「「酒」と作家たち」(浦西和彦:編/中公文庫)

→信濃町の博文堂書店で買ったあそこならではの良書である。
ディスプレイこそ本屋の才能やで。
昨日さ、なんかさ、「本の山」の大ファンだという若者に誘われ飲んだが、
その後に創価学会の信濃町に行こうという話になり、まじか冗談かわからないままに、
お土産屋に到着し、彼は「必勝」の三色鉢巻を買った。
もうここからはパワハラだよね。つけろって言ったもん。いまここでつけろ。
走らなくてもいいがこころは必勝で疾走体制でだれにも負けるなよ。
そして、彼はやってくれたのだが、絵画的にちょーおもしろい。
その三色鉢巻を信濃町でつけたら通報も報道もできない本当の極道。
なによりも悪い行為。
僕もさ、彼とはちょっと違いを出したくて「常勝」の鉢巻95円を購入。
信濃町でこのくらい酔っぱらっていたらつけてもいいかと自己判断してつけてみたら、
周囲の自分を見る目がまったく異なる。
あの人は池田先生かってレベルでみんな僕を見てくれる。
学会の上のほうの幹部でも三色鉢巻をつけて町を歩ける人はいないでしょう?

なにが言いたいのかって酒の薬ぶり毒ぶりはひどいなあ。
ノーベル賞作家の川端康成はまったく酒を飲めない下戸だったが、
ゴーゴーバーに行き、
ミニスカートの若い女の子の生命そのものといった生足を見るのを晩年まで愛したらしい。
尾崎士郎は朝から酒を飲んだ。サラリーマンと作家は異なるとかたくなに信じるがゆえ。
「晩菊」林扶美子は本当に「晩菊」だったようだ。
高見順は演技過剰なおもしろいやつ。
「例えば太宰治は、酒を飲む人だったが、飲んでいないときの彼は、
醒めすぎるほど醒めていた、と思う」と青山光二は言っている。
亀井勝一郎は太宰治に酒の味を教わった。
いつも朝から書斎に引きこもったが、机のわきにはいつもウイスキーの角瓶があった。
.中上健次の酒がひどかったことは「文芸首都」の保高みさ子が証言している。

「昭和四十五年新年に「終刊記念号」を出し皆様にお贈りしたが、
その打ち上げ会を自宅でやった時、
一同、悲愴、かつ感傷の思いにかられ盛大に飲みまくった。
中でも若い中上健次は強力無双、体力絶倫、
K[柄谷じゃねえの?]という細い同人に
掴みかかり雨戸もどとも庭に投げ飛ばしたり、
キスをさせろと私を家中追いかけ廻し、私は夫の病室に避難したりした。
彼の妻君の紀和鏡は怖れをなしてトイレに閉じこもり
私に百十番に電話してくれと頼む。
ようやく皆で暴れる中上健次をなだめすかし帰る方向につれ出したが、
近所の人は何事かと遠まきに見送り、
私は彼の払いのけようとした手で、
したたかに石垣に頭をぶつけ、大きなコブを作った。
酒に於ける最後の修羅場である」(P111)


関係者から聞くと、いまは本当に酒が売れないらしい。
いまの若い子は酒を飲まない。飲んでも家でコンビニエンスに済ます。
むかしながらの居酒屋なんかほとんど赤字で商売にはなっていないだろう。
だから、お酒のちょっといい話か、かなり悪い話か。
晩年の山本周五郎はアル中が進行してひどかったらしい。

「死の間際には物を食べず、ウイスキーだけをのんでいたようだ。
本当に彼はものを食わなかった。
横浜の花街の小さな料亭に、いつも四、五人の芸妓を集めて、
沢山の料理をご馳走して、彼女たちが食うのを楽しそうに眺め、
自分では何も食わなかった。
「皆いい子だよ、この妓たちも淋しいんだよ」
とさながら娘たちをみる父親のような顔をして私に語ったことがある。
この芸者たちに親切にしてやっている間に、
彼女らは、自然に自分たちのたどって来た道、
日常の身辺雑記を語ってきかせるようになったらしい。
彼の小説の女がそこにあった。
彼は彼女たちから庶民生活の実態を吸い上げていたに違いない」(P208)


