「飛ぶ教室」(ケストナー/丘沢静也訳/光文社古典新訳文庫)

→児童文学の古典、ケストナーの「飛ぶ教室」をいいおっさんが読む。
ひと言でまとめれば、友情が孤独に勝利する物語である。
孤独の象徴ともいうべきヘビースモーカーの中年男性「禁煙さん」が
物語の最後で仲間に加わり、めでたしめでたしとなる。
医者だった「禁煙さん」が孤独になったきっかけは不運にも妻子に先立たれたからである。
「禁煙さん」は仕事を辞めて、親友のまえからもすがたを消した。
いまは底辺居酒屋でピアノ演奏のアルバイトをして小金を稼いでいる。

「でさ、このね、うるさくって低俗な居酒屋で、不思議な孤独を感じるのさ。
どこかの森のなかにいるみたいな」(P160)


こんな気障(きざ)なことをいう孤独な中年男性を少年たちはなぜか慕っている。

「禁煙さんはイブをひとりぼっちで過ごすはずだ。
少年たちはそれを気の毒に思っていた」(P47)


少年たちの活躍で「禁煙さん」はかつての親友と再会する。
おかげで「禁煙さん」もイブは親友と過ごすことができるようになる。
イブにひとりぼっちではなくなる。
この少年たちの友情物語の登場人物でひとり孤独な男の子がいる。
孤独な彼はほとんど作者からエピソードを与えられていないが、
孤独な少年ゼバスティアンはこの友情物語にいなければならなかった。
孤独なゼバスティアンがいることでみなが友情ごっこを演じられているのだ。
いつも冷静で皮肉屋のゼバスティアンはこんな男の子である。

「ゼバスティアンには親友がいなかった。
「ゼバスティアンには親友がいらないんだ」と、みんなからずっと思われていた。
だがいまは、ゼバスティアンも孤独に苦しんでいることが感じられた。
きっとゼバスティアンは、それほど幸せな人間ではないのだ」(P149)


本当はみんながみんなゼバスティアンなのだろうが、
それではあんまりにもひとりぼっちで孤独すぎるから友情を演じる。
家族を頼るものもいよう。会社の同僚に仲間意識を持つものもいるだろう。
人間はみんなひとりぼっちだが、ひとりぼっちはしんどい。
現実にはめったにない仲間のよさ、
友情のすばらしさを描いた「飛ぶ教室」が古今愛される理由かと思われる。

「子供たち」(チェーホフ/池田健太郎訳/「瞳」百年文庫/ポプラ社)

→チェーホフって過大評価されすぎのような気がする。
チェーホフと聞くと、なーんか文化の香りがするけれど、まあ香水みたいなもん。
おれはさ、文学は酒で酔うものだと思っているから香水を嗅がされてもねえ。
この短編小説は大人がいない夜にトランプ遊びをする子供たちのスケッチ。
たくさん子供が出てきて、それを描き分けるのがうまいってことなんでしょうが、
ストーリーがないから困っちゃう。
おれはね、風景描写とか人物描写が大嫌いなの。
そんなもん一個だけ特徴を書いて、あとは読者各自のイメージにまかせればいいじゃん。
作者のおまえが伝えたい風景とか人物って言葉じゃ伝わらないって思うぜ。
その正確に伝わらないところが小説を読む楽しさじゃないか。
読者が自分の経験と照らし合わせ、
文中の言葉を手がかりにして風景や人物を創作するのが読書の喜びだと思う。
ひとつまえの記事に書いたモーパッサンの「悲恋」は読んでいておもしろかった。
ちなみにあの記事は原作を忠実にリライトしたわけではなく、
こちらの経験に基づいた一種の創作だけれども、あれこそ楽しい小説読書だと思う。
小説を読むというのはめいめいがそれぞれの創作をすることではないか。

「悲恋」(モーパッサン/青柳瑞穂訳/「瞳」百年文庫/ポプラ社)

→艶福家(えんぷくか/もてる人)の老人の昔話。
結局、小説というのはどこまでもおもしろいお話だと思っている当方には、
じつに味わい深い作品であった。
画家の老人は若いころ絵を描きながらフランスのあちこちを放浪していた。
イケメンで若い画家といったらもてないはずもなく、各地の田舎娘とねんごろになった。

「恋されるということは、やっぱり、いいものですからな。
たとえ相手がどんな田舎娘でもね。
男に会うときの、あの心のときめき、また、別れるときの、眼にためた涙、
まことに珍重すべき、尊いものじゃありませんか。
ゆめゆめ、ばかになんぞいちゃいけません」(P73)


画家は旅先の宿で、嫌われもののオールドミス(ハイミス)と出会う。
女は50歳くらいで自分が熱心な英国国教会の信徒であることをアピールしていた。
会うひとごとに英国国教会の布教パンフレットを配るのでみなから疎んじられていた。
日がななにをするでもなく周辺を散歩したり、岩の上で瞑想したりしていた。
25歳の画家は50女と話すこともなく風景を写生する毎日だった。
同宿のふたりは話すこともなく、それぞれの旅生活を送っていた。
どうして放浪画家はこの地にとどまったのか。
まずこの周辺地域の雄大な自然の風光に魅せられていたことがある。
それだけではなかった。
嫌われもののミス・ハイリエットのこともあたまの片隅になかったと言ったら嘘になろう。

「できることなら、わたしは、この風変りのミス・ハイリエットを
すこしでも知りたいと思ったのです。
そしてまた、あのさまよい歩く老イギリス婦人の孤独な魂のなかは、
そもそもいかなるものか、それも知りたいと思ったのです」(P91)


