「カウンセリング」(水島恵一/放送大学教育振興会)
→家族システム論が興味深かった。
これはひとりだけではなく家族全体をカウンセリングしようとする学派。
クライエントは家庭のいかなる事情によって生み出されるか。
本書から引用する。
「症状や問題行動は、たいてい家庭内の均衡が脅かされたり、
それをくつがえすような変化が生じたときか、
あるいはそのような変化が予期されたときに出現する。
ここでは変化とは、家族の一人が家を出る、結婚する、転職する、就学する、
離婚する、青年期になる、中年になる、病気になる、死ぬなどである」(P117)
お気づきのかたもおられるかもしれないが、すべて家族ドラマの事件である。
家族ドラマを動かすものとおなじものが、
クライエント(問題行動、症状)を生み出すということだ。
とすると、シナリオライターは大忙しである。
まず変化を起こし家族の一員を病ます。
かと思えばかの病者を治すのもシナリオライターの仕事。
みずから火をつけておきながらもったいぶって消火するおかしさがドラマ作家にはある。
本書の最終章で治らないクライエントについて述べられている。
人間には限界があるということである。
なんでも治せると思うな。どうにもならないことがあるという戒めだ。
カウンセラーは治らないものにも尊厳を見いだしあたたかく見守る必要があるという。
これは脚本家、小説家が死にゆく作中人物を見やる視線とおなじといえよう。
この場合、(虚構ならぬ現実を扱う)カウンセラーはより骨を折らなければならない。
「図解雑学 社会心理学」(井上隆二・山下富美代/ナツメ社)
→どうして心理学というのは、ああも女子学生に人気があるのだろう。
経済学者がかならずしも株で大もうけをするわけではないのとおなじ道理で、
心理学者だからといってとりたててひとづきあいがうまいようにも思えない。
ここからは統計もなにもない文学部出身のわたしの見聞(妄想?)だが、
心理学を専攻したがる女子学生というのはむしろ対人能力が低いのではないか。
中傷に近いが、心理学はメンヘルがかった女子学生が専攻するという偏見がある。
どうして他人とうまくつきあえないんだろう?
みんなはうまくやっているのにどうしてあたしだけ?
そもそもあたしって、なんなんだろう?
こんな彷徨の果てに女子学生は心理学に救いを求めるような気がするがどうだろう。
あたしっておかしくない? あたしあたし不安定なあたしである。
で、心理学は徹頭徹尾、常識で固められている。
不安定なあたしが堅固な常識に癒されるという理屈である。
さらに、あたしが救われたから、みんなも救いたい、とおバカなことを考える。
みんなを救うことであたしも救われる、なんて妄想する心理学徒もいる。
カウンセラーがあこがれの職業になるゆえんである。
ほんとうに人間を救いたいのなら女性カウンセラーにむずかしい知識は必要ない。
カネを取らない売春婦になれば多くの男性を救うことになるのだが、
このような常識はどうやら心理学では教えてもらえないらしい。
女子学生は、尊敬されて感謝もされ、みずからも癒されるカウンセラーを夢想する。
ひとを救うことで金品をもらえる職業ほどすばらしいものはない。
若い女性に人気の心理学の実態である。
話をがらりとかえる。なぜ心理学の本など固め読みしたのか。
悩みがあるからである。
まあ、わたしもうぶな女子学生とおなじで癒されたいわけよん(笑)。
というか、問題はもっと切実で、かねてから悩んでいる騒音過敏症を克服したい。
どうにも音が気になってならないのである。
神経症のひとつだと自覚している。
騒音が聞こえるとむかむかしてなにも手がつかなくなるのである。
焼き芋屋、灯油の移動販売車、子どもの騒ぎ声、すべてが腹立たしい。
もとより、おのれの異常性は自覚しているのである。
むかしはこうでなかったのだから。なんとかしたいと真剣に悩んでいる。
決して雑学趣味で心理学をのぞいているわけではないのだ。
実益を、実効を求めている。
ひとつだけ、心理学的知見からヒントを与えられたので、ここに紹介する。
うちのブログは騒音恐怖症のかたが閲覧くださることが多々ある。
少しでも同病者の参考になればさいわいである。
心理学には「古典的条件づけ」という概念がある。条件反射のことだ。
たとえば、梅干を食べると自然に唾液が出る。
幼児などで試すと明白らしいが、梅干という言葉を聞くだけで唾液が出る。
