「東京・居酒屋の四季」(太田和彦/新潮社)

→たとえばブックガイドのようなものがある。「必読書150」なんて書いてある。
ほんとうにこういう書物で紹介されているものはすべて読まなければならないのだろうか。
いやいや、決して嫌いなわけではないのである。
かえりみれば、演劇に興味を持ったのは大学を卒業してからなのだ。
海外戯曲のどれがおもしろいのかさっぱりわからなかった。
「演劇100選」のような小著がどれほど役に立ったことか。
しかし、ガイド本は最低限の参考にとどめるべきだと思う。

本書も同様のガイド本である。東京の有名居酒屋が36店紹介されている。
ちなみに、わたしはこのうちひとつも行ったことがない。
今後もおそらく行かないと思う。
この書籍は居酒屋のガイドのみならず酒ののみかたまで定めている。
たとえば、居酒屋では冷奴、枝豆、蛸ぶつ――。
こういった家でも食べられるものを注文するのが真の酒のみとされている(P78)。
わたしは居酒屋において、家では決して口にできぬものを食すと決めている。
だが、居酒屋の権威は、冷奴をたのまぬ酒のみは邪道だという。
さて、どうしたらいいのだろうか。

権威とどうつきあえばいいのか、である。
原点に戻り、権威の定める律法とはいかなるものか考えてみよう。
なんのことはない、どれも極めて個人的な好みである。
ところが、この人間が成り上がった。すると権威ともてはやされる。
かの人物の好き嫌いが絶対化されるのはこのときである。
どういうことかというと、権威を信じるものは、みな阿呆である。
たとえば、皇室御用達のなにがしをもったいぶってありがたがるのは白痴以下というほかない。

なぜなら、どうして自分自身を権威と思わないのか。
おまえさんはそんなに安っぽいのかい。
なんとか評論家(皇室)に比べてあんたはそこまで安上がりなのかい。
どうしてもっと自分に自信を持たない?
よしんば、あなたが成り上がったならば、あなたの価値基準が権威になるのだよ。
こう考えるようになったら、どのようなガイド本も、にやにや眺めることができる。
へええ、あんたはそう思っているの。だが、おれはちがうよ。
男はこれでいいのである。
ランキングに一喜一憂して情報にふりまわされるのは女性様のお仕事と心得よ!
「東京居酒屋探訪」(大道珠貴/講談社)

→好きな作家は決まって低学歴である(いま不適切な発言がありました、謝罪します)。
山本周五郎、中上健次、宮本輝、柳美里、大道珠貴、西村賢太――。
低学歴作家の魅力はインテリなら死んでも言えないような実感のある言葉である。
学問ちゅうのは建前なんだということを、尊敬する低学歴作家たちから幾度教えられたか。
そのたびにかなわないなと思う。大学なんて行かなければよかったと思うくらいである。
本書の初出は、芥川賞作家が講談社の編集者と居酒屋めぐりをするという文芸誌の企画。
ある有名な居酒屋で、こういうことがあったという。
呑み屋を経営する夫婦が、客が講談社の社員と知り、しゃしゃりでて来る。

「おばさんは、なんかよくわからんが本を出してほしいらしく、
来る客で出版社の人がいると、今までだした自分の本を見せているんだそう。
まだ出したいのか。一冊で充分じゃない。
大将も、なんとかとかいう俳号で、料理に通じる俳句を載せていた。
ふむふむと私たち、まわし読み。
こういうとき、私は、同行者たちにちょっぴりホの字だ。
職業柄だろうが、実にやさしい。ちゃんと読んでいる。興味を示している。
人の書くものにはまったく興味がない私は、
ほう、とか、へえ、とか言いつつまるで読んでいない。
頭にてんで入ってないのだ。
こういう態度は、学生時代から。
いかにも聞いていそうなふりをして、まったく聞いていない。
うなずいたり、唇をかんで難しそうな顔をしたり、
顎(あご)に手をあてて深く瞑想したりして見せながら、熟年先生の股間の中、
今日は右寄りだとか左寄りだとかを想像していたっけ」(P91)


