「援助者必携 はじめての精神科 第3版」(春日武彦/医学書院)

→作家の春日武彦氏の一般書ではなく、
どこまでも精神科医の春日先生によるわかりやすいが重たい医療ガイド本。
作家としての春日さんはうまいなあ、と感心することしきりだったが、
精神科医としての春日先生はどこか舐めていたところがある。
時間をかけて本書をじっくり読んで思いを改める。
春日さんは精神科医としても一流である。
精神科医ってここまで考えないとやれない仕事なのかと職業に敬意を覚えた。
(なかにはいいかげんな人も、そりゃあ、いるだろうけれど)

いつも春日さんの本を読むときは、おもしろいなあと笑いながら読むのだが、
本書は読みながら気鬱が増すばかりで希死念慮さえ生まれ、
もう読みたくないよと胃腸が痛くなるほど重い「本当のこと」が書かれていた。
精神科医としての春日先生のおそらく代表作になるのだろう。
精神科領域の援助者にはとても役に立つ本かと思われる。
どちらかと言えば患者サイドのこちらが読むと絶望感にとらわれる。
春日さんから耳元で小声で何度も何度もささやかれた気がした。
「おまえ、典型的な境界性パーソナリティ障害だからな。
王様くらいのレベルだよ。
手の内を明かすと、おれが本をプレゼントするのは、
クレーマーになりやすいおまえを「プチ特別扱い」しているだけだから。
オープンエンドの実践だ。精神科っていう選択肢もあるからな」

そして、こういう声が聞こえてくるのが境界性パーソナリティ障害の特徴である。
正直、春日武彦さんがなんでわたしなんかに本を送ってくださるのかわからない。
むろん、善意という面もあろうが、クレーマー対策のようなところもあるのだろう。
どちらとは断定できず、どちらも正しい。どちらの面もあると思う。
たしかにわたしには境界性パーソナリティ障害の典型のようなところがある。

「つまり失望や絶望に向かって一直線に走らなければいられないような、
あたかも呪われたようなところがある」(P187)


強い空虚感も衝動性も有す問題行動を起こしがちなトラブルメーカーだ。
「見捨てられ不安」はそんなにないような気がするが、
春日先生はそうは思っていないから、こうして本を送ってくださるのだろう。
むかし冗談で「春日さんから新刊が来なかったよ~」とブログで嘆いたら、
矢のような速さで3冊も本が送られてきて驚いた。
どうしてかというと、
春日先生がこんなブログのあんな記事をお読みくださっているとは、
まるっきり思っていなかったからである。
ある時期まで脚本家の山田太一さんの本で、
自分を執拗なまでに教育していたところがある。
「他人は自分なんかに関心を持たない」
なんか災難があっても「世の中なんて、そんなもの」「人間なんて、そんなもの」。
むかしは友人にブログを読んでほしかったが、
いまはそういう欲求は消えて、
実際に読まなくなった友人もいるが気にしていない。
読んでくださっているという友人にも、
「仏教の長い記事は読まなくていいですよ」と繰り返しお願いしている。
つまらないでしょう、って(笑)。
とはいえ、いまいる数人の友人に見捨てられるのはいやだ。

春日さんは「おまえだれにも必要とされていない人間だ」と繰り返すほどの
イジメはなく、それをしたら人を自殺に追い込めると思っているそうだが、
それは春日さんがその傾向が強いというだけで、
なかにはわたしのようにそれほど当てはまらない人もいないわけではない。
「本が売れなくなったらどうしよう。執筆依頼が来なくなったらどうしよう」
そういう「必要とされたい願望」、いわゆる「見捨てられ不安」が強いから、
春日さんには境界性パーソナリティ障害のおなじ不安がよく見えるという面が
もしかしたらあるのかもしれないし、まさか臨床経験豊富な春日医師が、
そんな軽はずみな自己投影を患者にするはずがないとも思う。

さて、「おまえは典型的な境界性パーソナリティ障害」と小声で耳元で
ささやかれてしまった(幻聴かもしれない)わたしはどうしたらいいのか?
境界性パーソナリティ障害は性格の偏り歪みだから治らないのである。
1.加齢によるエネルギー減少を待つ。
2.失敗体験から謙虚に学び少しずつ生き方を修正していく。
3.目標は非常に困難をともなうが、苦笑しながら淡々と生きることを目指す。

