「お経のひみつ」(島田裕巳/光文社新書)

→京都へ行く新幹線「こだま」車内で読了。
なーんて書くと、創価学会の人気ライター某氏みたいじゃないですか?
だれにも相手にされていないふうを装っているけれど、だれだろう?
わたしの才能を最初に見抜いてくれたのは、
むかしからの読者さまでいらっしゃる某氏かそれとも別の古株読者さまか。
なんでこんな話をするかっていうと、
たとえば山田太一信者なら信者で自分のほうが古株だとか、
バカみたいなことで威張ったりするじゃないですか?
だれにも認められていない孤高を気取りたいけれど、
そこまで悲惨ではないが大谷光淳とかと自分を比べちゃうとうんざりげんなりする。
「大谷光淳むかつく」とかブログに書いたら、
解釈次第で殺人予告とみなされ逮捕されちゃうの(笑)?
おれのほうが絶対に親鸞のやばさを理解しているのに、
年下の大谷光淳先生は子孫ってだけでええ思いをしてはるなあ。
親鸞の他力思想によるならば、
わたしが大谷光淳をねたみから殺してもぜんぜんOKなわけでしょう?
罪悪どころかむしろそれは前世からのご縁でまったき他力の完全成就。
大谷光淳を殺したら日本史に名前が残るのかしら。
こういうことを書いたら警察が来るのかという人生実験。報道してみろ。

島田裕巳さんは創価学会批判をしながら、SGI恩恵を受けているひとり。
いまぱっと思いついたから書くだけだけど、
梅原猛も柳美里もいまは創価学会に落とされているから、それが世間というものよ。
おれだってこれだけ創価学会シンパを表明しているんだから、
ちょっとはいい思いをさせてくれよ。
おおむかし学会員のキャバ嬢(当時の彼氏はゴミ収集員)
に池袋でつけ麺を奢ってもらったけれど、もうとっくのとうに賄賂期限は切れている。
島田裕巳は「釈迦不在説」信者みたい。釈迦は歴史上存在しなかったという。
ここらへんに創価学会からも一目置かれる勉強家の島田先生の限界がある気がする。
何度も繰り返し書いてきたことだが、あえて大声で言いたいのは、
釈迦が実在しなくてもいいではないか?
釈迦が実在したとして釈迦とやらが「正しい」証拠はどこにある?
しょせん多数決(支持者が多い!)と伝統(古株ほど偉い!)でしょう?
お釈迦さまなんて、そんなもの。仏教なんて、そんなもの。
折伏する元気がある若いもんはかかってこいや。
希望としたら若いおねえちゃんがええなあ。

土屋顕史(080-5188-7357)

本書で島田先生は善導も怪しいと言っておられる。
善導ちゅうのは南無阿弥陀仏の根拠理論となった中国人の自称思想家。
念仏はとにかく理論の「正しい」ゆえんを善導とやらの中国人によっているのだ。
わたしの大好きな踊り念仏の一遍上人も善導の権威に平伏している。
著者の主張は、善導って本当は中国でぜんぜん偉くなかったんじゃね?
人の偉さは多数決と古株性で決まる。
善導なんて古臭い外国人だから、法然、親鸞、一遍は慕ったんじゃねえの?
いまで言えば、たとえばユング。
ユングなんて中国、東南アジアではだれそれ? の世界でしょう?
西欧、米国でさえそもそもアカデミックな存在ではなく、観音さまみたいなもの。
しかし、ユングや善導のような存在は必要なのである。
たとえば、いまは日本の有名文化人となった河合隼雄だが、
河合先生だってユングという西欧権威がなかったら、
なにも言えなかったし、だれも話なんか耳にしなかった。
法然とか一遍の、善導による南無阿弥陀仏は、河合隼雄とユングの関係とおなじかと。
「正しい」ことってそんなものだよねえ、
という認識を島田裕巳氏がどこまでお持ちなのかはわからない。
自著で自著を宣伝していらしたが、あまり先生のご著作を読んでおりませんので。
絶対的真理はない――。
ひろさちや先生も河合隼雄先生も基底にあるのはたぶんこの信念であった。



観無量寿経の作者はインド人ではないという中国人説をお書きになっていたが、
大乗仏典なんてそもそもぜんぶ、
存在したかわからないと先生がご主張の釈迦と関係ないではありませんか?
そんな「本当のこと」を言ったら、日本でどのレベルの失業者が発生するか?
島田さんも仏教に食わせてもらっているんだから、そこはなあなあでいこうぜ♪
若い女とつきあってみたいなあ、と希望を書いてみるね、お釈迦さま♪
「宗教に関心がなければいけないのか」(小谷野敦/ちくま新書)

→名著を読んでいろいろ考えさせられた。
本書を読んでからこの記事を書くまでだいぶ時間がかかっている。
それだけ考えているということだ。
小谷野敦のアカデミックな文学観を嘲弄した旧生活者(現大富豪の)宮本輝による
「24時間死ぬまで働け!」というメッセージは正しい(たとえば「三千光年の星たち」)。
三流私大、追手門学院大学出身の宮本輝芥川賞選考委員は、
娑婆(しゃば)におけるろくな労働体験がない東大出身エリートの
小谷野敦の筆なる超高偏差値的小説作品めいたものが許せなかった。
実社会および世間をまったく知らない東大の小谷野は後輩という身分をものともせず、
三流追手門卒のぶんざいで偉そうに文壇の大御所ぶっている大先輩の宮本に逆らった。
こうしたらもう芥川賞など取れるわけがない。
下品という意味で小谷野と宮本はとても似ている。
しかし、小谷野も宮本も病原のようなものはおなじで不安神経症なのである。
不安神経症(パニック障害)は死を異様に怖がることから発症するとされている。
死を真正面から見すえると人は孤独になる。
この孤独をどうあつかうかで人はわかれ、
大半は群れるという通俗手法に救われることになる。
名著を読んで考えに考え抜いて、結果としてひらめいたことだが、
あらゆる宗教は以下のような構図を持っているのではないか?

「死」→「孤独(→妄想)」→「群れる」

人間はひとりきりで真剣に死に向き合うと、
とんでもない孤独に覆いつぶされそうになる。
にもかかわらず、そこでなかには才能を有する宗教家がいて、類型的精神病とは異なる、
独創的な宗教妄想を創作するにいたる。
大半の庶民や大半の大衆は死や孤独につぶされてしまうのである。
かろうじて妄想をいだくにいたっても、類型的なものにならざるをえない。
しかし、天才の天才というか、
キチガイのキチガイのようなものは確率を度外視して現われる。
死や孤独を忘れるために、彼の妄想にしたがう人たちが群れて教団を結成する。
教祖は教団を結成する意思などまったくなかったにもかかわらず、
信徒たちが死や孤独にたまらなくなって群れはじめ、
世間的必要ため教団の上下関係をつくるのはこのためであろう。
オウム真理教をつくったのは麻原ではなく熱心な信者でしょう?
おそらく麻原は世における美女へなど、もはや興味を失っていたと思う。
にもかかわらず、高弟が俗的価値観から美女を教祖の周囲に配置していた。
欲望は消えることなどあるのか?
こういった文章で自己顕示欲を発揮している当方が、
出世欲、名誉欲、金銭欲、性欲、食欲、睡眠欲、生命欲が消えたと書いても、
うそくさいことはなはだしいかぎりでなんの説得力もないのかもしれないだろう。
しかし、なかにはそういうものもいるのではないか?

もはや念願だった芥川賞を完全にあきらめた小谷野博士の発言を拝聴しよう。
30歳にもならぬうちに小谷野はブッダ(覚者)になっているのだ。

「その頃、かつて[少年期]感銘を受けた仏教についても、
どうもおかしいと思い始めていた。執着が不幸のもとだ、というのは分かる。
だが、だから執着を絶て、と言ったら、あらゆる人が出家するか、
自殺するかしなければならなくなるだろう。
現に仏僧では、行乞(ぎょうこつ/物乞い)する者もあれば、
かつては即身成仏してミイラになった人もいる。
「在家仏教」などというものがあるが、これはおかしいのではないか。
それどころか、現実の仏教の世界では、ちゃんと組織があって、
僧都(そうづ)とか僧正(そうじょう)とか階級があり、
その階段を昇って出世するのである。
こんな教えに背いた話はないではないか」(P22)


ベルリンの壁ならぬ世間の壁など、
背伸びをするか、下をくぐってみれば裏側にはなにもない。
世間という看板(ハリボテ)の裏側は無意味、孤独、死のほかになにがあろうか。
仏教ではそれを「空(くう)」というが、それではあまりにも虚しすぎやしないか?
青年期は甘い空虚感にひたるのもいいが、
中年期になったらフィクションでもいいから色彩を求めたくなる。
紫綬褒章にマジ顔で大喜びするのは幸せだ。
わたしは紫綬褒章は千円でもいらないが、
自分に尽くしてくれる大山妙子さんはほしいなあ。
フジテレビのヤングシナリオ大賞は1円でもいらないが、
坂本葵さんのような女性がいてくれたらなあ。
わたしの価値観がこのようにグチャグチャになったのは小谷野博士の影響でもある。
葵さんというご伴侶がいらっしゃる小谷野敦さんはいう。

「政治家の贈収賄にしても、清廉潔白で悪い政治をする政治家より、
贈収賄をしてもいい政治をする政治家のほうがいいのである。
徳川時代の田沼意次なども、海外貿易を勧めようとしたことなどと評価されているし、
ロッキード事件についても田中角栄をめぐってあれこれ論争があった。
贈収賄がなければ公正かというと、そんなことはないのである。
大学の人事でカネが動いたという話は聞いたことがない。
大学の人事で優先されるのは、まれに業績だが、
一番大きいのは、先にいる人たちの言うことを聞くかということであって、
特にある研究室で後継者選びをする場合には、優秀かどうかより、
教授に従順でかわいがられているということが優先されるのは言うまでもない。
中には、こいつは優秀だから、
採用すると俺が抜かれる、という嫉妬心で排除されることもある」(P139)


いま冥途の土産にちょっとほしいなと思っているのは小谷野賞。
なんでも優秀な無名ブログに与えられる賞だとか(よく調べていない)。
わたしはいっさい小谷野さんと人間関係を持っていないが、
ほしいと願えばいただけるのかしら。
本書とその著者には土屋賞をせんえつながらさしあげたい。
なぜなら以下の構図を平易な文でじつにわかりやすく説明しているからである。

「死」→「孤独(→妄想)」→「群れる」

「よくわかるお経読本」(瓜生中/角川ソフィア文庫)

→有名どころのお経をコンパクトにまとめた文庫本。
お経の意味は教わるものではなく、何度も読んで自分で気づくものだから、
初学者は(ああ、我輩もそうか)どの本を手にとってもいいのだろう。

仏教にはいろいろな宗派があるのだが、
しかしすべてを要約する魔法のような言葉がある。
それはお経の冒頭に使われていることの多い如是我聞(にょぜがもん)である。
意味は「(仏から)是(かく)の如(ごと)く我は聞く」。
イエスもそうだけれども、釈迦(しゃか)は教えを書き残していないでしょう。
仏教の宗派はあまたあれど、どれも如是我聞(おれはこう聞いた)なのだ。
この如是我聞で大乗非仏説(大乗仏教は仏の説いた教えにあらず)から、
あらゆる宗派における教義の相違まですべて乗りこえることがことができる。
原始仏教、初期仏教、小乗仏教というのは、
学問的にかなり釈迦の教えが入っているとされている。
しかし、それとてしょせんは如是我聞に過ぎないと言えなくもない。
日常生活をかえりみたら、だれもが如是我聞のうさんくささに気づくのではないか。
たとえば上司が部下に指示を出す。
上司は部下が指示に従わないので怒るが、部下は自分はこう言われたと思った、
つまり自分はこのように上司の話を聞いた(如是我聞)と答えるだろう。
そうかと思えば、きちんと上司の指示を守って仕事をするものもいよう。
たとえば母親が子供に雨が降ったら洗濯物を取り込んどいて、と言う。
母親が夜遅く帰宅したら洗濯物が干しっぱなしである。
子どもを叱ったら、だって雨が降らなかったもんと子どもはぐずる。
雨が降らなくても日が沈んだら洗濯物は取り込むベきでしょうと母親はあきれて言う。

たとえば、作家の講演会に行ったとする。
小林秀雄賞作家の山田太一のような有名人なら聴衆もたくさん集まろう。
後日、聞き手ひとりひとりに講演会の内容を書いてもらったらバラバラではないか。
おなじ話でも深く聞ける人と表面上の上っ面のことしか聞けない人にわかれる。
山田太一にうまく取り入って家で手作りのチャーハンをごちそうになったものがいる。
そこでいろいろ業界話を聞いたとする(これが原始仏教)。
山田太一とは一度も逢っていないが氏のシナリオ本を繰り返し読んだ男がいる。
男も書物を通して山田太一の話を聞いているのである(如是我聞)。
いまは山田太一を例に出して書いたが、だれの如是我聞も「正しい」でしょう?
なぜならどの人も山田太一の話を自分なりに聞いているわけだから。
あんがい山田太一の言っていないことまで聞いてしまった人がいて、
あとから氏がそれを読んでみたら話のすばらしさに感心するようなことも
まったくないとは限らないのではないか。
いくばくかの優劣はあるかもしれないが(その基準をどこに置くかは難しい)、
「正しい」という面ではどの如是我聞も間違いなく「正しい」――。

最初に仏教とは如是我聞だと書いた。
そもそも話し言葉も書き言葉も正確には伝わらないから、どの如是我聞も「正しい」。
わたしは釈迦の時代に近い小乗仏典をつまらなく感じ、
一方で大乗仏典は(小乗と比べたらという程度の話だが)おもしろいと思う。
しかし、釈迦の教えっぽい小乗的な如是我聞を好む人がいてもいい。
いくら怒るなって言われたって(小乗仏教の決まり)、
むかついたら人間は怒るだろう(大乗仏教の現実)とは思うけれど、それでもさ。
以上ですべての仏教宗派の壁を取り除いてしまったことになる。
どの仏教宗派もそれぞれの如是我聞なのだからそれぞれ「正しい」――。
新約聖書も如是我聞と言えなくもないだろう。
よくわからんが、イスラーム(イスラム教)は
ムハンマドとやらがアッラーの声を如是我聞したわけでしょう?
歎異抄は、優秀な唯円が田舎坊主の親鸞が(おそらく)言ってもいない深い内容を
天才的な耳で如是我聞をしたのち熟成させ完成させた記録と言えよう。
いまでも日蓮大聖人の肉声を如是我聞する人は大勢いるだろうし、
それはおのおの如是我聞という意味において優劣や正邪はないと言える。
創価学会の池田大作名誉会長のお言葉も、
信者さんはみんなそれぞれに如是我聞していると思う。

なぜ如是我聞でいいのかと言うと、人間は如是我聞しかできないからである。
自分の目や自分の耳でもってしか人の話を読めないし聞けない。
これはどういうことかと言うと、人間は自分の言葉(=体験)の限界をこえられない。
少しずつ体験(言葉)は増えるだろうが、
加齢とともに純粋さが失われるようなこともないとは言い切れない。
そもそも仏はそれぞれの心のなかにいるという説がある(仏性)。
そうだとしたら、如是我聞とは自分の心の深い声を聞くことなのかもしれない。
さらにそうだとしたら、釈迦とは無縁の大乗仏典も、
たしかに作者がおのれの心中でブッダと見(まみ)え聞いた話と言えよう。
だから、あなたやわたしも如是我聞の結果、自分だけのお経をつくることもできるのだ。
いつも前向きに明るく周囲を励ます指導者の口真似をする人生も立派だが、
それより劣るのかもしれないが自分の如是我聞を生きるのもおもしろかろう。
しかし、病的妄想のようなものを如是我聞してしまうと周囲は迷惑をこうむる。
いやいや、あんがい新興宗教の教祖になっておいしい思いができるのかもしれない。

ここから先は少しだけ専門的な話になるので、
わからなかったらそれは書き手が悪いのでどうかお読み飛ばしくださいませ。
大乗仏典に阿弥陀仏の教えを説いた大無量寿経というものがあるんだ。
なんでもおおむかしに法蔵菩薩(修行者)という人が誓願(誓い)を立てて、
数えきれない無数の生まれ変わりのあいだ修業を継続し、
結果として阿弥陀仏になったんだ~よ、というお話。
だからなんだと言うと、いま阿弥陀仏はいるだろう(え? 人によっては解釈が?)。
いま阿弥陀仏がいるんだから法蔵菩薩の誓願はかなっているという、
まあよくわからんお話である。
その法蔵菩薩の誓願はなにかというと、わかりにくいが原文を出そう。
いいか。わかりにくいからな。阿弥陀仏になるまえの法蔵菩薩はこう誓った。
(以下[カッコ]内は当方によるおせっかいな意味補充)

「わたし[法蔵菩薩]が仏になるとき、すべての人々が心から信じて、
わたしの国[仏国土/浄土/極楽]に生れたいと願い、
わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、
わたしは決してさとりを開きません。
ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗(そし)るものだけは除かれます」
(「浄土三部経」本願寺出版社)


