「お縫い子テルミー」(栗田有起/集英社)

→いまこの小説をネットで検索してみたのだが、ものの見事に女の感想しかない。
だが、ふつうに考えたら男が「お縫い子テルミー」なんてタイトルの小説は買わないか。
それ以前に現代文学市場というのは、いまや女の世界ではないのだろうか。
女が書き、女の読むのが現代文学。「スイーツ(笑)」文学。
悪くはないと思う。
むかし文学は女子供(おんなこども)のものとされていたのだから、
日本近代文学の伝統に戻ったわけである。
ならば、男はどこへ行ったのか。成功哲学とアキバかな。
数少ない男の文学残留組は、時代に取り残され、いまだに漱石だのドストエフスキーだの。
その点、流行に敏感な女は違うってことか。「ダ・ヴィンチ」でお洒落にブンガクしよう!

「お縫い子テルミー」はたぶんおもしろいのだろう。
というのも、わたしはがさつな男だから女性様の繊細な感覚がいまひとつわからない。
短文の積み重ねがテンポを生み出し、とても心地のいいものとなっている。

同時収録されている「ABARE・DAIKO」は、はっきりつまらないと断言できる。
この小説の主人公は小学5年生の男児。
かつて少年だった経験からこの小説を眺めると、からきし読むにたえない。
けれども、ネットの女性読者はみなみなこの「ABARE・DAIKO」を絶賛している。
「少年の心情がよく描けている」って、おまえら少年だったことがあるのかい?
なーんて、からむとセクハラや痴漢で訴えられてしまうかもしれない。

もしかしたら現代の文学は女性専用車両で、男性はシルバーシートの老大家のみなのか。
「若いおなごはええの」と鼻の下をのばしている既存作家のにやけ顔がいやらしい。
「八月の路上に捨てる」(伊藤たかみ/文藝春秋)

→おなじ芥川賞作品の「乳と卵」と比べたら10倍はおもしろいけれども、
作者に華がないから世間的には受け容れられないのかもしれない。
なにかないと世間は振り向いてくれない。
作品ではなく作者で評価されるのはとても残酷だと思う。
その意味では会見場でずっこけてみせたモブ・ノリオはこうごうしい。

閉塞的な時代状況が極めて巧みに描かれていると思う。
現代の「終わっちゃった」という感じがうまくすくいとられている。
選考委員には概して不評だったようだが、いまは先生がたの若かったころとは違う。
「ぶっ壊せ、ぶっ壊せ!」とバリバリ進める時代ではないのである。
もし選考委員の先生がたがいまを生きる若者だったら
どんな傑作を書いてくれるのだろうか。
とくにいまは男が損である。
伊藤たかみはこの不利な状況のなかで最大限に奮闘している。

主人公の妻・知恵子の壊れっぷりに大笑いした。
知恵子は編集者になる夢を持っていたが大手出版社に落ち続け、
興味のないマンション販売代理店に就職。円形脱毛症になる。
1年後、食品関連企業の出版部門に転職するものの心を病んで退職。
突如、アナウンサーになると20万円もの代金を支払い通信講座に入会する。
夫の敦から散財を責められると――。

「趣味でやるのはいいけど、今さらそんな金を使ってどうなるの。
アナウンサーになんてなれっこないじゃん。
二十万あったら、俺たち、今月どれだけ楽だったか。敦はついに言ったのだ。
すると知恵子は、考えていた以上に反応した。
何かに取り憑かれたようになって、どうしてどうしてと、
敦の襟首をつかんで揺さぶった。
どうしていけないの。私だけどうして夢を追っちゃいけないの。
私はずっと辛かった。夢がないのが辛かった。そんなとき、思い出した――。
言い方が、安っぽいドラマのヒロインみたいでまた憎たらしくなり、
敦は冷たく言い放つ。
そんな暇があるんなら、いい加減、働いてくれよ。
ぎゃあと叫び声が聞こえたが、定かではない。
そこから先、敦はなぜか醤油差しの注ぎ口ばかり見ていた。
垂れた醤油がこびりついている。はっきりしない不満のように凝り固まっていた。
気がつくと知恵子は、狂ったように教材を壁に投げつけていた。
出口がない出口がないと意味のわからない言葉を吐く」(P40)


おかしい。とっても笑える。出口がない出口がない(笑)。
「乳と卵」(川上未映子/「文藝春秋」2008年3月号)

