「世界最悪の鉄道旅行 ユーラシア大陸横断2万キロ」(下川裕治/新潮文庫)

→「世界最悪の鉄道旅行」だからいいのである。
これが「天国の鉄道旅行」だったら、だれがそんなものを読みたがるものか。
他人が快適効率的合理的経済的に旅をした記録なんておもしろくもなんともない。
「世界最悪の鉄道旅行」だからおもしろい読み物になるのである。
いまの旅行者は、どれだけ快適に効率的かつ合理的かつ経済的に
観光地をまわることしか考えていないと言ってもよい。
そんなもんは旅じゃねえぜ、
というベテラン旅行作家のたましいの叫びが聞こえてくる。
どうやらユーラシア大陸を横断する最適な方法は古臭い鉄道ではなく、
ところどころでバスを織り交ぜたほうが時間節約にもなるし経済的らしい。
にもかかわらず著者は「世界最悪の鉄道旅行 ユーラシア大陸横断2万キロ」を敢行する。
あっぱれ57歳である。
たしかこの本の見込み収入は百万くらいだと書いていた気がしますが、
41歳はとても真似できません。

しかし、これは旅ならぬ人生にもおなじことが当てはまる。
自分をふくめていまの日本人は快適かどうか、効率的合理的かどうか、
経済的かどうか(お得かどうか、損はしていないか)ばかりを考えて生きている気がする。
それってつまらないんじゃな~いという思いが読後、胸の底からこみ上げてくる。
大して役にも立たない無駄なことを無理と知りつつムラがあっても仕上げるおもしろさ。
そういうことのたいせつさもベテラン作家の旅行記から学ぶ。

ほかにもいろいろ本書を読みながら思ったことがある。
むかしから知っていたが著者はとにかく中国人が嫌いなんだなあと。
それは中国人からされたことを読めば了解可能範囲内なのだが、
わたしは1ヶ月半の中国旅行で親切にしてもらったことのほうが多いので、
人相というか身にまとったオーラは思いのほか重要なのかもしれない。
なお、むろんのこと著者の風貌をおとしめているわけではない。
本書でいちばんおもしろかったのは、飛行機に乗り遅れたところである。
このためビザなしの不法滞在になってしまい、
カメラマンとふたり売春宿に身をひそめることになる。
このあたりの記述がとてもおもしろいのだ。
下川裕治氏といえば旅のプロのなかのプロと言ってもよい。
そんな人が飛行機の搭乗時間を間違えるはずはないと思うが、
おそらく旅行作家である著者の無意識が反乱を起こしたのだと思う。
このままではつまらない旅行記になってしまうので、ここらでトラブルを起こそうと、
著者の意識がたくらんだのではなく、
無意識がこの事態を設定したと考えると納得がいく。
自分語りは迷惑だろうが、去年社会の正規レールに乗りかかったのである。
このまま正社員になっちゃうんじゃないかという思いさえあった。
なんだかんだとレールからは振り落とされ、いま社会的信用はゼロに近い状態。
しかし、これも自分の無意識が設定したのだと思うと、自他をふくめ人を恨まずに済む。

旅行作家の著者もとにかく決まったレールに乗るのがいやなようだ。
親切な現地人が旅行の手配をしてくれたが――。

「彼には申し訳ないが、こういう旅が苦手だった。
手配されたレールに乗ってしまうと楽なのだが、どこか居心地の悪さを感じてしまう。
ぼられているのではないか……と心が揺れてしまう。
なにかというと法外な金をむしりとろうとするエリアを歩きすぎたのかもしれない。
ひねくれた旅行者だった」(P316)


「ひねくれた旅行者」である著者は賄賂(わいろ)にも肯定的である。
ここは通過できないというのは国の決めたルールだが、
そんなものはその場のトップのご機嫌いかんで、
なんとでもなることを世界旅行者の著者が知らないわけがない。
賄賂を支払えば不法入国、ビザ期限切れのみならず、
ときに秘境へ分け入ることまで可能になる。
金でなんとかなるのなら、なんとかしたほうがいいに決まっている。
この道のプロでもある作家によると、賄賂の授受にはタイミングが重要らしい。
本書でも窮地に追い込まれた著者は賄賂で乗り切れないかと考える。

「僕はタイミングをはかっていた。
賄賂のやりとりがあるときは、必ず相手からサインが出る。
意味のないバインダーを渡されることもある。
それを返すとき、裏に金を挟めという合図である。
物陰に呼ばれるときも、賄賂の要求である。
僕はそんな国ばかり歩いているので、
その種のサインには敏感なほうかもしれない」(P237)