春日医師は境界性パーソナリティ障害は大嫌いなそうだが、
医者は患者は選べないため診るほかない。
どんな治療をしているのか本書を参考にして想像してみた。
患者「世の中、間違っている」
医師「なるほど。そうかもしれないし、世の中はそういうものかもよ」
患者「あいつが許せない」
医師「なるほど。それは大変だねえ。人ってそんなものかもしれないな」
患者「どうして人生うまくいかないのか」
医師「なるほど。それは辛いねえ。みんな人生そんなものかもねえ」
患者「俺を舐めているのか!」
医師「○○さんはわたしに舐められていると感じたんですね」
患者「……はい」
医師「淡々と生きましょうよ。
わたしだってうんざりげんなりしながら、こうして淡々と生きています」
患者「境界性パーソナリティ障害だから、それができないんですよ……」
医師「なるほど。もう少し様子を見ましょう。次回の予約はどうしますか?」

春日武彦さんのぼそぼそした声が耳元で聞こえてくる。
「おまえさ、境界性パーソナリティ障害だよ」

「まことに馬鹿げた話ですが、「死とダンスを踊る人」
というアイデンティティに夢中になってしまう人々がたしかに存在する。
けれども、そのアイデンティティと交換できるような
アイデンティティを彼らに示すのは困難でしょう。
わたしとしては、調子に乗りすぎないように気をつけてくださいね
と小声で伝えるのが関の山です」(P268)


ラジャー! 調子に乗りすぎないように気をつけますドクター!
しかし、境界性パーソナリティ障害は性格の偏りだからいかんともしがたい。
そうしたほうがいいのはわかるし、そうしたいのも山々だが、
結局は境界性パーソナリティ障害なんだろうなあ。
淡々と生きたくないという気持がくすぶっている。春日さんだって、そうでしょ?
しかし、落としどころはここしかない。

「わたしが思いますに、精神を病みやすい人たちの共通項は
「中途半端な状態に耐えられない」といった性向です。
なるほど考えようによっては、「中途半端な状態を我慢できる」精神は
鈍感さや無神経さに似た部分を持つかもしれないけれど、
やはりもっと別なものと見るべきでしょう。
困ったことにわたしたちの日常生活は、メリハリに欠け、
とりとめのない事象を延々と相手にしているようなところがある。
達成感や充実感を覚えられるなんてことは稀であり、
自分なりにがんばりはしたけれど成果となるといまひとつ手ごたえを欠く
――そんな生煮えだか生殺しみたいな日々の連続ではないですか。
波乱万丈とか痛快で満足な気分とかは、リアルな日常とは縁が薄い。
でもそんな地味で退屈な毎日のなかにささやかな喜びやひそやかな意外性、
ちょっとしたすばらしさを発見して心を潤わせられる態度が、
わたしたちには必要です。
たぶん実人生の幸・不幸はそういったあたりに分岐点がある」(P84)


春日さんはお嫌いかもしれないけれど山田太一ドラマの世界である。
春日医師は宗教にも言及する。精神科に来る患者は――。

「彼らはよい意味での「いい加減さ」や楽天性を欠き、
的外れな厳格さにとらわれています。
中途半端で宙ぶらりんな状態と、どうにか折り合いをつけつつ
じっくりと結果を待つことができません(私見ですが、
そこを補うためのひとつの工夫ないしは発明が、
すなわち宗教というものではないでしょうか)」(P85)


仏壇に拝んだりお経を読んだりしていると、
どうにもならないどうしようもない(死後を含めた)未来に対して、
なにかアクションをしているというささやかな満足感どころか、
ほのかな「希望の香り」がただよってくることさえある。
そんなくだらないマジナイめいたことをしながら、淡々と生きる――。
春日武彦さんも淡々と生きたいとは思いながら、
内心は不満でいっぱいで占い師に向かって大人げないことを吐き出す。
人間味があっていいなあ。

「努力のわりに報われないオレの人生に納得がいかない。
このまま日が当たらない一生なんでしょうかね」(306)


著書多数であの名門、松沢病院に
外様として入り部長にまでなった春日先生がなに言っているんですか!
春日さんが日が当たらないというなら、
わたしの人生はなんなのだよと号泣したくなる。
春日医師は健康にも留意しているだろうし、人生100年時代。
いまは人生は70歳からですよ。
まだまだ日が当たることもあるかもしれませんよ。

「漠然とした不安と自己嫌悪に満ちた毎日から抜け出す方策を教えてくださいよ」(P306)