意味がわかりにくいでしょう? ロジックもなんだかいかがわしい。
むかし一回だけ藤沢にある時宗の寺で坊さんの話を聞いたときもわからなかった。
先日これがふいとわかったんだなあ。
要するにこれは、いまで言うところの成功者の言葉のようなものなんだ。
社会的成功者は若いときの苦労自慢のようなものをやたらアピールするじゃないか。
大無量寿経は、ゲスな言い方をすれば阿弥陀仏という成功者の苦労自慢だ。
おいおい、おらおら、おまえら、
成功者がむかしこう言ってるんだからこの教えは「正しい」んだよお、こらっ。
成功者はむかし貧乏なときにひとつしかないパンをさらなる貧者に恵んだ。
だから、彼は成功者になったし、彼の行為は「正しい」ことがわかるだろう。
成功者はむかし苦労人時代、
みんながおれさまの名前を読んだら(念仏)、
おれさまの国(浄土)へ呼んでやりたいと願った。
この願いがかなわなかったら、おれはさ、阿弥陀仏になんかならねえぞ。
大無量寿経というのは聖典というよりも、
俗っぽい元ワル(不良)の説いた尖(とん)がった成功哲学みたいなものなんだ。
おれさま阿弥陀仏さまの一代記みたいなさ、あはっ。
根本にある思想は、現在が過去を証明している。
もっとかみ砕けば、現在は過去の結果であるなのだが、
やはり「現在は過去を証明している」のほうがどちらかと言えば「正しい」だろう。

この教えのどこが救いなのかと言うと、ぶっちゃけこれ以上の救済はないのではないか。
釈迦が菩提樹のしたで悟ったとき、理解した内容もおなじである。
「現在は過去を証明している」――。
現在の状態はおのれの無限の過去世をあからさまに証明している。
現在、マイナスの状態にあるとしたら(貧困、病気、孤独、障害者、低学歴等々)、
それはあなたの努力が足らないというわけではなく、
無限ともいってよい過去世における結果としてそうなっているのだから、
それはもうどうしようもなく、しいてできることはマイナスをあきらめて、
アッハッハと笑い飛ばすことくらいである。
いまどんなにしんどくても苦しくても死後に浄土に往けるからいいじゃないか。
これはいくら人に教えても反発を買うだけで本人が心の底から納得しないと意味がない。
それにいまどき前世のみならず無限の過去世とかオカルトじゃんって話で。
そのうえ死んだら天国(極楽)に行くなんて、え? それ、科学的にどうよ?
しかし、過去世の存在の有無および死後の世界の有無は、
どちらも科学的計測の領域外で、科学的には「正しい」ことを著述できない。
これは法華経の最大メッセージになるが、
ある教えで救われる人がいるのなら、結果がよければ嘘をついてもよいではないか。
いや、結果がよければそれは嘘ではなく真実になる。
嘘ではない真実の教えを、本書から抜粋しよう。

「仏教では、人は遠い過去から輪廻転生を繰り返して現在に至っていると考える。
したがってここでいう悪業(あくごう)は、
人が生まれてから今までに犯した罪業だけではなく、前生での行いも含まれる。
因果応報といわれるように、前生の行いが原因になって今があり、
今生での行いを原因として未来に善悪の結果が生まれる」(P68)


まあ、現世はダメでも来世があるって思ったら(信じたら/騙されたら)、
いまは不遇でも、まあいっかという気分になるところが救いと言えば救いでは?
さてさて、話を変えると初期仏教では女性蔑視が激しかったが、あれは一理あるのだ。
というのも、苦の原因と言うのは明白に女性にあるからである。
仏教では生まれることは苦しみであると説く。
世の大半を占めるところの貧乏人の多産って不幸の大量再生産みたいなもんじゃん。
ここまで読んでくれている人は少ないだろうから自分の話を書くと、
去年大恩人の女性と5、6年ぶりに再会したのである。
どんなババアになっているかと思ったら、
むかしと変わらなく若くてきれいでチェッと思った(性格わるっ!)。
そのとき言われた言葉がいまでも脳裏を離れない。
「女って好きな男の子どもを産みたいって思うものなの」
これは真実の言葉で悪魔の言葉だと思ったものである。
生物学的に女性が子どもをほしがるという構造が、
あらゆる不幸を産出していると言えなくもない。

みなさんご興味がないでしょうが、観無量寿経っていう浄土経典があるんだ。
これがなかなか味のある話でさ。
むかしある国の王妃の不幸話。彼女は子どもがほしかったができない。
そこで占い師に相談したら、ある仙人が死んだのちに生まれるからそれまで待てと言う。
彼女は待ち切れずに王さまに相談して仙人を殺してしまう。
仙人は死ぬ間際、女を恨みのこもった目で見て呪いをかけたという。
おまえから生まれてくる子どもは長じて父王を殺すことになるだろう。
王妃はそれを聞いて生まれた男子を死にいたらしめようとするが、
赤子は運がよく小指を1本切り落としただけで死なずに済んだ。
青年になった四本指の王子は悪友から出生の秘密を聞いて激怒する。
王子は父王を餓死させようと牢屋にぶち込む。
王妃は夫のためにこっそり食物を持って面会に行っていたのだが、
それもばれて今度は四本指の王子は母親をも牢屋に閉じ込める。
どうしてこのようになってしまったのか。
すべては自分が悪いのだろうが、いくら過去を悔いてもどうしようもない。
いまもいまわが子は夫を殺そうとしている。
お釈迦さま、いったいこの苦しみをどうしたらいいのでしょうか?
ここに釈迦が飛んできて悩める女性に説いたのが観無量寿経である。
この女性に因果応報の話をしても聞く耳を持たないでしょう?
おまえがいま苦しいのは過去世の因縁のせいだと言われてもヒステリーを起こさせる。
釈迦は苦悩する女性に現実を見るなと教えた。
現実ならぬもの(仏や浄土)、不思議なものを観想すればそのとき救済される。
思弁的な話をすると、善とか悪とか幸福や不幸は相対的な言葉に過ぎないわけ。
絶対的な真実の不可思議光明(不思議な光)に照らされたら善悪も禍福も消え去る。
犯罪者的な考えと嫌われるかもしれないが、どうして子どもが親を殺してはいけないの?
どうして親子は愛し合わなくてはならないの?
どうして人が死ぬのは不幸なの? 子どもが生まれるとなぜおめでたいの?
本当のところはすべてわからないわけじゃない。
そういうスーパーフリーな境地にいるのは狂人か不思議ちゃんでしょう?
でも、その段階まで行けば例の悩める女性は救われるのである。
ちなみに本書では仏教用語の不思議をこう説明している。

「不思議――サンスクリット語でアチントヤといい、「不可思議」とも訳す。
言葉で言い表わしたり、心でおしはかったりすることができないこと。
ブッダの悟りの境地などを表わし、
『華厳経』や『維摩経』は『不可思議解脱経』と呼ばれ、
阿弥陀如来[阿弥陀仏とおなじ]は『不可思議光如来』とも呼ばれる」(P88)


当方は大学で仏教を学んでもいないし寺院での修業経験も皆無なのでわからないが、
たぶん仏教は善悪(プラスマイナス)の問題から入るのが一般的で、
善悪や生死の問題にとどまるのも人間味があって非常によろしいが、
仏典などを読みまくって狂人に近づくと善悪を捨てて、
(仏教で言うところの、言葉にならない)不思議な世界に入っていくものもなかには現われ、
彼はうまく弟子とめぐりあうと教祖的(開祖的)な偉人とみなされるような気がする。
リスカ(リストカット/手首ちょん切り)好きの不思議ちゃんが
高僧に近いのかと問われたら、それは違うとも、
あんがいそういう面もあるのかなあ、とも両方思う。

しかし、我われは不思議な世界にばかり生きてはいけず、
現実世界で生活していかなければならないという面がある。
善悪や禍福、損得、生死のない不思議な感覚では世を渡っていけない。
このとき非常に役立つ現実的かつ功利的な教えが、あの有名な法華経である。
おそらく生きる意味も、生まれてきた意味も、なにもないのだろう。
おそらく善悪もなく、殺人や自殺をしてもぜんぜん構わないのだろう。
けれども、そんなスーパーフリー状態を生活者は受容できない。
とりあえず勉強したらいい学校に入れるぞ(いい学校は本当に善かとか考えるな)。
いい学校に入ったらいい会社に就職できてお得だぞ(そういうことにしておこう)。
いい会社の正社員だったら、きれいで気立てのいいお嫁さんをもらえる(ほんとかよ?)。
こういうふうにごまかしながら最後の死を見ないで生きていくのが古今生活者の生き方だ。
こうしたら幸せになれるというのはみんな嘘だが、
その嘘を信じたら結果的に世間体はよくなり、ならばそれはそれでよく、
ならばそうだとしたら、結果的善のために嘘をついてもよく、
というか結果が善になれば、それは嘘ではなく真実になるのではないか。
勝てば官軍というのは、戦争では勝利したほうが「正しい」という論法だ。
法華経も結果至上主義で、結果が大勝利ならば、
そのひとり勝ちをもたらしたものがたとえ嘘であったとしても、
いまの大勝利が過去の嘘を真実に変えてしまうという妙なる教えである。
言葉は本来、真実や嘘という属性を持っておらず、
結果をよくする言葉ならばそれらは現在の勝利に支えられて真実の言葉となる。
現在こそが過去の言葉の真偽を決定する。
法華経を信じて読誦した結果、
快活な生きる高揚や快感に近い正義感(独善感覚)を味わえるのならば、
その結果をもってして法華経が「正しい」真実の法であることの証明となる。
ある言葉を真実か嘘かを決める基準を未来の結果にゆだねる。
いまなにかの言葉を真実かとか嘘かとか判定しない。
哲学や論理学には(にも!)まったくの無知だが、
法華経は学問を軽く凌駕(りょうが)したとんでもない教えなのではないだろうか。

たとえば創価学会員は毎朝、法華経のこの部分を読むことになっている。
「法華経 如来寿量品第十六(自我偈)」である。
悪質セールスマンの決意表明みたいでとてもおもしろい。本書から訳を書き写す。

「私の言葉は真実でウソ偽りは何一つないのだ。
(私の言葉にウソ偽りがないというのは)医者が巧みな手段によって
本心を失った子どもを治すために、
(医者が)実際には生きているのに、自分はもう死んだのだと言って、
子どもの病気を治したとしても、
ウソ偽りを言ったことにはならないのである」(P102)


法華経はやべえぞ。書き直す。
「私の言葉は真実でウソ偽りは何一つないのだ。
(私の言葉にウソ偽りがないというのは)セールスマンが巧みな手段によって
ものの価値を知らないお客さんに幸福になってもらうために、
(私が)実際にはまだ使える商品なのに、それはもう故障していると言って、
非常に使い勝手のいい新商品を買ってもらったとしても、
ウソ偽りを言ったことにはならないのである」

「私の言葉は真実でウソ偽りは何一つないのだ。
(私の言葉にウソ偽りがないというのは)母親が巧みな手段によって
勉強嫌いの子どもを治すために、
(現実は)勉強してもいかんともしがたい能力差は存在するのに、
努力はかならず報われるのだと言って、
子どもの勉強嫌いを治したとしても、
ウソ偽りを言ったことにはならないのである」

いくらでもおなじパターンで真実の言葉を創価創造できそうなので震えが来る。
このブログにも繰り返し書いてきたが法華経は「嘘も方便」を巧みに説明している、
とびきり現実的で役に立つ最勝の妙法なのだと思う。
著者は誠実そうだから、
法華経の実効性および有害性には気づいていないのではないか。
いんや、著書多数のいうなれば成功者だから、あるいはとっくにお見通しかしら。

「嘘も方便。たしかに父は嘘をついたのだが、それは子どもを治すための嘘で、
よい結果をもたらしたのであり、決して嘘偽りを言ったことにはならないのだ」(P188)


こんなお経の本など読んでいる場合ではないのに、
どこまでわたしは不思議中年なのだろう。
3月いっぱいで賃仕事を失い、無職無収入になるのに、こんなことをしている場合か。
しかし、わたしには南無阿弥陀仏(念仏)と南無妙法蓮華経(題目)がある。
念仏も題目も肝心かなめは「南無」にあるから、
わたしはどちらも似たような意味だと思っている。

「帰命(きみょう)――サンスクリット語ではナマス。これを音写して「南無」という。
身命を投げ出して信心することで、いってみれば「命預けます」ということだ」(P222)


南無阿弥陀仏は精神的平安に効果があり、
南無妙法蓮華経は現実面生活面における実効性がすぐれているような気がする。
4月からも南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経があるから大丈夫。
どちらが強力かと問われたら、南無妙法蓮華経のほうではないか。
では、最後に声高らかに、南無妙法蓮華経! 南無妙法蓮華経! 南無妙法蓮華経!



読書のおともには紅茶とコージーコーナーのおいしいお菓子を♪

「幸福の科学 大川隆法★心の指針145 自由であるということ」(2017年1月)

→昨日ブログに幸福の科学のことを書いたら、
さっそく郵便ポストに小冊子が入っていた。
幸福の科学は「やる気」があるねえ。
わたしは創価学会は好きだから「悪口座談会」系の記事が掲載されているものなら、
無料でくださるならいくらでも拝読するのに、住所はばれているだろうに、
一度も創価学会機関紙(誌)がポストに入っていたことがないのでさみしい(え?)。
せっかくポストに投函してくれたのだからと即日読んでみた。
なーんか、幸福の科学と創価学会って似ていなくね?
どこがというと、前向き、明るい、笑顔、努力、勤勉、目標、生きる意味等々。
入口はどちらも不幸で、出口はこうしたら幸福になれるである。
いまわたしは不幸だけれど、同時にとびきり幸福なんだよねえ。
昨日なんかも生きているのっておもしろいと超絶に大笑いしたし。
そうしたら今日反動があって、職場の厄介者になっているらしい。
しかし、昨日のAさんの話を聞いたあとなら、なんでも許せちゃう。笑っちゃう。
四捨五入すると還暦の(派遣の)Aさんは25、6歳の彼女がいるというんだ。
ウッソでしょうと思うけれど、
わたしは人生経験から嘘のような本当が実際はたくさんあることを知っている。
どうせ書いても嘘だと思われるから本当のことは書かないけれど。
ダメダメなおれももう少し生きていたら尽くしてくれる彼女ができるのかもしれないぞ。
そんな春の目ざめが精神に生じて昨日は最高に幸福だった。
幸福とか不幸ってなによ?
職場のSさんから何度も大声で怒鳴られ殴りたいとか書いたけれど、
それは不幸ではなく幸福なのよ。
なんにもない人生よりもパチンコ依存症のジジイに怒鳴られるほうが楽しいじゃん。
いつかこいつを殴ってやろうなどと妄想するのはもっと楽しい。幸福だ。
なによりこんなみじめぶざまダメダメな
おれなことを心配してくれる人がいる人生って最高にすてきじゃないか。
いま不幸だけれど、同時に胸躍るほど幸福なんだなあ。
けれど、わたしは人を幸福にしたいとは思わない。
だって、それはそれぞれの人がそれぞれに気づく問題だと思うから。

幸福とは――前向き、明るい、笑顔、努力、勤勉、目標、生きる意味。
おれの場合。
前向き×過去をいつまでも忘れない粘着質な執着性を有す。
明るい×打ち解けたらおれの楽天性や明るさにはびびるぜ。
笑顔○変なところで笑ってしまうのが欠点か。
努力×努力は大嫌い。
勤勉×でたらめいいかげんでええやん。
目標×ありません。
生きる意味○いつか死ぬ日のために生きる。

まえから書いているけれど、悪い女に引っかかってボロボロになりたいんだよなあ。
創価学会や幸福の科学に入っても善男善女しかいないような気がする。
いやいや、そういうおのれの善や正義を誇るものこそじつは悪人なので、
だからわたしは幸福の科学や創価学会といった新興宗教にあこがれるのかもしれない。
わたしの正体はほんものの変質者(根性曲がり)なのに、
みんななかなか気づいてくれないので困ってしまう。ありゃありゃありゃや。
「観音経 奇蹟の経典」(ひろさちや/大蔵出版)

→打つ手がないときってあるじゃないですか?
そういうときにあれこれ対策を考えると、
なにがなんだかわからなくなって逆に泥沼にはまってしまうということはありませんか?
打つ手打つ手が裏目に出るというか、
なにをしても「ああ、やっぱり」と悪い結果になり自縄自縛の状態におちいっている。
そのことをうすうすはわかっているのだけれど、なにかせずにはいられない。
イライラして立場が弱いものに当たり散らすと、脅えた部下はさらにミスを繰り返す。
本当はなにもしなければいいのかもしれないが、なにかせずにはいられない。
よく知らないが、株式投資なんていうのもそうではないか。
株価の上下に一喜一憂して売買の取引を繰り返すから損をしてしまう。
わずかにプラスになったとしても手数料を差し引いたらトントンという。
だったら、なにもしないでゆっくり好きな漫画でも読んでいたほうがましだったという話。
ことほどさように、われわれはなにもしないことに耐えられないようにできている。
職場でも仕事をしていないと見られたくないから、
やる必要もないことをことさらオーバーアクションでして熱心な労働者を演ずる。
そういうことをしていると、なんだか自分はとても有能な労働者のような気がして、
なにもすることがないときにふらふらしている部下を怒鳴りたくなる。
結果、多くの部下から嫌われ、以後のチームワークのまとまりが悪くなる。
しかし、なにかせずにはいられず、いつもイライラすることになる。
人間の行為と結果の関係はシンプルに表示するとこうなっている。

