シナリオ・センター所長の後藤千津子さんのご指導を懐かしく思い出す。
いわく、連続ドラマの第1回は見なさい。
1回目は、おもしろくするのが難しい。しかし、視聴者を引きつけなければならない。
がために脚本家がいちばん骨を折るのは連続ドラマの初回。
ライバルがどんな工夫をしているのか、みなさんんは盗まなければなりませんよ♪

脚本家はたしかシナセン出身の人だと思う。もちろん女性。
愚鈍かつ鈍感な男が、若い女性様を楽しませるドラマを書けるわけがないもの。
いま日本でいちばん偉い(=カネを使う、カネを使わせる)のは若い女性様(F1)。
テレビドラマをつまらないと批判するほど凡庸なことはないから、ううん、どうしようか。
どこかほめるところはあったか。
テレビショッピングのクレーム処理専門部署が舞台。
このクレーム処理が話題になったのはだいぶまえだよね。
ベストセラー「社長をだせ!」。いえ、読んでいないけどさ。
そのうえで「ショムニ」みたいのを書いてくださいと脚本家は頼まれたか。
あるいは、脚本家自身がねらったのか。

まあ、うん、イケメンの小泉孝太郎くんが出演している。
わざとらしい葛藤も作られている。
なんかテレビショッピング出演の女優(?)と、コールセンターの女に因縁があるみたい。
べつに知りたかないけどね。
柏田道夫先生のおっしゃるようドラマが作られていたので驚いた。
小泉孝太郎がおっさんと海岸で話していると、
「たいへんだ〜」と第三人物がストーリーを進めるためだけにやって来やがった……。
メッセージは「人生はマニュアルじゃない」(笑)。
ドラマ唯一の長老者がしたり顔で言うので興醒めした。

いまテレビなんて見ているのは女子供(おんなこども)くらいでしょう。
少なくとも30を超えた男はテレビを見ない。
テレビ局のお偉いさんも、わたしなどターゲットにしていない。
だから、つまらないと批判することは意味がない。
「おまえなんかに見てもらわなくて結構」とP様も脚本家も思っているわけだから。
1時間を無駄に使ったと思いたくない。
どこかいいところはなかったか。
女優を脱がせたり、せめてパンチラくらいしてくれよ。

働く女性の哀歓がコミカルに描かれていてジーンとしました。
次回を楽しみにしていますよ。
以上2行はシナセン添削者の真似。いかにもうそくさいほめ言葉でしょう(笑)?

(注)今クールは可能な限り連続ドラマの初回を見るとここに宣言します。
ボクは知的障害者ではないでしょうか?
むかしからすごいマヌケなところがあります。
今日なんてとんでもない。
宿題のシナリオを書くでしょう。印刷しますよね。
これを持っていくのを忘れてしまうのがボクなのです。
「死ねバカ」ってボクのために作られた言葉ですよね。

シナリオセンターでは皆勤賞があります。
全出席、全課題提出で、シナセン創設者の新井一先生の名著、
「シナリオの基礎技術」をくださるのです。
ボクはすでに持っている。
しかし、とにかくルールに厳しいスクールですから、
なにを申し上げても無理だとあきらめていました。
「シナリオの基礎技術」は人にあげる約束をしました。

ところが、今日の柏田道夫先生のお話によると、
すでに持っている人はべつのをあげるとのこと。
最初におっしゃってくださいよ……。
柏田道夫先生のご本をいただけたかもしれないのか。
いえ、「シナリオの基礎技術」をいただきます。
あれは名著です。最初に読んだとき、打たれました。
ひとりでも多くの人間が読むべき本です。

で、皆勤賞は今日のチョンボでどうなったか。
さいわいにも宿題提出は最終日まで待ってくださる。
来週が作家養成講座の最終回。
取り返しはつくわけです。なんとか自分をなだめました。
しかし、悔しい。泣きたい。バカバカバカ。
シナリオを書きながら忘れるなんてボクくらいでしょうね。
添削者の先生に書けなかったと思われるのが悔しい。
違うんです。書いてはいたのです。

先ほどデカダンさんから「咲く散る咲く散る」(変なタイトルでごめんよ)の感想が。
どうして真介がソープランドに行くのかわからない、との仰せ。
概念で作ったのが裏目に出てしまいました。
そうとう頭で作ります。
本当(長男死亡の真相)を嘘にして(隠して)、
嘘(ソープランド)を本当にする(行ってみる)。
「本当→嘘、嘘→本当」を書こうと思ったのです。
しかし、おもしろいとは思っていただけなかった。
こちらのミスです。全面、敗北。
つまらないものでみなさまのお目を汚して、申し訳ありません。
ここにお詫びいたします。

来週こそはおもしろいものを書きたいです。
シナリオ・センター第21回提出課題。「秘密(回想)」(20枚)。

<人物>
吉原真介(40)会社員
吉原桜子(36)その妻
吉原英雄(7)その子・年齢は享年
吉原琢磨(6)その子
秋桜(こすもす)(22)風俗嬢

○吉原家・居間(夜)
吉原真介(40)が吉原琢磨(6)の頬を張る。
真介「何度言ったらわかる? 
ご飯を残してはダメだろう。食べ物は大切なんだ」
琢磨「だって、ピーマンは」
真介は再度、琢磨を張る。異常なほど強いビンタ。
琢磨は泣く。またビンタ。
吉原桜子(36)が現われる。琢磨をかばう。
桜子「やめて。どうしてそんなに強く叩くの。まるでこの子が憎いみたい。
どうした? このごろおかしい。なにがあった?」
真介「なにもない」
桜子「ううん。わかるの。なんか隠している」
真介「なにもない」
泣く琢磨を桜子は抱きしめる。泣きやまぬ琢磨。
真介は耳を両手で押さえながら居間を離れる。泣く琢磨。