人はだれかからほんの少しでも関心をもってもらえたら変わるものである。
そのわずかな関心を得るのでさえまったく本当に難しいのだけれども、
それでも男女ともに異性からなんなりかの関心を持ってもらえたら変わることができる。
もちろん、変わることがいいことか悪いことかはわからない。
若い画家は会心の習作を描き上げることができた。
しかし、それを宿の女主人に見せてもさっぱり理解してもらえない。
そのとき、ミス・ハイリエットが通りかかったのである。
じつのところ画家はこの老婦人にも絵を見てもらいたいと思っていた。
そのためにだれの目にも触れるところに絵を立て掛けておいたのである。
25歳の若い画家の描いた風景画を見て50歳の老婦人は感動する。
彼女はこう言ってくれたのである。
「おお、あなたは胸をどきどきさせるように自然を理解しています!」
画家は彼女の言葉に感動する。

「いや、はや、わたしは顔を赤くしてしまいましたね。
女王さまにほめられたよりも感動しましてね。
このお世辞には、わたしもつられましたよ。征服されましたよ。負けましたよ。
できるものなら、彼女に接吻がしたかったくらい。
これ、冗談じゃありませんよ!」(P95)


このとき以来、ふたりは言葉を交わすようになる。
それどころか連れだって散歩をするようにも、ふたりで夕陽を見て感激するようにもなる。
孤独な老婦人は画家の横で美しい落日に見入って、
つたないフランス語で「わたくし、この自然を、愛します、愛します、愛します」と言った。
孤独な女は自然と動物を情熱的に愛していた。

「ほどなく気づいたのですが、彼女は、何かわたしに言いたいことがあるらしく、
しかし、それをきりだして言うだけの勇気はないのですね。
わたしは彼女がおずおずしているのがおもしろく、
素知らぬふりをしていたのです。
朝など、わたしが絵具箱を背負って出かけると、
よく村のはずれまで送ってきたものです。
おしのように黙っていますが、ありありと焦慮の色が見え、
何か、きっかけの言葉をさがしているようでした。
けれど、ふいと、わたしのそばをはなれると、例のはねるような足どりで、
さっさと引返してしまうのです」(P101)


宗教べったりだった嫌われものの老女にスキップさせたものはなにか。
人はどういうときにスキップするのだろう。
なにが孤独な老婦人の魂の底に芽生えたのだろうか。
あるとき意を決して婦人は画家に絵を描いているところを見せてくれと頼む。
画家が承諾すると毎日のように老婦人は若い画家の横に陣取るようになった。

「わたしは彼女にたいして、旧友のような、遠慮のない、親身な態度をとっていました。
それだのに、やがて、彼女の態度のすこし変ってきたことがわかりました。
はじめのころは、わたしもさほど気にもとめませんでした」(P105)


老婦人の心中でなにかしらの変化が生じたようだ。
画家が絵を描いているといきなり駆け足で飛び込んでくることがあった。
そうして上気した顔で画家と画板を見比べるのである。
その顔には深い感動に打ち震えているさまが見てとれた。
かと思えば、急にいまにも気絶しそうになることもある。
突然不機嫌になって、ぷいと画家のそばから離れていくこともあった。
画家は彼女の変化に気づいていたのかどうか。
食事の席で、いまはいささか孤独から遠ざかった老婦人に、
画家はこんな冗談まじりのお世辞を言う。
「ミス・ハイリエット、きょうのあなたは星のようにお美しい」
そんなときの彼女は、すぐに顔をぱっと赤らめて、まるで小娘のようなのだ。
それこそ、十五歳の小娘のよう。
いったい老婦人はどうしてしまったのか。
このごろでは画家が声をかけると、答えることには答えるが、
それがわざと無関心をよそおい、どことなくいらいらしている。
それに、なにかにつけ、つっけんどんで、気短かで、神経質だった。

「ときどき、彼女はわたしを奇妙な眼つきで見ていました。
そんなあとで、わたしはよく思ったことですが、死刑の宣告を受けた者が、
執行の日を知らされたとき、やはりこんな眼つきをするのではないでしょうか。
彼女の眼には、一種の狂気が宿っていました。
神秘な、はげしい狂気なんです。しかし、そればかりでなく、まだ何かありました。
一種の熱情なんです。実現しない、実現しえないものにたいする、
絶望的な願望、性急で、無力な願望なんです!
さらに、彼女のなかでは、一つの争闘が行われているように思われました。
彼女の心が、得体の知れない力を制御しようとして、
それとたたかっているように思われました。
おそらく、ほかにも何かまだあったんでしょうが……。
さあ、そうなってくると、わたしにはわかりません」(P108)


ある日、画家はいつものように風景画を描いていた。
しかし、この日はいったいどういう気持の按配だろう。
風景のなかにひとりの青年を入れたくなった。そうしたら少女も入れたくなった。
いままでのような風景画ではなく、そこに青年と少女のカップルを入れたい。
画家は口づけをする青年と少女を遠景にすえた絵を描き上げた。
どうしてかこの絵をほかならぬミス・ハイリエットに見てもらいたくてたまらなくなった。
いやがる老婦人の手を取って画家は絵を旅先でできた友人に見てもらう。
それまでずっと孤独な人生を歩んできた宗教だけが救いだった老女は絵を見て泣く。
どうしたらいいかわからなくなった若い画家が老婦人の手をつつむとさらに泣く。
老婦人の手は震えていたから画家はさらに強く手をにぎってやる。
すると涙で顔をくしゃくしゃにした老婦人は十五歳の小娘のように、
勢いよくさっと手を引っこ抜いた。
このときプレイボーイの画家はようやく老女の心中に起きた変化を知る。
画家は明朝すぐにでもこの地を離れることを決める。
その晩の夕食では画家とミス・ハイリエットのあいだに会話はなかった。
画家はこの宿で下働きをする田舎娘ともいつものようにねんごろになっていた。
性の営みなどまるで知らぬオボコを女にするのが画家はうまかった。
この娘とも今晩でお別れだと思うと25歳の青年としては致し方ない行為だった。
女中が鶏小屋のほうへ行ったのを見かけた画家は追いかける。
いきなり画家はうしろから田舎娘に飛びついたが、
娘はいやがるどころかキャッキャと喜びの声をあげる。
画家は田舎娘の顔じゅうに接吻をして服を脱がしかかったまさにそのとき、
後方で物音がする。
この場から走って逃げていくミス・ハイリエットのうしろすがたが見えた。

