「若山牧水 流浪する魂の歌」(大岡信/中公文庫)絶版

→芸術というのは女や酒が作るものではないかと思った。
若山牧水の場合、女も酒もどちらも活用し、人生を味わい尽くしたようである。
牧水が最初に愛執した女は1歳年上の人妻。二児の母でもある小枝子。
小枝子を題材に、燃えるような恋慕の歌をいくつも作っている。
おそらく性の手ほどきも、この小枝子なる人妻から受けたのであろう。
ところが、どうやらこの小枝子はバカだったらしい。
いや、ほとんど教育を受けていなかったからといってバカと決めつけるのはよくない。
事実として、小枝子は牧水の作る歌を価値あるものだとは思わないタイプの女だった。
ふたりは別れるわけである。この別離の苦しみからも、歌人は秀歌を創作している。

打算的といったら愛好者から怒られるのかもしれないが、
若山牧水は失恋の痛手を癒すために結婚をするのである。
相手は小枝子とはまったく異なるタイプ。当時、牧水は歌壇で名を知られた存在だった。
喜志子は旧家の娘で、短歌を何度も投稿するような文学少女。
この生娘に若山牧水は目をつけるのである。
喜志子は有名人の牧水から求婚され舞い上がってしまう。
挙句、家出までして牧水との同棲生活を始めるのである。
芸術家・若山牧水の女の取り扱いかたは見事というほかない。
はじめは人妻と熱愛をして芸術の肥やしにする。
名が売れたら有名人の威光で生娘を嫁に取り生活の足しにする。

結婚してからひと月も経たぬうちに、
牧水は歌を作るという名目で三浦半島をひとり旅行する。
かの地から歌人が新妻へ送った手紙がのこっている。
妻・喜志子は下宿で縫物の内職をしていた。

「最愛なる妻よ、浄きこころをもて、
御身の良人(おっと)の世にも清らかなる天才なることを信ぜよ」(P99)


いきなりの天才宣言である。翌日の手紙には――。

「喜志さん、ほんとうに、お前は、単に、妻、夫といふ相対的の意味のみでなく、
母となり、姉となり、妹となつて、僕をはぐくんで呉れ、
僕、また屹度(きっと)それに酬(むく)ゆるよ。
僕は、ほんとに、今日から漸く真の芸術家の生活に入るのだ。
いままでのは謂はば素人芸にすぎなかつた。
……………………
金はすまないが、頼む、出来た歌を持つて帰れば、相応の金に代へられるし、
その心組をもしておいて呉玉へ。
歌を作つたあとなど、どうしても麦酒の一本なりと飲まなくては、
心がかわいて、病的に興奮して、とても睡られない。
もつとも、無理まですべからず、出来た分でいいのだよ」(P99)


結婚したらさっそくカネの無心である。
どうしてこうも早くカネがなくなったのか、このときの作歌から明らかになっている。
なんのことはない、新婚ほやほやの牧水は旅先で遊女を買っていたのである!

本書によると、若山牧水は生涯で二度就職している。
二度とも新聞社で、どちらも数ヶ月しか続かなかった。
当時の同僚の記録がのこっており、
なんでも牧水は朝から酔っぱらって出社してきたという。
とても仕事にならないのである。
「有名な歌人」という威光が有効なのは、数ヶ月だったということであろう。
牧水は44歳のときに肝臓が原因で死んでいる。
最期を看取った医師のカルテが本書に転載されているので孫引きすると――。

「酒ノ習癖ハ昨今益々甚シクナリテ四六時中酒気失セテハ何事モ手ニツカザルニ至レリト言ハル」(P142)

若山牧水は完全なアルコール依存症患者になっていたのである。
死ぬまでカルテは書かれているが、このころの医者は人間味があったのだろう。
酒でぼろぼろになった牧水が病床でなお酒を求めると医師は飲酒を許すのである。
末期の牧水を先生と呼び、飲みたいだけ酒を与える医師の態度に胸打たれた。
現代の医療従事者でこれをできるものは極めて少ないのではないか。
こうして牧水は死にゆくわけだが、この芸術家は最期までひとに恵まれていたといえよう。
この対人運こそ歌人・若山牧水の才能だったのかもしれない。
「物語批判序説」(蓮實重彦/中央公論社)絶版

