「あの人と、「酒都」放浪 日本一ぜいたくな酒場めぐり」(小坂剛/中公新書ラクレ470)

→一流の読売新聞のお偉いさんであるインテリ記者が、
一流とされる権威どころと大衆酒場をまわったルポを本にしたものである。
取材費もふんだんにあったと思われ、ほんとうにいい本になっていたと思う。
この居酒屋ガイドを真似て酒場めぐりをするものも多数現われるのではないか。
なにせ一流新聞の主任記者が一流先生のすすめる居酒屋に行った報告である。
まったく自分のあたまで考えられない新聞愛読者のような大衆は、
まさにまさにまさしくこういうガイドブック(案内本)を求めているのであろう。
大多数の人間にとって、「他人の評価」がすべてである。
人生でもっとも価値のあるものは「他人の評価」だ。
「他人の評価」を真似て他人の快感を模倣して味わった気分になるのが一般大衆だ。
これは◯◯先生がこうほめていたからいいのよねえ、
と「他人の評価」を再体験するのが目的のために生きている人が大勢いる。
きれいごとをいえば「他人の評価」なんてどうでもよく、
自分の味覚にこそ真実はあるのだが、そういう態度は近所迷惑を起こす。
人生で「他人の評価」こそたいせつなものはないのである。
「他人の評価」の高い会社に勤めているものは偉い。
作家にとっては「他人の評価」たる文学賞をいくつ取ったかが人生の勝負だ。
多くの人の生きる目的は「他人の評価」を得るためだといってもよかろう。
「他人の評価」がすべてだ。自分の考えなんて持つな、言うな、抹殺せよ。
自分ではなく他人を生きろ。「自分の評価」がなんになる?
「他人の評価」を求めるのが人として「正しい」生き方だ。

本書でグッときた箇所を紹介したい。
エリートの読売新聞記者が、居酒屋評論の大御所、太田和彦氏と一流居酒屋に行った。
やはり一流の人は一流で記者さんは
大御所おすすめの「えびしんじょう」を口にして「本当のこと」をいってしまう。
「おいしいですね。豆腐コロッケみたい」
居酒屋評論の天皇陛下、最高権威の太田和彦氏は読売記者をあざ笑ったという。
「豆腐コロッケみたいのと比べられちゃ困る。エビだよ、エビ!」
世間では「他人の評価」が絶対的に「正しい」と思っていたほうがいい。
豆腐なんかよりもエビのほうがうまい、価値があるというのが「他人の評価」だ。
世の中というものは「他人の評価」が網(あみ)のようにはりめぐらされており、
なるべくならそれに逆らわないほうが自分もまた「他人の評価」を得られる。
一流居酒屋エッセイの本書から学んだのは「他人の評価」こそ「正しい」ということ。
世間でおいしい思いをしたかったらゆめゆめ「自分の評価」などするなかれ。
すべて「他人の評価」に従って他人のあたまで考え、
他人の目でものを見て、他人の耳で情報を聞き、そしてそして、
いかに他人の舌で酒をのみものをくらうかがこの世で勝利するためのテクニックである。
「えびしんじょう」を食べて「豆腐コロッケみたい」といってはならない。
エビは豆腐よりも偉いしうまい。なぜなら「他人の評価」がそうだからである。
「自分の評価」など捨てろ。「他人の評価」に盲目的に従え。
じつにいい人生指南書を読んだという満足感でいっぱいだ。
酒好き必読の書。ここに正義が書かれているから、あえていいたい。絶対に読め!

「江分利満氏の酒・酒・女」(山口瞳/徳間文庫)

→江分利満とはエブリマン、つまり我われ大衆のことである。
名前からは性別がわからないが、
男性作家の山口瞳はみずからを江分利満とおとしめた。
むろん、山口瞳がエブリマン(大衆)なわけがなく、
大企業のサントリーの社員の身で直木賞まで受賞した大、大、大成功者なのだが。
あるいは江分利満ぶるのが成功する秘訣なのかもしれない。
こうして実名で悪口を書けるのは山口瞳がとっくに死んでいて、
ひとり息子のお坊ちゃんも現在ではそれほど権力を持っていないようだからである。

