思うところがあって(なにを思ったのか自分でも正直わからないが)、
ブログ「本の山」の記事を多数削除しました。

映画女優の河合由美子さんは、いまなにをなさっているのか。
自殺などしていないといいのですが。
わたしに妻の殺人を依頼してきた(マジでよ!)男性もいましたね。
いまは奥さまと仲良くしているといいと思います。
きっと悪気はなく、ただ純粋だったのでしょう。そして、疲れていたのでしょう。
恩師関連の、新宿でお逢いした女性もいました。
あなたとの出逢いも強烈でした。摂食障害と強い自殺願望が印象的で。
いまは快復して幸福になっていることを願ってやみません。
立川で逢った美人さんもいたな。
「有名作家になったらメシを奢る」と約束したけれど、無理かもしれません(苦笑)。
池袋の清龍でのんだ人妻さんもいまとなってはいい思い出。
念願のお子さんはできたのかしら。
ともあれ、年下のやさしい旦那さんと幸福にお過ごしのことでしょう。
歌舞伎に誘われて行ったら「おまえ舐めるなよ」と恫喝されたこともありました。
かれは早稲田文学部の先輩で、大学の先生をなさっていらした。
当時は相当に不愉快でしたが、ふしぎといまはわだかまりがありません。
愛娘(まなむすめ)と優秀な奥さまに支えられ、よきパパさんをやっていることでしょう。
おなじく大学の先輩、シナリオ・ライター氏にはご迷惑をおかけした。
いまでもブログは毎日のように拝見していますからね。
お仕事も順調なようで、「前向き」精神を見習いたいところです(ぜったい無理でしょうが)。
このシナリオ・ライター氏の尊敬するマーケティング氏にも悪いことをしました。
強気で意気軒昂な外見に気圧され、あなたのやさしさが見抜けなかったのでしょう。
上に列記した御仁同様、現在の幸福を願ってやまないかたのおひとりです。
おない年で年収500万円の会社員様の記事は即座に削除いたしました。
いま思えば、こちらの配慮が足らなかったと反省しています。
とはいえ、いくら同年齢でもかたいやは老後の人生設計までしている。
どうしても話の合わないところがありました。
まだブログをお書きになっていますか? こちらはもう読んでおりません。
ですから、どうぞ好きなことを、書きたいことを書いてくださいね。

というわけで以上の記事をみなみな削除しました。
この記事を書いて削除理由に思い当たりました。
記事削除はわたしの行為ではない。時間が消した。つまり、時間の仕事でありました。
まだ削除できない記事もございます。
Sクリニックの記事を消すにはまだ時間がかかりそうです。
先日、某スクール講師、Uさんの顔をボコボコに殴る夢を見ました。
夢の中でわたしはUの鼻を中心にこれでもかと殴ったのです。
「貧格ニッポン新記録」(ビートたけし/小学館新書)

→ビートたけし、いやいや「世界の北野」のご著作を拝読する。
わたし、たけしのコントで笑ったことがない。
たけしの司会で感心したこともない。
俳優たけしに感動させられたこともない。
「世界の北野」の映画? ムリムリ♪
バカだから、からっきしわかりません。まあ、たけしより学歴は高いけれど(意味ないね)。

とはいえ、ビートたけしのエッセイはなかなか悪くない。
かつて読んでいた東京スポーツに教えられたことである。
おそらく、口述筆記者(ゴーストライター)に異常なほどの才能があるのでしょう。
このエッセイもほどよく規制のきいた毒舌ぶりが、いい酒のつまみになった。
おい、ビートたけし先生! 
ぜったい貴重なライターなんだから、たまには臨時ボーナスでも払いなさいまし♪

「酒とつまみ 第12号」(酒とつまみ社)

→20年来のファンであるプロレスラーの天龍源一郎がよく言うこと。
「かならずだれかがおまえを見ている。だから、見っともない真似はするな」
この言葉を支えに生きている。
たしかにこの中卒で相撲上がりのプロレスラーの文言は正しかった。
いまのわたしは、むかしどこかで見ていてくれた人に支えられている。

