「図説 あらすじで読む 日本の仏教と経典」(廣澤隆之監修/青春出版社)

→29歳のとき、なにかを求めてインド89日間の旅をした。
インドのあらゆる仏跡をインド大衆ウイスキー8PMとともに巡礼したものである。
帰国してからも仏教求法の内的旅はつづき、あれから13年。
いまようやくひとめぐりした感がある。
はじめは廣澤隆之氏の「図解雑学 仏教」のお世話になったから、
シメも同氏の「図説 あらすじで読む 日本の仏教と経典」
といったような本のお世話になるのもわたしらしいだろう。
仏教を13年学ぶと、さすがにこの基本書に出てくるワードは理解できるようになった。
記憶はしていない。やたらめちゃくちゃ用語が多いから。
本書は仏教のスマホ的な役割もあり、あれなんだっけなの「あれ」がぴしっと出てくる。
さすがに13年も学ぶとほとんどあらゆる仏教者の本を原書で読んでいた。
だれにもほめられないし、性格もよくなっていないし、なんの利得もないけれど。

人さまざまである。
先日、生まれてはじめてホテルのバーというところに連れて行っていただき、
1杯1900円のシングルモルトをロックでご馳走になった。
まさか生涯、ホテルのバーに行くことなどないと思っていた。
生意気にもわたしの仏教総括を勢いに任せて口にした。
「仏教はウソです。仏はいませんし、悟りもありません」
人間はそれぞれひとりぼっち。
真っ黒い巨大な現実のようなものに押しつぶされそうになっている。
その現実にあらがおうとするせめてもの試みがフィクションの仏教だ。
仏教も仏も悟りもフィクションだから人は救われる。
理解してもらえたかわからなかった。
ところが――「仏教は絵本の「百万回生きたねこ」ですよ」
とのお言葉をいただき、この人と(いくばくか)わかりあえたと感動した。
そうだそうだ、仏教はお経でも学説でもヨガでもなく「百万回生きたねこ」だ。
わたしはウイスキー1杯1900円もするバーに行くのは乗り気ではなかったが、
もしかしたらあの場が(仏教学的に見たら)ふざけた会話を可能にさせたのかもしれない。
仏教はどこぞの教学を理解したとか、どれだけ修業したとか、知識をためこんだではない。
仏教は絵本の「百万回生きたねこ」に出ているではないか。

あれからインド3ヶ月からずいぶん経ったなあ、と思う。
13年も勉強すれば、無能なわたしでもここまで来れるのかと感慨深い。
好戦的なことを書くと、学会員は日蓮関係のことしか知らないしね。
わたしはおかげさまで暇と金を利用して空海から一休、池田大作まで原著で網羅した。
これほどまで無分別に仏教を自由に独学で来たのは、ひろさちや先生ゆえだろう。
仏教とはウソであり、現実ではないウソに人は救われる。
弘法大師空海の偉大さは著作の難解にあるのではなく、
庶民がお大師さまを慕い巡礼をするときの心持「同行二人」にある。
あなたはひとりではない。ひとりぼっちではない。同行二人――。
いいご縁にめぐりあったおかげで、いい本を読み、自分を知り、時間を待つことを知った。
若者に申し上げたいのは、仏教はすべて嘘だが、
そこに本気で惚れ込んだら救いがないわけでもない。
みんなの救いではなく、あなたひとりの救いがである。
ホテルのバーで救われるのもウソではない。すべて本当でウソである。
仏教というウソは人を救うのは難しいがときに自分を救うことがある。

「自灯明、法灯明」――。

信じるのは教祖ではなく、あなた自身の心の声だ。それが仏だ。
本書は軽く見られがちな体裁だが、仏教知識を参考書的に網羅したじつにいい本でした。
現世利益的にも、これはスマホよりも十倍使えること間違いなし。

「お盆のお経 仏説盂蘭盆経」(藤井正雄/講談社)

→仏説盂蘭盆(うらぼん)経は中国でつくられた偽経ということで、
お経の本にもまず掲載されていないが、
そんなことを言えば法華経だって般若心経だって偽経なわけである。
ただし大乗仏典は偽経ながらインドでつくられているぶん、
中国で創作された盂蘭盆経よりも格上になる模様。
盂蘭盆経は中国の儒教思想(親孝行)が仏教にミックスされた教えである。
あるいは日本人にはもっとも身近な経典かもしれない。
というのも、大半の日本人にとって仏教とは葬式とお盆の際に必要なもの。
葬式はそうひんぱんにはなかろうが、お盆は毎年来るわけだから。

仏説盂蘭盆経の内容は童話やおとぎ話のようにわかりやすい。
釈迦の高弟のひとりに目連尊者という坊さんがいた。神通第一と言われた僧だ。
なんでも見通せる眼をもっているので、
死んだ母がどうなっているか神通力をもって見てみたら、
あろうことか目連尊者の母は地獄に堕ち餓鬼になっていたのである。
目連が餓鬼の母親に食べ物を差し出しても、
それを手に取って口に入れるまでに灰になってしまう。
どうしたらいいか困った目連は師匠の釈迦に相談した。
そうしたら釈迦いわく、
雨安居(うあんご/インドの僧は雨期のときには托鉢しないで寺院で修業すること)
の終わった日にすべての僧にご馳走をお布施したら母は救われるだろう。
実際、目連尊者が実行してみたら母は餓鬼地獄から救われたという。

いやらしい見方をしたら、親孝行と坊さんへの布施をうながす意地汚い教えだ。
これが日本まで来ると、先祖供養とくっついて、いまのようなお盆になるわけである。
うちは父方も母方も仏教ではなかったからお盆を経験したことがないけれど、
田舎のお盆とか親戚が集まってさぞかし重々しくかつ楽しい行事なのだろう。
なぜ目連尊者の母が餓鬼道に堕ちたのか著者はおもしろい解釈をしている。

「目連尊者の亡父はバラモンの修道のおかげで天上界に生まれたのに、
亡母はなぜ餓鬼道に堕ちたのでしょうか。
業(ごう)つく婆(ばばあ)というのに、
なぜ業つく爺(じじい)とはあまりいわないのでしょうか。
それほど父に比べて母は業が深いのでしょうか。
母の業が深いというのは、欲ばりという意味ではないのです。
母はわが子を育てるのに、時には心を鬼にして育てます。
育児に専念する尊い母親の姿を見落としてはならないでしょう。
それに気づかずに、母を忘れ、供養することのなかった目連尊者に、
お釈迦さまはそれとなく教訓を垂れたものと受け取ることができます」(P87)


父に関してはいまはいがみあうこともあるけれど、
あっちが死んだりしたら素直に「ありがとう」と手を合わせられる可能性があるけれど、
母に関しては目のまえで飛び降り自殺されてしまったから、そこはねえ。
いまでも人が飛び降りて死ぬ夢をかなりの頻度で見るし、あの死に方は迷惑だよ。
しかし、お母さんありがとうという気持も芽生えていなくもないが、
供養の方法がお坊さんにご馳走しろって、それは違うだろうという気もする。
アニメ「みなしごハッチ」がいちばん思い出深いが、
「母もの」は普遍的に身分の高下を問わず人の心を打つ物語パターンだと思う。
四国のお遍路さんに行くよう人は高齢者が多く、
そのなかでも死別の苦しみをかかえた人が多いような気がする。
逆縁というけれど子どもに先立たれたりしちゃうと、しんどいやろうねえ。
そこでお盆の(死を含んだ)非日常的な儀礼がある種の救済となるわけだ。
お遍路のような巡礼行為も日常を見直す儀礼のひとつと言えなくもない。
多くの(全員ではない)女性はどうして子どもをほしがるのだろう?

「母が餓鬼道に堕ちていたことを知った目連の嘆きはいかばかりだったでしょうか。
母が餓鬼道に堕ちたのは、子を想うがゆえの所為であり、もしも
目連という子供がいなければ悪業も犯さずにすんだでありましょう。
目連は自分が母を餓鬼道に堕としたものと痛感したのです」(P97)


むかしは家が偉く、家の問題として長男を産めとか迫られたわけでしょう?
いまはそういうのが比較的にゆるくなってきたから、子どもを産む必要はあるか?
女性にとってはなにかひとつの大仕事を終えたような満足感があるのかもしれないが、
20代でパパになった男はもう冒険はできないし、先の人生が見えてしまう。
中学生のようなことを言うと、わたしも母に産んでくれって頼んだ覚えはない。
そこらへんは前世や来世をつかって腹におさめるしかない。
来世で今度は母となにがあるのだろうと思うと、おちおち死ねやしないじゃないか。
マイナーな「仏説盂蘭盆経」はアマゾンでいま9千円の値段がついているが、
そこまでの価値はない。当方がブックオフオンラインで買った350円くらいが適正価格。

「ほとけさまの知恵袋 新釈仏教寓話集」(ひろさちや/講談社)

→仏教小説(仏典)でいちばんおもしろいのはなにかと問われたら、
わたしはジャータカと答える。
ジャータカは釈迦の本生譚(過去世の物語)でもっとも娯楽性が高いと思われる。
よく法華経は文学的と言われるが、それは認めるとしても、おもしろくはないでしょう?
さらに難解な部分もあり、子どもに理解できるかと言ったら怪しい。
ジャータカは絵本にもできるような平明な物語だから、
あるお話をうかがったとき真っ先にジャータカを思い浮かべた。
ジャータカは、釈迦は過去世でこんな善行をしたから釈迦として生まれたんですよ、
というお話である。もっとも有名なのは捨身飼虎(しゃしんしこ)ではないか。
むかしある国の王子が飢えた虎を見つけた。
虎は出産直後で弱っているため動けないようだ。
赤子の虎たちは母虎にしがみついているが乳すら出ないようである。
これを見た王子は自分が餌になろうと虎のそばに横たわる。
しかし、虎は食いついてくる元気さえもうないようだ。
そこで王子はどうしたか? 高い木の上まで登り、
そこから虎の近くめがけて飛び降り自殺をした。
虎の母子は王子の肉片を食い、生きのびることができた。
この王子はじつのところ釈迦の過去世の姿であったという。