「わたしも部屋にもどりましたが、ただもう恥ずかしくてなりませんでした。
彼女にこんな場面を見られ、何か犯罪行為でも行なっているところを発見されたように、
にっちもさっちもゆかなくなってしまいました」(P117)


画家はひと晩じゅう寝つけなかった。それでも朝方すこしまどろんだのだったか。
大騒ぎしている声がするので、寝床からはいあがりそこに向かう。
井戸の底に水死体が沈んでいるという。
画家も力を貸しその水死体を引きずりだしてみると、
それはもはや息をしていないずぶぬれの孤独な老女、ミス・ハイリエットだった。
この艶福家の老人の昔話を聞いて涙を流さない女性はいなかったという。
さて、いまは老いた画家はなんと言ってから、このかつての悲恋の物語をはじめたのか。

「奥さんがた、前もって、断っておきますが、あまり陽気な話ではありませんよ。
わたしの一生のうちで、いちばんに悲しい恋物語なんですから。
ついでに、わが友人諸君にお願いしておきますが、この話のような恋愛は、
女たちにゆめゆめさせないようにしてもらいたいものです」(P71)


「ブロードウェイの天使」(ラニアン/加島祥造訳/「瞳」百年文庫/ポプラ社)

→仕事まえに小説なんか読んで感動するのはよくないのかもしれない。
ほかの仕事はわからないけれど、いまのバイト先はだれでもできる単調単純労働。
感動するというのは人間らしくなるということだから、ミスを連発しかねない。
感情の動きのないロボットのような人ほどうまくこなせる単調単純労働ゆえ。

人を好きになるっていうのはなんてすばらしいんだろうという短編小説である。
因業な競馬のノミ屋(賭博師)のところに5、6歳くらいの少女が置き去りにされた。
馬券代の代わりに父親から渡されたのである。
ところが、父親は帰ってこない。
ノミ屋はベソ公と呼ばれ、このあたりいったいの嫌われものだった。
ベソ公は大金を隠し持っていたが、いつもしみったれた顔をしていた。
彼はとにかくケチで金払いが悪く、ちぢれ耳のウィリーという
ベソ公を拳銃で一発やってやろうと思っている男もいたくらいである。
そのベソ公がどうだ! 
愛らしくだれにでも微笑みかけるマーキーという少女は、
ベソ公やその周囲の連中とはまさに正反対の世界から飛び込んできたように思われた。
ベソ公はそんなことははじめてだったのだが仲間に相談したあと、
マーキーを家に連れ帰り、ひと晩じゅう腰かけたまま、マーキーの寝顔に見入っていた。

「それからどうなったかというと、ベソ公はこの子供をめっぽう気に入っちまうんだ。
これにゃあみんなもえらく驚く。
以前のベソ公は、人間どころかどんな物にだって興味を示さなかった。
それがその夜以来、マーキーを好きになって、
手放すことなんて夢にも考えられないほどになったんだ」(P20)


人間嫌いだったベソ公が変わった。
いつも孤独に金のことばかり考えていた男が、
マーキーを連れてナイトクラブに行くようになった。
そこで踊るマーキーのかわいらしいこと。
マーキーという少女を媒介にして嫌われものだったベソ公も仲間と打ち解けはじめる。
人は変わる。だれかを好きになれば人は変わる。

「とにかくベソ公は以前には死にものぐるいで金をためこんでたのに、
いまはそれを湯水みたいに使うようになる。
その金の使い方がマーキーのことだけじゃないんだ。
『ミンディ』やほかの店でも、ひとの勘定まで払うようになるんだ。
他人におごるなんて、以前のあいつのいちばん嫌いなことだったんだけどね。
そりゃあいまでも少しは金に未練があるんだろうけど、
それでも以前と大違いさ、それにそのおかげかどうか、
やつの顔つきもすっかり違ってきたぜ。
以前のようにもの哀しげで意地悪の下品な口つきじゃあなくなって、
時には気持のいい顔だと思うことさえある。
たとえば少し笑いながら「やあ」って大声でみんなに言うときなんかだ。
そんな変り方を見ると、ベソ公をこんなに明るくするマーキーには、
市長が勲章を出すべきだなんて言いだすやつもいるよ」(P26)


