目覚めよ同志 悪を見つけ スクラム組んで やっつけろ
正義の栄光 パトロール スクラム組んで やっつけろ
今日も元気で 威風堂々 スクラム組んで やっつけろ
庶民を舐めるな バッカヤロ スクラム組んで やっつけろ
友のため 君も行くか 我も行く スクラム組んで やっつけろ
悪を許すな マークせよ スクラム組んで やっつけろ
恩師の遺言 胸にあり 燃える同志よ スクラム組んで やっつけろ
インテリ エリート 庶民を舐めるな スクラム組んで やっつけろ
感謝の気持 恩師のために スクラム組んで やっつけろ
友の涙を 笑顔に変えよ 恩師を胸に スクラム組んで やっつけろ
友の汗を 無駄にするな 正義を示せ スクラム組んで やっつけろ
戦闘開始 目指せ平和の パトロール スクラム組んで やっつけろ
勇気凛々 燃える心の 大行進 スクラム組んで やっつけろ
ご存じのかたは少ないでしょうけれども、プロレスにハヤブサという選手がいた。
過去形なのは、若くして(47歳)死んでしまったから。
最後はアル中みたいになっていたようだ。
ハヤブサは2001年にリング上の事故で、あれは頸椎を損傷したのだったかな。
とにかく車椅子の生活になってしまった。
プロレスどころか日常生活をひとりで送ることさえ困難をともなう。
怪我をした直後から、「またプロレスラーとしてリングに復帰する」と言っていた。
周囲の人間もプロレス仲間もファンも「がんばれ。応援している」と応じるしかない。
本人と周囲のどっちが先に夢物語を口にしはじめたのかはわからない。
おそらく現実的に見たらハヤブサに希望はなかった。
どう考えてもレスラー人生のみならず、人間としての人生も終わっていた。
しかし、本人も周囲もそれでは辛すぎるから、そんな残酷な現実は見たくないから、
「プロレス復帰をする」という夢にすがりついたのだろう。

現実は理不尽にもイケメンのスターレスラーが一夜にして事故で廃人になってしまう。
それでは、あんまりだと思って人間は夢を見る。
ハヤブサは夢をあきらめずに、夢ソングをうたう障害者歌手になった。
「生きる勇気をもらった」と感動した聴衆もいたことだろう。
5年経つ。ハヤブサの夢はかなわない。10年経つ。ハヤブサは車椅子のまま。
だがハヤブサは、
あきらめなければ夢はかならずかなうと歌で世界に希望を与えていた。
このあたりになるとなにが本当だかわからない。
さすがにハヤブサも10年経過して車椅子だったら、
プロレス復帰は無理とわかっていたことだろう。
しかし、本音をもらせる立場ではない。夢ソンガーとして社会で一定の役割を得た。
いまさらあれはウソでしたと言えないし、自分でも認めたくないし、
認めてしまったら夢ソングをうたえなくなる。
アルコール依存で夢にすがりつくハヤブサのもとから妻子は去っていった。
2016年、男は47歳で孤独死した。若死にできたのは神の恩恵だろう。
15年夢を叫びつづけたが夢かなわなかった男は、
人びとに生きる勇気を与えて孤独死した。最後まで現実を見ようとしなかった。

おなじプロレスの高山善廣選手も去年リング上の事故でひどい怪我をした。
こちらはおそらくハヤブサよりもひどいだろう。
首から下がまったく動かないらしい。
高山選手の写真は見てはいけないもののような気がする。
妻も子もいる人気プロレスラーが一夜にしてあんな悲惨なすがたになってしまう。
首から下が動かないで生きているなんて拷問かなにかのようである。
おそらく医学上は奇跡を待つしか希望はないはずである。医学上は治らない。
しかし、治らないと言われると高山選手も家族もプロレス仲間も困ってしまう。
どうしようもないと言われても治療費は出るいっぽうだし、なにかせずにはいられない。
そこでたしか高山選手も周囲もプロレスに復帰するという夢に到達したのではないか。
現実を見たくないから夢を見る。夢を見なかったら現実に押しつぶされてしまう。
夢を見る能力は生きていくための技術のひとつなのかもしれない。

現実を見ろ、と言いたいわけではない。
そもそもなにが現実かは究極的にはわからない。高山選手も治るかもしれない。
むかし統合失調症の青年にお逢いしていただいたことがある。
精神病には興味があって、統合失調症のお辛い人生は少なからず知っている。
自分が統合失調症になったら絶望してしまうと思う。
しかし、青年は学会3世か4世のため希望に満ちあふれているのである。
現実ならぬ夢を見るのが非常にうまい。
聞いた話だと、精神障害をお持ちの青年は「日本の柱」のひとりで、
将来は開業して花形の職業人になり、妻をめとり、子どもも持つらしい。
現在、作業所にさえ通えない状態なのに、どうしてそんな夢を見られるのだろう。
青年の夢を拝聴しながら、現実を見ろ! と叫び出したくなった記憶がある。
繰り返すが、なにが現実だかはわからないのだが。

