「舞台芸術の現在」(渡辺守章/放送大学教育振興会)絶版
→歌舞伎を観にいく前日に予習として読んだ本。
演劇全般に興味がある。劇的行為なるものの本質を見極めたいと思っている。
だが、和洋の演劇を同一視野のもとに論じる書物は少ない。
本書には期待していたけれど、渡辺守章が日本語障害者だったことを忘れていた。
放送大学教材なんだから著者はわかりやすい説明を目指さなければならない。
ところが、これは渡辺守章がナイフで脅されてもやろうとしないことである。
なんのことはない、実のところは、できないに過ぎぬ。
渡辺守章は日本語に障害があって、わかりやすい文章を書けないよう生まれついている。
どんな簡単な事実でも、この男に書かせると意味不明かつ一見難解なものに仕上がる。
才能といえば才能だが、知能障害ともいいうる。
著者は人間において才能(長所)と障害(短所)が紙一重であることを示すいいサンプルである。
演劇はショーかドラマかに大別される。
身体を重んじるショーと物語を必要とするドラマのふたつである。
前者を拡大解釈すると、サーカスのようなものまで演劇の仲間に加えることが可能だ。
たとえば、こんな単純なことを、著者はひどく難解に論述するわけである。
それから渡辺守章のあらすじ紹介の下手ぶりはほとんど神々しい。
書物の性質上、戯曲のあらすじを紹介しなければならない場面がいくつかあるのだが、
まったく説明できていない。日本語の訓練をいっさい積んでこなかったことがよくわかる。
読者になにかを伝えようという意志が渡辺守章にはないのである。
なら、なんのためにこの男は文章を書くのか。ひとりよがるためである。
マスターベーションである。
この年代は少年期に自慰は悪徳だと教えられたはずだが、忘れてしまったのだろうか。
自慰ばかりしてると頭が悪くなるぞ。
いまから渡辺老人のオナニーをみなさまへご覧に入れる。
決して気持のいいものではないから、勇気のないかたはここから先を読まないでください。
渡辺守章は「リア王」上演の説明をしている。
「ところで狂気は、身体のレベルで表象されなければ、演劇的な事件とはならない」(P138)
なにを言いたいのかさっぱりわからないでしょう。
実は極めて簡単なことである。
「精神の狂気は、役者が肉体で演じないと観客には伝わらない」
ふたつの文章を比べてください。
渡辺守章のこけおどしがよくわかると思う。
もっと醜悪な自慰文章をお見せしなければならない。
渡辺老人はオナニーを身体のレベルで表象する。
「いずれにせよ、身体を戦略的な場として開かれた断絶の体験は、
どのような演劇作業であれ、
今やそれを己れのプログラムに組み込まなければならないような、
そうした不可避の要請なのである」(P72)
射精を終えた渡辺守章の満足気な顔が目に浮かぶようである(キモ〜い)。
本人は決まったと思っていそうで、たいへん笑える箇所でもある。
わかりやすく言い換えてみよう。
「あらゆる演劇で身体の重要性、つまりショー的要素が見直されなければならない」
戯曲には表われない役者の肉体を重視しようね、ということだ。
「戦略的な場」や「開かれた断絶」といった言葉をかっこいいと思った、
オナニー大好き少年……いや老人の駄文である。
渡辺守章の文章は断じて難解ではない。未熟なだけである。
本書もこうして丁寧に意味を取っていくと、それほどたいしたことを論じているわけではない。
笑えるのは文楽(人形浄瑠璃)についての文章である(P161)。
ロマン・バルトが文楽について論じたものがあるという。
渡辺守章は無批判にロマン・バルトに土下座する。
渡辺老人にとっては、欧米人様が日本について論じたものはすべて正しいのである。
生年を調べたらちょうどギブミーチョコレートで進駐軍からほどこしを受けた世代だ。
渡辺守章はチョコレートをかじりながらオナニー三昧だった少年期が忘れられないのだろう。
自慰少年を身体のレベルで表象する渡辺守章の古びた男根は、
戦略的な場として開かれた断絶に侵入する――。
「演出家の仕事」(栗山民也/岩波新書)
→とても岩波新書とは思えない。どこから見ても文芸社や新風舎の本である。
つまり、自費出版の本としか思えない極度にゆるい書籍だ。
どういうコネでこんな愚書が岩波新書のラインナップに入ったのかふしぎである。
救いようのない本というほかない。
本書は、手垢のついたような文明評論と、極めて個人的な自伝で成立している。
自費出版ならありがちだが、商業出版でこんな本を作る編集者の顔が見てみたい。
演出家・栗山民也の心の叫びを聞け!
