昨日でお菓子関連の派遣仕事はひと区切り。
事務所の方に来週の水、木も入りたければ、というありがたいお言葉をかけていただく。
「使える/使えない」レベルの話をすれば、まったく使えないにもかかわらず。
本当に事務所のYさんにもTさんにもお世話になったと思う。
一度辞めたいと言ったときにYさんとお話する機会があった。
この年齢の女性はこのような考え方で仕事をなさっているのかと勉強になった。
だからといって、いきなり職場放棄をしていい言い訳にはならないけれど。
最終日の帰りはいつものようにEさん(65歳)、Aさん(57歳)といっしょ。
なんでもEさんが来週も5日入れるようになったらしい。
Eさんはわたしが枠を放棄したせいだと言っていて、本当はどうかわからないが、
もしそうだとしたらわたしが辞めることで、
結果的にお世話になったEさんのお役に立てたことが嬉しい。
別れ際、Eさんからは「すぐ働いたほうがいいよ」と含み笑いをしながら言われた。
Aさんからは「しばらくぼんやりしていればいいんじゃないの。
ツッチーはツッチーでいいんだから。ツッチーがいなくなるとさみしいなあ」――。
そんなお言葉をかけていただく。
Aさんとは今月30日に再会して酒をのむ約束を交わしている。

最後までわからなかったのは、職場の人のどこまでブログがばれていたのか?
別のラインで大声でわたしのブログの話をしている声が聞こえてきたことがあるから、
だれも読んでいなかったということはありえないと思う。
しかし、文章を読むのが嫌いな人は多い。
読んでいる人はいるが当人がどのようにだれに口伝えしているかまではわからない。
そのうえ文章というものは読む人によって解釈がかなり異なるところがある。
話し言葉も書き言葉もほぼ正確には伝わらないと思っていたほうがいい。
わたしのブログを読んでいる人がいることは嬉しかった。
そりゃあ、自分たちの職場のことを書かれたら読まざるをえないのだが。
しかし、文学。たとえば、純文学。
かりにわたしが純文学作品を書いて万が一にも新人賞を取ったとしても、
あの職場にいるような人たちは読んでくれないでしょう?
そもそも新人賞作品なんて出版されなくてもおかしくないし、
たとえ書店に並んでも売れるのは2、3千部と聞く。
ブログだったら無料だからだれにも手軽に読んでいただける。
9割以上の日本人は本を読む習慣がないのだと思う。
しかし、無料のインターネットだったら、
という希望のようなものが活字世界にもあるのではないか。

かなりお若いNさんという、とても親切にしていただいた若者がいる。
「おれなんかヤンキーのようなもんだから」と別ラインから声が聞こえてきた。
そのNさんがわざわざわたしに近づいて声をかけてくれたのである。
もう仕事を辞める直前である。
そのとき当方はチョー楽勝な箱作りをけっこういいかげんにしていた。
「土屋さんはいまなにを考えているんですか?」
「いやあ、働く意味ってなんなのかなあって」
Nさんは大笑いして去っていった。わたしも笑った。
元ヤンキーだろうがなんだろうが、いましっかり働いているのなら立派だよ。
新米おじさん相手に威張ったりもしないところはとても心根がいい。
これはほかの同僚にも言えることだけれど、
私服を着ている通勤時に逢うとみんなどこか心細そうなのね(Aさん、Eさん以外は)。
しかし、いざあの変な白衣を着るとみんな別人のような凛々(りり)しい職業人の顔になる。
いちばんそれが激しかったのは、わたしと遺恨があったとされるSさんかしら。
通勤時のSさんはこう言ったら失礼だけれど、さえないおじさんといった感がある。
だが、ひとたび職場に入ったら本当に生き生きした男のなかの男という顔になる。
仕事をしているときだけ生き生きするという人がいるのだろう。
あっちゃんも食堂で顔の白衣を脱いでいるときはすごいかわいいけれど、
通勤時にすれ違ったときはどこにでもいる子という気がした。
ミッキーもとくにそういうところがあった。
職場ではとても頼りになるおねえさんだけれど、
通勤時にあいさつをするとふつうの女の子だなあっていう。
おそらくわたしは正反対だったと思う。
職場では自信がないし、どこか腰が引けた、やる気のない顔になってしまう。
一歩職場から出ると、素の自分に戻り、好き放題を言うようになる。
とくにセブンイレブンで第三のビールを買ってからは、生き生きとした本音の連発。
おとといだったか、「ツッチーはビールをのむと別の顔になるねえ」と言われた。
職場から出た瞬間に顔つきが変わるとも。Aさんからだったか、Eさんからだったか。

このあたりに「働く意味」のようなものがあるのではないか?
たとえ職場以外では、どこにでもいるような人間が、いざ働くと固有の顔を持てる。
プライベートの時間よりも、働いているほうが生き生きできる。
仕事をすると「役に立つ」というのは、むろん人の「役に立つ」こともそうだが、
自分という「役に立つ」ことができるのも「働く意味」のひとつではないか?
自分という役を職場で演じることで生き生きできる人がかなりの割合で存在する。
プライベートでは女性とろくろく会話を交わせないような男性も、
職場においてはやたら饒舌にペラペラとおしゃべりすることができる。
なぜなら、職場では役割がかなりのところまで固定しているからである。
役割においてコミュニケーションができるのだ。

調べてみたら去年の12/14から今年の4/14まで、
とあるお菓子会社で派遣として働いたことになる。
お給料はいくらもらったのか知らない(通帳を見ればわかるのだが)。
おとといだったか、
Eさんに聞いたら給与明細はネットで見(ら)れるようになっているとのこと。
わたしがいまの派遣会社に登録したのはずいぶんむかしだから、
そういうことは知らなかったし、給与明細とかどうでもいい。
基本的にそういうところでは人や会社を信じているところがある。
ちょうど4ヶ月働いたのかあ。
そのあいだにクリスマスがあり、お正月があり、バレンタイン、ホワイトデー、ひな祭り、
それからお菓子会社はそういうものらしく(事前に商品を準備する)、
一足お先に子どもの日や母の日まで経験させていただいた。
まえに何度も書いたが、この4ヶ月をひと言で要約すれば、とにかくおもしろかった――。
いやなことがなかったといえば嘘になるし、
むしろわたしのほうが周囲に迷惑をかけたケースが多いのだろうが、
そういうマイナス面がいまとなるとじつにいい想い出になっているのである。
そつなく仕事をこなしてみんなともうまくやって辞めた――だったら、
こうまでいい想い出にはなっていない気がする。

北戸田最終日の想い出。この日は朝からしんどかった。
前日にブログを大量更新して夜更かししたため。
最終日はいちばん楽な箱だし。
つぎの仕掛け品はいまだ苦手な(お菓子の袋)詰めかなと思っていたら、
それまで供給をしていたAさんがやってくれるとのことで、
またまたいちばん楽な段ボールをさせていただいた。
昼休みの話。Aさんにくっついて喫煙コーナーに行く。
天気は晴れでポッカポカ。春爛漫。
そこにいたのはHグループ長、因縁のあるSさん、Aさん、わたし、
それからむかし案内嬢で高給を取っていたという女性。
わたしはSさんとのことでHグループ長にご迷惑をおかけしたことがある。
HさんともSさんとも、ろくに話をできなかった。
わたしはHさんはむろんのこと、Sさんも独特のその味わいが好きなのである。
Hさんも、Sさんとわたしが同席していることから関係改善を見て取ったことだろう。
だれもなにもしゃべらなかった。春の日差しは暖かかった。
しかし、これはこちらの勝手な感傷だろうが春が来たという平和な幸福感に満ちていた。
わたしの勤務最終日はそういう日でありました。