おそらく根本的な春日さんの問題は、
青年期にアートなほうへの関心も高かったのに、
世間の代表たる親の期待に沿って自分を殺して
医者になったところにあるように思います。
そのうえ精神科医は患者を世間に通用するよう心の故障を修理する役割で、
春日さんの根深いアート精神を毎日殺しているとも言える。
ものすごい春日さんは世間からの評判を気にする人だと思う。
見栄っ張りなところがあり、人を服装で判断する。
わたしなんかよれよれのユニクロしか持っていないから、
たとえ春日さんが1回だけの受診をOKしてくれても着ていく服がない。
そこで判断されるなあ、と憂鬱になる。
しかし、人を服装で判断するのは正しく、それが世間の常識というものである。
春日さんを批判しているわけではなく、改めて有能な精神科医だと思う。

最後に明るい話題を書く。
本書で春日さんが「希望の香り」の効用について巧みに著述している。
むかし介護保険もなかった時代、
春日医師は認知症の痴呆老人で困っている家を訪問するという仕事をしていた。
いざ春日さんが家に行ってみると、
かなりの割合で事前調査よりも認知症の症状が軽いのである。
これはどういうことかと春日医師は考える。そうか、そういうことか!
精神科医を含めた医療チームが近々来るというので、
ピリピリ閉塞したにっちもさっちも行かない悪循環状態の家族に
「希望の香り」がただよい、このためそれぞれに精神的余裕が生まれ、
結果として緊張状態が解け、それを察知した老人の認知症も軽くなる。
キーワードは「希望の香り」と「精神的余裕」である。
精神的余裕を持つことで、
意外な偶然が生じて(余裕があるからそれを発見できる)
それが突破口になったことはいくらでもあったという。

以上で春日武彦さんからいただいた「はじめての精神科」の感想を終える。
淡々と生きていたら、こんな情熱的な長い記事は書けない。
素朴な疑問だが、いまの若いナースはこの本を最後まで読めるのだろうか。
必要に迫られたら、かなりのことができるのかもしれない。
わたしにとって春日武彦さんがたまに送ってくださるご本は、
味気ない生活の潤いであり「希望の香り」である。
わたしのなかで春日さんの評価はかなり高いので、
そんな雲の上の人から本をいただけると思うと自尊心も満たされ、
精神的余裕が生まれ、生きるうえでの張り合いになる。
クレーマー対策のプチ特別扱いでもいいので、
できたらこれからもよろしくお願いします。
「手のひら返し」のようなことはせず、かならず肯定的な感想文を書きますので。
とはいえ人気作家と愛読者の関係で医療関係ではないので、
春日さんがめんどうくさくなったらそこまで(考えてみたら不思議な関係)。
医療関係ではないから「見捨てられ不安」はそこまで感じないと思いますが、
なにしろ精神科医のほとんどが嫌う境界性パーソナリティ障害だからなあ。
いまのメンタルクリニックの医者なんてわたしより年下が多いはず。
そこにわたしが現われて「境界性パーソナリティ障害みたいなんですよ」
と言ったら、ギョッとされるのではないか。
老け顔だし、おまえ、その年齢で境界性パーソナリティ障害かよって。
今回は久しぶりに汚い字でハガキの礼状を出しましたが、
ウェットな関係を嫌っているのは存じ上げております。
変な長文メールとか送りつけたりしませんからご安心ください。
さて、苦笑しながら淡々と生きたいが――。

「宗教に生きる 精神科医が見た求道者の人格」(小西輝夫/同朋舎)

→88年刊。精神科医だが、
ほとんど臨床(診察)をやっていなかったと思われる、
のちになぜか佛教大学の教授になったといういかがわしい経歴の著者。
まだ存命だし、子孫に権力者が大勢いそうで、松下ともコネがあるので怖い。

空海は循環気質(そううつ気質)。
最澄は分裂気質(内閉性性格、統失気質)。
空海に引きこもりの時期があったのは、
そのとき、そううつ病ののうつ期だったからと断言する。
根拠は顔である。
現在のこっている似顔絵から精神科医は宗教家を歴史的に診断する。
法然は循環気質で、明恵は分裂気質らしい。これも画像からの診断。
明恵は嫌っていた法然を夢で師匠としてあつかっているから、
両価的態度を持ち、まさに分裂的であるって、時代だなあ。
分裂病の人は別に分裂しているわけじゃないから、
病名が統合失調症に変わったのだが、
臨床をろくにやったことのない精神科の老博士さまは安易に診断する。
踊り念仏の一遍はわけがわからなかったのか病名がついていない。

