「王様の速読術」(斉藤英治/ダイヤモンド社)

→変なことをいうと、速読の本ほど早く読める書籍はないよね。
なんでみんなそんなに速読なんかしたがるのかな~。
きっと情報社会に踊らされて勘違いをしているのだろう。
情報なんてさ、ぜーんぜん大したことないわけ。
なぜなら、ビジネス情報というのは究極をいえば決断を遅らす役目しかないわけだから。
いくら情報を仕入れても、未来は不確定だから(一寸先は闇!)、結局は賭けになる。
情報をたくさん集めれば未来が見えるというのは錯覚に過ぎない。
さらに情報に頼ればそのぶんだけ自分の動物的な勘が鈍ってしまう。
未来は人間にはぜったい読めないという唯一解を、
恐ろしいことに情報は忘れさせるのだから。
速読志願者はみなさん詐欺に遭っているようなものではないかしら。
なにに騙されているのか。これよこれ!

「簡単に言えば、読書とは、人生の成功者になるための方法なのだ」(P24)

はい、ウソです。証拠はおれを見ろって、おれおれおれ。
けっこう読書はしているつもりだが、ひとかけらの成功も味わったことがない。
速読の技術だっておれは持っている。
本書じゃ1冊30分の速読をすすめているようだが、おれが本屋に行ったらすごいぜ。
新書だったら1冊15分で立ち読みすることが可能。
しかーし、人生は失敗の連続。挫折落選ばかりの下り坂どん底人生航路。完全ダメ中年。
あと、こうなったら詐欺商法をぜんぶあばいておこう。
速読した内容をブログ等でアウトプットするといいとかいうのもウソだから。
これまた証拠はおれおれおれ。
そもそもさ、考えてみようじゃない、だれがあんたやわたしの感想文なんて読むわけ?
アウトプットしたら報酬があるとかウソウソまっかっか。
ぶっちゃけると先月のアマゾン広告報酬なんて500円にも到達していないからさ~。
ブログに自分の考えなんざ書くと悪目立ちして、かえってネットでたたかれるよ。
完全失敗者のおれさまが宣言しておこう。
速読もブログも成功には意味なし。証拠はおれを見やがれ。どうだ見たか。

「多読術」(松岡正剛/ちくまプリマー新書)

→自分が読んだ本の他人の感想を知りたくてネット検索すると、
たまに松岡正剛氏の有名なブログがヒットすることがあった。
そのほとんどは超長文で意味も取りづらいので最後まで読んでいない(すみません!)。
このため著者の印象はあまりよくなかったのだが、本書はすいすい読むことができた。

音読から黙読に変わったのが14~16C以降というのが興味深かった。
つまり、それ以前の読書はすべて声に出していた。
変化した契機は活版印刷の普及。
この印刷技術が広まるまえは、いちいち音読しながら書写されていたという。
たしかに音読から黙読への変化は「文明文化の大事件」だと思う。
音読は全身体的だが(著者と身体で通じているが)、黙読は視覚しか用いていない。
声の力というのが無視されて久しいのだろう。
わたしはセミナーが嫌いで(面倒で)読書のほうが好きだ。
だが、たまに好きな脚本家の講演会に行くと、得られるものが読書とは段違いなのだ。
もちろん、それはその作家を異常なほど好きだから、
こういう現象が生じるのだろうけれど。
黙読の普及によって、言葉は身体から離れたという見方は新鮮だった。

いまは検索社会で、ネットで検索したらすぐにピンポイントで回答が出てきてしまう。
このため人間にとってもっとも創造的である連想力が落ちているという指摘もなるほど。
読書の場合、問いからスタートしてもなかなか答えに行き着かないから、
そのぶんいろいろなことを考える(連想する)のである。
ところが、ネットで検索してしまうと、無駄なく効率的にゴールに着いてしまう。
とはいえ、新しいものの創造は連想によって生まれることを考えると、
無駄を省くことはかえって豊かなおもしろみを失っていることになる。
読書は無駄に過ぎず、にもかかわらず、ではなく、だから読書はおもしろいのかもしれない。