→物語作家(ストーリーテラー)にあこがれているわたしが、
なぜ正反対のこのような本を読むかかといえば、約束があったからである。
読むという約束。これがなければ、おそらく最後まで読み通せなかったと思われる。
冒頭から文末までいちおう目を通したつもりだが、さっぱりわからない。
わからないものをありがたがるひとというのが読書人口の何パーセントかいる。
このような書物の存在する意義であろう。
だれがこの本の感想を書いても、読み手には理解できないものとなるはずである。
わからないように著者が書いたものを、わかってしまったらそれこそ問題である。

矛盾するが、いまからわかりやすくこの本の内容の断片を要約する。
わかりやすいという時点で、正確ではないことは明らかであることをはじめに断っておく。
一行にまとめると、「物語は知に従属する」。
これが「物語批判序説」の柱である。
繰り返す。物語は知に従属する。
わかりやすく言い直すと、物語は知にくっついてまわる。
知というのは、言葉であらわされるものである。知=言葉は、物語にまみれている。
言葉が物語をたずさえてくるため、実態が見失われる。
言葉を鏡と考える。たとえば猫という言葉。
猫が実際にいて、それを鏡のまえに座らせる。鏡に猫がうつる。
この鏡像(鏡にうつった猫)を言葉だと考えようといま仮定している。
猫が鏡にうつり「猫」という言葉になる。
そのとき鏡は猫をうつすことはできても、「猫」はとらえることができない。
猫は言葉ではない。「猫」になって、はじめて言葉として使われるようになる。
この場合、カッコ=「」は、言葉にしようがないでしょう。
言葉(「」)という鏡は決して言葉(「」)をうつさない。
この枠組み=「」を、物語だと言うのが蓮實の言説である。
ううん。わかりにくいですかね。

たとえば流行語の「下流社会」。下流社会という実態があるのかはわからない。
ある作家が「下流社会」という個人的な物語を造形したわけである。
いまではあのベストセラーの新書を読んでいない人間まで「下流社会」を論じる。
この現状を批判すると、こうなる。
「下流社会」は、下流社会ではない。そもそも下流社会なるものがあるのかもわからない。
いわば、物語である。ひとはみな「下流社会」という言葉を使うことで、
「いま、ここ」を生きているというナマナマしい実感から逃避している。

本書で蓮實重彦が取り上げるのは、
順にフローベール、プルースト、サルトル、ロラン・バルト。
読書をしながらメモを取る。このメモにでかでかと書かれている。

おまえはフランス人か?

蓮實先生への問いかけである。よくよく考えてみれば、本書の正体がわかろう。
フランスの作家を取り上げ、蓮實重彦は「物語批判序説」を論じた。
さて、この本はフランス語で書かれているか。いな、日本語である。
フランス人はこの本を読むことができようはずもない。
反対を考えてみればすぐわかる。フランス人が仏語で漱石を論じたとする。
日本人の我われはそんなものを読みたいと思うか。
漱石は日本人ならだれでも顔くらいは知っているが実際は読んでいないでしょう。
それをフランス人が論じたからといって、だからなに? こうなる。
「物語批判序説」もおなじようなものである。
身もふたもないことをいえば、蓮實は、フランスという虎の威を借る狐。
最後にこの狐の文章を見てみよう。狐はいかに人間を化かすかである。

「<神>を殺した人間たちに対する激しい憤りがその詩句のいたるところ顔を出している事実を指摘しながら、奴隷制が昔ながらに維持されているインド洋上の植民地の封建的な社会構造の中で、いわば王として君臨していた父親に対して人道主義的な反抗を演じたエディプス的青年が、いわば亡命地といってよい五〇年代のパリで、その共和主義的な理想にもかかわらず人類への憎悪を口にしはじめ、沈黙によって帝政を支えるという政治的な立場に追いこまれざるをえない客観的な状況を指摘したサルトルは、とりわけその異常な長さがたやすくは正当化されがたい『フローベール論』にあって、きわめて刺激的な言説の担い手たりえているように思う」(P242)

