「ひらがなで読むお経」(大角修編著/角川ソフィア文庫)

→お経というのは因果なもので本当はあたまの柔らかい若いうちに
読んでおいたほうがいいのだが、
宗教教育は禁止されているし(そもそも教わるものではなく学ぶもの)
若いころは楽しいことがたくさんあって切実な問題なんかないから、
あれよあれよと死を意識する老年になってお経を読もうと思っても、
そのころにはもうあたまがついていかないわけだ。
で、とりあえず坊さんに高い金を払ってチャンチャンみたいなさ。
「あっちの世界」のことを言葉にしたのが仏典で音にしたのがお経と思ってよい。
「あっちの世界」とは誕生以前の世界というか、死後の世界というか。
「こっちの世界」も裏側はわかっていないでしょう。
タブーとか穢(けが)れと言われているものってあるじゃないですか?
めくらやつんぼが感知している世界でさえ我われはわからない。
きちがいやうすのろ(知的障害者)が世界をどのように見ているのかもわからない。
そもそもカタワという存在がわからない。
どうして障害児が生まれれくるのかも人が発狂するメカニズムもわからない。
どうしてそれまで元気だった人がいきなり死んじゃうのかもわからない。
そういう「わからない」ことを指し示す言葉がないと人間は根源的不安に襲われる。
「見える世界」と「見えない世界」があるとして後者を描いたのが仏典でありお経だ。
「見える世界」だって、我われは言葉で区別しているけれど、
本当はみんな一緒かもしれないわけじゃん。
コーラと緑茶は飲み物という意味では一緒。人間だって血液や唾液があるから一緒。
人間というくくりで見たら自他の相違はない。
生き物レベルで見たら人間も動物も植物もおなじに見えてもおかしくない。
統合を失調したら「見える世界」は区分を解き放たれるわけでしょう(わーい精神病)。

今年、京都へ行く機会があり、
知恩院で浄土宗の坊さんのお経を聞く機会があったが、まあうまいんだ。
聞き惚れてしまったくらいにうまい。あいつプロだよ(まあプロなのだが)。
声の抑揚やリズム感がとてもよかった。
言葉は意味であり音だが、言葉をつなげるとそれはリズムになる。
わたしは習っていないから(独学だから)浄土宗系のお経は、
絶対に彼ほどうまく発声できない。負けたと思ったもの。
けれど、そんな彼のカラオケを聞いている人が(法要依頼者以外は)わたしだけなのね。
みんなこんないいリズムに乗らないんだなあと。
わたしは仏教のリズムが好きなのである。
「日本霊異記」「説経節」「「近松門左衛門」「浄瑠璃」に共通する仏教リズム。
あのリズムが日本下層文芸の根っことしてあるように思われ、
とても親しいものを感じている。
古典は若いうちにしか読めないけれど、読む切実な理由がないのねえ。
どうしても大学教授になりたいとか熱く思っていたら話は別だけれど。
身近なものの理不尽な死とかあるといいんだけれど、
それは人生のマイナスだからかならずしもあったほうがいいわけではない。
まあ現世で読めなくてもいいんだけど、
「宇治拾遺物語」と鴨長明の「発心集」がわたしのねらっているそれっぽくて。
今年おりにふれて一遍の全集を読み返しているのだが、
それを整理したいし、となるともう一回法然に戻ってみたいという気も。
しかし時間と金と世間さまの働けよというメッセージがねえ。
それに働いたほうが金になるし健康にもいいし、いろいろお得なわけだから。

なんでさ、仏教ファンっていないのかねえ。
すぐ優劣や賢愚、要するに上下の話になってしまう。
おれのほうがわかっているとか、おまえは間違っているとか。
アイドルの話をするみたいにさあ、
日蓮のおバカな噂話をして盛り上がるというようにはならない。
尊敬するだとか、正しい解釈はこうだとか、そういう話になっちゃう。
お坊さんもさあ、もう葬式タレントだってばれているんだから、
重々しい顔をして説教なんかしなくていいのになあ。
とはいえ仏法僧を敬えば事業で成功します、
とか自己啓発セミナーのようになるよりはまだいまのほうがいいのだろう。
いやいや、空海なんて皇室相手に露骨にそれをやっていたわけだから、そっちが本流か。
万事、大丈夫って強く信じられたら、けっこうなんでも切り抜けられる気がする。
死んでも大丈夫と信じられたら最強で、この確信を求めてむかしの貴族は僧侶に頼った。
みんなさ、確信をもって大丈夫って言ってほしいんだよ。
なにがあっても大丈夫。たとえ死んでも大丈夫。
ならば高僧と愚僧の違いは確信の差になるのだが、
どうしてかむかしから家柄のいいお坊さんでないと出世できないという。
仏典とかお経はその確信を得るためのものなのだと思う。
わたしの声ってどのくらい迫力があるのかな。けっこう信じてるよ。
大丈夫! だから大丈夫! 大丈夫だから大丈夫!

「お経の意味がよくわかるハンドブック」(松濤弘道/PHPハンドブック)

→大学時代はまったく授業にさえ行かずアルバイトばかりで、
いま思えば大学時代が我輩の最高月収をたたき出していた。
卒業直後に母の眼前投身自殺があり、
今度は働くのがいやになって独学で勉強を続けている。
だからなにかっていうと、いちおう独学だがお勉強めいたことはしてますよって。

なんか難しいカタカナがあったことは記憶しているがわざわざ書かないのがいまのおれ。
ご存じでしょうが、言葉は意味と音の要素があるじゃないですか?
ソシュールとか、いいからいいから、そこはそこは。
肝心なのは言葉って意味だけじゃなくて音もあるよねってこと。
たとえば、わたしが注目している作家のひとりに精神科医の春日武彦さんがいる。
氏は非常に鬱屈した内面をお持ちだと自著で告白している。
それは名字の音にあるとも言えるわけ。
春日はカスガで、この「カスが!」。
おまえはなにをやってんだ「カスが!」――バカあほカスの春日なわけでしょう。
そういう音レベルで春日先生はああいう類まれなるおもしろい人になったとも言えるわけ。
名前に色がついちゃうのもあれでしょう?
黒田とかどこか腹黒い感じがするし、赤木さんは熱っぽそうだし、
青野さんは平和そうだし、白石さんはバカで無垢そうだし。
それを言うなら前原さんは前進って感じだし、後藤さんは重鎮って感じがするし。
細谷さんはどこか成功とは縁がなさそうだよね。
わたしは土屋だが、中学生のころ、教師からもドヤと言われてなんだか不愉快だった。
ドヤはドヤ街をイメージさせる。
名前もそうで拓也とか、いかにもパイオニアっぽいじゃん。
正仁とかいかにもめんどうくさそうだし、武彦は名前負けする怖さがある。
隼雄なんてすいすい世を渡っていきそうだし、
大作や聡、太一もそれぞれの語意と語感があろう。
女性でいえばなぜかめぐみと縁がある。恵美子とか、そのままめぐみ。純子もいい。
わたしは顕史(けんじ)だが、これは「史を顕わす」だから、
ずいぶんめんどうくさい名前を、はああ。

いまお経の話をしていたんだよ。
原始仏教は五蘊とか四苦八苦とか十二縁起とか、
それはもうこと細かく言葉(意味)による分類をしてきたわけだ。
初期仏教の用語はいまでも覚えていない。よく意味がわからへん。
それを空(くう)のひと言でまとめた天才かバカかがいたわけだ。
龍樹(ナーガールジュナ)と言われることも多いけれど、実在したかはわからない。
結局、人間は「食う」わけじゃない「空」、空(そら)のように心は変わるが実体はない。
おなじでお経は意味でも読めるけれど、音でも聞けるわけ。
南無阿弥陀仏も広義のお経のひとつだけど、意味はよくわからない。
阿弥陀は音写で原語は「アミータ(測り知れない)」。
で、測り知れない光輝(世界)とも寿命(時間)とも解釈できるわけ。
つまり、アミータは意味でいえば無量光、無量寿。
仏なんか語意も語感も人それぞれなわけでしょう?
ほうとう(乞食)、ほっとけ、ぶつぶつ言う、物質、ぶつぶつぶちたい。
仏教なんか本を読んだり人生経験を経たらそのぶんだけ意味が変わるから、
正確な意味は測定しようもない。重さは量(はか)れない。
たとえば流行語なんか言葉としては強いけれど、重さを量ったら軽いでしょう?
すぐ消えていくのが流行語。
いっぽうで言葉として意味はよくわからないが、
強くて重いのがお経で、そのひとつをあげれば南無阿弥陀仏。
世界は言葉でできているから(世界は言葉で分節化されるので)、
自分の言語世界に南無阿弥陀仏がひとつ入ってくるだけで世界の見方が変わろう。
それは南無妙法蓮華経でも南無観世音菩薩でも、
インシャアッラーでもアーメンでもエルカンターレでもいいのよ。
それは好き好きだろう。
わたしは「あーあ」とどこかで思っているからか(おいおい、元気出せ!)、
ア音がトーンの南無阿弥陀仏(ナアムアミダアア~)を好んでいるが、
「行くぞう」「行くぞう」吉幾三ううう南無妙法蓮華経(ナムウホウレンゲキョウ~)を
叫びたくなる朝もないわけではない。

キモいもキモかわいいも意味はわからなくはないが言葉が軽いし音(トーン)もよくない。
かといって、あんまりにもヘビーな言葉はきんもいのだろうが、若い人には。
あと自分語と他人語ってありませんか?
うんざりする、げんなりする、鬱陶しいは自分語でしょう?
大丈夫は自分語であると同時に他人語でもある。
大丈夫はひとりごとでも使えるし、他人に向かって言える。
まあ、大丈夫が南無阿弥陀仏で、がんばれが南無妙法蓮華経とも言えよう。
いや、南無妙法蓮華経は大丈夫の意味もあるし、
南無阿弥陀仏が他人への励ましになるときもある。
たぶんお経というのはロングセラーになった流行歌のことなのだろう。
わたしは藤圭子が自殺するまでかの名曲を知らなかったが、
「圭子の夢は夜ひらく」はお経だと思う。
暗い重い世界は南無阿弥陀仏のような言葉にしかならないが、
それをじつにうまく歌にしている。
言葉にならない世界の音を拾ってきたのがお経とも言えるだろう。
悲哀を人は言葉にするが、音を喜怒哀楽として表現したのがお経かもしれない。
そこには悲しみだけではなく歓びもまたあるのが大乗仏典だ。

「お経のひみつ」(島田裕巳/光文社新書)

