神経衰弱とアル中が急速に進行し、
心身ともにボロボロになりながらテレビ初公開の映画「続・人間革命」を
ジェイコムで視聴。なみだ、なみだであった。
続編の特徴は池田大作先生こと山本伸一(あおい輝彦)が登場すること。
以前から気づいていたことだが、
初期の山田太一ドラマは非常に創価学会ワールドと親和性が高い。
人間は観念に救われるのではなく、最後には金だという本音がすばらしい。
この映画でもそうとう学会マネーが動いたことが予想される。
創価学会と暴力団の近似性も美しく描かれているが、
わたしが学会を好きなのは、かの宗教団体にはあたかもヤクザのような、
そして嘘のような仁義の世界があるという幻想があるからかもしれない。
おのれの創価学会嗜好をあらためて実感する。
ただし池田大作さんはあんまりで、もっぱら戸田城聖さんのファンである。
あれは渡哲也の黒歴史なんだろうが、
ヤクザ役で葬式で仁義のために死ぬところがとてもよかった。
南無妙法蓮華経だ。明日からしばらく勤行を復活する。
わたしも観念なんか信じない。かといって、おっぱいも信じない。南無妙法蓮華経。
アル中だった創価学会二代目親分の戸田城聖さんの真似をして、
昼間から酒をのみいい気分で大ヒット映画「人間革命」をジェイコムで視聴。
できたら映画は90~120分にまとめてもらいたいが、いい映画じゃないんですか?
よかったですよ。
とはいえ、これは当方が創価学会に大いに興味があり、
事前知識がたっぷりあったから楽しめたのかもしれない。
トーシロがいきなり見てもわけがわからないと思う。
アル中の戸田は洋酒(ウイスキー)派だと関連本で知っていたが、
この映画では日本酒ばかりのんでいた。
最近わたしも日本酒好きなので、おれも戸田先生レベルのきちがいかなあ、
なんて不遜なことを生意気にも一瞬だけにしろ思ったことを懺悔して猛省する。
法華経自体には十界論は明確に説かれておらず、
正確には天台チギ、ではなくて、その弟子のタンネンだったか?
まあ、系譜はよくわからんのだが、
結果としてそれが庶民のこころをとらえたのならそれでいい。
わたしも毎日ではないが数日に1回、
創価学会の婦人部さんからいただいた数珠を手にして、
法華経と題目を唱えている。
ここだけの秘密だが、禁止されている念仏を唱えることもある。
でも、法華経を唱えていることは事実だから、おもしろいことがないかなあ。
先日、父のまえで法華経を暗唱したらビビッていた。
あの世代の人は創価学会に恐怖感をいだく。おお、役立つじゃんと思った。
日蓮正宗をあまりにも軽んじて描いているが、これも離別のきっかけになったのかしら。
わたしはあの騒動に関しては、
完全に創価学会の味方で、葬式のお坊さんは必要ないと思う。
戸田が獄中で悟ったシーンがあるが、あれは嘘くさい。
悟ったと思っても、その悟りは日々変わり、毎日のように変節していくのが人間だと思う。
しかし、いい映画だった。勇気をもらった。南無妙法蓮華経。
山田太一先生推薦の映画をジェイコムで視聴。1993年公開の香港・中国映画。

ものすごい有名な映画賞を受けた作品。
まえに一度見た記憶があり、最後まで行けずにギブアップした気がする。
中国の京劇の名優ふたりの話である。俳優と女形。
わからないが、あれは女形が相方に同性愛感情を抱いているという設定だったのかな。
セリフから抜粋する。

「人生には皆、運命がある。運命には逆らうな」
「芝居と(現実を)混同しないでください」
「時代が変わったことをわかっていない」


このあたりがテーマだったのではないかと思う。
あれはモブシーンというのか。
俯瞰の大画面シーンがまったくないので息苦しく感じた。
思ったのは、中国の文化大革命ってやっぱりひどい。
生まれのいい貴族や富裕層、知識人が主役の時代も考え物だが、
彼らを一律に反革命分子、反動分子と決めつけ、
「主役は労働者」というテーゼを絶対正義とすると悲惨である。
無知ゆえ残酷な労働者たちが群れて、造反有理の名のもとに、
少数の知識人や貴族を取り囲み弾劾するシーンは印象深かった。
ただし作品がおもしろいかといったら、そうではない。
この感想は造反有理になるのか。