私見では、精神病者には宗教のトップはやれない。
池田大作さんだって、計算高い人情家ぶった政治屋の情熱的親分でしょう?
踊り念仏の一遍も「聖絵」を見ると、本人は覚めきっていて、
弟子たちが老若男女問わず狂ったように踊っている。
宗教家のトップになるために必要なのは、
著者の指摘するように本人がいかに狂っているか(精神病質であるか)ではなく、
どれほどうまく周囲を狂わせられるかではないか?
大衆、庶民、下層民はチープに狂っているものを見てもあざ笑うだけであろう。
彼(女)らは自分たちが恥ずかしげもなく、
笑われることも恐れずエレガントに狂いたいのである。
そのためには教祖みずからが、
ちょっと狂った真似をできなければいけない面もあろう。
真似ではなく真に狂いながら、その狂気を制御できる理性が必要とされる。
逆に言うと、真の狂気がなければ弟子から舐められる。

パフォーマンスとプロデュースの両方が求められる。
空海と日蓮はひとりでふたつの役をこなした。
最澄はプロデュースはまるで下手だった。
法然は(子孫の悪だくみで)親鸞のプロデューサーをする羽目になった。
踊り念仏の一遍はパフォーマーで、プロデュースは他阿真教がやっていた。
勃興期のAKB48は宗教的だったが、裏にプロデューサーがいたでしょう?
ひとりふた役できるのは池田大作さんくらいの天才である。
天龍源一郎のプロデューサーは奥さまのまき代夫人がやっていた。
いま新宗教の教祖に惹かれている。

「たとえば、天理教々祖・中山みき(一七七六-一八八七)は、
彼女が四十一歳のとき、
長男の足の病いの加持祈祷に巫女の代理役をつとめていて
”神がかり”をおこし、それは死ぬまで断続的に繰り返されたが、
精神医学的には彼女が祈祷精神病(もしくは非定型精神病)
であったことはまず間違いないと思われる。(……)
また大本教開祖の出口ナオ(一八三六-一九一六)も、
極度の貧困と打ちつづく家庭的不幸のなかで、
五十三歳のときはげしい”神がかり”を示しているが、
これまた人間学的な発狂といえる。
しかし、彼女の長男は自殺未遂ののち蒸発しているし、
三女は産後に発狂(いわゆる産褥精神病と思われる)、
長女もいわゆる”狐つき”の錯乱状態に陥っている。
母子ともども精神病理的負担の濃厚な家系であったともいわざるを得ない。
戦後では、囲碁の名人、呉清源を大蔵大臣とし、
名横綱の双葉山を厚生大臣とする璽宇(じう)内閣を組織して
世間を騒がせた璽宇教々祖・長岡良子(ながこ)(一九〇三-)の精神分裂病、
踊る宗教として一世を風靡した
天照皇大宮教々祖・北村サヨ(一九〇〇-一九六七)のそううつ病
(――といわれているが、非定型精神病の疑いのほうが濃いように思う)
が有名であるが、これら教祖の異常性は、
教祖をより超越的・神秘的存在とするのに役立ったことであろう」(P175)


おそらく全員に優秀な男性プロデューサーがいたと思われる。
さて、蒼井優の前世だと一部でいわれる、
踊る宗教の北村サヨにはときめきを禁じ得ない。
去年、八王子の人に依頼された仏教小説を書いたが、
最初に会ったときは、わたしごときをまるで高僧のようなあつかいだった。
そのうち正体がばれたのか、だんだんぞんざいな対応をするようになり、
最後はドタキャンをしても詫びることさえなく、
末期に至っては酒を飲みながら目をランランと凶暴的正義心から光らせ、
壊さんばかりにテーブルをばんばん叩きつつ
「おまえは世間知らずだ」と店中に響き渡る大声で怒鳴られた。
「いいか、俺が四国を救ってみせる」
あの人は金勘定にも相当に聡いようだったし(経済学部出身)、
もしかしたら四国に村内教が広まってしまうかもしれない。
最初は寺の堂守になってくれませんかと言われたわたしは、
最後は正体を見破られたのか、
「おまえなんか刑事告訴して刑務所にぶち込んでやるからな」――。
じつに仏教的で過激な八王子らしい稀有な求道者であった。
あの人はおそらく常識人で、
わたしがブログや面会を通して1年かけて狂わせたのである。
苦しいと同時に楽しかったんじゃないかなあ。
宗教において、受難と歓喜はコインの裏表である。

「日本売春史」(小谷野敦/新潮選書)

→若いころから世に認められた著者が書いている。
若かりしころはフェミニストや中産階級女性に褒められたいから
売春撲滅を訴えていたそうだ。
しかし、いまは偽善を廃して事実を書くぞというトーン。
だが、売春の歴史の事実なるものは未来永劫わからない。
明治大正なら売春を描いた小説も少数あるものの、
(著者はそう思っていないようだが)小説が事実そのままであるものか。