→京都へ行く新幹線「こだま」車内で読了。
なーんて書くと、創価学会の人気ライター某氏みたいじゃないですか?
だれにも相手にされていないふうを装っているけれど、だれだろう?
わたしの才能を最初に見抜いてくれたのは、
むかしからの読者さまでいらっしゃる某氏かそれとも別の古株読者さまか。
なんでこんな話をするかっていうと、
たとえば山田太一信者なら信者で自分のほうが古株だとか、
バカみたいなことで威張ったりするじゃないですか?
だれにも認められていない孤高を気取りたいけれど、
そこまで悲惨ではないが大谷光淳とかと自分を比べちゃうとうんざりげんなりする。
「大谷光淳むかつく」とかブログに書いたら、
解釈次第で殺人予告とみなされ逮捕されちゃうの(笑)?
おれのほうが絶対に親鸞のやばさを理解しているのに、
年下の大谷光淳先生は子孫ってだけでええ思いをしてはるなあ。
親鸞の他力思想によるならば、
わたしが大谷光淳をねたみから殺してもぜんぜんOKなわけでしょう?
罪悪どころかむしろそれは前世からのご縁でまったき他力の完全成就。
大谷光淳を殺したら日本史に名前が残るのかしら。
こういうことを書いたら警察が来るのかという人生実験。報道してみろ。

島田裕巳さんは創価学会批判をしながら、SGI恩恵を受けているひとり。
いまぱっと思いついたから書くだけだけど、
梅原猛も柳美里もいまは創価学会に落とされているから、それが世間というものよ。
おれだってこれだけ創価学会シンパを表明しているんだから、
ちょっとはいい思いをさせてくれよ。
おおむかし学会員のキャバ嬢(当時の彼氏はゴミ収集員)
に池袋でつけ麺を奢ってもらったけれど、もうとっくのとうに賄賂期限は切れている。
島田裕巳は「釈迦不在説」信者みたい。釈迦は歴史上存在しなかったという。
ここらへんに創価学会からも一目置かれる勉強家の島田先生の限界がある気がする。
何度も繰り返し書いてきたことだが、あえて大声で言いたいのは、
釈迦が実在しなくてもいいではないか?
釈迦が実在したとして釈迦とやらが「正しい」証拠はどこにある?
しょせん多数決(支持者が多い!)と伝統(古株ほど偉い!)でしょう?
お釈迦さまなんて、そんなもの。仏教なんて、そんなもの。
折伏する元気がある若いもんはかかってこいや。
希望としたら若いおねえちゃんがええなあ。

土屋顕史(080-5188-7357)

本書で島田先生は善導も怪しいと言っておられる。
善導ちゅうのは南無阿弥陀仏の根拠理論となった中国人の自称思想家。
念仏はとにかく理論の「正しい」ゆえんを善導とやらの中国人によっているのだ。
わたしの大好きな踊り念仏の一遍上人も善導の権威に平伏している。
著者の主張は、善導って本当は中国でぜんぜん偉くなかったんじゃね?
人の偉さは多数決と古株性で決まる。
善導なんて古臭い外国人だから、法然、親鸞、一遍は慕ったんじゃねえの?
いまで言えば、たとえばユング。
ユングなんて中国、東南アジアではだれそれ? の世界でしょう?
西欧、米国でさえそもそもアカデミックな存在ではなく、観音さまみたいなもの。
しかし、ユングや善導のような存在は必要なのである。
たとえば、いまは日本の有名文化人となった河合隼雄だが、
河合先生だってユングという西欧権威がなかったら、
なにも言えなかったし、だれも話なんか耳にしなかった。
法然とか一遍の、善導による南無阿弥陀仏は、河合隼雄とユングの関係とおなじかと。
「正しい」ことってそんなものだよねえ、
という認識を島田裕巳氏がどこまでお持ちなのかはわからない。
自著で自著を宣伝していらしたが、あまり先生のご著作を読んでおりませんので。
絶対的真理はない――。
ひろさちや先生も河合隼雄先生も基底にあるのはたぶんこの信念であった。



観無量寿経の作者はインド人ではないという中国人説をお書きになっていたが、
大乗仏典なんてそもそもぜんぶ、
存在したかわからないと先生がご主張の釈迦と関係ないではありませんか?
そんな「本当のこと」を言ったら、日本でどのレベルの失業者が発生するか?
島田さんも仏教に食わせてもらっているんだから、そこはなあなあでいこうぜ♪
若い女とつきあってみたいなあ、と希望を書いてみるね、お釈迦さま♪
「宗教に関心がなければいけないのか」(小谷野敦/ちくま新書)

→名著を読んでいろいろ考えさせられた。
本書を読んでからこの記事を書くまでだいぶ時間がかかっている。
それだけ考えているということだ。
小谷野敦のアカデミックな文学観を嘲弄した旧生活者(現大富豪の)宮本輝による
「24時間死ぬまで働け!」というメッセージは正しい(たとえば「三千光年の星たち」)。
三流私大、追手門学院大学出身の宮本輝芥川賞選考委員は、
娑婆(しゃば)におけるろくな労働体験がない東大出身エリートの
小谷野敦の筆なる超高偏差値的小説作品めいたものが許せなかった。
実社会および世間をまったく知らない東大の小谷野は後輩という身分をものともせず、
三流追手門卒のぶんざいで偉そうに文壇の大御所ぶっている大先輩の宮本に逆らった。
こうしたらもう芥川賞など取れるわけがない。
下品という意味で小谷野と宮本はとても似ている。
しかし、小谷野も宮本も病原のようなものはおなじで不安神経症なのである。
不安神経症(パニック障害)は死を異様に怖がることから発症するとされている。
死を真正面から見すえると人は孤独になる。
この孤独をどうあつかうかで人はわかれ、
大半は群れるという通俗手法に救われることになる。
名著を読んで考えに考え抜いて、結果としてひらめいたことだが、
あらゆる宗教は以下のような構図を持っているのではないか?

「死」→「孤独(→妄想)」→「群れる」

人間はひとりきりで真剣に死に向き合うと、
とんでもない孤独に覆いつぶされそうになる。
にもかかわらず、そこでなかには才能を有する宗教家がいて、類型的精神病とは異なる、
独創的な宗教妄想を創作するにいたる。
大半の庶民や大半の大衆は死や孤独につぶされてしまうのである。
かろうじて妄想をいだくにいたっても、類型的なものにならざるをえない。
しかし、天才の天才というか、
キチガイのキチガイのようなものは確率を度外視して現われる。
死や孤独を忘れるために、彼の妄想にしたがう人たちが群れて教団を結成する。
教祖は教団を結成する意思などまったくなかったにもかかわらず、
信徒たちが死や孤独にたまらなくなって群れはじめ、
世間的必要ため教団の上下関係をつくるのはこのためであろう。
オウム真理教をつくったのは麻原ではなく熱心な信者でしょう?
おそらく麻原は世における美女へなど、もはや興味を失っていたと思う。
にもかかわらず、高弟が俗的価値観から美女を教祖の周囲に配置していた。
欲望は消えることなどあるのか?
こういった文章で自己顕示欲を発揮している当方が、
出世欲、名誉欲、金銭欲、性欲、食欲、睡眠欲、生命欲が消えたと書いても、
うそくさいことはなはだしいかぎりでなんの説得力もないのかもしれないだろう。
しかし、なかにはそういうものもいるのではないか?

もはや念願だった芥川賞を完全にあきらめた小谷野博士の発言を拝聴しよう。
30歳にもならぬうちに小谷野はブッダ(覚者)になっているのだ。

「その頃、かつて[少年期]感銘を受けた仏教についても、
どうもおかしいと思い始めていた。執着が不幸のもとだ、というのは分かる。
だが、だから執着を絶て、と言ったら、あらゆる人が出家するか、
自殺するかしなければならなくなるだろう。
現に仏僧では、行乞(ぎょうこつ/物乞い)する者もあれば、
かつては即身成仏してミイラになった人もいる。
「在家仏教」などというものがあるが、これはおかしいのではないか。
それどころか、現実の仏教の世界では、ちゃんと組織があって、
僧都(そうづ)とか僧正(そうじょう)とか階級があり、
その階段を昇って出世するのである。
こんな教えに背いた話はないではないか」(P22)


ベルリンの壁ならぬ世間の壁など、
背伸びをするか、下をくぐってみれば裏側にはなにもない。
世間という看板(ハリボテ)の裏側は無意味、孤独、死のほかになにがあろうか。
仏教ではそれを「空(くう)」というが、それではあまりにも虚しすぎやしないか?
青年期は甘い空虚感にひたるのもいいが、
中年期になったらフィクションでもいいから色彩を求めたくなる。
紫綬褒章にマジ顔で大喜びするのは幸せだ。
わたしは紫綬褒章は千円でもいらないが、
自分に尽くしてくれる大山妙子さんはほしいなあ。
フジテレビのヤングシナリオ大賞は1円でもいらないが、
坂本葵さんのような女性がいてくれたらなあ。
わたしの価値観がこのようにグチャグチャになったのは小谷野博士の影響でもある。
葵さんというご伴侶がいらっしゃる小谷野敦さんはいう。

「政治家の贈収賄にしても、清廉潔白で悪い政治をする政治家より、
贈収賄をしてもいい政治をする政治家のほうがいいのである。
徳川時代の田沼意次なども、海外貿易を勧めようとしたことなどと評価されているし、
ロッキード事件についても田中角栄をめぐってあれこれ論争があった。
贈収賄がなければ公正かというと、そんなことはないのである。
大学の人事でカネが動いたという話は聞いたことがない。
大学の人事で優先されるのは、まれに業績だが、
一番大きいのは、先にいる人たちの言うことを聞くかということであって、
特にある研究室で後継者選びをする場合には、優秀かどうかより、
教授に従順でかわいがられているということが優先されるのは言うまでもない。
中には、こいつは優秀だから、
採用すると俺が抜かれる、という嫉妬心で排除されることもある」(P139)


いま冥途の土産にちょっとほしいなと思っているのは小谷野賞。
なんでも優秀な無名ブログに与えられる賞だとか(よく調べていない)。
わたしはいっさい小谷野さんと人間関係を持っていないが、
ほしいと願えばいただけるのかしら。
本書とその著者には土屋賞をせんえつながらさしあげたい。
なぜなら以下の構図を平易な文でじつにわかりやすく説明しているからである。

「死」→「孤独(→妄想)」→「群れる」

「よくわかるお経読本」(瓜生中/角川ソフィア文庫)

→有名どころのお経をコンパクトにまとめた文庫本。
お経の意味は教わるものではなく、何度も読んで自分で気づくものだから、
初学者は(ああ、我輩もそうか)どの本を手にとってもいいのだろう。

仏教にはいろいろな宗派があるのだが、
しかしすべてを要約する魔法のような言葉がある。
それはお経の冒頭に使われていることの多い如是我聞(にょぜがもん)である。
意味は「(仏から)是(かく)の如(ごと)く我は聞く」。
イエスもそうだけれども、釈迦(しゃか)は教えを書き残していないでしょう。
仏教の宗派はあまたあれど、どれも如是我聞(おれはこう聞いた)なのだ。
この如是我聞で大乗非仏説(大乗仏教は仏の説いた教えにあらず)から、
あらゆる宗派における教義の相違まですべて乗りこえることがことができる。
原始仏教、初期仏教、小乗仏教というのは、
学問的にかなり釈迦の教えが入っているとされている。
しかし、それとてしょせんは如是我聞に過ぎないと言えなくもない。
日常生活をかえりみたら、だれもが如是我聞のうさんくささに気づくのではないか。
たとえば上司が部下に指示を出す。
上司は部下が指示に従わないので怒るが、部下は自分はこう言われたと思った、
つまり自分はこのように上司の話を聞いた(如是我聞)と答えるだろう。
そうかと思えば、きちんと上司の指示を守って仕事をするものもいよう。
たとえば母親が子供に雨が降ったら洗濯物を取り込んどいて、と言う。
母親が夜遅く帰宅したら洗濯物が干しっぱなしである。
子どもを叱ったら、だって雨が降らなかったもんと子どもはぐずる。
雨が降らなくても日が沈んだら洗濯物は取り込むベきでしょうと母親はあきれて言う。