いまは干されているが復活も近いと噂される、
銀座での豪遊が大好きな某大物司会者もとにかく電波上は庶民ぶっていた。
エリートサラリーマンでのちに人気作家になった山口瞳も
銀座で遊ぶのが好きだったらしい。
銀座で派手に遊んでいたところ、
当時の文壇権力者の梶山季之にたいへんひいきにしてもらい、
雑誌連載多数の梶山の鶴の一声で
はじめて書いた小説で直木賞作家になったという(P46、P54)。
自分は小説家になりたいなど一度も思ったことはないと書いているが嘘である。
死後に公開された夫人へのラブレターで異常なまでの作家願望が語られている。
まあ、人間はそんなもんだが、
人生がこうもうまくいく人もいるかと思うと錯覚には違いないがかすかな希望が持てる。

惚れるということがいかに重要か。
山口瞳は梶山季之にひいきにしてもらったから出世できたのである。
梶山季之は山口瞳を好いた。好くとはわけがわからない行為である。
山口瞳も自分の「好き」にたいへんこだわった作家だった。
ナンシー関や中村うさぎの元祖が「男性自身」の山口瞳である。
好きになるとは、どういうことか?

「……私にとっては、焼酎とラーメンのほうが、
フランス料理店のエスカルゴよりも食物としては上等だということになる」(P149)


自分が好きなものを好きでいつづけることがどれほど難しいか。
エブリマン(みんな)があまり好きではないものを、
好きだとこだわりつづけ、どこが好きかを語りつづけるのがどれだけ価値のあることか。
なにかを好きになる、惚れるということがどれほど生きる原動力になるか。
なにかを好きになることのないものはさみしいのではないかとさえ思う。
いまからでも遅くない。自戒を込めながら発言するが、なにかを好きになろう。
だれかを好きになろう。
意図してできるものではないが、だれかに惚れてみたいじゃないか。

「芸術とは何か、小説とは何か、ということも、
古来、くりかえし反問されるのであるが、
同様にして、女とは何か、という設問も難問であると思う。
芸術とは何かという設問では、結局は、惚れてしまえばそれまでよ、
ということで終わってしまうことが多い。
そのあたりも、女とは何かに似ている」(P162)


性別などどうでもよくなりむかし梶山季之は山口瞳に惚れた。
梶山季之は山口瞳の書くものに惚れた。
梶山季之は山口瞳の書くものをもっともっと読みたいと思った。
だから、当時売れっ子作家の梶山季之は
周辺の編集者に山口瞳という男の書くものはすばらしいと吹聴してまわったのである。
この人の書くものをもっと読みたい。
だれかひとりにでも熱狂的に惚れられるというのが作家の才能というものだろう。
好かれるのが才能だと書いたみたいだが、好くのも才能である。
ビジネスライクの正反対の態度が人を好くということだ。人を嫌うということだ。

「居酒屋百名山」(太田和彦/新潮文庫)

→いまや居酒屋評論の最高権威となった太田和彦氏の文庫最新刊を酒をのみながら読む。
むかしから著者のファンだったけれども、人は変わるものだとつくづく思う。
居酒屋の紹介の仕方がやけに俗っぽくなっているので好みがわかれるところだろう。
この店は有名文化人のだれそれがひいきにしていたという紹介ばかりなのである。
それもかなりくどく有名文化人の名前を連呼するのは、
読者によってはいろいろ思うところがある人がいてもおかしくない。
居酒屋評論の権威は、彼が評価した店から高級食材が毎年送られてくるという。
なぜなら著者のガイド本で客足が大幅に増加したから、その感謝の表明である。
なにかしてもらったらお礼をするのは庶民の常識だから悪く言いたいわけではない。
著者は居酒屋業界ではもう顔が割れているため特別扱いも多いらしい。
こういう権威になってしまったことにあんがい著者は嫌気が差しているのかもしれない。
いや、そうであってもらいたい。
権威なんかになりたがる人ではないですよね、太田さん?

