「サイコパスの手帖」(春日武彦・平山夢明/洋泉社)

→洋泉社さまが送ってくださった新刊のため、
速報性がたいせつだとたったいま読んだ本の感想を記す。
ふつうは数日から1週間、ときには数ヶ月、半年と感想を寝かせる本もあるが、
めったいにないいただきものの新刊。もう書店には並べられているのか?
この記事が少しでも販促になれば望外の喜びである。
本書は精神科医の春日武彦氏と人気ホラー作家のシリーズ対談本。
いちおうシリーズにはなっているがつながりがないので、
本書から読み始めても十分に楽しめるだろう。
売り上げ好調なシリーズ最新刊はホラー映画がテーマになっており、
その方面に詳しくない当方にはうまく意味が取れなかった部分も、
映画ファンなら、そうかそうかとより楽しめると思う。
むしろ映画が好きで両者の本を手に取ったことのない人におすすめかもしれない。
例によって平山夢明さんが対話の8割を占め、
精神科医は聞き役や回答者の側にまわる。

むかしの「本の山」はネットの検索順位が異常なほど高かったが、
いまはネット検索で到達するのは無理というほどグーグル先生から嫌われてしまった。
このため、この記事がわずかでも販促にならないのが申し訳なくて仕方がない。
同様にこちらがネット検索しても、
どんなワードを駆使してもおなじページしか出て来ない。
わたしとおなじで陰謀論が好きな平山夢明さんがおもしろいことを言っている。
世の中にはディープWebページがあるという。

「どうもウェブ上には、全世界で約1500億のページがあるそうで、
普通の検索エンジンでたどり着ける一般的なページはそのなかの1%程度で、
そこから先のディープWebが3割なんですって」(P70)


本書は異常なほどおもしろい。
「患者さんが自殺したケースは?」の問いに
「それは、もうたくさんだよ」と答える春日武彦医師が、
むかし神戸の酒鬼薔薇事件の際、
臨床心理士の緊急学会に呼ばれ、専門家の立場として意見を聞かれたらしい。
それに精神科医の春日武彦さんがどう答えたか。
「あれはただのレアケースでしょ」
場内は静まりかえり、ドン引きされたという。現実はそんなものなのだろうと思う。
ブルセラ学者の宮台真司とか、
あれの解説でだいぶ売名したが、あれはただのレアケースでしょ。
さて、パーソナリティー障害は嗅覚が鈍くなるとあるが、わたしはいまもって嗅覚が鋭く、
それがいやなのはどういうことなのだろうか。
わたしは「パーソナリティー障害っぽい」と春日医師からメールでご指摘を拝受したことがある。
レアケースかもしれない。
社会経験は少ないが医療臨床経験はとにかく多い精神科医は、
貴重な助言を読者にしてくださる。わかるなあ。

「基本的に初対面で相手にディープなことを明かす奴は危険だよ。
『モテる技術』という本にも同じことが書いてあったから感心したよ。
「いきなり自分の出自やトラウマを話すような女はヤバイから逃げろ」と」(P97)


「モテる技術」なんか読むんですか、春日先生?
あと女性にはひそひそ声で話しかけると落としやすいとか、さすが博識にして臨床のプロ。
精神科医だけを重んじるのは差別で人気作家の平山夢明さんの名言も。
ホラー作家は「羊たちの沈黙」に超絶感動して、
続編の「ハンニバル」を洋書でまで買ってがっかりしたという。
そこで行き着いた結論は――。

「僕は常々、”運の同量説”があるように思うんですよ。
つまり、”運”はみんな同じ量を持っていて、
一度にたくさん使ってしまうとあとでろくでもないことが起こるということ。
「3億円の宝くじが当たると、その後はみんな不幸になる」とかいいますけど、
それと同じように、ものすごいものを全力で書いてしまうと、
そこで運を使い果たしてしまうのかもしれない。
一生に一度のものすごいものを書くとき、材料は無限にあるわけですよね。
成育歴からそこに至るまでの人生での材料がさ。
でも30代で作れば、30年間分はあるわけじゃないですか。
でも、1回で出しきちゃったら、どうなるのか、ですよね……」(P75)


この平山さんの意見に春日先生は返答せずこのチャプターは終わっているが、
長年精神科で臨床をやってきた医師は「運の同量説」には与せないだろう。
ふつうに暮らしてきた人がいきなり不幸になり、
そのまま前振りもなく自殺するのが人間というもので、その全体が人生というもの。
運はまったく女神さまの気まぐれで我われに割り振られる、ただそれだけのもの。
というのが、おそらく臨床経験豊富な春日武彦さんの「運勢観」で、
わたしも人間の運が同量などというペテンにはお付き合いできかねる。
天才芸術界はそういうことはあるかもしれないが、それは人間一般の法則ではない。
作家の平山夢明さんは観音様のように慕う精神科医に質問する。
「どうなんでしょう? 人間性と作品はリンクしますか?」
観音菩薩の春日武彦先生いわく――。

「別物でしょう。だって、気配りしたら面白い映画は撮れないでしょう。
(……) 気配りって、つまり平均や中庸を目指すものだから、創造の敵ですよ。
(……) それ[会議での脚本決定]は結局、
妥協の産物にしかならないってことだからね。
(……) 言葉で説明できない部分にこそ、作品を創る意味が潜んでいるはずだからね。
でも、みんなに認識してもらえるのは、
説明できる部分だからね、悲しいことに」(P107)


うちのブログ「本の山」の記事は読むと、
該当書籍を手に取らなくてもいいという気にさせるというご意見を多くいただいてきた。
それではご本を送ってくださった春日武彦先生、平山夢明氏、洋泉社に申し訳がない。
本書でいちばんおもしろかったのは、
高橋たか子という作家の「誘惑者」という純文学小説を春日さんが紹介したところ。
ここは書かないので、読者の諸兄諸姉が直接ご購入してお確かめください。
ちなみにこれよりむかしに井上靖が「傍観者」という小説で、
おなじ自殺幇助のテーマを取り上げている。
「サイコパスの手帖」――。
この本は皮肉にも著者のなかで人気がいちばん高いとも一部で言われるシリーズで、
春日氏と平山氏の神がかり的な相性が生みだした名著なので読んで損はない。

*誤字脱字、乱筆失礼。明日、直します。

(シリーズ一覧)
1.「狂いの構造」(春日武彦・平山夢明/扶桑社新書)
2.「無力感は狂いのはじまり 「狂い」の構造2」(春日武彦×平山夢明/扶桑社新書)
3.「サイコパス解剖学」(春日武彦・平山夢明/洋泉社)

*春日武彦先生、平山夢明さん、洋泉社さん、名著をありがとうございました。

「なぜあの人は平気であなたを傷つけるのか」(春日武彦/宝島社)

→ただの愛読者に過ぎぬ無名の男に
近刊自著を送ってくれる人なんか先生しかいないはず。
そういうことをしていただくと、より精神科医の著者に興味を持つわけである。
こういうことを書くとナイーブな著者はまた被害妄想をつのらせるのではないかと
恐れつつ書くと、本書はこれまでの本と文体を変えている。
あたかも福田恆存のような老賢者文体が散見される(~~ではありますまい等)。
それはそれでおもしろく、
こういう著者の変化を楽しめるのが長年の愛読者冥利というもの。
春日先生は「なぜあの人は平気で自分を傷つけるのか」
とか老年のいまも考えているのかしら。
出る杭は打たれるというか、目立つと叩かれるというか、それは仕方がないことなのだ。
ブログ「本の山」もいまは批判コメントが9割で、常軌を逸したご批判をいただくことがある。
ムカつくけれど相手は匿名だからどうしようもない。
電話して来いよ、と携帯番号を公開しても、批判者は匿名のかげに隠れている。
それは仕様がないとも、先生のご著作を読んでいるからか思うのであります。

被害と加害というのは難しい。
春日先生のおっしゃるように、どちらも被害者という場合が多々ある、
もちろん、被害者ぶった加害者という当方のような悪漢も存在する。
むかしは美男美女のカップルを見かけると、それだけで被害者意識を刺激され、
攻撃したい、傷つけたい、不幸のどん底に落としてやりたいと思ったものである。
いまは前世や来世というオカルトに走ったから、
美男美女は前世でええことをしたんやなあ。
もしかしたら、おいらも来世は美女か美男に生まれるかもしれへんなあ、
と美男美女のラブラブを目撃しても、美しいものはええなあと微笑むくらいである。
このあたりが被害感情と加害感情の難しいところだろう。
美男美女はだれかしらを傷つけたいと思っていないのに、
多くの人に被害感情を抱かせている。
存在自体が罪と言ったらば、たしかにそうなのだが、言いすぎの面もあろう。
女優でアイドルのめごっち(剛力彩芽)のインスタが攻撃対象になっているが、
億万長者とのラブラブを毎日のように見せつけられたら、
被害感情を持つものを責めるわけにはいかない。
その被害感情は加害的な悪魔根性に容易に転ずることだろう。

美男子というのは存在するだけで(生きているだけで)周囲を傷つけているのである。
美女も同様で、美少女はなおさらだが、
むろんそれらは彼女たちに罪があるわけではない。
ノーベル賞学者も大富豪も、存在自体が加害的(人を傷つけている)なのだが、
本人はそういう理由で攻撃されても人間不信、人間嫌いが強まるばかりだろう。

わたしもささいな攻撃にさらされていると言えなくもないが、
批判コメントが集中するのは早稲田ネタを出したときが多い。
当方の感覚では早稲田合格は運がよかったのひと言で、
早稲田でも一浪して一文なんか価値がないと思っているが、
読者さまのなかにはたかだかラッキー早稲田程度に被害感情をお持ちになり、
こいつを傷つけたいと思う人がいるのだろう。
当方からしたらあなたのほうが収入が多いのだからいいじゃないですか、
と思わなくもないが、そういうものではないらしい。
たしかにわたしは異様なほど運がいい一面があり、そこに立腹する御仁もおられるだろう。

本書は「被害者ぶった加害者」の怖さとその対策を教える本である。
春日武彦先生が周囲から傷つけられるのはある面で仕方がない。
春日さんがお医者の家に生まれたのは先生の罪ではないし、
医師が一般書を多数、有名出版社から出せるのは著者の才能によるもので、
それを春日武彦氏への攻撃理由にするのはあんまりだが、
しかし世の中とはそういうものだとも言いうる。
わたしはいま美男美女のカップルを見ても腹立たないし、
美少女が同級生と夕暮れの公園で接吻しているのを目撃してもええなあと思う程度。
そういう心理をベテランの臨床精神科医はこう絵解きする。
「なぜあの人は平気であなたを傷つけるのか」――。

「相手が幸せそうに見えたから、自分の気も和んだとか、
ちょっとうらやましいと思った、なんて感じるのが通常の感性でしょう。
気が荒(すさ)んでいたり、イライラしているときならば、
相手が幸せそうな様子が何だか「当てつけ」
ているように思えて腹が立つこともあるかもしれません。
不幸になってしまえと腹の中で毒づいて、
あとで自己嫌悪に駆られるかもしれません。
まあいろいろな感情的リアクションがあり得るわけです。
当然のことながら、
自分の気持ちに余裕があるときには相手の幸福を肯定して、
余裕がないときは否定的な感情に傾きます」(P65)


いまわたしは運勢が少し好転したのか被害妄想のようなものは以前より減少した。
めごっち(剛力彩芽)のネットニュースを見ても微笑ましいと感じるのみ。
本書193ページには攻撃されたときの対処法が列記されている。
春日先生いちばんのお好みは、「逆襲どころか、
二度と攻撃を仕掛けてこないように相手を徹底的に痛めつける」という。
この選択肢でわたしが選ぶとすれば、
「恥も外聞もなく許しを請う。あるいは金品を提供して勘弁してもらう」である。
むかし山田太一ファンクラブの人からご批判を受けた。
どうすればよいのか山田太一ドラマを視聴しながら行き着いた結論は、
「金品を提供して勘弁してもらう」であった。5千円程度で彼女の沈黙は買えた。
わたしは春日武彦先生の愛読者で、
通常意識のうえでは攻撃したいとは思っていないが(無意識ではあるかもなあ)、
春日さんから近刊を送っていただき、まったく加虐心のようなものは消失した。
それどころかご好物らしきかっぱえびせんを、
迷惑と知りながら冗談半分で百袋くらい送ってさしあげたい。
奥さまの手料理にはかないようもないが、
これまたご好物らしき野菜炒めのレトルトでもいい。
代わりに刺激的な向精神薬(リタリンはもうないか)を送ってほしいとか、
そういう不正根性からではなく、純朴な恩返しである。
そもそも恩返しといえば、わたしからしたら、自著を読んでくださるだけで恩人。
多少、批判めいたことが書いてあっても書評を書いてくれるだけでありがたい。
まあ、その辺は周辺環境の相違だろうから突き詰めない。

あんまり他人に期待しないほうがいい、という結論に著者は至っている。
これよこれ、これっすよ。わたしは山田太一ドラマの
日本一の研究者を自称しているが(だれも認めてくれないが)、
氏のドラマの底に流れるメッセージは、
「人生なんて、こんなもの」「人間なんて、こんなもの」
という皮肉で人間不信のトーンである。
人生に期待するから絶望するのだ。人間に期待するから人間嫌いになる。