「差がつく読書」(樋口裕一/角川oneテーマ21)

→小論文講師から人気作家、大学教授にまで成り上がった樋口裕一氏の読書術。
わたしも高校時代に著者の小論文参考書を読んだ記憶がある。
言葉はたいへんよくないが「チョーク芸人」上がりなだけに、
本書もとてもわかりやすく、かつよくまとめられているように思う。
著者は運よく(努力もあるでしょう)人気作家にして大学教授になることができたが、
そもそも予備校講師という人種はもっと評価されてもいいのではないか。
知識量でいえば大学研究者もチョーク芸人(予備校講師)も大して変わらないのである。
だとしたら、ものをわかりやすく説明できる芸人さんのほうがよほど偉いと思うのだが。
経験でものをいえば大学教授よりも予備校講師のほうが何倍も魅力的だった。

本書はあまたある読書術同様に「効率のよい読み方」を教えるものである。
むろん、著者も読書行為自体が快楽であることはよくよく知っているのだ。

「読書というのは、覗きの快楽にほかならない。
だからわくわくするほど楽しい。どきどきするほど後ろめたい」(P115)


とはいえ、読書の快楽を説いた本など書いても売れるわけがない。
編集者から求められているのも効率的読書法である。
そのうえ成功してしまった著者は、忙しくてもう快楽的読書をする暇がない。
以上、3点の理由から本書が生まれたのだと思われる。
いちばんおもしろかったのは読書法「アリバイづくり読み」である。
成功者の著者はたくさんの書籍を献本されるらしい。
しかし、ぜんぶ読んでいたらキリがない。とはいえ、読まなかったら失礼に当たる。
そこで編み出されたのが樋口裕一式「アリバイづくり読み」だ。
「効率のよい読み方」とは、とどのつまり、いかに読まないかである。
「アリバイづくり読み」はこうすればいいらしい。
わたしも万が一成功して多忙になったときのためによく覚えておきたい。
1.著者の経歴を知る。
2.前書きと後書きを読む。
3.目次を眺める。
誤読かもしれないけれど、これが樋口裕一式「アリバイづくり読み」である。
たいへん参考になったことを記しておく。

「狐狸庵読書術」(遠藤周作/河出文庫)

→精神的バブル崩壊が生じたため3ヶ月近く読書と無縁の時期がつい最近あった。
本を読まなくても、なんら支障なく生きていられることに驚いたものである。
呼吸や飲食ほど読書は人間にとって重要ではない。
いい年をして、こんな当たり前のことを知るにいたった次第だ。
とはいえ、やはり読書ほどおもしろいことはそうないのではないか。
賭け事や逢い引き、呑んだくれるのは、たしかにそう悪くはない。いや、極楽至極、楽しい。
けれども読書は、これらの誘惑に一向に引けを取らぬ。
なぜなら真の読書家はすべてを活字に帰すからである。
実人生でなにかしらあったとする。
それらすべてを活字情報と比較して黙考するのが読書家というやつらだ。
あの毒虫たちは実感よりも活字を重んじるのだから罵倒したくもなる。
思えば、わたしは遠藤周作に導かれ、悪しき活字の奴隷になったのだった――。

「本屋でぼくの本を見た〔作家デビュー物語〕」(新刊ニュース編集部編/メディアパル)絶版

→最近、作家なんていうのは都市伝説のたぐいではないかと疑い始めているが、
それでもこの職業、いなステータスへのあこがれを捨て切れない。
むろん、表現者と職業が等号で結ばれぬことなどいやというほど知っている。
職業作家でなくても立派な表現をしておられる御仁は山のようにいる。
もしかしたらわたしもそのひとりではないかと思うが、
うっかりそんなことを書いたら(えへへ、書いちゃったよ!)怒鳴られるかもしれない。
本書には作家先生のデビュー物語があまた掲載されている。
いろんな作家先生がいるものだと思う。
若年であっけなく作家になったものがいれば、苦節10年という苦労人もおられる。
すべての物語を解明するキーワードは縁である。因縁の縁。因縁時節の縁。
仏教の説く因果の法則に思いを馳せる。
因があっても縁がなければ決して果としては実らぬ。
かといって、人間の自由になるのはせめて因くらいのものである。
果報は寝て待て。待てば海路の日よりあり。
待っているうちに死ぬのも悪くない。最近至った諦観である(もちろんウソだけどさ!)。