結局、このときは賄賂ではどうにもならなかったけれど、
のちのちまで著者は賄賂のサインを見逃していたのではないかと自省する。
国家ルールなんてそんなものなのである。
どうしてこの場所から旅行者を国境通過させてはいけないという理由に、
根拠のようなものはあまりないことが多い。
ならばお互いの得失が合致するならば賄賂で解決するのが、
国際法というか宇宙法なのだろう。うるさいやつにはうまく金をつかませろ。
これがおもしろい旅(および人生)を送るための秘訣なのかもしれない。

しかし、あまり知りすぎないほうがいいことも旅(人生)ではある。
プロ旅行作家の著者は、過去の体験から、万が一の場合を想定して、
国境通過のときの残金報告偽装をかなり入念にたくらんだそうだ。
だが、現実はいっさい残金は調べられず取り越し苦労に終わったという。
この著者の旅行体験も、われわれ読者に貴重な人生の知恵を与えてくれる。
早くから老後の心配をしていても、老後なんて来ないかもしれない(早死に)。
安定した生活のために資格取得の勉強をしても、
別のところで道が拓かれるかもしれない。
法律のことを細かく勉強して法的に完全なものを世に出しても、
違法不法なライバル商品に負けてしまうかもしれない。
なんにも知らないで、知らないがゆえに一発勝負で切り抜けられることもあろう。
若い人が成功するのはこのパターンがけっこうあるのではないか。
過去の慣習なんてまったく知らずに思ったようにやったら、
それが世の中に受け入れられてしまう――。

無理とも思われかねない無謀で無駄な旅を、
多少のムラを気にせず終えると旅人は学ぶことが多いのだろう。
みんながみんな長期旅行に出られるわけではないから、
本書のような旅行記はおもしろい。
旅から学ぶことは多い。それがたとえ他人の旅であっても。

「アジアンハーツ」(日比野宏/雷鳥社)

→「再会」をテーマにしたアジア旅行記。
旅のよさは1回きりというところにあるのかもしれない。
今日こうして逢って、もう一生逢わない。
そういう人たちへの感傷から、旅が帰国後に始まるわけだ。
じつのところ、旅の途中は旅をしているわけではない。
旅を終えてから、もう一生逢えないあの人やこの人を懐かしく思い返すのが旅だ。
ぼくも敦煌の隋さんともう一度逢いたいけれど、逢えないところがいいのである。
再会して(いんちき)ビールをふたりでふたたび鯨飲するのもまた楽しかろうが。
旅ならぬ人生も、きっとそうだ。
会社を辞めたらもう一生逢えない、そういう人たちとの愛別離苦が人生なのだろう。
今年1年半勤めた(バイトですが)会社を辞めたが、
いまでもそのひとりひとりの語り口や微笑を懐かしく思い出す。
いまもまだその会社にいたら、そんなことはなかっただろう。
旅や人生は終わりがあるからいい。
ぼくは日比野宏さんの本や写真がとても好きだが、
きっとそれは彼がベトナムの魅力をわかっているからだろう。
ベトナムとベトナム人が好きな日比野宏さんをぼくは好きだ。
この本もとてもよかった。
ベトナム人美少女の写真もよく、彼女が大人になったときの写真もよかった。
著者は言う。

「ぼくがベトナムに関心を寄せたのは、
ベトナム人の根底に潜む民族への誇りや心意気が、
周辺諸国の人間よりも力強く伝わってきたからだった。
彼らには、自分たちの泣き言を思うぞんぶん解きはなったあとに、
アハハッと笑い飛ばしてしまうくらいのエスプリがあった。
困難にぶちあたっても、深刻にかまえているふうには見えなかった。
しかし彼らは、あきらめの境地に達していたことには変わりようがなかった」(P146)


心底からあきらめられたら笑うことができるのかもしれない。
笑うとは、アハハッとあきらめることなのかもしれない。
ぼくも著者とおなじでベトナム人の若い男女が好きだ。
あの子たちのバイタリティーやスマイルは本当にいい。
何年後でも彼(女)らと再会できたらどれほど嬉しいことか。
しかし、ベトナム女子の笑顔はとろけるように甘いが、現実はそうでもない。
ぼくなんかもバイト先で笑顔がかわいいベトナム人女子に
甘えたように連絡先を聞いたら肘鉄(ひじてつ)を喰らったから。
「あたし、本当は怖いのよ」と――。
そういう怖さがまたベトナムっ子の魅力なのだが。
著者はベトナムで少女からこう言われたという。

「ベトナム、女、甘く見ないの、いいよ。
あとで、怖い、いっぱいあるよ。あの女、敵にすると、危ないよ」(P179)


