「ヌエのいた家」(小谷野敦/文藝春秋)

→日本最高のよもやま学者、絶対知者の小谷野敦さんの
最後の芥川賞候補作をいまごろ読む。
40を過ぎるとさすがに小説を読むという気力は低下する。
いろいろな現実を知ってしまうと泣ける美談とかあまり読みたいと思わなくなる。
いや、本当に人生の辛酸をなめた苦労人こそ
甘い娯楽小説を読むものなのかもしれない(というか、いま小説を読むのは女性だよね)。
趣味は? と聞かれて読書と答えるとエロ本? 
という感想しか返ってこない当方の人相であり全身にまとった人柄というものだろう。

さて、本作は臨終間際の父に対する複雑な感情を、
著者の事実(これを主観という)に基づいて書いたところの傑作私小説である。
なかなか経験しないとものごとはわからないが、
わたしにも父親との葛藤やあつれきは長くあるので、
ところどころで著者のものの見方に自分の体験を照らし合わせた。
考えさせられるところの多い名作であったように思う。
父と息子の間柄はどうしても男の勝負(勝った負けた)になってしまうという関係性の
細かな綾(あや)を巧みに描写していたように思う。
文芸評論家でもある小谷野氏は本作が芥川賞にふさわしい小説であることを
作品内で説明してしまうのだが、
そういう物欲しげなお茶目なところがファンにはよく知られている著者の魅力だ。
著者は愛妻と実父をヌエ(妖怪の一種)と名づけて客体化している。

「私も古今東西の文学作品をいろいろ読んだが、
マクベスやら、カラマーゾフの父親のように、憎まれている登場人物があり、
ディケンズのミコーバーやドストエフスキーのマルメラードフ、
あるいはチェーホフのワーニャ伯父さんのように、
軽蔑されつつ哀れみを感じさせるという人物はいても、
ヌエ[父]のごとく、ただ憎まれかつ軽蔑されかつ哀れまれもしないという人物は、
見たことがない」(P50)


だから、世界文学史上まれなヌエ(わが父)を書いた本作は新しく、
芥川賞を受けるにふさわしいのではないかという著者の意気込みを感じさせる。
子を持ったことのない著者は(わたしもそうだが)父の気持がよくわからない。
このためどこにでもいるような父がヌエ(妖怪)に見えてしまうのかもしれない。
小谷野さんはヌエに「早く死ね」だの「苦しめ、もっと苦しめ」といった暴言を
死後になってから小説に心中表現として吐露しているが、
これは「死んだ人の悪口は言わない」「子は親を敬うべし」
といった社会通念を壊していて小気味がいい。
現代日本においてもなおいかに多くの親子が、
「親は子を愛すべし」「子たるもの親を敬うべし」といった社会規範に苦しんでいることか。
この傑作小説を読んでそれまでの思い込みから、
解放されたような思いを抱いた読者もいるのではないか。

小谷野さんはお父さまを嫌いだと公言し、男のひどさを描写するが、
かのヌエと呼ばれる小市民はどれだけ息子に貢献したか、という見方もできる。
第一にこの父がいなければ著者は小説「ヌエのいた家」を書けなかった。
第二にヌエのおかげで子のいない小谷野夫婦は結束が固まったのではないか。
著者はヌエとのめんどうくさいやり取りをすべて妻に任せていたというが、
子がいない夫婦はヌエを共通の敵とすることでどれだけ連帯感を持ったことか。
あんがい老後、子のいない小谷野夫婦が過去を回想したら、
ヌエの臨終騒動時期がいちばん懐かしく思い返されるのではないか。

父親と息子というのは似るか反るかのどちらかになりやすいのだろう。
わたしは以下のところに小谷野父子の好対照を見つけた。
ナースへの対し方である。
東大卒の作家である小谷野敦さんはナースを怒鳴りつけるらしい。
なんでもヌエ(お父さま)が道で転倒して病院に運ばれたそうだ。

「1週間くらい後に、脳のCTを撮って何か悪いところはないか調べるとのことだった。
とくに悪いところはない、という話だったが、その際私が病院へ電話して、
看護婦に質問していると、この看護婦が、いちいち「うん、うん」と相槌を打つのである。
別に私は偉い人でも何でもないが、遂に腹に据えかねて、
君、うんうん言うのやめなさい、失礼でしょう、と怒鳴りつけた。
腹立ちが収まらず、看護婦長に電話をして苦情を言った」(P32)


