「私家版 精神医学事典」(春日武彦/河出書房新社)

→著者からいただいた本だからケチをつける気はカケラもないことを最初に断わっておく。
こだわりとプライドに満ちた500ページ近い大著で、
そのうえ近年はめずらしい活字二段組(表現が正しいかはわかりません)である。
売れるのかなあと。売れなかったらまた春日さんのことだから被害者意識を
こじらせてしまいそうで、こんな渾身の大著を書いたにもかかわらずそれでは、
踏んだり蹴ったり、あんまりなのでかわいそうで見ていられなくなる。
帯を見ると荒俣宏、円城塔、斎藤環といった大物(?)たちからの宣伝文があり、
これは根回しをかなりうまくやっていると見てよく、
出版界にはいろいろな賞があるようだが、
もしかしたら長いこと出版業界から無視されていた春日さんは、
本作で初受賞のようなものをするのではないか?
そうしたら賞のパワーで売れるだろうし、
春日先生の本当の価値が世間から認められ、
お勤めの病院でも最近顧問から院長に出世したようだし、
まさに人生一発逆転、春のようなものが訪れるのではないだろうか?
さらにさらに「鬱屈精神科医、お祓いを試みる」は、
著者が私小説と言っているから私小説で、
これもなにかの文学賞を受賞して、ようやく、
ようやくだが春日先生の時代が到来するのではないか?
もしそうなったらこれは本当に邪心とかなく長年のファンとして嬉しいかぎりである。
小谷野敦さんがなんか文学賞を取ったらケッと心のどこかで思うけれど、ここだけの話。

いったいどうして愛読者に過ぎないこちらに、
春日さんはわざわざこんな大著をプレゼントしてくれたのだろう。
いま身体的にも精神的にも調子が悪く、
これはそろそろ精神科へアクセスしろよということなのかと穿(うが)った見方をしてしまう。
そういう思考回路を取ることからも、いまの当方のメンタル面の不調はわかるだろう。
たぶん実際はそんなお節介めいたものではなく、ただの厚意か、
こいつがどんな感想を書くか知りたいという好奇心からだと思う。
精神科へ行くチャンスはいままでいくらもあったと思うし、いまさら感が否めない。
とはいえ成仁病院へ行くには赤羽に出て、そこからバスで西新井まで1本か。
いきなり院長先生が診てはくれないだろうなあ。
それにもし精神科にかかるとしても春日先生だけはちょっとと思うし、
反面、春日先生に診てもらわないとしたら精神科なんて行く必要はないとも思う。
いやいや、いきなり春日医師のまえに登場して、
「なにがお困りですか?」と聞かれても無言で答えず、
こいつは緘黙症かと思わせておいて、
いきなりカバンからくるくる巻いたカレンダーの裏を取り出し、
おもむろに芝居がかった調子で「人生の迷い」と書かれた紙を見せるのも、
これは氏が占い師にやったことのパロディーなのだが、おもしろいのかもしれない。
しかし、「人生の迷い」なんて自分で考え抜くしかなく、精神科医に聞くものではないし、
もし答えてくれる人がいたとしてもそこでお手軽に得た答えはニセモノだろう。
つくづく医者は患者を選べない因果な商売だと思う。
「物欲がないので困っています」と相談されても答えようがないだろう。
「それはいいじゃないですか」くらいなもんで。
40を過ぎた男が同性の医者に「虚無感でいっぱいです」
とか高校生みたいなことを言えるかよ。こっちだってプライドというものがある。

専門家ではないからわからんが、
統合失調症ではないし気分の波は激しいが病気というほどではなく、
(希死念慮はあるが)たぶん軽いうつ病と診断するのもためらわれるレベルで、
しいて病名をつけるのならパーソナリティー障害(人格障害)のミックスあたりで、
とはいえ医師もさすがに40を過ぎたいいおっさんに病名を伝えることはためらわれ、
軽めの精神安定剤のようなものを出され「様子を見ていきましょう」で終わるだろう。
だが、それでも精神科にかかったほうがいいのかもしれない。
なぜなら孤独はよくないからだ。
じつは土曜日の約束を友人にキャンセルされ、それは仕方がないのだが、
ちょっと落ち込んでいる。孤独はよくない。
本書は著者の連想で編まれた(がために私家版?)精神医学事典らしく、
ならばこちらも連想のようなものに任せて引用や感想を書いていこう。
そもそも文章を書くという行為は連想そのものなのだ。

「自分自身と向き合うためには、孤独な時間が必要だ。
思索や内省のために孤独は必須であり、
孤独があってこそ人は「自分らしさ」を取り戻す。
とはいうものの、孤独な状態は危険を秘めている。
自分を客観視しづらくなるので、考えが暴走しやすい。
自分では論理的に考えているつもりでも、現実にそぐわない理屈に囚われたり、
バイアスの加わった思考に陥りがちとなる」(P452)


このため病的に孤独な人は定期的に、
たとえ3分診療でも精神科とつながっていることが重要なのだろう。
精神科は初診はけっこう時間を取るようである。
(消化器内科は初診でも3分いかなくて忙しいんだなあと驚いた)
わたしは精神科の、この初診がいやなのである。
自分のことをペラペラ話したくないし、聞かれたくないことがたくさんある。
そんなことを言われたら診察ができないじゃないかと言われても、
「そりゃあそうでしょうね」と言うしかない。
春日さんならいいかって、春日さんにはもっとさらに
話したくないし聞かれたくない、自分の弱みなんて。
精神科医の春日さんもおなじ理由で精神科やカウンセリングではなく、
占い師にすがったわけだから。春日さんが変なことを書いている。

「自慰をする際に人はどのような空想をするのだろうか。
あまりにも非現実的な場面を思い描いても、欲望と現実とのバランスが取れまい。
自分に都合が良すぎることを考えても、それではいまひとつ興に乗れない。
すなわち内面と現実との摺(す)り合わせといった意味で、
精神分析では自慰空想の内容が重視されるという。
だがわたしが患者になったとしたら、精神分析医ごときに、
そんな秘密は口が裂けても言いたくないね。
平然と喋るほうが、よほど不健全ではあるまいか」(P103)


おっと春日さんは意外とノーマルなんだなということはどうでもよくて、
わたしも精神科医ごときに自分の秘密は口が裂けても言いたくないね、と思ってしまう。
ここでひとつの問題が生じる。
春日さんは精神科医なんて心のオーソリティーでもなんでもないという立ち位置のようだ。
それを言っていいのかということを書いている。
精神科医なんて「心の修理屋」に過ぎないと。

「わたしが精神科医になった理由のひとつは、患者の言動を通して
人の心の根源的な何かを垣間見ることが出来るのではないかと期待したからであった。
狂気が精神の極限状態であると仮定するならば、
そこには心の深淵がさらけ出されているのではないかと予想したわけである。
しかしそんな予想はむしろロマンティックな夢想と称すべきなのだった。
故障したエンジンから生ずる異常音に耳を傾けても、
物理学の根源とでもいうべき秘密が聴き取れるわけではない。
故障の個所はどこなのか、故障の程度はどれほどなのか、
そうした見当がつくだけだろう。
わたしは心の修理屋にはなったけれど、
修理作業を通して深遠なるものと邂逅することはなかった。
せいぜい心には壊れやすい部分があり、
また壊れるにも一定の癖やパターンがあると知っただけであった」(P288)


春日さんが精神分析医なんかに秘密を話したくないように、
自分の患者さんが、
果たして本当に精神科医に胸襟を開いて心の奥底を開陳してくれるか?
それは春日さんの器がどうこうの問題ではなく(それもちょっとはあるかなあ)、
現実的に精神科外来の混雑を考えたら、
そこまでひとりの患者に時間を取れない。
ベルトコンベアーに乗ってきた患者を高速でパターンに分類して仕分けする工員が、
かならずしも患者の心の秘密を知らなくてもよい。
というか、むしろそんなものを知らないほうが
作業効率は高まるので優秀な工員たりえよう。
それにしても壊れた心を故障したエンジンにたとえるあたりうまい。
春日さんはB級精神科医から詩的精神科医に
長年の修業の結果、相成ったのではないか。
わけてもわけてもいくらわけても分類しえないもの――
わけられないもの――わからないもの――無分別知的絶対存在――超自然的なもの
――天才のようながあってほしいという願望が著者にもわたしにもあるのだろう。

とにもかくにも春日医師はパターンに分類するのがお好きなようである。
言葉の機能のひとつは分類ともいえるため、
文学作品を愛する詩的精神科医が分類に偏執を見せるのは必然だろう。
自己実現という主に若い人を迷わせるポエミーな概念がある。
春日さんは本書で古株精神科医の中井久夫には何度も言及しているが、
お仲間だった心理療法家の河合隼雄にはいっさい触れていない。
自己実現は河合が日本に広めた達成目標のようなものだが、
詩的精神科医はそれをおちょくってみせる。こういう芸がうまいのよ春日先生は。

「自己実現においては、自分らしさが重要なポイントとなるだろう。
自分らしさを欠いていれば、それはどこか違和感に彩られたものに成り下がってしまう。
とはいっても、本当の自分らしさ――すなわち唯一無二のものなど存在するのだろうか。
自分らしさなど、所詮はいくつかのパターンに分類されてしまう程度のものではないか。
そのパターンを換言するならキャラということになるだろう。
キャラクターではなく、かなり紋切り型な類似としての「キャラ」である」(P301)


自己実現なんて自分のキャラを見極める程度のお遊びだろう、と言っているに近く、
精神医学の重鎮、中井久夫が激怒する(?)ような不遜なことを
平気で口にする春日さんは生意気と評されただろうことも予測はつくが、
春日医師のそういう神をも恐れぬところがわたしは好きである。
春日さん、中井久夫の絵画療法とか、どう思っているんだろう?
あんなもん効くわけねえとか言ってほしいが、調べたら中井久夫はまだ存命かチクショー。
自己実現した結果、わかったキャラが「永遠のパシリ」だったらいやだなあ。
おそらくわたしのキャラは「負け犬」なのだろう。
やたら犬から吠えられるし(関係あるか?)、
負け犬の遠吠えってわたしのためにあるような言葉だもんね。
ちなみにわたしが正常か異常かは精神科医の春日武彦先生にも分類できないという。

「正常と狂気との間に明瞭な境界線が引けると精神科医は考えていない。
言動や生活態度が正常であるとは到底思えないが、
そのことでトラブルが起きているわけでもないし、
仮に治療をしたとしても効果が期待出来ないケースなんていくらでもある。
そういった人たちはむしろ環境によって運命が左右されてくる。
銀行員や公務員であったら異常そのものであるが、
芸術家であるとか芸能の分野でならば、あるいは水商売や風俗関係ならば
愛すべき人として暮らしていけそうな人物などいくらでもいる。
そのような人たちの人生に精神科医は介入しない。
生きていく世界の選択を誤らないようにと祈るだけである」(P81)


春日さんって職業的な微笑はできても、心の底から笑ったことがない人だと聞く。
笑わないだけではなく、泣かない人でもあるらしい。
泣かない人がいるというのはびっくりしたけれど、
たしかに春日医師のご著書はけっこう読んでいるほうだと思うが、
一度も泣いたことはない。しかし、笑えるのである。
春日さんは人を笑わせるのが天才的にうまいがゆえに笑えないという、
おかしな宿命のようなものをお持ちの人なのかなあ。
それとも笑うわたしがおかしいのかしら。
わたしはテレビのお笑いを見て笑ったことが一度もない。
笑わせようとしているお笑いは嫌いと言ってもよい。
春日さんはそもそも笑わないんだから、
お笑い芸人がよく理解できないという点では同類だろう。
さてさて、以下の文章で笑うのっておかしい? みなさんは笑いますか? 

「高校の頃、武智という教師がいた、
我々生徒は姓を音読みにして「ぶち」と読んでいた。
何となく斑犬(ぶちいぬ)とかマダラ模様の豚や馬を連想させる外見であったし、
「ブチ殺す」とか「ブチのめす」などといった物騒な言葉にも
親和性のありそうな教師だったので、
このあだ名に我々は大いに納得していた。
だが当人にとっては、実に不愉快な名称だったのであろう。
誰かが当人の前でうっかり「ぶち」と口にしたら、たちまち張り倒されていた。
無理もないと思った」(P302)


ここで大笑いするのっておかしいのかなあ? うちビョーキかしら。
うちのブログはどうなんだろう? 笑った人もいるでしょう?
わたしは笑わせようとねらって書いているけれども、
そこではないところで笑われているのかもしれない。
当方にとってそれはそれほど不愉快ではないが、春日院長先生はどうだか
おれなんかに本をくださる人を怒らせたくない。
ええい、大サービスでもう一丁。ここも大笑いした。
春日さんの本はこんなにおもしろいんだから、みんな買って読んで褒めてあげて。

「実は少々離れた場所で痴漢行為が行われているのを目撃したことがある
(まだスマホなど普及しておらず、また乗客が協力して犯人を取り押さえる
といったパターンも定着していなかった時代のことである)。
朝の満員電車であった。多くの乗客が気づいていた。
にもかかわらず痴漢(痩せて背が高く、金壺眼で頬骨が飛び出て、
服装は安サラリーマン風)は平然と被害者の身体を撫で回していた。
その平然さが、周囲を怯えさせ「見て見ぬ振り」を強要していた。
被害を受けている女性は嫌悪感よりも恐怖に駆られ、
混雑した車内を必死に移動しようとする。
それを脅しつけるかのように薄笑いを浮かべた痴漢が追い回す。
猥褻(わいせつ)といったものではなく、まさに暴力であった。
乗客たち(わたしも含む)は、もはや痴漢の毒々しさに圧倒されて棒立ちしていた。
あのときの印象に基づくなら、女性を弄んだり竦(すく)ませて屈服させる喜びに加え、
居合わせた乗客たち全員に無力感と自己嫌悪とを生じさせる楽しみを
痴漢は味わっていたように思える」(P269)


日常に立ち現われた異界をじつに巧みに描写している名文である。
おもしろい文章やうまい文章を書く人には素直に負けたと思う。
正統的な模範的な文章の書き手としても春日さんはうまいもの。
たとえば家族とはなにかを定義するにしても、
こうまでうまくは言葉を使いこなせないのではないか。
わたしが引用させていただいているのは、
本を読んでもすぐ忘れてしまうという脳欠陥があるためと、
もうひとつはうまい文章を書き写すことでコツを盗みたいという意地汚さゆえだ。

「家族は、安心感や無条件の愛情、打ち解けた雰囲気とそれなりの規律、
いたわりの心や敬意、自由と分別、みずみずしい感情とその交流、
良い意味でのいい加減さなどを基に家庭を営んでいくのが「健全な」姿だろう」(P334)


まあ現実はそんな健全な家族はどこにもないのだろうが、
言葉のうえではこれほど理想的な家庭はないだろう。
「健全な家族」はどこかしら胡散臭さがある。
では、「健全な精神」とはなにか?
春日武彦医師は森田療法を説明するかたちで「健全な精神」について言及している。
これほどわかりやすい森田療法と「健全な精神」の説明はないだろう。

「早い話が、ぐだぐだと自分に粘着なんかせずに、
質実剛健に黙々と日常を生きてみろ! というわけである」(P414)