これが「古典的条件づけ」である。
これから発展して、たとえばある懐メロを好きだとする。
当人は単純にその懐メロを自分が好んでいると思っている。
しかし、心理学的に見ると、こうかもしれない。
その懐メロが流行していた時代に、かれは幸福の絶頂期だった。
恋人とデートしているときにも頻繁に聴いていた。
したがって、かれがその懐メロを聴くのを好むのは音楽自体に理由はない。
実は、懐メロによって、当時の幸福感がよみがえり気分がよくなっているのだ。
まとめると、こうなる。
「梅干⇔梅干という言葉→唾液」
「幸福感⇔懐メロ→幸福」
これを騒音に適応するとどうなるか。
「喧嘩⇔騒音→不快感」
かつて騒音が原因で他人とあらそった記憶があるから、
騒音がこうも不愉快なのではないか。
ならば、騒音と快感を条件づけすれば、
騒音に困らされることがなくなるのではないかという試論である。
実験としては、騒音が聞こえてくるたびに好きな音楽を聴く。
騒音が聞こえてくるごとに甘いキャンディーをほおばる。すると――。
「甘味、快感⇔騒音→気にならない」
上記のようにならないかと予想したのである。
書きながら思ったのだが、
これはキャンディーを10個口にほおばるよりも甘い考えかもしれない。
わたしの騒音過敏症はそう甘いものではないのではないか。
しかし、なんとかしたいのである。
こんかいわらにもすがる思いで心理学へ分け入ったのはこのためである。
虫歯にならないよう注意しながら、上に書いた人体実験をやってみようと思う。
「図解雑学 心の病と精神医学」(景山任佐/ナツメ社)
→知っているひとも多いだろうけれども、ある事実をあらためて記す。
というのは、わたしも知っていたが、ことの重みを再認識したからである。
その事実とは――。
精神病が病気になったのはわずか(おおよそ)200年前のことである。
裏を返せば、それまでは精神病は病気として認識されていなかった。
西欧では、神から罰せられた罪人、あるいは魔女という扱いを受けていた。
これをピネルというフランス人が、かれらは罪人ではなく、
治療が与えられるべき病人と定義したのが精神医学の始まりである。
いまでも未開社会では精神病者が巫女のように重んじられる場合がある。
芝居に話をうつすとハムレットは精神分裂病、リアは老年性痴呆でしょう。
マクベスは精神障害者(魔女)にそそのかされて狂っていく。
オセローはパラノイア(熱情妄想病)の典型。
けれども、この当時は病気ではなかったから手のほどこしようがない。
話を精神医学に戻すとピネルから約100年後にフロイトが登場する。
フロイトが研究したのは(精神病ではなく)神経症のはずなのだが、
このへんを混同しているものが精神科医のなかにさえいるようだから、
しろうとのわたしもそれに乗じてあいまいなままにしておく。
で、フロイトから50年。精神病薬の飛躍的な進歩があった。
まとめると、こうなる。年数はわかりやすさを重視してあえて50年単位にした。
200年前:精神病の発見(=精神医学の誕生)
100年前:フロイトによる無意識の発見(=精神分析学の誕生)
50年前:薬理学の急速な進歩(=精神病がクスリで治る)
現代:「鬱はこころの風邪」(=精神科の敷居が低くなった)
余談だが、「もてない男」小谷野敦先生の卓見にフロイトはインチキ。
精神分析は20世紀最大のインチキ学問だという指摘がある。
これには目からうろこが落ちたものである。なるほどといたく納得した。
しかし、ここからの立場が小谷野先生とわたしで異なる。
フロイトもユングも、たしかにインチキである。小谷野先生は、だからダメだという。
わたしはインチキでもいいじゃんと開き直る。
学問的にはインチキでも、おもしろければいい。役に立てばいい。
フロイトの理論はなるほどインチキかもしれないが、かれは名医だった。
何人もの病める患者をインチキ理論で治したのは事実である。
ユングはあまり患者を治癒に導かなかったらしいが、かれの理論はおもしろい。
ユングの理論を、質のいいファンタジーと見てはどうかというのである。
どのみちつまらぬ人生なら、ユングに慰められるのもいいではないかと思うのだ。
もっともフロイトやユングをまつりあげることで、
高額の料金を不当に徴収する治療者にはまったく好感をもたない。
本題に戻り、根源的な問いに向き合おう。そもそも精神病とはなにか?