春日武彦医師は愛読誌の「SPA!」を読んで、これよこれよと思ったという。
(「SPA!」なんかだれが買っているのかわからなかったが春日医師世代か?)
「SPA!」に(西村賢太を引き上げたことで有名な)読書家の
坪内祐三氏が福田和也氏との対談で「そうこなくっちゃ」
という名言をご披露なさっていた。
不遇のときに人気作家の坪内祐三氏が恩をほどこしてあげた編集者がいた。
「編集者はこの恩は忘れません」と誓った。
その編集者が復活したらあろううことか、
大恩人たる人気作家の坪内祐三氏を無視するようになった。
そこでいまや出版界の重鎮たる坪内祐三氏が思ったのは「そうこなくっちゃ」。
出版業界のあまたある賞をひとつも得ていない名文家の春日武彦先生は、
坪内祐三氏の「そうこなくっちゃ」にいたく感動したらしい。
この稚拙な感想文が出版界の先生のおひとりにでもご閲覧していただけることを、
春日先生の長年の愛読者のひとりとして期待してやまないが、
人生や他人に期待しないという自己ルールをこれは破っていることになろう。

わたしには複数の先生がいる。
原一男先生。山田太一先生。宮本輝先生。小谷野敦先生。そして春日武彦先生だ。
いままで精神科のご厄介にならなかったのは春日武彦先生のおかげだろう。
しかし、精神科を受診したほうが業界のご商売繁盛につながるのだから難しい。
春日先生はじつにいい教訓を本書で述べている。
あんがいご本人の自覚以上に、いい意味で作者は老成しているのではないか。

「我々には、「理屈ではそうかもしれないけれど、
リアルな世界は必ずしもそんなもんじゃないよ」
といったいささかいい加減な(でも経験的には確かな)感覚があります。
なるほど嘘をつくのは悪いことだが、嘘も方便という言葉だってあるじゃないか。
ときには見て見ぬふりをするのが武士の情けというものさ。
規則ばかりを言い立てるのは野暮というものだ。
馬鹿正直が人を幸福にするとは限らない。
多少の欠点があったとほうがかえって人間らしい。
四角四面よりは愛嬌(あいきょう)のあるほうが世渡りは上手く行く。
と、まあそんな調子で原則と逸脱を適度に使い分けている。
ダブルスタンダードというやつですね。
それが出来なければ、まっとうな社会人とは見なされません」(P142)


しかし、そこからは芸術も文学もうまれないと熟知したうえでの老医師の助言だ。
著者はアンチエイジングの時代風潮に逆らい、老いのよさを本書で書いている。

「わたしは六十歳を超えたジジイですが、
精神科医としては自分が若くないことを喜ばしく思っています。
その理由のひとつは、しばしば患者本人や家族から、
「なぜこんな病気になってしまったのでしょう」と問われたときに、
「運が悪かったからです」
と、平気で答えられるようになったからです。
因果関係がどうしただの、誰それのせいだと犯人捜しをしても、
多くの場合、あまり実りはない。(……)
でも、精神科医が若いと、運が悪かったからなんて口にすると
不真面目に思われる傾向があります。
どこか無責任感が漂っているように映るらしい。
年をとると、運が悪かったからという発言が、
人生経験の積み重ねから導き出されたほろ苦い言葉であると
相手に感じられがちのようです。ああ、やはりそんなものなんだなと、
溜め息混じりの共感につながる場合が大部分となります」(P39)


この春日先生へのファンレターとも言うべき、
つたない面白味も少ないブログ記事を書くのに4時間以上かかっています。
読書時間も合計したら6、7時間でしょう。
エゴサーチがお好きな春日先生が万が一、この愚劣記事をお読みになられても、
「なぜあの人は平気であなたを傷つけるのか」
「なぜ土屋は平気で自分を傷つけるのか」と思ってほしくありません。
こんなに春日武彦先生のご本を一生懸命に読む人はめったにいませんよ。
だから、新刊をまた送ってください、と書かないとわたしが偽善者っぽくなるので、
そこはご勘弁のほど、どうかよろしくお願いします。

「無力感は狂いのはじまり 「狂い」の構造2」(春日武彦×平山夢明/扶桑社新書)

→どこのブックオフにも売っていそうな精神科医とホラー作家の対談本だが、
これはいまアマゾンでは4500円以上の価格がついている超入手困難本。
もとより、当方は定価以下で仕入れたが(方法は秘密)、
読了後どうしてここまで高値がついているのかはわからなかった。
さて、インターネットは化け物である。
今後どのような変化(進化)を遂げるのかわからない。
大手マスコミのみならず公的報道機関が伝えられない個人的な思いをネットは伝えうる。
当然、プラスばかりではなくマイナスの未知数も膨大でどうなるか読めない分野である。
むかしは本の著者は自著の本当の感想を知りえなかった。
新聞書評は馴れ合いだし、
いまはなき(まだある?)読者ハガキに作者の悪口を書くものはいなかっただろう。
しかし、いまはだれでもネットを使えば匿名で本の批評ができる。
ところが、これは著者にとってはたまらないのではないか。
春日武彦医師はエゴサーチ――すなわちネットで自分の名前で検索すること――
をなさっているのかどうだか。このあたりの本音がおもしろかった。
著書多数の精神科医いわく。

「俺は傷つくからね。絶対に検索なんてしない。
でも、心が弱っていると、ついやっちゃうんだよね。
世の中から見捨てられている気分になったときとかさ。
それでやっぱり見なきゃよかったって思う。もう何度も誓いを新たにしている」(P201)


春日医師は「とんちんかんなことを書いているヤツが多い」と思う。

「ちょっと俺の前に座れ、ひと晩じっくりお前の見解の正当性について
話そうじゃないかと言ってやりたくなるヤツばかり。(……)
本当にそいつを捕まえられたらね、素人だって公に意見を出した以上はさ」(P202)


ああ、春日先生に呼び出されて、愛猫のようにちょこんと御前に座りたい。
「ひと晩じっくりぼくの見解の正当性」について春日先生と話し合いたい。
うちから春日先生ご自慢のお屋敷まで往復しても交通費は千円もしない。
春日先生の本音をうかがい、氏の弟子たることを生きるモチベーションにして、
先生がお亡くなりになったあとに春日先生はこうおっしゃっていたと世に訴えたい。
精神科医の春日武彦氏の内部には、
言いたくても言えないことが渦巻いているのではないか。
春日さんはそういうことを、いじましくも飼い猫相手にぼやいているというではないか。
かっぱえびせんが好きな春日先生の愛猫になりたい。
春日先生がさみしそうにしていたら、おひざの上に乗っかって甘え、
反対に先生が甘えさせてくれと迫ってきたら、つんと逃げるような猫になりたい。
ふつうなら下記のような不謹慎な本音は書籍には書けないのである。
しかし、春日医師は物怖じしない。
いったい男の深奥にはどんな禍々しき本音が渦巻いているのだろう。
現在は精神病院の院長先生である春日氏は産婦人科から医者稼業をスタートしている。

「俺ね、産婦人科をやっていたとき、
来た患者とやれるかってシミュレーションを反射的にしていたの。
そうすると、大部分は出来ないわけよ。だけど、そんな人にも相手がいるわけ。
だからね、俺はどんなのでもやるヤツがいるんだという結論に達した」(P129)


ものすごい本音を手榴弾のように読者のこころに投げ込んでくるソルジャーだ。
バ・ク・ハ・ツだ~よ!
きたないおんなの顔とおまんこを見比べ、げんなりする若き産婦人科医はサイコー!
わたしも老若問わずカップルを見かけると、
双方の顔のつりあいを考えニヤニヤするような彼岸的異常性がある。
どの夫婦にも運命の不可思議さを見て取れるような神秘主義者だ。

この本に春日医師の臨床的結論として誤りを指摘したくもない部分もなくはないが、
それは先生と向かい合って話したときにしか言えるものではなく、
おいそれとだれでも無料閲覧可能なネットで語るものではないだろう。
意外と本当のことというのは記録として残る本には書かれていないのではないか。
わたしが対談集を好むのはぽろっと本音が出現することがあるからである。
秘密は隠すから真実性を保ち、また真実たるゆえんともなる。
来世では美人に生まれることになっているが(え?)、
ノーパンで超ミニスカートをはいてひとりで盛り上がりたい。
本書は春日武彦医師が「宇宙の法則」を書いているから稀覯書あつかいなのか。
一見するとチープな対談本で春日医師は自身の発見した「宇宙の法則」を語る。

「俺みたいな商売だと、時間という存在をいかにとらえるか、
クリアするかというのが勝負なのね。
例えば、家族関係がぐちょぐちょで、今は膠着状態でどうにもならない。
どうすればいいのかといったら、待つしかないの。
百年経てばみんな死ぬんだと。そういう意味では絶対に展開があるわけ。
いかに余分なストレスをため込まずに待つかが勝負になってくる。
医者でも保健師でも、ダメなヤツは耐えきれなくて余計なことを突つく。
ダメなときはダメなのよ。そこで腹をくくると意外な展開が生まれる。
それが宇宙の法則としてあるわけ」(P77)


タイムパトロールの世界では(藤子漫画「T・Pぼん」)、
なるべく過去世界に直接的に介入せず、ちょっとした出逢いをうみだすことによって、
自然の流れのままに人為的不幸を未遂に終わらせることがよいとされているが、
それは「見守る(待つ)」ちからの強い人間にしかできないことである。
待って待ってぎりぎりまで追い込まれることのよさを、
本書で対談相手の遅筆ホラー作家は語っている。平山夢明氏かく語りし。

「でも、本当にギリギリになったら、やっぱり小説でも開き直る。
10人で競作の場合とかさ。他の人は入稿していて、あとは俺だけ。
それで本が出ないと大変じゃない。その場合は時間との勝負ね。
いいものを書こうとか葛藤しない。
この間、『ミサイルマン』に入れた、「それでもおまえはおれのハニー」。
あれが50枚くらいあるんだけど。夜中の2時にかき出して朝の8時に渡した。
もう一発校了。ゲラなかった。それだけ時間がなかった。
でも、ほとんど直さないで出しちゃっているけど、悪くはないし、評判もいいのよ。
あれは面白いよって」(P51)


ドストエフスキーも山本周五郎も、
わざわざおのれをすっからかんの状態にしてから小説を書き始めたという。
ドストエフスキーは賭博散財で、山本周五郎は見栄の贅沢酒宴でふところをゼロにした。
作家の破滅願望のようなものは、おのれの限界を見たいという創作欲なのだろう。
わたしにはいつぎりぎりが来るのか、その状態がいいのか悪いのかもわからない。
もう正社員は無理だろうし、家族親戚とも絶縁状態だし、おしなべて人間関係が乏しい。
春日氏の主張する「宇宙の法則」に極めて似たものを信じて、
もう少し待とう、もうちょっとだけ待とうと自己延命処置を続けてきた結果が現在である。

「ダメなときはダメなのよ。そこで腹をくくると意外な展開が生まれる」

この「宇宙の法則」が正しいかどうかはおのおの自己検証するしかない。
このつたない記事が精神不安定時の春日先生のお目にとまらないかなあ。
いまのわたしは拙文をだれかに読んでいただけるだけでもありがたいという境地である。
好評なんかもってのほかで、批判していただけるだけでも、お目通し感謝でありまする。

「サイコパス解剖学」(春日武彦・平山夢明/洋泉社)

→精神科医とホラー作家の対談本。
春日先生は、著作としてカウントされなくてもいいという程度のあつかい本だ。
そのようなことをメールでおっしゃっていたけれど、これがおもしろい。
5ページに1回くらい笑えるのである。コスパ最強というやつである。
作者としては複雑だろう。
自分の集大成として出した渾身の一作があまり売れず評価も低く、
反面、チョーいいかげんに出した本の評判がよく売れてしまうというのは。
どうしてこうなるかというと、みんな忙しいし、みんなバカだから。
いまはみんな忙しいから、
重厚な書物を時間をかけゆっくり読んでじっくり吟味するなんてことはできないし、
そのためもあり基礎教養のレベルが下がり、
いい本を書いてもその価値が読者には理解できない。
春日先生は自分の評価されたいところとは正反対の部分で売れているのかもしれない。
これは自分への絶望になろうが、他者に対する希望でもあるのだろう。
他者が自分の知らない自分を発見してくれるということなのだから。
わたしなんかも1ヶ月かけて書いたブログ記事がほとんど読まれていないだろうと思う。
しかし、まあ、それでいいのではないかと。
結局、他者と逢うというのは自分も知らない自分と逢いたいという意味である。
自分の魅力(才能)は他者によって教えられるものであるのかもしれない。
このブログの「雑記」なんか文法も誤字脱字も気にせずテキトーに書いているけれど、
数少ない読者さんにとっては「雑記」がいちばんおもしろいかもしれないわけだから。
そして、実際のわたしと逢って「雑記」の裏側を知るともっとおもしろくなるという仕組み。

とにかくおもしろく笑える本である。
最近はめっきり本屋に行かなくなったので、この本が出版されたことも知らなかった。
こんなおもしろい本だと知っていたら、定価で2冊くらい買って、
だれかへ1冊プレゼントしたいくらいである。
しかし、春日先生はこれほどおもしろい自著をまったく評価していないという矛盾。
本書はサイコパスにまつわる言いっぱなしの暴言酔談集である。
ビールを飲みながら話した内容らしいが、そういうのこそおもしろいのである。
傑作を書こうなんてねらいながら、鉢巻をして懸命に書いたものもいいが、
無責任に酔っぱらって口にした言葉がおもしろいこともある。
相手と相性が合えば、どんどんおもしろい言葉が出てきて、
それに刺激され、さらにおもしろい発言(=未知なる自分)がどこかから出現する。
狂人をおきちがいさま、患者さまと持ち上げて
日々サービス奉仕に徹している医療営業資格者の春日先生だからこそ、
鬱屈がたまりこういう本音の大放言で切れ味の鋭い黒々とした言葉を吐き出せる。
そもそもサイコパスなど医学用語ではなく、がために定義もない。
わたしが定義したらサイコパスとはチャーミングなクレイジーさんくらいになるか。
いまは精神病もなまぬるくなったと
あちこちで春日先生は嘆いて(?)いるが(……不謹慎っすよ)、
クレイジーなやつってサイコーにロックでパンクでええじゃないか! ええやんけ!

