「母」(ゴーリキー作/グラゴーリン&リュビーモフ脚色構成/佐藤恭子訳/「現代世界演劇3詩的演劇」/白水社)

→いまはもう完全に忘れられたのがロシアの文豪ゴーリキーである。
この芝居はゴーリキーの長編小説「母」(とても長いらしい)を第三者が脚色、
および舞台化したもの。まだ社会主義が輝きを放っていた時代の作品である。
戯曲マニアの当方からしたら、あまりいいお芝居とは言えない。
しかし、胸を打つものがないわけでもなかった。
社会主義、共産主義を正当化する思想内容を持った、いわばプロパガンダ文学である。
プロレタリア演劇であり、プロパガンダ演劇。
そこに共感しちゃうってところがちょっとあった。
いろいろ追いつめられて差し迫って時給850円の底辺肉体労働者になったからだろう。
昨日はしんどい持ち場を振られたので、いまも腰、両肩、右ひじ、右手首が痛い。
底辺労働者はかくも身体的に苦しまなければならないのかということを
身をもって知っている(ええ、本当に知っているか?)のがこの記事の書き手である。
労働者ってなんで連帯しないのかって思う。
時給が安いとか仕事がきついとか不公平だとか不満を耳にすることがある。
だったら、みんなで連帯して上に抗議すればいいじゃないか。
我われパートがいっせいに働かなくなったら会社はつぶれるんだぞ。
これは本当にまったくの真実で、
みんなが意を決して仕事を放棄したらどこの会社も社会的信用を失い1日で終わりだ。
どうして底辺労働者って、みんなで連帯しないで、
その代わりに古株が威張って新人を威圧して、
そんなくだらないことで満足を得ているのだろう。
どうして労働者はお互いの悪口を言い合うだけで連帯して上に抗議しないのだろう。
わたしは左翼とか大嫌いだから(宣伝カーや宣伝マンが拡声器でうるさいから)、
そして連帯って群れることだし、群れるのは吐き気がするほどいやで、
まあいまさら左翼活動を賛美したり、そこに参加したりするつもりはまったくない。
基本的に自分さえよければいいんじゃね、っていうスタンスだし。
正しくは、そういうスタンスだったし。
しかし、いま「どん底」(ゴーリキー)の職場で底辺労働をしているうちに、
うっかり他人の気持になってしまい、
共産主義や社会主義の価値を遅ればせながら知ったとも言えるのかもしれない。
共産主義や社会主義はもう終わった思想である。
あんなものはあの世を頼む浄土信仰みたいなものだろう。
浄土(社会主義)が現実になったら逆に地獄になってしまうという。
いまわたしとおなじ職場で働いている人はスーパーラッキーとも言えなくもない。
社会主義と資本主義をどう乗り越えたらいいのかという最先端の実験場にいるのだから。
こういう実験ができるのは、インターネットが普及したせいである。
わたしは時給850円で働く底辺労働者だが、それでも本を読んで学ぶことを知っている。

「禁止された本を読んでいるんだよ。
おれたち労働者の生活の真実を書いた本なので発売禁止になった。
これはそっと秘密に印刷されてるんだよ。
この本がおれのところにあることが、もしばれたら、おれは牢屋にぶちこまれる。
ほんとうのことを知りたいと思ったために、牢屋にぶちこまれるんだ」(P294)


労働者というのはお互い搾取されている悲惨な身分なのにいがみあうのだ。
底辺労働世界でもどちらが上か下か、偉いか偉くないかで、変な抗争をしている。
おなじ底辺労働者がどうして仲良くできないのか。
なにゆえおなじ底辺を底辺が撃とうとするのか。
いまはもう忘れ去られた社会主義思想は人間愛に根っこがあったのだろう。

「おまえも人間、おれも人間。
おまえ、今日はそんな軍服着ているが、明日にも平服に戻るかもしれねえ。
仕事捜しがはじまる。食わなきゃならんからな。
仕事もねえ、食う物もねえ。
そんなとき、こんなにして、おまえを……撃ってもいいか?
腹すかした人間だからってんで、おまえを殺してもいいか!」(P332)