○同・寝室(夜)
真介はパソコンをしている。パソコンに写る家族写真。
写真には真介、桜子、琢磨、吉原英雄(7)が写る。
真介はウイスキーのオンザロックをぐいと飲む。
真介の声「あの子には兄がいた。二年前までは。
最近の琢磨は急に身体が成長して、私には英雄と瓜二つに見える」

○回想・山道
蝉が鳴く。缶ジュース三本をかかえて真介(38)が小走り。
向かう先にいるのは英雄(7)と琢磨(4)である。
真介の声「二年前のあの日、私たちは三人でハイキングに行っていた」
真介「危ない」
英雄が崖をよじ登っている。
琢磨「ハナ、ハナ」
英雄は崖の上に一輪咲くコスモスを取ろうとしているのである。コスモス。
琢磨「ハナ、ハナ」
琢磨はコスモスを指さす。
英雄の手がコスモスに届いた瞬間、足場が崩れる。英雄は転落する。
真介「ああ(と叫ぶ)」
真介は缶ジュースを投げ出し駆け寄る。転がる三本の缶ジュース。
英雄があおむけに倒れている。
動かない。頭から血が流れる。英雄の手にはコスモス。泣き叫ぶ琢磨。
真介「英雄、英雄、しっかりしろ」
真介は英雄を抱きかかえる。

○回想・走る救急車

○吉原家・寝室(夜)
真介(40)はウイスキーを飲む。
パソコンの家族写真。
真介の声「目を離した私がいけないのだと思っている。いけないのは私だ」
琢磨の声「ハナ、ハナ」
真介の声「しかし、もしあのとき琢磨が」
琢磨の声「ハナ、ハナ」
真介「ああ(と短く叫ぶ)」
真介はウイスキーをあおる。

○吉原家・玄関(朝)
琢磨はランドセルを背負っている。
琢磨「(元気よく)いってきます」
桜子「いってらっしゃい。気をつけるんだよ」

○会社・食堂
真介が会社の同僚数人とランチを食べながら談笑している。

○道(夕方)
桜子が歩く。手にはスーパーのレジ袋。

○吉原家・居間(夜)
真介、桜子、琢磨。
真介「ランドセルをなくした?」
琢磨「――(うつむく)」
桜子「大きな声を出さないで」
真介「ふつうランドセルをなくすか?」
桜子「現になくしてしまったんだから」
真介「どこでだ?」
桜子「公園のベンチに置いておいたら、いつの間にか、だって」
真介「教科書も一緒にか?」
琢磨「(こくり)」
真介「明日からどうするんだ」
桜子「先生に電話したら、当面はコピーがあるからって。
そのうち教科書も届くみたい。すぐに手配してくれた」
真介「おまえはバカなんじゃないか」
真介は琢磨に近づく。
桜子「叩かないで。だれにだって失敗はある。失敗したことない? 
叩くのはやめよう。叩くならこの子を連れて出ていく」
真介は寝室に入る。

○同・寝室(夜)
真介はウイスキーを飲む。琢磨が入ってくる。泣き顔である。
琢磨「パパ、ランドセル、ごめんなさい」
琢磨の頬を涙がつたう。
真介「(小声で)英雄」
琢磨「うん?」
真介「ランドセルなんていい。
琢磨が元気だったらランドセルなんかいくらなくしたっていい。琢磨、琢磨、琢磨」
真介は琢磨を抱きしめる。
ランドセルを持った桜子が入ってくる。
真介「それ」
桜子「英雄の。怒る?」
真介「いや、いい。ちょうどいい。琢磨、英雄兄さんのことを覚えているか?」
琢磨「あんまり」
桜子「しょうがないじゃない。まだ小さかったんだから」
真介「琢磨、おまえには素敵な兄さんがいたんだからな。弟思いの立派な兄さんが」
琢磨「うん」
真介「お兄さんのランドセルを使わしてもらえ。
お兄さん、ありがとうって感謝しながら使うんだぞ。お兄さんみたいないい子になれ。
英雄はなんでもよく食べた」
桜子「いえ、英雄はニンジンが(ダメ)」
真介「なんだよ。邪魔しやがって。せっかくいいところだったのに」
真介は笑う。桜子も笑う。
琢磨は英雄のランドセルを背負う。

○同・居間(夜)
食卓に真介と桜子が向き合う。
真介「隠していたことを話す」
桜子「ここんとこ、おかしかった」
真介「いままで隠していたことがある」
桜子「うん」
真介「このまえ、重要なお得意先の接待で」
桜子「接待なんてめずらしい」
真介「サラリーマンはそういうときノーと言えないんだ。
酒を飲んで、女を抱こうという話になった。
じゃあ、どうぞ抱いてください、というわけにはいかない。
乗りが悪いとみんな白けてしまう」
桜子「行った?」
真介「一度きりだ。後悔した。やましかった。
ついイライラして琢磨に当たってしまった。申し訳ない。許してくれ」
桜子「好き」
真介「うん?」
桜子「ふつう隠すでしょう。でも、正直に言っちゃう。
そういうとこ好きで結婚したの、思い出した」
真介「からかうようなこと言うなよ」
桜子「もう隠していることない?」
真介「うん」
桜子「ほんとにほんとにぜったい?」
真介「ない」
桜子「なら、いい。許してあげる」
桜子は笑う。真介も笑う。

