バイト先の上司さまからすすめられたので
かねてから「男はつらいよ」を見てみようかと思っていた。
いろいろお世話になりましたでございますし。
たまたまBSジャパンで放送されていた77年公開の
「男はつらいよ 寅次郎と殿様」をジェイコムで視聴。
「男はつらいよ」シリーズを見るのははじめて。
だいぶむかしに酒をのみながらいい気分で見たら、ふむふむと思った。
山田太一ドラマは庶民批判があるけれど、
山田洋次映画にはただただ庶民礼賛しかないのである。
庶民は正しくてあったかくて、みんな苦労しているんだから、がんばって生きようみたいな。
まあ、男社会の厳しさが「男はつらいよ」を集団創作していたのはわからなくもない。
いまはむかしほどではないのだろうが、男社会ってホントーにきびちいんだ。
つねに競争を迫られ、会社のために、
ひたすら自分を殺すことを朝から晩まで要求される。
トラさんみたいに気ままに生きることができたらなあ。
昭和の野郎どもの願いの結晶が映画「男はつらいよ」シリーズだったのではないかと思う。
なんで男ばかりこんなつらい思いをしなきゃならんの、みたいなさ。
トラさんはおれみたいなやつなので参った。
定職にもつかずふらふらして、そのくせみなが言えない本当のことを随所で言っている。
それでも嫌われないのだからふしぎな存在である。
どこから見てもトラさんはいやなやつでしかないのだが、そこに大衆は惚れてしまうという。
大衆(庶民)の特徴は自分のあたまで考えず大衆(庶民)に右へならえをすることである。
そして、それが楽しいのだ。
みんなとおなじ価値観で考え、みんなとおなじ行動をする。
がために、ちょっと異質なトラさんが人気を得たのだろう。
大衆(庶民)にもわかるレベルにおける自由の象徴が「男はつらいよ」のトラさんなのだろう。

テレビライターの山田太一氏が推薦していた()映画「第三の男」を
だいぶまえジェイコムで録画視聴した。
いまネット検索をしないとストーリーを思い出せなかったくらいだから、
いまのわたしにとっては大した映画ではない。
むかし見ていたらどうだったかわからないし、
もしかしたら新たな体験をした将来に見直したらば、
これほどの名作はないと思うのかもしれない。
テーマはとてもはっきりしている。友情と正義のどちらがたいせつか、である。
もし親友が悪事をしていたら、どうしたらいいか?
山田太一ドラマは直接的な答えを出さないことが多いけれど、
映画「第三の男」では明確な答えを出していて正義のほうが大事だと主張している。
正義の主人公が親友をだらだら追跡したあと(長すぎてうざかった)射殺している。
正義のためなら世間的に悪人ということになっている親友を殺してもいい。
むしろ、正義のためなら親友でもだれでも殺すべきだ、
というメッセージがこの古典映画にはあるような気がする。
こんな映画が多数派の支持を受けた正義の時代があったんだなあ。

わたしはこの正義の思想に拒否感をおぼえてしまう。
主人公の親友のなした悪というのは、
自分の利益のためにペニシリン(薬剤)を水で薄めて売って薬害を出したことである。
友人のせいで小さな子どもが苦しんだり、死んだりしている。
だから友人は悪で、正義の主人公はかつての親友を射殺してもいい。
これが正義の思想である。
だが、ちょっと待てよ、などとわたしは思ってしまう。
自分の利益のために他人を苦しませるなんてみんなやっていることでしょう?
他人を苦しませるか自分が苦しむか――。
このとき、自分の利益を取るのがそこまで悪と言い切れるのかわからない。
自分と他人といったいどちらがたいせつなのか。
このとき他人のことを思えと言えるのは恵まれた偽善者だけではないか?

人間は体験からしか物申せないかなしさのようなものを持っている。
いま時給850円で世間的には底辺と見なされかねない職場でアルバイトをしている。
いつクビになるかもわからず、
先日もわたしとおない年の社員さんから「ツチヤさんも呼ばれなくなるかもしれませんよ」
とありがたくもご忠言いただいた(生意気にも入庫はいやだと申し上げましたら)。
で、こういう下のほうの世界で働いているとわかることがたぶんにあるのである。
人間は「悪」のようなことをしないと生きていけない。
自分の利益のために他人を苦しませなければいけないというのが人間存在ではないか。
たとえば、いまの職場のマネージャーさんは決して悪人ではなく、
むしろいい人の部類だと思うが、
ご自分の立場(やご家族)のためにパートを苦しませなければならない。
外国人労働者から「今月はやばい」とか「生活が苦しい」
といったようなことを聞くとこちらもいっとき偽善的に深刻になってしまうが、
どうしてそうなったかはマネージャーさんのせいとも言えなくはないのである。
いや、経営者のせいか、株主のせいか、日本資本主義のせいか。

みんな自分の利益のために他人を苦しませていると言えなくもないのである。
わたしなどその象徴で、
わたしがバイトで少し楽をすることで苦しんでいる同僚がどれほどいることか。
しかし、わたしよりももっと楽をして
もっと多く稼いでいるパート仲間もけっこういるのである(Hくんとか世渡りうますぎ!)。
自分が生きるということは、他人を苦しませることだ。
我利我利亡者の古参パート女性が毎日たくさん稼ぐことでどれだけの人が泣いているか。
しかし、彼女は悪人とは呼ばれない。
社員さんがパートに早く帰ってくれと言うことで毎日多くの人が苦しんでいるのである。
しかし、それは社員が悪いからではなく、仕事としてそれを言わなくてはならないのである。
いったいどういう正義で悪人を裁けようか?
ペニシリン薬害で小さな子どもを苦しませるのがもし悪だとしたら、
自分の利益のために他人を苦しませているマネージャー、社員、古参パート、
そしてなにより自分勝手なわたしは悪だというのか?
たしかにわたしは悪人だが、ほかの人はそう悪人のようには思えない。
みんな自分(の地位や収入、家族)がたいせつだから仕方なくそうしているのである。

自分と他人とどちらが大事か?