いま我われ労働者がやっていることである。
経営者は社員の血や汗を一滴でも多く低賃金で搾り取ろうとして、
社員は非正規雇用の奴隷パートをいかに酷使するかを日々考えていると言えなくもない。
そういう解釈もできるが、そうではないかもしれないし、そうなのかもしれない。
労働者というのはいったいなんなのだろう。
労働者同士で会話しているときは、上に逆らおうだの、連帯しようだのと言う。
しかし、一見群れているようでも、じつはちっとも仲のよくないのが労働者である。
労働者の流す汗や涙ほど尊いものはないのだ。
なぜなら、それがなかったら社会はまわらないのだから。
厳しい労働をさせられたら思考力を搾り取られ奴隷ロボットのようになる。
それでも上には逆らえないのが底辺労働者たちである。
さんざん自分たちの労働を誇り、
経営サイドの不満を言っていた使用人の群れは豹変するのである。
あれほど表面上は群れて労働者の権利を語っていたプロレタリアートも、
いざ社長がそばに来たら――。

「彼[社長]を見ると、あわてて帽子を脱いだり、おじぎをしたりする。
彼はそのおじぎに見向きもせず、歩いてくる。
群集しずまり、困惑し、狼狽(ろうばい)の笑顔を見せる。
小さな感嘆の声も上がる。
いたずらをしたあとで、困っている子供の後悔の調子がある」(P303)


このト書きがいちばんおもしろかった。
これは実体験だが、パート仲間で威張っている男女も(少数いるんですヨ!)
そばに社員が来たらペコペコご機嫌をうかがうのである(むろん、わたしもネ♪)。
パート先のいつもむすっとした不機嫌な顔をしている外国人女性もそう。
弱い立場だからそうしなければならないのはわかるが、
黄色い服(よく知らねえが偉いらしいぜ)を着た人が来るとすぐにニコニコしはじめる。
おなじパートたるわたしと接するときとまるで態度が異なる労働者がいる。
その社員さんだって、会社の上の人が来ると動揺してオロオロする。
きっとその上の人だって経営者のまえに立ったらオドオドするのだろう。
経営者(資本家)が最強かと言ったらいまはそうではなく、
マスコミに不正を嗅ぎつけられたら終わりである。
で、そのマスコミ(新聞、雑誌、テレビ)を支持しているのが
我われ(あ、わたしはマスコミ嫌いです)労働者という、このどうしようもない状況。

労働は人間を競争状態、敵対関係に追い込む悪と言えなくもない。
また労働は孤独な人間を結びつける善でもあるのだが。
社会主義とは、私有財産の否定である。

「私有財産は、人の間に分け隔てをつくり、お互いを敵同士にし、
利益のために不倶戴天(ふぐたいてん)の敵対関係を生み、
そうして人間を嘘と欺瞞(ぎまん)と悪意で堕落させるものです。
人間のことを、財産をふやすための道具としかみない社会
――そんな社会は非人間的と言わねばなりません。
わたしたちの敵です。そんな社会が主張する欺瞞、嘘偽りの道徳など、
わたしたちが受け入れないのも当然でしょう」(P334)


あいつばかり金を儲けやがって。あいつばかり楽をするのはおかしい。
労働は人間同士を敵対させる面がある(結びつけもするけれども)。
資本主義世界では、だれかが得をするとかならずだれかが損をするのである。
だれかが稼いだら、かならずだれかが貧窮化する。
パートなどしなくても食っていける古株おばさん主婦が威張ってたくさん稼ぎ、
このバイトを失ったら食い詰めてしまう男性労働者が早く帰れと言われる。
これはおかしいけれど、世界も社会も人間もむかしからそんなものなのだろう。
無力、無力、無力。どうしようもない。ただひとつ、できることがあるとすれば――。

「いまなにが必要かっていえば、おまえさん、大衆が騒ぎだすことなんだよ!
そう! めいめい考えちゃいるんだよ、心んなかではね。
でもね、声に出して言いはじめなくちゃいけない……
だれかが、まず決心することだ……」(P328)


しかし、わたしは大衆とやらを信じることができない。
大衆とかいう多数派連中が支持している朝日新聞が嫌いだからである。
朝日の記者にはいい人もいるのだろうが、大衆を操作しようとする新聞が嫌いだ。
これはわたしが「みんな」よりも「自分」をたいせつに思っているからかもしれない。
大衆とやらはみんな自分のことがいちばんなのに、
さも「自分」だけは「みんな」のことを考えているというポーズを取りたがる。
吐き気がするぜ。そんな自分にもみんなにも。
戯曲の読書感想文でなにを書いているのかって話だけれど。

