「海の波 恋の波」(グリルパルツァー/番匠谷英一訳/岩波文庫)品切れ

→戯曲。オーストリア産。
恋愛がしたいという女郎(めろう)固有の欲望がよくわからない。
というのも、恋愛は成就したら終わってしまうのだから。
このため究極の恋愛は、相手に死んでもらうしかない。
最愛の彼氏に逝かれたかの女こそ、もっとも恋愛の愉楽を味わえるはずである。
なぜなら、しつこく繰り返すが、恋愛は成就したらおしまいなのだ。
相手が死んでしまったらその恋愛は永遠にかなわない。
にもかかわらず、ではなく、このためにその恋愛は最高に甘美なものとなる。
くだけたことをいうと、なーんかさ、
彼氏に先立たれたとかいう設定の女性視点の安っぽい小説って多そうじゃない?
で、新しい男が現われ心を開くところで調子よく話が終わるわけ(笑)。
本心では新しい彼氏にもしばらくしたら死んでほしいとか思っているくせにさ。
そうしてたっぷり想い出を味わった後にまた新しい男に出てきてほしい。
理論上はこれを繰り返すしか恋愛を楽しみ続ける方法はないのである。
彼氏が浮気性なら恋愛も長く続くのかもしれないけれど、
そういう関係は屈辱的だからスタイリッシュな女性はいやがるんでしょ?

さて「海の波 恋の波」は「ロミオとジュリエット」系の正統的な恋愛悲劇。
禁じられた恋だから楽しいんだよね。
ヒロインは神に仕える巫女で恋愛を禁止されている。
住まいは聖域のため男など現われたら死刑になってしまう。
こういう障害のあるところにヒーローが海を泳いでやってくる。おまえ、犬かよ!
祭司長の罠にはまったのか、犬は溺れて死んでしまう。
いや、犬じゃなくて、イケメンのヒーローだった。
巫女はすぐに後を追ったりはしない。
けっこう長く(ページ的にね!)不幸の快楽を味わった後に、
心臓発作かなにかで急死する。
ここで巫女が自殺しないのには、へんなリアリティを感じてしまった。
彼氏に死なれた女って、なんだかんだいっても生への執着は捨てないよね?
ここは作者グリルパルツァーの殺人行為を高く評価したい。
グリルパルツァーは気弱な小心者として有名だったが、
しっかり人妻との秘密の恋を経験している。そして、生涯独身だった。
一度も恋愛の完全な成就を経験しなかったということだ。
もしかしたら一生にわたって片想いという名の恋愛をしていたのかもしれない。

「ザッフォオ」(グリルパルツェル/実吉捷郎訳/岩波文庫)品切れ

→戯曲。オーストリア産。
「ロミオとジュリエット」よりはるかに恋愛の悲劇をうまく描いていると思うが、
どうしてか名作「ザッフォオ」はほとんど知られていない。
恋愛のどこに悲劇があるかといったら、
好いた相手にどうしても振り向いてもらえないところにあるのではないか。
敵対する勢力に所属する男女が相思相愛になるのを、
どうしてそうおもしろがる人が多いのかわからない(このパターンばかりだ!)。
ほんとうの恋愛悲劇は「ザッフォオ」のような作品のことをいうのである。
古今東西の有名劇作はあらかた読んだが、
「ザッフォオ」はそのなかでもかなり上位に位置する。
構成もすばらしいし、少女のひそやかな性の芽生えを感じさせるシーンの色艶もいい。
人間内部の葛藤から、人対人の葛藤まで実にみごとに描かれている。
人間だれもがふたつの心を持っているのだろう。矛盾をうちに秘めている。
なぜなら人生には唯一絶対の正答のようなものがないからだ。
どちらも正しいというような選択肢に満ちているのが実人生というもの。
劇作家はこの矛盾を凝視することからドラマを創作するのだろう。
劇中人物は我われのように矛盾に苦しむ。

烈しく生きたいと我われはどこかで願っているのではないか。
退屈な幸福よりも、燃えるような不幸を味わってみたいと無意識のうちに思っている。
好きな異性と相思相愛になり仲むつまじく暮らすのはほんとうに幸福か。
いや、そういう平凡で単調な生活が幸福ということにいちおうはなっている。
だが、それでは生をさっぱり味わえないではないか。
もしや苦しみのなかに生の歓喜があるのではないか。
苦しんでこそ、いま生きているというじりじりひりひりした感覚を得られるのではないか。
「ザッフォオ」は喜劇の後に来る悲劇である。
ふつう喜劇はひと組の男女が結ばれ、めでたしめでたしで終わる。
しかし、ほんとうはちっともめでたくなどないのである。
それから長い長い退屈が始まるといってもよい。
なぜなら障害のないところでは熱愛もじきに消えてしまうからである。
通常はこの関係をごまかしごまかし生きるほかない。
好きな相手をものにしたのだから自分は幸福だと騙し騙し生きるしか道はない。