精神医学はピレネが、あるタイプの人間を精神病と命名することからスタートした。
本書では東京工業大学教授の景山任佐が以下のような定義をしている。
「精神病の本質は
『「主体(=患者本人)と現実との関係の深い変容」として表現される』」(P26)
「精神病患者は現実性が欠落し、自分が病人であるとの自覚に乏しい」(P27)
要は、現実を見誤っているのが精神病患者と言うのであろう。
しかし、いくら大学教授の論述であろうと、これは間違いである。
この精神病の定義は誤りだ。
というのも、衆目一致で承認される現実など、どこにもないからである。
人間はそれぞれの現実を生きている。
Aさんの現実とBさんの現実がおなじはずがない。
(山田太一ふうの表現をすれば、人間はそれぞれのフィクションを生きている)
では、ここで一介のブロガーが精神病の定義をしてみよう。
「精神病とは、精神科医が異常と見なした症状である」
言い換えれば、精神病は精神科医が作るものなのである。
精神医学の始まりからして、そうではないか。
ピレネという医者が、ある種の迷惑な人間を精神病とラベリングしたことから、
精神医学は創設されたのである。
最後に、この本によるとわたしはたいへんな病人らしい。
回避性人格障害、自己愛性人格障害、反社会性人格障害、強迫性人格障害――。
以上の4つすべてに当てはまる。
ところが、わたしはやはり病人ではない。
なぜなら判定をくだしたもの(=わたし)が精神科医ではないからである。
「図解雑学 心理学」(大村政男/ナツメ社)
→古本屋のワゴンから100円でひろいあげた本だが、
一箇所だけ折り目のついたページがある。
「知能のレベルを決めるのは遺伝? 環境?」というページである。
ふきだしそうになった。
きっと本書のまえの所有者は自分の低知能に悩んでいたのだろう。
「図解雑学」シリーズを買ったことからもよくわかる。
いちおうくだんの問いの本書における回答を紹介しておくと、
現代の最先端研究の結果として、知能は遺伝と環境の相互作用だと書いてある。
けれども、べつに心理学者の先生から教わらなくても、
高校中退カップルのできちゃった婚で誕生した児童が
東大へ入学できると思うひとはいないでしょう。
医者や弁護士の子女はかなりの高確率で有名学校へ入ることも我われは知っている。
小さいころからカネをかけられたガキは強いわけだよ。
こんなものは常識で、わざわざ心理学の先生に教えてもらうことではない。
このことは本書で開陳されているすべての心理学的知見にあてはまる。
心理学なんざ、言ってしまえば、当たり前の常識なんだ。
だれもが知っている常識を、ものものしく語るのが心理学者ではないか。
数学が苦手の文系のくせにデータがどうのとわけしり顔で学者ぶる。
この本を読みながら、似たようなもの知っているという思いがしていた。
思い当たったのは、女性誌である。心理学は女性誌だ。
女子供が、わーわーきゃーきゃー騒ぐのにはなはだ都合がよろしい。
退屈しのぎになるから心理学(女性誌)もそれなりに存在意義があるのだろう。
だが、決して真に受けてはいけない。
「不安でたまらない人たちへ」(ジェフリー・M・シュウォーツ 著 /吉田利子訳/草思社)→音恐怖症である。騒音廃絶活動家でもある(苦笑)。
音にひどく敏感。拡声器を嫌悪している。音楽を流す物売りも大嫌い。
1年前くらいまえにかかった病である。
病気なのかは実のところ不明。自分勝手なだけかもしれない。
いくら調べても、この音恐怖症、騒音過敏症について書かれた書籍はない。
うるさい哲学者、中島義道の著作は、病気をかえって悪化させる禁書だと思っている。
わたしも中島義道のように何度も騒音元と喧嘩をした。無益な闘争であった。
1年前に突然、罹患(りかん)したのである。
ならおなじように突如として治ってもいいはずである。
