「思い出トランプ」(向田邦子/新潮文庫)
→短編小説集。どれもいかにもうまい小説なのである。
いかにもいかにも玄人筋から絶賛されそうなうまい小説ばかりだ。
いや、素人からも称揚されている。
アマゾンの全24の感想を読んだが、けなしているのはひとつとしてなかった。
そういうところが、うますぎるところが、嫌いなのである。
読者は下手な小説を好きになってもよい。
うまい小説だからといってかならずしも好きになる必要はない。
読みながら思ったのは、ふーん、こういうのがうまいってほめられるんだろうな。
で、学校の先生も読め読めとすすめて、
感想文コンクールで入選するのも決まってこのような小説の感想。
だれからも嫌われない小説を書けるのは、著者がそういう人間だったからだろう。
早世したせいか、向田邦子の悪口を聞いた(読んだ)ことがない。
ふたたび、そういうところが嫌いなのである。
「あたしってうまいでしょう」というのが見えすぎるのは閉口するほかない。
乱暴なことを書いてしまえば、ここに収録された短編小説はすべておなじ構図である。
「現在→過去(回想)→現在」だ。
現在進行形で読者を引き込み、さらりと回想へいざない、最後に現在へ光を与えている。
……ダメだ。ぜんぜん批判になっていない。
改めて気づかされる。凡才に天才をおとしめることなどできるはずがないのである。
だが、どうしてだれも向田邦子を嫌わないのだろう。
向田邦子もその作品も、嫌われないところが嫌いである。
「どこ吹く風」(山口瞳/集英社文庫)絶版
→山口瞳は女嫌いだけれども、それは女を馬鹿にしているということではない。
むしろ、正反対である。
この作家の胸のなかには確固とした理想の女性がいるのだ。
山口瞳は現実の女が嫌いであるに過ぎない。
逆にこの態度を馬鹿にするのがいまの女ではないか。
女なんてそんなものじゃないと男を侮蔑するのが新しいと考えている女が多すぎる。
女が女を壊しているのである。
わたしは女流作家の描く女性にあこがれたことは一度もない。
女流作家はメスの性悪を告白することが文学だと勘違いしているものばかりである。
かつて女性というのは男女が共有する理想だったのではないか。
女性は男だけのものではない。女にも理想の女性がいてどこが悪い。
理想たらんと思う人間は男女問わず美しいではないか。
だが、山口瞳は理想の女性を描く作家ではない。
かれの小説の主人公は理想の女性を夢見るが現実に落胆する。
いいではないかと思う。理想がなければ現実だけではないか。
現実ばかりじゃ味気ねえ。つまんねえんだ。そこにはときめきもなにもないよ。
男ならだれでも女の汚さくらい知っているのである。
ばれていないと思っているのは女ばかりである。
しかし、だからこそ、汚いものだからこそ、男は女をあがめようとする。
山口瞳の描く男女関係である。
「愛ってなに?」(山口瞳/新潮文庫)絶版
→お酒をのみながら短編小説集を読む。
日本経済が成長していた時代は、サラリーマン生活もこういった読み物になる。
いまは、いまという時代は、どうなんだろう。
もうどうにもならないよな。
病的なものしか、サラリーマンが主人公では無理ではないか。
山口瞳のような健康的なサラリーマン文学は現代ではどうしたって不可能。
サラリーマンとは、近代資本主義が産みだした労働形態。反復と退屈を特徴とする。
この灰色の生活へ、さっと赤色の絵の具をかける。「愛ってなに?」と問う。
山口瞳の小説である。古き良き時代の読み物である。
「江分利満氏の華麗な生活」(山口瞳/角川文庫)絶版
→これもお酒をのみながら読了。
直木賞受賞の前作の続編。こんな楽しい読書はなかった。
サラリーマン文学である。
主人公は江分利満=エブリマン。
かれの特徴をあげれば――。
江戸っ子気質。
分をわきまえている。
利得を求めはするが、
満足することを知っている。
上から左はじだけ読んでください。江分利満。
他からの盗用ではない。いま思いついたことである。