ところが――。
もう一度結婚前の交際中のような烈しい恋愛感情がよみがえる機会があるのである。
「ザッフォオ」の描いた世界である。
ザッフォオ(サッポー)は古代ギリシア最大の女流詩人。
グリルパルツァーは史実ではなく、伝説を下敷きにして劇作した。
だからなのだろう。
「ザッフォオ」にはギリシア悲劇的ともいいうる神々しい崇高性がある。

話をわかりやすくするために話を現代日本に移して説明する。
アラフォーの女社長が主役である。まんまと年下のイケメン男をゲットした。
男のほうも有名な社長に気に入られて鼻高々である。
このまま結婚してしまえばハッピーエンドで、それからは長い退屈が始まるはずだ。
とりあえず、ふたりは婚約中ということにでもしておこう。
女社長の会社には新入社員として入ったばかりの高卒の美少女がいる。
美少女は孤児院出身で不況のおり拾ってくれた女社長に感謝している。
尊敬しているといってもよい。
あまりにも少女が美しいので女社長も心乱れ、何度か軽いレズ行為をしたこともある。
女社長はいま幸福まっさかりである。
会社経営も順調で、若いイケメン婚約者も捕まえた。

恋愛の女神、アプロディーテーが人間に悪戯を仕掛けるのはこのときである。
恋のキューピットが矢を間違えたか、イケメンと美少女に恋が芽生えてしまう。
偶然ふたりのキスシーンを目撃してしまった女社長は嫉妬に苦しむ。
冷ややかな見方をしたら、嫉妬こそもっとも烈しい恋愛感情で、
女社長は消えつつあったイケメンへの想いを再燃することができた、ともいいうる。
苦しいだろうが、劇的な人生が戻ってきたのである。
女社長は内密のうちに美少女をひとり外国へやってしまおうと画策するが失敗する。
イケメンが空港で美少女を捕まえすんでのところで計画を阻止した。
そこに女社長がやってくる。三者三様の想いが交錯する。
この人間関係に解決はあるのだろうか。だれかがあきらめるしかないのだ。
しかし、もしだれもあきらめなかったら、どんな結末が待っているのか。
作者グリルパルツァーは問う。

ほんとうの愛とはどういうものか?

わたしもグリルパルツァーとおなじ疑問をいだいたことがある。
もしだれかを好きになったとする。愛している。ほんとうに愛している。
そうだとしたら、相手によかれと思うことを選択するのではないか。
自分の愛する人が別の人を愛しているのなら、
自分は身を引くのがほんとうの愛ではないか。
いや、そんなものは愛ではないと批判されるかもしれない。
あきらめられるような愛なら愛と呼ぶに値しないと。
もちろんグリルパルツァーもそう考えた。
ならばこのとき、この愛にどんな解決があるだろうか。
女社長もイケメンも美少女も、それぞれに正しいのだから。
心醜き女性よ、アプロディーテーの名にかけて美少女を泥棒猫などと裁くなかれ。
恋愛が美しいのなら、
どんな不義理なものでも賢(さか)しらな善悪で美を裁いてはいけない。
女社長ことザッフォオは恋愛詩を得意とした作家でもあるのである。
恋愛礼賛の詩を書いているザッフォオはこのときどうしたか。
ザッフォオはどちらも恨まない。
まずイケメンの頬にくちづけしながらこういう。

「遠い世界の友だちがあなたにくちづけます」(P206)

それから美少女をやさしく抱擁してまた頬に接吻する。

「死んだお母さんがおまえにこの接吻をおくるのだよ。
さあ、あそこへおいで。あそこにある愛の女神の祭壇で、
愛情の不可解な運命が実現されなくてはならない」(P206)


そうしてザッフォオは、岸辺の小高いところにのぼって行き、
両手をふたりの頭上にひろげながらこういう。

「人々には愛を、神々には畏敬をお捧げなさい。
あなたがたの身に咲く花をおたのしみなさい。
そしてわたしのことをおぼえていて下さいね。
こうしてわたしは生涯の最後の負債を返すのです。
神々よ、この人たちをどうか祝福なさって下さい。
そしてわたくしをお受け入れ下さい」(P206)