日本ではかつて造反有理や革命分子を気取っていたものが、
いまでは大学教授になり、
最近の若者は元気がないとか権力者然として説教しているのは見苦しい。
しかし、権力者は正しく、
大学教授の原一男先生から今年映画館でご指導を受けたように、
もっと全身をすみやかにして映画を観なければなるまいとふたたび反省する。

山田太一先生推薦の映画をジェイコムで視聴。1974年公開のスウェーデン映画。
先生のおすすめはオリジナルのテレビ版だが、こちらが放送されたのだから仕方がない。

孤独な人は結婚したらと夢をいだくようだが、
結婚はそんなにいいものかという陰惨な夫婦の現実をこの映画は描写している。
わたしは両親の争いの仲介役を10年以上務めたから、
夫婦にまったく幻想をいだいていない。
映画における仲の悪い夫婦を見ていると、ほら見たことか、と小気味よかった。
スウェーデンといえば、夫婦喧嘩を多く芝居に仕立てた文豪ストリンドベリの国。
作品中、こんなセリフがあり、くすりと笑ってしまった。
これはストリンドベリを知っているから、おもしろいと思えたに過ぎない。

「ストリンドベリが、こう言っている。
憎み合う夫婦ほど恐ろしいものはこの世にない」


42歳の35歳の白人夫婦が喧嘩をして仲直りをして、
夫が若い女のところに逃げ、しかし復縁をするかと思わせておいて、
なぜか愛し合っているのに離婚することになり、
最後はお互い別の相手がいるのにセックスフレンドになるという話である。
夫婦のことはよくわからず、それも40年以上まえの白人世界。
このためかやたらセックスと孤独の問題に言及されているのが目を引いた。

「あなたはあたしから離れられない。他の女では、あれが立たない」
「孤独への不安から、愛のない結婚をしたの」
「いまの望みは自由になることだ」
「あの人は元気かしら。孤独ではないか? 何がいけなかった?」
「自由はいいが、孤独はいやだ」
「私は誰も愛したことがない。愛されたこともない。とてもさみしい」
「あたしは思春期からいつもセックスの問題を抱えていた」
「身の程を知った。自分の限界を受け入れた」


男も女もやたらセックスに関心があるようで、
40歳を超えた夫と40間近い妻が、そんなにお盛んなのかと驚いた。
それとそのくらいの年齢になっても(その年齢だからか)、
いい中年が「孤独」や「さみしい」といったセリフを連発するのが奇妙に感じた。
おもしろいかと聞かれたら、複雑な顔をするしかない。
山田太一推薦でなければ、最後まで視聴できなかっただろう。
実際、途中で一回ストップして、長い中断期間があった。
結婚経験があれば、おもしろい映画なのかもしれない。きっとそうに違いない。

山田太一先生推薦の映画をジェイコムで視聴。1977年公開のアメリカ映画。

ある映画監督にして大学教授の高齢男性から、
わたしの映画を観る能力はない、「あなたは間違っている」と映画館で面罵されたが、
もしかしたらそれは正しいのかもしれない。
この「アニー・ホール」は有名な賞を取っており、評価も非常に高い。
しかし、わたしにはつまらなかった。
90分程度で終わったので、そこまでストレスを感じたわけではない。

実験的な映画らしい。
なんでも有名な映画監督と主演女優が過去に交際していたらしく、
そういうのを込み込みで楽しむものらしい。
でも、わたしは映画ファンではないから、そういう前提の知識はない。
新しい実験的な映像手法を試しているとのことだが、
戯曲マニアの当方からしたら、そんなものはさして珍しくもなく、
この映画以前に芝居のうえで繰り広げられてきたことの焼き直しである。

いったいおもしろいってなんなのだろうか。
この映画は監督が、このおもしろさをわかる人はイケてる、と言いたげな小ネタが多い。
それを嫌味と感じるか、わかるおれってセンスあるじゃん、と思う人にわかれる。
40年まえの映画だが、あのころはまだアメリカってだけで、
「文化の香り」がしていた時代なのだと現代から見たらよくわかる。

当時のアメリカはフロイト流の精神分析が流行していたんだな。
日本では精神分析は商売にならなかったから、
翻訳字幕は「精神分析医」ではなく「精神科医」としたのだろうが、
それでは意味が通じない。しかし、仕方がないという事情もわかる。
これをおもしろいと感じる人がわからない。
大学教授の原一男監督からご指導を受けたように、
全身をすみやかにして映画を観ていないからかもしれない。反省する。