本書を読んで自分の向上心のなさを深く反省した。
酒は酔えればいいと紙パックの日本酒で満足するのは、
たとえるならば安っぽいテレビドラマに感動するようなもので、
人はやはり古典文学のような高級ブランド日本酒を求めなくてはならないのだろう。
しかし、古典文学は激安だけれど、名高い日本酒はちと値が張りすぎるのではないか。
いや、そうではない。わたしは間違えている。
上質な人間は有名人のひいきにしている店で高級珍味を食らい、
これはどこそこのだね? とピタリ言い当て、さすがお目が高いと言われなければならない。
自分が好きな安いものを飲み食いするのではなく、
せっかく食に恵まれた現代の日本に生まれてきたのなら
ガイド本の舌を信用して日々研鑽を積まなくてどうする? 一流の人間は一流の店に通う。
人間も食べ物も酒も一流、二流、三流がある。学校、会社も一流、二流、三流があるように。
一流の居酒屋エッセイを読み、いたく刺激を受ける。このままではいけない。

「ぜんぜん酔ってません」(大竹聡/双葉文庫)

→愛読している雑誌「酒とつまみ」編集長にして新進気鋭の酒場エッセイストの著書を読む。
それとこんなテキスト(笑)と関係ないことを書いていいのかわからないけれど、
著者は結構な、いやかなりのイケメンね。
たぶん、二種類の人間がいるんだろうな。
自慢話をドヤ顔で書きたがる人と、失敗談を嬉々として自虐的に語る人である。
著者は後者らしく、ご自身の酒にまつわる失敗を本書で饒舌に語っておられる。
同病相憐れむではないが、著者の失敗談はまるで自分のことのようでヒリヒリ痛い。
そして、共感する。それでいいんじゃないかと思う。励まされる。
大酒呑みなのに著者は妻子がいて、いまのところ人生うまくいっているらしい。
医学は酒を敵とみなすが、こういう人が実際にいるのだから我われのんべえは励まされる。
著者の小説を読んだこともあるが、本書のほうが何倍もいい。
気負っていないのがいいのだろう。
なんでも著者は酒を呑みながら文章を書くこともあるのだとか。
たぶん、よくわからないが(←シロートなので)、
思ったことを思ったように気負わず書くと、ときに人の共感を得られるのかもしれない。
お酒が好きな著者の書く、気負わない文章がわたしは好きだ。
これからも思ったことを思ったように好きなように勝手気ままに書いてください。

「美酒礼賛」(山口瞳/グルメ文庫/角川春樹事務所)

→いつだったか石原慎太郎と兄事する西村賢太の対談をユーチューブで見ていたら、
元都知事がいまさらながら山口瞳(男性作家)のことをぼろくそに言っているのである。
テレビを見ているものの大半はもう山口瞳など知らぬだろうに。
逆宣伝になってしまうかもしれないのに、どうしようもなく恨みを晴らす。
死人に口なしだから、石原慎太郎はめちゃくちゃ言っていた。
業界の先輩である山口瞳が自分に謝りに来たというのである。
それもひとりで来るのを怖がっておともをつけていたと、さんざんコケにしている。
わたしはむろん山口瞳派だが、しかし石原慎太郎の恨みもわからないでもない。
きっと山口瞳から一生忘れられないことをされたのだろう。
そういうことをやらかすのがむかしの文士であった。
怨念の果し合いを執念深く師弟にわたって繰り返す。
果たして西村賢太兄貴はどのくらいそういうことをできるか。
あの石原慎太郎が認めたわけだから、まあ好き勝手にやってほしいと思う。
山口瞳は、本書で色川武大(阿佐田哲也)を「コワイ作家」だと評している。
いわく――。

「僕は小説家の条件として、次の三点を考えている。
第一に悪人。第二に奇病の持ち主。第三に容貌魁偉(ようぼうかいい)。
しかるがゆえに色川武大は尊敬すべき小説家なのである」(P202)


もちろん、この三つの条件に山口瞳自身も十分に当てはまる。
おそらく石原慎太郎も当てはまったから山口瞳が多少かわいがったのだろう。
石原慎太郎が西村賢太兄貴をこちらは言葉の意味通りかわいがるのも、
まずこのためと見て間違いあるまい。
悪人であること。奇病の持ち主。容貌魁偉。
こういうものがあちこちの世界で多数出没して世の常識派など蹴散らしてほしいものだ。
石原慎太郎がいまになって山口瞳をおとしめるのは、
むろん嫌いで恨みがあったからなのだろうが、絶対にそれだけではないはずである。

「“せんべろ”探偵が行く」(中島らも+小堀純/文藝春秋)