江分利満氏とはこんなサラリーマンなのである。
そして作者・山口瞳の書くものはサラリーマンに愛された。
時代であろう。サラリーマンが文学になった。
不幸・欠乏・艱難・努力・円満・夢・幸福が、この時代のサラリーマンにはあった。
文学の題材たりえたのである。
たしかに「内向の世代」もサラリーマン文学を書いたのかもしれない。
けれども、あれは当のサラリーマンが退屈で読めないサラリーマン純文学でしょう。
戦後日本が産んだ江分利満氏の主張は、たとえばかくのごとしである。
「江分利は美人と話をしていると索漠(さくばく)感に襲われる。
36歳になったいまでもそうだ。美人と話をすると5分で退屈する。
目をそらしてしまう。こちらの退屈がむこうに伝わるからシラジラしくなる。
30歳を越えた美人なら、やや安心である。
35歳以上なら非常に安心である。話題があるせいなのか。
若い美人を遊ばせ笑わせるなんて面倒で仕方がない。
そんな義務的なことはやりたくない」(P177)
「江分利満氏の優雅な生活」(山口瞳/新潮文庫)
→お酒をのみながら小説を読む。
隊長、幸福をここに発見しました〜!
「青い鳥」捕獲ですう〜!
だけど、ラクじゃーないんだ。
どんな小説でもいいというわけではない。
しらふで読む小説より、よほど選定基準が厳しくなる。
酒がまずくなるような小説は読みたくないのである。
ああ〜。現代はそんな小説ばかりなのですよ〜。
これは作家が悪いのではない。時代が悪いのである。
昭和37年(1962年)直木賞受賞の本作品から引用。
「ステレオは、ステレオを買うことは、江分利(えぶり=主人公)にとって
情熱の対象みたいなものだった。
いつかは、老年になってもいい、いつかは凄(すご)いステレオを買ってやろう、
あるいは一生買えないかもしれないが、
ステレオを買うことを生甲斐(いきがい)にしてやろう」(P107)
いい時代だ。
がんばればがんばったぶんだけ幸福になれると国民全体が信じていた。
幸福のまえに、物質的などと付け加える必要がなかった時代。
めざすものがあった。いいよな。
こういう時代に書かれた小説しか読みたくないのである。
少なくとも酒をのんでいるあいだだけは……。
お願いです。夢を見させてください。現実が、なんだ(泥酔)!
「悪霊」(ドストエフスキー原作/椎名麟三/冬樹社)絶版
→読書をしながらメモを取っている。
そのメモを参考にして毎回「本の山」を更新しているわけだ。
この本のメモを、そのまま紹介してみる。
「つまらん 革命 思想はダメ
劇作をわかっちょらん
○青春小説 ×政治小説 ×思想小説」
これだけである。いまから翻訳する。
この「悪霊」は、ドストエフスキー作として知られる、
あの有名な長編小説を戯曲化したもの。
ところが劇になっていない。ダイジェストというのか。あらすじを紹介した程度。
せりふがどれも観念的。椎名麟三はドストエフスキーの思想に着目したということ。
この作家は「悪霊」を思想小説や政治小説のように読んでいたと思われる。
わたしはドストエフスキーの小説を青春小説として読んだ記憶がある。
未熟な青年たちが、その未熟さゆえに葛藤、成長する物語。
「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」。どれも青春小説として楽しんだ。
この読みかたは宮本輝から教わったもの。上品な読書ではないとわかっている。
だけど、じゃあ、と高級な椎名麟三に問いたい。
思想に感銘を受けるのは勝手だが、ほんとうに理解したのかいな。
ドストエフスキーのキリスト教はロシア正教だぞ。
カトリックでもプロテスタントでもない、東方教会系統である。
日本人にはわかるはずがないと思うが。
まあ、椎名麟三は誤読をしたのだろう。
それは青春小説として読んだわたしに比べたら、
この大作家は正しく「悪霊」を読んでいるとは思う。
さて、そもそも読書に正誤などあるものか。いってしまえばすべて誤読である。