「私たちの国は無自覚にも経済的成長だけを願って進んでしまったことで、
生産の増大や社会の効率性だけを求め、
人間のほんとうの生き方を忘れてしまったようです。
また、私たちの生きている地球という惑星は、戦争や核実験、
それに環境破壊などでどこもかも壊れ、傷だらけの状態です。
この地球に、今、私たちは、激しい反逆を受けているように思えてなりません。
多くの情報の氾濫、それを処理するための合理化、簡略化の動きは、
私たち人間のコミュニケーションのための言葉をも暴力的に消し去っているのです」(P121)
教科書か模範解答例でも棒読みしているのですかと質問したくなってしまう。
本書はこういった高校生でもバカにするような「正しい」文明評論が並んでいる。
演劇人(笑)からのメッセージである。
のこりは「ボクの思い出」がなんのまとまりもなく語られる。
有名人と対面したから著者は偉いという理屈のようだ。
根本にある欧米礼賛は笑止である。一定の頻度で、欧米演劇を見習おうが繰り返される。
平成の現代でも自らの欧米体験を貴重だと信じられる著者の純朴には参る。
おしまいには自費出版にありがちな「ボクのブックリスト」がついている。
おそらく作者は本書の内容が非常に薄いことに気がついているのではないか。
だから、ボクはこんな本を読んでいると見栄を張る。
はいはい、ドストエフスキー、ランボー、
世阿弥、小林秀雄、大江健三郎を読んでいる栗山さんは偉いですね(なでなで)。
ほとんど戯曲が出てこないのには、ほんとうに演劇人かと疑ってしまう。
演出家・栗山民也の長所は個性がないところではないか。
自分の考えというものがない。毒がない。無害である。
顔写真を見ると、これほどの善人はいないという笑顔を見せている。
かつて三島由紀夫が演出に挑戦したことがあったという。
ところが、まったくうまくいかなかったらしい(「回想 回転扉の三島由紀夫」)。
栗山民也が日本を代表する演出家となっている(?)のもおなじ理由からであろう。
とにかく俳優という人種は自己主張が強い。ひとの言うことを聞かない。
劇作家も、いわば俳優とおなじタイプの人間である。
両者に挟まれる演出家ほど厄介な仕事はない。「演出家の仕事」である。
無個性凡庸な栗山民也がどうしてか持ち上げられるゆえんと思われる。
(本書は栗山の処女出版だが、類書は出さないほうがよろしい)
「泣き虫なまいき石川啄木」(井上ひさし/新潮文庫)絶版
→演劇を独学していたころ一度だけ井上ひさしの芝居を観にいったことがある。
「頭痛肩こり樋口一葉」だったと思う。観客は老人ばかりだった。
驚いたのは観客がよく笑うこと。つられてわたしも笑っていた。
演劇はこれでいいのである。観客のひとりが芝居の笑う箇所を発見して笑う。
その笑いによっておかしな部分を教えられたほかの観客も笑う。
いうなれば、笑いの連鎖か。泣く部分でもおなじことが生じうる。
舞台は観客が作るというのは、ほかならぬこの現象をいうのだと
井上ひさし自身がどこかに書いていたのを読んだことがある。
とにかくお客さんを満足して帰すのが、井上ひさしの流儀である。
料金はたしか5千円くらいだったか。裕福な老人にはこの金額が妥当なのだろう。
しかし、おなじように笑ったわたしだが、経済状況の相違からリピーターにはならなかった。
戯曲で読めば、より経済的におなじ効果を得られるとふんだのである。
「泣き虫なまいき石川啄木」を読んでいても、笑わせる箇所は明瞭である。
もっとも実際には笑いはしないが、笑った老人の顔を想像することでよしとしている。
笑わせかたはことさら古臭いものの、観客が実際に笑うのだから批判することではない。
タイトルどおり石川啄木の評伝劇である。
芸術至上主義に近かった啄木が「実人生の白兵戦」を経験することで、
地に足をつけた短歌を創作するようになるという、いってしまえば成長ものである。
以下のような啄木のせりふは、作者井上ひさしの文芸思想にも相通じる。
啄木が妻の節子に逃げられたのちの述懐である。
「節子に家出されたとき、僕はそのときの辛さや悲しみを
和らげてくれるやうな詩や小説があればなあと思った。
実人生の必要品としてさういふものが必要なんです。
おとうさんにも実人生の辛さや悲しみがあるでせう。
さういふとき、歌や詩で少しは慰められたいと思ひませんか」(P83)
解説で知ったのだが、この芝居の創作過程で、
好子夫人が井上ひさしのもとから逃げ出したという。
違う男性のところへ走ったそうである。この前夫人は「こまつ座」の座長も兼ねていた。
この女性がのちに井上ひさしの壮絶な家庭内暴力を暴露したことはよく知られている。
妻に逃げられた井上ひさしの心痛は、芝居のせりふにも私小説的に現われている。
たとえば、つぎのせりふは、事情を知るものなら作者の強い悲嘆を感じずにはいられない。
これもまた啄木のせりふ。
「つまり妻に捨てられたといふことは、妻から、あなたは天才詩人でもないし、
小説家になれる器量もない、ひつくるめてあなたになんか才能のサの字もないのよ、
と宣告されたのと同じことだつたのです。
(トコップを空にして、それをもてあそびつつ)
妻から「あなたは天才よ、きつと大きなことを仕出かす人よ」と囁(ささや)かれ、
それを真に受け、そのつもりで生きてきた僕ですから、
妻に捨てられたことはフフフフ(二人恐怖)死の宣告。
未来はない(二人、連続的戦慄)といはれたも同じことで、
人生の底がどこまで深いのかわからなくなつてしまつた……」(P59)
ところで考えてみれば、石川啄木も井上ひさしも、
才能を認めてくれる奥さんがいたということか。
失礼になるが井上ひさしはあの顔だから、
好子前夫人はほんとうに才能に惚れていたのかもしれない。
おいらも天才だのなんだのと褒めそやしてくれるワイフが一度でいいからほしい。
たとえあとになって逃げられても、その苦悩を創作に用いればいいのだから。
「オンディーヌ」(ジロドゥ/内村直也訳/白水社)
→戯曲。フランス産。
大昔はジロドゥなんざ読んでいるとお洒落で繊細そうでなおかつ深遠と思われ、
たいそう文学少女からもてたようである。
なんせおフランスものだからね。ひかえい、みなのもの、パリが目に入らぬか。
騎士が水の精オンディーヌと出会い、恋に落ち、別れる。
ああん、究極の恋愛って感じ。だって騎士も水の精もフランス人が演じるんですもの。
実はありきたりなストーリーラインなんだがな。
男女が偶然会って、イヌでもネコでもできる発情をして、あとは別れるだけなんだから。
男を最後に死なせるのも、観客を泣かせる意図がぷんぷんで興醒め。
過程で劇中劇のようなものがある。劇を作る劇みたいなのだが、よくわからない。
このわからなさがいいのである。
なにやら深いものが演じられているような錯覚がもたらされる。
「いやあ泣けた。やはりフランスは芸術大国だ」と感心するお客さん!