○ソープランド「フラワー」・入口(夜)
真介は周囲を見回す。入店する。

○同・個室(夜)
真介と秋桜(22)が入ってくる。
真介「(服を脱ぎながら)正直に言っちゃうけれど、こういうとこ来たことがなくてね」
秋桜「(服を脱ぎながら)緊張してます?」
真介「いいのかな。こんなきれいな子と私のようなおっさんが」
秋桜「いいのいいの(と真介の脱衣を手伝う)」
造花のコスモスが飾られている。
全裸のふたりは浴室に消える。

○イメージ
コスモスの蜜を吸う蜂。

○ソープランド「フラワー」・個室(夜)
ベッドの上の真介と秋桜。
真介「(半身を起こして)よかった。
人生にこんな楽しいことがあるんだ。ありがとう」
秋桜「それ大げさ。また来てね」
真介「これ一度きり」
秋桜「奥さんが恐い?」
真介「ううん。公認だから」
秋桜「どういうこと? わけわかんない」
真介は財布を取り出しカネを支払う。
秋桜「多い」
真介「知っている」
秋桜「いいの?」
真介「うん。すっきりした」
秋桜「ありがとう(と真介の頬にキス)」

○昭和記念公園
自転車で走る真介、桜子、琢磨。
三人は一面のコスモス畑に到着する。

○家族写真
コスモス畑を背景に真介、桜子、琢磨。
琢磨の声「ハナ、ハナ」


(補)「本当のこと」は言えばいいのでしょうか。
「本当のこと」を黙して語らず死んでいった多くの人間に敬意を表しながら書きました。
墓場まで持っていく秘密を書いたつもりです。わたしは本当よりも嘘が好きなのでしょう。
「『「子どもの目』からの発想」(河合隼雄/講談社+α文庫)

→おそらく河合隼雄中毒なのだろう。
近所のブックオフで105円の河合隼雄本を見かけると、つい買ってしまう。
いまのわたしの精神的支柱は、恥ずかしながら河合隼雄かもしれぬ。

ぶっちゃけ、河合隼雄に支えられて習作シナリオを書いているところがございます。

小説家と作中人物の問題。

「作者がハッピーエンドをねらって、何もかもハッピーエンドにしようとすれば、
それはそれで不可能ではない。
しかし、そのときは、その作品にかかわる著者の態度が極めて底の浅いものとなり、
読者のほうにしても読みがいのないものとなってしまう。
作者が自分の存在を深くかかわらせるほど、
作中の人物はそれぞれ個性のようなものを持ってきて、
作者の意図には簡単に従わないのである。
そして、不思議なことに、
作者の意図と作中の人物の合作のような形で作品ができあがり。
そのときは作者の意識や意図を超えたものとなり、
人びとの心を深くゆり動かすのである」(P51)


「人びとの心を深くゆり動か」したい。これこそ表現者の本能ではありませんか?

「名言・ことわざにならう ひろさちやの ゆうゆう人生論」(集英社文庫)

→ひろさちや中毒なのだろう。
近所のブックオフで105円のひろさちや本を見かけると、つい買ってしまう。
中毒者だから、書かれていることで知らないことはないのである。
ただただ確認したい。人間の無力を。人生の不可思議を。
いうなれば、ドラマの効用とおなじかもしれない。
だれもが人間であるかぎり、人生のなんたるかは知っている。
ところが、生活にまぎれて、ついつい忘れてしまう。
このとき、人生の実相を伝えるドラマを見て人は感動するのではないか。
作者は、新しい知識を教えようなんて思ってはならない。
忘れていらっしゃるかもしれないことを、僭越ながら、ここに書いておきますよ。
ドラマ作者はこのくらいのほうがいいのかもしれません。

「にんじん 一幕物」(佃裕文訳/「ジュール・ルナール全集3」/臨川書店)

→演劇界の芥川賞として知られるのが岸田國士戯曲賞。
さあて、劇作家・岸田國士がだれの影響を受けたかというと、
フランスの作家であるルナールとミュッセである。

「劇作家ルナアルは、ミュッセと共に、
僕に戯曲を書く希望と興味と霊感とを与へてくれた」(岸田國士)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44353_21788.html


岸田國士戯曲賞がいかに低劣な賞かは上記の引用からわかろうものではないか。
ミュッセの戯曲などつまらぬものである。
しかし、岸田存命時のフランスはあこがれの的であった。
まさに「おフランスざーます」である。
審美眼のない岸田國士先生(笑)は、ミュッセやルナールがフランス人だから感動した。
岸田國士戯曲賞の作品をいくつか読んだが、
じつに見事にかの先生の意向を尊重しているので感心する。
その当時に受けていて、新しそうに見えるものを評価するのが岸田國士戯曲賞(苦笑)。

一幕劇の「にんじん」は、新進演出家のアントワーヌの手で大ヒットとなった。
一度、読んでみたかったけれど、
(小説ではない)劇作の「にんじん」が収録されている全集は高い(5000円!)。
このたび運よく早稲田古書店のワゴンで安価にて購入できたので(400円!)
読むにいたったしだいである。感想は、ダメだこりゃ。大したもんではない。
フランス恐れるに足らずである。
まあ、当時としてはうまく劇的効果を用いていたつもりなのだろう。
基本はホームドラマ。
かといって、家族のことをセリフで説明するのはおかしいから、新しい女中を来させる。
主人公の「にんじん」は父か母かの「ふたつにひとつ」に悩む。
結果、いままで疎遠だった父親との和解が成立する。
これが芝居における唯一の変化らしく、アホなフランス人はここに感動したのかもしれぬ。