☆行為→?→結果

善とされるプラス行為をしたら、
おなじくプラスめいた結果が出るとわれわれは盲信している。
しかし、実際はいわゆる善なる行為をして悪い結果になることも多々ある。
長生きすればわかるはずだが(あんまり大きな声では言えないけれど)、
悪いとされることをしても結果がうまくいくことはいくらだってあるわけだわさ。
そもそも善とか悪とか、そんなものは相対的価値観で、
つまり主観(ものの見方)によっていくらでも善悪は様相を変えるものとも言える。
そして、われわれは結果からものごとを判断するというひどい悪癖をみな有している。
世間的にプラスとされている結果がいま出ている人や組織は(将来はさて?)、
みな事前にプラスの行為をしたからいまよくなっているのだと考えがちだ。
これは科学的真理というよりも、そうであってほしいという大衆の願望だろう。
だって、悪いことをしても恵まれている人がいくらでもいるじゃないですか?
毎日汗水流して働いた人が小さな夢ひとつかなわず病魔に襲われ苦しむのが人生。
だとしたら、行為と結果の関係はあるいはこうなっているという可能性も考えられないか。

☆行為→(たまたま/偶然/わからない)→結果
☆行為→(不思議/神仏/運の強弱)→結果


人はうまくいったときドヤ顔(得意顔)で自慢話をするけれど、あれは眉唾(まゆつば)よ。
失敗したときやミスをしたとき、人は深刻な顔で反省するが、
そこまで思いつめなくてもいいような気がしなくもない(わたしはもっと反省すべきだが)。
さて、ここまできてようやく観音経なのである。
観音経は法華経の一部で、現世利益(げんぜりやく)を説いたお釈迦さまの教えである。
内容は困ったとき観音さまを念じればかの菩薩(ぼさつ)が助けてくれるというもの。
最初に戻って打つ手がないときは観音経でも唱えていたらいいのではないか。
むろん、観音経ではなく般若心経でも法華経でもなんでもいいのだろう。
しかし、現世利益をうたっている観音経がいちばん適当な処方薬のような気がする。
観音経を唱えていたら少なくとも悪手は打たないだろう。
さらにヘマをやって事態を悪化させるということはなくなる。
これは思った以上の功徳だとは思えないだろうか?
観音経の内容は、観音菩薩にお祈りしろ。観音菩薩に南無(なむ/お任せ)せよ。
心理療法家の河合隼雄の晩年行き着いた境地は「なにもしない」だったが、
権威ゼロの仏教フリーライターひろさちやも似たようなことを言う。

「船乗りの人から教わったが、海で遭難したときは、泳いでは駄目だそうだ。
泳げる人は「ともかくも……」と思って、がむしゃらに泳ぎはじめ、
たいていが力尽きて海の藻屑(もくず)になるという。
船が転覆するような嵐の海である。プールで泳ぐのと、わけがちがう。
いくら水泳に自信があっても、どだい泳げるものではないそうだ。
それに海は広い。所詮、島まで泳ぎつけるはずがないのである。
それよりは、浮木(うき)にでもつかまって、じっと救助を待っているほうがよい。
そのほうが、助かる率は多いそうだ。
そうだとすれば、南無観世音菩薩」の称名が、
たしかに奇蹟をもたらしてくれるのである。
『観音経』の言う通りではないか。
そして、――。
浮木につかまって水に漂いながら、彼が「南無観世音菩薩、なむかんぜおんぼさ」
と称名している、そのときの心境はあきらめではければならない
――と、わたしは思うのだ」(P61)


選択肢が1~5まであったとする。受験教育の弊害で、
われわれは1から5までの選択肢のうちに正しい答えがあると信じきっている。
しかし、現実では1、2、3、4、5のすべてが間違いという可能性もあるのではないか。
ペーパーテストを無視する、受験を拒否するという選択肢を忘れてはいないか。
これはたいへん勇気ある決断だが、理論的にそこまで大誤答かはわからない。
なぜなら行為と結果のあいだにあるものは不思議で運とも言うべき、
人間には把握できないものである。神仏の世界と言い換えてもいいだろう。
だとしたら、そういう神仏ワールドには神仏ワードで立ち向かうのもありではないか。
南無観世音菩薩(称名)でも南無釈迦牟尼仏(称名)でも、
南無阿弥陀仏(念仏)でも南無妙法蓮華経で(唱題)もいい。

☆称名→(偶然?神仏の世界?たまたま)→結果

やってみてうまくいくかどうかはおのおの実験してみるしかない。
現代人はそういうことを非科学的だとバカにして行動に移せないのかもしれない。
その点、毎日唱題している創価学会の善男善女はとても親しく好ましく感じられる。
わたしのケースで他人には当てはまらないのだろうが、
もしかしたらわたしは観音経のおかげで、
健康診断まえの禁酒を1週間もできたのかもしれない。
念仏も称えたし、題目も数度なら唱えたから、なにが功を奏したのかはわからない。
人によっては仏教ではなく、聖書を読むことが人生の安定剤になるものもいよう。
ひろさんの実家は薬屋さんだったというが、あらゆる宗教は薬なのだと思う。
たまたま薬が効きすぎたのか、そもそもが劇薬なのか、イスラームのほうはヒャッハーだ。
観音経はその典型だが、宗教は効く薬で、しかし成分はメリケン粉なのだと思う。
観音経はかなりよく効く偽薬(プラシーボ)ではないか。

「さらに薬に関しても、こんな話がある。
〝プラシーボ”という薬(?)がある。
もとはラテン語で、「わたしは満足するだろう」の意味だそうだ。
この薬はぜんぜん薬効がない。メリケン粉を固めてつくった薬だと思えばよいだろう。
なにも薬効はないが、患者は薬をのんだと思って安心する。
そういった役目の薬である。
辞書を引くと、「気休め薬」「偽薬」といった訳語が出ている。
薬ではない薬である。変な薬だ」(P14)


胃潰瘍(いかいよう)の患者にこの〝プラシーボ”をのませたという。
だが、ナースからの手渡しである。これでも25パーセントの胃潰瘍が治った。
つぎに白衣を来た医者がこの偽薬を患者に与えると、どうなったか。
ご想像の通り、治癒率はさらに高まった。
つぎに町医者ではなく大学教授にこの薬を処方させたらどうなったか。
そのときに「これは新薬で保険のきかないとても高価なものだが、
特別にあなただけに処方しましょう」と患者に伝えたら、そのときの結果はどうなるか。
その医師が名医として掲載された雑誌のコピーを見せておいてもいいだろう。
胃潰瘍レベルなら放置しても治るだろうが、〝プラシーボ”をのむのも悪くない。
ただし、この〝プラシーボ”を偽薬なのに百万円とかじゃ売っちゃいかん。
それをやるのが悪質な新興宗教だが、あんがい治ったらそれでもいいのかもしれない。
たくさん金を巻き上げる新興宗教も病気を治しているのだから。
百万円を払ったことで病気が治った人も大勢いることだろう。
高額を払わないと効かないということは〝プラシーボ”の性質上、避けられない。
ほかに〝プラシーボ”の使い道は、自分だけの薬をつくることも可能だ。
手間暇をかけていろいろ宗教のことを勉強して、
自分だけの〝プラシーボ”を常備薬にするのも精神衛生上よいだろう。
しかし、本物の薬と偽物の薬の違いとは、いったいなんになるのだろう。
結果から判断するならば、事態が好転したのなら(病状が改善したのなら)、
結果的にあらゆる〝プラシーボ”が本物だったということにならないか?

お勉強タイム。以下、本書で学んだことをメモメモ。
仏教にご興味がない方は飛ばしてくださいませ。
仏教には、仏法僧を三宝として考え敬えっていう三宝帰依の教えがあるでしょう。
「往生要集」を書いた源信がおもしろいことを言っていたという。
南無阿弥陀仏は阿弥陀仏という「仏」に帰依している。
南無妙法蓮華経は法華経という「法」に帰依している。
南無観世音菩薩は観音という菩薩(修行者)、つまり「僧」に帰依している。
だから、3つは違うようでみなひとつのおなじことを言っている。
あるいはどれかひとつでは不十分で3つそろって完全になる。
いんやいやいや、そこまでは源信もひろさちや先生も書いていなかったかしら。
さあ、どうだったか。わたしはそんなことが書いてあったような気がするなあ、イヒッ。

観音経のキーワードは「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」だが、
これには3つの解釈があるらしい。
観音経は「念彼観音力」でものごとがうまくいくと主張しているが、
その「念彼観音力」をどのように解釈するかである。
1.「彼の[偉大なる]観音力を念ずれば」
2.「彼の観音を念ずる[自分の]力」
3.「念ずる彼の[自分のなかにある]観音の力」
一般的に(禅の世界の話じゃないかな?)3>2>1の順で浅くなるという。
いちばん偉いのは3で、つぎに偉いのは努力主義の2、
神仏頼みの1はもっとも程度が低いと偉い坊さんたちは思っているらしい。
ひろさちや先生は1の解釈を選択しておられる。
2とか3とか、人間中心にものごとを考えていて傲慢というほかない。
自分ではどうしようもないから観音さまにおすがりするのであって、
自力でどうにかなるんなら仏門なんかにそもそも足を運ばないではないか。

本書は怒りっぽいひろさちやさんがおよそ35年まえに書いた本である。
結局、ひろ氏はうまくこのまま人生から逃げ切られそうだが、
勉強家の氏に効果があったお経はいったいなんだったのだろう。
若かりし宗教ライターの説法を拝聴しようではないか。
先生、称名しても現世利益なんかちっともないけど、どういうこったい?

「称名そのものが、いちばん大きな利益なのです。
たとえば、他人からひどい仕打ちをうけたとき、
たいていの人は「こん畜生!」とか「あの野郎、ぶっ殺してやりたい」と思い、
そういうことばを吐きます。にもかかわらず、
そのとき静かに称名できる人がおれば、その人はすでにもう救われているのです。
称名そのものが、その人にとって救いの証となっています。
称名によってほかに何か得られるのではなく(ほかに利益があるかもしれませんが)、
称名できたそのことがほかならぬ〝現世利益”ではないでしょうか」(P4)


まあ、あきらめが肝心ってことさね。
他人に期待しない、人生全般に期待しなければ、こんなもんかとおさまりがつく。
なにか災難に巻き込まれてもこれは前世の報いとあきらめ、
来世にこそちょっとは慶事もあるのではないかとささやかな希望をつなぐ。
他人に期待すると怒ってばかりでストレスがたまり生きていて楽しくない。
阿修羅(あしゅら)のような人って怖い。

「阿修羅は、ほんらいは正義の神であった。
しかし彼は、正義にこだわりすぎたのである。
正義にこだわって、彼は怒りを燃やした。他人の不正を許せなかったのである。
そのため、彼は神々の座から追放されて、ついに魔類とされた。
しかも、魔類となりながらも、彼はなおも正義の怒りを燃やし続けている。
阿修羅はそういう存在である」(P150)


小声でつぶやくと、正義は「魔」なのだと思う。
人間がもっともおちいりやすい口当たりのやさしい「魔」が正義のこころ。
他人の不正を許せなくて、イライラカリカリする。
他人の不正を許せない反動で自分は正しい生き方をしようと窮屈になっていく。
正しい社員になって正しい生活をして他人の不正にいつも怒っていて、
はてまあ、そんな人生がおもろいでっか? って話。
ぶっちゃけ、舛添都知事に怒る気持とか、さっぱり理解できない。
おれが都知事に就いたらもっとひどいことをやるんじゃないかなあ。
基本的に舛添さんが辞めようが続けようが、こちらの生活に変わりはなし。
どうでもいい話なんだなあ。なんでみんな舛添さんに怒っているのかわからん。

だれも読んでいないだろうし、最後に不謹慎なことを書いちゃおっと。
町をぶらぶら歩いていると(我輩よりはましだが)
どうしょうもねえオジン、オバンの夫婦とかいるじゃないですか?
あれ、わっかんねえんだ。あいつらも恋愛の真似事をやったわけ?
こういう東大の入試よりも難しい問題の解決へのヒントを仏教は与えてくれる。

「たとえば、一枚の映画スターのブロマイドをもって美人を論ずれば、
かえって底が浅くなるようなものだ。
むしろ、読者の心のうちにある〝美人像”――
〝奇蹟像”を大事にしていただいたほうがよい」(P216)


なーんか、わかったような気になるぜ。
わたしが好きな女は「わたしが好きな女」ってことか。
わかりやすく書いたら、わたしが好きな女は「わたしを好きな女」っていうか。
相手が自分を好きかもしれないと思うと、それだけで見かけが変わるのだろう。
「A子ちゃんがあなたを好きって言っていたわよ」
なんて言われたら男は想像力でがんじがらめになりよけいな発情をするだろう。
仏教は深いなあ。

(関連記事)
「愛と救いの観音経」(瀬戸内寂聴/嶋中書店)
「観音経講義」(奈良康明/東京書籍)

「あの世と日本人」(梅原猛/NHKライブラリー)

→学問は真理を追究するとされているが、しかし真理の定義が難しい。
ひねくれ者のわたしは真理とは以下のようなものだと思っている。
1.真理とは、人(や人びと)を喜ばせる言葉。
2.真理とは、いまこの現段階で虚偽(デタラメ/ウソ)だとばれていないこと。
3.真理とは、人それぞれで、それぞれがそれぞれ真理だと信じていること。
日本有数の大物学者である梅原猛は本書で、
日本人は「あの世」をどう見てきたかわれわれの精神史を古代から丹念に追っている。
本書出版時も高齢だった大成功者の梅原猛は、死後のことが不安なようで、
「あの世」でわれわれは死んだ父母に逢えるという説を語っている。
なおかつ「あの世」は行ったきりではなく、たとえばお盆のように戻ってくることも可能。
なんでも梅原猛は孫と遊ぶのが好きらしく、死んでからも孫に逢いに来たいらしい。
ならば、だとしたら「あの世」はそういうところでなければならぬ。
本書で梅原は仏教以前の神道の「あの世」はそういうところであったと論じている。

この本ではなく別の本だが、梅原は親鸞の説く浄土(「あの世」)も
そういうところだと見てきたようなことを書いている。
果たして梅原猛のいう「あの世」は真理なのか? わたしは真理だと思う。
なぜなら最初に持ち出した真理の定義に当てはめてみよう。
死んで「あの世」に行けばわれわれは死んだ血縁者と再会することができ、
なおかつ一度死んでもわれわれは「あの世」から戻ってくることができる。
繰り返しになるが真理とはなにか?
1.真理とは、人(や人びと)を喜ばせる言葉。
2.真理とは、いまこの現段階で虚偽(デタラメ/ウソ)だとばれていないこと。
3.真理とは、人それぞれで、それぞれがそれぞれ真理だと信じていること。
逐一検証すると、そういう「あの世」があれば人びとは喜ぶからこれは真理だ。
「あの世」がどうなっているか科学的に検証できないため虚偽の証明も不可能。
梅原猛は「あの世」がそういうところだと信じている(信じたいと強く思っている)ので、
これもまた真理の条件に適合するだろう。

わたしは梅原猛とひろさちやの一般書で仏教の基礎を学んだ。
仏教を勉強するとは、どういうことか?
結局、いくら知識を増やしてもそれが信心(信仰)につながらなければ意味がないのだ。
学問は役に立たないが、宗教は生きるうえで役立つこともあるのである。
逆に言えば、役に立つ見込みがないのに宗教を勉強している人の気が知れない。
人は生きているとどうしても孤独感や不安感(このふたつが最大の迷いでは?)、
倦怠感、無力感、絶望感、劣等感にさいなまれるものだ。
そういうときにたとえばうまく仏教で自分をだますと精神科のお世話にならずに済む。
仏教信心とは、それぞれの「私」が、
広範囲の意味における「仏」と関係する物語を創作し、安心感を得ることである。
自分は仏に守られているとか、死は終わりではないとか信じられたら安心しますよね?
ものごとに実体はないとか信じられたら、苦手な上司や同僚と折り合いをつけられる。
自分はどこにでもいるつまらない目立たない人間だけれど、
自分の心の奥底に仏がいるとか信じられたら慰めがあるじゃないですか?
毎日の生活における何気ないささいなことが全宇宙と連動していると信じられたら、
味気ない生活にも多少のうるおいのようなものがもたらされるのではないか?