あたかも野良犬のような自由奔放さである。
いまさらなにをしたところで太刀打ちできないと絶望するほかない。
文章をさしだされたら、へへえ、と読んでしまうような意気地のなさがわたしにはある。
大道珠貴のようには、とてもいかない。
この育ちの悪さ、学のなさが、大道珠貴の魅力である。
この作家のこういうところが好きなのである。

もう一箇所、本書から引用したい。大道珠貴はひとを顔で判断する。
この企画で、著者は毎月編集者と居酒屋で顔をつきあわせる。
ふしぎなのは顔だと大道は書いている。

「この集団、見事にかしこそうな美男美女。こんなことも珍しい。
編集者にブスもブオトコもいないのはなぜ(あ、ブオトコはまれにいるか)。
(中略) なんていうかなあ、四十年近く生きてくると、見えちゃいますね。
きれいだと性格もいいし、でしゃばらなくても、しあわせが降ってきている。
恵まれているからますますきれいに光り輝く。
きれいじゃないと、ひがみが容姿にあらわれている。
性格も悪い。直りそうもない。見ているだけで不愉快。
私は人間全体にあまり近づかないようにしているが、
特にきれいじゃないともう全然近づかない。
人生、限られているもん、それならなるべくきれいなものを見て過ごしたい。
きれいの基準は人それぞれなんて言ってられん。
きれいなのは誰が見てもきれい」(P119)


なにをしたってこの芥川賞作家にはかなわないと平伏する。
なまじ大学なんて出ていると、どうしても人間は見た目ではないと思ってしまう。
なんの学問的根拠もなしに、こうもおのれの美感を打ちだせる大道珠貴――。
おそろしい才能だといわざるをえない。
この天才作家をドキュンだの低能だのと愚弄する高学歴は、
おそらく人間というものをわかっていないのではあるまいか。
「ビバ☆オヤジ酒場」(かなつ久美/ワニブックス)

→女性漫画家が仲間数人と有名なオヤジ酒場を訪問する。
オヤジ以外いないなかに、若い女性数人で入っていくのである。
ふたつの反応があったようである。
若い女性様だからということでチヤホヤされる(これが7割)。
ここはおまえらの来るところじゃないと拒絶される(こっちは2割くらいかな)。
残りの1割はなんの関心も持ってもらえないというケース。
読み物としてはたいへんおもしろかった。
けれども、彼女たちの行動をどう受けとめればいいのか。
もしわたしがその場に居合わせたら間違いなく不愉快な思いをしただろう。
東京にはラッシュ時に女性専用車というものがある。
痴漢防止のため、その車両には女性しか乗れないというのだ。
ここに(汚くていやらしいと女性様から思われている)男が入ったら
いったいどんな仕打ちを受けるか。
いっぽうで(大半は)汚いオヤジ酒場に女性様が入店したら歓迎されるというのは、
あまりにも不平等ではありませんかね。
なんか屈折しているのかな。わたしの書いていること、もしかしておかしい?
すまん。自分じゃわからないんだ。教えてくれ。プリーズ。
こんなガイドを参考にして若い女性様がオヤジ酒場へ乱入するようになったら困るな。
というか、困りたい。
早く居酒屋へちょくちょく顔をだせるような身分になりたいです、はい。
若い女性様を叱りつけるのは、それからということだな。
いやいや、もちろん実際はそんなことできやしませんよ(笑)。
若い女性様の集団から「なにこのオッサン、きも〜い」
なんて言われたトラウマで3日は寝込むもの。ボク繊細だから。
あーあ、若い女性様とこじゃれた居酒屋なんかで忘年会したいな。
以上はかなわぬ夢の裏返し、すなわちルサンチマン爆発でありました(にっこり)♪
「居酒屋礼讃」(森下賢一/毎日新聞社)絶版

→のっけから別の図書より引用する。

「微妙な味覚というものに、私は長いこと反感があった。
味についてごたごたうるさいことをいう男を見ていると、
目の前で刺身にケチャップをつけて食べたくなるというようなところがあった」
(山田太一「路上のボールペン」新潮文庫 P162)