「1年で600冊の本を読む法」(井家上隆幸/ごま書房)絶版

「なにかあるかな? と期待して買って、
読んでみるとなんにもなかったという本はけっこう多い。
書いたご当人は「どうだ、どうだ」と得意気だが、
なにがどうなんだ、といいたくなるような本もある。
もちろん、こんな本は買うまえにかぎわけて
騙されないようにしなければならないのだが、なかなかそうはいかない。
間違って買ってしまうこともしばしばある」(P99)


( ゜д゜)ポカーン
「打たれ強くなるための読書術」(東郷雄二/ちくま新書)

→京都大学教授の読書指南。
といっても、最近の流行だろう。やけにくだけた文体である。
東京大学のゲンダイシソウ系を揶揄したり、
なんとか読者を笑わせようと無理をしているところに好感を持つ(踊る京大教授!)。
主張を要約すれば、受動的読書をやめて能動的読書をしましょう。
本の内容をうのみにしないで、たえず問いかけながら読もうね、
するとボクみたいに大学教授になれるかといったらそう甘くはないが
(深読みまたは被害妄想)、
きみのなかで知の組み換えが起こって、世界の見えかたが違っちゃうかもしれないぞ。

参考になったのは著者の造語で一次本と二次本。
本にはこの二種類があるという。
歴史研究における一次資料と二次資料をまねて命名したとのこと。
一次本とは、著者自身が実地調査・現物調査をして書いた書物のこと。
二次本は、本から作った本のこと。
二次本は情報源を他の書物から得ているため、元の本の誤謬が継承されてしまう。
だから、なるべく一次本を読もうと著者は主張する。

本書はおもにノンフィクション系の読書術だがフィクションにも当てはまるかもしれない。
一次本と二次本の区別が、である。
実体験にある程度基づいて書かれたフィクション(一次本)のある一方で、
本ばかり読んで本から作ったようなフィクション(二次本)もあるように思う。
私見では、フィクションの場合、一次本と二次本の優劣はつけがたいのではないか。
「私の「本」整理術」(安原顯:編集/メタローグ)

→富士川英郎という評論家の書物とのつきあいかたが参考になった。
いわく、毎日、本棚に並んでいる書物をながめなさい。
たとえ読まなくてもタイトルを見るだけでよろしい。
日々、そうしているうちにあなたと本のあいだに関係が生じる。
すると、まさか読むまいと思っていたような本まで読むようになるというのである。
実践してみた。効果よりなにより蔵書と向き合うのがたいへん心地よい。
まだ読んでなくて、そのくせいつか読みたい本がある、この悦びはどうだ!
本は整理するものではなく愛するものだと、かの評論家は言いたかったのかもしれない。
「バカのための読書術」(小谷野敦/ちくま新書)

→知ってる、知ってる? 
うちのブログ、あっちゃん(小谷野先生)からコメントをいただいたことがあるんだ。
いきなり学歴の話をされて、ほんものだと身震いしたものである。
ちなみに柳美里のブログは読んでいないが、あっちゃん先生のは毎日拝読している。
容赦のない他者攻撃など影響を(たぶん悪影響)受けた部分も少なくない。

本書は小谷野敦先生の読書論。むろん、初読のわけがない。
数年前、書店で立ち読みして多大な影響を受けた。
買うつもりだったのだが、読み始めたらおもしろくて、うっかりその場で読了してしまった。
あまりにもおもしろい本というのは、損をすることがある。
再度読みたいと思っていたが、一度読み終えたものを買うのは気乗りしない。
ブックオフ105円ゲットを待っていたのだけれども、
小谷野先生のご著作は「もてない男」以外ほとんどブックオフには出回らない。
今回、やっとのことで入手、再読したしだいである。