まあ、むかしから両親の不和に悩む子どもはいたってことだ。
うちもそうだったし、友人知人にもたくさんいる。
子どもは大きくなり、幸福な家族を自分こそは目指そうとするのよ。
しかし、現実の夫婦仲は、そううまくいかない。
たしかに「にんじん」は普遍的な問題(両親の不和に苦悩する子ども)
を描いているのかもしれない。
けれど、ごめん、それ、いまは日本じゃ(というかほとんどの先進国で)、
ほんと、ありきたりだから。
かといって、「にんじん」において解決やカタルシスはないわけで。

結婚相手は(一見)自由に選べるけれど、子どもは親を選べない悲劇――。
「にんじん」は今後も背景を変えながら書かれていくことでしょう。

「テレビ・デイズ」(岩松了/小学館)絶版

→第49回読売文学賞戯曲賞作品(1997年)。
ものの価値というのはわけがわからない。
本来、すべてがそうなのだが、いわゆる芸術(笑)作品に接すると痛感する。
作者によると、この「テレビ・デイズ」とやらは、芝居で純文学をめざしたとのこと。
戯曲にはめずらしく、作者の注がついている。

「ですから、このあとの「ま、しょうがない……」
という夫のセリフに面白味があるということです」(P66)


劇作家自身がこのセリフは面白いと注で主張するのである(苦笑)。
この芝居は「竹中直人の会」とやらで演じられたらしく、
本書の巻末に劇作家と人気俳優の対談が収録されている。
岩松了ほど幸福な表現者は少ないのではないか。
対談で言い放ってしまうのである。
この台本を読んだだけで芝居の魅力がわかる読者は相当なものだと。
イコール、この戯曲がつまらなかったものは演劇の勉強が足りない。
芝居を、芸術を、まったく理解していない。

岩松了のここまで強気になれる根拠はなんなのだろうか。
人気俳優・竹中直人の応援かもしれない。
役者もこの劇作家をひいきにすることで、河原乞食から芸術家に転身できる。
おそらくこの芝居に集まった観客は、竹中直人が目当てだったのだろう。
わからなくても、自分がいたらないためだと反省する。
芝居の幸福とはこういうことを言うのかもしれない(もちろん強烈な皮肉だからね!)。


「オケピ!」(三谷幸喜/白水社)絶版

→第45回岸田國士戯曲賞作品(2001年)。
読みながら、うまいなァと作者の才能に感心するのみであった。
天下の三谷幸喜氏になにを申すと怒られそうだが、とても自分には書けない。
このところ創作の真似事をしているせいで、他人の才能には敏感になる。
もちろん、わたしは氏の熱狂的なファンではないから、
実際にこのミュージカルを観たところで一、二度クスクス笑うくらいだろう。
高い入場料の元を取れるとは思わない。
しかし、長年にわたって多数の戯曲を読みあさってきたので理解できるのである。
ここは笑わせようとしている。で、多くの観客が爆笑するであろう。
さらにその笑いは得がたきものだということまでわかる。
日本のコメディ(あえて喜劇とは言わぬ)では最高品質のものであろう。

どうしたら真似をできるのだろうと観客を笑わせるセリフを分析してみた。
ちなみに筆者の分析ではこの戯曲で笑わせるシーンは10確認した。
おそらくコアな三谷幸喜ファンなら20回くらいは笑わせられるのではないか。
で、わたしが発見した10のうち、実際に笑ったのは2回。
これは舞台ではなく戯曲で読んでいるから仕方がないのかもしれない。
しかし、観客ならぬ読者にも大笑いをさせる劇作家の手腕は見事である。
同様に分析したところ、ホロッとさせるハートウォーミングシーンは2箇所。
とても筆者には共感できない浅薄な人生観の吐露であったが、
コメディにはこのくらいがふさわしいのだと思う。女子供は泣いたかもしれない。
ハラハラドキドキのシーンは2箇所。
妻か愛人かで迷うコンダクター。
オーケストラの1パートが負傷したことによる楽器の代替演奏のドタバタ。
ちなみにこのドタバタのラストで芝居は最高潮を迎える。
劇作家はたしかな計算のもとに、このミュージカルを書いていることが了解される。

三谷幸喜は小、中、高と学生時代、常に主役ではなかったのだろう。
学級委員を務めるような男女を遠くから眺めていた。
かといって、いじめられていたわけではないのがこの劇作家の特徴である。
運動会や体育祭で熱くなっているクラス委員の男女がいる。
この熱い男女をさらりと風刺し、さらに風刺対象をも笑わせるようなことをボソッという。
これが少年時代の三谷幸喜だったのではないか。
いや、事実の話をしているわけではない。
三谷少年は、そのような存在になりたいと夢想した。
熱くなっている人生の主役たちのおかしさ、ほほえましさを深く愛した。
ここから創作されたのが、三谷幸喜のコメディなのだろう。
青年・三谷はニール・サイモンにあこがれたかもしれないが、
日本人の身で米国人になれるとは思わなかった。ただサイモンの眼力を学んだ。
主役になれない青年はアメリカ製のメガネを欲した。
三谷幸喜は本名ではないでしょう(と思って調べたら本名でした……)。
ともかく彼はメガネをかけることで、
より本物の、かくありたいと願う三谷幸喜になろうとした。
日本では稀有な上質コメディが完成するにいたった経緯(いきさつ)である。