ザッフォオは岩から海の中へとびこむ。ふたりの目の前で投身自殺したのである。
なにゆえか。愛がためにである。
究極の愛は自殺行為によって証明されうるのかもしれない。
いや、こう断定するのは早計かもしれない。
だが、少なくともこうはいえるのではないか。
だれかが死ぬことでしか解決できない問題が人生にはある。
ギリシアの女神はイエスなどという大工の息子とは異なり自殺の美を知っていた。
自殺は人間にしか成しえぬ勇気ある行為であると認めていた。
自殺は敗北ではなく、なかにはむしろ勝利の自殺さえあるのだ。
みずから死ぬことで与えられた人生に勝利する。
ギリシアの神々は自殺を禁ずるバタ臭い説教などしなかった。
母親と弟を自殺で亡くしたグリルパルツァーも同様である。

「海神別荘」(泉鏡花/岩波文庫)

→戯曲。「海神別荘」は「夜叉ヶ池」「天守物語」とともに鏡花の三大劇とされている。
鏡花三部作として歌舞伎として上演されることもあるらしい。
鏡花の芝居は、言葉の劇というよりもむしろ怪奇な見世物の類だから、
かえって歌舞伎のほうがいいのだろう。
もっとも西欧演劇的だったのは「夜叉ヶ池」で、残り二つはゲテモノ芝居といってよい。
大衆芸能の観客なんか、まああれなわけで、絢爛豪華な衣装を見せられたら、
「あら、すごい」「今日は得したわ」「眼福、眼福」などと、
呆けたように口をあんぐり開けてよだれを垂らしてくれるのだろう。

さて「海神別荘」の話をする。
美女が財宝と引き換えに海神の別荘に行く(まあ竜宮城みたいなものだろう)。
これは人間の側から見たら、大漁のお礼として美女をいけにえにしたことになる。
つまり、漁師一家は娘の美女を海に沈めた。死なせたわけである。
見方を変えると、美女は海の下にある国の公子に見初められた。
さあ、公子と美女の結婚である。
ところが、美女には未練がある。こうして生きていることを家族に伝えたい。
しかし、陸の人間には美女はもう人間ではなく大蛇としか見えない。
絶望した美女は公子に殺してくれるよう頼むが、
直後公子の顔の美しさにのまれ、思わず笑顔を見せてしまう。
公子も美女の笑顔に改めて惚れ直し、結局はめでたしめでたしのハッピーエンドになる。
人間には見えないものが世の中にはあるという、いつもの鏡花ワールドだ。

「人間の目には見えません」(P43)

「勝手な情愛だね。人間の、そんな情愛は私には分らん」(P44)


かりに亡者の住む異界があるとすれば、人の死はそう不幸ではないのかもしれない。
そう信じられたらの話である。

「天守物語」(泉鏡花/岩波文庫)

→戯曲。美丈夫(イケメン)の侍さんと、天守閣に住む魔界の夫人の恋物語。
この魔界夫人はかつて無念の死を遂げた女で城主の妻だった。
鏡花にとって魔物は親しみやすいものだったのだろう。
死んだものは姿は見せないが、魔界できちんと生きているという世界観だ。
もっと言えば、死は終わりではないという考えを鏡花は持っていた。
最後、めくらになった侍と魔界夫人が老賢者によって目を明かされるのは芝居らしい。
ギリシア悲劇のデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神=どんでん返し)に似ている。
死んだ人との恋というのは王道パターンだが、
これからもいくつも同類の恋物語が生まれることであろう。
なぜなら、現実だけではあまりに味気ないからである。

「夜叉ヶ池」(泉鏡花/岩波文庫)

→鏡花の戯曲は小説よりもはるかにいい。
きちんとした見世物=大衆芸能になっていると思う。
「夜叉ヶ池」には喧嘩シーン、エロシーン、笑わせシーンすべてが入っている。
村の鐘楼守りの夫婦の物語である。
夫婦は定時に鐘を撞くことを定めとして課している。
これをやらないと水害が起こるという言い伝えがあるからである。
新参者が現われることで、こういう事情が明らかになる。
夫婦の男のほうは、むかし学者としてこの村に来て、女と知り合い居ついてしまった。
新参者はこの男の旧友である。
男二人は山頂にあるという夜叉ヶ池に出かけた晩、村の長たちが女のもとにやってくる。
雨が降らないので、古くから伝わる雨乞いの儀式をやるというのである。
それがなんとも猥褻(わいせつ)ですばらしい。