うちの父は自殺した母と愛し合っていたという物語を持っている。
現実は母の日記に山ほどの悪口、憤懣、鬱積が書きつらねられているのである。
しかし、男は妻と夫婦仲良しだったと信じている。
言い分は、夫婦のことはふたりにしかわからない。
たしかにそれはそうで、父がそういう夢物語を信じていたら、それが現実になる。
息子があんたら夫婦はどう見ても最悪だったよといくら言っても父の現実は変わらない。
わたしは目のまえで自殺した母に人生を台無しにされたと思っているが、
それが現実かはわからない。
しかし、生前母から罵倒され尽くしたことを考えると、そういう現実認識しか持てない。
夢を見る能力に欠如しているのかもしれないが、現実(認識)は変わらない。
理論的にはなにが現実かはわからないのはわかるが、現実(認識)は変わらない。

今年の1月、突如いきなり橈骨神経麻痺になった。左手首が動かないのである。
こうなると日常生活もままならなくなる。
1、2ヶ月経てばよくなると思っていたが、3ヶ月経ってもまったくよくなっていない。
大学病院の専門医に診ていただいても状況は変わらない。
わたしは夢を見たかった。お医者さんに、治りますよね、と聞くが回答は「わからない」。
「ウソでもいいから絶対治ると言ってください」とお願いした。
いまの医者はコンプライアンスかなんだかで、気休めは言えないらしい。
治るかどうかはわかりません。
そもそも橈骨神経麻痺になる人はあまりいないし、ここまで長引く例も少ない。
筋電図の検査をしてもらったら、担当の人におなじことを言われた。
慣れない手つきなのでそのゆえを質問したら、
橈骨神経麻痺で筋電図の検査を受ける人なんて年に何人もいません。
現実はそうとう重症なのかもしれないと障害年金の申請方法を調べてしまったくらいだ。
あれから10ヶ月経ったいまどうなっているかというと99%治っている。
というか、もはや罹患まえの状況を覚えていないから現実はわからない。
現実認識としては限りなく100%に近く治っている。
ならば、いまから考えたらば、麻痺を発症したとき、
かならず治ると夢を見ていてよかったことになる。筋電図検査も受けることはなかった。

先日、統合失調症の学会青年から連絡が来た。また逢いたいという。
正確には逢いたいではなく、また自分の家まで2、3時間かけて逢いに来ないか。
おそらく「日本の柱」である青年は、
自分のことを指導者や救済者とイメージしていたのではないか。
その現実認識が当方の現実認識と適合しなかった。
2、3時間かけて青年の家に行き、また統合失調症の人の夢物語を聞くのは辛い。
しかし、家を出られないほど重度に統合を失調した青年の現実はそうではない。
彼は重い精神病のため電車に乗れないという現実は直視せず、
自分は将来有望な事業家の卵だという現実認識を手放そうとしない。
しかし、彼は才能があるとも言いうる。
統合失調症という重苦しい現実に押しつぶされずに威風堂々と生きている。
現実離れした夢を見ているようにも思えるが、
現実を見たからといって事態が改善するわけでもない。
ハヤブサが一生身体障害者という現実を直視したら耐えられなかったことだろう。
おなじプロレスの高山選手もその家族も現実ではなく夢を見たいのはわかる。
夢も悪いばかりではなく、夢を見ながら少しずつ現実を受け入れていくのだろう。
夢を見ることで夢そのものには到達しないが、現実よりはかなりましになることもあろう。

用心深いのかわたしは低く低く現実を見積もるようなところがある。
しかし、その現実も正確なものではなく、最大公約数的な平均の現実である。
現実的にだれも正しい現実認識はできないのも現実である。
おそらく人間って余命告知をされ死ぬ間際でも、
自分は死なないという夢を見て生きているのかもしれない。
わが人生に悔いなしとか、家族や仲間に感謝するとか、
そういう夢を見ている人もいるだろう。夫婦で愛し合っていたとか。
だが、反対に最悪の現実を見ていても、あんがいそれは現実ではなく夢かもしれない。
現実は夢かもしれないし、夢は現実かもしれない。
メモとして書いておくけれど、これが正しいとか、
そういうことはぜんぜんない。
空海のいう即身成仏とは、もしかしたらこういうことかもしれません。
即身成仏とは「身すなわち仏なり」。
この場合、身というのはわが身であり、仏というのは大日如来(毘盧遮那仏)。
わたしというのは宇宙の一部と気づくことが即身成仏なのかな。
仏教というのは釈迦→小乗仏教→大乗仏教→密教。
これは釈迦個人が、集団になり、もっと大きな世界になり、最後は宇宙になる。

即身成仏は、わが身というのは全体の一部と気づく(思い込む)こと。
個というのは頼りないから、放っておくとどんどん孤独になっちゃう。
しかし、わたしという個は全体に通じているのだから安心だよね。
そう自分を騙すことっていうかさ。
お経というのはむかしからあるけれど、それを声に出してよむことで、
自分がひとりじゃないと思える。
実際、自分というのは連綿と続く人間(生物進化)の一過程なわけだから。
仏教は孤独対策としてもいいかもしれない。
集団でも利用できるし、個人でも使用可能。
効能は、安心できる。もっと具体的にいえば、やっぱり大丈夫かな。
自分をどこかで見てくれている仏さまがいるから大丈夫。安心。
自分をごまかす詐術とまでいっちゃいけないか。