→川上未映子さん、ひさびさの大型新人の登場ですね!
マスメディアのあつかいも大きく、この新人を世に出した選考委員もしてやったりでしょう。
いまさら同人誌歴20年の陰気な高校教師が受賞しても意味がありませんもの。
川上未映子さんは芥川賞作家に必要な華を生まれ持っています。
これこそ彼女の才能です。書店のポスターではどきりとしました。

小説について語りたいと思います。文章が読みにくくて苦労しましたが、
ふと考えてみれば読みやすいものは文学ではないので、これは純文学の王道ですね。
このような高度な作品を難なく読みこなせるよう勉強をしようと思いました。
女性の生理に関するぐじゅぐじゅした描写がよくわかりませんでしたが、
これはわたしが鈍感な男だからでしょう。
これからはどんどん女性の時代になっていきます。
こんかい日本文学の最先端たる芥川賞作品で女性ならではの感性を学習できたのは、
とても有意義でした。

川上未映子さんの小説技法は、まるで新人とは思えないほど熟練しています。
豊胸手術のため上京した姉と銭湯へ行く。
姉はタオルで胸を隠しているが、しばらくしてからぱらりと公開される。
手術に出かけた姉がなかなか帰ってこないで気をもませる技術も一級品です。
姉の娘が失語症(?)で、最後に言葉を発するというのもすばらしいのひと言に尽きます。
買った花火の使われなかったのがふしぎでしたが、
いまから思えばこの芥川賞の大フィーバーを予告していたのかもしれません。
川上文学の力学はチラリズムではありませんか。
見えるか見えないかぎりぎりのミニスカートで関心を引く。
待たせて待たせて、ぱっと足を開く。あるいは、さっとスカートを持ち上げる。
「平成の樋口一葉」川上未映子、その人と文学のなんと妖艶なことでしょう。
今後のご活躍、期待しております。
「ひとり日和」(青山七恵/河出書房新社)

→第136回芥川賞受賞作。
選考委員がこの作品を芥川賞に推したのはニートが正社員になる話だからではないか。
だれもが思っていることだけれども、いまのニッポンはもうメチャクチャだ。
生きていることになんのはりあいもないひたすら退屈でむかむかする国になってしまった。
だれがこんなふうな国にしたのか。
文学にそれほどの力はないのは重々承知だが、それでもいまの文学者の責任は重い。
とくに石原都知事や村上龍である(「ひとり日和」を強烈にプッシュしたのはこのふたり)。
石原、村上は、まるで地道に働くことが愚かであるようなことをさんざん書いてきている。
両者のみならず、そもそも作家の存在がサラリーマンとは相容れないのは言うまでもない。
身もふたもないことを言えば、自由、個性、希望、自己実現といったような言葉がよくない。
才能のある人間はほんのひと握りだから、
大多数の人間は退屈な人生をごまかしながら生きてゆくほかない。

唐突に話は飛ぶが、
これこそ青山七恵の退屈な小説がベテラン作家に賞賛されるゆえんである。
いまさら暴れる若者など描かれたら、権力者は困るのである。
現代文学は、終わりなき日常を、ほどほどにやり過ごす術を教えるものでなければならぬ。
青山七恵の「ひとり日和」をつまらないというものは文学をわかっていないのである。
現代文学には現代が描かれていなければならない。
青山七恵は無思想、無感覚の状態で現代をふらふら生きているからこそ、
芥川賞を受賞するような最先端の文学作品を書けたのである。
なるほど現代にはたしかなものはなにもない。
だからこそ、なにもない青山七恵が評価されなければならないのである。
壊すものがまだ残存していた時代には、破壊者や保存者が文学者たりえた。
ところが、いまはほんとうになーんにもないのである。
したがって、破壊殲滅も伝統保持も空々しい。
青山七恵の「ひとり日和」が傑作と称されるのはこのためである。
「グランド・フィナーレ」(阿部和重/講談社)

→第132回芥川賞受賞作。こんばんは。どうやら、

「文学が、ようやく阿部和重に追いついた」

らしいです(帯宣伝による)。よくわかりませんが、おめでとうございます。
芥川賞受賞というのは、宝くじで高額当選するよりはるかに確率的に難関だそうだ。
とてもいい制度だと思う。
我われ一般人は現代文学などと言われてもなにがなんだかさっぱりわからない。
芥川賞のような文学賞があるおかげでこれを読めばいいとわかる。
なにしろ日本を代表する第一線のベテラン文学者集団が談議のすえに認めた、
言うなれば全球団ドラフト1位の新人なのだから。
本作品も芥川賞を受賞していなかったら決して読まなかった。
なぜなら阿部和重が嫌いだからである。
過去、数作品読んだが、どれも印象はよくない。
低学歴がおのれの出自を激しく恥じるがゆえに、過度に観念的なものへの憧憬を持つ。
というのも、この作家の書くべき不幸が低学歴、低知能しかないからである。
――時代の最先端を爆走する阿部文学へのわたくし凡才の評価だ。