くすくす。これはすごい文章でしょう。この本をわたしは読んだのである。
ちなみに文構造は「(〜〜)→S+V」。
サルトルの「フローベール論」はグッド。この論の内容は以下である。
こう書いたらいいのに、どうしてこんな悪文を書くのか。
蓮實重彦は、仏語以前に、日本語の作文を勉強するべきある。
「小説入門」(中村真一郎/光文社文庫)絶版

→小説家と学者のちがいはどこにあるか。
読者のことを考えて、わかりやすい文章を書くのが小説家。
正しさよりも、おもしろさに走るのが小説家。
小説家はウソをつくことが許された数少ない職業。
つまらない事実よりも、魅力的な虚構を選択するのが小説家というもの。
小説家が書いた本書は、それでも大学の教科書として使われることもあったという。
ところどころにおもしろい指摘がある。もったいないのでぜんぶ紹介する。

「ドストエフスキーを読まれるかたは、ぜひ、
あれは、ユーモア小説のような要素も、それから、
センチメンタルな要素も強いものだと思って、
気を楽にしてお読みになるのがよろしいのではないかと思います」(P103)


ううう、嬉しい。わたしは間違っていなかったのか。
ドストエフスキーを読みながら、何度も大笑いして、何度も涙ぐんだのを思い出した。
うん、あれは感傷だ。
ドストエフスキーは、ひどく恥ずかしい、青臭いともいうべき感傷がある。
そこが好きだった。あと登場するのがキチガイばかりで笑える。
「虐げられた人びと」なんて昼ドラマではないかと思ったもの。
お笑いあり、お涙ちょーだいあり。ドストエフスキーの魅力である。
おのがドストエフスキー観を肯定されたようで笑みがこぼれる。

「トーマス・マンの説では、ドイツでは社会的な劣等者が文学者となるのに、
フランスでは秀才が文学者になる、ということになります」(P117)


現代日本はどうだろう。若手作家。秀才は平野啓一郎くらい?
あとは社会のクズやカス、ゴミみたいな御仁ばかりか……。
学歴、資産、容姿で人間を判断するのは、現代では小谷野敦氏がご専門。
この方面でのさらなる研究を期待している。

「『源氏物語』のなかには、いろいろ、はなやかな恋愛が書かれているのですが、
作者は、あの女主人公のような身分ではなくて、ずっと低い身分です」(P209)


まえに文学とは個我の超越だと定義したことがある。
紫式部もそうだったということか。
高貴な身分のものへの憧憬から「源氏物語」を記す。
そうだとすると、女の執念が日本文学の最高傑作をもたらしたことになるのか。
じぶんの身分では美々しい恋愛は不可能。
そのことへの断念、超越のために光源氏を造形したのだとしたら――。

「簡単に言いますと、二十歳のときに純文学を読んでいた人が、
二十五歳になると、中間小説しか読まなくなり、
三十歳になると、大衆雑誌しか読まなくなって、
三十五歳になるともう小説を読まなくなる、そういうケースが多いわけです」(P241)


本書の原本が発刊されたのは昭和37年。
復刊されたこの文庫版のあとがきによると、
「その頃は、日本は、未曾有の文学全盛時代」。
青年男女でドストエフスキー、スタンダール、「源氏物語」(現代語訳)を
読んでいないものはめずらしかったという。
ほんとうにそんな時代があったのかという驚きがまずひとつ。
つぎにそんな時代でも、純文学を読むのは二十歳過ぎくらいの若者のみだったのか。
二重の驚きである。
正直に告白すると、いまのわたしはもう純文学小説を読むのが、いくぶん苦しくなっている。
いちばん愉しい読書は、酔っぱらって中間小説を読むとき。
だけど、言い訳めくが、これがふつうでは?
いま純文学小説なんて、だれが読んでいるのだろう。
同業の小説家、編集者、インテリ気取りの院生。このくらいしか思い浮かばない。
まあ、身もふたもないことをいうと、作家なんて、むかしから、
世間知らずの若者を食い物にすることで成り立ってきた商売ということでしょうか。
「西洋文学入門」(本田顕彰/現代教養文庫)絶版