サイコパスといえば思いつくのは創価学会の池田大作氏やプロレスのアントニオ猪木氏。
おなじくプロレスの大仁田厚氏もサイコパっているが、あれはちょっと質が低いように思う。
いいことも悪いことも、こちらが想像も及ばぬレベルでするのが正しいサイコパス。
いまはつまんねえ時代だ。もっとサイコパスよ増えろ、
という思いが本書の著者ふたりとわたしに共通する感情のような気がする。
わたしはこのまえ統合失調症で創価学会員の31歳の青年に、
「もっとクレイジーになってほしいなあ」とか言っちゃう人間だから。
そうしたら川岸からの帰路、統失青年はマッドでクレイジーなことを言ってくれた。
入院しているとき精神病院で知り合ったおなじ統合失調症の女性と結婚して
子作りして家庭を持ちたいと。
「遺伝とかどうするんですか?」と聞いたら「関係ねえや」。
どちらもパートさえできない統合失調症夫婦のクレイジーでサイコパスな家庭は、
平和で安定したスマイルばかりのファミリーよりもよほどよろしい。
いくら違法性行為をしても無罪放免の精神障害者の性欲旺盛な青年は、
おれは女を折伏してから嫁にしますよ、とニヤリとしながら言った。
意味は、こころもからだも犯してやる。池田先生は二兎を追えと言っている。
そのとき、いままで鈍重で凡庸だと思っていた学会の統失青年が、
夕陽のせいもあろうがサイコパス的な輝きを放ち、わたしを魅了したのでございます。
春日武彦先生、楽しいご本をありがとうございました。このご恩は忘れません。

「こころの不安がわかる精神医学入門」(春日武彦ほか/洋泉社MOOK)

→こういう啓蒙書的な共著の主役を張るようになったのだから、
年功序列の日本で春日先生はいまは業界のなかでは重鎮というあつかいなのか?
そんな偉い先生から本を3冊も送ってもらえる当方のステータスもアップしたのか?
わたしは有名な精神科医の春日武彦先生から好かれているのか嫌われているのか?
当方の認識ではカクが違い過ぎるから無関心だと思うのだが……。
わたしをパーソナリティー障害だと診断する怒りのメールが
矢のように飛んで来たと思ったら、直後には最新刊を3冊も送ってくださる。
わかんねえよ春日武彦さんは。
わたしは春日先生の大ファンで機会があれば講演会でも行きたいが、
向こうはマイナーなブロガーに関心を持つ必要なんかないわけでしょう?
社会的地位も信用も収入も桁違いの春日先生はなにを考えておられるのか?

まずいまの精神科商売の現状をうかがおう。
今年の4月に出た本だからまさに最新の現場からの報告である。
いまはむかしとは異なり、どうなったかというと――。

「……患者さんがネットで自己診断してから来るようになったこと。
いきなり「僕はこの病気ですからそれに相応しい治療してください」
というノリの言い方で、しかも薬の銘柄まで指定してきたりする。
そういう意味では、医者と患者の関係というのがもう完全に、
居酒屋行って「獺祭(だっさい/日本酒)くれ」というのと同じ捉え方です。
実際に話を聞くと自己診断と微妙に違ってくることが結構あるんですよね。
あと、薬の銘柄を指定されると当然ムッとくるわけですよ。
ただ、僕なんかはもう面倒くさいんで、とりあえず希望に添って処方することが多い。
喧嘩してもしょうがないですからね。喧嘩したらネットに悪口を書かれるし、
それでうまくいくことだって一応あり得るので。
うまくいけば「めでたしめでたし」ですし、うまくいかなかったら
「だからプロに任せなさい」って偉そうに言うんですけどね。
「医者にすがるっていう関係性を否定するのって、かえって辛いことじゃない?」
と僕は思うんですけどね。
〝なんかよくわかんないけれど頼もしい存在”なんていう幻想を
医者に抱いていたほうが、僕は楽だと思うんだけどなあ」(P48)


〝なんかよくわかんないけれど頼もしい存在”なんていう幻想を
むかしは僧侶に抱いて安心していたものもいたのだろう(空海はそのエリート)。
日本では近代以前(江戸時代まで)は精神病という疾病観念さえなかったというから、
さぞかし真言宗の祈祷は患者の救いになったと思われる。
さて、お薬の話。
関係性を著しく害すので、わたしは医者になるべく銘柄指定はしないようにしている。
でも「ロペミンください」や「プロ・バンサインください」
は過去に言ったことがあるから不良患者だろう。
だって、薬局ではいくら払っても買えないんだからお願いするしかないわけで。
医者をおだてるのも忘れない。
「最高の病院で最高の名医に診ていただいているから、
もうこれ以上できることはないと。それだけで安心です」なんてさ。
おだてているわけではなく、本心でもあるんだけれど。
患者が変わったためか、時代の風潮なのか、
精神科医にも変化が見られると春日先生はおっしゃる。

「そして精神科医に文学的素養のある人間がいなくなった。
本当につまらないですね。ミもフタもない業界になってきている。
「おまえらIT企業にでも勤めてろ!」
「製薬会社にでも就職したほうがお似合いだ」
「マニュアルを枕にして寝てろ」みたいな奴らばっかり。
そういう輩が心の深淵を覗き込もうなんて、僭越だよ。
その辺がここ10年で感じた変化ですね(溜め息)」(P49)


春日先生の病院へ行って、本当はパーソナリティー障害らしいわたしが
「うつ病っぽいのでパキシルください」と言ったら医師はどんな顔をするのだろう。
パキシルは春日さんが大嫌いな抗うつ剤。
自分でも試したことがあるらしく、吐き気はあるものの、短気が治ったらしい。
臨床経験豊富な医師によると、パキシルはのませるとどうなるかわからない薬。
悟ったような気分になったり、反対に攻撃的になったりすることもある。
人体実験みたいのは嫌いではなく、パキシルを試してみたいなあ。
学会員のようなハイテンション、ハッピー、ビクトリー状態とか味わってみてえ。
わたしが統合失調症になったら人生に絶望するが、
このまえ学会員の統失患者に聞いたら、そういう自覚がまったくないんだなあ。
この病魔は自分を成長させるステップくらいのノリであっけらかんとしている。
精神病院でもほかの患者を折伏していたっていうからすさまじい。
31歳の彼はいまでは幻聴、妄想、興奮を特徴とする陽性症状の段階を終え、
薬で病気をコントロールしながら自宅療養している。
陽性症状終了後の統合失調症患者はどうなるか。
春日医師は、思考に妙な不器用さというか「ぎこちなさ」が残るという。

わたしは創価学会と統合失調症への興味から彼と逢ったのだが、
たしかに妙にこちらを疲れさせる「ぎこちなさ」があったような気がする。
自分は統合失調症で電車に乗れないから千葉の自分の家まで来てくれという。
で、逢ったら、このまえ「朝活のオフ会で池袋へ行った」という。
あれ? うん? うん?
当日は改札まで来てくれるだろうと思ったら、
そこから自分の指定するところに来いという。
なんでも彼はスクーターで来ていて、それをコンビニの駐車場にとめているが、
そこから離れることができないという。おそらく彼なりのルールがあったのだろう。
それから彼の家まで15分重いスクーターを引いて行ったのだが、
どうして最初から歩いてこないのかわからなかった。
おそらく彼のなかでは合理性とか効率とか、ある種のルールがあったのだろう。
家に着いていきなり池田先生の色紙や本でいっぱいの仏間に通される。
そこで彼は腹が減ったと主張し、母親にチャーハンをつくらせ、
わたしのまえでひとりがつがつ食らう。
そしてトイレに入り、こちらにも聞こえるくらいの爆音を立ててクソを放つのである。

たしかに春日先生のおっしゃるよう、ささいなところが不器用でぎこちなく、
そこに創価学会思想がミックスされているから、未体験のことの連続で、
おもしろくなかったわけではないが(彼にも感謝しているが)、
翌日はぐったりして動けなくなった。
こんな大変な病気に百人にひとりの確率でなっちゃうなんて怖いなあ。
しかし、創価学会に入ったら病魔に勝利して宿命転換できるのだからいいなあ。
いま春日先生が院長をなさっている精神病院は「下町のどん詰まり」にあるから、
おそらく学会員生息率も高いと思われる。
多くの臨床体験で覗き見たであろう創価学会と精神病の関係を、
いつか裏話としてこっそり聞いてみたい。

うつ病になったら春日先生に逢いに行けるのかあ。
しかし、もうパーソナリティー障害のご診断をメールで受けているから、
これは逢いに来いということなのかと精神病的妄想をふくらませる。
やべえ。「おれが治してやるから早く来い」という春日先生の声が聞こえ始めた。
これって幻聴だろう。すわ南無三宝、統合失調症か。
春日先生の声がテレパシーのように聞こえてくる。世界がぐるぐる回り始めた。

※いまメールを読み返したら「パーソナリティー障害っぽい」で、
正式なご診断は受けていなかった。
しかし、ならば本当はどうか診てもらうというかたちで逢うきっかけになるか。
いま逢いたい有名人なんて春日先生くらいではないか。


「つまらない人生入門 鬱屈大全」(春日武彦・ 吉野朔実/アスペクト)

→著書多数で愛読者も大勢いらっしゃる、
どう見ても社会肩書的には院長先生にまで大出世した、
精神科医の春日武彦さんでさえ人生をつまらないと思っているのだ~よ。
それなりに金はあって(もう一生食うには困らないだろう)、
底辺世界では単著など1冊出したら威張れるくらいなのに
あまたの出版社から著書を多数上梓、
妻との関係もとりあえず破綻しておらず、世間的に見たら不満はなにもないような、
職業的心理屋で精神商売人の先生が
おのれの鬱屈をなんとか言葉にしようとしているのは、
下層の底辺読者にとって救いといえなくもない。
結局、ある程度の名声や収入、家族を勝ち得ても人間は孤独で不安なんだなあ、
と意地悪にも嬉しくなる。
お医者さんになって、本を何冊も出す有名人も鬱屈しているのだと思うと、イヒヒ♪
職業人としての春日武彦医師がとても好人物でいわゆるできるやつだというのはわかる。
だからこそ、かなり大きな精神(科専門)病院の院長まで出世できたのだろう。
それはどうしてわかるのかというと、こんな人格未熟(ゆえ)不人気ブログを書く当方も、
いまは非常に外面(そとづら)がよく、挨拶の声なんか朝礼でけっこう目立つほうだし、
なにごとも穏便、平和に大人としてやり過ごそうという態度になったことから、
鏡面反射的に理解できることである。
しかし、精神科外来を訪れるお客さんがすべて
有名医療人の春日先生の本を読んでいるわけではないから、
氏の職業的笑顔は固まるいっぽうで、反面、
内面の鬱屈をいろいろおもしろおかしく表現者的に書くことができたのだろう。

先生はこんなことを言われたらわかっていないとさらに鬱屈するだろうが、
自分が春日さんと似ていると思うところは傍観者的態度である。
どうにも現実にリアリティーを感じられない。
現実と自分のあいだに薄い1枚の膜(まく)が張られていて、
自分はそのフィルターを通してしか現実を見ていないのではないかという疎外感。
自分と現実のリアリティーのあいだには処女膜のようなものがあるというか。
自分はなまの荒々しいエネルギーをまだ知らないし、
一生知覚できないのではないかという不安感。
それでもまあまあうまくやっているが、これで本当にいいのかという焦燥感。
しかし、なにをやっても無駄だという無力感も強いし、
脱力感が基本トーンとしてある。最後は運が勝負なんだよなあ、といったような。
正義にも恋愛にもカッカできなく、どこまでも世界はむなしいという空虚感。
いちおう外面的には、そうは見せない微笑はつくることができるが、
正体がばれているのではないかという恐怖感はたえずあるし、
いくら人生経験や読書体験を積んでも世界への違和感は消えない。
いきなり自分こそ世界を変革する偉人ではないかという誇大感が生まれることもあり、
その瞬間は楽しいがあとあと自己嫌悪の感情を引きずり苦しむ。
なんでみんなふつうに生きられるんだろうとつねに劣等感をいだいている。
どうして人生への「もどかしさ」を感じないで、
まるでアニマルのようにふつうの人は生きられるのか。