「絶体絶命の旱(ひでり)の時には、
村第一の美女を取って裸体(はだか)に剥(む)き……
黒牛の背に、鞍(くら)置かず、荒縄に縛(いまし)める」(P60)


美女を裸にひん剥いて、馬に縛りつけて、どうするか。
この犠牲(いけにえ)を夜叉ヶ池の竜神に捧げるのである。
が、美女の「生命(いのち)は取らぬ」。

「さるかわり、背に裸身(はだかみ)の美女を乗せたまま、
池のほとりで牛を屠(ほふ)って、
角(つの)ある頭(こうべ)と、尾を添えて、これを供える。
……肉は取って、村一同冷酒(ひやざけ)を飲んで啖(くら)えば、
一天忽(たちま)ちに墨を流して、三日の雨が降灌(ふりそそ)ぐ。
田も畠(はた)も蘇生(よみがえ)るとあるわい。
昔から一度もその験(しるし)のない事はない」(P60)


いいな、この焼肉パーティーに参加したいよ、おら。
ああっ、いますごい発見をしてしまった!
これはまさしく「ノーパンしゃぶしゃぶ」の起源ではないか!
これは民俗学的な大発見かもしれないぞ!
むかしから日本人は女性の裸を鑑賞しながら牛肉を食うことを好んだ!

ノーパンしゃぶしゃぶは日本の古き良き伝統文化!

話を芝居に戻すと、この女のピンチに男二人が戻ってくるのである。
ヒロインのピンチにヒーローがやってくるのは大衆受けするいいシーンである。
ここで葛藤が生じるわけだ。
男たちは女を村から救い出そうとする。もちろん、村のお偉いさんたちは反対だ。
女といえば鐘を撞く定めのことを気にしている。
ここでチャンバラになる。チャンチャンバラバラは客のもっとも好むシーン。
最後は女が自殺。男はもう鐘が鳴らせないように、紐を切ってしまう。
すると定めを破った罰として、洪水が起こり、みなのみこまれてしまう。

この洪水を天上から眺めるものがいる。
妖怪たちである。夜叉ヶ池に住む姫様たち御一行だ。
芝居は人間たちのパートと妖怪たちのパートに分かれている。
鏡花は人間世界の裏側に存在する妖怪たちを見る視力を有していた。
鏡花は見えないものを見る作家であったということだ。

「メアリー・ステュアート」(ダーチャ・マライーニ/望月紀子訳/劇書房)絶版

→戯曲。イタリア産。
シラーの傑作芝居「マリア・ストゥアルト」を「自由に翻案」したものという。
シラーの「マリア・ストゥアルト」が大好きなので、そのつながりで読んでみたら――。
名作である本家を翻案で台なしにしていた。
まるでシラーの名を汚しているようなものだと思う。
シラーの原作は女性が本分の女々しさを全開にしていがみあうから楽しいのである。
ところが、ダーチャ・マライーニとやらは、なんでもイタリアを代表するフェミニスト作家。
従来とは異なる女性観を、この芝居で打ち出したということである。

バカだからわけわからん。男がそうであるように、女もむかしから女ではなかったのか。
女なら女らしく嫉妬に狂って、嫌いな同性には徹底的に意地悪をしてほしいものだ。
むかしから「女の敵は女」なのだから、女は女らしくしていればよく、
わざわざ「女の腐ったような」男の真似などしなくてもよいのではないか。
男にはない女ならではの醜さを、我われ男性陣はときに美しいと錯覚するのだから。
わたしは女が描く女よりも、男の描く女のほうが好きなようだ。
大好きなシラーを女流に逆レイプされたような不快感だけが残る読書であった。

*ギャグですからね。わたしは本心では女性を太陽のように崇めています。
好きな子に意地悪をしちゃう的な、極めて男の子らしい感想文とご笑納くださいませ。

「ディミトリー」(シラー/宮下啓三訳/講談社「世界文学全集17」)絶版

→戯曲。ドイツ産。絶筆となったシラー最晩年の未完の大作。
とはいえ、全体の1/5しか書かれずに作者が絶命したため作品を論じるのは難しい。
王位継承権をめぐる史劇である。当たり前のようだが、
むかしは親が偉ければ子どもも明々白々に偉かったことに新鮮な驚きをおぼえる。
だれが王位を継ぐかと言ったら、もっとも血統的に「正しい」子孫なのである。
この芝居では死んだと思われていたものが、おのれの素性を主張することから開幕する。
権力は言うなれば甘い蜜に等しいので大勢が群がってくるわけである。
結果として敵と味方にわかれる。裏切りや権謀術策が錯綜しておもしろい芝居になる。