でも、それ、おもしろいでっか? という話になってくるわけだが。
この本は娯楽性が高いばかりではなく実際に役に立つことも書いてある。
精神病の発病を防ぐヒントである。
いまわたしが狂っている新興宗教(狂っていればいるほどいい)
に入りたがっているのは無意識に発病のシステムを察知しているのかもしれない。
成仁病院の院長にして臨床経験豊富な精神科医の春日武彦氏は語る。

「自衛隊を除隊してしばらくしてから、精神状態が悪くなって医療を受ける人が
ときおりいると聞いたことがある。
それは自衛隊にいることがストレスフルで、そのためにおかしくなるといった話ではない。
むしろ厳格な規律に縛られて身体をフルに動かしている間は
何とか発病を防げていたのに、
除隊によって生活を律するものがなくなった途端に状態が悪くなってくる、
といったパターンなのである。
そのような観点からすると、自衛隊のような集団生活にも美点のあることが分かる。
枠組みにきっちり嵌め込まれ、生活は規則正しく、しかも身体を酷使する日々は、
妄想など寄せつけない。ニートだとか引きこもりとはまったく正反対の生活に、
発病を防ぐヒントが隠されているということになる。
ただし自衛隊生活がオールマイティではないし、
いまどきの若者には徴兵制復活が必要だ
などという暴論が成り立つ根拠にもならない。
が、あまりに自由かつ取り止めのない状態は、
精神的によほどタフでない限りかえって不幸を招きかねない事実は
きちんと把握しておくべきだろう。真っ白な百号のキャンパスを前にして、
躊躇することなく思いつくままに絵筆を動かせる者はまことに少ないのである」(P51)


ぐだぐだと自分に粘着なんかせずに、質実剛健に黙々と日常を生きてみろ!
春日さんは忙しい臨床のかたわらで(本書を読んだらわかるが)大量の読書をして、
なおかつあまたのおもしろい本を書いてきたのだから、
達成できたかはわからないが少なくとも目標に近づこうと実践はしてきたのである。
もっともっと報われなければならない人であろう。
職種にもよるのだろうが、仕事をしながら読書を続けるのは本当に難しい。
本書は春日精神医学、春日心理学、春日的狂人記録の集大成といってよく、
長年の臨床や読書がこのようなかたちで結実したことに
「おめでとうございます」と心から申し上げたい。
願わくば正しい評価を受け、なにかの賞を取り、
そこでまた「おめでとうございます」と口にできたらと思うばかりである。
大著のご執筆、さぞかしお骨折りだったことでしょう。
この本を書き上げたあとの春日先生の新境地を読むまではまだまだ死ねないぞ。
多少(?)メンタルに問題がある先生の愛読者は新作を楽しみにしております。
アマゾンで心ない評価をされているのを見ましたが、どうかお気落ちなさらぬよう。
この記事をお読みのみなさま。
本書は「はじめての春日武彦」「春日武彦入門」にもたいへんふさわしく
(ベテランさんはネタの重複が気になる方もあるいは)、
ぜひぜひ手に取っていただきたい1冊であります。
精神医学の知識は意外と生活に使えるし、
本書はわかりやすい解説をすることでは
第一級の著者の手による「私家版 精神医学事典」ですから買わない手はありません。



(追記)ごめんなさい。287ページの「9・11」は「3・11」では?
こちらの勘違いかもしれません。ごめんなさい。
それからこの記事における誤字脱字、ごめんなさい。
少しずつ直していきます。ですから、ごめんなさい。
「鬱屈精神科医、お祓いを試みる」(春日武彦/太田出版)

→人と人はわかりあえないよ。自分の苦悩は他人にわかってもらえない。
うん、孤独だね。でも、それが現実なんだからしようがないじゃないか。
自分で苦悩に立ち向かうしかない。そうなったときにせめてなしうることってなんだろう?
幸運とか不運とか人間には理解不能なバランスとタイミングで舞い込んでくるけれど、
まったくの無力というのは絶望感にとらわれるから、せめてなしうることはないか?
著者がしているのは言語化、占い師にすがる、お祓いをする、家の改装をする、である。
なんでも両親がお亡くなりになり、マンションの一室を相続したとのことで、
そのマンションを自分流に徹底的に改装することで
「お祓(はら)い」の効果があるのではないかと。
運勢が好転して名誉や財産が天から降ってくるのではないかと。
そこまで期待するのは大仰なのは先生もわかっておられ、
せめて自分の生きづらさのようなものが何割かでも解消するようなことがないかと。

精神科医の春日武彦さんの根本にあるのは孤独感である。
これは春日さんだけではなく、強弱の違いこそあれ、だれもが抱えている問題だ。
だれにもわかってもらえないから孤独感が増すのである。
精神を病むというのは孤独をこじらせたとも言いうる。
はっきり言って軽度の精神病だったら、
裕福な美青年や美女から愛されることで消えるだろう。
しかし、人生はそこまで甘くないから精神科医のもとを訪れるものが現われる。
精神科医は女性患者N子から自分の苦しみなんて「分かりっこないですもんね」
と言われたことがあるらしい。正確にはキレる寸前だった初診のN子はなんと言ったか。
「あなたみたいに恵まれた人には、わたしの苦しさなんて分かりっこないですもんね」
職業人、春日武彦医師はどう答えたか。
「たしかにわたしみたいな甘っちょろい人間には、
あなたの苦しさを十分には理解出来ないかもしれません。
でも、まあ自分にとっていちばん辛いことを思い起こして、
そこからあなたの苦しみを想像する――
そのくらいの努力はしてみるつもりですけど」
人間の限界を踏まえたうえでの理想的な回答だろう。
内省的な春日医師はその後に自問したという。
もし患者から「あなたにとって<いちばん辛いこと>ってなんですか?」
と聞かれたらどうしていたか。
自分の<いちばん辛いこと>ってなんだろう? 人それぞれ辛いことがあろう。
あなたもあるだろうし、わたしもあるし、
精神科医の春日武彦さんにも、その患者のN子さんにもある。

「患者がいつまでも執着しているという点において、
N子の「苦しさ」は呪いみたいなものである。
彼女のそれは煎じ詰めれば母子関係の問題であったから、
すなわち実母からの呪いとなろうか。
他方、わたしにとっての「いちばん辛いこと」とは何なのか。
母親に称賛され誇りにしてもらえる存在としての自分になれない(なれなかった)
――そんな悲しみ、あるいは無力感である。
N子の価値観からすれば当方は恵まれた人なのかもしれないが、
それは医者という職業に対するステレオタイプな思い込みに基づいているだけである。
わたしの辛さについてN子は
「いい気なもんだ。その歳で何を言っているんだよ」と嘲笑するかもしれない。
そのときわたしは、「いや、そんな簡単なものじゃないんだよ」
と丁寧に説いて聞かせる自信はない。平静を装いつつも、
脳内イメージでは金属バットで力任せに滅多打ちにしてしまいそうだ」(P5)


母親からの強い承認を求める気持と
どこまで関係しているかはだれにもわからないだろうが(どんな精神分析家にも)、
春日さんが中学生のときにお母さまはお辛い経験をなさったらしい。
人の不幸を転載するようなかたちで紹介するのは品のない行為だとはわかっている。
なんでも春日医師のお母上はガス会社の調査員に、
レイプ未遂のようなことをされたらしい。
その日だけにとどまらずストーカー的な脅迫行為を二度された。
春日氏自慢の美しいお母さまは男を刑事告訴した。
懲役2年の実刑を相手に食らわせた。
それとどのくらい関係があるのかわからないが、
そのころから春日氏のご母堂は夜、睡眠薬をウイスキーとともに飲み、
当時中学生だった春日医師にからんでくるようなこともあったという。
ときには心肺停止になりかけるようなこともあり、
春日少年はたいへん不安な気持を持った。
そのときの不安感がいまも続いているかどうかはわからないが、
春日氏は自身の不安感が強いことを著書でよくもらしている。
お母さまのその体験と自分の「いちばん辛いこと」がどう関係しているのかはわからない。
関係しているのかもしれないし、あんがい無関係かもしれない。
人の苦しみはわからないが、わかったような気になることがあるのも事実である。
わたしが小学校高学年のころ、母親が自殺未遂をやらかしたからである。
精神科でもらっていた薬を大量服薬して救急車で病院に運ばれた。
それから先も母の精神不安定は続き、一家団欒というものを経験したことがない。
家にはつねに母という不安要素があった。
中学校に入ると父は母から逃げ出し、母のことは息子に任せるという作戦に出た。
父と母の板挟みになるのは辛かったなあ。
で、結局は大学卒業直後に母はわたしの目のまえで飛び降り自殺をして、
今度は死ぬことに成功した。父や息子の悪口をぎっしり書き込んだ日記を残して。
どうして母がよりによってわたしの目のまえで飛び降り自殺をしたかはわからない。
だれかにこの辛さをわかってほしいと長年思っていたが、
いまはわかってもらえないだろうとあきらめている。
N子は自分の辛さをわからないだろうと春日医師をなじった。
春日医師は自分の辛さはわかってもらえないだろうというある種の達観をしている。

もてないことはわたしのなかで救済となっており、
万が一子どもでもできてしまったら不幸を連鎖させてしまうので、その子に申し訳がない。
わたしは生まれて来なければよかったと思っているし、
父と母がどうして子づくりなどしたのかいまもってわからない。
まさか母の呪縛にこんな歳まで苦しまされるとは思わなかった。
春日医師はトラウマをマンネリ化させるという技術を本書で紹介しているが、
わたしがブログに母のことを繰り返し書いているのは、
無意識的にその作戦を選択していたということだろう。
たしかにマンネリ化させることには意味があり、いまでは持ちネタに近くなってしまい、
そこまで軽い体験じゃなかったんだけれどなあ、
と自分に突っ込みを入れたくなることがある。
しかし、辛くないか、と聞かれたら、辛い。経験してみないとわからないだろう。
仏教の開祖である釈迦はセックスを禁止したが、
それでは人類が消滅してしまうではないかという反論もあろうけれど、
生まれて来ること自体が辛苦というのは真理と言っていいだろう。
にもかかわらず、世の男女は
どうしてぽんぽん子どもを作るのか春日医師もわたしもわからない。
(春日医師は計画的に子どもを作らない人生を歩まれておられる)

「世の多くの人々は子を持つことに躊躇(ちゅうちょ)しないようだが、
いったいいかなる自信がゴーサインを出しているのかと
クビを傾けずにはいられない。おそらく何も考えていないだろうとは思う。
考えずにいられるのが信じられない。
愛だのスウィートホームだのの幻想に頭を濁らせられているのか」(P20)


いや、わたしがわからなかった謎を優秀な春日医師は解いている。
本書でいちばん「そうか、そうだったのか」とうなったのはここである。
モーパッサンは自分が目にしたくない嫌いなエッフェル塔でしばしば食事をしたという。
理由がおもしろく、パリでエッフェル塔が見えないのはここだけだから。
エッフェル塔に入ってしまったらエッフェル塔は見えない。

「なるほど、こんなふうに憎むべき対象や敵の懐に飛び込んだり同化してしまうのは、
なかなか賢明な作戦かもしれないじゃないか。
考えてみれば、多くの人たちは自分が親になることで
親からの呪縛から逃れているわけで、
基本的にはモーパッサンに近い作戦なのかもしれない」(P34)


親からの呪縛(期待、落胆、要するに支配)は強くても弱くても辛いものだろう。
親の呪縛は親の死後も子につきまといかねない強さを持っている。
現に春日医師のお母上も当方の母も、死後でさえ子を呪縛している。
しかし、自分が親になれば今度は自分が子を呪縛(期待、落胆、支配)することになり、
あながち親を恨んでばかりはいられなくなるのである。
今度は恨まれる側にまわるわけだから。
子がいない自分もモーパッサン作戦を取れるのではないかと春日さんは考え、
両親から相続したマンションの一室を、
「ブルックリンの古い印刷工場を改装して住んでいる辛辣なコラムニストの棲み処」
にリノベーション(改造、再生)してしまった。
このようなリノベーションはだれにでもできるというわけではないが、
親からの呪縛を逃れるために子は親になるという新説には驚いたし感心した。
親にされたことを子に仕返しするのである。
師匠にいじめ抜かれた弟子が師匠になって、
今度は自分が弟子を殴ったり蹴ったりするのもおなじだろう。
「勉強しろ」と言われたがしなかった子が親になり「勉強しろ」と子に言う。
基本的に自分の顔が好きでないと子作りはできないような気がする。
わたしは自分の顔が大嫌いだから、こんな顔をコピーなんかしたくない。
しかし、悪魔的なことを言うと、
子どもってなにをしてもいいペットなんだから、いいオモチャだろう。
親は子になにをしてもよく、目のまえで飛び降り自殺をしても許される。
わたしもレイプまがいのことをして子どもを作り、
その子の目のまえで自殺したらこのわだかまり、悔しさは消えるのかもしれない。

著者が気づいていないはずはないが、
占いもお祓いもどの宗教もインチキでありニセモノなのである。
春日さんはけっこうな大金を払って神主にお祓いをしてもらい、
お札まで購入したらしい。しかし、特別幸運なことは舞い込まない。
しかし、もしお祓いを受けていなかったら大惨事になっていたと過去の散財を合理化する。
いちばん詳しい団体だから例にあげるが(悪意はない)、
創価学会の信心をしてもことさらいいことはないが、
していなかったらいまごろ交通事故で両足切断していたわよって話。
信心していても交通事故に遭うことはあるけれど、
信心していなかったら死んでいたぞの詐欺世界。
医薬品だって本当に効いているのかはわからず、服用しても服用しなくても結果はおなじ
――というインチキまがい、ニセモノめいた世界と言えなくもない。
あまたある健康食品は典型的である。
春日さんの幸運、不運に対する考え方はわたしのそれとまるっきりおなじなので驚く。

「幸運と不運がサイン・カーブを描いて交互に訪れるのが
人生に与えられた普遍的なパターンとするなら、
不運や不幸がよりディープであるほうが
幸運も素晴らしいものが期待出来るのではないか、
ならば半端に苦しみが軽減されると
かえってつまらない人生になってしまわないだろうか、
などとマゾヒスティックな考えに取り憑かれたことがある。
だがサイン・カーブを描くのはその通りだとしても、
どうも幸不幸がプラス・マイナスでゼロになるとは限らないようだ。
いや、ヒトの寿命が千年くらいあったらゼロになるだろうが、
所詮は歪(いびつ)なカーブなので百年程度では
幸か不幸に偏ったままの人生に終わってしまうのだろう」(P42)


わたしが生きているのはわが人生の顛末(てんまつ)を見たいからである。
母親から目のまえで自殺されるなんて3億円宝くじに当たるくらいのレベルだろう?
ふざけんじゃねえよ。おいおい。神さまよお、どういう始末をつけてくれるんだい?
おまえ、うっかり間違ったんだろう? 始末書レベルじゃ済まないからな。
言っとくけど、おれは宝くじで3億円当たってもぜんぜん不思議ではないと思っているし、
20代のとびきりの美女から言い寄られても当然の権利のような顔をするつもりだからな。
しかし、41歳になり来たのはまたまたレアな顔面神経麻痺くらいで、
おやおやこのまま低空飛行で終わってしまうのかなあ、というがっかりした感じもある。
ブログに書いていないけれど、確率の低い不幸はほかにも起こっている。
ハズレ籤(くじ)だったのかなあ、ということを頑なに認めたくなくて、
インチキ、ニセモノとうすうす気づきながら、一銭にもならないのに、
さらに不幸をこじらせる結果に終わるかもしれないのに仏教にハマっているのである。
わたしの関心は演劇、仏教、精神医学(狂気)にあるが、
どれもニセモノという共通項がある。
芝居は現実生活のニセモノでしょう? 小説は言わずもがなである。
仏教はニセモノのかたまりというか。だから、いちばん仏教的なのは創価学会という話で。
精神医学が本物かニセモノかは精神科医の春日先生に聞いてみよう。