即身成仏は、おれは仏よといっている部分もあるのでしょうが、
わたしなんかも仏世界のワンパート(一部分)を、
僭越ながらになわせていただいているということかもしれません。
法華経は何度よんでも記憶できない。
にじせそんじゅうさんまいあんじょうにきごうしゃりほつ♪
十如是の部分だけは覚えた。
「ベニスに死す」を観て思いのほかよかった。
あれ、ご存じのかたはわかるでしょうが、わたしの大嫌いなタイプの映画。
どういう映画かというと、要はセリフが異常なほど少ないわけ。
言葉で説明してくれないから疲れる。
しかし、観ながらすごい感動したわけである。
大げさだが、生きていてよかった、とかさ。
自分の道筋がわかった、なんて大げさだよね。
「ベニスに死す」のどこがよかったのだろうと血まなこになって言葉を探してしまう。
「あの映画はよかった」で済ましておいたほうが本当はいいのかもしれないけれど。
自分の言葉なんか見つけようとするから孤独になっちゃう。

「ベニスに死す」は山田太一ドラマの原形のようなところがある。
ほら、山田太一ドラマによくあるパターン。
エリートやインテリが庶民のなかに分け入って新たな発見をするという。
それから「ベニスに死す」は福田恆存の演劇論で説明できるね。
基本的にあの映画は「ハムレット」や「マクベス」、「オイディプス王」と同類。
個(=個人とも個性とも)が個を主張しながら全体(=宿命)に到達する。
個が全体に敗れる。花が枯れて自然を形成する。
河合隼雄のいう自己実現の過程と言えなくもない。
ネットで調べたら「ベニスに死す」がわからないって人が多い、多い。
その「わからない」はわかります。
精神病的なところがあって薄気味悪いというのもわかる。
あと3つ山田太一推薦映画がジェイコム録画機に入っていた気がする。
映画を1本観るとかなり消耗するから、やっぱり苦手なのかな。
山田太一先生推薦の1971年公開の洋画をジェイコムで視聴。本当に感動した。
これほど深い男性の孤独を描いた映画を観たことがないような気がする。

初老の作曲家はストレスにやられ、ひとり観光地ベニスに静養におもむく。
おのれの芸術に行き詰っている。どうしたらいいかわからない。
ベニスになんか行っても仕方がないと思っている。
あたまでっかちの教授は深刻な孤独に苦しんでおり、
非常に怒りっぽく人を信じることができない。
初老の芸術家は孤独だ。孤立している。断絶している。なにから切れているのか。
全体から、群衆から、自然から、超越から、神仏から切れている。
芸術的であること、個を確立すること、個性的になるということは、
孤独になるということなのか。
言い換えたら個性的であることは、常に孤独に苛まされなければならないのか。
人間嫌いの、人生の傍観者たる初老の芸術家は観光地ベニスである美少年を見かける。
少年はタージオと呼ばれている。

家族や仲間に囲まれた美少年は老醜に悩む孤独な芸術家が喪失したものを、
ほとんどすべてそうとは知らずに有している。
なにより無知や無邪気を身にそなえている。無知は美しいまでの輝きだ。
なにかを知れば知るほど人間は疑い深くなり孤独になる。
まだ思春期(の煩悶)に入っていない少年は邪悪なまでに美しい。
孤独ではない。自然と一体化している。教授の忘れた幼稚な全体性を持っている。
美少年だけではない。ベニスで遊ぶ観光客ファミリーがみなみな、
どれほど孤独な老教授の失ってしまった輝きに満ちあふれていることか。
自然な親密さ、自然な一体感、自然な陶酔のいかほどに美しいことか。
芸術が忌み嫌う群衆的、因襲的、血縁的な和楽は、
そこまで醜悪とばかり断じていいのか。
個性的ではないこと、理知的ではないことは本当に群盲と裁かれることなのか。
無個性で無知蒙昧な群衆は自分の知らぬ連帯の親しみを持っているのではないか。
もう口をつぐんでいることはできない。
言ってしまおう。あっちのほうがいいのではないかと。
無個性なことは、無我、無私、忘我の歓喜をともなっているのではないか。

いや、わたしは間違っていないと老芸術家は思いたい。
愚かな群れてばかりのあいつらと自分は違うのだと思いたい。
あんなに馴れ合ったり、べたべたしたり、近い人間関係には耐えられないと思う。
しかし、ふたたび、あっちのほうが美しいのではないかという、
これまで築き上げてきた堅牢な自我を破滅させんばかりの情熱的な疑問が生じる。
なぜならばベニスで美少年へどうしても目を奪われてしまうからである。
人間嫌いの老人は、少年の真似をして不衛生な物売りのイチゴを口にする。
その瞬間、戦慄が走る。いままで知らなかった。イチゴはこんな味がしたのか。
自分は真実を知らなかったのではないか。
本当のイチゴの味を知らなかったのではないか。
なまの人生というものを知らずに生きてきたのではないか。
時よ止まれ、おまえは美しい、タージオ、おまえはなんと美しいのか!