文学珍走団(暴走族)のトップに君臨する「グランド・フィナーレ」はロリコン小説である。
ロリコンがばれて人生が終わった(離婚・失職)中年の悲喜こもごもが描かれている。
芥川賞選考委員のなかから、
阿部が少女趣味をわかっていないという意見が出たようである。
選考委員のだれがロリコンなのかと2ちゃんねるで話題になったことを記憶している。
たしかに文学珍走団長の阿部和重はロリコンをわかっていないように思う。
かれは記号として(なんて書くと、低知能を恥じる低学歴みたいだが)
ロリコンを扱っているに過ぎない(=珍奇なものを取り上げれば現代文学でござい!)。
まあ、つまらないのが文学作品なのだから「グランド・フィナーレ」は疑いもなく文学だ。
日本に低知能を恥じる低学歴がいるかぎり、
阿部和重は文学珍走団のトップでありつづけることであろう。
「どうで死ぬ身の一踊り」(西村賢太/講談社)

→いままで同時代作家で尊敬しているのは柳美里だけであった。
たしかに山田太一先生や宮本輝先生は柳美里以上に敬愛しているが、
どちらも同時代を生きた作家ではない。
山田太一氏は祖父、宮本輝氏は父の世代である。
さて、この西村賢太は、
わたしの尊敬する同時代作家、柳美里の10倍は文学的にすぐれている。
今年読んだ小説のなかでもっとも感銘を受けた。
それどころか21世紀になって出版された小説の最高峰ではないかとさえ思っている。
本作品が芥川賞候補になるも受賞しなかったのは、選考委員が嫉妬したからだと思う。
芥川賞選考委員の顔ぶれを思い浮かべたが、
今現在このような傑作を生みだす作家はひとりもいないのではないか。
西村賢太は、日本近代文学の正統たる私小説作家である。
父親は強姦で逮捕。本人は中卒。青臭い文学青年(中年?)。貧乏。もてない。
そのくせ、苦労して手に入れた女をフルボッコ(フルパワーでボッコボコに)するDV野郎。
にもかかわらず、女から別れを迫られたら土下座も辞さない男のなかの男。
内弁慶。酒をのんだら悪態三昧だが、ふだんはおとなしい。
西村賢太よ、兄貴、おまえは男だ!
西村賢太が認められなかったら日本の文学は終わりである。
しかし、ここが複雑なのだが、かならずしも西村賢太の出世を願っているわけではない。
というのも、私小説作家は売れるとダメになるからである。
あれほどの凄みを見せていた柳美里も、メジャーになるにしたがい作品の質は劣化した。

私小説作家は不幸でなければならない。

なるほど、作家にとっては実際に不幸であることよりも、
不幸を感知できる能力の優劣が作品を左右することは事実である。
けれども、名誉も富も地位もありながら、なお不幸を自認するのは難しい。
二律背反である。
西村賢太はもっともっと評価されなければならない大作家である。
しかし、西村賢太がいざ売れたら、かれの小説はつまらなくなるだろう。
無名であること。カネがないこと。キチガイであること。
いい小説を書くための条件である。
この点から考えると、いまの日本で西村賢太ほど恵まれた作家はそうはいないだろう。
「土の中の子供」(中村文則/新潮社)

→第133回芥川賞受賞作。
同世代で同性の小説を読むときは緊張する。
異性はまだいいのである。男と女ではすべてが異なる。
だが、同性では逃げられない。
おもしろかったらどうしようと思いながら読み始める。
読み進むうちに安心した。おもしろくなくてよかった。

いちばんの問題は先が知りたくならないってことだな。
純文学ならなにをやってもいいとは思わない。
最低限の読者への気配りはしなければならないのではないか。
内容は、トラウマを持つ青年が絶望をつづるって感じ?
トラウマゆえに冷たい「わたし」が絶望しながら生き延びる。
これは婦女子向けの小説だと思う。
つらい体験があるのにクールに生きている主人公、デラかっこよす、みたいな(笑)。
といっても、ここに描かれている絶望などいかにもな作り物。
ガラス細工の絶望だ。
だって、人間がほんとうに絶望していたらウソでもいいから希望を描くでしょう。
癌で余命1ヶ月の患者は(家族も)決して絶望したりはしない。