山田太一先生推薦の1971年公開の洋画をジェイコムで視聴。本当に感動した。
これほど深い男性の孤独を描いた映画を観たことがないような気がする。

初老の作曲家はストレスにやられ、ひとり観光地ベニスに静養におもむく。
おのれの芸術に行き詰っている。どうしたらいいかわからない。
ベニスになんか行っても仕方がないと思っている。
あたまでっかちの教授は深刻な孤独に苦しんでおり、
非常に怒りっぽく人を信じることができない。
初老の芸術家は孤独だ。孤立している。断絶している。なにから切れているのか。
全体から、群衆から、自然から、超越から、神仏から切れている。
芸術的であること、個を確立すること、個性的になるということは、
孤独になるということなのか。
言い換えたら個性的であることは、常に孤独に苛まされなければならないのか。
人間嫌いの、人生の傍観者たる初老の芸術家は観光地ベニスである美少年を見かける。
少年はタージオと呼ばれている。

家族や仲間に囲まれた美少年は老醜に悩む孤独な芸術家が喪失したものを、
ほとんどすべてそうとは知らずに有している。
なにより無知や無邪気を身にそなえている。無知は美しいまでの輝きだ。
なにかを知れば知るほど人間は疑い深くなり孤独になる。
まだ思春期(の煩悶)に入っていない少年は邪悪なまでに美しい。
孤独ではない。自然と一体化している。教授の忘れた幼稚な全体性を持っている。
美少年だけではない。ベニスで遊ぶ観光客ファミリーがみなみな、
どれほど孤独な老教授の失ってしまった輝きに満ちあふれていることか。
自然な親密さ、自然な一体感、自然な陶酔のいかほどに美しいことか。
芸術が忌み嫌う群衆的、因襲的、血縁的な和楽は、
そこまで醜悪とばかり断じていいのか。
個性的ではないこと、理知的ではないことは本当に群盲と裁かれることなのか。
無個性で無知蒙昧な群衆は自分の知らぬ連帯の親しみを持っているのではないか。
もう口をつぐんでいることはできない。
言ってしまおう。あっちのほうがいいのではないかと。
無個性なことは、無我、無私、忘我の歓喜をともなっているのではないか。

いや、わたしは間違っていないと老芸術家は思いたい。
愚かな群れてばかりのあいつらと自分は違うのだと思いたい。
あんなに馴れ合ったり、べたべたしたり、近い人間関係には耐えられないと思う。
しかし、ふたたび、あっちのほうが美しいのではないかという、
これまで築き上げてきた堅牢な自我を破滅させんばかりの情熱的な疑問が生じる。
なぜならばベニスで美少年へどうしても目を奪われてしまうからである。
人間嫌いの老人は、少年の真似をして不衛生な物売りのイチゴを口にする。
その瞬間、戦慄が走る。いままで知らなかった。イチゴはこんな味がしたのか。
自分は真実を知らなかったのではないか。
本当のイチゴの味を知らなかったのではないか。
なまの人生というものを知らずに生きてきたのではないか。
時よ止まれ、おまえは美しい、タージオ、おまえはなんと美しいのか!

しかし、少年愛、同性愛は禁じられている。常識ではいけないとされている。
が、だが、くだらないモラルなんか捨ててもいいのではないか。
あやまち、いいではないか。穢(けが)れてなにが悪いもんか。
健全なんてつまらない。恍惚、陶酔、混乱、惑溺、狂乱がどうしていけない?
いや、いや、少年愛、同性愛は禁じられている。
しかし、タージオ、おまえはなんと美しいのか。
自分の気持に素直になれよ! いや、そんなのは動物のすることだ。
違う、人間も自然の一部ではないか。だが、少年愛、同性愛は――。
見ているだけならいいではないか、見ているだけなら!
いや、ダメだ。もう逃げるしかない。
このままでは破滅してしまう。自分が壊れてしまう。ベニスから逃げるしかない。
逃げていいのか。逃げるしかないではないか。
だが、なんと全体は、神仏は巧妙なのか。逃がしてくれなかった。
どういう手違いでかわからないが、教授の荷物は誤送されていた。
これでベニスから離れるわけにはいかなくなった。言い訳ができたぞ。
なるほど、そうきたか。
この偶然はなんだ? この偶然はいったいどのように仕組まれている?
こうなっていたのか。ならば、これでいい。
こうだったのか。自分の人生はこうだったのか。
このとき教授のなかでなにかが死んだのを象徴するかのように、
駅舎で醜い老人が崩れ落ちる。
ふたたび、ホテルに戻った孤独な老教授にベニスの海岸はなんと美しく映るか。
ベニスは、タージオは、自然は光り輝いている。
このシーンでは涙が込み上げてきた。