一見、美談のように思えるが王子の父母やきょうだいのことを考えると痛ましい。
自死遺族の辛さはいつの世も変わらないはずである。
両親にしてみたら、とんだ親不孝をしてくれたということになろう。
じつは弱った虎を見たのは王子だけではなく、兄ふたりもいたのである。
兄ふたりは無視したが、王子は一度城に戻ってから現場に引き返した。
王子のきょうだいは自死遺族の苦悩のみならず、
一生自責感のようなものを引きずることだろう。
果たして王子の行動は善だったのか悪だったのかわからないのである。
ひろさちや氏は本書でさらなる新解釈をしていて、そこがおもしろかった。
氏いわく、これで虎は人肉食のうまさをおぼえ人を襲うようになったのではないか。
もしそうなったとしたら、王子は間接的に殺人さえしたことになる。
それが王子の母だったりしたら二重、三重の親不孝である。

上祐史浩の本で読んだが、
この考え方はオウム真理教の殺人肯定の論拠ともなっている。
関連図書に記事を紹介しておきますので、関心ある方はお読みください。
ひろさちや氏といえば「デタラメ・あきらめ・いいかげん」を説いている。
世界はデタラメだから、そこはきちんとあきらめて、ほどほどいいかげんに生きましょうや。
これは経験的に正しいと言わざるをえない。
もう表現者になるとかあきらめて、
いいかげんに底辺生活者として寿命をまっとうしようと思っていたら、
夢のような話が舞い込んできたのは世界がデタラメだからとしか思えない。
ひろさちやさんはわかりやすいけれど、浅いんだよなあ。
まあ、浅いレベルにとどまっているから多くの読者に支持されているのだろうけれど。
もう少し深い仏教世界に入って物語を引き上げてこれないかと考えている。
そういうインスピレーションみたいなものは努力ではなく偶然だから難しい。
決して毎日遊んでいるわけじゃないんですよ。
いや、遊んでいるほうがいいのかもしれないのだから、この世界はデタラメだ。
デタラメとはどういうことか。

「わたしたちは、よく、Aが正しいとすればBは誤りだ、と考えます。
しかし、それはよくない考え方です。
実際にはAもBもともに正しいことがありますし、
ともに誤っていることもあります。いや、そのほうが多いでしょう。
Aが正しくBが誤りというケースは、むしろ少ないと思います」(P40)


論文ならば自説の正しさを証明しなければならないが、
物語や小説は正しいも誤りもないし、
しいて言うならばどちらも正しいし、どちらも誤っている。
しつこく粘着するが、正しい百点満点の小説があるかのようなことを説く、
早稲田の渡部直己セクハラ教授はまったく万死に値する。

(関連記事)
「危険な宗教の見分け方」(田原総一朗・上祐史浩/ポプラ新書)
「本生経(ジャータカ)」(平川彰訳/「原始仏典」筑摩書房)

「道の手帖 空海 世界的思想としての密教」(河出書房新社)

→庶民には読めないインテリ向けの本。読めちゃうわたしはインテリなのかなあ。
日本の有名インテリ学者の空海に関する論考をまとめたもの。
結局、日本仏教史でいちばん怪しくうさんくさいのが弘法大師空海なのだ。
「日本のスウェーデンボルグ」って言っても庶民さまはわからないかもしれないけれど。
オウム真理教の麻原にいちばん近いのは空海だって思う。
怪しくなければ宗教ではないし、
いちばんニセモノくさいのがホンモノの宗教家なのではないか。
乱暴かもしれないが、
空海の言っているのはみなさまが耳にしたら苦笑したくなるようなあれなわけだ。
あれとは宇宙パワー。宇宙の根源にあるパワー。
そんなことをわたしが言ったらアホみたいだけれど、
有名学者の井筒俊彦先生のお言葉を借りたらどうだろう?
最初にわかりやすく説明しておくと、
ドラマ「北の国から」の主題歌みたいな「あ」をずっと繰り返す、
大自然のメロディーみたいのがあるじゃないですか?
あれが根源で、あの「あ」の叫びが、
それぞれドラマ登場人物のセリフに分裂していくって感じでイメージしてもらえたら。
吹雪の音も春の息吹も人間の泣き声も笑い声も、
すべて「あーあー、あああああーあ」から発生している。



「この宇宙的「声」、宇宙的コトバの巨大エネルギー、は一瞬の休みもなく働いている。
それなのに、その響(ひびき)は我々の耳には聞こえてこない。
なぜ聞えないのか。宇宙的エネルギーとしてのコトバは、
それ自体では、まだ絶対無分節の状態にあるからである。
絶対無分節のコトバは、そのままではコトバとして認知されない。
だが、他面、この無分節のコトバは、時々刻々、自己分節を続けているのだ。
自己分節して、いわゆる自然界に拡散し、
あらゆる自然物の声として自己顕現し、
さらにこの宇宙的意味分節過程の末端的領域において、
人間の言語意識を通り、そこで人間の声、人間のコトバとなる。
このように自己分節の過程を経て「耳に聞える」万物の声となり、
人間のコトバとなる以前の、絶対無分節態における宇宙的コトバ、
「コトバ以前のコトバ」、は、前述した分節理論の見地からすれば、
当然、あらゆる声、あらゆるコトバの究極的源泉であり、
従ってまたあらゆる存在者の存在性の根源でなければならない。
こういう意味での存在の絶対的根源としてのコトバを、
真言密教は大日如来あるいは法身という形で表象する」(P73)


で、その生命の根本たる大日如来がどこにいるかというと、
断じて外部にあるわけではなく、
我われそれぞれの内部、奥深くに眠っているというのが真言密教の考え方である。
俗っぽい言い方をするならば、
このため「北の国から」を視聴して多くの人が感動するわけである。
そのエネルギーが英語になったら「ハムレット」やハリウッド映画になるわけだ。
モーツァルトという人がその響を表現したら絶妙な音楽になる。
讃美歌もそうだしゴッホの絵画も根っこは(仮称すれば)大日如来であると。
音楽や絵画を鑑賞して言葉として評論するものもいるだろうが根は同一である。
それが大日如来であると。
「真言宗の中興」といわれる覚鑁(かくばん)という坊さんは、
西方浄土も曼荼羅世界のひとつであると考えた。
どういうことかというとコトバになるまえの宇宙パワーは大日如来であり、
その無限光明を阿弥陀如来と言ってもよいのではないかと解釈したわけである。
大日如来も阿弥陀如来も我らが内奥に分け入り分け入りすると、
全生命共通の曼荼羅世界のうちに鎮座している。
さらに井筒俊彦先生のお言葉を拝借しよう。

「永遠に、不断に、大日如来はコトバを語る、そのコトバは真言。
真言は全宇宙を舞台として繰りひろげられる壮大な根源語のドラマ。
そして、それがそのまま存在世界現出のドラマである。
真言の哲学的世界像がそこに成立する。
大日如来の「説法」として形象化されるこの宇宙的根源語の作動には、
原因もなく理由もない。いつどこで始まるということもなく、
いつどこで終るということもない。
金剛界マンダラが典型的な形で視覚化しているように、
終ると見れば、すぐそのまま、新しい始まりとなる永遠の円環運動だ。
しかし、この永遠の円環運動には、それが発出する原点が、
構造的に――時間的にではなく――ある。
それが阿字(ア音)。すなわち、梵語アルファベットの第一音である阿字が、
大日如来のコトバの、無時間的原点をなす」(P78)


いま大正時代とか昭和前期の短編小説を読んでいるが、
作者が夭逝(ようせい/早死に)しても言葉は残り、わが心に感動をもよおすのである。
日本だけでいっても古事記のころから言葉があり、今後も言葉は残るだろう。
最近くだらぬ夢を睡眠中によく見るが、夢には過去も未来も詰まっているわけだ。
それを目覚めたときに言葉にすることは可能だが、なんとも形容しがたい夢もある。
それが言語化(言語分節化)以前の大日如来のわかりやすい具現だろう。
そこらへんの世界で空間や時間を超えていると考えたら、
オカルトのシンクロニシティや超能力、超常現象、霊界体験にまっしぐらだ。
わたしのスタンスはどうせこの世は退屈なのだから、
シンクロニシティのみならず占星術まで味気ない生活に取り入れたいと考えている。
不思議な偶然の一致みたいなものはあるというよりも、あってほしい。

奇人として知られる南方熊楠はいわゆる「南方マンダラ」として、
神秘的な不思議現象をあらわしたと言われている。
本書には権威づけのためか、南方熊楠の手紙が重々しく転載されているが、
この怪人は口が悪いというかメチャクチャなことを書いていておもしろい。
南方熊楠の文章は全体としてはさっぱり意味がわからないが、
下品でおもしろいなと思ったところを、みなさまの一興になればと紹介する。

「入我我入(にゅうががにゅう)とか、身平等、意平等、
そんなことは一日三文で食えるインドや、樹下で行(ぎょう)しおれば、
村の別嬪(べっぴん)が醍醐味とまでなくとも、
握り飯や豆腐のから持ってきてくれるような、簡単な世にしていうべし」(P174)


いちおう南方熊楠は真言宗びいきなんですよ。
だから、念仏宗をバカにしているが、その口汚さが爽快である。

「ついでに申す。念仏ということも弘法大師はいうたが、
前述禅定と今日の口頭禅とちがうがごとく、
心の中で仏を念ずるというと、ぶつぶつと口で念誦せよというは大ちがいなり。
余これまで親族などの中に寺詣りすること荐(しき)りなる女みるに、
みな若いときに淫奔の行い等面白からぬことありし人のみなり。
さて、この輩は真言などは面白からずとて、みな念仏宗に帰す」(P183)


南方熊楠いわく、宗教の本質とは――。

「おれのいうことは聞け、人のいうことは聞くな、
何でもえーから分からねば分かるまでわれのいうことをむりにおぼえ誦せよ、
ということとなる。これ実に宗教の本意ならんや」(P189)


さてさて、インテリ諸兄のご想像通りで、本書には
現代の空海になりそこねた男、元カリスマ学者の中沢新一も登場する。
オウム真理教の麻原尊師が愛読していたのが中沢新一。
チベットで秘法を教わったとかビックマウスで、
うまくいけば河合隼雄くらい行けたかもしれないのだが、
運がないのかオウムの麻原の師匠格になってしまったという怪しい学者さん。
河合隼雄との対談で、自分は秘法を授かったとかふかしていたなあ。
本書の編集者は中沢をカリスマ視しているようで、特別あつかいをしている。
中沢新一は秘法の一端を本書の対談で公開している。
新しい言葉を海外から持ってきて、
これの意味をわかるのは自分だけというのが空海の時代からの、
いわゆる文化人の手口なのだろう。
中沢がチベットから持参した手土産はアヌッタラ・ヨーガ・タントラである。