昨日の晩、酔っぱらって長年の周五郎ファンの女友達に総武線から電話して、
相手はかなりの迷惑だっただろうが、それこそ文学かもしれない。
日本で公衆の面前で昼から酒を飲めるのは花見の時期しかないが、
だれか花見に誘ってよという結論でまとめるが、文句なんてございますでありましょうか?

「喰いたい放題」(色川武大/光文社文庫)

→色川武大なんぞいまではよほどの好事家しか知らぬむかしの大衆作家だが、
いまとむかしではどちらがよかったのかという問題がつねにつきまとう。
むかしはパワハラ、アカハラ、セクハラなんて言葉はなかったわけでしょう?
その点よくなったとも言えるし悪くなったと言うこともできよう。
ここ10年でさえ、いろいろな価値観が変化してきている。
ほんの10年まえはひとりの学生が
シナリオ・センターという三流専門学校のひとりの無能講師の指導に逆らったら、
それだけで経営者の二代目社長さんは絶対正義の自分たちに逆らうなと激怒し、
あろうことかお金をもらっている学生を強制的に追放どころか、
人権侵害ともまごうべき立ち入り禁止にさえすることができたのだ。
いまは天下の早稲田大学でさえ被害生徒の訴えを聞き入れ、
いまのところは問題教授を停職処分にして時勢をうかがっている。
どのみち、お金は返すだろう。
慰謝料がどうなるかは興味がある。いま裏で協議されていることであろう。
戦後強くなったのは靴下と女だと言われるが、
価値という面ではいまは女性集団の価格はバブルのように急上昇しているものの、
女の実勢価値は下落するいっぽうではないかと思われる。
職場で同世代の労働者に実地調査すると、女はもういいと思っている男が少なくない。

この10年、20年でいちばん価格が上がった食品は鰻(うなぎ)ではないか。
料理屋でもスーパーでも値上がりが半端ない。
鰻は滋養にいいのだから仕方がないという見方もできよう。
まえにも書いたが、鰻はむかしから好きだった。
いまは比較的安価な中国産ともはや宝石のように光り輝く国産品にわかれる。
むかし専門店で小さな天然国産鰻をお重で食べるチャンスがあったとき、なんだと憤った。
これならスーパーの中国産養殖鰻のほうが脂(あぶら)が乗っていてうまいではないか。
むかしの食通作家、色川武大はいま(当時)の鰻など食えたものではないという。
理由が洒落ているので紹介したい。たしかに鰻はうまい――。

「しかし、鰻そのものは、昔に比べてぐっと味が落ちた。
よく古老が、なんにつけても昔のものをほめて、
今をけなすのをきき苦しく思っていたが、
鰻に関しては私も古老と歩調を合わせなければならない。
まず第一に、養殖のもの、ただひたすらに肥満していて、
脂だくさん、身が柔らかすぎる。
養殖場で、なんの苦労もなく、飽食していたものの持つだらしのない味だ。
舌にのせてトロ、はいいけれど、トロトロすぎる。
昔の天然鰻は、もっと苦労を積んで生きてきたものの精があった。
それが微妙な味わいをうみ、舌にのせておけばトロ、だけれども、
同時にピンと張ったしたたかさも感じさせる」(P239)