仏教を信じるとどこまでも退屈でやりきれない単色の日常が、
わずかながら色めくというか生き生きしてくることもないことはないとも言えよう。
けれど、よほどの単細胞バカでないかぎり、だれかから仏説を教わって、
他人の仏教物語を、はい、それではそれをそのまま信じましょう、とはならない。
仏教の醍醐味というのは、それぞれがそれぞれの物語を創作できるところだと思う。
本書で梅原猛が自分の「あの世」を創ったように、
みんなもそれぞれの「あの世」や自分の「仏さま」を創造するのがいちばんいい。
まったくゼロから妄想(物語)は創れないから、
信心を得たくて大しておもしろくもない仏典を読む人もなかにはいるのである。
ふつうの生活者は仏典など読めないだろうから、
インテリが嫌う瀬戸内寂聴や五木寛之の本を読んで、
おのれの信心めいたものを創造してもいいだろう。
これは放言とも思われかねないが、もし好きなアニメがあるのであれば、
そのヒロインと観音菩薩を同一視してマイストーリー(信心)を創作してもよろしい。

それは仏教信仰ではないとお叱りを受けるかもしれない。
反論として考えられるのは、仏教とは、
開祖の釈迦(しゃか)の言った言葉を学び、それを実践することだと。
とはいえ、釈迦に著書はなく、なにが釈迦の教えかわからないのにどうしろと?
仏教は釈迦の教えがよくわからないところがいいのである。
このために、それぞれがそれぞれの価値ある人生を生きるための、
新しい仏教物語(釈迦妄想)を創作することが可能になる。
そもそも日本は大乗仏教の国だが、大乗は釈迦の教えを否定した仏教なのだから。
日本の最高権威学者のひとり、梅原猛の言葉を聞け。

「このように大乗仏教では、釈迦仏教を否定して新しい、
はなはだ現世肯定的な仏教をつくったのですが、興味深いことは
大乗仏教が釈迦の名でもって次々に新しい経典をつくったことです。
それは現在、徳川家康の著書が出るようなもので、そういうことが
何の疑いもなく行われたというのはインドというお国柄のせいでしょうが、
こうして大乗仏教が発展するにつれ、
釈迦も釈迦という歴史的人格を離れて、超歴史的存在になります」(P104)


だとしたら、「幸福の科学」の大川総裁のしている霊視・霊言が
いまの日本におけるもっとも「正しい」大乗仏教なのかもしれないわけだ。
創価学会はなんかわかるけれど、大川総裁は得体の知れない気味悪さがある。
しかし、あれも大乗仏教というか、もしかしたら大乗仏教精神を
もっとも正統的に継承しているのが幸福の科学という説も成り立つだろう。

いまの大川総裁よりは偉いことになっている歴史上人物の法然も変な男だ。
ご存じのように、法然は、
ただ南無阿弥陀仏と口で称(とな)えたら救われると説いた坊さんである。
法然が出るまえの仏教で主流だったのは南都六宗と呼ばれる学問仏教。
具体的な主だった宗派としては三論宗、法相宗、華厳宗。
三論宗は、万物に実体はないという「空(くう)」を説いた、いわばニーチェのニヒリズム。
法相宗は、いまでいえばユングの深層心理学みたいなもんだ。
華厳宗は、強引に現代風にいえばアインシュタインの宇宙論のようなもの。
庶民はニーチェ(三論宗)とかユング(法相宗)とかアインシュタイン(華厳宗)とか、
そんなことを言われても「馬の耳に念仏」(笑)。
そこで法然はニーチェやユング、アインシュタインを勉強したうえで、
しかしこれらではまず自分が救われないことを深々と悟り、
その結果として自他を救う(だます)ために
南無阿弥陀仏オンリーの救済(物語/妄想)を説いた。
法然がなんの天才かというと、ミスをするところが常人離れしていたのである。
法然は誤読の天才、別解の達人、
つまり慣例にとらわれない自由な独創的(仏典)解釈者であった。
いままでだれも読んだことのなかった視点から仏典を解釈したのが法然である。

わたしは法然の南無阿弥陀仏もまた真理であると確信している。
なぜならば、真理とは、みたびの繰り返しになるが――。
1.真理とは、人(や人びと)を喜ばせる言葉。
2.真理とは、いまこの現段階で虚偽(デタラメ/ウソ)だとばれていないこと。
3.真理とは、人それぞれで、それぞれがそれぞれ真理だと信じていること。
口で称える念仏オンリーで救済されるという教えは無学な下層民を喜ばせる。
念仏は浄土三部経によっているが、
これら仏典を釈迦が説いていないことは永遠に証明できない。
法然や親鸞がそれぞれ念仏は絶対真理だと信じているから、
このため、しがるがゆえに南無阿弥陀仏は真理だ。
真理とはおそらくある人が熱心に信じている解釈例のことなのだろう。
他人の解釈(世間常識/社会風潮)もたいせつだが、
自分なりに娑婆(しゃば)世界を解釈(妄想/誤読/創価)するのも
生きづらさをかかえるものには有効な手段となりうるのだと思う。
法然はいろいろな本を自由に新しく解釈(誤読?)することによって、
自他を救う物語(妄想?)を創作するにいたった。
誤読、誤読というが、言葉はいかようにも解釈可能なため、
受験現代文のような「正しい」読解はそもそも存在しないのかもしれない。
こちらも妄想過剰な梅原猛いわく、間違える天才のような法然は――。
ちなみに西方浄土を説いた有名なお経は「大無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」。

「『観無量寿経』と『大無量寿経』を比較すると、
同じように極楽浄土往生の思想を説いているのですが、
その態度は正反対といえます。
『観無量寿経』は美的芸術的経典です。
『大無量寿経』はそれに対してはなはだ倫理的論理的経典です。
法然は、倫理的論理的な人間です。
それで彼は『大無量寿経』に語られる本願の思想を中心に浄土教を新しく考え、
口称念仏中心の浄土教をたてたわけです。
そうすると、『観無量寿経』もそういう本願中心、念仏中心に法然は読みかえます。
つまり『観無量寿経』も表には観仏[イメージ]をすすめているように見えるけれど、
実際は称名[コール/ソング/カラオケ]をすすめたのだ。
表の意味と裏の意味は別だ、そういう解釈をするのです。
同じように『往生要集』を法然はまた読みかえるのですが、
『往生要集』も表に観仏をすすめているようだが、
ほんとうは称名をすすめたのだという解釈をとるのです」(P220)


しかし、法然とはいえ、完全な自由から独自妄想を創価創立したわけではない。
いままでだれからもさほど重要視されなかった中国の善導という坊さんの本を
読んで感動して、法然は善導の没後弟子になることで口称念仏の確信を得た。
逢ったこともない異国の僧を師匠とあおぎ、独自の信仰を打ち立てた。
まったくのオリジナルの思想など存在しないのだろう。
人はどうしたらおのれの導き手に出逢えるかはわからないが、
確率的には多くの本を読むことが重要で、
それから人生的には本との出逢いは偶然でたまたまだから
機縁が熟すのを待つしかないという面もあろう。
法然のはじめた南無阿弥陀仏は「あの世」信仰にほかならない。

「法然の理論はどうしてできたのでしょうか。
彼にとって決定的なものは善導との出会いです。
それを法然は「偏依善導(へんいぜんどう)」、
つまり「ひとえに善導に依る」というふうに言っています。
彼が『観無量寿経』の注釈書である善導の『観経疏(かんぎょうしょ)』を読んで、
たいへん感動したところから彼の新しい浄土教は出発するのです。
善導はたいへんな詩人で、実に美しい文章を書きます。
絵もたいへん上手だったといいますが、
そしてこの世のはかなさ、苦しさ、麗しさを説き、
あの世の美しさ、苦しさ、変わりなさを語った。
私は若き日にはじめて『観経疏』を読みましたが、
何かボードレールの詩を読むような、そんな感じがしました。
そういう一種のロマン的な宗教家で、最期は木から飛び降りて死ぬのです。
そういうところもロマン派の宗教家らしい。
その善導が魂を注いで書いたのがこの『観経疏』です。
それを法然もまた全身全霊で読みました。
そして彼はそこから大きな思想のヒントを受けました」(P215)


「観経疏」を読んでみようと思ってネット検索したが書店に在庫がない。
そういえばむかし神保町の古本屋で4千円くらいで見かけたことがあったなあ。
実際に読んでみたらあんがい大したことがないのだろう。
善導は法然が自分で発見したから、彼にとって強い意味を持った。
わたしが後追いで善導を読んでも、さして新鮮な感動は味わえないような気がする。
さて、師匠の問題である。
他者に影響を受ける人と書物から刺激を受ける人とふたつのタイプがいるのだろう。
しかし、どうして書物が他者ではないと言い切れようか。
実際の著者よりも書物を通して対面したその人のほうが魅力的ということもあろう。
法然に逢ったことのない梅原猛は、法然の人間像を決めつける。
上記した真理の定義に従うなら、この梅原の描く法然は真理であろう。
不幸への哀しみが法然の人格形成を大きく左右した。

「父は殺され、一家離散の運命にあった法然一家に、
母もまた安穏な人生を送れたとは考えられないのです。
この法然の生まれ、および九歳のときの父の悲惨な死、
そして十三歳のときの何か由緒ありげな母の死、
これが法然の心の奥にある深い傷ではないかと私は思うのです。
私は、宗教者というものは心の奥に深い傷を負っていて、
その傷ゆえに彼はこの世に対して絶望し、
この世ならぬ美しい世界を求めるのではないかと思うのです」(P192)


法然の弟子といえば親鸞が知られているが、この男はうさんくさい。
法然の高弟で当時有名だったのは弁長と証空なのである。
梅原によると、ふたりとも親鸞にはまったくふれていないという。
親鸞サイドが弁長の悪口を書いているのなら、むかし読んだことがある。
わたしはいまでは親鸞およびその一族郎党は食わせ者ぞろいで、
本当に偉かったのは「歎異抄」で親鸞を描写した唯円だけではないかと思っている。
親鸞の主著「教行信証」はむかし読んだが、さっぱり意味がわからなかった。
梅原いわく、親鸞も法然の誤読傾向はしっかり継承しているとのことである。
親鸞の意味不明な仏教哲学論文「教行信証」は引用ばかりである。

「九十パーセントも経典の引用があると、あまり独自性がないのではないか、
独創性が欠如するのではないかというふうに一見思われますが、
だいたい昔の人は、そういう経典に対する尊敬の心が厚かったのです。
自分の説を述べるのにもやはり経典を通じて述べる。
しかし、この経典の集め方、選び方において彼の独自の思想が入っている。
だから『教行信証』が九十パーセントは経典の引用だからといって、
この本の独創性が少ないとはけっして言えません。
そればかりではなく、彼はここで引用された経典に対して
独自な読み方[誤読?]をしているのです」(P253)


だんじて田舎坊主の親鸞先生と現代非正規雇用の自分を比べるわけではないが、
当方も引用は嫌いではない。
あえてわざと意図的に文意とは異なるかたちでそこだけを引用で取ることがある。
全体を読まないで部分だけ証拠引用として取るのはおもしろい読書だ。
著者が訴えたいだろうところを無視して、あえて些末(さまつ/どうでもいい)な
箇所にスポットを浴びせるスーパーフリーな独自解釈的読書もまた魅惑的だ。
対象はひとつでも解釈(見方)はさまざまになしうる。
たとえ事実のようなものがひとつあったとしても、
想像力(創造力/妄想力)豊かな人はそこから複数の真実を見て取ることができる。
そもそもからして事実のようなものが存在するのかも考えてみるとよくわからない。
ミスというのは創造性、独創性と大きく関係しているような気がしてならない。
どれだけ大きく間違えるかが、
その人の(ロボットならぬ)人間性(独創性)の証(あかし)とも言えなくはないだろう。
書物に人生の師匠のようなものを発見したものは幸いだ。
書き手が死んでいたらもっといい。
生きている師匠は身勝手にも気分次第で好きなことを言うが故人はそうではない。
法然にとっての善導のような存在が、わたしにとっての一遍である。
一遍は法然や親鸞と比べたらはるかにマイナーな、
しかし当時あるいは先輩念仏者ふたりよりも世間的にはメジャーだったかもしれぬ、
踊り念仏の創始者として知られる(一遍は空也を開祖とするが)カリスマ坊主だ。
梅原猛は法然や親鸞ほど心惹かれる存在ではないらしいが、
それでもわが一遍にありがたくも言及してくださっている。

「一遍は西行をたいへん慕っていますが、一遍の歌は西行の歌とは違います。
西行の歌はよく考えられたものですが、一遍の歌は自然のもの、
西行にもないような自然の味があるような気がします。

をのづから相あふときもわかれてもひとりはいつもひとりなりけり

私はこの歌が大好きです。
自然に人と別れるときもまた相合うときもあるが、
人間は結局ひとりだということですが、
「ひとりはいつもひとりなりけり」という言葉がよい。
これは一遍の心の底に存在する深い孤独をうたったものだと思いますが、
種田山頭火の歌のような感じがします。

こゝろよりこゝろをえんと意得(こころえ)て心にまよふこゝ成(なり)けり

「こころ」が五つありますが、こういう歌が一遍には多いのです。
これは先ほど述べたように、心にとらわれるかぎりは悟りは得られない。
心なんてことをいろいろ考えずに、「南無阿弥陀仏」に徹しろという歌でしょうが、
意味はよくわかりません。
こころという言葉を五つならべて結局は心に迷う心をうたい、
そういう心を捨てよというのでしょう」(P292)


仏教は現実的に役に立つからおもしろいのである。
働きながら一遍の歌の、
「相あふときもわかれてもひとりはいつもひとりなりけり」が思い浮かぶ。
そのまえの言葉がどうしても思い出せない。
ふと「おのづから」という言葉が出てくる。この「おのづから」の深さよ。
この上司と人生で出逢ったのも「おのづから」で、
もしかしたら明日「おのづから」別れてしまうのかもしれない。
いまひと言「辞める」と口にしたらもう一生逢うこともないのだろう。
そう考えたら、きついことを言われても「おのづから」にまかせようと思える。
一遍の「心より~」の歌はまったくそうで、いろいろ考えるから悩むのだろう。
どうせ人は死ぬのだし、死んだら旅先の思い出とおなじで、
あんがいマイナスの出来事を懐かしく思い返すのではないか。
死という絶対の彼岸である「あの世」からいまの自分を考えるとどれだけ救われるか。
わたしが仏教を趣味として学んでいるのは、
研究のためでも威張るためでも知的好奇心でもなく、
ただただ当方が生きづらい変質者だからなのだと思う。
仏教はマイストーリー(わが妄想)を創るうえで一生ものの玩具たりえる気がしている。

「図説 お経の本」(洋泉社MOOK)

→オールカラーで仏像や仏画がうまくレイアウトされたじつにいい本だった。
しかし、初学者がいきなりこの本を読んだら、
お経がわかるようになるかといったらむろんそういうわけではない。
こちらにそれなりの蓄積があるから、この本のすばらしさに気づくのだろう。
お経は読むたびに発見があるようなところがある。
読み手は日々変化しているのだが、その無常をお経によって発見するのかもしれない。
この本では維摩経が気になった。
どうでもいい豆知識だが、維摩経は創価学会の教学部が大好きなお経でもある。
内容は豪商の維摩(ゆいま)っておっさんが出家した仏弟子を叱りつける話だ。
出家した仏弟子よりも、世間をよく知った金持の中年男のほうが偉いんだよという。
お経では、維摩が仏弟子をこき下ろしたり、在家のぶんざいで出家者に説教したりする。
お経の中心に「不二に入れ(入不二)」というメッセージがあり、そこが抜粋されている。
ちゃんと漢文も掲載されているののがよかった。
不二(ふに)とはなにか?
本書によると不二とは「対立する二つのことが根底的には一体であること」らしい。
そういう考え方を不二という。
対立する二つが「異ならないこと」「差別のないこと」という解釈もある。
本書で維摩経は、「二辺を離れる「不二思想」の金字塔」と紹介されている。
実際にお経を見てみよう。
維摩経は二度違う訳で読んだことがあるけれど、
この本の訳がいちばんわかりやすい(意訳らしいけれど)。
不二に入るとはどういうことか。楽実(らくじつ)菩薩はこう言った。

「真実と虚偽とが二である。
真実に達した者は、真実を見ているわけではない。
いわんや虚偽を見ているわけではない。
なぜなら真実は、肉眼で見るのではなく、智慧の眼で見るからだ。
智慧の眼は、見るのでもなく、見ないのでもない。
これが不二に入るということだ」(P42)


繰り返すと、不二とは「対立する二つのことが根底的には一体であること」。
善悪、賢愚、損得、美醜、生死――「対立する二つのことが根底的には一体であること」。
智慧の象徴である文殊(もんじゅ)菩薩が、
「おれがいちばん賢いんだ」と言いたげに以下のような説明をしている。

「あなたがたの説はもっともだが、それもまた二[相対]なのである。
何も言わず、何も説かず、何も示さず、説かないということも言わない。
これが不二[絶対]に入るということだ」(P42)


この経でもっとも偉いのは豪商の維摩だから文殊菩薩もおうかがいを立てる。
「維摩先生、あなたもなんか言ってやってください」
このとき維摩は黙して語らなかった。「維摩の一黙、雷の如し」である。
文殊菩薩は(金になびいたのか)維摩の態度を絶賛する。

「よろしい、よろしい。文字もなく、語る言葉もない。
これこそ、不二に入るということなのだ」(P42)


言葉で語るということは、世界を言葉で分けているということだから、
言語に頼っているかぎりいつまでも「二(相対)」のレベルでしかなく、
「不二(絶対)」のレベルには到達できないということである。
わかりやすい話をしたら、どんな慰めの言葉をかけてもらうよりも、
そばにいて「おまえの気持はわかるよ」
と肩をポンとたたいてもらうほうが絶対体験に近いということだろう。
女の子から大丈夫だよとギュってしてもらったら男の子はがんばれる。
こういうところから言語を否定した密教に入っていくんだろうけれど。
音楽や絵画は言葉にならない不二(絶対)を表現しているとも言えよう。