究極のテーマになるのだろう。
だから、このテーマをあつかった映画「第三の男」は名作と言われるのかもしれない。
いったいだれが犯罪者を裁けるのだろう。
いまの職場の古株パート女性たちは、自分のために人を苦しませた犯罪者を、
テレビや新聞といったマスコミに洗脳された結果、正義という名のもとに裁くことだろう。
しかし、そういう本人たちこそ
底辺男性パートや収入不安定な外国人労働者を苦しませているのである。
そのうえ、そういう自覚さえまったくなく、
自分たちは間違っていないと群れて弱いものをさらに苦しめてなんとも思わないのである。
むろん、わたしもその一員である。その象徴かもしれない。
わたしのせいでどれほどのパート仲間が苦しんだことか、
苦しんでいることか、苦しむことか。
それを知りつつ、さらにクビになるのを恐れながら、明日もわたしは職場に行くことだろう。
そんなわたしには、とてもとてもこの映画の主人公のように、
他人を苦しめたという理由からだけで正義のために親友を射殺するようなことはできない。
自分とて同罪だと思うからである。

「ゴッドファーザー」って家族の物語と一般的にはされているらしい。
家族団らんとか、そういうのとはあまり縁のない人生だったから
家族愛とかわからないところがある。
いま生活と芸術を半々で実践している(そもそも映画は芸術ではなく大衆娯楽だが)。
生活の目から学芸(学問や芸術)を見て、
同時に学芸の視線で労働生活を見たらどうなるんだろうという、
生活や芸術どちらかいっぽうに必死になっている人からは殴られそうな、
世を舐めた中途半端で生意気な、しかし本人はとても楽しい毎日を送っている。
バイト先で人は悪くないんでしょうが、ちょっとトロっとしたおばさんがいる。
その人のムーブを真似するのがマイブームになっていた一時期さえある(ごめんよ)。
正直、850円でこんなところで働いてなにが楽しいんだろうと思っていた。
なにが楽しくて生きているんだろう。
先日、話をしてみたら今月中学生になった息子さんがいるらしい。
離婚してシングルマザー、いまはおばあちゃんとふたりで子育てしている。
子どもがかわいいという。
どれだけ世間知らずなのかって話だけれど、うるっときたところがあるのねえ。
自分の子どもってかわいいもんなんだ。
子どもの成長を見守るのは、
親にとっては人生をそのために犠牲にしてもいいくらいの喜びと悲しみがあるんだ。
閉じていた目が開いた気さえしたものである。
怖いもの知らずだから失礼極まりないことを言っちゃった、あはっ。
「◯◯さん(で)も恋愛して結婚して子どもを産んで離婚までしているんですねえ」
なに言うんだ、こいつ、という感じで人のよい笑みを見せてくれたから、
怒らせはしなかったとは思うが失礼は失礼である。
バイト先にはいろいろな人がいる。お嬢さんをふたり育て上げたという男性がいる。
ひとりは大学を今年卒業。
ふたり目は大学に行かす余裕がなく美容師の専門学校で我慢してもらった。
世を舐めきった発言かもしれないけれど、おかしなリアリティがあってねえ。
本業はハイヤーの運転手をしているそうなんだけれど、
タクシーの運転手をバカにするのがいかにもお父さんって感じで新鮮だった。
タクシーの運転手なんかとはレベルが違うと心底から思っているところに男を見た。
むかしの男ってそういうもんだよねえというか。

「ゴッドファーザー」は家族の物語である。
男が女を愛し子どもが誕生したのち「家族のために力がほしい」
と権力の階段の一段でも上を目指す。
男はプライドのために生きる。
「おれを見下したな」という怒りの感情ほど男を動かすものはない。
「今日からおれの手下になるかどちらか選べ」
ビジネスにおける男の関係は、突き詰めればこの上か下かに行き当たる。
パート3の暗殺シーンでヒットマンが「偉い人」を殺す直前に耳元で言う。
「権力は持たぬものを疲弊させる」
パッと見ても意味が取れないので、へったくそな訳だと思うけれど、これは真実である。
世界は権力のある人に都合よくできているのである。
権力があれば人からお辞儀をされ尊敬され気分のいい毎日を送ることができる。
虐げられた人間というのは、要するに権力を持っていないのである。
権力がないといつも年下の人間にペコペコして、
人から命令されないと動けない目が死んだ暗い男になってしまう。
当然のことだが、権力のない男のもとに女は一般的に寄ってこないだろう(例外あり)。
このため、「ゴッドファーザー」がある種の普遍的な物語になりうるのだろう。
男が家族のために権力を求めて世をのし上がっていく――。
男がより上に行くには上司や同僚を刺すしかないのだろう。
大企業の人事の実際は、
銃弾こそ飛び交わないが「ゴッドファーザー」のようなものなのではないか。
より上を目指して独立起業したら、
あるいは「ゴッドファーザー」の世界がわかって仕様がないのかもしれない。
男は家族を守るために闘うのだが、ひっくり返せば、
家族がいなければそんな厳しい競争の世界に居続けられないのかもしれない。

「ゴッドファーザー」は、家族のためにとでも思わなければ
脱落してしまう厳しい競争社会をわかりやすくマフィアの話にして描いている。
パート1だったか、暗殺のことをビジネスだと言っていたのは正しいのだろう。
その人を恨んでいるから殺すのではなく、
そのポスト(立場/地位/権力)が邪魔だから消えてもらうほかないのである。
さて、自分の兄が殺されたら敵に復讐するというのはビジネスなのかどうか。
それは私的な復讐であってビジネスではないと考える視点のあるところが
「ゴッドファーザー」のおもしろさではないかと思う。
ビジネスではある人の死は数値化され、
そのマイナスを補うプラスを相手に補償させる必要があるだけの話になる。
それが不可能ならば相手にも同程度のマイナスを負担してもらうしかない。
「ゴッドファーザー」における死は、社会的な死のようなものである。
このためマフィアの抗争における死は娯楽として楽しめてしまうところがある。
どす黒い話を書くが、ある人に本当に復讐したかったらどうしたらいいか?
答えは当人を殺すことではなく、当人のもっとも愛するものを殺すことなのである。
できたら当人の目のまえで殺すのがもっとも効果的である。
なぜなら当人を自分はその事態(愛するものの死)を防げたかもしれないと
一生のあいだ悔恨の情に追い込み人間として破滅にまでいたらせることができる。
パート3のラストはとても意味深い。
暗殺者の銃弾は、だれをねらっていたのかという話なのである。
マフィアのドン、ゴッドファーザーをねらっていたのか、それとも娘をねらっていたのか。
おそらくゴッドファーザーをねらっていたのだろう。それがビジネスである。
しかし、神のいたずらで銃弾はゴッドファーザーの肩をかすめ、
彼のもっとも愛する娘の胸に直撃してしまう。
ゴッドファーザーは二代にわたって家族のためにビジネス(家業)を成長させてきたが、
数十年ものあいだ家族のためによかれと思ってやったことが、
結局は最愛の家族を喪うというもっとも望まない結末を呼び寄せてしまう。
ゴッドファーザーは思ったことだろう。おれの人生なんだったんだよ、おい。
しかし、これがまた人生とも言いうるのではないか。
大きな成功を望み幸運にも得る人がいるけれど、
あまりにも大きな勝利の代償は最愛の人の不幸というかたちで返ってくることがままある。
ゴッドファーザーは日本でいうならば池田大作さんみたいなものだろうが、
あの人も最愛の息子さんを早く亡くしているし人生とはそういうものなのかもしれない。
自分の死はさしたる不幸ではなく、
本当に人の心身を裁断する悲しみは愛する人の理不尽な死なのだと思う。