「……後期密教の教えである無上瑜伽(アヌッタラ・ヨーガ・タントラ)です。
無上瑜伽の思考はある意味で極限的な高さを持っていますが、
同時におそろしいほどのシンプルなものが出現したのです。
こうして密教の極限に、信じられないほどシンプルなものが出現したのです。
なにもしないこと、無為であること、まったく努力をしないこと、
無努力・無為・無作為の境地のうちに
出現してくる存在の光を見届けることを通して得られる境地、
それが後期密教の教えです」(P29)


まあ、アニマとアニムスの自然合体みたいなものだろう。
結婚相談所や街コン、婚活なんてやめちまえという。え、ちがうって? メンゴメンゴ。
小谷野敦さんは宗教本なんて意味はないという立場のようだが、
先生のように愛妻と夜ごと
アヌッタラ・ヨーガ・タントラしていないものは人生がつまらないんだ。
空海の密教がもし本当ならば、退屈な人生に色彩が生じるのである。
まだなにが起こるかわからないと思える。不思議な現象を期待できる。
実際、現実の裏側がもし空海の言うようであるならば、どんなにいいことか。
そういえばいつだったか、むかし一遍の寺へ一緒に行った若者から電話が来たぞ。
23時近くに、なんでも金は自分が払うから一緒にチベットに行きませんかとか。
まえ逢ったときには金欠でピーピー言っていたのに、どうしたんだと思った。
こちらも酔っぱらっていたから夢でも見ていたのかもしれない。
もちろんその後、連絡はないが、
空海の言うよう無言語世界海があるならばどんな不思議なことも起こりうることになる。

「真言宗のお経 CD付き」(双葉社)

→お経のCDが目当てで買い、
ひさびさに高校生のころからあるラジカセに入れたら作動せず、
パソコンでもいいの? と思いながら東芝のパソコンにおうかがいを立てたら、
見事お見事、聞くことがかないましたというお話。
唐の時代、(恵果の師匠の)不空が創作したという「舎利礼文」の一節が気になった。
それは――。

「入我我入」

本書の読み下し文では「入我我入したもう」だった。
大学受験時代、漢文はなぜか好きでよくやったけれど、
「入我我入」を「我に入り我が入る」と読むのが「正しい」のかどうかはわからない。
「我に入り」はいわゆる「他力」と言えなくもないだろう。
そうだとしたら「我が入る」は「自力」と言うことになる。
世界の秘密めいた宿命や運命は向こうから来るものであり、
しかしそういった目に見えない言葉にならない世界に自分から入っていくこともできる。
というか、むしろ「入我」と「我入」がイコールである。
世界の秘密たる偶然を宿命と観ずるときに(「入我」)、
自分はその見えない必然の世界に入っている(「我入」)。
「それが来たときにそこに入れ」
「それをみずから受けとめて、あえてそこに入っていこう」
「入ってくるのも入っていくのも我なんだよ」

☆   ☆   ☆

本書には葬式や法事の手順がこと細かく記されていた。
お経目的ではなく、葬式や法事のマニュアルとして有用なのかもしれない。
父にはむかしから聞いていたが2年まえあたまをやってしまったので、
先日とりあえず最新版を聞いておこうと葬式はどうしてほしいのか問うた。
やはり坊さんはいらないらしい。祖母は新興宗教の「生長の家」である。
父は墓へのこだわりが強く、ここには書けないが、いろいろめんどうくさかった。
父の葬式ってだれが来るんだろう?
母の葬式は無宗教でやって、母の友人と思しき人ふたりに声をかけたが、
あとから伝え聞いた話だと迷惑に感じていたという(香典、時間)。
精神病の母が友人と思っていた人は、みな母を迷惑に思っていたという笑い話。

わたしは母が死んだ52歳くらいを寿命として設定している。
呼ぶ人はいないから(だれもシステム上わたしの死を知りえない)葬式不要。
いちばん安いところで焼却していただき、骨はどうしてもらっても構わない。
孤独死、無縁死と聞くとみじめだが、あんがいいいものだよ。
叔父は孤独死で腐乱死体で発見されたが、いさぎよいとも思える。
ひとりとして友人はいなく血縁からも嫌われ、あっぱれ孤独死を完遂した。
この叔父は、母の味方をして、母は精神病ではないと大騒ぎをしたが、
のちには母と不仲になり、姉は精神病だからとあちこちで言い回った。
わたしは葬式で叔父を殴ろうとしたが、みじめにもぜんぶ交わされた。

しょぼい人生で終わりそうだぜ、と生まれてきたことを後悔する42回目の誕生日。
希望は来世。この世はかりそめ、本番は来世だ。
いかに自分を嘘でごまかすか? それが仏教のテクニックである。
本当は来世もなにもなくこのまま孤独と不安に苦しみながら、
ある日突然無意味に死ぬのだろう(ああ、突然死できたら!)。
血縁の死にざまを目にし耳にすると自分がどのような悲惨な死を迎えるか想像がつく。
そういう呪いの世界を生きているし、書けるものならば書きたかった。
仏教の呪術性、禍々しさ、終わらない暗さ、理不尽不合理な狂的死臭腐臭悪臭が好きでした。

「比叡山延暦寺はなぜ6大宗派の開祖を生んだのか」(島田裕巳/ベスト新書)

→著者もよく勉強しておられるので驚くばかり。お金が勉強させている気がする。
出版社から原稿依頼があったら、それはお金がかかっているから勉強する。
オウム真理教を擁護したとかで著者はいったん退場したけれど、
見事な復活を遂げたと思う。
退場していたときに臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の英気を養っていたのだろう。
本書はとてもおもしろく、かつわかりやすく、
日本仏教史が自分のなかできれいにまとまった感じがした。

「比叡山延暦寺はなぜ6大宗派の開祖を生んだのか」――。
著者の提出する解答は明快でとてもいい。
1.天台本覚論(みんな成仏できる)に逆らって最澄が厳しい修業を課したこと。
2.最澄の弟子、円仁、円珍が密教を重視して、真言宗よりも密教化してしまったこと。
最澄は弟子たちに厳しい修業をさせたが、それは天台本覚論と矛盾している。
このためまず法然が反旗をひるがえしたという。
著者によると、43歳の法然はもう出世の見込みがなくなりふっ切れたらしい(笑)。
もう修業なんてめんどうくさいことをやめて易行念仏でええやんけと。
日蓮は天台宗が密教化していることに腹を立てて南無妙法蓮華経よ。
が、日蓮の矛盾は円仁や円珍のことは罵倒したが、
密教も認めていた最澄を自己の正統性を守るという理由から否定できなかったこと。
そもそも日蓮も親鸞も存在があやふやらしい。
当時の公家たちの記録に日蓮や親鸞の名前がない。
親鸞は法然サイドの記録では末弟あつかいで、
自称高弟だったのではないかという疑惑がある。
本書でおもしろかったのは以上の指摘だが、それを言うかよ、
というタブー破りの小気味さがよろしい。
著者は一回ぺしゃんこになって(オウム事件)無敵状態になったのではないか。
わたしの言葉だと信憑性がないかもしれないので、
東大の宗教学科卒の人気ライターのお言葉を紹介する。

「最澄の場合には、天台教学と密教の関係について、「円密一致」という立場を取った。
円教とは完全な教えという意味だが、ここでは、天台教学のことを指す。
最澄は、結局は彼のもとを去る[弟子の]泰範(たいはん)に宛てた書状では、
「法華一乗と真言一乗となんぞ優劣あらん」と書き送っていた。
法華経を中心とする天台教学と密教との間に優劣はないというのである。
これが[弟子の]円仁になると、密教への評価は高くなる。
そこには、最澄が『大日経』を中心とした胎蔵界の摂取にとどまったのに対して、
円仁がそれに加えて『金剛頂経』にもとづく金剛界と
『蘇悉地経』にもとづく蘇悉地をも学び、
密教をトータルに摂取したことがかかわっていた。
円仁は「理同事別」の考え方を取り、理論的には円密一致だが、
実践の上では違いがあるという立場をとった。
これが円珍になると、天台教学と密教は実践の上で違いがあるだけではなく、
密教のほうが実践的で優れているという「理同事勝」の立場をとった。
天台では、五時教判ということが言われ、釈迦は最後の法華涅槃時において、
はじめて本当の教えを説いたとされた。
ところが、円珍は、さらにその先に「真言陀羅尼門(しんごんだらにもん)」を立て、
法華涅槃の教えさえ、釈迦の本当の教えではなく、
方便にすぎないという立場をとったのである。
円珍の著作の一つ、『大日経指帰』では、
「大乗中の主、秘中の最秘、法華もなお及ばず」と述べている。
これを最澄が聞いたとすれば、唖然としてことばをなくしたかもしれない。
だが、密教に対する社会的な需要は高まっており、それに対応して、
天台宗の地位を上げ、真言宗を凌駕するには、
密教を最も優れた教えとしなければならなかったのである。
さらに円仁の弟子だった安然(841~884年)は、
密教の方が天台教学よりもはるかに優れているという「円劣密勝」の立場をとり、
比叡山を真言宗と称するまでに至る。
こうして、真言宗の東密に対する台密の信仰が確立されていくことになる」(P78)


東密とか台密とか受験日本史で覚えたけれど、そういう意味だったのか。
実際問題、現世利益の密教だよねえ。
一念三千とか教わったって一銭の利益にもならないわけだから。
天台教学は現世利益という面においてはまったく使えない教えだった。
にもかかわらず、厳しい修業を求められるって、なにその罰ゲーム?
という感じだったのだろう。
しかるに、天台教学と現世利益を南無妙法蓮華経で結びつける日蓮が現われた。
日蓮は法華経の現世利益的記述を重視したが、
本人に現世利益があったのかなあ、という問題がある。
創価学会に入ると不幸になるんではないかと思うわけさ。
学会員って魔(厄災)が来ると、これは正法を受持している現証で、
自分を成長させるチャンスとか逆に喜ぶようなマゾ的なところがあるじゃないですか?
それって不幸を求めている態度とも言えなくはない。
まあ、幸福というのは不幸の相対概念だから、
不幸になるのが幸福への近道なのだろうが、学会員って不幸な人が多いよねえ。
使命なんか捨ててふつうの人として、おだやかに生きるのもいいのではないかと。
99%の人がどうせ大した陽の目を見ることもなくひっそり死んでいくのだ~よ。
しかし、日蓮は田舎坊主として終わりたくないと思った。
島田裕巳氏は日蓮の矛盾を的確に指摘している。
日蓮が師匠と目す最澄は密教を認めていたし、空海に師事してまで学ぼうとしていた。

