※裁判沙汰になった仏教入門小説のひとつ。訴えられたら消します。
1・釈迦仏教・小乗仏教「なぜ偉いのか?」
まずこの本が書かれるにいたった経緯を説明します。
私は恩師で敬愛する町中孝蔵様から仏教のわかりやすい小説をテキスト形式で書けないかとご依頼いただきました。たしかに仏教は専門用語も多く、ジャンルも幅広く分かれており、入門書を見ても簡単にわかるというものではありません。先生はご多忙でテキストを書いている暇はありません。
ですが、私は町中先生から仏教を教わり、師を三角形の頂点にするなら、その三角形の底辺くらいは学びました。ひとえに町中先生のわかりやすい対面授業のおかげです。個人レッスンと言ってもいいかもしれません。私は町中先生から仏道の教えをもっとも多く聞いた弟子でしょう。どうにかして先生の教える慈悲あふれる本当の仏教をみなさまにもお伝えできないか。
そんな折、大恩ある師からテキストの執筆のご依頼をいただいたのです。断れるわけがありません。思えば、私が先生と会ったのは三年まえ食い詰めていたときでした。そのとき、師は八王子に来ないかと言われ、豪華なお食事をご馳走してくれ、信じられないほどのお小遣いまでいただきました。あたたかいのです。いままでに会ったことのない本物の人だと思いました。町中先生は独学ながら、仏教、文学、経済学、生物学、物理学、確率統計学すべてマスターしておられ、とりわけ私は師の仏道論に強く惹かれ、何度も教えを乞いました。
これから書くのは、町中先生の一番弟子を自称する私の書く一冊で仏教がわかる本です。「わかる」というのは正確ではありません。いまはスマホの時代ですから、人名や知識は検索すれば一発で出てきます。町中先生は「わかる」ことに仏道の意味を置いていません。なぜなら仏教とは「生きる」ことだからです。
仏教を「生きる」とはどういうことか。
それをこれからわかりやすく説明します。私は先生の一番弟子ですが、先生の教えを間違って解釈しているところもあるかもしれません。後で書きますが、それでいいのです。
これから仏教を「生きる」ことを選んだ、ある小さなセミナーの受講者たちのディスカッションの記録を書きます。一応、私は講師のような役割をしましたが参加者のひとりにすぎません。
登場するのは以下の人物です。
町中孝蔵師(五十九歳。私の師匠で実業家。仏教学のみならず理系にも通じた学者)。
T(四十三歳。師の自称一番弟子。本書の筆者。元ゴロツキの土屋顕史のこと)。
正治(七十一歳。隠居(いんきょ)老人)
翔太(二十九歳。サラリーマン)
加奈(十七歳。女子高生)
ほかにも出てきますが、ややこしくなるといけませんので、まずはこのくらいにします。
年明けの第一回目の会合の始まりです。場所は八王子の公民館の会議室です。
翔太「どうして町中先生は来ていないんですか? 僕は一部で有名だが、めったに表に出てこないという町中先生の話を聞きたかったのに」
正治「(怒って)そうだ。これは詐欺だ」
加奈「私は親からお小遣いをもらってここに来ているからいいけど」
T「これには深い意味があるのです。仏教、仏道の根本にかかわる問題がここにはあります」
翔太「あの人(正治)の言うように詐欺だ。そうに決まっている」
T「どうしてそう言い切れますか?」
翔太「僕たちは町中先生のお話をうかがいに来たんです」
T「私の話では不満ですか?」
正治「決まっているだろう」
T「私は町中先生の一番弟子ですよ」
正治「どういうことだ?」
T「仏教の教えはほとんどすべてが師匠からの聞き伝えです。弟子が師匠の釈迦(しゃか)から聞いた話が仏説であり、仏法であり、仏道であり、仏教です。釈迦が書き残したものはひとつもありません。みんな如是我聞(にょぜがもん)なのです。是(かく)の如(ごと)く我(われ)聞(き)けり。どうして私の言葉が町中先生の教えではないというのですか?」
加奈「あなた、おもしろい。なに?」
T「だから、町中先生の一番弟子です」
加奈「仕事は?」
T「いいじゃないですか。そんなことは」
加奈「(からかうように)無職でしょう?」
T「(思わず声を荒らげ)だから、どうだっていうんだ。たまに派遣で働いている。そんなことを言えば釈迦だって無職だろう?」
加奈「かわいい。怒っている」
T「(無視して)釈迦はおおむかしのインドの王子で、ああ、細かいことはスマホで調べてください。自分で調べることが勉強です。釈迦は三十五歳のとき、菩提樹(ぼだいじゅ)の下で悟ったとされる。悟った内容は自分の無限の過去世(前世)の存在と四諦八(したいはっ)正道(しょうどう)とされています」
加奈「四諦八(したいはっ)正道(しょうどう)、なにそれ?」
T「知らなくていいです。僕も覚えていません。スマホで見ればすぐに出てきます。覚える必要はありません。これがうちの仏道セミナーの特徴です。どうでもいいことは捨てる。みなさんお坊さんになりたいわけではないでしょう?」
正治「(意地悪そうに)本当はわからないんじゃないの?」
T「(怒って)わかりますよ。四諦(したい)というのは、四つの真実という意味で……ああ、めんどうくさい。苦しみがあるでしょう? みなさま、苦しみがあるでしょう?」
一同、うなずく。
T「苦しみには原因があります。その原因は煩悩(ぼんのう)(欲望)だ。煩悩を消せば苦しみは消える。わかりましたか?」
一同、うなずく。
T「で、苦しみを消すには八(はっ)正道(しょうどう)をすればいい。八つの正しい行動です。八正道? 私も覚えていませんよ。スマホに書いてあります。とにかく正しいことをしなさいってこと。怒るなとか、嘘をつくなとか、酒を飲むなとか、とにかく正しいことをしろって。みなさんそんなことはできますか?」
一同、まごつく。
T「これは恩師である慈悲あふれる町中先生の受け売りなんですが、八正道なんか捨てろ」
翔太「捨てろ?」
T「そう。どうせ、できっこないんだから八正道なんて捨ててしまえ」
正治「しかし、釈迦の言ったことだろう」
T「さすがご年配の方です。いいことに気づきました」
正治「当たり前のこと言っただけだ」
T「どうして釈迦の言ったことは正しいのでしょう?」
正治「バカ言っちゃいかんよ。釈迦は仏教の開祖だろう?」
T「釈迦はバラモン教徒で、仏教教団を開くつもりはありませんでした」
正治「でも、釈迦は偉いだろう? なあ、そこのお兄ちゃん(翔太)もお姉ちゃんも(加奈)もそう思うだろう?」
翔太「それはそう思います」
加奈「釈迦は偉くないってことはどういうこと? 私、いま学校に行っていなくて、先生とかそういうタイプの人、大嫌いだけれど、それでいいの?」
T「嬉しい」
加奈「どういうこと?」
T「さすがこの会合は、講師がわが恩師の町中先生だけのことはあって、不思議なご縁に恵まれている。導かれるように優秀な人ばかり集まっている。あなたも(正治)、あなたも(加奈)も優秀です」
翔太「――」
T「果たして、釈迦は偉いのか?」
翔太「偉いでしょう?」
T「どうして?」
翔太「だって、釈迦が偉くなかったら、仏教の存在根拠がなくなってしまう」
T「そうでしょうか?」
翔太「あなた、無職なんでしょう」
T「(慌てて)そんなこといいじゃないですか」
翔太「はっきりしてください。どっちなんですか? なにか定職に就いていますか?」
T「……無職です」
翔太「無職がなにを偉そうに。あなた、税金をいくら払っています? みんなが汗水流して働いているから、あなたのような無職でも電車に乗れる、医者にかかれる、いろいろなサービスを受けられる」
加奈「でも、釈迦も無職だったって、さっき聞いたけど」
翔太「だから、どうした(いきなり怒鳴る)? 釈迦は釈迦だから偉いんだ。私はどこの会社か知っていますか? SNSなんかでばらされたらいやですから言いませんが、一流会社ですよ。超がつくほどの一流。年収いくらか知っていますか? 税金をいくら払っているか? その一流会社の出世頭で、いちばん早く課長になった。大学は早稲田だ。あなた、大学、どこ?」
T「……家庭の事情で」
翔太「だから、常識がわからないんだ。大学教授は偉い。医者は偉い。社長は偉い。会長は偉い。総理大臣は偉い。天皇陛下は偉い。偉い人は偉いから偉い」
T「その通りです」
翔太「(拍子抜けして)え?」
T「おっしゃるように偉いから偉い」
翔太「偉いから偉い?」
T「釈迦は偉いから偉い」
加奈「偉いから偉いってなんかおかしい。やはり理由を知りたい。釈迦は、どうして偉いの?」
T「いえ、そういう問題ではなくて、釈迦は偉いから偉いんです」
加奈「繰り返しじゃない。どういう意味?」
T「別に釈迦は偉くない」
加奈「でも、釈迦は偉いんでしょう?」
T「偉いってなんだろう? 早稲田の優秀な翔太さん」
翔太「意地の悪い聞き方だな」
T「うすうす気づいているんでしょう?」
翔太「そりゃあ、上司にむかつくときだってありますよ。でも、上司は社長から認められているし、社長は偉いし」
T「偉いってどういうことでしょう?」
翔太「社長は金を持っているし、カリスマ性があるし、組織内でみんなから支持されている」
T「それって本当に偉いのですか?」
翔太「――」
T「一流会社の翔太さん、偉いってなんですか?」
翔太「おれをバカにしているのか?」
T「いいえ」
翔太「おれを舐めるなよ」
T「いいえ」
翔太「こんなインチキセミナー、ぶっ潰してやる」
翔太はテーブルをバンバン叩くと、奇声を上げながら会場を出ていく。
T「私も何度も師匠の町中先生に疑問を訴えました。先生は仏教を知らないと、あろうことか師を批判したことさえありました。しかし、わが師、町中孝蔵先生は、いつも慈悲あふれた微笑をたたえ、学者らしい冷静さと、敏腕実業家らしい志のある目で私を見つめていました。それが実は見守られていたのだと気づいたのは最近のことです」
加奈「町中先生に会いたい」
T「来週の会合にはいらっしゃいます」
加奈「うちの学校の先生なんか、ぶっ飛ばしちゃうような先生なんだろうな」
正治「私はきみのことが気に食わん。なにが一番弟子だ。先ほど出て行った翔太くんの言う通り。釈迦は偉いから偉い。私は釈迦の説明を聞きに来たのに、学識高いと一部で有名な町中先生が出てこないばかりか、無職の中年が偉そうなことをしゃべっている」
T「しかし、わたしは町中先生の一番弟子ですよ」
正治「だから、なんだっていうんだ。おまえ、中年ニートってやつか」
T「(かわして)さすがはご年配の方、すばらしいご意見です。釈迦が死んだあと部派仏教、上座部仏教、小乗仏教などと、弟子集団は変化していきますが、詳しくはスマホでご検索してください。まあ、意味は釈迦の弟子くらいです。細かい名前は覚えなくて結構です。もう残りふたりしかいませんが、質問です。釈迦の弟子たちは偉いのでしょうか?」
正治「そりゃあ、まあ、その偉いのだろう」
T「どうして?」
加奈「アハハ、釈迦の弟子だからってだけじゃん」
正治「おまえみたいな小娘になにがわかる?」
加奈「学校で先生お気に入りの優等生が威張っているようなものでしょう?」
正治「おまえ、不登校なんだろう」
加奈「だから、なに?」
正治「クズだな」
加奈「どうして?」
正治「世間の仕組みを知らない。世間は甘くない。おまえのような女の子をたくさん見てきた。彼氏がいるんだろう?」
加奈「(あせって)そんなこと、どうでもいいじゃない」
正治「すぐにお腹が大きくなる。おまえみたいなバカ面の子が再生産されるだろうよ」
加奈「この人、失礼じゃない? 退場させて」
T「いいご意見です」
加奈「どっちが?」
T「どちらもです」
正治「俺のほうが正しい」
加奈「私、なんか間違ったことを言った?」
T「釈迦は性交を禁止しています。女子高生のためにわかりやすく言い直すとセックスを禁じています。これでは子どもは生まれない。人類は滅亡します。こんな釈迦の教えが 果たして正しいのでしょうか?」
加奈「ほうら」
T「正治さんは、いまのお暮しは?」
正治「年金だが、なにが悪いか? 若いころ汗水流して働いた当然の権利だ」
T「払っているのは?」
正治「若者だ。当然だ。若者は先人たる老人を尊ぶべきだ」
T「それもまた正しい。釈迦が没したのちの弟子集団は古株ほど偉いという制度になりました。さて、再度、問います。釈迦はなぜ偉いのでしょう?」
加奈「釈迦、偉くない」
正治「釈迦は偉いから偉い」
T「どちらも正しいのです。釈迦は偉くないが、釈迦を偉いことにしないと無職の弟子たちがメシを食えません。このため、釈迦は偉いのです」
加奈「それってズルじゃん」
T「若い子はいい。はい正解、その通り。ズルです。でも、知っていますか?」
加奈「なにを?」
T「釈迦は一国の王子で、イケメン。若いころから贅沢三昧。加奈さんのように若い子から熟女まで大勢の女性と交際しました。女性の扱いはホストの比ではなかったでしょう。すべてが高貴。家柄がいいから当たり前です。財産も腐るほどあります。どうですか?」
加奈「結婚したい。釈迦、偉いのかも」
正治「さっきとは態度が大違いだな」
加奈「釈迦を偉いと思わない?」
正治「俺は苦労をしたんだ」
加奈「どんな苦労?」
正治「おまえなんかにわかるか」
T「みなさんに宿題を出します。テーマは『釈迦は偉いのか? 偉いとしたらその根拠はなにか?』。わが師、町中先生のご指導により、宿題の回答は必須ではありません。サボってくれてぜんぜん構いません。宿題提出とか課すと、出席者はがぜん減る。そういうざっくばらんなところが、私が長年町中先生に私淑しているところです」
そのとき、なにこのカバンと加奈が声を上げる。一流会社のサラリーマン、翔太の忘れものであった。なかを開けようとする加奈を正治がとめる。Tがさっと現われ、翔太のカバンを取り上げ、中身を確認する。ニヤッとしたTは言う。
T「また次回もご参会よろしくお願いします。お待ちしています。
2・大乗仏教(1)「正しいとはなにか?」
春になった。
Tは恩人の町中孝蔵師のことを思い返す。町中先生はとても繊細なところと豪快なところが矛盾そのままに、ひとつの宝石のように同居した輝ける存在であった。ときには仏さまのようであったし、鬼のように厳しいときもあった。そんな折、師から十界互(じっかいご)具(ぐ)という仏教用語を教わったものである。意味は、人間は仏ではありながら鬼でもある。人間は鬼でありながら仏でもある。
「どちらが重要だと思うか?」
師の問いに私は答えられなかった。
「人間は鬼でありながら仏である」
このひと言が腹の底からわかれば、仏教はわかったと思ってもいい。わが師、町中孝蔵先生はそうおっしゃった。
法華経(ほけきょう)、最澄(さいちょう)、中国天台宗、智顗(ちぎ)、湛(たん)然(ねん)、一念(いちねん)三千(さんぜん)、そんな専門用語はどうでもいいのだ。仏教を「生きる」ということはそういうことではない。たとえば「人間は鬼でありながら仏である」ということをどれだけ身体で理解するかだ。そんな仏道塾を開きたいと常々先生は口にしておられた。自分は果たしてそんな講義ができるだろうか?
八王子のとある公民館の会議室のドアが開き、女子高生の加奈がやって来た。金髪のこぎたない若者向けファッションをした男をひとり連れている。加奈は走って来たのか息が切れている。
若い男は純介(二十歳・大学生)。
T「どうしたの? まだ時間が早いじゃない? この子(純介)だれ?」
加奈「友だち」
T「彼氏?」
加奈「だから、友だち」
純介がトイレに行くと、加奈はTに向かって手を出す。
加奈「ひとり、連れて来たでしょう?」
T「なんのこと?」
Tはしらばっくれようと思った。
加奈「約束したでしょう?」
T「だから、なにを?」
加奈「ひとり連れてきたらボーナスくれるって」
加奈が前回と比べて化粧の影響か、かわいくなっているのには参った。いや、化粧ではない。よく見るとわかる。この子は地が美しいのである。不登校らしいが、このかわいさならいじめられても不思議はない。Tは加奈の美に負けたような思いがして五千円札を手渡した。意外とあったかい手をしていた。
ドアが開き、前回の会合を途中退室した一流会社のサラリーマンの翔太が入ってくる。
翔太は加奈と目を合わせる。加奈は、あっちとTを指さす。
加奈「カバン」
Tは前回、翔太が忘れたというカバンを差し出す。
翔太「中身を見なかったでしょうね」
加奈「ああっ」
加奈はカバンを自分から奪い取ったTが中身を見たことを知っているのである。
T「中身なんて見るはずないじゃないですか」
翔太「どこまで信じられるか。今日だって町中先生は来ていない」
T「今日はいらっしゃいます」
加奈「翔太さん、あのね」
Tは加奈に五本指を差し出す。五千円円やったぞという意味である。
翔太「加奈さん、なに?」
加奈「なんでもない」
翔太はなぜかTをにらみつけ、大きな音を立ててドアを閉め、部屋から出て行った。
T「なんかふたり、仲良さそうだな」
加奈「前回、会合のまえにラインを交換したの」
T「いつの間に?」
加奈「おじさんは、なんにも知らない」
T「バカにすんな」
加奈「それより中になにが入っていたの?」
T「なんのこと?」
加奈「カバンの中」
T「知らない。見ていないから」
加奈「嘘つき」
T「本当だよ」
加奈「この中年ニートが」
T「不登校児に言われたくない」
加奈「ニートのバーカ」
T「落ちこぼれの不登校児」
窓外の沈んでいく夕日がふたりを照らす。
加奈「ふたりとも落ちこぼれだね」
加奈とTは、ふたり、なんだかおかしくなって笑ってしまう。
T「町中先生の好きな良寛も落ちこぼれだった」
加奈「良寛? だれそれ?」
T「スマホで調べろ。釈迦も落ちこぼれだし、龍樹(りゅうじゅ)は色きちがいだし、親鸞も日蓮も生涯
浮かばれなかった」
加奈「みんな、落ちこぼれ」
T「そう」
トイレに行っていた純介が戻ってきて、続いて隠居老人の正治が入っている。
第二回目の会合が始まる。直後に用務員の服装をした壮年の男性が入ってきて床の清掃を始める。
T「加奈さんは、ここに入ってくるとき急いでいましたね。どうしたんですか?」
加奈「さっき、そこで叔母さんに会って。その人、創価学会で。そんな変な仏教の会合に 行くなって」
正治「八王子で創価学会の話はやめろ。公(おおやけ)の場でするもんじゃない」
T「創価学会はお嫌いですか?」
正治「あんなものは仏教でもなんでもない」
T「いえ、創価学会も仏教です。しかし、この話をすると揉(も)めますし、おいおい創価学会も仏教であるという意味もわかってくるでしょうから、この話はいったんやめましょう。みなさん、前回の宿題の答えは出ましたか。釈迦はなぜ偉いのか? その理由はなにか?」
加奈「(笑いながら)イケメンだったから」
T「正解です(苦笑)」
正治「バカなことを言うな。釈迦は仏教の開祖だから偉いんだ」
加奈「どうして仏教の開祖だと偉いの?」
正治「どの社会でも先輩は偉いんだよ。そうだろう?」
T「そうです。正解です」
純介「ちょっといいでしょうか」
T「なんですか?」
純介「僕も答えていいのかなって」
T「どうぞお答えください」
純介「結局、多数決の問題じゃないかなって。釈迦は大勢の弟子がいた。テレビの視聴率みたいなもので、もっと言えば、数字の取れている営業マンは偉いっていうか」
正治は純介の若者風ファッションと、軽口をたたくような話し方が気に入らない。
正治「バカを言うな。お釈迦さまを視聴率や営業マンと一緒にしてもらっては困る。お釈迦さまはお釈迦さまだから偉いんだ」
純介「それは論理が通っていません」
正治「天皇陛下だって、そうだろう?」
純介「僕は天皇を偉いと思っていません」
正治「なんだ、このバカは」
純介「あたまが固い人だな。教祖だって、弟子がたくさんいたほうがお金がいっぱい入ってくるでしょう?」
正治「釈迦はな、金なんかどうでもよかったんだ。そうだ。釈迦は欲がなかったから偉いんだ。わかったか。バカが」
純介「どうして欲がないと偉いんですか?」
正治「おまえ、創価学会か?」
純介「違います」
正治「なんで、こんなところにのこのこやって来た。どうせこのお姉ちゃんが好きなんだろう。そのくらいわかる」
純介「(顔を赤くして)バカにしないでください」
加奈「もうやめて」
T「正解です。大正解」
正治「どっちがだ?」
T「どっちも正解です。でも、ちょっと純介さんのほうが論理的かな」
正治「釈迦は高視聴率のテレビ番組や、成績のいい営業マンとおなじと言うのか?」
T「そうとも言えます」
加奈「おじいさん」
正治「なんだ?」
加奈「純介くん東大よ。東大生。私の家庭教師」
正治「(一瞬ひるみ)え? そうならそうと最初から言ってくれれば」
T「どうして東大は偉いんですか?」
正治「高卒には、わからないよ」
T「問題を変えてみましょう。私は果たして偉いのでしょうか?」
みんな沈黙してしまう。
T「私は自称ですが町中先生の一番弟子です。最初に町中先生の弟子になったのが私です」
正治「それより町中先生はどうした? 私たちは町中先生の話を聞きに来たんだ」
加奈「私、町中先生にゆがんだ根性をたたきなおしてもらえって言われて来ている。父の知り合いの知り合いで、すごい人がいるって」
純介「僕はその、どっちかっていうと加奈さんが目的で」
正治「ほうら、思った通りだ」
T「町中孝蔵先生なら、さっきからみんなと一緒にいます」
Tは部屋の隅にいる用務員の服を着た壮年の男性を紹介する。
T「町中先生です」
町中師は一礼する。
T「みなさん、拍手をお願いします」
一同が拍手するその間に、町中師はみんなの仲間に加わる。まったく偉ぶったところがなく、温和な表情はその場の荒れた雰囲気を収めるのに十分である。
T「今日のテーマは大乗仏教ですが、みなさまのおかげでわかりやすい説明ができます。まず私は偉いのか? 私は町中先生の一番弟子ですから、一応はみなさまの先輩です。先輩は偉いのか?」
正治「偉い」
純介「偉い人はいるだろうけれど、一概に先輩だから偉いとは言えないと思う」
正治「なんだと?」
純介「おじいさんのことではありません」
正治「ジジイ呼ばわりするな。ネームプレートがあるだろう」
T「先輩は偉いのか? 釈迦が死んで五百年も経つと、そう思う仏教徒が現われます。これが大乗(だいじょう)仏教で、それまでの仏教を小乗(しょうじょう)仏教とバカにします。大きな声では、言えませんが、大乗仏教も結局は『先輩が偉い』のような形になっていくのですが、純介さん」
純介「はい?」
T「あなたはさっき、どうして釈迦は欲がないから偉いのか、と言いました。これは非常に目のつけどころがいい」
純介「そんな」
T「欲望があってもいいじゃないか。細かいルールに縛られて悶々としているよりも、せっかく生まれてきたのだから楽しんだほうがいい」
加奈「わかる」
T「それも大乗仏教の特徴です」
正治「それでは釈迦の教えとは異なるじゃないか」
T「いまから言うことは覚えなくていいですよ。うちはテストなんてしません。用語はスマホで調べればすぐに出てきます。正治さんの疑問は、大乗(だいじょう)非仏説(ひぶっせつ)といわれるものです。むかしから多くの仏教学者があたまを悩ませてきた問題で、いろいろな答えがあります。それぞれ正しいと思います。みなさまにもそれぞれの答えを出してほしいと思います。大乗(だいじょう)非仏説(ひぶっせつ)は、大乗仏教は釈迦が説いたものではない。仏教ではない。これに対してどう思いますか。右から順にお願いします」
正治「そう考えると、大乗仏教は仏教ではないと言わざるをえないな」
純介「僕は仏教には興味がないけれど」
正治「女の子にしか興味がないんだろう」
純介「からかわないでくださいよ。そっちみたいなおじいさんじゃないんだから」
正治「ジジイ呼ばわりはやめろ」
純介「高校は野球部に入ったんですけど、先輩がすごい威張っているのがいやで、すぐにやめちゃいました」
正治「いまの若者は根性がない」
加奈「この人、東大よ」
正治「だから、なんだ?」
加奈「大学どこ?」
正治「不登校のやつに言いたくない」
純介「結局そういうことで、一応東大です、なんて言うと偉そうなやつに思われるのが嫌で、でも、なんか偉そうにしてんのかなって。嫌味に聞こえるかもしれないけれど、東大なんてぜんぜん偉いと思わないし。釈迦だって自分が偉いなんて思っていなかっただろうし、弟子から慕われたいと思っていたのかどうか。弟子だって、五百年もまえに死んだ人のことをだれが覚えているかって」
T「加奈さんは大乗仏教を仏教だと思いますか?」
加奈「よくわからないけれど、楽しければ、それでいいんじゃないかなって」
T「みなさん、正解です。私の意見を言えば、加奈さんにもっとも近いかな。マジメじゃないみたいに聞こえるかもしれないけれど、楽しければいいっていうか。不謹慎な言い方になりますね」
加奈「嬉しい」
T「どうして?」
加奈「だって、Tさんは町中先生のお弟子さんなんでしょう。その人から認められたようで」
T「でも、私が正しいわけではないですよ」
加奈「そうなの?」
T「まえから言っています。みんなそれぞれ正しいと」
加奈「いったいなにが本当に正しいの?」
T「正解も不正解もない。東大も高卒もない。一遊も三流もない。男性も女性もない。先輩も後輩もない。優等生も不登校もない。勝ちも負けもない。損も得もない。善も悪もない。ものごとに実体はない。こういうことを考えた人が大乗仏教にいて、これは『空(くう)』と言われています。もっとも有名なお経である『般若心経(はんにゃしんぎょう)』に説かれています。でも、そこらへんのおっさんが『空(くう)』と言っても意味がない。だから、釈迦は『空(くう)』を説いたということにしてしまった。もちろん、後出しジャンケンみたいな形で、弟子が聞いたという釈迦の言葉から『空(くう)』を連想させる文句はあります」
加奈「ズルい」
T「とも言える。とはいえ、私がこうして話しているのも、町中先生という権威がここにいらっしゃるから、ある程度の真実性があるわけです」
Tは時計を見る。
T「とこんな感じで、今日は大乗仏教と『空(くう)』を説明してみましたが、どうですか町中先生?」
町中師「――」
T「こうやって町中先生はなにもおっしゃらずに微笑まれておられる。これを仏教用語で、維摩(ゆいま)の、あれはなんだっけな」
場内に笑いが起こるなか、Tはスマホを取り出し検索する。
T「『維摩(ゆいま)の一黙(いちもく)』と言います。笑わないでください。いまはスマホがあるから、仏教用語を覚える必要はありません。覚えれば覚えるほど、知れば知るほどわからなくなります。今日、私が話したことなんて忘れてくださって結構です。それよりご覧ください。この町中先生の豊かな慈悲あふれる微笑。私はこの笑顔に参ったんですね。おそらく釈迦の弟子もそうだったはずです。みなさまも笑顔になってください。宿題です。今日、家に帰るまで、だれでもいい。駅員さんでも、コンビニの店員さんでもいい。微笑みかけてください。それが大乗仏教の慈悲です。和顔(わげん)愛語(あいご)とか、そんな仏教用語はどうでもよくて、重要なのはあなたの微笑です。心からの喜びあふれる微笑です。もうひとつ難しい宿題を出しておきましょう。レポートなんか出す必要ありません。読むのがめんどうですから。ここ、笑うところですよ。そうその笑顔。宿題は正しいとはなにか? 前回の宿題は偉いとはなにか、でしたね。今度は正しいです。釈迦はなぜ正しいのか。大乗仏教といってもいろいろあります。どれが正しいのか? なぜ正しいのか? 正しいとはなにか?」
加奈のスマホが鳴り、慌てて音を消す。Tは加奈をにらむが、すぐ笑顔に戻る。
T「それでは町中先生が退場します。みなさん、拍手をお願いします」
町中師は拍手のなか退室する。ほかの人もそれぞれ専用封筒に入れた寄付金を払い、出て行く。Tは加奈を呼びとめる。加奈は純介に「外で待っていて」と言い、会議室でTに向き合う。
T「あの一流会社員」
加奈「翔太さん」
T「そうだ、翔太。その翔太とどういう関係なんだ?」
加奈「別に。たまに一緒にご飯を食べたり、遊びに行ったり。ここのことも話しているよ」
T「それだけか?」
加奈「おじさん、嫉妬しているの?」
T「心配しているんだ」
加奈「それより、聞いていい?」
T「うん?」
加奈「純介くんからいくら取ったの」
T「どうでもいいだろう?」
加奈「いくら取ったの?」
T「一万円だよ(吐き捨てる)」
加奈「五千円も中抜きしたの?」
T「仏教なんて、そんなもんだよ」
加奈「町中先生は知っているの?」
T「チクる気か?」
加奈「言っちゃおうかな」
T「それは(困る)」
加奈「これからもひとり連れてきたらボーナス五千円。いい?」
T「ああ」
加奈「話、わかる」
T「交換条件。おれのことを先生って言ってくれないか? おれ、あのジイさん、嫌いなんだよ。正治とかいう隠居老人。加奈さんが先生と呼んでくれたら、見る目も変わるだろうし」
加奈「ボーナスは?」
T「もう十分だろう」
加奈「考えておく」
T「宿題なんてどうでもいいから、そっちを考えてくれよ」
加奈は意地の悪い笑みを浮かべながら出て行った。
3・大乗仏教(2)「善悪とはなにか?」
夏になった。
Tは思う。自分に仏教を教える資格などあるのだろうか。僧侶でもない。それどころか大学すら出ていない。いままでずっと職を転々としてきて、長いニート期間もある。親からはほぼ見捨てられた状態だ。恋人どころか友人もいない。妻子なんて夢もまた夢である。金がなかった。世間を恨んでいた時期も長い。大量殺人が起こると目を輝かせてテレビに見入ったものである。
そんなとき町中先生に奇妙なご縁で会ったのである。「きみはダメなわけじゃない」と先生は言ってくれた。いままでそんなことを言ってくれる人はいなかった。いまでもはじめて会ったときの先生のあたたかい微笑を覚えている。あれは慈悲そのものであった。いったいこのあたたかさはなんだろう。それが仏教であった。
町中孝蔵師に出会うまでは仏道に興味などさらさらなかった。忙しい実業家でもある八王子の師に、「どうか仏教を教えてください」とお願いしたものである。
「これを読みなさい」
師はそう言って三冊の本をくださった。いずれも町中先生がお書きになった本だ。
「さもありなん 第一部 確率、宇宙、意識、そして魂」
「さもありなん 第二部 遍路、無限、そして分乗仏教へ」
「さもありなん 第三部 空海、法然、親鸞、そして道元」
最初はなにが書かれているのかわからなかったが、これは本物で、なにかしらの真理が書かれているということだけはわかった。忙しい先生のお時間を奪うのを心苦しく思いながら個人レッスンを受け、何度も読み直したものである。そのたびに発見があった。先生のご指導のもと、仏教の入門書から読み始め、各宗派の祖師の古典から、最後にはお経まで読んだものである。しかし、どれも町中先生の名著「さもありなん 三部作」を凌駕(りょうが)するとは思えなかった。
ああ、自分はなにをしているのだろう。
この仏教セミナーは町中先生の仏道の奥深さを知る少数の人たちの口コミで自然発生的に始まったものである。忙しい町中師の代わりに私が講師を任された。信じられないほど高額の講師料を提示されて驚いたものである。会費は基本無料。一応、寄付は受け付けている。それをいいことに私は個別にメールで寄付の料金の目安を伝えている。それぞれ金額は異なる。それがばれないように専用封筒まで用意した。
自分は町中孝蔵師匠を裏切っている。
なにが「空(くう)」だと自分を笑いたくなる。というのも、加奈。加奈である。あの子は町中先生のお知り合いの娘だと聞いているが、まさか自分が女子高生のような小娘に夢中になるとは。それが中年男というものかもしれない。加奈のことがあたまを離れない。相手を意識するばかりでラインの交換さえできない。うぶな高校時代に戻ってしまったような気さえする。
こんな自分が仏教を人様に教えられるのか。
しかし、人に教えると理解が深まるというのは本当である。この会合のための準備で、はじめてそうかとわかったことがいくらでもある。参加者の存在にも助けられている。自分が教えているのではなく、逆に教わっているような気さえする。町中先生が出版を約束してくれたこともあり、セミナーの記録をこのように書き残しているが、そのたびに気づくことがある。
いや、いや、違う。
なにを謙虚なことを言っているのか。自分が恥ずかしい。私のあたまのなかは、金、金、金である。加奈、加奈、加奈。女、女、女である。十七歳の少女があんなにかわいいとは思わなかった。過去の仏教者たちは、美少女にどうやって打ち克ってきたのだろう。
会議室のドアが開き、女子高生の加奈が入ってくる。
はじめての制服姿である。ミニスカートからのびる足がまぶしい。
加奈「(ふざけて)いやらしい目してる」
T「どうしたんだ、それ?」
加奈「学校、行き始めた」
T「どうしてまた?」
加奈「なんとなく」
T「なんとなくって」
加奈「さっきから足ばっか見てる」
T「スカート、短すぎだろう?」
加奈「見えてもいいから」
T「いいの?」
加奈「慈悲。仏教でいう慈悲」
T「そんなこと教えたっけな」
加奈「今日はふたり」
T「なにが?」
加奈「新しいお客さん。健(たけし)くんと妙子(たえこ)さん。ふたりとも同級生。家がチョーお金持ちだから、安心して。ストーカーされたらいやだから言わないけど、けっこういい学校に通ってるんだから。あたまいいんだから」
T「ストーカーなんてするかよ」
加奈「これまでの講義の内容もしっかり伝えている。そこは私を信用して」
T「あれは講義なんてもんじゃなくて」
加奈はTに手を差し出す。
T「なに?」
加奈「ふたり。わかるでしょ?」
Tは一万円を加奈に渡す。
加奈「そう。翔太さん」
T「ああ、あのエリートサラリーマン」
加奈「本当はね」
T「うん?」
加奈「やっぱやめとく」
T「どういう関係なんだ?」
加奈「このまえディズニーランドに一緒に行った」