この後の宅急便ドライバーを怒鳴りつけたエピソードからもわかるよう、
小谷野敦さんは弱いものには強く出る正直な人なのである。
いっぽうのヌエ(お父君)はどうかと言えば、
ナースに子ども扱いされわいわいきゃっきゃと喜ぶようなところがあった。
まあ、見ようによってはナースにかわいがられていたのだろう。
ナースにかわいがられるヌエからは、どうしようもなく宿命のようなものとして、
ナースを叱り飛ばすような小谷野博士が生まれざるを得なかったのかもしれない。
当方も父とはそういう鏡のような関係にある。
父は権威的なものが好きでわたしは嫌いだが、
両方ともに権威に関心があるという点では似通っていると言えなくもない。
しかし、いまは息子のほうは権威もどうでもよくなって、それが困りのタネなのだが。
わたしの話はさておき、このように小説「ヌエのいた家」は、
男性読者におのれの父子関係を思い返させるといった点ですぐれた私小説である。
じついいい小説を読んだと思う。
本作が芥川賞を取れなかったのは残念でならない。



甘いお菓子とコーヒーと読書は、人生の小さな宝物。
「立派になりましたか?」(大道珠貴 /双葉文庫)

→今年読んだ小説のなかで最高傑作(うん? 何冊読んでる?)。
へらへら笑っている特別学級の子たちの内面ってわからないじゃないですか。
健常者には特殊学級の人たちのへらへら笑いほど怖いものはない。
なにかすごい深遠なことを考えているのではないかと思ったりして。
大道珠貴(だいどうたまき/女性)は特殊な「聖者の行進」をすれすれのラインで描く。
こんな小説を書いてしまったら、それは天才だが天罰が当たるのではというレベル。
何度も読み返して大笑いしたけれど、
この小説で笑ったのがばれたら社会的に罰を受けそうな気がする。
でも、みんな本なんて読まないから大丈夫だと思いたい。
あたまがゆっくりしたへらへら笑っている人たちの内面を、
だれにでもわかる平易な言葉でこれほど軽快に描写できる著者の才能には脱帽。
小説のテーマを問うのは現代文の悪しき習慣だが、
「立派になりましたか?」の主題はおそらく「へらへら笑う」。
へらへら笑っている特殊な聖者たちはもしかしたら最強ではないだろうか?
どんな不幸も不遇も災難もへらへら笑っているのがいちばん賢いのではないか?
健常者の男性が1学年上のトッキュウ(特殊学級)を評した文章がテーマと直結している。
もっとおもしろい描写はいくらでもあるのだが、
著者とは違って無駄な学歴のようなものがあるため、
どうしても深刻にマーカーを引くところを選んでしまう。
わたしもあちら側に行って、へらへら笑いたい。もうめんどうくさいことはいやいや。

「あなたたちは特別なクラスで、狭い世界で、そこだけで生きておられましたもんね。
遅刻しても怒られない、学校に来なけりゃ先生が迎えに行ってやる、
成績はたいして問題じゃない。
まるでおなかいっぱい食べればとりあえずほめられる幼稚園くらいのガキです。
あなたたちは、生きているだけでいい、みたいな保護のされかたで、
ある意味、役立たずなんですけど、
それで学校全体からはほとんど無視されていたわけなんですけど、
いや無視じゃなく、あたたかいようなつめたいような、
哀れみとも軽蔑ともつかないような視線で見られてはいたね。
あなたたちのいるクラスだけぽっかり異次元空間。
でも、見つめていると、ふしぎと、あなたたちって、やっぱり生きているだけでいい、
と思えてくるもんです。
そしてあなたたちを見つめていたら、ぼく自身は死にたくなった。
あなたたちのほうに行きたいなあ、とうらやましかったです。
最初からあなたたちの側にいたら、ぼくも、友達のことで悩んだり、成績を気にしたり、
将来なんになるか考えこんだりしなくても済むんじゃないかなあ。
まわりからも、生きていればいい、
ってなふうに大目に見られるんじゃないかなあ、と。
でもぼくは一応、成績はよかった。よくもないな。中の下だな。
トッキュウには入れてもらえないくらいは、よい成績だった」(P158)


トッキュウ出身の子たちって本当に深みのない薄っぺらいへらへら笑いをするよねえ。
純真とかピュアとも言えるんだけれど、そうではない見方もあっていいだろう。
大道珠貴は知的障害者文学の最高傑作をこっそり書き上げていたのかもしれない。
本当に怖い小説を読んだ。

「棺に跨がる」(西村賢太/文藝春秋)

→純文学と大衆文学の違いっていうのは、
新しい世界(言葉)をつくっているかどうかなのだと思う。
世界というのは、言葉でできているから、
新しい言葉を知るというのは世界が変わるということなのね。
おおっと、こういう世界や人の見方があったのかという驚きのあるのが純文学。
善とか悪とか、正義とか犯罪とか、人情とか、
手垢(てあか)のついたものを現代風に設定を変えて再生産したのが大衆文学。
たとえばさ、こういう人間が「いい」みたいなお決まりがあるじゃないですか。
男ならイケメンでバリバリ仕事をして、そのうえウィットがきいていて、
家族思いのものがいい、みたいな。
女の理想像みたいのは、やっぱり美人が「いい」みたいのがあるわけで。
そういうのに対して、こういう女性の魅力もあるんだよ、
という新しい女性像を描いているから西村賢太はまだ純文学なのだと思う。