→これはすばらしい。名著である。
いままで作家ごとに西洋文学を読んできた。いわば、点を読み込んできたわけだ。
その点が本書を読むことで線になったような深い満足感がある。
ときおり、わたしでもあやまりを指摘できるほどいかがわしい部分もあるが、
全体をわかりやすくまとめるためには仕方がなかったのだろうと好意的に解釈する。
西洋文学全体を因果関係の網で(なかば強引に)覆い、
ひとつの歴史物語に仕立てあげた手腕はお見事というほかない。

いま流通している文芸評論はあれでしょう。
従来の文学理論(文学史)のあやまりを指摘するものばかり。
じゃあ、批判の対象になっている旧来の教科書的な文学史を知りたいと思っても、
どこに書かれてあるのかわからない。ようやく判明。本書である。
本音をいうためには、対抗する建前が必要。
そのような意味で、この「西洋文学入門」は実に優秀な建前といえる。
正否はともかく知っておかなければならない西洋文学史の常識。

言われてみれば、そのくらい知ってらァと強がりたくなることが多く書かれている。
ギリシアのヘレニズムは現世的。
キリスト教のヘブライズムは来世的。
ルネサンスはギリシアの現世的な精神の復活。つまり、地上生活を楽しもう!
ルネサンスは人間賛歌と同時に、古代ギリシアの文学法則の復活も意味した。
たとえば劇における三一致の法則。
かくしてルネサンスのあとに古典主義といわれる文学運動が起こる。
商業の発達が近代国家を必要とした。
商業繁栄のためには港湾の安全が重要。
港湾防衛の任務を国家に委任しようという商人全体の意思から近代国家が誕生する。
産業革命後の過酷な労働条件がロマン主義の遠因。
疲弊した人間は、現実とは異なる夢物語を欲したからである(ほんとかよ!)。
資本家と労働者の不平等は拡大する。
この労働者の苦難を広く訴えるためにリアリズム文学が誕生する(ほんと?)。

まあ、こういうことだと思う。
赤信号を意識してわたるためには、わたってはいけないというルールが前提。
そういうルールは、あんがい知らないもので、知るとなかなかおもしろい。
本書の有益たるゆえんはそんなところにあるのだろう。
「古典文学入門」(吉田精一/新潮選書)絶版

→最近はこういう本が出版されることが少ない。
ひとりの学者がある領域を手広く概観する本を見ない。
全体を細分化し、それぞれ専門の学者に分担させる共著ばかりである。
一般読者の求めているのはそんなものではない。
学問というのは、なんだかんだいって愉しいのでしょう。それを分捕りたいのである。
記事の正確性など二の次、三の次。
わかりたいというより、わかったつもりになりたい。
「万葉集」のある歌の作者が判明したからといって、我われの生活にはなんの影響もない。
あるのは、大まかでいいから、ある領域を俯瞰(ふかん)したいという欲望。
日本古典文学とはどういうものか。どこが美味しい部分なのか。
こういった関心を本書は満足させてくれる。

正しいのかわからないが、著者の主張をまとめてみる。
まずは日本語の特徴から。

「だいたいにおいて漢語をまじえないかぎり、
やまとことばのみでは抽象的な用語、概念などの規定ができないのは事実であり、
比較的に云って語彙は貧弱であった。
これにことばの韻律がきわめてとぼしい性格をあわせると、
少なくとも詩語としての日本語は、英語、ドイツ語などにくらべて、
音楽的でなく、また論理的でもない。
古代の詩文におけるこの種の特色は、アストンをして、
日本語は壮大、崇高な風景、人事を歌うに適しない、と云わしめたのである」(P15)


そのため――。

「日本文学はいわゆる象徴性に富みながら、宗教的な深みをもたず、
超現実的な神秘性に欠けている。感情的にも平衡と中庸を重んじて、
怪奇と超自然をよせつけない」(P23)


ほんとかいなと思うけれども、日本の古典にそれほど親しんできたわけではないので、
よくわからない。まあ、そういうことにしておくと、なんだか落ち着く。
細かい批判は研究者がやっているのだろう。
この日本語ならびに日本文学の分析における正否が、
わたしの人生に関係することはまずない。これだけは確実である。