T「子どもだな」
加奈「それと妙子」
T「うん?」
加奈「あの子、創価学会だから。もう活動していない子。だから安全。本当の仏教を知りたいって」
加奈に導かれて。ともに十七歳の健と妙子が入ってくる。健は見るからになにか体育会系の部活に入っていそうな体格で、これもまた純介とおなじで加奈が目当てで来ているとTにはひと目でわかる。妙子は加奈とおなじ制服姿だが、百七十センチ以上あるのではないかという高身長。スカートは長めで、おしとやかで古風ながら気は強そうだという印象をTは受けた。
続いて東大生の純介と隠居老人の正治も入ってくる。
加奈は意外と気が利くのか、新しいメンバーをふたりに紹介している。
第三回目の会合が始まる。
T「今日は、町中先生は遅れていらっしゃいます。ご存じかもしれませんが、師は学者で ありながらご商売を手がけておられ、たいへん多忙な方ですので、どうかお許しください。もうひとつ、お許し願いたいのは。前回にみなさまに出した宿題――」
加奈「正しいとはなにか?」
T「さすが優秀ですね。正しいとはなにか? 私は前回の会合からいままで多くの仏教書を読み、いろいろ考えましたが、わかりません。なにが正しいのか私にはわからなかった。一応、カリキュラムでは今日は『大乗仏教(2)』です。町中先生の名前に傷をつけてはいけませんから、大乗仏典を大量に読み返しましたが、わからない。なにが正しいのかわからない。考えれば考えるほどわからない」
加奈「T先生、がんばれ」
T「先生?」
加奈「そう。先生。すっごい仏教の先生がいるって、さんざん宣伝したんだから、しっかりして、T先生」
T「一応、準備はしてきています。『諸法(しょほう)実相(じっそう)』『久遠(くおん)実(じつ)成(じょう)』『浄土(じょうど)世界(せかい)』『華厳(けごん)思想(しそう)』、このあたりを説明したら様(さま)になるんでしょうけれど、みなさん、そんなこと知りたいですか? そして、さらに、そしての話ですが、私はいま挙げた仏教思想をどれも絶対に正しいと言い切れる自信がない。私はこのセミナーは講義ではなく、会合、ディスカッションの場だと思っています。今日いらした新しいメンバー、妙子さんのことは加奈さんから聞きました。『諸法実相』『久遠実成』、このへんは妙子さんのほうが詳しいのではありませんか?」
正治「聞いたことのある言葉だな」
T「さすが」
正治「いい思い出ではない。ふん、創価学会か」
T「差別はやめましょう。妙子さん、説明してくれませんか」
妙子「私、教学はあまりやっていないので」
T「では、私がなにか言っても怒りませんか?」
正治「差別しているのは、あんたのほうじゃないか」
加奈「(ふざけて)T先生、がんばれ。負けるな」
T「本当のこと、正しい話をすると、今日は若い男の子がふたりいるけれど、知りたいのは好きな女の子の気持でしょう?」
純介と健は思わず笑ってしまう。
T「加奈さんも好きな男の子の気持を知りたいでしょう?」
加奈「知っているから」
純介「好きな人いるの?」
健「だれ?」
加奈「秘密」
正治「ここは学生のサークルか。早く仏教の話をしろ」
T「浄土、信じますか?」
正治「なんだ、いきなり」
T「死んだら浄土に往ける。そう大乗仏典に書いてある。信じることができますか?」
正治「そんなこといきなり言われても」
T「でも、釈迦が言ったんですよ」
正治「なら、正しいんだろう?」
T「しかし、大乗仏典は釈迦が説いた教えではない」
正治「なにが言いたいんだ?」
T「なにが正しいのでしょうね?」
正治「おれに聞かれても困る」
T「敬老の精神ですよ。この純粋な目をした若者たちに、正しいことを教えてあげてください」
正治「法律は正しいだろう?」
T「法律なんて国や時代によって変わるでしょう」
正治「揚げ足を取るな。人を殺してはいけない。これは正しいだろう?」
T「戦争中は人を殺したら英雄です。殺人犯は合法的に死刑になります。軽い話をすれば、むかしストーカーは犯罪ではなかった。酔っぱらい運転なんてみんなやっていた」
正治「そんなことを言ったら、なにが正しいんだよ」
妙子「(思わず)池田先生は正しい」
T「え?」
妙子「いえ、なんか口から出ちゃって。なんでもありません」
T「いえ、いま妙子さんはとてもいいことを言いました。池田先生は正しい。名言です。よくよく考えてみると、正しいこととは、その人が心のなかで正しいと信じていることとしか言えないんですね。池田先生は正しい。釈迦は正しい。法華経は正しい。浄土三部経は正しい。密教は正しい」
純介「それは好きとも言い換えられませんか?」
T「その通り。さすが東大生。池田先生が好き。釈迦が好き。法華経が好き。浄土三部経が好き。密教が好き」
正治「しかし、好きではあんまりにも味気ない」
T「そうです。やはり好きなものは正しい存在であってほしい。仏教を勉強するって、結局は仏教を好きになることに尽きると思うんですね。どうしたら仏教を好きになれるか? 純介さん、好きな人はいますか?」
純介「え? 答える必要はありますか?」
T「健さんは?」
健「い、いませんよ」
T「こんなことを話していると、また正治さんに怒られてしまう」
正治「どうして聞かない?」
T「え?」
正治「好きな人だよ」
T「いるんですか?」
正治「悪いか?」
T「だれもそんなことを言っていませんよ」
エリートサラリーマンだった翔太が意気揚々と入ってくる。
加奈は「翔太さん」と言い、立ち上がる。
翔太「会社辞めてきたよ。T先生」
T「先生はいらないです」
翔太「私、だれもが知っている製薬会社の課長だったんです。上司とそりが合わなくて、 本当に前世から憎みあっていたかって思うくらい。ちょっと心を病んでしまい、うつ病だなんて言われていて、どうしてかいいかわからなくて、でも、上司のことを考えるとワウーってなって、会社に行けなくなった。休職です。上司からは憎らしい顔で、甘えているんだよって言われました。こんな私が、人のことをどうこうなんて言えない。T先生のことを中年ニートなんて言ってごめんなさい」
T「いいえ。それで今日は」
翔太「スパっと会社を辞めて、新しい第一歩なんです。これもすべて町中先生の仏教講座のおかげで、加奈さんとも知り合えて。彼女からいろいろ仏教のことを学びました。善も悪もない。『空(くう)』なんだってところで、ああそうか。上司も私もどっちも善でどっち悪なんだって。善も悪もない」
T「これからどうするんですか?」
翔太「インドでも行ってこようかと」
T「結果、どうなるかわかりませんが、それでもいいんですか?」
翔太「はい。なんか吹っ切れました」
T「ちょうどいい。準備してきたものがあります。唯(ゆい)円(えん)の『歎異抄(たんにしょう)』です。一応、唯円の師匠だった親鸞(しんらん)の言葉とされています。資料を配布します。黒字の拙訳のところだけお読みください」
『善悪のふたつ総じてもて存知せざるなり(善悪はわからない)。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ(なぜなら、仏さまの理解しているほどに善をわかっていたら善を知っていると言えるがそうではない)、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど(同様に仏さまほど悪を知っていたら悪と言えるが)、煩悩(ぼんのう)具足(ぐそく)の凡夫、火宅(かたく)無常(むじょう)の世界は、よろずのことみなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします(この欲望ばかりの身体も、ままならぬ世も、みなこれ実体のない虚空、嘘、インチキ、せめて念仏するしかあるまい)。
加奈「難しい」
T「わからないでいいです」
ドアがノックされる。
T「ああ、みなさまお待ちの町中先生がいらっしゃいました。みなさま拍手でお迎えください」
拍手のなか、前回の用務員姿とは異なり、夏なのに高級スーツを身にまとった実業家で仏教者、科学者でもある町中孝蔵師が「やあやあ」と片手をあげ、いつもの慈悲あふれる微笑で登場するが、前回とは様子が少しおかしいのでいぶかしく思うものもいる。
T「町中先生がいらしたので、私の勉強成果も見ていただく意味で、駆け足で大乗仏教をまとめましょう。めんどうくさいかたは聞き飛ばしてください。寝ていてもいいです。前回の『大乗仏教(1)』では『空(くう)』をやりました。名前はどうでもいいですが、般若経典や龍樹(りゅうじゅ)の思想です。『空(くう)』は否定の思想と思ってください。善も悪もない。富豪も貧民もない。高貴も卑賤もない。聖も俗もない。男性も女性もない。苦も楽もない。損も得もない。美も醜もない。なにごとも実体はないというのが『空(くう)』です。翔太さんは、加奈さんから教わったこの『空(くう)』で吹っ切れたと」
翔太「はい。ありがとうございます」
T「で、大乗仏典で有名なものに、法華経の『諸法(しょほう)実相(じっそう)』の思想があります。妙子さん、説明しますか?」
妙子「いえ」
T「『諸法(しょほう)実相(じっそう)』は『空(くう)』とおなじことを反対側から言っています。『空(くう)』はすべてにノーだと言ったのに対し、『諸法(しょほう)実相(じっそう)』はすべてにイエスと言ったのです。『空(くう)』があれもこれも嘘だと言って世界の実体を否定したのに対し、『諸法(しょほう)実相(じっそう)』は世界の森羅万象(しんらばんしょう)あらゆるものを、そのままでいいと肯定した。すべてが本当である。男女も美醜も善悪も生死も勝敗も老幼も病気も喜びも悲しみも、みな、そのままで意義があり、その理由は仏にしかわからないが、すべてそのままでいい。そのままでよくできている。荘厳(そうごん)されている。このへんは華厳(けごん)思想も入っているんですが、忘れてください。とにかく、とにかくです。世界は美しい。世界はなんとすばらしいのだろう。この輝きはどうだ? こういう思想ですが、難しいですよね」
翔太「わかる。すごいわかります。うつ病の雲がさっと開けたように」
正治「いや、さっぱりわからん。貧乏人より金持のほうがいいだろう。美人のほうがいいだろう。病人より健康のほうがいいだろう。悪を許しちゃいかん」
妙子「そうかな?」
正治「なんだ?」
妙子「それ、なんか違う気がする」
正治の「小娘の感傷か? 池田先生の教えか?」
T「そういうこと言わない」
正治「それよりおかしいじゃないか。今日の町中先生は前回と顔が違う」
T「(あわてて)そんなことありませんよ」
正治「若いもんは、どう思う?」
加奈「違う」
純介「よく見るとね」
妙子「前回の人のほうがやさしそうだった」
T「ところが残念。本物は今日のほうです。前回はどうしても忙しい町中先生のご都合がつかなかったので、似た人を探したらとてもいい人がいた。事情を話してお願いした。いいよと言ってくれた」
正治「だましたな」
T「そうではありません。これこそが法華経のいう『久遠(くおん)実(じつ)成(じょう)』とおなじです」
正治「難しい言葉を使って煙にまくな」
T「みなさん、前回、町中先生がいて、楽しかったでしょう? 私もあんないい顔で老いている人を見たことがありません。これが『久遠(くおん)実(じつ)成(じょう)』です」
正治「ごまかすな」
T「みなさん、釈迦は死んだと思いますか?」
正治「当たり前だろう」
T「しかし、釈迦は死んでおらず、いまも過去も未来も仏さまとして存在しておられる」
正治「そんなの嘘だろう?」
T「嘘であり本当です。『空(くう)』や『諸法(しょほう)実相(じっそう)』の話を思い出してください。『空(くう)』はすべてを嘘だという。『諸法(しょほう)実相(じっそう)』はすべてが本当だという。いったいなにが嘘なんですか? いったいなにが本当なんですか?」
正治「詭弁(きべん)だな。ごまかしだ」
T「嘘でも本当でも慰められたらいいじゃないですか? 楽しかったらいいじゃないですか? 生き生きしていたらいいじゃないですか? 釈迦は仏陀(ぶっだ)となりいまも我われを見守っている。これが『久遠(くおん)実(じつ)成(じょう)』です」
加奈「本当のことを教えて。今日の町中先生は本物?」
T「失礼なことを言うな」
町中師「嘘かもしれないぞ」
T「先生、やめてください」
加奈「(いきなり)本当のことを教えて。翔太さん」
翔太「なんだよ」
加奈「何度かデートをした。私のこと好き? いきなりインドに行くって今日聞いた」
翔太「そりゃあ、その」
T「すべて嘘で、すべてが本当。すべてが嘘でも辛いし、すべてが本当でもいやだ」
正治「ごまかしだ」
加奈「そうよ、ごまかしよ」
純介「嘘だろう? 加奈さん、こんなおっさん(翔太)がいいのか?」
健「嘘だよ。嘘に決まっている」
加奈「本当」
T「本当のこと、やめよう」
町中師「(立ち上がり)私は偽物だ。嘘をついていた。悪かった」
T「悪くないですよ。みんなのためを思って」
町中師「しかし、嘘は悪い」
T「本当のことを言うのが、そんなにいいんですか?」
正治「そうに決まっている」
町中師は席を立ち、出て行ってしまう。
悲しいような寂しいような静かな沈黙が流れる。
T「次回の宿題は善悪とはなにか? にします。なにが善で、なにが悪か? 町中先生は、あれはふざけているだけです。ああいう冗談が好きな人なんですよ」
Tは笑ってごまかそうとするが、場の気まずさはどうにもならない。
4・日本仏教(1)「なにが本当で、なにが嘘か?」
秋になった。
Tはセミナーのために仏教を勉強すればするほどわけがわからなくなっていた。仏教はだれが偉いのか。なにが正しいのか。なにが善でなにが悪か。なにが本当でなにが嘘か。わけがわからないというのが答えとしか思えなかった。現実もまたTにはわけがわからないものだった。
入るはずの金が滞っていた。この点で、師である町中孝蔵先生と意見が食い違っている。まさか師匠が間違っているはずがなく、としたらTが間違っているのだろうか。師匠が正しいとしたら、これはどういうことなのだろう。
女子高生の加奈と元エリートサラリーマンの翔太の関係も不可思議である。世の中、不公平すぎるではないだろうか。Tはニート期間もあったが、高校を出てからマジメに生きてきたという自負はある。もっとも長く続いたのは、パン屋の夜勤と住み込みの新聞配達である。新聞配達のオヤジからは本を読むことを口を酸っぱくして言われ、そのときの体験がいま役立っている。パン屋の年上の女性同僚から色目を使われたときは人生まんざらでもないと思った。
金がない。
いらいらする。仏教書を読んでいても、ときおり壁を殴りつけたくなる。
こんな漢字ばかりの本を読んでいてなんになるか。踏みつけにして蹴り飛ばしてやりたくなる。どうして加奈が翔太という男と付き合っているのか。なぜあいつばかりいい思いをするのだ。どうせ金持の家に生まれたのだろう。生まれつきあたまがよくて顔もいいから女性にも人気で、いい大学を出て、いい会社に入ったのではないか。一流会社というのはいくら給料をもらえるのだろう。うつ病になって会社を休んでも給料が出るのだろう。Tはそんなことは一度もなかった。うつ病になったら、今度は女子高生と交際か。どうして翔太ばかりおいしい思いをするのだろう。
あの男は最初の会合でカバンを忘れて行ったが、なかになにが入っていたか。女子高生物のアダルトDVDが何枚も入っていたぞ。加奈とどういう関係にあるのか想像すると悩ましくて仕方がないが、こうなるともう仏教書はあたまに入って来ない。
こんなものかもしれないと思う。人間はこうして生きてきたのだろう。人生はままならぬことばかりだが、前世の業(ごう)だの宿命(しゅくめい)だのとおのれをごまかし、呪文を唱えながら、死んだら極楽浄土に往けると自分をだまして生きてきた。それが日本の仏教の歴史なのかもしれない。やけになって安酒をあおっても、いらいらは収まらない。金がないのである。
それにしても、こんな自分が人様に仏教を教えていいのか二日酔いのあたまで考えていると、公民館のドアが開き加奈が入って来た。風が強い日なのに制服のスカートをさらに短くしている。加奈目当ての東大生の純介と、高校生の健からは欠席の連絡が来ている。翔太はいまインドにいるのかもしれない。
加奈「振られちゃった」
T「なに?」
加奈「翔太さんに、振られちゃった。このまえの会合のあとに彼の家に行って、そういうことになって、で、そのあと連絡が取れない」
T「行くなよ」
加奈「だって、善も悪もないって」
T「それは悪だよ」
加奈「『空(くう)』でも『諸法(しょほう)実相(じっそう)』でも善悪はないんでしょう? 善も悪もない。世界はすばらしいって。好きな人とはじめて、嬉しかった。善も悪も超えた世界」
T「そんなもん嘘に決まっているだろう(怒鳴る)」
加奈の同級生の妙子が入ってくる。
加奈の真似をはじめたのが、制服のスカートが短くなっている。
T「なんなんだよ、みんなして。今日は寄付金はいらない」
加奈「なに怒ってんの?」
隠居老人の正治が中年女性と連れ立って入ってくる。亜樹(五十五歳)である。
正治「きれいだろ。銀座でホステスをやっていたこともあるんだぞ。今日はふたりでデート。ここに通い始めてから運が上がってきたのかな」
T「デートでこんなところに来ないでください」
正治「(みんなに)なに怒ってんの?」
第四回目の会合の始まりである。
T「本当のことを言います。本当のことを」
正治「なに興奮してんだ」
T「いままでの町中先生は全員偽物です。今日も来ません。毎回来てくれるという話だったのに」
正治「そりゃあ、忙しい人なんだから」
T「本当のことを言ってやる。私の講師料はいくらだって思いますか」
正治「もらっていたのか?」
亜樹「一万円くらい?」
T「二十万円です」
正治「そんなに?」
T「しかし、くれない。毎回、二十万ですよ。全五回で百万円。だから、必死で勉強したんです」
亜樹「そりゃあ、する」
T「第一回目の二十万はこのまえようやくくれました」
亜樹「すごいじゃない」
T「でも、それで終わり。師匠に早くお金をくださいなんてふつう言えない。自分でも毎回、二十万円は多いのはわかる。わかるから言えない。でも、金がない。言った」
正治「(どこかふざけて)どうなった?」
T「エビデンスがないとメールが来た」
正治「エビデンス?」
T「エビデンス。調べたら証拠のことみたいです。たしかに証拠はない」
亜樹「契約書を交わさなかったの?」
T「口約束です。私だって、契約書を知らないわけではありません。聞いたら、自分を信じられないのかって」
正治「そう言われちゃなあ」
T「たしかにメールを調べてみたら、証拠はない。しかし、しっかり約束した記憶がある。ところが契約書はないし、メールにも書かれていない。相手は尊敬する師匠だ。どうしたらいいんですか?」
亜樹「それは難しい」
T「そのうち本当に約束したのかわからなくなった。毎回二十万円なんて高すぎる。全部で百万だ。自分にそんな価値があるか? 師匠は言う。エビデンスはあるのか? ビジネスとはそういうものだ。あなたは世間を知らない。世間知らずだ。甘い。お金の価値を知らない。電話で叱責される。おまえのためを思って言っているんだ。怒鳴られる。すると、どうなるかわかりますか?」
正治「どうなるんだ?」
T「もしかしたらこれは恩師の町中先生のほうが正しいのではないか。私が間違えているのではないか。そんな気分になる。なにが現実なんだ。なにが本当で、なにが嘘なんだ。記録がなければみんな嘘なのか。人を信じちゃいけないのか」
加奈「口出ししていいかな」
T「なんだよ」
加奈「すぐそうやって怒るから怖いの。私は信じてあげる。T先生は嘘をついてない」
T「だれに信じてもらっても証拠がなければ意味はない。エビデンスはあるんですか? それで終わりだ。しかし、私は師匠の町中先生を尊敬している。妙子さん」
妙子「はい」
T「創価学会だったね。『師弟(してい)不二(ふに)』ってあるよね」
妙子「はい」
T「師弟が一心になる。師匠は弟子を思え。弟子は師匠に尽くせ」
加奈「それがどうしたの?」
T「そういうことかと思った。師匠は自分を鍛えてくれているのではないか。自分はもっと師匠に尽くさなければならないのか」
正治「創価学会の悪いところだ」
T「出版の話もしました。このセミナーを書籍にするという。恐るおそる聞いたら、またもやエビデンスはあるのか? 口約束です」
正治「そりゃあ、町中先生、金がないんだよ。当座の運転資金。私もむかし商売をやっていたからわかる。資金繰りに困ると、なにがなんだかわからなくなる。にっちもさっちもいかなくなると、払いたくても払えない」
T「町中先生のような人でも?」
正治「そうだ。金は怖い」
T「そうなんですか。聞いてもらい安心しました。ひとり悶々としていて、だれにも言えなくて、今日話せてよかった。いや、まだわからない。あれは、先生が正しいとはなにか? 善悪とはなにか? 本当と嘘とはなにか? を考えさせようとしてくださっていたのではないか? さらに世間とはなにか? ビジネスとはなにか? 人を信じるとはどういうことか?」
正治「そんな難しく考えることはない。宗教の悪いところだ。金は怖い」
T「なにがなんだかわからなくなっちゃった」
加奈「落ち着いて、仏教の話をして。今日は日本仏教の日でしょう」
T「みなさんどうして私の話なんか聞いてくれるんですか?」
加奈「どうしてって」
T「今回破門されそうになって思いました。私が町中先生の弟子じゃなかったら、みなさん話を聞いてくれますか?」
一同、沈黙する。
T「一応、私が最初にみなさんの興味がないような話をしたのは意味があるんです。それはどういうことか。日本仏教は先輩絶対主義とお金で簡単に説明できます」
加奈「先輩とお金?」
T「そう。先輩絶対主義は、徒弟制度、旧来尊重、年功序列ともいいます。高校生でもどれかひとつの言葉は聞いたことがあるでしょう。お金は小学生でも知っている。前回は大乗仏教の話をしました。インドの話です。仏教はインドから中国へ渡り、最後に日本へ伝わりました。ちなみにいまはインドでも中国でもほぼ仏教は滅んでいます」
亜樹「へえ、そうなの」
T「日本仏教のパターンはこうです。ある人がインドや中国からなにかを発見して、これは偉いと言う。偉いは正しいです。これは正しい。正しいは多数決。どれほど弟子が集まるか。弟子が集まるとお金の問題で揉める。開祖はいいんだけれど、弟子が集まるとかならず金で揉める」
正治「だから、金は怖いんだ」
T「金で揉めると、弟子が分裂して、こっちが正しい、いや、うちのほうが正しいぞと喧嘩を始める。正しいことを証明するために権力者に取り入ったりもする。それだけです。難しいことはなんにもない。大学受験を日本史で受けるならともかく、一般の人は名前なんて覚えなくてもいい。スマホを検索すれば出てくる。繰り返しますが、先輩絶対主義です。インドや中国、日本の古い有名な人を持ち出してきて、独自な解釈をして、これは正しいとやる。あとは弟子がつくか、権力者に気に入られるかが勝負。そして、弟子が増えると金で揉めて分裂する。教団内でも常に先輩が偉い」
加奈「先輩とお金?」
T「そうです。あんまり若い子に言わないほうがいいんですが、意外と仏教は暴力団、ヤクザ、反社会勢力と似ています。完全な男性社会。正治さんは、わかりますよね?」
正治「わかるけれど、そこまで言っていいのか?」
T「ここから先は、つまらないからみなさん聞かなくていいです。寝ていてください。四人全員寝ていても、ひとりで話します。日本仏教の歴史は、国家仏教、学問仏教、貴族仏教、民衆仏教です。最澄(さいちょう)と空海(くうかい)は中国に留学して箔(はく)をつけて帰ってきて呪術を用いて天皇に気に入られる。貴族仏教ですね。いまで言えば芸能人がアメリカの大学に入ってイメチェンをはかるようなもの。貴族ばかりではなく民衆を救わなければいけないというので、法(ほう)然(ねん)は書庫のなかから中国人の善導(ぜんどう)という人の本を探して、これが絶対に正しいと言います。善導が正しいから自分も正しい。難しい修行をしなくても南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)というだけで救われる。めんどうくさいことをしなくても救われる。スマホで全部やっちゃおうみたいなものです」
加奈「救われるってなに?」
T「お、ちゃんと聞いていましたか。ありがとう。それはあとで説明します。でも、いま加奈さんはスマホに救われているでしょう。むかしはもっといろいろ大変だったんですよ。携帯電話さえない。それはいいとして、次に日蓮(にちれん)が出てきて法然は正しくないと言う。南無阿弥陀仏は間違いで、正しいのは南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)。南無妙法蓮華経というだけでだれでも救われる」
加奈「その二つの呪文、どう違うの? どちらが正しいの?」
T「どっちもおなじなんて言ったら、妙子さんに殺されちゃいますね」
妙子「殺しません」
T「眠らないで聞いていてくれましたか。ありがとう。さて、南無阿弥陀仏(=念仏)と南無妙法蓮華経(=題目)は、どう違うのかはスマホで調べてください。私は個人的にですが、どっちでもいいと思っているので、今日は時間節減のため省略します。どちらが正しいのか? 私はどちらも正しいし、どちらも正しくないと思っています。法然の側からしたら題目は正しくないし、日蓮の側から見たら念仏は正しくない。もっと違う側面から見たら、どちらもおなじように見えるでしょうが、これを言うと怒る人がいるので、大人の事情をわかってください」
加奈「なにそれ?」
T「妙子さんに聞いてください」
妙子「加奈に変なこと教えないで」
T「親鸞(しんらん)は法然の弟子です。親鸞は日本仏教の典型です。実際はそんな大層な弟子ではなかったという説もありますが、法然が好きで、師匠の法然は偉いから自分も偉いし正しいとやった。ポイントは『好き』『偉い』『正しい』です。日本仏教のキーワードは『好き』『偉い』『正しい』。だれか先輩を好きになる。先輩は偉いから、自分も偉い。先輩は正しいから自分も正しい」
正治「身もふたもないことを言うな」
T「蓮如(れんにょ)は親鸞の子孫で、親鸞が偉いから自分も偉い。親鸞が正しいから自分も正しいと主張した人です。五人の奥さんに二十七人の子どもを産ませました。法然、親鸞、蓮如の違いは勉強しても、ことさら救われません。証拠は私です」
加奈「『好き』『偉い』『正しい』か」
妙子「日蓮(にちれん)大聖人(だいしょうにん)は違いませんか?」
T「とてもいい指摘です。日蓮は独特で、先輩ではなく自分をとことん好きになった。自分は偉い。自分は正しい。怒られるかもしれませんが、これが日蓮です」
雷の音が聞こえる。雨が降るのかもしれない。
T「あと禅(ぜん)がありますね。栄西(えいさい)や道元(どうげん)が有名です。いまの子にはヨガって言ったほうがわかりやすいかもしれません。これは修行をして考え方を変えようとすることですから、念仏や題目ほどイージーではありません。スマホ時代にわざとガラケーを使って、私は特別なんて思っているやつ、なんて言ったら殴られますよ。道元のほうの仏教団体は暴力が大好きです。禅に関しては町中先生の名著『さもありなん 第三部』がありますから、それを参考にしてください」
亜樹「私、読みましたよ」
T「すごい。出世しますよ」
正治「元銀座のホステスだって」
T「なるほど出世したわけですね。私も何回も読んで感想文を先生に送りました。だから、このようなセミナーで講師みたいなことができるわけです。高額の講師料で」
正治「うまいことを言う」
T「もらっていませんが」
亜樹「大丈夫よ」
T「いい声ですね。さすが元銀座のホステス。もう一回言ってください」
亜樹「大丈夫」
T「むかしどこで読んだのだったか。カウンセラーは相手の話を『わかる』『大丈夫』で聞いていたらそれだけでいい。私は、釈迦という男は、なにも教えず、人の悩みを相手に寄り添って親身に聞き、『わかる』と応え『大丈夫』とだけ言っていた人ではないかと思います。話を日本仏教に戻すと、たとえば念仏。なぜ念仏だけでいいのかと言ったら、きちんと相手の話を聞いて、『わかるよ大丈夫』と言ってあげ、どうしたらいいのかという問いには南無阿弥陀仏と唱えなさい。そのくらいで案外、人は救われるものです。今日はじめ、私は個人的な悩みを話しました。正治さんは『わかる』と聞いてくれた。いま亜樹さんに『大丈夫』と言われた。これが救いのひとつかもしれません」
正治「わかる」
亜樹「大丈夫」
T「ありがとうございます」
加奈「大人って単純」
T「私は加奈さんの苦しみがわかりますよ。大丈夫。翔太さんとのことはきっとなんとかなります」
加奈「からかわないで」
T「さて、救いとはなにか?」
加奈「なんなの?」
T「人を喜ばせることです。人を喜ばせる。相手が安心して笑う。それが嬉しくて自分も笑う。それが救いです」
妙子「そんな簡単なの?」
T「はい。いまから若いふたりにいいことを教えましょう。真実は人を喜ばせることです。それが嘘でも本当でも人を喜ばせることが真実です。わかりやすい説明をしましょう。太っていることを気にしている女の子がいる。彼女に『最近、やせたね』と言ってあげる。これが真実です。実際、彼女が太っているかどうかは問題ではありません。本当でも救いです。嘘でも救いです。なぜなら、救いとは人を喜ばせることだからです」
亜樹「先生の話、はじめて聞いたけれどわかりやすい。釈迦が生きていたら、先生みたいだったんじゃないかって思います」
T「(苦笑しながら)真実のお言葉、ありがとうございます。本当ですよね」
亜樹「もちろん」
正治「まったくおまえたちは(苦笑い)」
T「たとえば僧侶に祈祷(きとう)をしてもらう。それが実際に効果があるかはわからない。科学的にはないと考えるほうが妥当でしょう。しかし、『これでよくなる』と断定的に言われる。このとき、人は救われている。南無阿弥陀仏は、死んだら極楽浄土に往生できるという教えです。本当じゃないかもしれない。嘘かもしれない。だが、そう心から信じたら人は救われます。南無妙法蓮華経と唱えたら、夢がかなう。病気が治る。妙子さん、これは本当ですか?」
妙子「からかわないで。知らない」
T「本当です」
妙子「本当?」
T「本当です」
正治「少女を詐欺でからかうな。本当のことを言え」
T「私は真実を言っているだけです」
亜樹「真実は人を喜ばせること」
T「会合に初参加なのに、よくわかっていらっしゃる。最後にまとめをしましょう。日本仏教とはなんですか?」
加奈「先輩とお金。『偉い』『正しい』先輩を『好き』になる」
T「正解です。人を救うとはなにか?」
妙子「『わかる』と『大丈夫』」
T「正解。真実とは」
正治「人を喜ばせること――か」
T「当たりです。みなさん、期待以上によく理解なされているので、これで今日のセミナーを終わります」
会合を終えたTのもとに加奈がさっと駆け寄ってくると耳元で、
「先生ちょっといいかも。タイプかも」
加奈はそう悪戯っぽくつぶやくとTに「加奈さんには翔太さんがいるだろう」と言わさずに、部屋を走って出て行った。ひらめくスカートがまばゆかった。白いものがちらりと見えた。
今度は妙子がTのそばに近づいてきて、もぞもぞしている。
「なんだよ」とTは追い払おうとしたが、妙子は視線をTの目から離そうとしない。
「わからない?」
そう思いつめたような目で妙子は言う。そうかと思うと、さっと背を向け、加奈がいる部屋の外に駆け出して行った。からかわれているなと思ったが、悪い気はしなかった。嘘でも本当でもなく彼女たちなりの真実なのだろう。
Tのもとに、正治と亜樹が近づいて来る。
T「見ていましたか? 恥ずかしい。いまごろあいつら、外で大笑いしていますよ」
正治「子どもたちがいるまえでは聞けなかったが、お金、大丈夫か?」
T「いま実家に帰っているし、親に借金したりして。母に小さいがんが見つかって、それで付き合いで入っていた保険金が思ったより出たみたいで。ぽつぽつ派遣仕事も増やしています。それに趣味がないんですよ。仏教の本を読んでこの会合のためにメモをまとめているくらいだから、ほとんどお金が出て行かない」
正治「それならいいけれど」
亜樹「今日のお話、本当によかった」
T「本当ですか、嘘ですか?」
亜樹「真実」
正治は「じゃあ」と言うと別れ際にTの手になにかをつかませた。「ふたりからだ」と。
T「ふたりともお似合いですよ」
正治は振り返らず右手を上げた。
Tが手のなかのものを見ると、このセミナーのために作った専用封筒で十万円が入っていた。無言で「ありがとうございます」とTはあたまを下げた。部屋のなかにひとりでTはなにものかにあたまを下げていた。
5・日本仏教(2)「救いとはなにか?」
街にクリスマスソングが流れるような季節になった。
加奈から次の宿題はなに? というメールが来たのでTはこう返した。
「ネットからでも入門書からでもいいので、だれかひとり好きな仏教者を見つけ、その人の言葉のなかから自分の好きなものを3~5選んでください。次の会合では、おのおの好きな言葉を発表してもらいます」
金は相変わらずなかった。町中先生からは、その後一回二十万円が振り込まれただけだった。たしかにいつ振り込むという約束はしていなかったが、Tは一回の会合が終わるごとに振り込まれると思っていた。思い切って師匠の町中孝蔵先生に電話すると、いつ払うというエビデンスはないと言われ、たまたま自分だからよかったが、こういう電話を頻繁にかけてくると脅迫(きょうはく)や恫喝(どうかつ)という罪で刑事告訴されると教わった。
師匠の言うことは絶対的に正しいのだろうか?