それでいいのです。舞台同様、実人生でも、
役者たるあなたもわたしもわけのわからぬ夢を見て死んでゆくのですから。
ジロドゥなんか読んでも、もてないのが平成ニッポン。
さあ、出会い系サイトに登録してきみもオンディーヌと会おう(死ぬなよ)!
「世の習い」(コングリーヴ/笹山隆訳/岩波文庫)
→戯曲。イギリス産。コングリーヴが誕生したのはシェイクスピアの死後約50年。
この時期、流行していたのは風習喜劇。代表作とされるのが「世の習い」。
コングリーヴは、ウェルメイドプレイで知られるテレンス・ラティガンやノエル・カワードの
元祖という説があるため、上質な娯楽作品であることを期待して読む。
まったく退屈な芝居であった。
登場するのは貴族の男5人、女4人。こいつらの関心のあることはイロとカネのみ。
イロとカネの奪い合いが舞台で繰り広げられる。
複雑な男女関係は、おそらく読者のなかでも理解できるものは極めて少ないだろう。
まあ、男女入り乱れてやりまくっているわけだ〜よ。
妻の元カレはボクの親友だったみたいな(笑)。
だけど、ボクにも愛人がいて、しかしこの女もまた親友に食われていたという(笑)。
つまり、もてるやつはもてるってことだな。
笑われ役はイロボケした老女。このババアを変装した下男がからかうのだが、
この老人虐待、現代日本人にはちっともおもしろくない。
幕が開いたら閉じなければならない。
う〜ん、コングリーヴちゃん、最終回ど〜する? 結婚させちゃおうか?
といったテレビ局プロデユーサーのような乗りでカップルが結ばれておしまい。
「オレアナ」(デビット・マメット/酒井洋子訳/劇書房)絶版
→戯曲。アメリカ産。初演は92年だから新しい演劇といってもよい。
ここで問題にしたいのは、演劇に新しいという宣伝文句をつけることの無意味。
「オレアナ」の新しさは、
ディスコミュニケーション(和製英語で相互不理解の意)とフェミニズムのようだ。
かつて人間と神々の関係を問うことから演劇は誕生したが(ギリシア劇)、
近代社会が成長するにしたがい劇は人間と人間の関係を描くように変化した。
現代においては、人間と人間の関係は描かれ尽くされたといえよう。
この地点から世界は不条理演劇へ傾斜したわけである。
だが、アメリカ劇界はリアリズム演劇の歴史を長く持つ。
くわえて不条理演劇とて、いまさら目新しいものではない。
かくしてディスコミュニケーションがテーマになるわけである。
なるほど新しいのだろう。だが、これを観て楽しめる観客などいるのだろうか。
登場人物ふたりのリアリズム劇である。大学教員のジョンと女子大生のキャロル。
ジョンは教授昇進が目前で浮き足立っている。
非常に学力の低い大学生のキャロルがジョンをたずねて研究室に来ている。
キャロルは単位がほしいのである。
自宅購入も目前にした有頂天のジョンは正直、キャロルに構っていられない。
学生は先生の教科書を読んだけれどもわからないと訴える。
教育学を専門とするジョンは噛み砕いて教えようとするがキャロルは理解できない。
好人物のジョンは学歴および大学教育の無意味をも主張するが、
これまたあたまの悪いキャロルには理解できないことである。
したがって会話は成立しないのである。
そのうえ作者のデビット・マメットはリアリズムを重んじ、会話を現実に似せる。
たとえば、電車内の見知らぬ他人同士の会話を聞いていてもなかなか理解できない。
おなじことを劇場でやろうとしたわけである。
なにゆえか。新しいからである。新しい演劇は認められなければならない。
終始、相互の理解のともなわないまま第一幕は終了する。
第二幕はジョンとキャロルの立場が逆転しているのである。
なぜならキャロルはあるグループに入れ知恵されてジョンを大学に訴えたからである。
たしかに第一幕の最後でジョンはキャロルの肩に触れた。
性交渉のたとえを用いて学歴問題を論じた。
これをセクシャルハラスメントとしてキャロルは大学に訴えたのである。
このためジョンの教授昇進もふいである。なんとか撤回してもらいたいと呼びだした。
だが、またもや会話が成立することがない。
第一幕とは反対に、今度はジョンがキャロルの主張を理解できない。