「ゴッドファーザー PART3」 は想像以上におもしろかった。
というかパート1、2で6時間以上使っているし、
ネットで他人の感想を調べた時間やブログ記事を書いた時間を入れたら
投資時間が半端ないから、これはもう心理的におもしろいとしか思えない。
皮肉なことを書いたが、まあ年代記(クロニクル)のおもしろさを堪能したと言ってよい。
人生ってじつのところ三代を見ないと禍福や運不運はわからないのかもしれない。
祖父、父、息子――。祖母、母、娘――。
パート3まで続けて見たせいか、拳銃で人をぶち殺したくてたまらなくなった。
ベトナムのクチトンネルで銃を撃たせてくれる商売があったけれど、
高いと判断してせっかくのチャンスを逃してしまった。
「ゴッドファーザー」三部作を見た感想は、ああ、拳銃ぶっぱなしてえ。
可能ならば人体に向けてだけれど、それは無理っぽいから人形に向けてでもいい。
「ゴッドファーザー PART3」 の感想はゴッドファーザーの娘がかわいかった。
あの子のベッドシーンがあっておっぱいを見せてくれたらかなり点は上がったのだが、
調べてみたらあの女優さんは映画監督の娘らしくNGだったのだろう。
けっ、監督さんよ、なっていないぜ。
芸術のためならたとえ最愛の娘でも、
たとえ泣きながら嫌がっても衣服を引っぺがして、
秘めていた裸体を衆人の欲情にさらすのがアーティスト魂ってもんじゃないのか!?

パート1がつまらなくてパート2がおもしろくなる映画なんてあるんだなあ。
パート1はパート2をおもしろくする布石に過ぎないのに、
なぜ助走のようなパート1が多数派から支持され権威からも評価されたのかわからない。
そもそも人生万事、世の中のこと、評価に関することみなみな、
本当のことはなにもわからない。
いったいなにが「おもしろい」作品なのか。おもしろいってどういうことなのか。
自分がおもしろいと感じたものは他人もおもしろいと感じるものなのか。
おもしろいと好き嫌いってどういう関係があるんだろう?
「おもしろい=好き」「つまらない=嫌い」の等式は成立するかどうかだ。
映画オンチのわたしの感想は「ゴッドファーザーPART1」はつまらなかったけれど。
PART2の後半はとてもおもしろかった。
で、このふたつをふくめて「ゴッドファーザー」を好きか嫌いかと問われたら、
それはわからない。あえてわからないと言いたい。
なぜなら好き嫌いを言ってしまうと党派性、派閥性が生じそうだから。
いきなり大げさな話をすると、
人間はみな孤独でさみしいからどうしようもなく連帯してしまう(群れちゃう)。
しかし、血縁以外で人間同士をむすびつけるものは好きと嫌いしかないような気がする。
ある人が好き(ヒットラー、昭和天皇、毛沢東、ホーチミン、会社創業者、池田大作)
ということが理由で人は群れていっときの孤独を忘れることができる。
反対にある人が嫌い(ユダヤ人、穢多非人、アカ、中韓、貧乏底辺、脱会者)
ということが理由で人は群れていっときの孤独を忘れることができる。
好き嫌いと群れというのはとても強い相関関係があるような気がしてならない。
みんな群れたいからなにかを好き、あるいは嫌いと言うのではないだろうか。
いや、考えすぎかな。
わたしは群れるのがなんかいやで、みんなが好きと言っているものを
群れたくないという理由で嫌いと言ってしまうようなところがある。
PART1、2を見て「ゴッドファーザー」が好きか嫌いかはやはりわからないと答えたい。

☆ ☆ ☆

「ゴッドファーザーPART2」はおもしろかった。どこがおもしろかったか書く。
パート2はマフィアの二代目ボスになった主人公と、
その父親の青年時代が同時並行で描かれる。
パート2のあらすじも細かくはよくわからなくてネットで調べたのだが、
サイトによって紹介されているストーリーが違うので
以下自分がそうだと思った物語をそれこそ真実であると思って書く。
初代ゴッドファーザーは少年時代のシチリアでマフィアに兄と母を殺されている。
アメリカに逃亡してなんとか妻子を得てまじめに食品雑貨店に勤務していた。
ところが、ここでもマフィアが現われ職を追われてしまう。
マフィアが自分の甥を働かせろと店主に命令したからクビになったわけである。
で、バイクタクシーの運転手になったけれども、またマフィアが現われる。
日の稼ぎから数割をみかじめ料(上納金)として払えと言うのだ。
青年は仕事仲間と相談する。マフィアなんかに金を渡す必要があるのかどうか。
仲間は払おうと言う。
若き初代ゴッドファーザーは「理不尽だ」と憤る。
「それが世の中だ」と仲間は青年をさとす。世の中、そんなもんよ。
むかしから現代までわれわれの大半は、
早いものは学生のうちから世の中の理不尽に気づく。
みんな無意識のうちに「それが世の中だ」とあきらめおのれの天からの分け前を知る。
世の中、そんなもんだ。あきらめよう。どうしようもないものはどうしようもない。
しかし、兄と母を殺された青年はうんざりだと思う。理不尽な世の中にはうんざりする。
ならば、どうしたらいいのか。
その威張っているマフィアをぶっ殺してしまえばいいではないか。
どうして他人を殺してはいけないのか。
なにが隣人を愛せだ。笑わせるな。自分が生き残るためなら他人を殺してもいいだろう。
一切れのパンしかなかったらそれを他人に与えるなんておかしい。
他人からパンを奪ってでも人は生きるべきだ。
命は大切だという。だから死ぬな、殺すなという。
しかし、ふたつの命がともに生きられないのなら自分が死ぬべきか、他人が死ぬべきか。
命が大切だというのなら、
自分の命のために他人を世の中から抹消してもいいはずだ。
命が大切だというのなら、
自分の妻子のために他人に死んでもらうことも許されるに違いない。
青年は小悪党のマフィアを拳銃で撃ち殺す。
この最初の殺人がゴッドファーザーへの第一歩であった。
青年は我慢するのをやめたのである。「それが世の中だ」とあきらめるのをやめた。
生きるというのは勝つか負けるかの生存競争だ。
自分や妻子のためなら人を殺してなにが悪いか。隣人愛とかきれいごとはやめようぜ。
むかつくやつは殺してもいいんじゃないか。
「ゴッドファーザー」は1、2ともにとにかく殺人シーンが多いけれど、
その根底にある思想は断じて「汝(なんじ)の敵を愛せよ」ではない。
「ゴッドファーザー」はわれわれになにを伝えているのか。