病識はあるのだ。じぶんがおかしいとわかっている。
ふつうのひとは騒音などたいして気にしていない。かつてのわたしもそうであった。
どうしたらむかしに戻れるのか。
だが、問題ではないか。この症状にまだ病名すらついていないのである。
「わがまま」「神経質」「耳がいい」「キチガイ(かる〜く)」。
さしあたってはこのような表現が一般では使用されていると思われる。
いかにすればこの困った状態からぬけだせるか。日夜、あたまを悩ませている。
本書はアメリカの一般向け医学書。OCD対策の実践マニュアルである。
OCDとは「Obsessive Compulsive Disorder」。
日本語は「強迫性障害」。かつては「強迫神経症」とよばれていた。
手を何度も洗わないと気が済まない。
カギや蛇口を何度もたしかめる。
物事が偶数でないと気になる。
順序だてた個人的な儀式を正確に行なうまで外出できない。
こんな症状で知られる。あのサッカーのベッカムもOCDだという。
わたしの病気もOCDではないかと、この書物に救いを求めた。
読み始めてすぐに気づく。これはアメリカ版の森田療法である。
森田療法は、大正時代に精神科医の森田正馬(まさたけ)が創始した神経症の治療法。
アメリカでの神経症の治療は、薬物療法と精神分析がメイン。
この書籍が画期的だったということは、
ようやくアメリカが日本に追いついたということである。
森田療法と、本書の四段階方式を比較する。
【森田療法】
1.不安が生じる。
2.この不安を「あるがまま」にする(強迫行動をしない)。
3.不安を「あるがまま」にしながら「目的本位」で実践する。
4.「不安常住」とあきらめ、成功体験を積み重ねる。
【米国流四段階方式】
1.不安が生じる。
2.この不安はOCD(脳障害=医学的疾患)なのだとラベルをはりかえる。
3.関心の焦点を移し、建設的な楽しい活動をする(15分間、不安に耐える)。
4.不安が実際は無意味であると価値の見直しをしていく。アメリカと日本のちがいがおもしろい。
比較してわかるのは、アメリカの科学万能主義と成功哲学流儀である。
森田療法では不安の原因を追究しない。
かつての米国は、この不安を解明するためにフロイトの泥沼にはまったわけだ。
ところが、いくらフロイト流の精神分析をしてもOCDは治らない。
ここで不安を「あるがまま」にしないで科学をもちだしてくるのはいかにもアメリカ的。
OCD状態にある脳を調べると、通常の脳とは異なるという結果がわかった。
フロイトがダメなら科学にすがるのがアメリカである。
科学を信じているものほど、この実践的治療法は効果があると思われる。
不安が生じる。
この不安をOCDと名づけることで、不安を軽減しようという作戦である。
客体化するとい言いかえてもいいかもしれない。
不安にOCDとラベルをはる。乗り越えるべき敵の登場である。
ハリウッド映画の世界ではないか。
この敵を倒すためには、関心の焦点を移す。たとえば趣味の世界へ没入する。
最後は価値の見直し。ポジティブという言葉がふさわしい。
前向きで多趣味なアメリカンビジネスマンは万病を排するとでもいうのか(笑)。
おっと、笑っている場合ではない。
この米国流四段階方式はマクドナルドで育った現代日本人には、
なまじ森田療法などよりよほど効果があるかもしれない。
「だいじなのはどう感じるかではなく、何をするかである」(P41)森田療法と米国流に共通するポイントである。
感じる不安を、森田は「あるがまま」に、米国流は「O C D」とラベルをはる。
そのうえで行動を重視しようではないかというのである。
米国流を実践してみる。
1.騒音が聞こえてくる。いらいらする。文句を言いたい。
2.これはOCDだ。脳障害なのだとラベルをはる。克服すべき対象である。
3.15分間、騒音を我慢しながらそれまでの行動を継続する。