最近、このブログはだれにも読まれていないことをあらためて知り、
さらに怖いものがなくなった。
短期バイトにいっしょに入った1歳上の同僚がいるのだが、彼がすごい。
いまどき中卒で独身、底辺、家庭環境も最悪で、
わたしだったら耐えられないで発狂するレベル。
しかし、彼はそこそこ明るく、これまで逢った人物と比較してむしろ安全な人材である。
世界がわからなくなるのはこういうときである。
精神科医の春日さんやわたしは本をいっぱい読んでいるから、
リアリティーの喪失といったような鬱屈感情に悩まされるのではないか。
わたしとおなじ貧困層の彼は、しかし身の丈を深く自覚自認しているため、
ヘルニアの影響だかでびっこを引いているが当方よりもはるかに
精神的には平和温和安定状態にいるのではないか。
「人生なんかこんなもの」をさらに発展させた「自分なんてこんなもの」という諦観を、
仏教を学ばずとも自然におのずから備わった知恵(中卒)で受容している。
上には上がいるんだなあ。下には下がいるんだなあ。これは同義である。
むかしからどの国でも下層民が9割以上だったわけで、
大衆庶民は生活に追われ難しいことを考えないがために、
インテリ階層には明るく健全で良心的な人物に思えたのではないか?
現代ではそういう雑草のような下層民がハンパな知恵をつけたから、
精神科や心療内科、カウンセリングが繁盛するわけで、
むかしは土俗宗教権威者から「そういうものなんだよ」と指導されて納得していた。

男女は生物学的必然として交尾すると決まっており、
しかしそこに恋愛とか複雑な知的概念を加えたから、
わたしのような無学な下層民がおかしな迷いにとらわれるのだろう。
男女は生物学的にオスとメスなんだから発情して交尾すればいいの。
生物学的交尾ともっとも遠く離れたものがインテリのSMだろう。
子孫繁殖という遺伝子命令には逆らった春日先生だが、
しかし職業がらか生育環境のせいかSMは実体験していないと思われる。
もっとも生物学的交尾から離れた、
人間的ともいいうる嗜虐加虐関係、SMは精神科医の春日武彦先生によると――。

「SMというものを考えてみる。あれはどちらかがSで
どちらかがMといった具合に役割分担をしてプレイが行なわれる。
だが、実際には、完璧なSや完璧なM同士が相対しているといった構図ではないらしい。
Mの役を演じつつSの立場を想像して興奮したりその逆であったりと、
脳内は二重構造になっている。その重層性がプレイの妙だという」(P97)


これはSを男、Mを女と言い換えてもおなじだろう。
動物から離れて人間的に考えてしまうと、女の性的妄想こそエロいし、
それを充足できたらなあと考えるが、向こうは男を立たせようと考える。
Sを女、Mを男と言い換えてもおもしろいだろう。
Sを患者、Mを精神科医と考えても意味が通る。
Sの患者は精神科医の職業感情を満足させるためにきちがいを演じている。
Sを精神科医、Mを患者とも考えられる。
スーパーフリーな患者を助言や投薬でいじめ抜くのが精神科医ともいいうる。

わたしと春日先生の関係もSMに近い。
社会的上位者の春日医師のまっとうな意見にシュンとさせられることも多いが、
社会的塵芥のわたしのほうが肩書のある精神科医よりもフリーもフリー、
スーパーフリーだと思うと、失うもののないこちらはサディスティックにも
西新井にある精神病院に(患者を選べない)春日医師に逢いに行けるのだから強い。
きっと安定を求めれば求めるほど人生はつまらなくなるのだろう。
しかし、つまらない人生にも人間観察というおもしろさがあると著者は本書で主張する。
大味なものばかり求めていると気づかない細かな味わいに著者は敏感である。
毎日つまらないなあと鬱屈しながら、著者は今日も微笑を浮かべて患者と対面する。
これでよかったのかどうかわからないが、
これでよいという居直りもないが、それが人生だ。
生きていくしかない。生きるしかない。
うんさりしながらげんなりしながら、ときたまほのかな希望の香りを感じながら。

「私家版 精神医学事典」(春日武彦/河出書房新社)

→著者からいただいた本だからケチをつける気はカケラもないことを最初に断わっておく。
こだわりとプライドに満ちた500ページ近い大著で、
そのうえ近年はめずらしい活字二段組(表現が正しいかはわかりません)である。
売れるのかなあと。売れなかったらまた春日さんのことだから被害者意識を
こじらせてしまいそうで、こんな渾身の大著を書いたにもかかわらずそれでは、
踏んだり蹴ったり、あんまりなのでかわいそうで見ていられなくなる。
帯を見ると荒俣宏、円城塔、斎藤環といった大物(?)たちからの宣伝文があり、
これは根回しをかなりうまくやっていると見てよく、
出版界にはいろいろな賞があるようだが、
もしかしたら長いこと出版業界から無視されていた春日さんは、
本作で初受賞のようなものをするのではないか?
そうしたら賞のパワーで売れるだろうし、
春日先生の本当の価値が世間から認められ、
お勤めの病院でも最近顧問から院長に出世したようだし、
まさに人生一発逆転、春のようなものが訪れるのではないだろうか?
さらにさらに「鬱屈精神科医、お祓いを試みる」は、
著者が私小説と言っているから私小説で、
これもなにかの文学賞を受賞して、ようやく、
ようやくだが春日先生の時代が到来するのではないか?
もしそうなったらこれは本当に邪心とかなく長年のファンとして嬉しいかぎりである。
小谷野敦さんがなんか文学賞を取ったらケッと心のどこかで思うけれど、ここだけの話。

いったいどうして愛読者に過ぎないこちらに、
春日さんはわざわざこんな大著をプレゼントしてくれたのだろう。
いま身体的にも精神的にも調子が悪く、
これはそろそろ精神科へアクセスしろよということなのかと穿(うが)った見方をしてしまう。
そういう思考回路を取ることからも、いまの当方のメンタル面の不調はわかるだろう。
たぶん実際はそんなお節介めいたものではなく、ただの厚意か、
こいつがどんな感想を書くか知りたいという好奇心からだと思う。
精神科へ行くチャンスはいままでいくらもあったと思うし、いまさら感が否めない。
とはいえ成仁病院へ行くには赤羽に出て、そこからバスで西新井まで1本か。
いきなり院長先生が診てはくれないだろうなあ。
それにもし精神科にかかるとしても春日先生だけはちょっとと思うし、
反面、春日先生に診てもらわないとしたら精神科なんて行く必要はないとも思う。
いやいや、いきなり春日医師のまえに登場して、
「なにがお困りですか?」と聞かれても無言で答えず、
こいつは緘黙症かと思わせておいて、
いきなりカバンからくるくる巻いたカレンダーの裏を取り出し、
おもむろに芝居がかった調子で「人生の迷い」と書かれた紙を見せるのも、
これは氏が占い師にやったことのパロディーなのだが、おもしろいのかもしれない。
しかし、「人生の迷い」なんて自分で考え抜くしかなく、精神科医に聞くものではないし、
もし答えてくれる人がいたとしてもそこでお手軽に得た答えはニセモノだろう。
つくづく医者は患者を選べない因果な商売だと思う。
「物欲がないので困っています」と相談されても答えようがないだろう。
「それはいいじゃないですか」くらいなもんで。
40を過ぎた男が同性の医者に「虚無感でいっぱいです」
とか高校生みたいなことを言えるかよ。こっちだってプライドというものがある。

専門家ではないからわからんが、
統合失調症ではないし気分の波は激しいが病気というほどではなく、
(希死念慮はあるが)たぶん軽いうつ病と診断するのもためらわれるレベルで、
しいて病名をつけるのならパーソナリティー障害(人格障害)のミックスあたりで、
とはいえ医師もさすがに40を過ぎたいいおっさんに病名を伝えることはためらわれ、
軽めの精神安定剤のようなものを出され「様子を見ていきましょう」で終わるだろう。
だが、それでも精神科にかかったほうがいいのかもしれない。
なぜなら孤独はよくないからだ。
じつは土曜日の約束を友人にキャンセルされ、それは仕方がないのだが、
ちょっと落ち込んでいる。孤独はよくない。
本書は著者の連想で編まれた(がために私家版?)精神医学事典らしく、
ならばこちらも連想のようなものに任せて引用や感想を書いていこう。
そもそも文章を書くという行為は連想そのものなのだ。

「自分自身と向き合うためには、孤独な時間が必要だ。
思索や内省のために孤独は必須であり、
孤独があってこそ人は「自分らしさ」を取り戻す。
とはいうものの、孤独な状態は危険を秘めている。
自分を客観視しづらくなるので、考えが暴走しやすい。
自分では論理的に考えているつもりでも、現実にそぐわない理屈に囚われたり、
バイアスの加わった思考に陥りがちとなる」(P452)


このため病的に孤独な人は定期的に、
たとえ3分診療でも精神科とつながっていることが重要なのだろう。
精神科は初診はけっこう時間を取るようである。
(消化器内科は初診でも3分いかなくて忙しいんだなあと驚いた)
わたしは精神科の、この初診がいやなのである。
自分のことをペラペラ話したくないし、聞かれたくないことがたくさんある。
そんなことを言われたら診察ができないじゃないかと言われても、
「そりゃあそうでしょうね」と言うしかない。
春日さんならいいかって、春日さんにはもっとさらに
話したくないし聞かれたくない、自分の弱みなんて。
精神科医の春日さんもおなじ理由で精神科やカウンセリングではなく、
占い師にすがったわけだから。春日さんが変なことを書いている。

「自慰をする際に人はどのような空想をするのだろうか。
あまりにも非現実的な場面を思い描いても、欲望と現実とのバランスが取れまい。
自分に都合が良すぎることを考えても、それではいまひとつ興に乗れない。
すなわち内面と現実との摺(す)り合わせといった意味で、
精神分析では自慰空想の内容が重視されるという。
だがわたしが患者になったとしたら、精神分析医ごときに、
そんな秘密は口が裂けても言いたくないね。
平然と喋るほうが、よほど不健全ではあるまいか」(P103)


おっと春日さんは意外とノーマルなんだなということはどうでもよくて、
わたしも精神科医ごときに自分の秘密は口が裂けても言いたくないね、と思ってしまう。
ここでひとつの問題が生じる。
春日さんは精神科医なんて心のオーソリティーでもなんでもないという立ち位置のようだ。
それを言っていいのかということを書いている。
精神科医なんて「心の修理屋」に過ぎないと。

「わたしが精神科医になった理由のひとつは、患者の言動を通して
人の心の根源的な何かを垣間見ることが出来るのではないかと期待したからであった。
狂気が精神の極限状態であると仮定するならば、
そこには心の深淵がさらけ出されているのではないかと予想したわけである。
しかしそんな予想はむしろロマンティックな夢想と称すべきなのだった。
故障したエンジンから生ずる異常音に耳を傾けても、
物理学の根源とでもいうべき秘密が聴き取れるわけではない。
故障の個所はどこなのか、故障の程度はどれほどなのか、
そうした見当がつくだけだろう。
わたしは心の修理屋にはなったけれど、
修理作業を通して深遠なるものと邂逅することはなかった。
せいぜい心には壊れやすい部分があり、
また壊れるにも一定の癖やパターンがあると知っただけであった」(P288)


春日さんが精神分析医なんかに秘密を話したくないように、
自分の患者さんが、
果たして本当に精神科医に胸襟を開いて心の奥底を開陳してくれるか?
それは春日さんの器がどうこうの問題ではなく(それもちょっとはあるかなあ)、
現実的に精神科外来の混雑を考えたら、
そこまでひとりの患者に時間を取れない。
ベルトコンベアーに乗ってきた患者を高速でパターンに分類して仕分けする工員が、
かならずしも患者の心の秘密を知らなくてもよい。
というか、むしろそんなものを知らないほうが
作業効率は高まるので優秀な工員たりえよう。
それにしても壊れた心を故障したエンジンにたとえるあたりうまい。
春日さんはB級精神科医から詩的精神科医に
長年の修業の結果、相成ったのではないか。
わけてもわけてもいくらわけても分類しえないもの――
わけられないもの――わからないもの――無分別知的絶対存在――超自然的なもの
――天才のようながあってほしいという願望が著者にもわたしにもあるのだろう。

とにもかくにも春日医師はパターンに分類するのがお好きなようである。
言葉の機能のひとつは分類ともいえるため、
文学作品を愛する詩的精神科医が分類に偏執を見せるのは必然だろう。
自己実現という主に若い人を迷わせるポエミーな概念がある。
春日さんは本書で古株精神科医の中井久夫には何度も言及しているが、
お仲間だった心理療法家の河合隼雄にはいっさい触れていない。
自己実現は河合が日本に広めた達成目標のようなものだが、
詩的精神科医はそれをおちょくってみせる。こういう芸がうまいのよ春日先生は。

「自己実現においては、自分らしさが重要なポイントとなるだろう。
自分らしさを欠いていれば、それはどこか違和感に彩られたものに成り下がってしまう。
とはいっても、本当の自分らしさ――すなわち唯一無二のものなど存在するのだろうか。
自分らしさなど、所詮はいくつかのパターンに分類されてしまう程度のものではないか。
そのパターンを換言するならキャラということになるだろう。
キャラクターではなく、かなり紋切り型な類似としての「キャラ」である」(P301)