読書は楽しんだもの勝ちだと思っている頭の悪い読者の感想をこれにて終える。
「文藝別冊 総特集 遠藤周作」(河出書房新社) *再読
「遠藤周作のすべて」(文藝春秋編/文春文庫) *再読
「遠藤周作の世界」(朝日出版社) *再読
「母なる神を求めて 遠藤周作の世界展」 *再読
→作家の見方はふたつある。人間を見るか、小説を見るか、である。
書いている人間を見るか、書かれてある文章を読むか。
ある小説に感動して作家に会ってみたらがっかり。
会わなければよかったというケースがある。
もう一方で人間としては最高におもしろいのに、書くものはどうしてこんなに……。
わたしが具体例をだすまでもなく思い当たる作家がいるのではありませんか。
作家は文章がすべてだろうという優等生発言はご遠慮願う。
たとえば、柳美里。書く小説はどれもつまらない。
ところが自己演出はめっぽううまい。人間・柳美里はおもしろいんだろうなと思わせる。
だから買うというわたしのような読者は決して少なくないはずである。
柳美里だけではない。男では島田雅彦。
「ダ・ヴィンチ」という雑誌で、ジュンク堂の女性店員が、インタビューに答えていた。
いわく、好きな作家は島田雅彦。なんといっても顔がいいでしょう。
井上光晴も原一男のドキュメンタリー映画で見たら、ハイテンションなおっさんで笑える。
だが、書いたものを読んでみたら、アカ(サヨ)くさくて、いまでは読めたものではない。
そのせいかこの作家の書籍は現在、ほとんど絶版になっている。
これら作家の反対。
書くものがおもしろい作家は、人間としてはたいしてというケースが多いのではないか。
山田太一の書くシナリオ、エッセイは絶品である。
実像がおもしろくないというのではないが、奇行からは縁遠い常識人、生活人である。
本人もそのことをむしろ誇っている。
宮本輝もそう。
あんないいものを書く作家が、若者を見たら説教せずにはいられない独善的な性格で、
しかも池田大作を現人神(あらひとがみ)とあがめるカルト教団の信者なのだから。
結論としては、作家たるもの、すべからくおもしろくあらねばならぬ。
それが人間であれ、書く文章であれ……。
とここまで来て、ようやく本題。
遠藤周作というのは、どちらがおもしろい作家だったのだろう。
最近、思うようになったのは、
もしかしたら人間・遠藤周作はかなりやばい存在だったのではないだろうか。
ひとによってはクスリになるが、同時に強い毒にもなるような。
死んで何年も経つのに、この作家の悪口というのは、ほんとうに出てこない。
唯一といってよいのが、校條剛の小文「めしと説教」(「文藝別冊 総特集 遠藤周作」)。
みごとに遠藤の実像をすっぱぬいている。
気持の悪い卒業論文を書かないために、
これから遠藤周作を研究する大学生はぜひこの短文を読んでいただきたい。
(作者とテクストはうんぬんといった、こむずかしい事情は当方あずかり知らぬ)
この小文を読んでから、注意深く他の作家の追悼文などを読むと、
人間・遠藤周作の正体がうっすら見えてくる。
狐狸庵先生のイメージからは程遠い、ヒステリックな癇癪もち。
説教をするのが何より好き。
なにかといえば、礼儀がなってないと年下を怒鳴りつける。
悪戯電話で有名だが、冗談ではすまなかったこともある。
有吉佐和子にそれをやって、心底から嫌われた。
俗物で成金趣味。メシを食うところは、ハイカラな高級店限定。
3人で行って10万円近く取られる寿司屋をひいきにしていた。
あやしげな民間療法や祈祷師が大好き。
高額の謝礼金をいんちきまじない師にぽんぽん払っていた。
手かざし(駅でたまに見るあれ)が集中して来訪していた時期もあった。
致命傷になった腎臓も、おかしな民間療法が原因だったのではないかという噂がある。
父親はそうとうな資産家で、芥川賞を受賞するまで面倒を見てもらっていた。
ファンからサインと一緒に、好きなことばを書いてくれと頼まれると――。