別れは突然にやって来る。
雪の降る夜にもかかわらずマーキーはナイトクラブにいるベソ公に会いに来た。
これがよくなく重い肺炎にかかってしまったのである。
マーキーという少女はこの界隈の人気者になっていた。
やさぐれたチンピラのような男女しかいないうらぶれた町に舞い降りた天使。
それがマーキーだ。だれが入院先の病院に見舞いに行かないことがあろうか。
かつてはギスギスしていた連中が一致団結して有名な医者を呼びに行く。
死ぬな、マーキー。マーキーは弱っていくばかりである。
ある夜、もうダメかと思われた晩、マーキーはうっすら目を開き、みんなに笑いかけた。
開いた窓から近所のナイトクラブが流すダンスミュージックが聞こえてくると、
ベッドのマーキーはスカートを持ち上げて踊りはじめようとするではないか。
そのとき破局は違ったかたちで現われる。
一時的な記憶喪失にかかっていたというマーキーの実の父親が、
姉をともなってこの場に乱入するのである。
やはりマーキーはこんなさびれた繁華街とは縁のない上流階級の子女であった。
そのときベソ公がまた元に戻ってしまったのである。
意地悪で卑しい顔つきに戻って、二度とほかの表情は見せなくなった。
みんなが見ているまえでベソ公は父親に冷たく言う。
みんなのなかにはベソ公が大嫌いで殺そうとしたこともある、ちぢれ耳のウィリーもいた。
みんなが注目するなか、天使のいっときの父親だったベソ公はなんと言ったか。
以前の金は返せよ。金さえ帰してくれたらあんたとはそれきりだ。

「そう言ってベソ公は歩いて病院を出ていく。やつは二度と振り返らないぜ。
やつが出ていくとき、その背後にいるおれたちはまるっきりしんとしちまった。
その静けさを破るのはすけこましの鼻をすする音、
それからおれたちのうちの何人かがすすりあげる声だけさ。
ああそれから、いまよくおぼえてるけどね、
あのときおれたちのなかでいちばん悲しそうにすすりあげたのは、
ほかでもないあのちぢれ耳のウィリーだったぜ」(P48)


「ゴーリキー短編集」(ゴーリキー/上田進・横田瑞穂訳/岩波文庫)

→ゴーリキーはチェーホフと同時代の人なのだけれど、
現在の評価では完全にチェーホフのほうに軍配が上がっているような気がする。
女権推進者のイプセンが女性蔑視者のストリンドベリを打ち負かしたように。
いまゴーリキーの名前を出す人はいないでしょう。
チェーホフはお洒落なのに対して、ゴーリキーは底辺臭がきつくて疎んじられそう。
ゴーリキーが好きだなんて言ったら、赤旗新聞でも取ってるの? 
とか怖々と及び腰で質問されちゃうかもしれない。
ゴーリキーは熱心な共産主義者だった時代もあり、
スターリンの寵愛を受けたこともあった。
こういう事情でいまはもう流行らない作家なのかもしれない。
だが、愚見を申せば、チェーホフなんかよりゴーリキーのほうが荒々しくてよろしい。
お医者さんだったチェーホフに比して、
ゴーリキーはまともな教育を受けたこともない独学の人。
底辺労働を転々としながら言葉を持たない人たちに揉まれた作家である。
底辺の人たちは言葉を持っていないんだよね。
喜びや悲しみをうまく言葉で表現することができない。
ゴーリキーは底辺労働者のうめきのようなものを
的確に言語化した作家だったのかもしれない。
きっと文学少女がチェーホフに行って、政治活動青年はゴーリキーに向かったのでしょう。
実際、ゴーリキーは日本のプロレタリア文学に影響を与えたっていうし。
現存する作家でゴーリキー利権のようなものを持っているのは五木寛之氏になるのかな。

ゴーリキーはいいと思うけれどなあ。
暇があったら神保町と高田馬場の古本屋街をハシゴして
運にまかせてゴーリキーを買い集めてみたいくらい。
岩波文庫の「ゴーリキー短編集」の翻訳はちょっと問題ありのような気がする。
岩波文庫だからしょうがないのかもしれないけれど、訳がよくねえよ。
名短編「二十六人の男とひとりの少女」――。
ターニャが地下の囚人さんたちにパンをもらったところの訳がおかしい。
岩波文庫ではターニャがパンをもらって「狡そうに笑っ」たと書いてある。
別の訳では「いたずらっぽく笑って」となっており、こちらのほうが断然いい。
我われのかわいいターニャが狡そうに笑うはずがないじゃん。
岩波文庫の訳者がゴーリキーのこのすばらしい短編小説を
からきし愛していなかったことが証明されてしまったようなものである。

「零落者の群」(ゴーリキー/上田進・横田瑞穂訳/岩波文庫)

→安酒場のまえにある木賃宿(きちんやど/安宿)が舞台である。
ここでは大尉と呼ばれる宿主をふくめ「失うものがない」零落者たちがとぐろを巻く。
彼らは日雇いの力仕事で日銭を稼いだらすべて酒に使ってしまう。
金がなくなったらまた酒をのむための日銭を求めて沖給仕にでも出かける。
彼らが街の人から嫌われているかと言ったらそうでもない。
大尉の目はいつもどこか笑っているため愛嬌があり、なんだかんだと面倒見がいい。
なかにはこの最底辺の木賃宿を卒業するものも現われる。
大尉のおかげですよ、どうか一杯ご馳走させてください、と恩返しに来ることもある。
ふたりは目のまえの安酒場にくりだし景気よく酔いつぶれる。
翌朝二日酔いになっていたら、これをおさえるには酒しかないと再び酒場におもむく。
ついついこれを何日も繰り返してしまう。
お礼をしているほうの金がなくなったら今度は大尉が金を出して酒をのむ。
こうしてすっからかんになってしまったものは、また大尉の木賃宿の世話になるのである。
「零落者の群(むれ)」に再加入するというわけだ。
零落者のなかには教師と呼ばれる別格のこれまた人生の敗残者がいる。
教師はフリーで新聞記事を書き飛ばして、そのごとにあぶく銭をつかんで帰還する。
毎回、禁酒の誓いは破られることになる。
それでも教師は金の半分は街のスラムの子どもたちのために使う。
貧しい子どもたちにパンや果物を買ってやるのだ。
スラムの元気だが汚い子どもたちは感謝の言葉も口にせぬまま、
一目散に与えられた食物を平らげると次は教師をおもちゃにして遊ぶ。
教師は子どもたちの運命を考え始終暗い顔をしているが、
子どもたちはそんなことはお構いなしに教師の禿げ頭をぴしゃぴしゃたたいたりする。
教師は自分がなにか言葉を発したら
子どもたちを傷つけてしまうのではないかと恐れている。
夜になると教師はいつもの安酒場にしけこみ正体をなくすまで酒をあおる。
宿主の大尉と教師が「零落者の群」のなかでのツートップと言えよう。