自己実現なんて自分のキャラを見極める程度のお遊びだろう、と言っているに近く、
精神医学の重鎮、中井久夫が激怒する(?)ような不遜なことを
平気で口にする春日さんは生意気と評されただろうことも予測はつくが、
春日医師のそういう神をも恐れぬところがわたしは好きである。
春日さん、中井久夫の絵画療法とか、どう思っているんだろう?
あんなもん効くわけねえとか言ってほしいが、調べたら中井久夫はまだ存命かチクショー。
自己実現した結果、わかったキャラが「永遠のパシリ」だったらいやだなあ。
おそらくわたしのキャラは「負け犬」なのだろう。
やたら犬から吠えられるし(関係あるか?)、
負け犬の遠吠えってわたしのためにあるような言葉だもんね。
ちなみにわたしが正常か異常かは精神科医の春日武彦先生にも分類できないという。

「正常と狂気との間に明瞭な境界線が引けると精神科医は考えていない。
言動や生活態度が正常であるとは到底思えないが、
そのことでトラブルが起きているわけでもないし、
仮に治療をしたとしても効果が期待出来ないケースなんていくらでもある。
そういった人たちはむしろ環境によって運命が左右されてくる。
銀行員や公務員であったら異常そのものであるが、
芸術家であるとか芸能の分野でならば、あるいは水商売や風俗関係ならば
愛すべき人として暮らしていけそうな人物などいくらでもいる。
そのような人たちの人生に精神科医は介入しない。
生きていく世界の選択を誤らないようにと祈るだけである」(P81)


春日さんって職業的な微笑はできても、心の底から笑ったことがない人だと聞く。
笑わないだけではなく、泣かない人でもあるらしい。
泣かない人がいるというのはびっくりしたけれど、
たしかに春日医師のご著書はけっこう読んでいるほうだと思うが、
一度も泣いたことはない。しかし、笑えるのである。
春日さんは人を笑わせるのが天才的にうまいがゆえに笑えないという、
おかしな宿命のようなものをお持ちの人なのかなあ。
それとも笑うわたしがおかしいのかしら。
わたしはテレビのお笑いを見て笑ったことが一度もない。
笑わせようとしているお笑いは嫌いと言ってもよい。
春日さんはそもそも笑わないんだから、
お笑い芸人がよく理解できないという点では同類だろう。
さてさて、以下の文章で笑うのっておかしい? みなさんは笑いますか? 

「高校の頃、武智という教師がいた、
我々生徒は姓を音読みにして「ぶち」と読んでいた。
何となく斑犬(ぶちいぬ)とかマダラ模様の豚や馬を連想させる外見であったし、
「ブチ殺す」とか「ブチのめす」などといった物騒な言葉にも
親和性のありそうな教師だったので、
このあだ名に我々は大いに納得していた。
だが当人にとっては、実に不愉快な名称だったのであろう。
誰かが当人の前でうっかり「ぶち」と口にしたら、たちまち張り倒されていた。
無理もないと思った」(P302)


ここで大笑いするのっておかしいのかなあ? うちビョーキかしら。
うちのブログはどうなんだろう? 笑った人もいるでしょう?
わたしは笑わせようとねらって書いているけれども、
そこではないところで笑われているのかもしれない。
当方にとってそれはそれほど不愉快ではないが、春日院長先生はどうだか
おれなんかに本をくださる人を怒らせたくない。
ええい、大サービスでもう一丁。ここも大笑いした。
春日さんの本はこんなにおもしろいんだから、みんな買って読んで褒めてあげて。

「実は少々離れた場所で痴漢行為が行われているのを目撃したことがある
(まだスマホなど普及しておらず、また乗客が協力して犯人を取り押さえる
といったパターンも定着していなかった時代のことである)。
朝の満員電車であった。多くの乗客が気づいていた。
にもかかわらず痴漢(痩せて背が高く、金壺眼で頬骨が飛び出て、
服装は安サラリーマン風)は平然と被害者の身体を撫で回していた。
その平然さが、周囲を怯えさせ「見て見ぬ振り」を強要していた。
被害を受けている女性は嫌悪感よりも恐怖に駆られ、
混雑した車内を必死に移動しようとする。
それを脅しつけるかのように薄笑いを浮かべた痴漢が追い回す。
猥褻(わいせつ)といったものではなく、まさに暴力であった。
乗客たち(わたしも含む)は、もはや痴漢の毒々しさに圧倒されて棒立ちしていた。
あのときの印象に基づくなら、女性を弄んだり竦(すく)ませて屈服させる喜びに加え、
居合わせた乗客たち全員に無力感と自己嫌悪とを生じさせる楽しみを
痴漢は味わっていたように思える」(P269)


日常に立ち現われた異界をじつに巧みに描写している名文である。
おもしろい文章やうまい文章を書く人には素直に負けたと思う。
正統的な模範的な文章の書き手としても春日さんはうまいもの。
たとえば家族とはなにかを定義するにしても、
こうまでうまくは言葉を使いこなせないのではないか。
わたしが引用させていただいているのは、
本を読んでもすぐ忘れてしまうという脳欠陥があるためと、
もうひとつはうまい文章を書き写すことでコツを盗みたいという意地汚さゆえだ。

「家族は、安心感や無条件の愛情、打ち解けた雰囲気とそれなりの規律、
いたわりの心や敬意、自由と分別、みずみずしい感情とその交流、
良い意味でのいい加減さなどを基に家庭を営んでいくのが「健全な」姿だろう」(P334)


まあ現実はそんな健全な家族はどこにもないのだろうが、
言葉のうえではこれほど理想的な家庭はないだろう。
「健全な家族」はどこかしら胡散臭さがある。
では、「健全な精神」とはなにか?
春日武彦医師は森田療法を説明するかたちで「健全な精神」について言及している。
これほどわかりやすい森田療法と「健全な精神」の説明はないだろう。

「早い話が、ぐだぐだと自分に粘着なんかせずに、
質実剛健に黙々と日常を生きてみろ! というわけである」(P414)


でも、それ、おもしろいでっか? という話になってくるわけだが。
この本は娯楽性が高いばかりではなく実際に役に立つことも書いてある。
精神病の発病を防ぐヒントである。
いまわたしが狂っている新興宗教(狂っていればいるほどいい)
に入りたがっているのは無意識に発病のシステムを察知しているのかもしれない。
成仁病院の院長にして臨床経験豊富な精神科医の春日武彦氏は語る。

「自衛隊を除隊してしばらくしてから、精神状態が悪くなって医療を受ける人が
ときおりいると聞いたことがある。
それは自衛隊にいることがストレスフルで、そのためにおかしくなるといった話ではない。
むしろ厳格な規律に縛られて身体をフルに動かしている間は
何とか発病を防げていたのに、
除隊によって生活を律するものがなくなった途端に状態が悪くなってくる、
といったパターンなのである。
そのような観点からすると、自衛隊のような集団生活にも美点のあることが分かる。
枠組みにきっちり嵌め込まれ、生活は規則正しく、しかも身体を酷使する日々は、
妄想など寄せつけない。ニートだとか引きこもりとはまったく正反対の生活に、
発病を防ぐヒントが隠されているということになる。
ただし自衛隊生活がオールマイティではないし、
いまどきの若者には徴兵制復活が必要だ
などという暴論が成り立つ根拠にもならない。
が、あまりに自由かつ取り止めのない状態は、
精神的によほどタフでない限りかえって不幸を招きかねない事実は
きちんと把握しておくべきだろう。真っ白な百号のキャンパスを前にして、
躊躇することなく思いつくままに絵筆を動かせる者はまことに少ないのである」(P51)


ぐだぐだと自分に粘着なんかせずに、質実剛健に黙々と日常を生きてみろ!
春日さんは忙しい臨床のかたわらで(本書を読んだらわかるが)大量の読書をして、
なおかつあまたのおもしろい本を書いてきたのだから、
達成できたかはわからないが少なくとも目標に近づこうと実践はしてきたのである。
もっともっと報われなければならない人であろう。
職種にもよるのだろうが、仕事をしながら読書を続けるのは本当に難しい。
本書は春日精神医学、春日心理学、春日的狂人記録の集大成といってよく、
長年の臨床や読書がこのようなかたちで結実したことに
「おめでとうございます」と心から申し上げたい。
願わくば正しい評価を受け、なにかの賞を取り、
そこでまた「おめでとうございます」と口にできたらと思うばかりである。
大著のご執筆、さぞかしお骨折りだったことでしょう。
この本を書き上げたあとの春日先生の新境地を読むまではまだまだ死ねないぞ。
多少(?)メンタルに問題がある先生の愛読者は新作を楽しみにしております。
アマゾンで心ない評価をされているのを見ましたが、どうかお気落ちなさらぬよう。
この記事をお読みのみなさま。
本書は「はじめての春日武彦」「春日武彦入門」にもたいへんふさわしく
(ベテランさんはネタの重複が気になる方もあるいは)、
ぜひぜひ手に取っていただきたい1冊であります。
精神医学の知識は意外と生活に使えるし、
本書はわかりやすい解説をすることでは
第一級の著者の手による「私家版 精神医学事典」ですから買わない手はありません。



(追記)ごめんなさい。287ページの「9・11」は「3・11」では?
こちらの勘違いかもしれません。ごめんなさい。
それからこの記事における誤字脱字、ごめんなさい。
少しずつ直していきます。ですから、ごめんなさい。
「鬱屈精神科医、お祓いを試みる」(春日武彦/太田出版)

→人と人はわかりあえないよ。自分の苦悩は他人にわかってもらえない。
うん、孤独だね。でも、それが現実なんだからしようがないじゃないか。
自分で苦悩に立ち向かうしかない。そうなったときにせめてなしうることってなんだろう?
幸運とか不運とか人間には理解不能なバランスとタイミングで舞い込んでくるけれど、
まったくの無力というのは絶望感にとらわれるから、せめてなしうることはないか?
著者がしているのは言語化、占い師にすがる、お祓いをする、家の改装をする、である。
なんでも両親がお亡くなりになり、マンションの一室を相続したとのことで、
そのマンションを自分流に徹底的に改装することで
「お祓(はら)い」の効果があるのではないかと。
運勢が好転して名誉や財産が天から降ってくるのではないかと。
そこまで期待するのは大仰なのは先生もわかっておられ、
せめて自分の生きづらさのようなものが何割かでも解消するようなことがないかと。

精神科医の春日武彦さんの根本にあるのは孤独感である。
これは春日さんだけではなく、強弱の違いこそあれ、だれもが抱えている問題だ。
だれにもわかってもらえないから孤独感が増すのである。
精神を病むというのは孤独をこじらせたとも言いうる。
はっきり言って軽度の精神病だったら、
裕福な美青年や美女から愛されることで消えるだろう。
しかし、人生はそこまで甘くないから精神科医のもとを訪れるものが現われる。
精神科医は女性患者N子から自分の苦しみなんて「分かりっこないですもんね」
と言われたことがあるらしい。正確にはキレる寸前だった初診のN子はなんと言ったか。
「あなたみたいに恵まれた人には、わたしの苦しさなんて分かりっこないですもんね」
職業人、春日武彦医師はどう答えたか。
「たしかにわたしみたいな甘っちょろい人間には、
あなたの苦しさを十分には理解出来ないかもしれません。
でも、まあ自分にとっていちばん辛いことを思い起こして、
そこからあなたの苦しみを想像する――
そのくらいの努力はしてみるつもりですけど」
人間の限界を踏まえたうえでの理想的な回答だろう。
内省的な春日医師はその後に自問したという。
もし患者から「あなたにとって<いちばん辛いこと>ってなんですか?」
と聞かれたらどうしていたか。
自分の<いちばん辛いこと>ってなんだろう? 人それぞれ辛いことがあろう。
あなたもあるだろうし、わたしもあるし、
精神科医の春日武彦さんにも、その患者のN子さんにもある。

「患者がいつまでも執着しているという点において、
N子の「苦しさ」は呪いみたいなものである。
彼女のそれは煎じ詰めれば母子関係の問題であったから、
すなわち実母からの呪いとなろうか。
他方、わたしにとっての「いちばん辛いこと」とは何なのか。
母親に称賛され誇りにしてもらえる存在としての自分になれない(なれなかった)
――そんな悲しみ、あるいは無力感である。
N子の価値観からすれば当方は恵まれた人なのかもしれないが、
それは医者という職業に対するステレオタイプな思い込みに基づいているだけである。
わたしの辛さについてN子は
「いい気なもんだ。その歳で何を言っているんだよ」と嘲笑するかもしれない。
そのときわたしは、「いや、そんな簡単なものじゃないんだよ」
と丁寧に説いて聞かせる自信はない。平静を装いつつも、
脳内イメージでは金属バットで力任せに滅多打ちにしてしまいそうだ」(P5)