「多く許すものは、多く愛される」
そのくせじぶんは、実の父親を生涯許さなかった。
理由は別に愛人を作って、愛する母を離縁したから。
夫の死後、夫人の遠藤順子さんが文化人になり、なぜか小説まで出版するという不思議。
うん、遠藤周作の周辺はおもしろい。
ほじくればもっとなにか出てくる作家ではないか。
書くことのないフリーライター諸氏に、ぜひ挑戦してもらいたいところである。
「人間失格」(太宰治/新潮文庫) *再読
→高校生のときに読み、つぎは大学生のとき。
なんだかよくわかんないけど、シンコクな小説だなというのが当時の感想。
読むのは三度目。人間失格者が「人間失格」を読むことになったわけである。
この小説を読んで衝撃を受けるのは、まともな生活者のあかしではないか。
恥ずかしながらこう生活破綻者となってから「人間失格」を読むと――。
ただもう笑えるのである。こんな大笑いをしたのは久しぶりである。
「人間失格」を読んだ感想としてよくあるのがあれ。
どうして太宰はじぶんのことをこんなにわかっているのであろうという驚愕。
いっさいないね。
この感想と裏表の関係なのが、じぶんだけが太宰をわかっているという傲慢。
これもない。まったくない。わたしには太宰がさっぱりわからぬ。そこがおもしろい。
大笑いした箇所を引用する。一緒に笑いませんか。
「自分には、淫売婦というものが、人間でも、女性でもない、
白痴か狂人のように見え、そのふところの中で、
自分はかえって全く安心して、ぐっすり眠る事が出来ました」(P43)
さらっとものすごいことを書いていないか。
この下手からでる差別意識がたまらない。なんてシュートなことを書くんだ。
おつぎはカフエ女給との心中後。女は命を落としている。
「けれども自分は、そんな事(実家の事)より、
死んだツネ子が恋いしく、めそめそ泣いてばかりいました。
本当に、いままでのひとの中で、あの貧乏くさいツネ子だけを、
すきだったのですから。
下宿の娘から、短歌を五十も書きつらねた長い手紙が来ました。
『生きくれよ』というへんな言葉ではじまる短歌ばかり、五十でした」(P64)
じぶんのために死んだ女をあくまでも「貧乏くさい」と形容する!
「生きてくれよ」の短歌も笑える。人間をバカにするのもここまでくると神業。
もうこのくらいでやめたいが、最後にもうひとつ。
実家が金持ちで幼少時から苦労をしたことがない主人公が悪友の家へ行く。
貧しい家である。せめてものもてなしとして汁粉がだされる。それを口にして――。
「……(悪友は)まんざら芝居でも無いみたいに、
ひどく喜び、おいしそうに食べるのです。
自分もそれを啜(すす)りましたが、お湯のにおいがして、
そうして、お餅をたべたら、それはお餅でなく、
自分にはわからないものでした」(P82)
いやなやつだよな。ふつうひとは差別をするとき、上手から見下す。
だが、太宰は下手から差別するのが特徴である。慇懃無礼というのか。
それが実にかたちになっている。うまいのである。笑えるのである。
太宰は尊大である。じぶん以外を軽蔑しきっている。
ならふつうに上手から差別すればいいと思うであろう。
いや、太宰はもっと尊大なのである。わざわざ下手へ降りていき、そこから蔑視する。
そのほうが被差別者をよけい下位に置くことができるではないか。
「人間失格」? なにをいうか。これとて、おなじ仕組みである。
太宰が蔑んでいるのは、決しておのれではない。
その他大勢の人間をこの流行作家(当時)は蔑視しているのである。
見下しているわけだ。
この作家の態度を非難しているわけではない。やるなあと感嘆する。尊敬する。
たとえば、あの世の酒場――。
扉を開くとカウンターに太宰がいる。
太宰のまえにはファンとおぼしき青年の行列が。
自殺したのであろう。この若者たちは死後も思いつめた顔をしている。
順番である。太宰と対面した若者がいうことはおなじである。
あなただけです、ぼく(あたし)をわかってくれるのは!