たとえば、作家の講演会に行ったとする。
小林秀雄賞作家の山田太一のような有名人なら聴衆もたくさん集まろう。
後日、聞き手ひとりひとりに講演会の内容を書いてもらったらバラバラではないか。
おなじ話でも深く聞ける人と表面上の上っ面のことしか聞けない人にわかれる。
山田太一にうまく取り入って家で手作りのチャーハンをごちそうになったものがいる。
そこでいろいろ業界話を聞いたとする(これが原始仏教)。
山田太一とは一度も逢っていないが氏のシナリオ本を繰り返し読んだ男がいる。
男も書物を通して山田太一の話を聞いているのである(如是我聞)。
いまは山田太一を例に出して書いたが、だれの如是我聞も「正しい」でしょう?
なぜならどの人も山田太一の話を自分なりに聞いているわけだから。
あんがい山田太一の言っていないことまで聞いてしまった人がいて、
あとから氏がそれを読んでみたら話のすばらしさに感心するようなことも
まったくないとは限らないのではないか。
いくばくかの優劣はあるかもしれないが(その基準をどこに置くかは難しい)、
「正しい」という面ではどの如是我聞も間違いなく「正しい」――。

最初に仏教とは如是我聞だと書いた。
そもそも話し言葉も書き言葉も正確には伝わらないから、どの如是我聞も「正しい」。
わたしは釈迦の時代に近い小乗仏典をつまらなく感じ、
一方で大乗仏典は(小乗と比べたらという程度の話だが)おもしろいと思う。
しかし、釈迦の教えっぽい小乗的な如是我聞を好む人がいてもいい。
いくら怒るなって言われたって(小乗仏教の決まり)、
むかついたら人間は怒るだろう(大乗仏教の現実)とは思うけれど、それでもさ。
以上ですべての仏教宗派の壁を取り除いてしまったことになる。
どの仏教宗派もそれぞれの如是我聞なのだからそれぞれ「正しい」――。
新約聖書も如是我聞と言えなくもないだろう。
よくわからんが、イスラーム(イスラム教)は
ムハンマドとやらがアッラーの声を如是我聞したわけでしょう?
歎異抄は、優秀な唯円が田舎坊主の親鸞が(おそらく)言ってもいない深い内容を
天才的な耳で如是我聞をしたのち熟成させ完成させた記録と言えよう。
いまでも日蓮大聖人の肉声を如是我聞する人は大勢いるだろうし、
それはおのおの如是我聞という意味において優劣や正邪はないと言える。
創価学会の池田大作名誉会長のお言葉も、
信者さんはみんなそれぞれに如是我聞していると思う。

なぜ如是我聞でいいのかと言うと、人間は如是我聞しかできないからである。
自分の目や自分の耳でもってしか人の話を読めないし聞けない。
これはどういうことかと言うと、人間は自分の言葉(=体験)の限界をこえられない。
少しずつ体験(言葉)は増えるだろうが、
加齢とともに純粋さが失われるようなこともないとは言い切れない。
そもそも仏はそれぞれの心のなかにいるという説がある(仏性)。
そうだとしたら、如是我聞とは自分の心の深い声を聞くことなのかもしれない。
さらにそうだとしたら、釈迦とは無縁の大乗仏典も、
たしかに作者がおのれの心中でブッダと見(まみ)え聞いた話と言えよう。
だから、あなたやわたしも如是我聞の結果、自分だけのお経をつくることもできるのだ。
いつも前向きに明るく周囲を励ます指導者の口真似をする人生も立派だが、
それより劣るのかもしれないが自分の如是我聞を生きるのもおもしろかろう。
しかし、病的妄想のようなものを如是我聞してしまうと周囲は迷惑をこうむる。
いやいや、あんがい新興宗教の教祖になっておいしい思いができるのかもしれない。

ここから先は少しだけ専門的な話になるので、
わからなかったらそれは書き手が悪いのでどうかお読み飛ばしくださいませ。
大乗仏典に阿弥陀仏の教えを説いた大無量寿経というものがあるんだ。
なんでもおおむかしに法蔵菩薩(修行者)という人が誓願(誓い)を立てて、
数えきれない無数の生まれ変わりのあいだ修業を継続し、
結果として阿弥陀仏になったんだ~よ、というお話。
だからなんだと言うと、いま阿弥陀仏はいるだろう(え? 人によっては解釈が?)。
いま阿弥陀仏がいるんだから法蔵菩薩の誓願はかなっているという、
まあよくわからんお話である。
その法蔵菩薩の誓願はなにかというと、わかりにくいが原文を出そう。
いいか。わかりにくいからな。阿弥陀仏になるまえの法蔵菩薩はこう誓った。
(以下[カッコ]内は当方によるおせっかいな意味補充)

「わたし[法蔵菩薩]が仏になるとき、すべての人々が心から信じて、
わたしの国[仏国土/浄土/極楽]に生れたいと願い、
わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、
わたしは決してさとりを開きません。
ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗(そし)るものだけは除かれます」
(「浄土三部経」本願寺出版社)


意味がわかりにくいでしょう? ロジックもなんだかいかがわしい。
むかし一回だけ藤沢にある時宗の寺で坊さんの話を聞いたときもわからなかった。
先日これがふいとわかったんだなあ。
要するにこれは、いまで言うところの成功者の言葉のようなものなんだ。
社会的成功者は若いときの苦労自慢のようなものをやたらアピールするじゃないか。
大無量寿経は、ゲスな言い方をすれば阿弥陀仏という成功者の苦労自慢だ。
おいおい、おらおら、おまえら、
成功者がむかしこう言ってるんだからこの教えは「正しい」んだよお、こらっ。
成功者はむかし貧乏なときにひとつしかないパンをさらなる貧者に恵んだ。
だから、彼は成功者になったし、彼の行為は「正しい」ことがわかるだろう。
成功者はむかし苦労人時代、
みんながおれさまの名前を読んだら(念仏)、
おれさまの国(浄土)へ呼んでやりたいと願った。
この願いがかなわなかったら、おれはさ、阿弥陀仏になんかならねえぞ。
大無量寿経というのは聖典というよりも、
俗っぽい元ワル(不良)の説いた尖(とん)がった成功哲学みたいなものなんだ。
おれさま阿弥陀仏さまの一代記みたいなさ、あはっ。
根本にある思想は、現在が過去を証明している。
もっとかみ砕けば、現在は過去の結果であるなのだが、
やはり「現在は過去を証明している」のほうがどちらかと言えば「正しい」だろう。

この教えのどこが救いなのかと言うと、ぶっちゃけこれ以上の救済はないのではないか。
釈迦が菩提樹のしたで悟ったとき、理解した内容もおなじである。
「現在は過去を証明している」――。
現在の状態はおのれの無限の過去世をあからさまに証明している。
現在、マイナスの状態にあるとしたら(貧困、病気、孤独、障害者、低学歴等々)、
それはあなたの努力が足らないというわけではなく、
無限ともいってよい過去世における結果としてそうなっているのだから、
それはもうどうしようもなく、しいてできることはマイナスをあきらめて、
アッハッハと笑い飛ばすことくらいである。
いまどんなにしんどくても苦しくても死後に浄土に往けるからいいじゃないか。
これはいくら人に教えても反発を買うだけで本人が心の底から納得しないと意味がない。
それにいまどき前世のみならず無限の過去世とかオカルトじゃんって話で。
そのうえ死んだら天国(極楽)に行くなんて、え? それ、科学的にどうよ?
しかし、過去世の存在の有無および死後の世界の有無は、
どちらも科学的計測の領域外で、科学的には「正しい」ことを著述できない。
これは法華経の最大メッセージになるが、
ある教えで救われる人がいるのなら、結果がよければ嘘をついてもよいではないか。
いや、結果がよければそれは嘘ではなく真実になる。
嘘ではない真実の教えを、本書から抜粋しよう。

「仏教では、人は遠い過去から輪廻転生を繰り返して現在に至っていると考える。
したがってここでいう悪業(あくごう)は、
人が生まれてから今までに犯した罪業だけではなく、前生での行いも含まれる。
因果応報といわれるように、前生の行いが原因になって今があり、
今生での行いを原因として未来に善悪の結果が生まれる」(P68)


まあ、現世はダメでも来世があるって思ったら(信じたら/騙されたら)、
いまは不遇でも、まあいっかという気分になるところが救いと言えば救いでは?
さてさて、話を変えると初期仏教では女性蔑視が激しかったが、あれは一理あるのだ。
というのも、苦の原因と言うのは明白に女性にあるからである。
仏教では生まれることは苦しみであると説く。
世の大半を占めるところの貧乏人の多産って不幸の大量再生産みたいなもんじゃん。
ここまで読んでくれている人は少ないだろうから自分の話を書くと、
去年大恩人の女性と5、6年ぶりに再会したのである。
どんなババアになっているかと思ったら、
むかしと変わらなく若くてきれいでチェッと思った(性格わるっ!)。
そのとき言われた言葉がいまでも脳裏を離れない。
「女って好きな男の子どもを産みたいって思うものなの」
これは真実の言葉で悪魔の言葉だと思ったものである。
生物学的に女性が子どもをほしがるという構造が、
あらゆる不幸を産出していると言えなくもない。

みなさんご興味がないでしょうが、観無量寿経っていう浄土経典があるんだ。
これがなかなか味のある話でさ。
むかしある国の王妃の不幸話。彼女は子どもがほしかったができない。
そこで占い師に相談したら、ある仙人が死んだのちに生まれるからそれまで待てと言う。
彼女は待ち切れずに王さまに相談して仙人を殺してしまう。
仙人は死ぬ間際、女を恨みのこもった目で見て呪いをかけたという。
おまえから生まれてくる子どもは長じて父王を殺すことになるだろう。
王妃はそれを聞いて生まれた男子を死にいたらしめようとするが、
赤子は運がよく小指を1本切り落としただけで死なずに済んだ。
青年になった四本指の王子は悪友から出生の秘密を聞いて激怒する。
王子は父王を餓死させようと牢屋にぶち込む。
王妃は夫のためにこっそり食物を持って面会に行っていたのだが、
それもばれて今度は四本指の王子は母親をも牢屋に閉じ込める。
どうしてこのようになってしまったのか。
すべては自分が悪いのだろうが、いくら過去を悔いてもどうしようもない。
いまもいまわが子は夫を殺そうとしている。
お釈迦さま、いったいこの苦しみをどうしたらいいのでしょうか?
ここに釈迦が飛んできて悩める女性に説いたのが観無量寿経である。
この女性に因果応報の話をしても聞く耳を持たないでしょう?
おまえがいま苦しいのは過去世の因縁のせいだと言われてもヒステリーを起こさせる。
釈迦は苦悩する女性に現実を見るなと教えた。
現実ならぬもの(仏や浄土)、不思議なものを観想すればそのとき救済される。
思弁的な話をすると、善とか悪とか幸福や不幸は相対的な言葉に過ぎないわけ。
絶対的な真実の不可思議光明(不思議な光)に照らされたら善悪も禍福も消え去る。
犯罪者的な考えと嫌われるかもしれないが、どうして子どもが親を殺してはいけないの?
どうして親子は愛し合わなくてはならないの?
どうして人が死ぬのは不幸なの? 子どもが生まれるとなぜおめでたいの?
本当のところはすべてわからないわけじゃない。
そういうスーパーフリーな境地にいるのは狂人か不思議ちゃんでしょう?
でも、その段階まで行けば例の悩める女性は救われるのである。
ちなみに本書では仏教用語の不思議をこう説明している。