二項対立的に日本文学史を眺めるとわかりやすい。
たとえば「万葉集」と「古今集」。
「万葉集」は自然を目で発見した。
いっぽう「古今集」は耳を重んじ、ことばの響きから和歌が作られている。
随筆でいえば、「枕草子」と「徒然草」は対照的。
感覚的な「枕草子」に比して思索的な「徒然草」。
どちらもぜんぶ通読したことはないけれども、言われてみたらそんな気がする。
なら、そういうことにしておこう。
「源氏物語」と「平家物語」も好対照。
完全な虚構たる理知的な「源氏物語」。
「平家物語」は事実をもとにした叙事詩。こちらは仏教思想の強い影響がある。
いま3つの比較をした。この3対。みなさまはどちらが好きですか。
わたしは「万葉集」「徒然草」「平家物語」にそれぞれ軍配をあげます。

本書の構成は、有名古典の一部分を章の冒頭へ引用。
のちにそれを解説していくというパターンが16回、繰り返される。
井上靖がこの本の宣伝文を(裏表紙に)書いている。
いわく、古典入門はこのようなかたちがいちばんだ。
古典の美味なる部分を原文でつまみ食いするのが最良。

けれども、まあ、この吉田精一さんは助平(スケベ)である。
ねっとりとした老人の性欲が文面からにじみでている。
道行くナンパ師などより、よほど書物に囲まれた老学者のほうが好色なのだろう。
抜粋する古典がどれも極めつけにいやらしい。
王朝文学なんてどれもそんなものと言ってしまえばそうなのだろうが、
それでもやはり荒々しい老年のリビドー(性的活力)に圧倒される。
この国文学者が古典を愛してやまないのがよくわかる。
淫猥な舌でもって古典をなめつくそうとする姿勢はキモ……、
いや見習うべきものがある。これは井上靖がいうよう最高の古典入門書である。
「文学入門」(吉田精一/旺文社文庫)絶版

→いまの文学状況をひと言で言いあらわすなら「なんでもあり」。
近代小説が完成したかも定かではないのに、壊せ、壊せの大合唱。
現役作家に「文学ってなによ」と聞いたら、みなさん一瞬ひるむのでは?
基本に立ち返ろうと思う。本書は昭和41年初版。
文学の教科書を目的として執筆された。
なるべくひねくれないで、虚心にこの教科書と向き合いたい。
基本的内容を愚直に整理してみる。以下、すべて筆者の意見の要約。

86ページ。
小説は、我われの欲求とか憤怒とかを(1)
架空の人物に流し込むことによって(2)、
それ(=1)から我われを解放する(3)。

小説家の役割。
ある場合は、作中人物に我われが未経験の犯罪を実行させる(1+2)。
別の場合は、作中人物に有徳な、英雄的行為を遂行させる(1+2)。
このことによって、我われ読者はそうした生を生きることを免じる(3)。

130ページ。
小説を読みながら、我われはいろいろなことを感じる(1+2)。
この意味することは、作中の世界に入っていたということ。
自分が生きている現実の外に生きていたということ。
ふだんは気のつかない人間のこまかい心の動きを教えられる。
読後、小説の意味を読者が整理・反省することで、現実世界への対処も変化する(3)。

247ページ。
文学の功利性(なんの役に立つのか=3)。
文学を読むことで陶酔を得られる(3)。
それは古代ギリシアのディオニュソス崇拝からもたらされるものと通底。
ディオニュソスの別名はご存じバッカス。お酒の神様である。
酒をのんで外へでると、見なれた風景が輝いて見える。
ことに昼酒は格別である(この2行は本書とは無縁の個人的感想)。
良質な文学作品を読むと、飲酒時と同様に、昨日と変わらぬはずの日常が光って見える。
この意味において、文学は生活にとって有益である(3)。
酒をのめない体質のひとも文学なら読むことができよう。
そうだとすると、本書には書かれていない文学の弊害も予想がつく。
それは文学的アルコール依存症とでもいうべきものと思われる(苦笑)。