この日は17:30勤務終了だったのだが終わり5分まえごろ、
おなじ派遣会社の顔なじみの女性から「お疲れさまでした」とお声をかけていただく。
まるで今日が最後だと知っているかのような口ぶりだったが、
深い意味はないのかもしれない。
きれいなお別れをできたのではないかと思う。
わたしは派遣先のお菓子会社にも同僚にも、
紹介してくださった派遣会社にも感謝している。
3回行かされた川口工場のほうではいろいろ知ってしまった面もあるが、
お世話になった以上、相手の不利益になることは書かない。
北戸田に入ったとき思ったのは、ここで自分は大量にお菓子を破損させるのではないか?
しかし、運よく最後までそういう大惨事は引き起こさなかった。
別れのどこがいかといったら再会があるからである。
いつかもう一度、北戸田のみなさまと再会したい。
たとえば今年のクリスマス付近の繁忙期(あるいは人がいない年末年始)に、
どの1日でも構いませんからスポットで入れてくださいと、
派遣会社のSさんに電話してお願いしたら、入れてくれないこともないと思う。
そのまえにどうしても人が足りない日が来ちゃうかもしれませんけれど。
ご存じでしょうが、中国語の「さようなら」は「再見」である。再び見(まみ)えよう。
北戸田よ、さようなら! ありがとう! 
「退職勧奨」されたのに失業保険をもらえないという憤懣を北戸田は消してくれた。
北戸田に救われたという面もなくはない。あばよ北戸田! 再見!

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秩序や決まり事というのはたいせつなんだなあ。
今日、職場に本社のお偉方が集まって説明会のようなものが開かれた。
これを経験するのは2回目。
スーツ姿のお偉方がわれわれ作業員と一堂に会する。いい職場ではありませんか。
ショックだったのは、作業員の同僚。
けっこう嬉しそうな顔をしていた人が多かったのである。
やっぱり全体の目標を達成するとか、
人の役に立っているという幻想みたいなものは人の生きがいなんだなあ。
というか、おれはもうダメダメ。ライン最後のGS25。これは想い出深い。
そういえばむかしこれをやったなあ。そのときの担当もお若いイケメンTさんだった。
わたし、この人のこと好きなんだけどね。
むかしもたしかGS25のあそこをやれなくてTさんに助けられたなあ。
「落ち着いて、あせらず」と言われたのをいまでもよく覚えている。
結局、成長していないのね。努力が足りないのかなあ。やる気がないのかなあ。
クッキー3枚×2とフィナンシェ2くらい入れられないダメなおれ。
いくらやっても成長しないおれおれ? おれおれ詐欺?
おれ、最後まで使えなかったな、というおのれの役立たずぶりが身に染みた。

もうラインをとめないためにメチャクチャでもとりあえず入れたから、
検品さんとあわせる顔がなかった。
できないことってあるんだなあ。努力が足らないんだろうなあ。
そこに救世主、あらわる。あせって横を見る余裕もなかったが、ちらっと見るとミッキー。
あれ? 今日はCラインの段取りではないのでは?
ああ、助けられたと思いましたですね。
むかしは困った女の子を男が助けるのが定番パターン(物語)だったけれど、
いまはいまは……。おれ、今日もまたミッキーに助けられちゃったよ。
記憶をさかのぼるといまの職場でいちばんお世話になったのはミッキー?

結局、ダメなままで終わったなあ。
でも、当日欠勤は一度もしなかったから、それでお許しください。
遅刻は1分一度して、事務所の方がお見逃しくださった。
なんかみんな偉いし、ありがとうっていうインチキくさい謙虚な気分。
一度も長時間ストップしなかった埼京線ありがとう。
北戸田の女子高生さまたち、ありがとうございます。少しだけ、やる気、出た。
みんな毎朝通学して、やりたくもないしやっても意味がない勉強をしているんだろうなあ。
きっと生きるってそういうことなんだろうなあ。
「今日からシナリオを書くという生き方」(小林幸恵/彩流社)

→わたしの本当の師匠はシナリオ・センター社長の小林幸恵先生かもしれないなあ。
この人には対面でも怒鳴られ、電話でも怒鳴られ、偉い人というものを知った。
世間というものを教えてくれたのがシナリオ・センター社長の小林幸恵先生とも言える。
この人、わたしにはものすごく偉そうなんだけれど、
肩書が上の人や社会上位者にはやたら愛想がいいんだ。
やたら人にシナリオを書け書けと言っているけれど、自分は書かない。
それを指摘したら大声で怒鳴る。あたしをなめるなよ、みたいなことを言う。
小林社長は営業経験もないのに、
営業マンに営業の仕方を教えていると本書で自慢している。
小林幸恵さんってどうしてこんなに偉いんだろう。
答えは、シナリオ・センター創設者の新井一の娘だから。
どうやら新井一とやらは三流商売脚本家でむかし売れっ子だったらしい。
で、シナリオ学校をつくった。新井一の娘は小林幸恵。
父親が死んだあと小林幸恵はシナリオ・センターの社長になる。
社長だから小林幸恵は偉い。人に説教できる。
最近、小林幸恵の息子の新井一樹が副社長になったらしい。
新井一樹もまたシナリオを書いたこともないのにシナリオを教えている。
ろくな社会人経験もないのに、ビジネスリーダーを気取って講師をしているとのこと。
わたしが小林幸恵社長を師匠ではないかと思うのは、そういう世間を教えてくれたから。
世の中、結局そういうもんじゃないですか。
天皇陛下のお子さまは天皇陛下におなりになるでしょう?
成功者のお子さまはかならずといっていいほど大企業に入社する。
小林幸恵先生の偉さがわかるのが、世間を知るってことなんだろうなあ。
いまのわたしは小林幸恵さんを人生の師匠のひとりだと思っている。
なぜなら成功者のお嬢さんで富裕層だから。
なぜなら既得権益を持つシナリオ・センターの社長さんだから。
なぜなら、なにより偉そうで、目下のものと判断すれば大声で怒鳴ってくるから。

師匠の名言をありがたく拝聴したい。

「相手の意見とか気持ちとかをきちんと聞く耳を持っている人は本当に少ないものです。
でも、これではいけないのです。
人間である限り、コミュニケーションをとる手段を持っているのですから、
それを生かさなければ、人間としての意味はないのでしょうか」(P49)


よく言うよ。あなた、わたしの声をいっさい聞かなかったでしょう?
電話しても怒鳴るばかり。
おたくの受講生がわたしの悪口を2ちゃんねるに匿名で書いているのですが、
責任者としてどうにかしてもらえませんか?
こう電話で聞いたときも無視されたなあ。
先日調べてみたら、いまも2ちゃんねるにおたくの生徒がわたしの悪口を書いている。
明日でもシナリオ・センターに電話したら社長は聞く耳を持っているの?
しかし、世の中とはそういうものなのである。
偉い人は偉い。偉い人のお子さんやお孫さんはお偉い。逆らっちゃいけない。
そういうことを師匠は教えてくれたんだなあ。