噛み合わない会話がえんえんとつづき退屈だが、これは芸術だから構わない(苦笑)。
第三幕においても教員と学生が理解しあうことはない。
最後が衝撃的だという評判だが、なんのことはない。
ぶち切れたジョンがキャロルを殴り蹴飛ばすのである。
「さおたけがあろうがおまえのマンコなんかつつかねえよ!」と叫びながら。
キャロルは答える「それでよし(That's right!)」。
この結末はフェミニストから非難が集中したという。
男女間の闘争、立場の逆転というテーマから比較すると、
本作品はストリンドベリ「令嬢ジュリー」の1/10ほどのおもしろみもない。
だが、スクールハラスメントやセクシャルハラスメントのような現代的テーマゆえ、
新しいという評判を勝ち得たのだろう。
日本でも上演されたが検索すると寝ている観客もいたとのことである。
おそらくわたしも観客席にいたら寝ていただろう。調べたらチケット代金は7千円だったが。
「瞼の母・沓掛時次郎」(長谷川伸/ちくま文庫)絶版
→長谷川伸は大衆小説家。大衆演劇の脚本家としても知られている。
この文庫は戯曲集。収録作品は――。
「瞼の母」「沓掛時次郎」「関の弥太ッぺ」「一本刀土俵入」「雪の渡り鳥」「暗闇の丑松」。
先日、ある友人の家を訪れたときのことである。
昼間から強い酒をがんがんのんだ。酔ったいきおいで言いたいことを言うわけである。
かれの本棚を見ながら、こんな失礼なことを言ったと記憶している。
「ダメだね。てんでダメだ。なんだい、これは」
本棚は、いかにもな作家で埋められていた。
高尚っぽい純文学作品やら、こむつかしそうな横文字の映画評論やらである。
「ほんとうにこれだけか。これだけじゃ、ないでしょう。
人間がほんとうに苦しいとき、読むのはこういう本じゃない。
苦しくて、もうどうしようもなくて、なにかにすがりつきたい。
もうダメだ。瀬戸際に追い込まれる。そういうときに読む本が1冊もないじゃないか」
人間精神の寝室たる本棚をまえにして、ひどいことを言ったものである。
暴言をさらりと受け流してくれた友人には感謝している。
他人の本棚のまえに立ち、とんでもないことを言うわたしである。
「かっこつけすぎている。違うでしょう。人間は、こうじゃない。
かっこつけてばかりは生きていられない。
もっと恥ずかしい本があるはずだ。なければおかしい。この本棚はおかしい」
酔ったかれが差し出したのがこの本である。長谷川伸戯曲集――。
読みながら、あるプロレスラーを想起する。ミスタープロレス、天龍源一郎である。
義理と人情に生きる男のなかの男。
男が男に惚れるというのか。20年以上も天龍を見つづけている。
ここ20年の天龍の主要試合はおおかた、なまで観戦している。
横道にずれたが、長谷川伸の描く大衆演劇というのは、まあ、プロレスなんだな。
世の中にはいろいろなひとがいる。
インテリや学者先生ばかりで社会が成り立っているわけではない。
なかには低学歴、低収入、低知能という人間もいる。
というか、いなくては国家が成立しない。
みながみな公務員になるわけにはいかないのである。
源氏物語の作者も知らないような塗装工がいて、はじめて建物が完成する。
インテリがニーチェやなにかを生きる支えにするのとおなじように、
バカもバカなりに生きるよすがとなるものを必要としている。
酒のんでバカやって、カネがたまりゃ女を買って――。
こんな動物なみの生きかたをしている人間も生きるためにはなにかを必要とする。
それがプロレスだったりするのだ。
じゃあ、プロレスのなにがおもしろいのかと人間ドラマである。
といっても、知能の低い人間はせりふ劇にあたまの回転がついていかない。
だから、(言葉ではなく手で)殴りあうプロレスにひかれる。
人間が殴りあうのだからドラマが生まれる。むずかしいドラマではない。
日本人ならだれしも生活するうえで味わう情感である。
すなわち長谷川伸の大衆演劇がテーマとする義理、人情だ。
義理、人情を表現するためには、
陰画であるところの嫉妬、裏切り、悲恋がなければならぬ。
プロレスの会場へ行ったことがあるひとはいますか?