ベトナムはいいよなあ。これからはベトナムの時代だとも思う。
あんな平均年齢が若い国がほかにあるのか。
ベトナム人ほど微笑が輝いている国民をぼくは知らない。
まあ、毒もあってベトナムに行けば日本人はかならずボラれるのだが。
道ばたの露店から薬局の店員まで日本人(外国人)と見るとボロうとしてくる。
けれど、取れるものなら(お金を)取っておいたほうがいいというのも真実。
甘ちゃんの日本人は(お金を)取れるときでも正直に定価販売するお人好し。
去年今年と多くの若いベトナム人と顔見知りになった。
いつかひとりとでも再会したいが、
このもう一生逢えないというかなしみが人生や旅の味わいであるのかもしれない。
また再会できたとしたら万歳三唱してもいいくらい喜ぶべきことなのだろう。
もう一度逢いたい異国の人がたくさんいる人生はいいものだ。
著者の日比野宏さんもきっとそう思って、この本を書いたのだろう。いい本でした。

「週末アジアでちょっと幸せ」(下川裕治・ 中田浩資/朝日文庫)

→ネパールに行って1ヶ月くらいぼんやりしたいなあ。
ルンビニーに3日いたことはあるけれど、カトマンズやポカラは行ったことがない。
ネパール人はインド人ほどきつくないってよく聞くし、
ぼんやりするのに飽きたらネパールのタマン族について調べてみたい。
ネパールに行きたいけれど、そんなことは無理なので、代わりに旅行記を読む。
優秀な旅行ライターの著者が週末短期アジア駆け足旅行をルポするというもの。
台湾の秘湯の温泉に入って「天国」とか書いていたけれど、
あれはウソなんだろうなあ。
仕事で駆け足の旅行をして、目的地の温泉に入ったって、それは仕事なんだから。
著者は若いころに1年かけて世界をまわった、
あの無目的の旅だけがほんものであったと本書で何度も述懐している。

「旅の充足というものは人ぞれぞれなのだろう。
しかし一回、長い旅をしてしまった人は、週末にアジアの大都市へ行き、
名物料理を食べるパッケージツアーのような旅の前で足が竦(すく)む。
それはそれで、国内旅行のような乗りですごせば楽しいだろう。
しかし、週末の旅であっても、
あの体がとろけるような旅の時間に浸(ひた)ることができたら……」(P114)


果たして著者は週末アジアの旅で「とろけるような」身体愉楽を得たのか。
おそらく、スケジュールに追われての、
ただただ仕事としか感じない旅であったことと思う。
しかし、仕事だからあまり「本当のこと」は書けず、
さも満足したような偽りを書かなければならない。
大人の仕事とはそういうものであるから仕方がない。
大人の著者は沖縄の離島で、子どもの書いた立て看板を見て感動する。
ふつうなら「スピードのだしすぎに注意しよう」とか書いてあるあれである。
沖縄の離島では、そうではなかった。
よほど心打たれたのか、この看板の写真が文庫本の扉に使われている。
さてと、なんと書いてあったのか。208ページより。

「遊ぶのは 楽しすぎて たまらない」

遊びではなく仕事で楽しくもない駆け足の週末旅行をしている著者は、
子どもの書いた「遊ぶのは 楽しすぎて たまらない」にドキリとする。
この子どもの感覚を失っていないから、著者の仕事は仕事だが、
どこかに遊びが入った仕事になっており、
下川裕治氏もこの仕事が嫌いかと問われたら、それほどでもないと答えるのではないか。
旅行記を読むのは仮想体験である。あーあ、ぼくもどこかへ飛び立ちたい……。

「うん、またあした」(日比野宏/凱風社)

→エッセイつきのアジア写真集。正確にはたぶんアジア人笑顔写真集。
どうして(日本人ならぬ)アジアの人の笑顔ってこんなにすてきなんだろう。
たぶん自然から笑っているようなところがあるからだと思う。
わが国のように笑顔のマニュアルのようなものがあって、
それを真似して笑っているわけではないところがいいのだろう。
笑ってと言われて笑う笑顔にはなんの輝きもないのかもしれない。
自然にどうしようもなく出てきた笑顔ほど美しいものはないのではないか。
ねらわない。人生でねらわないことを考えてみたらどうだろうか。
たとえば、旅はどこか目的地があって行なうものだとされている。
しかし、名カメラマンでもある著者の流儀は――。

「初めての土地では、僕はクジでも引くように適当なバスに乗ってみる。
とんでもないところへ行ってしまったら、むしろ喜ぶべきだ。
そのとんでもないところへは、自分が意図すると行けないからだ」(P88)