「北町貫多に肋骨を蹴折られて以降、
秋恵が平生放つ雰囲気は、何やら一変したようである。
もとより、さのみ快活でもない、どちらかと云えば物静かな質であり、
見るからに大人しそうな――ラッシュ時の埼京線の中にでも放り込めば、
確実に痴漢の餌食にされそうなタイプの女ではあったが、
それでも気を許した相手には普通に饒舌をふるえば軽口も叩く、
極めて当たり前のコミュニケーション能力は発揮していたものだった」(P47)


沿線に住んでいるけれど、ラッシュ時の埼京線は地獄よ。
あれだけは馴れることがない。結局は言葉という話だったか。
九州や北海道の人が埼京線って聞いてもわからないという話はそうなんだけれど、
よく痴漢されそうな女性の魅力みたいなものを西村賢太は発見しているわけ。
新たな価値を創造しているといってもよい。
だけど、いま思ったけれど、みんなけっこうふつうの人も創造しているとは言える。
だって、結婚している人が多いじゃん。
それぞれ相手に新たな魅力を発見しているとも言えるわけでしょう。
この人の魅力はわたしだけが知っている、みたいなさ。
他人から見たらありふれた男女にもかかわらず、よくまあやるもんだと。
話を小説に戻すと、カップルや夫婦はそれぞれこんなことを考えているのかもしれない。
いや、女は違うのだろうが、男はこういうロマンチストなところがある。
そこを西村賢太はうまく言語化している。

「どんなことがあっても、この女は自分から離れることはない、
との自信は、これまで頻々と行なってきた暴力や暴言後の、
先に述べたような展開の様子で一種裏付けめいたものを得続けていたが、
またそれとは別に、根が限りなくロマンチストにできている彼は、
結句(けっく)彼女と自分とは、
心の奥底に抱えている孤独がどこまでも共通するものであり、
どうで彼我は出会うべくして出会い、共鳴するべくして共鳴し合った、
いわば運命に導かれた二人であると信じきっているところがあった」(P48)


男ってみんな甘ちゃんなんだよねえ。女に勝てるはずなんかない。
小説の設定だが、北町貫多(西村賢太)も同棲相手の秋恵によくやるなあ。
彼女がカツカレーを作ってくれ、それを平らげているところを「豚みたい」
と言われた男はぶち切れて女を殴る蹴るで肋骨をへし折ったという。
秋恵はさ、トンカツとかお惣菜で買ってくるんじゃなくて、自分で揚げるわけよ。
カレーもむろんレトルトではなく手づくり。
いまどきそんなに尽してくれる彼女はいるのかな。
いや、いるかもしれないけれど西村賢太レベルで(失礼!)。
まあ、小説だから嘘だから。

人からつくってもらった料理ってなんとも感想が言いにくいよね。
外食や惣菜と違って、つくった人の顔が味に影響しちゃう。
編集者だってそうで、「新人」の小説には好き勝手を言えるだろうけれど、
中堅どころともなれば小説の「正しい」客観的な感想なんて言えないと思う。
小説家になりたかったら井上靖がやったように、編集者を接待すればいいのかも。
あるいは先に贈り物を渡したり、裏金や利権をプレゼントしておく。
客観的な小説の感想なんて、だれにも言えないと思う。
料理もそうだけれどって、カレーから話が飛んだのか。
西村家では本当かどうか知らんが、
カレーをつくると翌日のために(味を変えるために)ツナ缶を入れるらしい。
おえっ、きんもっ、って話だが、賢太によると、これは由緒正しき江戸川カレー。
まあ、貫多の同棲相手の女性も気持が悪いというようなことを言って、
せっかくわざわざ彼女のためにカレーをつくってあげた男を怒らせるわけだが。
江戸川カレーもそうだが、家庭料理は母親対決のようなところがある。
ツナ缶入りの江戸川カレーを否定された貫多は、
母親の味を侮辱されたような気がしたことだろう。
以下は結局、男が女に求めているものは母性であることがよくわかる。
女の肋骨をサッカーボールキックでへし折った男は彼女のためにカレーをつくる。
ある願いを込めて、である。

「これを口に運び、咀嚼し、嚥下してくれたなら、
向後二人の食卓には再びカレーも並べられることであろう。
そしてその頻度が増える毎には、例の忌わしき記憶の方も薄まって、
代わりに彼女の従来の寛容が復活してくれることであろう。
そして更には彼女独特のあたたかな母性も蘇えり、
ひねくれ者の凍える心の彼を包み、
その存在をまた全肯定してくれることであろう。
それはきっと、そうなることに違いあるまい」(P100)