(おまけ)161ページ。
小説と戯曲の相違について書かれている。
著者は、戯曲には詳しくないのがわかる。

「小説と戯曲は本質的にちがう。
戯曲の中にもられる人生は特別のものであって、
その点がどんな人生の姿でも材料となしうる小説とはちがう。
戯曲は人生のはげしいところを扱ったものである。
人生を一つの河とすれば、細流もあれば、大河もある。
しかしゆるやかな人生の河は戯曲には書けない。
戯曲に書けるのは、はげしいところ、すさまじいところ、
変化しているところしか書けない。
渦巻きだとか、滝だとか、要するに河のカーブしか書けない」


これはごく狭い近代自然主義演劇にのみ該当する。
例外をあげればきりがない。
ワイルダー「わが町」。ショー「思想の達し得る限り」。オニール「奇妙な幕間狂言」。
メーテルリンクの夢幻劇。ストリンドベリの象徴主義演劇。不条理劇全般。
吉田精一の専門は国文学。致しかたない。不勉強を責めるつもりはない。
「文学入門」(桑原武夫/岩波新書)品切れ

→初版は昭和25年。敗戦から5年後。教養人への縄梯子である岩波新書。
どんな本かといえば目次を見ればわかる。ふきだすなかれ。

「第一章 なぜ文学は人生に必要か
 第二章 すぐれた文学とはどういうものか
 第三章 大衆文学について
 第四章 文学は何を、どう読めばいいか
 第五章 『アンナ・カレーニナ』読書会」


突っ込みどころが満載でしょう。
文学など人生には必要ない。すぐれた文学は人それぞれ。
大衆文学と純文学の区別はもうなくなりました。
文学は何を、どう読んでも、読まなくてもいい。
「アンナ・カレーニナ」を読めるのはよほどのひまじん(わたしのような)。

なんともほほえましい記述がある。ぜひ読んでいただきたいので引用する。

「私はまたある紡績工場の図書室の貸出簿を一見したとき、
大衆文学と同時に、日本や外国のすぐれた文学作品が
盛んに読まれていることを発見したのだった」(P92)


むかしの工員は工場で働いたあと、トルストイやモーパッサンを読んだのか。
いまでは大学生でさえ読むものはめずらしいと思われるが。
いい時代があったのだとうらやましくなる。
敗戦で日本はいちから出直し。それは無限の未来をも意味していた。
成長の神話を盲目的に信じることができた時代。
日本経済が欧米諸国を見習い成長するように、
日本人も世界の名作文学を読むことで人間的に成長しなければ。
そんな使命感が国民全体の同意としてあったのであろう。
経済成長と人間成長が同列に語られた時代である。

岩波新書の「文学入門」は文学ブームのきっかけともなったが、
まさしくこの薄い新書が現代の文学衰退の原因にもなっていることに気づく。
桑原武夫はいう。

「学校教育におけるすぐれた近代文学の読み方の教育こそ、こんにちの急務である」(P96)

長年にわたる学校文学教育の結果がこのざまである。
発生の由来からして、近代文学(小説)はこっそり読むもの。
演劇ならまだしも、みんなで読む文学などあるわけがない。
文学とは秘密の愉しみなのだ。
教育者から読めといわれるようになったら文学は終わりである。
文学教育をしきりに推奨したから、文学が先細りになっていったと思われる。
やれといわれたことは決してやらないのが文学者本来のすがたではないか。
かれらが生み出した文学作品を学童に強制して読ませた教育者の罪は重い。

(メモ)物語と小説の相違。
物語は宿命によって支配される人間を描写。
小説は運命と闘う人間を活写する。人間中心の近代小説(P111)。
「文学入門」(谷川徹三/講談社学術文庫)絶版

→当たり前のことを確認する。文学作品はどのように創造されるか。
作者はある環境のもとに生まれ落ちる。
身分や生育環境とよばれるものが作品に影響する。
農民はなんとか「万葉集」に採用されるくらいの歌はつくりだせるかもしれないが、
決して「源氏物語」を書くことはできないということである。
人間は寿命に許された限られた年月をある時代において生きなければならない。
ゲルマン人の末裔だからといってだれもがシェイクスピアになれるわけではない。
ラテン語から脱した英語がようやく統一を見せようとしたあのエリザベス朝時代に
生きることができたから、シェイクスピアは才能を発揮することができた。
また人間は社会構造に左右される。現代においてもインドと日本では社会構造が異なる。
脱線するがインドで所得税を払っているのは人口の1%。
社会が文学を創造する。
天皇家による中央集権体制が確立したことで「古事記」が誕生する。
鎌倉時代、武士を中心とする社会体制が勃興したことで「平家物語」が広まる。
例によって定式化してみる。