「汝の敵を殺害せよ!」

汝の敵は絶対に許すな。汝の敵への憎しみは決して忘れるな。
世の中、本当のところは殺(や)るか殺られるかなのである。
ならば、そう気づいたのなら殺られるまえに殺るしかないだろう。
資本主義社会は企業と企業の生存競争である。
生きるか死ぬかだ。殺るか殺られるかだ。何度でも言おう。殺られるまえに殺れ。
企業のなかでも社長や重役といったポストはかぎられている。
会社の同僚は仲間なんかじゃない。
あいつが出世したらへたをしたら自分がリストラされかねないのが会社である。
会社をクビになったら妻子まで路頭に迷わせてしまうではないか。
人間関係というのは、敵か味方しかない。
だとしたら敵はどうしたらいいのか。汝の敵を愛せよ? バカ言ってんじゃないよ。
汝の敵は殺害せよ。汝の敵の息の根をとめろ。
初代ゴッドファーザーの兄や母はなぜ殺されたのか?
力がなかったからである。権力がなかったからである。弱いものは殺され損である。
弱いものは虐げられいつも貧乏くじを引かされる。
力のない弱いものはうさんくさい牧師や神父から「汝の敵を愛せよ」と教わり、
お互いの貧しさを嘆きながら「それが世の中だ」と愚痴を言うしかない。
しかし、本当にそれだけしか道はないのか。
弱いものはどんな手を使ってでも強くなるべきではないか。
どうしたら強くなれるのか。いま強がっているものを抹殺すればいいのである。
世の中は奪うか奪われるかだ。
十字架に昆虫標本のようにはりつけられた珍種のペテン師は言ったとされている。
いまも聖職者がそれを真似てうそくせえ説教をする。「貧しき者は幸いなり」と。
いな、である。貧しいものは餓死をする。貧乏人の命は軽い。
貧乏な母子は虫けらのように殺されても文句ひとつ言えないのである。
世の中は力だ。男の人生はいかに権力をにぎるかだ。
初代も二代目もゴッドファーザーは言うであろう。

「貧しきものは幸いではない!」

「ゴッドファーザーPART2」がおもしろいのは、
「親の因果が子に報う」という宿命の感覚をうまく描いているところである。
二代目ゴッドファーザーはパート2ではじつの兄まで殺してしまう。
なぜなら、兄は自分の過去の殺人行為を知っているからである。
もし寝返られたら自分の破滅につながる。
できの悪い兄と優秀なマフィアのドンである自分のどちらが生き残るべきか。
どちらかが死なねばならぬなら兄のほうが死ぬべきだろう。
この兄はダメ男なのに生意気にも自分に嫉妬していろいろ画策してきたではないか。
聖書ではカインが嫉妬から弟のアベルを殺しているけれど、
アハハ、ハハハ、ハッハッハ、兄カインよ、死ぬのはおまえのほうだからな!
しかし、二代目ゴッドファーザーは、
自分がどうしてそれをしたかわかっていないのがいい。
二代目ゴッドファーザーはなぜああも多くの人を殺されなければならなかったのか。
それは本当に二代目の罪なのか。
くそ長い映画を最後まで見た観客はそうではないことがうっすらわかるようになっている。
初代ゴッドファーザーがちんぴらマフィアを殺したから、
それが因となり縁が熟して二代目ゴッドファーザーは大量殺人という果を
どうしようもなく宿命のように引き起こさなければならなかった。
初代ゴッドファーザーは家族を幸せにするためにマフィアのボスになった。
しかし、その結果として最愛の息子が兄を殺すにいたったのである。
家族愛がある青年をマフィアのボスにして、
その結果として愛する息子が兄を殺すような羽目におちいったのである。
兄と母をマフィアに殺された青年はのちにこのマフィアを復讐として殺す。
これは兄や母といった家族を愛していたからこその殺人行為である。
人を殺さなければ表現できない愛というものがあるのではないか?
愛はそんなに清く美しいものか。愛ゆえに人は他人を殺すのではないか?
初代ゴッドファーザーが息子を愛したからこそ、
二代目は苦しまなければならなかった。
息子の罪の原因は父親の愛にあったのである。親の因果が子に報う。
ある人の人生というのは、父親がなした行ないに大きく影響される。
父親がある女を愛し孕(はら)ませたせいで子どもたちが憎しみ合うこともある。
子どもの人生は一見すると子どもが決めているように見えるかもしれないが、
本当のところは親の人生が子どもの人生を
かなりのところまで決定づけているのではないか。
二代目ゴッドファーザーが最初の殺人を行なったのは父親のためである。
初代ゴッドファーザーが兄と母を殺されるようなことがなかったら、
アメリカで人を殺すようなこともなかったと思われる。
だとしたら、殺人の罪というのは裁かれるべきだろうか?
個人に行為をなす自由などあるのか?
すべては宿命で決まっているのではないか?
子を作るというのは、おのれの宿業を新たな生命に引き継がせるということだ。
息子は父親の宿命をになって世に誕生してくる。
二代目ゴッドファーザーの妻がお腹のなかの男の子を中絶するのは象徴的だ。
もしこの男の子を産んだらば、いったいどんな男に成長することか。
すでに男の子はひとりいる。
将来兄と弟は三代目ゴッドファーザーの地位をめぐって殺し合うのではないか。
この子は産んではならない。この家系の男子の血はなにをするかわからない。
ゴッドファーザーの血はまがまがしくも呪われている。
呪われた血の美しさを描いているところがこの映画のおもしろさである。
この映画を見るとわかるのは、
うそくさい善よりも血のにおいのする悪のほうがはるかに美しいということだ。