まあ、そうならないのがおもしろいのだが。
男のつくったカレーは肉が多くて豚くさいと女はいやな顔をする。
いやはや、男と女は難しいっすねえ。
さらにはツナ缶を入れる江戸川カレーでさらなるさらなる闘争に入る。
江戸川カレーの存在自体が純文学だよなあ。
カレーってほんと家によっていろいろ味が変わりそうだ。
カレーチェーン店のココイチはだれにも嫌われない味を目指したっていうけれど、
それは大衆文学の世界で純文学は江戸川カレーである。
聡明な美人がヒロインになるのが大衆文学ならば、
ラッシュの埼京線にぶち込んだら真っ先に痴漢されそうなのが純文学の女性像。
ポークカレーにツナ缶ってどんな味がするのだろう。

おれもけっこう料理をするとき、お決まりを破るほうなのね。
料理するときにレシピを守る人と、命がけで(はあ?)逆らうバカにわかれるよねえ。
料理なんてレシピどおりにつくっても、
みんなおなじになってつまらないだけだと思うけれども、だがしかし、
そうは口では言っても我輩の口は江戸川カレーを受けつけないような気がする。
秋恵ちゃんのカツカレーなら豚のように食うけれど。
しかし、カツカレーっておかしくない?
カツはカツでカレーはカレーで食うのがうちの流儀だったから。
今度やってみたいのは、ちくわぶカレー。
おれはこってりしたカレーが好みで、
それにいくらカレーとはいえ酒のつまみにしたいから、
けれどうどんにかけちゃったら単なるカレーうどんになってしまうので、
そこでそこでおつまみのちくわぶカレーって話。
荒川カレーとか命名して編集者にご馳走したらデビューできないかな――って無理無理。
それ、とってもとってもまずそうだもん。
ああ、いい小説でしたよ。

「寒灯・腐泥の果実」(西村賢太/新潮文庫)

→そういえば昨日バイト先の書籍倉庫で、
西村賢太の文庫本「小説にすがりつきたい夜もある」を大量に見たなあ。
うちの倉庫だけで850冊出ていたから、
売れなくなったというのはデマでまだ十分に採算の取れる作家なのだと思う。
この本を読んでつくづく西村賢太さまと自分は似ているといやになった。
嗅覚の鋭さまで似ているのでウエッとなった。文才は似ていないのに、くそったれ。
似ているからわかることもあって、賢太の書くことは嘘なのである。
しかし、あれは嘘でありながらまさしく本当のことなのだからおもしろい。
あんな小説は嘘だろうと思って西村賢太に舐めた態度を取ったら、
この男はリアルに小説に書いてあるような非道行為をその人にやるだろう。
小説を本当だと思ってビクビク接したら、
菩薩(ぼさつ)さまのようなお人に見えるかもしれない。
私小説が本当に起こったことを書くものだとすれば、本当に起こったこととはなにか?
心のなかで思ったことも本当に起こった事実なのだから。
西村賢太のゆがんだところがとても好きである。
作者を模した貫多は同棲相手の秋恵に言う。

「老若男女を問わず、態度のいい奴とか他人からムヤミに好かれてる奴なんてのは、
ぼく、一切信用しないことにしてるんだ。
なぜって、そういう手合いは四面楚歌に陥った経験なんて全くないんだろうし、
その寂しさも金輪奈落わかりゃあしないだろうからね。
所詮、ロクなもんじゃねえよ。
そもそも他人に好かれる術を心得ているところが気に入らないじゃねえか。
根性が、浅まし過ぎんだよ」(P37)


新居の管理人とトラブルを起こすところもおもしろい。
なんでも管理人がゴミのことでいちゃもんをつけてきたらしい。
こういうとき常識人は大人の態度で接するべきだが、
貫多は(おそらく賢太も)そうではない。
トラブルがあったほうが人生は活性化することを私小説の天才はよく知っている。

「管理人は、いかつい容貌をした貫多の目つきの異様さを見てとったらしく、
たちまち恐怖の入り交じったような警戒の色を、
その額縁眼鏡の奥に浮かべたようであった。
この見るだに懦弱そうな表情に、〝勝てる”との確信を抱いた貫多は、
すぐと気を取り直したように初対面の挨拶やら桃の礼やらを
柔和に述べてくる老人の言葉を一切無視し、冷たい眼差しで先方を凝視したまま、
早速に一連の問い合わせに関する、その真意についてを質し始めていた」(P50)


世の中には異様な目つきをできる人とできない人がいるのである。
やべっ、こいつこええよ、という異様な目つきのことである。
もちろん、異様な目つきをできない人のほうが圧倒的多数派になる。
常に自分は迫害されているという妄想をキープしていなければ異様な目つきはできまい。
決して恨みを忘れないという重度の病的なまでの粘着性が人に異様な目つきをさせる。
たまにブルブルッと震えがくるような異様な目つきをできる人がいるものである。
その目にふつうの人は参ってしまうのである。参るとは降参のことである。
温和そうなテレビライターの山田太一氏もよく見ていると
たまに異様な目つきをすることがある。
さて、目は口ほどに物を言うというのは真実で、
もしかしたら目のほうが言葉よりも感情を伝えやすいのかもしれない。
日本語の通じない外国人が多い職場で働いていると
目で会話するというのが本当によくわかる。目と目で通じ合うのである。
ものごとをどう見るかも目の能力いかんである。
貫多は秋恵との甘い同棲生活を客観視できる異様な目つきを有する。
自虐も自慢もできるのが西村賢太のおもしろさである。