たとえば後楽園ホール。行きたいひとはメールをください。連れていってあげます。
一度は見ておいて損はない。ものすごいぞ。社会の最下層が集合したというのか。
教養という言葉からもっとも離れた空間である。
モテない、カネない、チエ(知恵)ないの、ないない尽くしの男が勢ぞろい。
なかにはリングサイドに陣取る小金持ちもいるのだが、どこから見てもカタギではない。
女連れもいるにはいるが、女のほうはオミズと相場が決まっている。
こんな野郎どもが見守るリングで繰り広げられるのは、裸踊りである。
血まみれになった半裸体の男たちが踊り狂う。
プロレスは結果の決まっている八百長だから闘いではない。まさしく裸踊りだ。
観客もたいはんは八百長と知りながら、レスラーのウソにつきあい絶叫する。
「張れ、折れ、殺せ」といった怒号が飛び交う。
はじめて後楽園ホールに行ったのは小学生のとき。もちろんひとりである。
あれから何度、後楽園ホールへ行ったか。
わたしはプロレス会場に育てられたといってもいいくらいである。
また脱線したな。長谷川伸の話をしなければならないのであった。
長谷川伸の相手にしている観客が、プロレスを見る層とおなじではないか。
こう話をつなげたかったのである。
無知な大衆は難解な思想はわからない。ならば劇作家はなにを提供するか。
かれは観客のあこがれを刺激する。つまり民衆のヒーローを描く。
かくありたいと観客に思わせる理想像を提示する。
客はいいなとほれぼれする。あんな男がいらあいいな。ああなりてえぜ。
生みの母をまぶたに描きながら流浪するバクチ打ち(「瞼の母」)。
殺した相手の女房子供を養いながら旅をするヤクザ(「沓掛時次郎」)。
腐れ縁のかたきと共闘する流れ者(「関の弥太ッぺ」)。
かつて恩を受けた女のために命を張る元相撲取り(「一本刀土俵入」)。
恋敵(こいがたき)の身代わりに処刑場に引かれてゆく極道(「雪の渡り鳥」)。
信頼していた先輩に裏切られ、愛妻を寝取られ売り飛ばされた人殺し(「暗闇の丑松」)。
登場するのは、「お前、男だ」(P108)とほめたたえたくなるような男ばかりである。
男は男として生まれるのではない。男をめざし男になろうとするのが男だ。
こんなクサイことを思わず口にだしてしまうくらい男臭い芝居なのである。
プロレスラー天龍源一郎が好きなのとおなじ理由で長谷川伸(の芝居)を好む。
天龍もおもしろい男なのである。かっこいいったらありゃしない。
中卒の天龍が、中央大卒のエリート、
ジャンボ鶴田に向かっていった姿勢にしびれないプロレスファンはいないだろう。
ジャイアント馬場を裏切り全日本プロレスを退団するが、
10年後、同団体の経営危機に際して舞い戻る男、天龍源一郎。
みずからも弟子の冬木弘道に裏切られ裁判沙汰になる。
けれどものちに和解し冬木がガンになったと知れば見舞いに行く。
死ぬ間際の病床で「天龍さんを(病院の)入り口まで送っていく」
と言いつづけた冬木との師弟愛。
葬儀で棺桶のなかの弟子の顔をなでる天龍。
ファイトスタイルはぜったいに相手の技をすかさない。
相手の技を受けきったうえで反撃していく。
プロレスラーは裸芸者と言われるけれども、あんなに感情表現のうまい役者を知らない。
たとえば怒りを天龍源一郎は全身で表現する。ほんと鳥肌が立つぜ。
橋本真也じゃないけれども、将来あんなオッサンになりたいとあこがれる。
きっぷがよくて、義理人情に厚い。酒をのんで、ときには羽目をはずす。
女子プロレスラーとも、レイザーラモンHGともプロレスをやってしまう。
昨年、7月にWAR最終興行があった。天龍ファンが全国から集合する。
だいの大人がもうみんなわんわん泣いているんだな。
そこにいるだれもが天龍に励まされて生きてきたわけだ。
こん畜生、なにくそ、と思いながら、ひよるもんかと意地を張り通す。
天龍の生きかたであり、天龍ファンの生きかたでもある。
以上、脈絡もなく、
プロレスなんていう恥ずかしい茶番に生きる勇気をもらう愚人の話をした。
つまりシェイクスピアじゃないんだな。
あんなものに生き死にを左右されるほどお上品じゃないってこったい。
国技の相撲でもない。いんちき臭いプロレスじゃなきゃダメ。
まえにリングサイド最前列でプロレスを見たことがある。
場外乱闘。目のまえで天龍がマンモス鈴木のあたまをビール瓶で殴るわけだ。
ぞくぞくしたね。すげえと思ったね。
こぎれいな劇場で、芸術家の俳優さんがお見せくださるシェイクスピア劇より、
よほどこちらのほうが性に合っている。
すかした演技を見せられるより、泥臭いしばきあいをあたしゃ見たいね。
そういう地点から生きているという自覚がある。
おれのね、生きている熱源というのはさ、
きたねえ血が泥沼のようにたまっているんだ。
ふふふ。こんなこっぱずかしいことを口頭で言えるわけもない。
明日、友人宅へ本を返しに行くことになっている。
長谷川伸? 悪くないんじゃないかな。いいと思うよ。
聞かれたら、こんなふうに答えるつもりである。
「タルチュフ」(モリエール/鈴木力衛訳/岩波文庫)
→戯曲。フランス産。
傑作古典戯曲は、劇とはなにかを考えるうえで好都合である。
劇とは、人間が生まれ持った性質から生じるものである。
ひと言でいえば、人間は無知なのである。対置されるは神の全知。
人間と神の関係、無知と全知の関係が、いわば劇の構造である。
無知たる人間が、全知の神へいどむのが劇だ。
我われ人間はおのが無知をそう意識することもなく生活している。
むろん全知には及ばないが、そこそこは世界を知ったつもりでいる。
なにか行動するときは、以前から蓄積している知識を参考にして決定する。
かつての経験から未来を予測し、選択肢のひとつを選び行為にいたる。