「ただし日蓮は、生涯にわたって、この点で最澄を批判することはなかった。
最澄が密教を学んだこと自体にふれることもなかった。
しかし、最澄の後を継ぎ、同じように唐に渡った円仁などについては、
当初は評価していたものの、佐渡流罪中に記された『開目抄』では、
批判的な書き方をするようになり、
身延に隠棲してからは、厳しく批判するようになる。
円仁を批判するなら、比叡山に密教を持ち込むきっかけを与えた最澄を、
日蓮は批判すべきであった。
なぜ日蓮が最澄のことを最後まで批判しなかったのか、本人は述べていないが、
もしそうした試みに出ていたら、日蓮としては何をもって正しい仏法の理解とするのか、
その根拠を失っていたかもしれない。
自分が天台の伝統に正しく従っていることを示すためには、
智顗(ちぎ)と最澄の教えに誤りがあってはならない。
このことは、日蓮の生涯において隠された一つの大きな矛盾だった」(P174)


以前のご著作でも感じたことだが島田裕巳さんは円仁(慈覚大師)が好きっぽい。
たしかに10年も中国に留学しているし、
その間「会昌の廃仏(仏教禁止令)」で苦労している。
中国五台山の竹林寺で「念仏三昧」を伝授されたのも円仁が初である。
南無阿弥陀仏という声明念仏は円仁が中国から輸入したものだった。
ちょっと竹林寺にでも行くかと思って調べたら、あれは北京から行くのか。
北京は大嫌いな街だし、竹林寺も近年建て替えられた観光用らしいから、
そこまで念仏に散財することはないと思い直す。
円仁は自分は最澄を超えた(最澄の師匠である)という夢を見たらしい。
これは空海が見た、師匠恵果を弟子にしたという夢と似ている。
たしかに円仁は最澄よりも苦労しているが一般人には知られていない。
円仁は空海よりも55年も早く慈覚大師という諡号(しごう/勲章)を
天皇からもらっているとのこと。
創価学会親和性が非常に高い著者は、
「円仁は空海に勝った」とかあの人たちが大好きな勝負論を説いている。

合法節税対策団体、河合隼雄財団や、
自陣勢力拡大を目的とした河合隼雄賞で知られるあの有名なユング心理学者が、
日本の師匠とあがめたのが華厳宗の明恵である。
明恵は法然を厳しく批判したのだが、河合はそこにほとんど触れていなかった。
明恵が法然をどのように批判していたかの一端を本書で知る。

「……法然を批判した同時代の明恵による『摧邪輪(ざいじゃりん)』では、
「上人深智有りと雖(いえど)も、文章を善くせず、仍(よ)って自製の書紀なし」
と述べられている。
法然は文章がうまくないため、書き物を残していないというのだ。
実際、『選択本願念仏全集』は法然自ら書いたものではなく、
弟子たちに筆をとらせたものである。口述筆記とも考えられるが、
弟子たちの貢献がどこまでなのか、確かなところは分からない」(P99)


文章ってうまい人はうまいけれど、へたな人はどうしようもないよねえ。
なにも書き残していない釈迦の秘密は文章がへたくそだったことかもしれない。
イエスもなにも書き残していないし、レベルは段違いに低いが、
わが(踊り念仏の)一遍上人も文章を書くのは好きではなかったような気がする。
「歎異抄」を書いた唯円は日本の仏教者でいちばん文章がうまいと思う。
まあ、そこを親鸞の黒い血筋を継承する子孫たちに利用されてしまうわけだが。
声で情を出すのも天性だが(若いころの池田さんはうまかった)、
文章に情を乗っけることができたのが不遇の天才ゴーストライター唯円である。
常識に逆らうと、親鸞なんか「歎異抄」だけで、あとはぜんぶダメという気がするね。
大敗北人生を呪詛とともにまっとうした日蓮大聖人よりも、
好物のうなぎや天ぷら中トロをたらふく腹に詰め込んだ、
いまもお元気に活動なさる不死身の池田名誉会長のほうが偉い、
という見方もできなくはないだろう。
わたしもさ、池田先生と生意気にもおなじで、うなぎが大好物なんだよ。
しかし、うなぎは閉店間際の半額でも当方の金銭感覚からしたら高い。
日本大乗仏教は利益を主眼において見るとよくわかるのではないか?
厳しい修業をマゾ的に喜ぶ天台宗よりも現世利益のある密教の方がいいではないか?
まあ、修業すると自信はつくのだろうが、自信のあるやつは概して偉そうで不快。
厳しい修業が必要ない南無阿弥陀仏、いいじゃないの。
わざわざ苦しむなんてアホで、もっと楽をして現世利益を享受しようよ。
真理よりも利益でしょう――というのが創価学会なのだが、
どうしてかわたしは禍々しく黒光りする庶民の王者、
創価王国総帥の池田先生率いる創価学会からまったく相手にされず、
折伏する価値もないという評価をいただいている。ごちそうさまです。ペコペコペコちゃん。

「空海入門」(ひろさちや/中公文庫) *再読

→おい、みんな、ひろさちやさんのことをバカにしすぎだぞ。ぷんぷんだ。
ひろさちやさんは独学で仏教を勉強したから権威がなく、しかしわかりやすいんだ。
学会員は師匠病にかかっているかのごとく、師匠、師匠と上には媚び、
いったん下と見たら指導者気取りで一発かまそうとか考えるようだが、
おいおいおい、釈迦に師匠はいたかよって話だ。
釈迦は自分のあたまで考えて自称仏陀(覚者)になったって話だろう?
これまた仏教は独学の梅原猛さんもひろさちやさんも書いているけれど、
空海の師匠の恵果和尚はどうしようもねえカスだったんじゃねえかって。
反面教師っているじゃないか。
創価学会の池田名誉会長を育てたのは二代目会長の戸田城聖とされているが、
池田はアル中で女好きの金の亡者、戸田を見て、
こいつどうしようもねえなと思ったはずである。
ゴミやクズ、カスみたいな師匠が偉人を生み出すことがあるといういい例だ。
あんがい空海や池田の例を見ると師匠が人間的にカスのほうが、
いい弟子が育つとも言えよう。というか、師匠なんて必要か?
師匠はいてもいなくてもいいし、いたとしてもだれでもいいんじゃないか?
空海は師匠なんか権威を借りるための道具だと思っていたと思う。

プロレスの話をするとアントニオ猪木とジャイアント馬場を比べたら、
馬場のほうがよほど社会的にしっかりしている(金に細かく従業員から搾取する)。
いっぽうの猪木はどうしようもねえクズだとみんなが言っているわけでしょう。
だが、結果としてみると馬場の全日本プロレスは悲惨のひと言でしょう。
馬場の魔の手から脱出したのは川田利明くらいではないか。
比して猪木の新日本はいまや成長企業である。
またふたりの師匠の力道山が元ジャイアンツの馬場をかわいがり、
猪木を山猿あつかいする(人間あつかいしない)鬼畜だったわけだ。
力道山はだれに空手チョップを教わったんだよ。
仏教の悟りとプロレスの自称最強は似たようなところがある。
いまの僧侶は格闘家ではなく、自称最強のプロレスラー、葬式パフォーマーだろう。
晩年の馬場なんて、そこらへんのヤンキーでも倒せた高僧のような存在だった。
なにが言いたいのかっていうと、ひろさちやさんはガチが強いんじゃないか。
若い僧侶はみな隠れて、ひろ先生の本を読んで仏教を勉強するらしいぞ。
高僧の講義なんかわけわかんねえよって。

本書で受賞歴ゼロの仏教ライターひろさちや氏はおもしろい禅の話を紹介している。
江戸時代の盤珪(ばんけい)禅師の話だ。
師匠が弟子に京都へ行って上質の紙を買って来いと命じた。
弟子は師匠のためにえっちらおっちら京都で紙を買ってくるわけだ。
だが、師匠は「これじゃない」と弟子を罵倒する。
弟子はどこが悪かったのだろうと迷いながらもう一度京都へ行き、
人から評判を聞いて最高品質の紙を買ってくる。
しかし、師匠は「おまえはバカか!」と弟子を怒鳴りつける。
おまえは本当にアホやなあ。二度も間違えるバカがいるか。
おまえの目はなにも見えていないんだから、いっそのこと目ン玉潰しちゃろか!
やり直し。三度目の正直といいよるが、もういっぺん京都へ行って来い。
弟子は震えながら泣きそうな表情で三度目の京都へ向かった。
もうやけくそになって善悪の基準もわからなくなって京都で紙を求めた。
師匠のもとへ戻り、おそるおそる紙を差し出すと「バカヤロウ」と師匠は怒鳴る。
その瞬間、弟子は悟りめいたものを開いた。
「わかりました。ありがとうございます」
師匠は「ようやくわかったか。なーに、最初の紙でもよかったんだ」と笑顔で応じた。

これはどういう意味か、ひろさちや氏は我流の解釈をしている。
この紙でいいのかなという迷いを師匠に察知されたのがまずかった。
本当は最初の紙のときに、「これじゃあかん」と言われても、
「いや、この紙でいいんです」と自信を持って差し出せばよかった。
ひろさちやさんは過激なことを書いていて、
禅なんだから紙を丸めて師匠をポカリと殴りつければよかったとまで書いてある。
弟子は師匠に迷いを見透かされたのがいけなかった。
これでいいんだと迷いなくストレートに差し出すのが悟りだ。
さすが無師独悟のひろさちやさんだけのことはある。
このエピソードは創価学会の池田大作にも通じている。

ある人から聞いた話だが、
お元気なころの(コンプレックス過剰な)池田先生が(全国中継される)本部会で、
エリートのNHK職員の学会員をいびりまくったという。
池田先生は弟子に挨拶をさせる。「声が小さい」と池田先生は怒鳴りつける。
これが果てしなく延々と続き、婦人部からも「かわいそうよ」という声が出たらしい。
いかにも低学歴の池田がエリートの弟子に仕掛けそうなことだが、
正解は「うるせえぞ池田。声が小さくて悪かったな」だったのかもしれないのである。
まあ、本当にそんなことをやったらあとで裏で男子部にボコボコにされるのだろうが。
池田はこういう弟子いじめが大好きで、
芥川賞受賞直後の宮本輝青年にもシカト(無視)するという陰湿ないやがらせをしている。
わたしは文章力にかぎっていえば、池田は宮本輝の足元にも及ばないと思う。
宮本輝だってバカじゃないから師匠からいじめられ、
あーあ、池田もこの程度の男かと見切ったことだろう。
しかし、妻子ある宮本青年は創価学会というバックがなければ生きていけない。
このため宮本は池田に土下座文章を書いたのだろう(「無言の叱責」事件)。
現在の宮本老人は(池田が半分死んだいま)師匠格になったようで、
芥川賞の選考会ではるか年下の食えない後輩作家をいびり抜き、
池田根性、池田精神の正統な継承者であることを満天下に示している。