絶望を描いている時点で作者がちっとも絶望をしていないのがよくわかる。
絶望をクールに演じてるおれって、ちょーかっこよくねえ?
なんか、こう、現代の若者のゼツボーみたいの、共感しちゃいなよYOU!
という小説である。するわけねーだろうがドアホ。
中村文則たんハァハァとおばさまがたはぜひぜひ萌えてくださいませ。
「夢を与える」(綿矢りさ/河出書房新社)

→史上最年少で芥川賞を受賞した、天才美少女作家、綿矢りさちゃんの最新長編小説。
チャイドルとしてデビューした夕子が国民的アイドルになり転落するまでを描く。
300ページにもわたる長編なのだが、半分の150ページまではつらかった。
何度も読むのをやめようか迷ったものである。
が、中盤を過ぎたころからがぜんおもしろくなる。
理由は、実感がこめられているからである。
それまでの物語が作り物めいていたのとはがらりと変わり、
血と涙が文章から透けて見えるようになる。
綿矢りさちゃんの逆ギレした恫喝があたかも聞こえてくるかのようである。
それはおばさんのヒステリーに満ちた怒鳴り声ではない。
やっぱりかわいいんだよな。りさたんかわいいよりさたん、である。

あたしは好きで美少女に生まれてきたわけではないねん。
なんの野心もない田舎の少女だった。
小説を書くのが好きで、せっかく書いたんだからと応募した
あたしのしたのはそれだけ。なのに、なんでこうなるの?
天才だ美少女だと、アイドルのように騒がれる。
苦節何十年みたいな文学中年からはひどく憎まれる。
こない、けったいなことある?
あたしは好きな小説を書いただけどす。
顔がきれいなのは罪ですか? 芥川賞をもらったのは罪ですか?
みんなあたしのことをシンデレラのように言うけど、
なってみたらぜんぜん楽しくあらへんよ。

いやあ、一本取られたね。
というのは、小説は現実へのうらみつらみそねみから書くものでしょう。
ならば、若年にして地位、名誉、財産のすべてを手に入れた綿矢りさちゃんは、
もう書くことなんてないと思っていた。
ところが、この天才作家にとっては、ひとも羨む環境が小説を書く熱源になる。
よく考えたらそうかもしれない。
綿矢りさちゃんのような幸運は、いわば時代から選ばれたようなもので、
裏を返せば、年に一度カミナリに打たれて死傷する人間とどこか似ている。
なんであたしが? 文豪の綿矢りさちゃんは思う。
本作品のような傑作長編ができあがるわけである。
これはたいへんな啓蒙小説である。
美貌、勲章、高収入を得ても、なお人間は満足しない。
むしろ、それらが疎ましくなる。かえって、ふつうの女の子になりたい。
「夢を与える」には、選ばれた人間しか味わえない壮大な苦悩が描かれている。
ヒットラーの書いた小説のようなものである。おもしろくならないわけがない。
このへんでやめよう。凡愚のわたしが天才を論じられようはずがないからである。
以下に平成の文豪の文章をわずかながら抜粋する。
くだらない感想を書き連ねるよりよほど有益であろう。

たとえば国民的アイドルの夕子は母親から言われる。

「あなたは苦労せずにお仕事をもらって、
他の人とは比べものにならないくらい順調にここまで来た。
それを自分の力だとか思っちゃだめよ。
お仕事仲間への感謝を忘れずに」(P150)


このようなことを小説に書ける綿矢りさちゃんは、
かつての綿矢りさ=村上龍と比較してどれだけ謙虚なことか。
りさたんかわいいよりさたん。

夕子は母親と問答する。

「私の今やっていることが焼き畑農業なら、早くすべてを焼き尽くしてしまいたい」
「なに言ってるの、こんな早いうちから焼き尽くしてしまったら、
これからの長い人生のなかで、あなたはどんな仕事をしていくっていうの」
夕子は強がって焼き尽くしたい、焼き尽くしたいとつぶやいたが、
本当は母と同じ不安を抱えていた。使い捨てられるのは、こわい」(P157)


こわいのは使い捨てられることのみではない。

「家と学校とスタジオの行き来の毎日で、ほとんど触れ合う機会もないのに、
“一般人”に対する、
何をされるか分からないという恐怖が夕子のなかに芽生え始めていた」(P167)


というのも――。

「家に帰った夕子はパソコンを開き、自分の名前で検索して、あるHPを開いた。
そこには夕子への罵言雑言が尽きることなく書かれていた」(P173)