いつごろからか創価学会が師弟不二ということを強く打ち出している。
これは師匠の言うことには絶対に従えよという偏った意味だと思う。
しかし本来、不二とは「対立する二つのことが根底的には一体であること」。
ならば、師弟不二とは、師匠や弟子という差別はないということになるのではないか?
師匠は弟子である、弟子は師匠である、というのが本当の師弟不二。
人になにかを教えようとうすると本当に理解していないと教えられない。
このため、教えているほうは弟子のことを師匠のように思うだろう。
弟子は師匠から教わっているが、本当は弟子こそ師匠の師匠なのである。
わたしもブログにいろいろ書いているけれど、
これは教えているに近い行為だが、教えているという感覚はなく、
ブログ記事を書くことでいろいろ教わっているという実感がある。
弟子は師匠の師匠なんだからもっと威張っていいわけ。
師匠は弟子から教わっているんだからもっと謙虚になるべし。
軍隊のように厳しい師弟の上下関係を否定したのが、本来の師弟不二の意味合い。
師弟不二を理解したら、
座談会で池田先生の悪口が飛び交うようにならなくちゃいけないわけさ。

きっと「学ぶ」ってことは「教わる」ことではなく「教える」ことなのだろう。
だれかに教えようとしてみたら、自分がそれを理解できているかどうかわかる。
いい弟子というのは「ここがわからない」といい質問をしてくれる師匠のこと。
本当のいい弟子というのは師匠の教えていないことまで自分で発見してしまう。
いい師匠というのは自分はなにも言わないで、
弟子の言うことを「ふんふん」と聞いているカウンセラーのような存在かもしれない。
本物の師匠は弟子に指導などせず、弟子の言うことを傾聴するのかもしれない。
というのも、そのほうが弟子にいろいろ教えられるのだから。
維摩経で、維摩が多数の菩薩の(不二に対する)説明を聞いて、
自分は沈黙したままひと言も発しなかったという光景こそ本物の指導なのかもしれない。
大声で「池田先生はこう言った」なんて叫ぶのは指導ではなく命令なのかもね。
そういう軍隊のノリが好きな人は一定数いるだろうから、それもいいのだろうが。

本書で薬師経と金光明経をはじめて目にした。
どちらもおもしろそうでさあ。薬師経で、こういう一節がリピートされる。
「来世で自分が悟ったら(菩薩になったら)~~(功徳)~~」
おいおい、来世かよと笑ってしまった。
現世で悟ろうとしない、そういうところ、まるでおれみたいでよろしい。
わたしの今年の目標は「来年はがんばる」だから。
今日の目標は「明日から本気を出す」。
いま生きている目標は「来世でイケメンになって、あれこれする」。
本音を言えば、ゲイではないが、来世では女の子になってみたいんだなあ。
もちろん、かわいい子限定だが。
「目標依存症」で疲れ切っている人は来世に目標を置くといいと思うよ。
来世というのは死のその先にあるものだから、死への恐怖もやわらぐしグウ。
薬師経に本当にそんなこと書いてあるのかって? 書いてありますって。

「願わくば我、来世に悟りを得たなら」
「願我来世、得菩提時」(P60)


金光明経もおもしろそうで読んでみたいのだが6千円もして高い。
いっぱい働いて金を稼げって言われるかもしれないけれど、
働いたら自分の時間がなくなるし、疲れて本を読む気力もなくなる。
まあ、金光明経を読むのも来世にまわしてしまおう。
もう一定年齢を過ぎたら、来世にすべてを投げ込んじゃうのも一手だから。
結婚も家族も正社員も出世も成功も来世に放り込んでしまうと現世が楽になる。
「それは、うーん、来世でがんばりますので」ってふざけすぎかな?
創価学会に入って壮年部の怖いおじさんに
厳しい指導をしてもらったほうがいいのかもしれない。
学会って男子部と女子部に分かれて活動するんだってね。
ガチガチの師弟不二なんかやめて、これからは男女不二を強く打ちだしたら、
創価学会もさらなる大躍進をするような気がしてならないが、
いかがなものでしょう。
維摩経にも男女の性別にこだわっている仏弟子を天女がからかうシーンがある。
言っとくけど、本当にあるからね。
お経には西洋哲学の持ち合わせぬ怪しさとユーモアがあるので好きである。

(関連記事)
「維摩経」(中村元訳/「大乗仏典」/筑摩書房)
「維摩経」(横超慧日・三桐慈悲海編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

「お経 真言宗」(勝又俊教/講談社)

→考えるまでもなく、お坊さんほど役に立たない存在はめずらしいよなあ。
お坊さんとは葬式や仏事、法事に呼ばれ、
偉そうなパフォーマンスをするゴロツキのことだが、
民主主義でみんなが大声で葬式(坊主)なんか必要ない!
と言い切ってしまえば、大勢のふところに余裕が生まれるのである。
いま葬式に坊さんをひとり呼ぶのって、いくらかかるんだろう(10~100万?)。
でも、別にお坊さんはなにをしているわけでもないでしょう?
ああそう、法話というのがあるけれど、あれはマニュアル本があるわけで。
在俗のひろさちや先生の法話マニュアルもけっこう売れているみたい。

高僧とかいったいなんのために存在するのだろうか?
親も高僧でぜいたくざんまいの青年時代を過ごし家族を持ち、
お仲間と肩を組みながらいま高僧となった中年は「使えない」わけでしょう?
たぶんコンビニバイトひとつできないと思う。
けれども、そういう役に立たない高僧のほうが、
底辺バイトよりも偉いことになっている。
いまの世の中の理不尽の象徴が、
いわゆるお偉いお坊さんたる高僧に象徴されている気がしてならない。

天皇陛下もそうだろうと言われたら、たしかにそうだから、
高僧が偉ぶる理由もわからなくはないのだが。
皇族ってまったく役に立っていないところが逆説的に役に立っているのだと思う。
役に立たないところが役に立っているといったら矛盾になるのだろうけれど。
天皇制なんか必要ないけれど、その無用なところが有用なのだと思う。
天皇なんか道路掃除ひとつできない使えないゴミだが、そこが偉いわけでしょう?
ああ、身の保全のために言っておくと、わたしは左翼嫌いの天皇制支持者だから。
とはいえ、佳子さまとお話してみたいという願望はまったくないけれど。
人間味がないのでヌードどころか水着姿も関心がない。
けれども、佳子さまは真言宗の坊さんよりは、
庶民のアイドルとして人の役に立っているとは言えなくもない。

真言宗の坊さんも、自分の存在が人の役に立っているとか信じているのだろうか?
人の役に立つのが自分の存在意義だっていうのは、なにかが違う気がするけれど。
人間はみんな「自分のため」に生きているというのが本当ではありませんか?
「自分のため」に生きるときに他人を必要とするので、
「自分のため」なのに「他人のため」に生きたいとか思う人が現われる。
「自分のため」に「他人のため」に生きたい。
本当に「他人のため」ではなく、あくまでも「自分のため」――。
そう自覚している援助者は本物なのだが、なかなかそういう人はいないだろう。
「他人のため」にこんなに尽くしたのに報われないと嘆いている人がいかに多いか。
それは「自分のため」にやっていたのだと、どうして気づかないのだろう。
そもそも恩返しを求めて「他人のため」に動くというのが嘘くさい。
恩返しを求めるのならば、それは「自分のため」なのだから。違う? 違うなら、どこが?

このように考えると徹底的に「自分のため」しか考えず、
「他人のため」にはなにもしないで、
意味不明のお経をあげている役立たずのお坊さんが偉く思えないこともない。
「他人のため」にはなにもしないで、そのくせ高額を請求するのだから、
その「自分のため」マックス利己主義はかえって気持のいいところがなくもない。
みんなお葬式で「自分のため(気持整理)」や
死んだ「他人のため」に坊主なんか呼ぶのをやめればいい。
みんながそうしてはじめて「他人のため」に生きているという坊主連中の嘘がばれ、
偉そうに群れた彼たちはそれぞれ「自分のため」のことを考えるだろう。

最後にちょろっと書くが、「悟る」の本当の意味はこうだから。
「悟る」とは、弟子ができること。
釈迦は35歳で悟ったわけではなく、この年齢で弟子が複数誕生して、
以降お仲間と群れて生きることを決めたから、
後世このときに悟りを得たとされているのである。
真言宗トップの空海も36歳のときに群れを上から認められたから偉くなった。
「悟る」とは孤独な行為ではなく、手下をつくるための集団操作術なのであろう。
ある人が悟ったと客観的にみなされるのは、弟子ができたときしかないということだ。
一番弟子がもっともおいしい思いをできることが多いが、
反対に師匠などただの人であることを知るがゆえに、
裏切り者として集団から追放されるリスクもあるので、プラス即マイナスである。

「インド仏教思想史 下巻」(ひろさちや/大法輪閣) *再読

→上巻は釈尊(釈迦)の教えから大乗仏教誕生まで。
下巻はインド大乗仏教の変遷(へんせん)である。
わたしは大学でまじめに学問したことがないから、
以下のような文献学(?)の考え方でさえ新鮮だった。
インド大乗仏教の3人の有名な哲学者は龍樹、世親、無着。
世親と無着はきょうだいだったとされている。
さて、インド大乗仏教は初期、中期、後期と分類される。
(初期)~龍樹まで(主に空思想)。
(中期)~世親・無着まで(主に唯識思想)。
(後期)~仏教消滅まで(主に密教思想)。
大乗仏典(お経/仏の教え)はいろいろあるが、こう分類されるという。
龍樹の著作に引用されている経典が初期大乗仏典。
龍樹の著作にはなく、世親・無着の著作で引用や言及されているのが中期大乗仏典。
龍樹や世親・無着の著作にいっさい言及のない経典が後期大乗仏典。

大乗仏典の名前なんて、みなさんご興味がないでしょうけれど――。
(初期大乗仏典)
「般若経典」「維摩経」「華厳経」「浄土三部経」「法華経」
(中期大乗仏典)
「涅槃経」「楞伽経」「勝鬘経」「解深密教」
(後期大乗仏典)
「大集経」「地蔵十輪経」「大日経」「金剛頂経」
ほとんど読んだことのあるお経マニアの自分が抹香くさくていやになる。

(A)初期大乗仏教

さて、いまでもいろいろなトラブルの原因になっている法華経である。
じつのところ、学会員さんでも法華経をぜんぶ読んだことがある人は少ないでしょう?
はっきり言って、おもしろくないし独善的でむかつくお経だから。
よく法華経は文学的だといわれるけれど、
その意味は、ほかのお経と比べたら物語性があるってくらいだから。
それほど法華経以外が退屈だから法華経程度でもおもしろく思えてしまうという。
法華経は学者のあいだでも古くからふたつの批判があるらしい。
1.これから教えを説くぞと言いながら結局最後まで教えは説かれずに終わる。
2.自画自賛してるだけじゃねえの。
わたしも最初読んだときにそう思ったし、みなさまもお読みになられたらそう思うはず。
ひろさちや先生の解釈をまじえながら、わたしの考えを書くと、
法華経は革命的な小乗仏教批判のお経なのである。
要するに小乗仏教っていうのは先輩や古株が偉いって教えなわけ。
より古いほうが釈尊(釈迦)に近いのだから「正しい」だろうっていう話。
それに対して、法華経はおまえらのいう釈迦は本物じゃないと主張したんだな。
本物の仏は永遠の世界にいてこの世に生まれて死んだあれは仮の姿であると。

☆「真理の世界」→「この世」→「真理の世界」→「この世」→「真理の世界」……

こういうふうに往復運動をしているのが本物の仏であると法華経は主張した。
法華経はこの世以外の永遠の「真理の世界」をつくってしまったわけだ。 

☆「真理の世界|この世」

むかしのブログ記事では「真理の世界>この世」「絶対世界>相対世界」
とわたしは表記していたが、はっきり断絶していると、
つまり「絶対世界|相対世界」と書いたほうがわかりやすいのかもしれない。
わたしは仏典(お経/仏の話)は得意(?)なのだが、
龍樹が書いたような論書(哲学書)はまったくの苦手である。読めない。
このたび、どうして龍樹が「空(くう)」の思想(哲学)を言い出したのかようやくわかった。
龍樹が(「色即是空」の)空(くう)とか言えた背景には法華経の世界観があったのか。
どういうことかというと、法華経はこの世のさらに上にある永遠の世界を創造した。
永遠の仏がいるとして、釈尊(釈迦)なぞそのうちのひとりに過ぎぬと軽んじた。
繰り返すが、その世界をわかりやすく表示するとこうなる。

☆「真理の世界(絶対世界)【永遠仏】|【釈迦】この世(相対世界)」

法華経世界にあるこの対立を見て取り、龍樹はある結論にいたった。
龍樹はむかしカジろうとしたが、
あたまがパッパラパーになりそうだったのですぐ閉じた。
ここはもうひろさちや先生のわかりやすい解説を頼りにしよう。
先生にとっても龍樹は難しいそうである。

「哲学書というものは、どうしてこんなに晦渋(かいじゅう)なのであろうか……。
とくにナーガールジュナ(龍樹)の『中論』は、
注釈書なしではなかなか理解が困難である。
しかし、まあ、ナーガールジュナの言いたいことは、
世界の真実の姿をわれわれ人間の不完全な言語でもって正確に表現できそうもない
――ということであった。
人間の言語には、どうしようもない限界があるからだ。
『中論』において彼が語っているのは、いわばその絶望である。
微に入り細に入り、ナーガールジュナは人間言語の
――したがって、人間の認識の――限界を告発しているのである」(P189)


☆「真理の世界(絶対世界=無言語)|この世(相対世界=言語説明可能)」
☆「真理(絶対世界)|法華経、華厳経、般若経典、浄土三部経、維摩経(相対世界)」


龍樹はこの言語で説明できない絶対の真理を「空(くう)」と呼び、
言葉でなんとか説明できる世界を、それに対して「仮(け)」と呼んだ。

☆「空(絶対真理)|仮(相対真理=善悪、正邪、正誤、美醜、長短、大小、増減、生死)

言葉には限界があるということを、ひろ先生はわかりやすく説明する。
たとえば、「ないものはない」――。これは正反対のふたつの意味を表わせる。
1.ここは大型店だから「ないものはない」(=ある)。
2.いくら泣いたって「ないものはない」(=ない)。
わたしも考えてみた。「お礼をしなきゃな」――。
1.さんざん意地悪されたから「お礼をしなきゃな」(=復讐)。
2.いろいろお世話になったから「お礼をしなきゃな」(=感謝)。
おなじ言葉でもふたつの意味を持つことがある。
それから言葉の意味は体験に左右される。
「結婚」という言葉は結婚生活をしたことがあるかどうかで意味は変わるでしょう。
「同性愛」なんかもそう(わたしにゃわからん)。
「犬」と言われても、それぞれイメージする犬が違う(どうでもいいが犬は大嫌い)。

さらに言葉の限界と言えば「クレタ人は嘘つきだ」の問題があるでしょう。
クレタ人が「クレタ人は嘘つきだ」と言ったら、本当のことがわからなくなる。
「クレタ人は嘘つきだ」を信じたら、この言葉も嘘になってしまい、
ならばクレタ人が本当のことを言ったことになる。
このパターンでひろ先生が考えたのは「例外のない規則はない」。
「例外のない規則はない」という立言そのものが規則であるから、
この規則そのものに例外があることになる。
つまり、「例外のない規則はない」という規則にも例外はあることになる。
そうすると、「例外のない規則」が例外的にあることになる。

おなじパターンでわたしが考えたのは「絶対的真理はない」。
「絶対的真理は存在しない」が真理ならば、
「絶対的真理はない」というのが絶対的真理になってしまい矛盾するでしょう。
しかし、この矛盾こそわたしは真理だと思うし、
どうでもいいが「絶対的真理はない」は河合隼雄が信じていたことだ。
「絶対的に正しいことはない」という真理もそうでしょう?
「絶対的に正しいことがない」という主張が正しいのならば、
絶対的に正しいことがあることになってしまう。
こういうパラドックス(矛盾)は考え続けていると発狂するから注意してね(笑)。
「池田先生は絶対に正しい」で心を落ち着かせるの一興だと思う。
まあ、「山田太一さんの言うことはほぼ間違いないな」もおなじだけれど。
「さすがに新聞やテレビは嘘を言わないだろう」くらいが平凡だが安心できよう。

ことほどさように言葉というものは、相対しか表現できない不便なものかもしれない。
言葉では絶対の真理を表現できないのかもしれない。
言葉にできない絶対体験というものを目指して修業する人もいるわけでしょう?
まあ、それは単にボキャブラリー(語彙/ごい)が貧困なだけかもしれないけれど。
こういうことはヴィトゲンシュタインやラカンよりもはるかむかしのインド人が考えている。
「ウパニシャッド」に登場する哲人(紀元前650~550年)がこう言っているそうだ。
ひろさちやの言葉ばかりだと権威がないので、中村元先生の本から孫引き。
ひろさんは中村先生の不肖の弟子になるのかなあ。

「アートマン[絶対真理]は、それによってこそ
人がこの一切のものを認識し得るところのものである。
したがってアートマン[絶対真理]それ自身はもはや何ものによっても認識され得ない。
それ[絶対真理]は把捉し得ざるものであり、不可説である。
もし強いて言語をかりて言い表わそうとするならば、
ただ『しからず、しからず』(neti neti)と否定的に表現し得るのみである」(P183)