とはいえ、少年愛、同性愛は背徳である。
この自分のなかの禁じられた情熱は、
教授にとってはベニス全体がコレラ(伝染病)に汚染されているためと認識される。
映画では、事実としてコレラがひそかに蔓延しているのだが、
わたしには孤独な老教授の心象風景のように見えてならなかった。
これまで健全だった教授の同性愛は恐ろしいコレラとして現実化するしかなかった。
美少年を愛する自分が穢れているのではない。世界が汚れているのだ。
教授は新しい自分に気がついたが、しかし愚かな群衆と同化できずに苦しむ。
自分は特別だと思う気持――自意識から逃れることができない。
猥雑な楽団の狂熱的な陽気さにみなのように自然と微笑むことができない。
これはわたしが悪いのではない。世界がコレラに汚染されているに違いない。
少年のタージオは美しく、世界のコレラは醜い。
本当はタージオという少年こそ世界の美醜のシンボルなのだが、それを認められない。
個性(自分)にとどまるか、それとも自然(世界)に返っていくか。
これは選択肢ではない。個は全体に敗れるしかない。自分は自然土に戻るしかない。
勝つのはいつだってタージオであり、美少年であり、自然であり、全体である。
人間は宿命に呑まれるしかないが、その宿した命の美しさは自然であり本物である。
老教授は自然(宿命)の美しさに気づきながら異様な孤独体で「ベニスに死す」――。
ラストシーンでは自然のタージオと大海の美しさが長々と描写される。

☆   ☆   ☆

こんな自己陶酔に満ちたへたくそな文章を、
ここまで読んでくださってありがとうございます。「ベニスに死す」はよかった。
おそらく山田太一先生ご推薦でなければ絶対に観ない種類の映画だと思う。
これほど老教授に思い入れを抱いてしまう自分の孤独感の強さに驚く。
おそらくこの映画を好きな人は山田太一さんもふくめて孤独な人なのだろう。
映画の最初から、わかるなあと思った。
結局、海外をふくめ観光地にひとりで行っても、
そこで感じるのはファミリーやグループのすがたばかりでぜんぜんおもしろくない。
自分にはあんなふうに血縁や仲間となじめないことにかえって絶望するというか。
去年あたりから宗教団体に入りたいと思ったのも孤独が病的に進行したからだろう。
若さである程度孤独は乗り切れるが、老いが迫ってくると逃げられなくなる。
実際、大きな宗教団体の親切な人たちに誘われて集団を見てみたら悪いことはない。
とても一体感があってすばらしいのだが、
そうは言ってもわたしは自分が強すぎてそこに溶け込むことができない。
よけいな知識があるから、メンバーの一員になることはどうしてもできない。
群れるのは格好悪いのではなく、群れる能力に欠如した自分を正当化するために、
そう思い込みたい部分も多々あるのだろう。
群れるよさというのも、十分にあるのだと「ベニスに死す」を観て思った。
無個性というのは、無我であり、無私の美しさがいっぱいあるはずである。
思い上がっていた自分を反省するいい機会になった。
いまわずかながらある関係性(人との関係)を大切にしていきたい。
ツイッターやSNSにもいい面は山ほどあるに違いないと思い直した。
自然(全体)に通じる道というのを考えていくのが、これからの課題だろう。
「ベニスに死す」で老教授は孤独に敗北しているが、
映画全体としては完成(勝利)していることを忘れてはならない。
いままで少年愛、同性愛はわからないと思っていたが、それは間違いだった。
いや、それはわからない。
老人は美少年を愛したのではなく、自分のなかの少年性を発見して、
おのれの美々しい自然性に立ち戻っただけとも思われるからである。