おなじことをミニコミ誌「酒とつまみ」に僭越ながら申し上げたい。
創刊号から、このわたしがずっと見守っていましたよ。
言うまでもなく「酒とつまみ」全バックナンバーを所持。
それもすべて発売直後に書店で買いました。自腹を切っています。

わたしは赤字ミニコミ誌「酒とつまみ」の価値を6年前から見抜いていた。
夢は、いつか一発当てて、この愛読誌にノーギャラで登場することである。

さてさて、ひるがえって、どうしてだれかが見ていないと言えよう。
わたしが赤字ミニコミ誌「酒とつまみ」を長らく愛好していたように、
きっとこのブログ「本の山」もだれかが見てくださっていると思う。
そう信じるしかないではないか。
意外なところで、意外な人物が注目してくれているかもしれない。
断じて見っともないことはできない――。
「もう一杯」(大竹聡/産業編集センター)

→見知らぬ他人の本を読んでいるという気がしなかった。
というのも、著者はわが愛読誌「酒とつまみ」の編集長だからである。
酒飲みのどこがいいか?
センチメンタルなところである。
感傷家のどこがいいのだ?
人より多く感動できるところではないか。
本書には酒を飲む喜びと悲しみが余さず記されている。
作者の自分語りを稚拙だと思うものは、酒の味を知らない。
なぜなら、酒とは実のところ、自分を味わうためのものだからである。

「全東洋街道(上)(下)」(藤原新也/集英社文庫)

→人はみな旅人である。
かくのごときシンプルな事実を書くために、
いままでどれほど多くの旅行記が書かれたことだろうか。
旅はままならぬ。一人旅ならなおさらである。
道中、だれと出逢うかさえ、まるで自由が利かないではないか。
1本、電車やバスを乗り過ごしたことで、旅そのものが変わってしまう。

我われはおのが人生が、そんなたわいのないものだとは思いたくない。
だから、旅行記を読むのかもしれない。
知っているけれども、知りたくないこと、つまり、偶然や運命を知るために。
人生が旅のような偶然の連続だったらたまらないではないか。
しかし、と思ったとき、人は旅の記録を読む。
あげく、これは旅であるからと安心する。

著者は旅行中、ある老いたインド人の眼医者から、こう言われたという。
この眼医者に見えていたものは、果たしてなんであったか。

「運が悪いというのも、それは一つには強運の現れでもあります。安心なさい」(下巻P22)

たとえ人生、いや旅に自由がなくても構わないではないか。
なぜなら旅は不自由を、偶然を味わうためのものなのだから。
だとしたら、人生も――。

「ひろさちやの「無関心」のすすめ」(青春出版社)

→敬愛するひろさちや先生に死期が近づいているのではないかと心配した。
本書の出版は2008年9月。
70歳を超えた先生はどうやら悟りを開かれたように思える。
いままでシガラミから言えなかった自己の宗教的主張を本書では決然と打ち出している。
仏教者・親鸞の思想を正確にたどれば、
このような考えにいたるのは自然なのだが、それなりの立場のある人間には難しい。
わたしの人生観は、以下に長く引用するひろさちや先生のそれとまったくおなじである。
これは難解な思想家と思われている福田恆存先生の人生観、人間観にも通じている。

コラム全文を引用したい。タイトルは「人生はお芝居だ」――。

「どんな自分であっても、それはほとけさまがその人に預けられた自分です。
だから、「もっとこういう自分にならなければ……」とか、
「自分はこうあるべきだ」などと考える必要はさらさらありません。
「わたしは、こういう自分をほとけさまから預かっているんだ」
と胸を張っていればいいんですね。
反感を買うことを承知で言えば、たとえ犯罪に手を染めても、
「俺はほとけさまから頼まれて犯罪をやってるんだ」
というくらいふてぶてしく生きたらいいのです。
もちろん、わたしは犯罪をすすめているわけではありません。