「いわんや平安朝では、字を書ける者は限られていて、
下層民が自らの買春体験を描いたりしていないし、
貴族とその周辺の者たちだけがものを書き、
価値ありと見なされたものだけが筆写されて残ってきたのだ。
つまり、史料がないから売春がなかったと考えるのは
間違っているということである」(P40)


これはほとんど歴史学を否定しているに等しく、
そしてさらに恐ろしきこと小谷野敦のこの意見は正しい。
「史料がないから○○事件がなかったと考えるのは
間違っているということである」――。
過去の歴史的事実はわからない。
貴族の書いたものだって、結局勝ったほうがその立場で書くわけである。
歴史的事実なんて、みんな広義の意味で嘘だろう?
映像でも撮っておけという話だが、映像は演出でいくらでも嘘がつける。
結局、おもしろいものが歴史としてのこるのではないか?
むかしは娼婦は巫女であり聖女であったという説が
流行った時代があったとのことだが、
そんなことはわれわれ下層民の耳には聞こえてこないし、
常識的に考えたらそれはないだろう。家族に売春婦がいたらいやだもん。
母親が売春婦で子どもを孤児院に捨てて成年後に涙の再会とか、
娯楽ドキュメンタリーとして見るならいいが、現実はやりきれない。
著者は「価値判断をしない」(善悪を言わないということか)という
方針のもと本書を執筆したらしいが、それが退屈の原因か。
小谷野さんの本で、こんなにつまらないものはめずらしい。
あの学者がこう言った、別の学者はこう言っているの反復作業。

明治大正、昭和前期の売春婦は貧困にあえいでいたが、
昭和後期から平成までは逆に大金を稼げる商売になった。
おれさ、ア○ゾンで働いているとき思ったなあ。
けっこう売り物になる若い女の子がいるのに、
どうしてそっちへ行かないのだろうって。
桁違いの金が儲かるし、それはいまだけのチャンスなのにもったいないよ。
過去なんて言わなきゃ、絶対ばれないし、
そんな純愛なんてないのは女がいちばんよく知っているだろう?
若いうちは気がつかないのかな。
過去なんて言わなきゃばれないし、ばれなければそれが真実で通る。
これが歴史学の要諦なのだが、
大学でそういうことを教わらなかったのだろうか?
「史料(証拠)がないから売春婦歴がなかったと考えるのは
間違っているということである」――。
こんなことを考え妻を疑うのは東大卒の小谷野さんくらいで、
わたしをふくめほかの男はみんなバカだから大丈夫。
ばれないって。だませる、だませる。
それは歴史学のインチキ性が証明している。

著者はしきりに「仏教は禁欲的なので」と書いているが、それは釈迦仏教。
あるいは日本に伝来していない小乗仏教の話。
まさか小谷野さんが蓮如の子どもの数を知らないはずはないと思うが、
日本大乗仏教(とくに最大派閥の浄土真宗)は、
ぜんぶOKのゆるゆるにしたから
無学な下層民に人気が出て広まったというのはかなり事実に近いと思う。
本書を読んで、やはり学問には不向きだと再確認する。
娼婦が聖なる性であっても、そうでなくても、どっちでもいい。関係ない。
行かないからいまの売春ビジネスが栄えても滅んでも、どっちでもいい。

「哲学塾 「死」を哲学する」(中島義道/岩波書店)

→わたしにはわかりやすくいい本だったが、
たとえば生活力たっぷりの姉はこの本を10ページも読めないだろうし、
書いてあることの意味もまるでわからないだろう。
大学時代、江中直紀という嫌われ者の教授がいて、
学生の書いた習作小説を「他者がいない」「他者性がない」と、
まるで決まり文句のように使用して批判していたが、
彼は教育者として失格で「他者」や「他者性」を
うまく学生に教えられる能力がなかった。
中島義道が教育者として一流だと思うのは説明がわかりやすいからである。
まさか40を過ぎて「他者」や「他者性」の意味がわかるとは。
わかったところでなんの生活の足しにもならないといういまになって。

「すなわち他人とは次の二重の意味をもつということです。
(一)私にとっての他人(客体としての他人)
(二)その人自身としての他人(主体としての他人=他者)
哲学における他者問題とは”alter ego(他の自我)”の問題であって、
哲学者たちは、(二)の意味の他人=他者について
悪戦苦闘の思索を展開してきました。
私は身振りや表情から他人Fを観察し、
Fが――機械や人形とは異なり――私と同類の人間として
「存在している」ことを知っていますが、
それは(一)の意味での他人であって、
他人の意味はそれだけに吸収されるものではない。
私は、これにぴったり重ね合わせて、
F自身が私を他人とみなす主体であることを知っているのです。
こうした主体が(二)の意味の他人です。
そして、(一)と(二)が独特の意味で「同一」であることを私は知っている」(P76)