母親からの強い承認を求める気持と
どこまで関係しているかはだれにもわからないだろうが(どんな精神分析家にも)、
春日さんが中学生のときにお母さまはお辛い経験をなさったらしい。
人の不幸を転載するようなかたちで紹介するのは品のない行為だとはわかっている。
なんでも春日医師のお母上はガス会社の調査員に、
レイプ未遂のようなことをされたらしい。
その日だけにとどまらずストーカー的な脅迫行為を二度された。
春日氏自慢の美しいお母さまは男を刑事告訴した。
懲役2年の実刑を相手に食らわせた。
それとどのくらい関係があるのかわからないが、
そのころから春日氏のご母堂は夜、睡眠薬をウイスキーとともに飲み、
当時中学生だった春日医師にからんでくるようなこともあったという。
ときには心肺停止になりかけるようなこともあり、
春日少年はたいへん不安な気持を持った。
そのときの不安感がいまも続いているかどうかはわからないが、
春日氏は自身の不安感が強いことを著書でよくもらしている。
お母さまのその体験と自分の「いちばん辛いこと」がどう関係しているのかはわからない。
関係しているのかもしれないし、あんがい無関係かもしれない。
人の苦しみはわからないが、わかったような気になることがあるのも事実である。
わたしが小学校高学年のころ、母親が自殺未遂をやらかしたからである。
精神科でもらっていた薬を大量服薬して救急車で病院に運ばれた。
それから先も母の精神不安定は続き、一家団欒というものを経験したことがない。
家にはつねに母という不安要素があった。
中学校に入ると父は母から逃げ出し、母のことは息子に任せるという作戦に出た。
父と母の板挟みになるのは辛かったなあ。
で、結局は大学卒業直後に母はわたしの目のまえで飛び降り自殺をして、
今度は死ぬことに成功した。父や息子の悪口をぎっしり書き込んだ日記を残して。
どうして母がよりによってわたしの目のまえで飛び降り自殺をしたかはわからない。
だれかにこの辛さをわかってほしいと長年思っていたが、
いまはわかってもらえないだろうとあきらめている。
N子は自分の辛さをわからないだろうと春日医師をなじった。
春日医師は自分の辛さはわかってもらえないだろうというある種の達観をしている。

もてないことはわたしのなかで救済となっており、
万が一子どもでもできてしまったら不幸を連鎖させてしまうので、その子に申し訳がない。
わたしは生まれて来なければよかったと思っているし、
父と母がどうして子づくりなどしたのかいまもってわからない。
まさか母の呪縛にこんな歳まで苦しまされるとは思わなかった。
春日医師はトラウマをマンネリ化させるという技術を本書で紹介しているが、
わたしがブログに母のことを繰り返し書いているのは、
無意識的にその作戦を選択していたということだろう。
たしかにマンネリ化させることには意味があり、いまでは持ちネタに近くなってしまい、
そこまで軽い体験じゃなかったんだけれどなあ、
と自分に突っ込みを入れたくなることがある。
しかし、辛くないか、と聞かれたら、辛い。経験してみないとわからないだろう。
仏教の開祖である釈迦はセックスを禁止したが、
それでは人類が消滅してしまうではないかという反論もあろうけれど、
生まれて来ること自体が辛苦というのは真理と言っていいだろう。
にもかかわらず、世の男女は
どうしてぽんぽん子どもを作るのか春日医師もわたしもわからない。
(春日医師は計画的に子どもを作らない人生を歩まれておられる)

「世の多くの人々は子を持つことに躊躇(ちゅうちょ)しないようだが、
いったいいかなる自信がゴーサインを出しているのかと
クビを傾けずにはいられない。おそらく何も考えていないだろうとは思う。
考えずにいられるのが信じられない。
愛だのスウィートホームだのの幻想に頭を濁らせられているのか」(P20)


いや、わたしがわからなかった謎を優秀な春日医師は解いている。
本書でいちばん「そうか、そうだったのか」とうなったのはここである。
モーパッサンは自分が目にしたくない嫌いなエッフェル塔でしばしば食事をしたという。
理由がおもしろく、パリでエッフェル塔が見えないのはここだけだから。
エッフェル塔に入ってしまったらエッフェル塔は見えない。

「なるほど、こんなふうに憎むべき対象や敵の懐に飛び込んだり同化してしまうのは、
なかなか賢明な作戦かもしれないじゃないか。
考えてみれば、多くの人たちは自分が親になることで
親からの呪縛から逃れているわけで、
基本的にはモーパッサンに近い作戦なのかもしれない」(P34)


親からの呪縛(期待、落胆、要するに支配)は強くても弱くても辛いものだろう。
親の呪縛は親の死後も子につきまといかねない強さを持っている。
現に春日医師のお母上も当方の母も、死後でさえ子を呪縛している。
しかし、自分が親になれば今度は自分が子を呪縛(期待、落胆、支配)することになり、
あながち親を恨んでばかりはいられなくなるのである。
今度は恨まれる側にまわるわけだから。
子がいない自分もモーパッサン作戦を取れるのではないかと春日さんは考え、
両親から相続したマンションの一室を、
「ブルックリンの古い印刷工場を改装して住んでいる辛辣なコラムニストの棲み処」
にリノベーション(改造、再生)してしまった。
このようなリノベーションはだれにでもできるというわけではないが、
親からの呪縛を逃れるために子は親になるという新説には驚いたし感心した。
親にされたことを子に仕返しするのである。
師匠にいじめ抜かれた弟子が師匠になって、
今度は自分が弟子を殴ったり蹴ったりするのもおなじだろう。
「勉強しろ」と言われたがしなかった子が親になり「勉強しろ」と子に言う。
基本的に自分の顔が好きでないと子作りはできないような気がする。
わたしは自分の顔が大嫌いだから、こんな顔をコピーなんかしたくない。
しかし、悪魔的なことを言うと、
子どもってなにをしてもいいペットなんだから、いいオモチャだろう。
親は子になにをしてもよく、目のまえで飛び降り自殺をしても許される。
わたしもレイプまがいのことをして子どもを作り、
その子の目のまえで自殺したらこのわだかまり、悔しさは消えるのかもしれない。

著者が気づいていないはずはないが、
占いもお祓いもどの宗教もインチキでありニセモノなのである。
春日さんはけっこうな大金を払って神主にお祓いをしてもらい、
お札まで購入したらしい。しかし、特別幸運なことは舞い込まない。
しかし、もしお祓いを受けていなかったら大惨事になっていたと過去の散財を合理化する。
いちばん詳しい団体だから例にあげるが(悪意はない)、
創価学会の信心をしてもことさらいいことはないが、
していなかったらいまごろ交通事故で両足切断していたわよって話。
信心していても交通事故に遭うことはあるけれど、
信心していなかったら死んでいたぞの詐欺世界。
医薬品だって本当に効いているのかはわからず、服用しても服用しなくても結果はおなじ
――というインチキまがい、ニセモノめいた世界と言えなくもない。
あまたある健康食品は典型的である。
春日さんの幸運、不運に対する考え方はわたしのそれとまるっきりおなじなので驚く。

「幸運と不運がサイン・カーブを描いて交互に訪れるのが
人生に与えられた普遍的なパターンとするなら、
不運や不幸がよりディープであるほうが
幸運も素晴らしいものが期待出来るのではないか、
ならば半端に苦しみが軽減されると
かえってつまらない人生になってしまわないだろうか、
などとマゾヒスティックな考えに取り憑かれたことがある。
だがサイン・カーブを描くのはその通りだとしても、
どうも幸不幸がプラス・マイナスでゼロになるとは限らないようだ。
いや、ヒトの寿命が千年くらいあったらゼロになるだろうが、
所詮は歪(いびつ)なカーブなので百年程度では
幸か不幸に偏ったままの人生に終わってしまうのだろう」(P42)


わたしが生きているのはわが人生の顛末(てんまつ)を見たいからである。
母親から目のまえで自殺されるなんて3億円宝くじに当たるくらいのレベルだろう?
ふざけんじゃねえよ。おいおい。神さまよお、どういう始末をつけてくれるんだい?
おまえ、うっかり間違ったんだろう? 始末書レベルじゃ済まないからな。
言っとくけど、おれは宝くじで3億円当たってもぜんぜん不思議ではないと思っているし、
20代のとびきりの美女から言い寄られても当然の権利のような顔をするつもりだからな。
しかし、41歳になり来たのはまたまたレアな顔面神経麻痺くらいで、
おやおやこのまま低空飛行で終わってしまうのかなあ、というがっかりした感じもある。
ブログに書いていないけれど、確率の低い不幸はほかにも起こっている。
ハズレ籤(くじ)だったのかなあ、ということを頑なに認めたくなくて、
インチキ、ニセモノとうすうす気づきながら、一銭にもならないのに、
さらに不幸をこじらせる結果に終わるかもしれないのに仏教にハマっているのである。
わたしの関心は演劇、仏教、精神医学(狂気)にあるが、
どれもニセモノという共通項がある。
芝居は現実生活のニセモノでしょう? 小説は言わずもがなである。
仏教はニセモノのかたまりというか。だから、いちばん仏教的なのは創価学会という話で。
精神医学が本物かニセモノかは精神科医の春日先生に聞いてみよう。

「当方の本業である精神医学にしても、
あたかもヒトの心のオーソリティー[権威]であるかのように装っているものの、
所詮は胡散臭さのカタマリである。ニセモノそのものであり、
そのような職業に延々と従事していられる自分の精神の
「いかがわしさ」に驚きすら感じてしまう。
いや、ニセモノに対する親和性は、自己救済の手段として自然に身につけ、
その延長として精神科医を生業にしたと捉えるべきなのかもしれない。
なるほどニセモノという性質には、
卑怯、虚偽、攪乱(かくらん)、奸計(かんけい)といった具合に
マイナス要素が付帯する。だがそのいっぽう、
「そっくりだが本物ではない」という事実がものごとの本質を相対化する。
思い込みや先入観を取り去り、ときには心を軽くする作用をもたらす。
気付かなかった可能性を示唆してくれさえする。卑しくなければ、
ニセモノは往々にして人生に気軽な感情をもたらしてくれる」(P174)


ドラマは現実のニセモノだけれども、
山田太一ドラマのような良質な作品は味気ない生活の隠れた彩りに気づかさせてくれる。
プロレスはケンカのニセモノだけれども、夫婦喧嘩はプロレスめいたところがある。
プロレスのお約束を見ていると、ライバルともプロレスをしているような気になる。
無気力に生きるよりも日蓮正宗のニセモノである創価学会の信心をしたほうが、
生き生きした日常を送れるという人がいてもよく、それは批判されるべきことではない。
春日医師もわたしも大好きな言葉はニセモノである。
「リンゴ」という言葉はあの赤く甘酸っぱい果物のニセモノと言えなくもない。
子どもは親のニセモノのようなところがある(たとえば長嶋一茂!)。
ホステスや風俗嬢は恋人のニセモノと言えよう。
それぞれの人生がいったいなんのニセモノなのかはまだわからない。
もしかしたら死んだあとにわかったりするのかなあ。

「人生は平均的な水準の高さと最大に突出したときの高さ、
その双方で幸福度は測られるのではないか。
突出した最高点が低い人生なんか、
不細工だがそこそこ金を稼ぐ男に対してホステスが「立派そうな方ね」
などと口にする意味不明な褒め言葉と同じ程度の価値しかない。
ついそう思ってしまい、だから自分で自分を苦しめる」(P206)


ファンクラブに入れてくれなかったので皮肉めいたことを書くと、
作家の宮本輝は銀座のホステスに「立派そうね」と言われるのを
人生の目的にしてきたような人っぽく、
春日先生の言葉をお借りするなら「俗物であり続ける度胸」を持つ、
ある意味で「斜め上の成功」を成し遂げた腰の座った快男児なのかもしれない。
ああいうふうになるには創価学会がいちばんなのだが、これまた入れてくれない。
わが人生の平均水準は低いし、
突出した最高点はまぐれで早稲田に入ったときではないか。
突出した最低点が母の眼前投身自殺だから、ぜんぜん吊り合いが取れていない。
たぶん来世かそのまた来世くらいで大当たりが出るのではないかと思っているので、
不穏なことを承知で書くが早く死にたい。
精神科医の春日武彦氏も本書で自殺をほのめかしている。
いただいた本の感想に失礼なことを書くと、
たしかに春日さんは死んだらニュースで報道されるか微妙なレベルだよなあ。
ファンクラブなんてできないだろうし、もし奇跡的にできても、
心療内科クリニックの待合室みたいになりそうで薄気味悪い。
当方は春日さんに笑っていただきたくてこういうことを書いているのだが(つまり好意)、
こういう文章を読むと精神科医は激怒するのかしら。
土屋は「図々しい奴、卑しい奴、常識知らず、恥知らず」だから早く死ね、とか。
ほしいものをくれる人は良い人で好きだから、
春日先生にはぜひ長生きしていただきたい。自殺なんて言わずに。
まあ、以下の文章を読むと大丈夫だろう。

「世界のすべてに向けて中指を突き立てながら死んでしまいたくなることは、
一週間に三回はある。さっさとこの世から縁を切りたい。
でも、もう少し現世で抵抗し悪足掻(わるあが)きや
意趣返しをしてやりたい気もあるのだ。そうでないと、
全知全能の神だか運命の神に、一方的に弄(もてあそ)ばれただけのようで不愉快だ。
完全な負け犬になってしまうではないか。
ふざけんな、性悪なクソ神どもが」(P226)