「人にはさまざまな意見や考え方、見方、感情があって、
また育ち方や環境によっても違ってきます。
そんな当たり前のことが、普段は気がつきにくいのですが、シナリオを書くことによって、
しっかり見えるようになるのです」(P82)


じゃあ、自分が書けばいいじゃん?
そんなことを言えるのはむかしのわたしくらいだが、言ったら怒鳴られる。
世の中は、本音と建前で成り立っているのである。
小林師匠からは、自分はすごいブログを毎日更新しているから読めと言われたなあ。
で、8年まえくらいに読んでみたら、すげえ金持なんだ。
食っているものが高級レストランで、桁がぜんぜん違う。
ふふふ、世の中ってさ、人間ってさ、そういうものなんだなあ。
いまのわたしは師匠の教えがよくわかる。あの人の偉さもよくわかる。
だって、地位も肩書もお金もコネもぜんぶあるんだから、そりゃあ偉いわなあ。
世の中ってそんなもんだぜ。あの人は世間をよく知っていたなあ。
師匠いわく、本音と建前をうまく使え。

「……ちょっと見方が違った人がいても。決して拒否はしない。
そういう見方もあるのねと、まず受け入れることです」(P94)


表ではきれいごとを言って、密室の裏では態度がぜんぜん異なる。
人間ってそんなものだし、そんなことも知らなかったむかしのわたしが恥ずかしい。
「あんた辞めなさい」とか社長先生から言われたもんなあ。
しかし、それが正しく、人間というにはそういうものである。裏表があるものである。
いまは小林幸恵社長を師と仰いでいるから、先生のまえで土下座もできる。
先生のほうが正しかったといまは認められる。過去を反省している。
小林幸恵先生のおっしゃることはなにもかも正しい。

「所詮、この世は男社会。
戦いの中に生きてきた男たちは、相変わらず肩書社会に生きています。(……)
女同士は井戸端会議と称しては、亭主のグチから人の噂話を、
生活の中でうまく取り入れて人間関係を築いていっています。
肩書きも何もかも取っ払い、その人自身で人の前に立つことができない男たち。
男性はきっと女が考える以上に不器用なのでしょう。
組織の中で弱みを出せず、グチもはけず、
ただ溜め込んで今に至るため、
いまだ自分を解放する方法を知らないまま来ているのです。
ですから、友達もできない」(P186)


言うことはいちいちごもっともだが、
小林さんは「新井一の娘」「社長」という肩書を取っ払ったらなにがあるの?
シナリオを書けないのに、シナリオを教えている変な人でしょう?
しかし、こういう方こそが本当の成功者で勝ち組で尊敬すべき偉人なのである。
いまのわたしはようやくそういう世間の事情に気がついた。
もしかしたらちかぢかシナリオ・センターに電話して、
尊敬している師匠先生に過去のお詫びをするかもしれない。
事務所のやつらはちゃんと取り次げよ。電話ガチャ切りはやめろ。
折り返し電話をするのが社会のルールだからな。
持つべきものは師匠である。
わたしの師匠のひとりは新井一のお嬢さんで社長の小林幸恵先生だ。
いまなら師匠の偉さがわかる。ありがとうございました。

「踏み越えるキャメラ」(原一男/フィルムアート社) *再読

→わたしの師匠といえば、
いやがおうにもドキュメンタリー映画監督の原一男先生しかいない。
師匠だなんていまは思いたくはないけれど、影響を受けすぎているのだから仕方がない。
なぜならいまわたしがこのブログでやっていることは、まるで師匠とおなじだもの。
違うものは持つもので、キャメラを持つか、ペンを持つか(キーボードを押すか)。
わたしの現実を書いていく。なぜなら、つまらないからである。
おもしろいことが起きないかなあ、
と思いながらふつうなら実名では書いてはいけないことを書く。
そうすると現実のほうから反応が返ってくる。
それがおもしろいからそのなかから書ける範囲ぎりぎりで書きたいものを書く。
そうするともっと世界もおもしろくなるというか、少なくとも退屈ではなくなる。
人の隠されたいろいろな面が見えてきて、まあ、おもしろいわけだ。
どうやら原一男先生もむかしは葛藤オタクだったようだ。
シナリオ・センターのアルバイト講師たちのようにドラマは葛藤だと思っていた。
むろん、ドラマは葛藤というのは正しい。
なんにもないよりはせめて葛藤(喧嘩)があったほうが非日常性を楽しめる。
どうしようもなくわたしは原一男の弟子なのだろう。

「アクションしていくなかで、そこで相手といろいろ葛藤が起きる。
その葛藤こそがまさに生きていく人生のドラマにほかならないだろうと。
僕らの映画はそのドラマを描きたい。
つまり、何々問題を描きたいということよりも、かかわっていくとき生じる劇的なもの、
ドラマにほかならないもの、そういうものこそ僕の求めているものなんです。
ある出会いがあって、相手に惚れて、キャメラを回したくなる。
だけど、キャメラを回す以前に、どうでもいい問題は全部処理しちゃいたい。
ここから先がおれたちわからないから、だから知りたいんだよ、
というところでキャメラを回す」(P122)


キャメラのみならず言葉で人をアジテート(刺激)することもできる。
むしろ、キャメラなんかよりも言葉のほうが人間の深層に突き刺さるであろう。
言葉の羅列――つまり文脈(=世界の見方)というのは、人から習うしかないのである。
それぞれの持ち分にしたがいそこそこうまく回転していた初期経済世界を、
労働者と資本家の対立(葛藤)と文脈づけたのはマルクスだ。
そういう文脈をおぼえると、それが影響力があればあるほど、世界が変わる。
みんなおなじような文脈で話すようになる。
だから、キャメラを回すのもいいが、
言葉をブログに公開するのも大げさなことを言えば世界革命につながっている。
オーバー過ぎてお笑いになる方が大勢いらっしゃると思いますけれど。
ネットは危ない。映画も出版も発声から公開まで時間がかかるが、
ツイッターやブログ等のSNSは現在進行形に影響を与える。

「キャメラ[言葉]を、過去がどうでしたかということじゃなくて、
現在進行形の中に過去の問題も全部ほうり込む。
現在進行形で起きるその中で何を見ていくかということでやろう、って意識。
そうすると何が起きるかわからない」(P123)


だから、おもしろい、本当におもしろい。
なにが起きるかわからないという状況は非常にとってもおもしろい。
おもしろいことはいいよなあ。
とりあえずのゴールのようなものは必要である。
原先生も映画を製作するとき、なんとなくはゴールを決めているという。

「そこ[ゴール]へ行くまでに何が起きるか、自分自身がどういうふうに変わっていくか。
自分自身がまさにそのゴールへ向けてアクションを起こしていくんだけれども、
自分自身もどういうアクションを起こしていくかわからない、
だからおもしろいんじゃないか、じゃあやってみようぜっていう、そういうノリですよ」(P124)