明日は「土用の丑の日」だが、みなさまはどこで鰻をご購入なさるだろうか?
今日の段階で各スーパーの鮮魚売場にはわが大好物である鰻であふれていた。
あれって明日、売り切れるわけではないだろう?
明日の閉店間際や明後日に行ったら、どうなっているのだろう。
お正月後の「おせち」のようになっていたらぜひ買いたい。
しかし、鰻はどうしてか安くならないのだ。また冷凍するのだろうか。
「商売に精を出す」という言葉は、いまでは死語に近くなったのではないか?
精を出すには精をつけなければならない。
むかしの卵はいまのように安くなく、無精卵ではなく有精卵であったという。
文筆稼業に精を出すために精を必要とした色川武大はむかしの話をする。

「江戸小咄(こばなし)などでも、女郎[じょろう/商売女? 売春婦? 風俗嬢?]が
抱え主[雇い主]の眼を盗んで夜鳴きうどん[屋台のうどん店]をとり、
懐中に大事そうに忍ばせてきたたまごを、カチッと割り入れたりする場面がある。
あれも有精卵だから、滋養になるとも思えるし、
生あるもの同士が喰べたり喰べられたりする哀れも誘うのである。
それに、高価ではないにせよ、現今のように安くはなかったように思う。
安くて、感動もなく量産されていて、くだらなく便利になってしまったな」(P31)


色川武大の「もっと苦労を積んで生きてきたものの精」
という言葉がいまわが身に響いている。反響している。
古い小説を読んでいると、
むかしの人の苦労はパワハラ、アカハラ、セクハラ当たり前の世界である。
むかしはいいと言うほど老人ではないが、
酒精はむかしのほうが強く感じられてうらやましい。
酒精とは酒のちからを借りてでも、なにかことをなしてやろうという気力の表明である。
いまは精神が宿っていないものが多すぎるが、その善悪はわからない。
精神科の春日武彦医師によるといまは精神病患者のパワーも弱いらしい。
かつては格が上なものから理不尽な凌辱(りょうじゅく)を受け、
なみだを飲み、それを精神のちからとした女性もいたことであろう。
権力者ぶった女性から人権を凌辱され(被害妄想に近似)、
その怨恨を返そうと虎視眈々と10年近く狙っている病的な臥薪嘗胆の男を知っている。

精をつけよう。「安くて、感動もなく量産されていて、くだらなく便利」な時代を
生きる我われも精魂を鍛えよう。
それはかならずしも明日、鰻を食べようというわけではない。
廃棄率、経済効率を考えると明日に鰻を食べるのはいいが、
精をつけるとはそういうことではない。いつか精を出すために精をつけるのである。
自戒を込めて書くが、カップ麺ではなく精がつくものを食べるようにしたい。
カップ麺もいやはや異常なほどうまいものもなくはないが、けれども、しかしだ。
見るからに精が強そうな人、弱そうな人が男女ともにいる。
一時期、精が強そうでもいつの間にか弱まっている男女もいる。
いったい精とはなんだろうか? おそらくそれは「いのち」だろう。
みんな毎日「いのち」を残酷無比にも殺して(殺させて)、それらを食しながら生きている。

「酒呑まれ」(大竹聡/ちくま文庫)

→父から幾度となく教え聞いたのは「飲む、打つ、買う」だあな。
男は飲む(酒、酒、酒)、打つ(賭博/ギャンブル)、買う(売女/買春)――。
このどれかで破滅するから注意しろ。
今日も父から明日の昼から飲もうという電話があったが、
月曜日からきつい仕事だし、書きたい本の感想も山ほど残っているので、
どうしようもないどうでもない事情ではないことを聞いたうえでお断りする。
バカな工員っぽいことを書くと(わたしのいまの身分はそれだが)、
男には酒、賭博、女しかないのだろう。それしか生きる楽しみなんかあらへんやないか。
正直、賭博も女もよくわからない(教えてくださいませ)。
酒だけは一丁前にわかっているような顔をしている男(わたし)の
絶賛するのが大竹聡さんである。むかしからファンだった。
大竹聡さんは「酒とつまみ」編集長にして、酒場エッセイ作家の技巧派。
著者の文章を読むと、うまいよなあと思うところが多い。
まあ、著者は酒を飲みながら売文を書くこともけっこうあるらしい。
開高健というすごさがよくわからないサントリー作家がいる。
山口瞳(男性)も同時代のサントリー作家だが、
サントリーには男の夢を誘うノウハウがある。
ぶっちゃけ、なにを厚顔にと叱られそうだが、サントリー作家の地位にあこがれている。
酒は健康によくないとされているけれど、飲むと楽しいじゃん。
いつしか古株酒場作家となったいかにも善人顔、イケメンで、
わたしもいつかお逢いできたらと願っている大竹さんの文章を引こう。
大竹聡さんは開高健のことをこのように書く。
開高健専属カメラマンだった高橋昇氏の思い出としてだ。
カメラマンは糖尿病なのに、ウニやらあんきもやら危なそうなものをがんがん食ったという。
好きなものは好きなだけやる(食う)。著者は――。