「不思議――サンスクリット語でアチントヤといい、「不可思議」とも訳す。
言葉で言い表わしたり、心でおしはかったりすることができないこと。
ブッダの悟りの境地などを表わし、
『華厳経』や『維摩経』は『不可思議解脱経』と呼ばれ、
阿弥陀如来[阿弥陀仏とおなじ]は『不可思議光如来』とも呼ばれる」(P88)


当方は大学で仏教を学んでもいないし寺院での修業経験も皆無なのでわからないが、
たぶん仏教は善悪(プラスマイナス)の問題から入るのが一般的で、
善悪や生死の問題にとどまるのも人間味があって非常によろしいが、
仏典などを読みまくって狂人に近づくと善悪を捨てて、
(仏教で言うところの、言葉にならない)不思議な世界に入っていくものもなかには現われ、
彼はうまく弟子とめぐりあうと教祖的(開祖的)な偉人とみなされるような気がする。
リスカ(リストカット/手首ちょん切り)好きの不思議ちゃんが
高僧に近いのかと問われたら、それは違うとも、
あんがいそういう面もあるのかなあ、とも両方思う。

しかし、我われは不思議な世界にばかり生きてはいけず、
現実世界で生活していかなければならないという面がある。
善悪や禍福、損得、生死のない不思議な感覚では世を渡っていけない。
このとき非常に役立つ現実的かつ功利的な教えが、あの有名な法華経である。
おそらく生きる意味も、生まれてきた意味も、なにもないのだろう。
おそらく善悪もなく、殺人や自殺をしてもぜんぜん構わないのだろう。
けれども、そんなスーパーフリー状態を生活者は受容できない。
とりあえず勉強したらいい学校に入れるぞ(いい学校は本当に善かとか考えるな)。
いい学校に入ったらいい会社に就職できてお得だぞ(そういうことにしておこう)。
いい会社の正社員だったら、きれいで気立てのいいお嫁さんをもらえる(ほんとかよ?)。
こういうふうにごまかしながら最後の死を見ないで生きていくのが古今生活者の生き方だ。
こうしたら幸せになれるというのはみんな嘘だが、
その嘘を信じたら結果的に世間体はよくなり、ならばそれはそれでよく、
ならばそうだとしたら、結果的善のために嘘をついてもよく、
というか結果が善になれば、それは嘘ではなく真実になるのではないか。
勝てば官軍というのは、戦争では勝利したほうが「正しい」という論法だ。
法華経も結果至上主義で、結果が大勝利ならば、
そのひとり勝ちをもたらしたものがたとえ嘘であったとしても、
いまの大勝利が過去の嘘を真実に変えてしまうという妙なる教えである。
言葉は本来、真実や嘘という属性を持っておらず、
結果をよくする言葉ならばそれらは現在の勝利に支えられて真実の言葉となる。
現在こそが過去の言葉の真偽を決定する。
法華経を信じて読誦した結果、
快活な生きる高揚や快感に近い正義感(独善感覚)を味わえるのならば、
その結果をもってして法華経が「正しい」真実の法であることの証明となる。
ある言葉を真実か嘘かを決める基準を未来の結果にゆだねる。
いまなにかの言葉を真実かとか嘘かとか判定しない。
哲学や論理学には(にも!)まったくの無知だが、
法華経は学問を軽く凌駕(りょうが)したとんでもない教えなのではないだろうか。

たとえば創価学会員は毎朝、法華経のこの部分を読むことになっている。
「法華経 如来寿量品第十六(自我偈)」である。
悪質セールスマンの決意表明みたいでとてもおもしろい。本書から訳を書き写す。

「私の言葉は真実でウソ偽りは何一つないのだ。
(私の言葉にウソ偽りがないというのは)医者が巧みな手段によって
本心を失った子どもを治すために、
(医者が)実際には生きているのに、自分はもう死んだのだと言って、
子どもの病気を治したとしても、
ウソ偽りを言ったことにはならないのである」(P102)


法華経はやべえぞ。書き直す。
「私の言葉は真実でウソ偽りは何一つないのだ。
(私の言葉にウソ偽りがないというのは)セールスマンが巧みな手段によって
ものの価値を知らないお客さんに幸福になってもらうために、
(私が)実際にはまだ使える商品なのに、それはもう故障していると言って、
非常に使い勝手のいい新商品を買ってもらったとしても、
ウソ偽りを言ったことにはならないのである」

「私の言葉は真実でウソ偽りは何一つないのだ。
(私の言葉にウソ偽りがないというのは)母親が巧みな手段によって
勉強嫌いの子どもを治すために、
(現実は)勉強してもいかんともしがたい能力差は存在するのに、
努力はかならず報われるのだと言って、
子どもの勉強嫌いを治したとしても、
ウソ偽りを言ったことにはならないのである」

いくらでもおなじパターンで真実の言葉を創価創造できそうなので震えが来る。
このブログにも繰り返し書いてきたが法華経は「嘘も方便」を巧みに説明している、
とびきり現実的で役に立つ最勝の妙法なのだと思う。
著者は誠実そうだから、
法華経の実効性および有害性には気づいていないのではないか。
いんや、著書多数のいうなれば成功者だから、あるいはとっくにお見通しかしら。

「嘘も方便。たしかに父は嘘をついたのだが、それは子どもを治すための嘘で、
よい結果をもたらしたのであり、決して嘘偽りを言ったことにはならないのだ」(P188)


こんなお経の本など読んでいる場合ではないのに、
どこまでわたしは不思議中年なのだろう。
3月いっぱいで賃仕事を失い、無職無収入になるのに、こんなことをしている場合か。
しかし、わたしには南無阿弥陀仏(念仏)と南無妙法蓮華経(題目)がある。
念仏も題目も肝心かなめは「南無」にあるから、
わたしはどちらも似たような意味だと思っている。

「帰命(きみょう)――サンスクリット語ではナマス。これを音写して「南無」という。
身命を投げ出して信心することで、いってみれば「命預けます」ということだ」(P222)


南無阿弥陀仏は精神的平安に効果があり、
南無妙法蓮華経は現実面生活面における実効性がすぐれているような気がする。
4月からも南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経があるから大丈夫。
どちらが強力かと問われたら、南無妙法蓮華経のほうではないか。
では、最後に声高らかに、南無妙法蓮華経! 南無妙法蓮華経! 南無妙法蓮華経!



読書のおともには紅茶とコージーコーナーのおいしいお菓子を♪

「幸福の科学 大川隆法★心の指針145 自由であるということ」(2017年1月)

→昨日ブログに幸福の科学のことを書いたら、
さっそく郵便ポストに小冊子が入っていた。
幸福の科学は「やる気」があるねえ。
わたしは創価学会は好きだから「悪口座談会」系の記事が掲載されているものなら、
無料でくださるならいくらでも拝読するのに、住所はばれているだろうに、
一度も創価学会機関紙(誌)がポストに入っていたことがないのでさみしい(え?)。
せっかくポストに投函してくれたのだからと即日読んでみた。
なーんか、幸福の科学と創価学会って似ていなくね?
どこがというと、前向き、明るい、笑顔、努力、勤勉、目標、生きる意味等々。
入口はどちらも不幸で、出口はこうしたら幸福になれるである。
いまわたしは不幸だけれど、同時にとびきり幸福なんだよねえ。
昨日なんかも生きているのっておもしろいと超絶に大笑いしたし。
そうしたら今日反動があって、職場の厄介者になっているらしい。
しかし、昨日のAさんの話を聞いたあとなら、なんでも許せちゃう。笑っちゃう。
四捨五入すると還暦の(派遣の)Aさんは25、6歳の彼女がいるというんだ。
ウッソでしょうと思うけれど、
わたしは人生経験から嘘のような本当が実際はたくさんあることを知っている。
どうせ書いても嘘だと思われるから本当のことは書かないけれど。
ダメダメなおれももう少し生きていたら尽くしてくれる彼女ができるのかもしれないぞ。
そんな春の目ざめが精神に生じて昨日は最高に幸福だった。
幸福とか不幸ってなによ?
職場のSさんから何度も大声で怒鳴られ殴りたいとか書いたけれど、
それは不幸ではなく幸福なのよ。
なんにもない人生よりもパチンコ依存症のジジイに怒鳴られるほうが楽しいじゃん。
いつかこいつを殴ってやろうなどと妄想するのはもっと楽しい。幸福だ。
なによりこんなみじめぶざまダメダメな
おれなことを心配してくれる人がいる人生って最高にすてきじゃないか。
いま不幸だけれど、同時に胸躍るほど幸福なんだなあ。
けれど、わたしは人を幸福にしたいとは思わない。
だって、それはそれぞれの人がそれぞれに気づく問題だと思うから。

幸福とは――前向き、明るい、笑顔、努力、勤勉、目標、生きる意味。
おれの場合。
前向き×過去をいつまでも忘れない粘着質な執着性を有す。
明るい×打ち解けたらおれの楽天性や明るさにはびびるぜ。
笑顔○変なところで笑ってしまうのが欠点か。
努力×努力は大嫌い。
勤勉×でたらめいいかげんでええやん。
目標×ありません。
生きる意味○いつか死ぬ日のために生きる。

まえから書いているけれど、悪い女に引っかかってボロボロになりたいんだよなあ。
創価学会や幸福の科学に入っても善男善女しかいないような気がする。
いやいや、そういうおのれの善や正義を誇るものこそじつは悪人なので、
だからわたしは幸福の科学や創価学会といった新興宗教にあこがれるのかもしれない。
わたしの正体はほんものの変質者(根性曲がり)なのに、
みんななかなか気づいてくれないので困ってしまう。ありゃありゃありゃや。
「観音経 奇蹟の経典」(ひろさちや/大蔵出版)