たとえば職場のことをブログに書く。
ブログに書きたいと思うと、なんらかのアクションを起こさざるえをえない。
そうするとアクションが返ってくる。それにどうアクションしていくか。
それは自分でもわからない。
とりあえず自分から出てきたアクションをたいせつにしよう。
アクションしないと世界の仕組みのようなものはわからないじゃないですか。
こういうアクションをすると会社では多くのものは上に告げ口するとわかる。
そういうことで女性社会は告げ口のようなもので回っているとわかるわけ。
告げ口されると上が飛んでくる。上のアクションでさらに世間というものがわかる。
目が点になっている上司とか見ると不謹慎だが、ごめんなさい。おもしろいっす。
女性労働者は告げ口が好きなんていうのも、
アクションを起こさないとわからないわけだ。
そういうことで世界や世間を知っていくことで、わくわくするっていうかなあ。
ああ、本当はこの人とこの人は仲が悪いとわかる。
そういうのっておもしろいじゃないですか。
それをおもしろいと思うのは、生活者としてどうかという問題は当然あるけれど。

原一男先生の本をひさびさに再読して、むかし(70年代)はよかったなあと思う。
むかしは世界を自分たちで変えられるという幻想がまだ濃厚に生きていた。
だからかどうかわからないが、人が人に逢いに行く時代であった。
原さんの若者時代というのは、おもしろそうだと思ったら、
すぐその人に逢いに行くのね。逢うというドラマがむかしはかなり強く存在した。
いまはなかなか人と人が逢わない。つまり、ドラマがない。
わたしが働くのは小金がほしいのもそうだけれど、
人との出逢いを求めているところがある。
いまは左翼活動みたいなものがないから、そうそう強烈な宗教活動もないし、
したがって人と出逢いたかったら働くしかない。
けれど、生活者ならぬ表現者は働くのがめんどうくさい。
わたしは原一男さんと学生と教授という立場で邂逅(かいこう)したが、
早稲田大学は度量が大きいというか、
よくこんな定時制高校卒のグウタラを雇ったものだと思う。
でも、わたしが人生で師と言えるのは原一男先生だけだから、
長らく早稲田は校歌もふくめて好きではなかったが、いいところもあるじゃないか。
働くのってめんどうくさいよねえ。早稲田新卒カードといえばかなり強いでしょう?
「就職なんかしないでフリーターでもして好きなことをしていけばいいんじゃないか?」
そんなことを言う教授も教授だが、真に受ける学生もクルクルパーだ。
わたしは原一男先生のアジテーション(扇動)に心底から揺り動かされたなあ。
いまは国家権力の象徴ともいうべき大学教授を
長らくお続けになっている原一男先生はいいかげんな若者だったのである。
なんでこんな人を師匠にしてしまったのかと、かなしゅうなるわい。

「働きに行くのもいやでね、とにかく金がなくなるまで働かない。
金がなくなったらまず質屋に行く。
キャメラがあったから、キャメラを質に入れるんです。
その金もなくなったらしょうがないから働きに行く。
それで二、三日働くと、現金でお金くれるから、
そのお金を使い果たすまでは働きに行かない。
それでも家賃を払わなきゃいけないとかなって、しょうがないからじゃあ働きに行くか、
ってな状態でまた働きに行く。お金もなるべく使わない。
下高井戸ってけっこう物価が安かったんだけど、
安いなかでもいちばん安い魚屋さんへ行ってアラか何か買ってきて、
ひっそりと食事をして、
それで暇なときには乳母車を押しながら近くをとことこ散歩していく、
そういう生活を数年してた。
小林[奥さま]も基本的には働いてなかったんだけど、
さすがに僕が働くのをいやがるもんだから、
「じゃあ私、アルバイトに」なんて、ときどき行ってた。
そういう生活をするなかで、やっぱり映画人の知り合いができた。
年齢的には僕とそんなに変わらない人、一つか二つぐらいしか。
そういう人がピンク映画をやってると。
そこで、「撮影助手を探してるけど、やるか」ってなもんで、
じゃあ生活費稼ぎもあるし、
まあ、映画の技術もやっぱり勉強したほうがいいかというふうに思ってたから、
声がかかれば仕事をする、というような感じでぽつぽつ仕事を始めたんです」(P145)


知り合いができるかどうかって運だよなあ。
むかしは知らない人からメールがけっこうひんぱんに来たけれど、いまはまったく。
自分からもっとアクションを起こしたほうがいいのはわかっているのだけれど、
そこはそれで、まあ、そういうわけで。
わたしなんかもうすぐちょーヒマになるからメールを1本くれれば、だれとでも逢う。
最近、メール来ないなあ。
だから、アクション。おもしろそうなところで働く。知ったことをブログに書く。
書かれたほうはたまったもんじゃないかと思うが、
こちらは基本的におもしろかったことしか書かないから、
基本的には書く行為には原さんとおなじように「愛」めいたものがある。
書かれたほうもおもしろいことをしはじめてくれるのである。
人から期待されると期待に応えたいとどこかで思うところってないかなあ。
悪役だったらもっと悪役に徹しようみたいな。
正義のヒーローは正義をアピールしたくなるというかさ。
実名ブログ表現はとても危険だが、しかしおもしろい。
むかしの原さんのドキュメンタリー映画のようにである。
どこかにキャメラ(視点)があると、敏感な人はオーバーアクションをするようになる。
先生の代表作「ゆきゆきて、神軍」の主役は奥崎謙三という犯罪者である。

「だから、奥崎さんも、最初は僕のキャメラワークをそんなに意識しなかった。
だんだん、どこでどういうふうに撮っているかというのを、
撮られる側が判断することはそんなに難しくない。
いまキャメラがどこにいて、どういうアクションを、
自分にキャメラを向けてねらっているかというのは、撮られてる側もわかってくる。
ああ、こういう場面をねらってるのかと、
それをずっと続けていくと、どういうふうに演じればこの人は回す、
というのもだいたいわかってくるんです。そういうもんですよ。
そんなに難しくない、隠し撮りしてるわけじゃなくて。
で、撮られる側がそれを計算できるようになる。
それはでも、そのことをいいとか悪いとかって、
そういうふうにいい・悪いのレベルで論じるんじゃなくて、
わかってくるもんだよということなんです。
で、わかってきちゃったらそのキャメラの前の人間はどうするかと。
わかてなおアクションを続けるんだから、やっぱりね、
演技しちゃうというのはこれはもう理の当然というか当たり前のことなんですよ」(P190)


そのようにして撮ったドキュメンタリー映画はすべてフィクションだと原さんは言う。
だって、日常風景を撮影してもつまらないじゃない?
会社の日常なんてどこも退屈でしょう。
「プロジェクトX」みたいなことなんてどこにもない。
毎日、毎日おなじことを繰り返して、つまらないなあ、
というのが本当のドキュメンタリー(記録映画)。
でも、それでは撮影しているほうも観客もつまらない。
このため、人はフィクションを志向する。
現実だけではたまらなくなった。嘘でもいいからドラマのようなものを希求したい。
これが原一男のアクションドキュメンタリーである。
映像作家も文章作家も現実がいやでフィクションを創造するのだろう。
原一男が奥崎謙三のつぎにキャメラを向けたのは作家の井上光晴である。