→居酒屋エッセイ。
「うちは大学教授もお忍びで来るんです」なんていう大衆居酒屋は大嫌いだ。
「せんべろ」(千円でべろべろになれる)の飲み屋がいちばんいいではないか。
もっとも中島らもとおなじで日本酒4合程度では泥酔しないわたしには、
「せんべろ」の居酒屋など日本には存在しないのだが(中国ならあります)。
上野の立ち飲み屋「たきおか」が長らくいちばん好きな居酒屋だったけれど、
そういえば経済上の理由でここ数年行った記憶はない。
激安チェーン店「一休」も好きなのだが、まあ、わたしの話はどうでもいい。

中島らもの話をしよう。酒の話をしようではないか。
酒を飲むとなにがいいのかといったら、アホになれることである。
「せんべろ」に行くような客はもともとアホなのだろうが(その発言やばいっす!)、
もっとアホになりたいから安酒をべろべろになるほど飲むのだ。
もとからあたまのいい中島らものような人は
(朝日新聞からも気に入られた売れっ子作家!)
われわれとは異なりアホへの憧憬が尋常ではなかったのではないか。
このため、酒、クスリ、大麻と依存の大道を爆走なさったようだ。

中島らもはアホを目指すうちに最後のほうでは本当のアホになっていたようである。
本書によると晩年、大麻で捕まったときの判決まえの動揺といったらなかったという。
昼日中に一流ホテルの喫茶ラウンジで、
いきなりカバンからバーボンの瓶を取り出しラッパ飲みしたそうである。
もちろん、即座にボーイから注意された。
作家の無頼自慢なんて、どれもこれもしょせんは嘘八百で毎回がっかりさせられるのだが、
こういう証言があるとえらく嬉しくなる。

アホぶった秀才作家のなんと多いことか。頼りないことか。
生まれは金持のぼんぼんなのにアホになりたいと酒やクスリを大量摂取した中島らもは、
晩年に長年夢見ていたほんまもんのアホになることができたのである。
いかに酒が偉大であるかわかるだろう。
中島らものような、お坊ちゃん秀才モテモテ作家を、ただのアホにしよったのやから。
アホの中島らもの酒の見方にはまったく同意する。

「だいたいおれは酒の味がどうの風情がどうのということで飲み始めたのではなく、
ただただ早く酔っ払いたい自失したいために飲み始めたのだ」(P240)


もちろん人気作家の常飲していたのは安酒ではなく、どこぞの高級地酒なのだが、
こういう矛盾することを同一の書に記しているのだからやはり愛すべきアホである。
アホになるとは、なんだってよくなるということではないかと思う。
なんだってよろしい。
浮気してもいいし、不倫してもいいし、本気になってもいいし、大麻を吸ってもいい。
恋愛しなくても結婚しなくても子作りしなくても労働しなくても納税しなくても、いい。
なんだっていいのだから、生きても死んでも構わない。ぜんぜんOK! ぜんぶOK!
なんだってよろしいのだから、大学教授も社長さんもワープアも無職もニートもみな同身分。
しつこいようだが、どうしたらアホになれるのか。なにをしたら、なんだってよくなるのか。
――酒を飲むにかぎる。中島らもを見よ!

「今夜もひとり居酒屋」(池内紀/中公新書)

→浮世離れした学者先生の居酒屋論にうんざりしたこちらはきっと学がないのでしょうね。
以下のようにお偉い先生に具申したら無粋になるのでしょうけれど――。
「居酒屋のお通しはただじゃありませんぜ」(P56)
「おでんは居酒屋常備のつまみってだれが決めたんですか」(P63)
「庶民にはなじみ深いごぼうの唐揚げごときに感動なさるなんて、まあ」(P100)
とまあ、いろいろ先生に申し上げたいことはありますが、
結局これは著者の影響下の発言になってしまいます。
なぜかドイツ文学者の著者は「正しい」ことを言おう言おうとしているように見えます。
ゲスなことを言いますと、
学者先生の定義する「正しい」居酒屋はあんまり居心地がよろしくなさそうで。
さらに、であります。はてまあ、居酒屋や寿司屋での「正しい」作法を
自分は知っていると思い上がるのはいかがなものですかな。
「正しい」(かりにあるとして)飲み方、食べ方をしなくたっていいじゃないですか。
半可通だってお金を払った本人が楽しかったら構わないではありませんか。
そもそも飲むのも食うのも、人間にとって相当お下劣な行為だと思う。
これが「正しい」などと定義された作法に従うのなら、ちっとも楽しくないと思いますが。
本書を「正しく」読解できなかったようで、どうもすんません。