「当方の本業である精神医学にしても、
あたかもヒトの心のオーソリティー[権威]であるかのように装っているものの、
所詮は胡散臭さのカタマリである。ニセモノそのものであり、
そのような職業に延々と従事していられる自分の精神の
「いかがわしさ」に驚きすら感じてしまう。
いや、ニセモノに対する親和性は、自己救済の手段として自然に身につけ、
その延長として精神科医を生業にしたと捉えるべきなのかもしれない。
なるほどニセモノという性質には、
卑怯、虚偽、攪乱(かくらん)、奸計(かんけい)といった具合に
マイナス要素が付帯する。だがそのいっぽう、
「そっくりだが本物ではない」という事実がものごとの本質を相対化する。
思い込みや先入観を取り去り、ときには心を軽くする作用をもたらす。
気付かなかった可能性を示唆してくれさえする。卑しくなければ、
ニセモノは往々にして人生に気軽な感情をもたらしてくれる」(P174)


ドラマは現実のニセモノだけれども、
山田太一ドラマのような良質な作品は味気ない生活の隠れた彩りに気づかさせてくれる。
プロレスはケンカのニセモノだけれども、夫婦喧嘩はプロレスめいたところがある。
プロレスのお約束を見ていると、ライバルともプロレスをしているような気になる。
無気力に生きるよりも日蓮正宗のニセモノである創価学会の信心をしたほうが、
生き生きした日常を送れるという人がいてもよく、それは批判されるべきことではない。
春日医師もわたしも大好きな言葉はニセモノである。
「リンゴ」という言葉はあの赤く甘酸っぱい果物のニセモノと言えなくもない。
子どもは親のニセモノのようなところがある(たとえば長嶋一茂!)。
ホステスや風俗嬢は恋人のニセモノと言えよう。
それぞれの人生がいったいなんのニセモノなのかはまだわからない。
もしかしたら死んだあとにわかったりするのかなあ。

「人生は平均的な水準の高さと最大に突出したときの高さ、
その双方で幸福度は測られるのではないか。
突出した最高点が低い人生なんか、
不細工だがそこそこ金を稼ぐ男に対してホステスが「立派そうな方ね」
などと口にする意味不明な褒め言葉と同じ程度の価値しかない。
ついそう思ってしまい、だから自分で自分を苦しめる」(P206)


ファンクラブに入れてくれなかったので皮肉めいたことを書くと、
作家の宮本輝は銀座のホステスに「立派そうね」と言われるのを
人生の目的にしてきたような人っぽく、
春日先生の言葉をお借りするなら「俗物であり続ける度胸」を持つ、
ある意味で「斜め上の成功」を成し遂げた腰の座った快男児なのかもしれない。
ああいうふうになるには創価学会がいちばんなのだが、これまた入れてくれない。
わが人生の平均水準は低いし、
突出した最高点はまぐれで早稲田に入ったときではないか。
突出した最低点が母の眼前投身自殺だから、ぜんぜん吊り合いが取れていない。
たぶん来世かそのまた来世くらいで大当たりが出るのではないかと思っているので、
不穏なことを承知で書くが早く死にたい。
精神科医の春日武彦氏も本書で自殺をほのめかしている。
いただいた本の感想に失礼なことを書くと、
たしかに春日さんは死んだらニュースで報道されるか微妙なレベルだよなあ。
ファンクラブなんてできないだろうし、もし奇跡的にできても、
心療内科クリニックの待合室みたいになりそうで薄気味悪い。
当方は春日さんに笑っていただきたくてこういうことを書いているのだが(つまり好意)、
こういう文章を読むと精神科医は激怒するのかしら。
土屋は「図々しい奴、卑しい奴、常識知らず、恥知らず」だから早く死ね、とか。
ほしいものをくれる人は良い人で好きだから、
春日先生にはぜひ長生きしていただきたい。自殺なんて言わずに。
まあ、以下の文章を読むと大丈夫だろう。

「世界のすべてに向けて中指を突き立てながら死んでしまいたくなることは、
一週間に三回はある。さっさとこの世から縁を切りたい。
でも、もう少し現世で抵抗し悪足掻(わるあが)きや
意趣返しをしてやりたい気もあるのだ。そうでないと、
全知全能の神だか運命の神に、一方的に弄(もてあそ)ばれただけのようで不愉快だ。
完全な負け犬になってしまうではないか。
ふざけんな、性悪なクソ神どもが」(P226)


けっこうな新刊で春日先生は売れ行きを気にしておられるようなので宣伝をしたいが、
うちの書評は読むと本物を読む気がなくなるとよく言われる。
しかし、本書はわたしが保証しよう。
こんなニセモノのコピー記事よりも、実際の本物はよほどおもしろいということを。
わたしが会長になって春日先生のファンクラブでも作ってみようかな。
春日さんを囲んでのお通夜のようなオフ会とか笑える。
あんがい春日武彦ファンはみんな外面(そとづら)がよくて、
明るく盛り上がっちゃったりして。
このまえユーチューブで春日先生の動画を見たけれど、
にこやかな紳士じゃないですか。
わたしもなにか「マイお祓い」を試みたら、人生一発逆転とか起こらないかなあ。
一発逆転とか、そういう考え方が底辺生活者への第一歩と知りつつも。
こつこつ生きてけよ、おれ。
おれが本気になって性悪なクソ神どもに復讐しようと思ったら、
たぶん父親の目のまえで飛び降り自殺をするだろう。
まあ虫けらのような人生だったから、最後にそのくらいやらせてもらうのが筋かもしれない。

「鬱屈精神科医、占いにすがる」(春日武彦/太田出版)

→うっかりした感想を書けない本なので何度も繰り返し読み熟考した。
精神科医の著者はいつも世の中に対しては
「ああ、オレをおだててくれ、褒めてくれ、肯定の眼差(まなざ)しを向けてくれ」
とつぶやいているらしいので、なんとかそういう書評を書きたいと思っている。
同時に精神科医同様(あるいは以上に?)鬱屈した自分の問題も、
こうして言葉をつづっていくことでわずかでも解決したらと思う。
わたしは春日武彦さんの本を高く評価しているから、
こうして著者の本を何冊も読みブログに感想を書いているのである。
基本的に(自分のところもふくめて)ブログは落書き程度に思っているので、
他のブログを見ることは少ない。しかし、直感的に、
うちのブログよりも熱く春日武彦氏を論じているブログはないような気がする。

ふたつの問題が考えられる。
わたしは春日武彦さんの本をおもしろいと思っているが、
そのおもしろさの表現の仕方が著者の期待するものと違ったのか?
わたしは春日さんの文は笑えると思うが、笑える文章を書くのは才能を有すると思う。
当方もできたら読者を笑わせたい、泣かせたいと思って文章を書いている。
春日さんの本は笑えるという評価の仕方が著者には不愉快だったのか。
笑われているような気がして不快でしようがなかったのか。
もちろん、著者の斬新な視点、わかりやすい文章も評価している。
ふたつ問題があると書いたふたつ目の問題は媒体である。
春日さんはブログで評価されても大して嬉しくはなく、
やはり新聞や雑誌、マスメディアからの(いわゆる識者の)評価を欲しているのか。
そうだとしたら、わたしがなにを書いても春日さんの心には届かないだろう。
現実としてたしかに春日医師は受賞歴がゼロで、
あれだけの見識と筆力を持つ人のあまたある傑作のどのひとつにも
公的な賞が与えられていないというのは、著者が理不尽な思いをするのも無理はない。

ちょっと文章を軽くすると、春日さんって占い師のところにまじめに予約して行って
(そこまではよくあろうが)、
悩みを書く欄に「人生の迷い」とかすごい筆圧で書いちゃう人だぜ。
あんた、おもしろすぎるぜ、というかサイコーっすよ、春日さん。
ちなみに春日さんは精神科医が占い師のところに行くことを「一線を超える」に
近い行為だと思っているようだが、わたしはそこまでの大冒険だとは思わない。
それはこちらが占いが好きで、金さえあれば占い師に行っているかもしれないからだ。
しかし、春日医師にとっては清水の舞台から飛び降りるような行為であった。
こういったどこか世間とテンポがずれたところがおもしろいのだが、
そう書くと著者は笑われたと感じてご気分を害してしまうのだろうか?
春日さんは物心がついて以降、心の底から笑ったことが一度もないとのこと。
そんな春日医師の本を読んで心の底から笑っているわたしは、
神の定めた罪を犯したような犯罪者以上のひどい人間なのかもしれない。

わたしは安っぽい感傷家だからすぐに泣いてしまう。
春日先生は池袋のおばさん占い師のまえで泣いたのだが、
それは30年ぶりくらいのことだったという。
どういう過程で精神科医の春日武彦さんは占い師のまえで号泣したか。
まず「人生の迷い」とは具体的にはなにをさすのかと占い師から聞かれた。
それに対し春日医師は、力作がまっとうに評価されない、黙殺される悔しさを述べる。
それから嫉妬心が強く、他人の幸福を素直に喜べないことを白状する。
そして読書家で言葉マニア、頭脳明晰な春日医師は、
自分で自分の最奥の問題に気ついてしまうのである。
おのれの絶え間のない孤独感、不全感、不安感の根源は母の問題にあった。
精神科医は同業者ともいうべきカウンセラーにはかかりたくなく占い師に頼った。
そこでカウンセラーと占い師に共通する方法を明確に発見(言語化)する。
これはじつのところ春日さんが精神科医として、
患者の悩みを聞くときにやっていたことでもあった。

「聴き手に向かって患者(相談者、クライアント)は本音をしみじみと語る――
その行為そのものに、重大な意味がある。
なぜなら聴き手=他人にきちんと分かるように語るためには、
状況や背景や経緯を頭の中で分かりやすく整理し全体を俯瞰(ふかん)し、
そのうえで適切な言葉を与えて(言語化して)喋らねばならないからだ」(P108)


そうすることで患者はなにを得られるか。
1.冷静になる。
2.語ることによって問題点が明確化し対応策に気づく。
3.悩みを共有したという錯覚(?)のため孤独感が消える。
4.悩みを語ることで生理的なカタルシスを得る(せいせいする)。
5.自分を客観視できるようになる。
セッション(話し合い)の着地点は――。
「よくぞ胸の内を話して下さいましたね。
これであなたは解決への第一歩を踏み出したのです」
精神科医もカウンセラーも占い師も、まあ、やっていることはおなじであると。
さて、精神科医の春日さんは占い師のまえで号泣してなにに気づいたのか。
自分を悩ませていたもの(孤独感、不安感、不全感)の正体は母であった。
春日さんの文章のおもしろさのひとつはカタカナの使い方がうまいのである。
それだ! というカタカナを的確に春日医師は用いる。
春日先生は占い師のまえで30年ぶりに泣き、
おのれのミッション(使命、任務、宿題)に気づく。春日さんのミッションは――。

「自分は、(美しく、聡明な)母に愛されるに値する息子にならなければならない。
そのためにはルックスの良さが絶対条件であり、
さらに誰もが感心するような業績を上げてみせねばならない」(P119)


これを春日医師は絶望的なミッションと書いているが実際、絶望的なところがある。
持って生まれたルックスは整形手術をする以外には変えられない。
そして、他人からの評価は自分ではコントロールできないから
(本当はコネや裏金で少々はできなくもないのだが)、業績もどうにもならない。
著者は読者に自分のミッションが理解されにくいだろうことをよくわかっている。
わたしも正直申し上げて、そんなミッションは捨ててしまえと言いたくなる。
しかし、春日医師は反論する。こういう神経症的ミッションがいかにたいせつであるかを。
自分のミッション(問題点、急所)がわかっても、
春日医師やわたしのような皮肉屋はかえってミッションに自縄自縛されてしまう。
そして、この長年抱えているミッション(悩み)がもはや趣味のようなものになってしまう。
神経症は自己嫌悪的なものが多いが、
自分のことを考えるのは楽しいとも言いうるわけだ。
春日先生はここまで苦悩を言語化してしまう言葉の熟練職人なのである。
苦悩が趣味になるというのはわからなくもない。
そうすると春日さんのいうミッションのようなものを自分に当てはめて考えてみたくなる。
春日さんは母への復讐のために母が軽蔑している産婦人科に最初入局したという。
ナースと結婚したのも、
看護師という職業を軽んじていた母への意趣返しの面があったという。
もしかしたらわたしは春日医師と正反対のミッションを持っているのかもしれない。
わたしは17年まえに母から目のまえで飛び降り自殺されている。
母は朝日新聞が大好きだったから、わたしは朝日新聞的な権威が大嫌いである。
母への復讐のために、
これまでわずかながらあったチャンスを棒に振ってきたのかもしれない。
母の願望していた息子になりたくないから、いい齢(とし)をして独身で、
なおかつ派遣などという社会的評価の低い仕事をしている可能性もある。

いままでさんざんほかの読者からも言われたことだろうから、
いまさらわたしがそれを繰り返しても意味はないが、
春日医師は恵まれているのである。
「妻がいる」医師の国家資格所有」「著書多数」「(少なくともわたしよりは)高収入」――。
春日先生はわたしが持っていないものをすべて持っている果報者なのである。
しかし、幸福も不幸も自己申告だから、
精神科医は不幸と申告するかぎりにおいて不幸だし、
趣味と化しているという自覚はあるようだが、
強い孤独感、不安感、不全感はどうにもならない。
言っちゃあ悪いが、こういう人がカウンセリングに行くんだろうなあという典型に見える。
しかし、著者はもっと娑婆(しゃば)っ気(山っ気)があって、
運勢を好転させたいと考えている。
だったら、わたしのように現世利益を願う創価学会を目指せと言いたくなるが、
さすがに孤独な精神科医としては占い、お祓(はら)いまでは行けても、
まがまがしい因縁話を好む仏教にまでは手を染められない。
わたしは占いを突き抜けて仏教の世界に分け入ってしまった。
だって、どう考えても人生は努力というよりも無力で運でしょう。
運を司るような神仏がいるとしか考えられない。
そこにアクセスする手段としてわたしは素人ながらお経を読み込んだのである。
お経を読めば人力を超えた運の世界、神仏の世界へアクセスできるのではないかと。
春日さんは本書で自身の経験したみみっちい(ごめんなさい!)「救い」を詳述しているが、
わたしも不思議な「救い」のようなことを経験したことがないわけではない。
しかし、それはちょっとおおやけにできない話で、
ごくごく一部の人にしか「本当のこと」は伝えていない。
話を本書の占い師に戻すと、
占い師はカウンセラーよりも実効的な面があるのではないかと
精神科医の春日武彦氏は指摘する。