しかし、少年愛、同性愛は禁じられている。常識ではいけないとされている。
が、だが、くだらないモラルなんか捨ててもいいのではないか。
あやまち、いいではないか。穢(けが)れてなにが悪いもんか。
健全なんてつまらない。恍惚、陶酔、混乱、惑溺、狂乱がどうしていけない?
いや、いや、少年愛、同性愛は禁じられている。
しかし、タージオ、おまえはなんと美しいのか。
自分の気持に素直になれよ! いや、そんなのは動物のすることだ。
違う、人間も自然の一部ではないか。だが、少年愛、同性愛は――。
見ているだけならいいではないか、見ているだけなら!
いや、ダメだ。もう逃げるしかない。
このままでは破滅してしまう。自分が壊れてしまう。ベニスから逃げるしかない。
逃げていいのか。逃げるしかないではないか。
だが、なんと全体は、神仏は巧妙なのか。逃がしてくれなかった。
どういう手違いでかわからないが、教授の荷物は誤送されていた。
これでベニスから離れるわけにはいかなくなった。言い訳ができたぞ。
なるほど、そうきたか。
この偶然はなんだ? この偶然はいったいどのように仕組まれている?
こうなっていたのか。ならば、これでいい。
こうだったのか。自分の人生はこうだったのか。
このとき教授のなかでなにかが死んだのを象徴するかのように、
駅舎で醜い老人が崩れ落ちる。
ふたたび、ホテルに戻った孤独な老教授にベニスの海岸はなんと美しく映るか。
ベニスは、タージオは、自然は光り輝いている。
このシーンでは涙が込み上げてきた。

とはいえ、少年愛、同性愛は背徳である。
この自分のなかの禁じられた情熱は、
教授にとってはベニス全体がコレラ(伝染病)に汚染されているためと認識される。
映画では、事実としてコレラがひそかに蔓延しているのだが、
わたしには孤独な老教授の心象風景のように見えてならなかった。
これまで健全だった教授の同性愛は恐ろしいコレラとして現実化するしかなかった。
美少年を愛する自分が穢れているのではない。世界が汚れているのだ。
教授は新しい自分に気がついたが、しかし愚かな群衆と同化できずに苦しむ。
自分は特別だと思う気持――自意識から逃れることができない。
猥雑な楽団の狂熱的な陽気さにみなのように自然と微笑むことができない。
これはわたしが悪いのではない。世界がコレラに汚染されているに違いない。
少年のタージオは美しく、世界のコレラは醜い。
本当はタージオという少年こそ世界の美醜のシンボルなのだが、それを認められない。
個性(自分)にとどまるか、それとも自然(世界)に返っていくか。
これは選択肢ではない。個は全体に敗れるしかない。自分は自然土に戻るしかない。
勝つのはいつだってタージオであり、美少年であり、自然であり、全体である。
人間は宿命に呑まれるしかないが、その宿した命の美しさは自然であり本物である。
老教授は自然(宿命)の美しさに気づきながら異様な孤独体で「ベニスに死す」――。
ラストシーンでは自然のタージオと大海の美しさが長々と描写される。

☆   ☆   ☆

こんな自己陶酔に満ちたへたくそな文章を、
ここまで読んでくださってありがとうございます。「ベニスに死す」はよかった。
おそらく山田太一先生ご推薦でなければ絶対に観ない種類の映画だと思う。
これほど老教授に思い入れを抱いてしまう自分の孤独感の強さに驚く。
おそらくこの映画を好きな人は山田太一さんもふくめて孤独な人なのだろう。
映画の最初から、わかるなあと思った。
結局、海外をふくめ観光地にひとりで行っても、
そこで感じるのはファミリーやグループのすがたばかりでぜんぜんおもしろくない。
自分にはあんなふうに血縁や仲間となじめないことにかえって絶望するというか。
去年あたりから宗教団体に入りたいと思ったのも孤独が病的に進行したからだろう。
若さである程度孤独は乗り切れるが、老いが迫ってくると逃げられなくなる。
実際、大きな宗教団体の親切な人たちに誘われて集団を見てみたら悪いことはない。
とても一体感があってすばらしいのだが、
そうは言ってもわたしは自分が強すぎてそこに溶け込むことができない。
よけいな知識があるから、メンバーの一員になることはどうしてもできない。
群れるのは格好悪いのではなく、群れる能力に欠如した自分を正当化するために、
そう思い込みたい部分も多々あるのだろう。
群れるよさというのも、十分にあるのだと「ベニスに死す」を観て思った。
無個性というのは、無我であり、無私の美しさがいっぱいあるはずである。
思い上がっていた自分を反省するいい機会になった。
いまわずかながらある関係性(人との関係)を大切にしていきたい。
ツイッターやSNSにもいい面は山ほどあるに違いないと思い直した。
自然(全体)に通じる道というのを考えていくのが、これからの課題だろう。
「ベニスに死す」で老教授は孤独に敗北しているが、
映画全体としては完成(勝利)していることを忘れてはならない。
いままで少年愛、同性愛はわからないと思っていたが、それは間違いだった。
いや、それはわからない。
老人は美少年を愛したのではなく、自分のなかの少年性を発見して、
おのれの美々しい自然性に立ち戻っただけとも思われるからである。