4.騒音で命まで取られるわけではないことに気がつく。騒音を無意味化する。うん、これだ〜! さっそく試してみなければ。
本書でおもしろかったこと。
15分間の我慢をできたら、自分にご褒美をあげるといいらしい(P138)。
著者はヨーグルトやアイスクリームを推奨している。甘党なのだろうか(苦笑)。
このやりかたもギブアンドテイクとでもいうのか。なんともアメリカ的である。
(参考)「OCD研究会」↓
http://www.ocd-net.jp/index.html
「頭痛はこわい」(間中信也/KAWADE夢新書)
→ええ、はい、頭痛もちです。
長いことなかったのですが、年明け早々頭痛が。実に八ヶ月ぶりです。
それで、つぎに頭痛になるまでとずっと積ん読していたこの新書を手に取ったしだい。
むかしは頭痛を放置していた。この痛みは宿命だ、試練だ、耐えるしかないと。
それが昨年、すすめられて市販薬を。けっこう効くので驚いた。
まさか痛みが消えるとは。
その後、医者にいうともっと強い痛み止めをだしてくれる。
これはほんとよく効く。
痛みに耐えていたむかしはいったいなんだったのかと思うほど。
おっと、他人の健康なんてどうでもいいですね。
病院の老人によくいます。じぶんの病歴をえんえんと自慢する御仁。
ああなっちゃいけません。はやばやと失礼します。
「森田療法」(岩井寛/講談社現代新書)
→森田療法を一行で説明せよと言われたらこうなる。
「石橋を渡ろう!」
石橋をたたいてばかりで、渡らないのが神経症患者。
「あるがまま」を念仏のように唱えながらでも、なんとか向こう岸に到達しましょう。
石橋を渡りましょう。これが森田療法の教えです。
このたび音恐怖症(?)になって、神経症患者のしんどさをリアルに実感した。
たかが音じゃないかとあたまではわかっているのです。
そのくせ、いつ音が来るかと常に緊張している。
音がいざ来ると、びくっとして、そのあと何も手につかなくなってしまう。
音が気になって、気になって、しかたがない。
移動販売車の流すメロディがいつまでもあたまから離れない。
もうこれは病気でしょう。
じぶんがおかしいことはわかっているのにどうにもならない。
「あるがまま」と唱えることのみじめさは承知している。
だけど、唱えるしかない。笑いながら「あるがまま」と唱える。
この新書から気になったエピソードを。
中年女性の神経症患者。トゲ恐怖症とでもいうのか。
座るところにトゲが刺さっているのではと気になってしかたがない。
そのため夫と子どもに何もしてやることができない。一日中、トゲの心配ばかり。
わかると言ったら傲慢かもしれない。地獄の生活であったことは想像がつく。
ある日、彼女はじぶんが末期の癌(がん)であることを偶然から知る。
医者も家族も隠していたのだが、ひょんなことから知ってしまう。
その瞬間、二十数年間(!)ものあいだ、彼女を悩ませてきた神経症が治ったという。
トゲが気にならなくなったという。
彼女は言う。はじめてじぶんの愚かさを知った。
これからは余命を家族に感謝しながら生きていきたい。
いままでしてやれなかった家事やなにやらをぜんぶしたい。
神経症のせいで迷惑をかけたぶんを挽回したい。
――人間について考えさせられます。
「森田式精神健康法」(長谷川洋三/知的生きかた文庫)
→ひとを笑っている場合ではありません。わたしは笑われるがわにいるのです。
まえにも書いたとおり音が気になってしかたがない。騒音が憎らしくてたまらない。
拡声器なんて地球上からなくなればいいと本気で思っている。
大音量の音楽を流しながら押し売りに来る移動販売車に殺意をおぼえる。
しかしいちいち外に出て「うるさい、来るな」と言っていたらそれだけで疲れてしまう。
今回、あわれにも森田療法にすがりついたゆえんです。
どうすれば音が気にならなくなるか?