「九割はパラノイアめいた冗談として聞いていただきたいのだが、ひょっとしたら、
占ってもらうことによって不確定性原理――ある現象を観察すると、
その観察行為自体が現象に影響を及ぼしてしまい、
完全に客観的な観察などありえない――と同じ事態が、
占いの場にも生じるような気がしているのである。
もしかすると占いという営みそのものが運命に揺さぶりをかけ、
運命に変化を生じさせる可能性があるのではないか、と」(P204)


わたしはこれをパラノイアめいた冗談ではなく、
ある種の真実を語っているのではないかと思う。
世界の裏側がどうなっていて、どうしてだれにスポットライトが浴びせられ、
どういうわけである人がある日に不幸のどん底に落とされるのかはわからない。
これに対処するには占いやお祓い、山伏、仏典も悪くはないのではないかと。
わたしも今日は勝負どころと思う朝には法華経やら観音経、般若心経を読誦する。
こんな非科学的なことをしているものが、
占いにすがった精神科医をバカにできるはずがなかろう。

とはいえ、苦悩への現実的な対策は占い、お祓い、仏教もいいが、
結局のところ自信を持って「時を待つ」しかないのだろう。
精神科医の春日先生も臨床経験上それはよくわかっているのである。
わかっていても自分では実行できないという因果な状況もわかっているのが、
頭脳明晰な春日武彦医師の悲劇と言えなくもない。
以下は受賞歴多数の心理療法家、河合隼雄の主張とおなじであろう。

「長年精神科医として仕事をしてきて知ったことのひとつに、
自信や確信の効用といったものがある。
同じアプローチをしても、自信を持ってそれを行うか否かで結果はまるで違う。
ただしそれは「必ず成功する」といった確信ではない。
すぐに望んだ結果は出なくてもそれは必ず将来への布石になる、という確信である。
遠からぬ未来に成功するかもしれないし、
もしかすると状況が変わってもっと別な結果を迎えるかもしれないが
いずれにせよ現状維持よりはマシになるだろうという確信である。
いや、むしろ「状況が変わって、もっと別な結果を迎える」ことを漠然と想定して
それがどんな形で実現するかを楽しみに待てるだけの心の余裕、
と言い換えても良いかもしれない」(P114)


この自信や確信、心の余裕が持てないから、
人は孤独感、不安感、不全感に押しつぶされないように
精神科医、カウンセラー、占い師、お祓い、宗教、自己啓発セミナーに
「救い」を求めるのであろう。「単純労働」もときには「救い」になる。
春日武彦医師には庶民コンプレックスのようなものがあるようだ。

「私小説を書きたい意向が若い頃からあり、
しかし自分には小説の材料となるような奥行きを持った体験などなかった。
マクドナルドで接客をするとか、工場でラインに立ってみるとか、
ティッシュを配るとか、運送会社で荷物の積み下ろしをするとか、
そういったアルバイト経験すらない。
主観的には決して気楽ではなかったものの
客観的には「ぬるい」人生しか送ってきていない。
家庭が健全であったとはまったく考えていないが、
崩壊家庭とか修羅場であったわけではない。
借金なんてしたことがないし、不治の病に苦しんだこともない。
人間関係のトラブルだってせいぜい小競り合いのレベルに過ぎない。
語るに足る人生なんか(幸か不幸か)送ってこなかった」(P26)


春日先生に提案したいのは、いっしょにスポット派遣をしませんか?
世の中にはシールを貼るだけとか、ものを数えるだけという底辺仕事があるんだ。
そういうのは派遣でまかなわれていることが多く1日だけの就業も可能である。
派遣は高齢者が多く65歳なんてめずらしくもなく、74歳までいると先日耳にした。
しかし、はじめて派遣を経験するのが不安というのも理解できる。
わたしがご同行いたしましょう。
いまの派遣会社にいい案件がないか聞いてもいいし(そこは高齢者がいっぱい)、
派遣会社なんて腐るほどあるので、
派遣登録からいっしょに行くのも経験として悪くないでしょう?
完全にお金目当てではないから、時給900円でも950円でもいいじゃないですか。
ああいう派遣で単純作業をしている人はおよそ精神科とは縁がない人たちだから、
春日先生の「詩的発見」につながることも少なくない気がする。
ひとりで行くのは怖いでしょうが、わたしがいっしょだったら大丈夫。
次作は「鬱屈精神科医、派遣をやってみる」なんていかがでしょうか?
おもしろいと思うけれどなあ(九割はパラノイアめいた冗談)。
どうしてこんな一見すると馴れ馴れしいとも思われかねない記事を書くのかというと、
じつはこの本は8月半ばに春日先生からプレゼントされているのである。
サインまで入れてもらっちゃったよ、あはっ。
人からいただいた本の感想を書くのは、
素人の手料理の感想を口にするのと似た難しさがある。
もしよろしければお目についたときでも、この感想を100点満点で採点してください。
人生にも他人にも期待しないよう心がけているので無視でもぜんぜんOKです。
最後に春日先生のシャウト(叫び)をファンのわたしも真似ておく。

☆「ああ、オレをおだててくれ、褒めてくれ、肯定の眼差(まなざ)しを向けてくれ」

「家屋と妄想の精神病理」(春日武彦/河出書房新社)

→優秀な人気精神科医によるわかりやすく、かつ卓越した妄想論である。
精神病の診断基準のひとつは非現実的な妄想の有無といってよい。
著者は、屋根裏にだれかがいるという頻出する妄想パターンへの考察から論を進める。
著者ははっきりと書いてこそいないが、
医療者として妄想を取ったほうがいいのか(そもそも簡単に取れるものではないが)
という壁に何度もぶつかりながら本書を書いたことがうかがえる。
屋根裏にだれかがいるという妄想を持つのは、孤独な老女が多いらしい。
患者は迷惑すると同時に屋根裏の住人にどこか親しみを感じている気配さえある。
これは孤独で単調な生活を支える「生きるための知恵」ともいえるのではないかと思う。
それほど近所迷惑を起こさないものならば、
妄想はそのままにしておいてもいいのではないかと春日医師はいう。

「生活すべての面で支離滅裂になってしまうのならともかく、
低空飛行なりに生活を存続させつつ、
奇天烈な妄想を実生活に取り込んで充実した生活を送ろうとするその精神の働きに、
わたしは異常とか逸脱といった価値判断を越えた人間の「したたかさ」を
感じて驚嘆せずにはいられなかったのである」(P62)


たとえば還暦近い派遣労働者の男性が20代の婚約者がいるという。
これは現実的に考えたら、なかなか事実らしくはなく、
妄想といった範疇に入るのではないかと思うのがふつうである。
そのうえ今年になってから一度も逢っていないということを聞けばよけいだ、
しかし、それが妄想でもいいではないかという考え方もできるわけだ。
孤独な生活の慰めとして50代後半の独身男がそういう妄想を持っていてもいい。
むしろ、なんにもないよりは、
そういう「詩のようなもの」があったほうが生きる味わいになる。
これがわたしの悪いところなのだが本当のことを知りたくなってしまう。
どこかそういう嘘みたいなことが本当であってほしいという思いがある。
実際、嘘みたいな本当ってだいぶ見聞きしているし、
そういう妄想めいたものは味気ない生活のうるおいとなる。
で、男性に彼女の存在をしつこく問いただしてしまったのだが、メールが来なくなった。
むかしからの友人に相談したら、そういうことは聞いちゃダメなの、と社会常識を教わった。
友人は婚約者の話を妄想だと決めつけていたようだったが、
わたしはいまでも真相はわからないと思っている。
あるいは婚約者は存在したのではないかと。

「生きるための知恵」が人間にとって必要なことはたしかである。
仕事で自分は必要とされているというのは、なかば妄想なのだが、
それを妄想と決めつけてしまったら本当になんにもなくなってしまう。
「家族愛」もおそらく妄想だろうが、
それを生きがいに多くの人が生きているという現実がある以上、
「家族愛」のようなものを妄想と断じてしまったら、それは現実を正しくとらえていない。
「一億玉砕火の玉だ」のようなものが妄想ではなく現実であった時代もあるわけだ。
なにをもって現実と妄想を区別するかはそこまで容易ではないのかもしれない。
たとえば、いまはみんな百歳まで生きるようなことを言っているけれど、
あれは妄想だと思う。ちかぢか東京大地震が起き「ない」というのも、
そうであってほしいとみなが願う妄想のたぐいだと個人的には思う。
かといって、新興宗教団体の顕正会が主張している、
「日本滅亡が近い」というあれはどこか妄想的に聞こえてしまう。
だが、顕正会の信者さんはそれを本気で信じているわけだから、
あながち妄想ともいいきれないところもあるのが問題を難しくしている。

精神科医の春日武彦さんが本書でテーマにしているのが
氏の孤独な患者にひんぱんに見られる「屋根裏の窃視者(覗き屋)」という妄想である。
しかし、これは表現を変えれば「同行二人」ともいえるわけでしょう?
四国でお遍路さんは「同行二人」と書かれた笠やら白衣を着て巡礼する。
これは自分はひとりではなく弘法大師(空海)といっしょであるという意味。
孤独に苦しむよりも、それがたとえ妄想でも「同行二人」と思えたら楽じゃないですか?
人のことばかり話すのもあれなので自分のことを書くと、
わたしもまた大きなもの(超越者)がいるという妄想をいだいている。
守られているといったら選民的で、いけすかないやつに思われるかもしれないが、
まあ大丈夫という大きなものへの信頼めいたものをかすかに持っている。
わたしのはプラスに出ているわけでしょう?
これがマイナスに出たら集団ストーカーや監視されているという被害妄想になってしまう。
このへんは本当に紙一重だと思う。
被害妄想を見守られ妄想に変えるだけで
本人も周囲もだいぶ楽になるのだが、それが非常に難しい。
実際、ある種の宗教的超越(恍惚)体験と精神分裂病の妄想は似ているのである。
臨床体験豊富な専門医の見解をうかがおう。

「ところで狂気の中核とされている精神分裂病では、
やはり被害的な色彩の訴えが妄想の現像をなしている。
自分は世界を揺るがせるような大発明をしたとか、
実は天皇の隠し子であるとか、
宇宙の秘密を解き明かす方程式を発見したなどといった誇大妄想も珍しくはないが、
これはむしろ被害妄想から
二次的に導き出されたモチーフと考えたほうが適切なようである。
すなわち、私ガコンナニ酷イ目ニ遭ッタリ尾行サレタリ盗聴サレタリスルノハ、
ツマリ私ガ偉大ダカラデアリ高貴デアルカラナノダ、
といった論理に裏打ちされて作り出された物語だということである。
分裂病患者の被害妄想は、他の疾患による被害妄想と大きく異なるところがある。
下世話で世俗的なトーンはそのまま残しつつも、
超越的な存在が「木に竹を継いだように」登場することである。
超越的存在とはすなわち、
強大な力や影響力を持つらしいが正体のはっきりしないものを指し、
それはCIAだとかスパイ・ネットワーク、秘密警察、暴力団、
過激なカルト集団による地下組織、フリーメーソン、謎の政治結社等々である。
陰謀史観にはお馴染みの「闇の組織」であり、
まことにキッチュかつ便利至極な説明装置でもある」(P133)


春日さんは狡猾にも(編集者にとめられたのか?)診療室で何度も聞いたであろう、
あの団体のことを書いていないなあ。あまりにも精神病と近似しているあの団体だ。
みなさまはもうお気づきでしょうが、そう、それは創価学会である。
精神病患者の妄想のなかに創価学会が出てくる比率は異常に高いのではないか?
根っこの日蓮大聖人その人が危なっかしい。
日蓮大聖人は疑いもなく被害妄想や迫害妄想を持っていたでしょう。
そのうえ世界を揺るがす南無妙法蓮華経という大発明をしてしまった。
一休のように「天皇の隠し子」であるという妄想まではさすがに持っていなかったが、
日蓮大聖人の法華経的宇宙観(一念三千とかそういうの)は、
分裂病患者のいう「宇宙の秘密を解き明かす方程式」に極めて近い。
創価学会は実際に暴力団とのつながりがあることを暴露されているし、
尾行(集団ストーカー)や盗聴のプロ集団でもある(これは事実だと思う)。
創価学会と関係してしまうと、なにが現実でなにが妄想かわからなくなるのである。
わたしは創価学会のそういうキッチュで色彩豊かなところが好きで(三色旗!)、
もう長らくファンであると同時に公明党支持者でもある(政策は知らん)。

仏教でいう一念三千は、一念のなかに三千世界が織り込められているという考え方だ
ものすごくチャチにわかりやすく説明したら、一瞬は永遠だ、みたいな感じさ。
そこからうまくいくとブッダや観音さま、阿弥陀仏に見守られているという安心感が生まれ、
失敗すると巨大組織に監視されているだの、フリーメーソンがどうのの話になってしまう。
春日さんは精神科医だけあって、悪いほうにいっちゃった場合をうまく描写する。

「わたしが精神科の外来で出会う妄想患者たちの多くは、
僅かな気配や微細な変化、曖昧な「ほのめかし」や不明瞭な「当てつけ」、
相似や近似ないしは空似(そらに)、偶発的な一致や暗合といったものから、
たちまちのうちに侵入者やスパイ、
陰謀を企む一味や黒幕といったものの存在を直観的に確信してしまう。
あれよこれよという間に、心の奥底に埋め込まれた「物語の胚珠」は
発芽し、葉を繁らせ、陳腐な実を結ぶ。
あまりにも一直線に、疑惑は「断固たる事実」へ昇りつめる。
ためらいがない」(P120)


小さなひとつひとつの偶然に過剰な意味を与えて、
被害的な物語をつくってしまうと、それは精神病の妄想になってしまう。
偶然は偶然そのままにしておけばいいのである。
偶然を偶然のまま通過させるのは精神的には健康的だが味気ないともいいうる。
しかし、華厳経の「一即多・多即一」にしたがうならば、
小さな塵(ちり)ひとつのなかにも仏さまどころか全宇宙が宿っているのである。
これもいちいちシンクロニシティだのなんだのと考え始めたらクルクルパーへ一直線だが。
精神的に健康でいたいならば、偶然は笑い飛ばせと春日医師は主張する。
余裕がないから妄想を持ってしまうのだ。

「あらゆる偶然性の中に
特定のベクトルを持った「理由」や「意思」を読み取ろうとするとき、
背後に暗躍する黒幕の姿が察知されてくるということになる。
不幸にも患者には、「たまたま」「」図らずも」「事実は小説より奇なり」
といったようなことを笑って受け流すだけの余裕がないのである」(P136)


他人に適切な指示をするのは容易だが、
かくいう精神科医もおのれの不安定な精神を取り扱いかねて
占い師にすがったりしているのだから、おもしろいといったら失礼で因業な話だ。
「死後の世界がある」も「死んだら無」もどちらも妄想といえば妄想。
現実はどこまでも「わからない」に尽きて、それぞれ信じるかどうかの世界である。
「信心すれば病気は治る」「努力すれば夢がかなう」も妄想といえば妄想だが、
こちらの場合は一定数以上の賛同が得られれば妄想ではなく現実となる。

「妄想は、病んだ精神によってもたらされる現実の変容を、
「奇妙な憶測、異様な解釈」を以て説明し確信することによって
生まれ出てくるのであった。
妄想は他人へ語っても同意を得られることがない。
むしろ周囲の賛同を得られず病者が孤立していくことによって、
いよいよ妄想は病者にとって確固たるものとなっていくといった、
まことに矛盾した性格を持ち合わせている」(P167)