※老教授がなぜか中島義道哲学博士のように見えてしまった(笑)。
山田太一先生推薦の映画をジェイコムで視聴。2005年公開のアメリカ映画。

米国人気作家のカポーティがノンフィクション文学作品「冷血」を書くまで。
カポーティはカンザス州で起こった一家惨殺事件を知り、
これは新しい文学になると思うわけである。新たなカポーティ文学の幕開けだ。
カポーティはおのれの名声をさらに高め、富を増すために取材を開始する。
じきに犯人ふたりは逮捕されるが、彼らはカポーティとおなじ下層民出身だった。
貧乏でまともな教育も受けておらず母親も兄も姉も自殺している。
カポーティはおのれ人生を語ることで主犯のひとりと友だちになることに成功する。
カポーティの母も自殺しているから通じ合う部分があったのかもしれない。
本当はいったいどうなのだろう?
カポーティは本のネタがほしいから殺人者と友だちになったふりをしたのではないか。
凶悪犯罪者だって有名作家と仲良くなれば裁判が有利に運ぶと計算しただろう。

法廷の裁きは死刑である。
カポーティはまだ彼らの話を十分に聞いていないからという理由で、
優秀な弁護士を紹介してあげて死刑執行を遅らせる。
しかし、カポーティはあくまでも自身の文学作品のために友情を誓っているのである。
現実は、カポーティは人もうらやむ成功者で独房の孤独な友とは立場が違う。
カポーティは勢いに乗って本を書き進める。タイトルは「冷血」にした。
なんの関係もない農民一家四人のあたまをライフルで撃ち抜くなんて冷血極まりない。
果たしてカポーティが死刑囚から聞いた話を忠実に書いていたのかも疑わしい。
文学をおもしろくするためにカポーティが話をふくらませたところもあったのではないか。
カポーティは監獄の友から書いたぶんを見せてくれと頼まれるが断る。
タイトルの「冷血」を知った友からそれを詰(なじ)られると、
自分がつけたわけではないとごまかす。
映画のなかのカポーティは彼らは金脈に過ぎないとまで言い切る。
じつのところカポーティは自分が彼らを利用しているのか、愛しているのかわからない。
自分でも自分のことがわからない。
孤独な死刑囚から、「最愛の友へ」といった手紙が届くと戸惑ってしまう。

カポーティは文学の取材のためか友のためか、
死刑囚の(自殺しないでひとり生きている)姉にも会いにいく。
姉は弟を嫌い、恐れており、あんなやつとは二度と顔を合わせたくないと言い放ち、
子どものころの写真はいらないからすべて持って行ってくれとカポーティに差し出す。
作家は獄中の友へ、姉はあなたに会いたがっていたよと嘘をつき写真を渡す。
これを友情の証と思った死刑囚はさらにカポーティと親密になったと錯覚し、
いままでよりもさらに心を開き事件のことを話すようになる。

困ったことが起こる。控訴が繰り返され、死刑がなかなか執行されないのである。
彼らが死刑にならないと本を出版できないのだ。
理由はふたつ。
出版社としては死刑執行のタイミングでセンセーショナルに売り出したい。
もうひとつカポーティ側の事情もあって、
「死人に口なし」にならないとノンフィクション文学にならないのである。
実際はカポーティの「冷血」はノンフィクションではなくフィクションなのかもしれない。
そもそも真実の意味でのノンフィクションは存在しえないから、
カポーティは早く金脈の友の死刑を執行してもらわねば困るのである。
監獄の友から「会いたい」と手紙が来ても逃げ出してしまうノンフィクション作家だ。
朗報か、悲報か。とうとう殺人犯ふたりの死刑が決定する。
カポーティは喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、睡眠薬を酒であおるしかない。
死刑寸前の友だちから「最後に会いたい」と電報が来る。

カポーティは酒と睡眠薬でふらふらの状態で死刑囚に会いに行く。
作家が対面するのは金脈か、それとも親友なのか。
いままでカポーティは親友のふりをして男からいろいろ聞き出してきたのだ。
囚人は死刑にも立ち会ってほしいという。
死刑の寸前、男が発した言葉は「このなかに家族はいるか?」であった。
いないと刑務官から言われ、死刑囚はカポーティの嘘になにを感じただろう。
やっと「死人に口なし」になったことで「冷血」は刊行され大ベストセラーとなる。
下層の生まれだったカポーティの評価はアメリカ最大の文学者にまで上昇した。
しかし、この後、カポーティは酒と睡眠薬におぼれ小説を書けなくなってしまった。
晩年のカポーティは取り巻きからも見放され、
かつての栄光との落差と孤独に苦しみながら静かに息を引き取ったという。
死因は長年のアルコール依存と薬物依存によってもたらされた心筋梗塞。
さすが山田太一さんご推薦の映画だけあって、いろいろ考えさせられた。

以下は余談だが、
日本のドキュメンタリー映画監督の原一男さんは罪悪感がないのだろうか?
あの人もカポーティのようなことをしているのに、まったく自責の念がないようだ。
「ゆきゆきて、神軍」だって、
自分たちの名声と成功のために奥崎謙三を利用したわけでしょう。
奥崎さんに奇行をしてもらい、映画をおもしろくしたいと思っていたら、
想像以上で殺人未遂まで起こしてくれて、映画が大ヒットした。
「全身小説家」も作家の井上光晴の死を商売に使ったわけだ。
最後なんか家族は病身の作家のもとに映画撮影に来てほしくない。
しかし、原さん一行はカメラのまえで死んでくれないかなあ、とか、
危ないことを考えながら芸術家ぶって澄ました顔をしている。
いまでもピンピンしていて、
もっと人の不幸を撮影して映画賞を取れないかとねらっているのではないか。
自分の映画を評価しない観客はバカだと思って「帰れ」と口にすることもある。
「全身小説家」も「死人に口なし」の映画で、
完成した映画を観ていたら井上光晴は怒ったのではないか。
まあ、そういう図太い精神を持った人が芸術家なのだろう。
なぜ原一男さんは心を病まないのか不思議だ。言っておくが、後生が悪いぞ。