「オケピ」とはミュージカルの演奏を担当するオーケストラ・ピットの略。
楽屋裏の芝居である。
作劇術に通じた三谷幸喜は、
新参者でバイトのパーカッションを加えることで説明を自然なものとした。
「オケピ!」とはどんなミュージカルか。

パーカッション「こんなこと言いたくないんですが、
皆さん、ちょっと不真面目過ぎませんか。
二日酔いで来たり、兎(うさぎ)持って来たり、途中で寝ちゃったり。
おまけにコンダクターは本番中に愛人と浮気。
セールスに夢中の人もいれば、競馬に熱中してる人もいる」(P200)


三谷幸喜は自作の脚本、台本の出版を固く禁じているから本作はめずらしい。
もちろん絶版で、本書は古本として割高で流通している。
劇作家は、自作の無断上演が許せないらしいのだ。
あて書き(役者を決めてセリフを書くこと)をしているからだろう。
氏はセリフの機能に敏感なのだ。
セリフは内容ではないのかもしれない。だれが口にするかではないか。
たしかに「オケピ!」でも、コンダクターがイケメンの真田広之でなかったら、
ハープが清楚な松たか子でなかったら、おそらく大失敗をしたことだろう。
三谷幸喜ほど観客を第一に考える劇作家が、
つまらない劇作にしか与えられぬ岸田國士戯曲賞を受賞したのは奇跡といってもよい。
選考委員の評を読むと井上ひさしが強く推したようである。
バカなアングラ劇作家が三谷幸喜をおとしめているのには開いた口がふさがらなかった。

6月25日、表参道へシナリオを勉強に行く。
あんがい講義も悪いものではないとこのごろ思うようになった。
書物で独学するのではなく、講義を聞きながらノートを取るのもいいもんだ。
「ちがう」と思ったら、その場でも授業後でも質問しようと思って聞いている。
すると、あたまに残るのね。書籍を読むより深いところにシナリオ技術が入り込む。
これはわたしだけやっているのだろうが、講義内容を復習がてらブログに書くのもいい。
書くことで理解が深まる。
そのうえ友人知人のシナリオ学習者にも影響を与えていると伝え聞く。
こういうところではケチではないから、「敵に塩を贈る」などと考えたりはしない。
むろん、講義内容の肝心な部分をカットしたりもしていない。
結局は才能の問題だと思っているからである。
いくらシナリオの知識を増やしても、書けない人間には書けない(わたしも含めて)。
やはりシナリオの書きかたは教えられるものではないという確信があるのである。

シナリオ・センター所長の後藤千津子先生のご講義を拝聴するのも今日で最後。
感慨深いものがあります。
先生にとってはこんな受講生の存在はご迷惑なだけだったでしょうが、
これもなにか不思議なご縁があったとしか思えません。
5ヶ月にもわたってお話をうかがい、
後藤千津子さんがシナリオに一生懸命なことがよくわかりました。
シナリオとはなにかを人一倍、考えていらっしゃる。
どうにかしてセンター受講生にいい作品を書いてもらいたいと熱望している。
おもしろいドラマにわれを忘れたことがある。
シナリオに夢中になったことがある。いまは教えることに夢中になっている。
疑いもなく後藤千津子さんの情熱は本物としか言いようがないものでした。

最後の講義は「回想・ナレーション」。
ナレーションは、大きくわけてふたつあります。
三人称で語る全体ナレーション。NHK朝の連ドラで決まってあるあれです。
それから主役の声。これは一人称です。オフの声とも言われています。
全体ナレーションは、ナレーターと呼ばれる発声のうまい人間が担当します。
これは役者が新人で演技力がないときに有効なんです。
新人はうまく「嬉しい・悲しい」といった感情を演技で表現できない。
ナレーターに「そのとき太郎の胸は悲しみではちきれんばかりだった」。
こう言わせたら役者の未熟な演技を補うことができます。

しかし、基本ナレーションは使わない、と思っていてください。
こうして教えているのは、みなさんがプロになったとき、現場で必要だからです。
とはいえ、ナレーションは最後の手段と思っていてほしいのです。
なるべくなら映像で表現するよう努力してほしい。
セリフでどうにかうまく伝えられないか。小道具を使ってもいい。
ナレーションというのは稚拙なんです。
ものすごい簡単になんでも表現することができてしまう。
だから、安易に使ってほしくないのです。
みなさんがいまなさっている習作の20枚シナリオでなら、
ナレーションなんかまったく必要ありません。

と言いましたが、ナレーションが有効な状況もあります。
ナレーションを使うとピタッと決まるときがある。
どういうときにナレーションは有効か。いまからお話します。

・複雑な社会状況を伝えたいとき。
とても映像(ト書き)では複雑な社会状況を伝えられないときがあります。
このようなときナレーションを使用するといいのです。
まず基本として、これを覚えておいてください。
ナレーションは絵柄とは別である。
セリフだったら登場する役者が言わないといけないでしょう。
しかし、ナレーションはそうではないんですね。
たとえば、フランス革命前夜を描きたいとする。こう書きます。

○パリ市街。
人々が右往左往する。
T.1789年7月13日パリ
N「1789年7月13日、パリはあたかも祭りの前夜のようであった」(以下、延々と)



ちなみにTはタイトル、Nはナレーションを意味します。
柱のあとにいきなりナレーションを書くのはやめてくださいね。
ナレーションのまえにト書きを書く。
つまり、ナレーションが流れるときの絵柄(映像)を決めておかなければならない。