ぼく(あたし)の人生も実は……(延々と続く)。
ふと太宰を見る。にやにや笑っている。
ファンの青年とはだいぶ温度の違いがあるようである。
そもそも太宰はきちんとファンの話を聞いていない。
すぐにわかる。この作家は他人のことなど興味がないのだ!
少し離れたところで酒をのみながら太宰とファンの交流を見守る。
いっこうに終わる気配がない。太宰は終始にやにやするばかり。
席を立つ。太宰の肩をたたく。
振り向いた太宰をわたしはビール瓶で殴りつけるかもしれない。
「いいかげんにしろ!」
これは愛である。わたしも太宰治を愛しているのである。
「斜陽」(太宰治/新潮文庫) *再読
→こんなことはめったにない。
どうにもこうにも感想が書けなくて、ネット上をうろうろしていた。
戦闘、開始。引用、開始。
「人間は恋と革命のために生れて来たのだ」(P116)
読書の際はつねに横にコーヒーがあるのだが、もうダメなわけである。
ふきだしてしまう。いくら小説とはいえ、よくこんなことを書けるよなと太宰の顔写真を見る。
この顔なら許されるのか。おもしろいよな太宰治。
わたしにとって読書は泥棒である。
どうにかして文章で食べていきたいと不遜なことを考えている。
そのとき太宰のやりかたというのが、たいへん勉強になる。
「私」のあつかいかたがなんと巧みなことか。いまふうにいえば自己演出。
さらっと、とんでもない扇動をする。そのくせ裏では舌をだしている。
読み手をおかしくさせようとする。ほら、ほら、やっちゃえよと背中を押す。
太宰治の文体である。引用、継続。
「死ぬ気で飲んでいるんだ。生きているのが、悲しくて仕様が無いんだよ。
わびしさだの、淋しさだの、そんなゆとりのあるものでなくて、悲しいんだ。
陰気くさい、嘆きの溜息(ためいき)が四方の壁から聞えている時、
自分たちだけの幸福なんてある筈(はず)は無いじゃないか。
自分の幸福も光栄も、生きているうちには決して無いとわかった時、
ひとは、どんな気持になるものかね。
努力。そんなものは、ただ、飢餓の野獣の餌食(えじき)になるだけだ。
みじめな人が多すぎるよ。キザかね」(P152)
キザだよ!