他者ってそういう意味――(二)の他人――だったのか。
それを説明しないで、あらゆる学生の習作を
「他者がいない」と見下していた江中直紀は、自分が小説を書いたらすごいぞ、
と常に言いながら結局1本も書けずに早死にして、いまや思い出す者も少ない。
中島義道に言わせたら、言葉が自分と他人を「同一」にしてしまうから、
もしこの解釈が正しければ、
小説に他者を求めること自体がおかしいのかもしれない。
患者が「痛い」と訴えたときナースは「痛い」という言葉を知っているから、
たとえば患部を撫でたりする。
ナースは患者の「痛み」は感じないが、「痛い」という言葉は理解できる。
患者の「痛み」は本人にしかわからない代替不能の絶対孤独的感覚である。
いうなれば言葉にならない「ナマの体験」だが、
それは「痛い」としか表現できない。
これを言い換えると――。

「言語習得以前のナマの体験などありません。
むしろ、われわれは言語を習得することによってはじめて、
それによっては表現できないナマの体験があることに気づくのです。
言語を習得しているわれわれは、
そのかぎり自他の区別のない言語世界(象徴界)に生きている。
そして、そうした自他の区別のない世界に生きているただなかで、
各人は言語以前の自分固有の体験を発見し、
同時にその対極に他人固有の体験を発見するのです」(P69)


わかりやすく言うと、自分の痛みや生きづらさはわかってもらえない。
人と人はわかりあえない、相互に絶対孤独の状況にあるが、
そこを言葉の力(家族、同僚、仲間、友人等)でどうにかごまかしている。
だから、言葉(小説)のうえでの
「他者」や「他者性」など言葉の馴れ合いに過ぎない。

「死」について哲学する。
「他人」とおなじように「死」にもふたつの「死」がある。
(一)私にとっての死(客体としての死)
(二)その人自身としての死(主体としての死)
要するに「自分の死」と「他人の死」である。
「死ぬのはいつも他人ばかり」というのは、他人の死は認識できるが、
自分の死はよくわからないからである。
中島義道は、自分の死を、眠りにつき永遠に目覚めない状態と定義する。
眠りならば朝起きてそれまでを回顧できるが、死は永遠に目覚めない。
中島は、これを「無」という言葉を用いて同義語とする。
すなわち、死は「無」であると。
いっぽうで他人の死は永遠の「不在」である。
「他人の死」が不在であるいっぽうで「自分の死」は「無」でふたつは異なる。
しかし、「無」とはなにか?
「無」など「有」の相対概念であるところの結局は「言葉」だろう?
「痛い」が自分の本当の痛みを表現していないように、
「無」という言葉も、言葉であるかぎり本当の無を言い表してはいまい。
ならば、「無=死」は、
「自分の死」を「自分の痛み」同様に表現していないのではないか。
ここにどうやら中島義道は、
「死」についての「救い」のようなものを見出していると思われる。
へたくそな図示をするとこうなる。

(「自分の死」←→「他人の死」=不在、不気味)=言語世界
    ↓
   「X(エックス)」=無言語世界


なお、中島義道は人は死んだら無になると信じているようだが、
わたしは来世を信じているので立場が異なる。
ファンである踊り念仏の一遍は「生きながら死ね」と言った人である。
それはこういう状態であろう。

「例えば、われわれが無我夢中で何かをしているとき、
まさに「われを忘れて」読書をしていたり、
芝居を観ていたり、ピアノを弾いていたり、サッカーをしているときです。
そのとき、普通の意味で「私」は登場してこない。
「私」は、あとでそれを想起するときになってはじめて登場してくる。
まさに「われにかえった」ときに登場してくるのです。
この現象にサルトルは注目し(「自我の超越」)、
ここからデカルト批判を展開する。
すなわち、絶対確実な知としてコギト(われ思う)から出発するのは
間違いであって、
まずは「われ」の登場してこない意識から出発しなければならない。
バスにもうちょっとのところで乗り遅れ、
私が必死になって追いかけている場合、
すでに意識は登場しているのですが、「私」は登場してこず、
ただ「走り行くバス」が登場しているだけです。
しかし、バスに追いつき乗り込み、
やれやれという思いで額の汗をぬぐいながら、
はじめて私は「私がバスを追いかけていた」ことを想起するのです」(P110)