究極の真理、最高の真理、絶対の真理は言葉では表現できない。
しいて表現するならば「~~ではない、~~ではない」と否定的にしか表現できない。
むかし講演会で聞いたけれども()、
山田太一さんの好きな詩人に川崎洋という人がいて「私の歌」という作品があるらしい。
いまネット検索してみたらそんな詩は見つからなかったが、
「私の歌」は「~~でもない、~~でもない」と繰り返していく詩らしい。
「私」なんかもそうだよね。「私」とはなにか。
「女ではない、学生ではない、夫ではない、社長ではない、まじめではない……」
「私は○○である」と絶対的に言い切ることはできず、
「○○ではない」と言っていくしかない。
有名な般若心経も「無~~、無~~、(~~もない、~もない)」の世界である。
さて、中村元の文章は意味不明だったが、ひろさちや先生の説明はわかりやすい。

「……ヤージニャヴァルキヤ[インドの哲人]は、
究極・最高の原理(アートマン)が、言語によって表現できないものであり、
強いて表現すれば、
「ネーティ、ネーティ(そうではない・そうではない)」
としか言えないものだと断言している。
つまり彼は、最高の真理(原理)を表現することを権利放棄してしまったのだ。
究極の真理を言語でもって把捉[はそく/把握]することはできぬと、
あきらめたわけである。そしてその代りに、
究極の真理のうちに飛び込み、究極の真理に同化する道を選んだのである。
要するに、恋人をことばでもって口説くことをやめて、
からだでもって恋人と一心同体になることをねらったわけだ。
わたしの譬(たと)えはちょっと際(きわ)どいが、
哲学の話はこれくらい大胆に解説したほうがよい。
そうしたほうが、ともかくもわかりやすいのである」(P184)


うちのブログは偏差値40の高校生でもわかるように書いているつもり。
このため、もう一度繰り返しになるが、これまで書いてきたことを赤字で説明したい。

☆法華経=「真理の世界(絶対世界)【永遠仏】|【釈迦】この世(相対世界)」
↓ ↓ ↓
☆龍樹=「空(くう)|仮(け)→善悪、正邪、正誤、美醜、長短、大小、増減、生死」


この真理の世界の仏さま(永遠仏)のことを久遠実成(くおんじつじょう)と言うのだが、
こんな言葉は忘れてくださっていい。
わたしもむかし久遠実成とか本で読んで「うげっ、わからん」って思ったもの。
ちなみに、ひろ先生は本書で一度も久遠実成という専門用語を使っていないからすごい。
話を戻すと、言葉は絶対的真理を表現できない(のかもしれない)。
というのも、悪は善ではないということ(絶対悪はわからん)。
正しいというのは、誤りではないということ。
正義は不正はしていませんよということ。美人は醜くないということ。
きれいはきたなくないということ。
長いものは短いものに比べたら長いけれど、もっと長いものに比べたら短い。
大きいものは小さいものと比べたら大きいが、もっと大きなものよりは小さい。
コップ半分の酒に感謝するものも、あとこれしかないと嘆くものもいる。
以上、なんの話をしていたかというと、じつはこれが空(くう)の説明なのである。
空(くう)というのは、ものごとに実体はなく、
すべては縁起(えんぎ)によって成り立っているという思想(ものの見方)である。
「色即是空(色=空)」というのは、赤に「絶対的な赤」のようなものはなく、
青や黄色やほかの色があるから結果として、
相対的に赤が縁起(ご縁/関係性)として存在しているということだ。

龍樹から法華経にまた話を戻す。
法華経はなんの教えも説かれていないとも言えるが、
「諸法実相(しょほうじっそう)」という言葉が出てくる。
お経はサンスクリット語(古代インド語)を漢訳したものである。
この諸法実相をサンスクリット語の意味どおりに読むとしたら、
「諸法の実相」(=世界の真実)が「正しい」という。

「ところが、中国や日本では、サンスクリット語にない解釈がされるようになる。
漢字というものは便利(?)なもので、わりと自由な解釈ができるのである。
すなわち、サンスクリット語では「諸法の実相」としか読めないものを、漢字では、
――「諸法は実相なり」
と読んだのである。
中国の天台宗でそう読まれはじめて、それ以後その読み方が定着してしまった。
したがって、いまでは「諸法は実相なり」が、このことばの意味になっている。
そういうふうに読むことで、
これが大乗仏教の根本思想を表明したことばになるのである。
サンスクリット語に戻って「諸法の実相」と読んだのでは、
あまり深い意味があるとは思えない。
思想の歴史は、あんがい誤解の上に構築されるものかもしれない。
誤解がひろく世の中に通用すれば、誤解が正解になる。
「諸法実相」は「諸法が実相なり」と読むのが正しいのである」(P225)


では「諸法実相」=「諸法は実相なり」はどういう意味かと言うと――。
「諸法(世界)は実相(真実)である」。なんのこっちゃい、である。
ここで言葉を追加するのである。この追加が「正しい」かはわからない。
「諸法(世界)はそのまんまあるがままで実相(真実)である」
「善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽のある世界はそのまんまで真実(真理)である」
「善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽のそれぞれがそのまんまで正しい」
「善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽のそれぞれが存在理由がある」(ひろさちや流の解釈)
「善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽のそれぞれがそのまんまで美しい」
「すべてがあるがままでいい」
「すべてはうまくいっている」
「なるようになっているし、なるようにしかならない」
「諸法実相」という言葉を噛み砕き過ぎたので復元していく。
「諸法(相対世界)は実相(絶対真理)である」
「諸法(偶然)は実相(必然)である」
「諸法は実相なり」――。
龍樹の説いた「空(くう)」に戻る。龍樹は世界を空(くう)と仮(け)に分けた。
そうだとしたら、以下のようなステップを踏むと「空=諸法実相」ではないか。

1.龍樹→「空(くう)|仮(け)→善悪、正邪、正誤、美醜、長短、大小、増減、生死」
2.「諸法実相」→「実相(真理)」=「諸法(善悪、正邪、美醜、貧富、苦楽)」=「仮(け)」
3.「空」=「諸法実相」


おわかりいただけましたか?
「空=諸法実相」はひろさちや先生の珍説(奇説)なのだが、わたしはこう理解した。
ひろ先生がお読みになったら、ああ、こいつわかってんじゃんと思われるだろう。
ご理解いただけなかった場合の言い訳も、ひろさちや氏から借りておこう。

「……わたしたちの言語は、ほとけの世界(極楽世界)の真理を
記述するに適していない。「男性」と書けば「女性」が予想され、
「中性」と書いても「男性―女性」が予想され、
「無性」と表記すれば反射的に「有性」が意識される。
わたしたちの言語は、相対世界をしか記述できないのだ。限界がある。
その言語でもって、
絶対世界(ほとけの世界)を実現することはあきらめざるを得ない」(P200)


そうそう、浄土三部経(大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)についても書いておこう。
学会員さんは読みもしないで法華経のほうが浄土三部経より上だとか思っていそう。
たしかに浄土三部経というのはどれも、あの法華経よりも退屈なのである。
しかし、浄土三部経のほうが法華経よりも上という見方もできるのだよ。
まあ、大乗仏典なんかすべて後世の創作、
つまりインチキだから優劣を語るほどバカがばれることはないと言うこともできるが。
浄土三部経のどこが法華経よりも優れているかというと――。
以下はよほどの仏教関連者しかわからないでしょうから読み飛ばしてください、
法華経に描かれている仏は時間的に永遠の仏でしょう(久遠実成ってやつよ!)。
法華経の仏は時間軸しかない(永遠仏)。
いっぽう浄土三部経で描かれる阿弥陀仏のサンスクリット語源は、
「アミターユス/アミタ・アーユス(無量寿)」と
「アミターバ/アミタ・アーバ(無量光)」とふたつある。
阿弥陀仏という名前はサンスクリット語から音訳しているわけ。
よって、意味の上では、阿弥陀仏は無量寿仏とも無量光仏とも呼ばれる。
無限の寿命を持った永遠仏であり、無限の光を持った太陽仏ということ。
法華経の仏は永遠仏でしかないけれど、
阿弥陀仏は永遠仏というだけではなく空間的な広がりもある無限仏と言える。
だから、勝った、勝った、浄土三部経は法華経に大勝利! なんて叫んだら、
まるで(一部の)学会員さんみたいなのでやらないよ、アッカンベエ!

しつこく浄土三部経の擁護を続けると、法華経の仏って偉そうじゃん。
「おれに逆らったら地獄に堕ちるぞ」とか
「おれに逆らったら来世で障害者にするから覚えとけ」とか言っているしさ。
法華経の仏はなにさまって感じで、人間に仏罰を加えてくるのである。
しかし、浄土三部経の阿弥陀仏はそんなことはない。
インチキ物語には違いないが、阿弥陀仏は人間出身なんだよ。
阿弥陀仏は法蔵菩薩(凡夫/人間)が長いあいだ修行した結果なのである。
このため、法華経の仏よりも苦労を知っているというか人間味があるとも言える。
まあ、浄土三部経がどれもクソつまらないことは認める。
まあまあ、法華経も浄土三部経もクソ味噌いっしょと言えなくもない。

☆法華経=「真理の世界(絶対世界)【永遠仏】|【釈迦】この世(相対世界)」
☆浄土三部経=「極楽世界(絶対世界)【阿弥陀仏】|【菩薩】この世(相対世界)」


阿弥陀経の有名な一節に「青色青光。黄色黄光。赤色赤光。白色白光。」がある。
極楽世界は「青色青光。黄色黄光。赤色赤光。白色白光。」であるという。
意味は、極楽世界では「青い花は青い光を放ち、黄色い花は黄色い光を放ち、
赤い花は赤い光を放ち、白い花は白い光を放ち、それぞれがそれぞれ美しい」――。
「青黄赤」の三色は学会カラーなんだから、創価も阿弥陀経を認めろよ!
そしてそして、いいかいいか、
極楽浄土ではそれぞれの色の花がそれぞれの光を放ってそれぞれ美しい――。
これって諸法実相(しょほうじっそう)とおなじ世界観ではありませんか?

☆「絶対真理」=「空」=「諸法実相」=「青色青光」=「極楽浄土」

(B)中期大乗仏教

中期大乗仏教といえば、世親や無着による唯識(ゆいしき)思想だが、
あれはひろさちや先生にもよくわからないし、なおかつあまりおもしろくないらしく、
それほどページが割かれていない。
ひとつ、おもしろいと思った指摘は、
なぜ唯識(ただ識のみ/心のみ)なんていう思想が発展したのか?
初期大乗仏教では世界を「真理の世界」と「この世」に二分したわけである。

☆「真理の世界|この世」

そのうえで龍樹が「真理の世界」は言葉では表現できないと論じてしまった。
これで困ってしまって、さあ大変になったのだと、ひろさちや先生は指摘する。
なるほどなあ、と思った。

「『法華経』にしろ「浄土教典」にしろ、
そこにおいては仏のほうが凡夫にヒモをつけて、
そのヒモを引っ張ってくださっていた。
それが釈迦仏の授記であり[法華経]、阿弥陀仏の誓願である[浄土三部経]。
しかし、ナーガールジュナ(龍樹)がその仏の世界(「空」の世界)について
権利放棄してしまったあとでは、もはや仏にヒモを引いてもらえないのである。
凡夫は自分でネジを巻いて、凡夫のほうから歩き出さねばならない。
凡夫がネジを巻くには、凡夫のうちにゼンマイがなければならない理屈になる。
その凡夫のうちにあるゼンマイが、つまりは「仏性」なのである」(P211)


果たして凡夫の心の内部にゼンマイ(仏性)はあるのかという、
ある意味では仏教心理学がスタートするのである。
心の深みに入っていき過ぎたせいか、仏教心理学たる唯識思想はよくわからない。
唯識といえば――ユング心理学で言うところの無意識、
すなわち阿頼耶識(あらやしき/深層意識)が有名だが、
ひろさちや先生はおもしろいエピソードを紹介している。
あるアメリカ人がイスラム教徒の留学生を家に招待したという。
イスラム教徒は宗教的な戒律により絶対に豚肉を食べない。基本常識だ。
アメリカ人はどこから見てもどこから食べても牛肉のステーキをご馳走した。
イスラム教徒は「おいしい」と満足して牛肉ステーキを平らげていた。
ジョークが好きなアメリカ人は食事途中にふざけて、
「きみがいま食べているのは豚肉だよ」と言った。
するとその瞬間、イスラム教徒は胃のなかのものをすべて吐き出し、
床にのたうち回って苦しみはじめ実際に心筋梗塞を起こしたらしい。
救急車で病院に行って、一命を取りとめた。
ひろ先生が問題提起するのは、認識の問題である。
このとき彼の食べていたのは間違いなく牛肉でそれはずっと変わらなかったのである。
「それは豚肉だよ」と言われても牛肉が豚肉に変わるはずがない。
にもかかわらず、イスラム教徒は嘔吐した。
ということは、彼の食べているものが途中から牛肉が豚肉に変わったのだと、
ひろ先生は言い放っている。

ものごとを理解したいならば、異なった例を自分のあたまで考えてみるといい。
わたしはこういう別の例を考えてみた。
ある男が幸運にもきれいで若い女の子と交際していた。
あるとき彼女の親友という女性がアメリカから帰国してきた。
その友だちから男はこっそり教えてもらう。
「あの子、じつはむかし借金を返すためソープ(特殊浴場)で働いていたんだよ。
AV(アダルトビデオ)にも何本か出ている。
あたしの彼氏がそれを発見して興奮していて、男って最低と思った」
こういう話を聞いた男性は交際相手のことをどう思うだろうか?
まずえんえんと思い悩むだろう。
思い切って彼女に質問するが、もちろん否定される。
おりしも、そういう秘密を教えてくれた彼女の友人が交通事故で死んでしまう。
恋人の女性の存在自体は、話を聞くまえも聞いたあとでも変わらないのである。
しかし、一度聞いてしまったら、もういままでどおりの交際はできないだろう。
彼女の言うことを信じて交際を続けるという決断もあると思うが、
いつか酒に酔った拍子に女に手を上げてしまうことがないとは言えない。
無料エロ動画を見ていたら、高校生のころの恋人にそっくりの女性を発見してしまった。
よほど「寝取られ妄想」が好きな男以外は、
この瞬間になにかがプチンと切れてしまうだろう。
たとえ交通事故で死んだ女の言ったことがすべて嘘だったとしても、である。
まあ、よく似た女性などたくさんいるし、女は加齢や化粧で変わりやすいから、
映像の質がそれほどよろしくない無料エロ動画を見ても、
なにが真実かはなかなか断定はできないとも言えるのだが、しかし。
恋人の別の友人が「あんなやつの言ったことは絶対に嘘よ」
と神に誓って宣言しても、
男に芽生えた疑心暗鬼はどうにもならないような気がする。
人間の認識はそんなもんなんだよという。

ここでさらなる飛躍をする。
以下のことは、この本には書いていない。
こういう常識はずれの思考法をできるようになったのは、
天才のひろさちや氏の本をたくさん読んだからだろう。
イスラム教徒にこれは牛肉だと言って、豚肉を食べさせたらどうだろう?
彼は豚肉を食べたことがないはずだから味がわかるはずもなく、
怪訝な顔をされたら新しい品種の牛肉で最高級部位だ、などと言ってやればいい。
食後にもずっと本当のことを隠しておけばイスラム教徒はまさに「知らぬが仏」である。
むかしソープで働いていたと陰口をたたかれた女性にしてもおなじである。
交際相手からはさんざん暴力を振るわれ、別れることになってしまった。
女性は人間不信、とくに男性恐怖症になる。
そんなおり、少々高齢の金持の男性と知り合い交際を申し込まれる。
あまりにプレゼントをいっぱいくれるので、つきあわざるをえなくなってしまう。
交際してみるとそれほど女性のあつかいはうまくないが、
とにかくベタ惚れと言ってもいいくらい自分を好きになってくれている。
しかし、男性恐怖はおさまらず、いくら誘われても身体を許すことはなかった。
男はさらに彼女の気をひこうと高いプレゼント攻勢を仕掛けてくる。
彼の誕生日に誘われ豪邸とも言っていい家に行くと、多少強引にだが身体を求められる。
男性恐怖は治っていなかったので拒否するが、
いままでもらった贈り物を考えると強く出られないで、
いささか強引なかたちでやられてしまう。
ひさびさのセックスなのでぎこちない動きしかできなかった。
そのうえ突然のことだったので抱かれているときに生理が始まってしまった。
彼はすっかり合点がいく。清楚で美しい彼女は25歳まで処女だったのだ。
いままでずっとガードが固かった理由がやっとわかった。
彼が「処女だったのか?」と聞くと、彼女は違うと首を振る。
いや、これは処女に間違いない。
彼女は処女であることを恥ずかしがっているのだと男は確信する。
女はどうしていいか迷う。本当は元彼をふくめて4人の男性経験があったのである。
「処女じゃないもん」と本当のことを言っても彼は信じてくれない。
「本当なんだから」と思わず泣いてしまうと、
「わかった。わかった。恥ずかしいことではないのに」と彼はやさしく女を抱きしめる。
このとき彼女は長いこと患(わずら)っていた男性恐怖症が治ったことを知る。
金持の彼は(彼の心のなかでは)清純な彼女にプロポーズして結婚する。
彼は死ぬまで嫁は処女だったと信じていた。
彼女のほうも嘘はついておらず、しかも元彼は貧乏だったから(愛は金ではないが!)、
自分をこんなに大切にしてくれるいまの主人に出逢えてよかったと神さまに感謝した。