宗教の師弟関係っておもしろいよねって話。
梅原猛は弟子をつくり群れたがったが、ひろさちやさんは天然というか自由人というか、
そういう師弟関係を毛嫌いしているところがとてもいい。
ちなみにひろさちや先生は創価学会が大嫌い。
河合隼雄のように創価とうまく手を組めば勲章のひとつやふたつもらえただろうに、
いさぎよいというかバカというか。
しかし、アンチ創価としてはひろさちやさんは味方に思え、
そこで得をしたこともあったろう(立正佼成会!)。
ひろさちやさんは自信があったから創価嫌いを表明できたのである。
ひろさちやさんはあたまがいいから、創価も恐れをなしたと言うこともできよう。
師匠がいないで、どうやってあれだけ仏教を勉強したのだろう。

ひろさちや氏は師匠から認めてもらっていないのに自分を信じることができた。
空海だってそうで、無名の僧が違法帰国をして「(御)請来目録」ってなんだそれ?
どっからその自信は来るんだよ。
意外と知られていないが日蓮の最初の(出家したときの)師匠は念仏者で、
師匠、師匠、師弟不二と騒ぐ創価学会がたてまつる日蓮大聖人さまは、
じつのところ師匠に逆らっているのである。
師匠もなく留学経験もなく「立正安国論」を幕府に出すなんて、あったまおかしいよ。
なんでそんなに自信があるんだよ。
ひろさちやさんに話を戻そう。氏のチープなわかりやすい言葉を引いておこう。
えーと、紙の話をしていたんだっけな。

「迷いながら行動したのでは、山科から京都まで三度の往復をさせられるはめになる。
上質紙といったって、たかが紙ではないか。
どんな紙でも文句を言うな! この紙でいいんだ!
どちらでもいいが、ともかくそれくらいの自信がないといけない」(P72)


著書多数だがこれまた受賞歴ゼロの精神医学の重鎮、
成仁病院の院長である春日武彦先生も「迷い」がいけないと書いていた。
自信のないところに由来する「迷い」が医療ミスを呼び寄せると。
相続税対策をどうしているのかわからない、
幸運の女神に好かれたひろさちや先生はこうおっしゃる。
河合隼雄財団ならぬ「ひろさちや財団」をつくって、ぼくを雇ってくれないかなあ(笑)。
「迷い」はよくない。

「中途半端だから、迷うのだ。迷うから、幸運の女神は逃げてしまう。
幸運の女神に逃げられてしまえば、ますます落ち目になり迷いが深まる。
完全な悪循環である。
さて、空海は、ある意味で運命にゲタをあずけてしまった男である。
そんな卑俗な表現は空海に似つかわしくない……と言われるかもしれないが、
空海が、運命に完全に、自分をまかせきれた背後には、
「自分は仏陀である」という彼の信念があったからだ。
どんな過酷な運命であっても、運命は、仏陀にだけは反抗できぬはずだ。
そして、自分はその仏陀である……と、それだけの信念があったから、
空海は運命にゲタを預けられたのである」(P73)


わたしって自信があるのかなあ、ないのかなあ。
春日先生からのメールでは
もっとプライド(自信)を持ってくださいみたいなことが書かれていて、
え? え? え? わが文章はそういうふうに見えるのって驚いた。
自虐ができるのは自信があるからだとわたしは思っている。
高級グルメを食ったとか有名人と逢ったとかブログに書いているやつって、
あれは自信がないからでしょう?
わたしも春日武彦先生からメールをいただいたとか書いているけれど、
かの精神科医はマイナーでそこまでの有名人ではない。
しかし、唯一わたしなんかを相手にしてくれた文筆業者でご恩は忘れないぞ。
「自信を持ってください」はわたしが春日先生に申し上げたいことで、
あれだけおもしろい本を書ける人なんだから芥川賞とか直木賞なんてレベルじゃない。
ユーチューブで白衣を脱いだ春日さんを見たら妙にオドオドしていて、はああ。
わたしが現在存命の名文家を5人選べと言われたら春日さんを入れるくらいなのだから、
もっと自信を持っていただきたいが、
その自信なさげなところが名文と関係しているのかもしれない。

わたしが空海を読んだのはお金と自信が関係している。
ちょっとお金に関する案件があって、いまオシャカになっているのかもしれないが、
そのために空海を読んでいたのである。
お金がからまなきゃ、いまどき空海なんてなかなか読めない。
それから空海を読んで自信が増したよねえ。
仏教なんてほぼほぼ自分を信じるためにあるのではないでしょうか?
成り上がりものの成功者がいきなり仏教とか言い出すのは自信の補強のため。
創価学会がなぜいいのかと言ったら自信がつくからだと思う。
自分は高卒だが日蓮大聖人の弟子なのだから負けないぞって感じよ。
おれはNHKのエリートを泣かせるほど偉い池田先生の弟子なんだって。

あらあら、なんの話をしていたのだっけ? そうだ空海の真言密教だ。
東大の印度哲学科出身のひろ先生は密教は梵我一如だと言い放っている。

「インド哲学に、「梵我一如(ぼんがいちにょ)」という思想がある。
「梵(ぼん)」とは、サンスクリット語で「ブラフマン」といって、宇宙原理である。
万有の真理である。大宇宙(マクロ・コスモス)である。
それに対して「我(が)」は「アートマン」といい、こちらは人格的原理である。
自己そのもの――といえるかもしれない。
あるいは、小宇宙(ミクロ・コスモス)といってもよい。
そしてこの梵(ぼん)と我(が)が究極において一致するというのが、
「梵我一如(ぼんがいちにょ)」の思想である。
「梵我一如」――「アートマン・ブラフマン同一説」である。
これが婆羅門(ばらもん)哲学の根本思想なのだ。
そして、空海は、[入唐後]二人の印度人からインド哲学(婆羅門哲学)を教わっていた。
「梵我一如」の教説を聞いたとき、空海は、大声で、
「それよ! それよ!」
と叫んだにちがいない。「梵我一如」こそ、密教を説く鍵であったのだ!
おわかりであろう。「梵」は宇宙原理であり、だから「宇宙仏」「仏」である。
そして「我」は凡夫だ。
仏と凡夫が一如[一体]である――というのが、密教の根本教義である」(P124)


むかし創価三世だか四世の統合失調症の青年に、
法華経の「唯物与仏(ゆいぶつよぶつ)」の解釈に関して、
「自分は仏である」という秘密を告白されたが、
健常者ではなく精神障害者から「仏宣言」をされるとブルブルっときた。
しかし、空海も日蓮もああいうやつだったのかもしれないなあ。
わたしは心の奥底で仏に通じているとは思うが、いま仏でもなんでもなく、
レベルで言えば餓鬼(がき)くらいではないかと思っている。
餓鬼のみならず幼稚という意味でのガキでもある自覚はあるが、
他人からそれを指摘されたらムカつくよなあ、そこは。

*精神病院の成仁病院って創設者の片山成仁さんが自分の名前をつけたんだ。
その自我肥大っぽいところとかお名前からして創価臭がするなあ。こええ。
だれにも読まれていない過疎泡沫ブログは、
好き勝手なことが書けてらっくちんちん、おちんちん。

「仏教の思想Ⅰ」(梅原猛著作集5/集英社) *再読

→角川ソフィア文庫の空海を7冊読んで、梅原猛の解説を読み返した。
正直、空海は難しい。
これほど集中してひとりの宗教家に取り組んだのは4年まえの一休以来久しぶりだ。
空海の本の感想はネット検索しても出て来ないから。
だれもあんなものは難しくておもしろみも少なく読めないって。
だから、みんなネットで検索するだろうが、そこで我輩の記事がヒットするぞ。
そうなると「本の山」の空海観が定説に近くなるわけである。
繰り返すがみんな読めないし、読めても感想なんか書けっこないわけさ。
とりあえず空海をひと段落つけて、梅原猛さんの空海論を再々読したら、
自分がかの大学者の影響を強く強く受けていることに改めて気づいた。
梅原猛さんは本物だよ。
書くものがとにかくわかりやすくいい意味で俗っぽく、
わかりやすいというのは本当にわかっていなかったらそうは書けないんだから。
失礼ながら真言宗お偉方の加藤精一氏より梅原猛のほうがわかっていると思った。
加藤精一は言葉で伝えられないとか逃げていたからね。
本当は自分もわかっていないのに、
わかりやすく書けないのをおのれの非と認めていなかった。
おれは偉い。わからないのは読者のレベルがおれさまに達していないからだ。
どうやったらそんな傲慢な考え方をできるのか不思議だが、
それが親子三代(もっとかな?)宗門にいると常識になるのだろう。
真言宗内部にいると空海は少しの欠点もない偉人として崇拝しなければならない。

本書で梅原さんは恵果はクズだとか、天皇へのごますりがうまいとか書きたい放題。
批判はいろいろあるのだろうが、梅原猛とか河合隼雄はすごいよ。
この本は10年以上まえに一度読んでいるのだが、
空海をひと通り読んだいま読み返すと梅原猛のすごさに改めて身震いする。
そして10年かけて、わたしの理解力が上がっていることに気づく。
大学院に入りたいとか学問したいとかそういう気持はまったくないが、
そして梅原猛の専門は(仏教ではなく)哲学で、
あんなものは学問ではないという批判も知っているけれど、
それでもわたしは氏に仏教を学ぶことの楽しさを教わった気がする。
だれがなんと言おうが梅原猛は大学者である。氏いわく――。

「すべて仏教というものは、由来を尚(たっと)ぶ。
ふつうは、仏教は釈迦から伝わったものとされるが、どの仏教宗派も、
釈迦からどのような経路をへて自分のところまで
伝わったかという付法の経過を重視する。
密教は、その教祖を釈迦ではなく、魔訶毘盧遮那仏(まかびるしゃなぶつ)におくが、
やはり、付法の経路を大切にする。
一つの思想の価値を評価する方法は、古代人は近代人とはちがう。
近代人は思想をその独自性において評価する。
師の説をそのまま保持する学者、それはどんな偉大な学者であろうと、
大した学者ではないとされる。独創性がないからである。
しかるに、古代人は思想の正しさをその由来の正しさによって評価する。
それがどんなにすぐれた思想であっても、
それが何らかの古き由来をもっていない限り、
その思想は全く価値がないというのが古代人の考えである」(P378)