「文学=(作者)×(身分)×(時代)×(社会)」

どの名作も、この4つの変数のある調和のもと、書かれたわけである。
たとえばギリシア悲劇「オイディプス王」。

「オイディプス王=ソポクレス×上流階級×古代ギリシア時代×ポリス社会」

身近な村上龍の「限りなく透明に近いブルー」だとこうなる。

「ブルー=村上龍×両親とも教師の田舎者×ヒッピー文化×高度資本主義」

ここからなにがわかるか。
どのような文学入門も歴史とセットで語られるということである。
世界文学入門なら世界史を前提とする。
日本文学を説明しようと思えば日本史との関連を述べないわけにはいかない。
もう一歩、前進する。では、根源にさかのぼると、文学を創造するのはだれか。
人間は身分も、生まれる時代も、国(社会)も選べない。
ここで本書に引用されていたドストエフスキーのことばが重みを増す。
孫引きする。文豪の代名詞、ドストエフスキーの手紙から。
自作「カラマーゾフの兄弟」について語っているところからの引用である。

「この本のすべての部分で追求される主要な問題は、
私が生涯を通じて意識的あるいは無意識的に苦しんだ問題にほかなりません、
すなわち神の存在の問題です」(P63)


日本の近代文学者でドストエフスキーをめざしたものは少なくない。
それは失敗の約束されている挑戦だった。
ロシア帝政期を生きたドストエフスキーに日本人がなれるわけがない。
これからの作家志望者にも大いに参考になることがある。
上に赤字で記した定式に、おのが条件を当てはめてみればよい。
かりにどこかの変数にゼロがあれば、掛け算の合計はゼロになる。
もしや現代の日本社会はゼロになるのではないかといま疑っているところである。
「恋愛の昭和史」(小谷野敦/文藝春秋)

→これはたいへんな労作である。
ベストセラー「もてない男」で知られる小谷野氏の、
この著書にかけた情熱ははかりしれぬ。
この熱情は、いいかえれば怨念である。
ぼうだいな読書をこの執筆のために必要としたことと思う。
その熱源は、なまやさしい知的興味などでは決してない。
怨念とよぶほかない、著者の生命の根源にある炎を一見軽い文体の裏から感じる。
恋愛ってなによ。おまえらいちゃいちゃしてんじゃねーぞ。
どーせおれの生まれは下流さ。だから高学歴の美女と恋愛がしたいんだ。悪いか。
学者らしからぬねちっこい嫉妬心がちらほら見え隠れする。何度も大笑いした。
辛口のわたしが最大限の評価をこの著作に与えるゆえんである。
もっと読まれるべき好著なのにと残念でならない。
少しでも宣伝になればとこうして若僧のわたしが紹介しているわけだ。

ところでご存知か。
恋愛結婚が見合結婚を上回ったのはいつか。
昭和42年だという。ちなみに、これは本著で知りえた知識ではない。
意外か。あるいは想像どおりか。
昭和42年以前は、半数以上の夫婦が見合で結婚していた――。
統計はまったく知らない。だが、その見合結婚の大部分が離婚したということは聞かない。
おおかたは、まあ、それなりにどたばたしながらも、適当にやっていたのではないか。
たとえば「熟年離婚」といったテレビドラマが放送される(わたしは見ていない)。
夫婦間には愛がなければならないといった(真偽定かならぬ)情報が、
さも絶対的真実であるかのように視聴者へ伝達される。
果たしてドラマの影響で離婚件数が増えたのかは寡聞にして知らない。
いささかの影響もなかったといったら、これもウソになるのだろう。
恋愛などというものを知らなかったら不幸にならずに済んだ人間が大勢いるはずである。
大衆はなんによって恋愛なるものを知るか。いまならテレビドラマ。
むかしは新聞に連載される大衆小説である。
現代において最大のちからを有する恋愛至上主義から差別された「もてない男」
小谷野敦氏は、恋愛とはなにかというライフテーマの答えを求めて、
いまでは忘れ去られた山のような大衆小説へわけいっていく。果敢である。笑える。