釈迦の教えである「自灯明(じとうみょう)、法(ほう)灯明(とうみょう)」という言葉が思い浮かぶ。自分と仏法を灯(ともしび)にしろという意味である。「依(え)法不依人(ほうふえにん)」という言葉もあった。法に依(よ)って人に依らざれ。解釈はいろいろあるが、あまり師匠に頼らず、それよりも仏法を第一に考えろという意味に取れなくもない。いったいなにが正しいのだろう。考えているうちに、なにがなんだかさらにわからなくなり、そういう精神状態は身体にも悪影響を及ぼすのか、ひどい風邪をひいてしまい寝込むことになった。とてもセミナーに参加できる状態ではないが、かえってこれはこれで都合がいいのかと思った。どうせお金も入ってくるかわからない。
会合の翌日、加奈からメールがあった。
女子高生の言葉で、とてもそれをそのまま掲載できないので要旨のみ紹介する。
会合はこれまでにない盛り上がりを見せたという。本物の町中孝蔵先生がはじめて出席したため、出席者は増えた。
加奈はネットで調べた一休の言葉を選んだという。妙子は日蓮の言葉。東大生の純介は親鸞を選んだ。元銀座のホステスで、いまはスナックを経営しているという亜樹は一遍の道歌。隠居老人の正治は釈迦の言葉を達筆で書いてきた。喧嘩も諍(いさか)いも起こらず、終始なごやかに会合は進んだとのことである。それを町中孝蔵先生は穏やかな微笑をたたえて聞いておられたとのことである。
インドから帰って来た翔太は、なにかを達観した顔で龍樹(りゅうじゅ)を紹介していたので、このまま道を踏み外してしまうのではないかと加奈は心配している。なお、翔太と加奈はよりを戻したそうである。加奈いわく、Tが寄付金を多めに徴収していたことは町中先生に密告しなかった。だから、教えて。質問は、最初の会合で翔太のカバンのなかに入っていたものはなに? 女子高生物のアダルトDVD数枚だと本当のことを書いてやりたくなったが、ええい、武士の情け。ただの漫画雑誌だと答えておいた。いい歳をして漫画を読んでいるのが、恥ずかしかったんじゃない、と付け加えた。
Tのいない会合は活気があり、はじめて二次会をやったという。そこには町中先生もいらして、みんなT先生のことをほめてあげていたよ、だそうである。ちょうどクリスマスということもあり、Tをねぎらう意味も込めて、亜樹の店でパーティーをやることになった。日程は――。
五回目の最後の会合は想像するだけで嬉しい気持になった。Tが思う最高に新しく、そして明るく楽しい仏教である。正しいことや偉い人にとらわれない仏教があったら、どんなにいいことか。
悪いことばかりではない。医者にも理由はわからないらしいがTの母親の小さながんがどうしてか消えていた。不思議なことはあるものである。
クリスマス・パーティーの日は雪が降るかもしれないと言われるくらい寒かった。
夢のようだった。
亜樹の店は意外と広くクスマスツリーが飾られ、きらきらした子供の世界のようだった。大勢の人が出たり入ったりした。町中先生のつながりや加奈の友だち、妙子の仲間のような女子もいたから、あれは創価学会の人たちだったのかもしれない。
夢を見ているようだった。
亜樹から「T先生、会費はいいですよ」と言われ、そのくせこのスナックのママは海外の見たこともない酒をやたらすすめてくるのである。こんなうまい酒が世界にはあるのかと泣き出したくなった。見たこともない料理ばかりで、口に入れたらそのとろけるようなうまさに仏さまって本当にいるんだな。そんな殊勝な気持にさえなった。
すっかり酔っぱらってしまった。
気がついたら、歌ったり、踊ったりしていた。
酒のせいで記憶が怪しいが、純介の連れてきた東大の女子大生ふたりに両側から腕を組まれ「両手に花ね」なんて言われながら陽気に調子よく踊ってしまったような気がする。そうしたら今度は加奈が「私たちだって」とむきになって妙子とふたりで笑いながら、両側からくっついてきて、思わず逃げそうになったことは事実なのか夢なのか。加奈と話していたら恋人の翔太がにらんできたから、おまえの秘密を知っているぞとニヤッと笑ったら、伝わったのか、あちらは最敬礼してきて、「いいよいいよ」と男二人で肩を組んでデュエットでなにかを歌ったのは幻か。
どういう関係か白人や中国人、黒人もいた。
いろいろな歌を聴いた。手をたたいた。リズムを合わせた。
正治老人は最初こそ戸惑っていたが、そのうちすっかり気をよくして、お得意の演歌を堂々と披露した。それは大盛況で正治老人は照れていた。
いまでもこんなことが自分の人生にあったとは信じられない。
そんな夢か現実かわからぬ夜の最後に、サプライズとしてサンタクロース姿の町中孝蔵先生が現われたのであった。思えば先生とお会いするのは久しぶりである。有名な人なので自分ごときが近づいていいのかわからずまごまごしていたら、町中先生のほうからお声をかけてくださった。そして、満面の笑顔で「よくやってくれた」。すべてが報われた気がしたものである。それから「落とすなよ」と封筒をくれた。なかを見たらお金が入っていた。どうやって帰宅したかは記憶にない。
翌朝、二日酔いはなかった。いい酒はそういうものなのかもしれない。昨日のあれは夢だったのか現実だったのか。枕元に封筒があったから夢ではない。なかを見たら七十万円も入っていた。三回分の講師料&ボーナス十万円と書かれている。風邪で休んだときのお金も町中先生は入れてくれたのである。ボーナスもありがたかった。手を合わせた。
サンタクロースはいたのである。
※上演してほしかったなあ。
(人物表)
小野寺良太(ボウズくん)(26)無職
小野寺良太(二十年後のボウズくん)(46)IT企業社長
大川国男(オトーチャン)(57)「大和(やまと)ハウス」主人
井沢里子(サッチャン)(62)無職
西山健一郎(社長さん)(50)無職
角田保之(先生)(43)無職
桜井武雄(サクラさん)(30)無職
桜井雨(あめ)美(み)(アミー)(27)その妹
栗原翔太(22)大学生
旅人(24)男性
会社員(33)男性
(注)この芝居の舞台、インドの日本人宿では、日本における肩書、序列はほとんど意味をなさない。このため主役以外の人物表の順番は、ほぼ年齢に従った。なお、登場人物に主役も脇役もない。なぜなら、だれでも自分の人生では主役、他人の人生では脇役なのだから。
第一幕
インドの古典音楽が流れる。音楽に合わせてタブラ(インド太鼓)が叩かれる。太鼓の音は段々強まる。可能ならば、インドのお香を会場で焚きたいが、気分を害すものがいるかもしれないから、やめたほうがいいのかもしれない。
芝居の開始を告げるため一度暗転する。
舞台はインド、バラナシ(ベナレス)の日本人宿「大和(やまと)ハウス」。バラナシはガンジス河で有名な観光地である。ガンジス河沿いに密集する多くの安宿のなかで、日本人しか宿泊しないゲストハウスがある。「大和ハウス」は、そのひとつ。ドミトリーなら一泊百ルピー(二百円)、シングルでも二百ルピーと格安である。金額は曖昧で、その日の天候、旅行者の風貌によっても変わってしまう。
舞台、上手に玄関がある。玄関に斜めに向き合う形でフロント・カウンター。中央やや下手よりにロビー。ここで旅行者は雑談する。下手は廊下に通じており、その先には客室、共同のシャワールーム、階段があるがすべて見えなくて構わない。ロビーには安っぽいテーブルと椅子が置かれている。その近くに「大和ハウス」いちばんの売りであるところの日本漫画が乱雑に積まれている。とはいえ、どれも黄ばんでいて時代を感じさせる。日本人宿の定番、情報ノートが何冊かある。全体的におよそ清潔とは言いがたいが、混沌のなかにも秩序があり、ある種の日本人には、とても居心地のいい空間になっている。
夢幻的な照明。上手から小野寺良太(ボウズくん)(26)が駆け込んでくる。ありがちなバックパッカー(貧乏旅行者)のスタイル。脅えている。後ろを振り返り、急いでドアのところに行く。ドアを身体全体でおさえ侵入者を防ごうとする。
ガンガンと少し異常なほど大きなドアを叩く音。
ドアを叩くのは二十年後、現代の小野寺良太(46)(IT企業社長)。現代は過去に向かって怒鳴りつける。現代人は忙しいのだ。現代は過去よりもスピードが速い。以下、現代の小野寺は過去の小野寺を急かしつけるように話す。
現代 ドアを開けなさい(威厳がある)。私の言うことが聞けないのか。
過去の小野寺良太はドアをおさえきれず下手に逃げていこうとする。上手から現代の小野寺良太が入ってくる。仕立てのいいスーツを着こんだ、およそこの場には似つかわしくない、いかにも成功者といった感じの服装である。だが、焦っている。その憔悴(しょうすい)ぶりは、いささか異常を感じさせる。
現代の小野寺 (玄関付近で)なぜ逃げるんだ?
過去の小野寺 どうして追いかけてくるんですか?
現代の小野寺 わからない。
過去の小野寺 (脅えて)そんなことを言われても(しゃがみこんでしまう)。
現代の小野寺 (過去に近づきながら)きみはだれだ?
過去の小野寺 怒鳴らないでください。
現代の小野寺 だれだ?
過去の小野寺 小野寺です。
現代の小野寺 下の名前も(上司が部下を叱るように)。
過去の小野寺 小野寺良太です。
現代の小野寺 私と同じ名前ではないか。
過去の小野寺 本当ですよ(とパスポートを取り出し見せる)。
現代の小野寺 (受け取り)むかしの私ではないか。
過去の小野寺 どういうこと?
現代の小野寺 ここはどこだ?
過去の小野寺 (上演する会場名を言う)
現代の小野寺 ふざけるな。(舞台を見回し)どこか見たことがある。
過去の小野寺 インドです。インドのバラナシ。
現代の小野寺 (しばらく考える)
過去の小野寺 嘘なんかついていないですよ(叫んでしまう)。
現代の小野寺 汚い格好だな(過去の自分を見下す)。
過去の小野寺 ごめんなさい。
現代の小野寺 (白いマスクを取り出しつける)
過去の小野寺 そこまでしなくても。
現代の小野寺 息子が中学受験なんだ。妻がコロナに注意しろとうるさい。
過去の小野寺 コロナってなんですか?
現代の小野寺 新型コロナウイルスだよ。
過去の小野寺 それ、なんですか?
現代の小野寺 いま何年だ?
過去の小野寺 え?
現代の小野寺 早く答えろ。時間がない。
過去の小野寺 平成十六年。
現代の小野寺 わからない。西暦で答えろ。
過去の小野寺 二〇〇四年。
現代の小野寺 (マスクを外して)二十年まえか。過去に興味はない。俺の目は未来を向いている。過去がどうした?
過去の小野寺 あなたはいったい何者ですか?
現代の小野寺 答える必要はない。
過去の小野寺 自分だけ言わせておいて(ずるい)。
現代の小野寺 二十年後のおまえだよ。
過去の小野寺 どういうこと?
現代の小野寺 いま何をしている?
過去の小野寺 お芝居です。
現代の小野寺 おふざけにつきあっている時間はない。
過去の小野寺 (観客に向かって)僕、間違っていませんよね。
現代の小野寺 いま何をしている?
過去の小野寺 ――無職です。
現代からのスマホが鳴る。小野寺社長はスマホを取り出す。だれからなのか確かめる。出ようかどうか迷う。
過去の小野寺 上演中は携帯電話のご使用はお控えください。
現代の小野寺 (無視して、スマホに出る)わかった。結果は二時間後に出るんだな。
過去の小野寺 それ、なんですか?
現代の小野寺 (スマホに向かい)わかった。結果が出たら教えてくれ。メールでもいい。
過去の小野寺 こんなひどいおっさんになるんだ。
現代の小野寺 (電話を切り)いまなんと言った?
過去の小野寺 いえ、なんにも。
現代の小野寺 なんか言いたいことがありそうだな。
過去の小野寺 (恐るおそる)いまなにを?
現代の小野寺 なぜこんなところにいるのかわからない。
過去の小野寺 お仕事は?
現代の小野寺 ゴミ屋だよ。
過去の小野寺 そこまで落ちるんだ(がっかり)。
現代の小野寺 IT企業の社長だよ。
過去の小野寺 IT企業?
現代の小野寺 知らなくていい。未来なんて知ってもろくなことがない。
過去の小野寺 でも(知りたい)。
現代の小野寺 ネット上のゴミを掃除する仕事。
過去の小野寺 ゴミ?
現代の小野寺 誹謗中傷だ。企業イメージが下がるから検索順位を下げたりする。
過去の小野寺 はあ。
現代の小野寺 反対に企業イメージをアップするための宣伝広告もする。
過去の小野寺 いま楽しいですか?
現代の小野寺 それどころではない。
過去の小野寺 幸福ですか?
現代の小野寺 うるさい!
過去の小野寺 なんでそんなに怒っているんですか?
現代の小野寺 (そう言われたらそうだよなと思い)怒っている?
過去の小野寺 はい。なんか怖くて。
現代の小野寺 ――いま二時間、時間が浮いた。
過去の小野寺 たまにはお芝居でも見てくださいよ。ほら、そこの席が空いている。
現代の小野寺 時間がないんだ。家族や社員の生活がかかっている。
過去の小野寺 たまにはゆっくりしないと。
現代の小野寺 無職に俺の辛さがわかるか。
過去の小野寺 差別。
現代の小野寺 うるさい。
過去の小野寺 なんだか眠くなってきちゃった。昼寝してこよう。
現代の小野寺 無職は気楽でいいな。
過去の小野寺 (観客に向かって)みなさんは眠らないでくださいね。
現代の小野寺 俺なんか昨日からほとんど寝ていない。
過去の小野寺 そこの席に座ってお休みになればいいじゃないですか。
現代の小野寺 そうさせてもらうか。
過去の小野寺 (なんて呼ぼうか迷い)社長さんだけは寝てもいいですよ。
現代の小野寺 「さん」づけはやめろ。社長と言え。バカにされているみたいだ。
現代の小野寺 (無視して大きなあくびをひとつすると)じゃあ、これで。
過去の小野寺は下手に去る。
現代の小野寺 会社の経営が危ないってときに、昼寝している場合ではないのだが。息子の中学受験も心配だ。公立中学になんか行かせられない。しかし――。
小野寺社長も大きなあくびをして、客席に下りて行き、最前列でも補助席にでも座る。
無職の小野寺が下手から戻ってきくる。
過去の小野寺 しつこいけれど、みなさんは寝ないでくださいね。(観客を見回し)おおっ、今日はめずらしく働き盛りの、おじさんがいる。いつもはご婦人ばかりなのに(このへんは当日の客席を見てアドリブでお願いします)。本日はどうもご来場、ありがとうございます。みんな自分が主役だと言っていますが、主役は僕です。
現代の小野寺の声 (客席から)嘘つけ(ヤジる)。
過去の小野寺 お静かにお願いします。ですから主役の僕の現われるのは少し遅めですが、しばらくお待ちください。それでは、始まり、始まり(と深々と一礼する)。
過去の小野寺は下手に去る。
書き手としては、これをお読みの方が眠らないで最後までお読みくださることを祈るばかりです。当方、演劇の主役は、命の次に大切なお金を払ってチケットを買ってくださったお客さんだと考えています。料金分の満足を感じていただけるか。次に大事なのは役者さん。どれだけうまく感情を乗せられるセリフを書けるか。他人の役を演じる味わいを楽しんでいただけるか。芝居は教育や批評、思想ではなく娯楽。解釈は人それぞれ。自信はございませんが、どうかおつきあいくださいませ。
一度、暗転する。インドの雑踏の賑わいの音、オートリクシャーのサイレンの洪水が段々と高まっていき――同時に舞台も明るくなっていく。
二〇〇四年。インド、バラナシ。日本人宿。
西山健一郎(社長さん)(50)が着席して情報ノート(旅人の情報交換のための記録。現代はスマホがあるのでないと思う)になにやら書き込んでいる。陽気で浮き足立った人物である。彼がなぜ社長さんと呼ばれているのか、だれも知らない。おそらく宿いちばんの古株で、最初に社長さんと呼んだ旅人がもういないからであろう。
以下、人名は登場人物の基本的人権を尊重して本名で書いてあげたいところだが、このような宿ではニックネームが好んで使用されるので、深く考えず流儀に従うことにしよう。なお、社長さんは、社長ではなく、かならず社長さんと「さん」がつけられる。この「さん」に他の旅行者の憐憫と侮蔑が込められているのは言うまでもない。社長さんは、この「さん」をおおらかに受けとめることのできる度量があり、ということは、彼はある面では大人物なのかもしれない。舞台には社長さんしかいない。
社長さん (書き終わり、読み上げる)インターネットの情報は、デタラメが多いので注意しましょう。バラナシでオムライスがおいしいのは、ガンガー・フジです。あたしは銀座で彼氏と食べたのを思い出して涙が出ちゃった。インド最高! バラナシ大好き! 美香、二十四歳。ハートマーク。(ゆっくり繰り返す)美香、二十四歳、ククク。あそこのオムライスはまずいったらなかった。オムライスと言ったらケチャップでしょうが。ガンガー・フジは醤油チャーハンに卵をかけたのを、オムライスと言い張っていやがる。ククク。(ありえないほどプリティーに)あたしは美香、二十四歳。あたしを信じて(と目をつむり虚空に向かいキスをする)。
日本人旅行者が玄関から入ってくる。男性(24)。頭はボサボサで、破れかかったTシャツを着ている。典型的なバックパッカー。
旅人 ここ日本語、大丈夫っすよね?
社長さん (一転して重々しく)ナマステ(顔の前で合掌する)。
旅人 はあ?
社長さん ナマステ。
旅人 (怪しい日本人だなと思いながらも)ナマステ。
社長さん なにか用?
旅人 部屋ありますか?
社長さん ない。
旅人 え?
社長さん 悪いけれどない。
旅人 日本で調べたら、ネットではこの時期はガラガラだって。
社長さん ない。
旅人 ぶっちゃけ、ここ有名で。変なのが多いって。
社長さん ネットか?
旅人 (うなずき)怖いもの見たさ、って言うか。
社長さん いまいっぱい。ここ人気あるのね。ネット、間違い。
旅人 そうっすか。じゃ(と去りかける)。
社長さん きみ!
旅人 はい?
社長さん ここネットで有名なの?
旅人 いろいろ、まあ。
社長さん いっぱい。
旅人 はあ?
社長さん ここお客さん、いっぱい。
旅人 ――(だから、なに?)。
社長さん 帰国したら、ネットに書いておいて。
旅人 僕が?
社長さん うん。情報は共有しないと。
旅人 はあ――。
社長さん 行っていいよ。
旅人 (去る)
ほとんど同時に「大和ホテル」主人の大川国男(オトーチャン)(57)が下手から入ってくる。ふらふらとカウンターのなかに入る。旅人からオトーチャンと愛を込めて呼ばれる大川国男氏は、哲学的な深い目を持つ。実は、なんのことはない、いつもラリっているのである。我々も旅人にならって「大和ハウス」主人を、親しみを込めてオトーチャンと呼ぼう。
社長さん (慌てて)ガンジス河はどっちかだって。いまの若いものはダメだね。日本語の看板を見ると、ホイホイ入ってきちゃうんだから。苦労するってことを知らない。
オトーチャン (視線が定まらない)
社長さん オトーチャン?
オトーチャン (ニコニコ笑っている)
社長さん (状態を理解して、やさしく)今日も幸福そうだね。いいこった。
オトーチャン (無反応)
社長さん (構わず)卒業旅行の大学生が、ダダダーッといなくなってから暇だね。
オトーチャン (ニコニコ)
社長さん 大丈夫。いまインターネットで「大和ハウス」、評判いいらしいから。そのうちお客さん、たくさん来るよ。
オトーチャン ――。
社長さん オトーチャン、わかる? インターネット?
オトーチャン (ゆっくりうなずく)
下手から角田保之(先生)(43)がやってくる。医者、弁護士、教師、いろいろな先生がいるのだろうが、果たして彼の前職がなんだったのかはだれも知らない。なにかの先生だったのかもしれないし、あるいは関係ないのかもしれない。痩せ型。メガネをかけ、理知的な顔をしている。神経質でプライドが高い彼を先生と最初に呼んだのはだれだろう。角田保之は先生と言われると誇らしい半分、バカにされたと思い頬を細かく痙攣(けいれん)させる。言ったほうは、そこがおもしろいのである。ひとつ確かなことは、角田を先生と呼ぶ旅人は、みな出身校の教師などより、彼に親しみを持っているということである。
先生 オトーチャン、シャワー出ないよ!
社長さん いつものことじゃないか。
先生 あ、社長さん、いたんですか?
社長さん 昼には(シャワーが)出ると思うよ。
先生 もう一時を過ぎています。
社長さん 先生は一日、何回シャワーを浴びているのだか。二階は出るんじゃない?
先生 あれは女性用でしょう。
社長さん 構うことないって。いまいないから。
先生 一人いるじゃないですか。
社長さん そうだっけ? いたかな。
書き忘れていたが、三月中旬のインドは暑い。登場人物の服装はみなTシャツである。ズボンの種類は、それぞれの個性によるだろう。足はサンダルでないと蒸れると思うが、これも好みにまかせたい。
先生 (カウンターの前で)オトーチャン?
オトーチャン ――。
先生 聞こえてる?(顔の前で手を振るが無反応)
社長さん 先生、ダメダメ。
先生 このごろひどいんじゃないですか?
社長さん そう?
先生 ええ、段々ひどくなっています。どうにかしないとな。
社長さん (からかうように)先生は指導が厳しいな。
先生 (ムカッとして)はい?(ピクピク)
社長さん (話をそらし)さっき若い女の子が来てね。
先生 日本人ですか?
社長さん そりゃあもう。ネットを見て来たって。オッパイがぷりぷりっとした子で。あれはノーブラだったんじゃないか。俺は白人女ってのがダメでね。やっぱり女は日本産に限る。
先生 社長さんは、好きだな(と気を取り直す)。
社長さん でね、このなかをひと目見ると、顔をしかめてなにも言わず出ていった。
先生 それはいけない。
人の話し声に吸い寄せられたかのように小野寺良太(ボウズくん)(26)が下手から現われる。ニックネームの由来は坊主頭である(無理でしたら短髪程度で)。常にオドオドしているため、旅人はなぜか彼をいじめないと悪いような気になる。極度のさみしがりやだが、会話が持たないのではないかと心配している。岩波文庫「ブッダのことば」(※1)を携帯。会話に入ることができないときは(大抵そうなのだが)読書しているふりをする。年下の大学生からもボウズさんではなく、舐められてボウズくんと呼ばれる小野寺良太を、我々はボウズと呼び捨てにすることにしよう。
ボウズ (挨拶ができない。椅子に座る)
社長さん どうした? 元気がないな。
ボウズ 昼寝していたら変な夢を見ちゃって。
先生 どんな夢?
ボウズ なんか二十年後の自分が出てきて説教されるという。
先生 なるほど。それはユング的に考えるとね。
社長さん (さえぎり)二十年後のことを考えたって、どうしようもねえよ。なるようになるさ。バラ色の未来が待っていると思っていればいい。
ボウズ うううっ(とお腹をおさえる)。
先生 どうした?
ボウズ 下痢で。
先生 まだインドの食事になれないのか。
ボウズ じゃあ、ちょっと。
ボウズは小走りに下手に去る。
社長さんと先生はバカにしたような笑いをひとしきりもらしてから。
社長さん ありゃ、どうしようもないな。
先生 頼りないですよね。
社長さん 女を知らないって顔に書いてある。
先生 まあ、そうでしょうね。
社長さん あれ、どうする?
先生 いじめはよくないですよ(ニヤニヤと口だけ)。
社長さん いやあ、かわいがりだよ。
ボウズが戻ってくる。
社長さん お、早いな。
ボウズ ハハ、気のせいでした(とごまかし笑い)。
社長さん 女!
ボウズ はい?
社長さん ボウズくん、女はいいよ。
ボウズ はい。
先生 (社長さんに加わり)日本に彼女はいるのかな?
ボウズ いいえ。僕なんかとても。
社長さん 意外だな。もてそうだけれども。大卒だったよな。大学のときは、もてただろう。こら、答えろ(とボウズの頭を両手で揺さぶる)。
ボウズ (軽薄に)そりゃあ、ちょっとは。ゴ、合コンとかありましたし。
社長さん (嘘だと見破るが)コノヤロウ。かわいい顔しちゃって、ちょっとはだと。先生も大卒でしょう。どうでしたか?
先生 いや、私は勉強ばかりしていましたから。それでも、言い寄ってくる女はいましたがね。
社長さん ほら、いい大学を出た先生はやはり違うんだよ。
先生 からかっていますか(怒気)?
ボウズ (空気を読み)先生は頭がいいから、女の子の気持とかすぐわかっちゃうでしょう?
先生 そんなことはないけどね。社長さんこそ、もてた、いや、いまでももてるんじゃありませんか?
社長さん アメ~リカでもイ~ングランドでも女に不自由したことはなかったね。もちろん日本の女だ。在留邦人てえやつ。もっとも俺は高校しか出てないから、程度の低い女ばかりだったけれど。しかしだ、女っちゅうのは、まあひと皮向けば、どいつもケダモノみたいなもんでね。
先生 (社長さんを持ち上げ)こりゃ、相当だな。
ボウズ 本当。尊敬しちゃいます。
社長さん いやいや、俺は頭のほうがさっぱりだから。
ボウズ そんなことありませんよ。
社長さん 難しそうな本を読んでるな(と本を取り上げる)。
ボウズ いつものです。「ブッダのことば」。
社長さん まだ悟ることができないか?
ボウズ とても僕なんか(愛想笑い)。
社長さん オトーチャンを見ろ。あの幸福そうな顔を。
オトーチャン ――。
社長さん ガンジャ、ハシシ(どちらも大麻の類い)。悟るのなんて簡単。
先生 社長さん、悪いこと教えちゃいけません。大麻は一応、日本では違法なんですから。
社長さん そりゃ、先生の言う通りだ。
三人、元気よく笑う。
しかし、考えてみたらなかなかグロテスクな光景である。社長さん、先生、ボウズ、三人とも薄汚いTシャツ姿で、もてるようにはとても見えないのだから。
そこに大学生の栗原翔太(22)が下手から現われる。こざっぱりした格好。彼は「大和ハウス」宿泊者のなかでただ一人まともな肩書を持つ。日本社会の希望の星、栗原翔太は馴れ合っている異形の三人を見てしばらく言葉が出ない。この人たちはいったいなんなのだろうか。思わず引き返そうとする。
社長さん おう!
栗原 (振り返り、引きつった笑顔で)こんにちは。社長さん、先生――。
社長さん こいつ、ボウズくん。
栗原 ボウズくん(と声をかけたはいいが話すこともなく)下痢は治りましたか?
ボウズ ええ。
先生 (上機嫌に)話していかないか?
栗原 いえ、少しでも見ておきたくて(と外を指す)。
先生 (からむように)なにを? インドのどこを? だれを? きみはなにを知っている?
栗原 ――火葬場とか。あとガンジス河って、ぼーっと見ているだけでもいいって言うか。
社長さん 先生、先生!
先生 (バカにされたのかと思い)ああん?
社長さん ハハ、ハハ(と鷹揚に笑い)、日本の将来をになう学生さんにはせいぜい勉強してもらおうじゃないですか? 彼が十年後、二十年後の主役ですよ。
先生 それもそう――ですな。
栗原 では、また(このチャンスを逃がすもんかと急いで上手へ去る)。
先生 (去ったのを確認してから)あのバカ学生が。私はああいうヘラヘラした若者がいちばん嫌いだ。
ボウズ でも、早稲田なんでしょう?
先生 どこの大学だってね、学問をしていないやつは救いようがない。遊んでばかりって顔をしているじゃないか。ところが、ああいった手合いが大企業に入るんだ。女も女で男を見る目がない。すぐに肩書に目がくらむ。早稲田がなんだ! 大企業がなんだ!
ボウズ たしか――(と企業名を言いかける)。
社長さん (さえぎって)そりゃあ、先生が正しい。
先生 まったくそうですよ。実社会の裏も表もご存知の社長さんはよくわかっていらっしゃる。ああいうボンクラ学生が、やれガンジス河だ、やれ火葬場だと大騒ぎする。焼ける死体を見たくらいでさも人生わかったようなことを言う。混沌の国、インド! さもインドがわかったようなことを言う。冗談じゃない。よっぽどボウズくんのほうが、いろいろなものに真剣に向き合っていると思うね。
ボウズ いえ、そんな――。
オトーチャンが「ウワア」と奇声を発すると、カウンターに突っ伏してしまう。
先生 (感傷的になり)オトーチャンはいい人だ。
社長さん うんうん。
先生 私たちがついていないと心配でしょうがない。
社長さん そうそう。
先生 どうしていい人ばかりが苦しむんだ? この世はおかしい。狂っている。寝かせて来ますね。
社長さん ほうっておいても大丈夫じゃないかな。
先生 そうはいきません。(大仰に)私はこの人を人生の友人だと思っています。
社長さん (笑い出しそうになる)
先生 どうかしましたか?
社長さん ううん(こらえる)。
先生 インドでは人間の本質が浮き彫りになる。
先生はオトーチャンに肩を貸す。二人は下手に去る。
社長さん (二人が去ったのを確認してから)アハハハ(大笑い)。
ボウズ ――。
社長さん 人生の友人ってなんだよ、あの偽善者め!