まったく梅原猛は加藤精一に喧嘩を売っているのかよ。
加藤精一はいちおう学者らしいが独創性のかけらもなく、
父も祖父も空海の学者だったから(おそらく歴代)、つまり由来の正しさによって、
いま真言宗のトップとして君臨しているのである。
梅原猛は学問の世界をわかっていないとも言えよう。
少なくとも学問仏教は理解していない。
わたしは学問として仏教をやるつもりはないが、それは血筋にはかなわないからだ。
なにを言おうが浄土真宗門主の大谷光淳先生は「正しい」のである。
空海の時代から学問仏教はほとんど血筋(家柄)だったのではないか。
そのことにクソッタレと思ったのが空海であり法然であり親鸞であり日蓮大聖人であり、
比叡山(大学)にも行っていない踊り念仏の一遍上人であり、
どこぞの短大を代筆卒論でお情けで卒業させてもらった池田大作先生であり、
そういうところから独創的な仏教が出て来るのだろう。
梅原猛さんもその系譜であろう。
河合隼雄の息子さんは……というのは、ここでする話かどうかはわからない。
梅原猛は空海の真言密教をじつに簡潔に要約している。

「世界というものはすばらしい、それは無限の宝を宿している。
人はまだ、よくこの無限の宝を見つけることが出来ない。
無限の宝というものは、何よりもお前自身の中にある。
汝(なんじ)自身の中にある世界の無限の宝を開拓せよ。
そういう世界肯定の思想が密教の思想にあると私は思う。
私が真言密教に強く魅(ひ)かれ、
現在も魅かれているのは、そういう思想である」(P401)


仏教なんて中国やインドからも見放されたポンコツ宗教なんだよな。
各宗派の教祖も、だれもインドに行っていない。
中国にさえ行っていないやつが宗祖になっている。
しかも権威のよりどころはたいてい中国で、中国っていまはあの中国だよ。
上野、御徒町界隈に中国人旅行者がたくさんいるけれど、
あまりのマナーの悪さに「○○人お断り」って書きたい店もいっぱいあろう。
しかし、わたしも梅原猛さんとおなじで仏教が好きだ。
中国も好きだし、インドも嫌いではない。
しかし、いまさら智顗(ちぎ)や龍樹を読むつもりはない。
現代でも大学であんなものを研究している人がいるんでしょう?
あったまおかしいよ。そんなことしておもしろいの?
わたしは梅原猛も仏教全般も「正しい」からではなく「おもしろい」から好きだ。

(関連記事)
「仏教の思想Ⅰ、Ⅱ」(梅原猛著作集5、6/集英社)

「性霊集 抄」(空海/加藤精一訳/角川ソフィア文庫))

→「性霊集」は空海の公的書類や書簡を集めたもの。本書は抄録である。
空海の本はすべて漢詩文で書かれている。漢文全盛の時代。
いまで言えば天皇も首相も政治家も英語でやりとりするようなものだ。
いま日本はアメリカの属国だが(?)、平安時代は中国の属国だったのである。
本書を読んで思ったのは、空海は法やしきたりよりも現実的利益を重視していること。
なにより現世における現実的利益がたいせつだ。
40を過ぎてなにを言っているのかと笑われそうだが、
わたしはいまでも世界には秘密のボタンがあって、それを見つけさえしたら、
そして押してしまえばパーッと人生が拓(ひら)けるのではないかという思いがある。
世界の秘密のスイッチ、人生の裏ワザ、マンパワーの奇跡的レベルアップ術、
言語未到達のこの世の果てへの隠し扉を空海は知っていたような気がしてならない。
それは神秘的なものだが、効果は極めて現実的で利益があるものである。
秘密はおそらく言葉にあろう。

ご存じのように空海を乗せた遣唐使船は嵐に巻き込まれ僻地に漂着した。
しかし、土地の役人に怪しまれ、唐の目的地へ行かせてもらえない。
遣唐大使が何度手紙を書いても天皇の親書がないため信用してもらえない。
そこで大使が中国語がうまいと評判の空海に手紙の代筆を頼む。
現代の愛国者が読んだらぶっ倒れそうな手紙を空海は書いてる。

「伏(ふ)して思いますに大唐の天子様の治めておられる御代(みよ)は、
霜(しも)や露(つゆ)が適度に降りて恵まれた土地でありますし、
そこに宮殿を造られて住まわれているのはめでたいかぎりであります。
そして賢明な天子様が次々にあとを継がれ、すぐれた方が次々に出られ、
その威徳は天をおおいつくし八方にまで行きわたっておられます。
そこで私ども日本でも天候に恵まれて天下が泰平でありますのは、
きっと中国に立派な天子様がおられるからだろうと思い、
とてつもなく大きな木を材料に用い、高山にたとえるほど大きなのみで船を造り、
唐の朝廷に使者を送ったのです」(P94)


土下座外交に近いことを空海はやっているのである。
しかし、結果的にこの書簡が功を奏して通行の許可が下りたのだから、
空海は利益を上げていると言えよう。
遣唐大使がプライドを持って正統的な外交手法で手紙を書いてもうまくいかなかった。
空海は結果(現実的利益)が方法の正しさを決めることを知っていた。
いくら正しい方法を取っても現実的に利益が出なかったら仕方がないではないか。
空海は以降、結果(現実的利益)を出しつづけるが、それが密教の教えである。
空海は長安の青龍寺で恵果和尚と出逢い秘伝を授けられる。
出逢いは偶然であり運だが、空海は偶然の裏側にあるものを知っていたのだろう。
運(うん)は「運ぶ」と書くが、
空海はまるで大空の風や大海の波に運ばれるように恵果と逢い死別している。
逢う人とはかならず逢うという運命の法則を空海は知っていた。
大空の風も大海の波も、台風も嵐も自然現象だが、
それらすべてが大日如来の顕現というのが真言密教の教えである。
20年の約束で留学に来ていた空海はわずか2年で切り上げ帰国する。
そのほうが結果的、現実的に利益になると思ったからそうしたのだろう。
そういう風や波を空海は感じたから、ならばそうするのが自然なのである。
空海はちょうどそのとき遣唐使として来た人物に帰国を願う手紙を書く。

「この私が受けて参りました密教は、仏教の心髄であり、
国の安定と安全に寄与し、災厄(さいやく)を払い福利を益(ま)し、
凡夫が仏陀に到達する最短の近道なのであります。
本来なら10年かかるところをわずか一年で成満し、
三密(身・口・意の三密、仏陀の活動)の印爾[いんじ/秘法]を
一身に体得することができました。
この宝珠ともいうべき密教の教えを天皇陛下へ持ち帰りたいのです」(P127)


密教は世界哲学ではなく現世利益のある呪術なのだと空海は明言している。
密教は学問ではなく現実的に利益の出る秘術であり秘法だ。
いまで言うならば役に立たぬ経済学ではなく、
富も健康も増し国益もあがる裏ワザであると。
世界には秘密のスイッチがじつのところ存在し、自分はそのありかを恵果から学んだ。
見栄や虚飾ではなく現実的な利益を考えよう。現実的になろう。
世界の仕組みを知っても知的満足はあろうが、それだけである。
知らなければならないのは世界の仕組みではなく世界の秘密である。
南都六宗や天台宗といった顕教はたしかに世界の解釈を教えるが、
密教のように世界を変革することはできないではないか?
このため、密教は顕教よりもすぐれている。これが真言密教である。
法律や真理、建前よりも現実的な利益のほうがたいせつではないか。
空海は朝廷に出した上申書にこう書いている。

「空海が聞いておりますが、如来の説法には二種があると申します。
一は浅略(浅くて簡単な)なる説法、
二は秘密(表面的ではなく奥深い)の説法であります。
浅略というのは一般的な経の文章(散文)や
偈(げ)とか頌(じゅ/韻文)などが相当します。
これに対して秘密というのは陀羅尼(だらに/真言)などが該当します。
たとえば浅略趣は医学でいえば『大素』とか『本草』などの
薬学の書物のようなもので、病気のもとを解説したり、
薬の内容や効能を述べているにすぎません。
これに比べて陀羅尼を誦すのは、病気に応じて薬を調合し、
それを実際に飲んで病気をなおすのに相当します。
もし病人に向って薬の効能書(こうのうがき)を読んでやっても、
それだけでは病気は良くならないでしょう。
どうしても病(やまい)に適した薬を作って飲まさなければ
病気をなおして命を保(たも)たすことにはなりません」(P176)


密教の自分は薬剤師ではなく実践的な医者だと空海は言っているのである。
昨日また橈骨神経麻痺(とうこつしんけいまひ)で大学病院の神経内科へ行ってきた。
待合室で他の患者さんと話すと担当の医師は説明が長いらしい。
親切でいい先生とも言えて、患者からの質問にはぜんぶ答える方針の模様。
はっきり言って、患者は病気の知識を得ても意味がないでしょう?
現実的に治るかどうかが重要なのだから。
ひとりの患者が20分も30分も使ったらあとが詰まるのである。
1時間15分待たされたが、わたしはあとが混雑しているからと5分で出てきた。
筋電図検査の結果を聞くと、
データ的にはまだよくないらしい(治る余地があるってこと)。
橈骨神経麻痺では代診とかいろいろな事情があり、
つごう4人の神経内科医師の診察を受けた。
その過程でわかったのは、医者もよくわかっていないということ。
ビタミン剤を飲んで自然に任せるしかないよねって感じ。
治るときは治るし、治らないときは治らないだろう、くらい。
本当のことを言うと、病気がよくなったとき、
それは自然によくなったのか医術が功を奏したのかはわからないのである。
なぜなら医者にかかっていなかったときの自分と比較できないからだ。
わたしが医者によく言っていたのは「絶対よくなるって言ってください」と。
むかしの医者はそれを言えたが、
いまの医療者はコンプライアンスだかなんだかで言ってくれないのである。
「嘘でもいいから言ってください」と頼んでも「それは言えないよ」なのである。