「奥崎謙三の場合はナマの部分はいくら出てもかまわない。
ところが、井上さんはやっぱり作家だからねえ。
これはあとで気づくんだけど、やっぱり虚構の人だから、
ナマの自分は絶対出したくないんですよ。
必ず虚構というフィルターを通さないと、
井上さんという人はナマの自分を出せない人なんですよ。
やっぱり作家なんですよ」(P233)


わたしは作家でもなんでもないが、ナマの自分は文章には出せない。
文章はぜんぶかくありたいというフィクションを求めてしまう。
いったい表現とはなにか?
大学時代、原一男ゼミの課題は「私にとって表現とは何か?」であった。
当方は課題を出せなかった。
いつか出そうと思っているうちに、あれから18年が経過してしまった。
原一男にとって表現するとは――生きること。
なんのために表現するかといえば、自由になるため。
おそらく本当の自分を出すことが表現することで、
本当に生きるということなのかもしれないなあ。
むろん、生活者はそんな悠長なことを言っていられないけれど。
自分を知りたい。自分を変えたい。表現をすると――。

「自分自身が変容する、変わったというふうに言っていいかどうか。
結局のところ、つまり、解放ということ、
自由であるということはどういうことかというふうになるけど、
やっぱり、何かを超えたから
それ以後はずっと自由でいられるということでは決してなくて、
非常に劇的な何かを通過して、通過した直後のある感覚っていうのかな、
そういう感覚というのは時間の軸からも、えらくこだわっていた空間の軸からも、
フッ、と解き放たれる瞬間というのがあるような実感がします。
(……) 人生において、そういうことが不断にあればいいんだけど、
不断になんか絶対にないからね。絶対にないんですよ、日常の中では。
だからより劇的なものを求めて、
じゃあ次の映画をつくろうかというようになっていくのであってね、
ないですよ、日常的には、そんなものは」(P283)


映画監督の原一男さんが日常にはないとおっしゃる、
日常における小さな劇をおもしろおかしく、
しかし真剣に描いたのがテレビライターの山田太一さんで、
わたしは氏のドラマが大好きなのだから困っちゃう。
原一男先生は人間としてとても魅力的で影響を受けたが、
師匠の映像作品は何度観てもどこがおもしろいのか弟子には理解できない。
大衆的な山田太一ドラマのほうがおもしろいよなあ。
突き抜けていない、もっと言えば不自由な、
市井(しせい)を生きる小市民の喜びや悲しみのほうがおもしろい。
しかし、山田太一ドラマにもそんなものはくだらんじゃないかという視点もあるから、
自分というものが中年になっても定まらない。
いつか原一男先生に課題を提出しなければならないとはいまでも思っている。
むろん、直接手渡しするとか、そういう形式ではなく。
表現とは自分の生き方ならば、とりあえず生きていくしかあるまい。

(関連記事)↓「原点回帰」←原先生との想い出を書いた10年以上まえの記事。
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-541.html

あと2回、北戸田に行けば終わりかあ。
いましみじみ思うのは、別離のよろしさ。
もうあの人ともこの人とも逢うことはないと思うと、
どの人にもいまから懐かしい思いを抱ける。
この生別からわかるのは、死別も決してマイナスだけではないということ。
いつか死ぬんだと思うと、世界の小さな美しさに気づくよねえ。
なんかガンで余命を告知された患者のようなことを言っているけれど。
いままで自分のことを善人だと思ったことはない。
しかし、「土屋さんは人がいいから」と今年に入ってから何度か複数の人から言われた。
たしかに今後、電話で「北戸田に行ってください」と派遣の人からお願いされたら、
わたくしごときに(お願いなんて)という思いから断れない変な人のよさがある。
あさってからは自由の身。さて、なにをしよう。
長らくできなかった好きなことをしばらくしたいなあ。好きなことがあって本当によかった。
ああ、別れっていいなあ。そういえば卒業式の歌には好きなものが多い。
人が出逢う理由って別れるためかもね。人は死ぬために生まれてくる。
あはっ、日雇い派遣が哲学をしてみました。あと2日かあ。いいなあ、この感じ。
長いあいだおなじ職場で働いているとヌシになるわけだ。
一部のヌシにとってはヌシという身分が重要なのである(全員ではない)。
ほかに給料や待遇のいい仕事があっても、ヌシといういまの身分を手ばなしがたい。
ヌシにはかなりのことが許される。ヌシの特徴はヌシアピールである。
もうひとつの特徴は「人のミスには厳しく、自分のミスには甘い」。
わたしはいま現在は「人のミスにも甘く、自分のミスにも甘い」。
わたしがスポット派遣さんに厳しい注意をした報告例なんて一度もないでしょう?
なぜなら自分もミスをするから。このため人のミスにも甘い。
ヌシのミスもかなり見てきたが、みなさんご自分のミスには非常にお甘くいらっしゃる。
しかし、ヌシのなかには人のミスに異常なほど厳しく当たる人がいる。
ヌシたちだってほかの職場へ行けば、そこの(一部の)ヌシたちから総攻撃される。
それを無意識的にわかっているから、
経験年数から仕事に慣れたヌシさまはいわば給料外報酬として新米のミスを
見た瞬間に喜々としておのがアイデンティティの叫び声として偉ぶるのだろう。
世の中そんなもんだ。まったくまったくめんどうくさい。
今日は「目つきが悪い」とお叱りを受けたが、
ヌシさまはさぞかしいいお目をしていらっしゃるのでしょう。
このヌシからはもう4、5回からまれているので、
あさってが最後でわたしは消えるのでさぞかしお喜びのことでしょう。
いきなりぶつかってきて「女に暴力を振るうの!」と言われたのが最初だった。
もう疲れました。あとはお好きなようになさってください。
いちおうあと3日働いて、いまの職場はフィニッシュと聞いている。
12日(水)、13日(木)、14日(金)でお菓子倉庫は終わりと
いまはスポット派遣なのでシフト表をもらっていない。
このため、いつだれと最後のお別れとなるか当方にはわからない。
あんがい、そのほうが湿っぽくならないでいいのかもしれない。
去年の12月末に急に入れていただけると派遣会社からご連絡があり、
年末年始だけかと思っていたらいろいろなことがあり、
3月で終わりという話だったが、4月14日まで伸びた。
いま振り返ると、おもしろかったなあ。
まえの仕事より給与も待遇もダウンしたけれど、おもしろさはこちらのほうが上。
いま振り返ればまえの仕事の給与とか待遇(有給等)とか奇跡的ホワイトだったんだなあ。
いまの職場がブラックというわけでは断じてないけれど。
ちなみに疲労度も前職よりも、
なぜか軽作業しかしていないのにいまのほうが高い(疲れる)。
あと3日だからいえるのだが、
この3ヶ月強は金銭的にどうだかはわからないが(もらいすぎか安すぎか)、
とにかくいろいろな発見がありおもしろかった。
ここに10年勤めろと言われたら、うーん、だから(早起き辛いよ……)、
期間限定というのがよかったのだろう。
いやなこともあったけれど、そういうこともふくめて、新たな人生体験が増えてよかった。
パート女性の思考法、発話形式、行動様式などいくら本を読んでもわかるはずがない。