創価学会の座談会や会合に行って、
信心してもろくなことがないなんていおうものなら、その人は精神病あつかいでは?
しかし、春日医師によると孤独や孤立ほど、
ゆがんだ妄想を発生させるに適した土壌はないという。
ならば創価学会は孤立者を援助するという面で、
わが国の精神健康に多大な貢献をしているともいえよう。
いまは職業作家なんて絶滅危惧種に近いと思うが(食えない!)、
大衆に支持される、
いわゆる売れる妄想(物語)を描ける人がわずかなあいだ人気作家としてもてはやされる。
ありきたりな妄想ではない、個性的でおもしろい妄想(物語)を、
味気ない、なんにもない日常を生きるわれわれは切望しているところがある。
おそらく狂えるのならばいっそのこと狂ってしまったほうが、
当人は昂揚した充溢した生命を生きることができるのであろう。
その場しのぎではあるものの、近所迷惑はなはだしきことこの上ないけれど。

「自己愛な人たち」(春日武彦/講談社現代新書)

→東大の和田さんにはかなわないだろうが、
いまもっとも人気のある精神科医ライターのひとりである春日武彦さんの本を読む。
自己愛はたしかに生きるうえで必要なんだけれど、
他人の自己愛ってめんどくさいよねえって話だと思う。
だれでもできる単純作業とかでもさ、妙なこだわりを持っている人っているんだ。
そんなのどっちだっていいじゃん、というところで自分のやり方にこだわる。
いるでしょ? 他人が置いたものを、
いちいち自分流に置きなおさないと気が済まないタイプって。あれうざいよねえ。
自己愛はプライベートで発揮してくれればいいのに(だれも読まないブログとかさ)、
だれでもできる単純作業に妙な自己愛を持ち出されるとたまったもんじゃない。
台車にラップを巻くとき、上から巻こうが下から巻こうがどっちだっていいじゃん。
それなのに、そういうちまちましたところにこだわり自己愛を表出するタイプがいるんだ。
しかし、自己愛はなければいけず、
自己愛があるから人は生きていけるし、他人を尊重することもできる。
まったく自己愛ってやつは――。

「自惚(うぬぼ)れとか自画自賛といった側面もあれば、
出しゃばりで目立ちたがりで称賛を求めてやまないといった側面もあるし、
世の中は自分が中心で他人の気持ちなんか
どうだって構わないといった勝手な側面もある。
そのいっぽう、自己肯定には自己愛が必要だし、
他人を思い遣る余裕だって結局は自己愛を基盤にしているのではないか。
自分を大切にできない人物は、あまり信用する気になれない」(P4)


精神科医の春日先生とわたしには共通点があって自分の写真が嫌いなのである。
自分の写真をパシャパシャ撮ってブログに載せる神経とか信じられない。
見方を変えれば、ああいうのは自己愛が比較的に弱いからできるのであって、
春日先生やわたしは自己愛が強すぎるから
写真にうつった自分を認められないのかもしれない。
芸術家以外は仕事であまり自己愛を出さないほうがいいと思うけれど、
どうなんだろう。どこの職場でも以下のようなタイプの上司はいるのかな。

「自己愛の強い人たちは「小競り合い」にのめり込むことが普通である。
鷹揚(おうよう)さや泰然(たいぜん)さとは正反対の傾向を備えている。
けちくさいライバル視、いじましい支配欲、
相手の欠点や弱点を見つけ出すことへの執念、
どこか論点のずれた自己正当化、他者を蔑(さげす)もうとする欲望の激しさ」(P105)


「そんなことも知らないの?」というのがなによりの喜びって人はいるよねえ。
人がミスをしたとき、歓喜で目が踊っているやつとかいるじゃん。
「あーあ、やっちゃった」と全身で小躍りしている不謹慎な上司とかいないかい?
本当はクルクル回転して喜びを表現したいんじゃないか、とか思ってしまうくらい。
そういう複数の自己愛の小競り合いが多発している職場っていやだよねえ。
まあ、どこもそんなものかもしれないけれど。いや、そうでもないんだろうな。
「おれ、優秀じゃん」とかちっぽけな勝利に大喜びする大人のリトル自己愛。
しかし、あんがい生きがいって、そういうところにあるのかもしれないなあ。
当方は大した生きがいもないし、生き生きしていない。これは「うつ」かしら。
びっくりされるかもしれないけれど、
人生で一度も精神科や心療内科を受診したことがない。
しかし、「やる気」が出ないし自滅願望はあるし、これは「うつ」かなあ。
たとえば「うつ」といったような言葉の問題性を精神科医の春日武彦は指摘する。

「言葉は、何らかの事象を後付けで表現するのが普通であるが、
おしなべて流行語や仲間内でのスラングは
似て非なる事象をも同じ言葉で単色に染め上げてしまう性質を持つ。
ニュアンスなど消し飛んでしまう。
そこが便利なところであり、困ったところでもある。
ただし世間から置き去りにされていないといった安心感は
もたらしてくれるだろう」(P150)


「絆(きずな)」とか、そうだよねえ。ニートとか引きこもりという言葉も、
多くの若者のさまざまなニュアンスを一挙に消し去ったことだろう。
貧困女子という言葉もそれぞれのさまざまな思いを単色で塗りつぶしたことだろう。
パワハラもそうだろうし、セクハラもそうに違いない。
けれど、ストーカーとか名前をつけないと被害者が困ってしまう現象もあるからなあ。
ある現象はそれ「そのまんま」でしかなく、いまそうであるようにそうなのだが、
それでは人は不安になるので名前を求めてしまうものなのかもしれない。
その専門家が春日武彦のような精神科医なのだろう。
お世話になってもいいけれど自己愛性人格障害とか言われると単純にむかつくし。

「私たちはなぜ狂わずにいるのか」(春日武彦/新潮OH!文庫)

→先日、精神科医の春日武彦の本の感想をブログに書いたら、
それが著者の目にとまりお気に召さなかったらしく、
先生のご友人とされる漫画家の自殺説を書いたせいもあるだろう。
春日先生から脅迫めいたコメントをいただいたものである。

・言霊があなたにろくでもない運命を呼び寄せると思うなあ



そうしたらそれが的中。その後、当方は自転車事故で鼻骨と肋骨を折る。
むかしは呪術家が精神科医もかねていたような気もするが、
春日先生の怨念パワー、呪術のちからに恐れをなしたものである。
春日先生の自己イメージはこうらしい。

・わたしは「不謹慎」などという言葉とは無縁の人間です



ところが、第二作の本書を読むと、
むかしから春日先生は不謹慎というそしりを受けているのである。
分裂病患者の妄想はパターンがあっておもしろくないという本音についてだ(P50)。
わたしは春日先生の不謹慎な発言がおもしろいのだが、
ご自分は不謹慎とは無縁の存在だという。
著名な精神科医の春日先生によると、うちのブログ記事は――。

・軽薄かつ侮辱同然の作品コメント



わたしという人間は――。

・もうちょっとマトモな人物かと思っていた
・あなたは予想以上に品性下劣だと思いますね。



これはわたしが否定してもどうしようもなく、
立場が上の医師国家資格までお持ちの春日武彦先生のご診断のほうが正しい。
反論するつもりもない。

本書もたいへんおもしろかったが、変なことを書くとまた侮辱だと怒られてしまう。
この本の主要なテーマは、人は人為的に狂うことはできるのか?
つまり、人は自分から狂うことができるか?
あるいは人をたとえば拷問などで苦しめることで狂わせることができるか?
これはすごいおもしろいテーマだと思う。
よく精神病(分裂病・躁うつ病)を発症した人は、あのせいで自分は狂ったという。
16年まえの今日、わたしの目のまえで飛び降り自殺をした母も
しきりに自分の病気の原因めいたものを口走っていたようだ。
病名は「非定型精神病/躁うつ病」くらいだったか。妄想もあった。
さて、母に言わせると自分が精神病になった原因は――。
最初は夫が悪いで、次は親も悪くなり、最後は子どもまで悪くなったようだ。
そうして最後は子どもの目のまえで見せつけるように飛び降り自殺をした。
わたしは一時期、気が狂う直前まで苦しんだ。
しかし、本書を読んで長年の誤解のようなものが解けた。
母が精神病になったとき対人要因(だれかが悪い)のようなものはとくになく、
脳器質異常とでもしか解釈できぬものだったのだろう。
わたしも気が狂うかと思ったが、もとから素因のないものは狂おうとしても狂えない。
せいぜい「マトモではない品性下劣」(春日武彦診断)どまりであった。

本書のサブタイトルをつけるのなら「オフィーリアの嘘」がいいのでは?
オフィーリアはハムレット王子の婚約者で、
父をあろうことか最愛の婚約者であるハムレットに殺され発狂する。
オフィーリアは最後は狂乱のすえ自殺する。
劇としては自然に鑑賞できるが、精神医学的にはあれは嘘なんだなあ。
苦しい環境に置かれたからといって人は発狂するものではない。
精神科医の春日先生に診断をお願いしたいのは、ハムレットのほうである。
オフィーリアは心神耗弱、ノイローゼ、精神錯乱くらいだろう。
ハムレットはあれは狂っているのかどうかである。
ハムレットは途中で狂ったふりをすると言って狂気を演じるが、
あれは精神病か、それとも正常なのか。
ハムレット劇は見ようによってはぜんぶハムレットの妄想とも解釈できるわけでしょう?
父親を叔父に殺されたという病的妄想。
途中、現在の王の懺悔(ざんげ)を聞いているが(盗み聞き)、
あれは幻聴かもしれないわけだから。
観客が聞いたのは集団ヒステリーというか、妄想に巻き込まれたというか。
ハムレットって狂いながら楽しそうだよねえ。
「犯人を突き止める正義の王子」なんて気取っちゃってさ。
少なくとも「淡々と生きる」よりは、
劇を起こしたほうが本人にはいい人生だったと言えるのではないか?
ハムレットのまわりは死屍累々(ししるいるい)だけれど。
あんがい死んだ人たちも退屈な人生を送るより、
パーッと桜のように散れておもしろかったんじゃないかなあ。
境界性人格障害とか美男美女が多くて、下半身もスーパーフリーなんでしょ?
それはいっぱい三流恋愛ドラマめいたものを繰り広げているってわけで、
本人や相手としたら「淡々と生きる」よりも生きがいがあるんじゃないかなあ。

「マトモではない品性下劣」な当方は若かりし春日先生に共感する。

「私は苛立っていたのである。
なぜ自分はこんな退屈な日常に甘んじていなければならないのか、
なぜ自分には狂気という選択肢がなかったのか、と。
私にとって狂気とは、世の中に蔓延する精神的な怠惰とか傲慢さ、
狭量、ステレオタイプな価値観といったものへの
アンチテーゼのような色彩を帯びていた。
それならば私は狂気と親和性が高い筈である。そう思った。
にもかかわらう、私はこうして月並みな生活を続けている。
私には狂気となる権利があるのではないか」(P4)


しかし、若き精神科医は狂えなかった。
長年の臨床体験でいまや精神病患者を上手に演じることさえできる。

「私が分裂病のふりをしようとしたら、
おそらくかなり上手に演じることが出来ると思う。
あんまり暴れたり騒いだりせずに、
ちょっとした仕種や言葉にヒントを織りまぜつつ、渋い演技をしてみせられると思う。
だが、全体の雰囲気とかトーンで、
恐らく担当医に疑惑を抱かせることにはなりそうである。
そうなると、あとは「治療は診断を兼ねる」といったプロセスに組み入れられるだろう。
病気でもないのに服薬などするのは私としても嫌だから、
その時点でギブアップということになろう」(P190)


「私たちはなぜ狂わずにいるのか」――答えはそもそも素因がないからなのか。
むかしはハムレットみたいに華々しく散りたかったけれども、
もうおっさんで分裂病発症年齢はとっくに超えている。
むかしは明らかにビョーキっぽい人から長文メールがよく来たけれど、
最近はぜんぜん。でも、まだ有名な精神科医の先生から
コメントをもらえるくらいだから大丈夫か(なにが?)。
春日先生にはシェイクスピア劇を精神科臨床的に分析した本を書いてほしい。
今回も「軽薄かつ侮辱同然の作品コメント」たいへん失礼しました。
もう人生逃げ切りモードにお入りになったでしょうが、
先生も言霊パワーにはくれぐれもご注意くださいませ。

「臨床の詩学」(春日武彦/医学書院)

→資格も人脈も財産も目に見えるものはなにもないが(配偶者も恩師も支援者もいない)、
唯一たくわえてきたのは言葉である。小金持ちならぬ、少量の言葉持ちだ。
よく読んできたなあ、よくだれも読んでくれないのに書いてきたなあ、と思う。言葉を。
大ファンである精神科医の春日武彦さんもご同意くださるはずだが結局、言葉なのだ思う。
春日武彦は山頭火を大嫌いと表明しているが、
わたしは山頭火の俳句が好きで、
むしろ山頭火よりも「偉い」ことになっている芭蕉の俳句のよさがわからない。
古典和歌集におさめられた貴族の歌も
まるでさらさらこちらのこころに響いてくるものがない。
詩もそうだ。難解平易を問わず、現代詩もよくわからない。
詩によって開眼したということがない。しかし、本は好きである。言葉が好きだ。
本書で言葉フェチ、言葉収集家の春日武彦が好きな詩を引用しているが、
わたしはその言語表現のよさがわからない。だが、言葉を好きになる理屈はわかる。
「私」とは言葉でできているのだと思う。「私」は錯綜(さくそう)する言葉のシステムだ。
その配線のこんがらがった言語システムであるところの自我、
つまり「私」が新たな言葉を取り入れることで
(あるいは旧知の言葉の価値を再認識することで)、「私」の「世界」は変わりうる。

朝日賞作家で小林秀雄賞作家の山田太一氏の、
映像(動画)よりも脚本(シナリオ=言葉)のほうがはるかに好きなのもこのためか。
山田太一ドラマのセリフ(言葉)から立ち上がってくるリアリティは
パネエ(半端ない)のである。山田太一ドラマは庶民の詩劇だとわたしは思っている。
詩とはなにか? わたしが大好きな言葉提供元の春日武彦はいう。
AだとされているものをAだといわないでBというのが詩ではないか。
AだとされているものをAだと思わないでBと思うのが詩ではないか。
AもBも言葉である。詩は現実Aの解釈例である言葉Bだ。

「いずれにせよ、どちらかといえば「どうでもいい」「必要不可欠ではない」
「ものの弾み」「たまたま発せられた」「本人でさえ十分に意識していない」言葉が、
ある種のリアリティをもたらすといったことがあるだろう」(P34)