「どん底」(ゴーリキイ/神西清訳/角川文庫) *再読

→12年ぶりにロシアの有名近代劇を再読してみた。
むかしはいいと思ったけれど、いま読んだらまとまりがなく、それほどでもない。
いま主観的には断じて「どん底」ではないけれど、
客観的にはだれもが「どん底」と思うのではないかという職場で働いている。
本の仕分けをする時給850円のアルバイトだ。
昨日はさあ、久しぶりにライン(流れ作業)で死ぬほどきつい持ち場を振られた。
大げさなのだろうが、死ぬかもって思うくらい重い本ばかり連続して出た。
この書籍ピッキングは非常に持ち場によって重い軽いが異なり不平等である。
まるで人生のようなものなので、まえまえからおもしろいと思っていた。
人生でも振られる持ち場によって重い軽いが明確にあり不公平極まりない。
で、昨日は重いところを振られて上を恨んでいるとかそういう話じゃなくて(ほんと?)、
MさんもNさんも早く帰されていたし、たまにはきつい持ち場もいいのだが、
気づいたのはあんがいしんどい間口のほうが演戯する余地があるってこと。
これは昨日5ライン上流にいた人しか知らないことだけれど、
わたしはめちゃくちゃなピッキングをしていたでしょう?
わざとゆっくりやったり、異常なほど高速でしたり、ふらふらしたり、荒れたり。
あれは自意識過剰な演戯なわけで、
書籍ピッキングのみならず人生でも持ち場は代えられないけれど、
決められたものをどう行なうかの自由があることを
横の(両隣とも)コミュ障作業員に伝えたかったってことがある。
まあ、あとづけの説明で、いまから言えばの話なんだけれど。

いま肩も腰も手首も痛いし、昨日の疲労のせいであたまがよく働かない。
「どん底」で働くとこうなるんだなあ。
しかし、終わりがあるんだよね。
どんなにしんどい書籍ピッキングでも終わりがある。
芝居にも終わりがあるし、人生にも終わりがある。「どん底」にも終わりがある。
ロシア近代劇「どん底」の舞台は、底辺労働者が集う木賃宿(きちんやど/安宿)。
ここで「どん底」での配役を割り振られた役者どもがそれぞれの思いを口にする。
ゴーリキーにも青年時代に「どん底」労働体験があったから、
この芝居を書きたいと思ったのだろう。
もしかしたら一流会社のドライでクールな人間関係よりも、
「どん底」の職場の人間模様のほうが芝居にするにはふさわしいのかもしれない。
「どん底」の人びとは割り振られた配役の決められたセリフとしてこんなことを言う。

「……働くだと? じゃ一つ、愉快に働けるようにしてもらおうじゃないか。
すりゃおれだって、働くかもしれねえ……そうとも! 働くかもしれねえよ!
労働が快楽なら、人生は極楽だ! 労働が義務になったら、人生は地獄だ」(P24)


役者はかならずこのセリフを言わなければならないいわば宿命の奴隷だが、
しかし、このセリフをどのように言うかの自由はあるのである。
お気楽に言ってもいいし、いまにも死にそうな深刻な声色で言ってもいい。
「どん底」の人たちは死ぬまで低賃金で資本家から搾取されつづける。
しかし、救いがないわけではない。

「大丈夫! あの世に行けば、息がつけるさ! ……もう少しのしんぼうだよ」(P51)

「希望を持ちなさい。……というのは、つまり、死ねば楽になる……
この上もうなにもいらなくなる、だからちっとも心配はないわけさ!」(P58)


とはいえ、まだ若いうちはそうもいかない。若い男女はなかなかそう思えない。
底辺の「どん底」にいる薄幸な少女のナターシャは「待ってるわ」という。
いったいなにを待っているのか。

「(困って笑う)なんてことないけど。……まあたとえてみれば、ほら明日になったら
……誰かがやってくる……誰かしら……特別な人が……なんて思うのさ。
さもなきゃ、何かが起こる……今までになかったようなことが、って。
そうして、しょっちゅう待ってるの……もうずっと前からね。
……でもねえ……実際には――なんの待つことがあるのかねえ?」(P88)