いつの時代のどこの国でも社会の底辺では、
彼も我もみな人びとはただただ一斤のパンを求める、
それだけのために一日中こき使われ疲労困憊する。
貧乏と悲しみにうちのめされた人びとはわずかな憩いを求めて安酒場に足を運ぶ。
すると、その落ちぶれた安酒場に常連のように居座っているのが「零落者の群」である。
「零落者の群」は――。

「どんな問題についても堂々と意見をのべ、あらゆるものを茶化してしまう才能があり、
考えることが大胆不敵で、言うことが辛辣(しんらつ)で、
街じゅうの人が恐れている物の前に出ても少しも臆するところがなく、向うみずで、
こうと思ったことはがむしゃらにやってのける――零落者の群のこういった気風は、
街の人気をわかさないはずがなかった」(P263)


こいつらはまったくどうしようもないと思いながら、
その捨て鉢で自由な生き方に日々労働するものは安らぎを憶えるのだろう。
自分は古女房やガキんちょを捨てられないから、
むしろ反対に「零落者の群」が好ましく見えるようなところがあるのかもしれない。
どうしようもねえやつらのよさというのもまたあるのである。

「この人たちには一つのおかしな癖があった、というのは、
彼らは好んでお互いに自分というものを、本当の自分よりも悪く見せよう、
見せようとしていたのであった」(P250)

「この零落者の世界には一つの大きな美徳があった――
そこでは誰も無理に自分をありのままの自分以上に見せようとする者はなかったし、
また他人をそそのかして強いてそんな風にさせようとする者もいないのであった」(P301)


「零落者の群」はもはや見栄を張るという世界からは遠く離れてしまっている。
それにしても人生これからどうなるのか考えると先行きは絶望しか見えない。
かといって、過去を振り返ってもいい思い出はなにひとつとしてなく、
おのれのみじめな境遇を思い知らされるだけである。
どうしてこうなったのかもこれからどうなるかもわからず前後は闇も闇、
一面真っ暗だが、ひとつわかっていることがあるとすれば、
これからあの寒い冷たい凍える冬がやって来ることである。
過酷な運命には飼い馴らされているいるはずの「零落者の群」の凶暴性が目覚めるのは、
こんな冬が目前に迫った晩秋の夜更けである。
虐げられた人間特有の野獣のような憎しみが安酒場に充満する。

「そうすると、彼らはお互い同志で殴りあいをした。
まるで野獣のように、猛烈に殴りあった。
そしてさんざんに殴りあったあとはまた仲直りをして、飲みなおした。
あっさりした気性のヴァヴィロフ[酒場の主人]が抵当(かた)にとってくれるものを
何もかも放りだして、すっからかんになるまで飲んでしまうのであった。
漠然とした怒りと、胸をしめつけられるような切ない思いとにつつまれ、
この愚劣な生活から逃れでる道も見いだすことができないで、
彼らはこんな風にして秋の日を送り、
もっともっと過酷な冬の日が迫ってくるのを待ち受けているのであった」(P274)


そして、だれもが身構えてしまう過酷な冬がやって来る。
大尉は木賃宿のオーナーではなく、
あこぎな商人に地代と家賃を払って建物を借りているだけのただの管理人である。
幾度となく商人からは立ち退きを迫られたが、大尉と教師が力を合わせ撃退してきた。
ところが、忍び寄る冬の寒さがたたったか、相棒の教師が酒ののみすぎで死んでしまう。
あぶく銭が手に入ったため「零落者の群」が庭で酒宴を開いていたまさにそのとき、
最近すがたを見せなかった教師が危篤の状態で運び込まれ、すぐに息を引き取る。
「零落者の群」のボスである大尉は悲しんでやるもんかと強がる。

「時が来りゃ、おれだって死ぬのさ……あいつと同じようによ……
おれだって他の者と変りはねえさ。
――そりゃそうだ!――大尉はすっかり酔っぱらってしまって、
どたりと地べたに坐りこみ、大声をあげてわめいた。
――時が来りゃ、おれたちはみんな同じように死んじまうのさ……アハ、ハ、ハ!
どんな暮しをしようが……そんなことはつまらねえことさ!
おれたちはみんな同じように死んじまうんだからな。
人生の目的というやつは、つまりここにあるんだ。
おれの言うことは本当なんだぜ。
要するに人間は、死ぬために生きてるってわけなんだからな。
そうして、みんな死んでいくんだ……もしそうだとすると、
人間どんな暮し方をしたところで、結局、同じこっちゃねえか?
どうだ、おれの言うとおりだろう。マルチヤノフ?
さあ、もう一杯飲もう……生きているうちにせめて酒でも飲んでだ……」(P341)


翌朝は季節の変わる日であった。
教師という相棒がいなくなってしまった大尉は敵の術策にはまり警察官に連行される。
早晩、この木賃宿も取り壊されることだろう。
教師は死に、大尉は警察に連行され、「零落者の群」は散り散りになる。
ひとつの季節がこの日に終わったと後年、安酒場で語られることだろう。
その場に居合わせた呑兵衛はきっとだれもが、
むかしこの酒場の常連だった「零落者の群」を懐かしく思い出すはずである。