わかんないって?
考える暇なんかあったら、馬車馬のように働き続けろってことだよ。
趣味に没頭するものもいい。乱暴に言い放つと「死」とはそういうことだから。
走り続けろ「ランナー」(「爆風スランプ」)たちよ。
ときには立ち止まって生きていることを確認しろよな。

春日武彦先生、「援助者必携 はじめての精神科 第3版」(医学書院)、
昨日19日ポストで発見しました。本当にありがとうございます。
毎日郵便受けを見ていないので、いつ届いたかはわかりません。
第2版よりも版型が小さくなったのではありませんか?
第2版は新宿の紀伊国屋書店、
医療書コーナーで部分部分失礼ではありますが、
立ち読みしたことがございます。
第3版は以前に比べて読みやすくなったような気が致します。
早速、明日拝読しておのれのくだらぬ人生と照らし合わせたいです。
筆圧強めの「人生の迷い」にいまもいまとらわれておりますので、
先生のご本が現実的な指針として左右することと思います。
「淡々と生きる」と「好きに生きる」の迷いでございます。

これで運気が変わるかもしれません。
先々月「8:2で大腸がん」と宣告されてしまい、それが検査1ヶ月まえのこと。
どんな気持で検査まで過ごせっていうんですかね?
3歳年下の外科医の考えはよくわかりません。
最悪の事態を考えるのが常ですから、もう大腸がんだとあきらめていました。
こんなもんかよ人生はと思っていたら、そうではなく、
かといって再生したかのように人生の新鮮な美しさやすばらしさに
目覚めるようなこともありませんでした。
かと思えば約束していた短期派遣仕事をドタキャンされて、
やっぱり人は信用できないという虚脱感からいまだ抜けきれておりません。
来週月曜日に郵便局でハガキを買って、その場で礼状を送ります。
土屋はやっぱり字が汚いなあ、これじゃ履歴書も落ちるよ、
と憐れんでくだされば嬉しく、
そんなハガキはそのままゴミ箱にポイでお願いします。
ハガキで礼状を書くのは失礼かもしれませんが、
世間知らずなのでどうかお許しください。

春日武彦先生、ご著作、本当にありがとうございます。
いま生活が荒んでいましたが、この幸運を弾みにして、
立て直す方向に向かいたいと思う所存であります。
生きていたらいいこともあるんだなあ。
自分が思っている自分と、人が見た自分って違う。
わたしは自分のことを近年まるで怒らない丸くなったおっさんだと思っていた。
年末年始、ア○ゾンさまで働かせていただいたときに、
若い女の子から1分、2分休憩時間に入るのが早いと注意されて、
いますぐ(数分かけて)職場に戻れって指示されて、ごめんなさい。怒った。
その怒り方がすごいって、
一部で噂になっていたと聞いたような聞いていないような。
だれも近づけない感じになっていたって。
たしかに怒っていた。たかだか1分、2分で騒ぐなバカって。
でも、その若い女の子のマイルドヤンキー的なかわいさを発見してしまい、
アクションドキュメンタリー的にブログに「かわいいよかわいいよ」
って書いたら、まさか読んでいるはずはないが、
きっと赤い顔をしてにらんできて、やべえ、
この子に惚れちゃうかもと思うくらいいい顔をしていた。

わたしって怒ると怖いのかなあ?
ほら、池田先生みたいなもので、
1回怒られてそれから褒められると
マインド・コントロールしちゃうでしょう(できちゃうでしょう)?
それには初発の怒りがどれだけ強いかが勝負。
いまでも自意識では、怒らないよ。
逆にわたしを怒鳴らせるのはあっちの才能くらいに思うほど温厚。
しかし、怒ることもないとはいえない。
ネット通販で時間通りに来なくても、たいへんなんだなあ、で、
にこやかに相対しているつもり。怒ると怖いのかなあ。