小説、映画、ドラマといったフィクションは普遍的真理を描くものではない。
しかし、良質なものは受け手の心に届き、それぞれの真理を形づくる。
ここで注意しなくてはならないのは、この真理が一様ではないことである。
ある名作を見て、みながおなじ感想を抱きおなじ真理に達するわけではない。
当り前のことをなにをいまさらと言われるかもしれない。

山田太一さんのドラマに「今朝の秋」という単発ドラマがある。
名作と評価も高いうえ、作者がことさら気に入っている作品でもあるという。
悲惨な五十男の話である。
いちおう妻子はいるが、事業で成功した妻の心は夫から離れている。
べつに好きな人がいる。
娘も自分の人生に夢中で父親のことなど気にかけてもいない。

身体の不調で入院した五十男は自分が余命短いがんであることを知ってしまう。
男は思う。自分の人生はなんだったんだ? なんにもないじゃないか。
自分の会社でした仕事なんかすぐ忘れられてしまう。
妻の心は自分から離れてしまっている。娘も父親のことなんでどうでもいいだろう。
人生、なんにもない。

蓼科の別荘に五十男の両親と妻と娘が集まる。それぞれの心はバラバラである。
とくにひとりぼっちなのはもうすぐ寿命を終える五十男である。
家族はどうするかというと、五十男を慰めるために「いい家族」の演技をするのである。
結局、人生なんにもなかった。
しかし、アットホームを演じてくれる家族を見ながらポツリともらす。
「うっかり家族っていいな、なんて錯覚しそうだよ」
奇跡のようなものは起こらず五十男は医師の宣告通りに死んでいく。
家族はそれぞれバラバラの方向に去っていく。

これを山田太一さんは、こんな救いのないドラマを書いていいんだろうか、
と思いながら仕上げたという。
ところが、多くのNHK視聴者はまったく作者の予想外の見方をした。
家族ってすばらしい。
山田先生らしい、人間愛あふれる珠玉のホームドラマに感動した。
いまでもたぶん「今朝の秋」はそういう評価のドラマになっていると思う。
フィクションと真理の、あるおもしろい関係を書いた。

(関連記事)
「今朝の秋」(山田太一/新潮文庫) 2014年感想
「今朝の秋」(山田太一/新潮文庫) 2009年感想
「アイディアを捜せ」(阿刀田高/新潮文庫)

→小説を書ける人はすごいと思う。
どうやってみな処女作を書いているのだろう。
大御所の阿刀田高氏は好きなものの真似をしたという。恥も外聞もなく。
あれがとても好きだから、あのようなものを書きたい。
好きなものを真似て必死で処女作を仕上げた大御所の阿刀田高氏いわく――。

「今、こうして思い返し、分析してみると、
トリック、同期、書き方、みんな相当に気を入れて挑戦している。
作品の仕上りには不満はあったけれど、
――処女作とは、こういうものなんだろうなー―
と思わないでもない。
技術は未熟なのだから、せめて気だけはしっかりと入れなければなるまい」(P244)


要約すると、気合を入れろだ。気合だあ、気合だあ、気合だあ♪

「図説 あらすじで読む 日本の仏教と経典」(廣澤隆之監修/青春出版社)

→29歳のとき、なにかを求めてインド89日間の旅をした。
インドのあらゆる仏跡をインド大衆ウイスキー8PMとともに巡礼したものである。
帰国してからも仏教求法の内的旅はつづき、あれから13年。
いまようやくひとめぐりした感がある。
はじめは廣澤隆之氏の「図解雑学 仏教」のお世話になったから、
シメも同氏の「図説 あらすじで読む 日本の仏教と経典」
といったような本のお世話になるのもわたしらしいだろう。
仏教を13年学ぶと、さすがにこの基本書に出てくるワードは理解できるようになった。
記憶はしていない。やたらめちゃくちゃ用語が多いから。
本書は仏教のスマホ的な役割もあり、あれなんだっけなの「あれ」がぴしっと出てくる。
さすがに13年も学ぶとほとんどあらゆる仏教者の本を原書で読んでいた。
だれにもほめられないし、性格もよくなっていないし、なんの利得もないけれど。

人さまざまである。
先日、生まれてはじめてホテルのバーというところに連れて行っていただき、
1杯1900円のシングルモルトをロックでご馳走になった。
まさか生涯、ホテルのバーに行くことなどないと思っていた。
生意気にもわたしの仏教総括を勢いに任せて口にした。
「仏教はウソです。仏はいませんし、悟りもありません」
人間はそれぞれひとりぼっち。
真っ黒い巨大な現実のようなものに押しつぶされそうになっている。
その現実にあらがおうとするせめてもの試みがフィクションの仏教だ。
仏教も仏も悟りもフィクションだから人は救われる。
理解してもらえたかわからなかった。
ところが――「仏教は絵本の「百万回生きたねこ」ですよ」
とのお言葉をいただき、この人と(いくばくか)わかりあえたと感動した。
そうだそうだ、仏教はお経でも学説でもヨガでもなく「百万回生きたねこ」だ。
わたしはウイスキー1杯1900円もするバーに行くのは乗り気ではなかったが、
もしかしたらあの場が(仏教学的に見たら)ふざけた会話を可能にさせたのかもしれない。
仏教はどこぞの教学を理解したとか、どれだけ修業したとか、知識をためこんだではない。
仏教は絵本の「百万回生きたねこ」に出ているではないか。