わたしも数少ないながら著者とおなじように、
海外旅行先でデタラメのバスに「えいや!」と運まかせに乗ったことがある。
もしかしたらそれが旅なのかもしれない。
もしかしたらそれが人生なのかもしれない。
老いたわたしはいまや人生でどこに行きたいという目的地のようなものはない。
強いて行きたいところをあげれば「とんでもないところ」へ行きたい。
自分がまったく意図していなかったような「とんでもないところ」へ行きたい。
そこでいままで自分が知らなかったような笑顔と出会いたい。
まったく想像もしていなかったような人と出会いたい。
いままでの人生がそうだったから、これからもそうなるような気がしている。
「とんでもないところ」へ行けるような錯覚を本書を読んで強めることができた。
いい本だった。本当にいい本だった。

「アジアを歩く 灰谷さんと文洋さんのほのぼの紀行」 (灰谷健次郎・石川文洋/木世文庫)

→あなたにとってはどうだかはまったくわからないが、
わたしにはとってもいい本だったなあ。
灰谷健次郎の文と石川文洋さんの写真のどちらがよかったかと問われたら、
だんぜん写真のほうである。
灰谷健次郎とカメラマンの石川文洋さんの生涯収入を比較したら、
たぶん弱者の味方で正義の味方ということに表面上はなっている人気作家先生のほうが
貧乏カメラマンよりも百倍以上儲けているのではないか。
しかし、わたしは灰谷健次郎もいいのだろうが(きっといいのでしょうね)、
正義の人である腕組みが好きな灰谷健次郎よりも自然体の石川文洋さんのほうが好きだ。
間違っているのかもしれないが、
彼の写真のほうが人気作家の文章よりもはるかに良質だと思う。

それにしてもアジアの人の笑顔って本当にいいよなあ。
日本人の笑顔はどこか人工的で模造品くさいが、アジアの人の笑いはまったく自然である。
もしかしたら写真にだまされているだけかもしれないけれど、
わたし自身も何度かアジアを長期間旅したことがあるから完全な間違いではないはず。
いい本だったなあ。きれいな本だったなあ。読んでよかったなあ。
日本の底辺はどこか病的な暗さを持っているのに、
アジアのほうはどうしてあそこまで自然に底抜けに明るいのか。
いいなあ、いいなあ、といま何度もお酒を飲みながら本書の写真を見返している。
作家もカメラマンも酒好きなのが本書に好影響をおよぼしたのは疑いえない。
笑顔はいい、本もお酒もいい、ならばそうだとしたら、生きているのもおそらくきっといい。

「歩くアジア」(下川裕治・阿部稔哉/双葉文庫)絶版

→旅とは偶然に身をまかせる行為である。
たとえパック旅行でも予定どおりに行く旅は海外未開発国の場合、
そこまで多くはないのではないか。
しかし、まさにそこがいいのである。旅はハプニングがいい。
予定外に立ち寄った場所で、こんな美しいものがあるのかと驚くのが旅である。
思うようにならないことで逆に収穫があるのが旅とも言いうる。
計画どおりに見たタージマハルやアンコールワットなど、
まったく記憶に残らないと思う(間違えていますか?)。
ならば、旅においてはハプニングやトラブルをもっと歓迎しなければならないのだ。
本書でも旅行者が窮地に追い込まれるところがある。
そのときの作者の思いは美しく正しい。

「正直なところ、もうどうにでもなれ、という心境だった」(P382)

結局は「なんとかなる」のだが、
そこには「どうにでもなれ」というあきらめがプラスに作用しているように見える。
「なるようにしかならない」という真実が本書のような旅行記を読むとよくわかる。
思ったようにはならないということをたしかめるのが旅という行為なのかもしれない。
これは下川裕治氏の複数の著作から教わったことである。

「夢街道アジア」(日比野宏/講談社文庫)絶版

→日比野宏さんのアジア放浪ものは大好きなので、これが最後だと思うとさみしい。
いまは経済発展のせいでどんどんアジアもインドもつまらなくなっていそうだが、
それでも若者には海外無鉄砲ひとり旅をおっさんはおすすめしたいのである。
旅とは人生であるとは偉い人がよく言っているが、
言葉の通じないところをひとりで旅すると
いろいろ人生についてわかったような錯覚が得られるのがいい。
ひとりで未開発の国を旅をするとなにがわかるのか?