ナレーションが有効なときはもうひとつあります。
・複雑な心理や感情を伝えたいとき。
脚色の場合、どうしても映像では表現できないケースがあります。
むかし、立原正秋さんの小説のドラマ化がよく行なわれていたんです。
ところが、問題がある。立原さんの小説には男性人物に特徴があります。
どこか無常感を漂わせている男性なんですね。
こういうのは映像になりません。
「その日、茂子は忠志がまったく変わってしまったのを感じた。
もしかしたら自分が変わってしまったのかもしれない。
茂子はその日も忠志と図書館で逢ったのだった。
忠志はいつもとなんら変わらなかった。
しかし、茂子はそのときの忠志を見て驚いた。
あれほど燃えていた恋心がきれいさっぱり消えてしまったのである」

こういう小説本文があったとします。これは映像になりません。
しかし、重要な場面ですよね。恋心が冷めてしまったのだから。
どのように原作に忠実に描いたらいいか。
これはもうナレーションで説明するしかありません。

○図書館
茂子、入ってくる。忠志を見る。
茂子の声「ちがう。今日の忠志さんはどこかおかしい。
あ、消えている。あたしのあれほど熱かった恋心が」



こういうふうにやるしかありません。
以上がナレーションの技術です。

さて、回想に入りましょう。
回想は、書くがわは簡単なんです。「○回想」これでいいのですから。
しかし、見ているがわは、回想は理解しにくいのです。
たとえば、女主人公の桜子(20)の日常を描く。
つぎのシーンで少女時代の桜子(11)の回想を描いたとする。
見ているほうは、この少女が桜子だとはふつうわかりません。
なぜならドラマの時間は直線的に流れているからです。
「昨日→今日→明日」、これがドラマの基本の流れなんです。
見ているほうは、前シーンと現在のシーンの関係をこの流れに沿うものと思っている。
だから、回想は視聴者が集中していないテレビでは使わないほうがいいのです。
向田邦子さん、倉本総さん、山田太一さんは、ほとんど回想を使いませんでした。
視聴者がわからなくなっちゃうからです。
(へええ、だから向田邦子は直木賞受賞の「思い出トランプ」で回想ばかり使ったのかな)

とはいえ、テレビでもこういう回想ならあります。
連続ドラマでまえに使ったシーン(映像)をもう1回使うことはあります。
最終回では、これをたくさんやりなさい、と局側から指示されることも少なくないです。

回想は、映画のものなんですね。映画の70%が回想。
こんな言われかたもされているくらいです。回想の種類。

1.直線回想法。サンドイッチ回想とも言われています。
回想をふたつの現在で挟むから、サンドイッチ回想。
「現在(前)→回想→回想(後)」というやりかたです。
かといって、単純な思い出はつまらないのですよ。
若夫婦が新婚旅行の思い出を語らっている。
花子「いまどき熱海なんてとおもっていたけれども」
熱海の回想。
花子「熱海からタクシーでディズニーランドへ」
ディズニーランドの回想。
こういうのはつまらないからやめてください。
だったら、回想なんか使わないで同時進行で映せばいいのですから。
そのほうが観客も楽しめる。
もしかしたらこの新婚夫婦は喧嘩して別れるのじゃないか、なんて思いながら(笑)。
最悪なのは、「恐かったわよね」で回想に入るパターンです。
たとえ、どんな強盗に遭うにしろ、観客には結末がわかっている。
夫婦はぶじ家に戻ってきている。
強盗には殺されないとわかっている。これではちっともドキドキしません。

重要なのは変化です。ドラマは変化を描く、は新井一先生の口癖。
回想の前と後でなにかしらの変化が生じていることが重要なのです。
列車が山のトンネルをくぐる。この山が回想なんです。
トンネル前とトンネル後で変化がなければならない。
たとえばトンネル前は乗客を満載していたのに、トンネル後は空っぽに。
トンネルでなにがあったか気になるでしょう。
こういうふうに回想シーンを書いてください。

回想は映画のものだと言いました。
映画は回想をどう使うかが重要なんです。
かならず現代(にもっとも近いシーン)から映画は始まります。
老人がパイプをくゆらしている。孫のやってきた声なんかが聞こえる。
この老人の青年時代が映画の主内容なのですね。
で、最後は老人と孫が対面して遊んでいるシーンで終わる。
これが映画の回想です。かならず入口は現代(に近い)と覚えておいてください。

具体的な回想の書きかたを明示しますね。

○小林家・庭
幸恵は庭石をじっと見つめる。
幸恵の声「あれは10年前のことであった」

○回想・同・庭(夜)
幸恵(14)が庭石にぽつりと座っている。
幸恵の声「あの日、あたしは女になったのだった。ただ孤独で」
幸恵は立ち上がり星空を見る。



簡単でしょう。回想の代わりに過去という柱の立てかたをする脚本家もいます。
そんなにむかしではない、たとえば半年前の回想をしたいときはどうしたらいいか。
ナレーションで説明するのもいいのですが、
タイトルで半年前と出してしまう手もあります。
「〜〜の声」はいろいろと使えますからね。
ポイントは絵柄に関係なくナレーションが使えることです。

○ニュース映像
T.1976年
ベトナム統一選挙。
小林の声「ボクが生まれたとき、父は海外にいた」

○ニュース映像
田中角栄逮捕。
小林の声「父が最初にボクを見たとき、こう言ったと聞いている」



こんな感じで絵柄だけ変えて、ずっとおなじナレーションで語ることも可能。
重要なのは柱のはじめに絵柄を書いておくことです。
後藤先生、このシナリオ技術が受講生にちゃんと伝わったかえらく不安げ。
何回も「わかりましたか」を繰り返す。
ボク、いい子だからコクリとかわいくうなずいてしまったよ。
ほらね、先生、ちゃんとわかっているでしょう。伝わっていますよ。