かつて開高健さんが通ったバーに[高橋昇に]連れて行ってもらったこともある。
昇さんは開高さんが残したザ・マッカラン十八年のボトルを受け継ぎ、
開高さんのネームプレートをボトルに下げたままにしていた。
もちろんストレートで飲む。
開高さんの思い出を話すとき、北海道出身の昇さんはなぜか関西弁になった。
「先生な、こうして、小指立てて、飲むんや、いつもな、小指、立ってるんや」
言っている昇さんの小指もピンと立っていておかしい。
何千冊だったかそれとも万単位だったか、数は忘れたけれど、
昇さんは開高先生から、とことん本を読んだら賢くなると教わったという」(P197)


わたしは酒、演劇、文学、宗教のことをよく味わった。それがわたしのいまのプライド。
えへっ、なんちゃって。いつかサントリーとお仕事をして、若者の酒離れをとめてみたい。
本書は酒好きが酒に呑まれながら書いたじつにいい本でした。

「あの人と、「酒都」放浪 日本一ぜいたくな酒場めぐり」(小坂剛/中公新書ラクレ470)

→一流の読売新聞のお偉いさんであるインテリ記者が、
一流とされる権威どころと大衆酒場をまわったルポを本にしたものである。
取材費もふんだんにあったと思われ、ほんとうにいい本になっていたと思う。
この居酒屋ガイドを真似て酒場めぐりをするものも多数現われるのではないか。
なにせ一流新聞の主任記者が一流先生のすすめる居酒屋に行った報告である。
まったく自分のあたまで考えられない新聞愛読者のような大衆は、
まさにまさにまさしくこういうガイドブック(案内本)を求めているのであろう。
大多数の人間にとって、「他人の評価」がすべてである。
人生でもっとも価値のあるものは「他人の評価」だ。
「他人の評価」を真似て他人の快感を模倣して味わった気分になるのが一般大衆だ。
これは◯◯先生がこうほめていたからいいのよねえ、
と「他人の評価」を再体験するのが目的のために生きている人が大勢いる。
きれいごとをいえば「他人の評価」なんてどうでもよく、
自分の味覚にこそ真実はあるのだが、そういう態度は近所迷惑を起こす。
人生で「他人の評価」こそたいせつなものはないのである。
「他人の評価」の高い会社に勤めているものは偉い。
作家にとっては「他人の評価」たる文学賞をいくつ取ったかが人生の勝負だ。
多くの人の生きる目的は「他人の評価」を得るためだといってもよかろう。
「他人の評価」がすべてだ。自分の考えなんて持つな、言うな、抹殺せよ。
自分ではなく他人を生きろ。「自分の評価」がなんになる?
「他人の評価」を求めるのが人として「正しい」生き方だ。