終わりだからいえることだが、本当にいまの職場で働いた期間はおもしろかった。
18歳男女とおしゃべりしたり、そのほかいろいろもろもろ。
あと3日かあ。わたしを嫌いな人もいただろうけれど、そこは消えるから許してよ。
わたしはいまの北戸田の職場には現在、なんの不満もない。
よくしてもらったと思うし、じつにいいタイミングでフィニッシュを迎えたと思う。
これは派遣切りとかではなくて、
単に職場の仕事量が時期によって変わるため、どうしようもないこと。
派遣会社さんにも派遣先会社さんにも不満はない。
ちょうどこのあたりで去りたかったという当方の事情もあり、
しかしそれを申し上げたわけではなく、自然に成り行きでそうなったのである。
かなり自然にうまくいったなあ、という感慨がある。
わたしみたいのといっしょに働くのがいやな人でも期間限定だったら許せるでしょう?
わたしだって聖者ではないから苦手な人もいるけれど、
それも終わりがあるならばむしろそのマイナスがいとおしくなるといえなくもない。
カウントダウン。あと3日かあ。みんな元気でね。
まだまだこの3日のうちにいろいろあるのかもしれないけれど。
とにかくおもしろかった。プランタニエでありました。
15日(土)からのことはまったく決めていない。完全な白紙。そのとき考える。
というか、母の突然の自殺以降ずっとそうなのだが、
わたしは明日自分が生きているという実感が希薄だ。
老後どころか1年後、3日後に生きている自分というのも想像できない。
本当に終わりの14日が来るのかおそらく当日まで信じられないだろう。

*まさかとは思うがスポットでまた呼ばれたら、どうするのかはわからない。
別れって劇的ですてきなところがございませんか?
すぐに再会するのもどうかなあと。いや、べつにそれでもいいのですが。
というか、15日以降、自分がなにをするかはいまのわたしにはわからない。
おなじ職場のAさん男性57歳はおもしろすぎる。
ほら、あのサイゼリヤでふたりでワイン3リットルをのんだというAさん。
彼女を紹介してくれるという。なんのことだかわからなかった。
これは以前にも書いたから書いてもいいと思うが、
Aさん57歳にはなぜか23、4歳の婚約者がいるというのである。
わたしは人生体験からどんな不思議なことでも起こりうることは知っている。
だから、そういうこともありうると思っている。
しかし、今年に入ってから一度も逢っていないという。
おなじ街に住んでいるのに、今年になってから一度も逢わない婚約者ってなんだ?
写真を見せてくださいとお願いしたら、
携帯電話で撮った隠し撮り動画のようなもので、顔が映っていない。
しかし、そういうこともありうると思うのである。
なぜなら、わたしは醜形恐怖症気味なところがあり、
写真を撮られるのがなにより嫌いだし、
当方以外にも写真撮影を異常なほど嫌う人を幾人か知っている。
果たしてAさんに20代前半の婚約者はいるのか?
わたしは本人がそう言っているのだから、それは真実だと思っている。
好奇心からその彼女と逢わせてください、ひと目見たいとずっと言っていた。
わざわざそのために大宮に行ってもいいくらい興味があります。

Aさんが彼女を紹介してくれるという。
てっきりその婚約者をひと目でも拝ませてくれるのかと思った。
昼休み中の話である。どうやらそうではないらしい。
喫煙所でAさんはしきりに携帯電話をいじっている。これがそうだという。
「飲みにいきませんか 笑」
と書かれたスパムメール(無差別大量送信迷惑メール)である。
この女性にメールをしてつきあえばいいのではないかと57歳のAさんはおっしゃるのだ。

わたし「だって、それは……」
Aさん「女性だよ」
わたし「え?」
Aさん「よくメールが来るんだよ」
わたし「変なアダルトサイトかなんかに登録したんじゃないんですか?」
Aさん「一度、アダルトサイトみたいのを見ちゃったけれど、それで?」
わたし「いえ、そのくらいで(携帯電話の)メールアドレスはばれないと思いますが」
Aさん「ものはためし。彼女とメールしてみたら?」
わたし「だって女じゃないかもしれないじゃないですか?」
Aさん「うん?」
わたし「どうせこの口座にお金を振り込んでくれとか言われるんでしょう」
Aさん「そんなことやってみなければ、わからないじゃないですか」
わたし「それはちょっと……」
Aさん「彼女は女性ですよ」
わたし「どうして?」
Aさん「まえに絵文字を使っていたから」
わたし「だから女だって?」
Aさん「うん」
わたし「わたし、むかしネットで女を装っていたことがありますよ」
Aさん「ツッチーが?」
わたし「はい。引っかかった男もいましたね」
Aさん「悪いなあ」
わたし「……はい(テヘヘ、舌ペロ♪)」

むかしネカマをやっていたというのは、ディープな「本の山」ファンならご存じでしょうが、
2ちゃんねる文学板の伝説くそコテハン「美香」のことである。
ちなみにネットにはデマが書き込まれているが、文学板以外の「美香」は別人である。
何度か情報を修正しようとしたが、即座に編集しなおされるのであきらめた。
それと文学板の「美香」は偽物も複数いたことを書いておく。
どれがわたしの書き込みかはライブでいた人しか識別できないだろう。
たしかに「美香」はわたしだったが、だれかに経済的損害を与えたことはない。
最後の最後まで「美香」は実在すると信じていたある関西大富豪の御曹司もいた。
わたしとしては、みんなの心のなかに「美香」はいるんだよ♪ と言うしかなかった。
「美香」は女よりも女らしいと、ある「美香」経由で逢った女性から言われたこともある。

ネカマ経験があるわたしは「飲みにいきませんか 笑」なんて書かれた、
自称女性からのメールはとてもとても信じられないのである。
わたし「なんで見ず知らずの人がAさんにそんなメールを送ってくるんですか?」
Aさん「……」
わたし「それ詐欺ですよ」
Aさん「やってみなくちゃわからないと思うんですが」
たしかにそれはそうだが、それは常識的にリスクが大きすぎる。
そこまで女に飢えているわけではないと強がった(のかしら?)。
これは非常におもしろい問題でAさんの婚約者は実在するのか、とおなじだ。
Aさんがいるという以上、本人のなかでは23、4際の美しい彼女は存在するのだ。
そのことが生きる励みになっているのなら、とてもいいことだと思う。
客観的に実在するかどうかではなく、主観的に存在すると思っているものは存在する。
57歳と20代前半の美しい婚約者は想像しにくいが、
現実にはどういうことも起こりうることを本当にわたしは人生体験から深く知っているのだ。
どうせ書いても信じてもらえないだろうから書かないけれど。

もう時効だと思ってひとつ書いちゃおうかな。
3年まえさあ、うちのブログの熱心なファンだという18、9歳の女子からメールが来た。
名前どころか顔写真も添付されていて、それがまたかわいいの。
友だちになってみてくださいみたいな感じ。
そんなことありえないって思うでしょう。わたしもありえないと思う。
その子の顔写真は去年のパソコン崩壊のときに消えてしまったから証拠はない。
わたしもあれは嘘ではないかと思っている。
このレベルでも本当だと信じてもらえないでしょう?
わたしはもっとレベルの高い嘘としか思えない本当のことをいくつも味わっている。
Aさんとは携帯番号も交換したから(おなじAUだからCメールが使える)、
今後どんなことが起こるのだろう。いちおうもう一度酒を飲む約束を交わしたけれど。
読者のみなさまとしたら、
そもそもこの話が本当かどうか信じられないのではありませんか?
わたしが本当にそういう職場で働いているのか?
Aさんのような57歳の男性が実在するのか? 
そのような方とわたくしごときが本当に仲良くペラペラしゃべっているのか?
Aさんいわく、「ぼくは本当のことしか言ったことがありません」。
ううう、それはかぎりなく詐欺師の発言に近い。
なんでこういうおもしろい人に人生で逢えるのだろう。運がいいとしか思えない。