人生で経験できずに終わりそうで悔やまれるが、
大企業の人事にまつわる派閥相互の足の引っぱりあいとか相当におもしろいのだろうな。
本音と建前、裏と表、友情と裏切り、恩と仇、作り笑いと怨恨呪詛――。
いざそういった修羅場を経験したら文学などアホらしくて読めなくなるのだろう。
たいてい文学好きなんていうものは浮き世のことに疎いものだから、
せいぜいシラーの史劇でも読んで出世競争の裏側を想像するしかない。
いつの時代にも男は出世したがり、
そのためにはかなりの汚いことに手を染めなければならないのだと思われる。
そうまでして左遷に追い込んだライバルを嘲笑いながらのむ酒のどれほどうまいことか!
まさしく勝利の美酒!
残念ながら今生ではその美酒を味わうことはなさそうだが、
シラーの傑作史劇を読んでいるとなんとなく想像がつかないこともない。

かりに史劇がおもしろいとすれば、それは人があくどいことをするからなのだろう。
だれもが出世したいのである。偉くなりたいのだ。
そのためにどれだけ悪いことを、良心をかえりみず自己正当化しながらできるか。
そう考えると二代目ではない大企業の社長など、たしかに尊敬に値する偉人である。
おぬしも相当な悪じゃのう〜あっぱれ、あっぱれ♪

*これでシラーの劇作をすべて読み終わったことになる(9作品)。

「群盗」(シラー/宮下啓三訳/講談社「世界文学全集17」)絶版

→戯曲。ドイツ産。シラー「群盗」は私撰のベスト10に入る芝居である。
小説は書き言葉だからかならずしもそうではないけれど、
戯曲は要するにセリフ(=話し言葉)だからできるだけ新訳で読んだほうがいい。
まえに「群盗」を読んだのは岩波文庫の久保栄訳でたいへん感動した。
だから、このたび新しい訳で再読したのだが、意外や旧訳のほうがはるかにいいのである。
久保栄は劇作家であるため岩波文庫版はいわゆる豪傑訳ではないかと疑っている。
だが、たとえ豪傑訳であったとしても久保栄訳のほうが断然いいのだから仕方ない。
学者の訳は、口に乗らないところがある。
比して岩波文庫版を読んでいたときは、思わずセリフを口にしてしまったくらいだ。

「群盗」には悪人が登場する。フランツである。
劇作家シラーは自身の内部にある善悪を、きれいに切り取ることに成功している。
悪は実のところ愉楽でもあるのだが、現代作家はなかなか悪の悦楽をうまく描けない。
どんな悪にも善がひそむなどと、つい現代人は訳知り顔で語ってしまう。
したがって悪の陶酔に耽溺することができない。
古典劇「群盗」でフランツは父と兄に悪を仕掛ける。
フランツはなにゆえ悪をなすのか? 悪の根源にはなにがあるのか?

「造化の神をうらむ資格がおれにはたっぷりある。
おれの名誉にかけて、この権利を主張してやるぞ!
――なぜおれは母の胎(はら)から長男として、
いや一人息子として生れなかったのか?
なぜ造物主は醜さという重荷をおれに負わせたのか?
なぜ、おれにだけ?」(P170)


なぜ自分だけ不幸なのだろうとだれもが一回は思ったことがあるのではないか?
どうして自分はこうもブスなのだろう、ブサイクなのだろう。
こういった怨恨は大人になるにつれて穏やかな諦念とともに縮小していく。
「ま、世の中そんなもんだよね」というあきらめを持つにいたるわけだ。
しかし、劇作家シラーは言うだろう。

あきらめるな!