現実は、きっと「どん底」の人はずっと「どん底」のまま。
なにも変わりはしないし、だれも来ないし、なにも起こらない。
「どん底」の人たちが「どん底」なのは、そういう役を振られたからである。
本人たちにはいっさいの責任がない。
しかし、「どん底」の人で妙な自己分析をする人もいる。
その人は役者という役名がついている。

「爺(じい)さん……おれは、もう破滅だ。……なぜ破滅したかって?
自信がなかったからさ。……おれはもうだめだ……」(P55)


この役者はべつの場面でこんなセリフを言う。いや、言わされる。

「ところで天才ってものは、自分を信じる、自分の力を信じるってことなんだ……」(P16)

「どん底」の木賃宿からある老人が去っていく。
わたしがいま勤めている極楽のような、
しかし「どん底」の職場からいつだれが去っていくのだろう。
もう去って行った人は何人もいる。それでいいのだと思う。
社員もみんなきっとそう思っている。
木賃宿の主人は「どん底」の宿泊客をどう思っているのか。
客のひとりから、おまえなんか嫌いだと言われて――。

「だが、おれの方じゃ、お前さんたちがみんな好きだ……おれはこう思ってる
――お前さんたちはみんな、不仕合せな、寄るべのねえ、落ちぶれた人たちだとな」(P20)


いや、「どん底」の人たちにもけっこう仕合せそうな人もいるのである。
そういう人は男性よりも女性のほうが極めて多いけれども。
いまの職場だって本業は主婦の人は、まあ遊びに来ているような感覚だろう。
ゴーリキーはおのれの「どん底」体験を劇作に生かした。
あくまでも「どん底」は本当のことではなく、芝居ゆえ嘘である。
なぜ劇作家は本当のことではなく嘘を書くのか。

「そりゃあね、嘘の方が……ほんとうよかおもしろいからよ」(P88)

「どん底」で働くわたしもおもしろい嘘を書きたいなあ、と思った。
繰り返すが、いまの職場は主観的にはまったく「どん底」ではない。
客観的にはそう見る人のほうが多いかもしれないけれど。

「ダウト」(ジョン・パトリック・シャンリィ/鈴木小百合、井澤眞知子訳/白水社)

→戯曲。アメリカ産。2005年、トニー賞&ピューリッツァー賞を受賞した米国話題作。
自分を善にする手っ取り早い方法は、
だれかを悪人に仕立てあげ弾劾することなのかもしれない。
善悪というのは相対的なものだから(あるいは相対的なものだとしたら)、
善人になりたかったら悪を見つけて「ダウト(疑いあり)」と言えばよろしい。
どれだけ悪を攻撃できるかが、おのれの善の証(あかし)になってしまう。
そうだとしたら、善人になるためには悪人をつくるしかないということにならないか?
新興宗教団体(たとえば創価学会)が悪役をつくって総がかりで攻撃するのは、
自らの善を誇るにはそうするしかないからなのかもしれない。
善人になるためには悪をたたくしかないのかもしれない。
国際政治にはまったく疎いが、アメリカが善なのはイラクが悪だからでしょう?
こういう善悪の構造を傑作芝居として成立させた作者の手腕には感心する。
さすがは天才ユージン・オニールを祖に持つアメリカ現代演劇である。

この芝居ではだれが「ダウト(疑いあり)」と言い善人ぶるのか。
カトリック学校の校長である、いかにも更年期障害といったシスターである。
このシスターばばあは、30代後半の神父を怪しいと攻撃するのである。
舞台の時代は1964年。シスターよりも神父のほうがはるかに立場が上だった。
どうして古くさく厳格な50代とも60代とも見える校長のシスターが神父を攻撃するのか。
神父が学校で唯一の黒人生徒(12歳)に親切にするからである。
あれは神父が少年愛の嗜好の持ち主で、黒人生徒を性的虐待しているに違いない。
シスターは自信満々でおのれの善を誇り、神父先生を弾劾する。
神父は旧時代的なものが嫌いで教会を変えようという進歩的な野心ある先生だった。
自称善人のシスターと、自称善人の神父の対決はじつに迫力がある。