※あれ、あの子の写真はどっかにあるから証明可能かな? べつに嘘でもいいけれど。
ちなみにその子がいちばん気に入ってくれたのがこの↓記事とのこと。
「方丈記」(鴨長明/浅見和彦 校訂・訳/ちくま学芸文庫)
クリックしたらお読みになれますから、どうかひと勉強なさってくださいよ。
これが若い女の子に顔写真を送る気にさせた読書感想文であります。
「ナイフの行方」(山田太一/KADOKAWA)

→2014年の12月にNHKで放送されたのが山田太一ドラマ「ナイフの行方」。
そのシナリオ本をいまごろになって読む。
放送当時の感想としてかなり辛らつなことを書いたら、コメント欄に批判がいっぱい来た。
匿名さんにわたしは「万事が軽い」とか言われちゃったよ、トホホ。
いまシナリオとして読んでみると、現代の世相をうまく描いたドラマになっていると思う。
現代の「老人天国、若者地獄」の状況を巧みに描いていると言えなくもない。
彼女に振られて無職の中卒青年(今井翼)が、
秋葉原事件の加藤のようにナイフを振り回そうとしたら、
そこに金持で喧嘩が異常なほど強い老人(松本幸四郎)が現われ、
ナイフを取り上げ彼を警察から見つからないように自宅にかくまってやる。
わざと青年の足を骨折させて動けないようにさせ、
見ず知らずの青年を自宅で食わしてやる。
で、なーんかこの富裕老人は詳細こそわからないが、
むかし左翼の海外活動家だったらしく、
若者をどうにか救ってやりたいが自分に確信が持てずどうしたらいいかわからない。
いま富裕層は老人に集中していると聞くが、
これは老人の関心にどんぴしゃりだったのではないか?
松本幸四郎の演じる根本拓自は古い知り合いの堀田にもらす。

拓自「思わぬことで二十代の青年と知り合うことになった」
堀田「はい」
拓自「これが分らない」
堀田「何人もですか?」
拓自「ひとり」
堀田「訳あってすぐ縁を切るわけにはいかない」
堀田「はい」
拓自「絶望していたかと思うと、ケロリとしている」
堀田「躁鬱――ですか?」
拓自「躁鬱?」
堀田「はしゃいでいたかと思うと、ドッと落ち込んでしまう、躁鬱病――」
拓自「病気か?」
堀田「この節はそんなのも――」
拓自「病気じゃつまらんね」
堀田「つまりませんか」
拓自「薬をのめば治るんじゃつまらないだろう」
堀田「はい」
拓自「この世に絶望している青年を、老いた私が叱咤して希望を持たせようと
   接触したのに、薬をのめば治るのなら世話はない」
堀田「その青年が病気かどうかは分りません」
拓自「そうだ。分らない」
堀田「はい」
拓自「いや、分らないのは私だ」
拓自「私如きが、どうやって青年を叱りつけて、この世はすばらしい、
   生きるに値いすると励ませるんだ」(P72)


この節は躁鬱病が増えているわけではなく、いつの時代も罹患率はほぼ一定で、
そのうえ躁鬱病は薬で抑えられるだけで治ることはないのだが、
老人ふたりの精神病への無知は、まあ、こんなものだろうというリアルがある。
たぶんナイフを振り回した青年を精神科に連れて行けば、
ボーダー(ライン人格障害)あたりの病名がつくような気がするけれど、
むろんのことそんなことはドラマに関係ない。
わたしが山田太一のよさだと思うのは「分らない」ことを理解しているところだ。
これがたとえば宮本輝の小説世界だったら、
えんえんと老人は若者に説教して、おまえは努力が足らない。
中卒だって365日休まず限界まで働けば絶対に道は拓けると、
喧嘩の強い老人が若者を鉄拳制裁しつづけることだろう。
努力すればなんでもできる。要はやる気の問題。
なぜなら無宗教の山田太一とは異なり、
宮本輝には絶対正義を標榜する創価学会への信心があるからである。
(まさにそのワールドを描いたのは宮本輝「三十光年の星たち」)。

無宗教の山田太一ワールドの老人は、絶望した若者をどうしたらいいのか「分らない」。
とりあえず寝場所と食料を提供したうえで、なにもしないで待っている。
するとそこに30年ぶりというむかしの活動家の同志(津川雅彦)がやってくる。
おそらく、人生はそういうふうに自然に事が運ぶことを山田太一はよく知っている。
松本幸四郎は人生に絶望した青年である今井翼に努力も信心も説かない。
では、なにをするか。
自分がむかし正義感に燃えてやったあげく(海外の独裁政権打破!)、
結果としては大勢の現地人を死なせてしまった体験を懺悔(ざんげ)する。
正義がなにかわからない。努力が本当に正義かはわからない。
自分は正義のために多くの人を殺したようなもんだ。
正義っていったいなんだ? なにが正義だ?
おそらくだから、松本幸四郎は、
いわゆる正義に反して殺人未遂犯の今井翼を警察(国家権力)から守ったのだろう。

老人が人生に絶望した青年になにをしてやるか。
まず相談できる人(津川雅彦夫婦)をつくってやる。
それから一時しのぎの仕事の紹介もする(津川夫婦のスナック店)。
そして、これが「ナイフの行方」のいちばんのおもしろさだと思うが、
松本幸四郎は今井翼に女をあてがうというか仲介しようとするのである。
相手の女性は老人の家に来ていたバツイチ子持ちの家事ヘルパー(相武紗季)。
シナリオの設定では青年は26歳で、バツイチ女性のほうは30歳になっている。
山田太一さんはよくわかっているなあ、と思う。
孤独な男なんか生活のリアリティがないから、
そこに子持ちの姉さん女房をくっつけたらうまくいきそうだというのは、
この人はどれだけ生活者のリアルに詳しいのかと笑ってしまう。
秋葉原の加藤になりそこねた青年は次男という。家事ヘルパーは香。
ドラマがひと段落ついたあと香(相武紗季)と拓自(松本幸四郎)が話している。

香「その次男くんをスナックのお二人に押しつけていいんですか」
拓自「知り合いができればいいんだ。すぐあいつは帰って来る」
香「帰って来るんですか」
拓自「あなたと緑ちゃん[香の4歳の娘]が会いたがっているといえばやって来るさ」
香「会わせたくないんじゃないんですか」
拓自「会わせたいさ。だから、会うなといった。そういえば燃えるだろう。
香「呆れた。それも計算のうちですか?」
拓自「仲人はそういうもんだ」
香「仲人ってなんですか?」
拓自「次男と似合いじゃないか」
香「なんてこというんですか」(P164)