本書でグッときた箇所を紹介したい。
エリートの読売新聞記者が、居酒屋評論の大御所、太田和彦氏と一流居酒屋に行った。
やはり一流の人は一流で記者さんは
大御所おすすめの「えびしんじょう」を口にして「本当のこと」をいってしまう。
「おいしいですね。豆腐コロッケみたい」
居酒屋評論の天皇陛下、最高権威の太田和彦氏は読売記者をあざ笑ったという。
「豆腐コロッケみたいのと比べられちゃ困る。エビだよ、エビ!」
世間では「他人の評価」が絶対的に「正しい」と思っていたほうがいい。
豆腐なんかよりもエビのほうがうまい、価値があるというのが「他人の評価」だ。
世の中というものは「他人の評価」が網(あみ)のようにはりめぐらされており、
なるべくならそれに逆らわないほうが自分もまた「他人の評価」を得られる。
一流居酒屋エッセイの本書から学んだのは「他人の評価」こそ「正しい」ということ。
世間でおいしい思いをしたかったらゆめゆめ「自分の評価」などするなかれ。
すべて「他人の評価」に従って他人のあたまで考え、
他人の目でものを見て、他人の耳で情報を聞き、そしてそして、
いかに他人の舌で酒をのみものをくらうかがこの世で勝利するためのテクニックである。
「えびしんじょう」を食べて「豆腐コロッケみたい」といってはならない。
エビは豆腐よりも偉いしうまい。なぜなら「他人の評価」がそうだからである。
「自分の評価」など捨てろ。「他人の評価」に盲目的に従え。
じつにいい人生指南書を読んだという満足感でいっぱいだ。
酒好き必読の書。ここに正義が書かれているから、あえていいたい。絶対に読め!

「江分利満氏の酒・酒・女」(山口瞳/徳間文庫)

→江分利満とはエブリマン、つまり我われ大衆のことである。
名前からは性別がわからないが、
男性作家の山口瞳はみずからを江分利満とおとしめた。
むろん、山口瞳がエブリマン(大衆)なわけがなく、
大企業のサントリーの社員の身で直木賞まで受賞した大、大、大成功者なのだが。
あるいは江分利満ぶるのが成功する秘訣なのかもしれない。
こうして実名で悪口を書けるのは山口瞳がとっくに死んでいて、
ひとり息子のお坊ちゃんも現在ではそれほど権力を持っていないようだからである。

いまは干されているが復活も近いと噂される、
銀座での豪遊が大好きな某大物司会者もとにかく電波上は庶民ぶっていた。
エリートサラリーマンでのちに人気作家になった山口瞳も
銀座で遊ぶのが好きだったらしい。
銀座で派手に遊んでいたところ、
当時の文壇権力者の梶山季之にたいへんひいきにしてもらい、
雑誌連載多数の梶山の鶴の一声で
はじめて書いた小説で直木賞作家になったという(P46、P54)。
自分は小説家になりたいなど一度も思ったことはないと書いているが嘘である。
死後に公開された夫人へのラブレターで異常なまでの作家願望が語られている。
まあ、人間はそんなもんだが、
人生がこうもうまくいく人もいるかと思うと錯覚には違いないがかすかな希望が持てる。

惚れるということがいかに重要か。
山口瞳は梶山季之にひいきにしてもらったから出世できたのである。
梶山季之は山口瞳を好いた。好くとはわけがわからない行為である。
山口瞳も自分の「好き」にたいへんこだわった作家だった。
ナンシー関や中村うさぎの元祖が「男性自身」の山口瞳である。
好きになるとは、どういうことか?

「……私にとっては、焼酎とラーメンのほうが、
フランス料理店のエスカルゴよりも食物としては上等だということになる」(P149)


自分が好きなものを好きでいつづけることがどれほど難しいか。
エブリマン(みんな)があまり好きではないものを、
好きだとこだわりつづけ、どこが好きかを語りつづけるのがどれだけ価値のあることか。
なにかを好きになる、惚れるということがどれほど生きる原動力になるか。
なにかを好きになることのないものはさみしいのではないかとさえ思う。
いまからでも遅くない。自戒を込めながら発言するが、なにかを好きになろう。
だれかを好きになろう。
意図してできるものではないが、だれかに惚れてみたいじゃないか。