それが詩だと精神科医の春日武彦はいっているのである。
どこまでもつまらない「終わりなき日常」(宮台真司/首都大学教授)を
「ありふれた奇跡」と詩的解釈したのが山田太一(朝日賞/小林秀雄賞)である。
宮台真司も山田太一も、両者ともに、両先生ともに根は詩人だと思う。
いままでありきたりなAと解釈されていたものを、
Bという言葉で新しく表現することが詩的行為だ。
Bという詩(言語表現)を読んでCという連想を勝手にもして救われるのが人間だ。
Bという言葉を誤読してCではないかと詩的に思念するから人は生きられる。
そもそも言葉は正しく伝わらないのではないか。
Bという言葉は決してBとしてBそのままに伝わることはあるまい。
なぜなら相手には相手の言語システムがあるため、
自分にとってのBは相手にとってのBではないからである。
具体例をあげれば、老人にならないと老人の気持ち(発する言葉)はわからない。
結婚しないと夫婦生活という言葉の意味がわからない。
しかし、その「わからない」「伝わらない」ところが「救い」で、
現実Aを言葉Bと表現したものに接して、
さらに異なるCなる妄念を連想(誤読)することが人間が生きている証拠の、
みなさまも経験したことがおありだろう、
あの生き生きとした生命の味わいの本質であるのだろう。

万葉集と古今集、新古今集には学者によると違いがあるそうだが、
わたしは万葉集も古今集も新古今集もまるで意味がわからない。
わかりやすくいえば、まったく感動しない(こころ動かされない)。
源氏物語は嫌いだが、平家物語の言葉はせつせつとこちらを揺り動かす。
言葉はジャンプする。その「言葉のジャンプ」こそが生きている救いではないかしら。
受賞経験はひとつもなく、持つのはただ医師国家資格だけの春日武彦は、
臨床体験(患者の記憶)や読書経験(好きな詩)から
「言葉のジャンプ(=連想=誤読?)」をしてこの名著を書き上げた。
そこからさらに「言葉のジャンプ」をしてわたしがいまこの記事を書いているわけである。
現実Aを解釈した言語表現B(=詩)を読んで、
当人はさらに新たなその人なりのCを思念(言語化/創価/誤読)することができる。
そこが精神の救いではないかと言葉フェチの春日武彦は指摘する。
われわれはみな現実Aを生きている。現実Aは生きづらいことこのうえない。
その生きづらさの正体は、われわれがしているところの解釈Bだ。
ところが、そのクソみたいな現実Aを詩的Bと解釈する詩人がいたとする。
そのB(言葉)と接することで、
言葉Cを連想(妄想/誤読)することで人は救われうるのではないか。
もしやビジネス書も自己啓発書も詩のひとつではないか。
現実の多様な解釈例のひとつが詩であるならば、
詩をこちらの都合でどのように解釈してもよろしい。
ある言語表現=詩のBがあるとする。読んだとする。

「この詩は、たんに思い過ごし、
早とちりについて綴(つづ)ったものだと解説されたら、まあ同意するしかない。
だが、この作品に出合ったときのわたしは、
もっと豊かなものを感じ取っていたのである。
すなわち、とっさの連想によって世界はいくらでも容貌を変化させる。
危うげでただならぬ世界として迫ってくることもあれば、
のどかで平和な世界としての顔を見せることもある。
そしてとっさの連想が自分自身の心のありように左右されるとしたら、
自分の暮らしている世界は、本当はすべてあらかじめ
自分の心の中に仕舞い込まれているということにならないか。
いささか大仰に言うなら、自分と世界の関係性について
この詩は語っているように思えたのであった」(P42)


これは抹香くさい仏教でいうところの唯心論や唯識説に極めて近い。
ところが、摩訶不思議というべきか、当然というべきか。
著書多数のエリート成功者のお医者さん、春日武彦先生の感動した詩を
わたしが読んだところでなんにもおもしろくないし「ふーん」である。
そんなもんなんだなあ、現実は。
わたしがいま書いている文章はわたしにとっては深い意味があるけれど、
環境が異なるみなさまにはどうでもいいことではないでしょうか?
わたしとしては春日武彦氏から啓発されていま書いている、
わたしのこの文章からみなさまがさらに連想(誤読)して、
さらにおもしろい人生を送っていただけたらという偽善的な期待もなくはない。
詩(言葉)を読んで感動(言語化/創価)するというのはこういうことである。
わたしは春日武彦の好きな詩にまったくこころ揺さぶられなかったが、
以下はある言葉にわたしという言語システムが揺さぶられる過程を描写した名文である。
著者は小長谷清美(だれそれ?)という詩人の書いた
「ピクニック」と題された詩の一節にほろほろしたという。

「  みんな遠くに行ってしまった ばらばらと
   たんぽぽを摘む人 動物ビスケット囓(かじ)る人 黒ビールを抱えて眠る人

わたしはなぜかこの一節に、以前から妙に心を動かされるのである。
オレはピクニックへ行っても(きっと)たんぽぽは摘まないけれど、
黒ビールを抱えて原っぱで眠ることはあるかもしれないな。
だけど、いい年をして動物ビスケットなんかを囓(かじ)っている姿が
いちばん自分らしいな、などと思いつつなぜか感傷的な気分になってくるのである。
いずれにせよ、そんな調子で想像力[連想/誤読]をつなぎ合わせているうちに、
世界の奥行きというか豊かさが3Dのように立ち上がってくる。
もちろん錯覚[妄想]だけど。
いま引用した文章や俳句や詩は、それだけでは呪文のように《救いの言葉》
として働きかけてくるほどの力は発揮しない。
連想というべきか記憶というべきかイマジネーションというべきか、
とにかくそうしたものが与(あずか)って言葉が統合され、
するとそれを契機となって
わたしはどうにか気力を取り戻すことになるわけである。
ではわたしの前に座っている患者たちにも、その事実を助言してあげたらどうなのか。
残念なことに、その助言を参考にできるだけの心の余裕がないからこそ、
彼らはわたしの前に登場しているのであった。
彼らには、もっと即効性のある言葉が必要だというのに、
当方は呑気(のんき)にも文学が人が救えるなどと思っているのであった」(P153)


自分が感動した詩を人に教えてもほとんど意味はないけれど、
本人がこれは自分の言葉だと信じきれるような詩と
邂逅(かいこう/出会う)することは奇跡的体験だ。
めったにないことだがそれでも即効性のある言葉もあるのである。
本書で春日武彦は守秘義務などものともせず、おのれの臨床体験を公開している。
二十歳そこそこで統合失調症(精神分裂病)になった男性を診たことがある。
青年は発症時、意味不明のひとりごとをつぶやいていた。
どういうわけか、めったにないことだが、分裂病の青年は奇跡的な復調をする。
寛解(かんかい/治癒?)といってもいいレベルだ。
この症例を紹介したら薬品会社が大喜びするくらいのレアなケースだ。
なにが功を奏したかはわからない。
春日武彦医師は分裂病の青年に質問する。あのときなにをつぶやいていたのか?
答えはブッシャリ。さらに問うとやはり仏舎利(仏の骨)のブッシャリらしい。
かといって、本人は仏教とは無縁だし、
ことさら仏教を意識してブッシャリとつぶやいていたわけではない。
しいていうならブッシャリという言葉の音韻が、まるで鈴が鳴るようで安心したという。

ここまで、だ。春日医師はここまで。いいかえれば、ここまではいける。
矛盾した精神(言葉)の深み(浅薄さ)と危うさ(凡庸性)を
知る優秀な精神科医はこれ以上は患者に問わない(そこが偉い)。
どちらかといえば医師より患者のほうに近いわたしが飛躍すれば、
混乱状態である精神病の救いになった彼の言葉ブッシャリは、
人によっては南無妙法蓮華や南無阿弥陀といいかえられうるような気がしている。
南無阿弥陀仏はナムアミダで「ア」の音が基調だから楽である。
人によっては南無妙法蓮華経の「ウ」音(スネ夫の口)が合っているのだろう。
南無妙法蓮華経は唱えると接吻(チュウ/キス)をするときの口になる。

言葉が好きだ。精神科医の春日武彦の言葉が好きだ。
彼からメールをもらったブロガーがいたら天にも昇る気がしたことだろう。
わたしはそういう人をひとり知っている。
みなさん、もっと言葉を愛しましょう。
現実(事象)Aは言葉(解釈)Bにも言葉(解釈)Cにもなりうる。
現実はAではなくBやCかもしれないことを教えてくれるのが自分や他人の言葉だ。
苦しみが言葉ならば、救いも言葉だろう。
言葉っていいよなあ。言葉をどう愛するかを以下で春日先生は教えてくださる。
春日武彦は柿沼徹(だれそれ?)の詩を読んで妄想する。
精神科医は詩人の言葉を誤読(曲解)する。それが生きる味わいではないかと。

「  私たちが木々を眺めるのは
   木々が好きだからではなく
   眺めることが好きだからだ

   ぜんぶ地表の下に隠したまま
   木々は花を咲かせる
   私たちの視野のなかで
   おどけるために

なるほどねえ、と思う。身につまされる。
わたしは基本的に人間嫌いで、よほど気が合わねばつきあいたくない。
協調性は乏しいし、友人も少ない。
友人なんてたくさんいたらメインテナンスが面倒だから、少なくて十分なのである。
電話で喋るのもメールを交わすのも億劫(おっくう)だから、
携帯電話すら持ち歩かない。
人間と一緒にいるよりは、不愛想な猫といるほうが心が休まる。
だが、プライベートに踏み込まれない範囲では、他人を観察するのは好きである。
人間嫌いであっても、あえて他人が不幸になればいいと思ってもいない。
他人に何も期待していないから、彼らの心の中に押し隠された「おぞましいもの」
と向き合うのも、むしろ醍醐味である。
ゆえに、心を病んだ人を診察し、援助するのは苦痛ではない。
診察室や病室でしか関わりを持たないで済むのだから、気が楽である。
だからさきほどの詩において、
木々を患者と置き換え、わたしたちを「わたし」と置き換えれば、
それがそのまま当方の立場ということになる。
「木々が好きだからではなく/眺めることが好きだから」と」(P135)


人間どもを好きになれなくても、人間観察を趣味にすることはできる。
今日は休みで朝から酒をのみながら、
だらだらこんなだれにも読まれない駄文を無報酬で書きあぐんでいた。
明日は仕事だ。「ダメじゃないですか!」が口癖の口うるさい上司がいるんだ。
その「ダメ」の基準がわからないので怖い。
どうやら自分が思ったように他人が行動しないと相手を「ダメ」と認識するらしい。
正解はないのである。
上司がそのときその場で「ダメ」と思ったことは厳しく叱責される。
他人(上司)の考えていることなんてわかるはずはないのに上司はそうは思わない。
自分の考えていることが正しく、
がために正義の自分が思ったように行動しない相手は「ダメ」でイライラするようだ。
最近の上司はいつも怒っているように見えるが、
きっと上司から見たわたしもろくなものではないのだろう。
わたしは上司のほうがあらゆる面でわたしなんかより偉いことをよく知っているもの。
わたしがなにをしても、なにをしなくても明日もまた上司に怒られるだろう。
自分が変わらないように他人も変わらない。
そんなものだし、こんなものだ。自分も他人も、人間というものは。
――そんなに自分は偉い存在ではないことを知っているので春日武彦は信頼できる。
精神科には一生かかりたくないけれど。

「誰かに立腹している患者へ向かって、ときおりアドバイスをすることがある。
「相手を自分と同じと思うから、
オレだったらあんなことはしないのにと呆(あき)れたり怒ったりすることになるんですよ。
あなたと違う考えや価値観の持ち主だっているんだから、
いちいち反応していたら疲れちゃいますよ」と。
それなのにわたしはあの[患者]三人を(人間として尊重するのとは違う意味で)
自分と同じと考え、それどころか
自分自身の不快な要素を見つけ出して苛立っていた。まさに自分を投影していた。
ゆえに非はすべて自分にあるかというと、必ずしもそうとは思わない。
露出狂が露出するものは我々自身も備えているもの(性器や裸体)であるが、
だからといって露出狂に問題があるといった話にはなるまい」(P276)


まったくまったく精神の露出狂たる稀有な詩的精神科医の言葉には救われている。
おかげで一見するとヒステリックな上司も、
自分を思ってくれている人生の指導者と誤解(詩的解釈)できないこともない。
こうして明日も自分をごまかしながら、
淡々と妥協を繰り返し日々の生活をやり過ごすしかないのだろう。
それが生きるということだ。精神的に健康に生きるということ――を本書から学ぶ。
そのためには妄想(詩的解釈/誤解)が必要だ。
わたしは上司を嫌いではなく、あちらがこちらを嫌いでもないことはわかるのだが、
この関係はうまく言葉にできないなあ。
なんて書いていたら明日クビになったりするのかも。
仕事の人間関係ほど人の心を病ますものはないのだろう。
同時に救いをもたらすのも、おそらく同地にあろう。めんどくせえなあ。
いつかクルクルパーになって
精神病院にイエローピーポーで入って生活保護申請をできたら。
いい本だった。本当に救われるいい本でした。

「「いかがわしさ」の精神療法」(春日武彦/日本評論社)

→精神分裂病を統合失調症と改名するのは、
埼玉市をさいたま市と表記するようでなんだかなあ、
とぼやく精神科医のわかりやすい医学エッセイを楽しみながら読む。
いまありがたくも働かせていただいている会社は従業員全員に道徳教本を配布している。
それを読んだうえで誓約書を提出するというのが勤務者のルールだ。
ちょうどその時期にこの名著を読んでいたので、
影響を受けておかしな誓約書を書いてしまった。
春日武彦は本書で「大人になるということ」を以下のように定義している。
1.相手の立場になり、自分を客観視すること。他人に迷惑をかけない。
2.矛盾や曖昧(あいまい)さに耐える。
3、現実的に妥協する。要するにおのれの分際をわきまえ、相手の顔を立てる。
やっぱり大きな会社の道徳教本には「きれいごと」ばかり書いてあるわけよ。
たしかに建前はその通りなんだろうけれど、本音はそれではやっていけんでしょという。
建前をあたかも本音のようにさらりと言うことが「大人になるということ」。

おのれのガキっぷりがいやで会社に提出する誓約書には、
春日武彦の文章を多少マイルドにしたものを書いた。
1.相手の立場になる。
2.矛盾に耐える。
3.現実的に妥協する。
そうしたら上の人から「これはちょっと勘弁して」と苦笑しながら言われた。
「これは親会社の人も見るから、ちょっとこれは……」
1の「相手の立場になる」はいいけれど、2と3が大人社会ではまずいらしい。
やべっ、やっちまったよ、と恥ずかしくなる。
「矛盾に耐える」と「現実的に妥協する」は本音でも、
建前では社会上その言葉は通用しないのか。
即座に「現実的に妥協する」ことに決め、その場で修正テープでぜんぶを消した。
そのうえから目標を「早く仕事を覚えること」と書き直してOKをいただいた。
精神科医の春日武彦がよく書いているけれど、
人間の精神のアキレス腱(急所)は「こだわり、プライド、被害者意識」。
よけいなこだわりやプライドがどれだけうざいかはいまの職場で学んだことでもある。
自分から率先してこだわりやプライドを捨ててみたつもりだ。

勘違いしている人も大勢いるだろうが、
基本的に精神科医の仕事はカウンセリングではなく病名診断と投薬治療である。
日本の保険報酬制度だと初診以外の患者に30分も時間を取れない。
3分診療が当たり前で、だからこそ、
ときたま現われる面倒くさい患者に時間を取ることができる。
春日医師は患者をまえにしてどのようなことを本音では考えているか。
たとえば、20歳を過ぎたばかりくらいのいかにもメンヘラ―の女性。
ありきたりな家族との確執をかかえていて、
それも家族が一方的に問題があるというわけではなく、
本人の性格のゆがみもありそうだ。
精神科医の春日武彦は、こういう女性を診察するとき、
どのようなことを心中で思っているのか。