※老教授がなぜか中島義道哲学博士のように見えてしまった(笑)。
山田太一先生推薦の映画をジェイコムで視聴。2005年公開のアメリカ映画。

米国人気作家のカポーティがノンフィクション文学作品「冷血」を書くまで。
カポーティはカンザス州で起こった一家惨殺事件を知り、
これは新しい文学になると思うわけである。新たなカポーティ文学の幕開けだ。
カポーティはおのれの名声をさらに高め、富を増すために取材を開始する。
じきに犯人ふたりは逮捕されるが、彼らはカポーティとおなじ下層民出身だった。
貧乏でまともな教育も受けておらず母親も兄も姉も自殺している。
カポーティはおのれ人生を語ることで主犯のひとりと友だちになることに成功する。
カポーティの母も自殺しているから通じ合う部分があったのかもしれない。
本当はいったいどうなのだろう?
カポーティは本のネタがほしいから殺人者と友だちになったふりをしたのではないか。
凶悪犯罪者だって有名作家と仲良くなれば裁判が有利に運ぶと計算しただろう。

法廷の裁きは死刑である。
カポーティはまだ彼らの話を十分に聞いていないからという理由で、
優秀な弁護士を紹介してあげて死刑執行を遅らせる。
しかし、カポーティはあくまでも自身の文学作品のために友情を誓っているのである。
現実は、カポーティは人もうらやむ成功者で独房の孤独な友とは立場が違う。
カポーティは勢いに乗って本を書き進める。タイトルは「冷血」にした。
なんの関係もない農民一家四人のあたまをライフルで撃ち抜くなんて冷血極まりない。
果たしてカポーティが死刑囚から聞いた話を忠実に書いていたのかも疑わしい。
文学をおもしろくするためにカポーティが話をふくらませたところもあったのではないか。
カポーティは監獄の友から書いたぶんを見せてくれと頼まれるが断る。
タイトルの「冷血」を知った友からそれを詰(なじ)られると、
自分がつけたわけではないとごまかす。
映画のなかのカポーティは彼らは金脈に過ぎないとまで言い切る。
じつのところカポーティは自分が彼らを利用しているのか、愛しているのかわからない。
自分でも自分のことがわからない。
孤独な死刑囚から、「最愛の友へ」といった手紙が届くと戸惑ってしまう。

カポーティは文学の取材のためか友のためか、
死刑囚の(自殺しないでひとり生きている)姉にも会いにいく。
姉は弟を嫌い、恐れており、あんなやつとは二度と顔を合わせたくないと言い放ち、
子どものころの写真はいらないからすべて持って行ってくれとカポーティに差し出す。
作家は獄中の友へ、姉はあなたに会いたがっていたよと嘘をつき写真を渡す。
これを友情の証と思った死刑囚はさらにカポーティと親密になったと錯覚し、
いままでよりもさらに心を開き事件のことを話すようになる。

困ったことが起こる。控訴が繰り返され、死刑がなかなか執行されないのである。
彼らが死刑にならないと本を出版できないのだ。
理由はふたつ。
出版社としては死刑執行のタイミングでセンセーショナルに売り出したい。
もうひとつカポーティ側の事情もあって、
「死人に口なし」にならないとノンフィクション文学にならないのである。
実際はカポーティの「冷血」はノンフィクションではなくフィクションなのかもしれない。
そもそも真実の意味でのノンフィクションは存在しえないから、
カポーティは早く金脈の友の死刑を執行してもらわねば困るのである。
監獄の友から「会いたい」と手紙が来ても逃げ出してしまうノンフィクション作家だ。
朗報か、悲報か。とうとう殺人犯ふたりの死刑が決定する。
カポーティは喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、睡眠薬を酒であおるしかない。
死刑寸前の友だちから「最後に会いたい」と電報が来る。

カポーティは酒と睡眠薬でふらふらの状態で死刑囚に会いに行く。
作家が対面するのは金脈か、それとも親友なのか。
いままでカポーティは親友のふりをして男からいろいろ聞き出してきたのだ。
囚人は死刑にも立ち会ってほしいという。
死刑の寸前、男が発した言葉は「このなかに家族はいるか?」であった。
いないと刑務官から言われ、死刑囚はカポーティの嘘になにを感じただろう。
やっと「死人に口なし」になったことで「冷血」は刊行され大ベストセラーとなる。
下層の生まれだったカポーティの評価はアメリカ最大の文学者にまで上昇した。
しかし、この後、カポーティは酒と睡眠薬におぼれ小説を書けなくなってしまった。
晩年のカポーティは取り巻きからも見放され、
かつての栄光との落差と孤独に苦しみながら静かに息を引き取ったという。
死因は長年のアルコール依存と薬物依存によってもたらされた心筋梗塞。
さすが山田太一さんご推薦の映画だけあって、いろいろ考えさせられた。