あきらめてはいけない。
なぜなら、あきらめないことから美しい悪行が生じるのだから。
フランツはあきらめない。神を恨むことを忘れない。神と馴れ合わない。
長男だからという理由だけで兄が財産を相続するのは不平等じゃないか?
たまたまイケメンに生まれたという理由で兄が美女を婚約者にするのはおかしかないか?
フランツはあきらめることなく、現実に悪を仕掛けていく。
具体的には、他国を放浪している兄が死んだとウソの情報を広める。
ウソの魅力とは、悪の美を根拠として持つのかもしれない。
ウソは悪いこと。だから、ウソをついてはいけません。しかし、悪いウソは美しい。
フランツは噂を信じて失意に暮れるアマーリアに言い寄る。
そう、アマーリアとは兄の美しい婚約者である。
ブサイクよ、あきらめるな! フランツを見習え!
たとえどれだけ醜かろうが美女をものにしようと狙う悪人フランツは美しい。
ほしいものをあきらめてはいけない。悪を仕掛けろ。悪(わる)になろうぜ!
ブサイクとして生まれたらどだい格好いい主役にはなれないのである。
悪役を神から割り振られたのなら、悪をぞんぶんに楽しめばいいのではないか。
ああ、わたしも人生でフランツの役を演じてみたいものである。
美女に迫る醜男――。

「フランツ (……)髪をつかんできみを礼拝堂へ引きずりこみ、
手に剣をもってきみの心から結婚の誓いをしぼり出し、処女の床を襲って、
きみの誇らしげな操とやらを、それを上回る誇りで征服してやる。
アマーリア (彼に頬打ちをくらわせる) これがあたしの持参金とお思いなさい。
フランツ (腹を立てて) こいつ! 十倍にも二十倍にもしてお返しするぜ!
――正式の妻になどしてやるものか――そんな名誉は棚上げだ
――妾(めかけ)にしてやる、
きみが町に出ると、かたぎの百姓女房どもにうしろ指をさされるように。
歯ぎしりするがいい――殺意に燃える怒りの火を目からほとばしらせるがいい――
女の怒る姿をおれは好きだ、怒るときみはますます可愛く、ものにしたくなってくる。
こい――抵抗されればされるほど勝利の快感がまし、
力ずくの抱擁のたのしみに風味が加わる――
さあ、おれの部屋に――あこがれの思いでおれは燃えている――
今すぐおれについてこい。(むりに彼女をつれていこうとする)
アマーリア (彼の首に抱きついて) ゆるしてちょうだい、フランツ!
(彼が抱きすくめようとする刹那、彼女は彼の腰から剣を抜き、
さっとあとずさる) よくって、悪党さん、生かすも殺すもあたしの心次第だわ
――あたしは女、でも死にもの狂いになってる女よ――
みだらな真似をするつもりであたしの身体にさわろうものなら――
この剣が助兵衛な胸の真ん中をぐっさり」(P229)


「女の怒る姿をおれは好きだ、怒るときみはますます可愛く、ものにしたくなってくる」
人生で一度でいいからこのセリフを口にしてみたいよな〜。
話を「群盗」に戻すと、悪はやはり最後には敗れ去る――。邪心は裁きを受けるわけだ。
しかし、中途半端な善人より悪人のほうがよほど芝居を盛り上げる。
そうなのだ、悪人がいたほうが劇はおもしろくなるのである。
ならば悪人は観客の心中でひそかな喝采を受けているのだろう。

もっとほしがれ。欲張れ。悪になれ。それが人間だ。しかし、得たものはかならず失う。
正しくは、得るから失う。得るがために失う。
仕合せなカップルはそのぶんだけ別れのときに苦しまなければならない。
仲のよい家族はたしかに幸いだが、そのぶん死別の苦痛が増すようになっている。
津波に家を流されてよけいに苦しむのは、あばら家の住民ではないということだ。
21歳にしてシラーはこの人生哲学に到達していたのだから恐れ入るほかない。
アマーリアのセリフから抜粋する。

「だれもが、悲しく死ぬために生きていますのね。
私たちが何かに思いを寄せ、手に入れるのは、
ただ苦しい思いとともに失うためなのですわ」(P241)


それでも人間は生きる。悪だくみをする。芝居を仕掛ける。古今変わらず――。

(参考)「群盗」(シラー/久保栄訳/岩波文庫)品切れ
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-1079.html