「芸術とは何か、小説とは何か、ということも、
古来、くりかえし反問されるのであるが、
同様にして、女とは何か、という設問も難問であると思う。
芸術とは何かという設問では、結局は、惚れてしまえばそれまでよ、
ということで終わってしまうことが多い。
そのあたりも、女とは何かに似ている」(P162)


性別などどうでもよくなりむかし梶山季之は山口瞳に惚れた。
梶山季之は山口瞳の書くものに惚れた。
梶山季之は山口瞳の書くものをもっともっと読みたいと思った。
だから、当時売れっ子作家の梶山季之は
周辺の編集者に山口瞳という男の書くものはすばらしいと吹聴してまわったのである。
この人の書くものをもっと読みたい。
だれかひとりにでも熱狂的に惚れられるというのが作家の才能というものだろう。
好かれるのが才能だと書いたみたいだが、好くのも才能である。
ビジネスライクの正反対の態度が人を好くということだ。人を嫌うということだ。

「居酒屋百名山」(太田和彦/新潮文庫)

→いまや居酒屋評論の最高権威となった太田和彦氏の文庫最新刊を酒をのみながら読む。
むかしから著者のファンだったけれども、人は変わるものだとつくづく思う。
居酒屋の紹介の仕方がやけに俗っぽくなっているので好みがわかれるところだろう。
この店は有名文化人のだれそれがひいきにしていたという紹介ばかりなのである。
それもかなりくどく有名文化人の名前を連呼するのは、
読者によってはいろいろ思うところがある人がいてもおかしくない。
居酒屋評論の権威は、彼が評価した店から高級食材が毎年送られてくるという。
なぜなら著者のガイド本で客足が大幅に増加したから、その感謝の表明である。
なにかしてもらったらお礼をするのは庶民の常識だから悪く言いたいわけではない。
著者は居酒屋業界ではもう顔が割れているため特別扱いも多いらしい。
こういう権威になってしまったことにあんがい著者は嫌気が差しているのかもしれない。
いや、そうであってもらいたい。
権威なんかになりたがる人ではないですよね、太田さん?

本書を読んで自分の向上心のなさを深く反省した。
酒は酔えればいいと紙パックの日本酒で満足するのは、
たとえるならば安っぽいテレビドラマに感動するようなもので、
人はやはり古典文学のような高級ブランド日本酒を求めなくてはならないのだろう。
しかし、古典文学は激安だけれど、名高い日本酒はちと値が張りすぎるのではないか。
いや、そうではない。わたしは間違えている。
上質な人間は有名人のひいきにしている店で高級珍味を食らい、
これはどこそこのだね? とピタリ言い当て、さすがお目が高いと言われなければならない。
自分が好きな安いものを飲み食いするのではなく、
せっかく食に恵まれた現代の日本に生まれてきたのなら
ガイド本の舌を信用して日々研鑽を積まなくてどうする? 一流の人間は一流の店に通う。
人間も食べ物も酒も一流、二流、三流がある。学校、会社も一流、二流、三流があるように。
一流の居酒屋エッセイを読み、いたく刺激を受ける。このままではいけない。

「ぜんぜん酔ってません」(大竹聡/双葉文庫)