この問いに森田療法はこう答える。
音が気にならなくなるのは無理です。だれだって音がなれば気になります。
だからこそ交通事故が防げるのであり(クラクション)、
朝は決まった時間に起きることができる(目覚まし時計)。
音が気になるのは異常でもなんでもないのです。
まともな聴力のある人間なら当たり前のこと。
問題なのは、騒音を聞くと怒りがこみあげて何もできなくなってしまうことです。
答えが出ました。
騒音が来ても行為をやめなければいいのです。
読書をしていたのなら、そのまま本を読み続ける。
何か書きものをしていたのなら、それを継続する。
食事中でも料理中でも同様。
騒音をあるがままに受容して、なすべきことを実践すればよろしい。
ときには成功し、またべつのときには失敗するかもしれない。
だけど、すべきことは実践です。あるがままを実践しなさい。
森田療法はこう教える。
この答えを得たときには大発見をしたと思った。
ノーベル賞ものの発見ではないかと。
世に騒音に悩まされているひとは無数にいる。
よし、わたしが悩めるものに救いの福音をもたらしてやるう〜、なんて(苦笑)。
でも、まあ、そう甘くはないわけです。
この発見をしたあとも、やはり騒音には不快感を感じる。
1時間続いたときには、うるさいと言いに行ってしまった。
あるがまま、あるがまま、と思ってはいるのですが……。
これからも実践あるのみで、がんばっていくほかありません。
著者の長谷川洋三は自助グループ「生活の発見会」の名誉会長。
この「生活の発見会」がなんとも見苦しい。
困っている患者に日記を提出させ、それをえらい会員が添削して返送するのだとか。
こうすることで生活のゆがみをただし、人間を成長させるという。
その引用がこの本にあるのだが、もう失笑というかなんというのか。
気持ち悪いことこの上ないのです。
その日記を読んでいて気づいたこと。
神経症を病んでいるときの日記はおもしろくてたまらない。
治ってしまうとほんとうにつまらないものになる。
凡庸で、ありきたりで、安っぽい人生観の吐露になる。
かれは森田療法で神経症が治ったと感動し、
この会で治療者のがわにまわることもあるでしょう。
こうしてつまらない人間が大量生産されていくと思うとやりきれない。
しかし患者としては治ればなんでもいいのだから、そう考えると――。
「森田療法入門」(長谷川和夫/サンマーク文庫)
→たまらなく恥ずかしい。いまパソコンのまえので身もだえしている。
森田療法ですぞ。それも安易な入門書を。あ゛〜あ゛〜あ゛〜(うめきである)。
こころが弱いひとって傍目から見ると笑えませんか。
笑ってください。わたしもじぶんを笑っていますから。自嘲であります。
森田療法とは、大正時代に精神科医の森田正馬(まさたけ)が創始した神経症の治療法。
日本独自の画期的な治療理論で、
それまでは治癒不可能とされてきた神経症患者の多くを立ち直らせた。
そもそも神経症とは何か。英語でいうならノイローゼ。
たとえば――。
何度も手を洗わないと気が済まず、家事がおろそかになる。
カギをかけたかが気になって何度も確認するため、時間通りに目的地に行けない。
じぶんが悪臭をはなっているような気がして、他人と会うことができない。
分裂病とのちがいは病識があること。
じぶんがおかしいことがわかっているのにどうにもならないのが神経症患者。
笑えます。神経症患者を観察するのは、へたなお笑いなどよりよほど笑える。
しかし家族や本人にしてみたらたまらない。
喜劇などと笑おうものなら殴られる。大まじめの悲劇である。
森田療法のキーワードは「あるがまま」。
西欧のフロイト理論が不安の根絶を目指すのとは対照的に、
森田療法では不安をあるがままに受け入れることを提唱する。
不安を異常とみなし治療を試みるのがフロイト理論。
一方、不安は人間ならだれしも持つものと、不安をそのままにしておくのが森田療法。
たとえば――。
不衛生を忌(い)み、清潔を心がけるのは人間なら皆ある傾向である。
だれだって空き巣に入られたくはない。カギをかけたか気になる気持ちは皆ある。