「フィエスコの叛乱」(シラー/野島正城訳/岩波文庫)品切れ

→戯曲。ドイツ産。繰り返しになるが、シラーはゲーテよりもよほどいい。
シラーのよさは激しさにある。熱いんだ。燃えてるんだ。
まるで登場人物それぞれがファイヤーと叫んでいるようなところがある。
火のようなセリフを口から吐くのがとてもいい。
この芝居においてレイプのシーンがあるけれど、ここで説明するのがわかりやすいと思う。
サムライが女郎(めろう)を手篭めにするのとはわけがちがう。
毛唐さんはな、おらおら、どうだどうだ、と言葉責めまで加えて女人を辱める。
ナデシコは手篭めにされても無言で耐えることだろう(……ナムアミダブツ)。
だが、パツキンはレイプされながら大声で泣き叫ぶんじゃないか。
オーマイゴッドと髪を振り乱す女性を勝ち誇りながら野獣のように後ろから犯すよろしさ!
激烈なるシラー劇の長所を説明したらこうなる。うん、こうなるんだ。

シラーさん、劇とはなにか? 人生とはなにか?

「服従か?――支配か?
――この二つのあいだには、目のくらむ深淵が口をあいている」(P112)


男の人生は、服従するか、支配するか、でしかない。
つまり、出世するか否かである。男の人生にとっていちばん重要なのは出世だ。
なんとかして服従の人生から、他人を支配する人生に成り上がらなければならない。
他人を支配することのなんと気持のいいことか。
みんなからチヤホヤされる喜びはどうだ。
だれもがあこがれる美女の身心をことごとく支配するほどの歓喜はないだろう。
みながみな自分にあたまを下げる快感は一度味わったら病みつきになる。
では、どうしたら服従を脱して支配に到達することができるのか。
現在の支配者を打ち破り、引きずりおろすしかない。
あの手この手で足を引っぱるしかないのである。くたばれ、支配者よ!

「フィエスコの叛乱」はおのれの野心に忠実に行動した男の劇だ。
フィエスコは、汚らわしいムーア人(黒人)を手下にして悪だくみを仕掛ける。
「あるがまま」では支配構造は変わらないのだ。
フィエスコはどうするか。現実を変えるためにはどうしたらいいのか。

「――芝居をやるだけだ。
ジャネッティーノ(=政敵)がおれの命を狙った噂が広まることが、
今のいま、どうしても必要なのだ」(P83)


うまく芝居を仕掛け、ライバルの悪評を流せばいいのである。
成り上がるためには、だれかを蹴落とさねばならぬ!
支配者のポストはひとつなのだから、勝つためには相手を負かさなければならない。
ふん、偽善はやめようぜ。勝利は快楽だ。ならば快楽のために他人を陥れろ。
シラー劇の力学である。人間は、断じて勝たなければならぬ!
果たして、この芝居においてフィエスコは支配者になることができたか。
否である。最後の最後で老臣に裏切られフィエスコの野望は潰(つい)える。
しかし、闘いとはいいものだ。
シラーは言うだろう。諸君、闘争せよ。もっと過激に、もっと自由に!

「勝ち誇る」というト書きがシラー劇における最重要の動作になるのだろう。
勝つだけではシラー劇ではない。
勝ったうえで傷心する敗者におのが勝利を見せつけ誇らなければならないのである。
どういうときに人は勝ち誇るか。
妻のいる男性を奪ったときの女性の心理はそうだろう。人のものを奪う喜び!
この芝居では、高飛車な女がフィエスコの正妻に自身の寵愛を勝ち誇る。
ところがどっこいフィエスコも悪いやつじゃのう、うしし。
実のところ悪漢フィエスコはタカビー女に夢中だという芝居をしていただけなのである。
最後でどんでん返しをやらかす。
フィエスコは、自分を愛するようになったタカビーのまえで正妻への愛を告白する。
ここが「フィエスコの叛乱」でいちばん素晴らしい。

「フィエスコ (二三歩退いて彼女の倒れるにまかせ、勝ち誇ったように哄笑する)
それはどうもお気の毒です」(P169)


タカビー女を落として自分にメロメロにさせる。
そのうえでこの高慢ちきな女をさんざん愚弄するのは最高に楽しいことだろう。
くうう、まったくシラーという男は、どこまで下劣なのだろう。
いや、人間がそもそもお下劣にできているのだろう。
ああ、人間は醜い。しかし、だから人間は美しい。
人間の美醜を巧みに描くシラーの芝居が芸術ともてはやされるのはこのためだ。
本物の芸術はむしろ淫猥で、悪徳の美を描くものなのかもしれない。