「それは貫多もその相手たる秋恵も、
互いに根はひどく大甘にできてるフシがあるだけに、
こうした二人の暮しは傍目から見れば、
トウのたった一組の男女による見苦しきママゴトじみた行為に映るやも知れぬ。
所詮は冴えないカップルの、痛々しい凭(もた)れ合いの図に映るのかも知れぬ。
だが当の貫多にしてみれば、今のこの生活は到底手放せぬ無上のものであり、
そんな彼に寄り添っていてくれる六歳年下の秋恵は、
やはりどこまでもかけがえのない、何よりも大切な存在だった」(P102)


ある現象をプラスからもマイナスからも見(ら)れるのが作家の才能だろう。
西村賢太はマイナスの極北からお寒い現実を描写するのがとにかくうめえったらない。
西村賢太のすばらしさはほかにもあって、
いまは日本で天皇陛下レベルまで偉くなってしまった若い女性さまを怒鳴れるところだ。
男と女の能力差は圧倒的なのだから、
これはスウェーデンの文豪のストリンドベリ先生もおっしゃっているが、
女は犬のように叱りつけるのがいちばんいいのかもしれない。
貫多は馬鹿野郎とか弱き女性である秋恵を怒鳴りつける。

「怒声を浴びせられた秋恵は、キュッと身を縮こませつつ、
チンとうなだれて目を伏せる」(P123)


チンとうなだれるという表現がとてもいい。いいったらない。
でたぜ、賢太節と喝采をあげたいところである。
きっとチンとうなだれたとき秋恵はとてもかわいい目をしていたんだろうなあ。
犬は大嫌いだが、チンとうなだれる女はさぞかしかわいいいだろうと思う。
西村賢太はおのれのマイナス体験、トラブル体験を元手に小説を書いているのだ。
もし作家などというからきし食えない名誉職業にあこがれるものがいたら、
人生でどんな体験を積んでいけばいいかはおのずと知れるところであろう。

「爪と目」(藤野可織/新潮社)

→芥川賞受賞作。
被害妄想だろうが、いま肩も腰も痛い低賃金ブルーカラーはバカヤロウとか思っちゃう。
あのさ、お洒落なオフィスで働いているホワイトカラーならこの小説のよさがわかるの?
いまなにかをぶち壊したいような怒りが体内に鬱積している。
勤めている底辺職場にも似たような男性が複数見受けられる。
昨日はわずかな賃金の公平性を求めて、
阿修羅のごとき憤怒の相で社員に詰め寄っているババアふたりを見た。
ふたりでつるんでひとりを囲めば勝てると思っている意地汚いババア根性にケッと思った。
おれんなかには負の感情が渦を巻いていて、いつかなにかしてしまいそうで怖い。
表現というものは、そういうマイナスに適切な言葉を与え純化する面があるのではないか。
喜怒哀楽を固有の言葉で表現し、世界の新しい形を提示するのが小説の一面だと思う。
こういう考え方が「正しい」のかどうかはわからないが、
もしそうだとしたらこの小説は当方の感情をなにも刺激せず、
ひたすらやりきれないという空疎な思いを倍増しにしてくれたくらいだ。
それでもまったく悪い小説というものはなく、どこかしらいいところもあるものだ。
偽善的に人のよさをあえて見るように、この小説のよかったところをあげれば――。
へええ、女ってそういうふうに女を見ているのかって思ったところ。

「あなたには、男性が自分に向けるほんのほのかな性的関心も、
鋭敏に感知する才能があった。
しかもそれを、取りこぼさず拾い集める才能もあった」(P17)


女って若いころからこんなことばかり考えているから根性が悪くなるのだろう。
若い女は自分を男のエサだと自覚しているようだが、
その自覚を老いてもなお維持し錯覚だと自己認識を修正できないのが
女の愚かしさであり、人によってはかわいさになるのだろう。
なにを言いたいのかわからないって?
なにを言いたいのかわからない小説の真似を感想文でしたまでのこと。
ホワイトカラーの女ならこの小説のよさがわかるのかもしれない。

「僕たちは池を食べた」(春日武彦/河出書房新社)

→B級精神科医の春日武彦氏の短編小説集を読む。
氏の濫造する一般書とどちらがおもしろいかと問われたら答えに窮してしまう。
なぜならきっと著者自身は、
むしろ小説のほうを評価してもらいたいと思っているのがわかるからだ。
勝手に親しみを感じている人の感情を逆なでするようなことはできるだけ書きたくない。
たしかにどれも春日武彦でなければ書けない小説になっていたように思う。
春日氏の文章のおもしろさは人の悪口にあるのである。
美談を耳にしても鼻で笑い飛ばし、
逆に美談の裏のグロテスクな部分をにやにやしながら妄想するのが
春日武彦という精神科医の「生きにくい」感受性と言ってよいだろう。