→打つ手がないときってあるじゃないですか?
そういうときにあれこれ対策を考えると、
なにがなんだかわからなくなって逆に泥沼にはまってしまうということはありませんか?
打つ手打つ手が裏目に出るというか、
なにをしても「ああ、やっぱり」と悪い結果になり自縄自縛の状態におちいっている。
そのことをうすうすはわかっているのだけれど、なにかせずにはいられない。
イライラして立場が弱いものに当たり散らすと、脅えた部下はさらにミスを繰り返す。
本当はなにもしなければいいのかもしれないが、なにかせずにはいられない。
よく知らないが、株式投資なんていうのもそうではないか。
株価の上下に一喜一憂して売買の取引を繰り返すから損をしてしまう。
わずかにプラスになったとしても手数料を差し引いたらトントンという。
だったら、なにもしないでゆっくり好きな漫画でも読んでいたほうがましだったという話。
ことほどさように、われわれはなにもしないことに耐えられないようにできている。
職場でも仕事をしていないと見られたくないから、
やる必要もないことをことさらオーバーアクションでして熱心な労働者を演ずる。
そういうことをしていると、なんだか自分はとても有能な労働者のような気がして、
なにもすることがないときにふらふらしている部下を怒鳴りたくなる。
結果、多くの部下から嫌われ、以後のチームワークのまとまりが悪くなる。
しかし、なにかせずにはいられず、いつもイライラすることになる。
人間の行為と結果の関係はシンプルに表示するとこうなっている。

☆行為→?→結果

善とされるプラス行為をしたら、
おなじくプラスめいた結果が出るとわれわれは盲信している。
しかし、実際はいわゆる善なる行為をして悪い結果になることも多々ある。
長生きすればわかるはずだが(あんまり大きな声では言えないけれど)、
悪いとされることをしても結果がうまくいくことはいくらだってあるわけだわさ。
そもそも善とか悪とか、そんなものは相対的価値観で、
つまり主観(ものの見方)によっていくらでも善悪は様相を変えるものとも言える。
そして、われわれは結果からものごとを判断するというひどい悪癖をみな有している。
世間的にプラスとされている結果がいま出ている人や組織は(将来はさて?)、
みな事前にプラスの行為をしたからいまよくなっているのだと考えがちだ。
これは科学的真理というよりも、そうであってほしいという大衆の願望だろう。
だって、悪いことをしても恵まれている人がいくらでもいるじゃないですか?
毎日汗水流して働いた人が小さな夢ひとつかなわず病魔に襲われ苦しむのが人生。
だとしたら、行為と結果の関係はあるいはこうなっているという可能性も考えられないか。

☆行為→(たまたま/偶然/わからない)→結果
☆行為→(不思議/神仏/運の強弱)→結果


人はうまくいったときドヤ顔(得意顔)で自慢話をするけれど、あれは眉唾(まゆつば)よ。
失敗したときやミスをしたとき、人は深刻な顔で反省するが、
そこまで思いつめなくてもいいような気がしなくもない(わたしはもっと反省すべきだが)。
さて、ここまできてようやく観音経なのである。
観音経は法華経の一部で、現世利益(げんぜりやく)を説いたお釈迦さまの教えである。
内容は困ったとき観音さまを念じればかの菩薩(ぼさつ)が助けてくれるというもの。
最初に戻って打つ手がないときは観音経でも唱えていたらいいのではないか。
むろん、観音経ではなく般若心経でも法華経でもなんでもいいのだろう。
しかし、現世利益をうたっている観音経がいちばん適当な処方薬のような気がする。
観音経を唱えていたら少なくとも悪手は打たないだろう。
さらにヘマをやって事態を悪化させるということはなくなる。
これは思った以上の功徳だとは思えないだろうか?
観音経の内容は、観音菩薩にお祈りしろ。観音菩薩に南無(なむ/お任せ)せよ。
心理療法家の河合隼雄の晩年行き着いた境地は「なにもしない」だったが、
権威ゼロの仏教フリーライターひろさちやも似たようなことを言う。

「船乗りの人から教わったが、海で遭難したときは、泳いでは駄目だそうだ。
泳げる人は「ともかくも……」と思って、がむしゃらに泳ぎはじめ、
たいていが力尽きて海の藻屑(もくず)になるという。
船が転覆するような嵐の海である。プールで泳ぐのと、わけがちがう。
いくら水泳に自信があっても、どだい泳げるものではないそうだ。
それに海は広い。所詮、島まで泳ぎつけるはずがないのである。
それよりは、浮木(うき)にでもつかまって、じっと救助を待っているほうがよい。
そのほうが、助かる率は多いそうだ。
そうだとすれば、南無観世音菩薩」の称名が、
たしかに奇蹟をもたらしてくれるのである。
『観音経』の言う通りではないか。
そして、――。
浮木につかまって水に漂いながら、彼が「南無観世音菩薩、なむかんぜおんぼさ」
と称名している、そのときの心境はあきらめではければならない
――と、わたしは思うのだ」(P61)


選択肢が1~5まであったとする。受験教育の弊害で、
われわれは1から5までの選択肢のうちに正しい答えがあると信じきっている。
しかし、現実では1、2、3、4、5のすべてが間違いという可能性もあるのではないか。
ペーパーテストを無視する、受験を拒否するという選択肢を忘れてはいないか。
これはたいへん勇気ある決断だが、理論的にそこまで大誤答かはわからない。
なぜなら行為と結果のあいだにあるものは不思議で運とも言うべき、
人間には把握できないものである。神仏の世界と言い換えてもいいだろう。
だとしたら、そういう神仏ワールドには神仏ワードで立ち向かうのもありではないか。
南無観世音菩薩(称名)でも南無釈迦牟尼仏(称名)でも、
南無阿弥陀仏(念仏)でも南無妙法蓮華経で(唱題)もいい。

☆称名→(偶然?神仏の世界?たまたま)→結果

やってみてうまくいくかどうかはおのおの実験してみるしかない。
現代人はそういうことを非科学的だとバカにして行動に移せないのかもしれない。
その点、毎日唱題している創価学会の善男善女はとても親しく好ましく感じられる。
わたしのケースで他人には当てはまらないのだろうが、
もしかしたらわたしは観音経のおかげで、
健康診断まえの禁酒を1週間もできたのかもしれない。
念仏も称えたし、題目も数度なら唱えたから、なにが功を奏したのかはわからない。
人によっては仏教ではなく、聖書を読むことが人生の安定剤になるものもいよう。
ひろさんの実家は薬屋さんだったというが、あらゆる宗教は薬なのだと思う。
たまたま薬が効きすぎたのか、そもそもが劇薬なのか、イスラームのほうはヒャッハーだ。
観音経はその典型だが、宗教は効く薬で、しかし成分はメリケン粉なのだと思う。
観音経はかなりよく効く偽薬(プラシーボ)ではないか。

「さらに薬に関しても、こんな話がある。
〝プラシーボ”という薬(?)がある。
もとはラテン語で、「わたしは満足するだろう」の意味だそうだ。
この薬はぜんぜん薬効がない。メリケン粉を固めてつくった薬だと思えばよいだろう。
なにも薬効はないが、患者は薬をのんだと思って安心する。
そういった役目の薬である。
辞書を引くと、「気休め薬」「偽薬」といった訳語が出ている。
薬ではない薬である。変な薬だ」(P14)


胃潰瘍(いかいよう)の患者にこの〝プラシーボ”をのませたという。
だが、ナースからの手渡しである。これでも25パーセントの胃潰瘍が治った。
つぎに白衣を来た医者がこの偽薬を患者に与えると、どうなったか。
ご想像の通り、治癒率はさらに高まった。
つぎに町医者ではなく大学教授にこの薬を処方させたらどうなったか。
そのときに「これは新薬で保険のきかないとても高価なものだが、
特別にあなただけに処方しましょう」と患者に伝えたら、そのときの結果はどうなるか。
その医師が名医として掲載された雑誌のコピーを見せておいてもいいだろう。
胃潰瘍レベルなら放置しても治るだろうが、〝プラシーボ”をのむのも悪くない。
ただし、この〝プラシーボ”を偽薬なのに百万円とかじゃ売っちゃいかん。
それをやるのが悪質な新興宗教だが、あんがい治ったらそれでもいいのかもしれない。
たくさん金を巻き上げる新興宗教も病気を治しているのだから。
百万円を払ったことで病気が治った人も大勢いることだろう。
高額を払わないと効かないということは〝プラシーボ”の性質上、避けられない。
ほかに〝プラシーボ”の使い道は、自分だけの薬をつくることも可能だ。
手間暇をかけていろいろ宗教のことを勉強して、
自分だけの〝プラシーボ”を常備薬にするのも精神衛生上よいだろう。
しかし、本物の薬と偽物の薬の違いとは、いったいなんになるのだろう。
結果から判断するならば、事態が好転したのなら(病状が改善したのなら)、
結果的にあらゆる〝プラシーボ”が本物だったということにならないか?

お勉強タイム。以下、本書で学んだことをメモメモ。
仏教にご興味がない方は飛ばしてくださいませ。
仏教には、仏法僧を三宝として考え敬えっていう三宝帰依の教えがあるでしょう。
「往生要集」を書いた源信がおもしろいことを言っていたという。
南無阿弥陀仏は阿弥陀仏という「仏」に帰依している。
南無妙法蓮華経は法華経という「法」に帰依している。
南無観世音菩薩は観音という菩薩(修行者)、つまり「僧」に帰依している。
だから、3つは違うようでみなひとつのおなじことを言っている。
あるいはどれかひとつでは不十分で3つそろって完全になる。
いんやいやいや、そこまでは源信もひろさちや先生も書いていなかったかしら。
さあ、どうだったか。わたしはそんなことが書いてあったような気がするなあ、イヒッ。

観音経のキーワードは「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」だが、
これには3つの解釈があるらしい。
観音経は「念彼観音力」でものごとがうまくいくと主張しているが、
その「念彼観音力」をどのように解釈するかである。
1.「彼の[偉大なる]観音力を念ずれば」
2.「彼の観音を念ずる[自分の]力」
3.「念ずる彼の[自分のなかにある]観音の力」
一般的に(禅の世界の話じゃないかな?)3>2>1の順で浅くなるという。
いちばん偉いのは3で、つぎに偉いのは努力主義の2、
神仏頼みの1はもっとも程度が低いと偉い坊さんたちは思っているらしい。
ひろさちや先生は1の解釈を選択しておられる。
2とか3とか、人間中心にものごとを考えていて傲慢というほかない。
自分ではどうしようもないから観音さまにおすがりするのであって、
自力でどうにかなるんなら仏門なんかにそもそも足を運ばないではないか。

本書は怒りっぽいひろさちやさんがおよそ35年まえに書いた本である。
結局、ひろ氏はうまくこのまま人生から逃げ切られそうだが、
勉強家の氏に効果があったお経はいったいなんだったのだろう。
若かりし宗教ライターの説法を拝聴しようではないか。
先生、称名しても現世利益なんかちっともないけど、どういうこったい?