シスターと黒人生徒の母親との会話もおもしろい。
母親はおもしろいことを言うのである。
たしかにうちの息子は同性愛の気があるのかもしれないと認めてしまう。
しかし、どうしてそれがいけないのか。
うちの息子は黒人だから公立学校でもいじめに遭った。
だが、この学校に来て黒人生徒は息子だけなのに神父先生が親切にしてくれた。
たとえ同性愛だったとしても双方が納得していたらいいのではないか。
自分は真実はどうであれ、うちの息子に目をかけてくれた神父先生に感謝している。
更年期障害(?)のシスター校長は納得しない。
真実を明らかにして、悪人たる神父を追放しなければならない。
シスターの「ダウト(疑いあり)」の根拠はおのれの経験だけである。
にもかかわらず、証拠があると嘘をついて神父の悪評を高める。
すべてはおのれが正義でありたいために!
結局、神父は狂信的なシスターに恐れをなして移動願いを出す。
かといって左遷されたわけではなく栄転である。
教会上層部はシスターの告発をまるで認めなかったのである。
芝居の最後で新米教師(シスター)が独善的な校長に言い放つ。「ダウト(疑いあり)」

巻末に著者のインタビューが掲載されていたが、たしかに作者は、
真実は老シスターと神父のどちらにあるのか劇中では示していないのである。
そこは観客に任せたいと。
さあ、演出家も務めた劇作家は、役者にはどう説明していたか。
老シスターには神父が少年愛の性的嗜好の持ち主かどうか、その真実は言っていないという。
あえて言わないほうが追及の迫力が増すからというのが、その理由である。
だが、神父役には真実を伝えたという。ただしそれは公開しない。
あくまでも観客にゆだねたいのだろう。
わたしの個人的判断では、「ダウト(疑いあり)」は老シスターだと思う。
善人ぶりたいがために、
おばあさん校長先生は進歩的な神父先生を悪に見立てたとしか思えない。

こういう傑作戯曲を読むとほんとうに生きていてよかったと思う。
ただし実際の芝居を見に行くことはなかなか難しい。
休日のためすることもなく、1日に戯曲を4つ読んだのであった。
そのうち(平均5千円支払って)芝居で見てもいいと思えるのは本作だけであった。
いや、この作品でさえ5千円払っていたら、どんな酷評をするかわからない。
古本屋で250円で買ったから、こうまで激賞できるのかもしれない。
とはいえ、ほんとうにいい劇作だった。テーマは真実とはなにか?
これはわたしのテーマでもあるから、こんなにおもしろかったのだろう。

「大理石」(ヨシフ・ブロツキー/沼野充義訳/白水社)

→戯曲。ロシア産。ヨシフ・ブロツキーは天下のノーベル文学賞作家だあ!
いわゆるニート文学になるのだと思う。
時代ははるか未来、舞台は超高層ホテル(塔)の、たしか1750号室。
ふたりのおっさんが延々と会話をしつづけるだけの芝居だ。
もうすべてが機械化してしまったため(共産主義化?)、ふたりは働かなくてよい。
メシは朝昼晩と部屋についたエレベーターから送られてくる。
本はいくら読んでもいいが、ふたりともこの部屋から出ることはできない。
科学が発展したためか、ご両人とも不老不死なのかもしれない。
ふたりは相手を嫌悪しているが、いっぽうでひとりになるのを怖がっている。
自殺が出口であるような不謹慎なことも語られる。
生きている理由は? なぜ子どもを作るのか? 
といった、いかにもニートっぽい会話が繰り返される。
なんでも相部屋になっているのは精神病(発狂)対策らしい。
しかし、それでも、自分以外の人間はみんなロボットだの、
いま見ているのはすべてかつて録画されたシーンだの狂気と紙一重のことが語られる。