ふつうわれわれは寡黙だがまじめに働く底辺労働者を評価している。
そういう底辺労働者の美しさをヒューマニストぶって称賛する。
だが、春日はそうではないのである。
本書はいちおう私小説のような体裁を取っているが、
精神科医のもとにきた癲癇(てんかん)の患者「アヅマ君」を
春日は悪魔のような筆づかいで描写してしまう。
われわれはふつう癲癇という病気を持つ底辺労働従事者を、
同情や「世界への信頼」のようなものから好意的に眺めてしまうようなところがある。
しかし、春日武彦氏はそうではないのである。
ここは何度読み返しても笑いがとまらないので、
多少長くなるが一部略しながら著者への敬意を込めて抜粋させていただく。
患者として受診してきたアヅマ君37歳のことを春日はこう描写する。

「アヅマ君は頭が五分刈りで首が太く、体つきはずんぐりしている。(……)
外見の通りに鈍重であり、口下手で気が利かない。
人付き合いは苦痛で、友人も少ない。才気煥発といったものとは縁がなく、
他人に命じられたことを黙々とこなしていくことで精一杯である。
何が楽しみで生きているのやら、いやそんなことを考えたことすら果たしてあるのか。
人並みに希望や夢といったものも秘めているだろうに、
そんなことを自ら語ることは決して無いし、
そういうテーマについて喋る機会も相手も無い。
女性と付き合うことなど思いもよらない。
二人っきりになったら、どう振る舞ったらいいのか途方に暮れてしまうことだろう。
ただし肉欲といったものは常に渦巻いていて、
だから散らかった自室でSM雑誌を開いてオナニーにでもふけっていそうな
雰囲気も感じられて、よけい女の子に敬遠される。
冗談ひとつ言えず、マナーは知らず流行には無頓着。
「がさつ」のひとことで言い切ってしまうには、
どこか図々しさのパワーといったものに欠ける。
惨めったらしいところがある。(……)
創意工夫に欠けるから、どんな分野においても底辺に留まる運命である。
努力家というよりは、同じことを延々と繰り返していても
疑問を持つことのない鈍感な人間として理解して良いのかもしれない。
(……) アヅマ君は現在三十七歳である。家族はいない。
家庭を持っている訳ではないし、
四人いた同胞が今どこで何をしているのか知る由もない。
小さい頃から「ひきつけ」やら痙攣をしばしば起こし、病院で診てもらう
こともないまま人生におけるハンディとなって彼にのしかかっていた。
吃りがちで暗い目つきをしているくせに、
何かの拍子で突然怒りを爆発させることがあって、
しかも爆発の原因があまりにも些細なことだったりするので、こいつは
「おかしいんじゃないか?」といよいよ他人が彼を敬遠することになる。
嫌われるというよりは、気味悪がられる傾向のほうが大きかった」(P64)


こういった人を舐めくさった文章を書けるのが春日武彦氏の魅力なのである。
だとしたら、この才能は小説よりもむしろ一般啓蒙書で生かされる類のものではないか。
だがまあしかし、患者を見ながらこういう妄想をしている精神科医はいやなもんだ。
精神科医としてはいささか問題ありだが、人間としての春日武彦はおもしろすぎる。
厭世家の春日武彦氏にとってあれこれ妄想して、
その結果として世界の彩りに気づくのはたいそう「生きる喜び」になっているそうだ。

「実はこういった類の飛躍に満ちた内的体験は僕にとってごく自然なことであり、
自分にとっての数少ない「生きる喜び」の一要素なのである。
悪意と傍観者的態度と妄想傾向との組み合わせが生きる支えの一つと
なっているのは寂しい限りだが、思い描くばかりかこうして文字に
書かねばいられないところが、もはや何かの業(ごう)なのかもしれない」(P145)


人を見ながらあれこれ妄想するのって思いのほか陰気で卑猥な喜びなのかもしれない。
春日氏が描いたアヅマ君のような人はいまの時給850円のバイト先にいなくもない。
人生で底辺労働どころか一度もアルバイトをしたことがない春日武彦さんは、
妄想だけでけっこうな真実めいたものを書いてしまうのだからその意地悪な才能には参る。
先ほど、こう書いた。
目のまえの患者を診ながらあれこれ妄想する春日武彦は精神科医としていかがなものかと。
しかし、それは違うのかもしれない。以下のような箇所を見ると、
実際の春日武彦さんはかなりの名医かもしれないとさえ思うくらいである。