ボウズ 社長さん――。
社長さん (先生の口真似で)私はこの人を人生の友人だと思っています。
ボウズ (似ているのでおかしくて笑ってしまう)
社長さん 先生とジャンキーの友情か。
ボウズ 聞こえますよ。
社長さん あいつが先生面をしているときほど笑えるものはないよな。
ボウズ (驚き)先生じゃないんですか?
社長さん 先生なもんか! あのヤロウ、なにかあるとインド哲学がどうのとすぐ言うだろう? とんでもねえやつが来たと思ったさ。
ボウズ じゃあ、仏教も詳しいのかな。
社長さん 大学生を目のかたきにして、手当たり次第に議論をふっかける。人生とはなんぞや? 原因と結果の関係はいかん? みーんな嫌がっているのに、あのヤロウはさっぱり気がつかない。
ボウズ マジメないい人じゃないですか。ほかの人もそんなに嫌ってはいないと――。
社長さん あいつが来て三日目、いや四日目だったかな。俺がさ、みんなの前で、先生って呼んでやったんだよ。そのときの顔は見ものだったな。ピクピク。こうだよ、ピクピク。よく見てくれ。このへん(頬のあたりを指す)がピクピク。
ボウズ プッ(笑いをこらえる)。
社長さん あれは大学を出ていないな。コンプレックスが強いおなじ高卒だって、ぱっとわかった。そいつをよ、先生って呼んでやったんだ。そしたらあいつは――。
ボウズ (下手を振り返る)
社長さん まだ帰って来やしないよ。先生は、泡吹いたオトーチャンにこんこんと説教しているから。
ボウズ やめましょうよ。
社長さん 先生、先生、先生! 俺が言い出したら、みんな真似するようになってな。あいつほど先生って名が似合うやつはいないんじゃないか。こうだよ、こう。センセ~。センセイのイを伸ばして発音するんだ。
ボウズ センセ~?
社長さん そうだ、うまい。それから先生は一回までだからな。先生、先生! 二回言うと、肩のあたりがピクッとする。バカにされてるのがわかるんだろうな。ククク、三回言ったら、あの先生どうなるか?
ボウズ でも、先生じゃないって決まったわけではないんでしょう?
社長さん ボウズくん、あいつが先生だって思うか?
ボウズ でも、人は見かけによらないって言うし。
社長さん 見かけによらない?
ボウズ あ!(まずい)
社長さん ククク、先生にそんなこと言っていいのか?
ボウズ でも、社長さんが(言い始めたことじゃないですか)。
社長さん 「でも、でも」とよく俺に反抗するな。
ボウズ 社長さん、そんな――。
社長さん うん?
ボウズ はい?
社長さん いまなんて言った?
ボウズ (しばらく考え)社長さん?
社長さん ――。
ボウズ 社長さん?
社長さん おまえ俺をバカにしてないか?
ボウズ (社長さんも先生とおなじような蔑称の類いであると気づき困惑する)
社長さん おい、ボウズ! おまえ、なんか俺に言いたいことはあるか?
ボウズ (首を振る)
社長さん おい!
玄関のドアが開き、桜井雨(あめ)美(み)(27)が登場する。雨美は長期旅行者にありがちな臭みをまったく持ち合わせぬ都会的な女性。東京から直行したような印象を受ける。さわやかなTシャツにジーンズ姿である。インドに長期滞在する日本人女性は、どこか崩れたところがあるので、雨美のような女性は男性旅行者には天使かなにかのように見える。日大を卒業してふつうに就職。人生のレールを一歩たりとも踏み外したことのないのが強みでも、また弱みでもある。
雨美 あの、ちょっとよろしいでしょうか?
社長さん 部屋? いっぱい空いてますよ。
ボウズ (文庫本「ブッダのことば」を読む)
雨美 いえ。
社長さん 駅からここまで何ルピー取られた?
雨美 ええと、百ルピー。
社長さん オートリクシャー?
雨美 はい。
社長さん 高いな。倍、取られている。
雨美 でも、日本円にしたら数百円ですから。
社長さん ダメ。そういうのダメ。インドって国はね、一度隙を見せると、どんどんつけこんでくる。身ぐるみはがされてポイ! なんていう話はそこらじゅうに転がってるんだから。あなたみたいにきれいだと、インド式マッサージをしてあげましょう。知ってる? インド式マッサージ。
雨美 いえ。
社長さん インド式マッサージをしてあげましょう。ハイ、上脱いで、次は下ね。危機感のない日本の女の子なんて、インド人の手にかかればあっという間に真っ裸にされてしまう。すっぽんぽん。生まれたままの丸裸。あとはなにをされるかわかるよね?
雨美 はあ――。
ボウズ (本から顔をあげ雨美を盗み見る。きれいな人だと思う)
社長さん 大丈夫。
雨美 はい?
社長さん ここまで来たら大丈夫。ここ「大和ハウス」には、日本人しかいないから。みんな仲間。悪いインド人、いない(と手を振る)。親切な日本人、いる(と自分を指す)。
雨美 あのう、この日本人を見なかったでしょうか(と紙を差し出す)?
紙はコピーで雨美は何枚も持ってきている。このようにインドで行方不明になる日本人がたまさかいるのである。
社長さん え?
雨美 人を探しているんです。
社長さん (紙を見る。知人である)あっ。
雨美 ご存知なんですね?
社長さん どういう関係の人?
雨美 兄です。
社長さん おい、ボウズくん。
ボウズ (突然で驚き)はい!
社長さん お嬢さんに、ラッシー(ヨーグルトの飲み物)を買ってこないか? 例のモナリザから出前だ。金はあとで払う。
ボウズ はい(と立ち上がる)。
雨美 いえ、いいです。
社長さん (ボウズに)ちゃんと氷は抜いてもらうんだぞ。
ボウズ わかりました。
ボウズは上手に去る。社長さんはボウズを場から外させる必要があったのである。
社長さん (重々しく)知っています。
雨美 いまどこにいるでしょうか?
社長さん どのような事情でしょうか?
雨美 勤めていた会社を辞めて、ふらっとタイのバンコクへ行ってしまって。そこからインドへ行ったらしく。いえ、母に連絡があったんです。バラナシにいるというのが最後の情報で――。とても居心地のいい日本人がやっているゲストハウスが見つかったとか。
社長さん 我々は、彼をサクラさんと呼んでいました。
雨美 ここにいたんですか?
社長さん どうして彼を探しているんですか?
雨美 答えなきゃいけませんか?
社長さん 事情を知らないことには――。
雨美 あの――。
社長さん はい。
雨美 私、結婚することになって。会社の同僚となんですけど。
社長さん そう(畜生!)。
雨美 結婚式に来てほしくて。それに、あの、ほら、あれじゃないですか? いい歳をした兄が海外でふらふらしているとか、世間体が悪いじゃないですか?
社長さん ――(どきり)。
雨美 そう思いませんか?
社長さん いろいろな考えかたがありますから。
雨美 兄には伝わっているはずなんです。結婚式の予定日まで。そうしたら急に連絡が取れなくなって――。
社長さん インドまで来てしまったと?
雨美 はい。もう会社は辞めて、いま有給を消化しているところです。
社長さん ホテル、もう決めましたか?
雨美 いえ。
社長さん 今日はここに泊まってください。
雨美 はい? どうして?
社長さん サクラさんは昨日までここに泊まっていました。
雨美 ああ!
社長さん 慌てない。昨日、出て行きました。
雨美 どこへ?
社長さん 知りません。
雨美 そうですか(がっくり)。
社長さん 大丈夫。みんなサクラさんのことを知っています。だれかに行き先を言っているかもしれない。聞いてみたらいい。それに――。
雨美 それに?
社長さん サクラさんは、ここへ帰ってくるかもしれない。
雨美 本当ですか?
社長さん 本当。
雨美 ここ泊まります。
社長さん そうしなさい。スペシャル・シングルルームを、うーん(値踏みするかのように雨美を見る)。
雨美 (緊張する)
社長さん あなただったら、百五十ルピーというところでしょう。
雨美 安い!
社長さん いや、もっと安くなるかもしれない。
雨美 あなたは――。
社長さん あ、勘違いしたかな。私、旅行者。オーナーじゃない。
雨美 ええ?
社長さん オーナーはいま奥で寝ている。ここは、そういう難しいこと、なし(と両腕で×を作る)。
雨美 はあ。
社長さん そうと決まったら部屋までご案内しましょう。(さも重大な発見をしたかのように)ああ!
雨美 どうしましたか?
社長さん 暑くない?
雨美 はい。
社長さん 汗かいてる?
雨美 はい。
社長さん 部屋に荷物を置いたら、まずシャワーを浴びるといい。案内しましょう。
雨美 案内?
社長さん ここ、部屋ごとにシャワーはないんです。共同。みんな仲間。フレンド。複数形はフレンズ。
雨美 はあ。
社長さん 一階のあの部屋がいいな。(ウキウキと)それからおなじ一階のバスルームだ。さあ、お客さん、さあ、どうぞ。うん、あなた、ついている。最高の部屋がある。窓からガンジス河が見える。
社長さんはカウンター内のカギを取ると、雨美と二人で下手へ消える。
先生が下手から入ってくる。テーブルの上の紙を手に取る。
先生 (紙を読み上げ)この人を探しています。ご存知のかたは至急ご連絡ください。なんだ、サクラさんじゃないか。
社長さんの大声が聞こえてくる。
社長さんの声 さあさあ、バスルームはこちら。いえ、ハハ、バスと言ってもシャワーしかない。それでもバス。バースは阪神。あ、知らないね。アハハ。この時期、お湯は出ない。水だけ。暑いから平気でしょう? あ、私? はいはい、ロビーで待っています。ラッシーと待っています。
下手から社長さんが現われる。
先生 (紙を指し)これサクラさんじゃないですか?
社長さん そう。サクラのバカヤロウの妹がいま来てる。
先生 妹さん?
社長さん そう。サクラはアホのトンチンカンだが、妹は別嬪(べっぴん)。いまシャワー浴びてる。
先生 ――。
社長さん (ニヤニヤと)だから、シャワー。一階のシャワー。
先生 それが?
社長さん あ、先生は知らないのか?
先生 なんのこと?
社長さん (好色な笑みを浮かべ先生に顔を近づける)
先生 (思わず後退する)
社長さん 一階のバスルーム、裏側からのぞける。穴があって、丸見え。ウシシ、わかる? 丸見え。常連はみんな知っている。
先生 それで?
社長さん またまた、先生。ラッキー。交替で見ましょうね。さあ、レッツゴー!(と先生の肩を押す)
先生 私は――。
社長さん 行かないの?
先生 (迷う)
社長さん 急がないと終わっちゃう!
先生 (迷う)
社長さん じゃ、来たくなったら来て。玄関を出て、左の隙間を入ったところだから。
社長さんは玄関へ駆け出す。上手に去る。
先生は椅子に座る。すぐに立ち上がり玄関に向かう。ところが、思いとどまり、また椅子に戻る。すぐにまた立ち上がる。玄関に向かおうとするが、頭を振り、椅子に戻る。当時のインドにはAVどころかエロ本の類いはまったく売っていない。いくらインド哲学が好きな先生とはいえ、若い女の裸の誘惑にはあらがいがたいのである。それも日本人の女である。先生は何気なくテーブルの上の本を取り上げる。ボウズの本である。
先生 「ブッダのことば」か。懐かしい。むかし読んだ。こういうときブッダだったら、どうするか――。
先生は「ブッダのことば」を乱暴にめくっていく。いかにせん、わが煩悩。しかし、のぞきは変態行為。いかにせん、わがプライド。先生の頭の中で色即是空と空即是色が交互に入れ替わる。先生は本をテーブルに投げ出すと、玄関へ走る! いくら先生とはいえ、逆らえないものがあるのである。偉大なるかな、若きオナゴよ! 偉大なるかな、女の裸よ!
そのとき玄関からラッシーを持ったボウズが入ってくる。先生とボウズは危うくぶつかりそうになる。先生は我に返る。
先生 ボウズくん!
ボウズ はい?
先生 きみに感謝する! おかげで私は救われた!
ボウズ (わけがわからず)はあ――。
先生 ありがとう(と深々と頭を下げる)。
ボウズ なんのことだかわかりませんが、どうもいたしまして。
ボウズはラッシーをテーブルに置く。人探しの紙に気づく。
ボウズ (読み終え)これ――。
先生 そう、サクラさん。
ボウズ なんか喧嘩していましたよね? 先生も社長さんも怒っていた。サクラさんも怒って出て行っちゃった。
先生 喧嘩?
ボウズ 喧嘩じゃないんですか?
先生 あれは見解の相違というやつでね。
ボウズ どうしてこれが?(と紙を持ち上げる)
先生 そうそう。いまサクラさんの妹が来ているらしい。
ボウズ あれサクラさんの妹さんなんだ!
先生 見たのか?
ボウズ はい。とてもきれいな人でした。
先生 きれいか――(また性欲が目覚める)。
ボウズ あんな人がこんなところに泊まるんでしょうか?
先生 いまシャワーを浴びている。
ボウズ へえ、泊まるのか。
先生 ボウズくん! ここの、一階のバスルームの、そのう、なんというか、そうだ、構造を知っているかな?
ボウズ 構造?
先生 またまた、知ってるんだろう?
ボウズ なんのことですか?(本当に知らない)
先生 そうか。
ボウズ どうかしましたか?
先生 ボウズくん、ブッダはなにを悟ったと思うかな(と本を指す)。
ボウズ 先生に自分の考えを言うのは、おこがましいというか――。
先生 いいから言ってみなさい。
ボウズ ほしがりません、かな。
先生 ほしがりません?
ボウズ よくわかりませんが――。
先生 ということは、つまり、ブッダならぬ人間はほしがるのだな? ほしがっていい?
ボウズ たぶん――。
先生 サクラさんの妹はきれいだった?
ボウズ これは絶対!
先生 (立ち上がり)ちょっと――。
ボウズ 一人にしないでくださいよ!(雨美と二人になるのが怖い)
先生 社長さんに呼ばれているんだ!
先生が玄関から出ようとしたその瞬間、入ってくるものがいる。
桜井武雄(30)である。この男をひと言で表現すれば優柔不断である。中途半端なのだ。どっちつかず。社長さん、先生、オトーチャンまでは腐っていないけれども、妹の雨美や大学生の栗原翔太と比べたら頭のネジが相当にゆるんでいる。桜井と実名で書くか、サクラと親しみを込めて呼びかけるか迷うところだが、とりあえずは前者を選択しておこうと思う。
桜井と先生は正面衝突する。両者、しりもちをつく。桜井はバックパッカー・スタイル。ほかの宿から戻ってきたところである。
先生 (幽霊でも見たかのように)ウワアアアア!
桜井 どうしたんですか?(と立ち上がり、バックパックをそこらに置く)
桜井は先生を引き起こす。
桜井 ああ、先生だ。懐かしいな。うん、懐かしい。たった一日逢わなかっただけでも、とても懐かしく感じる。あのときはごめんなさい。僕が悪かった。良くなかった。先生に、ああいうことを言っちゃいけない。失礼しました。
先生 (突然のことに硬直している)
桜井 どうしました? 僕です。サクラです。もう忘れちゃいましたか?
先生は玄関を出て行く。社長さんを呼びに行ったのである。この兄妹再会をどうしたらいいのか。桜井雨美はまだシャワーを浴びているのか。さすがの先生でも頭のなかが混乱してしまい、こういうときに頼れるのは社長さんしかいないと思ったのである。
桜井 先生がおかしいのは相変わらずだな。よお、ボウズくん!
ボウズ (雨美が気になり下手を振り返る)
桜井 どうだい? 「大和ハウス」は繁盛している? お、またその本か(とボウズに近づき椅子に座る)。
ボウズ (テーブルにある人探しの紙をとっさに隠してしまう)
桜井 うん? それなに?
ボウズ なんでもありません。
桜井 隠し事?
ボウズ いえ。
桜井 やっぱり、ここは落ち着くな(と腕を伸ばす)。
ボウズ (下手を振り返る)
桜井 前からボウズくんに言おうと思っていたんだ。いや、人に説教できるガラじゃないけどね。うん? 聞いてる?
ボウズ はい(それどころではないのだが)。
桜井 もっとね、自分に自信を持ったほうがいい。ボウズくんは、よく見たら顔だって悪くない。性格もいい。そんな難しそうな本を読めるのだから、僕よりも頭はいいだろう。コンプレックス。わかる。コンプレックスに縛られているのだろう。コンプレックスなんか捨てちゃえばいい。ずっと自由になれると思う。
桜井は玄関に背を向けて座っている。
玄関のドアが開き、先生と社長さんが現われる。先生が社長さんの手を引く格好。
社長さん (先生に向かって)なんだよ。邪魔しやがって。オッパイどころか、あそこまで丸見え。あのおねえちゃん、サービス満点! サービス最高点! しゃがんだり、立ったり、丸見え。オッパイ、あそこ、おしり、ぜーんぶ丸見え!
桜井 (振り返り社長さんだと気づくと立ち上がる。社長さんの猥談を懐かしく見守る)
社長さん (桜井に気づき)ギャアア!
桜井 どうしたんですか、社長さんまで。
社長さん お、お、おまえ――。
桜井 とりあえず昨日はおなじバラナシに一泊して、さて、どこへ行こうかって思ったんです。そうしたら急にここが懐かしくなって。ハハ、戻ってきちゃいました。暴言、あやまります。別れてみて、わかりました。僕、社長さんや先生のような友達、人生でいなかったかもしれない。
社長さん ボウズくん、紙!
ボウズ (人探しの紙を桜井に渡す)
桜井 (紙を読む)どうしよう。ねえ、どうしたらいいんです? (雨美が)いまどこ?
社長さん (うろたえる)
先生 (ボウズを見る)
社長さん (悲鳴のように)ボウズくん!
ボウズくんは社長さんの意図を汲み下手へ見にいく。すぐに両手で×を作って駆け込んでくる。桜井、社長さん、先生、顔を見合わせる。うなずく。我々は仲間である! 三人は玄関から出て行こうとするが忘れ物に気づく。桜井が床のバックパックを取りに戻りかける。ボウズはもう時間がないことを精一杯の動作で三人に伝える。社長さんと先生は桜井の両脇をつかまえて玄関から出て行く。友情によってしか為しえぬ美しい連係プレーである。
その瞬間、桜井雨美が下手から登場する。新しいTシャツに着替えている。風呂上がりの女性は色っぽいものである。
ボウズ (セーフと胸をなでおろす思い)
雨美 あの、なにか?
ボウズ (振り返り)いえ、ちょっと。
雨美 (床のバックパックに気づき)だれか?
ボウズ (教えていいものか迷う)
雨美 無理にってわけじゃないけど(と椅子に座る)。
ボウズ ちょっとした事情が。
雨美 そう。
ボウズ ごめんなさい(と椅子に座る)。
雨美 (話題をかえて)シャワー、途中で水が出なくなっちゃった。どうにかできないかって、いろんなところをいじってみたけれど、ダメ。もしかしたら壊しちゃったのかもしれない。
ボウズ もとから調子が悪いんです。夜はどばどば出ますから。
雨美 髪、洗わないでよかった。石鹸、取れたかな。石鹸臭くない?(とボウズに身体を近づける)
ボウズ (異性を感じて、どきり)
雨美 (こちらも相手に異性を感じる)
ボウズ (ごまかすように)ラッシー(どうぞ)。
雨美 ありがとう(とストローから飲む)。おいしい。
ボウズ (ぎこちない動作で本を開く)
雨美 あの――。
ボウズ (緊張してかん高い声で)ハイッ!
雨美 (クスリと笑い)おかしい。
ボウズ よく言われます。
雨美 学生さん?
ボウズ いいえ。
雨美 (気まずい)
ボウズ あの、その、ええと、なんていうか、僕は――。
雨美 無理しないで。
ボウズ 見えないかもしれないけれど、僕、東大卒なんです。
雨美 へえ、すごい。
ボウズ ぜんぜんすごくなくて、逆にコンプレックスで、僕、こんなだから、それにあの、氷河期で、就職も失敗して、誰も知らないような物流会社にしか入れなくて――。
雨美 こんなってどんな?
ボウズ 見ればわかりませんか?
雨美 なにが?
ボウズ 会社でもあいつは東京大学だ、なんていじめられて――。
雨美 そう。
ボウズ トーダイくんとかあだ名をつけられて、だけど、仕事ができないから、かえってバカにされて。
雨実 向き不向きがあるじゃない。
ボウズ 上司に頭からコーヒーかけられるようなこともあって――。
雨美 ひどい。
ボウズ 一年もしないうちに会社、辞めちゃいました。母親からは東大まで行かせたのにって、なじられました。アルバイト、ぽつぽつしながら、いろいろ考えたんです。
雨美 なにを?
ボウズ 恥ずかしいけれど――。
雨美 いい。
ボウズ ――。
雨美 恥ずかしくない。
ボウズ 人生ってなんだろう? 生きる意味はあるんだろうか?
雨美 (衝(つ)かれる)
ボウズ 笑っていませんか?
雨美 (首を振る)
ボウズ 本当に?
雨美 大事なことじゃない。
ボウズ ブッダの生まれたインドに来たら、なにかわかるんじゃないかって思って来たけれど、インド人が怖いんです。正しい英語なんかぜんぜん通じない。声をかけてくるのは、詐欺師ばかり。こうして日本人宿に引きこもっています。でも――。
正確には、ブッダが生まれたとされるのは現在ネパール領のルンビニーだが、聖人ブッダが誕生し活躍したのはインドであることは間違いなく、訂正の必要はないと思う。
雨美 でも?
ボウズ ここで社長さんや先生に出逢って、日本じゃ見たことのない人だって思いました。濃いっていうか、人間臭いっていうか。おもしろいんです。
雨美 社長さんと先生?
ボウズ 社長さんは、(あなたが)入ってきたときにいた人です。
雨美 あの人、どこかの社長なの?
ボウズ みんな社長さんって呼んでいます。それから先生。とにかく先生は先生なんです。オトーチャンもとってもあったかくて。あんな広くて深い人に、僕、正直はじめて逢いました。
雨美 オトーチャン?
ボウズ ここのオーナーです。
雨美 (ラッシーをストローから飲む)
ボウズ (見ている)
雨美 飲む?
ボウズ いえ。
雨美 そういうの、気にする人?
ボウズ いえ。
雨美 なら(とグラスをボウズのほうへ)。
ボウズ (おなじストローから飲む)
雨美 (ふざけて)間接キッス。
ボウズ ごめんなさい(とグラスを雨美へ戻す)。
雨美 すぐにあやまらない(と、またラッシーを飲む)。
ボウズ ごめんなさい。
雨美 また。
ボウズと雨美、なんだかおかしくなって笑ってしまう。
ボウズにとって、こういった一連の会話は奇跡的なことなのである。なにしろ、いままでボウズは女性と心を打ち解けて話したことがないのだから。旅先のインドで美しい女性と知り合う! ボウズが日本で何度か妄想したことだが、まさか本当にこのようなことがあるとは! 人生は捨てたものではない、とボウズは思っている。
オトーチャンがふらふらと入ってきて、またカウンターのなかに座る。
ボウズ オトーチャン!
オトーチャン (無反応)
雨美 この人がオーナー?
ボウズ ええ。
雨美 どこかお具合が(悪いの)?
ボウズ (言っていいものか)
雨美 秘密?
ボウズ たぶん、大麻かなにか――。
雨美 麻薬じゃない!
ボウズ ここらでは結構フリーっていうか。
雨美 (あなたも)やっているの?
ボウズ 僕は怖いから(やっていないと手を振る)。
雨美 よかった。
ボウズ (オトーチャンのほうを見て)大丈夫かな?
雨美 心配ね。
ボウズ 僕、小さいころに父を亡くしていて、お父さんの思い出ってほとんどないんです。
雨美 そう。
ボウズ でも、ここでオトーチャンに逢って、もし父が生きていたらきっとこんなふうじゃないかって。なんだか他人っていう気がしないんです。
オトーチャン ――。
雨美 オトーチャンって名づけたのは(あなた)?
ボウズ みんなそう呼んでいます。あ、僕、ここではボウズくん、って呼ばれています。これだから(と坊主頭を指す)。
雨美 いくつ?
ボウズ 二十六です。
雨美 ひとつしか違わない。
ボウズ 上? 下?
雨美 下と言いたいけれど上。でも、ほとんど変わらない。タメ口で話さない?
ボウズ これ、癖で。
雨美 聞いてばっかり。私は――。
ボウズ いいんです(と押しとどめる)。
雨美 どうして?
ボウズ こういう日本人宿では、相手のことを深く詮索しないのがルールなんです。
雨美 だったら、さっきはごめんなさい。ルール、破った。
ボウズ 僕が話したかっただけ。
雨美 ごめんなさい。
ボウズ 名前、いいですか?
雨美 桜井雨美。アメミは、雨が美しいと書く。ウミと呼ぶんだったら格好よかったのに、なんて思った時期もあるけれど。
ボウズ じゃあ、アミーにしよう。
雨美 なに?
ボウズ ニックネーム。ここ、ニックネームで呼び合うから。
雨美 アミー(と自分を指す)。
ボウズ うん。
雨美 新鮮。
ボウズ 気に入った?
雨美 うん。
ボウズ お兄さんを探しているんですよね?
雨美 そう(とうなずく)。
言うまでもないが、ボウズはアミーこと桜井雨美をすっかり好きになっている。
玄関から社長さんと先生がこそこそ入ってくる。
雨美 (社長さんに気づき)あ、どうも。
社長さん ハハ、ハハ(怪しい)。
先生 (シイッと口に人さし指を当て、ボウズに目配せをする)
雨美 (わけがわからずボウズに)うん?
ボウズ ――。
社長さん (雨美には)ハハハ、おい(とボウズを威嚇する)。
雨美 え?
なにげない様子を装って、社長さんと先生は床に置かれた桜井武雄のバックパックを運び出そうとする。
ボウズ (一世一代の勇気を振り絞って)アミー!
雨美 なに?
ボウズ あれ、お兄さんの(バックパック)!
社長さん (裏切ったな)
先生 (裏切ったな)
雨美 どういうこと?
ボウズ お兄さん、近くにいる!
雨美は玄関へ駆け出す。いったん消える。
社長さん ああ!
先生 きみという男は!
ボウズ ――。
雨美は玄関のすぐそばにいた兄を見つけ、「大和ハウス」ロビーまで引っぱってくる。
雨美 どうしてこそこそ逃げるの?
桜井 よくここまで来たな、ハハ(と笑うしかない)。
雨美 いくつになる?
桜井 知っているだろう。
雨美 いい歳をして、こんなところ(まで言って、まずいと気づき)、ここでなにをしている? 教えて。答えて。
桜井 なにをって――(と目が泳ぎ、社長さんや先生に助けを求める)。
雨美 ほかにやることがあるんじゃない?
桜井 社長さん!
雨美 社長さん?(と見る)
社長さん (動揺する)
桜井 先生!
雨美 先生?
先生 (動揺する)
雨美 タケオ!
ああ、哀しきかな、無職の桜井武雄は、もはや妹から「お兄さん」と呼んでもらえる身分ではないのである。
雨美 タケオ、いまから一緒に日本へ帰る。わかった?
桜井 ――。
先生 待ってくれないか。サクラさんは、私の、私の――人生の友人の一人なんだ!
雨美 (なにそれ?)
桜井 先生!(うるっとする)
先生 きみは――。
ボウズ アミーです。
先生 アミー?
雨美 そう、私、さっきからアミー。
先生 なんでもいい。アミーは、日本でなにをしている?
雨美 なにをって――。
先生 働いているか? 遊んでいるか?
雨美 少なくとも、こんなところで(言ってしまう!)ぶらぶらしているよりは――。
先生 こんなところってきみは、アミーだっけ。アミーはインドのなにを知ってる? バラナシのなにを知ってる? 人間の、人生のなにを知っている?
社長さん さすが先生は弁が立つな。
先生 社長さんも、なんか言ってやってください。この人はね、すごい人なんだよ。
社長さん (勢いに呑まれ)いや、先生ほどの人物ではありません。
桜井 社長さんも先生も、日本ではめったに見かけない立派な人だ。むしろ、日本なんていう小さな島国には、おさまりきらない人なんだ。
先生 日本で働いていれば、そんなに偉いのか? アミー?
雨美 そんなことは言っていませんけれど(先生の濃さ、臭みにたじろぐ)。
先生 日本で生活しているのが、そんなにすごいことか?
雨美 ――(自信がなくなってくる)。
先生 毎日、テレビを見る。雑誌でもいい。インターネットも最近は急にすごい。なに、町角の看板もメッセージはおなじだ。これを買え、あれを買え、だ。日本にいると、あれがほしい、これもほしい、となる。金を稼いで買ったとする。ところが、ちっとも満足しない。また、あれもほしい、これもほしい、となるからだ。人生、不満だらけ。人生の本質を楽しむということがない。
雨美 そんなことはないと思いますけれど――。
先生 生きているっていうのが、どういうことなのかさっぱり考えようとしない。ほしい、ほしい、ばかり。日本人はみな餓鬼になっている。うまいものを食いたい。いい服を着たい。いい家に住みたい。いい女、いい男から愛されたい。やりたい。くだらんね。なぜなら、なにを手に入れようともっと上があるからだ。上には上があるからだ。違うかね、アミー?(すっかり自分の弁舌に酔っている)
桜井 先生の言う通りだ!
社長さん ブラボー!(拍手する)
桜井 (遅れを取るまいと)ブラボー!(拍手する)
雨美 (わけがわからなくなる)
先生 (さらに興奮して)働きゃいいのか? うまいものを食えばいいのか? セックスすりゃいいのか? 人間は、そんなに安っぽいものか? 人生は、もっと深いものではないか?
雨美 (思わずうなずいてしまう)
先生 ここにいたらね、一日五百円もあれば、暮らせる。
雨美 五百円?
先生 ああ、そうだ。たったの五百円で日本の何倍も豊かな時間が持てる。というのも、バラナシでは時間がゆっくりと流れるからだ。ガンジス河の流れを見ながら自分という人間の来し方を考えてみるのもいいだろう。行く末も考えよう。河の近くで煙が上がる。死んだ人間を焼いている煙だ。ここで焼かれて灰になってガンジス河に流されるのが最上の幸福だと考える人がいる。
桜井 そうだよ、雨美!
先生 (うっとりと)人間の幸福とはいったいなにか? 人間が死ぬとはどういうことか? アミーは考えたことがありますか?
雨美 ――。
茶々を入れるようだが、いまこのときが先生の人生のクライマックスかもしれない。
先生 私はね、長らくインド哲学、インド思想というものを研究してきたが、最近ようやくブッダ――ご存知かな? 仏教の開祖だよ。ブッダの思想の根幹に到達したような気がするのだよ。
桜井 先生、教えてください!
社長さん この男はどこまで偉大なんだろう!
先生 ほしがりません。
ボウズ 先生、それは――(僕が)。
先生 なんだい、ボウズくん?(とすごむ。にらみつける)
ボウズ (呑まれ)なんでもありません。
先生 ほしがりません!(と拳を上げる)
桜井 ほしがりません!(と拳を上げる)
社長さん ほしがりません!(と拳を上げる)
先生 ほらボウズくんも。
桜井 ほら、自信を持つんだ。
ボウズ ほしがりません(と拳を上げる)。
四人そろってガッツポーズをしたような格好になっている。
インドで怠惰をむさぼる無職の日本人が栄光の勝利を手にした瞬間である。
雨美はあっけに取られている。
桜井 まあ、雨美もしばらくバラナシにいたらどうかな? 先生や社長さんからいろいろ学ぶところがあると思うよ。
雨美 (うなずくしかない)
玄関から栗原翔太(就職内定大学生)と井沢里子(62)が連れ立って登場する。
これが初登場の井沢里子女史について、いささか説明を加えたい。彼女は日本に一応亭主らしきものがいるが、もはや関係は冷め切っている。定年退職した夫と一緒にいると息が詰まるばかり。ところが、六十にしてバックパック旅行の味を覚えてしまい、いま人生が楽しくてたまらない。二人の子を育て上げた母でもある。よくも悪くも生活者意識が骨の髄までしみこんでいるので、社長さんや先生のハッタリはまったく通じない。だが、同時に彼らを愛すべき人間だと思えるだけのやさしさを有している。「大和ハウス」ではサッチャンと呼ばれているが、この表記は現実像を正しく伝えていないと判断して、これからは里子と書こうと思う。
里子 そこでね、道に迷っちゃって。
栗原 わかります。このへん入り組んでますもんね。
里子 そこでちょうどよくこの子と逢って、ああ、助かった。
栗原 お役に立てて。
里子 (雨美へ)あら、新入りさん?