よくわからないが、たぶんニートはちょー楽しいような気がする。
だがしかし、にもかかわらず、ニートを描かれてもくそつまらねえってことだ。
おまえら働けよ。ダメ元で恋でもしろよ。子どもをつくって人生の理不尽を知れ。
そんなふうにニートのおっさんふたりを怒鳴りつけたくなってしまった。
ちなみに、作者のノーベル文学賞作家ヨシフ・ブロツキーは、
ニートが理由で逮捕されソビエト政府から裁判にかけられたという
すてきな前科を持つ筋金入りである。
罪状は「共産主義建設のために有益な仕事を何一つしない徒食者」って、おいおい!
毎日、朝昼晩と食えて丸一日読書三昧も可能。
昼寝OK、テレビ映画フリー、ただし会話相手一人は幸福か?
わたしはそういう生活にあこがれるところがあるけれど、
しかしどうしてかそれを芝居で見せられてもつまらない。
人間は他人の目を意識して(観客の視線を気にするがために)、
友情ごっこ、恋愛ごっこ、親子ごっこ、労働ごっこをするのかもしれない。
まるで子どもがおままごとをするように。

「ジリアンへ、37歳の誕生日に」( マイケル・ブレイディ/三田地里穂訳/ 而立書房)

→戯曲。アメリカ産。
ユージン・オニール、テネシー・ウィリアムズ、アーサー・ミラーのせいで、
アメリカ現代演劇と聞くと、
どうしてもわたしはあの感動がまた味わえるのではないかと期待してしまう。
だが、まただまされた。くっだらねえ芝居である。
主人公は37歳のニート、ひきこもり、世捨て人のイケメンである。
元は大学教授で高校生の娘がいる。
エリート人生からドロップアウトしたきっかけは2年まえに妻が事故で死んだから。
いまは優雅にも別荘でニート生活を送っている(金にも困っていない)。
ものすごいイケメンらしく近所のナイスバディ―でパツキンの女子高生から片想いされている。
ところが、亡妻の姉夫婦がお節介にも「働け、働け」と執拗に迫ってくるのである。
理由は高校生の娘の教育に悪いからだという。働け、働け! 死んだ妻のことは早く忘れろ!
これはお節介の極みというほかないが、
亡妻の姉夫婦は新しいガールフレンドとのお見合いまで設定するのである。
あのさ、愛する人に先立たれたのなら2年くらいなにもしなくてもいいじゃん。
ほんとうに愛していたら10年でも15年でも無為に過ごさせてやったらよいではないか。
新しい女を紹介して、この代用品で満足しろ、なんていう親切はもはや嫌がらせだろう。
どうしてお金があるのに働かなきゃいけないわけ?
彼がまた大学教授に戻ったらポストがひとつ減ってだれかが不幸になるわけでしょう?
ほんとうに愛する人の死を悼むのなら20年でも30年でも喪に服せばいいと思う。
しかし、このイケメン元大学教授はたったの2年で亡妻のことを忘れ、
新しい女との愛に目覚め、そのうえ復職までしてしまうのだから。
あんまり人間を甘く見るなよと作者を怒鳴りつけたくなった。英語はわからないので日本語で。

「エドマンド・キーン」(レイマンド・フィッツサイモンズ/松岡和子訳/劇書房)

→戯曲(芝居の台本のこと)。イギリス産。
むかしの有名なシェイクスピア劇俳優のエドマンド・キーンとやらの自伝劇(一人芝居)である。
シェイクスピアおたくのわたしは楽しめたが、
随所にシェイクスピア劇のセリフが引用されるので、
日本の観客はわけがわからなかったのではないか。
しかし、有名俳優が演じる高額チケット代金の舶来芝居には拍手を惜しまないのが
日本の善良で愚鈍な観客なのだろう。
エドマンド・キーンは現代の精神医学から見たら完全に治療対象の異常者になると思う。
あれな人を治療しないで放っておくとたまにすごいことをするという典型であろう。
そんなことをいえば、シェイクスピア劇の登場人物もみなどこかで狂っている。
彼(女)らのすごいところは、ゆがまず正しく美しく純粋に狂っているところではないか。
もしかしたら芝居を見る楽しみは狂人を観察するという邪悪なところにあるのかもしれない。
芝居は人間を描くとされる。
よしんば人間の正体がみな狂人だとしたら、
芝居は狂気の乱舞にならなければおかしいことになるはずである。
きちがいは迷惑なやつのことである。
しかし、われれはどこかで迷惑なやつを愛しているのではないか。
本当はみがみなくだらぬ自制心や常識など取っ払って自分に正直になりたいと思っている。
ハムレット、マクベス、オセロー、リア王のように芝居っ気たっぷりに周囲を振り回したい(笑)。
ふつうはなにかが自制して(羞恥心が働くのか)、ああまで自己陶酔はできないのである。
悲劇のヒーローやヒロインになりきれない。
このためにシェイクスピア劇がときに日本の観客をも感動させるのだろう。
評伝劇「エドマンド・キーン」に感動したものがいたとしたら、おなじ理由であろう。