1.旅(=人生)は決して思うようにならないがそこにこそ楽しみがあることがわかる。
2.ピンチになっても思いがけないことが起こり「なんとかなる」ことが実感としてわかる。
3.人は見かけによらないことが軽い痛みをともないながらわかる。

インドなんて近づいてくるのは大半が詐欺師だから騙されるいい勉強になる。
騙されてもせいぜい千円くらいのものだから、勉強料としては激安である。
(言うまでもなく、もっと悪質なものもありますが、ほとんどがせこい騙しです)
わたしも世界各地で(というほどの旅はしていませんけれど)いろいろ騙されたが、
結局人は見かけによらないのだ。
思いきり怪しそうな人が困ったときに助けてくれて感動したこともある。
ひとりで旅をしていると旅行者同士で助け合わなければならないことも少なくない。
そういうときに相手を信頼できるかどうか判断する勘も旅で磨くことができよう。

「行きずりの旅行者となんらかのきっかけで話す場合、
まずお互いに名を名乗らない。職業を明かさない。つぎにプライベートな話をしない。
二度と会わないであろう旅行者同士の、自然にそなわった知恵でもある」(P11)


旅行初心者ほど相手の身分を聞いて騙されるようなところがあるのだ。
どうして日本人の甘ちゃんは相手が本当のことを話すと思うのだろう。
ひとり旅では、相手のことをなにも知らずに、信頼できるかどうか賭けなければならない。
名刺交換などいっさいないのである。そこが楽しい。
ひとり旅ほど楽しいものないのではないか。
ひとり旅を描いた本書もとてもよかった。
冷静に考えると共通言語のない現地人と著者がふつうに会話しているのが噓くさいが、
実際に海外ひとり旅をしたことがあるものならば、
言葉が通じなくてもそれなりの会話ができることはみな経験しているはずである。
なにより万事において、日本のやり方が絶対的に正しいわけではないことがわかるところが
海外ひとり旅のよさであり、またこういった旅行記を読む楽しさでもあろう。

「アジア亜細亜 夢のあとさき」(日比野宏/講談社文庫)絶版

→このシリーズは著者が女にだまされるシーンを書くことが多い。
うまいライターである。読者は自慢話など読みたくはないことをよく知っている。
本書を読んで気づいたのだが、だまされるのもまた才能ではないだろうか。
というのも、もし本書を事実そのままだとしたら著者は大損をしていたことになる。
しかし、どうしてか文章を読むとそうは思えない。
損をしたと表面上は書いていながら、実は違うという声が文面の奥底から聞こえてくる。
著者の味わった旅は、かりにいま作者がどういう生活をしていようが、
ただそれだけであるがままにいまの現実、収支、ありかたを肯定できるものだと思う。
どうしたらそういう旅(人生)を送れるのか。その秘訣は――。

「このさいなりゆきに任せてみよう」(P307)


「アジア亜細亜 無限回廊」(日比野宏/講談社文庫)絶版

→いい本だよな。ほんとにいい本だ。
続刊をネット通販で買ってしまったほどいい本である。
25年前のアジアはこれほど怪しさがあったのかとうらやましくなる。
というのも、どんどんアジア各国も日本化してつまらなくなっているのを
経験から知っているからだ。怪しいものはいい。不可解なものはいい。
著者は写真家でもあるのだが、
175ページに掲載されたベトナムの少女の写真は本当によかった。
憂(うれ)いがあるからである。笑顔にもかかわらず瞳に闇が宿っているからである。
怪しさのよろしさ、闇のよろしさ、不健康のよろしさを美しく切なく描いた本書は名著だ。
朝から酒をのむ貧民地域のボス、自称ランボーとの交友を描いた章は最高だった。
きっとなんだっていいのである。生きていたらなんだっていい。
旅をするとそのことがわかるのだろう。日本以外を旅すると――。

「写真集 アジアの瞳 ―Pure Smiles 」(三井昌志/クロスカルチャー・ライブラリー)

→アジアの人は心の豊かさがある!
日本人が失ってしまったものを持っている!
われわれは物質的な豊かさとひきかえになにを失ってしまったのだろう!?
なーんて、ありきたりな日本人論を一席ぶってしまいたくなるくらい、
実際アジアの人の瞳は輝いているわけさ。
この写真集では、特に少年少女の瞳の輝きに焦点を当てている。
むかしアジアをぶらぶらしたことがあるけれど、
どこへ行っても高そうなカメラを持った若い日本人旅行者がいたもんだ。
で、かならず現地の子どもに遊んでもらっている。
そういうのがなんか生理的にいやでさ、
こっちはカメラを持たず馴れ合ってくる子どもも完全無視で通した。
とはいえ、こうして出版までこぎつけたってことは、
著者のカメラマンさんはあの大勢から抜け出したってことか。
おめでとうございます。いいお写真でしたよ。