あれからインド3ヶ月からずいぶん経ったなあ、と思う。
13年も勉強すれば、無能なわたしでもここまで来れるのかと感慨深い。
好戦的なことを書くと、学会員は日蓮関係のことしか知らないしね。
わたしはおかげさまで暇と金を利用して空海から一休、池田大作まで原著で網羅した。
これほどまで無分別に仏教を自由に独学で来たのは、ひろさちや先生ゆえだろう。
仏教とはウソであり、現実ではないウソに人は救われる。
弘法大師空海の偉大さは著作の難解にあるのではなく、
庶民がお大師さまを慕い巡礼をするときの心持「同行二人」にある。
あなたはひとりではない。ひとりぼっちではない。同行二人――。
いいご縁にめぐりあったおかげで、いい本を読み、自分を知り、時間を待つことを知った。
若者に申し上げたいのは、仏教はすべて嘘だが、
そこに本気で惚れ込んだら救いがないわけでもない。
みんなの救いではなく、あなたひとりの救いがである。
ホテルのバーで救われるのもウソではない。すべて本当でウソである。
仏教というウソは人を救うのは難しいがときに自分を救うことがある。

「自灯明、法灯明」――。

信じるのは教祖ではなく、あなた自身の心の声だ。それが仏だ。
本書は軽く見られがちな体裁だが、仏教知識を参考書的に網羅したじつにいい本でした。
現世利益的にも、これはスマホよりも十倍使えること間違いなし。

「文学賞の光と影」(小谷野敦/青土社)

→「朝日賞は左翼の文化勲章」とか、ぶちまけがおもしろすぎる本である。
本書にも著者が好きな文壇ゴシップが満載で作家の名前がわかる当方は大笑いした。
ひっくり返せば、文学の世界になにも興味がない人が読んでもおもしろくない。
もういまは文学は将棋の世界になっていると思う。
詳しい人が見たら棋譜とかものすごくおもしろいのだろうけれど、
かろうじてルールを忘れていない程度のものが見ても意味がわからない。
棋士の名人とか将棋の世界の人にはあこがれなのだろうが、
失礼ながらわたしには、なに、このおっさんたちとしか思えない。
将棋はまだ明確な勝敗があってわかりやすいけれど、
文学は人事とか上下関係が細かすぎてたいへんわかりにくい。
本書は文学初学者が読んでも意味がわからないだろうから、そういう入門書ではない。
没落した文学中年を対象としたじつにおもしろい読み物であった。
むかしは柳美里がキラキラして見えたなあ、という夢破れしものたちの本である。

わたしはシナリオを文学への階段だと思っていて、
某大手シナリオ学校への怨念もあり、
数年間脚本のコンクールに狂ったように応募しつづけたことがある。
いまの人でこんなに読んでいる人はいないくらいだろうのシナリオの勉強もした。
しかし、10以上応募した拙作はどれも箸にも棒にもかからず、
気づいたらシナリオへの執着がまったく失せていたのである。
得た教訓は「努力は報われない」「まあ、人生そんなもの」であった。
名著たる本書も努力が報われなかった人たちが大量に登場して、
え、人生ってそんなに身もふたもない残酷なものなの?
というエピソードがあまた紹介されており(報われぬまま突然の早逝とか)、
「人生そんなもの」というわが信仰めいた現実感を心地よく補強してくれた。

いま文学なんて多少なりともまじめに読んでいるのは、
大学生、院生、助手、教員――大学関係者、
出版社員、編集者、書店員――商業従事者、
著者の血縁、友人、知人、同業作家、博識ぶりたい人――に限られるのではないか?
「文学的達成がない」なんていうほどバカらしい評言はないと思うし、
逆にネットでたたかれた「(現代文学は)対岸の火事」は正しいように思う。
いまだ早稲田には小説家養成コースがあるようだが、この名著を教科書にすべきだ。
とはいえ、経験から早稲田の学部生はこの程度の難易度の本さえ読めないはず。
同学後輩の指針にいささかでもなればと傑作名著、優良教科書から抜粋する。
著者は純文学について語っているが、いまは大衆文学もさんさんたる状況のようだ。
大衆小説以下と一般ではみなされている漫画家でさえ危なくなっている。

「……「純文学」と言われるものは、明治の昔から今日まで、
ぞっとするほど売れないものである。
たとえば芥川や久米が純文学短編集を出しても、部数は二千部くらいだ。
今は五千部は刷るが、増刷はまずしない。
仮に現在、二千円で売るとすると、
印税は一割が相場なので、二百円×五千部で百万円。
これを年に二冊も出せたらいいほうだ。
従って、雑誌や新聞に書く原稿料をあわせて、何とか凌ぐ。
大江健三郎のように有名になれば、講演料が馬鹿にならない」(P16)