「ゴッドファーザーPART2」でいちばんおもしろかったのは公開聴聞会シーンだ。
二代目の腹心が裏切って、過去のボスの殺人罪を暴露する証人として出廷する。
むろんのこと、権力者の二代目ゴッドファーザーはその情報を事前に察知している。
かつての腹心であり仲間に自分の犯罪行為を証言されたら身の破滅だ。
絶体絶命のピンチである。ゴッドファーザーはどうするか。
証言するかつての腹心の兄をともなって出廷するのである。
むかしの腹心はその瞬間に震えあがり証言を撤回するところが本当におもしろかった。
どういうことか。本当のことを証言したら、おまえの兄を殺すぞという脅迫だ。
二代目ゴッドファーザーのように兄を邪魔に思う弟がいれば、
証言台に立った男のように兄を慕う弟もいるのである。
一度裏切ったものはまたいつ寝返るかわからない。
映画のラストで旧腹心は兄を殺すぞとなかば脅され自殺するようすすめられる。
兄を殺すゴッドファーザーのような弟がいれば、
兄のためにみずからの命を断ってもよいと思う弟もいるのである。
この対照に気づいた観客はそういないのではないかと思われる、えっへん。
最後におかしな自慢をしてみた。
総じて本作品はキリスト教という光の影の黒々しさを、
その黒光りした美しさを描いた映画であったように思う。
これはキリスト教世界の人にしかなかなか理解されない映画ではないかと思われる。
日本人で「ゴッドファーザー1、2」をおもしろいと思えるのは、
いかにもな西洋的権威に弱い人か、よほどの宗教的センスを持った人だけではないか。
「ゴッドファーザー」はパート3まであるようだ。
これはあまり評価されていないらしいが、もののついでに近日中に視聴しよう。

映画「ゴッドファーザー」って世界的に大ヒットした超有名作品なんだね。
世間知らずだからそんなこともわきまえず、
まったく事前情報を入れないで名作をジェイコムで視聴する。
「ゴッドファーザー」を好きか嫌いかと聞かれたら「わからない」と答えると思う。
正直、よくわからなかったのである。
これが大人気になったということは意外と大衆はバカにできないということではないか。
すなわち大衆の映像処理能力はわたしなどよりはるかに秀でている。
映画ではおなじような顔の人ばかり出てくる気がして、
終始だれがだれだかわからなくなった。
場所もポンポン飛んでいたが、それぞれどこだったか正確に把握していたとは言い難い。
これはもうダメだと思ったのは(自分がですよ自分がダメ)、
だれかが立ち小便をしているときに、車内でだれかがだれかを銃殺したでしょう。
あれは味方が敵を殺したのか、味方が敵に殺されたのかよくわからなかった。
あそこで本格的につまづいたような気がする。
白人ってみんなおんなじ顔をしているように見えない?
しかも全員マフィアスタイルだから、
あれを識別するのはわが脳のスペックでは無理だった。

ストーリーもよくわからなかったから、ネットでいろいろ調べてみた。
あらすじをうまく書ける人と書けない人にわかれるという当たり前のことに気づく。
で、いいあらすじを見つけて、ようやくどういうストーリーだったのか理解する。
最後に教会シーンとカットバックで大量暗殺があったけれど、
あれもまただれがだれを殺しているのかさっぱりわからなかった。
あれは主人公サイドが敵を一掃していたところだったのね。
マフィアのボスとか、どうしたってみんなおんなじ顔に見えちゃうよ。
こんな映像オンチの感想だから正しくないのだろうが、
ストーリーがポンポン飛んでまとまりがなく冗長になっていたような気がする。
婚約者のいるはずの主人公が高飛び先のシチリアで美女をこます。
美女が主人公の身代わりになって死んだら、今度は婚約者にプロポーズする。
なんでそうなるのか男女の恋愛の機微に疎いためだろうがわからなかった。

結局、「ゴッドファーザー」は男の子の世界の物語なのだと思う。
男の子ってやたら体面を気にするというか権力志向が強いというか。
家族愛とかファミリーの絆とかいうけれど、
あれは単に男の子たちが群れているだけともいえなくはない。
家族って群れの最小単位であることに気づく。
人はどうして群れるのか突き詰めて考えてみると孤独でさみしいからなのではないか。
で、人は群れてなにをするのかというと群れのなかでの順位を決める。
それから群れの結束を固めるために敵を設定して群れて攻撃する。
群れのひとりが殺傷されたら、群れのために復讐しようとする。
男の子はプライドの塊りで、じゃあ、そのプライドをどこに支えてもらうかというと
群れのなかにしかないのかもしれない。
会社とか学界とか文壇とか画壇とか、
群れに所属して評価してもらうしか男の子のプライドが充足される道はない。
ひとりの女の子から好きだって言われただけじゃ、男の子のプライドは満足しない。
女の子だって好みのタイプは群れのなかで上位にいる人間でしょう?
一流社員や医者とフリーター、
女の子がどちらを選ぶかっていったら、それは決まっている。

こうして書きながら考えてわかってきたけれども、
「ゴッドファーザー」はひとりの女の子から愛されて満足していた男の子が、
マフィアのドンである父親が狙撃されたのを契機として、
男らしい群れへの帰属意識を呼び覚まされ、
以降群れの論理で生きるようになる物語と解釈することもできないわけではない。
どうして人間って群れたがるんだろう。
そして、群れのなかで順位をつくり、みな群れのトップにあこがれあがめ、
さらにその群れをほかの群れよりも上位に位置づけようと粉骨砕身する。
なにゆえにか。人間の本能みたいなものなのだろうか。
ひとりの恋人で満足していたカタギの青年が
ラストでは大量殺人もいとわない冷血なマフィアのボスになる。
個人の論理で生きていた青年が群れに取り込まれ群れのために生きるようになる。
最後に権力の頂点に立った殺人鬼は愛妻から質問される。
「あなたは多くの人を殺したっていわれているけれど、それは本当?」
いまや女よりも群れを優先するヤクザの組長はどう答えるか。「ノー!」
群れに生きるというのは、この「ノー!」を言えるかどうかなのだろう。
群れのためなら本当のことを言ってはならない。
群れるとはあそこで「ノー!」と言えるようになることなのだ。