雨美 はい、アミーです(本能的に新参者二名は自分の味方であると察知する)。
里子 バラナシはどう?
雨美 まだ来たばっかりなので。どうですか?
里子 ばっちい町よね。牛のウンコがいっぱい。
栗原 サッチャン、踏みましたか?
雨美 サッチャン?
里子 そう、私、サッチャン。
雨美 フフ、だれが(つけたんですか)?
里子 自分でつけたの、ハハ。
先生、社長さん、桜井は風向きが変わったのを感じている。いまや四対三である。ボウズくんしだいで、いつ逆転されるとも限らない。
里子 あら、センセ~、怖い顔しちゃって。いやね。
先生 (里子が嫌いで相手にしたくない)
里子 ちょっと、センセ~、センセ~、センセ~(悪気はない)。
先生 うるさい! 私をバカにしているのか?
社長さん まあまあ(と先生をなだめる)。
桜井 (雨美に近づき)うん? ここでシャワー浴びたのか?
雨美 社長さんからすすめられて。
桜井 (社長さんを見る)
社長さん (慌てて)いえね、暑いんじゃないかと。親切、親切、思いやり!
桜井 (雨美に)もしかして一階のシャワー?
雨美 そうだけど、いけなかった?
里子 女性専用は二階。
雨美 そうだったの。
桜井 一階はね、一階はね、一階はね(とすごい形相で社長さんに詰め寄る)。
むろん桜井は一階のバスルームが外からのぞけることを知っているのである。
かつて社長さんと一緒に何人かの女子大生の裸体を楽しんだのかもしれない。
社長さん アハハ、エヘヘ、サクラさん、どうしたの? 俺たちは、俺たちは――。
桜井 俺たちは?
社長さん そうそう。あれだ。人生の友人じゃありませんか?
桜井 (はたと気づき先生のほうを見る)
先生 (うろたえる)わ、私はなにも知らないよ。社長さん、証明してください。
社長さん え? あ? うん? なにをだ?(大慌て)
桜井 雨美、これからは二階のシャワーを使いなさい。
雨美 どうしたの?
桜井 (強く)いいから!
雨美 わかった。
バタンと音がして、またもやオトーチャンがカウンターに突っ伏す。
社長さん 先生、人生の友人が、さあ大変だ。
先生 手伝ってください。
先生と社長さんは二人でオトーチャンを支えるようにして下手に消える。
いままで沈黙していたボウズが立ち上がる。
ほかのものはなにごとかとボウズを注視する。
ボウズ アミー!
雨美 なに?
ボウズ 僕にバラナシを案内させてもらえませんか?
桜井 (社長さんや先生とは違い)ああ、ボウズくんなら安心だ。
雨美 知ってる? ボウズくん、東大卒なんだよ。
桜井、里子、栗原は驚く。
ボウズ アミー。
雨美 いいじゃない。悪いことじゃないんだから。
ボウズ (なぜかペコリとお辞儀する)
雨美 じゃ、ボウズくん、案内して。
ボウズ はい(嬉しい)。
二人は玄関へ向かう。
雨美が桜井のもとに引き返してくる。
雨美 パスポート(と手を出す)。
桜井 信頼ないんだな。
雨美 パスポート。
桜井 (ズボンの裏側に携帯していたパスポートを差し出す)
雨美はパスポートを受け取ると、ボウズのところに向かう。
雨美 まずどこに行く?
ボウズ 火葬場にしよう。
二人は上手に消える。
取り残された桜井、里子、栗原。
桜井 フフ、ハハ、これにはちょっとしたわけがあってね。
里子 フフフ(あえて聞かない)。
栗原 フフフ(あえて聞かない)。
里子 ボウズくん、東大とはね。
栗原 驚きました。
里子 案外お似合いかも、あの二人。
桜井 え?
里子 火葬場でデートか。
桜井 あ、それは――(妹は、本当は)。
里子 なに?
桜井 いえ、なんでもありません。フフフ。
里子 フフフ。
栗原 フフフ。
暗転する。客席で現代の小野寺のスマホが最大限の音で鳴る。照明が夢幻的な色彩になる。耳にスマホを当てながら小野寺社長が客席から舞台に上がってくる。
現代の小野寺 わかった。まだ結果は出ないか。俺が直接行こうか? そうか。わかった。
下手からボウズこと過去の小野寺が現われる。
過去の小野寺 どうでしたか?
現代の小野寺 ひどい芝居だ。見ていられない。ネットでボコボコに叩かれるぞ。まずあの社長さんというのはなんだ? のぞきはセクハラどころか犯罪だ。いまだったら警察にしょっ引かれる。大麻も犯罪だ。コンプライアンス重視のご時勢。こういう芝居が受け入れられるはずがない。(観客に向かって)誰かスマホで証拠になる録音や動画をとった人はいませんか?
過去の小野寺 懐かしくはなりませんか?
現代の小野寺 (無視して)フェミニストに批判されるぞ。役者の男女比が男に偏り過ぎているじゃないか。
過去の小野寺 だから、紅一点のアミーが光るんじゃないですか。
現代の小野寺 (聞かずに)二十年まえは日本の円がまだ強かったんだな。しかし、こういうぐうたらな日本人がいたから、いまひどいことになっているんじゃないか。(強く)少子化。人口減少。増税。子育て支援。社会保障。年金問題。人生百年時代(その他、二〇二四年上演時の問題をあげていってください)。上がらない給料。上げろと言われても上げられないんだ。――コロナは、うーん、関係ないか。あいつら、だらだらしやがってムカムカする。働けよ。なんでもいいから働け。
過去の小野寺 アミーはどうでしたか? アミー。
現代の小野寺 そういえば、そんなこともあったな。
過去の小野寺 ほうら――。自分には嘘をつけない。
現代の小野寺 ――(センチメンタルな思いに一瞬ひたる)。
過去の小野寺 帰らないでくださいよ。(観客に向かって)みなさまも帰らないでくださいね。休憩時間にみなさまの二十年まえはどうだったか思い返してみてください。
現代の小野寺 若僧が偉そうに(と過去の自分につかみかかろうとする)。
過去の小野寺 (さっと交わして)じゃあ、僕はこれからインド、バラナシの名物、火葬場に行ってきますね。いまから休憩に入ります。
暗転する。
第二幕
暗転する。暗闇のなか、たきぎの燃える音がする。最初は弱く、しだいに炎の勢いは強まっていく。なにもかも焼き尽くして灰にしてしまう業火の轟音(ごうおん)が耳をつんざく。ガンジス河沿いにある火葬場のイメージ。しだいに炎の勢いは弱まり――。
舞台は、第一幕とおなじ。一週間後の夕方。
ボウズくんが椅子に座り岩波文庫「ブッダのことば」(※1)を読んでいる。
ボウズくん (本を読み上げる)「熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。彼らにはつねに死の怖れがある。――若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る」。
なお、彼はこの一週間で劇的な成長をしたため、敬意を表してこれからはボウズではなくボウズくんと呼ぶことにする。同時に桜井雨美はこの一週間で「大和ハウス」にすっかりなじんだのでアミーと表記したい。
下手からパンジャビドレスを着たアミーが現われる。インド人女性の伝統的民族衣装といえばサリーが有名だが、アミーはもっぱら未婚女性が着用するパンジャビドレスのほうを好んだようである。なんのことはない、アミーはインドにかぶれてしまったのだ。
アミー どう?
ボウズくん アミー(見とれる)
アミー おかしい?
ボウズくん ううん。とっても似合う。
アミー よかった。
ボウズくん ――。
アミー フフ、おかしいね。インドでぶらぶらしている兄を叱りに来たのに、これじゃ。
アミーはむろんボウズくんが自分にぞっこん惚れこんでいるのを知っている。なかば本能的(メス!)に婚約者がいること、結婚式の日にちまで決まっていることを隠しているのだ。いや、アミーにとっては隠しているという意識はない。たまたま言っていないだけのことである。
ボウズくん ううん。
アミー 悪い人ではないとは思うけれど、先生や社長さんに降参したわけでもないの。
ボウズくん どういうこと?
アミー 私、日本で餓鬼じゃない。CMだって広告だって、かなり冷めた目で見てる。日本にいる日本人は物欲のかたまりみたいな言われかたされちゃ迷惑。ボウズくんだってそうじゃなかった?
ボウズくん うん。ほしいもの、そんなになかった。というか、ぜんぜん。車もほしくないし、そもそも免許ないし、お酒ものまないし(と日本での生活を思い返す)。
アミー なに?
ボウズくん え?(と我に返る)
アミー やだ。透けてる?(と胸のあたりを気にする)
ボウズくん (あせって)ぜんぜん。
オトーチャンが下手から現われる。いつものようにニコニコしている。
ボウズくん どうも(ペコリ)。
オトーチャン (目礼を返す)
アミー じゃ、行こう。
「大和ハウス」では入口ロビーにかならずだれかがいる決まりになっている。宿泊者は安い料金で泊めてもらうかわりに、ボランティアでスタッフも兼ねるのである。
ボウズくんとアミーが玄関から出て行こうとしたとき、ちょうど里子が観光から戻ってくる。
里子 (アミーに)あら、きれい。
アミー フフ、この格好で外に出てみたくなって。
里子 またデート?
アミー いえ、そういうわけじゃ――。
ボウズくん (デートじゃないの?)
里子 ボディーガードしっかり!
ボウズくん はい。
ボウズくんとアミーは玄関から出て行く。
里子 若い人はいいわね。フフ、あの二人はどうなるのやら。
オトーチャン (ニコニコ)
里子 (かなりぶしつけにオトーチャンをじろじろ見る)
オトーチャン (動じずニコニコ)
里子 だまされない。いま素面でしょう?
オトーチャン ――。
里子 年寄りを舐めちゃいけません。
二人はしばらくにらめっこをする。
オトーチャン (観念して)わかりますか?
里子 はい。ときどき素面なのに、そのう――。
オトーチャン キマッテル。
里子 そう、キマッテルふりをしていることがある。
オトーチャン ここから(とカウンターを指し)なんでも見られている、聞かれている、と思うと気まずいでしょう?
里子 それもそうね。
オトーチャン 気づいても言わないでください。
里子 ふしぎな人。
オトーチャン 詮索はなし(と口に人差し指)。
栗原翔太が下手から登場する。
栗原 いまいいですか? 今日発ちますから料金の精算をお願いします。
オトーチャン (ニコニコ)
里子 はい、どうぞ。
このゲストハウスでは、宿泊客が経理をしてしまうことさえあるのである。
栗原 居心地よくて二週間もお世話になりました。本当はほかも廻る予定でしたが(と金を渡す。千四百ルピーなり)。
里子 (ノートに記録しながら)最後の大学生。
栗原 予定では帰ったら、三日後に入社式なんです。ちゃんと日本に対応できるか。
里子 大丈夫。
栗原 オトーチャン、また来ますからね。
オトーチャン 来ることはない。
栗原 (素面なのに驚き)え?
オトーチャン いま残っているやつらを見てみろ。救いようがないだろう。
栗原 そんな、はっきり――。
オトーチャン サッチャンは別ですよ。
里子 ううん。(明るく)救いようがない。
オトーチャン また来ることはない。
栗原 どう答えたらいいんだろう(と苦笑)。
オトーチャン しかしね、日本でどうしようもなくなったら、ここを思い出してほしい。ここにはまだ救いがあることを。
栗原 どうしようもなくなったら――。
オトーチャン そうだ。
栗原 わかりました。じゃ、いま荷物まとめているんで、もう少ししたら。
オトーチャン おう! 日本でがんばれよ!
栗原 はい、ありがとうございました(と一礼する)。
栗原は下手に去る。
オトーチャン (栗原のいなくなったほうを見ている)
里子 聞いていい?
オトーチャン (首を振る)
里子 どうしてここ始めたの?
オトーチャン さあ。
里子 さあって?
オトーチャン もう忘れました。
里子 嘘。
二人はまたにらめっこをする。今度は里子が負ける。
里子 やさしいのね。
オトーチャン ――。
里子 さみしい人ね。
オトーチャン ――。
里子 別れはいやになっちゃう(と下手に去る)。
オトーチャンはカウンターの引き出しから思い出のアルバムを取り出し眺める。人生は旅のようなもの。繰り返される出逢いと別れ。オトーチャンが天井を見上げたのは、涙がこぼれないようにするためなのかどうか。
話し声が聞こえてくる。オトーチャンは慌ててニコニコした顔を作る。
最初に先生が一人、玄関から入ってくる。
先生 (大声で)いない! 妹さん、いない。
桜井が玄関から入ってくる。
オトーチャン (ニコニコ)
先生 (椅子に座り)ひどい話だろう。社長さんが奢ってくれるというから、私はバターチキンを注文した。そのレストランでいちばん高いメニューだなんて知らなかった。ただバターチキンが食べたかったんだ。聞いてる?
桜井 はい(いささか、うんざりしている)。
先生 給仕がお飲み物はいかがしますか、と聞いてくる。こっそり、ここは冷えたビールもありますよ、なんてささやく。お、たまにはビールもいいね。一本じゃさみしいから一人一本ずつで二本。そういうふうに注文した。わかる?
桜井 わかります。
先生 食べ終わったら社長さんがねちねち言ってくること。バターチキンは高い。ビールは必要だったか。せめて一本でよかったのではないか。私は怒るときには怒る男だよ。そうだと思わない?
桜井 そうですね。
先生 私はね、(得意気に)バンと三百ルピーをテーブルに叩きつけレストランを出たんだ。
桜井 でも、バターチキンとビール一本だったら三百ルピーもしないでしょう。
先生 そこなんだな、問題は。三百ルピーをバンだよバン!
桜井 後悔しているんですか?
先生 私を侮辱しているのかね?
桜井 とんでもありません。
先生 いや、そうとしか思えない。
桜井 先生!
先生 ああん?(怒気)
桜井 ブッダ!
先生 それがどうした?
桜井 (からかって)ほしがりません!(と小さくガッツポーズ)
オトーチャン (笑いを押しとどめるのに必死)
先生 (怒って席を立ち)もうきみとは話をしたくない!
桜井 冗談に決まっているじゃないですか。三百ルピーをバン! 格好いいですね。さすが先生。やるな。僕にはとても真似できない。そのときの社長さんの顔を見てみたかった。
先生 (気を取り直し)そうだろう、そうだろう。あれは社長さんという器じゃないね。部長さん、いや、課長さんにしたほうがいい。
桜井 社長さんだからいいんでしょう? 社長ではなく社長さん。(女声で)「社長さ~ん寄ってって」の社長さん。
先生 (大笑いして)サクラさんは、おもしろいことを言うね。なかなか辛らつだ。
ちなみに、ここで問題になっている三百ルピーは日本円にしてわずか六百円である。
先生 で、相談というのは?
桜井 (席を立ち、カウンターのオトーチャンの前に行く)
オトーチャン (ぼんやり)
桜井 (たとえばシェーのポーズ)
オトーチャン (無反応)
先生 そんな重要な相談なの?
桜井 いえ、それほどでも(と席に戻る)。
先生 うん(とうながす)。
桜井 妹のことなんです。
先生 仲悪いよね。
桜井 そうでもないんですけど――。あのう、妹、明らかに、そのう、インドにはまっていませんか?
先生 ああ。心配?
桜井 あいつ婚約者がいるんです。結婚式の日どりまで決まっています。
先生 そうなの?
桜井 それで結婚式に僕を引きずり出したいらしく――。
先生 インドまで?
桜井 はい。
先生 あ、じゃあ、ボウズくんは?
桜井 まずいですよね。
先生 (どっちつかずで)うーん。
桜井 兄としてはどうしたらいいんでしょうかね?
先生 そりゃあ――。
桜井 (期待を込めて)はい。
先生 ――難しいね。
桜井 はあ(がっくり)。
先生 (威厳を保ち)難しいが答えがないというわけではない。こういうときは事態を正確に把握することが第一なのだが、まあ、要するにミイラ取りがミイラになってしまったわけだよね? ミイラの身としては、どうしたらいいか?
桜井 ミイラなんですか? 先生、ミイラ?
先生 私は――(違うと否定したいができない)。
桜井 僕、ミイラです。
先生 そうは見えないけどな。(自分を脇に置き)問題は――妹さんまでミイラにしてしまってもいいのか?
桜井 そうです。
先生 ――(考え込んでしまう)。
上手、玄関から社長さんがこっそり現われる。先生は上手に背を向けているから気がつかない。社長さんは口に人さし指を当て、桜井に言うなと指示する。
社長さん (先生の両目を手でふさぎ、とってもプリティーに)だーれだ?
先生 (本気で怒り、振り払う)ああん?
社長さん はい、三百ルピー(と差し出す)。
先生 いりませんよ。
社長さん 食事代、ノー! 研究費、イエース! アンダースタンド? これは研究費です。先生の研究にバクシーシ! お布施!
桜井 先生――(と仲裁に入る)。
先生 私にもプライドがありますから(と受け取り拒否)。
桜井 (なんて大人げないのだろうとなかばあきれながら)社長さんがせっかくこう言ってくれているんだから。
社長さん 先生!
桜井 先生!(二重奏である)
先生 (バカにされたと思い)なんだと!
里子が下手から登場する。
里子 最後の学生さんが出発するって! あら、喧嘩でもしてた?
社長さん (愛想よく)喧嘩なんて。さあ、これ。
先生 (しぶしぶ三百ルピーを受け取る)
里子 人生の先輩として、いいこと言ってあげなくちゃ。
バックパックを背負った栗原が現われる。
栗原 どうもみなさん、お世話になりました。
社長さん またどこかで逢おうな!
先生 仏教ではすべてはご縁だから、逢えるかどうかはわからないけれど。
桜井 日本に帰るのか。
里子 帰ったらすぐに入社式だって。
社長さん せいぜい偉くなれよ!
先生 インドに鍛えられたから、きみは大物になりそうだ。
桜井 またインドに来いよ!
栗原 (オトーチャンを見る)
オトーチャン (首を振る)
栗原 ボウズくんにお別れを言えないのがさみしいな。(明るく)とりあえず、なんて言うか(少し考え)お先に失礼します。(玄関前で)じゃあ、オトーチャン(と手を上げる)。
オトーチャン (軽くうなずく)
里子 私、表通りまで送っていく。
栗原 いいですよ。
里子 なんか息子のような気がして。
栗原 お子さん、いるんですか?
里子 二人。お母さんがインドに行くって言っても、ぜーんぜん心配してくれないけど。
栗原と里子は玄関を出て行く。
桜井 お先に失礼します――か。
先生 本当に失礼なやつだった。
社長さん ひがむのはなし。
先生 私がいつひがみましたか?
社長さん ――。
先生 ――若さへの多少の嫉妬はあったかもしれません。
社長さん 社会人になってしまったら、春休みなんてないから。
桜井 長い夏休みもなし。
社長さん そう。
三人はそれぞれ、いまのうらぶれた境遇を噛みしめる。
桜井 酒でも飲みますか? 僕、ウイスキー、持っていますから。乾杯、乾杯。
桜井は明るさを装って下手に消える。
社長さん ウイスキーならコーラで割らないと。俺、ちょっと買ってくる。
先生 いえいえ、今度は私が払います。
社長さん いいから、いいから。
先生 社長さんを使いっぱしりにするわけには――。
社長さん 先生はデーンと座っていればいいの。
そこにボウズくんとアミーが玄関から入ってくる。
先生 ちょうどいいところに。
ボウズくん そこで(栗原に)逢いました。
先生 学生さん?
ボウズくん はい。
先生 お別れを言えてよかったな。
社長さん (アミーのパンジャビドレス姿を見て)お、きれい。
アミー 兄、知りませんか? この一週間、私と顔を合わそうとしない。
下手からウイスキーの瓶を持った桜井が現われる。
桜井 おまえ、その格好は――(絶句)。
アミー どう? 似合う?
桜井 (爆発してしまい)結婚式はどうするんだよ! もう招待状も送ってあるって言うじゃないか!
ボウズくん ――。
アミー ――。
ボウズくん 結婚式?
アミー あのね、隠していたわけじゃないの。言う機会がなくて――。
ボウズくん 相手は?
アミー ――。
ボウズくん (大声で)相手はだれなんだよ!
アミー ――おなじ会社の人。
ボウズくんはパッと駆け出し、玄関から外に出る。
アミー (追いかけようとする)
桜井 (アミーの腕をつかみ)結婚式はキャンセルか?
アミー (力なく首を振る)
桜井 なら、行っちゃいけない。
アミー (うなずく)
桜井 (アミーを座らせ、自分も座り)ボウズくんとは?
アミー ――。
桜井 意味、わかるだろう?
アミー 一回だけ――。
桜井 一回だけ、なんだ?
アミー ――キスを。夕暮れ、ガンジス河を見ながら。
桜井 バカ。
アミー そういうんじゃないの。なんだかボウズくん、とってもさみしそうだったから。わかってもらえないかもしれないけど、励ましたくなって、私のほうから。
社長さん あいつ、自殺したりしないかな。
アミー (社長さんを見る)
社長さん ハハ、冗談だよ、冗談。
桜井 雨美、本当にそれだけか? ほかには?
アミー なによ。偉そうなこと言われたくない。この人(と兄を指し)、会社クビになって、恋人に振られて、ピイピイ泣きながら日本を逃げ出したのよ!
桜井 ――。
社長さん ――。
先生 ――。
里子が玄関から入ってくる。
オトーチャン (目線で制す)
里子 そこでボウズくんを(見かけた)! 泣いているようで様子がおかしかった。ギャーとかなんとか、みんな振り返るような大声を出して。私、声をかけたんだけど、走って行っちゃった。(場の気まずい雰囲気に気づき)あ、なんかあった?
桜井 (だれに言うでもなく)話を聞いてくれませんか?
全員着席する。里子のみ少し離れたところに座る。
桜井 僕はおかしいのでしょうか? ――主にコピー機を作っている会社の技術設計をやっていました。だれでもできる仕事ってわけじゃないけれども、自分一人しかやれないほど難しいわけではない。仕事は好きでも嫌いでもなかった。しいて言えば、好きだったのかもしれない。
社長さん やめようよ、ハハ。みんな、いろいろあるって。ねえ、先生?
先生 (難しい顔)
桜井 売れない。不況でものが売れない。そもそも新しいコピー機なんて、だれが必要としているのだろう。そういう視点がなかったのかもしれない。いろいろ新しい機能をつけたって、そんな機能は一年に一回使うようなもんだ。そのためにいちいち説明書を読むだろうか。しかし、そうはならなかった。営業以外もコピー機を一台ずつ売ろうじゃないかって話になった。苦しいときはみんなでがんばろう。冗談じゃねえよ。こんなもんだれに売りつけろっていうんだ。陰口を叩いた。それが上司の耳に入ったらしい。おまえは「こんなもん」を作っているのか、と叱責された。そんなことでクビになるのかっていう話だけど、実際なってしまった――。
里子 サクラさん、まだ若いし、なんとかなるわよ。
社長さん ――。
先生 ――。
里子 ――ごめんなさい。空気読めないみたい、私。
桜井 意外なほど落ち込まなかった。へえ、こんなふうに会社って辞めるんだ。のん気なもんだった。実家住まいだったし、貯金もあったから。こういうことって続くものなんでしょうね。恋人から電話で別れ話を切り出された。単刀直入。ほかの男を好きになった。実は、一ヶ月前からその男と同棲している。そう言われてはじめて、一ヶ月も彼女と逢っていなかったことに気づいた。
先生 (真情あふれて)女なんて、どいつもこいつもそんなもんだ。
桜井 だから、わんわん泣きながら日本を飛び出した、というわけではない。
アミー どういうこと?
桜井 むしろ、逆なんだ。自分が怖くなってきた。
アミー 自分が怖い?
桜井 三年ちょい付き合った彼女だ。たしかに最初は向こうから言い寄られたようなところがあるけれども、そんなことは関係ない。愛しているつもりだった。結婚を考えたことも何度かある。なのに、それなのに、なんにもない。相手の男は顔見知りだ。住まいは知っている。(突如興奮して)乗り込んで怒鳴り込んで組み伏せて――ボッコボコにしてやりたい。(冷静になり)そういう気持がまったく起きないんだ。こちらは無職だし、そりゃあ、あっちのほうがいいかな、なんて思っちゃう。怒りも悲しみも、なんだか空々しい。
里子 そういうことあるかも。
桜井 ある?
里子 ない?(とみんなに)
桜井 ふらっとバンコクにでも行こうかって思った。ピイピイ泣いたりはしていない。(ぽつりとアミーに)結婚して、子どもでも産むの?
アミー え? 急にどうして?
桜井 そういうの、楽しい?
アミー そんなこと言われても――。
里子 (実感を込めて)簡単じゃない。いろいろある。子どもを一人産んで大人になるまで育て上げるの、そんな簡単じゃない。嬉しいことも悲しいこともうんとある。わかったようなこと言われたくない。
桜井 でも、結局、大きくなったら離れていくんでしょう?
里子 ――。
桜井 お子さんいますか?
社長さん (首を振り)いない。
先生 (首を振り)いないが、なにか問題があるか。
オトーチャン ウウウ(顔つきが険しくなる)。
桜井 (ゆっくりと)したいことありますか? ほしいものありますか?
社長さん (慌てて)ううん、そのだな、ちょっといいもんをこっちで見つけて、それをだ、日本にいる知り合いに送って一儲けなんてことはね。こっちじゃタダみたいに安いものが、日本じゃ高級品になるから。ハハハ、先生だって、本を出したいでしょう? もう書いてますか?
先生 (慌てて)いやいや、私の、私の研究は、あと何年かかるか。これはもうインドの思想を根底から見すえようっていう腹づもりだから、ハハハ。これはね、完成して発表したら、それこそカーストの、カースト制度の底が抜けるようなもんだ。
桜井 ほしいものは?
社長さん 金。運転資金がほしいな。
先生 金。こちらは研究資金だ。
桜井 そうじゃなくて、金で買えるほしいものは?
玄関のドアが乱暴に開く。全身びしょぬれのボウズくんである。
里子 どうしたの? びしょびしょじゃない?
桜井 (投げやりに)ボウズくん、ほしいものある?
ボウズくん (つかつかとアミーに歩み寄り、おごそかに指さす)
アミー 私?
ボウズくん (うなずき)ほしい。抱きしめたい。裸にして、それから、それから、メチャクチャ、力一杯に抱きしめたい。やっぱり、抱きしめたい。
アミー ――。
ボウズくん でも、ダメなんでしょう?
アミー ――うん。
ボウズくん もう相手がいる。
アミー ――うん。
ボウズくん それは僕じゃない。
アミー ――。
ボウズくん 答えて。
アミー ――はい。
ボウズくん 僕ではない男を好きだ?
アミー ――(消え入るような声で)はい。
ボウズくん (大声で)バカヤロウ! バカヤロウだ! (早口で)バカヤロウ、バカヤロウ、バカヤロウ!
桜井 (真剣さに打たれる)
ボウズくん バカヤロウって、本をガンジス河に投げ捨てた。――「ブッダのことば」は流れていく。流れていけ。みんな流れてしまえ。流れろ、流れろと思う。でも、バカヤロウは消えない。もうだれも沐浴(もくよく)なんてしていないガンジス河にじゃぶじゃぶって入っていった。飛び込んだんだ。格好悪く、途中で足を滑らせた。そうしたら――。
アミー (うながすように)うん。
ボウズくん 一瞬、ふわっと浮いたような気がした。オトーチャン!
オトーチャン (ドキリとして思わず)なんだ?
ボウズくん 僕、明日ここを出て行く。ブッダの足跡をたどってみようと思う。八大聖地、ぜんぶ行く。日本で行きたいと思っていたところへ行く。やりたいことする。
オトーチャン そうか。これからの時期は暑いから大変だぞ。
ボウズくん 大変でいい。大変なほうがいい。アミー!
アミー なに?
ボウズくん 日本に帰って。こんなこと言える筋合いじゃないのかもしれないけど、日本に帰ってくれないかな。アミーがインドにいるって思うと僕――。
アミー わかった。
ボウズくん サクラさん!
桜井 なんだ?
ボウズくん アミーの結婚式に出席しないんですか? たった一人のきょうだいでしょう? こんなかわいい妹いますか? ほかに大切な人いますか?
アミー 飛行機代、出すから。
桜井 そのくらいある、バカ。
ボウズくん バカだった。結婚式とかなかったら、ふつう妹が兄を探しになんか来ませんよね。
アミー インド、来てみたかったってこともあるの――。
ボウズくん (いきなり)社長さん! 先生!
社長さん (なにを言われるか脅えて、逆に高圧的になり)なんだ! このクソボウズが! さっきから聞いてりゃ、ちゃんちゃらおかしい。女に振られたくらいで、めそめそガンジス河に飛び込みやがって。赤痢になっても知らねえぞ。
先生 (こちらも脅えて)社長さんの言う通り。ボウズくん、いっときの感情で行動するのは子どもだな。乳臭い感情論は学問の世界では通用しない。
オトーチャン おい!
先生 はい?
オトーチャン 先生よ、いったいどこでだれになにを教えていたんだ?
先生 それはですね(口ごもる)。
オトーチャン えせインテリが! いい大人が小学生のような悩みを大げさに語っているだけじゃないか。ここにおまえさんが先生だなんて本気で信じている人間が一人でもいるとでも思っているのか?(せせら笑う)
社長さん オトーチャン、なにを突然? お、俺が先生の生徒だから!
先生 (感激して)社長さんには、私のほうが人情の機微を教わっています。
社長さん いやね、先生、人生苦もありゃ、楽もあるさ。
先生 さすが社長さん! 人間を知っていないと商売はできない。
社長さん そりゃね、学問じゃ商売できませんから。
先生 商人(あきんど)の言葉は重い!
オトーチャン フン(と鼻で笑う)。
社長さん いったいどうしたんだよ、オトーチャン(泣きたい)。
オトーチャン ゴロツキのあんたを最初に社長さんと呼んだのはだれだか覚えているかい?
社長さん 覚えてねえよ、そんなむかしのこと――。
オトーチャン この俺だ。ジャンキーの俺があんたを社長さんってからかった。どうしようもない麻薬中毒者の俺が、だ。
社長さん (打ちひしがれる)
里子 (悲鳴のように)もうやめて、オトーチャン!
オトーチャン オトーチャン? 俺をいちばんはじめにオトーチャンと呼んだのは――(苦しみ悶える)。
里子 言わないでいい。やめよう、こんなこと!
オトーチャン (桜井に)あんた!
桜井 はい。
オトーチャン さっき、ほしいものはあるかって聞いていたね?
桜井 はい。
オトーチャン 俺は――息子がほしい。息子を生きて返してほしい。
里子 もういい。もういいじゃない。
ボウズくん オトーチャン、聞かせて。僕、オトーチャンのこと知りたい。
オトーチャン 俺にはできすぎた息子だった。一人息子。中学に入ると身長と一緒に、成績もぐんぐん伸びてね。小学生のころはこう(と下を示す)だったんだが、中学に入ったらぐんぐん、ぐんぐん(と上を示す)。信じられないくらいレベルの高い高校に合格した。そりゃあ、喜んださ。ところが、だ。受かった高校に行きたくないと言う。入学式から行かないと言う。疲れたと言う。なにもしたくないと言う。なにもほしくないと言う。ふざけるな、と思った。甘えるな。そんなことでは、これからどうして生きていける。殴った――翌日、息子は高校に行った。その帰り道、ビルから飛び降りた。死んだ。即死だった。十一年前のことだ。
静まりかえる。
オトーチャン 妻と別れ、ふと学生のころ旅をしたインドを思った。会社を辞めた退職金で十年前に「大和(やまと)ハウス」を作った。「大和(だいわ)ハウス」に勤めていたからせめてもの恩返し、いや、意趣返しかな。いつしか宿泊客からオトーチャンと呼ばれている。
社長さん 俺、オトーチャンの息子のようなもの!
先生 私もです!
桜井 僕も!
ボウズくん ――。
オトーチャン フン、できの悪い息子ばかりだ。
社長さん いないよりはいたほうが!
先生 そうですよ!