「テレーズ・ラカン」(エミール・ゾラ原作/ニコラス・ライト翻案/吉田美枝訳/劇書房)

→戯曲を読みながら変なことを考えてしまった。
夫の友人でもあった間男と共謀して亭主をぶっ殺すなかなか見どころのある女の話である。
殺すまでは燃え盛っていた愛も事件後は消えて、女は情けなくも罪悪感にかられ狂っていく。
最後は男女ともにたぶん罪悪感から自殺している。
いやね、思ったのは、これを書いていいのかわからんけれど、
いざ実際に人を殺したら果たして本当に罪悪感を持つものなのかってこと。
これはほとんどの人が殺人なんてレアな経験することがないからわからないことだよね。
しかし、殺人をしてまったく罪悪感を持たない人を舞台に出しちゃうと共感してもらえない。
我われはなぜか人を殺したら罪悪感を持つものだという通念(思い込み)がある。
本当のところはわからないわけだよね。
殺人者が逮捕されて警察署で反省アピールをするけれど、
あれは裁判対策かもしれないわけだから。
本音は「チクショー捕まったか、ヘマこいた」の可能性もある。

なにが言いたいのかって、殺人者が罪悪感を持つというストーリーは、
多数派たる観客の通念におもねっているだけで、
実はぜんぜんリアルじゃないかもしれないってこと。
夫を殺したけれどうまく事故でごまかすことができたリアル犯罪者の女性が
もしこの「テレーズ・ラカン」を観たら、
あんなのは大嘘だという感想を持つかもしれないわけだ。
あたしは罪悪感なんてぜんぜんないし、いま人生チョー楽しい状態かもしれない。
だが、それを書いてしまったら客が怒るわけだ。そんなはずはないと。
もしかしたら現実はそんなものかもしれない、にもかかわらず。
ならば、あれはリアルだと俗に賞賛されるような作品は、
もしかしたらぜんぜんリアルではなくて、
実際は多数派のリアルはこうであってほしいという願いを、
作者は書いているだけなのかもしれない。
リアルだと評される作品はもっともリアルから遠いものということもあるのではないか。
なんかあたかも殺人の前科でもあるようなことを書いてしまった。

「パリ・ブールヴァール傑作集」(賀原夏子編/梅田晴夫・小沢僥謳訳/劇書房)

→ブールヴァールはフランスの喜劇のこと。
肩ひじの張らない大衆娯楽演劇のことだそうである。
収録作品は「恋の冷凍保存」「人生の請求書」「ロコモティブ」。
どれも読んでいるあいだはおもしろいのだが、だからじゃあなに? と聞かれると困る。
ただおもしろいだけでいいじゃん、というのがブールヴァールらしい。
お芝居は定型的なセリフがあるように思う。
劇を引き起こすセリフだ。たとえば、こういうものがそうだろう。

「さあさあ、落ち着いてください。これはお芝居なんです」(P32)
「人生思うようにいかないものでして……」(P124)
「なんにも起こらないってことが、幸福なのかって聞いてるのよ」(P152)
「真実っていうのは、人をよろこばせることよ」(P214)


まあ芝居っ気たっぷりなやつらが、おフランスな芝居をするのである。
現実で芝居なんてやられたら迷惑だけど、舞台のうえでなら許される。
しかし、俳優さんやタレントさんは電撃結婚やら離婚やら、
実人生でも芝居っ気のある人が多い。
そういうものはほぼ美男美女だから成立していることだ。
いちばん楽しいのは迷惑をかえりみず人生で芝居をすることなのだろう。
次に楽しいのが舞台のうえで自分が芝居をすることだが、これは美男美女にしか難しい。
他人の舞台上の芝居を観るのそれなりにも悪くないけれど、あれはやたら金がかかる。
金がかからないのは戯曲として読むことだが、芝居の楽しみのなかでは最低なのだろう。