たいがいの人間の生きかたである。
「タルチュフ」――。
無一文の詐欺師であるタルチュフが、ある一家へもたらす騒動を描いている。
家主のオルゴンはなかなかの資産家。タルチュフを宗教的偉人だと尊敬してやまない。
実のところ、このタルチュフはいかがわしいペテン師で、この家の財産が目当て。
のみならずタルチュフはオルゴンの妻のエルミールへ横恋慕している。
オルゴン以外の家族はみな、
このタルチュフがとんでもない詐欺師であることを見破っている。
だまされているのは家長のオルゴンのみである。
ついにはオルゴンは、ほかに恋人のいる娘をタルチュフへと嫁がせようとする。
そのうえ全財産をタルチュフへ贈与することも計画している。
劇とは、かならず観客の存在を前提にしている。
観客はタルチュフがいかさま師に過ぎぬことを知っているわけだ。
すなわち、オルゴンの無知に比して、観客たる我われは全知の立場にいるといえよう。
このためタルチュフにだまされつづけているオルゴンをこっけいに感じる。
この喜劇のメインは演劇における無知と全知の関係を象徴している。
エルミールが夫のオルガンへ言うのである。タルチュフは詐欺師。
これからそのことを証明してみせるから、このテーブルの下に隠れていなさい。
オルガンが盗み聞きしていることを知らずにタルチュフが登場する。
タルチュフはいつものように恩人の妻であるエルミールを口説きはじめる。
そのうち無一文の自分を救ってくれたオルゴンの悪口まで言う始末。
観客は、ここで大笑いするはずである。
なぜなら観客はすべてを知っているからである。
テーブルの下にオルゴンがひそんでいること。タルチュフが詐欺師であること。
ひとり知らないのはオルゴンである。
無知のオルゴンは、この場面でようやくにしてタルチュフが自分を裏切っていたことを知る。
このあと多少のてんやわんやがあって、最後は国王からの使者の取りはからいで、
すべては丸くおさまる。勧善懲悪がなされる。
だが、重要なのはハッピーエンドよりも、むしろ終幕まえのクライマックスである。
オルゴンがようやく観客の知へ追いついた瞬間である。
これを快感に思うのが芝居の観客なのである。笑わざるをえない。
我われとて、いつオルゴンになるとも知らぬ存在ではないか。
人間はおのが無知を忘れて、あたかもオルゴンのようにふるまっているが、
いつ我われにあのテーブルの場面がやってくるかわからないのである。
この無知と全知の関係が、劇的なるものの本質である。
「人間・この劇的なるもの」のありかたは、全知をまえにした無知者のおそれだ。
人間は決して全知にはなりえぬ。どんな人間も神ではないのだから無知である。
ならば、どうして我われがあの愚かなオルゴンにならないと言い切れるものか。
観客から大笑いされる喜劇役者になる恐怖だ。
役者なら覚悟があるからまだよろしい。
しかし、我われ一般人が突然舞台でオルゴンの役をあてがわれたら――。
ギリシア悲劇「オイディプス王」を思い返してください。
国王オイディプスは、はなはだ傲慢な人間である。おのが知を誇っている。
というのも、かつてスフィンクスのだす難問を解いた経験があるため。
その業績が評価されて国王の座に着いたのが、ほかならぬオイディプスそのひと。
国王はおのれの知でもって解決できぬ問題はないとおごっている。
ところが、またもやテーバイの町へ不幸がおとずれる。飢饉、災厄である。
この国土の荒廃をなんとかしようとオイディプスが原因究明に乗り出すところで、
この悲劇は幕を開ける。
閉幕直前、明らかになるのは、すべての原因がオイディプスにあったこと。
父を殺し、母と寝たがために、テーバイの国土は呪われたのである。
オイディプスはおのが無知を悟る。全知を誇っていた過去を恥じる。
この(人間の)目は、なにも見通すことができないではないか!
オイディプスが両目をつぶすゆえんである。
なにも見えない目なら、役に立たない目なら、いっそのことつぶしてやる。
全盲の闇のなかで、しかしオイディプスはかつてよりは全知に近づいているのだ。
全知の存在があることを知っているからである。
人間がどうしようもなく無知であることを知るにいたったからである。
オルゴンならまだ笑って済ませられるが、オイディプスになるとそうはいかぬ。
喜劇と悲劇の相違だ。
しかし、本質的な部分では喜劇も悲劇もおなじであることをご理解いただけたと思う。
またもや定式化する。
「劇」=「人間(無知) vs 神(全知)」
「ブリタニキュス」(ラシーヌ/内藤濯訳/岩波文庫)品切れ
→戯曲。フランス産。古典劇。
シェイクスピアの翻訳で有名な英文学者の小田島雄志氏がこんな言葉を残している。
シェイクスピア劇に一貫するテーマはなにかという問いへの回答。
「人生には幸福と不幸があり、人間には表と裏がある」
(「シェイクスピア劇のヒーローたち」12ページ)
これはシェイクスピア劇のみならず、劇全般の魅力の説明でもある。
劇場のそとへひとたび出るとあなたは生きている人間の群れと出会う。
それぞれ幸福や不幸と格闘している人間たちである。
なにゆえかわからぬが幸福になる人間がいるいっぽうで、不幸になる人間もいる。
ニュースなどその繰り返しに過ぎないといってもよい。
どうしてこのような理不尽な幸福と不幸の差が生じるのかわからない。
もちろん自己啓発本を読めば、
がんばったものが幸福になれるといったようなことが書いてあり、
眉唾だなと思いながらも、ほかに信じるものもないから、
とりあえずがんばって生きているけれども、ちっとも劇的なことは起こらない。
しかし、劇場においては、集約されたかたちで人間の幸福と不幸を目撃することが可能。