オトーチャン いまでも考えている。あのときの俺は正しかったんだろうか? 息子を叱ったりしないで、ひと言「休んでもいいよ」と言ってあげていたら――。
里子 辛いわね。
オトーチャン さっき、びしょぬれのボウズくんから、オトーチャンと言われた。ドキリとした。彼が実の息子のように見えた。生きていたら、ちょうどおなじくらいだ。
ボウズくん オトーチャン――。
オトーチャン 社長さん、先生、それからサッチャン! 悪いが明日、ここを出て行ってくれ。しばらく宿を閉めようと思う。
社長さん どうして? どこに行けって言うんだ?
オトーチャン なにかしたいことはないか?
社長さん なにもできやしねえ。
オトーチャン フフ、じゃあ、死んでしまえ! 燃やしてガンジス河に流してやる。
社長さん そりゃ、きっつい(と苦笑)。
オトーチャン なにかできるだろう?
社長さん うーん。
オトーチャン 社長さんなんだから。
社長さん からかわないで。
先生 社長さん、やれますよ!
ボウズくん 僕もやれるって思う。
社長さん (調子よく)そうか?
里子 やれる。私よりずっと若い。
社長さん そうだな。ハハ、一丁、本気を出すか。
先生 私もやります!
里子 そうそう、その気!
オトーチャン お願いがある。しばらく一人にしてくれないか――。
社長さん よし、今晩はお別れパーティーだ。
社長さんが中心になって、オトーチャン以外は下手の玄関から出て行く。
オトーチャンはドアをロックする。一人さみしい。しかし、自分もなにごとか為しとげようと思う。ラジオ体操の要領で身体を動かしてみる。まだ老いていない、まだやれる、と自分に言い聞かせるように。
ドアがガタガタ動く。オトーチャンが開けに行く。ボウズくんである。
ボウズくん この服じゃ(と小走りで下手方向へ)。
オトーチャン 待て。
ボウズくん はい?
オトーチャン (手を差し出す)
二人、中央へ歩み寄る。
ボウズくん (その手を握る)
オトーチャン (思わずボウズくんを抱きしめてしまう)
ボウズくん (抱きしめ返す)
暗転する。
雨音が聞こえる。それから、ちろちろ水が流れ出る音がする。しだいに水量は増していく。大量の水が流れ落ちる音。滝の轟音が耳をつんざく。やがてすべての水は流れ終わり、大海のただなかにいるような静寂につつまれる。しばらくして波の音が聞こえる。暗闇のなかオトーチャンの声が響く。
オトーチャンの声 ボウズくん、お手紙ありがとう。無事、ご帰国とのことで安心しました。私はあの後、旅に出ました。おそらくボウズくんがそうだったように、私も暑いインドを歩きたかった。汗をかきながら歩きたかった。俳人、山頭火の句にあります。「どうしようもない私が歩いてゐる」(※2)――。どうしようもないけれど、私は歩くことができる。歩くしかない。どうしようもない。そう思いました。どこを歩こうか? 目の前のガンジス河を下ることにしました。鉄道を乗り継ぎ、パトナー、コルカタを経て、ベンガル湾の先、ガンガー・サーガルにたどり着きました。もちろん、だからといって、なにもありません。今度はガンジス河をさかのぼることにした。アラハバード、リシケーシュを経て、ガンゴードリーに着いた。さらに山道を上り、ガンジス河の源流、ゴームクに行き着く。この先はもうなにもない。なんにもない。涙があふれてきました。息子が生きていたらと可哀想でならなかった――。もうバラナシに戻ってきています。明日には「大和ハウス」の営業を再開します。どうか立派な人間になってください。
除夜の鐘を突くような、大きな鐘の音が十二回、繰り返される。
オトーチャンの声 あれから一年が経った。
明るくなり、舞台はおなじ。ただし一年後。正午過ぎ。
カウンターにオトーチャンがいる。せっせとノートになにかを書いている。少しは仕事をする気になったようである。
ロビーにはサッチャンが座る。六十三歳になった井沢里子は、もうすっかり宿の常連なのでサッチャンと呼ぶことにする。サッチャンはサリーを身にまとっているが、お世辞にも似合っているとは言えない。
サッチャン (立ち上がり)正直に言って。迷惑なんでしょう?
オトーチャン なんべん言えば、わかるんだ。迷惑じゃない(実は少し迷惑である)。サッチャンはとてもいいお客さんだと思っています。
サッチャン お客さん? これだけお手伝いをしているのにお客さん?
オトーチャン じゃあ、なに?
サッチャン あ、勘違いしている。
オトーチャン してない。
サッチャン なにを? なにを勘違いしてない?
オトーチャン ――(わからない)。
サッチャン 人の話、ぜんぜん聞いてない。
オトーチャン 聞いてるよ。
サッチャン 好かれている、とか思ってない?
オトーチャン だれに?
サッチャン 私からに決まっているでしょう。残念でした。日本には旦那も子どももいますから。
オトーチャン 知ってるって。
サッチャン 前の寡黙なオトーチャンだったら、少しはかわいげがあったのよ。すっかり変わっちゃって。むかしは商売っけなんてなかったのに。
オトーチャン こんな安宿で儲けようがないだろう(と下手に向かう)。
サッチャン 逃げるの?
オトーチャン サッチャンを信用して、ここを任せるの! またシャワーの調子が悪いっていうから(下手に消える)。
サッチャン 本当にもう。――信用? フフフ、信用ねえ。掃除でもしましょうかね(と日本漫画を片付け始める)。
玄関のドアが開き、アミーこと雨美とその夫の会社員(33)が入ってくる。
雨美は人妻の落ち着きを身に備えている。パンジャビドレスを着て、ボウズくんと遊び歩いたアミーは消えてしまったのだ。もうどこにもいない。雨美は去年のバラナシ一週間で、おのれの青春を使い果たしてしまったのだろう。しかし、どこか自身のなかのアミーを懐かしんでいる。
その夫の会社員は、とても人当たりがよく、だれからも好かれる風貌を持っている。だれか友人に夫として紹介するのなら、これほど自慢できる男性はめったにいないはずである。将来的にもおそらく大きな失敗はせず、かならずや雨美を幸福にしてくれることだろう。
雨美 (サッチャンに近づき)ああ、懐かしい。サッチャン!
サッチャン だれ? だれ? ちょっと待って。言わないで。ここまで出てきているから。
雨美 じゃあ、言わない。
サッチャン (しばらく考え)降参。
雨美 アミー。
サッチャン そう、そうね! 覚えてはいるのよ。もしかしてこちらの人は――。
会社員 ――。
雨美 フフフ(照れ笑い)。
サッチャン 結婚おめでとう、アミー。
雨美 ありがとう。新婚旅行はぜったいここって決めていたから。(会社員の夫が)長い休みを取れるまでだいぶ待った。
サッチャン 待ってて。みんなを呼んでくるから。
サッチャンは小走りに下手に消える。
雨美 みんな――。
会社員 だれ、あのおばさん?
雨美 だから、サッチャン。
会社員 サッチャンじゃわからない。
雨美 そう言われたら、そうかもしれないけれど。
会社員 新婚旅行なのに、こんな汚いところに泊まるの?
雨美 汚い? 私、こんなすてきなゲストハウスはないって――。
会社員 汚いじゃない。
雨美 一日くらいダメ?
会社員 どうしてもって言うんなら――。
雨美 おかしいな。どうしちゃったんだろう。むかしとぜんぜん変わらないはずなのに。
まずオトーチャンが下手から登場する。
少し遅れてサッチャンに押し出されるように社長さんと先生が登場する。二人は相も変わらず小汚い格好をしている。社長さんと先生は会社員の醸しだす堅気の雰囲気に一瞬だけ呑まれそうになるものの、ここはホーム。すぐに自分を取り戻す。
オトーチャン よく来たね。新婚旅行だって。
雨美 お久しぶりです。
社長さん よお!
雨美 こちら社長さん。
会社員 社長さん?
社長さん (動じず)あんた果報者だな。こんないい子を嫁にもらって。
雨美 この人は先生。
会社員 先生?(絶句する)
先生 ちょっと、あなた、あなた! 社長さんはめったにほめないの!
会社員 (二人の怪しさに圧倒されて)それはどうも――。
先生 インド、どう?
会社員 まだ三日目なので。
社長さん この先生はね、インドを研究して二十年っていう先生でね。なんでもわからないことがあったら先生に聞くといいよ(先生の三連発。先生の部分を強調する)。
先生 (ピクピクする)
社長さん ハハ、ハハ(と肩を叩いて落ち着かせる)。
雨美 変わらない、フフ。いるんでしょう?
社長さん だれが?
雨美 いない?
社長さんと先生は顔を見合わせる。
オトーチャン (下手に向かって)おい、ばれているぞ(と叫ぶ)。
薄汚い格好の桜井がカメラ片手に下手から飛び出してくる。どうやら結婚式後、また日本社会から脱落してしまったようである。彼はいま必死の思いで桜井武雄という名前を忘れたいようなので、本人の意思を尊重してサクラと呼ぶ。
サクラ (いきなり雨美と会社員にカメラを向け)いいね、いい。はい、笑って、笑って。
会社員 どこかでお逢いしませんでしたか?
サクラ 笑って、笑って(とシャッターを何度も押す)。
会社員 (雨美に)だれ?
雨美 (冷たく)カメラさん。インドを撮影して何年だっけ?
サクラ 嬉しいな。社長さんや先生はともかく、僕のことまで覚えてくれているとは。
雨美 正直もう忘れたいんだけど。
社長さん ハハ、アミーは厳しいな。
先生 変わった。むかしはこんなずけずけ言う子じゃなかった。
雨美 オバサンになったってこと?
社長さん (あくまでも陽気に軽薄に)そういうこと言うから!
会社員をのぞく全員が笑ってしまう。
さいわいにも会社員はカメラさんが妻の兄だとは気づかなかったようである。
雨美 これだけ?
オトーチャン ああ、そうだ。
雨美 本当に?
オトーチャン (だれにのことかわかり)逢いたかったか?
雨美 ――(複雑)。
会社員 だれ?
雨美 ううん。なんでもないの。
オトーチャン 一度、手紙が来た。読むか?
雨美 いいんですか?
オトーチャンはカウンターのなかへ入り手紙を持ってくる。
雨美はボウズくんの手紙を読む。
ボウズくんの声 インドのオトーチャン、僕のことを覚えていますか? 名前を見てもわからないかもしれませんが、ボウズくんと名乗ればたぶん大丈夫でしょう。昨日、インドから日本に戻りました。なによりまずオトーチャンにお礼を言いたかった。今回のインド旅行で、いちばん思い出深いのが「大和ハウス」です。仏教八大聖地は一応ぜんぶ行きましたが、暑かったという記憶しかありません。でも、僕はインドで大きく変わったような気がします。オトーチャン、社長さん、先生、サクラさん、サッチャン、それから――。(長い間)
雨美 ――(胸が熱くなる)。
ボウズくんの声 みなさんのおかげです。本当にありがとうございます。もし再会することがありましたらよろしくお伝えください。これからどうなるかわかりませんが、いざとなれば「大和ハウス」があると思うとがんばれそうです。がんばります。がんばってみせます。
雨美 (手紙をオトーチャンに返す)
オトーチャン (うなずく)
先生 いたね、ボウズくん。
社長さん 火の玉みたいにガンジス河に飛び込みやがった。
サクラ いまに偉くなりそう。
雨美 (しんみりと)本当――。本当に、ボウズくん、偉くなりそう。私たちの手が届かない存在になっちゃいそう。社長さんや先生になってしまうかもしれない。
シーンとしてしまう。
サッチャン 私、空気読めないからおかしなことを言うけど。
雨美 なに?
サッチャン なんかね、だれか来そうな気がするのよ(と上手に行き一度玄関のドアを開けるが、だれもいない)。
オトーチャン サッチャンのこういう勘はなぜか当たるんだ。
社長さん 噂をすれば――。
先生 そういうことは、最新の学問でも認められている。科学、つまり因果律だな。(ゆっくりと)科学だけでは解明できないことが世界にはいっぱいあるのかもしれない。
サクラ さすが先生は博識だ。じゃあ、ボウズくんの噂をしよう。本当に来るかもしれない。ボウズくんといえば。
雨美 (静かに)やめて。――やめよう。
サクラ そうだな。わかった。
勢いよく玄関のドアが開く。新卒入社組の栗原翔太が飛び込んでくる。
栗原 (明るく)どうもどうも。みなさん、おそろいで! サッチャンまでいる!
先生 きみは!
栗原 そうです。先生の教え子です。
オトーチャン どうした?
栗原 アハハ、会社一年持ちませんでした。
オトーチャン つぶれたのか?
栗原 いえ、つぶれたのは僕のほうです。
オトーチャン バッカヤロ。
社長さん よく来たな(満面の笑み)。
栗原 社長さんだ。
サクラ いらっしゃい(と栗原に抱きつく)。
栗原 サクラ(まで言い終わらぬうちに)。
サクラ いまはカメラさんなんだ(と栗原の口を手で封じる)。社長さん、先生、胴上げしませんか?
サクラ、社長さん、先生で栗原を胴上げしようとするが、うまくいかない。
社長さん オトーチャン!
先生 オトーチャン!
サクラ オトーチャン!
オトーチャン (迷う)
サッチャン オトーチャン!
オトーチャン (栗原の胴上げに加わる)
雨美 (夫に)行って(と尻を叩く)。
会社員 俺も?
雨美 行きなさい。
サクラ、社長さん、先生、オトーチャン、会社員は栗原を胴上げする。あまりきれいな形にならないほうがむしろよい。胴上げする男たちを見守る雨美とサッチャンは楽しそうに笑う。ワッショイ、ワッショイ。お祭りのようである。
暗転する――。
二〇二四年。渋谷スクランブル交差点の雑踏の音や賑やかな若者の話し声がしばらく続く。明るくなる。「大和ハウス」の舞台装置がすべて片づけられている。不可能なら、大道具にすべて白いシーツをかけただけでもよい。静かな「なにもない空間」――。
放心したような現代の小野寺良太が舞台中央に立っている。スマホが鳴る。しばらく鳴り続ける。小野寺社長は我に返ったようにスマホに出る。
現代の小野寺 そうか。うまくいったか。あの仕事を取れたのなら大きい。これで乗り切れる。ありがとう。よくやってくれた。え? なに? どういうことだ? もう一回、言ってくれ。辞める? 辞めてどうするんだ? 独立する? 辞められては困る。もう一度話そう。話し合おう(電話を切る)。
現代の小野寺良太は呆然と立ちすくむ。しばらくして――。
現代の小野寺 フフ。まあ、ビジネスは友人とは違う。当たり前だ。(下手に向かって)おい、二十年前の小野寺良太。そこにいるんだろ。出て来いよ。(反応がないので今度は上手に向かい)ボウズくんがそこにいるのは知っているんだぞ。
誰も出てこない。
現代の小野寺 一人だな。まったく一人だ。地位、財産、家族――すべて手に入れたが、フフ、大人の言うセリフじゃないが、ひとりぼっち。まあ、こんなものだ。さっきまで夢幻(ゆめまぼろし)を見ていたのだろう。
スマホが鳴る。小野寺社長は画面を見るとスマホの電源を切り、壊れない程度にスマホを床に放り投げる。
現代の小野寺 妻からだ。また息子の受験のことだろう。そっちはそっちでやってくれ。――手に入れたものは多いが、なにか大事なものを失った気がする。というよりも、むしろ、なんにもない。なにもかもあるけれど、なんにもない。空っぽ。「大和ハウス」はまだあるんだろうか。検索してみよう(とスマホを拾い上げ検索する)、フフ、そうだよな。もう存在しないのか。オトーチャンも、すでにお亡くなりになったのか。いままで調べようともしなかった。――帰る場所を失ったような気がする。
芝居の冒頭に出てきたインドの古典音楽が流れる。音楽に合わせてタブラ(インド太鼓)が叩かれる。最初は小さく段々と大きくなる。太鼓の音は段々強まる。太鼓のリズムも少しずつ激しくなっていく。
客席からパンジャビドレスを来た雨美(アミー)が登場する。舞台に上がる。
現代の小野寺 (万感を込めて)アミー。
アミー ナマステ。
現代の小野寺 ああ、ナマステ。会いたかった。
アミー フフ、偉くなっちゃって。
現代の小野寺 そんなことはない。
アミー でも、とても疲れた顔をしている。
現代の小野寺 うん。いろいろ大変でね。
アミー (いきなり)ほしがりません!(と拳を上げる)。
現代の小野寺 (吹きだしてしまい)その通り。
アミー 一緒にやろう。
現代の小野寺 よし。元気よくな。
アミーと現代の小野寺 (二人一緒に)ほしがりません!(と拳を上げる)。
アミー みんなを呼ぶ?
現代の小野寺 呼べるの?
アミー いまだけ。
現代の小野寺 お願いしていい?
アミー うん。(大声で)みんな出てきて。
薄汚れたTシャツを着たオトーチャン、サッチャン、社長さん、先生、サクラ、栗原が出て来る。おまけにアミーの夫の会社員も。
現代の小野寺 みんな(と胸が詰まる)。
社長さん よお、ボウズくん。
先生 見違えるようだ。立派じゃないか。
現代の小野寺 (会社員を指して)だれ。この人?
アミー フフ、うちらのマネージャー(ごまかす)。
現代の小野寺 へえ。そうなの。
会社員 まあ、ええ、はい。
オトーチャン どうする?
サッチャン あれしかないじゃない。
現代の小野寺 あれって?
栗原 胴上げ。
過去のみんな (声をそろえて)ボウズくん、よくやった。お疲れさま。
現代の小野寺 ありがとう。おかげさまです。みなさんに救われた。
男性陣は現代の小野寺を胴上げしようとするが上がらない。口々に「重い」「重くなっちゃって」と言い合う。
サクラ いまは男女平等の時代だ。雨美、サッチャンも手伝って。
女性二人が加わっても現代の小野寺は胴上げできない。
サッチャン だれでもいいから来て。女性の味方はいないの?
上手から芝居の最初に登場した旅人が出て来る。
旅人 ようやく呼ばれたか。待ち時間が長すぎますよ。
彼が加わっても現代の小野寺はぴくりともしない。持ちあがらない。
現代の小野寺 わかった。俺だ。二十年まえの俺、出てきてくれ。
客席からボウズくんが歩いて来て舞台に上がる。
ボウズくん ほしがりません(と拳を上げる)。恥ずかしいでしょうが、お客さんのみなさんもできる人はやってください。1、2、3で、こういうふうに(と拳を上げ)「ほしがりません」ですよ。いきますからね。
観客Aの声 (むろん仕込みである)ちょっと待て(大声で)。
ボウズくん なんですか? お芝居の邪魔をしないでください。
観客Bの声 「ほしがりません」なんてインチキだ(大声で)。
観客Cの声 そうだ。みんながほしがらなくなったら、この国の未来はどうなる?
ボウズくん なら、この舞台に上がってきて、そう実名で言ってください。客席からヤジを飛ばすのなんて、ネットの匿名掲示板や匿名のSNSみたいで卑怯です。
観客Dの声 それは詭弁(きべん)だ。嘘だ。茶番。演劇なんてお遊びじゃないか。汗水流して働いているものの声を無視するな。
現代の小野寺 みなさんの言い分はわかります。
観客ABCDの声 わかるもんか。
現代の小野寺 私だってそちら側へ下りれば(と観客のほうへ下りて行こうとする)金、金、金だ。いまの会社をつぶしてはならない。息子にはいい中学校に入ってもらいたい。ほしいものばかりだ。「ほしがりません」なんてとても言えない。こっそり白状するが、妻にはばらすなよ。愛人の一人くらい(と言いかけたところで)。
アミー (現代の小野寺の頬を張る)
現代の小野寺 イテテテテ。なにをする?
アミー あの純情なボウズくんはどこに行ったの?
ボウズくん (現代の小野寺の頬をひっぱたこうとするが今度は交わされる)
アミー 私だって、このお芝居の評価、すごい気になる。ネットで叩かれたらとても嫌な気になる。女優としても高い評価がほしい。「ほしがりません」とは言えない。
ボウズくん でも、ここは劇場。お芝居。嘘の世界。夢の世界。現実には起こらないことが起こってしまうのが。
みんな 「大和(やまと)ハウス」――。
ボウズくん みんながみんな、してくれなくてもいいんです。(切実に)でも、この劇場のなかだけなら協力してくれませんか。1、2、3で、こういうふうに(と拳を上げ)「ほしがりません」ですよ。いきますからね。(ゆっくりと)1、2、3、はい。
みんな (大声で)ほしがりません!(と天上高々を目指して拳を上げる)(※3)
現代の小野寺とボウズくんは静かに歩み寄り握手する。過去との万感の和解である。もう言葉はいらないだろう。さあ、祭りだ、祭りだ。ワッショイ、ワッショイ。登場人物全員で現代の小野寺を胴上げする。ボウズくん、よくやった。本当によくやった。めでたい、めでたい。ワッショイ、ワッショイ。しばらく続けて――暗転する。
(終)
【引用作品/注】
※1「ブッダのことば」(中村元訳/岩波文庫)
※2「山頭火句集」(ちくま文庫)
※3 もちろんこの戯曲の書き手も賞がほしいです。上演していただきたいです。
精神病の母は23年まえにわたしのことを、
「ケンジはサタンだ」「ケンジは精神病だ(主治医の四宮雅博が断言したという)」――
そう周囲に言い触らして自分の正義を証明するために、
および仕返しのために「一生苦しめてやる」と息子の目のまえで飛び降り自殺。
落ちてくるところから血まみれになるところまで見せつけられた。
いま80を超えたボケた父はわたしに暴力を振るわれたと周囲に言い触らしている。
姉には「最後に会ったときマンションでケンジに蹴られた」と主張。
元従業員には「(自分が居酒屋に雇われる以前に)酔ったケンジに殴られた」と主張。
しかし、わたしはこの元従業員を居酒屋で見ている。父に電話で呼び出されたのだ。
そのとき不満のようなことは言わなかった。
矛盾しているのであるが、姉も元従業員も父の言い分を信じているようだ。
父はマンションを売り払い高級老人ホームに入居。
姉に「ケンジには居場所を教えるな」と言っているらしい。
銀行のキャッシュカードは、
経営していた居酒屋で30年以上パートをした女性に預けていると聞いた。
1週間に1度、生活必要品を買って来させるためだ。
ちなみに父は100歳まで生きるのが目標だという。
きっとわたしが死んだら、
テレビの時代劇が好きだった父はやはり正義は勝ったと祝杯をあげるのだろう。
母の死後、日記を見たら「本当に嫌になる」という言葉がよく出てきた。
わたしも「本当に嫌になる」と。
父の口癖は「俺は間違っちゃいないね」であった。
わたしも言いたい。父を蹴っても殴ってもいない。「俺は間違っちゃいない」とね。
むかし父に「急用だ。明日来い」と電話で呼び出されたことがある。
何事かと派遣仕事をキャンセルして行ったら、
「パソコンの調子が悪い(年賀状印刷ができない)」とのこと。
いますぐ直せという。
機種も違うし説明書もない。無理と答えたらなんと言ったか。
「本当におまえは使えないな。もういいから帰れ。テレビを見たい」
玄関まで送ってくれた。
そのときこの男の目のまえで飛び降り自殺してやろうか、と思ったものである。
6階だったから、死ねたかどうかはわからない。
以下、要約すれば「人と人はわかりあえない」という話です。
登場する精神科医に悪意はありませんが、
どのみち誤読されるだろうという覚悟のもとで書きました。諦念の文章です。
まずはわたしが人からどう見られているか。
ある精神科医から、わたしは「恥知らず」で「無神経で小狡く尊大な精神」
および「卑しい心」の持ち主だという診断(指摘)を受けたことがございます。
まったくそうだと思います。異論はありません。
ちなみに反意語は「見栄っ張り」で
「神経こまやかで実直高潔、謙虚な精神」および「気高い心」の持ち主です。
なるほどね、と思います。
わたしは書き手の文意が読み手に正確に伝わることはありえないと思っています。
生育環境、年齢性別、賢愚貧富すべて違うのですから。
本好きにとっては誤読こそむしろ楽しみのようなところがございます。
むかしのことです。
わたしはある精神科医のことを親近感を抱きながらブログ記事にしました。
しかし、相手はそれを悪意にみちあふれたものと解釈して、
本人からおよそ医者とは思えぬ罵倒メールが舞い込んだので驚いたものです。
とりあえず、該当記事を削除して「ごめんなさい」とだけ書いたメールを返信。
なにかほかに書いても、さらに怒りを増長させるだけではないか、と思ったからです。
少し話を変えますね。
脚本家の山田太一さんは、それぞれの解釈でいいと思っておられるようです。
むしろ、その各自の異なる解釈がおもしろいと。
山田太一ドラマ「今朝の秋」における作者の意図は「家族の虚構性」だったそうです。
ちょっと大げさですが、家族の嘘を暴き立ててやる、という悪魔的な創作心があったとも。
しかし、多くの視聴者は、
この残酷ドラマを作者の反対の意図「家族愛の素晴らしさ」を描いたものと解釈して、
大いに感動したと聞いて、そういうものか。それもまたおもしろいなと思ったとか。
「土屋さんはいつも意図的な誤解をする。そこが悪いところだ」
と毎回のように精神科医にご指導、お叱りを受けています。
むかしからです。およそ品というものがない罵倒メールを頂戴したこともございます。
あれを公開したら、これまでその精神科医が積み上げてきた評判や名誉は崩壊し、
そればかりではなく、
精神医学のそもそもの欺瞞(ぎまん/インチキ)がかならずやあからさまになるはずです。
原子爆弾のようなものですね。
講演会で市民に向かって優しい微笑みをたたえて精神疾患の説明をする名医が、
まさかあんな高校生のような悪口を書きつける下劣な人物とは、まさかまさか。
なるほど、精神科医は「正しい」ことは言えても、自分はさっぱりそれを実践できないのか。
だったら、精神医学はデタラメではないか。嘘八百ではないか。
去年から人にすすめられて、細々とツイッターをしております。
フォロワーも少なく、おそらく実質的な読者は5人くらいかと。
そのツイッターでの話でございます。
書き手の文意は読み手に正確には伝わらないという文脈の続きです。
タイムラインで流れてきた新日本プロレスの矢野通選手の
ツイートを誤解したのかもしれません。
矢野選手はあの団体でまだ好きな方でした。
ほとんど悪意はなく、
リツイートしてプロレスの天龍源一郎さんの思い出話を付け加えました。
しかし、矢野選手は壮大な悪意と解釈(誤解?)したようで激怒。
こんな迷惑なバカがいると、それをプロレス・マスコミに広めたのですね。
いまのプロレス・マスコミは、
業界最大手の新日本プロレス(の選手)に逆らうことはできません。
別のケースで説明しましょう。
いまベテランの刑事さんが、こんなわたしを気遣って定期的に訪問してくださります。
あるとき質問しました。
「(この後に向かう)次(の事件)は何なのですか?」
「うーん、来年の4月1日で65歳だから退職なんだけれど、
面接を受ければ残留もできるし、いま迷っている」
質問の意味を話者の意図通りには受け取っていませんよね。
でも、へえ、そうなのか、とかえってそう解釈してくださったほうがよかったとも。
この刑事さんとも来年の4月1日でお別れか、と知ることになったのですから。
愚見ですが、新発見は誤解や過誤がベースになっているような気がします。
例の精神科医に話を戻します。
「土屋さんは作者の文意を意図的に誤解する卑しい心の持ち主だ。
そんなやつは絶対にいい小説やシナリオを書けない」
かつて精神科医からお叱りのメールをいただきました。
そうなのかもしれません。おそらく、そうなのでしょう。
しかし、医師の国家資格を持つ高身分の先生に反論するわけではありませんが、
どうしようもなく書き手や話し手の意図は、
相手に正確には伝わらないのではありませんでしょうか。
自分の医療技術に異常なほどのプライドやこだわりをお持ちの
(「援助者必携」という教科書めいた大著までお書きになっているのですから当然でしょう)
精神科医は、まさかまさか自分は患者の訴え(気持)を正確に把握しているとでも?
ネットでは精神科医が自分の気持をわかってくれない、
という患者の悲鳴で満ち満ちているというのに?
それでも自分だけは可能だと、そこまで自我肥大しておられるのでしょうか。
もしこの拙文が精神科医の先生のお目にとまりましたら、
また悪意を感じ取り猛々しくお怒りになることでしょう。
それはもうどうしようもないものとあきらめております。
なぜって、人と人はどうしようもなくわかりあえないのですもの。
(参考書風のまとめ)
鬱屈派精神療法とは――「卑しい心」と「無神経で小狡く尊大な恥知らずの精神」を併せ持つ私を、心理教育(お説教)と精神指導(睨みながら叱る)、薬物療法(大嫌いだとか)を通じて、先生のような「気高い心」と「神経こまやかで実直高潔、謙虚ながら見栄坊の精神」を持つ立派な社会人にすることである。
※この記事はツイッター投稿を書き直したものです。
140字しか書けないツイッターは、よくも悪くもあります。
(ツイッター)←くだらないからお読みにならないことを推奨いたします。
https://twitter.com/hUfDIPfSm8swI41
12年ぶりにプロレスをナマ観戦して思ったこと。
オッキー(リングアナウンサー)の感じがいいなあ。客あしらいがうまい、うまい。
前座の第一試合の若手レスラーがうざい。
技をかけるごとに、いちいち決めポーズをして観客に媚びる。拍手を求める。
そんなことをしている暇があったら攻めろよ若造。なにスターぶっているんだバカ。
藤波ジュニアとか松永ジュニアとか、いまはプロレス界も世襲なんだなあ。
どちらもモヤシみたいなヒヨッコ。「やっちゃえよ」とヤジりましたですね。
藤波ジュニアも松永ジュニアもひょろひょろとした、いかにもいかにもないまどきの若者。
「殺せ」と思ったが、さすがに令和。そこまでのヤジは飛ばせない。
「だらだらしてんじゃねえ!」くらいでございます。
大会主催者(ということになっている)「くどめ」こと
工藤めぐみ未亡人(←死語だから使っちゃいけないよ)が花道からではなく、
わきから出てきた謙虚さ。いきなり目のまえに「くどめ」がさらっと来て驚いた。
天龍源一郎さんのグーパンチで顔をはらしたミスター女子プロレス、
神取忍選手もよかった。
場外乱闘の際、「神取さん、がんばって」と声をかけたら、
わざわざ振り向いて「おう!」とこぶしをにぎりしめてくれたのは、政治家出身ゆえか。
ダンプ松本はぜんぜん動けていなかった。
しかし、いちばんいい席(みんながそこをめがけて飛ぶコーナーの最前席のことです)
を極悪同盟Tシャツの女が占めていたから、営業力はまだ相当にあるのだろう。
ごめんなさい。いま人気の女子プロレス、
ウナギ・サヤカ選手のどこがいいのかさっぱりわからず。あの子は度胸がねえ。
さんざんあおったのに先輩のおばさんレスラーに顔張り手ひとつできない小心者。
ウナギ・サヤカTシャツを着たおっさんが多くて、
きもいおっさんのわたしが言っていいのかわからないが「きんもっ」。
――いまはみんな、むかしの大谷晋二郎選手のように感情をナマで出さないよね。
こっちが最前席でいくらあおろうとも、ヤジろうとも、まったく耳にしない。
ひとり外人レスラーがいて、彼だけはわたしのヤジにうまい反応を見せてくれた。
いいか? 演劇、お芝居もそうだが、プロレスの試合を創るのはレスラーではなく観客だ。
「プロレスは大衆娯楽です」とオッキーが繰り返し言っていた。
そうだ。そうなんだよ。だから、12年ぶりにプロレスを見に行ったのだ。
「食べて、飲んで、騒いでください」―—。
あなたがわたしの青春でした。プロレス。大谷晋二郎選手。
後楽園に住んでいましたから小学生のころからプロレスをナマ観戦していました。
バルコニー1500円の立見席からです。
新日本プロレスのヤングライオン。
こいつはすげえ、と思ったのが、そう、大谷晋二郎選手であります。
感情をむき出しにする。なにかをナマでやっている大人の先輩がいる。
自称プロレス見巧者のわたしが、
ヤングライオンのなかでいちばん買っていたのが大谷晋二郎選手であります。
日本武道館の2階席最前列くらいなら取れる。
試合終了後の大谷晋二郎選手に「よくやった大谷!」
と生意気にも声をかけたことがございます。
大谷晋二郎選手はわたしの目を見て手を振ってくれた。
いまでも忘れられない記憶であります。
鬱屈しながら世間をせせら笑っていた少年時代、青年時代。
大谷晋二郎選手の存在にどれほど励まされたことでしょうか。
大谷 晋二郎『』
さんがあなたのツイートをいいねしました
12年ぶりにプロレス生観戦しようかな。でも、車椅子の大谷晋二郎選手を見たら辛くなりそう。
いまでも大谷選手のいちばんの名試合は若手のころWARでやった折原選手とのあれだと思っていますですね。体力あふれる若者同士が感情むき出しでガンガンやりあうのに、少年は胸をときめかしたものです。
https://twitter.com/hUfDIPfSm8swI41/status/1652183419709980674
こんなご対応をしていただいたら、行かないわけがないだろう?