あらためて良書であることを確認。
この読書論のすばらしさは「わからない」にこだわっているところである。
わからないものには毅然としてわからないという小谷野先生の姿勢に感銘を受けた。
「おもしろい」ものを希求する態度も好ましい。
わからなくてつまらない本をもてはやす学界への強烈な異議申し立てである。
2ちゃんねるでよく言われていることだが、氏は評論家評論の達人である。
小説評論は理が勝ちすぎていまいち。
かたい本格評論も氏のユーモアセンスが生かせない。
評論家を評論するとき、小谷野敦の筆はもっとも冴え渡るように思う。
なんにせよ、いまいちばん動向が気になる論客である。
「読書家の新技術」(呉智英/朝日文庫)絶版

→小谷野敦が影響を受けた本だというから読んでみたのだけれども、
ひと言でいえば、つかえねえゴミ本。
読書論の根本にある疑問というものがある。「なんのために本を読むか」だ。
むかしの読書論では、教養をつけるため、幸福になるため、よりよき成人になるため。
こんな回答がなされたものである。
では、呉智英の読書論はこの問いにどう答えるか。
「知的武装して知の戦士、知のゲリラになるため」だそうである(87ページ)。
ゲリラとかバッカじゃねえの。知的武装ってなんですか。
大戦隊ゴーグルファイブからぜんぜん成長していないじゃないの(笑)。
変身して、知的ゲリラへ! 平和を守るために悪と闘おう!
後楽園遊園地で呉智英と握手でもすんのかい? まったく幼稚極まりない。
こういう乗りが好きな男の子が呉先生に続け、とかアホなことを考えるのだろう。
いまひまさえあれば2ちゃんねるの政治系の板で罵倒しあっている連中というのが、
呉智英の読者層になるのかと思われる。
おれは知のゲリラだ。悪をくじく知の戦士。ううう、おれってかっちょええ♪
こんな自己陶酔をしているのかと思うと気持が悪くて身震いする。

新聞書評を参考にして探書を増やすとか、宝探しのつもりなんでしょうかね。
知の戦士は洞窟で宝箱を発見した。「開ける/開けない」。
ピヨーン♪ 知の戦士はまぼろしの書物を手に入れた。戦士の賢さが5上がった。
とかなんとか(笑)。がんばってゲームでもクリアするつもりなのだろうか。
書評なんか読まなくていいと思うけどな。
わたしは、書物は人間とおなじで縁だと思っている。
縁があれば読む。縁がなかったら読まない。
このくらい気楽に構えているのが健全だと思う。
それから呉智英がすすめているのは読書カードか。
わたしは似たようなことをブログで4年もやっているけど、なーんも向上していませんが?
読書カードなんてよほどの物好きしかやらなくていいと思うがね。

巻末に例によってブックガイドが掲載されている。
ひとに本をすすめる人間というのは、なんだかな。
おなじ人間なんてひとりもいないんだから、
自分に役立った本が他人にも効能があると考えるのは間違いではないかな。
こういうブックガイドを作るのが読書の目的だったのではないかと疑いたくなる。
おれ、こーんなに、本を読んでるぜ、見て見て、すげえだろ、みたいな。
おまえはビールの空き缶でも集めてろって。
要するに呉智英は自分の子分を作りたいわけでしょう。
このブックガイドにある書物を読んだら、今日からきみもミニミニ呉先生だぁ!
ブックガイドは必要ないと思うけどな。
本は他人から読まされるものではないでしょう。
大切な自分の時間とおカネを使うのだから、読みたい本を読めばいいんじゃない?
読みたい本がないのなら、別に本なんて読まなくても。
ほかに楽しいことを見つけたらいいと思うのだが。
間違ってるかな、知のゲリラ諸君よ?