今日はたいそう講義内容が濃い。いつものように自分の思い出話をしない。
シナセン大阪校のHPを見てみると、後藤先生、毎回おなじ回想をしているらしい。
講義における笑わせどころとかも、完全に把握しているのだろうな。
なんだか先生というより講談師、芸人という感じでとてもいいと思いますよ。

回想に戻ります。後藤先生の回想ではなく、シナリオ技術の回想。
「回想の中の回想」、これをどう処理したらいいか。
映画ではけっこう使われています。
現在は70歳。回想で40歳に。さらに回想で20歳。最後に70歳に戻る。
こういうのをシナリオでどう書いたらいいのか。
「回想の中の回想」なんて書くことはありません。柱は回想でいいのです。
ただし登場人物の年齢をきちんと明示することが重要です。

○回想・小林家・居間
幸恵(50)が息子(25)を叱っている

○回想・同・居間
幸恵(25)が父親(50)から叱られている。



要は、年齢を書き忘れないことです。

回想と似たものにイメージがあります。
両者の相違は、回想は実際に見たもの。イメージは、見ていないもの。
イメージ映像をどう使うかは、これからの映画にとって重要かもしれません。
書きかたは回想とおなじです。「○イメージ」と書けばいい。
このあと後藤千津子先生が海外でご覧になった(言葉のわからない)映画の話をする。
これが非常に興味深かった。なるほど、そういう使いかたがあるのかと思った。
わざわざシナリオ・センターまで足を運んでよかったと思いました。
たしかにイメージ映像の使用は、映画の進化のカギになるかもしれない。
所長さんのお話のなかで、もっとも勉強になりました。
イメージで内面描写をやってしまうのである。
後藤千津子先生の発見に敬意を表してオリジナルのお話は隠します。

わたしが考えたのは以下――。
花子が先輩に失恋してしょげている。花子が幼なじみの太郎に愚痴。
こういうシーンのつぎにイメージを使う。
イメージ。太郎が花子を布団に押し倒す。
シーン変わって、花子の愚痴が続く。
このあとで花子が先輩とホテルで結ばれてしまう。
太郎の後悔がよく伝わるでしょう。太郎は悔しくて自殺をする。
首を吊っている太郎。
このつぎにイメージを入れる。イメージ、教会で結婚の宣誓をする太郎と花子。
シーン変わって、太郎の首吊り死体。
イメージ映像によって太郎の辛かった思いがより強調できていると思いませんか。

いままでは直線回想法の説明をしました。
2.扇状回想法。
黒澤監督の「羅生門」が代表例です。いろんあ人が回想をする。
これはかなりややこしくなるから見ているほうが苦しい。
わざとわかりにくくするためにやると思っていてください。
やさしいストーリーラインでやらないとなにがなんだかわからなくなります。
現在を、いろいろな回想が扇のように取り囲んでいるから扇状回想法。
柱は「○花子の回想」「○太郎の回想」、こんな感じで書けばいいわけです。

いやあ、最終講義は中身が詰まっていました。
思わずお話に聞き入ってしまいましたもん。へえへえ、なるほどと。
わたしは山田太一氏のドラマでシナリオを独学した。
氏はテレビだから、ほとんど回想をやらない。
だから、勉強になったのかもしれません。
なんて強がるのはやめよう。5ヶ月間、後藤先生の講義はためになりましたよ。
20枚シナリオを書いているとき、ふっと先生のお話を思い出す。
これは独学では決して得られない功徳でしょう。対面伝授のちからです。
ここにお礼を申し上げます。
後藤千津子先生、長いあいだ、ありがとうございました。

講義終了後、後藤先生に質問に行く。
「先生の所長としての長いご経験からどう思われますか?
わたし、研修科でやっていけますかね」
やってごらんなさいよとのお答えをいただく。
まあ、どうなんでしょう。所長さんとしては、本音を言えない立場ですからね。
ひとりでこつこつなさったらどうですか、とは言えない。
しかし、そう言われたら長年の経験からのご判断でしょうから、
ほんとうに行くのをやめていたと思います。
研修科で毎週、発表できるのは4人程度。
けれども、課題を毎週提出するのは構わないとのこと。講師が読む。
だったら、最速の8ヶ月で全課題を終わらせてやろうかと思う。
後藤先生によると、それは難しいとのこと。
受講生の批判(感想)を聞くと、だれしもそうとうなダメージを受ける。
つぎは好評を得ようと思うと書けなくなるらしい。そんなもんかな。
たしかに大学生から「このシナリオは人間を描けていない」なんて言われたら、
ぶち切れてそいつを殴ってしまいそう……。

あ、わたしは研修科でキャラ設定を変える予定。
まあ、猫かぶるってやつだよ。
いっさい他人のシナリオの批判はしない。自分がされたくないから。
貧乏臭い正体不明の猫かぶりおっさんに変身しますね。
もちろん、このブログのことも教えない。
いや、しかし、楽しみだ。シナリオを書くのがこんなに楽しいとは思わなかった。
あと30本も習作を書けるのか。カネを払って締切があったら、まあ書くだろう。
いったいどんなものを書くのか。
自分がいちばんの愛読者だから(自己愛きめえ!)。
あいだにコンクールで賞金、取れたらいいな。
うまく小説も書けるようにならないかしら。
というわけで「シナリオ・センター日記」は継続しますのでよろしく。