「シェピー」(サマセット・モーム/瀬口誠一郎訳/全集22/新潮社)絶版

→戯曲。イギリス産。
床屋の従業員であるシェピーという変わり者のおっさんが主役である。
シェピーはある日、競馬の大穴を当ててしまう。
結婚を控えたシェピーの娘さんも、長年連れ添ってきた奥さんも大喜びだ。
ところが、雲行きが怪しい。
シェピーはせっかく大金を得たのだから、好きなことをしたいというのである。
いったいシェピーはなにをしたいのだろう。

「裸の者には着物を与え、病人を訪ねてやり、
空腹の者には食物をやり、咽の渇いている者には飲物を」(P155)


要するに、イエス・キリストの真似をしたいというのである。
家族はシェピーが狂ったのではないかと医者に相談する。
シェピーの金を当てにしていた娘の婚約者は義父の説得を試みる。

「あなたのなさつてる失敗というのは、いいですか、
物事をあまりに文学的に扱つてるということですよ。
新約聖書はフィクションだと考えられるべきですよ、
お望みならば美しいフィクションとね、しかし要するにフィクションですよ。
教育のあるもので、福音書の対話をありのままの事実として
受け容れるものなんかいるもんですか。
実際、非常に多くの人達はイエスなんて、
決して存在してなかつたと信じてますよ」(P148)


いまの世にイエス・キリストが現われたら狂人とみなされるだろうという主張だ。
いかにも吃音で男色家だったモームらしい皮肉である。
シェピーに対する家族の反応はさまざま。
娘は医者がシェピーをきちがいと診断してくれるよう神に祈る。
いまや医者しかシェピーを精神病院にぶち込めないからである。
信心深いシェピーの妻は、夫の行動に理解を見せる。
結局、精神科の権威だという医者はシェピーを急性躁病と診断する。
たぶん現代日本の精神科医も似たような患者が現われたら、同様の病名をつけるだろう。
現代においてイエス・キリストは登場しないようになっているのである。
しかし、シェピーは精神病院に収監されるまえに寿命が訪れ死んでしまう。
主役を殺して閉幕とするのは安易な作劇法だが、
ほかに解決しようがなかったのではないか。
ひっくり返せば、どんな悲劇も喜劇も渦中の人物が死んでしまえば一応の解決を見せる。
これもあるいはモームの皮肉な人生観のあらわれかもしれない。

「むくいられたもの」(サマセット・モーム/木下順二訳/全集22/新潮社)絶版

→戯曲。イギリス産。
人生をボロボロにしてくれるような女と逢ってみたいよな~。
おそらく、同性愛者だったモームも似たような妄想からこの芝居を書いたのであろう。
妻もいる資産家のシニアが若いお嬢さんにメロメロになってしまうだけだ。
老妻は捨てるから、どうか一緒になってくれんかと爺さんは娘さんを口説く。
もちろん、お嬢さんは老いぼれに恋愛感情など抱けないが資産は魅力的である。
とはいえ、自分がこの爺さんと逃げたら旧知の間柄の老妻を不幸にすることになる。
さて、「ふたつにひとつ」でどうすっぺえか。
この「ふたつにひとつ」の葛藤でモームは終幕まで客を引っ張ろうとする。
まだ男を知らぬ娘さんの出した結論をセリフから――。

「そう。お金があれば何でも手に入るわ。自由だつて、チャンスだつて」(P81)

「お姉さん、お姉さんはあたしよりひとまわりも年上じゃないの。
どうしてそんなに無邪気になれるの?
こつちはこれつぱつちも気にとめてないのに
男のほうからは気がちがいそうに愛してるつて時にさ、
女がどれほど強いものかつてこと、お姉さんは一ぺんも考えたことないの?」(P82)


ああ、こんな経験してみたいよな~。
老資産家として若い生娘に出逢い、夢中になって翻弄されてみたい。
そのためには金持にならんといかんし、一度目の結婚もしなければならん。
ああ、こんな経験してみたいよな~。
若いきれいな娘さんになって、自分に目がくらんだ老いぼれをさんざん振り回してやったら、
さぞかし気分がいいんだろうな。
モームもたぶんこういう経験がしたかったから、この芝居を書いたのだと思う。
実人生はどれほどかなわぬ限界性や制限に縛られていることか!
このままならぬ障壁を越えようとするたくらみが創作なのだろう。
フィクションの多くは経験できなかったことから生まれるのだろう。