やたら人が死ぬ映画だったが、あれらの殺され方にはあこがれる。
一瞬にして拳銃であたまを撃ち抜かれるなんて理想的な死に方だよなあ。
というのも、死を意識せずして一瞬のうちに死ねるわけだから。
ふつうの視聴者は味方の死に憤りを感じ、主人公に感情移入するのかもしれない。
わたしは死んだ人をうらやましいなとしか思えないから、
うまく感情移入できなかったのかもしれない。
主人公もイケメンでなんか虫が好かないし、彼がシチリアで美女をゲットするのだって、
結局はマフィアの跡取りという権威(肩書)を利用したものだったわけでしょう?
シチリア美女のおっぱいを見(ら)れたのはよかったけれども。
むかしはおっぱいくらいで興奮したけれど、いまはおっぱいの価値が下がったなあ。
おっぱいに行き着くまでの複雑な物語を仕組んでくれていたら
おっぱいの輝きが増すのだが、
「ゴッドファーザー」はあまりおっぱいに重きを置いていないようだった。
とにかくよく人が突然死ぬ映画だったから、なんでもないシーンのときも、
いきなり拳銃を持った人が現われドンパチやるのではないかというスリルがあり、
そこがまあおもしろかったといえなくもない。

この映画が好きだという人にどこが好きなのかじっくり聞いてみたいなあ。
きっと俳優が好きなんじゃないかと思うんだ。
多くの人は映画を俳優の演技に注目して鑑賞しているように思われる。
わたしは映画で俳優は軽んじているところがあって、
物語の質のようなものを重視している。ストーリーのおもしろさである。
マフィアのドンが格好いいという思い込みが大衆心理のなかにあるのは、
おかしなインチキ精神分析をすると人はみな群れたがる本能があるからではないか。
群れの長(おさ)にはつい敬意を払ってしまうというような浅ましい奴隷根性。
「ゴッドファーザー」はアメリカの忠臣蔵とでもいえるのかもしれない。
あの主人公が最後までファミリーなんて関係ないと突っ張っていたらおもしろかったのに。
この映画が上映されたのは、アメリカがベトナム戦争でいろいろ内部でもめていた時代。
国民が一丸となってアメリカというファミリーのために団結する物語を、
当時のアメリカ国民は深層心理のうちに求めていたのかもしれない。
多くの人が求める物語を提供するのがエンターテイメント産業の使命である。
そう考えると「ゴッドファーザー」は、
時代の要請にかなったすばらしい名作映画ということになろう。
最後に繰り返す。「ゴッドファーザー」は好きか嫌いか――よくわかりません。
明朝、引き続きパートⅡを視聴する予定。

朝日賞作家の山田太一さんがどこかですすめていた
1969年公開のアメリカ映画「真夜中のカーボーイ」を有料放送ジェイコムで視聴する。
夢破れる青年の物語である。
田舎から都会に来た、
自分ならハスラー(男娼/ヒモ)になれるのではないかと夢見ている美青年が主人公。
田舎の皿洗いのぶんざいで都会に出たら一発当てられると思ったのである。
結局、青年はなにものにもなれなかった。
ただびっこで結核病みのホームレスの青年と友だちになっただけだった。
この貧しいホームレス詐欺師もおそらくむかしは夢を持っていたはずである。
いや、ホームレスになったいまも決してかなわない金持になるという夢を見ている。
むろんのこと夢はかなわない。青年の夢はかなわないものだ。
夢を見ていられるあいだだけが青春なのだろう。
ラスト、びっこでもてないネズミ男は死んで、
美青年は外で力仕事でもやるしか生きていく道はないかと決意する。

「真夜中のカーボーイ」は青春の夢の敗北をじつにうまく描いている。
ありきたりなセリフだが、夢を見られるのが若者の特権なのだろう。
どうでもいい個人的な体験を書くと、いま東京からわざわざ埼玉県にまで通い、
低賃金を求めての非正規雇用に励んでいる。
どうしてそんなことをしているのか自分でもわからないが(お金っしょ!)、
ひとつには外国人の若者の顔がとてもいいということがあるのかもしれない。
いまや日本人高校生でさえ失っている青春(夢)を若年外国人男女は持っている。
なにものかになろうと思っている顔がじつにいい。感動的だ。
とはいえ、1年近くもおなじ職場に通っているとかなしいことにも気づいてしまう。
とてもいい顔をしていた外国人の若者がしだいにすたれていくのである。
夢がかなわないことに気づいてしまう。
日本に来たばかりのころ、わたしのとなりでベトナムの歌をうたっていた女子がいた。
最近見かけたら落ち着いたという面ではとてもいいのだろうが、
覇気が失われたような、確実になにかを失った顔をしていたのがとても残念だった。
いや、一般的な基準ではむかしよりかわいくなっていたのだが、
なにかをあきらめた美しさもあるのだが。

世の中は無常でみんな変化する。
お若い社員さんが多い職場だが、彼らの顔にも(勘違いかもしれないが)変化が見られる。
むかしは硬直したように見えた若年社員さんの顔に、
青春の色合いが戻ってきたと思うことがある。
その笑顔はいいぜ、
とダメバイトのぶんざいでグー(親指)を出したくなったことさえある(出しませんが)。
青春の勝利よりも、
あるいは「真夜中のカーボーイ」のような青春の敗北のほうが
みなに共有される美しい物語なのかもしれない。
敗北してもいいのだろう。なぜなら青春は一度敗北しても復活することがあるからである。
「真夜中のカーボーイ」の主人公は、親友の敗北(死)を美しく抱きしめていた。
この映画は恋愛の要素のまったくないところがよかった。
小林秀雄賞作家の山田太一氏推薦の映画にかなり共通するところである。

脚本家の山田太一氏推薦の映画「羊たちの沈黙」をジェイコムにて視聴する。
こんな名作を見ていないのかと驚かれるかもしれない。
しかしまあ、それぞれ時期というものがあるのだからこれでいいのだと思う。
山田太一さんおすすめの映画は当たりが多く、
重い腰をあげて見るたびにこんなおもしろさがあったのかと新しい発見をすることが多い。