「夢を与える」を読むと、天才美少女作家も楽ではないことがよくわかる。

あんがいふつうなのも悪くないかも、

と美貌も才能も富も名誉もない大多数の読者に夢を与えてくれる、すばらしい小説である。
「沖で待つ」(絲山秋子/文藝春秋)

→第134回芥川賞受賞作。
いやあ、女は強くなったもんだと思った。行き着くところまで行ってしまったのでは?
この先、袋小路だろう。もうどうにもならないんじゃない?
むかしは男の役割、女の役割が少なくともいまよりは規定されていた。
肯定するにしろ、否定するにしろ、役割というのはなければならなかった。
だって、男らしさ、女らしさという決まりがなかったら、そもそも演技ができないでしょう。
型に従う場合も、型を破る場合も、型自体がなければお話にならない。
女らしくない女というのも、女らしさというものがあって初めて成り立つ。
この国のおばさん連中はフェミニズムだかなんだか知らないけど、
女をどんどん壊してしまった。完全に壊れてしまったいまとなっては取り返しがつかない。
型がないから男も女もどう演技したらいいかわからない。
演技に戸惑う男女を描くのが新しいと評価(誤解)された時代もとうのむかしである。

いまは女が強くなりすぎたのである。
絲山秋子はじぶんの強さに戸惑っているようにさえ見える。
この作家の描く世界を要約すれば、「女ってなんて楽チンなの〜」である。
男はすべてセックスが目当て。そんなことをわかりきっているアタシは強い女。
男を品定めして、つまらなかったらポイよ。いま女であることは、ちょー楽しい。
男同様の社会進出も可能。か弱き女性は社会が守ってくれる。
男連中はマンコがないんだから、女性様にかしずくのはあったりめえよ!
少しまえにテレビで見たお見合い特集を思い出す。
結婚できない男の悲哀が切実だった。
番組に登場したのは、男から見たらそう悪くはないおっちゃんである。
40をまえにしてお見合いを決行する。
専門家からファッションの指導を受ける。話し方教室にも通う。
いざお見合いの日である。お相手の女性は30を過ぎた、なんだかなという見てくれ。
男は必死になって女性様の話し相手になっているのである。
この程度の女にこうまで下手に出なければならないのかと愕然としたものである。
それでも交際はNGであった。相手の女性はいう。
「かれは女ごころをわかっていないと思いまして」
死ねよと思ったね。いい男じゃないか。おまえ何様のつもりだ。
しかし、これが現代の男女関係かとふかぶか納得したものである。
絲山秋子の天才はこの現実をコミカルに描写する。ふん、なーにが天才なもんか!
「重力ピエロ」(伊坂幸太郎/新潮文庫)

→いま売れているというので読んでみたミステリー小説。
220ページで断念。途中で放り投げたわけだ。
極度にケチなわたしが書籍を最後まで読まないのはほんとうにめずらしいことである。
とくにこの本のようにブックオフではなく、定価で買った場合は。
主人公はオレ流の生きかたがある博識の青年。
なにごとにも意見があるクールなボクはみんなからは理解されにくいタイプ。
だけど、読者のきみはわかってくれるよね。ボクときみはおなじだよ。
村上春樹的な腐臭に怖気が走るが、若い女性様はなぜかこういうのが好きなんだよな。

「人の一生は自転車レースと同じだと言い切る上司もいれば、
人生をレストランでの食事にたとえる同僚もいた。つまり(後略)」(P145)


なにか気の利いたことを言っているつもりなのが痛い。
人生を斜めうえから見ちゃうオレって、すげえクールじゃねえ、みたいな。
この馬鹿野郎の弟がもっとクール。なんとレイプで生まれてきちゃったのだ。
母親がレイプされて生まれてきたという設定。
わかんねえよな。こんなものは物語を動かすための単なる設定でしょう。
作者の怒りも悲しみも入っていないお人形さんなわけだ。
なのに、こういうヒーローに感情移入する読者がいるのはどういうわけだい?
それが女子供の特徴なのかな。
連続放火事件が起こる。ボクと弟は捜査を開始するが、しだいに弟がわからなくなる。
もしや弟がこの事件にからんでいるのでは――。
こんな感じで読者をひきつける作戦なのだろう。置いていかれたわたしであった。
アマゾンの感想をチラ見して驚いたが、この程度の娯楽小説を読んで、
犯罪被害者の問題を論じる人間もいるんだね。善良もほどほどにしとけ、な?