これに尽きると思うのね。
うまいまずいって、あんたらの人生はそれしかないのかい?
そう言いたいような心持はわたしにもある。強くある。
だけど、グルメ本を好んで読む。テレビをつければグルメ番組を探してしまう。
この矛盾は、なんだろう〜。いったい、いったい、なんだろう〜。

グルメ本もむずかしいのはわかる。
知ったかぶりをあからさまにやってしまうと読者はひいてしまう。
さりげなく、こそっりと、それでも、気づいてもらえるようにやらなければならない。
まあ、泥棒の反対だな。
防犯カメラをかいくぐり、他人の家へ侵入して、それとなくものを置いてくる。
そうすることで収入を得るわけだ。

注文をだしたい。酔うな、ということである。
グルメ作家は酔ってはいけない。自己陶酔だけは勘弁してほしい。
あんな美食を知っているボクボクボク。
だれも知らないこじゃれたレストランの常連のあたしあたしあたし。
これをやられるとむかむかしてしょうがない。
けれども、これはひとそれぞれでもある。
そういう俗物趣味をことさら好む人種もいる。
グルメガイドを持って、作者のあとを追う人びとである。
それって宗教じゃん。下品な宗教。やめようよ。たかが食べ物じゃないですか。

とはいえ、テレビをつけてグルメ番組をやっていたらつい見てしまう。
おいしそうだなと思う。食べたいと思う。見終わって俗物だなと反省する。
これではいけない。若いものがこれではいけないと思う。
だけど、刺身にケチャップをつけて食べる勇気はない。だらしないじぶんがいやになる。
「江分利満氏の酒食生活」(山口瞳/ランティエ叢書/角川春樹事務所)*再読

→レシートがはさまっている。
2002年3月11日。紀伊国屋書店新宿南店で購入。
ある事実に愕然とする。
このころはたかがお酒のエッセイ、それも文庫サイズの本に1050円もだせたのか。
もうひとつ驚きが。あのころは脳が健康だった。
今回は再読。前回読んだのは4年前。やはりお酒をのみながらだったと思う。
それでもいま読み返すと内容を覚えている。
ということは、ここ1、2年でめっきり脳が衰えたということか。
原因はわかっている。アルコール。わかっちゃいるけど、やめられな〜い♪
このところ「本の山」の感想がやたら細かいのは備忘のため。
1週間前に読んだ本でもすぐに忘れてしまう。
だから、こうしてブログに書いている。

開高健と山口瞳はよく比較される。
どちらもサントリー宣伝部出身。
開高健は芥川賞を受賞。世界各地へ活発にでかけた。ときには戦地まで取材する。
いっぽうの山口瞳は、開高の受賞から5年後に直木賞を。
マイホーム作家を生涯、貫いた。庭で花を育てる作家であることを恥じなかった。
どちらにあこがれるかといったら、いうまでもなく開高健である。
おこがましいが躁鬱病気質なところが似ていると自覚している。
けれども――。開高健の小説のどこがおもしろいのかまるでわからぬ。
山口瞳のほうは、読もうと思わなくても、ついつい手にしてしまう。
開高健と山口瞳。寺山修司と山田太一の対照と似たものがある。
この両者の比較なら断言できるのだが。
山田太一のほうが、書くものも、生きかたも数段すぐれていると。
「京都大衆酒場」(青幻社)

→大発見をしたのであーる♪
おなじビールでも、居酒屋さんでのむとなぜかおいしいですよね。
自宅でのむよりも美味。
トマト、冷奴、枝豆――。
家で簡単にできるつまみも、居酒屋さんで食べると、どこか味がちがう。
なんとなくおいしい気がする。どうしてでしょう。
雰囲気というのが味覚に大きな影響を与えるのかもしれません。
そこで発明をしたのです。
たとえばこの本。文章は少なく写真ばかりの本です。
居酒屋の写真がいっぱい。
写真を見ます。目をつむる。脳内で居酒屋へいるじぶんをイメージ。
おもむろにその気分のままビールをぐびり。
ううう。5割増、ビールがうまいのであります。
これは偉大な発見ではないでしょうか。
ちなみにいまパソコンの横には、茹でたての枝豆と、ちょっと奮発した高級豆腐が。
この本の写真を見る。枝豆をぱくり。冷奴をするり。ビールをごくり。
ああ、なんて幸福なのでしょう。
「完本・居酒屋大全」(太田和彦/小学館文庫) *再読