空海の真言密教というのは、確信を持って、なにごとも絶対よくなると断言し、
証拠として呪術的儀式(現代でいえば外科手術に当たる)をやったことである。
ほとんどの病気は自然によくなるのだから、
大日如来たる自然を深く信じることである。
死ぬときが来たら自然に死ぬだろうし、それが結果的によいことなのである。
自然というのは運であり、偶然だ。
大自然(大日如来)と一体化すれば風や波、
つまり運や偶然の流れに乗ることが可能になる。
大日如来信仰は自然=運=偶然=自分の存在を確信することではないか。
なぜなら自分とは自然そのもの、運や偶然の結晶だからである。
空海は師匠の恵果から教えられた密教をこう簡略化して説明している。

「不肖(ふしょう)私は駄目な人間ですが、先師から教えを承けてきました。
中国の唐まで行って深い教え(密教)を求めようとしました。
幸(さいわい)に今は亡き不空三蔵の付法の弟子にあたる、
青竜寺の恵果先生にお会いすることができ、
この秘密神通最上の密教を受学することができました。
恵果和尚は私にこう告げられました。
「もし自分の心の奥底がわかれば、みほとけのお心もわかります。
仏心を知ることは衆生の心を知ることです。
我心・仏心・衆生心この三心は同一なりと知れば、
その人は大覚(だいかく/大日如来)と呼ばれるのです」(P204)


私の心の奥底まで到達したらそこには父と母の性の営みがある。
どうして父と母が結ばれたのか考えると、ふたりの出逢いから始まろう。
それは偶然であり運の要素が強く、いま私が存在することを考えると、
結果的にそれは自然と言えるのではないか。
いろいろな人の縁、縦糸横糸さまざまな絆(きずな)のなかで両親は出逢った。
ならばそこに衆生心(みんなの心)の働きがあるだろう。
衆生心とはユング心理学の言うところの集合的無意識だと思う。
父と母が出逢う前提としてふたりが誕生するということがなければならない。
そうなると祖父と祖母の因縁が関係してくるし、
さらに奥底までさかのぼると大日如来が見えてくるのではないか。
としたら、私は大日如来であり、周囲のみなもまた大日如来の化身である。
私の身口意の行為が周囲に波及し、新たな男女の組み合わせ、
さらにその子孫の運命を決定づけていくのだから、
やはり私は運であり偶然であり大日如来であることがわかろう。
未来も過去も私という偶然的存在のなかに自然として備わっているのである。
ならば、私はなにをしても自由で、自分(=大日如来)を信じていいのである。
運や偶然を信じるのが、私が宇宙と一体化する秘密の鍵(かぎ)ではないか。
運がいい人というのがいる。
空海は自分を大日如来だと信じていたから外界である大日如来と一体化できた。
つまり、空海は自分の運のよさを信じていたから呪術がうまかった。
自分が大日如来ならば、すべての偶然は必然になる。
偶然を必然と観ずるのが以下の書き下し文の意味である。
すべては偶然であり、同時にすべては必然として起こるべくして起こっている。
それは自分の心が大勢の心、究極的には仏心に通じているからである。

「[恵果]和尚告げてのたまわく、もし自心を知るはすなわち仏心を知るなり。
仏心を知るはすなわち衆生の心を知るなり。
三心平等なりと知るはすなわち大覚と名づく」(P198)


現実というのは神秘的な偶然の結果でもあるのである。
現実的であることと神秘的であることは矛盾していない。
現実はありふれており、まあこんなものだが、
それを神秘的な奇跡と観ずることも可能だ。
どうしたら神秘的な利益が上がるかといえば、現実的になることだろう。
空海は女犯(にょぼん)の罪に問われている奈良仏教(法相宗)の僧侶のために、
この破戒僧をお許しくださるよう天皇に嘆願書を書いてあげている。
現実として起こってしまったことは仕方がないという現実的な見方がそこにはある。
法律や戒律も大事だが利益のほうが重要ではないか。
天皇には過去の中国の皇帝の例を挙げ、恩赦を出せば評判が上がると進言している。
評判が上がればそれは天皇自身の利益になる。
天皇が破戒僧を許したかはわからないが、
こういうことをしておけば空海は奈良仏教に貸しを作ったということだから、
新興の真言宗への当たり(批判)も弱くなるだろう。
空海は計算してこういう行為をしたとも言えるし、
まったく自然発生的な行為だったのかもしれない。

空海の人生を見ているとひどく打算的に思えるが、
これは仏陀(大日如来)が全体の利益を計算した結果と考えることも可能である。
偶然はチャンスでもリスクでもあるが、空海は法律や常識に縛られずに、
あたかも「風のように鳥のように」自由に生きている。
大学中退から始まり遣唐使船、違法帰国と空海は自由にやりたい放題である。
だが、空海の人生を見るとき、
それはまるで運命をそのままなぞっているようにも思える。
もっとも自由に自分を信じて生きるとき、その人は運命や宿命に達するのかもしれない。
どこまで自分という大日如来を信じられるかが勝負なのだろう。
おそらく言葉のない世界への隠し扉は「自信」「自由」「運」「偶然」がキーワードである。
自由に自然体で「風のように鳥のように」生きたのが、
現実的神秘家の呪術的指導者であり救済者の弘法大師空海である。

「般若心経秘鍵」(空海/加藤精一編/角川ソフィア文庫)

→空海というのは日本スピリチュアルの元祖と言ってもよい。親玉だ。親分よ。
スピリチュアルにはまる人の特徴。
・自分が大好き。「本当の自分」とかついつい考えちゃう。
・基本的に優秀であたまがいい。創価学会は泥臭くていや(笑)。
・金がある(スピリチュアルは金がかかる)。
・神秘的なことを信じたい。おとなになった不思議少女。
・メンヘラ(精神疾患)体験がある。
・人より優位に立ちたい。自分は人を教え導くタイプだと思っている。
・インドのリシケーシュでヨガをやっちゃうタイプ。
・悟ったぶりっ子。男性よりも女性のほうが多い。

こんなことを思ったのは空海で検索していたら、
女性スピリチュアル・リーダーが出て来ること出て来ること。
さんざんスピリチュアルに散財してきた元を取りたいのか、
個人セッション60分で3万6千円とか詐欺まがいのことをしている。
おなじような詐欺に何度も遭い常識が麻痺しているのかもしれない。
空海がやったこととは完全に別物といえるかと言ったらそれも難しいと思う。
あたまがいいと世界の不合理が見えて、
スピリチュアルに走りたくなってしまうのかもしれない。
スピリチュアルの世界ってだますのは男でだまされるのは女のような気がする。
さて、こちらは男らしく西洋哲学者のニーチェの言葉を引用しよう。

「何か新しいものを初めて見るという点ではなく、
古いもの、古くから知られているもの、
誰にでも見えているが見過ごされているものを、
新しいものであるかのように見るという点が、
真に独創的な頭脳の抜きん出ているゆえんである」(「ニーチェからの贈りもの」


東洋神秘思想家の空海は最新の密教を中国から輸入したがために、
それだけの理由で偉いというのではない。
古くから知られた「般若心経」を密教的に新しく解釈している。
下品な言い方をすれば「般若心経」を密教でレイプした証が「般若心経秘鍵」だ。
それほど密教は強いのである。
仏教のいうなれば最高進化形態が密教で、ここが打ち止めといってよく、
あとはもうヒンドュー教に到達する(吸収される)しかない。
空海の真言密教の教えは「わたしもあなたも世界はみんな仏さまで、
その最大仏、最勝仏を大日如来としましょう」というもの。
スピリチュアル的な宇宙との一体感を空海は即身成仏と呼んだわけだ。
自分の心の奥底を探っていくと宇宙の元締め大日如来に行き着き、
大日如来は宇宙そのものだから、自他や精神肉体物体の区別は融和され、
「よおし決まったぜピース!」って感じかな。

なんでも大日如来で説明できてしまうわけである。
なぜあなたが生まれてきたのかも大日如来で、なぜ死ぬのかも大日如来。
死ぬまえはどうだったのかも大日如来で、死後の世界も大日如来。
インド語のアッチャーはグッド程度の意味だが、アッチャーは大日如来でもある。
世界は大日如来であなたもわたしも飼い犬もマグロの刺身も大日如来なんだから、
みんなアッチャー、盛り上がっているかい? アッチャーしているかい? 最高ですか?
このテンションで般若心経も大日如来の教えだと空海は独自解釈する。
般若心経や仏教用語があたまに入っていない人でないとわからないから
テキトーにぶっ飛ばすと、色即是空空即是色は華厳宗の教えで、
どこそこは三論宗の教え、あそこは法相宗、この部分は天台宗と独自解釈するのだ。
で、最後のギャテイギャテイの箇所が密教の教えであると。

どうして古いお経に最新の密教の教えが盛り込まれているかという、
疑問への解答がおもしろい。
空海は問題設定がうまいのである。
受験生時代、予備校講師に答えは問題に書いてあると教えられた。
究極の答え大日如来を心身で味わっていたから、
空海は問題を創るのがうまかったのかもしれない。
弘法大師空海は自問自答の天才とも言えるのではないか。
自分で問題を創り、ふつうなら師に教え(答え)を求めるが、
空海は自分で答えを出し、それが「正しい」とつゆ疑わず信じることができた。
空海は自然体だったが、自然そのものにたいへんな自信を持っていた。
なぜなら自分も大日如来で宇宙全体、自然現象みなみな大日如来だからである。
本書の内容は、顕教の般若心経はじつのところ密教の教えである。

「また次のような疑問を持つ人があるでしょう。
顕教と密教とは趣旨が全くかけ離れているとすれば、
いまこの『[般若]心経』のような、いわゆる顕教の経典の文中に、
密教の深旨[じんし/深い意味]が説かれているなどとする解釈は、
不可能のはずではないか、と。
それに対して私はこう答えましょう。
医道にすぐれて詳しい医師が見れば、一般の人ではわからない道端の一草でも、
それがなにに効く薬草であるかが見通せるし、宝石に詳しい人は、
他の者の気がつかない鉱石の中に、
貴重な宝石がうもれていることが知れるのであります。
このように、深い趣旨に気づくか気づかないかは、誰のせいでもない、
その人の眼力に依るのであります。
『心経』に密教的深旨が含まれているというには、
見る人がいわゆる密教眼を持つことが大切なのです」(P90)