「人の心なんて千差万別なのだから、基本的なルールを踏まえていれば
あとは場合に応じて柔軟に対処していく他ない。
いささか規格外の人間が精神科医であると、
本人の持ち味とでもいったものが
意識的なバリエーションを越えたものをもたらすから、
その意味で精神科の医師は優等生ではない者のほうが
予想外の効果をあげる場合が少なくない。
患者にとっても医者にとっても、ある種の病態に関しては
互いの「出会い」と「相性」が決定的になる。
つまり治るのも治らないのも、運次第といったところがあるのだ」(P104)


じゃあ、たとえば芥川賞の小説と春日氏の作品を比べたらどうなるか。
春日さんの小説よりもおもしろくない芥川賞作品はかなりあるだろう。
とはいえ、精神科医という枠をうまく使い量産作家に成り上がった春日さんが、
その地位が新人にはふさわしくないと判断され芥川賞候補にならないのは、
まあ人生そんなもんよねとしか思わない。
もうちょっと社交がうまかったら春日先生はもっと偉くなれていたのかもしれないなあ。
まあ所詮は他人事なのでべつにどうでもいいことだけれども。

「ファミリーシークレット」(柳美里/講談社)

→大学時代、柳美里によって文学開眼させられたといってもよいくらいだ。
このため、いわば文学のうえでの恩人のひとりでもあるこの人気作家に
てのひらを返したようなことはできるならば書きたくない。
しかし、正直に白状すると、何度も途中で投げ出してほかの本に浮気(本気?)した。
なーんか、よくわかんないけれど、
シングルマザーで作家の柳さんがご愛息を殴るんだってさ。
親が子を殴るなんてむかしからよくあることでそう大したことでもないのに、
本人が針小棒大に大騒ぎしてこれは過去のトラウマが原因だとかなんとか、
いかにもうさんくさそうな著書多数の臨床心理士のところに相談に行き、
本来ならカウンセリングは非公開だから価値があるのにもかかかわらず、
双方の営業と売名のために素人目にはもっともらしい対話をするという講談社の出版企画。
カウンセリングなんて公開できないことを話すから意味があるんでしょ。
公開前提の商用目的の夢カウンセリングっていったいなんですか?
そして、柳美里さんは自我肥大しすぎでは?
貴女の夢にだれが興味があると思うのですか?
たいへん失礼ながら柳美里のどうでもいい夢語りはすべて読み飛ばしました。
フロイトやユングのインチキがうっすらばれつつあるいま、さらなる飛躍をしてみよう。

トラウマってインチキじゃないか?

いわゆる心の病をかかえた人はトラウマ(心的外傷)を物語の核にすることが多い。
でもさ、過去のトラウマが事実だったなんてだれが証明できるわけ?
家族からしたらそのトラウマは当人の被害妄想にしか思えないことばかりのはずである。
もしかしたらあらゆるトラウマなるものは、
自分以外のだれかに責任をなすりつける身勝手で卑怯な自己申告、
つまりいうなれば虚偽の被害妄想では?
いや、美しい被害妄想もあるのはわかる。
性的にオープンな薄幸そうな美少女が真剣におのれの被害妄想をつづるのならいい。
だが、大きい子どももいるような裕福な成功者のメンヘラおばさんが、
いまだに過去の被害妄想にとらわれているのは薄情かもしれないが醜くはないだろうか?
いまや柳美里さんの金銭感覚もおかしくなっている。
有名芸能人に同情して、彼女らのギャラなど大手出版社の編集者レベルだと書いている。
あのさ、年収1500万もあったらふつうの人は同情ではなく嫉妬するんじゃないかな。
人生で一回もアルバイトをしたことがないという柳美里さんは、
1週間でいいから時給850円でパートに出たら、
完全に行き詰っているように傍目からは思える彼女の文学世界に
新たな境地が開かれるのではないか。
あるいは、まともな自意識があれば一生ものを書けなくなるかもしれない。
なぜなら、自分なんかちっとも不幸ではないと気づくであろうから。

本書はいちおうノンフィクションと銘うっているが内容は嘘ばかりなので小説だろう。
フィクションの小説にもかかわらず、一箇所だけ本当のことを書いていたので抜粋する。

「作家の書いたものなんて、
私小説であっても、エッセイであっても、ブログであっても、
虚実ない交ぜなんですよ」(P21)


これをわからぬバカ女相手の商売のはずなのに、
さすが柳美里、こっそりながらよくぞ書いたとも思う。
わたしは柳美里本人よりよほど、
好き勝手にでたらめを書かれた人気作家の父母やきょうだいのほうがかわいそうだと同情する。
だれか被害妄想過剰な女流作家をひっぱたいてやったらいいのではないか。
とうに40を過ぎた裕福で五体満足の子を持つ人気作家の柳美里は舌を出す。

「わたしも、嘘ばかり吐く子どもだった。
どんな嘘だったかは憶えていないが、親や教師に「嘘吐き!」と頬をはたかれ、
バシッ! という派手な音と痺れたような痛み――、
じんじんと熱くなっていく頬の感覚を、今でもはっきりと憶えている」(P36)