「称名そのものが、いちばん大きな利益なのです。
たとえば、他人からひどい仕打ちをうけたとき、
たいていの人は「こん畜生!」とか「あの野郎、ぶっ殺してやりたい」と思い、
そういうことばを吐きます。にもかかわらず、
そのとき静かに称名できる人がおれば、その人はすでにもう救われているのです。
称名そのものが、その人にとって救いの証となっています。
称名によってほかに何か得られるのではなく(ほかに利益があるかもしれませんが)、
称名できたそのことがほかならぬ〝現世利益”ではないでしょうか」(P4)


まあ、あきらめが肝心ってことさね。
他人に期待しない、人生全般に期待しなければ、こんなもんかとおさまりがつく。
なにか災難に巻き込まれてもこれは前世の報いとあきらめ、
来世にこそちょっとは慶事もあるのではないかとささやかな希望をつなぐ。
他人に期待すると怒ってばかりでストレスがたまり生きていて楽しくない。
阿修羅(あしゅら)のような人って怖い。

「阿修羅は、ほんらいは正義の神であった。
しかし彼は、正義にこだわりすぎたのである。
正義にこだわって、彼は怒りを燃やした。他人の不正を許せなかったのである。
そのため、彼は神々の座から追放されて、ついに魔類とされた。
しかも、魔類となりながらも、彼はなおも正義の怒りを燃やし続けている。
阿修羅はそういう存在である」(P150)


小声でつぶやくと、正義は「魔」なのだと思う。
人間がもっともおちいりやすい口当たりのやさしい「魔」が正義のこころ。
他人の不正を許せなくて、イライラカリカリする。
他人の不正を許せない反動で自分は正しい生き方をしようと窮屈になっていく。
正しい社員になって正しい生活をして他人の不正にいつも怒っていて、
はてまあ、そんな人生がおもろいでっか? って話。
ぶっちゃけ、舛添都知事に怒る気持とか、さっぱり理解できない。
おれが都知事に就いたらもっとひどいことをやるんじゃないかなあ。
基本的に舛添さんが辞めようが続けようが、こちらの生活に変わりはなし。
どうでもいい話なんだなあ。なんでみんな舛添さんに怒っているのかわからん。

だれも読んでいないだろうし、最後に不謹慎なことを書いちゃおっと。
町をぶらぶら歩いていると(我輩よりはましだが)
どうしょうもねえオジン、オバンの夫婦とかいるじゃないですか?
あれ、わっかんねえんだ。あいつらも恋愛の真似事をやったわけ?
こういう東大の入試よりも難しい問題の解決へのヒントを仏教は与えてくれる。

「たとえば、一枚の映画スターのブロマイドをもって美人を論ずれば、
かえって底が浅くなるようなものだ。
むしろ、読者の心のうちにある〝美人像”――
〝奇蹟像”を大事にしていただいたほうがよい」(P216)


なーんか、わかったような気になるぜ。
わたしが好きな女は「わたしが好きな女」ってことか。
わかりやすく書いたら、わたしが好きな女は「わたしを好きな女」っていうか。
相手が自分を好きかもしれないと思うと、それだけで見かけが変わるのだろう。
「A子ちゃんがあなたを好きって言っていたわよ」
なんて言われたら男は想像力でがんじがらめになりよけいな発情をするだろう。
仏教は深いなあ。

(関連記事)
「愛と救いの観音経」(瀬戸内寂聴/嶋中書店)
「観音経講義」(奈良康明/東京書籍)

「あの世と日本人」(梅原猛/NHKライブラリー)

→学問は真理を追究するとされているが、しかし真理の定義が難しい。
ひねくれ者のわたしは真理とは以下のようなものだと思っている。
1.真理とは、人(や人びと)を喜ばせる言葉。
2.真理とは、いまこの現段階で虚偽(デタラメ/ウソ)だとばれていないこと。
3.真理とは、人それぞれで、それぞれがそれぞれ真理だと信じていること。
日本有数の大物学者である梅原猛は本書で、
日本人は「あの世」をどう見てきたかわれわれの精神史を古代から丹念に追っている。
本書出版時も高齢だった大成功者の梅原猛は、死後のことが不安なようで、
「あの世」でわれわれは死んだ父母に逢えるという説を語っている。
なおかつ「あの世」は行ったきりではなく、たとえばお盆のように戻ってくることも可能。
なんでも梅原猛は孫と遊ぶのが好きらしく、死んでからも孫に逢いに来たいらしい。
ならば、だとしたら「あの世」はそういうところでなければならぬ。
本書で梅原は仏教以前の神道の「あの世」はそういうところであったと論じている。

この本ではなく別の本だが、梅原は親鸞の説く浄土(「あの世」)も
そういうところだと見てきたようなことを書いている。
果たして梅原猛のいう「あの世」は真理なのか? わたしは真理だと思う。
なぜなら最初に持ち出した真理の定義に当てはめてみよう。
死んで「あの世」に行けばわれわれは死んだ血縁者と再会することができ、
なおかつ一度死んでもわれわれは「あの世」から戻ってくることができる。
繰り返しになるが真理とはなにか?
1.真理とは、人(や人びと)を喜ばせる言葉。
2.真理とは、いまこの現段階で虚偽(デタラメ/ウソ)だとばれていないこと。
3.真理とは、人それぞれで、それぞれがそれぞれ真理だと信じていること。
逐一検証すると、そういう「あの世」があれば人びとは喜ぶからこれは真理だ。
「あの世」がどうなっているか科学的に検証できないため虚偽の証明も不可能。
梅原猛は「あの世」がそういうところだと信じている(信じたいと強く思っている)ので、
これもまた真理の条件に適合するだろう。

わたしは梅原猛とひろさちやの一般書で仏教の基礎を学んだ。
仏教を勉強するとは、どういうことか?
結局、いくら知識を増やしてもそれが信心(信仰)につながらなければ意味がないのだ。
学問は役に立たないが、宗教は生きるうえで役立つこともあるのである。
逆に言えば、役に立つ見込みがないのに宗教を勉強している人の気が知れない。
人は生きているとどうしても孤独感や不安感(このふたつが最大の迷いでは?)、
倦怠感、無力感、絶望感、劣等感にさいなまれるものだ。
そういうときにたとえばうまく仏教で自分をだますと精神科のお世話にならずに済む。
仏教信心とは、それぞれの「私」が、
広範囲の意味における「仏」と関係する物語を創作し、安心感を得ることである。
自分は仏に守られているとか、死は終わりではないとか信じられたら安心しますよね?
ものごとに実体はないとか信じられたら、苦手な上司や同僚と折り合いをつけられる。
自分はどこにでもいるつまらない目立たない人間だけれど、
自分の心の奥底に仏がいるとか信じられたら慰めがあるじゃないですか?
毎日の生活における何気ないささいなことが全宇宙と連動していると信じられたら、
味気ない生活にも多少のうるおいのようなものがもたらされるのではないか?

仏教を信じるとどこまでも退屈でやりきれない単色の日常が、
わずかながら色めくというか生き生きしてくることもないことはないとも言えよう。
けれど、よほどの単細胞バカでないかぎり、だれかから仏説を教わって、
他人の仏教物語を、はい、それではそれをそのまま信じましょう、とはならない。
仏教の醍醐味というのは、それぞれがそれぞれの物語を創作できるところだと思う。
本書で梅原猛が自分の「あの世」を創ったように、
みんなもそれぞれの「あの世」や自分の「仏さま」を創造するのがいちばんいい。
まったくゼロから妄想(物語)は創れないから、
信心を得たくて大しておもしろくもない仏典を読む人もなかにはいるのである。
ふつうの生活者は仏典など読めないだろうから、
インテリが嫌う瀬戸内寂聴や五木寛之の本を読んで、
おのれの信心めいたものを創造してもいいだろう。
これは放言とも思われかねないが、もし好きなアニメがあるのであれば、
そのヒロインと観音菩薩を同一視してマイストーリー(信心)を創作してもよろしい。

それは仏教信仰ではないとお叱りを受けるかもしれない。
反論として考えられるのは、仏教とは、
開祖の釈迦(しゃか)の言った言葉を学び、それを実践することだと。
とはいえ、釈迦に著書はなく、なにが釈迦の教えかわからないのにどうしろと?
仏教は釈迦の教えがよくわからないところがいいのである。
このために、それぞれがそれぞれの価値ある人生を生きるための、
新しい仏教物語(釈迦妄想)を創作することが可能になる。
そもそも日本は大乗仏教の国だが、大乗は釈迦の教えを否定した仏教なのだから。
日本の最高権威学者のひとり、梅原猛の言葉を聞け。

「このように大乗仏教では、釈迦仏教を否定して新しい、
はなはだ現世肯定的な仏教をつくったのですが、興味深いことは
大乗仏教が釈迦の名でもって次々に新しい経典をつくったことです。
それは現在、徳川家康の著書が出るようなもので、そういうことが
何の疑いもなく行われたというのはインドというお国柄のせいでしょうが、
こうして大乗仏教が発展するにつれ、
釈迦も釈迦という歴史的人格を離れて、超歴史的存在になります」(P104)


だとしたら、「幸福の科学」の大川総裁のしている霊視・霊言が
いまの日本におけるもっとも「正しい」大乗仏教なのかもしれないわけだ。
創価学会はなんかわかるけれど、大川総裁は得体の知れない気味悪さがある。
しかし、あれも大乗仏教というか、もしかしたら大乗仏教精神を
もっとも正統的に継承しているのが幸福の科学という説も成り立つだろう。

いまの大川総裁よりは偉いことになっている歴史上人物の法然も変な男だ。
ご存じのように、法然は、
ただ南無阿弥陀仏と口で称(とな)えたら救われると説いた坊さんである。
法然が出るまえの仏教で主流だったのは南都六宗と呼ばれる学問仏教。
具体的な主だった宗派としては三論宗、法相宗、華厳宗。
三論宗は、万物に実体はないという「空(くう)」を説いた、いわばニーチェのニヒリズム。
法相宗は、いまでいえばユングの深層心理学みたいなもんだ。
華厳宗は、強引に現代風にいえばアインシュタインの宇宙論のようなもの。
庶民はニーチェ(三論宗)とかユング(法相宗)とかアインシュタイン(華厳宗)とか、
そんなことを言われても「馬の耳に念仏」(笑)。
そこで法然はニーチェやユング、アインシュタインを勉強したうえで、
しかしこれらではまず自分が救われないことを深々と悟り、
その結果として自他を救う(だます)ために
南無阿弥陀仏オンリーの救済(物語/妄想)を説いた。
法然がなんの天才かというと、ミスをするところが常人離れしていたのである。
法然は誤読の天才、別解の達人、
つまり慣例にとらわれない自由な独創的(仏典)解釈者であった。
いままでだれも読んだことのなかった視点から仏典を解釈したのが法然である。

わたしは法然の南無阿弥陀仏もまた真理であると確信している。
なぜならば、真理とは、みたびの繰り返しになるが――。
1.真理とは、人(や人びと)を喜ばせる言葉。
2.真理とは、いまこの現段階で虚偽(デタラメ/ウソ)だとばれていないこと。
3.真理とは、人それぞれで、それぞれがそれぞれ真理だと信じていること。
口で称える念仏オンリーで救済されるという教えは無学な下層民を喜ばせる。
念仏は浄土三部経によっているが、
これら仏典を釈迦が説いていないことは永遠に証明できない。
法然や親鸞がそれぞれ念仏は絶対真理だと信じているから、
このため、しがるがゆえに南無阿弥陀仏は真理だ。
真理とはおそらくある人が熱心に信じている解釈例のことなのだろう。
他人の解釈(世間常識/社会風潮)もたいせつだが、
自分なりに娑婆(しゃば)世界を解釈(妄想/誤読/創価)するのも
生きづらさをかかえるものには有効な手段となりうるのだと思う。
法然はいろいろな本を自由に新しく解釈(誤読?)することによって、
自他を救う物語(妄想?)を創作するにいたった。
誤読、誤読というが、言葉はいかようにも解釈可能なため、
受験現代文のような「正しい」読解はそもそも存在しないのかもしれない。
こちらも妄想過剰な梅原猛いわく、間違える天才のような法然は――。
ちなみに西方浄土を説いた有名なお経は「大無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」。