密教眼というのは曼荼羅的世界観のことだと思う。
曼荼羅とは密教の世界観を絵画化したもので、世界は仏さまに満ち溢れていて、
すべての仏がじつは中心の大日如来の化身であることを示した仏画である。
先日東京のスラム街山谷で牧師さんが伝道のため、
ボランティアでやっているという激安弁当店におもむいた。
牧師さんのブログを読んだら(もちろん全部ね)かなりアクの強い人らしく、
自分は人を救っているという意識が強く、
またそうでなければやってけないのだろうが気もお強いらしく、
山谷の老人と百円、2百円のいざこざで怒りをぶちまけている(人間らしくていい)。
わが目で見たことだが、お客さんの老人もこんな激安店なのに、
お店の人にかなり強いことを言っていたし(だから山谷暮らしなのかは不明)、
どっちもどっちでうまくバランスが取れているなあ、と感心したものである。
山谷の元日雇い労務者からしたらプロテスタントの教えはチンプンカンプンだろう。
そのことをわかったからこそ自分もおなじ目線に立とうと、
インテリの牧師さんも40まえにして日雇い労働者の仲間に加わったのだろう。
曼荼羅的世界観(密教眼)に映るのは、どちらも仏さまというかなあ。
牧師さんも無学な日雇い労務者のおかげで救済者のポジションに立てているし、
お客さんも牧師さんのおかげでいろいろ助かっていると思われる。
どちらが菩薩で仏かはわからないし、
たまたま色即是空空即是色の(空海いわく)華厳的縁起が
成立しているのかもしれないし、両者の立場(牧師と労務者)をわけたのは、
「ギャテイギャテイ……」や「おん あぼきゃ べいろしゃのう……」という、
秘密(呪文、ダラニ、真言)が奥深くで関係しているのかもしれない。

空海は平安貴族仏教の人だから、
この時代には法然の南無阿弥陀仏も、日蓮の南無妙法蓮華経も存在していない。
法然や日蓮は(最澄の)天台宗の出身とされるが、
影響を受けたのは(台密であれ東密であれ)密教ではないかと思う。
光明真言は「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら 
まに はんどま じんばら はらばりたや うん」である。
これは長すぎてあたまの弱い無学な民衆は記憶できない。
だから法然は呪文を南無阿弥陀仏に設定し、
日蓮は南無妙法蓮華経を創作したのではないか。
空海は真言密教の開祖だが、当然のように古い天台宗のことは熟知していた。
天台本覚論(みんな仏性を持っている)あっての真言密教なのである。
この不可思議な仏性、世界の謎を刺激する最新の秘密語(真言)を
(儀式手順とともに)唐から持ち帰ったのが空海である。
しかし、その秘密語はサンスクリット語だから日本下層民にはなじまない。
このため、南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経が生まれたが、
言葉が異なるだけで世界観は真言密教とさほど変わらない気がする。
南無阿弥陀仏はわが心の菩提心であり、同時に世界が阿弥陀仏のあらわれである。
南無妙法蓮華経は日蓮の「ひげ曼荼羅」を見たらわかるよう、
妙法が世界に充満しているという、これまた空海の密教的世界観と極めて似ている。
だから、わたしは独自解釈として念仏=題目=光明真言だと思っている。
真言密教は難解で金がかかり庶民的ではないので代用品の念仏や題目もいいと。
そうは言っても好みはあって、いちばん好きなのは一遍の南無阿弥陀仏で、
理由は上記のような考え方(独自解釈)を一遍から習ったと思っているからである。

平安仏教の空海は、古株たる既存権力、
奈良仏教の法相宗、三論宗、華厳宗から叩かれたことだろう。
鎌倉仏教の法然も日蓮も平安仏教からいちゃもんをつけられている。
空海や法然は旧勢力と折り合ったが、最澄、日蓮は大喧嘩をした。
空海の最晩年に書かれたという「般若心経秘鍵」は、
奈良仏教(南都六宗)と和解するために執筆されたと思えなくもないのである。
というか、もっと即物的な言い方をしたら、
新手の真言密教は南都六宗の若手を弟子として引き抜くしかない。
天皇や貴族に評価されるのもたいせつだが、後継者も育成せねばならず、
僧侶の数は限られているから南都六宗の若僧を自陣に引っ張り込むしかない。
「般若心経秘鍵」は南都六宗(三論宗、法相宗、華厳宗、倶舎宗、成実宗、律宗)の
僧侶を自分に寝返らせるために書かれた折伏(勧誘)の書と見ても、
あながち間違いでもないような気がする。
相手にいままで気づかなかった疑問を惹起させ(自信喪失に追い込み)、
「正しい」答えをすぐさまその場で差し出すのが宗教勧誘のコツであろう。
本書で以下の部分が折伏のキモになるのではないか。
折伏(しゃくぶく)は難しいのである。なぜなら折伏は心のレイプに近い。
創価学会の池田名誉会長だって真言宗のご尊父を折伏できなかった。
空海の折伏術はこうである。とくとご覧あれ。
みなさんのお信じになる般若心経はじつは密教の教えでもありますぞ。

「ある人がこういう質問をするかも知れません。
[奈良仏教である]法相宗の三時教判[優劣判断]からいえば、
『阿含経』は初時教、『般若経』は第二時教で、
これらはいずれも未了義(みりょうぎ/不完全)な教えであり、
『華厳経』、『解深密教』などを中心とする唯識教学[唯心論]こそ、
第三時教で顕了(けんりょう)の(完全な)教えだといいます。
これからすれば『[般若]心経』は第二時の未了義の教えなのだから、
第三時の華厳とか法相の教えがここに含まれている筈(はず)が無いではないか、と。
それに対して私はこう答えたいと思います。
大日如来の説法すなわち真言密教では、
一字の中にすべての教えが含まれており、一つの思いの中に、
経・律・論(三蔵)のあらゆる教えを含んでいるくらい深くて広いのです。
まして一部の経典、一品(いっぽん)の経文ともなれば、
どうして欠け落ちたものがありましょう。
すべての教えが含まれているに違いないのです。
占いに長じた人の目から見れば、亀の甲(こう)の割れ目や
小さな算木(さんぎ)の並び方の中に、万象があらわれて、尽きることがありませんし、
帝釈天の宮殿をとりまく珠玉の網(あみ)には、
重重帝網(じゅうじゅうたいもう)といわれるように
ひとつの珠(たま)にすべての珠が映え合って映るといいます。
帝釈の声論という論書[アガスティアの葉?]には、インドの伝説で、
あらゆることが書かれ、網羅(もうら)されている、といわれるではないですか.。
これらを考え合わせますと、『心経』の中にあらゆる仏教の教えが
すべて含まれているといっても、少しも不思議ではありません」(P57)


新参者の空海は自分を売りだし、自己PRするしかなかった。
日蓮は上から目線でいきなり権力者を叱りつけ大失敗した。
世事全般「空(くう)」であるならば、ホンモノもニセモノもない。
すべてが大日如来であるならば、すべてがホンモノですべてがニセモノである。
顕教も密教も、あたかも骨董品のようにすべてがニセモノであるとの確信を持ったら、
セールストークは「お目が高い」と相手の自尊心を刺激するのがもっともよろしい。
ホンモノはこちらが証明するものではなく(証明書などいくらでも偽造可能)、
相手がホンモノと思った(信じた)ものがホンモノになるのである。
真言密教は空海がホンモノと信じたからいまもホンモノとして流通しているだけで、
学問というインチキくさい世界から見たら密教は釈迦とは縁もゆかりもないニセモノだ。
スピリチュアルはインチキでニセモノだが、
高額有料技術情報提供者と購入修行者が双方同意していたらホンモノなのである。
ホンモノもニセモノもないのだから(すべてがホンモノでニセモノゆえ)、
「あなたはお目が高い」と一発かましてやればいいと山師の空海は考えたのであろう。
「お目が高い」あなたさまなら密教の価値がわかるでしょう。
牛馬のような下賤な人間とは異なるあなたさまだからわかるのです。
空海は下層民を馬にたとえることがままあるが、こういう差別精神が嫌いではない。
底辺バイトや派遣でいろいろな人にお逢いしたが人間の能力差は厳として存在する。
ビジネスマンとして当方より優秀な社会人、肉体労働が心底うまい人がいるいっぽうで、
だからといって両者が入れ替わったらうまくいくわけでもなく、適材適所、
空海の本なんて読めるのは一部の世からあぶれた有閑者くらいだろう。
わたくし空海の価値がわかるあなたさまは「お目が高い」と弘法大師はやるのである。
ほかの仏教の教えよりも、わたしの密教は価値があるのです。

「とは言え、真実を見抜く力量や、悟りに至る速さなどは、人それぞれですし、
各自の好みの方向もまちまちです。
密教にも金剛界[男性性]と胎蔵界[女性性]の二つの見方があって、
人々の機根(きこん/こころざし)に応じた見方が提供されていますし、
他の仏教各種の教えも、密教に比べればまだまだ浅い見方なのですが、
馬小屋の馬[けだもの/下層民/意識の低い人たち]が、
前に横たわる埒(らち/柵/さく)を越えられないように、
それを信じている人々の前には壁が立ちはだかっていますから、
なかなかそれを乗り越えて進むこともままならないのです。
しかしこうしたさまざまな教えがあっても、
仏陀大日如来が人々の好みに応じて各種の教えを提供して下さっている、
と考えればよいのです。
各種の教えが存在するのは、決して無駄ではないのです。
仏陀大日如来が人々にさまざまな過程となる教えを示し、
人々をより高い立場[意識高い系でっか?]へ次第にいざなっていかれる、
と受け止めればよいのです。大日如来が衆生を導く方法は、
このようにすべからく深い思いやりをもってなされているのです」(P49)


これは称賛になるのか悪口になるのか空海は日蓮大聖人よりもいかわがしい。
まさに日本スピリチュアル協会の元祖、教祖、組長だと思う。
政治も弟子の扱いもうまく、まるで創価学会の池田大作さんのようである。
創価学会もスピリチュアルも神秘性という意味での根っこはおなじだが、
創価大学はお洒落だが創価学会はドブ板選挙の汗臭さから抜けきれない。
空海密教系のスピリチュアルは意識高い系でお洒落なイメージがあるけれど、
他人のことはどうでもいいが高学歴美女よ、お金がもったいなくありませんか?
村上春樹はスピリチュアル的で、山田太一は創価学会的と言えよう。
吉本ばななは意識が高すぎて(病的ってこと?)当方にはわかりません。
こんなつまらない仏教記事を最後まで読んでくれる人なんかいるのかなあ。
と、こういうふうに念仏系は創価さんよりもはるかに謙虚なのだ。
ここは弘法大師空海の真似をしてワールドさまに対してエゴアピールだ!
このブログ記事のおもしろさはかなりレベルの高い人しかわからんぞ!
うわっ、言っちゃった。おれ偉そう。恥ずかしい。こっち見んなよ。ぶくぶく泡沫だぜい。