いままで怒った二大経験はシナセン、八王子。
八王子は本当にわたしに殺されると小便ちびりそうになって、
刑事告訴するとか意味不明なことを姉に大量メールしたビビリ。
ないないって。それないから。
うちから八王子まで2時間だし、そこから山中までバスで1時間。
意外と人って簡単に死なないのよ。
八王子さん健康そうだから、そもそも殺せない。
金属バットであたまを打ち割ろうとしてもかわされてしまう。
刃物で急所を突くなんて、ヤクザの中堅レベルでも難業。
被害妄想だろう。
みんなはもっと多いのかもしれない。男性社会はそういうものとも言えよう。
年上男性から怒鳴られることが多いような気がするのである。
あんがい数量的には少ないのかもしれないし、
被害妄想から、そればかり記憶しているのかもしれない。
怒鳴られたとき、どういうスタンスを取ったらいいのだろう。
理想は、顔を下に向けて無言でいることなのかもしれない。
わたしはついつい場を収めようと、まあまあ、落ち着いて、とやってしまう。
そもそも相手に大声で怒鳴る猛々しい神経、
雄々しいい精神がよくわからない下卑た女々しいところがある。
去年、八王子で村内家具に居酒屋で机をばんばん叩かれながら
「土屋さんは世間を知らない」
と怒鳴られたときのわたしの態度は間違っていたのかもしれない。
「まあまあ」「落ち着いてください」「ほかのお客さんもいますから」
と生意気にもなだめようとした。
あれが失敗だったのか。
シュンとうなだれていたほうがかわいげがあったのかもしれない。
おそらく、そうだろう。相手はそれを期待していた可能性が高い。
こうしてわたしは八王子大菩薩からいただいた最後のチャンスを逃した。
いまわからなくなっているのは、なにがしたいの?
商業映画でも文学でも、賞がほしいの? 売り上げ? 自己表現?
自己表現をしたいのならツイッターでつぶやいていろよ。
収益、すなわち金儲けをしたいのなら、もっといい方法はたくさんある。
賞がほしいのなら選考委員に金や女、称賛をばらまけばいいだけの話。
で、結局、賞をもらってそれがなんなの? まで到達したら本当の成功者鬱。
基本、映画も文学も金にならない。
他人の評価たる「賞」も突きつめると空しい。
最後は自己表現に行き着くのではないかと。自分を深く知る、強く出す。
最後にシナリオ・コンクール応募をしたのは7、8年まえじゃないかかなあ。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をシナリオ化せよ。
それを蜷川幸雄が監督で映画にするっていうんだよ。主催は角川だったか。
賞金は300万。300万あったら少なくとも1年は遊べるぞ。
文学は主戦場。よし、ここでデビューしてやるか、と決めた。
そろそろ世に出なければいけない。
宮沢賢治の本を複数読んで評論まで目を通して書き上げたものを応募。
結果は落選以前の話で、一次通過の発表もなかった。
おそらく話(企画)自体が流れてしまったのだろう。
大勢の人間が夢を目指して寝る間を惜しんで、
シナリオを書いて応募したわけでしょう? それが企画終了ってなに?
なんなの、このいいかげんな世界?
かと思えば、ご存じのように蜷川幸雄の娘は、
父親の人的財産を生かしてキラキラピカピカしている。くそったれが!
あれ以来、公募には出していない。
高給取りの出版社やテレビ局はライターの夢や情熱を舐めるにもほどがある。
まあ、そんなものだけど。
少しでも上の会社に行ったほうが勝ち。
そんなものだと知るためのコンクールかもね。
いまの時代風潮として怖い人がいなくなった。
わたしもむかしは原一男や宮本輝が怖かったが、いまはぜんぜんまったく。
池田大作さんほど怖そうな人を知らないが、
あの方がお隠れになった時期くらいからではないか。
いま文学や宗教、演劇の世界で怖い人っている?
暴力団が反社になったのは、埼玉が「さいたま」になり骨抜きにされたようなもの。
田中角栄くらいは迫力があったが、そのあとの政治家では、
いや政治には無知だから。
それでも野中広務には暗い怖さがあったが、いまの橋下徹はバラエティー。
中上健次が怖かったのは実際に暴力をふるうお部落のお育ちだったからで。
難解本の読書量自慢をしていたが、ただページをめくったってだけなのは、
もうそろそろだれかがばらしてもいい時期だろうが、だれもやらない。
三島由紀夫は怖いよ。なに考えてんだよ、あの死に方。
そうだから、いまの作家で怖いのはだれか。
幻冬舎社長の見城徹さんは完全独裁者気質で怖そう。すぐ大声を出しそう。
とはいえ、いまの編集者全般、コンプライアンス主義で、
いやらしいめんどうくさいやつは多そうだが、怖い人はいないと思う。
「おまえを業界で食えなくさせてやる」くらいは言いそうだが、
それは人によっては鬼より怖いが、正しくは陰湿な嫌がらせだろう。
瀬戸内寂聴は怖いがもうすぐ死ぬ。
村上龍が怖いなんて思っているのは虚像で、
若くしてデビューしたあの人は老人になっても世間知らずの若者ぶりっ子。
ああ、小谷野敦は怖いよね。
あいつ、命令形の2、3文だけをメールで送ってきたことがある。