しらふでこんなことを書く人間を許していいのか。
負けた。「斜陽」をまえにして、もうなにも書けぬ。戦闘、敗退。
(おまけ)
この「斜陽」は、当時交際のあった、ある女性の日記をもとにして書かれている。
小説何度もでつかわれている「戦闘、開始」は、その日記からのパクリ。
それを知り、安心する。
というのも、このフレーズに感嘆することしきりだったから。
これは女の文体である。男からは「戦闘、開始」がでてこないはずである。
太宰とてそれは無理であったということを知り、なぜか安堵する。
太宰の小説を読むよろこびのひとつは、言葉を採集する快楽。
こんな言葉があったのかとため息がでる。
今回、勉強したのは、繰り返しのちから。
わたしなどは、文章作法にしたがい、繰り返しはなるべく避ける。
ある言葉をつぎにだすときにはいいかえる。
たとえば「〜〜と思う。〜〜と思う。〜〜と思う」みたいのは敬遠する。
「〜〜と思う。〜〜ではないか。〜〜だろう」と書き直してしまう。
だが、太宰は、意外やいわゆる悪文をけっこう書いているのである。
それがいざ読んでみると、むしろ感興があるのだから。
反復の意味するところは、文体のリズムの問題である。
太宰の文体には真似のできないものがある。
息の長い文章をさんざん続けてから、さっと体言止めを入れる。あるいは名詞一語を挿入。
うまいよな。これまた戦闘、敗北である。
「右大臣実朝」(太宰治/新潮文庫)
→作家が自己を超越せんと書いた小説である。いいかえる。
商売人の太宰治が芸術家になろうという壮大な野心をもって創作した物語――。
諸家の評価は知らぬ。わたしは、失敗作と見る。
時間をかけて作りこんでいるのはわかる。裏目にでているのではないか。
物語の構造は「聖−俗」の対立。小説は、図式的といわざるをえない。
聖の位置にいるのは鎌倉三代将軍・源実朝。
高貴な生まれにして、和歌の才能も知られるところである。
太宰治が生涯でかならず書いてみたいと思っていたのが、この実朝だという。
さて他方、俗とラベルをはられたのは北条泰時、鴨長明、公暁――。
俗な人間をあげたらきりがない。なにしろ実朝以外はみな俗なのだから。
語り手の「私」のみ聖俗の中間地点にいる。聖も俗もわかるというわけである。
なにゆえ失敗作か。
題名にもしている右大臣実朝が人間としてうまく描かれていないからである。
とてもおなじ人間には思えない。好感を持てない。
太宰は笑っていうだろう。
当たり前だ。あれは雅(みやび)のひと。きみたち庶民にはわかりはせぬ。
きみたちにわかるもんか。そのように書いたのだ。
あれは僕の理想の境地。余人、立ち入るなとたて看板をつけたいくらいなのだよ。
さあ、どうかな。この小説で唯一、光っている人間がいる。
俗人の代表というありがたくない衣装を着せられた鴨長明である。
このきわめて人工的な機械めいた小説の中で、
ただひとり人間を感じさせるのがこの「方丈記」作者なのだ。
なんともいやな人間として描かれている。
口では悟ったようなことをいいながら、その実、世俗的な欲望がぷんぷん。
この鴨長明は太宰にしか書けないと苦笑いしたくなる。
右大臣実朝は三島由紀夫にも書けたであろう。
だが、あの鴨長明は決して三島には書けない。どういうことか。
この小説における鴨長明は、太宰治の自画像にほかならぬ。
口では優雅を存知したようなそぶりをよそおいながら(「右大臣実朝」を書きながら)、
人間のありようとしては貴族から程遠い(鴨長明しかうまく描けない)。
「右大臣実朝」は敗北の記録である。かなしい小説だ。人間は生まれを超えられぬ。
ふと川端康成のことばを思いだす。どこで読んだのだったか。
かの文豪はあらゆる小説に目を通していたということである。
あるとき、こんなことをもらす。
きわだった文学的野心のあるわけでもない新聞小説を絶賛していわく――。
この小説は、作者が肩の力を抜いて書いているのがいいですね。
それがわかって、読んでいるのがとても楽しいです。
思いだした。山口瞳のエッセイで読んだのだったか。
山口瞳は編集者時代に川端康成と親交があったはずである。
太宰治の「右大臣実朝」から受け取るしんどさをこの例で説明はできないか。
作者があまりにもちからを入れすぎているのである。
全精力をかたむけ太宰はおのれを超越しようとしているのである。
太宰は芸術家たらんとした。結果、小説から自然な感傷が姿を消す。
なるほど太宰はこの小説で一面、芸術家になることに成功しているともいえよう。
この小説には商売人らしからぬ読者を無視した部分が認められる。
太宰には似合わぬ重たさがある。問題はこの重さを、おのおのがどう受け取るかだ。