ところが、取り巻きに幾重にも囲まれたいまの柳美里の頬を、
大手出版社や一流新聞社の社会的制裁を怖れずに
「嘘吐き!」とたたけるものはいまやだれもいない。
柳美里は勝ったのである。そしてある面で負けたのである。

「人もいない春」(西村賢太/角川文庫)

→まったく成長しようとしない西村賢太がどこまでもどこまでも愛おしい。
どうで諸人くだらぬ労働なんかしたくないのが当たり前だのクラッカーで
仕事で成長するとか嘘八百だよなあ。
恋愛で成長するなんて偽善もいいところで、愛するより愛されたい尽くされたい。
ああ、経済的に養ってくれてメシも作ってくれる秋恵みたいな女が現われないかしら。
人から評価されたい、人をこばかにしたい、楽をして金を儲けたいなあ。
くうう、さみしいぜ。友がほしい、女がほしい、金がほしい、こんちくしょっ!
狂おしいほどに成功者が妬ましく、
機会があったら足を引っぱって奈落の底にひきずり落としてやりたいぜ。
人の苦しみがこちらの楽しみ。人の楽しみはこちらの苦しみ。
くそお、とりあえず女、女、女だ。
しかし、ぼく、どんな成功者になっても西村賢太さんは兄貴のように慕っているんデス。
これが真の愛読者というものなのでR♪

「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」(西村賢太/新潮文庫)

→いまごろになってようやく芥川賞受賞作「苦役列車」の単行本に収録されていた
「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」を読んだのだが、これがおもしろくてたまらなかった。
だいたい5ページに1回くらいの割合で大笑いしたのではなかったか。
いわゆる新人作家は日本にいらっしゃる数少ない読書家さんに、
芥川賞作品だけはかろうじて読んでいただけるのである。
しかし、その(おそらく)9割9分がそれだけで該当者への興味を残酷なまでに失う。
高度情報化資本主義経済(ってゆーの?)はかなしくもそういうものである。
だから、このため、兄事する芥川賞作家、西村賢太氏は偉大なのだ。
賢太さん、おまえ(失礼!)、正直、おもしろすぎるぞ!
私小説と銘うっている本作品に書いてあることすべてが本当で同時に嘘であるところがいい。
文壇ではむかしからじつのところいちばん偉かったのだが、
いまでは明々白々に出版界の最高権力者であることが露呈した編集者さんを、
たかがリーマンにすぎないじゃないかとバカにしているのが
どこまでも本当でしかも嘘でとてもよかった。
ここが最高によかった。以下引用文中の藤澤清造とは、
一流の芥川賞作家である西村賢太氏が敬愛しているとされる三流未満の物故作家である。
芥川賞作家はどんな有名作家も批判できない編集者さんにたてついてみせる。
こちとら実作者はサラリーマンにすぎない編集者なんかよりも偉い。

「――そりゃあ、そうさ。
何しろこちとらは、かの藤澤清造のお仕込みなんだからなあ。
そこいらの、何を背負って小説書いているのかサッパリわからねえ、
ただ編集者(リーマン)に好かれてよ、
売文遊泳してるだけの老人や小僧連中と一緒にされちゃ悲しいぜ」(P157)


西村賢太兄貴は、ダメ人間、人間のクズのおもしろさを小説内で体現している。
もちろん、そういうことができるのは実際はそうではないからなのだろう。
氏の住居1階にあるオリジン弁当まえで待ち伏せしていたら、
尊敬する賢太兄貴はサインどころか握手までしてくれそうなので、
そういう本当のことは知りたくないがためにとてもとてもストーカー行為はできない。

「乙女の密告」(赤染晶子/新潮社)

→日本人にもっとも知られた文学賞である芥川賞を獲得した作品である。
明日どんな小説だった? 
と聞かれたら答えられそうにないので今日のうちに読んだ感想を書いておく。
ワンセンテンスがやたら短いのが印象的だった。
こういう短文の積み重ねでも小説が完成するのかというのがせめてもの発見だった。
内容は世界的ベストセラー「アンネの日記」を下敷きにしているため、
批判めいたことを書いたら日本のみならず世界中の人権派からにらまれそうで怖い。
(だれもこんな過疎ブログを読んでいないのは存じあげておりますけれども)
ヒロシマ、ナガサキ、ブラク、ショーガイシャ、アウシュビッツはアンタッチャブル。
人権派の根本は、自分は人の痛みがわかるという壮大な勘違いだと思う。
しかし、そんなことをいったら小説を読むという行為までいかがわしくなってしまう。
もしかしたら読者は小説から他人(他者)ではなく自分を読んでいるとしたらどうだ?
そうだとしたら、小説にいっさい他者など書かなくてよいことにならないか?
小説には自分のことだけを書けばよろしいのだとしたら――。
「乙女の密告」が失礼ながらつまらなかった理由は、
作者が自分のことを赤裸々に書いていないからということになろう。