→愛読している雑誌「酒とつまみ」編集長にして新進気鋭の酒場エッセイストの著書を読む。
それとこんなテキスト(笑)と関係ないことを書いていいのかわからないけれど、
著者は結構な、いやかなりのイケメンね。
たぶん、二種類の人間がいるんだろうな。
自慢話をドヤ顔で書きたがる人と、失敗談を嬉々として自虐的に語る人である。
著者は後者らしく、ご自身の酒にまつわる失敗を本書で饒舌に語っておられる。
同病相憐れむではないが、著者の失敗談はまるで自分のことのようでヒリヒリ痛い。
そして、共感する。それでいいんじゃないかと思う。励まされる。
大酒呑みなのに著者は妻子がいて、いまのところ人生うまくいっているらしい。
医学は酒を敵とみなすが、こういう人が実際にいるのだから我われのんべえは励まされる。
著者の小説を読んだこともあるが、本書のほうが何倍もいい。
気負っていないのがいいのだろう。
なんでも著者は酒を呑みながら文章を書くこともあるのだとか。
たぶん、よくわからないが(←シロートなので)、
思ったことを思ったように気負わず書くと、ときに人の共感を得られるのかもしれない。
お酒が好きな著者の書く、気負わない文章がわたしは好きだ。
これからも思ったことを思ったように好きなように勝手気ままに書いてください。

「美酒礼賛」(山口瞳/グルメ文庫/角川春樹事務所)

→いつだったか石原慎太郎と兄事する西村賢太の対談をユーチューブで見ていたら、
元都知事がいまさらながら山口瞳(男性作家)のことをぼろくそに言っているのである。
テレビを見ているものの大半はもう山口瞳など知らぬだろうに。
逆宣伝になってしまうかもしれないのに、どうしようもなく恨みを晴らす。
死人に口なしだから、石原慎太郎はめちゃくちゃ言っていた。
業界の先輩である山口瞳が自分に謝りに来たというのである。
それもひとりで来るのを怖がっておともをつけていたと、さんざんコケにしている。
わたしはむろん山口瞳派だが、しかし石原慎太郎の恨みもわからないでもない。
きっと山口瞳から一生忘れられないことをされたのだろう。
そういうことをやらかすのがむかしの文士であった。
怨念の果し合いを執念深く師弟にわたって繰り返す。
果たして西村賢太兄貴はどのくらいそういうことをできるか。
あの石原慎太郎が認めたわけだから、まあ好き勝手にやってほしいと思う。
山口瞳は、本書で色川武大(阿佐田哲也)を「コワイ作家」だと評している。
いわく――。

「僕は小説家の条件として、次の三点を考えている。
第一に悪人。第二に奇病の持ち主。第三に容貌魁偉(ようぼうかいい)。
しかるがゆえに色川武大は尊敬すべき小説家なのである」(P202)


もちろん、この三つの条件に山口瞳自身も十分に当てはまる。
おそらく石原慎太郎も当てはまったから山口瞳が多少かわいがったのだろう。
石原慎太郎が西村賢太兄貴をこちらは言葉の意味通りかわいがるのも、
まずこのためと見て間違いあるまい。
悪人であること。奇病の持ち主。容貌魁偉。
こういうものがあちこちの世界で多数出没して世の常識派など蹴散らしてほしいものだ。
石原慎太郎がいまになって山口瞳をおとしめるのは、
むろん嫌いで恨みがあったからなのだろうが、絶対にそれだけではないはずである。

「“せんべろ”探偵が行く」(中島らも+小堀純/文藝春秋)

→居酒屋エッセイ。
「うちは大学教授もお忍びで来るんです」なんていう大衆居酒屋は大嫌いだ。
「せんべろ」(千円でべろべろになれる)の飲み屋がいちばんいいではないか。
もっとも中島らもとおなじで日本酒4合程度では泥酔しないわたしには、
「せんべろ」の居酒屋など日本には存在しないのだが(中国ならあります)。
上野の立ち飲み屋「たきおか」が長らくいちばん好きな居酒屋だったけれど、
そういえば経済上の理由でここ数年行った記憶はない。
激安チェーン店「一休」も好きなのだが、まあ、わたしの話はどうでもいい。

中島らもの話をしよう。酒の話をしようではないか。
酒を飲むとなにがいいのかといったら、アホになれることである。
「せんべろ」に行くような客はもともとアホなのだろうが(その発言やばいっす!)、
もっとアホになりたいから安酒をべろべろになるほど飲むのだ。
もとからあたまのいい中島らものような人は
(朝日新聞からも気に入られた売れっ子作家!)
われわれとは異なりアホへの憧憬が尋常ではなかったのではないか。
このため、酒、クスリ、大麻と依存の大道を爆走なさったようだ。