けっこうな新刊で春日先生は売れ行きを気にしておられるようなので宣伝をしたいが、
うちの書評は読むと本物を読む気がなくなるとよく言われる。
しかし、本書はわたしが保証しよう。
こんなニセモノのコピー記事よりも、実際の本物はよほどおもしろいということを。
わたしが会長になって春日先生のファンクラブでも作ってみようかな。
春日さんを囲んでのお通夜のようなオフ会とか笑える。
あんがい春日武彦ファンはみんな外面(そとづら)がよくて、
明るく盛り上がっちゃったりして。
このまえユーチューブで春日先生の動画を見たけれど、
にこやかな紳士じゃないですか。
わたしもなにか「マイお祓い」を試みたら、人生一発逆転とか起こらないかなあ。
一発逆転とか、そういう考え方が底辺生活者への第一歩と知りつつも。
こつこつ生きてけよ、おれ。
おれが本気になって性悪なクソ神どもに復讐しようと思ったら、
たぶん父親の目のまえで飛び降り自殺をするだろう。
まあ虫けらのような人生だったから、最後にそのくらいやらせてもらうのが筋かもしれない。

「鬱屈精神科医、占いにすがる」(春日武彦/太田出版)

→うっかりした感想を書けない本なので何度も繰り返し読み熟考した。
精神科医の著者はいつも世の中に対しては
「ああ、オレをおだててくれ、褒めてくれ、肯定の眼差(まなざ)しを向けてくれ」
とつぶやいているらしいので、なんとかそういう書評を書きたいと思っている。
同時に精神科医同様(あるいは以上に?)鬱屈した自分の問題も、
こうして言葉をつづっていくことでわずかでも解決したらと思う。
わたしは春日武彦さんの本を高く評価しているから、
こうして著者の本を何冊も読みブログに感想を書いているのである。
基本的に(自分のところもふくめて)ブログは落書き程度に思っているので、
他のブログを見ることは少ない。しかし、直感的に、
うちのブログよりも熱く春日武彦氏を論じているブログはないような気がする。

ふたつの問題が考えられる。
わたしは春日武彦さんの本をおもしろいと思っているが、
そのおもしろさの表現の仕方が著者の期待するものと違ったのか?
わたしは春日さんの文は笑えると思うが、笑える文章を書くのは才能を有すると思う。
当方もできたら読者を笑わせたい、泣かせたいと思って文章を書いている。
春日さんの本は笑えるという評価の仕方が著者には不愉快だったのか。
笑われているような気がして不快でしようがなかったのか。
もちろん、著者の斬新な視点、わかりやすい文章も評価している。
ふたつ問題があると書いたふたつ目の問題は媒体である。
春日さんはブログで評価されても大して嬉しくはなく、
やはり新聞や雑誌、マスメディアからの(いわゆる識者の)評価を欲しているのか。
そうだとしたら、わたしがなにを書いても春日さんの心には届かないだろう。
現実としてたしかに春日医師は受賞歴がゼロで、
あれだけの見識と筆力を持つ人のあまたある傑作のどのひとつにも
公的な賞が与えられていないというのは、著者が理不尽な思いをするのも無理はない。

ちょっと文章を軽くすると、春日さんって占い師のところにまじめに予約して行って
(そこまではよくあろうが)、
悩みを書く欄に「人生の迷い」とかすごい筆圧で書いちゃう人だぜ。
あんた、おもしろすぎるぜ、というかサイコーっすよ、春日さん。
ちなみに春日さんは精神科医が占い師のところに行くことを「一線を超える」に
近い行為だと思っているようだが、わたしはそこまでの大冒険だとは思わない。
それはこちらが占いが好きで、金さえあれば占い師に行っているかもしれないからだ。
しかし、春日医師にとっては清水の舞台から飛び降りるような行為であった。
こういったどこか世間とテンポがずれたところがおもしろいのだが、
そう書くと著者は笑われたと感じてご気分を害してしまうのだろうか?
春日さんは物心がついて以降、心の底から笑ったことが一度もないとのこと。
そんな春日医師の本を読んで心の底から笑っているわたしは、
神の定めた罪を犯したような犯罪者以上のひどい人間なのかもしれない。

わたしは安っぽい感傷家だからすぐに泣いてしまう。
春日先生は池袋のおばさん占い師のまえで泣いたのだが、
それは30年ぶりくらいのことだったという。
どういう過程で精神科医の春日武彦さんは占い師のまえで号泣したか。
まず「人生の迷い」とは具体的にはなにをさすのかと占い師から聞かれた。
それに対し春日医師は、力作がまっとうに評価されない、黙殺される悔しさを述べる。
それから嫉妬心が強く、他人の幸福を素直に喜べないことを白状する。
そして読書家で言葉マニア、頭脳明晰な春日医師は、
自分で自分の最奥の問題に気ついてしまうのである。
おのれの絶え間のない孤独感、不全感、不安感の根源は母の問題にあった。
精神科医は同業者ともいうべきカウンセラーにはかかりたくなく占い師に頼った。
そこでカウンセラーと占い師に共通する方法を明確に発見(言語化)する。
これはじつのところ春日さんが精神科医として、
患者の悩みを聞くときにやっていたことでもあった。

「聴き手に向かって患者(相談者、クライアント)は本音をしみじみと語る――
その行為そのものに、重大な意味がある。
なぜなら聴き手=他人にきちんと分かるように語るためには、
状況や背景や経緯を頭の中で分かりやすく整理し全体を俯瞰(ふかん)し、
そのうえで適切な言葉を与えて(言語化して)喋らねばならないからだ」(P108)


そうすることで患者はなにを得られるか。
1.冷静になる。
2.語ることによって問題点が明確化し対応策に気づく。
3.悩みを共有したという錯覚(?)のため孤独感が消える。
4.悩みを語ることで生理的なカタルシスを得る(せいせいする)。
5.自分を客観視できるようになる。
セッション(話し合い)の着地点は――。
「よくぞ胸の内を話して下さいましたね。
これであなたは解決への第一歩を踏み出したのです」
精神科医もカウンセラーも占い師も、まあ、やっていることはおなじであると。
さて、精神科医の春日さんは占い師のまえで号泣してなにに気づいたのか。
自分を悩ませていたもの(孤独感、不安感、不全感)の正体は母であった。
春日さんの文章のおもしろさのひとつはカタカナの使い方がうまいのである。
それだ! というカタカナを的確に春日医師は用いる。
春日先生は占い師のまえで30年ぶりに泣き、
おのれのミッション(使命、任務、宿題)に気づく。春日さんのミッションは――。

「自分は、(美しく、聡明な)母に愛されるに値する息子にならなければならない。
そのためにはルックスの良さが絶対条件であり、
さらに誰もが感心するような業績を上げてみせねばならない」(P119)


これを春日医師は絶望的なミッションと書いているが実際、絶望的なところがある。
持って生まれたルックスは整形手術をする以外には変えられない。
そして、他人からの評価は自分ではコントロールできないから
(本当はコネや裏金で少々はできなくもないのだが)、業績もどうにもならない。
著者は読者に自分のミッションが理解されにくいだろうことをよくわかっている。
わたしも正直申し上げて、そんなミッションは捨ててしまえと言いたくなる。
しかし、春日医師は反論する。こういう神経症的ミッションがいかにたいせつであるかを。
自分のミッション(問題点、急所)がわかっても、
春日医師やわたしのような皮肉屋はかえってミッションに自縄自縛されてしまう。
そして、この長年抱えているミッション(悩み)がもはや趣味のようなものになってしまう。
神経症は自己嫌悪的なものが多いが、
自分のことを考えるのは楽しいとも言いうるわけだ。
春日先生はここまで苦悩を言語化してしまう言葉の熟練職人なのである。
苦悩が趣味になるというのはわからなくもない。
そうすると春日さんのいうミッションのようなものを自分に当てはめて考えてみたくなる。
春日さんは母への復讐のために母が軽蔑している産婦人科に最初入局したという。
ナースと結婚したのも、
看護師という職業を軽んじていた母への意趣返しの面があったという。
もしかしたらわたしは春日医師と正反対のミッションを持っているのかもしれない。
わたしは17年まえに母から目のまえで飛び降り自殺されている。
母は朝日新聞が大好きだったから、わたしは朝日新聞的な権威が大嫌いである。
母への復讐のために、
これまでわずかながらあったチャンスを棒に振ってきたのかもしれない。
母の願望していた息子になりたくないから、いい齢(とし)をして独身で、
なおかつ派遣などという社会的評価の低い仕事をしている可能性もある。

いままでさんざんほかの読者からも言われたことだろうから、
いまさらわたしがそれを繰り返しても意味はないが、
春日医師は恵まれているのである。
「妻がいる」医師の国家資格所有」「著書多数」「(少なくともわたしよりは)高収入」――。
春日先生はわたしが持っていないものをすべて持っている果報者なのである。
しかし、幸福も不幸も自己申告だから、
精神科医は不幸と申告するかぎりにおいて不幸だし、
趣味と化しているという自覚はあるようだが、
強い孤独感、不安感、不全感はどうにもならない。
言っちゃあ悪いが、こういう人がカウンセリングに行くんだろうなあという典型に見える。
しかし、著者はもっと娑婆(しゃば)っ気(山っ気)があって、
運勢を好転させたいと考えている。
だったら、わたしのように現世利益を願う創価学会を目指せと言いたくなるが、
さすがに孤独な精神科医としては占い、お祓(はら)いまでは行けても、
まがまがしい因縁話を好む仏教にまでは手を染められない。
わたしは占いを突き抜けて仏教の世界に分け入ってしまった。
だって、どう考えても人生は努力というよりも無力で運でしょう。
運を司るような神仏がいるとしか考えられない。
そこにアクセスする手段としてわたしは素人ながらお経を読み込んだのである。
お経を読めば人力を超えた運の世界、神仏の世界へアクセスできるのではないかと。
春日さんは本書で自身の経験したみみっちい(ごめんなさい!)「救い」を詳述しているが、
わたしも不思議な「救い」のようなことを経験したことがないわけではない。
しかし、それはちょっとおおやけにできない話で、
ごくごく一部の人にしか「本当のこと」は伝えていない。
話を本書の占い師に戻すと、
占い師はカウンセラーよりも実効的な面があるのではないかと
精神科医の春日武彦氏は指摘する。

「九割はパラノイアめいた冗談として聞いていただきたいのだが、ひょっとしたら、
占ってもらうことによって不確定性原理――ある現象を観察すると、
その観察行為自体が現象に影響を及ぼしてしまい、
完全に客観的な観察などありえない――と同じ事態が、
占いの場にも生じるような気がしているのである。
もしかすると占いという営みそのものが運命に揺さぶりをかけ、
運命に変化を生じさせる可能性があるのではないか、と」(P204)


わたしはこれをパラノイアめいた冗談ではなく、
ある種の真実を語っているのではないかと思う。
世界の裏側がどうなっていて、どうしてだれにスポットライトが浴びせられ、
どういうわけである人がある日に不幸のどん底に落とされるのかはわからない。
これに対処するには占いやお祓い、山伏、仏典も悪くはないのではないかと。
わたしも今日は勝負どころと思う朝には法華経やら観音経、般若心経を読誦する。
こんな非科学的なことをしているものが、
占いにすがった精神科医をバカにできるはずがなかろう。

とはいえ、苦悩への現実的な対策は占い、お祓い、仏教もいいが、
結局のところ自信を持って「時を待つ」しかないのだろう。
精神科医の春日先生も臨床経験上それはよくわかっているのである。
わかっていても自分では実行できないという因果な状況もわかっているのが、
頭脳明晰な春日武彦医師の悲劇と言えなくもない。
以下は受賞歴多数の心理療法家、河合隼雄の主張とおなじであろう。

「長年精神科医として仕事をしてきて知ったことのひとつに、
自信や確信の効用といったものがある。
同じアプローチをしても、自信を持ってそれを行うか否かで結果はまるで違う。
ただしそれは「必ず成功する」といった確信ではない。
すぐに望んだ結果は出なくてもそれは必ず将来への布石になる、という確信である。
遠からぬ未来に成功するかもしれないし、
もしかすると状況が変わってもっと別な結果を迎えるかもしれないが
いずれにせよ現状維持よりはマシになるだろうという確信である。
いや、むしろ「状況が変わって、もっと別な結果を迎える」ことを漠然と想定して
それがどんな形で実現するかを楽しみに待てるだけの心の余裕、
と言い換えても良いかもしれない」(P114)


この自信や確信、心の余裕が持てないから、
人は孤独感、不安感、不全感に押しつぶされないように
精神科医、カウンセラー、占い師、お祓い、宗教、自己啓発セミナーに
「救い」を求めるのであろう。「単純労働」もときには「救い」になる。
春日武彦医師には庶民コンプレックスのようなものがあるようだ。

「私小説を書きたい意向が若い頃からあり、
しかし自分には小説の材料となるような奥行きを持った体験などなかった。
マクドナルドで接客をするとか、工場でラインに立ってみるとか、
ティッシュを配るとか、運送会社で荷物の積み下ろしをするとか、
そういったアルバイト経験すらない。
主観的には決して気楽ではなかったものの
客観的には「ぬるい」人生しか送ってきていない。
家庭が健全であったとはまったく考えていないが、
崩壊家庭とか修羅場であったわけではない。
借金なんてしたことがないし、不治の病に苦しんだこともない。
人間関係のトラブルだってせいぜい小競り合いのレベルに過ぎない。
語るに足る人生なんか(幸か不幸か)送ってこなかった」(P26)