(追記)この記事は昨日酔っ払って書きましたが(恥ずかしくてすぐ消した)、
今日読み返してみるとおれってほんとコンプレックス過剰で偏狭、意固地、
インテリぶったやつを見かけたら石でもうんこでも投げつけたいっていう最低のやつですね。

「酒と肴と旅の空」(池波正太郎:編/新潮社)

→古きよき文士の酒食にまつわる名作エッセイを集めたもの。
文士は味わいのプロである。うまいものがあったら徹底的に食らう。
宇野鴻一郎は南国の沖縄で泡盛をぐいぐい飲みながら豚足3個を平らげる。

「喰いすぎの苦痛はたしかに苦痛ではあるが、
どこか心楽しい、充実した、悦びに満ちた苦しみである。
胃の内容物が逆流せぬように注意しつつおくびをもらし、ついでにあくびをし、
満足のあまりの涙さえ浮かべながら、ズボンのチャックを開き、
背中の座布団の位置を調節して少しでも楽な姿勢をとり、
陽光と海からの風に頬をなぶらせて、
喰ったものがゆるゆると消化されてゆくのを感じるときほど、
自分が生きている、という実感がひしひし湧いてくることはない」(P120)


読むだけでこちらも満腹になってしまいそうなこってりとした文章である。
よくものを食らう人はよろしい。
壇一雄はニュージーランドの無人島で食ったカキが忘れられないという。
これも生きる楽しさが伝わってくる名文である。

「カキの話で思い出したから、ついでに書いておけば、
そのワイタンギの港から船出して、小さな無人島に一日暮らした楽しさばかり、
忘れられるものではない。
同行の諸君らは、私をその無人島においてけぼりにして、
そのまま船を漕ぎ出してしまったのだが、
その島には、崖のところから、真水がしたたり落ちて流れており、
ちょっと岩蔭を廻ると、そこらの潮の中に、いくらでも、カキがへばりついていた。
もっとも、小さいカキだし、養殖のカキではないのだから、
その肉はほんのひと舐めだが、
塩水に洗った無人島のカキは、絶妙の味わいに思われた。
おまけに、土地で「スナッピー」と呼んでいる真鯛を、五、六尾と、スズキを一尾、
「ひとつ、料理しといて下さいよ」
と預けられている。私は難破船の横板の上で、そのスズキや、
鯛を大模様に切り裂きながら、あとはウイスキーと、焚火(たきび)である。
あんな愉快なことと云ったらなかった。
鯛に塩をかけて、その焚火の脇で石焼にする。コップのウイスキーを手にしながら、
時折、また潮水に降りていって、カキを啜(すす)る」(P150)


よだれが出てきそうな文章とは、こういうものを言うのだろう。
うまい食べ物はいい。うまい文章はいい。
うまい食べ物をうまく描いた文章は最高にいい。
小島政二郎は弁当が好きだという。

「今は絶えてなくなったが、大地震までは、東京に弁当屋という商売があった。
忘れられないのは、「香弁(こうべん)」と「ネコ弁」だ。
ちょっと聞いただけでは分るまい。
香弁というのは、御飯にいろいろさまざまなお香々だけはいっているお弁当だ。
外のおかずは何にもはいっていない。全部お香々ばかり。
その代り、季節の野菜が、糠(ぬか)漬けにしてあるのもあるし、
塩漬けにしたものもあるといった具合で、まるで秋の花野を見るように綺麗だった。
洒落た人が、瓢箪(ひょうたん)にお酒を入れて、それを腰にさげて、
このお弁当を持って、向島の百花園とか萩寺とかいうようなところへ行って、
花を見ながらお香々を酒のサカナにして楽しんだものだそうだ」(P161)