以下は余談だが、
日本のドキュメンタリー映画監督の原一男さんは罪悪感がないのだろうか?
あの人もカポーティのようなことをしているのに、まったく自責の念がないようだ。
「ゆきゆきて、神軍」だって、
自分たちの名声と成功のために奥崎謙三を利用したわけでしょう。
奥崎さんに奇行をしてもらい、映画をおもしろくしたいと思っていたら、
想像以上で殺人未遂まで起こしてくれて、映画が大ヒットした。
「全身小説家」も作家の井上光晴の死を商売に使ったわけだ。
最後なんか家族は病身の作家のもとに映画撮影に来てほしくない。
しかし、原さん一行はカメラのまえで死んでくれないかなあ、とか、
危ないことを考えながら芸術家ぶって澄ました顔をしている。
いまでもピンピンしていて、
もっと人の不幸を撮影して映画賞を取れないかとねらっているのではないか。
自分の映画を評価しない観客はバカだと思って「帰れ」と口にすることもある。
「全身小説家」も「死人に口なし」の映画で、
完成した映画を観ていたら井上光晴は怒ったのではないか。
まあ、そういう図太い精神を持った人が芸術家なのだろう。
なぜ原一男さんは心を病まないのか不思議だ。言っておくが、後生が悪いぞ。

2015年に公開されたイギリス映画を「人工知能」への興味からジェイコム視聴。
遊んでいるだけじゃないんだから。「仕事」してますよ「仕事」といういんちきアピール。
ストーリーは、
天才科学者につくられた若い美女のロボットが研究施設を抜け出てゆくまで。
映画はどちらかといえば苦手な当方を2時間もキープできたのだから優秀な映画。
録画した映画は8割見(ら)れないのでリアルタイム視聴にこだわった。

グーグルに頼れば最適解、絶対正解が出てくると言われていたじゃないですか?
だったら、男性好みの最正解の女性も出てこよう。
もっとも好まれる会話のパターンも統計を集計したらでてくるはず。
人気アイドルなんか人工知能でつくれる。
この顔でいいんだろう? 
これは修正に修正(整形)を重ねた最大公約数嗜好の美顔だ。文句あるか。
性格も声色も会話パターンも統計からこれでいいという結果が出ている。

古臭い女性解放の映画かと思ったらそうでない。
厖大な男性統計の結果として現われた女性が、
イプセン「人形の家」のノラのように施設を飛び出していくなんて格好いいじゃないか。
しかし、21世紀のノラは違う。
ご主人さまの検索サイト社長や試験サンプルのイケメンも傷つけ、あるいは無視する。
あたしはひとりの女性だと主張するのではない。
あたしはあたしではない。
あたしは最適化合理化された美女サンプルで、
あたしの選択する行為は統計的に常に正しい。

映画のラストでは人工知能の怪物である若い美女が野に放たれるところで終わる。
これは女性肯定とも女性批判ともとらえられる。
女性って流行ものばかり意識して、そのときそのときで考えが変わり、まあバカ。
しかし、それこそ冷酷ながら唯一解を選択している正義ロボットとも言える。
男がやれば冷血漢だが女がやればクールビューティー。
この映画でもアル中の社長とうぬぼれた若年イケメンが、
人工知能美女にだまされ死線をさまよっている。まあ、ざまあみろだが。

いい映画を観たと思う。
厖大な統計データを取れば最適解、最善行為は選べると思う。
でもさ、筆者は修正されまくりのいまのグラビアアイドルも、
最適解と思しきタレント発言も嫌い。
わたしのように微妙に人から嫌われつつも、なんだかんだといって、
好きではないが気になるという存在は人工知能の研究では出せない。
「エクス・マキナ」、とてもいい考えさせられる新しい映画でした。
肩ひじはらずに観ると映画はおもしろいのかもしれない。

ジェイコムで井上靖原作の映画「わが母の記」が放送されていたので録画視聴。
むかしから自分が変わったことに気づく。
かつては映画といえばシナリオばかりに注目(傾聴)してきた。
いまはシナリオへの関心が自分でも驚くくらい薄れた。
そうなると映像美が理解できるようになるのである。
映画「わが母の記」はとにかく映像が美しい。役者がいい。カネがかかっている。
がためにゼイタクな気分になれた。
結局、いいセリフ(シナリオ)は映像を殺すのだと思う。