どうしてある人間が幸福になり、別の人間が不幸になるかが芝居では明示されている。
人生は幸福と不幸で構成されている。人間は裏と表で一体をなしている。
人間は表ではみんなが幸福になればいいなどというが、
裏ではよほどの阿呆でないかぎりそんなことは思っていない。
わかっているのである。だれかが幸福になれば、別のひとが不幸にならざるをえぬ。
日本の学者がノーベル賞を取ったと喜ぶのはいいが、
その裏には受賞を逃したものがいるのである。
金儲けに成功するためには、多くのものを蹴落とさねばなるまい。
「ブリタニキュス」――。
キリスト教の迫害で知られるローマ皇帝のネロ(この劇ではネロン)が、
悪へすすむことを決心し、政敵のブリタニキュスを殺害するというのがストーリー。
ブリタニキュスにはジュニイという美しい婚約者がいた。
ネロンがこのジュニイを奪い去るところから劇は開幕する。
それまで善政をしいていたネロが、はじめて裏の部分を見せたのである。
といって、なかなか人間は悪に手を染められるものではない。
どんな悪人にも良心とよばれる表の部分はあるのだから。
ネロンを悪事へそそのかすのはブリタニキュスの部下のナルシスである。
ナルシスは主君を裏切り、ネロンへ取り入ろうとする。
かれはおのれを叱咤する。独白――。
「ナルシス、幸運がまたしてもそちを呼んでいる。
そちはあの声に刃向かいたいのか。
いや、俺たちは、幸運の願ってもない命令にどこまでも従おう。
俺たちは、運のないやからを亡きものにして幸福になろう」(P64)
組織のなかで生き残ろうとするならば、このナルシスの発言を批判するのはむずかしい。
出世するためには他人を踏み台へしなければならないときがあるのである。
ナルシスから毒汁を耳へ注ぎこまれた皇帝ネロンはある決心をする。
この決断があらゆる悲劇をもたらしたのである。さあ、悲劇の根幹とはなにか。
ネロンの腹心ブルスは、ナルシスとは正反対。
正義や善といったものを重んじる人間である。
ブルスはなんとかネロンの悪事をとめようとする。
ブルス「いったいわが君には、何にひかれてさような事を遊ばす気におなりで?」
ネロン「おれの名誉だ。おれの恋だ。俺の身の安全だ。俺のいのちだ」(P97)
このネロンの言葉が、かくのごとき悲劇を生じせしめたわけである。
「おれ」である。
教師や宗教家といった表の顔で生きている人間はよく言うでしょう。
他人のことを考えて行動しましょう。わがままはやめましょう。隣人愛を説く。
ネロンはこの真逆の道を選択したわけである。
相手の立場など考えていたら幸福や成功はおぼつかない。
なにより劇が生まれないのである。劇をひきおこすのは、決まって人間の裏である。
芝居をながめる観客は、表の仮面を顔にはりつけている。
表の顔を即座に偽善と断罪するのは、人間への理解が足らない。
観客は芝居を見ながら人間の裏側に目を見開かされるわけだ。
人間の裏側のなんと小気味いいことか。
その裏の部分がどれだけ人間の幸不幸へ関係しているか。
劇場をあとにした観客は、表の顔でこの芝居の感想を語らうことだろう。
かれらが裏の顔でふと思ったことが口にのぼることはまれと思われる。
だが、真に優良な劇は、人間の表ではなく裏を揺り動かすのではないだろうか。
裏――。たとえば、他人を押しのけてでも幸福になりたい自分。
「ル・シッド」(コルネイユ/岩瀬孝訳/「名作集」白水社)絶版
→戯曲。フランス産。
コルネイユはラシーヌ、モリエールとともにフランス古典劇の作家として知られている。
「ル・シッド」はコルネイユの代表作。初演は1637年。
イギリスでは1616年にシェイクスピアが没している。
古典劇の魅力は、明快なところではないか。
幸福と不幸がはっきりとわかれる。勝者と敗者もそう。善人は善人で、悪人は悪人。
現代は、そのようにかんたんにはいかないわけである。
たとえば会社をリストラされても(不幸)、
仕方なく始めた自営業で当たることもある(幸福)。
人間ではないがハルウララのような負けつづきの競走馬の人気が出てしまうこともある。
仕事はできないくせに嫌味な上司(悪人)が家庭ではよきパパ(善人)の可能性もある。
東大を出てベストセラーまで出版しているのに、もてないことをことさら気に病む男もいる。
かように現実は複雑である。
ゆえに現代人は古典劇を模倣ぬきに書くことはかなわぬ。
だが、現代人には古典劇を鑑賞(読書)することは許されている。
我われが古典劇を愛好するとすれば、これら芝居のどこに魅惑されるのか。
シンプルなところである。
現代は一見すると複雑なシステムに思えるが、
その実、古典劇と変わらぬことをやっているといえなくもないのである。
いくら複雑といっても、やはり幸不幸と勝敗が人間を喜怒哀楽させている。
人間を支配しているのはいつの時代も運不運なのだが、
現代ではこの力学が見えないように平等や努力といった言葉で隠されている。
我われが古典劇を見ながら(読みながら)発見するのは、
以前から知っていたことに過ぎない。
人間が死ぬのはだれもが知っている。
幸福な人間がいれば、その裏で不幸な人間がいるのは当たり前である。
勝つものがいれば、負けるものもいる。
小学生でも知っている常識以前の事実である。
しかし、我われが古典劇を見たとき発見するのはこれら単純な事実なのだ。
「ル・シッド」――。
ドン・ロドリーグは名家の青年将校である。父がある伯爵から侮辱を受けたと聞く。
ロドリーグは父から伯爵への復讐を依頼される。名誉のためである。
だが、困ったことに、父を侮辱した伯爵の娘というのが、ロドリーグの婚約者なのだ。
父親(名誉)を取るか、婚約者(恋)を取るかである。
「ああ、胸が二つに裂けそうだ!