「羊たちの沈黙」はあからさまに本当のことを描いた名作だと思う。
映画は殺人ばかりで観客の下世話な好奇心のツボを上手についてくれる。
われわれは本当のところ本音では猟奇犯罪とか大量殺人とか大好きでしょう?
いや、わたしだけかなあ?
でも、「羊たちの沈黙」が評価されているってことはみんなもそうだとしか思えない。
退屈な日常に飽き飽きしているわれわれは非日常的なことに飢えている。
なーんかきちがいさんがめちゃくちゃやってくれないかなあ、と思っている。
欲望のおもむくままに人をぶっ殺せるやつをすごいなあ、と思っている。
建前では被害者遺族に同情するふりをするけれども。
またそうしないと世間体が悪く、日本社会では和を乱したら村八分だ。
いや、日本だけではないだろうが、日本はとくに場の空気を重んじる風潮が強い。
欲望のままに勝手をするようなやつを陰湿に排除しようとする。
逆説的にそれだからこそ、欲望のままに行動できる人へのあこがれがあるのではないか。

考えてみたら人を殺しちゃいけないなんていうルールはどこにもないんだよね。
戦争中はたくさん敵兵を殺したものが英雄になるわけだから。
いまの日本でも法律で殺人を禁じられているわけではない。
人を殺したらこういう罰がありますよ、と法律には書かれているに過ぎない。
だから、べつにむかつくやつがいたら殺してもいいわけ。
わたしの言葉だと説得力がないというのなら、偉い親鸞さんもそうおっしゃっている。
しかし、殺せない。せいぜいそいつの陰口をたたくくらいである。
このため、このゆえに「羊たちの沈黙」はおもしろいのである。

「羊たちの沈黙」はじつに巧みに観客のスリルを刺激してくれる。
スリルとは、なにが起こるかわからないということである。
われわれ人間は、つぎになにが起こるかわからない状態を
快感に思うようにどうしてかなっている。
しつこいまでに繰り返すが、なにが起こるかわからない状態は楽しい。
なにをするかわからない人と一緒にいるのは怖いけれども非日常的でおもしろい。
実生活ではそうはいかないのかもしれないが、映画でならばその状態を楽しめる。
そのうえみんな本当は映画のようなことが現実にも起こらないかと思っている。
実際、この作品にもモデルになった事件があったようだから、
現実のほうがもしかしたら映画よりもスリルに満ちているかもしれない。
しかし、現実ではどうしてもスリルをリスクと考える習慣ができあがっている。
本当はなにが起こるかわからないスリルは笑っちゃうくらい楽しいのに、
にもかかわらず生活上はちょっと変な人を見ただけで脅えてしまう。
好奇心を持っても話しかけるなんてとんでもない話で、近づいていくことさえできない。
近づいて話しかけてみたらどんなスリルと興奮があるかわからないのだが、
われわれは変な人を恐れて実際にはそういう行動を選択できない。

精神科医の春日武彦氏に言わせたら、精神医学的にはおかしい作品になるのだろう。
だが、われわれにとって大事なのは正誤ではなくどのくらい楽しいかってことだ。
快楽殺人犯で刑務所に収監されている精神科医のレクター博士は、
FBI新米女性捜査官に向けて言う。

「きみは人生を楽しむことを知らない」

そうよ、人生って楽しむためにあるんだぜ。
われわれはなにを楽しいと感じるかといったら、スリルと興奮じゃないか!?
なにが起こるかわからないことをわれわれは楽しいと感じるようにできている。
「きみは人生を楽しむことを知らない」(レクター博士)
本当はなにをしてもいいのかもしれない。
くだらない常識なんかに縛られて、
さも訳知り顔で「現実はね、世間はさ」とため息ばかりつくのはいかがなものか。
やっちゃえ、やっちゃえ、やってしまえ。それは楽しいんだからやってしまえ。
人生で一度くらいなら映画のようなことが起こるかもしれないじゃないか。
人間はなにをしてもいい。楽しいことをしよう。欲望に忠実になろう。快楽を肯定しよう。
常識や世間体を捨てよう。「なにをしてもいい」状態を人は自由という。

1960年公開の名作映画「おとうと」をジェイコムで録画視聴する。
キネマ旬報ベストワン、監督賞受賞作品。山田太一氏推薦作品でもある。
脚本の水木洋子の「おかあさん」がとても好きだったからたいそう期待して見たら、うーん。
ちょっとあたまの弱そうな弟が結核になって死ぬまでを見守るお姉さんが美しい。
しかし、物語としてドラマとしてこれがおもしろいのかと聞かれると、うーん。
最後のほうは不謹慎なことを考えていた。早く弟くん死んでくれないかなあ。
結局、「人のため」に生きる人は美しいという道徳映画でもあるような気がするのだが。
この映画を理解できないと書いたら、どこぞの先生に怒られるのかもしれない。
「人の気持を考えろよ!」
どうして? なんて質問したらビンタを喰らうかもしれない。
なぜなら「思いやりは美しい」からだ。

最初のほうに岸惠子が万引きの疑いで捕まるシーンがあるのだが、
あれは絶対に身体検査と称して気位の高そうな女を全裸にすべきだった。
このシーンだけはだれがなんと言おうと絶対にそうしたほうがよかったと思う。
女優は監督のため、観客のために衣服を一枚ずつ脱ぐべきだった。
基本的に俳優や女優という人たちは「自分のため」に生きている自分勝手な人が多いはず。
そういうエゴイスト美男美女が映画やドラマでは
「人のため」に生きる人間を熱演するのだから、その現実と虚構のギャップがおもしろい。

「自分のため」に生きているほど俳優や女優はその輝きを増すのだから不思議なものである。
エゴのない人たちはエゴの強い人をかならずつぶそうとするから、
それにもめげずにエゴを通す人には常人にはない孤独の美がそなわるのだろう。
孤独はひとりぼっちという側面から見るとみじめったらしいが、
一方で孤独をつらぬき通した結果として生じる美しさもないわけではないと思う。
とはいえ、容姿端麗ではないひとりぼっちがその美を獲得するのは難しかろうが――。