あれさ、いますぐ弁当と酒を持ってハイキングに行きたくなる名文だ。
書き写していて気づいたのだが、いい文章は文法的に多少まずくても構わないようだ。
むしろ、しゃらくさい文法なぞ無視したほうが味のある文章になるのかもしれない。
ちなみにもうひとつの「ネコ弁」とは鰹節(かつおぶし)をかけた弁当らしい。
さて、文士の味わうのは酒やサカナばかりではない。
水上勉は時を味わう。少年時代に修行していた禅寺の娘さんと再会したという。
当時、娘さんは赤ん坊で、
「ぼくは、この赤ちゃんのおむつ洗いや、お守りにあけくれて、そのつらさに泣いた」。
結局、水上少年はその禅寺を逃げ出してしまう。
気の毒なことに、その後、和尚は亡くなり、
そうなると、すぐに寺の決まりで若い和尚が細君つきでやってきて、
冷酷にも母と娘は寺から追放されたという。
その娘さんと、おむつを洗ってあげた娘さんと、
いまは作家となった水上勉はテレビの企画で45年ぶりに再会した。
娘さんは大正十三年に漬けた梅干を土産にくれた。
母が嫁に来たときに漬けたものだという。
寺を追放されたとき、和尚の形見分けがほしくて土蔵からこの梅干の壷だけ持ち出した。
いつか水上勉に会うときがあったら、これを裾分けしてあげなさい。
母はそう遺して息を引き取ったと娘さんは涙ぐんでいう。

「ぼくは、声を呑んでそれを頂戴した。
さっそく、軽井沢へもち帰り、深夜に、その一粒をとりだして、口に入れた。
舌にころげたその梅干は、最初の舌ざわりは塩のふいた辛いものだったが、
やがて、舌の上で、ぼく自身がにじみ出すつばによって、丸くふくらみ、
あとは甘露のような甘さとなった。ぼくは、はじめはにがく、辛くて、
あとで甘くなるこんな古い梅干にめぐりあったことがうれしく、
五十三年も生きていた梅干に、泣いた」(P179)


水上勉の舌でとけたものは、
はじめは辛く、つぎに甘くなったものは、時そのものなのだろう。
一説によると、時の語源は、氷が水にとけるの「とく」だという。
時が塩辛い梅干の味を、甘く、とかしたのだろう。

「今宵も酒場部」(牧野伊三夫・鴨井岳/集英社)

→できる出版業界人のお洒落な居酒屋訪問記。
ゲストに多様な業界人が登場するため、どのようにして彼(女)らがお互いをほめあい、
仕事をうまく融通しあっているかよくわかるのがよかった。
やはり一流の業界人だけに店を見る目も舌もたしかだ。
自分が一生行けないような居酒屋の雰囲気を安酒をのみながら堪能させていただいた。
コネコネした大人の酒ののみ方はかっこいい。
わがままを言わず人間関係をたいせつにしようと思いました。
絵も文章もスタイリッシュでクール。居酒屋エッセイの最高峰と言えましょう。

「カップ酒スタイル」(いいざわ・たつや/ちくま文庫)

→著者がほとんど無私にカップ酒を愛しているのがよかったです。
カップ酒が好きで好きでたまらないというのが、どのページをめくっても伝わってきます。
それがなによりもすばらしく、とても好感を持ちました。
というのも、われわれ庶民はいまだ勘違いしていますから。
マスコミ系の大企業への信頼の話であります。
もしかして編集者は未知の才能を探しているとか思い込んでいませんか。
テレビは関係者が常時われわれ庶民に紹介すべきものを探していて、
厳しい選考に勝ち抜いたものが放送されているとか思っていませんか。
もちろん、現実はぜんぜん違うのであります。
出版社の編集者は、才能を見つけるのが仕事ではありません。
気が狂うほど大勢いる本を出したい人のなかからまだ可能性のあるものを選出し、
さんざん注文を出して自分好みに改変させてから、
これでもかと恩を着せて書籍を出版してあげるのが編集者のお仕事なのです。
感謝されることは何度もありましょうが、断じてだれかに感謝する仕事ではありません。
とはいえ、金の媒介しない出版業界はまだ健全なのでしょう。
なぜなら、テレビ業界なんてほんとうにひどいものですから。
関係者はひとり残らず高みにいて、対象をテレビに出してあげていると考えています。
だから、たとえば飲食店やホテルから、
テレビに出してあげたお礼をもらうのは当たり前。
キックバックのない対象に視線を向けることなど、
よほどの推薦者がいない限りは絶対にありません。
テレビ局関係者も編集者も無条件に盲目的になにかを好きになるということがない。
だから、本書はとても気持よかったです。
当時、カップ酒ブームというのがあったらしく、
おそらく編集者はこの波にうまく乗ったつもりなのでしょう。
しかし、著者はブームなど意に介さず、
ただただカップ酒を愛しているのが伝わってきてよかったです。
いつか著者の真似をして公園や電車でカップ酒をのんでみようと思いました。
ほんとうにいい本でした。打算抜きになにかに夢中になれる人は好きです。