「どこまで介入すべきなのか。
どこまで彼女の人生そのものへかかわるべきなのか、大いに迷わされた。
というよりも、面倒くさいなあというのが本音であった。
彼女の語る状況からは、「そりゃ、当面は我慢しているしかないでしょ」
という感想しか出てこないのだが、そのことを伝えて終了というのも気が引ける。
わたしなりの意見をオブラートに包んでやんわりと伝え、
あとは本人と相談して安定剤を処方した」(P38)


赤の他人の悩み(愚痴)に対する職業人の本音の感想は、
「面倒くさいなあ」と「そりゃ、当面は我慢しているしかないでしょ」なのかもしれない。
仕事でやっかいごとが生じたとする。
違うセクションの人が不満いっぱいで従来のやり方を変えようと言いだしてきた。
「面倒くさいなあ」
「そりゃ、当面は我慢しているしかないでしょ」
本音はそうだとしても社会人はそういうことを言ってはならない。
だから親身になって相手の相談を聞いているふりをして、
相手の立場に立って改善する旨を伝え、しかしそうしたらほかが困るのだが、
そういう矛盾もぐっとこらえ、現実的な着地点や折り合いを求めるしかない。
ありとあらゆる悩み(不満、愚痴)について、
もしかしたら改善策は存在しないかもしれなく、
できることは「当面は我慢する」しかないというのが現実や実際なのではないか。
どうしようもないものはどうしようもないのだから「当面は我慢する」しかない。
「それを言っちゃあ、おしめえ」だから、みんな春日武彦のように言わないだけで。
「当面は我慢する」の意味は膠着(こうちゃく)状態であり、現状維持である。
わたしが大好きな現実的な精神科医は言う。
「当面は我慢する」しかないのなら「当面は我慢する」しかないのではないか。

「なるほど、膠着状態が持続すれば悲観的にもなってこよう。
焦(あせ)りも出てこよう。
だが目覚ましい改善は見られなくとも、
現状維持であることは果たして敗北なのだろうか。
悪くならない、再燃しないという事実を「当たり前」と考えるか
「それなりに安定している」と捉えるかで、
評価は大きく違ってくるのではないだろうか」(P141)


春日武彦医師は、
精神科領域の疾病は完全に治ることがないと思っているのではないか。
春日医師はこと精神分裂病(統合失調症)にかぎっては完全治癒はないという、
患者や家族を絶望に落としかねない身もふたもない本音をあまたの著書に書いている。
しかし、希望がないわけではない。
精神科にかかるしかないような疾病にも先々の希望がまったくないわけではない。
患者や家族がうっとり聞きほれるような建前の「きれいごと」ではないが、
こういう本音の希望を書けるのもまた春日先生の偉いところである。
本音を言ったら、このくらいしか精神科医の希望はないのかもしれない。
春日さんのような精神科医の先生がたが診てくださっているから、
患者さんたちは現状維持でたもっていられるのではないか。

「現状維持をもっと評価せよと家族に言っても、
でも一生このままで終わってしまっては困ると反論されるかもしれない。
その反論はもっともである。昔、ある地方の病院で先輩の[精神科]医師が、
「患者が齢を取ってくると、妙にいい感じにまとまってくることがあるんですよ。
それを期待しているだけですね」と、
諦(あきら)めきっているのか悟りに近い境地に達しているのか
わからないようなことを語っていたことを思い出す。
それをそのまま家族に伝えても、
おそらく何と頼りのない医師だろうと思われるだけであろうが」(P142)


パーソナリティ障害という精神科でつけられる病名がある。
むかしは人格障害と言っていたが、人格に障害があるって差別的すぎねえか。
というわけで埼玉市をさいたま市にするように、
人格障害はパーソナリティ障害になったわけだが、
どういう病気かというと精神病(統合失調症、双極性障害)でもないのに
「変な人」「迷惑な人」「面倒くさい人」の総称といったところだろうか?
こういう教科書的には多少逸脱した、
しかし「本当のこと」を教わったのは精神科医の春日武彦先生の本からである。
分裂病も躁うつ病も人格障害も基本的に完全には治らないと思っていたほうがいい。
医師の国家資格を持たない心理療法家の河合隼雄も、
ボーダー(=人格障害)は10年、15年かかると言っている。
ボーダーとは境界の意味で、ふつうの人と狂人の境界にいるというくらいの意味。
B級精神科医の春日武彦のみならず、
日本文化の最高権威者のひとりである河合隼雄もまた
人格障害はアレだと言っているわけである。面倒くさいなあ、に近いことを。
しかし、「患者が齢を取ってくると、妙にいい感じにまとまってくることがある」――。
精神科医とカウンセラーは商売敵だが、あんがい両者の希望はおなじなのかもしれない。
もしかしたら精神病よりやっかいなのがパーソナリティ障害なのだろう。
本人もたぶんにその気(け)がある春日医師は、
パーソナリティ障害のゴールについて皮肉だが的確な意見を述べる。

「パーソナリティ障害者のゴールは、当人としては
「自分らしさを存分に発揮して輝き、周囲からも温かく見守られたい」
といったものが多かろうが、
これは底なし穴に延々と土を放り込んで埋めようとする作業に近い。
現実を弁(わきま)えるという意味で
プライドや他者に対する期待や被害感や自己嫌悪に一定の見切りをつけ、
淡々と生きていく方向にゴールを定めたいのだけれど
それが困難なことは言を俟(ま)たない」(P32)


わたしは自分のことをあるいは春日医師とおなじパーソナリティ障害ではないかと
疑いながら、うんざりげんなりと生きてきたが、
いまの時点で考えてみるとたしかに加齢とともにわずかながらではあるにせよ
「妙にいい感じにまとまって」きたような自覚がまったくないわけでもない。
「他者に対する期待」が少しずつなくなってきたような気もして、
そうするとなんて周囲の人が自分に親切なのだろうと不思議になった。
「被害感」は最近は弱くなって、むしろ「加害感」が芽生えてきたくらいだが、
この自責の念はうつ病の発端とも言われているから注意しなくてはなるまい。
「自己嫌悪」は相変わらず強いからパーソナリティ障害は治らない。
自分では尊大なプライドを持っているつもりだったが、
職場でやたら「もっと自信を持って」と言われることが多いので、
他人からはプライドがないように思われているのかもしれない。
断わっておくが、わたしは春日医師とおなじでパーソナリティ障害ではない。
なぜなら精神科や心療内科を受診したことが一度もないからである。
むかしある精神科医から長文メールをいただいたことがあるけれど、
そのメールにも当方がパーソナリティ障害だという診断は書かれていなかった。

数ヶ月まえから、わたしは精神病的な妄想をいだいていた。
それを書いたら精神病になってしまうからブログにはいっさい書かなかった。
むかしからの友人にこれも「前世の因縁」だからあきらめてくださいね、
と思いながらおのれの精神病的妄想をこっそり明かしただけである。
結局、現実と妄想の違いはなんなのだろう。
現実にその人が体験したことでも、周囲が納得してくれないと病的妄想になってしまう。
当人が現実には経験していないことでも、
それが社会的通念に適合するかぎり妄想でも現実的という評価を受ける。
精神病的妄想について精神科医の春日武彦氏は以下のように語る。

「病者が語る妄想は、どれもこれも似たようなテーマであり、似たような展開である。
およそ目新しさに欠ける。個性といったものが感じられない。
それは無個性ゆえにある種の普遍性を示しているのだろうか。
統合失調症の発病に伴い、病的不安や違和感、猜疑心や困惑、
漠然とした危機感や訝(いぶか)しさといったものが立ち上がってくる。
そうした不定形のものを曖昧(あいまい)にしたまま耐えていくことは容易ではない。
取り止めのない状態に対して、人間の耐性はきわめて低い。
そこで応急処置的に突飛(とっぴ)な物語(しかも多くは被害的なストーリー)
を持ち出して妄想気分へ具体的な形を与え、
事態の納得と対応を図ろうとするものの
その非現実さがかえって世間との軋轢(あつれき)を生じて、
ますます患者は追い込まれていく――
このようなあらましがすなわち妄想の出現であるとわたしは考えている」(P128)


曖昧(あいまい)さに耐えるとはどういうことか?
ある人が好きで嫌いというおのれの矛盾を言語化しないことだろう。
言葉にしてしまったら曖昧さは失われてしまう。
言葉は矛盾を許さないところがある。
ならば言語化不能の原体験的不安や原体験的畏怖が
立ち上がってきたらどうしたらいいのか。
それを言葉にしたら矛盾した整合性のないものになってしまう。
強引に合理的に言語で接着するとありふれた精神病的妄想になってしまう。
しかし、どうして矛盾していてはいけないのだろう。
ある人が大嫌いでありながら、同時に好きでたまらないというのは、
矛盾しているわけではなく、むしろそれが、それこそが内面の真実ではないか。
ある人を全面的に尊敬しているなんていう、
軽蔑感情の裏打ちがない心酔はもしかしたらニセモノとは考えられないか。
本音と建前は違うが、その矛盾したふたつのものが現実であり正義ではないか。
おのれのうちにひそむ矛盾に目をそむけるのではなく肯定したらどうか。

「いつも不思議に感じているのだけれど、
相反した二つの感情を同時に持つことを変であるとか間違っているなどと言う人がいる。
そんなことはあるまい。
愛しているけど憎い、むかつくけれど気になる、
痛いけど気持ちがよい、悔しいけれど気が晴れた、
鬱陶(うっとう)しいけれども嬉しい――そんな事象は枚挙に暇(いとま)がない。
大震災が起きたり猟奇事件が起きれば、胸を痛めたり眉を顰(ひそ)めると同時に、
どこか退屈な日常が揺さぶられたゆえの軽い高揚感が伴ったりする。
誠実さと不謹慎、優しさと残忍さが同居するのはむしろ普通だろう。
恥じることは何もない。そうしたこころのあり方を否定するのは息苦しい」(P216)


精神科医ってもしかしたらものすごくたいへんなお仕事ではないのだろうか。
長らく目のまえで飛び降り自殺をした母の主治医を恨んでいたことがあった。
いまでははっきりとそれは間違いであったと思う。
母が精神病を発症してからあの齢まで生きられたのは、
長年のあいだ主治医だった精神科医S先生ならではの、
ほかの医師にはできないすぐれた手腕のおかげだったのだろう。
むかしは恨んでいたが、いまでは感謝したい気分もなくはない。

「老いへの不安 齢を取りそこねる人たち」(春日武彦/朝日新聞出版)

→精神科医の春日武彦さんは、びくびくしながらマンネリでいい、
マンネリの惰性でいいから、それでいいから、もうなんでもいいから、
破綻することなく世をうまく逃げ切りたいと日々思っているんだろうなあ。
普通から逸脱することを異常なほど恐れているという意味で極めて正常な人である。
春日先生のお写真をじっくり何度も何度もできたら視線恐怖を与えてやりたいくらい、
何度も何度も熟視したことがあるけれど、医師は実年齢よりも20才くらい若く見える。
好物は野菜炒めで趣味は散歩と小説読書。
健康に悪いことはなにひとつしていないから、あの若々しさをお保ちでいられるのだろう。
人一倍、死を恐れているのが春日武彦である。
それは発狂を恐れていると同義なのが本書でよくわかる。
これほど発狂する瞬間をうまく言葉にできる人をわたしは知らない。
人生は惰性の連続でいい。マンネリにこそあとから見たら深い味を感じ得る。

「日々の惰性がストップしたとき、そこに出現するのは異形(いぎょう)の現実である。
精神的にショックを受けたとき、生活の根幹を揺るがせる事態に直面したとき、
世界は親しみやすさを失う。当たり前の世の中が、
よそよそしく違和感に満ちたものとして迫ってくる。
我々は孤独感と不安とに襲われる。それこそ実存的な風景とでも称すべきか。
おそらく死とはこのような感覚の究極としてあるのではないか
と予感したくなるような風景に向き合うことになるだろう」(P10)


マンネリでいい。惰性でよろしい。おなじことの繰り返しで悪いもんか。
しかし、それはそうではあるのだけれども――。
若々しい著者と異なり、こちらは老けて見られることが多い。
派遣先である女性から「おじいさんみたい」と言われたことがある。
たぶん精神年齢は本書執筆時に58歳だったという春日先生より老いている。
先生より成熟していると言いたいわけではなく、
ただただ枯れ木のように老いている。
このため、58歳の春日氏の文章がわがことのようにわかるのかもしれない。

「歳を経るにしたがって、何もかもが億劫になってくる。面倒になってくる。
生きているのも面倒になって、その挙げ句、
いつの間にか世の中から拭い去るように消え失せているというのが、
実はもっとも自然な人間の在り方なのかもしれない、などと思うことがある」(P38)


そういう孤独な老人のひとりを描いたのが富岡多惠子の短編「立ち切れ」だという。
70歳を過ぎ妻とも死別し、
生活保護をもらいながら生きる老人の鬱屈をうまく描いている、
と精神科医は評価する。
小説の老人は噺家(はなしか)として真打ちにもなった人物だが、
脚光を浴びているときから虚無感があり、いまは寂寥とした世界を生きている。
ある日、ドブ川で子どもの水死体が発見されたところに行きあう。
老人は号泣しながら愛児のなきがらを抱える母親を見て、
ぼんやりとしながら、しかし冷静に記憶をさかのぼる。
そういえば、あの女と似た顔をした人と自分は逢ったことがある気がするけれど、
はて、あれはだれだったろう。
老人はまったく動じることなく、むしろ食い入るように悲劇に遭遇した母子を見続ける。
精神科医の春日武彦先生はこの老人をとても高く評価する。
ちなみにこの本が朝日新聞出版から出たのは東日本大震災直後だが、
よくもまあ幸運にも朝日新聞読者層からヒステリックにたたかれなかったと感心する。
春日先生は物書きとしても一流なのだが、あんがい読まれていないのかもしれない。
春日氏は他人の不幸を見て、さらさら同情しない老人を称賛する。

「ああ、いいなあと思う、正直で。
ドブ川から死んだ子供がひきあげられていたら、
わたしだって、死体も母親もじっくり観察してしまうだろう。
おざなりの同情なんてする気もない。
いくら何でもざまあ見ろとは思わないが、
ああいったことはいくらでもあり得るのだから、
貧乏籤(びんびうくじ)を引いた人がいたと思うだけである。
そして嘆き悲しむ母親が誰に似ていたのか、それを確認して納得した気分に
なることのほうが自分にとって重大だと思うだろう。
いちいち思い入れなんかしても、面倒なだけである」(P41)


よくこんな本を朝日新聞出版社はあの時期に出せたよなあ。
どうせ売れないだろうという編集者の絶対的な確信があったのかもしれない。
ちなみにこの本をこの時期にわざわざ出したのは矢坂美紀子という女性。
朝日の偽善スピリッツをかけらも持ち合わせぬ女性編集者にとても好感をいだく。
なんでもネットで調べてみたら、
精神科の敵ともいうべき心理屋軍団のボス、河合隼雄の担当もしたことがあるそうだ。
泣き虫の河合隼雄さんは中年期から、とてもいい「年寄り」だったような気がする。
一方で患者の苦労話をいくら聞いても「所詮は他人事」
と内心では舌を出しながらせせら笑っている春日医師は涙を流すことなどあるのか。
ようやく春日武彦という男のことが少しわかった。彼は泣かない男なのかもしれない。
さて、若々しい精神科医の春日武彦氏は河合隼雄のようないい「年寄り」になれるのか。