自画自賛するとものすごいうまいエピソードではないか。
なにが善でなにが悪か、なにが本当でなにが嘘か――がわからなくなる説話だ。
悪(元彼のDV→別離)が善(幸福な結婚)になっているのもおもしろいでしょう。
結局、「真理」とは、ある人間が心底から真理であると信じたことが「真理」になる。
元彼は彼女のことを心中でヤリマンのアバズレと信じたから女を殴った。
いまの旦那は彼女のことを聖女のような女性と心底から信じたから、
結果として幸福な結婚生活を送ることができた。
阿頼耶識(あらやしき)説とは、心がすべて決めているという発想のことなのだろう。
ひろさちや氏はまた別の例を出していて、これもまたおもしろい。
プールに人が飛び込んだときの音である。
英語ではスプラッシュと言うらしく、日本ならまあザブンくらいではないか。
どうしておなじ音なのにイギリス人と日本人では別の音に聞こえるのだろう。
ニワトリの「コケコッコー」は英語では「コッカドゥドルドゥー」、
ドイツ語では「キケリキ」、フランス語では「ココリコ」、中国語では「オオオオオ」らしい。
おなじ音なのに複数の人間がまったく別の音として聞いているのである。
では、どれが真実のニワトリの鳴き声(絶対的真理)かといえば、
ふたつの回答例があるだろう。
1.それぞれ聞いたニワトリの鳴き声のすべてがそれぞれ真実(相対的真理)である。
2.本当のニワトリの鳴き声(絶対的真理)はだれにもわからない。

☆Aの心中(相対的真理)←?(絶対的真理)?→Bの心中(相対的真理)
☆絶対的真理=「Aの真理≠Bの真理≠Cの真理≠Dの真理≠Eの真理」


先ほどの女のたとえに話を戻すと、彼女はつごう5人の男性と交際し結婚した。
彼女(絶対的真理)はひとりだが、
5人の男の心中にはそれぞれ異なる彼女がいるということになろう。
脱線すると恩師である特殊映画監督の原一男先生が、
この原理を映像化すべく「またの日の知華」という作品を発表している。
世間的にはほとんど評価されず弟子のわたしがどう好意的に観てもつまらなかった。
「本当のこと」というのは表現してしまうとあまりおもしろくないのかもしれない。
原一男監督はドキュメンタリー映画での評価が高いが、
作品はすべてフィクション(嘘/やらせ)だとおっしゃっていたのを懐かしく思い出す。
仏教に戻ると、ひろさちや先生は難解な阿頼耶識説を簡潔にまとめている。
何度も繰り返してしつこいかもしれないが、この人はあたまがいいよ。

「さて「阿頼耶識(あらやしき)説」というのは、簡単にいえば、
「われわれは、自分が認識しようと思う対象世界を自分でつくりあげて、
それを認識しているのだ」ということである。
日本人は、にわとりの鳴き声を「コケコッコー」にしておいて、
そしてその「コケコッコー」を聞くわけだ。
フランス人は「ココリコ」という鳴き声をつくっておいて、そしてその「ココリコ」を聞く。
つまり、人間は自分でにわとりの鳴き声をつくり、
そのつくった鳴き声を聞いているのである。
それが「阿頼耶識説」が言っていることである。
要点をいえば、それだけのことである。そんなにむずかしいことはない」(P290)


わたしは念仏(南無阿弥陀仏)も題目(南無妙法蓮華経)もどちらも「正しい」と思っている。
どちらかと言えば念仏のほうが好きだが(法然や親鸞のではなく一遍の踊り念仏!)、
日に何度か題目を唱えることに少なくとも拒否感は示さない。
もしかしたら釈迦(釈尊)の教えというのも、ニワトリの鳴き声みたいなものではないか。

☆日本人(コケコッコー)←ニワトリの鳴き声→フランス人(ココリコ)
☆大乗仏教←釈迦の教え→小乗仏教
☆法然(南無阿弥陀仏)←?「絶対的真理」?→日蓮(南無妙法蓮華経)


ものすごい「本当のこと」を書いてしまったような気もするが、おもしろいですか?

(C)後期大乗仏教(密教)

人間は基本的に他人の考えになど興味を持たないものだし、
有名人の文章だって読んでもらえないのだから、
ここまでお読みくださった方にまず感謝します。
あたまのいい人には繰り返しがうざいでしょうが、
このブログ記事は偏差値40の高校生でも理解できることを目指して書いているので、
いままでのところをおさらい(復習)したい。
大乗仏教は「この世(俗世間)」ならぬ「真理の世界(仏国土)」を創造した。
龍樹がその世界観を、ひと言でまとめれば「空(くう)」となる哲学として学問化した。
空(くう)は言語化できない世界だから、凡夫は「真理の世界」と切れてしまった。
そこで世親・無着は外に「真理の世界」があるのではなく、
内(心)に「真理の世界」に分け入るゼンマイ(仏性)があるのではないかと考えた。
これが仏教心理学とも言われる唯識(ゆいしき)思想である。

☆小乗仏教=「この世(ビジョン、ルール、マナー)」
☆大乗仏教=「真理の世界(絶対世界)|この世(相対世界)」
☆大乗経典(法華経、浄土教典等)=「真理の世界」→仏→「この世(俗世間)」
☆龍樹=「空(絶対/無言語)|仮(相対/善悪、正邪、美醜、貧富、苦楽)」
☆唯識思想=「この世=心(仏性)」→仏性→「真理の世界」


では、密教とはなにかというと先に結論めいたものを書いてしまうとこうなる。
これから以下のことを説明していくことになるわけだ。

☆密教→「私(身口意/相対)」=「仏(絶対真理)」

荒っぽい言い方をすると、仏教は3つのパターンしかないとも言えよう。
1.仏さまに救ってもらう(仏→私)。
2.仏に私が近づく(私→仏)
3.私が仏であることに気づく(私=仏)
で、密教は3に当てはまるのだが、まず密教は仏教かという問題があるらしい。
というのも、密教はヒンドゥー教と言ってもいいくらい釈迦から離れている。
ヒンドゥーの哲学では梵我一如(ぼんがいちにょ←忘れてください)を理想とするが、
密教修行者が求めているのもおなじ(梵我一如)状態だからである。
密教サイドは、密教以外を顕教(けんぎょう)としている。
つまり、密教は仏教にふくまれるのではなく(同類にされたら、かなわん!)、
優れた密教と劣った顕教に分かれると主張しているのだ。
まあ、大乗仏教が釈迦仏教を小乗仏教とバカにしたのとおなじわけよ。
ここだけの話、仏教ってさ、優劣にこだわるお子さまめいたところがあるわな。
密教サイドの言い分としては――。

×「仏教(釈迦、小乗仏教、大乗仏教、密教)」
○「密教|顕教(釈迦、小乗仏教、大乗仏教)」


わたしから言わせたら、密教も仏教の一派としていいような気がする。
あんがいもっとも釈迦(釈尊)の悟りに近いのが密教かもしれない。
もうすぐ仏教の消滅の話をすることになるのだが、最初に話を戻そう。
釈迦はいったいなにを悟ったのか。
釈迦は阿弥陀仏に救われたわけでも、法華経を読んで人間革命したわけでもない(笑)。
みなさまはそれほど注意を向けないが、釈迦というのは金持のボンボンだったのである。
いまの創価学会の池田大作さんよりも贅沢ざんまいの生活を
子どものころから送っていたわけだよ。なにひとつ不自由のない状態。
唯一の不幸は母親に先立たれたくらいか。
ああ、そうか、マーヤ夫人は釈迦を産んですぐに死んでいるけれど、
これは釈迦を産まなかったら死ななかったとも言えるわけか。
とすると、釈迦には母親を殺したような原罪意識があったのかもしれないが、
それはここでは忘れておく。
実際、マーヤの妹が母親代わりを務めたっていうし、
そこまで母性に飢えていたとも思えない。
ともあれ、釈迦というのは我われ庶民が見たら、
嫉妬で胸を焼き焦がしてもいいくらい恵まれた環境にいたことを忘れないでくれってこと。
小さいころから大勢のものにかしずかれ、優秀な家庭教師から英才教育を受けた。
ほしいものはなんでも手に入ったし、口にするものは美食ばかりだったと思われる。
きれいな奥さんをもらっているし、丈夫な子どもをさずかっている。
おそらく美少女から床上手の熟女まで複数の愛人がいたことだろう。
おまえら底辺(ブログ読者さまを勝手に決めつけるな!)が知ったら、
生きていくのがいやになるくらい釈迦は恵まれていたのである。
いまで言えば、有名人や権力者の子どものようなものである。
ひねくれた根性の持ち主になるのは貧乏人の子どもと決まっており(失礼!)、
釈迦はとてもあたまのいい性格もすばらしいやつだったと思うんだ。
では、なぜ釈迦は妻子を捨てて出家したのか?

1.死への不安(公式見解)。
2.あ~あ、快楽や幸福にも飽きちゃったよ、あはっ。
1を支持するものは多く、意味は知らなくていいけれど(まあご存じか)
四門出遊(しもんしゅつゆう)のエピソードなんかもそれを裏付けている。
でもさ、絶対にあったと思うんだなあ。
快楽にも幸福にも飽き飽きしたぜっていう、どこか世の中を舐めくさった態度が。
有名人の子どもだからチヤホヤされているけれど、
おれっていったいなに? みたいな(笑)。
それでさあ、乞食みたいな格好をして娑婆(しゃば)世界に出てみたら、
きっとおもしろかったって思うんだ。
いままでお城のなかにいたから世間知らずだったわけでしょう?
え? こんなに貧乏な人がいるの? とか、まじビビったって思う。
うわあ、クッソ性格の悪いやつがいるんだなあ。ちょーおもしれえぜ。
どうしてこいつらは、こんなにも根性がゆがんでいるんだろうと大笑いした日もあった。
釈迦はいままで高級グルメしか口にしたことがなかったけれど、
貧しい庶民ががつがつ食っているものを恐るおそる真似して食べてみたら、
貴族出身、王族出身のお釈迦さまは驚いた。
こんなもん食ったことねえが、これはこれでうめえじゃないか、こんちくしょっ!
高級料亭しか行ったことのないものが立ち飲み屋に行ったようなもんだ。
世間知らずの釈迦青年はいろんな人やいろんなものに、きっと感激もしたはずである。
夕陽を見ながら出家してよかったと涙ぐんだ日もかならずやあったはずである。
それにしても、だ。それにしても、どうして人間はこんなにも不公平なんだろう?
どうしてこんなにあたまの悪い人がいるのか?
なにゆえこうまで病弱な人や貧乏な人がいるのか?
いままでスーパー幸福だった釈迦だからこそ深奥からこの問いにとりつかれたはずだ。
なんで自分はこうまで恵まれてきたのに、
反対にこうまで恵まれないかわいそうな人がいったいどうしてこんなに大勢いるのか。
おそらく釈迦は自分を罰したいような気分になったのだろう。
だから、インチキくさい修行者の真似をして苦行とやらを徹底的にやってみた。

原点にもう一度返ろう。なぜ釈迦王子は出家したのだったか。
1.死への不安。
2.あ~あ、快楽や幸福にも飽きちゃったよ、あはっ。
で、世にもまれながら釈迦は35歳にしてガヤーの樹の下でなにを悟ったのか。
1.無限にも近い過去世の業(宿業)の結果としていまの自分があること。
2.苦悩は快楽である。悪しき状態は善き状態である。不幸は幸福である。
釈迦がいちばん最初に悟ったのは、宿業だというのは本当だから。
証拠として以下にふたつ挙げておく。
「仏伝」(中村元訳/「原始仏典」筑摩書房)
「仏伝」(桜部建・雲井昭善編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

釈迦は自分の悟った真理を人に教えるのは無理だと思った。
しかし、これは伝説なのだが、
インドの神であるインドラがわざわざやって来て教えを広めてくれと釈迦に依願した。
どうしてインドの神が来るかといったら、当時は仏教なんてなかったのだから(笑)。
インドラ神「どうかお釈迦さまが悟った真理をおひろめください」
釈迦「いやあ、無理っすよ、無理無理。いくら神さまだからって、無茶言わんでください」
インドラ神「そこをなんとか」
釈迦「ぶっちゃけ無理だし、めんどくさいっす」
インドラ神「弟子に囲まれると気分がいいですよ」
釈迦「おれ、孤独、嫌いじゃないし」
インドラ神「下手(したて)に出たら調子に乗りやがって。いますぐ雷を落として殺すぞ!」
釈迦「もう悟っちゃったからいいよ。どうぞお気に召すまま。お任せしまっす♪」
インドラ神「ちぇっ(煮ても焼いても食えねえやつだな)」

釈迦の悟った真理のひとつは、
無限の過去世の業の結果としていまの自分があること。
だとしたら、いまこの場で落雷により死んだとしても、
またかならず生まれ変わってくるわけでしょ? 
だから、いくらインドラ神が(創価学会青年幹部お得意の)恫喝をしても動じなかった。
しかし、実際に釈迦が悟った真理を教えられないというのは事実でしょう?
宿命や宿業があるというのは教えるというよりも自分で納得するものだから。
貧乏人や病人が「それは宿命よ!」なんて言われても、ふざけんなって話で。
これは金持のボンボンである釈迦が多少、世の辛酸を舐めて悟った真理だ。
金持があまたの貧乏人を見て「どうして?」と自問し続けた結論である。
そのうえ釈迦は苦行(乞食修業)をしたって言うけれど、ほかの連中とは違う。
なにより彼には帰る家があったのである。
釈迦は悟りによって「死への不安」を克服した。
もうひとつこのとき釈迦の悟った絶対的真理が密教の教えだと思うのである。

当方はあらゆる仏道修業をひとつもしたことがないし、
これからもする気はないからわからんが、
密教は絶対体験を重んじるような気がする。
釈迦は王子であったときに快楽の極限を味わった。
そして、粘り強く苦行をした結果、なーんだ、苦も楽もおなじではないかと悟った。
とはいえ、苦しみも楽しみも同一という絶対境地は体験してみないとわからない。
なぜなら、言葉は相対しか説明できないのだから(龍樹!)。
苦とは楽がない状態で、楽とは苦がない状態なのだと言うほかない。
しかし、釈迦は快楽も苦悩もたっぷり体験して「苦=楽」という絶対的真理を得た。
俗っぽい話をすると、マゾがさ、「ああーん、逝(い)っちゃう」みたいなものよ。
釈迦が悟った絶対的真理は、正反対は極限で通じているという実感なのだろう。
この絶対的真理は言葉(=相対)では伝えられず本人が体験するしかない。
というのも、貧乏人はさあ、快楽の極限なんて味わえないわけでしょう。
釈迦はたまたま王族として生まれたから苦楽の極限を、
どちらとも体験できたわけだから。
ふだんサンマの刺身をたまに食って「うまい、うまい」と言っているものが
1週間カップラーメンだけで過ごして、
その後に銀座に行って最高級のマグロの中トロを口にしたら大感激でしょう。
サンマの刺身もマグロの中トロもまったく同一にうまい(=空=諸法実相)とは、
とてもじゃないけれど思えないってわけ。

絶対的真理はおのおのが絶対体験をして、
それぞれ冷暖自知(れいだんじち)するしかない。
難しい言葉を使っちゃってごめんなさい。
いちおう絶対的真理を、相対の言葉で説明することもできなくはないわけだ。
やってみましょうか。善は善ではなく、悪は悪ではなく、大善は大悪である。
相対(善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽)は絶対(空)である。
諸法(善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽)は実相(絶対的真理)である。
私(善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽)は仏(絶対的真理)である。
私(煩悩/欲望)は仏(菩薩)である。
生きている私(地獄、修羅、餓鬼)は仏(最高)である。
人間(相対的存在)は死なない(仏=絶対的存在)。
仏(絶対的真理)をまえにしたら善も悪もない(=善悪は相対的真理に過ぎぬ)。
大地震や大津波(自然=絶対)が起きたら善人も悪人も分けへだてなく死ぬ。
死(絶対的真理)をまえにしたら、
あらゆること(善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽)がどうでもよくなる。
あれこれ迷う(善悪、正邪)ことのなかに悟り(死)がある。
生き方に善悪や正誤はなく、人間はどう生きてもいい。
絶対的真理(死)はわからない(=言葉では説明できない)。
いくら言葉を簡潔にしても反対に華美にしても、
絶対的真理は絶対体験とセットになっているから言葉では伝わらない。

絶対体験というのは、言葉にならない体験のことである。
ウギャアアアアアとしか叫ぶしかない体験のこと。
たとえばさ、ちょっと目を離した隙に幼児がベランダから落ちて死んだ母親とか。
目のまえの横断歩道で子どもがダンプカーに轢き殺された父親もそうだな。
家族に目のまえで自殺されるとか、そういうのも絶対体験だろう。
なぜか子どもが3人連続して障害を持って生まれてくるのも絶対体験だろう。
絶対に死ぬと思って電車に飛び込んだら下半身切断で生き残るのも絶対体験。
反対に電車に飛び込んだのに無傷だったというのも絶対体験になろう。
そんな大げさなものばかりではなく、落葉を見て絶対体験をするものもいよう。
発狂するというのは、言語化できないから狂うわけで、
そういう意味ではありふれた精神病患者も絶対体験をしているのかもしれない。
絶対(空=死)をまざまざと見てしまうと人は狂うしかないのかもしれない。