春日先生に提案したいのは、いっしょにスポット派遣をしませんか?
世の中にはシールを貼るだけとか、ものを数えるだけという底辺仕事があるんだ。
そういうのは派遣でまかなわれていることが多く1日だけの就業も可能である。
派遣は高齢者が多く65歳なんてめずらしくもなく、74歳までいると先日耳にした。
しかし、はじめて派遣を経験するのが不安というのも理解できる。
わたしがご同行いたしましょう。
いまの派遣会社にいい案件がないか聞いてもいいし(そこは高齢者がいっぱい)、
派遣会社なんて腐るほどあるので、
派遣登録からいっしょに行くのも経験として悪くないでしょう?
完全にお金目当てではないから、時給900円でも950円でもいいじゃないですか。
ああいう派遣で単純作業をしている人はおよそ精神科とは縁がない人たちだから、
春日先生の「詩的発見」につながることも少なくない気がする。
ひとりで行くのは怖いでしょうが、わたしがいっしょだったら大丈夫。
次作は「鬱屈精神科医、派遣をやってみる」なんていかがでしょうか?
おもしろいと思うけれどなあ(九割はパラノイアめいた冗談)。
どうしてこんな一見すると馴れ馴れしいとも思われかねない記事を書くのかというと、
じつはこの本は8月半ばに春日先生からプレゼントされているのである。
サインまで入れてもらっちゃったよ、あはっ。
人からいただいた本の感想を書くのは、
素人の手料理の感想を口にするのと似た難しさがある。
もしよろしければお目についたときでも、この感想を100点満点で採点してください。
人生にも他人にも期待しないよう心がけているので無視でもぜんぜんOKです。
最後に春日先生のシャウト(叫び)をファンのわたしも真似ておく。

☆「ああ、オレをおだててくれ、褒めてくれ、肯定の眼差(まなざ)しを向けてくれ」

「家屋と妄想の精神病理」(春日武彦/河出書房新社)

→優秀な人気精神科医によるわかりやすく、かつ卓越した妄想論である。
精神病の診断基準のひとつは非現実的な妄想の有無といってよい。
著者は、屋根裏にだれかがいるという頻出する妄想パターンへの考察から論を進める。
著者ははっきりと書いてこそいないが、
医療者として妄想を取ったほうがいいのか(そもそも簡単に取れるものではないが)
という壁に何度もぶつかりながら本書を書いたことがうかがえる。
屋根裏にだれかがいるという妄想を持つのは、孤独な老女が多いらしい。
患者は迷惑すると同時に屋根裏の住人にどこか親しみを感じている気配さえある。
これは孤独で単調な生活を支える「生きるための知恵」ともいえるのではないかと思う。
それほど近所迷惑を起こさないものならば、
妄想はそのままにしておいてもいいのではないかと春日医師はいう。

「生活すべての面で支離滅裂になってしまうのならともかく、
低空飛行なりに生活を存続させつつ、
奇天烈な妄想を実生活に取り込んで充実した生活を送ろうとするその精神の働きに、
わたしは異常とか逸脱といった価値判断を越えた人間の「したたかさ」を
感じて驚嘆せずにはいられなかったのである」(P62)


たとえば還暦近い派遣労働者の男性が20代の婚約者がいるという。
これは現実的に考えたら、なかなか事実らしくはなく、
妄想といった範疇に入るのではないかと思うのがふつうである。
そのうえ今年になってから一度も逢っていないということを聞けばよけいだ、
しかし、それが妄想でもいいではないかという考え方もできるわけだ。
孤独な生活の慰めとして50代後半の独身男がそういう妄想を持っていてもいい。
むしろ、なんにもないよりは、
そういう「詩のようなもの」があったほうが生きる味わいになる。
これがわたしの悪いところなのだが本当のことを知りたくなってしまう。
どこかそういう嘘みたいなことが本当であってほしいという思いがある。
実際、嘘みたいな本当ってだいぶ見聞きしているし、
そういう妄想めいたものは味気ない生活のうるおいとなる。
で、男性に彼女の存在をしつこく問いただしてしまったのだが、メールが来なくなった。
むかしからの友人に相談したら、そういうことは聞いちゃダメなの、と社会常識を教わった。
友人は婚約者の話を妄想だと決めつけていたようだったが、
わたしはいまでも真相はわからないと思っている。
あるいは婚約者は存在したのではないかと。

「生きるための知恵」が人間にとって必要なことはたしかである。
仕事で自分は必要とされているというのは、なかば妄想なのだが、
それを妄想と決めつけてしまったら本当になんにもなくなってしまう。
「家族愛」もおそらく妄想だろうが、
それを生きがいに多くの人が生きているという現実がある以上、
「家族愛」のようなものを妄想と断じてしまったら、それは現実を正しくとらえていない。
「一億玉砕火の玉だ」のようなものが妄想ではなく現実であった時代もあるわけだ。
なにをもって現実と妄想を区別するかはそこまで容易ではないのかもしれない。
たとえば、いまはみんな百歳まで生きるようなことを言っているけれど、
あれは妄想だと思う。ちかぢか東京大地震が起き「ない」というのも、
そうであってほしいとみなが願う妄想のたぐいだと個人的には思う。
かといって、新興宗教団体の顕正会が主張している、
「日本滅亡が近い」というあれはどこか妄想的に聞こえてしまう。
だが、顕正会の信者さんはそれを本気で信じているわけだから、
あながち妄想ともいいきれないところもあるのが問題を難しくしている。

精神科医の春日武彦さんが本書でテーマにしているのが
氏の孤独な患者にひんぱんに見られる「屋根裏の窃視者(覗き屋)」という妄想である。
しかし、これは表現を変えれば「同行二人」ともいえるわけでしょう?
四国でお遍路さんは「同行二人」と書かれた笠やら白衣を着て巡礼する。
これは自分はひとりではなく弘法大師(空海)といっしょであるという意味。
孤独に苦しむよりも、それがたとえ妄想でも「同行二人」と思えたら楽じゃないですか?
人のことばかり話すのもあれなので自分のことを書くと、
わたしもまた大きなもの(超越者)がいるという妄想をいだいている。
守られているといったら選民的で、いけすかないやつに思われるかもしれないが、
まあ大丈夫という大きなものへの信頼めいたものをかすかに持っている。
わたしのはプラスに出ているわけでしょう?
これがマイナスに出たら集団ストーカーや監視されているという被害妄想になってしまう。
このへんは本当に紙一重だと思う。
被害妄想を見守られ妄想に変えるだけで
本人も周囲もだいぶ楽になるのだが、それが非常に難しい。
実際、ある種の宗教的超越(恍惚)体験と精神分裂病の妄想は似ているのである。
臨床体験豊富な専門医の見解をうかがおう。

「ところで狂気の中核とされている精神分裂病では、
やはり被害的な色彩の訴えが妄想の現像をなしている。
自分は世界を揺るがせるような大発明をしたとか、
実は天皇の隠し子であるとか、
宇宙の秘密を解き明かす方程式を発見したなどといった誇大妄想も珍しくはないが、
これはむしろ被害妄想から
二次的に導き出されたモチーフと考えたほうが適切なようである。
すなわち、私ガコンナニ酷イ目ニ遭ッタリ尾行サレタリ盗聴サレタリスルノハ、
ツマリ私ガ偉大ダカラデアリ高貴デアルカラナノダ、
といった論理に裏打ちされて作り出された物語だということである。
分裂病患者の被害妄想は、他の疾患による被害妄想と大きく異なるところがある。
下世話で世俗的なトーンはそのまま残しつつも、
超越的な存在が「木に竹を継いだように」登場することである。
超越的存在とはすなわち、
強大な力や影響力を持つらしいが正体のはっきりしないものを指し、
それはCIAだとかスパイ・ネットワーク、秘密警察、暴力団、
過激なカルト集団による地下組織、フリーメーソン、謎の政治結社等々である。
陰謀史観にはお馴染みの「闇の組織」であり、
まことにキッチュかつ便利至極な説明装置でもある」(P133)


春日さんは狡猾にも(編集者にとめられたのか?)診療室で何度も聞いたであろう、
あの団体のことを書いていないなあ。あまりにも精神病と近似しているあの団体だ。
みなさまはもうお気づきでしょうが、そう、それは創価学会である。
精神病患者の妄想のなかに創価学会が出てくる比率は異常に高いのではないか?
根っこの日蓮大聖人その人が危なっかしい。
日蓮大聖人は疑いもなく被害妄想や迫害妄想を持っていたでしょう。
そのうえ世界を揺るがす南無妙法蓮華経という大発明をしてしまった。
一休のように「天皇の隠し子」であるという妄想まではさすがに持っていなかったが、
日蓮大聖人の法華経的宇宙観(一念三千とかそういうの)は、
分裂病患者のいう「宇宙の秘密を解き明かす方程式」に極めて近い。
創価学会は実際に暴力団とのつながりがあることを暴露されているし、
尾行(集団ストーカー)や盗聴のプロ集団でもある(これは事実だと思う)。
創価学会と関係してしまうと、なにが現実でなにが妄想かわからなくなるのである。
わたしは創価学会のそういうキッチュで色彩豊かなところが好きで(三色旗!)、
もう長らくファンであると同時に公明党支持者でもある(政策は知らん)。

仏教でいう一念三千は、一念のなかに三千世界が織り込められているという考え方だ
ものすごくチャチにわかりやすく説明したら、一瞬は永遠だ、みたいな感じさ。
そこからうまくいくとブッダや観音さま、阿弥陀仏に見守られているという安心感が生まれ、
失敗すると巨大組織に監視されているだの、フリーメーソンがどうのの話になってしまう。
春日さんは精神科医だけあって、悪いほうにいっちゃった場合をうまく描写する。

「わたしが精神科の外来で出会う妄想患者たちの多くは、
僅かな気配や微細な変化、曖昧な「ほのめかし」や不明瞭な「当てつけ」、
相似や近似ないしは空似(そらに)、偶発的な一致や暗合といったものから、
たちまちのうちに侵入者やスパイ、
陰謀を企む一味や黒幕といったものの存在を直観的に確信してしまう。
あれよこれよという間に、心の奥底に埋め込まれた「物語の胚珠」は
発芽し、葉を繁らせ、陳腐な実を結ぶ。
あまりにも一直線に、疑惑は「断固たる事実」へ昇りつめる。
ためらいがない」(P120)


小さなひとつひとつの偶然に過剰な意味を与えて、
被害的な物語をつくってしまうと、それは精神病の妄想になってしまう。
偶然は偶然そのままにしておけばいいのである。
偶然を偶然のまま通過させるのは精神的には健康的だが味気ないともいいうる。
しかし、華厳経の「一即多・多即一」にしたがうならば、
小さな塵(ちり)ひとつのなかにも仏さまどころか全宇宙が宿っているのである。
これもいちいちシンクロニシティだのなんだのと考え始めたらクルクルパーへ一直線だが。
精神的に健康でいたいならば、偶然は笑い飛ばせと春日医師は主張する。
余裕がないから妄想を持ってしまうのだ。

「あらゆる偶然性の中に
特定のベクトルを持った「理由」や「意思」を読み取ろうとするとき、
背後に暗躍する黒幕の姿が察知されてくるということになる。
不幸にも患者には、「たまたま」「」図らずも」「事実は小説より奇なり」
といったようなことを笑って受け流すだけの余裕がないのである」(P136)


他人に適切な指示をするのは容易だが、
かくいう精神科医もおのれの不安定な精神を取り扱いかねて
占い師にすがったりしているのだから、おもしろいといったら失礼で因業な話だ。
「死後の世界がある」も「死んだら無」もどちらも妄想といえば妄想。
現実はどこまでも「わからない」に尽きて、それぞれ信じるかどうかの世界である。
「信心すれば病気は治る」「努力すれば夢がかなう」も妄想といえば妄想だが、
こちらの場合は一定数以上の賛同が得られれば妄想ではなく現実となる。

「妄想は、病んだ精神によってもたらされる現実の変容を、
「奇妙な憶測、異様な解釈」を以て説明し確信することによって
生まれ出てくるのであった。
妄想は他人へ語っても同意を得られることがない。
むしろ周囲の賛同を得られず病者が孤立していくことによって、
いよいよ妄想は病者にとって確固たるものとなっていくといった、
まことに矛盾した性格を持ち合わせている」(P167)


創価学会の座談会や会合に行って、
信心してもろくなことがないなんていおうものなら、その人は精神病あつかいでは?
しかし、春日医師によると孤独や孤立ほど、
ゆがんだ妄想を発生させるに適した土壌はないという。
ならば創価学会は孤立者を援助するという面で、
わが国の精神健康に多大な貢献をしているともいえよう。
いまは職業作家なんて絶滅危惧種に近いと思うが(食えない!)、
大衆に支持される、
いわゆる売れる妄想(物語)を描ける人がわずかなあいだ人気作家としてもてはやされる。
ありきたりな妄想ではない、個性的でおもしろい妄想(物語)を、
味気ない、なんにもない日常を生きるわれわれは切望しているところがある。
おそらく狂えるのならばいっそのこと狂ってしまったほうが、
当人は昂揚した充溢した生命を生きることができるのであろう。
その場しのぎではあるものの、近所迷惑はなはだしきことこの上ないけれど。