この作品は文芸評論ではない。そんな退屈なものではないのである。
いうなれば明治から昭和にかけての、文壇ゴシップ集大成。
よくもここまで調べたものだとあきれ……いや、感動することしきりであった。
小谷野氏のお気に入りは菊池寛と見た。
まず著者は、はやばやと菊池寛の正体を看破する。

「人も知るとおり、久米や松岡とは桁違いの醜男である菊池は、
てんから『恋愛結婚』などは自分とは無縁だと思い決めていて、
郷里の両親が選んだ相手と結婚するのである」(P50)


ところが、どうだ。

「菊池こそ、大正九年の『真珠夫人』以来、数多くの女性向け通俗恋愛小説を書いて
女性読者の絶大な支持を得るに至るのである」(P50)


小谷野氏の論理は軽やかに飛躍する。ホップ、ステップ、ジャンプである。

「恋愛小説や恋愛論の秀作は、恋愛の下手な者たちによってこそ書かれうることを、
この事実(通俗恋愛小説の大家・菊池寛!)は示しているように思われる。
それはやはり醜男でもてない男だったスタンダールがそうであったように、
あるいは現代日本の美男作家の恋愛小説がちっとも面白くないように」(P51)


じぶんこそ現代日本において恋愛論を書くのにふさわしい。
あたかも小谷野氏はそういっているかのようである。
さて、現在バツイチ。
結婚相談所相手のトラブルを幾度か繰り返した小谷野氏の未来は? 注目したい。
一方、菊池寛のほうはどうなったか。
とんでもない「色魔」になったと著者は内情をばらす。
あちらこちらに愛人をつくっていたとのこと。
さあ、「もてない男」小谷野敦氏は、色狂いの中年・菊池寛をどう評するか。

「私には、若いころ、自分は恋愛などとは無縁と思っていた菊池が、
後年カネと名声に物を言わせる漁色家になったのを、
とうてい憎む気にはなれない。
むしろ、カネと名声なくしては漁色家になれなかった
菊池の怨恨の深さをそこに見る思いがする」(P71)


若者に大人気の論客・宮台真司氏が先年、東大名誉教授の娘で二十歳年下の、
日本女子大卒の令嬢と結婚したのは世間に衝撃を与えた。
「援助交際OK!」で世にでた社会学者のとんだ顛末(てんまつ)になったわけである。
さて、小谷野敦氏はどうなるか。平成の菊池寛になれるのか。大問題である。

小谷野敦氏のブログ
「猫を償うに猫をもってせよ」
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/
2005/08/25(木) 12:35:06

「文学とは何か」(加藤周一/角川選書)絶版

→あんなものは文学じゃない!
プロ(文芸批評)も素人(アマゾン)もこのことばがお好きみたい。

じゃあ、文学ってなーに?

とこの本を読んだけれども、はあ……(わからん)。
おもう。いっそのこと文学ということばをなくしてしまうがよろしい。
文芸にしてしまう。文芸。文の芸。文章を用いる芸。
だから日光猿軍団もライバル。芸の目的はお客さんを満足させること。
つまらない小説を書いた作者はもう逃げられない(「あれは文学だから」はNG!)。

しかし困ることがひとつある。
小説、随筆、評論、戯曲は文学から文芸へかわったところで問題は生じない。
どれも文芸。読み手を満足させなければならない。
が、詩である。
詩が文芸の網からもれる。うーむ。どうしたらいいのか。

じつはわたし、詩が読めない。退屈で読めないのです。
「文学→文芸」の名称変更プランはわたしのこの欠陥(詩が読めない)
から生じたとおもって間違いありません。
引用。

「詩は、言葉の意味と響きとをふくめた全体をもって表現するものです。
散文は、言葉の意味をもって表現するものです」(P80 ふーん)

メモ。
加藤周一はギリシア神話の扱い方に古代、近代、現代の相違を読む。
古代。ギリシア悲劇。英雄と神々(運命)の対決。
近代。フランス古典劇(ラシーヌなど)。人間と人間(性格)の対決。
現代。フロイト。オイディプスコンプレックス。意識と無意識(コンプレックス)の対決。