「秋の一夜」(ゴーリキー/上田進・横田瑞穂訳/岩波文庫)

→この短編小説が好きだと白状するのはとても恥ずかしいことだと思う。
あたまでっかちの無職青年が売春少女に慰められ号泣する話である。
日雇いのような仕事を転々としていまは無職で放浪中の青年がある港町に流れ着く。
腹ペコだが一文無しのため固くなったパンさえかじることができない。
夜になりたまたまおなじような境遇で空腹の貧乏家出少女と出逢い、
ふたりで売店に忍び込み古くなっただれも食べないようなパンにありつくことができた。
いちおう腹の虫もおさまったし、
ふたりはどちらが誘うともなく砂浜に横たわり星空を眺めている。
「いっそ死んじまったら」と少女は言う。
少女は生まれてきてから苦労の連続でいまは売春で生計を立てている。
正確には、悪い暴力男につかまり売春をさせられている。
稼いだ金もピンハネされて少女のもとには一銭も入らない。
今日さっきの話だ。
男にほかの女がいたことに気づいた少女が怒ると
逆にボコボコにされ家を追い出されてしまった。
「男なんてみんな死んじまえばいいんだ」
と言う少女は言葉とは裏腹に恨みも怒りも暗さもなく、むしろ明るささえ感じられた。
低学歴ゆえのコンプレックスから貧しいながら本ばかり読んできた青年は、
この顔に殴られたあざのある売春少女のなまの声にガツンとやられる。
自分はいままで本をたくさん読んできたが、本当のことはなにも知らなかった。
この少女の言葉には万巻の書をもってしてもあらわせない真実が宿っている。
書物などではゆめゆめわからぬものが、
いまこうして生きている学のない少女の内奥に存在する。
いままでの自分が根本からくつがえされた青年の身体はガタガタ震えはじめる。
「秋の一夜」に風邪を引いたのか世界観が変わったせいか青年の震えはとまらない。
売春少女は大丈夫と言う。寒かったら、あたしがあたためてあげる。
人肌って意外とあったかいものよ。
寒かったらあたしを抱きしめてあたたかくなって。
大丈夫、考えすぎないこと。いまは辛くても人生なんとかなるものよ。

「彼女は私をなぐさめ、はげましてくれた……
私はなんという仕様のない人間だろう!――この一つの小さい事実のなかには、
私にたいするなんという大きな皮肉がふくまれていたことであろうか!
まあ考えてもみてください!――だって私はそのころは、
本気になって人類の運命というものに心をいため、
社会制度の改革や、政治的な変革を夢み、
おそらく著者自身にさえもそこにふくまれている思想の深い奥底までは
見きわめがついていないのだろうと思われるような、
さまざまの悪賢い書物を熱心に読みふけり――そうして、なんとかして自分を
「偉大な積極的な一つの力」に仕立てようと努めていたのであった。
ところが、いまこの淫売婦は自分の身体でもって
私をあたためてくれているのである」(P158)


どうしてこの子は自分なんかに親切にしてくれるのだろう?
いま自分が味わっている感触は本には書いていなかったことだ。
少女のつんと固くとがった胸の感触はこうも身にしみるあたたかさを持っているのか。
たしかに私は震えていたが、いま思えば震えていたのは私だけではなかった。
宿無しの売春少女もまた震えていたではないか。
どうしてこの子は自分もまた震えているのに私を抱きしめてくれるのだろう。
孤独は寒い。空腹も辛いが、孤独はもっと寒々とするしんどさがある。
だれかとハグしたい。ぎゅっと抱きしめあいたい。
この無学で貧困にあえいでいる売春少女はどれほどの苦しみをいままで味わったのか。
それを想像すると
いままで本ばかり読んで世界をわかったような気になっていた自分が恥ずかしい。
この売春少女はどのくらいの辛酸を舐め、にもかかわらず、
こうして自分を励ましてくれるのか。
本当に不幸なのは自分ではなく、この売春少女ではないか。
どうしてこの子はこの辛い境遇に耐えられるのか。

「ところがナターシャは、ひっきりなしに何かしゃべっていた。
しかもそれが、女でなければいえないような、優しい、慈愛のこもった調子であった。
その彼女のあどけない、優しい言葉をきいていると、
私の身体のうちにいつかしら温かい火が静かに燃えあがってきた、
そしてその火のおかげで私の心のなかの塊りは、溶けていくのであった。
すると私の両眼から涙が滝のようにどっとあふれだした、
そしてそれといっしょに、
その夜まで私の心にこびりついていた多くの憎しみや、憂いや、
馬鹿げた、汚ならしい思いなぞが、
きれいに洗い流されてしまった……ナターシャは一所懸命に私をなだめるのであった。
――さあもうたくさんよ、あんた、泣くのなんて止しなさいよ!
もういいでしょう! なあに、じきにまたいい日がくるわよ、
仕事も見つかるでしょうし……そうしたら、何もかもがうまくいくようになるわ……
そして、絶え間なしに私に接吻(せっぷん)をしてくれた。
かぞえきれないほど沢山の、熱い、熱い接吻を……
これは私が生れてはじめて味わった女の接吻であった、
しかもこれこそ私にとっては最上の接吻なのであった、
というのはその後の接吻はすべて、おそろしく高い値をはらいながら、
しかも私の方ではほとんどなんら得るところがないようなものばかりだったのだから」(P160)


私はこの少女にもう一度会いたいと思って探し回ったが、結局再会はかなわなかった。
あの少女は本当にいたのわからなくなる日もあるが、
あのあたたかさだけはいまでも忘れることができない。
ありがとうと私はなにものかに対して思う。生きるのもまんざら悪くはないのではないかとも。