山田太一の絶妙な生活者感覚からしたら中卒無職26歳(ただしイケメン)と、
30歳子持ち家事ヘルパーは釣り合いが取れるということなのだろう。
ドラマにはいろいろな解釈があってよいので書くが、
このドラマが老人視聴者へ向けたメッセージは、
老人は若者にありきたりな説教(死ぬ気で努力しろ! 努力はかならず報われる!)
をしないで男女の仲を取り持ってやれ。
老人のやるべきことはアンチエイジング(若者ぶること)ではなく、
若い男女の世話を焼くことだ。
若い孤独な青年の薄っぺらい絶望感など、
女性のリアリティとぶつかったらひとたまりもないぞ。
中卒の貧困青年はお金持のお嬢さまと経歴をいつわって交際していた。
なんでも自分は慶應の経済の大学院にいる御曹司なのだとか。
その嘘がばれて女から殴られたのが直接のナイフ事件の動機らしいが、
おい、若者も若者で身の程を知れよ。
26歳中卒無職は、4歳上の子持ちバツイチくらいで手を打て。
山田太一ドラマのリアリティはおもしろすぎるぜ。
もうすぐ40歳無職になる当方には、どのくらいの相手が釣り合うのだろうか?
45歳の子持ちふたりバツニあたりだろうか?
なんかその娘さんに惚れちゃいそうなわたしだが、それはなんかやばくはないか?
むかしからある結婚という制度は、たしかに自由を束縛するものだが、
伝統には伝統になるだけの意義のようなものがあるのだろう。

人を救うものは正義ではなく男女交際ではないか?

いったい本当と嘘ってなんだろう?
青年だって慶應経済大学院御曹司というのが本当だったら、
そのまま美人お嬢さまとの交際を続けられたわけでしょう?
嘘がばれないうちは本当は本当である。
わたしだってもしかしたらブログに書いているわたしと違うかもしれないわけでしょう?
過去の不幸自慢をする次男に拓自は言う。

「しゃべりすぎるな。別のしゃべり方があるかもしれないだろ」(P89)

また別の老人に不幸自慢をしそうになった次男は思いとどまる。
なぜかというと拓自からとめられたからだという。
なぜ拓自は次男にしゃべるなと言ったか。

「しゃべるとそれが本当になるからって」(P125)

本当にあったことなどしゃべり方しだいでいくらでも変わるのかもしれない。
もしかしたら本当のことなど存在せず、
さまざまなしゃべり方(解釈)があるだけなのかもしれない。
しかし、しゃべるというのは言語化するという意味で、とてもたいせつなこと。
しかし、安易に言語化することで失われるものもあるのではないか。
職業革命家だった老人の拓自は、人生に絶望した中卒の次男に言う。

「いくらしゃべっても、誰彼かまわず刺そうとした気持なんか私には届かない。
(……) ただ、あの時のあんたの目に、しゃべったって人には通じない、
わめいたって人には分らない、
そういう気持がふくらんで切れそうになっているのを感じたんだ。(……)
それは私の、まったくちがう事情だが、
かつての――いや、今でもいくらか、私の気持だった。(……)
(そんな気持は)勝手だね」(P90)


言葉にならない思いというものがあるのだろう。
このため、人によっては絵画や音楽、純粋映像表現に救われたと思うことがある。
わたしの場合は徹底的に「言葉、言葉、言葉」(ハムレット)に向き合った。
NHKさまの放送映像から「ナイフの行方」を見ると、え? そりゃないよと思った。
しかし、言葉しかないシナリオから同作品を見たら、また意見が変わる。
本書の巻末に山田太一ロングインタビュー
「正義がどこにあるのか、分からない時代に」がおまけのようなものとしてついている。
朝日賞作家の山田太一さんは、
デモに行かないなんて信じられないというマルキシズム全盛の時代に、
左翼活動のことを「アホみたいだし、胡散臭いし、ダサい」と思っていたらしい。
しかし、正義の時代にはロマンというよさがあったことも的確に指摘している。
たとえインチキでも正義のようなものがあれば、ロマンチックな恋愛ができる。
いまはマルキシズムも廃(すた)れ、資本主義の限界も見えている。
正義はもしかしたらどこにもないという状況のなかで、なにを信じたらいいのか。
山田太一は毎回、終わりを決めないでドラマを書いている。
作者は書きながらどのような結論にいたったのか。

「根本[松本幸四郎]のやり方は非常に姑息でずるいけれど、
ひとりで解決するよりはいいと思った。
自分のところにも帰ってきてほしいから、家政婦さんと子どもで釣っている。
この次男のラストは最初から決まっていたわけではなくて、
どうしたらいいんだろうと迷いながら、これしかないと思えてきたのでした。
すっきり気持ちのいい終わり方にはなりませんでした。
具体的な解決策ではあるけれども、人々を感心させるほどのものではない。
ただ、やっぱり頼れるのは「人情」と思いました。
認知症の人に最後まで通じるのは言葉ではなくて「笑顔」だと聞きます。
誰が誰だか見分けがつかなくなっている人に対して、
的確にケアするよりも、情で笑顔を向けたほうがホッとすると。
そういう、「情で救われる」ということを、
もう少し積極的に考えてもいいんじゃないかと思う。
いや情なんかあてにできない。
施設やシステムがきちんと整うことが大事とも聞きますし、システムはその通りですが、
僕は最終的には「情」が人間の心の芯に残ると思う」(P183)


山田太一は最後の最後まで人情を描いているのである。
いくら運よくだれをも傷つけなかったとはいえナイフを振り回したら殺人未遂だ。
松本幸四郎にははっきりとナイフを突き出しているのだから、
あれは法律的に考えたら刑法に問われ罰せられなければならない。
実際、110番されパトカーも出動しているではないか。
しかし、孤独な青年の犯罪行為は人情によってもみ消されている。
人を刺そうとなどからきし思っていなくて、
だが相手の持っていたナイフでいわば正当防衛のようなかたちで相手を刺しても、
国家はそれを犯罪としてみなし当事者を刑務所に入れてしまう。
それが正義かよ、と思う。本当に法律やコンプライアンスは正義だろうか。
そして、果たして本当に正義なんていうものが人を救うことはあるのか。
山田太一が孤独な中卒青年を、
たとえフィクションのうえでもどう救われるかを考え尽くしていたった結論は――。

人を救うものは正義ではなく人情ではないか?

(関連記事)
放送時の感想↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-3925.html

もうすぐ去っていく職場には同世代(アラフォー)男性が3人いる。
「俺たちの時代」ってあったのかなあ。
ぼくのおれのわたしのいちばん好きなテレビドラマは野島伸司の「高校教師」。
高校生のときにリアルタイムであれを見たからだろう。
山田太一ファンが野島伸司のドラマをほめてはいけないのかもしれないけれど。
同世代っていいいよねえ。
「高校教師」の想い出を語り合って、酔って、女の子のまえで泣いたこともある。
高校生のときはわからなかったが、
中年になったいまわかるのは、女子高生と堕ちていきたいというのは男の本能か。
べつに女子高生でなくても、異性とこの世間からグッバイおさらばしたい。
そういえばかつてはテレビドラマに夢やあこがれを持っていた時代もありました。