「わたし個人の勝手なイメージでは、年寄りとは喧嘩の仲裁ができる人である。
「ここはひとつ、年寄りの顔に免じて堪(こら)えてくれんかのう」と言えば、
それで喧嘩している同士はしぶしぶ矛先(ほこさき)を納める。
立腹しつつも、どこか安堵した表情を浮かべながら。
そんなふうに心の機微を読み取り、また最後の最後になってやっと腰を上げる
その状況判断の確かさと、さらには人生経験を重ねてきていることに対する
万人の敬意とが、その場を丸く治めるわけである」(P167)


こういう「年寄り」は「顔役(かおやく)」みたいなもんで、
どこか創価学会的というかヤクザ的というか、そういう世間師的なところがあり、
アルバイト経験のひとつさえない高学歴高収入高身分作家が登るには、
喧嘩の仲裁ができる「年寄り」は難しいポジションのような気がしてならない。
河合隼雄さんは仏教でいうところの中道(ちゅうどう)=「どっちも正しい」を
よくよくご存じでいらしたからいろいろな喧嘩の仲裁役になっていたような気がする。

精神科医の春日武彦氏は本書でマイナーな小説を紹介している。
人の読まない小説家の言葉に吸い寄せられる医師の嗅覚は第一級と言えよう。
それは中原文夫という人の短篇小説「本郷壱岐坂の家」だ。
主人公は89歳の老人で従業員180人をかかえる会社の創業者で会長だ。
老人はみなから嫌われている若い女子社員がどうしてか気になり、
自分の秘書として引き上げてやる。
どうしてこの女子社員が気になるかと考えたら、
むかし似たような顔をした女性と逢ったことがあるからである。
むかし家で女中として子守をしてくれたおねえさんだ。
老人は、むかしあのおねえさんをずいぶんいじめたなあ、と後悔しながら思い返す。
89歳でもう余命も少ないと思い、あの女中のその後を探偵社に調べさせた。
想像していたとおり薄幸な人生を送ったようだ。
娘がひとりいた。なんと老人への手紙を預かっているという。
自分が死んだらいつかこの手紙をあのお坊ちゃんに渡してくれ。
いかにも小説的だが小説なのだから許されるだろう。
89歳の会長はその手紙を読んで驚く。
自分がひどくいじめたと思っていた女中が、自分のことを恩人だと思っていたのだから。
お坊ちゃんのお世話をしていた時代が人生で唯一の幸福な瞬間でした――
とまで手紙には書いてあるのである。
なんだか申し訳なくなった会長は、よく顔の似た女子社員に恩返しをしようと考える。
秘書として取り立ててやるだけではなく、
プライベートでも高級料理をご馳走したり、お芝居に連れて行き講釈したり。
老人本人は「いいこと」、つまり恩返しのようなものをしているつもりだったのである。
しかし、あるとき女子社員はセクハラはもういやだ、会社を辞める、
自分は傷つけられた、死にたい、とまで訴える。
狼狽する89歳の会長であった。

精神科医の紹介の仕方がうまいからだろうが、これはよくできた物語である。
現実にこういうことってけっこうあるよねえって話だ。
よかれと思ってやったことが相手の迷惑になっていることを知り驚く。
わたしは老人も若い女性も言っていることは「どっちも正しい」と思う。
だが、精神科医の春日武彦先生は、
女子社員のほうを人格障害(異常)であると診断してしまう。
喧嘩の仲裁をするのではなく、いうなれば白黒をつけてしまう。
会長からセクハラされたと感じた若い女子社員は高田涼子というそうだ。
精神科医のカルテを読もうではないか。

「なお精神科医の立場としてコメントをしておくなら、
高田涼子のような精神構造の人物は世間に一定の割合で偏在している。
ある種の人格障害(パーソナリティ―障害)には、
まぎれもなく彼女のように「最初は普通に見えたのに、
あるとき豹変して相手へ憎悪をぶつけ、
今まで自分は耐え忍びつつ演技をしていたと言い放つ」といった類型が存在する。
態度の激変ぶり、
それまでの言動に込められた意味をすべて逆転させてみせる根深い悪意、
えげつないばかりの攻撃性といったものは、
往々にして相手へ深い精神的ダメージを与える。そのダメージによって、
もはや人間そのものを信頼できなくさせてしまうのである」(P80)


おなじ男として春日先生の正しさは本当によくわかるのだが(そういう女っている!)、
もし医師が河合隼雄のような「年寄り」にあこがれるのであったら、
どうにかこの迷惑な被害者ぶった女性をも許容してあげてほしいところである。
わたしも逢いたいと言われて逢っ(てあげ)たかなり年上のおばさんから、
警察に訴えたのだの、おまえはもうすぐ逮捕されるだの、脅されたことがある。
好意で相手の話を一方的に聞いてあげただけなのに、
いきなり豹変するのがよくわからなかった。
自分はシナリオ・センターの優等生だから将来は絶対有名作家になる、
とおばさんは主張していた。あぶねえやつっているんだなあ、
という意味でのいい人生経験になったが、いまから思えば、
どっちもどっちというか、あちらにもあちらの言い分があったのだなとため息をつく。
人間ってそんなものよねえ。
どっちも正しいというか、どっちも悪いというか、どっちもどっちという――。

熟練した精神科医の春日武彦氏もそこのところはよくわかっておられるのである。
相手の妄想は刺激しないほうがいい。
「自分は美人で文才があってもうすぐ有名作家になる」
という妄想(これを物語と見るのが河合隼雄だが)をそのまま肯定してやる。
どうせ真実なんてうさんくさいものなのだから、相手の真実を尊重してやる。
変な新興宗教にはまったやつと議論しても意味がない。
本当に他人思いのやさしい人間は、
相手のためを思って相手を矯正(正しいってなに?)しようとするのかもしれないが、
春日武彦氏のような醒めたリアリストは「ふーん」と相手の妄想を聞き流す。
そういう一見すると不誠実な態度がかえっていい効果をおよぼすことを、
老医師というには若々しすぎる春日医師はあまたの臨床体験から学んだ。

「統合失調症で妄想にのめり込んでいたり、
認知症で現実を誤って捉えている人たちを前にして、
嘘をつくべきか否かといった判断が必要なことがあるのだ。
倫理とか道徳といったものに関わるので、なかなか苦慮することがある。
しかし今のわたしは必要ならば平気で嘘をつく。
それはこちらの都合が良いように相手をペテンに掛けることとはニュアンスが異なる。
相手の内的現実を簡単に修正できるくらいならば問題はない。
そうではないから頭を抱えるのであり、
修正が困難だったりトラブルが伴いかねないならば、
一旦は相手に「沿う」のが賢明ではないのか。
そこから現実離れした考えに対して徐々に修正を図るのも結構だし、
ゆっくりと頭を冷やしてもらうのもOKだろう。
迎合するわけではないけれど、こちらが沿う姿勢を示さずに教え諭(さと)そうとしても、
大概の場合、相手は考えを正してもらったとは感じない。
自分自身を、自分の存在を否定されたかのように感じてしまうだけである」(P107)


春日武彦さんの自己イメージ(妄想)ってどんなものなのだろう?
「B級精神科医」とか自虐しているから、
本当にそのくらいの自己イメージなのかと接したら、
想像以上にプライドが高くて怒りの抗議をされた患者や編集者もかつていたことだろう。
患者は医者の持っている「救済者」という妄想(物語?)を刺激してはならない。
あんがい医者と患者は、ふたりでひとつの物語をつくっているのかもしれない。
これは病気ってことにしておいて、
そっちは医者として給料をもらい、こっちは診断書をいただき生活保護を申請する、
みたいな共犯関係のことである。会社で休職するのも診断書って必要なんでしょ?
春日医師がこのへんにどこまで自覚的なのかはわからないが、
本書に診断書と生活保護にまつわるおもしろいエピソードが書かれている。
長くなるため(それにご商売のお邪魔になるので←医業、売文ともに)割愛する。

老け顔のわたしと若々しい春日医師が並んだら、
あんがい先生のほうがお若く見られるのかもしれない。
本書執筆時の春日武彦氏は58歳で、
同年齢で死んだものを調べたら山頭火がいたという。

「あの《分け入つても分け入つても青い山》の山頭火である。
放浪の乞食僧(こつじきそう)であった彼の屈折した自意識過剰ぶりや、
甘えとわざとらしさの混ざったトーンには、
どこかしら晩年の諏訪優[翻訳家・エッセイスト]に通底したものが感じられる。
言い換えれば、ストイックなものに憧れつつも遂にそのようにはなれず、
中途半端に居直って世俗的な欲望を肯定する精神であろうか。
散々に勿体(もったい)ぶった挙げ句に、
居酒屋は人生の縮図であるとか女の乳房は男の故郷だなどと
「のたまい」かねないセンスである」(P203)


春日武彦さんの文章ってどうしてこんなにおもしろいんだろう?
おもしろいとは滋味があるとかではなく、即物的に笑えるという意味なのだが。
あんがい本人は洗練された文章で
医療や人間の真実を暴いているような自意識(妄想? 物語?)があるかもしれなく、
先生の本はとにかく笑えるので重宝しています、
なんてファンレターを出版社宛てに送ろうものなら、
医師を大きく落胆させる「善意の暴力」になってしまうので、
わたしはそういう悪質な善意の愛読者にはならず、こうしてこっそり見守っている。
春日武彦先生の大ファンがひっそり一匹おりますからね!

「秘密と友情」(春日武彦・穂村弘/新潮文庫)

→患者の悪口を書く精神科医の春日武彦とイケメン歌人の穂村弘の対談本。
両者の共通点は世間知らずで、世の中とずれていて、生きづらいところ(すべて自称)。
穂村は、かなり変人なのに自己流で世間とうまくやっている春日にひかれているらしい。
わたしは春日武彦のファンで穂村弘という人は聞いたことがなかったが、
この人も相当に世の中を舐めた発言をするので、
いつか市井を生きるカタギの人に「おまえ舐めるなよ」とぶん殴られないか楽しみ、
いや、とても心配している。
両者ともに世界をいわゆる一般人とは違う角度から見ざるをえない
業(ごう)のようなものを生まれつき持っているようだ。
おそらくこのためにひとりは精神科医になり、もうひとりは歌人になったのだろう。
60近い(過ぎた?)のに銀行ATMをいままで一度も使ったことのない春日は、
かなり「本当のこと」を言い放つ。しつこいようだが、
彼は医者のなかでは色物あつかいされている精神科ではあるけれども、
いちおう国家資格を持つ医師である。

「確かにレジのおばさんを見てて、
俺にはあんな難しいことできないと思うのに、
実際には俺の時給のほうが遥かに高いのはなぜかって、
いつも不思議なんだよね」(P223)


春日先生は学生時代をふくめて人生でアルバイトを一度もしたことがない。
医者という商売一筋だから、それ以外の世界はまったくわからない。
ふつうは通念からわかったふりをするのだが、
わからないことをわからないと思った本音をそのまま白状する春日医師は正直者である。
一般的に医者は医学、つまり科学に依拠している存在だと思われているが、
さて変わり者の春日武彦先生はどうかと言うと――。

「俺、ビデオデッキに「裏切り者!」って言って捨てたこともあるよ。
「ちゃんと録(と)といてやるぜ」って胸を張ったくせにって。
俺は基本的にモノにも心があると思っているから」(P19)


わたしは精神科医の商売敵で、おなじくモノにも心があると思っている人を知っている。
その方はモノにも心があるがゆえにたいせつにするというタイプのようだが。
基本的にわたし自身もモノには心があるとどこかで思っている非科学的な人間だ。
モノに心があるとしたらモノと話せばいいのだから、ひとりぼっちも辛くなくなるだろう。

果たして患者が自殺しても「あんまり取り乱さない」春日は精神科医として優秀なのか?
春日武彦は担当患者が自殺しても「いやに淡々としてい」るという。
以下の精神科医ならではのエピソードはとてもおもしろかった。

「秘密って、実は隠していてもバレるというか、
伝わっちゃうんじゃないかと思う部分もあるのよ。
パーソナリティ障害を治療していた時、机に置いた処方箋を見て、
その患者が一言もしゃべらなくなったことがあってね。
処方箋の位置がいつもとちょっとズレてただけなんだけど、
彼女は「このドクターはあたしの話なんか聞く気はないんだ」と直感した、と。
「君の思い過ごしだよ」みたいなことを言ってなだめたけど、
心の中で実は「ウゼエ女だな」と思ってたわけ(笑)。
見破られたはずはないけど、
でもどこかで伝わってんじゃないかという気はして怖かった。
それとは別の患者だけど、結構美人で、正直言って俺好みの女性がいたのね。
これで髪がショートなら完璧に俺の好みだなと思っていたら、
ある日、俺の好み通りに髪切って来た(笑)。
やべえと思ってすぐに担当を替わってもらったけどね」(P79)


これはよくわかるなあ。
いま書籍物流倉庫でバイトをしているのだが、ライン(流れ作業)というものがある。
ラインでは一列になって流れてくる箱に本を入れている。
無心にそういう単純作業をしていると深層心理学のいう無意識状態におちいる。
そうするとラインの両隣のみならず、もうひとつ隣くらいまで考えていることがわかる。
少なくとも向こうがこちらを好きか嫌いかくらいは手に取るようにわかる。
隣が日本語の通じない外国人だと目と目を合わせただけで、
あるところまでは会話ができてしまうのだから人間の能力というものは不思議だ。
能力の上下は多少はあろうが、
一緒にいるだけで相手の気持はある程度わかってしまうものだと思う。
まあ、お偉い精神科医のご意見と底辺労働者の実感は違うのかもしれないけれど。
学生時代は親の言いなりにお勉強ばかりして親の期待通り医者になった、
精神病患者を矯正して社会に向けて投げ返す善なる職に就く春日は言う。

「俺は働かないで正気を保っていられる人って、
根源的に理解できないし、怖いよ」(P138)


反対にわたしは働かないでいる楽しさを理解できない春日医師のほうがぶるぶる怖い。
ええ、みんな本心では働きたくなんかないっしょ?
人と人はどこまでもわかりあえないんだろうなあ。
わたしの職場のパート仲間に「できるのなら働きたくないですよね」
と質問したら9割以上イエスの反応が返ってくると思う。
心の専門医らしい精神科医先生もあんがい人間をわかっていないのかなあ。
気づいたらファンだから春日武彦氏の言葉しか採録していなかった。
これでは不平等だから、よく知らないイケメン歌人の穂村弘氏の名言も――。

「結局、友情にはギブアンドテイク性に加えて、旬ってものがあるんじゃないかな。
恋愛同様、友情にも旬があるような気がする。
あのときはこの人がとても必要だったけど、今となっては迷惑とかね」(P26)


きっと「真実」なんだろうけど、世渡りのうまい成功者はさみしいことを言うよなあ。
彼は広い交友関係を持つからこういう身もふたもない「真実」を言えるのだと思う。