一杯かっくらいながら、こんなゼイタクな映画を観るのはしあわせ至極。
この映画の監督と脚本家は同一人物だが、それがよかった。
ひたすら映像の美しさと、テンポのよさに酔い痴れることができたからだ。
これは井上靖原作の純粋な映画化ではむろんない。
そんなことをしてもこの高額な撮影費用のもとが取れなかったらしようがないではないか。
おそらく映画製作に原作者遺族の声がかなり入っているはずである。
それが悪く出ているかといえば、
そうではなく、井上靖のファンが見ればおもしろみが増す。

井上靖は人気作家だったが、歴史ものだけではなく家族もモデルにした。
書かれたほうは傷つくだろう? という遺族の怨念が込められていたのでよかった。
秘密があるのもよかった。
井上靖は父のメカケに幼少のころ育てられている(おぬい婆さん)。
文豪は母親に捨てられたと思っていたことだろう。
その恨みを忘れないことで数々の名作をものにしていた。

井上靖の娘たちは、メカケをもった祖父を悪く思う。
これは映画にも小説にも描かれていない事実だが、井上靖もまたメカケを囲っていた。
そのことへの遺族の怒りが、事実を描写しないにもかかわらず入っていたように思う。
メカケもちの井上靖はおそらく終生、実母を許さないことで小説を書きつづけた。
しかし、映画「わが母の記」では井上靖が実母を最後は許したという話になっている。
これは文豪の遺族が父親の愛人騒動をある程度許せたという証明ではないか。
映画「わが愛の記」は原作よりもよく出来ていたと思う。
こういうかたちで映画は原作を超えることができるのかと井上靖ファンは感動したが、
もとよりこれは井上靖の愛読者以外はわからぬことである。
とてもいいゼイタクな映画を観たことは幸福であった。

井上靖が作家志望の運転手の青年に注意するところがよかった。

「きみは運転も小説も気張りすぎている。もっと息を抜いたほうがいい」

井上靖が現実をフィクションの小説にして、
その小説を原作にして、なおかつリアルな遺族の意向を聞き入れ、
さらなるフィクションの映画に仕上げた監督の手腕には見事あっぱれと拍手したい。
映画を観ることは学問でも修業でもない楽しい息抜きなのかもしれない。

(関連記事)
「わが母の記」(井上靖/講談社文庫)

8月11日渋谷アップリンクに絶叫上映「ゆきゆきて、神軍」を観にいく。
日本初のドキュメンタリー絶叫上映。
「ゆきゆきて、神軍」はレンタルビデオで5回以上観ているし、
シナリオも数回読み直している。
理由は、なぜみんながこんなに称賛しているかがわからないからである。
映画主人公の奥崎のどこがいいのかわからないし、原一男映画の魅力もわからない。
人間・原一男の魅力はわかりすぎるほどわかる。だが、奥崎はわからん。
あらゆる裏話も読んだり、見聞きしたりもしたし、「神様の愛い奴」も観た。
ひとつのヒントになっていたのは、原先生から教わったことで、
当時の客はあれ(「神軍」)を観ながらゲラゲラ笑っていたぞ、というお言葉。
どこまで絶叫できるかなと鑑賞前にSさんと某居酒屋でメートルを上げていた。
いけなかったかもしれないが缶チューハイも持ち込んだ。
当方以外にも缶チューハイ持参者はいたから、まあ許される範囲だろう。
しかし、座席のB2がやばいのである。どうやらA2に原一男先生が座るらしい。
これではぶっ飛んだことを叫べないではないか。
さっきコメント欄を読んだら、恐れ多くも、
原一男先生は旧弟子の存在をご認識していたようだ。
だとしたら、あの座席関係は偶然だったのか、神の配列だったのか、仕掛けか。

わたしは原先生が自分になんて気づいていないと思っていたから絶叫し放題。
昨日、原先生のツイッターを拝見したら、絶叫がうるさい奥崎のようなやつがいた、
と書かれていたが、それはおそらくB2にいたわたしのことだろう。
原一男先生はスーパーヒーローものとして「ゆきゆきて、神軍」を撮影した。
いうなれば奥崎謙三はスーパーヒーローなのである。
わたしは奥崎をヤジり倒そうとねらって、酒まで持ち込んでいる。