しかし、犯罪をおかす人間はだめなやつで、
おかさないのが立派な人間ということではないんです。
犯罪をおかすのは「縁」なんですね。
どんな人間でも縁によって犯罪者になります。
たとえば、自分の最愛の娘が目の前で乱暴されてるといったとき、
そばに拳銃や刃物があったら、
それで相手を射殺したり、刺殺したくなるかもしれないでしょう。
それがふつうの感覚です。
そうした縁が準備されていれば、だれでも犯罪者になる可能性があるんです。
わたしたちは自分で生き方を選び、
人生を切り拓いていると考えているかもしれませんが、じつはそうではありません。
それぞれが与えられた役回りを演じているだけです。

シナリオライターはほとけさまであり、神さまです。
ほとけさまが描くシナリオは遠大です。
地球の誕生から滅亡まで、すべてを見通したシナリオなんですね。
われわれはそのうちのたかだか八十年間、何かの役を演じるにすぎません。
それがシナリオ全体のテーマの中で、
どんな意味があるのかなどわからないし、わからなくていいんです。
ただ、与えられた役を演じきることです。
割り振られたのが善人役だろうと悪人役だろうと、
犯罪者だろうと殺人者だろうと。
「俺はこんな役は嫌だ。もっと違った役にして欲しい」
などと文句を言う筋合いのものではありません。
どんな役を演じても、最後はお浄土に行くんだと、わたしは思っています。

お浄土では、いい役割を演じた人も悪い役に回った人も、
ほとけさまからねぎらいの声をかけてもらえます。
主役級には「よくやったね、ご苦労さん」くらいのことかもしれませんが、
悪役にはより多くの言葉を尽くしてくださるでしょう。
「おまえにあんなつらい役割を与えて、しんどかっただろうね。
でも、おまえがあの役をやってくれたので、わたしのシナリオは光ったんだよ。
あの悪役ぶりは立派だった。ほんとうによくやってくれたね」

浄土真宗を開いた親鸞上人の有名な言葉にこんなものがあります。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
ほとけさまは悪人にこそ、あたたかい目を向けてくださる。
そう信じましょうよ。そして、自分に与えられた役を好きになって欲しいんです。
暴力団員の役を与えられたら、立派にその役をやりとげればいい。
犯罪者なら、犯罪者を演じきればいいんです。
たとえば、暴力団員であっても、堅気の人間にやさしく親切な人もいます。
堅気の人をいじめ、迷惑をかける暴力団員よりも、
やさしい暴力団員のほうが立派ですよね。その役を演じきることです。
「やくざは悪だから、足を洗いなさい」
なんて言うのは、ほとけさまのシナリオにケチをつけていることにほかなりません。
そんなお節介は、もう願い下げにしましょうよ」(P134)


自分以外に親鸞思想をここまで理解(誤解?)している人が現世にいるとは思わなかった。
まさか、まさか、である。

「ほとけさまの「ひとりを生きる」智慧」(ひろさちや/青春出版社)

→恥ずかしながら、ひろさちや先生のファン。ええ、恥ずかしいんですよ!
しかし、先生の最近のハッチャケぶりはスバラシイと思う。
できたら月に1冊くらい麻薬のようにひろさちやを入れたいくらい。
実際それが可能なくらい先生は多作で、
たぶん1年に10冊近く著作を上梓なさっているのでは?
我われの国は、均一的なモノサシを強制的に押しつけてくるでしょう。
たとえば、金持は貧乏人よりも幸福だ。
たとえば、勝ち組は負け組よりも恵まれている。
たとえば、人間は長生きしたほうが偉い。
たとえば、人間の努力やがんばりほど美しいものはない。
みんな薄々これらのモノサシの嘘に気がついているけれど、うまく反論できない。
どうにもこうにも上記したようなモノサシに縛られてしまう。
ひろさちや先生のエッセイを読むと、こういった呪縛から自由になれる。
だから、いい。とてもよろしい。
願わくば、月に1冊、ブックオフ105円コーナーで先生と出逢いたい。