「『観無量寿経』と『大無量寿経』を比較すると、
同じように極楽浄土往生の思想を説いているのですが、
その態度は正反対といえます。
『観無量寿経』は美的芸術的経典です。
『大無量寿経』はそれに対してはなはだ倫理的論理的経典です。
法然は、倫理的論理的な人間です。
それで彼は『大無量寿経』に語られる本願の思想を中心に浄土教を新しく考え、
口称念仏中心の浄土教をたてたわけです。
そうすると、『観無量寿経』もそういう本願中心、念仏中心に法然は読みかえます。
つまり『観無量寿経』も表には観仏[イメージ]をすすめているように見えるけれど、
実際は称名[コール/ソング/カラオケ]をすすめたのだ。
表の意味と裏の意味は別だ、そういう解釈をするのです。
同じように『往生要集』を法然はまた読みかえるのですが、
『往生要集』も表に観仏をすすめているようだが、
ほんとうは称名をすすめたのだという解釈をとるのです」(P220)


しかし、法然とはいえ、完全な自由から独自妄想を創価創立したわけではない。
いままでだれからもさほど重要視されなかった中国の善導という坊さんの本を
読んで感動して、法然は善導の没後弟子になることで口称念仏の確信を得た。
逢ったこともない異国の僧を師匠とあおぎ、独自の信仰を打ち立てた。
まったくのオリジナルの思想など存在しないのだろう。
人はどうしたらおのれの導き手に出逢えるかはわからないが、
確率的には多くの本を読むことが重要で、
それから人生的には本との出逢いは偶然でたまたまだから
機縁が熟すのを待つしかないという面もあろう。
法然のはじめた南無阿弥陀仏は「あの世」信仰にほかならない。

「法然の理論はどうしてできたのでしょうか。
彼にとって決定的なものは善導との出会いです。
それを法然は「偏依善導(へんいぜんどう)」、
つまり「ひとえに善導に依る」というふうに言っています。
彼が『観無量寿経』の注釈書である善導の『観経疏(かんぎょうしょ)』を読んで、
たいへん感動したところから彼の新しい浄土教は出発するのです。
善導はたいへんな詩人で、実に美しい文章を書きます。
絵もたいへん上手だったといいますが、
そしてこの世のはかなさ、苦しさ、麗しさを説き、
あの世の美しさ、苦しさ、変わりなさを語った。
私は若き日にはじめて『観経疏』を読みましたが、
何かボードレールの詩を読むような、そんな感じがしました。
そういう一種のロマン的な宗教家で、最期は木から飛び降りて死ぬのです。
そういうところもロマン派の宗教家らしい。
その善導が魂を注いで書いたのがこの『観経疏』です。
それを法然もまた全身全霊で読みました。
そして彼はそこから大きな思想のヒントを受けました」(P215)


「観経疏」を読んでみようと思ってネット検索したが書店に在庫がない。
そういえばむかし神保町の古本屋で4千円くらいで見かけたことがあったなあ。
実際に読んでみたらあんがい大したことがないのだろう。
善導は法然が自分で発見したから、彼にとって強い意味を持った。
わたしが後追いで善導を読んでも、さして新鮮な感動は味わえないような気がする。
さて、師匠の問題である。
他者に影響を受ける人と書物から刺激を受ける人とふたつのタイプがいるのだろう。
しかし、どうして書物が他者ではないと言い切れようか。
実際の著者よりも書物を通して対面したその人のほうが魅力的ということもあろう。
法然に逢ったことのない梅原猛は、法然の人間像を決めつける。
上記した真理の定義に従うなら、この梅原の描く法然は真理であろう。
不幸への哀しみが法然の人格形成を大きく左右した。

「父は殺され、一家離散の運命にあった法然一家に、
母もまた安穏な人生を送れたとは考えられないのです。
この法然の生まれ、および九歳のときの父の悲惨な死、
そして十三歳のときの何か由緒ありげな母の死、
これが法然の心の奥にある深い傷ではないかと私は思うのです。
私は、宗教者というものは心の奥に深い傷を負っていて、
その傷ゆえに彼はこの世に対して絶望し、
この世ならぬ美しい世界を求めるのではないかと思うのです」(P192)


法然の弟子といえば親鸞が知られているが、この男はうさんくさい。
法然の高弟で当時有名だったのは弁長と証空なのである。
梅原によると、ふたりとも親鸞にはまったくふれていないという。
親鸞サイドが弁長の悪口を書いているのなら、むかし読んだことがある。
わたしはいまでは親鸞およびその一族郎党は食わせ者ぞろいで、
本当に偉かったのは「歎異抄」で親鸞を描写した唯円だけではないかと思っている。
親鸞の主著「教行信証」はむかし読んだが、さっぱり意味がわからなかった。
梅原いわく、親鸞も法然の誤読傾向はしっかり継承しているとのことである。
親鸞の意味不明な仏教哲学論文「教行信証」は引用ばかりである。

「九十パーセントも経典の引用があると、あまり独自性がないのではないか、
独創性が欠如するのではないかというふうに一見思われますが、
だいたい昔の人は、そういう経典に対する尊敬の心が厚かったのです。
自分の説を述べるのにもやはり経典を通じて述べる。
しかし、この経典の集め方、選び方において彼の独自の思想が入っている。
だから『教行信証』が九十パーセントは経典の引用だからといって、
この本の独創性が少ないとはけっして言えません。
そればかりではなく、彼はここで引用された経典に対して
独自な読み方[誤読?]をしているのです」(P253)


だんじて田舎坊主の親鸞先生と現代非正規雇用の自分を比べるわけではないが、
当方も引用は嫌いではない。
あえてわざと意図的に文意とは異なるかたちでそこだけを引用で取ることがある。
全体を読まないで部分だけ証拠引用として取るのはおもしろい読書だ。
著者が訴えたいだろうところを無視して、あえて些末(さまつ/どうでもいい)な
箇所にスポットを浴びせるスーパーフリーな独自解釈的読書もまた魅惑的だ。
対象はひとつでも解釈(見方)はさまざまになしうる。
たとえ事実のようなものがひとつあったとしても、
想像力(創造力/妄想力)豊かな人はそこから複数の真実を見て取ることができる。
そもそもからして事実のようなものが存在するのかも考えてみるとよくわからない。
ミスというのは創造性、独創性と大きく関係しているような気がしてならない。
どれだけ大きく間違えるかが、
その人の(ロボットならぬ)人間性(独創性)の証(あかし)とも言えなくはないだろう。
書物に人生の師匠のようなものを発見したものは幸いだ。
書き手が死んでいたらもっといい。
生きている師匠は身勝手にも気分次第で好きなことを言うが故人はそうではない。
法然にとっての善導のような存在が、わたしにとっての一遍である。
一遍は法然や親鸞と比べたらはるかにマイナーな、
しかし当時あるいは先輩念仏者ふたりよりも世間的にはメジャーだったかもしれぬ、
踊り念仏の創始者として知られる(一遍は空也を開祖とするが)カリスマ坊主だ。
梅原猛は法然や親鸞ほど心惹かれる存在ではないらしいが、
それでもわが一遍にありがたくも言及してくださっている。

「一遍は西行をたいへん慕っていますが、一遍の歌は西行の歌とは違います。
西行の歌はよく考えられたものですが、一遍の歌は自然のもの、
西行にもないような自然の味があるような気がします。

をのづから相あふときもわかれてもひとりはいつもひとりなりけり

私はこの歌が大好きです。
自然に人と別れるときもまた相合うときもあるが、
人間は結局ひとりだということですが、
「ひとりはいつもひとりなりけり」という言葉がよい。
これは一遍の心の底に存在する深い孤独をうたったものだと思いますが、
種田山頭火の歌のような感じがします。

こゝろよりこゝろをえんと意得(こころえ)て心にまよふこゝ成(なり)けり

「こころ」が五つありますが、こういう歌が一遍には多いのです。
これは先ほど述べたように、心にとらわれるかぎりは悟りは得られない。
心なんてことをいろいろ考えずに、「南無阿弥陀仏」に徹しろという歌でしょうが、
意味はよくわかりません。
こころという言葉を五つならべて結局は心に迷う心をうたい、
そういう心を捨てよというのでしょう」(P292)


仏教は現実的に役に立つからおもしろいのである。
働きながら一遍の歌の、
「相あふときもわかれてもひとりはいつもひとりなりけり」が思い浮かぶ。
そのまえの言葉がどうしても思い出せない。
ふと「おのづから」という言葉が出てくる。この「おのづから」の深さよ。
この上司と人生で出逢ったのも「おのづから」で、
もしかしたら明日「おのづから」別れてしまうのかもしれない。
いまひと言「辞める」と口にしたらもう一生逢うこともないのだろう。
そう考えたら、きついことを言われても「おのづから」にまかせようと思える。
一遍の「心より~」の歌はまったくそうで、いろいろ考えるから悩むのだろう。
どうせ人は死ぬのだし、死んだら旅先の思い出とおなじで、
あんがいマイナスの出来事を懐かしく思い返すのではないか。
死という絶対の彼岸である「あの世」からいまの自分を考えるとどれだけ救われるか。
わたしが仏教を趣味として学んでいるのは、
研究のためでも威張るためでも知的好奇心でもなく、
ただただ当方が生きづらい変質者だからなのだと思う。
仏教はマイストーリー(わが妄想)を創るうえで一生ものの玩具たりえる気がしている。

「図説 お経の本」(洋泉社MOOK)

→オールカラーで仏像や仏画がうまくレイアウトされたじつにいい本だった。
しかし、初学者がいきなりこの本を読んだら、
お経がわかるようになるかといったらむろんそういうわけではない。
こちらにそれなりの蓄積があるから、この本のすばらしさに気づくのだろう。
お経は読むたびに発見があるようなところがある。
読み手は日々変化しているのだが、その無常をお経によって発見するのかもしれない。
この本では維摩経が気になった。
どうでもいい豆知識だが、維摩経は創価学会の教学部が大好きなお経でもある。
内容は豪商の維摩(ゆいま)っておっさんが出家した仏弟子を叱りつける話だ。
出家した仏弟子よりも、世間をよく知った金持の中年男のほうが偉いんだよという。
お経では、維摩が仏弟子をこき下ろしたり、在家のぶんざいで出家者に説教したりする。
お経の中心に「不二に入れ(入不二)」というメッセージがあり、そこが抜粋されている。
ちゃんと漢文も掲載されているののがよかった。
不二(ふに)とはなにか?
本書によると不二とは「対立する二つのことが根底的には一体であること」らしい。
そういう考え方を不二という。
対立する二つが「異ならないこと」「差別のないこと」という解釈もある。
本書で維摩経は、「二辺を離れる「不二思想」の金字塔」と紹介されている。
実際にお経を見てみよう。
維摩経は二度違う訳で読んだことがあるけれど、
この本の訳がいちばんわかりやすい(意訳らしいけれど)。
不二に入るとはどういうことか。楽実(らくじつ)菩薩はこう言った。