大谷さんは去年の4月にプロレス中の事故で脊髄(脊椎?)を損傷なされて車椅子。
首から下が動かない。
その大谷晋二郎選手を応援するチャリティーのプロレスが高田馬場であるという。
重たい腰を起こして12年ぶりにプロレスのナマ観戦に向かったゆえんでございます。
プロレスはいいよなあ。
わたしだって心不全。慶應病院の先生に余命を宣告された身。
あと1、2年、生きてフィニッシュ。
おそらくプロレスをナマで見るのはこれが最後になるのだろう。
会場は全席自由。早いもの順。ならと1時間以上まえに行ったら、すでに大行列。
これを書いていいのかな。高卒率80%くらい。いいんだ。こういう空気がだ。
むちむちのいやらしそうな性欲が顔に出ているおねえちゃんがM字開脚。
パンツ丸出しで座っている。
ふうん、白か。こざかしい。どの前座レスラーのセフレなんだろう?
小学生、中学生、高校生のころ、プロレスの聖地、
後楽園ホールの立見券をにぎりしめて薄暗い階段に並んだあのころを思い出す。
いかがわしいにせよ、うさんくさいながらも、実に豊かな時代だったなあ。
開場1時間以上まえに高田馬場駅に到着。
さっそく大谷晋二郎選手が「食べたい」とツイッターに書いていたファミチキを購入。
かなしいほど律儀である。大谷! 大谷! 大谷!
天龍源一郎さんと大谷晋二郎選手は、ええはい、わたくしの青春でございました。
場内に入ったら、そりゃあ、最前列はスポンサー様の専用席。
しかし、あれ?
「池田様」と「関連企業様」のあいだに、
ひと席だけテープの貼っていない席がございましたのです。
いいのかなあ、と思いながら移動して着席。
リングサイド最前列は、天龍源一郎 vs マンモス鈴木を
後楽園ホールで見たのが最初で最後と思っていたが、まさかこの期におよんで。
神さまかなにかのプレゼントとしか思えません。
プロレスのあいだじゅう昭和のヤジを大声で飛ばしていたバカがいたでしょう?
あれがわたくしでございます。
周囲にうつしたもの。若い女子レスラーとおばさんとの試合。
「ウナギサヤカ、ババアなんかぶっ飛ばせ」
容赦ない叫びですね。それがうしろにうつった。
「ウナちゃん、ババア倒せ」とつぶやいている(わたしのように大声は出せないのでしょう)。
まさに「土屋さんは、いい度胸してんなあ」(春日武彦先生)の世界でございます。
大谷晋二郎選手。今日は本当にありがとうございます。
小さな灯火(ともしび)をいただいたと思ったのです。
かならずだれかが見ている。わたしが大谷晋二郎選手を見ていたように。
天龍源一郎さんをわたしが見続けていたように。
ここだけの話だけど((広めるなよ)、
天龍さんのお若いお嬢さんには電話でさんざん悪罵され絶交絶縁を宣言されました。
「馬場元子みたい」ってツイッターでつぶやいたら抗議が来てまさに馬場元子さん。
(ツイッター)
https://twitter.com/hUfDIPfSm8swI41
*アンデルセンのメルヘン大賞(童話賞)応募作
老いたサムソンは怒っています。穏やかな老人ばかりいる大きな家でサムソンだけは怒っている。激しく怒っている。
サムソンは父親の顔を知りません。サムソンが3歳のころ戦争で異国の地で死んだからです。異国の地から海を渡り、大勢のきょうだいと母親に連れられ命からがら帰国しました。戦争で国土は荒れ果てている。みんな貧乏でした。とりわけ貧乏だったのがサムソンの家です。サムソンのお母さんは、異国の地で学んだ料理を、自分と同じように貧しい人たちに安い料金で食べてもらおうと店を出しました。女手ひとつです。苦労もただならぬもの。お母さんが頼りにしたのは神さまでした。神さまがきっと自分たちを幸福にしてくれるだろう。子供たちにもそのことを言い聞かせました。お母さんは神さまを信じて、それはもう死に物狂いで働き、たくさんいる子を育てました。ひとりではありませんでした。そばに神さまがいたのです。
サムソンはそんなお母さんが大好きで誇りでした。「僕のお母さんほどすごい人はいない」と国中の人に言ってやりたい気分でした。自慢の母親でありました。サムソン少年も中学校に入ると、勉強しながらも母の店を手伝ったものです。次から次へと出前をこなすこと。サムソンはちっとも苦しいとは思いませんでした。むしろ、嬉しかった。だって、大好きなお母さんの役に立てるのですもの。お母さんはサムソンによく言ったものです。
「働くのだよ。働けば働くほど豊かになれる。身を粉にして働けばきっと幸福になれるからね」
お母さんのすごいことといったら。あのみんなが貧乏な時代、女親ひとりでサムソンとその兄、ふたりを大学にまで行かせたのですから。サムソンにとってはお母さんが神さまのように見えました。お母さんを幸福にしたい。自分も幸福になりたい。豊かになりたい。そのためには働くことだ。サムソンはレストランに就職しました。働く。サムソンは会社でいちばん働きました。何日も家に帰らないで、レストランに泊まりこむこともありました。見ている人は見ているもの。社長さんはサムソンの仕事ぶりに驚きました。こんなに働く男がいるのか。こいつは見込みがあるぞ。社長さんはサムソン青年のお給料を毎年、どんどん上げてやりました。
少年サムソンの家はみんなと同じように貧しかったのですが、その中でも、もっとも貧乏です。お父さんがいないとしようがないのですね。本当の貧乏をしました。それでもお母さんは神さまを信じる優しい人です。貧しい人は助け合うべきだ。貧しい人こそ助け合わなければならない。そう思って食堂で、なんと無料でお客さんに料理を出すこともあったのです。当時はツケと言いました。どれだけ感謝されたことでしょうか。赤ん坊を背中にかかえた母親から涙を流して「ありがとうございます」と10遍近く頭を下げられたこともあります。みんな一様に言いました。
「かならずお金を返しに来ます」
けれども、サムソンの見るかぎりお金を返しに来た人はひとりもいませんでした。こういうこともありました。お母さんの食堂の繁盛を聞きつけた親戚のおじさんがお金を借りに来たことがあります。サムソン少年は無銭飲食のお客さんを大勢見ていましたから、大好きなお母さんに言いました。
「貸しちゃダメだよ」
「サムソン。それはいけないよ。困ったものは相身互い。お互いさまってこと。人を信じなくてはいけませんよ」
お母さんは親戚にかなりの金額を貸しました。このときばかりはサムソンも大好きなお母さんを嫌いになりそうになりました。お金はどうなったか。もちろん、返ってくるはずがない。ほうら、とサムソン少年は思いました。豊かになりかけていたサムソンの家はまた元の貧乏に戻ってしまいました。お金に困るとはどういうことか。売るものどころか食べるものもなくなるのです。生きていけなくなる。
このときは社長さんが助けてくれました。社長さんとはお母さんがそう呼んでいる人のことです。お母さんの食堂に特別に安く食材を売ってくれる人です。もしかしたらお母さんが好きだったのかもしれません。チョビひげを生やして、いつも異国風の帽子をかぶっていました。
「社長さんは羽振りがいいから。お願いして助かった」
「羽振りがいいって、どういうこと?」
「お金持ってことよ」
サムソンはお母さんの好きな社長さんが大好きになりました。そのうえ社長さんは「ボウズ、よく働くな」とこっそりお小遣いをくれることがありました。
「お母さんには言うなよ。ふたりの秘密だ」
サムソン少年は大好きなお母さんにウソをつくやましさを感じながら、そのお金を持って駄菓子屋に行きます。そこで食べる甘いお菓子のおいしいことといったら、もう口の中だけではなく世界が甘くとろけるような感じがしたものです。
「将来の夢は社長になること」
サムソンは中学校の卒業記念文集にそう書きつけました。社長になる。社長になってみせる。自分を貧乏だからと見下したやつらを見返してやる。さすがにそこまでは卒業文集には書きませんでしたけれど。大きくなってから聞くと、お母さんを助けてくれた社長さんは悪い評判もかなりあるようでした。でも、サムソンは社長さんを嫌いにはなれません。お母さんはこつこつと借金を社長さんに返し続けました。返し終わった日は家族でパーティーです。お母さんもたくさんいるきょうだいたちも、その日だけはみんな特別な幸福にひたりました。
「将来の夢は社長になること」
話を戻しますね。
働きづめの青年サムソンはなにを考えていたのでしょう。なんのために家にも帰らないでレストランに泊まり込んで働いていたのか。社長への感謝の思いだったのでしょうか。そうではありません。どれだけ自分が働いても、結局、お金をもうけるのは社長です。不安もありました。自分はいつか切られるのではないか。クビになるのではないか。そう考える理由は、サムソンのコンプレックス(劣等感)のせいです。サムソンは子供のころから「どもり」でした。「どもり」は難しい言葉では吃音と言い、言葉がうまく口から出てこない病気のことです。サムソンの泣きどころ(弱点)は「どもり」。これは社長も会社の仲間もみんな知るところです。サムソンはこの「どもり」のせいで子供のころから、どれほど苦労をしたことでしょう。考えてもみてください。なにしろ自分の言いたいことが口から出てこないのですから、こんなに辛いことはそうあるものではありません。サムソンは子供のころ、国語の朗読ほど嫌いなものはありませんでした。
サムソンは自分が「どもり」だと気づいたときから、常にまわりからバカにされているような気がしていました。こんな自分にお嫁さんが来てくれるでしょうか。そもそもまともな仕事につけるのでしょうか。いまに見ていろ、と人の何倍もサムソンが働けたのはこのためです。同時にサムソンはいつも他人に自分のことをわかってもらえないと思っていました。なぜなら自分の思ったことを正しく言えないからです。
青年は恋をする。サムソン青年も恋をします。同じレストランで働くアテナというきれいな女の子です。どこかお母さんと似ています。どこだろう? 気が強いところ。気高いところ。そうだ。そこだ。気づいたときにはサムソンはアテナと結婚することで頭がいっぱいでした。けれども、「どもり」のサムソンがアテナをデートに誘うとき、どれだけの勇気がいったことでしょう。大海に小舟で乗り出すような気がしたものです。
やはり神さまはいるのでしょうね。
サムソンはうまくアテナを喫茶店に連れ出すことに成功したのですから。話してみて、さらにサムソンはアテナのことを好きになりました。サムソンがお母さん以外の人をはじめて本気で好きになったのです。何度か喫茶店デートを繰り返しました。サムソンの遅い青春が来たのです。アテナの家にあいさつに行ったときは驚きました。なぜならアテナの家が驚くほど貧しかったからです。自分の育った家よりも貧しいのではないか。そのときなぜかこのアテナという子とはうまくやっていけるかもしれない、とサムソンは思ったものです。プロポーズもしました。当時の定番のものです。
「きみを絶対に幸福にする」
返事はなかなか来ませんでした。サムソンはやきもきするしかありません。実のところアテナにはもうひとりおつきあいしている男性がいたのですね。
サムソンの不安がよくなかったのでしょう。仕事で大失敗をしてしまったのです。本当はそれほどの失敗でもないのですが、仕事第一のサムソンは片腕をもがれた(切られた)ような痛みを感じました。レストランで注文を通すとき、うっかり盛大にどもってしまったのです。口ごもってしまったのです。うまくしゃべれなかったのです。たまたまその場にいた社長も笑ったのをサムソンは見てしまいました。仲間だと思っていた同僚も笑っています。仕事がいちばんできると思っていたサムソンはどれだけ恥ずかしかったことでしょう。何日も家に帰らないで働いている自分を社長が笑った。
人間はこんなものだ。やはり信用してはいけない。かねてから独立、自分の店を持つことを考えていたサムソンの気持が固まったのはこのときです。ただひとり笑わなかった部下に聞くと、自分についてくると言ってくれるではありませんか。その場にアテナがいなかった幸いをサムソンはどんなに感謝したことでしょう。自分を「どもり」にした神さまをいかほどに呪ったことでしょう。同じ神さまのしたことだとはサムソンは気づきませんでした。
うまくいくときはとんとん拍子にうまくいくものです。
サムソンはアテナと結婚することになりました。
会社も話し合いで問題なく辞めることができました。でも、このレストランの社長さんは最後まで気づかなかったのですね。サムソンがどのくらい男のことを恨んでいたかを。みなさん。「どもり」の人を見ても決して笑ってはいけませんよ。
サムソンは得意絶頂です。結婚した。居酒屋の開業も決まった。妻のアテナはまずユリエという娘を産み、次にハズルという息子を産みました。順風満帆です。大船は帆をかかげ風に乗って大海をぐいぐい進んでいきます。
いきなり風はとまるものです。天気がどうなるかは神のみぞ知ること。こればかりは人間にはどうにもならない。サムソンは自分を女手ひとつで育ててくれたお母さんが大好きです。結婚して自分の子を産んでくれた妻のアテナも大好きです。ところが、そうなのですね。いわゆる嫁姑問題。サムソンのお母さんと妻のアテナの仲がことさら悪いのです。こういうとき男はどうすればいいのでしょう。サムソンはどうすればよかったのでしょうか。サムソンにとってはこうです。遠い異国の地から海を渡って自分を母国まで連れて帰ってくれ、そのうえ大学まで行かせてくれたお母さんほどありがたいものはありません。このどこが間違っているのかサムソンにはわかりません。
アテナにはサムソンの気持がわかりません。アテナにはサムソンが「どもり」で思ったことをうまく口にできない事情がわからないのですね。
国の経済は上昇する一方です。みんな貧しい時代から、みんな豊かな時代になったのです。それだけではありません。これからもどんどん豊かになるとみんな信じていました。そういう時代がこの国にもあったのです。
サムソンはお母さんの言っていたことは正しかったと思います。
「働くのだよ。働けば働くほど豊かになれる。身を粉にして働けばきっと幸福になれるからね」
自分も正しかったと思います。
「将来の夢は社長になること」
働きに働いて、ついに田舎の貧乏人のせがれ(息子)が社長になったのですから、お母さんの言うことは正しかった。従業員から社長と呼ばれることほどサムソンにとって気持のいいことはありません。俺は社長だ。俺は偉いのだ。サムソンに慢心(傲慢な心)が生まれたとして、どうして不思議がありましょうか。時代のいきおいもあり、働けば働くほど豊かになりました。お金がもうかりました。
サムソンは母親しか知りません。お母さんは働きながら子供も育てた。それならば、妻のアテナもそのくらいできるだろう。働けば働くほどお金がもうかるのですから、居酒屋が忙しいときにはアテナを店に呼びつけました。子育てもアテナに任せます。自分のお母さんのできたことがアテナにできないはずがないだろう。
サムソンの息子のハズルに困った事態が生じます。ハズルもまたサムソンと同じ「どもり」になってしまったのです。アテナはそのことにとても心を痛めました。姑(サムソンの母親)との不和(仲の悪さ)。サムソンの居酒屋の手伝い。娘のユリエと「どもり」である息子のハズルの世話。アテナは疲れ切り、心を病んでしまいました。
サムソンはお母さんが大好きです。お母さんの言うことほど正しいことはあるものか。
「働けば豊かになる。働けば幸福になる」
サムソンは大晦日と元旦以外はいっさい休みません。こんなよく働く自分が間違っているはずがない。一度アテナが命を絶とうとしたときも仕事です。すべてをアテナの家族に任せました。働くことほど正しいことはないのですから。働かなければ貧しくなる。貧しくなれば食べられなくなる。ものを食べないと人は死んでしまう。ならば、働くほど正しいことはない。このサムソンの考えのどこに間違えがあるでしょうか。
サムソンの息子、ハズルはなにを考えていたのでしょう。
ハズルは父親のサムソンが自分と同じ「どもり」であることにすぐ気づきました。サムソンが「どもり」を隠したがっていることも、すみやかに納得しました。サムソンの考えていることが子供ながら同じ「どもり」のせいでよくわかるのです。災難や不運が人と人を結びつけるのは不思議なものです。ハズルはサムソンと同じようにお母さんが大好きです。このためサムソンのお母さんはあまり好きではありません。サムソンがそれを不服に思っているのもわかりますが、どうしようもないのですね。
「ハズルはお母さん子だからな」
自分もそうだったくせにとハズルは思います。
「俺は父親がいなかったから、どう父親役をやればいいのかわからない」
そんなことを言われてもハズルは困ります。ハズルはサムソンにひどいことを言ったことがあります。
「どうして僕を『どもり』として生んだのだ?」
サムソンは一瞬悲しそうな顔を見せました。しかし、すぐに元気になります。なぜなら仕事があるからです。
「働けば豊かになる。働けば幸福になる」
豊かな時代に生まれたハズルにはサムソンがどうしてそんなに仕事に夢中なのかわかりませんでした。サムソンの趣味といったらテレビくらい。いったいなにが楽しくて生きているのでしょう。サムソンの母親が死んだとき、アテナはサムソンから通夜に行けと命令されました。心を病んだアテナはザマアミロと言っていました。アテナのお母さんが死んだとき、サムソンは通夜にも葬式にも顔を出しませんでした。俺には仕事がある。
「働けば豊かになる。働けば幸福になる」
サムソンはお母さんが大好きだったのです。サムソンのたくわえ、お金は増えていくばかりの時代でした。
火事が起きました。サムソンの経営する店のひとつが火事で全焼したのです。火災保険で逆にもうかりました。社会って不思議ですね。それにしても、なんとサムソンは運がいいのでしょう。サムソンは自分が正しい道を歩いていることを確信しました。
心を病んだ妻のアテナがみずから命を絶ちました。息子ハズルの目のまえで飛び降り自殺をしたのです。アテナ名義のお金がサムソンに入ってきます。もちろん、仕事があるから通夜にも葬式にも行きません。働くこと、仕事ほど正しいものはない。これで不満ばかり言う、わずらわしい心を病んだ妻アテナもいなくなった。なんとサムソンは運がいいのでしょう。サムソンは自分の正しさにうっとりしました。すべてがうまくいっているではないか。自分は正しい。サムソンのお母さんは正しい。
気がかりなのは息子のハズルが大学を出ても定職につかずぶらぶらしていること。まるで自分と正反対ではないか。しかし、自分は運がいいのだ。仕事さえしていれば、きっとすべてがうまくいく。
晴れも曇りも雨も人間の力ではどうにもなりません。
晴れていたと思ったら、しだいに雲が太陽をおおいます。時代の経済、豊かさも限界まで達するとだんだんと落ち目になっていくものです。サムソンにはそれが理解できませんでした。自分の成功はすべて自分の努力の結果だと思い上がっていたのですね。少しずつ店のもうけも減っていきます。サムソンはいままでのたくわえから、それを補います。サムソンは思います。自分は家族をかえりみなかったが、この店があるではないか。娘のユリエや息子のハズルと縁が薄かったが、自分には従業員がいる。パートがいる。これはファミリーだ。
サムソンはハズルをたまに自分の店に呼びつけるとファミリーの自慢をよくしました。ハズルはせせら笑っていました。あれだけ人を金銭関係としか見ないサムソンも弱ったものだと。なぜならサムソンはハズルの耳元でよく言っていたからです。
「こいつらジジイ、ババアばかりだから、うちを辞めたらほかに行くところはないぞ」
ついにサムソンにも終わりが来ます。いきなり倒れたのです。脳の病気です。右半身が動かなくなりました。こうなるともうダメです。一軒だけ残した店も赤字続き。もうけどころかお金が出て行く一方です。頭の病気ですから80歳を過ぎたサムソンにはよく事態がつかめません。ハズルからなにを言われても聞きません。
「うちはファミリーだ。ファミリーだからな」
悪いことは続き、世界的な疫病(伝染病)が流行して店に客がひとりも来ない日ばかりです。サムソンはとうとう店を閉めることにします。サムソンはどうしてこうなったのかを考えました。結論はすべてハズルが悪い。ハズルが店を継がなかったからこうなったのだ。ハズルが自分に暴力を振るったから頭にケガをしたのだ。俺は間違えていない。正しい。だとしたら、だれかが悪い。それはハズルだ。このままだとハズルに殺されてしまう。サムソンはマンションを売り払うと娘のユリエの力を借りて高級老人ルームに入りました。ユリエにはこう言いました。
「決してハズルに俺の居場所を教えるなよ」
いま老いたサムソンは怒っています。穏やかな老人ばかりいる大きな家でサムソンだけは怒っている。激しく怒っている。すべてハズルが悪いのだ。ファミリーがだれも見舞いに来ないのもハズルが悪い。いいか。俺は100歳まで生きてやる。孤独なサムソンは趣味もないのでテレビばかり見ています。
ハズルは姉のユリエからこの一件を聞いてとても悲しみました。なぜならハズルは自分ほどサムソンの話を聞いたものはいないと思っていたからです。同じ「どもり」、人間不信としてサムソンの人生に理解を示していたからです。殴ってもいません。もうどうしようもないのでしょうか。神さま。ある晩、ハズルは目のまえで自殺した大好きだったお母さんの夢を見ました。これはよく見る夢です。しかし、そのときいつもは出てこないサムソンも出てきました。
とうとうサムソン老人にお迎えが来ました。大きな光につつまれます。なるほど、死とはこういうものか。まず大好きなお母さんが出てきます。それからきょうだい。いままで縁のあった人たち。ユリエ。突如、光が消えました。暗闇に戻ります。目を開く。まだ死んでいなかったのか。ベッドのまえにだれがいたと思いますか。ハズルであります。ハズルは「お父さん」と、どもりながら呼びかけました。「ハズル」とサムソンもどもりながら応えたのであります。(終)
*最後までお読みいただき本当にどうもありがとうございます。
※第51回NHK創作ラジオドラマ大賞応募作品。
(用語説明)
SE=サウンドエフェクト。効果音。
M=モノローグ。独白。
〇 梗概
性分化疾患という難病がございます。外性器異常です。男性か女性かわからない。非常に罹患率の低い病気で、思春期に問題が発生するケースがあります。
元気です。こんな難病にかかっているのに霧島葵(11)は元気です。くじけていません。明るいのです。悪戯が大好きです。美少女、美少年でもあります。
中学に上がるまえに性別を決めようと医者から言われます。葵は考える。男と女、どっちがいいのだろうか? 父親も母親も自分の性別がいいとは言い切れません。でも、そんな大事なことを自分で決めろと言われても困っちゃいますよね。
葵は酒井茜(11)から告白されます。好きです。つきあって。え? 好きになるってどういうこと? つきあうって、どういうこと? 葵は考える。
おりしも父親が女をつくって家を出て行きます。男ってなんだ? 女ってなんだ? またまた葵は考える。ときには男の子になって。またべつのときには女の子になって。くよくよ悩まない。遊ぶように生きている。
そんな葵を見守るのはバイオリンがうまい姉の緑(14)、友人のユリエ(11)であります。緑はユリエの兄のレオナルド(15)とつきあっています。
少年少女たちの「恋愛ごっこ」もなかなか複雑。葵は茜に振られたと思ったら、ユリエから告白されます。う~ん、自分は男子なのだろうか? 葵は不思議な感じ。
男性と女性の違いってなんでしょうか? これをお読みくださる方は男性ですか? 女性ですか? 男でよかったですか? 女でよかったですか? 男になりたくはないですか? 女になりたくはないですか? 次に生まれるとしたら男と女、どっちがいいですか? えええ? 本当に男? 本当に女?