「アキバ通り魔事件をどう読むか!?」(共著/洋泉社)

→そろそろ世に出なければと思う。
しかし、まったく最近の事情を把握していない。
今現在活躍している多数の論者の多様な意見を一気に読める本書は有益であった。
いつのまにか我輩よりも年下の論客(笑)がわんさか登場していたのね。
それに宮台真司と大塚英志が大学教授になっていることもこの本で知った。
おいらは言うなれば浦島太郎だから。
9年前まではこの手の情報に敏感だったけれど、
ある事件をきっかけにどうでもよくなった。

すべての論客先生のご発言を読んで思ったのは、なにをそんなに熱くなっているのか。
自分がコメントすることで社会がよくなるとでも思っているのだろうか。
だとしたら、自身があわれなピエロだと早く気がついたほうがよろしい。
いちばん共感したのは1才年上の赤木智弘氏の以下の文章。

「また、私は彼の犯罪を利用して、こうして原稿を書き、
幾ばくかの原稿料を得ている。
私もまた彼の犯行によって幸運を得た一人であることを否定はしない」(P24)


この箇所がよかった。強烈な同世代意識を赤木智弘氏に感じる。
我われの世代の感覚を見事に言い表していると感心した。
ここまで書いてしまえるほど、熱いものがなくなってしまったのがうちらの世代よ。
こんなムックで偉そうなことを言っている人間も、
しょせん売名、権力獲得、ひいては収入増加が目的じゃない。
熱く語っちゃって、バッカみたい m9(^Д^)プギャー

わたしの依拠する親鸞思想から秋葉原事件を語るならば――。
無名人のコメントなんて、みんな興味ないよね、ごめんなさいであります m(__)m
加藤くんがあれだけの大量殺人をできたのは前世からの凄まじい宿業のため。
被害者はほんとうに可哀想だけれども、これまた前世からの因縁ゆえ。
だれがなにを言っていても秋葉原通り魔事件は起こったであろうし、
だれがどんな発言をしたところで死んだものは生き返らない。
どれほど偉い先生がいかほどにすばらしい論説を発表しても、
今後起こるであろう凶悪犯罪を抑止することは断じてできまい。

まあ、ぶっちゃけ、みんな、こういうの、退屈しのぎだって、わかってるんでしょ〜♪
書き手も読み手もさ〜。みんな楽しんだんだから加藤くんに感謝しておこうね。敬礼!

「終りの一日」(山田太一/「月刊ドラマ」83年6月号/映人社)絶版 *再読

→テレビドラマシナリオ。昭和50年放送作品。東芝日曜劇場。
例によって詳しい解説は3年前に書いた記事で代用↓。

http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-983.html

ふうむ、いま読み返しても、なかなかいいことを書いているじゃないか(自画自賛ね)。
こんな発言をしたら全国数百万人はいる山田太一ファンに叱られそうだけれど、
わたしはもしかしたら山田太一研究の第一人者ではなかろうか(笑)。
厄介なのは研究者ではなく実作者を志望しているところ。
とても浅学非才のこの身では山田太一先生にはなれないし、
よしんばなれたとしてもこの国に山田太一はふたりもいらないのだが。

名作シナリオ「終りの一日」から学んだ(盗んだ)テクニックを整理したい。
無駄な会話は、もしかしたらテクニックなのではないか。
退職した(させられた)おなご先生が下宿へ戻ってくる。
下宿先の主人が現われ、かつての教え子の訪問を伝える。
ところが、見てみるとなかなか肝心の内容に入らない。
一見すると無駄とも思える会話を長々とやってから本題(=客訪問)に入る。
この無駄話の妙味はこのたび理解したが、果たしてどうすればこの味を自分で作れるのか。