→居酒屋評論家・太田和彦の原点。オリジナルは1990年出版。
再読にたえるお酒エッセイを書くことができるのは太田和彦さんだけかも。
内容は、とにかくマニアック。
好きなものを、独断と偏見で、とことんまで追究しようとする姿勢がなんとも魅力的。
居酒屋が好きでたまらないというのがよくわかる。
好きだから極める。結果、独自の視点が打ち出される。世間に評価される。まあ、売れる。
すると、今度は世間を意識した文章を書き始める。
初期のファンは嘆く。むかしはよかった。
どの作家も売れるまえがいちばんなのかもしれない。

うむむ? この「本の山」も? 
好きな本を読んでいるだけである。
好きなことばかりしてちゃ生きていけないよと訳知り顔で説教する人間へ、
じゃあ、あなたはひとつでもほんとうに好きなこと、夢中なれることがあるのかい、
なんて逆にやりこめるのは、あまりに典型的なやりとりなのでここでは避けますね。
「居酒屋道楽」(太田和彦/新潮文庫)

→自由律俳人、山頭火の句から。

「へうへうとして水を味ふ」

山頭火のとぎすまされた味覚にどきりとさせられる。
水などさして味わうものではないと思っている。だから、はっとする。
水をしみじみ味わっている山頭火に打たれる。
わたしはいままでほんとうにものを味わって口にしてきただろうかと不安になる。
たとえばいま横にウイスキーのソーダ割りがある。その脇にはチー鱈。
このチーズと鱈(たら)の合成物を口に入れる。
果たしてしんじつにこのものを味わっているか。
チー鱈を食べている。そう信じているだけではないか。
酒をのむ。ウイスキーは安いものである。口に入れる。のみほす。
どこまで酒のありがたみをわたしはわかっているというのか。
酒そのものをどこまでこころから味わい得ているのか。
山頭火をまえにしたら自信がなくなる。
山頭火ならこのチー鱈も、酒も、もっとより深く味わうように思うのである。
桜の木があるとする。たいがいの日本人は、桜「だから」きれいと思うだけだ。
しかしこれでは句作はできぬ。これはなんだろうか。この桃色の輝きの本質はなにか。
俳人は桜を丸ごと味わおうとする。その結果、生みだされるのが俳句である。

味わう。いまの太田和彦は味覚がすっかり鈍磨したようである。
やたら酒食のうんちくを連発するのは困ったもの。
あたかもこういっているかのようである。
この食べ物は、産地がどこどこ「だから」うまい。
この日本酒の銘柄は、どこどこのブランド「だから」うまい。
本書に著者の傲慢を物語るエッセイがあった。かなしくなった。
太田和彦がある居酒屋に入る。日本酒を注文する。
だが、店主はどこの蔵元か決していわない。
蔵元ではなく、酒そのものを味わってもらいたいのがその理由だという。
太田和彦は怒る。酒をひと口すすっただけであとは残し(!)店をあとにする。
居酒屋評論の大家、太田和彦の現状である。
山頭火は生涯、世間的には無名であった。酒食をしんそこ愛した。味わった。
山頭火を見習いたい。太田和彦は残念でならない。
「東海道居酒屋膝栗毛」(太田和彦・村松誠/小学館)

→酒が友だち、本が友だち、である。
お気に入りのエッセイを読みながら、酒をぐびりとのむ。
もっともこころやすまるときである。
本書で紹介されている居酒屋へ行きたいなどという野心はない。
そもそも、一緒に行く相手がいない。
名店にはつきものの頑固店主とやりあう気力もない。
それにわたしは喘息もち。タバコの煙がどうにも苦手である。
紫煙がセットの美食には、そうたいした魅力がない。
かといって、居酒屋を禁煙にしろという注文が無理なのはわかっている。
これでいいのである。
本と酒。いまはどちらも安くなった。うれしいかぎりである。
ブックオフ105円本を読みながら、安い雑酒をのむ幸福――。
「立ち飲み屋」(立ち飲み研究会/ちくま文庫)