〇 登場人物
霧島 葵(11) 小学生
霧島 緑 (14) その姉。中学生
霧島 武史 (46) その父。会社員
霧島 しおり (43) その妻。パート。
酒井 茜(あかね) (11) 小学生
ユリエ (11) 小学生
レオナルド (15) その兄。中学生。
ディーノ(43) その父。イタリア人。
高島貴子 (44) その妻。日本人。
医者(60)男
神父(55)男
その他、大勢の市井を生きる人たち。
○ 本文
霧島葵(11)の性別はわからない。少女のような声だが、声変わりまえの少年かもしれない。どちらかと言えば女性的。
葵M「不幸ってだれが決めるんだろう? だって不幸って思えば不幸でしょ? 反対に幸福って思えば幸福なのだから。鏡を見る。うん。なかなかいい顔だ。3歳上の姉からはかわいいと言われている。11歳だからかわいいと言われている気もしなくもない。そこはちょっと不満。これから難病の子供の、つまり私の、ちっとも不幸ではない話を始めますね」
SE ドアをノックする音。
ドアが開き、緑が入ってくる。
緑「葵、聞いて」
葵「いやだ」
緑「彼、これくれたの。レオナルド。特別なチョコレートだって」
葵M「私は思う。浮かれている。女っぽい。女の顔だ」
緑「葵にもわけてあげる」
葵M「それ苦いからいや、とは言えない。もうすぐ大人になるのだ。甘いだけのチョコレートからは卒業する」
緑「ああ、葵はこういうの嫌いか」
葵「ううん。ありがとう」
緑「でさ、今日病院どうだった?」
葵「別に」
緑「葵は葵らしくしていたらいいんだから」
葵「お母さんからも言われた」
緑「だって、本当のことだから」
葵「心配しているの?」
緑「え?」
葵「かわいそうとか思っている?」
緑「そういうわけではなくて」
SE 携帯電話が鳴る。
緑「レオナルドから。じゃあね」
SE 緑はドア開けを出て行く。
葵M「特別なことは不幸だろうか。というのも、選ばれた人間とも言えるからだ。ヒーローじゃないか。ヒロインじゃないか。変な病気を持って生まれてきた。難病らしいが自分ではそうとは思わない。性分化疾患。性別が分かれるときの病気。性別、男女は生まれたときの染色体とやらで決まるらしい。染色体の意味はお医者さんに何度聞いてもわからない。私は染色体の上では一応女性らしい。しかし男にもなれる。すばらしいことじゃないかと思うが、医者は僕をいつもかわいそうな目で見る」
SE 病院の雑音。患者のアナウンス。
医者「そう。そう考えたらいいんだよね」
しおり「でも、うちの葵、悩んでいるんじゃないかと」
医者「めずらしいケースだからね。私も長年、医者をやっているが見たのははじめてだ」
SE ドアが開く。
しおり「葵、勝手に入ってきちゃ(ダメ)」
葵「お母さん、もう私、大人。いろいろ本当のことを知りたいの。先生、教えて」
医者「お母さん。いいんですか?」
しおり「葵(困っている)」
葵「先生!」
医者「葵さんはね。もうすぐ男か女か選ばなきゃならないんだ」
葵「知っています」
しおり「葵!(どうして?)」
葵「お母さんとお父さんが話しているのを盗み聞きした」
医者「そう」
葵「私、ちっとも不幸じゃないから。自由ってことじゃない。二人ともそんなあわれんだような目で見ないで」
SE 葵は駆け出す。ドアがしまる音。
葵M「難病の子は不幸なんて決めつけられたら困る。いまの学校はしっかりしているから、いじめなんかない。トイレは先生用。着替えは特別室。それだけのこと」
SE 暴風の音。テレビが台風を伝える。
葵M「台風が来て、私は同級生の茜に告白された。もてるのだ。好きだ。つきあってください。茜はとても女の子っぽい」
葵「茜は、私のどこが好きなの?」
茜「ぜんぶ」
葵「いままでもつきあっていたじゃない。家にも遊びに来ていたし」
茜「そうじゃなくて。特別なつきあい」
葵「特別?」
茜「そう。わからない? テレビとか見ない? 漫画、読まない?」
葵「うーん」
茜「バカ」
SE 茜は駈けだす。
葵「ちょっと待って」
茜「なに?」
葵「僕、茜とつきあってもいい」
茜「じゃあ、抱きしめて」
葵「わかった」
葵M「茜の胸は少しふくらんでいた。僕の胸はまだそこまでふくらんでこない」
SE バイオリン。「ドッペル」。二重奏。緑とレオナルド。
葵M「姉の緑とその恋人のレオナルドの演奏だ。やっぱりバイオリンは女のほうが見映えがする。私の隣に座っているのはレオナルドの妹のユリエ。レオナルドとユリエのお父さんはイタリア人。お母さんは日本人」
ユリエ「うまい。やっぱりつきあっていると演奏もうまく合うのね」
葵「そうかな? つきあうってどういうこと?」
ユリエ「葵はそんなことも知らないの?」
葵「僕だってそのくらい知っているよ」
ユリエ「どういうこと?」
葵「こういうことだ」
ユリエ「(ちょっと驚いた悲鳴)」
葵M「僕はユリエを抱きしめてやった。ユリエはいやそうな顔をすると思ったら、意外と平気そうだ。またユリエの胸のふくらみが気になった。茜よりも大きい」
ユリエ「乱暴」
葵「ユリエ、いい匂いがする。それになんだかきれい」
ユリエ「ママから香水を借りたの。ちょっとだけお化粧もしてもらった」
葵「ねえ。悪戯しない?」
ユリエ「どんな?」
葵「服を交換するの。ユリエが僕の服を着て、私がユリエのフリフリの服を着る。香水も貸して」
ユリエ「おもしろそう。葵、すごくかわいくなりそう」
葵「私も自信ある」
SE 小さく「ドッペル」が続く。
ユリエ「葵、いいよ。美少女。アイドルになれる」
葵「うん。応募しちゃおうかな」
SE 「ドッペル」がやむ。
ドアが開く。
レオナルド「おまえたち、なにやってんだ?」
ユリエ「悪戯よ、お兄ちゃん」
緑「葵? 葵なの?」
葵「お姉ちゃん、見違えた? レオナルドさん、鬼ごっこしよう。私を捕まえてみて。できなかったら、あれを親にばらす」
レオナルド「あれってなんだよ」
葵「お姉ちゃんとキスしていたでしょう?」
レオナルド「あれはおまえ、イタリアでは」
葵「よーい。スタート」
レオナルド「おい、待てよ」
ユリエ「緑さん、あれやって。ほら、運動会のあれ」
SE 運動会の「徒競走」を緑がバイオリンで弾く。葵とレオナルドが鬼ごっこをする駆け足の音。
レオナルド「捕まえた。男にかなうと思うなよ」
葵「わざと捕まったの」
レオナルド「どういうこと?」
葵「ねえ、私の胸に触ってみて」
レオナルド「え?」
葵「どう? どんな気がする?」
レオナルド「そんな(ことを言われても)」
葵「変な気がする?」
レオナルド「(正直に)うん」
緑「ちょっと葵。なにやっているの。レオナルドは私の(彼氏)」
葵「(さえぎり)だから、なに?」
ユリエ「葵、パンツ丸見えよ」
葵「レオナルドさんに見られるんならいい」
緑「ふざけないで!」
SE ドアが開き、ドタドタ人が入ってくる。怒っている。
武史「葵、緑! 人様の家にご招待されて、なにをやっているんだ?」
緑「お父さん、葵がね、ひどいの」
ディーノ「(以下、外国語なまりの日本語で)レオナルド、お嬢さんになにをしている?」
葵「お嬢さん?」
ディーノ「いや、その、なんていうか」
緑「この子。女よ。だってレオナルドを」
葵「なに?」
緑「葵の意地悪!」
貴子「とにかくレオナルド。葵さんから離れて」
しおり「葵も。そんなはしたない格好をして」
緑「僕がはしたない?」
しおり「お父さん、なんか言ってあげて」
武史「ここはお母さんが」
しおり「なによ。お父さん、子供たちの世話をいっさいしないんだから」
緑「お父さん、お母さん、こんなところで夫婦喧嘩はやめて」
SE 両家は別れの挨拶をする。
葵M「イヒヒ。エヘへ。ウフフ。僕は悪戯少年なのだ。私はお転婆な少女なのだ。不幸な少年でも、不幸な少女でもない。それにしてもお姉ちゃんのあのときの顔と言ったら。ザマアミロと思っちゃった」
SE 風の音。枯れ葉が散る音。
葵M「紅葉の時期が終わり枯れ葉も散り季節が変わった。声変わりする男子が現われた。私の胸が少しふくらんできた。お医者さんがあせりはじめた。ユリエがうちの小学校に転校してきた。最大の事件はお父さんが女をつくって家を出て行ったことだ。いきなりだった」
SE 緑がメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲を練習している。ドアが開く。バイオリンがとまる。
緑「ノックして、と言ったでしょう?」
葵「そんなことより知っている?」
緑「お父さんのことでしょ」
葵「お母さん、泣いてた」
緑「(冷めて)そういうものよ。人の気持は変わるの」
葵「ねえ、お姉ちゃん。まじめな話をしていい?」
緑「なによ急に(警戒している)」
葵「女って損じゃない?」
緑「いきなり、どうして?」
葵「なんかお母さんを見ていたら」
緑「(しんみり)うん。そうね」
葵「女として生きていてどう?」
緑「どうって。変えられないんだし」
葵「お姉ちゃん、知っているでしょう?」
緑「――うん」
葵「男になったほうがいいのかな?」
緑「葵はどう思うの?」
葵「男って、がさつだし、なんかきたない」
緑「へえ。葵もそんなこと思うんだ」
葵「言わなかったけどね。体育のまえにね」
緑「うん」
葵「ひとりで着替えていたら、クラスの男子がのぞいてきた。すごい、いやだった」
緑「先生に言った?」
葵「ううん(言わない)。女の子みたいじゃない」
緑「葵はかわいいから」
葵「じゃあ、女になったほうがいい?」
緑「イケメンになるのも」
葵「そうね」
緑「変なこと聞くけど、子供は産めるのよね?」
葵「もうすぐ決めなきゃいけないの」
緑「葵はいまの葵でいいとしか」
葵「それじゃダメみたいなの」
緑「そう」
SE ドアがノックされる。
しおり「ちょっといい?」
葵「お母さん、なに?」
しおり「葵、さっきお母さん、泣いてなんかいないから」
葵「(強がりだとわかるが)そう」
緑「いま葵に聞かれちゃった。お母さんは女として産まれてよかった?」
しおり「いまのお母さんにそんなこと聞く?」
緑「ごめん」
しおり「(疲れたように)結局は男性社会よね。お母さんのほうがお父さんよりいい大学なのよ。会社もそう。でも、結婚してあなたたちを産むとなったら」
緑「会社を辞めなければならなかった」
しおり「そういうこと。いくら優秀でも男にはかなわないようになっている」
葵「じゃあ、僕、男になったほうがいい?」
SE 駅のホーム。雑踏。
チンピラの怒鳴り声。怖い。
チンピラ「じゃあ、俺が痴漢をしたって言うのかよ。どこに証拠がある?」
茜「私、見たもの」
葵「僕も見た。ユリエの胸に触っていた」
チンピラ「おまえら中学生か?」
ユリエ「(勢いにおされ)小学生よ」
チンピラ「小学生に痴漢なんてするかよ。言いがかりはやめろよ」
葵「おまえ、待て」
チンピラ「ボウズ、男なのか? やるか、このう。ちょっと駅の外に出ろ」
茜「葵、逃げよう」
SE 子供たち3人が走っていく。
ユリエ「実は痴漢、はじめてじゃないの。茜もされたことある?」
茜「私はまだ。ユリエみたいにスタイルよくないから」
葵「僕、男性ホルモンとかいうのを入れてもらおうかな。そうしたら強くなる。ああいうやつからユリエを守れる」
ユリエ「ケンカ強くなりたい?」
葵「いまはそう思った」
SE クリスマス・ソングが流れる。
公園。子供の遊ぶ声など。
葵M「急速なスピードでなにかが変わり始めていたが、それがなにかはわからなかった。父はまだ家に帰って来ていない。僕は茜と公園にいた。茜のやつ、ユリエを意識してか最近妙に女っぽい格好で、クラスの男子の人気も上がっている」
茜「今日で一緒に帰るのやめない?」
葵「どうして?」
茜「ほら、男子がうるさいじゃない」
葵「もう僕のことを好きじゃないの?」
茜「好きってどういうこと?」
葵「それは(言いよどむ)」
茜「ほうら、葵もわからない」
SE 焼き芋屋。
葵M「僕は姉とレオナルドのキスを思い出した。茜に無理やりキスしようとした。逃げられた」
茜「いきなりなにするの?」
葵「ユリエが外国の人はみんなこうするって」
茜「乱暴」
葵「ごめん」
茜「葵らしくない」
葵「葵らしいってなに?」
茜「わかった」
葵「なにが?」
茜「こうしたら、いまのこと許してあげる」
葵「なに?」
茜「私、バイオリンを始めたの。もういまからは遅いかもしれないけれど」
葵「そう」
茜「だから、西洋の世界に興味あるの」
葵「うん」
茜「葵、一家で行くと行っていたでしょう。クリスマスのミサ」
葵「うん。ユリエの一家とね」
茜「そこに私も連れて行って」
葵「あんなの、つまらないよ」
茜「いいから」
葵「わかった」
茜「繰り返すけれど、もう一緒に帰るのはなしだからね」
SE 茜の去っていく足音。
ユリエ「葵、茜に振られちゃったね」
葵「なんだよ。聞いていたのか」
ユリエ「葵、私がキスしてあげようか?」
葵「からかうなよ」
ユリエ「男の子みたい。(ふざけて)怖―い。ねえ、葵。また服の取り替えっこしない? 葵、かわいいからもてると思うな。着なくなった女の子らしい服、あげようか? 私、あの日の美少女の葵がとっても好き。男子なんかよりよっぽど」
葵「え?」
ユリエ「ミサも女の子の格好でくればいいのに。みんな葵に注目する」
葵「そんなことを言われても」
ユリエ「そうしない?」
葵「そもそもミサでそんなことしていいの?」
ユリエ「ミサってなんだか知ってる?」
葵「ええと(知らない)」
ユリエ「神さまの儀式。神さまはなんでも見ている。神父さまはなんでも知っている」
葵「なんでも?」
ユリエ「そう。なんでも」
SE 廃品回収車。
葵M 私は、いや僕はいきなりユリエに抱きつかれキスをされたのだった。イタリアではみんなそうするというが本当だろうか。はじめてだった。女の子が怖くなった。私はユリエに逆らえず女の子の格好でミサに行った。
SE バイオリンで演奏される讃美歌320番「主よ御許に近づかん」。
葵「神父さま。私はどうしたらいいと思いますか?」
神父「わかりません」
葵「でも、神父さまには男性しかなれないんでしょう?」
神父「そうです」
葵「なら、男性になったほうがいいのですか?」
神父「お医者さんはなんと?」
葵「自分で決めろと。そんなことを言われても。神父さんはみんなわかっているんでしょう?」
神父「わからないことを、わかっているのです。人間にはわからないことがあるということを」
葵「いったいどうしたらいいのでしょう?」
神父「きっと神さまが解決してくれます。それを待ちましょう」
葵「それと、あの(言いにくい)」
神父「なんでも言ってください」
葵「じゃあ、言うけれど」
神父「はい」
葵「さっき女の子に、好きだって」
神父「カトリックでは同性愛はあまり好ましいものとされていません」
葵「どうして?」
神父「そう教えられています」
葵「カトリックじゃなければいいの?」
神父「これまたわかりません」
葵「わかんないことばっか」
神父「神さまを信じることです。ではミサが始まりますので中に入ってください。祈るのです」
SE 教会に入る人たち。
葵M なんだかうまくごまかされたような気がした。ミサには私の一家とユリエの一家。それから茜が来ている」
茜「なにその服」
葵「いいだろ」
茜「もっと女の子っぽい言葉を使いなさい。まったくなに? そのヒラヒラした服。男子を意識しすぎ。色気づいている」
葵「ユリエがこれを着ろって」
茜「それから足を閉じなさい。前から見えちゃう」
葵「茜、なんか怖くなった」
茜「そんなことない」
葵「あるよ」
茜「もしかして葵、だれかを好きになった?」
葵「どうしてそうなるの?」
茜「私のこと、好きなんじゃなかった? 裏切り者。信じていたのに」
葵M「正直、どうして茜が怒っているのかわからなかった。たしか茜には振られているはずなのに。女の子はわからない」
SE バイオリンで演奏される讃美歌312番「いつくしみ深き」。
神父「今日はお子さん方もたくさんいらしています。少年少女に言いたいのは人を愛すことの意味。愛する。好きになる。愛するとは信じることです。他人を信じる。これほど簡単そうで難しいことはありません。多くの人を愛してください。信じてください。裏切られることでしょう。そこからまた愛する勇気を持ってください。許す優しさと一緒に」
葵M「私は母のほうをこっそり見たら、ハンカチで目を拭いていた。どうして父は母を泣かせるようなことをしたのか。男の人のこともわからない。初雪が降った日、いきなりだ。父が家に戻ってきた。私と姉は盗み聞きをする」
しおり「どうして帰ってきたの?」
武史「わかるだろう?」
しおり「自分のしたことをわかっているの?」
武史「わかっているに決まっているだろう」
しおり「なら、どうして、のこのこと?」
武史「わからないか?」
しおり「なにをわかれっていうの?」
武史「どうして女はこうガミガミ言うんだ?」
しおり「その女となにをした?」
武史「1回だけだろう」
しおり「どこまで本当だか」
武史「本当だよ。ひどい目に遭った」
しおり「自業自得ね」
武史「1回遊んだだけだよ。取引先の女だ。酒を飲んだら、そういう流れになったんだ。人間はだれだってミスをする」
しおり「開き直る気?」
武史「ひどい女でね。大人だろう。同意の元じゃないか。どっちも楽しんだ。それなのに乱暴された。警察に被害届を出すって大騒ぎ。知り合いに聞いたら警察は女性の味方をするという」
しおり「当り前よ」
武史「大きな仕事を回してやったよ。自分から誘ってきたようなものだろう。俺が乱暴されたようなものだ。そんなことを言ってもだれも信じてくれない」
しおり「よくぬけぬけと妻のまえでよその女のことを話せる」
武史「わかってほしいからだ」
しおり「だから、なにを?」
武史「まだわからないのか?」
しおり「どこにいたの?」
武史「友人のところだよ」
しおり「あなたに友人なんかいた?」
武史「大学の友人だ。男が社会に出たら友達なんかできるか?」
しおり「奥さん迷惑したでしょうね」
武史「独り者だよ。独身。女なんか大嫌い。一生結婚なんかしないと言っている」
しおり「もてないだけでしょう」
武史「ばれていないと思っているのか? おまえだって1回浮気しているだろう? これで5分と5分じゃないか? 妻を寝取られた男がどれだけみじめかわかるか」
しおり「浮気なんかしていない」
武史「ウソつけ。顔色が変わっているぞ。女はすぐウソをつく。それに知っているんだぞ。おまえイタリア勤務のとき、だいぶ遊んだって言うじゃないか。ディーノくんから聞いたよ」
しおり「男のくせに口が軽いのね」
武史「そんなのに男も女もあるか」
しおり「結婚まえのことじゃない? あなたも遊べばよかったのよ。小さい男ね」
武史「そういう問題か? 違うだろう。俺なんかぜんぜん遊んでこなかったぞ。きつい仕事を回されて」
しおり「もてなかっただけじゃない」
武史「ひどいな。金だって毎月しっかり振り込んでいただろう? 許してくれてもいいじゃないか?」
しおり「許してほしいの?」
武史「まだわからないのか?」
しおり「離婚してもいいのよ。うちはディーノさんの家と違ってカトリックじゃないんだから」
武史「だったら、こうして戻ってくるか?」
しおり「結婚式のときのこと覚えている? あなた私と結婚できて嬉しいって、めそめそ泣いていた」
SE 物音がする。
緑「フフフ(思わず笑ってしまう)」
葵「お姉ちゃん。ダメ(ばれる)」
武史「緑、葵、そこにいるのか?」
SE ドアが開く音。葵と緑が出て来る。
武史「聞いていたのか」
緑「聞いていない」
しおり「本当?」
葵「本当に本当に本当」
武史「お父さんが帰ってきて、お帰りなさいもないのか?」
しおり「なにをして帰ってきたの?」
武史「子供たちのまえで言うことではないだろう」
しおり「父親ぶらないで。子供の世話なんてほとんどしていないでしょう?」
武史「本当はしたかったんだよ。仕事、仕事で、できるわけがない。俺は仕事なんかよりも子育てがしたかった」
しおり「男のくせに」
武史「それを言うなら、おまえももっと女らしくしろ」
しおり「セクハラ発言ね。さっきから、おまえ、おまえってなにさまのつもり?」
武史「しおり。これでいいか?」
しおり「ねえ、緑、お父さんとお母さん、どっちが好き? 葵、お医者さんに言われているでしょう? お父さん、お母さん、好きなほうの性別になればいいのよ」
緑「喧嘩はやめて」
しおり「葵、どっちが好き」
武史「どうせお母さんって言うんだろう? ああ、いまは女性の時代。女になったほうがお得かもな」
しおり「なに言ってんだか。私だって仕事をバリバリしたかったのに、お父さんが結婚してくれって泣いて頼むから。なにが女性の時代よ。復職なんかぜんぜんできないじゃない。せいぜい派遣仕事」
緑「ふたりとも性別を交換したら?」
葵「お姉ちゃん。喧嘩をあおらない」
緑「私はお母さんの味方」
武史「ああ、そうだろうよ」
葵「お父さん」
武史「なんだ?」
葵「お帰りなさい」
武史「ああ」
葵「ただいまでしょう?」
武史「(不承不承)ただいま」
葵「もう出て行かない?」
武史「そのつもりで帰ってきたのに、お母さんはわかってくれないんだ」
葵「お母さん、お父さんを信じてあげられない? 許せない?」
しおり「そんなこと言われてもねえ」
葵「教会の神父さまも言っていたじゃない? 愛するとは信じることだって」
しおり「うちはカトリックじゃないのよ」
葵「お母さん、帰ってきたお父さんを信じられない?」
しおり「そんなことより葵。お母さんとお父さん、どっちが好き?」
葵「お母さん。もうひとり赤ちゃんを産むなら男の子と女の子、どっちがいい?」
しおり「こっちの質問に答えなさい」
武史「男の子だったら、少しは俺の気持もわかってくれるのかな」
葵「ねえ、お父さん。お姉ちゃんと私、どっちが好き?」
武史「どっちもだよ」
葵「じゃあ、私はどっちも嫌い。喧嘩をして子供を悲しませるような親は、お母さんもお父さんもどっちも嫌い」
SE 葵はその場から出て行く。
激しくドアが閉まる音。
葵M「(おどけて)えっへん。どうだ。うまいだろう。私は頭がいいのだ。こうしてうまく喧嘩をおさめたのだから。子供は親が思っているよりも賢い。父はいままで通り帰ってくるようになり、母はいきなり聖書を読み始め、桜が散り、私は小学6年生になった。そろそろ決めなければいけないとお医者さんに言われた。中学生になるまでにはと。その日、ずっと母に連れられて行っていた病院にはじめてひとりで行った」
SE 病院の雑音。アナウンス。
医者「今日はえらく女の子らしい格好だね。かわいい女の子がひとりで入ってくるので驚いたよ」
葵「友達からもらった服なの」
医者「女性になることに決めた?」
葵「ねえ、先生。聞いていい? お母さんがそばにいるとなかなか聞けなくて」
医者「いいよ」
葵「女の子が女の子を好きになるって変?」
医者「葵さんくらいの年齢ならよくあることだよ。めずらしくない」
葵「私ね、思ったの。男の子を好きになるのが女の子で、反対に女の子を好きになるのが男の子じゃないか。どう? 頭がよくない?」
医者「残念ながら、そうとは限らない。同性愛者がいるからね」
葵「そうなんだ。ハズレか」
医者「葵さんは好きな人がいるのかな?」
葵「(悪戯っぽく)秘密」
医者「(笑い)秘密、大いに結構」
葵「先生は男でよかったと思っている?」
医者「難しい質問だね」
葵「ほら、お医者さんは男性が多くて、看護師さんは女性ばかりでしょう?」
医者「いまは女性の医者、女医さんも増えているけれど、まあ、そうだよねえ」
葵「お医者さんのほうが偉いんでしょう?」
医者「(笑い)意地悪な質問だな」
葵「お金はもうかる?」
医者「(笑い)意地悪になったなあ」
葵「じゃあ、男になったほうがいいのかな?」
医者「医者になりたいの?」
葵「そういうわけじゃないけれど」
医者「いろいろ考えているんだね」
葵「先生は、僕とか言っちゃおう。僕がどっちになったほうがいいと思う?」
医者「それは先生には決められないな」
葵「男性と女性の違いってなんなの?」
医者「難しいことを聞いてくるなあ。まずは外性器の違いだね。胸がふくらむかどうか。それから、なんて言えばいいかな。女の子には言いにくいな」
葵「(ふざけて)僕には言っていいです」
医者「まあ、その、下についているものの違いだね。これがひとつ目。ふたつ目は生殖。子供を産めるかどうか。大まかに言ってこのふたつだね」
葵「へえ」
医者「でもね、子供を産めない女性が女性でないかと言えばそうではない。お金はかかるけれど外性器も手術で整形できる。葵さんの場合は病気だから、そんなにお金はかからないけどね」
葵「だったら、男性も女性もそう変わらないってこと?」
医者「そういうことになるね。背の高い女性も力持ちの女性もいるからね」
葵「(恥ずかし気に)あとひとつ聞いていい?」
医者「なんでも」
葵「――」
医者「どうしたの? なに?」
葵「やっぱやめとく」
医者「(セックスのことだと気づき)なんでも知ればいいってもんでもないからね」
SE 工事の騒音。
親方「(荒っぽく)本社からヘルプに来たって、こんなものくらい運べなくてどうするんだよ。役に立たねえな。どうせ本社は現場仕事を舐めているんだろう。1日くらい本気を出せないのか」
武史「はい。すいません。精一杯やっているつもりなんですが、どうにも」
親方「男がそんな弱音はいてどうする? 本社のやつは女みたいだな。男らしく気合を入れろ」
武史「はい。わかりました」
SE 安酒場のわいわいとした騒音。
女性バイト「ちょい飲みセット、いただきました」
板前(男)「かしこまり」
武史M「ああ、腰が痛いな。無理なものは無理なんだよ。現場仕事なんてさせんなよ」
SE コールセンター。女性の電話で話す声があちこちで飛び交う。
しおり「たいへん長らくお待たせ致しました。霧島がうけたまわります。本日はどのようなご用件でしょうか?」
男性「(酔っている)ねえ、おねえさん。今日、履いているパンツの色、教えて」
しおり「恐れ入りますが、そのような質問にはお答えできかねます」
男性「じゃあさ、まえにセックスしたのいつ? 経験人数、何人?」
しおり「たいへん申し訳ありませんが、おかけになる場所を間違っているのではありませんか」
SE 混雑した駅。
しおりM「男ってやつは――バッカヤロ。私だって男みたいに昼からお酒飲んでメチャクチャしたい」
SE 茜がバイオリンでへたくそなバッハの「ガボット」をひいている。やめて。
茜「レオナルドさんどう?」
レオナルド「はじめて1年も経っていないのなら充分だよ」
茜「先生の教え方がうまいから」
レオナルド「そう言われると嬉しいな」
茜「レッスンの先生よりもはるかにうまい」
レオナルド「そうかな。ユリエはなにをしているんだろう? ちょっと見て来るね」
SE レオナルドは出て行く。
ドアが閉まる。
茜M「うーん。女に生まれてよかったかも」
SE ドアが開く。ユリエが入ってくる。
茜「あれ? ユリエ? レオナルドさんは?」
ユリエ「キッチンでなんかガサガサ探していた。それよりユリエ、今日どうしたの? すごいお洒落して」
茜「どう?」
ユリエ「うん。女の子っぽくてかわいい」
茜「どうせ女の子(姿)の葵にはかなわないけどね」
ユリエ「ひがんでいる」
茜「それよりユリエありがとう」
ユリエ「なにが?」
茜「わざとレオナルドさんとふたりきりにしてくれたんでしょう?」
ユリエ「もしかして茜、お兄ちゃんのことを(好きなの)?」
茜「うん。クラスの男子なんかよりよほど大人だし」
ユリエ「あいつ、最近、なんか男くさくなって嫌いなの。やたら威張るし」
茜「えええ。妹だとよさがわかんないんだ」
ユリエ「お兄ちゃん、彼女いるよ」
茜「知っている。葵のお姉さんでしょう」
ユリエ「知っていたんだ」
茜「葵の家に遊びに行ったとき会った。背が高くて、頭がよさそうな人だった」
ユリエ「うーん。どうだろう。お兄ちゃん、年下が好きだから。一度、葵に変なことをしようとしたことも」
茜「葵もレオナルドさんが好きなの?」
ユリエ「どうかな? あれは悪戯でからかっていただけか」
茜「よかった。競争相手が多くなっても困る」
ユリエ「競争するの?」
茜「どうしよっかな(悪戯っぽく笑う)」
SE 雨が降っている。
葵M「梅雨になって、うちの景色も変わった。聖書を読んでいたせいなのか、母はなにか吹っ切れたような明るい顔をしている。父は決まりの悪そうな顔で、それでも家にはきちんと戻ってくる。母が陽気に僕の好きなハンバーグを作った日、姉がなかなか帰って来ないので先に食べようということになった。みんな食べ終わったとき姉が泣きながら帰ってきたのだ」
しおり「緑、どうしたの?」
緑「なんでもない」
しおり「ハンバーグ焼こうか?」
緑「今日は夕飯いらない」
SE 緑はリビングを出て行く。
武史「いったいなにがあったんだ?」
しおり「女の子にはいろいろあるのよ」
武史「だからって」
しおり「こういうときは放っておくほうが、かえっていいの」
武史「葵、行ってやれ。きょうだいのほうが話しやすいだろう」
葵「うん。わかった」
SE ドアをノックする音。
緑「だれ?」
葵「葵。お父さんが行けって」
緑「入って」
SE 葵は緑の部屋に入る。
葵「どうしたの?」
緑「今日の葵、なんだか男の子みたい」
葵「そう?」
緑「レオナルドのやつがね」
葵「うん」
緑「あんな小学生のどこがいいのよ」
葵「どういうこと?」
緑「別れようって。自己主張の強い女は嫌いだ。どうして女が自分の意見を言っちゃいけないの? 女は男の話をハイハイって聞いていればいいの? あの茜って子、葵とつきあっていなかった?」
葵「ええと」
緑「じゃあ、葵も振られたんだ。うちはさんざんね。お母さんはお父さんに逃げられる。お父さんは女に振られて帰ってくる。私はレオナルドに振られ、葵は――。あれ? 葵、本当にあの茜って子、好きだった? 葵はユリエのほうが好きだと思っていた」
葵「僕は――」
緑「ほら、あの子、胸、大きいじゃない?」
葵「僕をバカにすんなよ」
緑「男ってそうじゃない?」
葵「わからない。そうなの?」
緑「わからなくなってきた。レオナルド、小学生の女の子のほうがいいって、なにそれ? そんなのあり? そんなに年下の小さな子のほうがいいの?」
葵「茜は大人っぽいところがあるから」
緑「でも、小学生は小学生でしょう?」
葵「お姉ちゃん、変なこと、聞いていい?」
緑「なによ」
葵「その、なんというか、彼と(小声になり)したの?」
緑「なにそれ?」
葵「ええと、その、お父さんが女の人としたようなこと」
緑「いやらしい。姉にそういうこと聞くか?」
葵「そうだよね。ごめん」
緑「どうしてそんなこと聞くの?」
葵「いや、どんな感じなのかなって」
緑「男の子みたい。いやらしい」
葵「そうなの?」
緑「していない。これでいい?」
葵「うん」
緑「葵、ませてきたな。久しぶりに喧嘩するか? かかって来い。ふん。根性なし。なら、こっちから行くぞ」
SE 葵と緑が取っ組みあう。
葵M「ベッドでしばらく上になったり下になったりした。僕よりも身体の大きい姉にかなうはずがない。くみしかれた。姉は泣いていた。ひとりにしたほうがいいと思い、こっそり部屋を抜け出してリビングに行くと、父がひとりでお酒を飲んでいた。ウイスキー。とてもさみしそうだった。僕はコップにお茶をくむと父のまえに腰かけた」
武史「フフ。女も辛いのだろうが、いろいろ男も辛いんだ」
葵「――そう」
武史「どうだった?」
葵「――うん(言わないほうが)」
武史「そうか。言いたくないか。それでいい。黙っているのが男だ。こうしていると、息子と酒を飲んでいるみたいだ」
葵「お父さん」
武史「なんだ?」
葵「女の人ってそんなにいいの?」
武史「親にそんなこと聞くなバカ(苦笑)」
SE チャイム。学校。休み時間。声変わりした男子の大人ぶった話し声。
うるさいほどのセミの鳴き声。
ユリエ「男子、いやらしいの。このまえなんか偶然のふりして胸、触ってきて」
葵「ユリエ。もてるから」
ユリエ「私は葵が好き。ねえ、今度、ふたりで海に行かない?」
葵「私、泳げないし。知っているでしょ? 私、水着、ダメなの。男の水着も女の水着も恥ずかしいから。いつもプールの授業は見学」
ユリエ「泳がなくていいじゃない。夕焼け見て、暗くなったら花火して、ジュース飲んで、お菓子食べて。葵のお姉さんからいいスポットを教わったの」
葵「どっちの格好をして行けばいい? 男? それとも女?」
ユリエ「葵の好きなほうで」
SE 電車が走る。
葵M「ユリエはそのほうが喜ぶと思ったから僕はどちらかと言えば男の子っぽい格好で行くことにした。海辺はひっそりしていた。海で見る夕日はきれいだった。茜色ってこういう色を言うんだなと思った」
SE 寄せては引き返す波。
ユリエ「待って。だれかいる。隠れよう。あれ? あれあれ? あれうちのお兄ちゃんと葵のお姉ちゃんじゃない。うわあ、抱き合ってキスしている」
葵「本当。どうして?」
ユリエ「知らなかった? 茜、振られたんだって。子供っぽいって」
葵「そうなの」
ユリエ「男は自分勝手。ああ、あのふたり手をつないでどこに行くんだろう?」
葵「とめなきゃ」
ユリエ「お姉ちゃんが心配?」
葵「うん」
ユリエ「どうして? ああ、行っちゃった」
SE 波の音。打ち上げ花火。
最後に線香花火。
ユリエ「妖(あや)しい光。これから私たちも少しずつこの光の中に入っていくのね。いやがおうもなく。どうしようもなく」
葵「これから何回も花火をするだろうけれど、今日のユリエとの花火は忘れないと思う」
ユリエ「私も忘れない。絶対、忘れない」
SE 寄せては引き返す波。
葵M「しんとした時間の中にいた。夏なのに寒気がするほど線香花火はさみしそうだった。最後の線香花火が終わると、なにも言わずにユリエは服を脱ぎ始めた。あっという間に下着まで脱いだ。月の明かりに照らされたユリエの裸。ふくらみかけの大人と子供の中間のような胸。腰のくびれ。それから――」
ユリエ「どう? 私、発育いいって言われているけど、でも、まだまだ大人じゃない」
葵「とってもきれい」
ユリエ「葵はどうしたい? こうなりたい? それとも私になにかしたい?」
葵「そんなこと言われても困る」
ユリエ「葵も服を脱いで」
葵「絶対に、やだ」
ユリエ「どうして?」
葵「私、男子でも女子でもないから。物心ついてからお母さんとお医者さんにしか見られたことがない。温泉や銭湯に一度も入ったことがない」
ユリエ「そう」
SE バイオリンで奏でる讃美歌320番「主よ御許に近づかん」。
葵M「そのときなぜか教会で聞いた讃美歌が聞こえてきたような気がして、私は人前ではじめて裸になった。もうすぐ男か女になってしまうのだ」
SE 寄せては引き返す波。
葵「どう?」
ユリエ「きれい。そのままできれい。この世のものではないみたい。――まるで神さまみたい」
葵「(脅えて)まだ私のこと好き?」
ユリエ「もっと好きになった。葵が大好き」
葵「怖かった」
ユリエ「葵は神さまから選ばれた子なのよ」
葵「本当に怖かった」
ユリエ「勇気出したんだ?」
葵「うん。いっぱい、いっぱいね」
ユリエ「ありがとう」
葵「なんで?」
ユリエ「なんかそう言いたくなったの」
葵「神さまか」
ユリエ「うん、そう。神さま」
葵「神さま」
SE そのまま讃美歌が続いて。
クリスマスの街のにぎやかな雑踏。
葵M「その日、私と姉はそろって父からも母からも叱られたのだった。私は姉のことは秘密にしておいた。(ゆっくりと)紅葉の秋が終わり、クリスマスは去年のようにユリエの一家と教会のミサに行き、年越しそばを食べたと思ったら新年で、とりあえず性別を決める手術の日を予約した。小学校の卒業式の翌日だ」
SE バイオリンで演奏される「仰げば尊し」。
ユリエ「明日には葵、男か女になっちゃうんだ。なんかさみしい」
葵「だんだんとだけどね。ユリエ、おしゃべりしていると先生に怒られるよ」
茜「ねえ、葵」
葵「茜も。先生、こっち見てる」
茜「そろそろ私たちになら教えてくれてもいいじゃない。男と女、どっちになるの?」
葵「内緒。中学みんな別々だからバラバラになっちゃうね」
ユリエ「葵の行く中学校、うちの小学校からだれも行かないんでしょう?」
葵「わざとそうしたの。お母さんがそうしたほうがいいって言うから」
SE 黒板がバンバン叩かれる。
男性教師「そこ、おしゃべりしない。先生の最後の話くらい聞けないのか」
SE ドラマの終わりを示すかのように何度も黒板がバンバン叩かれる。
葵M「これで私の話は終わりです。白状すると実はまだ男になるか、女になるか決めていないのだ。私の話を聞いてくださった大人のみなさんに質問。男と女、どっちがいいですか? 男性と女性、どちらがおすすめですか?」 (終)
※最後までお読みいただき本当にありがとうございます。
女性は声変わりをしませんから、
小学生のセリフでも中学生、高校生の女優(声優)が言えます。
拙作に登場した主なバイオリン曲は以下です。
コロナワクチンって3回目で終えるのが大半なんだ。
知り合いとかいないから知らなかった。
まあ、突然死できるのならラッキーだなあ。安楽死みたいなもんじゃん。
そのくらいの気分だった。
そういえば5回目を受けているのは老人ばかりだった。
どのみちもうすぐ死ぬって慶應病院の循環器内科、
藤澤大志先生に言われているのだからさ。
「本当に本当ですか?」
「何度言ったらわかる? 僕はウソを言わない医者だ」
「先生の医師人生をかけて言えますか?」
「しつこいなあ。ああ、慶應医学のプライドをかけてもいい」
「僕はもうすぐ死ぬんですね。ああ、死ぬのか」
「5年生存率20%。いますぐ死んでもおかしくない。これは医学的なファクトだ」
「どうしたらいいんですか?」
「それは患者――土屋さんが決めることでしょう?」
46歳でコロナワクチンを5回も打っているやつなんかいるか?
死んでもいいから。どうせそのうち死ぬんだしさ。
死んだら、ボケだと思われるが、
わたしを憎悪かつ毛嫌いしている父を喜ばせることができる。
ろくな親孝行はしなかったから最後くらい父に歓喜をプレゼントしたい。
「死にたくない」と叫んでいるニコチン中毒の文芸評論家がいるが、
20歳以上年下の奥さまはこれからえんえんと介護だぞ。
本を出してもらったのは2冊だっけ? ポストも斡旋してもらえなかった。
当てが外れたというのが正直なところではないか。
ニコチンきちがいは私小説に周囲のほぼ全員の悪口を書いていたが、
奥さまへの不満だけは書かず、あたかも仲良し夫婦のようなことを書いていた。
あれは自分の元から逃げたら際限なく悪口を書き続けるからなという脅迫とも読める。
恐ろしい人だ。
自分は長生きして、打算的に結婚選択を誤った若い妻を介護地獄に落とす計画だろう。
逃がさないよう手足を縛っているのも心憎いほどのやり手である。
尊敬している作家のひとりだが、長寿願望がわからない。
マニラ往復3万6千円はあったけれど、2月14、15日のはない。台湾もない。
3月に入っちゃうと、そのまえに某公募の締切があるから体力をキープできない。
これは大人しく神戸にでも行って宮本輝の豪邸でも記念写真に撮るとするか。
よく考えたら全国旅行割でドミトリーに泊まらなくても同額で、
まともなホテルに泊まれるかもしれないしさ。断念するいさぎよさも必要と判断。
明日は慶應病院で心エコー検査。いくらするんだろう?