「チェルカッシ」(ゴーリキー/上田進・横田瑞穂訳/岩波文庫)

→悪人が善人をバカにする話のようにも読める。
札付きの悪(わる)のおっさんが貧農出身の青年をスカウトして一緒に強盗をやる。
悪事はまんまと成功して大金を獲得したおっさんは笑いがとまらないが、
小心者の青年はビクビクしっぱなしでおしっこをちびりそうな気配。
青年はいかにも小物(こもの)らしく、
この大金があればなあ、
これを元手に自分は村にかえってコツコツまじめに生きていくのになあ、
なんて殊勝なことを口にするので、
悪いおっさんは大物ぶって大金の大半を田舎もんの若者にくれてやる。
青年は涙を流しながら感謝する。
そこでなんだか青年も悪(わる)ぶって、
大金をくれなかったら横取りしてやろうかと思っていた、なんて懺悔をする。
ムカっときたおっさんが若者に殴りかかったら、
勢いで田舎もんは都会の不良おっさんをぶちのめしてしまう。
恩人になんてことをしてしまったんだと自分の罪を反省する青年。
「許す」と言ってください、とか悪(わる)になりきれない田舎もんである。
あたまから血を流しながら、もう行けと青年を追い払うおっさんは格好いいのか?
おっさんの名前はチェルカッシという。

「――おい、どうだい? ――チェルカッシがいいだした。
――お前(めえ)はこれから村へ帰(け)えって、女房もらって、畑を耕し、
麦を撒いて、百姓をやろうというんだろう。
ところが、女房は次から次へと餓鬼を生む、食うものは足りなくなる、
そうしてお前は一生あくせくしているってえことになる……ふん、どうだい?
それでいったい、なんの楽しみがあるってんだ?」(P111)


おれも一か八かの悪いことをバシッと決めて大金を手に入れたいなあ。
でも、実際にそういうチャンスがあっても実行できないんだろうなあ。
悪いことってきっとよいことよりもハラハラどきどきして楽しいんじゃないかい?
善人って要はヘタレということがうっすらわかるモラルがねえ小説だ。
まったく銀行強盗でもやって国外脱出してアジアで酒びたりの生活をしたいぜ。
ひとりじゃできないので相棒希望者がいたらぜひメールをください。
来たら来たで腰を抜かしそうな弱腰なおれさまではあるけれど。

「二十六人とひとり」(ゴーリキイ/木村村彰一訳/「穴」百年文庫/ポプラ社)

→こんなおもしろいロシア古典小説があるとは思わなかった。
読んでから1日最高に気分がよかったくらいである。
舞台はパン工場で、そこには毎日毎日早朝から深夜まで
おなじ巻きパンをつくっている「囚人」と呼ばれる26人の最底辺労働者がいる。
いずれもほかでは通用しないだれもがもう人生が終わってしまった男たちだ。
おなじ敷地内にある白パン工場の労働者からも、
2階にある裁縫工場の女工からも「囚人」たちは差別されている。
なにより彼ら自身が自分たちのことを軽蔑している。
そんな薄汚い最底辺の労働者たちに声をかけるものはだれもいない。
ただひとりの例外を除いては――ターニャという16歳の女工である。
ターニャだけは毎朝「巻きパンをくださいな」と地下のパン工場に足を踏み入れる。
26人の男たちはみなターニャを歓迎して最高のパンをこぞってプレゼントしたものである。
毎日つまらない単純作業の繰り返しだが、
ターニャの話をするときだけは26人の男たちの目は人間らしい輝きを放っていた。
かといって、ターニャが特別にやさしかったというわけではない。
ある囚人が靴下のほつれを縫ってくれと頼んだときターニャはどんな反応を見せたか。
どうしてあたしがそんなことをやらなきゃならないの?
そういう冷たい対応にもかかわらず、いやそうだからこそさらにまして、
ターニャという16歳の汚れなき少女は26人の男たちのアイドルになっていった。
ターニャだけが26人の男たちの生きがいであった。

そんな生活に変化が訪れる。
白パン工場に兵隊あがりのイケメン労働者が入ってきたのである。
白パン工場は、囚人たちがいる巻きパン工場よりもはるかに待遇がいい。
いままで白パン工場の人が地下にある囚人たちのところに来ることはなかった。
しかし、その兵隊あがりのイケメンはそうではないのである。
気取ったところがなく、気さくに巻きパン工場の最底辺労働者にも声をかけてくれる。
イケメンがいつも話すのは、自分がいかにもてるかという自慢話である。
それでも囚人たちは、
みんなから差別された自分たちに話しかけてくれるイケメンが好きだった。
そのうち複数の女工とイケメンの兵隊あがりの噂話が地下にも聞こえてくるようになった。
26人の男たちのあいだであのターニャは大丈夫だろうかという話が持ち上がる。
われわれのターニャがあんな顔だけの優男に引っかかるわけがないじゃないか。
そうとも、ああ、そうだとも、あのわれわれのターニャにかぎってそんなことはないだろう。
清純そのものといったターニャは変わらず毎朝巻きパンをせびりにやってきている。
ある昼のことである。いつものように兵隊あがりが女にもてるという自慢をしている。
よせばいいのにある囚人がけしかけてしまうのである。
おまえさんは、ターニャという少女を知っているかい?
あの子はね、いくらおまえさんが甘いことを言おうが引っかかるはずがないな。
イケメンはターニャのことをよく知らない。
翌日、イケメンがまた来て、あんな子のどこがいいんだというようなことを言う。
囚人たちは自分たちのアイドルを愚弄されたようなものだから、
だったら落とせるものならターニャを落としてみろとイケメンに言ってしまう。
兵隊あがりの優男は「2週間でかならずターニャをものにしてみせる」と約束する。