→いま手元にぼろぼろよれよれになったこの文庫本がある。
感動して何度も再読したというわけではない。
お酒をのみながら読んだので汚れただけの話である。
たまらないね。贅沢だね。新刊のきれいな文庫本を買う。盛大に汚しながらたのしむ。
立ち飲み屋のガイドブックだが、情報を求めての読書ではない。
目的は脳内トリップ。
あたかもそういうところでのんでいるかのごとくイメージしてビール(もどき)をごくり。
くうう、うま〜い。なにも読まずにのむよりも5割増の美味。
わたしは人間の舌をさほど信用していない。
うまいまずいはその食べ物にもとから備わっている属性ではないように思う。
こちらがわの気分しだいでどうとでもなるもの。
なんでもないおにぎりが最高の美食にもなりうるゆえんである。
そもそも料亭やバーはこの原理を最大限に利用した場所。
たとえばビール。どこでのもうがビールそのものの味がさほどかわるわけでもあるまい。
しかし、金額のほうは酒屋で買うのとは天と地もの差がでる。
そうなるとのみなれたビールの味もなんだかことなるように感じられる。
いかに人間の舌がイメージに左右されるかである。

イメージと書いたが、これは物語とも翻訳できる。
学童期の社会見学を思い返してみよう。地元のパン工場へ行く。
製造過程をつぶさに見学する。そのあとには決まってパンがだされる。
わたしのときにはチョコレートパンだったか。そのなんと美味なることか!
ビール製造会社各社がやっている工場見学もこれとおなじでは?
ビールの味が会社によってそうかわろうはずがない(言いすぎですか)。
だが、製造過程を見ると、そのビールが特別に感じられる。
かのビールと見学者のあいだに物語が生まれたためである。
どんなCMよりも物語の支配力は強い。
見学者は以後、ビールといったらその会社のものをのむことだろう。

人間は物語を求める。意味を渇望する。
たとえなんでもないキュウリ1本でも、
そこにある意味が加わるなら絶品のつまみになるのである。
たかがビールでも高級バーで1杯1000円もするものだと味がかわるのとおなじ道理。
人間のなんと愚かなことか単純なことか! あるいは、なんとおもしろい存在か!
人間である長所を活用しない手はない。本をのみながら酒をのむ理由である。
読みながらのむことで、目前の酒とつまみに意味を与えていく。
陶然とする。一日はりつめていた神経がはじめて安らぎをみせるときである。
活字から離陸する。文体から自由になる。
いつしか本の世界へ分け入っているじぶんに気づく。
自意識から一瞬、解放される。酒をのむ。本を読む。しあわせである。
究極の美食は料理人風情が作りだせるものではない。
各人の脳が、ひとによっては心が、調理するものではないか。

安上がりでいいねといわれそうである。たしかにそのとおり。
金のかからない人間だと思う。
いまそら豆を食べている。ビール(もどき)をのんでいる。
これにもあるちょっとした物語がある。だから、うまい。
今回、わたしがあかした味覚の理論。みなさまも活用できませんか。
高い料理屋へ行って散財するばかりでは、せっかくの人間がもったいない。
ところがこの思想はかなり危険なものでもある。
一歩、まちがうと、泥沼からぬけだせなくなる。
飲食の際にこの方法を適用するだけならいいのである。
だが、人間関係にこの原理をあてはめると――。
友人も恋人もいらないことになる。
本の中にいる人間を友人や恋人にすれば事足りてしまうのだから。
もしかしたらわたしもいまかなり危ない状況にいるのかもしれない。
いや、十分危険地帯にいるのだろう。
そこで、だれか。一緒に安い立ち飲み屋へ行ってくれませんかね(笑)。
でもな、わたし酒乱だし……。困った、困った。現実は本の中のようにはうまくいかぬ。