盗み聞きは古典的テクニックだが、反対もまたあるのである。
先生と元教え子が話している。
先生がぱっと障子を開け、盗み聞きしている主人に嫌味を言う。
このシーンの小気味のよさは格別である。
シーン尻で場面転換のきっかけにもなっているから、作者の意図が強い。
あるいは天才のことだから、氏は無意識的にこのようなシーンを書けるのかもしれない。
凡才としては、テクニックは逆も用いることができるのかと勉強になった。

112ページの気持の入った長ゼリフは、まさに絶唱と言うべきレベル。
思わず声に出して読まずにはいられないのだから。
もし自分が役者だったら、いくら長かろうが、このセリフはぜったい言いたいと思う。
役者をそういう気持にさせる台本を書ける作家がいまどのくらいいるのか。
これはテクニックではない。山田太一さんが持って生まれた才能というほかない。
とても余人が真似できるものではないと断言する。
「秘密」(山田太一/「月刊ドラマ」83年6月号/映人社)絶版 *再読

→テレビドラマシナリオ。昭和50年放送作品。東芝日曜劇場。
再読のため詳しい解説は前回ので済ます↓(3年前か……)。

http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-982.html
(と、リンクをはってもほとんどの人がリンク先をお読みにならないことを
知らないわけではないけれど、まあ、お約束ゆえ勘弁してくださいませ)

38歳専業主婦の弘子と、18歳のもてない&しがない工員の正平。
正平が弘子に(ナンパめいた)悪戯電話をかけたのが知り合ったご縁。
正平はもうすぐ札幌を離れ寒村へ帰らなければならない。
札幌ではなにもいい思い出がなかった。
弘子が誘う。1回だけデートしない? 思いっきり楽しんじゃわない?
1回きりのデートに別れのときが来る。「さようなら」「さようなら」と挨拶を交わす両人。
「待って」と弘子が言う。「来て。来て」と正平を暗いビルの路地へひっぱる。

○路地
弘子「(正平をビルの壁面に押しつけ、その胸に顔を押しつけて行く)」
正平「――(息をあらげている)」
弘子「こうしたかったの。こうしてあげたかったのに、勇気がなかったの」
正平「奥さん」
接吻する二人。
弘子「(唇をはなし)さようなら。元気でね(パッと走って地下鉄入口へ走って行く)」
正平「(ゆっくりと路地から現われて、もう弘子はいない地下鉄入口を見つめる)」(P98)


何回読んでもいいシーンだよな。泣けて泣けて仕方がない。
このまえに弘子と正平が、ふざけて雪を投げ合うところもいい。
山田太一先生が、こういったシーンを書きたかったことがよくわかる。
燃えるような思いで、このシーンを願っていたのがわかる。
シナリオ創作なんて難しいことはない。見たいシーンを書けばいいんだ。
見たいシーンが可能な限り効果的に伝わるよう他のシーンを仕組めばいいんだ。

ここで大きな問題が生じる。
もし書き手に見たいシーンがなかったら、シナリオは書けないのだろうか。
こんなシーンがあったらいいなという熱い思いがなかったとしたら――。
どうしたらば書きたいシーンが思い浮かぶか。
おそらくこれがシナリオ作法の根幹ではないだろうか。どんなシーンを見たいか。

(追記)本作品で脚本家は回想をうまく使っている。
昼にちょっとした出来事がある(悪戯電話青年との邂逅)。これを途中で夜に飛ばす。
夜の日常シーンに、昼の非日常シーンの回想を混ぜ込むのである。
こうすればたしかに日常と非日常、昼と夜の対照がうまくつく。
時間的にあまり離れていなければ、視聴者も回想シーンについてきてくれるのか。
回想の使用法のとてもいい勉強になった。
山田太一さんがすごいのは、内容のみならずテクニックも一流だからである。