それからの2週間、囚人たちの単調な生活がどれほど楽しくなったか。
毎日ターニャのことで話は持ちきりである。
あのターニャがかんたんに落ちるわけないじゃないか。
われわれのターニャがあんな顔だけの薄っぺらい男に引っかかるものか。
かえってあのイケメンは平手打ちを喰らうんじゃないか。
この「賭け」のおかけで単調な底辺労働がとても楽しいものとなったのである。
ターニャは毎日変わらず巻きパンをくださいと地下に来ていた。
見た目、変わったところはひとつもなかった。
毎朝、汚れなどまるで知らないような笑顔をターニャは見せてくれた。
このぶんだと「賭け」はおれたちの勝ちだと26人の男は勝ち誇るときもあった。
さあ、約束の2週間後の期限が来た。
昼休みにイケメンの兵隊あがりが地下にやって来る。
26人の男たちは興味津々である。
イケメンは中庭を覗いていたら結果がわかるぞと言うのみである。
そこで26人の男たちは地下から中庭の様子を覗く。
まずターニャがスキップをしながら現われ小さな小屋に入っていった。
つぎにイケメンが現われおなじ小屋のなかへ入っていく。
26人の男たちの顔色が変わる。いまわれわれのターニャがおもちゃにされている。
最初に出てきたのはイケメンで囚人たちに向かってこれ見よがしなウインクをする。
股間を誇らしくたたいたようにも見えた。

「それから――ターニャが出てきた。
彼女の目は……彼女の目は歓喜と幸福とに輝いていた。
唇には微笑が浮かんでいた。そして、まるで夢でも見ているように、
よろめきながら、頼りなげな足どりで歩いてきた。
おれたちは、それを平気で見すごすことができなかった。
みんないっせいに戸口へ駆けだし、中庭へとび出すと、
彼女に向かって口笛を吹き、とほうもない大声で憎さげにわめきたてた。
彼女は、おれたちを見るとびくりと身をふるわせ、
足もとの泥のなかへ釘づけにされたように立ちすくんだ。
おれたちは彼女を取り囲み、いい気味だとばかり、
卑猥(ひわい)な言葉を次から次へとあびせかけ、
面と向かって破廉恥(はれんち)なことを口走った」(P143)


ターニャ、おまえはあの兵隊あがりさんにもてあそばれていただけなんだよ。
きっとお股をおっぴろげてさぞかし恥ずかしいことをしたんだろうねえ。
お口で兵隊あがりさんにご奉仕してあげたのかな。
どんなふうにやったかいまちょっと再現してみてくれないかな。
兵隊あがりさんは、あんな女、かんたんに落ちると自慢していたよ。
まさかターニャ、あんたは自分が愛されているとか信じているんじゃないか。
ターニャ、おまえはその他大勢の女と一緒でおもちゃにされただけなんだ。
尻軽女とはおまえのことだよ、ターニャ。
ターニャはだれとでも寝る安っぽい女なんだろう?
今度おれたちとも順番にお手合わせ願いたいねえ。
いったいどこが感じるんだい?
あの兵隊あがりさんはおれたちとも親しくてねえ。
ターニャがあのときにどんなだったかを今度じっくり教えてもらうよ。
ターニャ、おまえさんの痴態はすべておれたちの知るところになるんだ。
軽々とだまされて男の慰み者になった気分はどんな感じかな、ターニャ?

突然、ターニャの目がきらりと光った。落ち着いた声で男たちに向かって言う。
「かわいそうな囚人たちだねえ!……」
ターニャが歩きはじめると囚人たちは道を開けるしかなかった。
26人の男たちの輪から出ると、ターニャは振り返りもせずこうさげすむように言った。
「なんてけがらわしい……人でなしどもだろう……」
うしろすがたからも胸を張っているのがわかり、そしてとても美しかった。
ちっとも汚れれてなどおらず、まえより一段と美しくなった気さえした。
いや、とても美しいものが囚人たちの心から消えてしまっていた。
実際のターニャよりも美しい26人のターニャがこの日消えた。

「おれたちは、中庭の泥のなかで、日の光もささない灰色の空の下で、
雨にうたれてじっと立っていた。……
やがて、おれたちも、だまってじめじめしたあの石の穴へ帰った。
まえと同じように――太陽はおれたちの窓をのぞくことはなかった。
そしてターニャも、もう二度とやってはこなかった!……」(P147)


「断食芸人」(カフカ/山下 肇・ 山下 萬里訳/「穴」百年文庫/ポプラ社)

→変化のない退屈な日常生活に飽き飽きして、
かといってそう時間があるわけでもないからカフカの短編小説を読んでみた。
むかしは流行った断食芸人ではあるがしだいにブームが去り、
みなにかえりみられなくなってひとり孤独に死ぬという話。
まあ、断食芸人なんていたとは思えないから、現実を風刺するお話なのだろう。
断食とは死につながる行為である。人間、食べなきゃ死んじゃうわけだから。
いまの人間は死を見ないようになって、
生きること(食べること遊ぶこと)にしか関心がなくなっているではないか。
国語教科書的には、そういったメッセージを読み取るのが正解なのかもしれない。
しっかし、カフカはなんじゃこりゃあ、というわけわかんないものを書くよなあ。
こういうのを読んでからアルバイトに行くと、いつもの光景が少し異なって見える。
文学の価値というのは、そのくらいならあるのかもしれない。
ちっとも人間も人生も変えやしないけれども、
1日のちょっとした昂揚程度の効き目なら相性のよい文学作品と出会えば。
なにもないよりは少しはましなのかもしれない。