中島らもはアホを目指すうちに最後のほうでは本当のアホになっていたようである。
本書によると晩年、大麻で捕まったときの判決まえの動揺といったらなかったという。
昼日中に一流ホテルの喫茶ラウンジで、
いきなりカバンからバーボンの瓶を取り出しラッパ飲みしたそうである。
もちろん、即座にボーイから注意された。
作家の無頼自慢なんて、どれもこれもしょせんは嘘八百で毎回がっかりさせられるのだが、
こういう証言があるとえらく嬉しくなる。

アホぶった秀才作家のなんと多いことか。頼りないことか。
生まれは金持のぼんぼんなのにアホになりたいと酒やクスリを大量摂取した中島らもは、
晩年に長年夢見ていたほんまもんのアホになることができたのである。
いかに酒が偉大であるかわかるだろう。
中島らものような、お坊ちゃん秀才モテモテ作家を、ただのアホにしよったのやから。
アホの中島らもの酒の見方にはまったく同意する。

「だいたいおれは酒の味がどうの風情がどうのということで飲み始めたのではなく、
ただただ早く酔っ払いたい自失したいために飲み始めたのだ」(P240)


もちろん人気作家の常飲していたのは安酒ではなく、どこぞの高級地酒なのだが、
こういう矛盾することを同一の書に記しているのだからやはり愛すべきアホである。
アホになるとは、なんだってよくなるということではないかと思う。
なんだってよろしい。
浮気してもいいし、不倫してもいいし、本気になってもいいし、大麻を吸ってもいい。
恋愛しなくても結婚しなくても子作りしなくても労働しなくても納税しなくても、いい。
なんだっていいのだから、生きても死んでも構わない。ぜんぜんOK! ぜんぶOK!
なんだってよろしいのだから、大学教授も社長さんもワープアも無職もニートもみな同身分。
しつこいようだが、どうしたらアホになれるのか。なにをしたら、なんだってよくなるのか。
――酒を飲むにかぎる。中島らもを見よ!

「今夜もひとり居酒屋」(池内紀/中公新書)

→浮世離れした学者先生の居酒屋論にうんざりしたこちらはきっと学がないのでしょうね。
以下のようにお偉い先生に具申したら無粋になるのでしょうけれど――。
「居酒屋のお通しはただじゃありませんぜ」(P56)
「おでんは居酒屋常備のつまみってだれが決めたんですか」(P63)
「庶民にはなじみ深いごぼうの唐揚げごときに感動なさるなんて、まあ」(P100)
とまあ、いろいろ先生に申し上げたいことはありますが、
結局これは著者の影響下の発言になってしまいます。
なぜかドイツ文学者の著者は「正しい」ことを言おう言おうとしているように見えます。
ゲスなことを言いますと、
学者先生の定義する「正しい」居酒屋はあんまり居心地がよろしくなさそうで。
さらに、であります。はてまあ、居酒屋や寿司屋での「正しい」作法を
自分は知っていると思い上がるのはいかがなものですかな。
「正しい」(かりにあるとして)飲み方、食べ方をしなくたっていいじゃないですか。
半可通だってお金を払った本人が楽しかったら構わないではありませんか。
そもそも飲むのも食うのも、人間にとって相当お下劣な行為だと思う。
これが「正しい」などと定義された作法に従うのなら、ちっとも楽しくないと思いますが。
本書を「正しく」読解できなかったようで、どうもすんません。

(追記)この記事は昨日酔っ払って書きましたが(恥ずかしくてすぐ消した)、
今日読み返してみるとおれってほんとコンプレックス過剰で偏狭、意固地、
インテリぶったやつを見かけたら石でもうんこでも投げつけたいっていう最低のやつですね。