私の恋は私の名誉に逆らって、別の望みを抱いている。
父の恨みを晴らすなら、恋人を失うほかない。
恨みを思えば勇気が湧くが、恋を思えば腕がなえる。
恋の心裏切るか恥をしのんで汚名に生きるか、
二つに一つの窮地に追い込まれて、
どちらを取ろうがこの苦しみは果てもない。
ああ、神よ、なんと激しい苦しみでしょう!
この恥辱を見逃すがいいのか?
それともシメーヌ(=婚約者)の父を懲らしめなければならないのか?」(P79)
ロドリーグは父のかたきである伯爵と決闘をして、婚約者の父親を殺してしまう。
すると、今度はロドリーグの「二つに一つ」が、婚約者シメーヌにうつされる。
ある人間が選択に迷う。選択を決定して行為を敢行する。
その結果として、今度は別の人間が、新たな選択に迫られるわけである。
シメーヌの選択も、ロドリーグとおなじもの。名誉か愛かだ。
無慙にも殺害された父のかたきであるロドリーゴへ復讐するか。
それとも、父の名誉はあきらめ、愛する婚約者との婚姻を選択するか。
かよわき女の身。シメーヌは王様へロドリーゴの裁きを要求する。
シメーヌもロドリーゴとおなじく恋ではなく名誉を選択したわけである。
王の裁きがでるまえに、別の裁きがくだされる。これは神の裁きなのかは知らぬ。
モール人が大挙してこの国を攻めてくるのである。
ロドリーゴは獅子奮迅の働きで、もの異国の軍隊を追い払う。
というのも、ロドリーゴは命など惜しくなかったのである。
愛する婚約者の父親を殺してしまったという自責の念にたえられない。
いっそ死んだほうがいい。命知らずの活躍を戦地で可能にするのはこのため。
ロドリーゴのおかげでこの国は救われたわけである。
王はもう伯爵殺しの罪でロドリーゴを罰するつもりはない。
ロドリーゴはいまや国全体が誇りにする英雄なのだから。
ところが、そうなるとおさまらないのがシメーヌの感情。
父の名誉はどうなったのだと国王へ訴えるが聞き入られない。
シメーヌは別の求婚者にお願いして、ロドリーゴへ決闘を申し込ませる。
この決闘でどちらが勝ってもロドリーゴは喜べないのである。
ロドリーゴの勝利は父の名誉の失墜。
ロドリーゴの死は愛する婚約者を失うことを意味する。
シメーヌは乳母のエルヴィールにいう。
「エルヴィール、苦しくて仕方がない、嘆かずにはいられない。
ただもう祈るばかりなのに、何もかも不安の種。
少しも心からの祈願が込められない。
何を祈っても、すぐ後から後悔する始末。
わたしのために恋敵同士に剣を取らせることにしてしまった。
たとえわたしの望みどおりの結末でも、後悔の涙を流すことは同じ。
運命がわたしに味方したところで、父の恨みが晴らせないか、
でなければ恋人が死んでしまうか、
どちらか一つですもの 」(P116)
神が仕組んだかのような奇蹟が起こる。
ある誤解がもとで、シメーヌはロドリーゴが死んだと思い泣き伏す。
だが、真相が明らかになり、決闘でどちらも死んでいないことを知る。
勇将ロドリーゴが相手の剣を打ち払ったところで決闘を終えたのである。
地上の問題を裁くのは王権である。
王はふたりへ命ずる。過去の因縁は忘れ、愛しあうふたりは結婚するがいい。
ロドリーゴもシメーヌも王の命令へ服従する。
整理する。劇とはなにか。
人間は「二つに一つ」の選択を迫られる。この芝居の場合は、名誉か恋か。
「どちらか一つ」を実行するしかない。
結果、どうなるかは人間のあずかりしらぬこと。
といっても、基本的にはこの結果も「二つに一つ」である。
勝つか負けるか。幸福になるか不幸になるか。
この裁きを下すのは人間ではない。運命。いうなれば神である。
ということは、劇的行為とは、二重の選択である。
まず人間が「二つに一つ」を選択する。
そのつぎに神がこれまた「二つに一つ」を選択する。
人間は神が下した結果に、いくら不満があろうが、生きている以上は従うほかない。
定式化すると以下のようになる。
「劇」=「(二つに一つ)→(どちらか一つ)」
「劇」=「(選択)→(結果)」
「劇」=「(人間の決定)→(神の決定)」