しつこいが絶対体験とは、ウギャアアアアアとしか叫ぶしかない体験のこと。
お坊さんのなかには、この絶対体験をしたくて修行する人もいよう。
まあ、意地悪を言えば、大半はそんなものはどうでもよくなり堕落するのだが。
そして、堕落するのが悪いわけではなく、
わざわざ自分から絶対体験なんか求めなくてもいいと言えなくもない。
まあ、小金を貯めてバンジージャンプでもしたら、
軽い悟りくらいなら得られるかもしれないわけだしね。
しかし、絶対体験を味わったほうがいいとか上質とか、とても言えない。
まあまあテレビでも見ながら、あいつは悪人だ、あの人は善人よ、
なんて家族と喧嘩しながら、
「おれ(あたし)は絶対に間違っていない」と口癖のように言いつつ、
そのくせ社会人としては波風を立てない平凡な人生を送り、
ある日病気になって「自分の人生はこれでよかった」「我が人生に悔いなし」
なんてかな~り強引に無理やり力尽くでごまかしながら
平均寿命をまっとうするのがいちばんかもしれない。
なぜならだれしもが最後は絶対体験(臨終、死去、往生)をするのだから。

☆大乗仏教(顕教)→「真理の世界(仏の世界)|この世(俗世間)」
☆密教→「私(善悪、正邪、苦楽/相対)=仏(空/絶対)」
☆密教修行=ウギャアアアアアと叫ぶしかない体験


日本の真言密教は変なサンスクリット語の秘密めいた呪文を好むけれど、
あれの意味は「ウギャアアアアア」と言ってもいいのではないか。
「ウギャアアアアア」は言葉にならないから「ウギャアアアアア」なのであって、
各自それぞれ体験してもらうほかなく、それでも本人の器量しだいというところもあり、
偶然にも思える「とき」の到来も強く関係していそうだから、
むしろ絶対体験なんか経て、
変に社会的に逸脱した人間になるのがいいかはわからない。
「正しい」ことがわからなくなった状態が「ウギャアアアアア」だからさ。
なにが「正しい」のかなにが「善」でなにが「悪」なのかわからなくなるのが絶対体験。
そして、絶対的真理はたぶん「わからない」ということ。
なにもかもが心底「わからない」人が絶対智者であるというこのパラドックス(矛盾)。
正義も善悪も死後のこともまるで「わからないこと」をどこまでわかっているか。
ソクラテスの「無知の知」は矛盾しているけれど、あれが絶対的真理とも言えよう。
ちなみに、ひろさちや先生も絶対体験をお持ちである。
ひろさんは2000年に1億数千万円(7千万?)の空き巣被害に遭っている。
なんでも空き巣被害額の最高記録だとか。
いち夜にして1億数千万円を失うなんて、これを絶対体験と言わずしてなんと言うか。
みなさんはひろ先生のことなんてバカにしていてご本をお読みにならないでしょうが、
2000年以後の氏の本は「現代の一休さん」と称賛したいくらい、
ご主張が過激になっていてとてもおもしろい。
本書出版時(87年)にはたぶんまだよく密教をわかっていなかった気がするけれど、
いまのひろさちや先生はどこぞの真言宗坊主などよりよほど
「ウギャアアアアア(=密教)」を理解しているに違いないとわたしは思う。
絶対体験(盗難被害)は偶然に見えるが必然なのである。

☆密教(仏教)=「偶然(相対世界の現象)は必然(絶対不可避)と知ること」

ひろ氏の言葉も拾っておこう。
真言宗(密教)では最初に信者は「投華得仏(とうけとくぶつ)」の儀式をするという。
曼荼羅(まんだら)という仏さまがいっぱい描かれた大きな絵がある。
そこに目隠しをして(覆面や背を向ける場合もある)花を投げるそうだ。
そのときたまたま花が落ちた尊像が、その人にとっての「ほとけ」になる。
密教では「仏、菩薩、明王、諸天諸神」がみな「ほとけ」とみなされる。
偶然にたまたま花が落ちた「ほとけ」を彼(女)は一生のあいだおがむ。

「これが「投華得仏」である。
このやり方は、つまりは、わたしがほとけを選ぶのではなしに、
ほとけのほうからわたしを選んでいただくやり方である。
わたしは目隠しされているから、わたしにとってはそのほとけとの出会いは偶然である。
わたしが選んだわけではない。
とすれば、ほとけがわたしを選ばれたことになる。
わたしには偶然だが、ほとけのほうでは必然としてわたしを選んでくださったのである。
それが密教の考え方である。
つまり、そこには、ほとけのほうからの「加」がある。
ほとけの側からの働きかけがある。わたしは、
それを「持(たも)」てばよいのである。それが「加持(かじ)」だ。
偶然の出会いを必然化して行く――。それが、信仰である」(P373)


☆絶対体験→「偶然=必然、善=悪、男=女、聖=俗、損=得、生=死、空(くう)」

意外と知られていないのか、知られているのか、仏教はインドでは消滅している。
ことさら理由などなく偶然(必然)だったのだろうが、
歴史教科書的にはイスラム教徒が攻め込んできたから、ということになっている。
ほらさあ、イスラム教は自分たちが絶対正義の怖い人たちなわけでしょ?
仏教はセックス依存症だった龍樹が空(くう)とか言い出しちゃったから、
そりゃあイスラム教には勝てないわなあ。
空(くう)には正義も善悪も損得もないわけだから、弱いっちゃあ弱いよ。
さらにこれは仏教が残った日本と比較してなんだけれど、
結局インドでは学問仏教どまりで民衆化しなかったからという説も読んだことがある。
わたしがバカだからバカにもわかってほしいとこの記事を書いたけれども、
それでもやはり仏教は難しいでしょう。
ヒンドゥー教は現世利益の宗教で、願えばかなう系だから庶民にもわかりやすい。
いちおうヒンドゥー教も難しいことを言えば、
輪廻(りんね)からの解脱を目指しているらしいけれど、インドへ行ってごらんなさい。
教義には解脱とか母なるガンガー(ガンジス河)とかいろいろ聖性はあるけれど、
大半のインド人が解脱なんかより現世利益を求めているのは見ればわかるの世界。
ヒンドゥー教のサドゥー(修行者)は変なやつがいっぱいいて
日本の坊さんなんかより絶対おもしろいから、そこからも難解な仏教が、
傑作でおもしろいヒンドゥー教に負けた理由が推し量られよう。

日本仏教界も法然と日蓮が出なかったらたぶん終わっていたような気がする。
法然は難解な仏教を長年勉強した結果、
「南無阿弥陀仏」という一語で救われるとかめちゃくちゃを言い出したわけで。
その法然に嫉妬して、彼が貴族にも評価されていたのを恨んだのが日蓮。
日蓮大聖人さまは大嫌いな法然を模倣して、
「南無妙法蓮華経」で救われると説いた。
念仏(南無阿弥陀仏)とか題目(南無妙法蓮華経)はとにかくイージーじゃん。
バカでもチョンでもアホでもマヌケでも念仏や題目は唱えられるっしょ。
日本では現在のところ創価学会が大勝利したわけだが、あれも現世利益でね。
南無阿弥陀仏は、悪いことをしてもいいという教えが庶民に受けたわけで。
曹洞宗とかも信徒がけっこういるらしいけれど、
あれはお寺としては葬式タレント養成所だからさあ。
とりあえず死を直視したらげんなりするから、
そこは坊さんに隠しておいてもらおうっていう庶民の打算が働いただけで。
大学で仏教を研究している人もいるらしいけれど、
科学全盛の時代に無意味なことをよくやるなあと。
論文とか書いているのかもしれないけれど、だれがそんなの読むのって。
同僚くらいしか読まないものをしこしこ書いてなにが楽しいのかしらねえ。
総じて現在の仏教界は既得権益の世界と言えるのかもしれない。
新興宗教だった創価学会もいまは伝統仏教みたいになっていると聞くし。
まあ、お坊さんを消してしまった創価学会が最新最強の仏教と言うこともできなくはない。
日本史上、戦後の「神々のラッシュアワー」以前に、
僧侶(聖職者)と縁を切った仏教団体なんてほかにあったか。
わたしはお坊さんよりもいろいろ親切にしてくれる学会員さんのほうが好きだから、
仏教の正統性も伝統も関係ないねえ。
ところで、わたしは仏教徒なのだろうか?

☆仏教→「真理の世界=わからない|世間(善悪、損得、正邪、優劣、自他)=わける」

*最後までお読みくださり本当にありがとうございます。

「インド仏教思想史 上巻」(ひろさちや/大法輪閣) *再読

→本書は、ひろさちや仏教学(笑)の基礎としてある本である。
87年に出版された氏としては固めの部類に入る本だが、
9年ぶりに読み返してみたら充分に再読に堪える。
というか、いまさらだが、ひろさちや先生は本物の天才ではなかろうか?
たとえアカデミズム(学問世界)からまったく評価されていなくても、この人、すごいよ!
本書はのちのライトエッセイの根っこともなった仏教思想がわかりやすく説明されている。
9年まえに読んだときはあまりよくわからなかったから、
こちらも成長(劣化?)したのだろう。
以下に要点をまとめるが、仏教に興味がない人にはどうでもいいかもしれない。

ひろさちやさんはあまたがよすぎるというか釈迦の間違いに気づいている。
ほら、釈迦の説いたっていう四諦ってやつがあるじゃない。
滅諦とかいわれている、原因があって結果があるという真理っぽいやつ。
あれは嘘じゃないかって、釈迦の教えを批判しているが、まったくそうだ。
ひろさんはこういう説明をしている。
風が吹いて葉が落ちるという現象がある。
しかし、風が吹かなくても葉は落ちるときがあるだろうって。
木を揺らしても葉は落ちるし、原因をなくしても結果は変わらないじゃないかという。
これは晩年のひろ氏がやたら主張していることだが、むしろ原因なんかないと。
「原因はわからない」というのが真理で釈迦の四諦(滅諦)は間違っている。
釈迦が間違っていると考えられるのも、間違いに気づいたことを指摘するのも、
ひろさちや先生はすごすぎるぜ! クルクルパーか天才だって、この人!
考えてみたら「原因→結果」って嘘くさいんだよね。
でもそれには人間は耐えきれないから、
なーんかいいことないかなあ、と善人ぶるわけだが。
善人ぶっていたらそう悪いことは起きないだろう、とか信じている(笑)。
原因なんかわからないのに原因を除去したら悪い結果から逃れられると信じている。
うさんくさい健康食品とか飲んでも飲まなくても変わらないのにさ。

ひろさんがよく書いていることだけれど、キリストはキリスト教徒じゃないって本当だよね。
キリストはユダヤ教徒であったという。
おなじように釈迦は仏教徒ではなかったというのも本当である。
釈迦は当時主流のバラモン教の修行者のひとりで新しい発見をした人って感じかな。
釈迦に二代目がいないというのも、まったくそうだと思う。
キリスト教も仏教も新興宗教だったのだが、どちらも二代目がいないのである。
この点、二代目、三代目(ヤクザみたいだな)と続いた創価学会がいかにすごいかだ。
ひろ先生は創価学会はお気に召さないようだけれど。
みなさん釈迦の教えを重んじるけれど、
最初期のお経「阿含経」だって釈迦の死後100~200年経っているという。
そんな時間が経過すれば釈迦の教えなんか残っているわけないだろうし、
そういう意味からしたら、
学者が重んじる「阿含経」も大乗仏典もクソ味噌いっしょだろう、
というとても上品な指摘はそうとも言えなくはない。
仏教っていちおう成仏するための教えだけれども、
だれも釈迦になれないだろう? というのは真実である。
あなたはあなたなんだから、釈迦になれるはずがない。
死んだらみんな「ほとけ」になるというのもひとつの真実である。
釈迦仏教は煩悩(欲望)否定だから「自殺のすすめ」だろう、というのもまったく同感。

提婆達多(ダイバダッタ)って釈迦を殺そうとした悪いやつだって伝説があるけれど、
あれは嘘らしいね。ダイバダッタは釈迦の弟子のなかの一派だった。
みんなで会議しようってときに(第一結集)、
教えなんてそれぞれでいいだろうと参加しなかったら裏切り者あつかいされた。
ひろさちや先生の言葉にどれほど権威があるかわからないけれど引用してみる。
ひろさんはダイバダッタではなくデーヴァダッタと表記しているね。

「かくてデーヴァダッタには、「裏切り者」の汚名がきせられ、
「叛逆者の烙印(らくいん)が押されることになった。
彼は釈尊に叛逆し、教団の乗っ取りを策謀し、ついには釈尊を殺害せんとした。
そのため、デーヴァダッタは生きながら地獄に堕ちた――。
そんな伝説がデッチあげられたのである。
まったくの嘘っぱちである。
それが根も葉もないデマであることは、紀元後四世紀
――つまり、デーヴァダッタの時代から七、八百年の後世――
法顕三蔵がインドの舎衛城に行き、
そこでデーヴァダッタの教団(調達の衆)が存在していることを確認している
(『高僧法顕伝』――「大正新修大蔵経」第五十一巻、八六一ページ上)。
また、七世紀にインドを旅行した玄奘三蔵は、
その旅行記『大唐西域記』巻十の「羯羅拏蘇伐剌那(カルナスヴァルナ)国」において、
「別に三伽藍あり、乳酷を口にせず提婆達多(デーヴァダッタ)の遺訓を遵奉している」
(水谷真成訳による)と報告している。
デーヴァダッタの教団が、ずっと後世にまで存続していたのは確実である。
となると、「叛逆者」デーヴァダッタ像は、
明らかにデーヴァダッタの分派行動をこころよく思わなかった主流派が
つくりあげたデマだとわかる。
歴史はいつでも主流派の立場から記述されるから、
鵜呑(うの)みにするととんでもない誤解をしてしまう。注意せねばならない」(P176)


まるで創価学会のようなことを釈迦教団の弟子たちもやっていたんだなあ。
創価学会で叛逆者や裏切り者とされる人ってお人好しなだけだもんね。
悪質なデマを流すというのは、仏教の古くからのお家芸みたいなものなのか。

釈迦が死んで100年で原始仏教教団は分裂してしまう。
根本分裂といわれているやつだが、上座部と大衆部に分かれた。
上座部は古株集団で、大衆部は革新的な多数派だった。
結局のところ、むかしから「正しい」の根拠は「古い」か「多数派」なのがおもしろい。
古いから先輩だから「正しい」(上座部)。
いやいや、数の論理で多数派だから「正しい」(大衆部)。
ああ、そうだ、ひろさんって大学生時代はマルキシストだったらしいね。
いちおう仏教書なのにマルクスの言葉を引用している。

「哲学者たちは世界をいろいろに解釈してきたにすぎない。
たいせつなのはそれを変更することである」(P256)


これを小乗仏教と大乗仏教の対比の説明として用いている。
小乗仏教は世界を解釈しているだけではないか。
たいせつなのはそれを変更(改革)することではないか。
火災に遭ったときに、放火犯を推理しても意味がない(小乗仏教)。
火事のただなかでは、どうやって逃げ出すかを考えなければならない。
小乗仏教は「人間(一般)」がどう生きるべきかを説いた。
大乗仏教は「私」がどう生きるかを考える教えである。
このところはまったく共感する。
話を広げると、学問は統計を用いて人間一般のことを論じるでしょう。
でも、あなたはあなたであって、わたしはわたしであって、断じて人間一般ではない。
「私」の生き方は学問(統計)を参考にしてもあまり意味がない。
「私」がどう生きるかを考えるときに役立つのが宗教なのだと思う。
これは河合隼雄も言っているけれど、
「人間一般が生きる」のと「私が生きる」のとではぜんぜん意味が違うのである。
これを混合してやたら平均や人並みを気にした生き方をしている人が多いけれど。
人間一般のことより「私」を重んじるのが本当の宗教なのだ思う。

「私(宗教)」>「人間一般(統計学問)」

「人間一般」よりも「私」のほうが大事というのはある種の真理だけれども、
いくら言葉で説明してもわからない人にはわからないのかもしれない。
あるときふっと自分で気がつくことであって、人から教えられるものではない。
「人間一般」の「正しい」生き方ならあるのかもしれないが、
それは「私」の「正しい」生き方ではなく、「私」のことは「私」が考えるしかない。
しかし、それが面倒くさいし難業だから、
教祖さまのいう「正しい」生き方に従ってしまう人もいるのだろう。
洗脳を他人が言葉で解除するのなんておそらく無理で、
その人が自分で気づくのを待つしかないのだと思う。
それに洗脳されているのがかならずしも「悪い」とは言い切れないわけだから。
下巻でしつこく繰り返されることだが、真理は言葉では伝達できないのだろう。
これは禅の言葉で「不立文字(ふりゅうもんじ)」という「真理」だけれどさ。
仏教を大学で学問するのは「私」が入っていないから意味がないとも言える。
いくら「正しい」仏教を理解(解釈)しても、だからなんだって話で。
「私」が生きるための仏教のほうがよほど重要で、
いまはそういう生きるための仏教は新興宗教のなかにしかないのかもしれない。
ひろさちや先生は新興宗教否定派で、
群れるのではなく「私ひとり」の仏教が大事だという立場を取っているが、
みんながみんな先生のようにあたまがいいわけではないから、これはもう――。