ニンニク料理を食べた後にじぶんの臭いが気にならないのは、かえって無神経である。
不安は、人間ならだれもが持つものである。だから不安はあるがままにしておく。
「知識がいくらあっても神経質症は治りません。それどころか、他の病気とちがって、
なまじ知識があるとかえって治りにくいという特徴をもっているのです」(P117)
森田療法は実践を重視する。
この実践を、森田療法では「外形をととのえる」「目的本位」「不安常住」などという。
(こういう専門用語が新興宗教みたいで、嫌うひとは徹底的に嫌悪するでしょうね)
なに、むずかしいことではない。要はあるがままを実践せよということである。
たとえば――。
手が汚いんじゃないかという不安を持ちながらも、きちんと家事を行なう。
施錠を忘れたのではないかという不安をあるがままにして、約束の時間を守る。
みずからの体臭を気にしながらも、ひとと会うようにつとめる。
実践を繰り返す。失敗もすれば、成功することもあるでしょう。
この成功体験を重ねることで、自信を蓄積していこうというのである。
したがって森田療法には完全な治癒というものがない。
不安がまったくない人間など、どこにもいないからである。
森田療法には、哀しい笑いがよく似合う。
想像してみてください。
こころの弱い人間が喜劇的な不安に翻弄されながらも歯を食いしばって、
「あるがまま」「目的本位」「不安常住」と一心に念じることで生きている姿を。
もはや笑うしかないではありませんか。それは嘲笑ではない。いたわりの笑いです。
2005/04/16(土) 10:54:15
「神、この人間的なもの―宗教をめぐる精神科医の対話」(なだいなだ/岩波新書)
→あ〜、このひとと「ひろさちや」を混同していたかも。
おなじ「ひらがな5文字」だから、ま、仕方ないよね(おいおい!)。
ごめんなさい。
内容。スタート地点は「なぜむかしは精神分裂病がなかったのか」。
ゴール、宗教団体と精神科医はおなじ客層を奪い合うライバル関係にある。
つまり、むかしは精神病患者を宗教がめんどうをみていたから、精神科医は不要だった。
以上を論じた上での結論は、
だから新興宗教なんかに負けないで我ら精神科医ゴーゴー、ハッスルしようぜ!
読み物として楽しかったです。なによりわかりやすいのがよろしい。
たとえばこんな主張がある。イエス、ブッダ、ムハメドは呪術医だった。
彼らは今でいう心身症の患者を治す(当時の奇跡)ことで信者を獲得した云々。
あと、あれも印象的。
宗教っていうと我々はまず教義を知ろうとしませんか。
仏教というのはどういう教えか。カトリックとプロテスタントはどう違うのか。
でも実際に入信(改宗)するひとの多くは、
その宗教団体の教義にではなく、
人間にひかれたことがきっかけとなっている。
そして入信で得られる安心感とは、集団への帰属意識に他ならない。
このなだいなださん、みじんも宗教意識を持ちあわせていない、そこがおもしろい。
笑ったのは、創価学会への揶揄。
どの日本史(現代史)の本も書けないあの「折伏大行進」について言及している。
(折伏大行進=戦後の一時期、創価学会員が急激に増加したことを学会ではこういう)
当時、たいへんだったらしい。
看護婦にひとりでも学会員がいると、同僚の看護婦、患者とあっという間に広がり――。
とくに精神科領域だと信心すれば治るとだいぶお客さんを取られたとのこと。笑える。
いま世界史を勉強している。ふしぎなわけです。
なんで人間ってこんな人殺しが好きなの。
そのひとつの答えを「神、この人間的なもの」から引用。
「人間の歴史は、狂気と正気の戦いでも、正気と正気の戦いでもなく、
狂気と狂気の戦いだ。集団の狂気ほど強い正気意識を持つものはない。
それが宗教だ。(著者は国家も民族主義もマルクス主義もひとしく宗教とみなす)
だから平和主義者を始祖に持つ宗教同士が戦い合った」(184ページ)
*この新書はかなり満足度が高い。啓発的でした。
岩波新書ナンバー1かもしれない。おすすめです。