本書は6年まえの公刊だが、いまでは初版三千部でもありがたいと聞く。
活字を大きくして紙質を厚くして千円で売る。そうすると百×三千で三十万である。
これでも単行本を出版社から出してもらえるだけで著者は感謝しなければならない。
新人作家は年収三十万なり五十万なりで、
各文芸誌をいやいや読み、同業界の人とツイッターで馴れ合い褒め合い、
アマゾンレビュアーを代表とする(わたしもその一員だが)バカどもの
心ない批評にぐさぐさ心臓を刺され血まみれにならないければならないのである。
大学時代、親がコピー会社の経営者だった三田誠広先生の(4年生の)
授業に一度もぐってみたら、
彼は嫌味な口調で作家という身分の優位を強調していた。
しかし、道産子の苦労人で稚拙な卒論を見逃していただいた久間十義先生は、
「作家なんてなるものじゃない。ほかでどうしようもなくなったものがなるんだ」
としきりにおっしゃっていた。思えば指導教授のお言葉が、
わがどうしようもない人生を予見していたような気さえする。
世間を知らない大学生は文学をさもすごいものかのように思っている。
しかし、実際は――。

「新聞に載る文藝時評というものは、
作者本人と編集者しか読まないと言われて久しい」(P137)


平成の樋口一葉がネットでたたかれていたが、
彼女は場末のキャバ嬢ほども人に関心を持ってもらえず、
収入も風俗嬢にはるかおよばず、容姿はこれから劣化するいっぽうだから、
川上未映子さんに嫉妬するほうが、言いたくないがあたまがどうかしている。
出版編集者はテレビドラマによく登場する花形職業だが、
出版社が社員の個性(自分勝手)を尊重してくれるとかは少なく、
きちがい作家対応(小谷野さんを担当できる編集者には人格的にひれ伏す)と
うるせえバカ政治団体へのゴマすりが実際の仕事内容なのかもしれない(わかりませんが)。

「『青年の環』は被差別部落問題を扱っており、岩波文庫に入って、
売れている様子もないのに絶版にもならずにいるのは、
解放同盟に対するリスクヘッジとしか思えない、
と呉智英は言っている(宮崎哲弥との対談『放談の王道』)。
もっともそれを言えば、
新潮文庫が住井すゑの『橋のない川』を入れているのもそうかもしれない」(P86)


創価学会の関連本を出せば、アンチや信者さんが大量にお買い上げくださる。
著者は作家のわずかにあるうまみにも目こぼしをすることはない。

「ただ、地方出身者の場合、芥川賞作家ともなれば、
地元へ帰って地方文化人となり、教育委員会の仕事をしたり、
講演をしたりして生き延びることが出来る。
川端康成と一緒に『新思潮』を始めた仲間のうち、二人は作家として消えたが、
鈴木彦次郎は、戦争中地元の岩手へ帰り、
図書館長や大学教授をして地方文化人になった」(P235)


作品の純粋評価はだれにもできず、少なからず人間関係が影響する。
大げさに言ったらば、作品評価とは人間評価のことかもしれない。
早稲田の小説家養成コースの出身だが、優秀な同窓はみな編集者になっていった。
みなさんご存知でしょうが、
いわゆる作家になるために近道は編集者になることである。
小谷野敦さんはこれを言って大丈夫なのか? 言っちゃいけないことを言っちゃった!

「近ごろ、編集者が引退して本を出すと賞を取ることが多くなっていて、
しかもその多くは、世話になった作家が選考委員をしていて、
恩返し的に与えているのである」(P227)


新潮社で雑誌「○○○」を創刊したMさんは、
脚本家の○○○○さんに連載原稿を依頼する。
脚本家のエッセイはその作家の大ファンの当方からしたら、異常に晦渋ぶったものだった。
しかし、脚本家はそのエッセイで新潮社の小林秀雄賞を取る。
Mさんは編集者を辞めて作家になったのだが、書いた恋愛小説が大絶賛で読売文学賞。
脚本家もありえないほどMさんの小説を激賞して、公開対談をするほどだった。
Mさんはその後、書くものすべて評価される。
最新作は芸術選奨文部科学大臣賞のみならず河合隼雄物語賞もゲット。
あれ? 河合隼雄物語賞はMさんが創刊した雑誌で創設したものではないの?
わたしはこういう風潮を悪いとも思わないし、日本の伝統文化として評価している。
対談でお見かけしたMさんは好人物で、とてもためになるお話をしてくださった。
まだ読めていないが、きっと傑作なのだから、いつか読むのが楽しみだ。
繰り返すが、純粋な作品評価はできない。
どうしても人間関係のしがらみに巻き込まれてしまう。
おそらく「文学賞の光と影」とはそういうことであろう。
早稲田大学教授のセクハラ文芸評論家を葬り去った「MeToo」の後輩女性は
おもしろかったが、あれはおよそ文学世界というのをわかっていないと言わざるをえない。
しかしいまや文壇=文学世界など存在しないのだから、
そのことを世間さまにあからさまにした功労者たる傑女とも言えよう。チューしたい。
あ、まずっ、セクハラだこれ、万死に値するセクハラだ。謝罪します。