本人非公認の弟子を自称しているので山田太一氏推薦の「浮雲」をジェイコムで視聴する。
これはシナリオで読んだ記憶があるけれど、くそつまらなかったという記憶しかない。
それでもこちらは山田太一非公認弟子だから、困難に負けず映画を観るのである。
つまらないことをいまさら指摘してもしょうがないので、今回は登場する男3人に注目したい。
まずは主人公の森雅之で、こいつはよくわかんないんだがとにかくもてる。
たぶん森雅之の魅力のわかる人というのが恋愛能力が高いのではないだろうか。
森雅之のよさがわかる男女はもてるというような法則があるような気がする。
ヒロイン高峰秀子の親類のおにいさんである山形勲はなかなかよかった。
山形勲は高峰秀子の「最初の男」で「3年もおもちゃ」にしたそうである。
山形勲はのちにインチキ新興宗教をはじめ大儲けするのだが節操のない小悪党ぶりがいい。
田舎で小料理屋を営む小商人の加東大介が「浮雲」のなかでもっともよかった。
加東大介は金の力にものを言わせて若く美しい岡田茉莉子を妻にしている。
客の森雅之がしている高級腕時計に目をつけ加東大介は1万円でゆずってくれないかと頼む。
まさに成金根性である。
このときの人情家ぶった加東大介と森雅之の会話があとから見返すとおもしろい。
若い妻をめとったせいか加東大介は人生わかったようなことを言うのである。
加東大介(清吉)は自分の若くて美しい女房が調理場を去ると彼女を指して――。

清吉「(彼女が去ると)どうも、娘みてえに若いんでお恥ずかしいんですが……
 これも前世の因縁で、めぐりあいだと思っていますがね……
 旦那、めぐりあいってものは大切にしなくちゃいけねえ、
 めぐりあいにさからっても……」(「シナリオ文学全集9」より)


このあとどうなるかというと若く美しい妻の岡田茉莉子は森雅之と出来てしまう。
そりゃあ小太りのプチブルなんかよりは甘いマスクの森雅之のほうはいいだろう。
男の価値を正確に品定めする岡田茉莉子は森雅之を追って東京へ出ていってしまう。
これも「めぐりあい」と観念することができなかった旦那の加東大介は追いかける。
結果、東京で森雅之と同棲している岡田茉莉子を殺してしまうのだから。
訳知り顔で言った、「旦那、めぐりあいってものは大切にしなくちゃいけねえ」の台詞が空々しい。
しっかし、相手を殺したくなるくらいの恋愛とか一度でいいから体験してみたいよなあ。
ある意味で加東大介は「浮雲」のなかでもっとも幸福な男かもしれない。
生娘だった高峰秀子を女にして3年も好き放題おもちゃにした山形勲もおいしい役ではあるが、
あまり人生の熱狂を経験したとは言えず映画的には欠損した人物と言わざるをえない。
むかつくのは森雅之である。
自分勝手に生きているだけなのに「前世の因縁」か女が彼を放っておかない。
わたしは加東大介や山形勲は好きだが、森雅之は蹴飛ばしてやりたいくらい嫌いだ。
高峰秀子は特別好きでも嫌いでもないが、3年くらいおもちゃにするのは悪くないよなあ。
いや、贅沢を言ってはならない。
パンパン(米兵用娼婦)あがりで中絶経験ありの女性(「浮雲」における高峰秀子の経歴)でも、
いまのわたしは喉から手が出るほどほしいのだった。

(どうでもいいでしょうがシナリオ「浮雲」の感想↓)
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2874.html

作家の山田太一氏のみならず多数の識者が推薦する
1959年の白黒映画「お熱いのがお好き」を
ジェイコムで放送されていたから勉強として視聴する。
まことアメリカーンな映画だと思う。アメリカーン。
映画は嫌いなのでほとんど見ていないためイメージで語るが、
日本映画はうじうじジメジメしている。
我慢辛抱、奉仕精神、思いやり、相手のため、自分を殺す――。
一方でアメリカ映画は「したいことを思い切り大胆にするわ」
という気風に満ちているとでも言おうか。
名作となっている白黒映画「お熱いのがお好き」は極めて演劇的な映像作品と言えよう。
演劇(芝居)をあまり勉強していないものがこういう映画を名作ともてはやすのかと思った。
善玉と悪玉のわかりやすさ、変装(女装)、取り違え、一見するとハッピーエンドらしき終幕。
演劇だったらよくある作品なんだが、
映画でシーンをこまめに分けてよくこれをやりましたねというところがほめられる点なのか。
結局、顔なわけでしょう? サックス奏者がヒロインの女を好きになったのも顔。
結婚適齢期のその女が好きになったのは顔はよくなおかつ大富豪であるセレブ男性
で、結局、大富豪は貧乏サックス奏者の変身したことだったことがばれる。
ヒロインはお金よりも顔のほうが、いや愛のほうがたいせつだと思う。
どこの馬の骨かわからぬあんちゃんと愛の逃避行に大海原をまっしぐら――。
本物の大富豪が女装したもう一方のにいちゃんに惚れ込むのも合点がいかなかった。
いくらゲテモノ食いが趣味と言ってもあれはないだろう。
いい恋愛勉強になったのはたしかだ。
いちばん恋愛で大事なのは金。金があっての顔であり、愛である。
愛(の言葉や行動)は、相手の金や顔の代価物と言うこともできよう。

金>顔>愛

先日900円の床屋で1時間近く待たされ女性誌を固め読みする機会に恵まれた。
男性誌も決してほめられたものではないのだろうが、
女性誌の下品低劣さには目を覆いたくなった
(というのは嘘で興味津々に時間を忘れて熟読した)。
女のあたまのなかって他人の噂話(金、顔、夫、恋人)しかないんだなあ。
名作映画とされる「お熱いのがお好き」が描いているのは結局女性誌の世界なのである。
そんなことを言えば小林秀雄賞作家の山田太一氏のドラマもほぼ女性誌の世界を描いている。
なになに、女学生さんはこの映画を観て、やっぱりお金よりも愛のほうがたいせつと思うわけ?
逆でしょう。お金あっての顔であり、愛であるという現実を女子は知るわけだ。
でもさ、これは男の世界だけれども、顔がよくて女が寄ってきても空しくならないかなあ。
コンプレックスをばねにして金持になり愛人を何人かはべらかしても寒々しくはないか。
いい歳をしてそんな世間知らずのことを思うボウヤだから、
なにか役に立つ資格の勉強でもすればいいのに
世の識者にたぶらかされて「お熱いのがお好き」なんて見てしまうのだろう。
現実は映画の反対と思っておけばまず間違いがなかろう。
現実はドラマチックなこと、劇的なことはなにもないと思え。
男女がつきあうのは愛からではなく、容貌と懐事情の釣り合いからである。
愛は一瞬で醒めるものだがしかし、
その一瞬に(だけ!)生きている興奮が充溢していることを動物的感覚で
老いも若きも女子は知っている。