ちなみに研修科の講師の名前が明らかにされることはなかった。
いいよ、どうせ聞いても知らない人でしょうから。
シナセン出身の温厚なおじさん、おばさんだよね。
創作は教わるものではない。自分で書くことによってしか学べないもの。
講師に期待はしておりません。
研修科は定員になると締め切るとのこと。
どうか所長さんのご恩情でデカダンさんとわたしを引き離さないでくださいませ。
だって、わたし吃音だからシナリオ朗読は無理。
やればできるだろうけれど、言いにくい言葉をとっさに変えてしまう。省略しちゃう。
これでは意味がないと思う。デカダンさん、よろしくお願いします。
相変わらずシナリオに心理描写を書きますが、声に出して読まないでいいですから。
この5ヶ月間、ほんとうに楽しかった。
シナリオを一作書くごとに発見があったからだ。まだ終わりではない――。

(追記)この日の講義途中に、あれはマイクがおかしくなったのかな。
教室後方にいたシナセン事務局の男性が調整のためわたしのまえに現われた。
これから書くことは被害妄想かもしれない。
2ちゃんねるでうちのブログを攻撃しているのはこの男性じゃないかな。
あきらかにシナセン内部の人が書き込んでいるのよ。
この人、よく覚えていてね。
4月16日の「セリフの技術(3)」のときにおかしかった。
わたしをニヤニヤ見るのが不愉快でね。どこか小馬鹿にした感じで。
この日、ネームプレートを見るとKというらしい。
シナセンの代表さんとおなじ苗字である。もしかしたら――。
息子さんかな。代表は新井一のお嬢さんだからKくんはお孫さん?
だったら、このブログに腹が立つのはよくわかります。
大切なお祖父さまとお母さまですものね。そのうえKくんは次期代表。
ここでKさん母子に深くお詫びします。
いえ、2ちゃんねるで批判してもいいんですよ。
わたしも「本の山」でシナセンを批判しているから、逆にされるのは仕方がない。
ただ、だれが書いているのか興味がありましてね。
受講生じゃないと思ったの。内部に詳しすぎる。
直感が正しいか、それとも被害妄想なのか。
うん、Kくんのような気がするな。どうかこれからはお手柔らかにお願いしますね(笑)。
ご意見がございましたら直接お声をかけてください♪
久しぶりに雑記でも書いてみよう(むろん、酔っておりますよ)。
最近、カテゴリー「雑記」の更新が少ないのは、シナリオにすべて吸い取られてしまうため。
フィクションを書くのは、尋常ならぬパワーを要する。
ノンフィクションを書くのとは桁違いのエネルギーを消費してしまう。
もしかしたらフィクションを創作する才能がないのかもしれない。
しかし、フィクションを書き上げたときの快楽はなにものにも比しがたい。
「雑記」を書いたくらいの満足は、毛虫ほどに感じてしまうのである。
とはいえ、これは人間と文章のふしぎなところ。
おそらく読者様におかれましては、わたしの「雑記」を好まれるかたが多いでしょう。
まあ、おカネをいただいていませんから、どうかお許しください。

そうだ、久々の「雑記」は「どうして」――。
どうして、あんなにまで多くの人間ががんばれば成功できると信じているのだろう。
どうして、成功すれば幸福になれるとああまで無防備に錯覚できるのだろう。
なにゆえ、たかだか人間の努力で成功の果実が味わえると思えるのか。
なにゆえ、世間でいわれる成功が不幸の原因になると気づこうとしないのか。
努力なんてしなくても血縁で成功している人がいくらだっているじゃないの。
だからといって、果たして成功者がみなみな幸福を味わえるとなんで思うのよ。
成功者は忙しい。友人とだべる余裕もない。酒を飲みながら語らう時間もない。
たえず成功者でなくなる不安におびえながら過ごさなければならぬ。
こんなものの、どこが幸福ですか。成功者ほど不幸な種族はいないのかもしれない。
成功を失うのが恐くて、好きなことをなにもできない。
好きな本を読めない。好きな人とも話せない、遊べない。
もとより、おカネだけはあるかもしれないけれど、人が買えるものはそんなにないでしょう。

あまりガツガツしなさんなと言いたい。
どうして世間は成功を幸福と等号で結びつけたがるのでしょう。
むしろ、成功は不幸と、失敗は幸福と親和性が高いのではなかろうか。
成功していくらもてたところで、あなたの肩書が愛されているだけなのだよ。
そんなんで楽しいかね。
いくら「もてない男」とバカにされようが、いやだね、そんな色恋は。
で、思うわけさ。お互い、あんま必死に無理するのはやめないか。
努力すればかならず成功する。成功は幸福である。以上、ふたつを疑おう。

プロレスラーの三沢光晴は、
過剰にがんばったがゆえにリング上でみじめな死に様をさらさなければならなかった。
いえ、三沢の人生を否定しているわけではないから。
最高の人生のひとつだと思う。夢をかなえて、さらなる夢への途上で突然死。
本人はまったく意識していない自身の死。最高だと思う。
けれども、わたしのように三沢の死を最上と思えない人も多いでしょう。
ならどうして努力して成功しようとするのか。成功を幸福と錯覚するのか。
あらゆることは自然(じねん)だと半歩下がってみるのも、
それほどの悪徳ではないと思うのですが、みなさまにおかれましてはいかがでしょうか。
成功するのも、失敗で終わるのも自然ゆえ、お気楽に行こう。
なんて思うのは、わたしだけですよね、トホホ♪