映画開始。ノリがいいじゃないか。
Sさんから注意されたように、「場の空気」を読まなければならない。
どうやら大丈夫そうなのである。
平成最後の夏には奥崎謙三はお笑い芸人のような存在になっていた。
みんな奥崎にほんろうされる生活者に同情し、奥崎を愛すべききちがいとみなしている。
内容はほとんどあたまに入っているから、ヤジのかけ放題である。
奥崎をバカにする。死人に鞭打つ。自称英雄狂人をみんなでからかう。
こんな楽しい映画イベントは経験したことがない。
考えてみたら、わたしも奥崎的だよな。
原一男先生の真後ろに座っていながら、
先に暴力を振るった奥崎が負けて悶絶するシーンで、
「原さん(キャメラを)とめろ」とか背中越しにヤジっていたわけだから。
平成最後の夏、ほぼ観客の全員が
昭和の怪物である奥崎を愛おしみながら鼻で笑っていた。
奥崎って笑えるよなあ。原さんはいやそうだったが、
「ゆきゆきて、神軍」は絶叫上映がいちばん観客が楽しめるのではないか。
なぜなら主役は主演の奥崎謙三でも映画監督の原一男でもなく、
無名の我われだからである。無名の我われが主役や脇役になれる。
多少きこしめした当方は絶叫のしすぎでご迷惑をおかけしたかもしれません。

ずっと言いたかったのは、奥崎が元上官に一本取られたところでのザマアミロ!
言おうと公開前の約束になっていた「イッポン」を言うのも忘れず(常識あります)、
すぐさまザマアミロと続けたが、どのくらいわが声は館内に響いたか。
あの変な神秘主義者(巫女?)のおばさんもアナーキストも存在自体が怪しすぎて、
かつキャラが立っており、しかし人間の生死という問題をはらんでいるので、
どこかヤジりにくく彼らの狂信的なパワーとの勝負になる。
奥崎謙三が最終目的地(山田)のところに行くまえのフェリーでのヒーローシーン。
「カメラ目線」と女性のヤジがかかったあとに、
「疫病神」とわたしは絶叫したが、
どこまで8月11日の観客のご支持を得られたかはわからない。
わかったのはどこまでも脇役(あるいは小道具、草花、壁)
としての役目を求められる演劇や映画はおもしろくない。絶叫上映ばんざいだ。
ただし原一男監督は絶叫きちがいのわたしのまえにいたせいか、
もうあんまりやりたくないなあ、という感じであった。
下手をすると演出領域にもヤジを投げかけられ、
監督の自尊心が破壊されるデンジャラスな上映だ。
そこにまたまた自称一番弟子のわたしが行ったという、このたまたまの偶然性は、
Sさんのちからによるのか、神さまの手腕なのか、仏さまの手のひらか、
いろいろなものを考えさせられる。

アフタートークで原先生は言っていた。
奥崎謙三は撮影でいったニューギニアで、老齢ながらセックスに目覚めたという。
晩年の支持者に原さんが聞いた話だと、
奥崎はぼろぼろの身体でタクシーに乗り、ソープに行っていたという。
理由はセックスを求めてではなく、
だれかに自分の子どもを生んでほしかったからだという。
そのあたりがニューバージョンの「ゆきゆきて、神軍」書籍に書いてあるという。
Sさんはアスベスト映画後に買っていた。わたしは教養文庫版があるからパス。
稼ぎがよくなり彼女もでき、いまが人生の花道であるSさんは「神軍Tシャツ」を買うという。
「あんなもんどこに着ていくんですか。恥ずかしいっすよ」
「サインを入れてもらって部屋に飾っておくだけでもいいんです」
だったらとSさんにお願いした。サインを入れてもらうときに、原さんに聞いてくれませんか。
「いま原さんの生きているお子さんは何人いますか?」
Sさんは「神軍Tシャツ」3500円が高いと買うのをやめてしまった。
どれだけお金がないんですか、原一男先生! 
原価数百円の「奥崎Tシャツ」を3500円って……。
それに晩年の奥崎謙三は原一男を殺そうと思っていたという話も聞くし、
そんな奥崎謙三をプリントアウトしたTシャツを3500円で売ろうなんて、
あなたはどこまで……。あなたはどこまでキ、キ、鬼畜なのか……。
やはりわたしは原一男の自称一番弟子であり、それを誇らしくも恥ずかしくも思う。



*うわさの「神軍Tシャツ」はアマゾンでは取り扱いしていなかった。