなたの業(ごう)だ、あなたが悪かったからそうなったのだと。
宮本輝はこの小説で「因果」(仏教用語)を展開させている。
悪い「(結)果」(犯罪被害や障害児誕生)が出たということは、
必ず悪い「(原)因」があったに違いない。
ふつうはこんなこと言えないでしょ?
不幸な人に向かって、あなたが悪い、自業自得だ、なんて言えますか?
でも宮本輝は言えるんです。なぜなら信仰があるから。創価学会への。
そこが宮本輝を天才たらしめている根本だと思う。
宮本輝は「因」が「果」になるゆえんの「縁」を小説に書くわけです。
そして主張する、現在の重視を。今刻々と流れていると「時」を見よ。
これらも「因」である、
だから良い「因」をなせば必ず良い「果」(功徳)が得られる(=創価学会思想の根本)。
わたしが冒頭にこの「錦繍」を「きわどい」と形容した理由を
わかっていただけましたか。
おそらく宮本輝の小説の中でこれはもっとも宗教的な小説でしょう。
表層的な「感動」の底をじっと見つめていると恐ろしい「地獄」が見えてくる、
そういう小説です。
亜紀母子が満天の星空を見ていたとき、有馬はネズミを食い殺す猫を見ていた。
この場面に「錦繍」の魅力が象徴されている。
04/07/02 10:55
「幻の光」(宮本輝/新潮文庫)*再読
→最愛の夫が原因不明の自殺、そこからどう主人公の女性は立ち直っていくか。
できすぎていると思った。そりゃ、そう書いちゃ、そのとおりだけど、うーん。
ふつうの小説家がスタート地点から小説を書き始めるとすれば、
宮本輝はゴール地点から書いているようなところがある。
宮本輝自身は中上健次との対談では次のような言い方をしているけれども。
「だから人間は、反対のことをやっていると思うのね。
心から花が生じるとか、心から月が生じるとか。
僕は、違うと思っている。『花こそ心よ、月こそ心よ』
そういう気持ちですね。
おそらく多分、いまの作家たちは、自分の心から花をつくろうとか、
自分の心から月をつくろうとしていると思う。
だから、小説がおもしろくないんです」(「道行く人たちと」)
04/06/27 13:20
「優駿(上)(下)」(宮本輝/新潮文庫)*再読
→小説を読むというのはほんとうに楽しいことなのだと改めて実感させられた。
読みやすい文章、時間を忘れさせる物語、魅力的な登場人物――。
この「優駿」は至れり尽せりの感があります。
最初にこの小説を読んだときは圧倒的な感動に押しつぶされたかのようで、
ただ涙にまみれ、「生きよう、生きよう」と随喜の嗚咽をもらすのみだった。
恥ずかしいけどほんとうなんです。
今回の再読では残念ながらそこまでの感動は味わえなかった。
こういう小説を書けるひとは幸せだなぁと
観客席のいちばん後ろから舞台の上を見やる気分。
けっして自分が立つことのない舞台を、羨望の思いで、ため息をつきながら。
たしかにすばらしい舞台(小説)ではあったけど、それは舞台の上だけの話だから。
そう出口に近いいちばん後ろの席でわたしは思った。
ひとつ再読して気づいたことがある。これはネタバレになるから注意して。
宮本輝は最後にオラシオンを勝たせていないこと!
初読のときはまったく気づかなかったけど。
オラシオンは実際は負けているのに「運」のおかげて勝利したことになっている。
やはり宮本輝という作家の宿命を見据える視線には恐ろしいものがある。
04/06/23 17:13
「新潮四月臨時別冊 宮本輝」(新潮社)*絶版
→ずっと探していて、いざ見つけたら安心してしまって長いこと積んでいた本。
アルバム(家族写真まで)、小説の書評、ご友人のエッセイ、充実した年譜などなど。
宮本輝の素顔がわかる特集本です。
若い頃の写真を見ると、げっそりとやせ細っていて目がぎらぎらでなんだか怖い。
それはそれとして、やはり宮本輝は批評できない作家なのだと改めて思った。
福田和也をはじめとして多数、宮本輝の小説を論じていたけど、どれも不満。
年譜もふくめ創価学会への言及はなし。
瀬戸内寂聴が「宮本さんは仏教徒で……」と書いていたのが唯一。
こたえたのは「宮本輝の編集するページ」。
その中の「オレの嫌いなもの」。
どういう人間が嫌いかということを十四、箇条書きにしている。
たとえば「人の幸運や幸福をねたんで、やっかむ輩」など。
わたしだ……。
これだけではなくその十四箇条すべてに当てはまる。
十四箇条に続けて「まだまだあるだろうが、つまるところ、デリカシーがなく、
姑息で勇気がなく、人を許さないくせに自慢や自己弁護ばかりするやつのことである」。
ごめんなさい、宮本輝さん……。
会ったらいきなり怒鳴りつけられそうだ……。
大好きなんだけどな宮本輝。