「作者を探がす六人の登場人物」(ピランデルロ/岩田豊雄訳/「名作集」白水社)絶版 *再読

→イタリア産戯曲。
さすがノーベル賞文学者、ピランデルロの代表作だけのことはあり、
芝居と人生についていろいろな解釈ができるように幾重にも劇が仕組まれている。
7年ぶりに再読してみて、はじめてその深さに気づいた部分も多い。
芝居は不幸な六人の家族=この劇の登場人物が舞台監督を訪ねることから開幕する。
六人の登場人物は自分たちの不幸を芝居にしてくれと舞台監督に頼むのである。
いちばん乗り気なのがもっとも不幸を味わった養女なのが印象深かった。
彼女は貧困から売春婦にまで身を持ち崩し、
あわや母親の前夫に買われようとするという不幸を経験する。
のみならず、弟のひとりの事故死、
さらにもうひとりの弟のピストル自殺という不幸にまで見舞われる。
ところが、なのである。
もっとも事件の舞台化に熱心なのが、この薄幸の養女なのだから!
実人生(=現実)では不幸なことも、舞台上(=虚構)ではむしろ見せ場になる!
この思考法はかならずや多くの苦悩者を救うはずである。
妻がひどい狂人だったピランデルロもこの逆転の法則にどれだけ救われたことか!
不幸は不幸ではないのである。不幸は役者にとっての見せ場だ。

だから、不幸は幸福なのだ!

六人の登場人物は、舞台監督と大勢いる役者のまえで自分たちの不幸を再現する。
このように芝居をしてくれと役者たちに注文を出すのだ。
いや、もう六人の登場人物はままならぬ人生を生きる苦悩者ではない。
再現ドラマを演じるかぎりにおいて彼(女)らはすでに役者である。
繰り返すが、人生での不幸を舞台で再現するとき、
その場を演じる役者は視線が自分に集中するのを感じる。つまり、不幸は見せ場なのだ。
このためもっとも不幸を味わった養女は狂気を疑うほどはしゃいでいる。
演じる喜びを深く知るがゆえだ。養女は舞台監督を急かす。

「養女 (遮って)愚図愚図しちゃいやあよ……早く演(や)らして頂戴よ、
 あたしがどの位あの場を演りたがっているか、よく知っているじゃありませんか。
 あの人さえよければ、あたしはすぐに始めてよ……」(P42)


ところが、養女と舞台監督は衝突してしまう。
養女は真実(ほんと)にこだわるが、
一方の舞台監督はそれでは芝居にならないと拒絶するからである。
真実をそのまま芝居にしたら芝居にはならないという虚実の矛盾である

「養女 だって真実(ほんと)にそう言ったんですの!
舞台監督 真実でも嘘でも、どうでもいいですよ!
 ここでやるのは「芝居」なんですからねえ!
 真実は真実として、或る程度まで認めて置けばいいんですよ!」(P50)


養女は抗議する。真実にこだわらないでどうする!? 真実、真実、真実だ!
実人生では忍耐だけが拠りどころであった養女が舞台では自己主張する。
「あたしは自分のドラマが演りたいんです、自分のドラマを」――。
これに反論する舞台監督のセリフ(演劇論)は、
おそらくほかならぬピランデルロその人の人生論でもあったのではなかろうか?

「舞台監督 (困って両の肩を動かし)自分のドラマをっておっしゃるがね――
 実際を言うと、あなただけのドラマというものは存在しないんですよ!
 まだ他の人のドラマもあるんですから、
 (父親を示し)例えば、あの人のドラマもあれば――
 あなたのお母さんのドラマもある!
 一人の登場人物だけが花形になって舞台の幅を取り、
 他の連中の芝居を食ってしまうなんてことは、慎まなくちゃいけませんからなあ。
 すべての登場人物が一緒になって、しかも自分に許された領分だけを守り、
 一幅の渾然たる画面をつくる――これが芝居の掟なんですよ」(P50)


私の人生(=ドラマ)であなたが脇役であるのと同様に、
あなたのドラマ(=人生)においては私が脇役であるということだ!
長年、狂った妻の脇役(敵役)を演じるほかなかったピランデルロの到達した人生観だ。
ピランデルロの名作芝居から我われはなにを学んだらいいのか。
たとえひどい不幸でもおのれを役者だと考えたらむしろそれは見せ場で演じがいがある!
他者の人生(=芝居)において自己は脇役でしかないという断念を持つこと!
よしんば脇役であっても演じる喜びが皆無ではないことを知ること!
実人生での艱難辛苦を芝居で快楽に変質せしめた天才劇作家の教えである。