「真実と虚偽とが二である。
真実に達した者は、真実を見ているわけではない。
いわんや虚偽を見ているわけではない。
なぜなら真実は、肉眼で見るのではなく、智慧の眼で見るからだ。
智慧の眼は、見るのでもなく、見ないのでもない。
これが不二に入るということだ」(P42)


繰り返すと、不二とは「対立する二つのことが根底的には一体であること」。
善悪、賢愚、損得、美醜、生死――「対立する二つのことが根底的には一体であること」。
智慧の象徴である文殊(もんじゅ)菩薩が、
「おれがいちばん賢いんだ」と言いたげに以下のような説明をしている。

「あなたがたの説はもっともだが、それもまた二[相対]なのである。
何も言わず、何も説かず、何も示さず、説かないということも言わない。
これが不二[絶対]に入るということだ」(P42)


この経でもっとも偉いのは豪商の維摩だから文殊菩薩もおうかがいを立てる。
「維摩先生、あなたもなんか言ってやってください」
このとき維摩は黙して語らなかった。「維摩の一黙、雷の如し」である。
文殊菩薩は(金になびいたのか)維摩の態度を絶賛する。

「よろしい、よろしい。文字もなく、語る言葉もない。
これこそ、不二に入るということなのだ」(P42)


言葉で語るということは、世界を言葉で分けているということだから、
言語に頼っているかぎりいつまでも「二(相対)」のレベルでしかなく、
「不二(絶対)」のレベルには到達できないということである。
わかりやすい話をしたら、どんな慰めの言葉をかけてもらうよりも、
そばにいて「おまえの気持はわかるよ」
と肩をポンとたたいてもらうほうが絶対体験に近いということだろう。
女の子から大丈夫だよとギュってしてもらったら男の子はがんばれる。
こういうところから言語を否定した密教に入っていくんだろうけれど。
音楽や絵画は言葉にならない不二(絶対)を表現しているとも言えよう。

いつごろからか創価学会が師弟不二ということを強く打ち出している。
これは師匠の言うことには絶対に従えよという偏った意味だと思う。
しかし本来、不二とは「対立する二つのことが根底的には一体であること」。
ならば、師弟不二とは、師匠や弟子という差別はないということになるのではないか?
師匠は弟子である、弟子は師匠である、というのが本当の師弟不二。
人になにかを教えようとうすると本当に理解していないと教えられない。
このため、教えているほうは弟子のことを師匠のように思うだろう。
弟子は師匠から教わっているが、本当は弟子こそ師匠の師匠なのである。
わたしもブログにいろいろ書いているけれど、
これは教えているに近い行為だが、教えているという感覚はなく、
ブログ記事を書くことでいろいろ教わっているという実感がある。
弟子は師匠の師匠なんだからもっと威張っていいわけ。
師匠は弟子から教わっているんだからもっと謙虚になるべし。
軍隊のように厳しい師弟の上下関係を否定したのが、本来の師弟不二の意味合い。
師弟不二を理解したら、
座談会で池田先生の悪口が飛び交うようにならなくちゃいけないわけさ。

きっと「学ぶ」ってことは「教わる」ことではなく「教える」ことなのだろう。
だれかに教えようとしてみたら、自分がそれを理解できているかどうかわかる。
いい弟子というのは「ここがわからない」といい質問をしてくれる師匠のこと。
本当のいい弟子というのは師匠の教えていないことまで自分で発見してしまう。
いい師匠というのは自分はなにも言わないで、
弟子の言うことを「ふんふん」と聞いているカウンセラーのような存在かもしれない。
本物の師匠は弟子に指導などせず、弟子の言うことを傾聴するのかもしれない。
というのも、そのほうが弟子にいろいろ教えられるのだから。
維摩経で、維摩が多数の菩薩の(不二に対する)説明を聞いて、
自分は沈黙したままひと言も発しなかったという光景こそ本物の指導なのかもしれない。
大声で「池田先生はこう言った」なんて叫ぶのは指導ではなく命令なのかもね。
そういう軍隊のノリが好きな人は一定数いるだろうから、それもいいのだろうが。

本書で薬師経と金光明経をはじめて目にした。
どちらもおもしろそうでさあ。薬師経で、こういう一節がリピートされる。
「来世で自分が悟ったら(菩薩になったら)~~(功徳)~~」
おいおい、来世かよと笑ってしまった。
現世で悟ろうとしない、そういうところ、まるでおれみたいでよろしい。
わたしの今年の目標は「来年はがんばる」だから。
今日の目標は「明日から本気を出す」。
いま生きている目標は「来世でイケメンになって、あれこれする」。
本音を言えば、ゲイではないが、来世では女の子になってみたいんだなあ。
もちろん、かわいい子限定だが。
「目標依存症」で疲れ切っている人は来世に目標を置くといいと思うよ。
来世というのは死のその先にあるものだから、死への恐怖もやわらぐしグウ。
薬師経に本当にそんなこと書いてあるのかって? 書いてありますって。

「願わくば我、来世に悟りを得たなら」
「願我来世、得菩提時」(P60)


金光明経もおもしろそうで読んでみたいのだが6千円もして高い。
いっぱい働いて金を稼げって言われるかもしれないけれど、
働いたら自分の時間がなくなるし、疲れて本を読む気力もなくなる。
まあ、金光明経を読むのも来世にまわしてしまおう。
もう一定年齢を過ぎたら、来世にすべてを投げ込んじゃうのも一手だから。
結婚も家族も正社員も出世も成功も来世に放り込んでしまうと現世が楽になる。
「それは、うーん、来世でがんばりますので」ってふざけすぎかな?
創価学会に入って壮年部の怖いおじさんに
厳しい指導をしてもらったほうがいいのかもしれない。
学会って男子部と女子部に分かれて活動するんだってね。
ガチガチの師弟不二なんかやめて、これからは男女不二を強く打ちだしたら、
創価学会もさらなる大躍進をするような気がしてならないが、
いかがなものでしょう。
維摩経にも男女の性別にこだわっている仏弟子を天女がからかうシーンがある。
言っとくけど、本当にあるからね。
お経には西洋哲学の持ち合わせぬ怪しさとユーモアがあるので好きである。

(関連記事)
「維摩経」(中村元訳/「大乗仏典」/筑摩書房)
「維摩経」(横超慧日・三桐慈悲海編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

「お経 真言宗」(勝又俊教/講談社)

→考えるまでもなく、お坊さんほど役に立たない存在はめずらしいよなあ。
お坊さんとは葬式や仏事、法事に呼ばれ、
偉そうなパフォーマンスをするゴロツキのことだが、
民主主義でみんなが大声で葬式(坊主)なんか必要ない!
と言い切ってしまえば、大勢のふところに余裕が生まれるのである。
いま葬式に坊さんをひとり呼ぶのって、いくらかかるんだろう(10~100万?)。
でも、別にお坊さんはなにをしているわけでもないでしょう?
ああそう、法話というのがあるけれど、あれはマニュアル本があるわけで。
在俗のひろさちや先生の法話マニュアルもけっこう売れているみたい。

高僧とかいったいなんのために存在するのだろうか?
親も高僧でぜいたくざんまいの青年時代を過ごし家族を持ち、
お仲間と肩を組みながらいま高僧となった中年は「使えない」わけでしょう?
たぶんコンビニバイトひとつできないと思う。
けれども、そういう役に立たない高僧のほうが、
底辺バイトよりも偉いことになっている。
いまの世の中の理不尽の象徴が、
いわゆるお偉いお坊さんたる高僧に象徴されている気がしてならない。

天皇陛下もそうだろうと言われたら、たしかにそうだから、
高僧が偉ぶる理由もわからなくはないのだが。
皇族ってまったく役に立っていないところが逆説的に役に立っているのだと思う。
役に立たないところが役に立っているといったら矛盾になるのだろうけれど。
天皇制なんか必要ないけれど、その無用なところが有用なのだと思う。
天皇なんか道路掃除ひとつできない使えないゴミだが、そこが偉いわけでしょう?
ああ、身の保全のために言っておくと、わたしは左翼嫌いの天皇制支持者だから。
とはいえ、佳子さまとお話してみたいという願望はまったくないけれど。
人間味がないのでヌードどころか水着姿も関心がない。
けれども、佳子さまは真言宗の坊さんよりは、
庶民のアイドルとして人の役に立っているとは言えなくもない。

真言宗の坊さんも、自分の存在が人の役に立っているとか信じているのだろうか?
人の役に立つのが自分の存在意義だっていうのは、なにかが違う気がするけれど。
人間はみんな「自分のため」に生きているというのが本当ではありませんか?
「自分のため」に生きるときに他人を必要とするので、
「自分のため」なのに「他人のため」に生きたいとか思う人が現われる。
「自分のため」に「他人のため」に生きたい。
本当に「他人のため」ではなく、あくまでも「自分のため」――。
そう自覚している援助者は本物なのだが、なかなかそういう人はいないだろう。
「他人のため」にこんなに尽くしたのに報われないと嘆いている人がいかに多いか。
それは「自分のため」にやっていたのだと、どうして気づかないのだろう。
そもそも恩返しを求めて「他人のため」に動くというのが嘘くさい。
恩返しを求めるのならば、それは「自分のため」なのだから。違う? 違うなら、どこが?

このように考えると徹底的に「自分のため」しか考えず、
「他人のため」にはなにもしないで、
意味不明のお経をあげている役立たずのお坊さんが偉く思えないこともない。
「他人のため」にはなにもしないで、そのくせ高額を請求するのだから、
その「自分のため」マックス利己主義はかえって気持のいいところがなくもない。
みんなお葬式で「自分のため(気持整理)」や
死んだ「他人のため」に坊主なんか呼ぶのをやめればいい。
みんながそうしてはじめて「他人のため」に生きているという坊主連中の嘘がばれ、
偉そうに群れた彼たちはそれぞれ「自分のため」のことを考えるだろう。

最後にちょろっと書くが、「悟る」の本当の意味はこうだから。
「悟る」とは、弟子ができること。
釈迦は35歳で悟ったわけではなく、この年齢で弟子が複数誕生して、
以降お仲間と群れて生きることを決めたから、
後世このときに悟りを得たとされているのである。
真言宗トップの空海も36歳のときに群れを上から認められたから偉くなった。
「悟る」とは孤独な行為ではなく、手下をつくるための集団操作術なのであろう。
ある人が悟ったと客観的にみなされるのは、弟子ができたときしかないということだ。
一番弟子がもっともおいしい思いをできることが多いが、
反対に師匠などただの人であることを知るがゆえに、
裏切り者として集団から追放されるリスクもあるので、プラス即マイナスである。